X



邪馬台国畿内説 Part534
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:02:16.69
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1574180419/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:03:47.94
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:04:26.02
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:05:59.76
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:06:25.32
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:06:55.47
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:07:30.22
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:08:03.05
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:08:57.49
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0010◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:09:34.58
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:10:06.20
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0012◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:10:43.74
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
0013◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:11:16.97
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
0014◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:11:50.37
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0015◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:12:27.62
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0016◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:13:00.69
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0017◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:13:33.24
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0018◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:14:06.65
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:14:39.70
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:15:14.92
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0021◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:15:46.60
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0022◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:16:21.62
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:16:57.21
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:17:31.11
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:18:04.50
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:18:36.53
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:19:12.74
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:19:47.84
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:20:22.69
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:20:57.65
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:21:30.91
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:22:03.74
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:22:36.02
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:23:12.82
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:23:47.22
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:24:22.24
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0037◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:24:56.99
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:25:31.19
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:26:06.30
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0040◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:26:40.43
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:27:17.25
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:27:50.37
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:28:25.52
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:29:00.47
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:29:26.40
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:30:03.99
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:30:35.84
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:31:10.79
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:31:46.30
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:32:21.11
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
0051◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:32:56.33
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:33:32.00
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:34:07.64
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:34:40.09
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:35:14.77
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:35:47.55
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0057◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:36:20.82
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
0058◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:36:55.51
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
0059◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:37:32.21
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
0060◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:38:07.22
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
0061◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:38:42.70
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
0062◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:39:17.28
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
0063◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:39:51.25
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
0064◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:40:26.27
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
0065◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:41:00.17
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
0066◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:41:33.75
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
0067◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:42:06.29
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
0068◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:42:32.91
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
0069◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:43:07.57
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0070◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:43:40.87
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
0071◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:44:15.22
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。


◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
0072◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:44:49.29
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
0073◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/21(木) 23:45:31.80
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 ◆FAQ 74に加筆
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/21(木) 23:49:57.25
>>1
で、畿内説の言う邪馬台国の倭人が暮らしていた
模範的な弥生集落とはどこのことだい?
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 00:48:17.74
>>75
へー
答えられない質問がきたら
荒らしで逃げるのか






で、畿内説の言う邪馬台国の倭人が暮らしていた
模範的な弥生集落とはどこのことだい?
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:00:53.65
奈良で弥生時代前期に最大の水田跡がみつかった
九州では大規模な水田は見つかっていないが
輸入豚を飼っていたことがわかっている
東夷伝では挹婁や剃くり頭の州胡が好んで豚を飼うことが書かれている
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:03:27.98
吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:06:19.80
>>77
で、畿内説の言う邪馬台国の倭人が暮らしていた
模範的な弥生集落とはどこのことだい?
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:09:10.47
邪馬臺國は倭奴國よりも北にある別の国なので
東遷などはない
本州は博多湾沿岸よりも北に伸びている
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:17:06.14
前の638
>摩擦面がくぼんでいるんだよ

窪んでいるのは斧などの磨製石器を削った砥石だ。
板を作る場合は、砥石は平面でなけりゃね。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:23:25.53
>>81
しかし、砥石といえば金属器の刃を研ぐものしか思いつかないお粗末さ。
登呂の砥石だって、矢板作りや木器作りなどに用いられた可能性は大きい。
それに縄文時代にはすでに石鑿があり、木の加工に使われたと考えられている。
つまり、登呂の砥石はそうした用途に使われたものである可能性があるわけで、わざわざ出土しない鉄器を磨くためのものだったと考えなくていいのだよ。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:29:58.41
>>79
無知だな
邪馬台国時代には模範的な弥生集落は姿を消すんだよ
もう弥生時代じゃなくなるから
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:31:22.18
>>82

弥生時代中期後半の畿内で、太型蛤刃石斧の使用が頂点に達し、
大多数が使い古した状況で見つかる。
長い元のままの場合は例外的である。
短くなっており、刃がすり減ったり、割れたりしているものが多い。
この石斧の材料が輝石・閃緑岩など、重い深成岩からできているためである。
扁平片刃石斧は、まだ使える状況のまま残っている。
これは、石斧の役割が鉄斧に遷っていったことを意味する。
東海・南関東においても弥生中期後半には鉄斧が普及しており、
さらに、この時期に戦争が始まっていたと考えられている。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:35:04.10
>>83

弥生時代だと畿内説としては困るもんな。
でもただの年代繰り上げ詐欺だろ。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:37:02.94
>>76
>答えられない質問がきたら
>荒らしで逃げるのか

答えられるか答えられないか関係ない
前スレ終了前の書き込みは荒らしとみなすと宣言されてるのに
無視して書き込んだ奴って
荒らしであることが確定的に明らかだろ
荒らしは無視が掲示板の原則だぜ
ましてや、おかしな質問を偏執的に連呼してたら
誰だって避けて通るだろ
街で変態を見かけたときの態度と同じだよ
なあ変態、お前が普段受けてる扱いとと同じだってさ
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:38:15.23
>>85

お前達の民族が日本の学者を詐欺だと言っても
日本の学問は何もかわらない
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:39:15.89
>>85
詐欺だと決めつける根拠は?
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 01:42:11.23
てか、自分に都合の悪い学説を
それが通説であるにもかかわらず
理由も言わずに詐欺だ詐欺だと騒ぐのは
それ自体もう詐欺でしょ九州説
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 02:25:51.88
前スレ>>1000
>2世紀までの「集中型」弥生集落は名前がわかるが
>邪馬台国時代の「散開型」集落は無数に分散化して特定の集落名がない

3世紀になっても小規模な集落が点在してるだけの畿内を邪馬台国にするための
アクロバット解釈ですかw
3世紀の畿内にクニなんて無かったんじゃないのw
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 02:28:04.25
>>91
通説って「かんのわのなのこくおう」みたいなレベル低いやつかw
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:07:39.70
>>84
>東海・南関東においても弥生中期後半には鉄斧が普及しており

それはあやしい。
東日本最古の鉄斧(手斧)が出土するのは名古屋の朝日遺跡で、時期は後期初頭とされている。
住居を廻る環濠の下層から出土した。
これがこれまでに見つかっている東日本最古の鉄斧とされているので、弥生中期後半には東海・南関東で鉄斧が普及していたとするのは何かの間違いではないか。
中期後半に蛤刃石斧などがピークを迎えて、徐々に衰退していくとすれば、弥生後期に鉄斧が用いられるまでの間、青銅器の斧が用いられたことが考えられる。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:08:25.17
>>93
罵っても反論になりません
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:12:23.24
>>92
>アクロバット解釈ですかw

アクロバット呼ばわりする理由は?
弥生末に拠点集落が解体するのは歴史的事実なのに
九州説はもう徹底して反学問でいくと決めたのかな?
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:12:51.66
三十余国の痕跡がいたる所で見つかる九州と
纒向がこけたら何も残らない畿内を比べること自体可哀想
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:18:35.53
>>92
>3世紀になっても小規模な集落が点在してるだけの畿内を

九州説はそこまで無知晒して恥ずかしくないのかな
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:21:29.68
>>96
北部九州では環濠が消えて巨大なクニができたんだよね
吹けば飛ぶような奈良のマイナー集落とは話が違う
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:23:38.10
>>94
青銅の鑓鉋、青銅の斧は佐賀市の本村籠遺跡で出土している。
時期は弥生前期末〜弥生中期初め。
この青銅鑓鉋や青銅斧には使用痕がある。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:25:30.80
>>98
纒向は大規模集落()だったなw
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 03:45:29.18
>>99
>北部九州では環濠が消えて巨大なクニができたんだよね

北部九州で消えてた環壕って、具体的に何処のこと?
吉野ヶ里のほか、何処にある?
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 05:39:19.23
>>101
そりゃ300haもあるもんね
当然だ
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:14:46.22
>>102
知らないの?w
少なくとも都市形成における環濠集落の次のステップが、
ニキビみたいにポツポツできた奈良のムラのわけがない
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:15:50.57
>>103
300haの中身スカスカ
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:40:42.42
倭人は下の人間なんだけど、頭が悪いんだろう?
そろそろ刑務所に行く準備でもしておいたほうが良いぞ
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:42:00.60
漢人系(中国)〜の奴隷の国という意味だろう
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:48:45.88
『日本国王 足利』
この当時でも同じだしな、足利というのは源氏?奴隷
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:53:59.33
>>543
「南≠東」や「正北抵新羅」や「大和は倭国の別種の旧小国」や「東征毛人五十五国」などを、
無視するインチキ妄想を重ねて矛盾だらけな大和説。
マジで邪馬台国やヤマトはもう終わったんだよ
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:54:09.29
なぜ平氏のほうが上だと言っている人がいるんだと思う?

『西王母 北辰』?

天皇の語源、平氏というのは中国人(中華)なんだろう、
平氏に、そういう家の人がいるとか、中華。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:56:26.81
>>546
「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
脳内資料と妄想まみれなのが大和説だよ
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:57:20.43
>>105
・・・か、どうか何故わかるの?
5%も発掘してないのに

九州説って自分が超能力者か何かな積もりなのかな
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:58:33.04
『西王母 北辰』

王母〜龍宮〜・・・寒いな・・・、
この家の話なんだけど。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:58:41.46
>>549
>死後転生するか、その場所に留まるか、天に近づくかがを鬼道で人々を先導するんだよ。
卑弥呼ちゃんの大事なお仕事。
権力者が競って三輪山に集まってきたのはその為だぞ。 <

「南≠東」などに拠って×。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 06:59:46.70
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:00:43.26
>>551
もはや大和説の次元が低すぎて話にならないんだよ。
平成どころか昭和爺の資料や論述、理論で進歩がまるでない、
しかも最新の発掘事実もスルー。
そりゃバカにされて当然だよ。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:01:39.87
>>115の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:02:49.87
>>111
他人の言うことを
「嘘」とか「妄想」とか
語気荒く決めつけるけど
証拠は何も出さず
あまつさえ理由も言わない

九州説は、そんな俺さま主義の断定屋
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:03:36.11
>>115
>>117
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書簡の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:05:34.97
>>116
そんなふうに具体的事実を含む指摘いっさい抜きで
総論的な悪口を言うだけの九州説って
ただの中傷屋ってことだよ
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:05:57.80
>>119
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:06:32.85
〜職、〜何位とか、あまり関係ないんだろう
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:06:35.18
>>112
>5%も発掘してないのに

5%も発掘してないのに、300haって・・・  超能力?   @阿波
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:07:22.18
>>555
魏で鬼道と呼ばれた張魯の五斗米道は病気治癒が主だった
論衡では倭人が鬯草(薬草)を献じたと記された
倭人伝に書かれた能く衆を惑わし千人の婢が自ら侍べる卑弥呼は
大和説が願望する唯我独尊皇国史観殺人戦争狂の・・・・とは違う
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:07:24.08
>>121
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の@景行A成務B仲哀、応神朝(邪馬台国)C応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:10:26.75
『西王母 北辰』

そんなものは関係ないんだよ!
みたいな人物だったとか
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:11:11.27
>>125
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の後を継いだ、大和分家の天武が正史記紀を編纂させ(唐を刺激する、継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(冠位十二階の倭王・阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」@九州の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を半世紀繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:11:15.30
もはや大和説の次元が低すぎて話にならないんだよ。
平成どころか昭和爺の資料や論述、理論で進歩がまるでない、
しかも最新の発掘事実もスルー。
そりゃバカにされて当然だよ。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:12:50.65
>>127
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:17:03.51
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:17:30.54
>>557
>吉野ヶ里の復元のモデルは奈良だって知らんのか?
唐子鍵遺跡の土器片のやつを復元のモデルにしたんだよw <

九州倭國は、半島だけではなく、
東方や出雲のの毛人蝦夷や出雲系銅鐸祭祀部族の文化にも憧れて、
「東征毛人五十五國」をしたんだから、
東方に優れた文化文明があれば、当然取り入れて模倣するさ。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:19:17.02
もはや大和説の次元が低すぎて話にならないんだよ。
平成どころか昭和爺の資料や論述、理論で進歩がまるでない、
しかも最新の発掘事実もスルー。
そりゃバカにされて当然だよ。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:25:50.68
もしかして本当にカミタマ?なのかな、
寒いな・・・・の人物。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:31:38.63
『天財若子』同じ家でしょ?『西王母 北辰』?


天津〜と出てくるし『天津 事故』
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:36:39.26
>>112
>5%も発掘してないのに

5%も発掘してないのに、300haって・・・  超能力?   @阿波
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:42:29.86
むかーし、日本(倭?)に渡って来て、
カミタマになった人物なのかな?日本の神代のような話だしな・・・。
当時、日本はなかったとか?
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:46:51.00
>>135
いや、ちゃんとした範囲確認調査の結果
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:47:45.22
御所 中西遺跡で新たな水田跡
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20191120/2050003368.html
御所市の中西遺跡では、これまでに日本列島で稲作が始まってまもない
弥生時代前期のものとしては国内最大級の水田の跡が見つかっています。
さらに橿原考古学研究所がことし4月から発掘調査を行ったところ、
新たに410区画、およそ3500平方メートルの水田の跡が見つかりました。
隣の秋津遺跡とあわせると、広さは4万3000平方メートルに上るということです。

水田の跡はなだらかな傾斜地に直線的に伸びていることから、
棚田のような形状だったとみられ、田んぼ1枚の大きさはおよそ9平方メートルと、
当時としては一般的な大きさだということです。
周りでは、かんがい用とみられるあぜや水路の跡も見つかり、
大きいものでおよそ26センチの当時の人々の足跡も残されていました。

橿原考古学研究所の指導研究員は、
「稲作が始まった初期のころから
かんがい施設を完備した大規模な水田を作る技術があったことが裏付けられました。
当時の人がここで生活していたことを感じてほしいです」と話していました。

現地説明会は、今月23日の午前10時から行われます。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:50:25.87
ウサギの話もしていたことがあったり、
日本の神話でしょ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:51:04.57
弥生前期で最大規模か 奈良・中西遺跡に新たな水田跡
https://www.asahi.com/articles/ASMCL3HG8MCLPOMB009.html
小さなあぜで区画され、表面には人の足跡も残っていた。
足跡の長さは約15〜26センチで、土を軟らかくするために踏んでいたとみられるという。
川のような跡もみつかり、両側に田んぼがつくられていた。

弥生前期末(約2400年前)に洪水の土砂で埋まったとみられ、
一帯の水田の広さは約10万平方メートルを超えていたと推定される。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 07:56:02.10
奈良 中西遺跡+隣接する秋津遺跡 全体推定9万平方m 弥生前期

静岡 登呂遺跡 全体推定8万平方m 1世紀

登呂遺跡より古くて広い水田跡が橿原市の南側の御所市で見つかったよ〜
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:00:51.18
配置こんな感じ↑北

          纏向遺跡 弥生後期

橿原宮 弥生中期

中西遺跡 弥生前期

それぞれが近いので集落が移動した可能性
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:03:53.60
思ってたよりも畿内の発展は早期で大規模の可能性があるけど
北九州弱体化開始時期を考えるよ矛盾しないか
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:07:07.68
>>81
>窪んでいるのは斧などの磨製石器を削った砥石だ。
>板を作る場合は、砥石は平面でなけりゃね。

そして、そんなものは存在しない訳だ

砥石は、砥石自体も研ぐ行為によって摩耗して、その形状を作る
木を砥石で擦っても、砥石の表面の凹凸で削られて線が刻まれるばかりで、
砥石に平面は生じないしそんな作り方で大量の矢板は作れないww

「ボクの考えた最強の板材作りの砥石」なんてものは存在しないんだよww

どうして九州説ってバカしかいないの??
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:07:47.00
あと鹿が出てきて〜・・・という話も、
同じ家の話でしょ、何かを作るために狩りをしていたとか?
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:09:52.76
>>82
>それに縄文時代にはすでに石鑿があり、木の加工に使われたと考えられている。

その石鑿の時代に、平面性の高い矢板のような板材が作られていたかを考えれば
>>82も自分がいかに意味のないすぐに論理的に否定される詭弁を捏ねているか分かるだろうにww

どうして九州説ってこんなバカしかいないの??
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:10:01.92
日本の神話でいうと、国造りの話
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:10:15.88
現地説明会は23日午前10時〜午後3時。小雨決行。駐車場あり。
問い合わせは橿考研へ。

こういうの人がある程度集まったタイミングで何回かやるの?
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:15:53.32
初代 神武天皇 橿原宮 奈良県橿原市
2代 綏靖天皇 葛城高丘宮 奈良県御所市 ←
3代 安寧天皇 片塩浮孔宮 奈良県橿原市?
4代 懿徳天皇 軽曲峡宮 奈良県橿原市
5代 孝昭天皇 掖上池心宮 奈良県御所市 ←
6代 孝安天皇 室秋津島宮 奈良県御所市 ←
7代 孝霊天皇 黒田廬戸宮  奈良県磯城郡
8代 孝元天皇 軽境原宮 奈良県橿原市
9代 開化天皇 春日率川宮 奈良市
10代 崇神天皇 磯城瑞籬宮 奈良県桜井市三輪山のふもと
11代 垂仁天皇 纒向珠城宮 奈良県桜井市纒向
12代 景行天皇 纒向日代宮 奈良県桜井市纒向
13代 成務天皇 志賀高穴穂宮 滋賀県大津市

記紀で御所市の名前はあったけど存在感薄かったんだよね
やっとそれっぽい遺跡が見つかったね
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:16:02.83
朝からキナイコシが何か喚いている。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:18:07.87
Ω歩譲って、10万平方メートルの田んぼが、同時に存在し、近代の米の収量を生産したとしても、100人分の食料でしかないのだったな。。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:18:31.18
>>92
>3世紀の畿内にクニなんて無かったんじゃないのw

正解。
九州の各氏族の草刈り場だったと思う。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:20:22.46
有明海の海岸線1mで、年間10人分の良質なエネルギー源を確保できるのだったね。。。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:21:52.42
>>151
米ばかり食べていては、不健康な肥満児になってしまうのだったな。。。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:22:46.35
>>151
約100反程なのだったな。。。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:23:27.24
奧山氏は、何を自慢しているのだろうか、、、
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:24:18.00
以前孝霊厨が言ってた中西遺跡だな。
10万平方どころか地形的には大和高田市南側まで連続して連なっていた可能性もあるらしい。
片塩浮孔宮とかある辺り。
まあ葛城はやはり早くから国の中心だったな。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:25:45.75
奧山氏は、何を自慢しているのだろうか、、、
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:32:09.93
朝から九州説の断末魔ですなw

弥生前期で既に秋津辺りに倭で最大の水田、
つまり人が住んでいるなら、神武東征神話が
紀元前なのも確定で東遷説も終了だわ。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:33:03.02
後の時代に神武天皇と名付けられた可能性の高い者は、橿原に住所を構えたのではないのかな。
そして、神武天皇が東征で叩き潰した者達がいるのだったな。。。

142日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:00:51.18
配置こんな感じ↑北

          纏向遺跡 弥生後期

橿原宮 弥生中期

中西遺跡 弥生前期

それぞれが近いので集落が移動した可能性
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:35:20.20
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の考えつく論理は、訳が分からないな。。。

159日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:32:09.93
朝から九州説の断末魔ですなw

弥生前期で既に秋津辺りに倭で最大の水田、
つまり人が住んでいるなら、神武東征神話が
紀元前なのも確定で東遷説も終了だわ。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:38:35.67
巻向周辺にあまり集落はないだろう、直ぐ近所に鍵唐古や大福や畝傍に、つまり田原本から橿原までに弥生集落はある。
プラス馬見丘陵地辺りにも集落がある。勿論葛城辺りもそうだ。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:40:20.76
魏志倭人伝時代の前の時代に、数十人程の集落が九州以外の何処かに幾つかあったことが判明しただけなのだな。。。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:40:56.80
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の考えつく論理は、訳が分からないな。。。

159日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:32:09.93
朝から九州説の断末魔ですなw

弥生前期で既に秋津辺りに倭で最大の水田、
つまり人が住んでいるなら、神武東征神話が
紀元前なのも確定で東遷説も終了だわ。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:41:34.79
有明海の海岸線1mで、年間10人分の良質なエネルギー源を確保できるのだったね。。。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:43:32.15
倭人は、素潜りで漁をしていたので、毎日収穫できたのだったな。。。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:44:13.12
九州説のコピペ基地害のスイッチ入ったかw
余程ショックなんだな、可哀想なやっちゃw
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:45:01.19
>>152
>九州の各氏族の草刈り場だったと思う。

遥か遠方の九州からとか無駄な妄想する前に、すぐ近くの「忌部はん」たちに任せとき給え!  わははははは   @阿波 
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:46:12.16
300mの沖合まで漁をすれば、300mの海岸線では9万平方メートルの漁場になるのだったな。。。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:48:37.93
Ω歩譲って、10万平方メートルの田んぼが、同時に存在し、近代の米の収量を生産したとしても、100人分の食料でしかないのだったな。。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:48:49.89
御所、葛城は水田跡だけじゃなく、同時期に鏡と銅鐸を祭祀具として使用していた倭で唯一の場所だからな。
まあ神武が紀元前に目指してきた理由もそれで、正に国の中心そのものだわ。
弥生中期の時点で鏡所有してるという事は、大陸へ使いを出したのもここからという事だ。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:50:03.77
奧山氏は、何を自慢しているのだろうか、、、
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:50:43.36
>>172
>御所、葛城は水田跡だけじゃなく、同時期に鏡と銅鐸を祭祀具として使用していた倭で唯一の場所だからな。

それ、「忌部はん」たちの痕跡だ!   @阿波
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:51:28.07
三種の〜・・・というのは三貴子の話なんだけど、なぜ倭の話になるんだ?

三貴子から授かった、譲ってもらったという話?
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:51:47.52
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の考えつく論理は、訳が分からないな。。。

159日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:32:09.93
朝から九州説の断末魔ですなw

弥生前期で既に秋津辺りに倭で最大の水田、
つまり人が住んでいるなら、神武東征神話が
紀元前なのも確定で東遷説も終了だわ。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:52:14.81
>>172
>同時期に鏡と銅鐸を祭祀具として使用していた倭で唯一の場所だからな。

嘘はイカンぜよ!   @阿波
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:52:47.58
魏志倭人伝時代の前の時代に、数十人程の集落が九州以外の何処かに幾つかあったことが判明しただけなのだな。。。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:53:03.71
>>171
その理屈では九州は50人以下の食料しかなかった事になるぞw

海岸線なら河内南、つまり堺から和歌山に至るまで良質な漁場なの知らないとかw
チヌの海の名前まで付いとるのに。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:55:23.61
>>1
邪馬台国?

当時、三貴子(後にカミタマでも良い)というのは、
日本に住んでいなかったんだろう。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:56:21.73
>>834
>奈良盆地には、古墳関係なく、ため池が無数にあるんだよww
https://i.imgur.com/aKoBndN.jpg

ほれ見ての通り、九州有明海沿岸の裕福さに比べれば、
奈良盆地の食糧基盤になった水田開発には、
無数のため池、用水路、排水路、水田区画の築造建設の苦労が何十倍・難百倍も必要であったことを示す大証拠地図だ。
これに伴って行われて箸墓古墳などの築成整形は、ほんのおまけにすぎなかったことがわかる。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:57:46.39
地産地消で、チヌは収穫量の僅かしか奈良盆地に運搬されなかったのではないのかな。。。

179日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:53:03.71

海岸線なら河内南、つまり堺から和歌山に至るまで良質な漁場なの知らないとかw
チヌの海の名前まで付いとるのに。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:58:23.67
剣や鏡なども、
三貴子(神)から授かったものなんだろう、
三貴子は日本には住んでいなかった。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:58:25.40
朝から九州説の断末魔ですなw

弥生前期で既に秋津辺りに倭で最大の水田、
つまり人が住んでいるなら、神武東征神話が
紀元前なのも確定で東遷説も終了だわ。


まあこれが結論だよね、東遷説はガチで完全終了
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 08:59:48.82
奧山氏は、現代人の食生活で嘘つき騙しをしているが、1反とい言葉の意味を知らないのだろうか。。。

183日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:00:22.12
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の考えつく論理は、訳が分からないな。。。

159日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:32:09.93
朝から九州説の断末魔ですなw

弥生前期で既に秋津辺りに倭で最大の水田、
つまり人が住んでいるなら、神武東征神話が
紀元前なのも確定で東遷説も終了だわ。
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:01:27.96
>>184
おまエラ達、邪馬台国巻向や奈良説ではないぞ、そもそも畿内説だと忘れてるだろw
邪馬台国は七万戸なんだぞww
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:04:42.39
>>187 年間61kgも食べられた古代人は一部だけだろうし
その単位が意味を成すかどうか
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:04:45.68
61kg=1.5kg*41=410合では、カロリーが完全に不足してしまうな。。。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:05:28.79
盗まれた神格、話?
むかーしから有名だと言っている人達がいたり、
いつの間にか、倭〜何やらの話になっていたとか?スサノヲなどの話も。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:06:45.88
>>157
畿内説は葛城なのか纒向なのか、意見を揃えてから出直せ。
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:08:13.65
つまり、朝鮮民族の民族運動である邪馬台国畿内説の宣伝は、10万平方mの田んぼと、大阪の海岸線で7万戸分の食料を賄っていたという、朝鮮人の考え付いた幻想が考え方の基本だったのだな。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:09:13.60
てか9万平方で取れる量が少ない場合
そんな広い水田が見つかってない九州は
住んでた人がもっと少ないことになる
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:10:24.42
410*534=218940
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:10:42.60
>>566
>そんなもの既に畿内で確定してるよ<

畿内なんて存在もしていなかった嘘つき騙し文言であったから×だし、
「南≠東」などの拠っても×。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:11:18.49
>>186
そこ、倭種であっても、倭ではないことが確定だよね。
後漢代には倭とは博多湾沿岸で確定しているのだから、その時に栄えていたなら、中国史書にない国であったことが確定する。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:11:37.56
>>197
米61kgでは、成人女性100日分のカロリーにしかならないのだな。。。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:16:04.86
>>200
僕達は、誰にでもできる、簡単にできる計算を実行したので、
米61kgでは、成人女性100日分のカロリーにしかならないことがはっきりし、
また、1反のことを知らなかった朝鮮人の奧山氏が、頭の悪い者が考え付く意見を発表したことが、判明してしまったな。。

183日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:17:11.59
有明海は、素潜り漁に適しているのだったな。。。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:19:02.54
チヌは、撒き餌を撒かなければ釣れないのだったな。。。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:20:31.34
>>201
朝鮮人の奧山氏は、卑劣な嘘つき騙しをするのだったな。。。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:21:26.37
Ω歩譲って、10万平方メートルの田んぼが、同時に存在し、近代の米の収量を生産したとしても、100人分の食料でしかないのだったな。。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:22:12.56
>>205
倭人は、漁業で主なカロリーを摂取していた可能性が高いのだったな。。。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:23:40.64
>>206
米を大量に食べるより、魚介や海藻でお腹を一杯にしたので、100歳まで生きられたのではないのかな。。。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:25:58.32
>>180
>阿波のは違うからな、同時に埋葬されていた場所は唯一だよ。


倭国(阿波)の庄・蔵本遺跡は集落遺跡で、生活空間からの日常品扱いだよ。  レベルが違う!  頭が高い!   @阿波
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:26:27.96
>>201
奧山氏は、現代人の食生活を引き合いにして、嘘つき騙しをしたが、1反という言葉の意味を知らないことを公表してしまったね。。。

183日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:27:56.32
>>570
>そりゃ鬼道に鉄なんて全く不用だしな。
一番必要なのは呪術に必要な丹だよ。<

「鬼道」とは、魏使らが卑弥呼の政治の評価説明文言であり、
そりゃ、科学的薬物学的な先端知識が使えて、人々を納得させる知能や容貌を持っていたんだろうなあ。
だかえ、殉葬奴婢百余人もあった。
そして、その科学的技量の最先端が「日光のエネルギーを捉える鏡」であったんだろうなあ。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:30:00.71
>>209
朝鮮民族の奧山氏は、現代人の食生活を引き合いにして、嘘つき騙しをしたが、1反という言葉の意味を知らないことを公表してしまったので、
何度でも複製を貼り付けて、笑いリラックスすれば良いな。。。

183日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:31:07.09
Ω歩譲って、10万平方メートルの田んぼが、同時に存在し、近代の米の収量を生産したとしても、100人分の食料でしかないのだったな。。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:39:10.77
>>572
>>板材を石器でこすって平面にするとか、古代人をバカにしすぎ<

>いやいや、古代人の努力を賞賛してるのよ。
そもそも、鉄器過疎地帯でなんで砥石がいっぱい出てるのよ。
砥石で石をすり減らして加工するのは旧石器時代からある技術。
それを木材に利用するのは当然当たり前。
砥石で板を作れないと思っているお主こそ古代人よりオツムが軽い。<

成程。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:50:05.79
当時、日本は無かったとしても・・・、
三貴子(カミ、後にカミタマ)?日本に住んでいなかったんだろう


やはりそうだった・・・と思っている人もいるはず
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:51:01.84
チヌは、撒き餌を撒かなければ釣れないのだったな。。。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:57:14.84
>>199
残念ながら倭に丹山があるから当時の九州は北部以外倭ですらなかったかもなww
ヤマト朝廷が成敗してはじめて熊本辺りより南側も倭になる。
これで倭人伝に火山の記述が皆無で、倭国伝に阿蘇の記述があるのにも一致するだろう。

つまり倭人伝の時代はまだ、熊本辺りから南側は畿内ヤマト、女王国と対立していたという事だ。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 09:59:43.77
魏志倭人伝では、丹はベンガラで、水銀朱は真珠なのだったな。。。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:01:37.52
>>218
邪馬台国畿内説を宣伝している、朝鮮人の奧山氏は、魏志倭人伝を読んでいない可能性が高いのだったね。。。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:01:43.94
九州脳では丹は酸化鉄でしかないベンガラww

だから無能なんだろうな。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:02:40.38
チヌは、撒き餌を撒かなければ釣れないのだったな。。。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:03:25.10
奥山なんて姓は朝鮮人にまずいないのにな、
むしろ安◯が多いのは常識
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:04:38.04
邪馬台国畿内説を宣伝している、朝鮮人の奧山氏が、討論では完全に敗北してしまったので、反論を諦め、敗北宣言にしかならない悪口を言い放ってきたな。。。

220日本@名無史さん2019/11/22(金) 10:01:43.94
九州脳では丹は酸化鉄でしかないベンガラww

だから無能なんだろうな。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:05:15.24
つまり、奧山氏というのは通名なのだな。。。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:06:43.76
朝鮮民族の奧山氏は、現代人の食生活を引き合いにして、嘘つき騙しをしたが、1反という言葉の意味を知らないことを公表してしまったので、
何度でも複製を貼り付けて、笑いリラックスすれば良いな。。。

183日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:06:56.66
角□川氏だろう。。。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:08:38.10
>>225
日本人ならば、1ヘクタールが1反に近いことを知っているので、すぐに計算できる物事を、朝鮮人の奥山氏は、知らなかったのだね。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:09:09.69
『角川 奥山』
ほとんど同じ人物、実際は別人なんだけど、ほとんど同じ
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:10:16.72
日本人ならば、0.1ヘクタールが1反に近いことを知っているので、すぐに計算できる物事を、朝鮮人の奥山氏は、知らなかったのだね。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:11:19.05
>>230
お前、知らなかったな?
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:12:02.77
弥生時代中期後半

神奈川県砂田台遺跡 鉄剣加工板状斧、茎鑿
埼玉県朝霞市向山遺跡 鋳造鉄斧、袋状鉄斧
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:13:26.96
>>232>>94へアンカ
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:13:36.30
やはり、奧山氏が、撒き餌に寄ってきたな。。。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:17:35.75
朝鮮人の奧山氏は、「10万平方メートルの田んぼが、同時に存在し、近代の米の収量を生産したとしても、100人分の食料でしかないのだ」という真実に対して、反論できるだろうか、、、
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:17:50.59
それと本当に『天津 事故』?

やったのはオウム〜関係者なんだろう、
その後、死刑になったと言っているし、オウム。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:20:33.78
魏志倭人伝では、丹はベンガラで、水銀朱は真珠なのだったな。。。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:23:36.16
>>599
>吉野ヶ里公式サイト: 吉野ヶ里遺跡の終焉
3世紀後半頃、吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭と
ともにその機能が失われてしまったと考えられています。それと前後して、南内郭付近
の丘陵部には4基の前方後方墳が築かれます。吉野ヶ里丘陵の南部一帯は、人々の生活
する集落から、人が葬られる埋葬の地へと変化したようです。
吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか?
弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか?<

ふーん。3世紀後半なら、確実に卑弥呼の後であり、
壹與の終わり頃よりも後になりそうであり、
那珂八幡などの前方後円墳時代と同じ頃であり、
大和の石塚よりも古そう。という事は、
甕棺部族の主要部族(おそらく天孫族系)が、墓祭祀形態の変更をしたんだろう、
という事になるな。
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:24:43.44
女王国が成敗してはじめて肥後の狗奴国辺りより南側も倭になる。
これで倭人伝に火山の記述が皆無で、倭国伝に阿蘇の記述があるのにも一致するだろう。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:26:15.61
>>604
>>しかしまあ、田んぼばかり出てムラは見つからない。
近畿はそういうところが多いらしいが。<

>それは典型的な植民地。<

成程。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:26:27.06
阿蘇の煙は、雲にしか見えないことも多いのだったな、、、
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:28:58.22
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:29:56.31
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:30:41.11
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)

考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。

ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:30:41.80
>>607
>怒られる覚悟で聞くが 古代出雲王朝はどうなん? 女王国の可能性は低い?<

出雲は、梁書に拠れば、(九州倭国や大和扶桑國と区別されて)、
6世紀頃まで文身國として存続している。
女王國の可能性は、「南≠東北」に拠って、×。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 10:31:17.39
数年前の、あのスレ


イデ(イデアだった?)が〜と言っている人もいたし、
イデオンの話。

オウム関係者がいるのかな?
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:01:31.98
>>631
>2ちゃんねらーが特定するも何も、既に専門家の学会では「畿内説・纏向遺跡が中心」で
特定されてますがな<

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「専門家の学会」とやらも、「南→東」などの嘘つき騙しの宗教妄想の、
・・・・アホ詐欺師ばかりである事が知られてしまっているから、×。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:04:23.28
魚やカエルの骨が残った理由は、糞尿の溜まったアルカリ性の場所に棄てられたという以外には、どのような可能性も無いのだという真実から、討論の議題を、逸らせることは、邪馬台国畿内説の敗北宣言なのだったな、、、
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:07:55.49
なぜ、奧山氏は、収量が数十人程の食料にしかならない、魏志倭人伝時代とは時代も異なる田んぼを、自慢したのだろうか、、、
奧山氏が、収量が数十人程の食料にしかならない、魏志倭人伝時代とは時代も異なる田んぼを、自慢した理由は、神武東征という物事と関係があるのだろうか、、、
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:10:29.38
平城京のすぐ横でも5500uの水田跡が見つかってるから
平城京の下にもあるかもな
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:10:40.95
250
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:11:57.77
5500uの水田は、2,3人分の食料にしかならなかった可能性が高いな。。。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:12:23.32
>>250
畿内説というのは、奈良時代の栄華を過去に投影して夢を見ているだけどよ。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:15:32.03
佐賀川上の大ナマズの守り神であったタケミカズチノカミのその父は、
つまり川上の大祖神は、
伊都(イツ)之尾羽張と名乗っていたと記紀に残されている。
川上は伊都・・・、日本神話は果たして何を語り継ぎたかったのであろうか、、。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:16:45.79
なぜ、奧山氏は、収量が数十人程の食料にしかならない、魏志倭人伝時代とは時代も異なる田んぼを、自慢したのだろうか、、、
奧山氏が、収量が数十人程の食料にしかならない、魏志倭人伝時代とは時代も異なる田んぼを、自慢した理由は、神武東征という物事と関係があるのだろうか、、、
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:18:40.31
九州の水田跡はマジでショボいなw
やっぱりただの戦場だろ、あそこは。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:18:45.92
タケミカズチノカミというのは、僕達が昨日、うっちゃりの歴史を研究していた時に出会った名前だったな。。。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:20:33.45
倭人は、米よりも魚介類が好きなので、水田がしょぼいというのは、却って邪馬台国であることの重大な証拠になってしまうのだったな。。。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:21:32.59
なぜ、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏は、収量が数十人程の食料にしかならない、魏志倭人伝時代とは時代も異なる田んぼを、自慢したのだろうか、、、
邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏が、収量が数十人程の食料にしかならない、魏志倭人伝時代とは時代も異なる田んぼを、自慢した理由は、神武東征という物事と関係があるのだろうか、、、
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:23:35.20
これは、どういうことなのだろうか、、、

142日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:00:51.18
配置こんな感じ↑北

          纏向遺跡 弥生後期

橿原宮 弥生中期

中西遺跡 弥生前期

それぞれが近いので集落が移動した可能性
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:24:40.14
巻向からは海魚の骨は大量に出てるよなw
つまり米も魚も不自由しない環境だという事だね。
九州は鉄でも食ってたんだろうww
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:25:35.67
中西遺蹟の支配者は、銅鐸王家なのだろうか、、、
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:27:07.77
巻向から発見された海魚の骨は、数人が数日で食い散らかせる程の量なのだったな。。。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:29:16.69
>>266
魏志倭人伝時代が終わった後に、相撲大会が有ったので、相撲取り達が、カエルや魚でちゃんこ鍋という鍋を食べた跡なのではないのかな。。。
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:30:53.56
掘立柱は、相撲取り達が相撲部屋という物を作った後かもしれないな。。。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:33:07.97
>>270
巻向で、相撲大会が有ったことが、日本書紀に記録されていたのだったな、、、
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:34:27.34
熟していない桃の実で味付けした、カエルや魚のちゃんこ鍋は、意外に美味しかったのではないのかな。。。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:35:00.50
肥国説のペクチョン移民が日本下げに必死だな
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:35:42.49
相撲取り達は、掘っ立て柱がないと、訓練ができないことも、僕達の研究で判明したのだったな。。。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:36:14.70
>>274
てっぽうという物事があるのだったな。。。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:38:06.54
日本書紀や古事記を嘘の記録だということにしたい、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、嘘を言い放ちながら、纏向の相撲大会のことを無かったことにしようとしているな。。。

273日本@名無史さん2019/11/22(金) 11:35:00.50
肥国説のペクチョン移民が日本下げに必死だな
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:39:33.99
巻向の掘立柱は、相撲取り達が相撲部屋という物を作った跡地なのだという物事が、現実味を帯びてきたな。。。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:40:48.70
てっぽうという物事は、真っ直ぐ建てられた掘立柱がないとできないのだったね。。。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:44:30.22
驚いたな、、、
野見宿禰という相撲取りが、殉死を辞めさせるために、埴輪を代わりにすれば良いよ、という意見を発表したのだな。。。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:46:08.59
桜井市は、野見宿禰の着ぐるみを作製し、カエル入りのちゃんこ鍋を売れば、話題になるのではないのかな。。。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 11:53:33.58
中西遺蹟の支配者は、銅鐸王家なのだろうか、、、
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:32:57.57
掘立柱の相撲部屋から相撲大会会場の相撲神社までは、東に1.5kmなのだね、、、
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:33:15.07
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:35:47.50
掘立柱に向かって「てっぽう」という訓練をし、カエルのちゃんこ鍋で力を養った相撲取りが参加した、大相撲纏向場所が開催されたのだな。。。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:35:56.62
>>149
>記紀で御所市の名前はあったけど存在感薄かったんだよね
>やっとそれっぽい遺跡が見つかったね

秋津遺跡とか、前から知ってる人は知ってたけどね
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:36:14.76
>>267
>阿波は始まってもいないけどなww

その通り。   

倭国(阿波)の本番は、まさにこれから!  乞うご期待!  わははははは   @阿波
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:38:06.24
はっけよい、、、とは、どのような意味なのだろうか、、、
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:41:00.42
早、競へ。。。。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:41:15.30
はや、きほえ、、、
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:42:05.35
どすこい、、、、とは、どのような意味なのだろうか、、、
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:43:43.13
掘立柱の相撲部屋から相撲大会会場の相撲神社までは、東に1.5kmなのだね、、、
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:45:29.97
やはり、巻向の掘立柱は、相撲取り達が相撲部屋という物を作った跡地なのだろうか、、、
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:46:10.82
どすこい、どすこい、
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:47:51.04
どすこい、、、、とは、どのような意味なのだろうか、、、
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:54:04.51
朝鮮民族の奧山氏は、現代人の食生活を引き合いにして、嘘つき騙しをしたが、1反という言葉の意味を知らないことを公表してしまったので、
何度でも複製を貼り付けて、笑いリラックスすれば良いな。。。

183日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:55:34.91
はっけよい、はっけよい、
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 12:56:53.23
>>254
>タケミカズチノカミのその父は、つまり川上の大祖神は、
>伊都(イツ)之尾羽張と名乗っていたと記紀に残されている。

孝昭天皇の后は尾張氏の祖である「おきつよそ」の妹です。
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:04:16.77
川上
やはり何か重要な土地だったのだろうか
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:10:12.41
米航空宇宙局の人工衛星観測からのある通報を受けて、地上での観測が実行され、2018年半ばから2019年1月までの期間に、ナミビアにあるH.E.S.S.望遠鏡群と、スペイン・カナリア諸島のラ・パルマ島にあるMAGIC望遠鏡が検出したという、
2件のGRB現象に由来するガンマ線のエネルギーとは、どれほど巨大なエネルギーなのだろうか。。。
そのエネルギーは、オーマイガッドを凌ぐ程のエネルギーなのだろうか。。。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:10:47.85
纏向遺跡が古墳造営基地局だったとした方が価値あるんじゃね?
どうやって古墳を建造してたのか解明できれば
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:14:17.82
1兆電子ボルト。。。。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:15:21.92
前方後円墳は、相撲会場なのではないのかな。。。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:20:07.07
1兆電子ボルトのガンマ線が何発降り注げば、1発のオーマイガッドのエネルギーを越えるのだろうか、、、
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:22:48.32
>>636
>日本の弥生時代は、青銅器時代をすっ飛ばして鉄器時代の文化だというのは常識なのに
ある地域では鉄がないと恣意的に主張するのは、「バカ」の所業以外のなにものでもない <

日本の弥生時代は、青銅器時代をすっ飛ばして鉄器時代の文化だというのは、
全体の大体の話であり、地域に拠って、早い遅いがある。と言うのは常識なのに、
鉄使用品が見つからない纏向などでも、鉄材使用があった、と恣意的に主張するのは、
「バカ」の所業以外のなにものでもない 。
要は確率的な話であり、鉄が見つからない纏向は、鉄材がなかった可能性が高く、
鉄材が見つかった地域はほぼ鉄材があった、という事だ。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:24:12.63
>>149
それは無知すぎるだろ、普通に古代史の舞台で有名だよ。
戦後教育が必要以上に無視してきたからに
他ならない。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:25:22.57
>>304
3憶発なのでは、ないのかな。。。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:26:47.64
>>131
アホかw
復元したのは現代の話だw
唐子鍵は肝心の柱穴跡が見つかってないから
楼閣なんて無かっただろ
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:27:14.38
>>305
巻向が祭祀場所である証明だからな。
鉄は鬼道には不用だから。
桃の種に周辺の巨大古墳、鏡に水銀朱だから
神仙思想以外の何物でもない。
鬼道とは後々道教になるんだからな。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:28:34.42
苦しい言い訳と有り得ないこじつけに終始する畿内説あわれw
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:30:44.41
巻向の掘立柱は、祭祀場だという証拠よりも、相撲部屋だという証拠の方が揃っているのだったな。。。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:31:42.23
>>310
自分の知能、理解力が不足してるだけだよ、
それを九州脳と呼ぶんだけどなw
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:36:56.03
>>307
長い目で見れば、存在した理由のはっきりしない、オーマイガッド1発よりも、継続的なGRB現象に由来するガンマ線の方が、纏向の上空でより多くの中性子線を発生させる原因としては、想定しやすいのではないのかな。。。。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:43:01.48
>>186
東遷したのに田んぼしかないド田舎のはずない
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:46:25.67
はっけよい、はっけよい、
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:46:29.06
>>311
それは現代の話だw
唐子鍵には肝心の柱穴跡が無いから
楼閣があった証拠はないw
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:47:23.71
前方後円墳は、相撲会場なのではないのかな。。。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:48:00.68
相撲会場は、相撲取りが作ることも多いのだったな。。。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:48:59.60
>>95
十分なってる
「かんのわのなのこくおう」が通説になるようなレベル低い学会
0321日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:49:56.97
熟していない桃の実で味付けした、カエルや魚のちゃんこ鍋は、意外に美味しかったのではないのかな。。。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:50:52.25
はっけよい、はっけよい、
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:52:14.79
>>112
まだ纏向に税金ぶち込むつもりかw
カエルの死体とか桃の種とかを見つけるために
これ以上税金使わないで
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:53:26.96
相撲取りが100人いれば、掘立柱の西の古墳の一つ一つは、それぞれ、3か月程で積み上げられてしまうのだったな。。。
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:53:57.27
どすこい、どすこい、
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:55:02.11
>>324
モンゴル人も混じっていたのでは、ないのかな。。。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 13:55:08.67
>>143
ナイナイ
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:10:38.27
唐古鍵部屋と纏向部屋が有ったのではないのかな。。。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:11:33.38
>>329
相撲部屋には、掘立柱が必要なのだったね。。。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:12:07.95
どすこい、どすこい、
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:18:46.74
通説に追い詰められて
九州説がどんどん奇形化していく

末期症状だ
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:39:15.36
邪馬台国畿内説には、証拠が全く無い、という物事は、優れた学部の優れた者達が採用される組織では、常識なのだったな、、、
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:39:41.49
どすこい、どすこい、
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:42:22.82
>>648
>磨製石器を作る用の砥石(とは普通は言わないが)は、摩擦面が
くぼんでいるんだよ
それに対し、金属起用の砥石は、基本的に摩擦面が平面になる
纏向遺跡で鉄器用の砥石と判定されて大量にあるのは後者のタイプ<


石や金属や尖れるモノの硬度の問題だな。
小学校の時に、
「滑石、石膏、方解石・・・黄玉、紅玉?、ダイヤモンド」
という事を習った記憶だあるな。
要するに砥石に使われる石は、対象よりも固い硬度を持っておれば、
摩擦面が平面になり易いのでであり、
対象よりも硬度が同じか弱ければ、摩擦面がくぼみ易い、という事であるだけだな。
例えば、黒曜石のような、硬くて表面がギザギザに加工されれば、砥石になり易い。
また堆積岩よりも、溶岩性の火成岩の方が、砥石になり易い。

要するに、纏向の近くには、やや硬い石が取れた、という事であるだけだな。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:47:49.01
>>313
妄想を知識だの理解力などと勘違いしてる時点で、
おたく朝鮮人?
となるわけだがw

知識をよく見直してみ?
末尾がこういう↓のは知識とは言えないんだぞ?
「〜と思われる」
「〜のように見える」
「〜と考えるのが妥当である」
あと「受け売りの知識」もなw
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:48:10.45
>>640
>>そもそも、鉄器過疎地帯でなんで砥石がいっぱい出てるのよ。<

>鉄器過疎地帯ってのが明確に間違っていることが、
大量の砥石だけでも明らかになっているだけww<

これも類スレ主の方が間違っており、×だな。
「大量の砥石」の存在は、硬度の硬い石の存在の問題であり、
「鉄器過疎地域」の存在とは、直接的な関係がない。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:51:34.46
つまり、砥石の摩擦面の形状の違いは、対象物体との硬度の比較の問題でしかない、という小学校レベルの物事を、奥山氏が知らなかったのだね。

335日本@名無史さん2019/11/22(金) 14:42:22.82
>>648
>磨製石器を作る用の砥石(とは普通は言わないが)は、摩擦面が
くぼんでいるんだよ
それに対し、金属起用の砥石は、基本的に摩擦面が平面になる
纏向遺跡で鉄器用の砥石と判定されて大量にあるのは後者のタイプ<


石や金属や尖れるモノの硬度の問題だな。
小学校の時に、
「滑石、石膏、方解石・・・黄玉、紅玉?、ダイヤモンド」
という事を習った記憶だあるな。
要するに砥石に使われる石は、対象よりも固い硬度を持っておれば、
摩擦面が平面になり易いのでであり、
対象よりも硬度が同じか弱ければ、摩擦面がくぼみ易い、という事であるだけだな。
例えば、黒曜石のような、硬くて表面がギザギザに加工されれば、砥石になり易い。
また堆積岩よりも、溶岩性の火成岩の方が、砥石になり易い。

要するに、纏向の近くには、やや硬い石が取れた、という事であるだけだな。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:54:18.43
巻向の掘立柱は、祭祀場だという証拠よりも、相撲部屋だという証拠の方が揃っているのだったな。。。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:54:32.58
340
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 14:55:24.18
>>328
柱穴ならなんでもいいというわけじゃないw
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:03:25.49
柱穴が浅いと、てっほうで倒れてしまうのだったな、、、
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:04:30.38
>>643
>>そしてさの丹を祭祀にたんまりと使っていたのが九州北部<

>魏志倭人伝に、倭国は其山有丹と書かれているのに、国産の水銀朱が
一切使われていないのが北部九州ww<

「丹」とは「顔料」の事であり、
色素などを成分に持つ粉末を練り合わせる事が出来れば、何でも顔料になるのであり、
倭人伝には、「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」や「其山有丹」や、
明帝の下賜の「鉛丹」や、卑弥呼が「上獻」の「丹木」などの記録しかなく、
「水銀朱」の事だ、とはどこにも書かれていない。
そして、九州には火山が多くて、朱色のベンガラも多い。
それだけの事。
つまり大和説学者や阿波が「水銀朱」の事だ、と言っているのは、
世間の人々を騙そうとする・・・・アホ詐欺師である、という事。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:07:43.75
日常的に地球に飛来する宇宙線のエネルギーも、全く、侮れないのだな、、
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:11:06.10
(1950-248)×365.25×24×60×60
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:11:35.29
>>646
>誰も知らない鉱脈は存在したことにならない
そして、九州で弥生時代に掘られた水禽鉱脈はないので、
九州のみの倭国を主張する限り、魏志倭人伝の其山有丹によって、
そこは倭国ではないことになる<

倭人伝の「朱丹」は「赤い顔料」という意味であり、
「水銀朱」の事だ、なんては書かれていないし、
松浦川の上流に水銀山があるので、
魏使らは下流で「赤い顔料」を見た可能性がある。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:21:57.64
>>341

出土遺物遺構がまったく違う遺跡から
何でもパクって異人地域に建てればいいというもんじゃない
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:27:49.00
>>648
>古墳が目印とか言っている人がちょろちょろいるけれど、
人工の山は、権力の大きさの示威装置だ
もちろん人に見られなければ意味がないので、王都周辺または王都への街道沿いに
作られることになる<


墓の位置や大きさなどの根本的な事は、遺族にとっての「必要性」の有無の問題であり、
権力の大きさや示威はそれ以下の問題だ。
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:29:07.27
>>309
柿の種に空見した。
奈良だけに。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:29:30.15
つまり、吉野ケ里の楼閣は、もっと荘厳なものだった可能性もあるのだね。。。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:29:43.83
よく考えたら、奈良に柿はあるが、柿の種といえば新潟だったな。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:31:26.81
>>328

だからさ、ヤマト王権との関係はいくらでも論じていいよ。
でも、邪馬台国とは似ても似つかないよ。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:32:53.06
奈良には、スイカの奈良漬という美味しい物があるのではないのかな。。。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:34:24.01
日本書紀では、相撲は野蛮な物事なのだな。。。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:35:02.82
倒れた者を踏みつけるのは、卑劣な行為なのではないのかな。。。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:35:31.80
>>651
>卑弥呼の共立によって、纏向型前方後円墳が作られるようになり
卑弥呼の死を契機として前方後円墳の定形化が広まったんだよ
>卑弥呼の死=卑弥呼の径百歩の冢の造営が契機になって、それを規範とした定形化が
進んだんだよ
>卑弥呼の死が景気であると認めれば、最大かつ最古の定形化した前方後円墳が
卑弥呼の墓の第一候補だとすぐに決まるだろ?ww <

ダメだ。
卑弥呼の墓の「冢」は前方後円墳ではないし、
壹與の墓も平原1号があるから前方後円墳ではない可能性が高いし、
前方後円墳は、3世紀の第3四半世紀過ぎの那珂八幡などが、列島では一番早い。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:37:34.68
奈良漬と柿の葉寿司を食べたくなってきたな。。。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:38:27.62
>>337
>大量の砥石

大量の砥石が纏向遺跡で出ているというが、纏向の場合は土坑から僅かに出ているだけ。
どこにそんな資料があるの?
ウソじゃないの。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:42:21.12
僕達は、今、相撲に例えるなら、蹴り倒されて仰向けに倒れてしまった邪馬台国畿内説という物事の息の根を、完全に止めるために、あばら骨の辺りを勢い良く踏みつけてしまったのだったな。。。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:42:31.53
>>662
>珍しくないのは現在の視点、弥生末期当時は一番の貴重品だそ。九州説は時代性を無視するから矛盾だらけの説になる。
ヤマトでは水銀朱だけの古墳が作られてるからな。<

関係がない。
魏志倭人伝には「水銀朱」という文言が書かれておらず、
丹の色に関しての「朱丹=朱色の顔料」という文言が書かれているだけだ。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:42:49.86
>>315
>東遷したのに田んぼしかないド田舎のはずない

奈良のド田舎に、東遷したがる東遷盲者。  わははははは   @阿波
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:43:08.77
これだな
前スレ>>1000
>九州説の無知さは何ともぶざまだな
邪馬台国の時代には弥生的な大集落が解体して
「模範的」「代表的」な集落はなくなる
唐古鍵は逆に特殊な集落というわけだ<

これじゃ 「模範的」「代表的」な集落の定義を述べるべきだな
2から3世紀に存在した集落は結構あるけど「模範的」「代表的」っなに?
環濠集落?・・これも存在してるし・・・・
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:44:09.46
>>337
>「鉄器過疎地域」の存在とは、直接的な関係がない

大量の砥石が鉄器研磨のために用いられたと言いながら、
その大量の砥石が鉄器過疎地域でみつかっていることとの矛盾に気が付かない鉄器は溶けた説者のオツムの問題だな。
鉄器大量保有地域では、そんな大量の砥石がみつかっていないことをどう説明すんのよ。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:45:03.49
>>352

唐古鍵遺跡からは倭人の風習である卜骨は弥生前中後期と出てる
日本の中の古代韓国と呼ばれている吉野ヶ里からは1欠片も出ていない
韓国の学者とよく相談しながら絵でも描くのがいいと思う
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:47:59.30
>>364
この鉄器過疎地域でみつかる大量の砥石は、木製品製作の道具だったことを示しているな。
木製品の平らな表面や、真っすぐな柄とつるつるした表面はどんな道具で作ったのか。
砥石だよ、砥石。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:48:07.60
>>665
>こういう実証的な証拠を九州説は出せないからねぇ・・・<

「南→東」などの嘘つき騙しの指摘に反論出来ない大和説は、
文献考古の「チェリーピッキングでの自己解釈に拠る詐術」論法ばかりだからね。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 15:56:29.94
つまり、巻向で大量に発見された物体は、刃物を研ぐ砥石ではなく、木工用のやすりだったのだね、、、
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:02:00.84
>>366
さる砥石の研究によると、東日本の弥生中期の鉄器普及はさしたるものではなかったとしているな。
弥生中期後半に東日本が鉄器普及地帯だったとする説が、おかしな説であることが分かる。
大量に砥石が用いられているのは、木器製作の道具だったんだよ。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:04:28.81
砥石で木板を作ると言張るペクチョン集団
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:13:16.57
やはり、朝鮮民族の奥山氏は、木工用ヤスリで、鉄の刃物を研ぐのだと言い張っていたのだな、、、
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:14:38.99
>>371

畿内説は鉄器で木材加工したと主張してる
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:16:06.16
頭が変でないと九州説支持するのはムズカシイのね
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:17:01.62
つまり、朝鮮民族の奥山氏は、木工用ヤスリで、鉄の刃物を研ぐのだと言い張っていたのだな、、、
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:18:08.38
巻向で大量に発見された物体は、刃物を研ぐ砥石ではなく、木工用のやすりだったのだね、、、
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:18:41.00
僕達は、今、相撲に例えるなら、蹴り倒されて仰向けに倒れてしまった邪馬台国畿内説という物事の息の根を、完全に止めるために、あばら骨の辺りを勢い良く踏みつけてしまったのだったな。。。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:19:26.40
>>370
>砥石で木板を作ると言い張る

砥石は石器を作る場合もあれば、木製品製作にも使ったということよ。
もちろん、石器を製作する場合の砥石と木器を作る場合の砥石は別だったはずだ。
お主は、砥石と聞けば包丁や鉋の刃を磨くものとしか発想できんアホだよ。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:24:28.43
日本では縄文前期から磨製石斧で木工をしていました
弥生時代には大陸から太形蛤刃石斧、扁平片刃石斧、柱状片刃石斧が伝わり
やがて鉄斧に替わりました
九州作り話の先祖はどこかの国で石で木を擦っていました。
この人種は連呼するという特徴があります
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:42:31.22
>>361
>魏志倭人伝には「水銀朱」という文言が書かれておらず、
>丹の色に関しての「朱丹=朱色の顔料」という文言が書かれているだけだ。

朱色の顔料が山にあるわけないだろ
人が加工するから顔料になる
山にあるのは原料だ
水銀朱だよ
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:46:16.88
登呂の矢板の下部の尖った先は金属器で削られた、しかし鉄器は出土しないので、
その鉄器は錆び果てたか洪水の時の持て逃げたかしたのだろうと考古学者がのたまわっているが、
その説はお笑いではなかったのか。
登呂で作られた木器の丁寧な成形や表面の平板性や凸凹のない状態をみれば、そうした状態は砥石でも可能であることが分かる。
むしろ木器の成形や仕上げには砥石が使われたと考えるほうが合理的だ。
そのほうが、なかった鉄器をわざわざ錆び果てたとか洪水の時に持って逃げたなどと不合理な説明をするよりはましだ。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:48:20.00
>>700
>北部九州の甕棺墓勢力がつぶれたのは、卑弥呼の遣使よりも100年以上前<

吉野ケ里では、前方後円墳の直前まで甕棺。祇園山にも墳裾に甕棺が3個。

>それが、各地で巨大墳丘墓を作れるような地域王権が成長してきて、それらの間で
争いがあり(倭国乱)、その収拾として卑弥呼の共立が談合で行われた
その卑弥呼の共立のときに、卑弥呼の祖先筋に九州の血統があることが利用された可能性はあり
それが神武の東征説話として残った、くらいはありえる <

この部分は大和説を匂わせでいるから、「南≠東」の嘘つき騙しのインチキであり、塁スレ主は×。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 16:51:29.02
>>378
>やがて鉄斧に替わりました

だからよ、鉄斧に切り替わった時期がいつなのかが焦点なのよ。
おそらく、登呂などでは日常的な道具として鉄斧に切り替わったのは、古墳時代になってからだろうな。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:00:53.80
>>361
脳内資料か、山に丹があると書かれてるぞ?
この丹を精製すれば朱丹になる。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:03:23.76
木材は石で縦方向に擦っても削れない
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:05:29.41
>>383
>この丹を精製すれば朱丹になる。

そうなんだろう。  わははははは   丹は辰砂だな。   @阿波
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:10:14.60
>>719
>気にしていたら、當在會稽東冶之東なんてことにはならないんだよ <

魏志は「當在會稽東冶之東」であるから、この大和説男はウソをついており、×。

>邪馬台国までだって、自女王國以北、其戶數道里可得略載程度の情報しかない <

邪馬台国なんても魏志には書かれていないから、この男は嘘つき騙しばかりであり、×。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:10:45.74
これだな 巻向擁護もいいけど報告書すら読んでなキナイコシの嘘は✖
前スレ>>1000
>九州説の無知さは何ともぶざまだな
邪馬台国の時代には弥生的な大集落が解体して
「模範的」「代表的」な集落はなくなる
唐古鍵は逆に特殊な集落というわけだ<

これじゃ 「模範的」「代表的」な集落の定義を述べるべきだな
2から3世紀に存在した集落は結構あるけど「模範的」「代表的」っなに?
環濠集落?・・これも存在してるし・・・・
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:11:03.68
>>347
だから現代の話をして何がしたいんだよ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:13:36.92
>>388

元々が吉野ヶ里の復元建物の話から始まった
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:14:27.50
@阿波 畿内邪馬台国の出先が騒ぎすきだよ
畿内説に入れてやらないぞ
阿波単独で騒ぐなよ 畿内説の派生が阿波・・・つまり初期ヤマト王政の四国の拠点が阿波と言うことを気づけよ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:18:10.07
漫画やアニメ、ゲームなど・・・、
ほとんど同じような設定というのも、おかしな話。
うまく、まとめた(編集?)『ワンピース 粉雪』動画なども。

工作員がいるというわけでも、なさそうだしな・・・・。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:23:45.27
『日本昔話 鹿の恩返し』

同じでしょ『伊達の桃太郎』麝香(ジャコウジカ?)〜の話
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:24:04.14
>>385
普通当時丹といえば辰砂を指すのは常識なんだが、一部の九州説の人にはベンガラじゃないと困るみたいだね。
代赭の名前のとおりフェイク、金に対する金メッキの扱いでしかない。

だが阿波の水銀朱はあくまで鉱山であり人が日常的に生活する場所とは言い難い。
その点紀伊半島の沿岸部の水銀朱の精製跡は
正に海人が生活の一部として用いていた証明なんだけどね。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:28:02.91
>>754
>その図では、北部九州に前方後方墳の有力者の墓が二つあるねぇww
倭種に中枢まで乗り込まれてるってことになるぞw
有力者としてでかい前方後方墳が作れるくらいにww <

おそらく、北部九州に前方後方墳の部族が起こって、
彼らが「東征毛人五十五國」の征服軍に選ばれて、
東征した先々に部下らをその征服地の支配者にして行ったから、
前方後方墳が広がって造られた。
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:28:42.58
>>372
畿内説の妄想は続くネ 
その木材で大量に作ったのが土木用の古墳造営に使った工具なのだろうなww
都市建設に作ったなら都市としての遺物がたくさん出てもいいが
巻向は未完成の王都なのだろうな・・巫女や兵が入植できないはずだww
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:32:10.50
>>384
削れるよ 古代の遺跡で立証されてるよ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:32:41.63
>>393
>その点紀伊半島の沿岸部の水銀朱の精製跡は

その精製跡は、紀伊忌部が紀伊半島の沿岸部で「若杉山辰砂採掘遺跡」の辰砂を精製していたもの。   @阿波
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:33:34.92
>>397

何遺跡で誰が?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:34:46.29
畿内説は鉄を知らなかった縄文人が作った丸木舟とか見たことないのかな?
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:39:48.55
>>400

丸木舟は刃部磨製石器で削る
砥石で擦るのではない
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:40:32.13
>>396
嘘つくな 阿波踊りの衰退から邪馬台国の村おこしだろ
四国自体にさしたる遺跡ないよ いきなり畿内に来るかよ
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:41:56.16
>>393
>日常的に生活する場所とは言い難い。

心配ご無用!  麓に朱の生産国内最大・最古の「加茂宮ノ前遺跡」がある。   @阿波

Q 遺跡ではどのようなものがみつかったのですか。

A 水銀朱を生産したとみられる石臼や石きねが約300点。辰砂原石や表面に水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなどの関連遺物も多く、出土数の合計は約1000点になりました。
また、祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構16基と住居跡2基も見つかりました。

Q どのぐらい珍しいのでしょうか。

A 非常に珍しいものばかりです。縄文後期の石臼や石きねは三重県度会町の森添遺跡などでも見つかっていますが数十点程度で、1000点規模の発見は他になく、
加茂宮ノ前遺跡が当時国内最大規模の生産拠点だったと考えられます。過去の発掘調査で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)に水銀朱が精製されていたことは分かっていました。
今回の発見で、生産の起源は1500年ほどさかのぼることになります。
また、円形配石遺構の発見は西日本でほとんどなく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めてです。

Q 阿南市内では他の遺跡でも発見がありました。どのようなものですか。

A 加茂宮ノ前遺跡から約5キロ離れた若杉山遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての辰砂の採掘遺跡で、坑道は国内最古であることが分かりました。
遺跡の時代は異なりますが、加茂宮ノ前遺跡で見つかった辰砂原石は若杉山遺跡から産出されたと考えられています。
那賀川中流域で辰砂の採掘から水銀朱の精製まで一体的に行っていたのでしょう。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:43:21.12
>>399
簡単 木材を伐採する時石だよ
これ縦目だし、ネ  
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:43:55.98
>>402
碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  倭国(阿波)の分家の分際で頭が高い!  控えよ!   @阿波     
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:49:31.85
>>393
>日常的に生活する場所とは言い難い。

「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、
全ての円形配石遺構同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。
(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)
2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:50:02.18
>>393
>日常的に生活する場所とは言い難い。

「加茂宮ノ前遺跡(弥生時代)」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡は、那賀川の右岸、標高24〜26mの自然堤防上に立地している。
発掘調査で弥生〜古墳時代集落の中心部を確認した。
それ以前の調査成果と合わせ、竪穴住居が約100軒発見されたことになる。
県内の他の弥生時代集落では、鉄器が製作されたとみられる竪穴住居は各集落の中で1,2軒程度しかない。
ところが、加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居の約半数では、鉄器を生産していたことを示す鍛冶炉が複数設けられていた。
生産に関わる道具類と鉄鏃などの製品も出土した。
背景には、水銀朱の生産との関連が考えられる。
これまでの発掘調査で、石臼や石杵といった水銀朱の生産に使った道具類のほか、原材料となる辰砂が大量に出土している。
その流通ネットワークを通じて、当時の最先端技術だった鉄器の製作法とその原料の鉄が持ち込まれたと推測できる。
加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居からは、稀少な装飾品も多数発見された。
この時期の県内の他の遺跡からは、ガラス小玉や凝灰岩製管玉などが数点しか出土していない。
加茂宮ノ前の集落が繁栄していた証といえる。
県内の弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例は、県内では加茂宮ノ前遺跡が初めてだ。
それ以外は鳴門市大麻町の光勝院寺内遺跡、徳島市名東町の名東遺跡、徳島市国府町の矢野遺跡など、いずれも吉野川下流域の遺跡に限られていた。
(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲)
2019年(令和元年)7月 1日 徳島新聞朝刊
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:50:40.82
>>402
碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  倭国(阿波)の分家の分際で頭が高い!  控えよ!   @阿波     
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:55:13.26
>>199
>そこ、倭種であっても、倭ではないことが確定だよね。

それ、九州説の人の大好きな捏造だけれど、大陸から見て意味のある語は「倭」であって、
倭人は倭種の人、倭国は倭人の国ってだけだよ

「皆」倭種なんだから、対馬も壱岐も北部九州も渡海千里の先もみんな倭種だ
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:56:44.54
奥山は畿内の古墳で使われている朱はすべて水銀朱だと思ってたらしい

◆黒塚古墳の朱について
石室内では、粘土棺床が設けられ、断面半円形の全長1メートル以上の刳抜式木棺が納められている。
木棺には中央部の長さ2.8メートルの範囲のみ水銀朱を施し、両端はベンガラの赤色で塗られていた模様である。
水銀朱のところに安置されていたものと考えられている。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 17:59:23.90
>>220
>九州脳では丹は酸化鉄でしかないベンガラww

丹が仙薬たる水銀朱、辰砂だからこそ、倭国の産物として特記されるのであって
ベンガラだったらどこにでもあるものだし、わざわざ書いたりしないってことが、
九州説には分かってないんだよな
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:03:33.81
>>230
>日本人ならば、0.1ヘクタールが1反に近いことを知っているので、

>>231
>お前、知らなかったな? 

ww
尺貫法の時代はともかく、現代で反収といえば、10アール当たりの収量だよw
「0.1ヘクタールが1反に近い」じゃなくて、10アール=0.1ヘクタールを一反としている
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:03:36.34
伊勢神宮で天皇皇后両陛下の「親謁の儀」が外宮で執り行われた。 明日、内宮で執り行われる。

やはり、外宮が優先か。

「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。   


こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:07:26.26
>>758
>ホケノ山古墳
「棺の北寄りでは内行花文鏡の小さな破片が見つかっているほかに<

それは、鏡片の事だから、ホケノの主が、
九州倭国の王からの「東征毛人五十五國」の将軍らに下賜された鏡片であった事を示す。

>遺体などに
 かけて魔除けにしたとされる水銀朱が厚くたい積していた。」
椿井大塚山古墳
「石室内には朱が塗られ、粘土床には10キログラムを超える水銀朱がまかれていた。」
桜井茶臼山古墳
「水銀は、石室内への大量の塗布が確認されている水銀朱が、木棺内にも塗られていた可能性を示す。」
「鉱石を粉状に磨り潰して水に溶かした水銀朱で、類例を見ないほど多量な、
 少なくとも200キロ使われたと推定されている。」<

東征軍が、自分の墓のために水銀を持ち運ぶような事は有り得ないから、
それらは、東征将軍らやその部下らが、
阿波や現地の奈良付近で在地の被征服民から取り上げた水銀をつかったんだろう、
という事になる。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:07:26.26
>>758
>ホケノ山古墳
「棺の北寄りでは内行花文鏡の小さな破片が見つかっているほかに<

それは、鏡片の事だから、ホケノの主が、
九州倭国の王からの「東征毛人五十五國」の将軍らに下賜された鏡片であった事を示す。

>遺体などに
 かけて魔除けにしたとされる水銀朱が厚くたい積していた。」
椿井大塚山古墳
「石室内には朱が塗られ、粘土床には10キログラムを超える水銀朱がまかれていた。」
桜井茶臼山古墳
「水銀は、石室内への大量の塗布が確認されている水銀朱が、木棺内にも塗られていた可能性を示す。」
「鉱石を粉状に磨り潰して水に溶かした水銀朱で、類例を見ないほど多量な、
 少なくとも200キロ使われたと推定されている。」<

東征軍が、自分の墓のために水銀を持ち運ぶような事は有り得ないから、
それらは、東征将軍らやその部下らが、
阿波や現地の奈良付近で在地の被征服民から取り上げた水銀をつかったんだろう、
という事になる。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:07:36.68
>>283
>旧国 『延喜式』出挙稲数(束)

何度教えても、九州説は時系列という言葉を理解しないww
平安時代の資料を出してきてもしょうがないだろう

古墳時代に土木技術が進歩して、それでやっと筑後川下流域で
水稲稲作ができるようになったのにw

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7240.html 地域別人口の超長期的推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7242.html 地域別人口規模の順位の変遷
鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃って
シェアを拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、やはり
揃って地位を低下させている。ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を
凌駕する人口扶養力を養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」

『この5地域は平安前期には、やはり揃って地位を低下させている。』

この「平安前期に地位を低下」させた後の資料をドヤ顔で繰り返しコピペする九州説が哀れだ
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:08:39.48
>>406
この丸木舟つくる動画はOKだよ。
あとは砥石で擦って表面仕上げすれば出来上がりだよな。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:09:39.37
>>759
>魏志倭人伝という文献には「其山有丹」と書かれていて、
倭国の山から丹・辰砂・水銀朱が産出するって書いてあるんだから、
倭国産の朱じゃなければ、文献に該当しないっての! <

倭人伝には「倭国の山から辰砂・水銀朱が産出する」なんて書かれていないの。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:10:54.28
>>387
>これだな 巻向擁護もいいけど報告書すら読んでなキナイコシの嘘は✖

「報告書すら読んでな」
「嘘」
とか決めつけるが理由を一切書かない

九州説が苦し紛れの言い訳の代わりに
ただ罵って誤魔化しているようだ

九州説信者の異常性が際立つ投稿だな
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:13:03.93
そもそも倭人にベンガラと水銀朱の区別はついてたのだろうか?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:15:19.38
4世紀初旬と思われる北九州の城野遺跡では中国産の水銀朱が大量に使われていたね。
大和産でないのは何故だろう?
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:15:39.86
>>332
>末期症状だ

ザラゴキに引き続き、連続句読点も他人とコミュニケーションが取れないレベルに
落ちてるからな

まあ、連続句読点もザラゴキも畿内説スレをただ埋めることだけを目的に
しているのだけれど
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:21:08.15
>>338
>つまり、砥石の摩擦面の形状の違いは、対象物体との硬度の比較の問題でしかない、

だから、いくら砥石で板を削っても、砥石は平面にならない訳だ
もともと、砥石で木を削って板材を作れたはずだとかいう九州説の大バカ発言が元ネタなんだから、
>>338はその九州説のやつを根底からバカにする書き込みでしかないな
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:21:34.37
>>762
>多分お前はもの知らずだから知らないだろうが、日本で最大の前方後方墳も
奈良盆地にあるんだよ
つまり、奈良盆地は天神(前方後円墳地域)と地祇(前方後方墳地域)両方を
傘下に入れた王の土地なんだよ <

多分お前はもの知らずだから知らないだろうが、
中国史書群には「南→東」とかは書かれていないし、
「正北抵新羅」と書かれているから倭国は北部九州にあったのであり、
「東征毛人五十五國」や「日本国者、倭国之別種也」などと書かれているんだから、
大和は、九州倭国の東征で征服された旧小国であり、
天神は九州であり、大和は地祇の一つであり、
前方後円墳も前方後方墳も、東征将軍らが、被征服民らに造らせた墓なんだよ。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:22:18.36
>>389
その話の続きはザラコクとしろよ。
俺は>>131の馬鹿なレスにツッコミ入れただけ
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:23:20.54
>>384
>木材は石で縦方向に擦っても削れない

406にアップされている台湾から沖縄への渡海で使われた丸木舟の製作動画をみれば、石斧で粗板や粗矢板を作るのはごく普通にできそうだ。
その粗板の表面仕上げと下部の尖り部分の仕上げは砥石で十分OKだろう。
鉄器がなくても矢板を石器で作ることは十分可能だということだな。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:25:49.28
>>418

その表面仕上げをする前に必要な石斧が
弥生時代中期後半に畿内や東海、南関東では遺棄されていると説明している
これは日本の学者の研究なので
お前達の人種が納得しようがしまいが我国には関係ない
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:26:29.39
>>422
>4世紀初旬と思われる北九州の城野遺跡では中国産の水銀朱が大量に使われていたね。
>大和産でないのは何故だろう?

これか

九州最大級の方形周溝墓(弥生時代終末期=約1800年前)と、赤色顔料(水銀朱)が多量に塗られていた箱式石棺。城野遺跡の存在は何を意味するのか。

答え出てるわ
「大和政権と仲良くならず、勢力は衰退していた」と同市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室の宇野慎敏学芸員は話す。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:29:14.06
ウサギが出てきて・・・(鏡)不思議の国の〜?
なぜか老婆談と同じw
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:30:34.93
>>428

お前だけ砥石で作れ
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:31:29.12
>>411
>奥山は畿内の古墳で使われている朱はすべて水銀朱だと思ってたらしい

畿内の古墳で使われている朱はすべて水銀朱だが
頭は大丈夫なのか?
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:36:42.88
>>395
>畿内説の妄想は続くネ 
>その木材で大量に作ったのが土木用の古墳造営に使った工具なのだろうなww
>都市建設に作ったなら都市としての遺物がたくさん出てもいいが
>巻向は未完成の王都なのだろうな・・巫女や兵が入植できないはずだww

なんだこれ?
九州説は他人と話の通じる文章が書けないのか?
ぐちゃぐちゃで意味わかんないぞ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:38:26.50
>>433
>畿内の古墳で使われている朱はすべて水銀朱だが

そのすべての水銀朱は、「若杉山辰砂採掘遺跡」産の水銀朱。  わははははは   @阿波
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:38:47.22
老婆談


母親(当時、結婚した人物。わかりやすく言うと嫁?)が、
ウサギを飼っていた。

自分で餌(野菜)などをあげたりして可愛がっていた。

突然、いなくなっていたとかw?
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:42:13.82
組み合わせ式木棺は、縄文晩期後半に北部九州にもたらされたとされている。
板を長方形に組み合わせて棺をつくるのが組み合わせ式木棺。
とすれば、板を作る技術はこの時期にはすでにあったということだ。
その板の表面はちゃんとした平面に仕上げられているわけだから、粗板をちゃんとした平面に仕上げる道具が縄文晩期後半にはあったということだな。
この時代には列島には鉄器はなかったから、粗板を平面に仕上げる道具は砥石しかないだろう。
つまり、矢板なんかは石器だけで作れるということだ。
纏向大溝や登呂の矢板は、石器だけで作れたんだよ。
しかし、大和説者は、縄文晩期後半の組み合わせ木棺は鉄斧で作ったと言い張るんだろうな。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:46:45.19
>>364
>大量の砥石が鉄器研磨のために用いられたと言いながら、
>その大量の砥石が鉄器過疎地域でみつかっていることとの矛盾

簡単ww
鉄過疎地域というのが間違いだというだけw
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:48:17.15
>>398
それはない、紀伊半島のは殆どが露呈していたのを使用した物としか考えられない。
皆近所が後々水銀朱鉱山になる場所だし、
吉野や宇陀辺りからの河川流域に存在している。
極端な阿波贔屓は結局九州説と同じ間違いをしてしまうだけだぞ。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:50:22.09
>>437

>粗板を平面に仕上げる道具は砥石しかないだろう。

磨製石斧やその一種の石鑿
そう思うのはお前が反日朝鮮人だからだよ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:50:34.47
阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。
(1)石棒
今までになく、広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、徳島市三谷遺跡が、その一大製作遺跡であると考えられている。
分布範囲は、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県にいたるまでの広域で認められている。
(2)柱状片刃石斧
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など)
・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。

第2回 青石の考古学
 講師:中村 豊 氏
    徳島大学大学院 准教授
 日時:平成28年6月25日 土曜日 14:00〜16:00

配布資料より、一部抜粋



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:51:13.94
>>397
>削れるよ 古代の遺跡で立証されてるよ

削れるな、溝が彫れるww

板材は作れないよww
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:52:15.13
>>441
>それはない、紀伊半島のは殆どが露呈していたのを使用した物としか考えられない。

君がそう思いたいだけ!  わははははは   @阿波
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:54:25.88
>>432
437を見てから言えばよかったのにな。
弥生中期には東日本に鉄器が普及していたし、大和にも鉄器が普及していて、纏向大溝の矢板や登呂の矢板は鉄器で作った説は、妄想以外のなにもんでもないということだよ。
やはり、卑弥呼の邪馬台国は大和にあった説がそうした妄想を生み出しているということになってくるな。
もう、日本の歴史をめちゃくちゃにしている元凶が大和説だということだ。
なんとかしろよ、その妄想オツムを。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:55:50.94
>>404
>簡単 木材を伐採する時石だよ
>これ縦目だし、ネ  

こいつ、木工の知識ゼロだな

「木口」って言葉知ってるか?
横引きと縦引きの区別は?

普通に縦目という場合、木目に水平にという意味だぞ?
意味も分からずに議論に口を挟んでも意味のあることが言えるはずがない
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:56:41.09
>>441
>皆近所が後々水銀朱鉱山になる場所だし、

ずっと、後々にね。  わははははは   @阿波
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:56:56.63
大和説のなんと無知なことよw
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:57:44.57
>>417
>あとは砥石で擦って表面仕上げすれば出来上がりだよな。

だがしかし、砥石で擦って表面仕上げをする工程なんて存在しないんだww
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:58:22.44
>>445
では紀伊半島の各地で見られる水銀朱精製の材料は阿波産である、と主張すればいいのでは?
笑われるだけだろうな。
阿波の水銀朱は大半が四国南部、もしくは中国に流れる、と思うけどね。

そもそも邪馬台国は阿波ではないから無関係な話だw
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 18:59:01.00
>>441
>吉野や宇陀辺りからの河川流域に存在している。

それならなんで、紀伊半島の沿岸部に水銀朱の精製跡が在る訳?  わははははは   @阿波
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:00:52.84
頭の悪い奥山が、朝鮮人のDNAを所持していることが、このスレを通して、明確になりつつ、あるのだな。。。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:02:09.32
>>452
もしかしてアホ?いやかなりバカだな。
河川は当然流通経路だぞw
最近も巻向と新宮辺りの交易が証明された出土があったのだが。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:03:26.90
>>451
>阿波の水銀朱は大半が四国南部、もしくは中国に流れる、と思うけどね。

あのねぇ〜、なにも「水銀朱」だけじゃないんだよ、倭国(阿波)から畿内へ行ってる物は!  もうすこし、勉強してごらん。  倭国(阿波)のすごさが分かるから。   @阿波
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:03:38.56
今の九州説の大半が朝鮮人工作員なのはもうバレたんだよなw
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:05:52.99
畿内説は引きこもりだから歴史音痴どころじゃなくて、重症の世間知らずだよなw
さすが奈良人w
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:06:06.51
仏教・・・?確実に、そういう話。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:06:46.16
>>455
>河川は当然流通経路だぞw

だからなんで、吉野や宇陀辺りで精製せずに、わざわざ紀伊半島の沿岸部で水銀朱の精製をする必要があるんだい?  わははははは   @阿波
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:09:56.14
それでも、殺戮を止めない某(?)の話と同じ、
何なんだろう
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:12:04.60
>>458
オラ九州説だが、対馬海峡を挟んで狗邪韓国は倭人領土だと思う

オメー畿内説はどう思うんだ?
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:12:06.52
煽ることでヒントをクレクレするのって2ch→5chでは昔からの手法だよね
わざわざ、わははははなんて書くのは煽りでしかないよね
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:12:38.38
岐阜県大垣市の荒尾遺跡の弥生前期層から組み合わせ式木棺が出土して、サイトにその写真がアップされているが、
その写真をよくみると、底板には幅20cmくらいの平面の長い縦溝が何本も見える。
この平面の縦溝は鉋で削ったように見えるほどだ。
弥生前期に鉋があるわけないから、当然長方形の砥石で削ったものだろう。
つまり、粗仕上げした板の表面を砥石で削って平面に仕上げたということになる。
纏向大溝の矢板、登呂の畔の矢板は、石器で作ったものだよ。
なぜなら、纏向や登呂では鉄器は出土してないからだ。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:13:47.23
阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。

(1)石棒
今までになく、広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、徳島市三谷遺跡が、その一大製作遺跡であると考えられている。
分布範囲は、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県にいたるまでの広域で認められている。

(2)柱状片刃石斧
弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など)
・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。

第2回 青石の考古学
 講師:中村 豊 氏
    徳島大学大学院 准教授
 日時:平成28年6月25日 土曜日 14:00〜16:00

配布資料より、一部抜粋



こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:14:14.05
松傾の登場は奥山のギブアップサイン
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:14:16.17
属国からの献上品である水銀朱なんて何の意味も持たないのに
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:15:32.22
その昔話(あと老婆談w)とは違う人物がいたんだろう、
その後も、殺戮を続け〜みたいな人物。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:17:41.84
伊勢神宮で天皇皇后両陛下の「親謁の儀」が外宮で執り行われた。 明日、内宮で執り行われる。

やはり、外宮が優先か。

「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。   


こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:17:52.26
>>464
当たり前だよ、新羅も元々は倭人が建国している。半島の半分は倭人抜きには語れない。
勿論俺は200%畿内説一択だぞw
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:19:36.20
頭の悪い奥山を例にすると、畿内人は倭人ではなく、ワイ人だったので、あるな。。。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:20:00.90

字源
会意形声
「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%BC%8A

水銀朱は伊都国だという主張にはなるけど、邪馬台国だという主張の根拠にらならないんだぜ
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:23:48.17
GSOMIAの破棄を決定した、頭の悪い奥山の祖国は、この先生きのこって、いけるのだろうか。。。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:24:59.34
>>450
>だがしかし、砥石で擦って表面仕上げをする行程なんて存在しないんだ

466を読んで、それから大垣市の荒尾遺跡の組み合わせ式木棺の写真をググって、そして自分のオツムがやはり程度が低いと理解するんだなぁ。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:26:34.93
>>473
>海人が魔よけや祭祀に使用するからだろ、

奈良の山子が「海人」などと口にするとは片腹痛い。 頭が高い! 控えよ!


マジでバカなのかお前w
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:35:34.59
>>466
それは個人的意見なの?
それとも学者レベルでそういう話がでてるの?
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:35:51.45
アニメのキャラ『ガンダム サングラス』というかガンダム?

日本の話なんだろう
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:36:16.58
>>471
>やはり外宮が先か

すべて、神道五部書のおかげだなぁ。^^
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:37:30.78
>>464
>オメー畿内説はどう思うんだ?

狗邪「韓」国だよ
韓伝では弁辰狗邪國

倭人も普通にいたし、国境とか国籍とかいう概念のない時代だけどね
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:37:49.45
邪馬台国は倭では最大七万戸の国だからな、少なくとも葛城地方以上の弥生時代の水田跡は今後はデフォになる。
まあ畿内説は既に河内をも含めるからもとから
問題はないからなw
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:41:50.84
>>481
>すべて、神道五部書のおかげだなぁ。^^

倭国(阿波)は、古文献でも遺跡でも古神社でも、証明されている。

行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:43:33.22
>>484
奈良の山子が「海人」などと口にするとは片腹痛い。 頭が高い! 控えよ!


マジでバカなのかお前w
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:45:55.81
まあ九州説、特に東遷説なんてのは朝鮮人の思考そのものなんだからな。
そもそも伊都津彦は半島南部からきた事になっている。
そりゃ九州勢力が畿内を征服した形に拘る訳だ。
畿内説の立場では北部九州は畿内や東国からの中継場所という立場なんだぞ。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:46:54.37
>>442
>磨製石斧やその一種の石鑿

大垣市の荒尾遺跡出土の組み合わせ式木棺の底板の写真をググってみてみろよ。
石鑿でここまで平面に加工できんよな。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:50:17.98
>>440
>鉄過疎地域というのが間違いだというだけ

古代史ファン必見の弥生時代鉄器分布地図を見てから言うんだなあ。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:51:26.92
>>489
その水田も、「葛城忌部」が灌漑稲作したものだよ。

しかし、弥生の大洪水ですぐにおじゃんになってるけどね。  わははははは   @阿波
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:53:29.03
>>487
で、畿内説の言う邪馬台国の倭人が暮らしていた
模範的な2世紀3世紀の集落とはどこのことだい?
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:56:05.38
>>492

>>487 は孝霊厨氏のようだから、「伊勢遺跡」って言うんじゃないの?  わははははは   @阿波
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:57:30.97
>>485
>何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く

八十八か所巡りの振り出しと上りが阿波で、ぐるぐる回ってるだけ? ^^
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 19:57:37.07
>>482
朝日新聞のコトバンクのパクリ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:00:57.52
>>466
ホンマに見苦しい 詭弁にすらならない妄想を真実だと主張する無能というか無脳だな

>その写真をよくみると、底板には幅20cmくらいの平面の長い縦溝が何本も見える。

よく見るとってww
心眼で見てもだめだよw

>この平面の縦溝は鉋で削ったように見えるほどだ。

見える「ほどだ」
100%主観ですねw

>弥生前期に鉋があるわけないから、当然長方形の砥石で削ったものだろう。

いいえ、単に石鑿で削った跡だよ

>つまり、粗仕上げした板の表面を砥石で削って平面に仕上げたということになる。

平面というほど平面ではない
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:01:00.18
>>494
>八十八か所巡りの振り出しと上りが阿波で、ぐるぐる回ってるだけ? ^^

おっと、「八十八か所巡り」も付け加えるかな。  わははははは

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:03:58.51
>>473
>海人が魔よけや祭祀に使用するからだろ、

海人族の王都は博多湾沿岸。
竜宮城は志賀島にある。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:04:59.29
高天原の天津神が国津神を下して筑紫に天孫族の政権が誕生したというのが出雲国譲りから天孫降臨までの記紀のストーリー。
後期渡来系の海洋民族が、先住渡来系の農耕民族を支配下に置いたということだ。
先住と言っても、水稲を行なっているから弥生人であり、江南など南方の農耕民族だな。
つまりは南方の海洋民族と農耕民族が、時差を持って筑紫に上陸したのだ。
考古学的にも、博多湾沿岸には多くの文化が流入し、複数の氏族が同居していて、ここからさらに西日本や東日本に播種していったことがわかる。
その主役が、海運を担った博多湾沿岸の海人族だった。
彼らの所在地の一つが高天原であり、原が九州では集落を意味する語であることを考慮すると、海の都という意味かもしれない。
それは長年にわたり国家的規模の祭祀が行われた沖ノ島かもしれない。
高天原から筑紫に降臨する天孫を守護したのが宗像だったのも、高天原を沖ノ島、降臨した筑紫の日向を福岡市西部と考えると地理的な整合性も高い。
高天原から筑紫に最後に降臨した天孫族は、代々にわたり志賀島の海神と婚姻関係を深めていく。
高天原は綿津見の竜宮城とも意味が通じている(同じものだというわけではない)。
おそらく、博多湾沿岸には何波にもわたり渡来人が入植したのだろう。
海人による倭国の建国こそ、玄界灘沿岸を起源とする弥生文化成立の本質であり、記紀伝承の主眼である。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:05:15.74
天津国

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
これは倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
天津神(天皇家の祖先)が治める天津国すなわち倭国は対馬海峡にあり、王都は後漢書では倭奴国、記紀では筑紫の日向、すなわち博多湾沿岸とされている。
倭国女王であった卑弥呼の王城も筑紫に求める他ない。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:07:38.25
>>491
葛城の水田跡は洪水の後も復元されてるのだがw
また葛城地方がダメになると二上山の西側に移る、その繰り返しだね。
弥生時代中期に鏡が使われていたのは畿内ではこの二ヶ所だからな。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:08:29.29
邪馬台国よりも凄い話、それでも『殺戮』を止めない・・・とか。

『鹿の恩返し』(仏など教え)よりも後の話でしょ、まだまだ『殺戮』を続ける・・・。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:08:54.10
>>498
>海人族の王都は博多湾沿岸。

その博多湾沿岸の海人族も「阿波の海人族」。   後にも先にも、「忌部一族」しか存在しない!   @阿波
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:11:13.06
>>501
>葛城の水田跡は洪水の後も復元されてるのだがw

それを復元したのも「葛城忌部」  だと、何度言えばw   @阿波
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:16:04.94
>>488
>大垣市の荒尾遺跡出土の組み合わせ式木棺の底板の写真をググってみてみろよ。
>石鑿でここまで平面に加工できんよな。

お前の言っているのは、これのことか?
https://i.imgur.com/BisVK6m.jpg

縦溝に見えるのは木目だぞ?
そして、こうした板材は木口に楔を並べて打ち込んで、板割りで作る

纏向大溝の矢板と平面性が全然違うじゃないか
https://i.imgur.com/EaD9Ol5.jpg

こうやって、具体的な資料が出されるとすぐに嘘とばれるのが、
九州説のデフォだなw
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:17:27.51
>>495
>朝日新聞のコトバンクのパクリ

パクリも何も、まともな思考能力のある人間なら、これ以外の結論にはならないぞww
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:21:41.02
>>501
>また葛城地方がダメになると二上山の西側に移る

つまり、河内(西側)と大和(東側)は一体運用なんだよね
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:22:55.23
>>493
伊勢遺跡なんて祭祀場所だろう。
倭の海人が居住していた場所なら畿内説の場合、河内湖周辺から摂津、馬見丘陵、矢田丘陵辺りも候補になる。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:22:59.41
砥石で木を擦って板を作るっていってたやつ、逃げて消えるぞw

そして、そのあと連続句読点だけが意味もなく荒らしコピペを張り続ける
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:25:43.16
>>504
それは全く違うね、忌部の仕事ではないぞ。

葛城と河内南部は地名の共通点も多いからな、それは後々飛鳥にも通じる話。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:30:11.47
まあいくら阿波推ししてもムダ、
阿波なんて剣山周辺から散々調べつくしてるが邪馬台国の可能性はゼロだ。
倭の先導的、重要な場所ではあるが邪馬台国ではない、それだけの話。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:31:13.19
>>508
畿内説は根拠のない妄想ばかりw
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:42:42.22
>>511
>阿波なんて剣山周辺から散々調べつくしてるが

阿波なんて、遺跡発掘後進県だよ。  その遺跡発掘後進県にして、この綺羅星のごとくの遺跡群! わははははは   @阿波  
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:56:49.65
巻向に魚やカエルの骨が残った理由は、糞尿の溜まったアルカリ性の場所に棄てられたという以外には、どのような可能性も無いのだという真実から、討論の議題を、逸らせることは、邪馬台国畿内説の敗北宣言なのだったね、、
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 20:57:38.35
巻向に魚やカエルの骨が残った理由は、糞尿の溜まったアルカリ性の場所に棄てられたという以外には、どのような可能性も無いのだという真実から、討論の議題を、逸らせることは、邪馬台国畿内説の敗北宣言なのだったね、、
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:00:18.43
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するためのテンプレートを、完全に論破されて叩き潰された、朝鮮民族の奥山氏が、元気を失ってしまったな、、、
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:01:00.18
どすこい、どすこい、
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:02:04.01
最近の宇宙線観測で、アンビバボーエナジーが観測されたので、優れた学部が異様な雰囲気になったとき、考古学の分野のくだらない物事がついでに破綻したのだったな。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:06:37.20
朝鮮民族の奧山氏は、現代人の食生活を引き合いにして、嘘つき騙しをしたが、1反という言葉の意味を知らないことを公表してしまったので、
何度でも複製を貼り付けて、笑いリラックスすれば良いな。。。

183日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:07:06.01
鉄は消えて無くなるのに、桃の種は残るらしいな
都合良すぎやろw
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:07:36.87
連続句読点って、邪魔することだけ、荒らしだけを目的にしてるよね?
もう九州説なんて同でもいいってのが態度に出てるw

こういう無駄な粘着質って日本人の感性じゃないんだよなぁ
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:07:52.25
奥山氏、、、はっけよい、はっけよい、、
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:10:28.23
>>520
>鉄は消えて無くなるのに、桃の種は残るらしいな
>都合良すぎやろw

鉄は錆びて朽ちてしまえばなくなってしまうのは理解できたのか?

桃核のような、硬い木質部分は酸素の少ない環境で水に沈んだ状態(地下水面より下)なら
相当長くもつよ

自分で実験してみればすぐに分かるのに

実体験の少ないボンクラだと分からないのかね?
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:12:30.27
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するためのテンプレートを、完全に論破されて叩き潰された、朝鮮民族の奥山氏が出現したが、反論を諦めて、討論の世界では敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな、、、

521日本@名無史さん2019/11/22(金) 21:07:36.87
連続句読点って、邪魔することだけ、荒らしだけを目的にしてるよね?
もう九州説なんて同でもいいってのが態度に出てるw

こういう無駄な粘着質って日本人の感性じゃないんだよなぁ
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:16:40.30
奥山氏は、何度も論破されても、鉄元素が消滅すると言い張るので、笑いリラックスさせてくれるのだったな、、、
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:19:26.34
開拓前の巻向の掘立柱広場は、沼地だったのだろうか、、それとも、森林だったのだろうか、、
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:20:11.13
>>519
>何度でも複製を貼り付けて、笑いリラックスすれば良いな。。。

こういう何の実りもないことを繰り返しやる昏い情熱はどこから来るんだろう?
自慢の国立大学に通う孫は、こんな頭のおかしい爺の活動を知ったら軽蔑するんだろうなw
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:22:05.34
>>526
奥山氏は、開拓前の巻向の掘立柱広場は、無機質な溶岩台地や砂漠だと考えているのではないのかな、、、
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:23:24.76
奥山氏が、討論を諦めて、敗北宣言を繰り返すだけになってきたな。

527日本@名無史さん2019/11/22(金) 21:20:11.13
>>519
>何度でも複製を貼り付けて、笑いリラックスすれば良いな。。。

こういう何の実りもないことを繰り返しやる昏い情熱はどこから来るんだろう?
自慢の国立大学に通う孫は、こんな頭のおかしい爺の活動を知ったら軽蔑するんだろうなw
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:24:03.84
朝鮮民族の奧山氏は、現代人の食生活を引き合いにして、嘘つき騙しをしたが、1反という言葉の意味を知らないことを公表してしまったので、
何度でも複製を貼り付けて、笑いリラックスすれば良いな。。。

183日本@名無史さん2019/11/22(金) 08:57:15.77
>>171 平均摂取は年間一人61kg
全国平均で1000平方メートルあたり534キログラムの米が収穫
今の農耕技術だと9万平方だと800人弱分の米が作れる

弥生時代はこれよりはかなり少ないだろうけど
100人分てことは無いんじゃないか
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:25:21.11
開拓前の巻向の掘立柱広場は、沼地だったのだろうか、、それとも、森林だったのだろうか、、
0532オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 21:26:02.44
畿内説には真実もロマンもありません。

単なる守銭奴
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:26:20.03
奈良湖
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:27:47.29
天孫族は祭祀と交易の民であり知識に秀で、海人は海運の民として技術に秀でていた
これらの協調が機能して九州において繁栄したのち、農耕では必要性の少ない沿岸に拠点を設けて各地の物産を交易し富の蓄積を図る
実に自然な解釈だね

破壊的侵略の痕跡がすくないのもこの概要で説明がつく
交易ための戦略物資は米ではなく辰砂と鉄であり、中華においてこれらの交易需要が落ち着くのが三世紀後半
祭祀が統治の必要要素から外れて伝統の象徴となるのもこの頃

そこで新しい需要や政治システムを構築する必要があったから技術者を渡来させ、構築物による創造都市の概念が成立したのが畿内ヤマト王権の成立に繋がるのではないだろうか
0535オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 21:28:10.09
開拓前の巻向は銅鐸民族の祭りの広場
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:30:04.60
銅鐸民といえば蛙を食べてたの?
巻向だけ特別?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:33:16.90
>>534
>破壊的侵略の痕跡がすくないのもこの概要で説明がつく

そりゃそうだよ。  「忌部一族」が全国を拓殖していっただけなんだから。  尊敬こそされ、妨害などあるわけないよ。  

だから、各地で「忌部一族」は神様になっている。   @阿波
0539オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 21:46:22.07
銅鐸民族は奈良湖の蛙を食べていました。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:47:09.67
カエルよりはるかにうまそうだぞ。
天然は佐嘉川の神様だが、養殖ならまあいいだろう。川上でも考えてはどうか。

【栃木県小山市】
小山市のブランド認定品「ラムサールナマズ」をカツに調理した「なまカツ」の販売が6日、
道の駅思川の「小山食堂さくら」で始まった。
淡泊な味わいで珍しさもあり、人気を呼びそうだ。

 渡良瀬遊水地が国際湿地保護条約のラムサール条約に登録されたのを機に、市はナマズの養殖に取り組んでいる。
昔から地元ではナマズを食べる習慣が有り、天ぷらに調理されることが多いが、同店は白身魚のフライとして調理した。
単品で275円。ソースカツ丼風の「ラムサールなまカツ丼」は418円で提供する。
0541オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 21:48:21.71
忌部一族はユダヤ人(ふむふむ
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 21:51:31.63
>>541
>忌部一族はユダヤ人(ふむふむ

なら、君もユダヤ人だよ。  わははははは   @阿波
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 22:15:36.69
>>523

九州では鉄が大量に出土するというのに。
奈良盆地が圧倒的な後進地域であったという事実をまだ直視できないのか。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 22:34:03.33
>>543
そのデータ出してみな
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 22:37:24.86
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後

http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 22:40:17.93
>>509
>砥石で木を擦って…

おるぞぉ〜!
アホォ!
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 22:44:58.63
>>542
数年前の、とあるスレの話でしょ。


ロス(ちゃいるど)は朝鮮人、韓国人だったのかw
と言っている人がいたんだけど、それと同じような話なのかな?


むかーしの渡来人(先に渡ってきたりした人々の話)
ロト〜何やらとかゲームがあるでしょ、ドラクエなど。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 22:51:50.28
>>505
>縦溝に見えるのは木目だぞ

アホか。

>纏向大溝の矢板と平面性が全然違うじゃないか

荒尾の組み合わせ式木棺は弥生前期。
纏向遺跡の矢板は3世紀前半。
丁寧に擦り削ったのだろうな。
それに、溝の矢板は川水の流れで擦られて皆同じような平面になったものだ。
みたら分かるだろ。
0549オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:00:34.66
つぶやきはロスチャイルドに興味があるのかw
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:01:10.19
>>496
>詭弁にすらならない

鉄器のない弥生前期に板があったのがよ〜くわかったろう。
鉄器がなけりゃ板は作れないという妄想は捨てろよ。
そして、ついでに登呂も纏向も矢板は石器でつくつたとみとめろよな。
どちらも鉄器が出てないんだから。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:02:14.81
>>545
だが葛城には最大級の水田跡があるのが現実だよw
それに奈良は早くから開けたの忘れてるだろ。
平城京や藤原京の下にも古墳や遺跡があるのもわかってきたからな。
考古学に関しては最新の資料見ないと九州説みたいな早とちりをする。
0552オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:02:22.79
>>542
阿波厨はフリーメイソン


ど、はははは!
0553オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:04:19.00
>>551

鴨厨がきたな
0554オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:06:02.99
佐賀の田んぼの黄金色の稲穂をみるといい

邪馬台国そのものである
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:06:39.82
アマチュアは圧倒的に九州説だと言い張ってるが、大学教授や専門家チームは
畿内説であると確信して最終段階の証拠調整に入ってるようだぞ…
0556オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:08:58.18
>>555
畿内説の守銭奴はどうもならん!!!
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:10:09.74
しかし奈良なんて発掘事情は最悪なのにな。

新幹線も地下鉄もないから全く掘れる機会がないのに。
葛城だってはじめてバイパス造るからわかった話だ。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:10:43.52
むかーしの話だから、どこの起源なのかは「?」なんだけど、
そういう話でしょ

製〜、鍛冶、そういうカミタマを祀っていたり、
正確には日本人ではない?みたいな話ばかりだし
0560オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:15:01.00
>>559
九州説というものは存在しない。

九州にあったという事実であり、説ではない。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:15:31.58
>>765
>そして、九州だけが倭国で、<

違うね。倭国本土は、九州島及びその周辺島嶼付近だ。

>前方後方墳が作られるのは倭種の地という戯言が自分で示した図で破綻している訳だ。<

違うね。列島の前方後円墳の始まりは、
3世紀後半半ば過ぎの筑紫の那珂八幡などが早く、吉野ヶ里の前方後円墳も同じ頃だ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの類スレ主や大和説らって、
思考能力が低くて正確な情報リテラシーが皆無に近いから、
自分の示す根拠が何を意味しているのかきちんと理解できていないんだろうな。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:18:33.75
畿内説が正しいのであれば、九州にも起点を置いていた分家国があったような気もするな…
そこに卑弥呼のような女王代理がいて、わざわざ魏を利用して金印貰った。そんなものは
畿内に移動させてどんどんヤマトがでかくなった。邪馬台国とか信じてしまったのも罠で
ヤマトコクしかなかったんだろどうせw
0563オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:18:49.25
ザラコクは元気みたいだな

考霊厨はこなくなったのか
0564オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:22:03.35
ザラコクの周回遅れはあいかわらずの定番だな
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:25:01.56
>>771
>すっと未確認だし、飛鳥時代になって畿内豪族が九州で丹山を
見つけたって記録まであるから、それまで北部九州で丹の鉱脈は
知られていなかったというのは既に確定事項ww<

朱丹というのは「朱色の顔料」」という意味であり、
丹木や鉛丹という文言が出て来ているから、水銀朱だけだ、とはならないし、
丹木も「顔料が造れる植物」という意味にもなりそうだし、
丹山も、丹木やベンガラなどの顔料が採れる山、という意味である可能性もある。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:28:37.71
畿内説はとことん古代人を舐めてるよな
ちなみに方角も間違えたりしないから
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:35:24.77
板についてだが、福井県三方町の縄文前期の遺跡である鳥浜貝塚では多数の木製品が出ている。
それらの木製品のうちには杭材、割材のほかに板材も出土している。
また良好な残存性のある櫂も出ている。
この櫂の水かき部分の平面は、明らかに砥石で擦り削ったものだ。
砥石以外の道具は考えられん。
時代は縄文前期だぞ。
しかもこの櫂の柄の部分も砥石で擦り減らして行って細く成形してある。
木材を石の楔で割り裂いて、その粗板を砥石で擦って板や柄にまで仕上げる技術は縄文前期にはあったということだ。
つまり、纏向や登呂の矢板が作られるまでに板を作る技術は長〜い間保持されてきたということだな。
0568オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:35:46.07
畿内説は方角や距離を勝手にかえるしな
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:36:26.39
>>780
>で、奈良葛城に匹敵する水田跡を早く見つけないともう後がないぞ、九州説w
ここは鏡と銅鐸が同時に埋められていた、倭でも唯一、しかも秋津島という日本史でも
最重要地なんだからな。 早く見つけないともう後がないぞ、九州説w <

葛城は、やはり出雲銅鐸祭祀部族の一つであり、
欠史八代の頃は、九州倭國の「大倭」職の国と(婚姻によって?)共存していた。
鏡は、半島から出雲経由で入って来ていたし、
米作は、おそらく九州倭国の東征軍らが齎した。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:49:25.65
>>798
>この三点に合理的な説明ができない限り、同じ奴国(福岡平野)が二回出てくると
いうのは明確な間違い<

最初の奴國が福岡平野、って言うのが間違い。
最初の奴國は、日向峠西麓の平野部〜早良平野部。
二回目の奴國は、陳寿は当然「同名異国」のつもりで書いている。
可能性があるのは、南の狗奴國のすぐ北側の筑後の国か?、
最初の奴國の分国として、背振山地の南側の吉野ヶ里も、
可能性がある。
0571オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:52:25.76
奴国が二回でてくるということは周回したということ(東周り、西周りで奴国

倭国の周旋は5千里
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:54:04.26
>>805
>合理的な説明なんて倭人伝の行程記述ではそもそも無理だろw
基本的にマツラに渡る方角さえ書かれてないんだからな。
ただ何となく南で定着してるが、地理に関しては全然合理的な説明全くない。<

「マツラに渡る方角」は「亦南北市糴」と書いており、
「ほぼ南」だな?と判る。
0573オレンジ・エア
垢版 |
2019/11/22(金) 23:54:56.73
吉野ヶ里は女王国
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/22(金) 23:59:34.33
>>809
>ショボイのはその九州脳w
水銀朱使用量は国内最大なんだがw <

それが事実なら、古代に九州に大量に採れたか?、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの「大倭」職が監督した「市」を介して、
九州へ搬入されたんだろうなあ。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:06:50.45
>>822
>黒塚古墳の朱
「木棺には中央部の長さ2.8メートルの範囲のみ水銀朱を施し、
両端はベンガラの赤色で塗られていた模様である。
水銀朱のところに安置されていたものと考えられている」<

黒塚が、九州倭国の「東征毛人五十五國」で大和入りした将軍らの中の一人であった、
という事が見え見えだな。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:22:19.94
>>829
>こうやってレベルの違うものをごっちゃにして、
間違いを認めずにやり過ごそうとするのが九州説の姑息で卑怯な手口w<

こうやって、「南→東」などの人類の常識知らずの嘘吐き騙しをして、
間違いを認めずにやり過ごそうとするのが、類スレ主や大和説者らの姑息で卑怯な手口

>魏志倭人伝の地誌・旅程記事は現実の地理とは合致していないが、<

合致している。

>余傍国最後の女王国の境界尽きるところの奴国を同じ国と見る読み方は明確に間違い<

これは賛成。陳寿は違う国だとした書きをして、書き分けている。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:26:16.50
>>830
>「犬山天神山古墳」<

「南≠東」などに拠って、×。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:31:08.24
>>838
>伊都国から100里の距離の奴国は早良平野だな。
大集落が8つ程ある。<

ふーん、成程。
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:38:34.56
>>856
>纏向石塚古墳 3世紀初頭 <

石塚は、卑弥呼や壹與の後の那珂八幡などより更に後の3世紀末だから、×。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:42:53.66
>>857
>平原1号は200年頃で卑弥呼の遣使よりも
数十年前に死んでるから関係ない <

平原1号から、21枚もの「尚方作」の方格規矩鏡が出ており、
明帝の下賜鏡が元になった、という事にしかならないから、
卑弥呼の死以後の墓であり、だから、×。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:49:09.35
>>873
>それは正しい、鬼道使いが祀りを行っていた
証拠だからな。<

「南≠東」などに拠って、×。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:57:50.56
魏志倭人伝に書かれている記述があまりにも膨大過ぎて、九州北部なんかじゃ
収まり切れない規模の話だろ、これww
近畿説でしか説明出来ない。たまたま外交用である九州の支配国に
邪馬台国の誰かが来ていて魏の使いに内部事情を説明してたとしたら・・・
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 00:59:53.14
GSOMIAを破棄出来なかった、頭の悪い奥山の頭の悪い祖国は、0点を回避し、1点を獲得出たので、良かったのでは、ないのかな。。。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:02:17.34
>>895
>これが庄内3式土器の編年を与える<

プラズマ化などの失敗により、50〜100年後になる。

>纏向石塚古墳は庄内1式だから、どうやっても3世紀前葉より後ろにはならない
纏向石塚古墳はその当時、日本列島で最大の墳丘墓だ <

撥型前方後円墳の石塚は、卑弥呼や壹與の墓の後の「那珂八幡」などよりも後になるから、
3世紀末頃であり、「3世紀前葉」説は×。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:07:36.71
>>897
>そして、九州北部に飛び地のように前方後方墳の有力者の墓があるんだよね!<

前方後方墳部族の「東征毛人五十五國」将軍らの出発地の国であったんだろう。

お前、バカだろ?、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者や類スレ主らは。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:08:15.34
>>582
>魏志倭人伝に書かれている記述があまりにも膨大過ぎて、九州北部なんかじゃ
収まり切れない規模の話だろ、これww

仮に畿内まで話を膨らませても、畿内説の証拠とやらは
全く倭人伝をフォローしてないから意味がないよ
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:12:28.86
>>925
「南≠東」などの人類の常識に全く反論せずに
「間違いだ」と連呼するって、思考停止した感情的拒絶だよな

だから大和説は話にならない
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:15:40.94
魏の顧問団が卑弥呼に会って話したとは一切書いていない地点で
九州の支配国の何処かに招いて邪馬台国の話したんだとも解釈出来るな
よって畿内説が正しい見方ではあるまいか。卑弥呼は畿内に居て忙しいから
会えない事情があったんだよw
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:16:38.46
都市形成の過程における環濠集落の次のステップが
ニキビみたいにポツポツできた奈良のムラのわけがない

拠点集落同士が統合されていって環濠を持たない巨大なクニが
できたのが博多や伊都国
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:17:07.47
>>936
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、ドコをどう頑張っても
文献考古の史料事実や史料実態を完全粉砕でもしないことにゃ
完全に打つ手ナシの敗北コースなわけで
おまけに文献解釈でも
伊都国の「東南」もダメ、「会稽東治之東」もダメ、投馬国が「女王国以北」もダメで、
これらがデタラメ解釈でしか対応できてないんだから
「大和説すでに死す」は間違いない話だよ
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:19:10.42
>>588
卑弥呼の宮殿の特徴を記録して、卑弥呼の年齢にまで言及しとるがな
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:19:10.62
>>939
>九州説に残された道は発狂だけ<

「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者やスレ主に残された道は、発狂だけ。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:20:09.12
>>589
いやいや、邪馬台国の場所が奈良じゃなかったとしても超巨大な国家があったのは
間違いない。なんて事を言うんだ君は…
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:22:00.32
>>591
そんなの口頭の説明だけでも書き込めるではないかw
しかし、卑弥呼に会って話した記述がまったくない。なので、そこが
邪馬台国であったかも疑い難しw
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:22:34.09
>>946
「南≠東」などという人類の常識を、
どうやって「説明」した?

また説明不能か
これだから大和説は見捨てられたんだよ
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:24:52.35
博多や伊都国には環濠集落は最初から無い
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:26:09.17
>>950
>弥生時代前期最大級の水田が御所で発見 <

弥生時代前期の「宮殿」が吉武高木で発見。
御所や葛城は、出雲系銅鐸祭祀部族の地。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:34:42.72
>>593
結局、畿内説の本音は強くて大きい大和王朝があったと言いたいだけ。
そのダシに邪馬台国を利用している。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:35:51.70
>>596
板付遺跡、今宿五郎江遺跡
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:37:29.73
>>588
女王の人となりを伝えているのだから、会わなかったなどということはない。
畿内にいたのなら、わざわざ伊都まで出てこなければいけない。
郡使は伊都に滞在し、その先はせいぜい不弥国までしか足を伸ばしていない。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:38:49.86
>>594
>卑弥呼に会って話した記述がまったくない。

倭人伝に誰かと会って話した記述など無い
魏の役人は誰とも会ってないのかな?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:39:21.93
邪馬台国が何処にあったかの論争よりも、卑弥呼が何者だったかの方が知りたいw
どう考えても、天照大神だろ。後世に伝えられた伝説が卑弥呼の生きた証を神化して
伝えられたと考えられる。そう考えたら、ヤマト王権と邪馬台国が別物とは考え難いw
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:39:22.03
>>562

畿内説が苦し紛れにどう言い訳するのか、そのバラエティーを楽しむスレですか?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:41:07.19
>>551
>それに奈良は早くから開けたの忘れてるだろ。

畿内説は事実から目をそらして妄想ばかりだな。
海運国家であった倭国の恩恵を受けることができない内陸の大和は、ずっと後進地域だよ。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:42:55.14
>>955
>北部九州では水稲栽培の計画的で大規模な水田開発が遅い<

菜畑や板付?。

>人間の生活に必要な塩も島国日本では
縄文時代に既にやっている製塩が西日本でもっとも遅い<

土器に海水を入れて煮沸すれば簡単に手に入る。

>縄文文化圏から遠いために社会の成熟度が遅れている<

燕の南の倭人や呉王夫差の遺民が渡来して来て、列島では最も早く成熟した。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:45:29.99
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
この図の説明で寺澤は「3世紀後半に畿内と九州北部の鉄の出土が逆転する」ようなことを述べているが、図をよく見ると全くそんなことはない。
依然として九州北部は古墳時代に突入しても圧倒的な国力を維持していた。
それなのに寺澤の言葉だけを鵜呑みにして強がっているのが、このスレの畿内説だ。
いい加減にデータと真摯に向き合えよ。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:56:29.04
>>590
九州説の人って倭人伝とか読まないんだね
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:58:09.74
前方後円墳

全国的には、徳島県の萩原一号墳や鳥取県南部町の浅井11号墳、福岡市博多区那珂1丁目の那珂八幡古墳など
3世紀の前方後円墳が多数ある。近藤義郎によれば、全国の前方後円墳を築造された時期別に
畿内編年の1期から10期の10段階に分けて整理すると、最も古い1期でもっとも多いのは筑前(福岡県北部)で9基、
第二位が播磨(兵庫県)で8基、第三位が大和で6基、以下備前、美作、備中(岡山県)、讃岐(徳島県)となっている。
さらに朝鮮には3世紀に石積みながら前方後円墳が多数ある。
以上から、畿内が前方後円墳の発祥地とは言えない。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:58:23.02
>>962
>稲作だけでは埋められない、富を生む力が三世紀の倭国を急激に発展させた
この富を生むために海人たちにより拠点の移動が行われた 、

「東征毛人五十五國」があった。

>一番にあげられるのは辰砂で、中華文明の価値観的に最上位の物産だったのは確実
当時の中国で秘術だった鍍金技術に大量の水銀が必要だったし、
倭国が執拗に交易を求めてかつ認められたのはこの辰砂鉱脈の発掘成果が認められたからだろう<

倭人が必要として使ったのは「顔料としての丹」であり、水銀朱は不明であった。

>この中で本州において最高に拠点として相応しかったのが奈良であり、
交易を重視した天孫と海人が九州、四国と渡り合った末に
奈良に行き着くのは必然でもある<

奈良へも行ったのは、東征毛人五十五國」の軍。

>単なる古墳造営地ではなく、戦略的に拠点とするため選ばれたと考えるべきだろう<

出雲銅鐸祭祀部族の地であった大和は、阿波と同じく、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の征服地であったんだろう。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 01:58:47.22
ヤマト王権が日本を越権する事実に目を逸らしてるだけだ、そんなデータはw
鉄の矢じりの数?鉄製品が大量に出土したのは、愚かな貧民国に九州が多いのは
当たり前w 裕福な近畿は戦争など無かっただけだよ。倭国大乱の舞台は九州だろw
邪馬台国はヤマト王権の最大の国家だよ。九州も倭の国として統治しなきゃいけないから、
九州の支配国と協力して倭国大乱を収める事に協力しただけだよ。
その統治していた支配国の場所が北九州にあったんだよ。姉妹都市という事かなw
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 02:04:51.44
>>606
九州が落ち目なの、わかる?
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 02:05:58.45
>>1000
>邪馬台国の時代には弥生的な大集落が解体して 「模範的」「代表的」な集落はなくなる
唐古鍵は逆に特殊な集落というわけだ
2世紀までの「集中型」弥生集落は名前がわかるが
邪馬台国時代の「散開型」集落は無数に分散化して特定の集落名がない<

ありゃ?、類スレ主が、答えられずに、逃げた。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 02:27:31.97
>>606
この図のインチキ性は、大和の鉄器出土量に現れている。
古代史ファン必見の弥生鉄器分布地図では、弥生後期中葉から終末期までは鉄器は大和ではほとんどない状態が続いている。
終末期は180年頃から250年頃まで。
一方この地図では、大和の鉄は古墳時代初め(3世紀初め〜中頃)には山陰に匹敵するほどの多量の出土とされている。
古代史ファン必見の地図の「終末期」は180年〜250年頃であるからこの地図の古墳時代(3世紀初め〜中頃)とは同時期であるが、なんと双方の出土量には雲泥の差があるのである。
3世紀初め〜250年頃までの大和の鉄器が、同時代の山陰の出土量と同じなわけがない。
同じだとしているが、どこにそれだけの鉄器が収蔵されているのだろうか。
ホケノ山古墳の鉄器を勘定にいれているのだと思われるが、それでもこの時期の大和の出土量が山陰のそれとほぼ同じとは思えない。
で、大和説者がこの地図を見て、3世紀前半には大和に鉄器は豊かにあったと言い募っているのだとすれば、この地図の大和の出土量はインチキだというほかない。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 02:27:45.97
>>599

板付遺跡は環濠遺構内に住居は無い
今宿五郎江遺跡の環濠は弥生後期だから
>>589の統合されて環濠をもたない巨大な国ができたというのとは違う
九州の弥生前期は貯蔵穴用環濠が一般的で
後期になって多様な環濠集落ができる
瀬戸内、近畿とは逆
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 03:18:00.45
>>613
この長文の根拠が
「思われる」「思えない」

結論が
「いうほかない」

こういうのを、なんと言いますか?

誰が書いたか
>>336
末尾がこういう↓のは知識とは言えないんだぞ?
「〜と思われる」
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 03:39:15.30
>>614
>板付遺跡は環濠遺構内に住居は無い

ここは笑うところかな?
後世の開発で住居跡が失われただけなんだけど。

>今宿五郎江遺跡の環濠は弥生後期だから

弥生後期には環濠が埋め立てられたてたんだってよ
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 04:10:31.21
>>616
それ、単にそう想像してるだけだよね
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 05:50:05.26
>>513
でも遺跡といってもまとまった水田跡すらないから、それじゃ七万戸は無理だなw
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 05:54:12.26
邪馬台国に必要なのは鉄ではなく丹。
鬼道に鉄なんて無関係だし。
常に戦場になる北部九州なんて邪馬台国な訳がないのにな、九州説の主張は詭弁にも程があるな。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 06:03:10.23
>>616
板付、もともとなかった説に削平説が対抗
つまり、わかんないモノは「ある」例にできない

今宿五郎江はもともと事あれば地峡防衛拠点の役割も担う伊都国の衛星集落
つまり環濠が消えて広域の国ができる例にならない
逆に、弥生後半からじわじわ埋没してる環壕は伊都が倭国乱と無縁だった証拠になっちゃった
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 06:06:13.82
>>620
誤:弥生後半
正:弥生後期後半
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 06:20:13.06
>>77
>奈良で弥生時代前期に最大の水田跡がみつかった
九州では大規模な水田は見つかっていないが
輸入豚を飼っていたことがわかっている
東夷伝では挹婁や剃くり頭の州胡が好んで豚を飼うことが書かれている <

ふーん。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 06:45:01.48
>>91
てか、自分に都合の悪い「南」や「冢」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「日本国者、倭國之別種也」や「或云日本舊小國、併倭國之地」などを
それがなど史料事実であるにもかかわらず
理由も言わずに間違いだ、無視だと騒ぐのは
それ自体もう詐欺でしょ大和説
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 06:47:47.10
8年前の旧聞にいま感心する九州説の情弱ぶりワロス
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 06:51:10.84
>>623
いや、漢文読めない九州説素人爺さんが
読み方間違ってると
理由を添えて指摘してるな
九州説さんウソはダメよ
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 06:58:20.66
>>610
妄想を振り回す狂信者
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:00:32.26
>>615
テンプレを書いたスレ主に言ってやれ。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:02:04.65
>>620
>逆に、弥生後半からじわじわ埋没してる環壕は伊都が倭国乱と無縁だった証拠になっちゃった

広域で防衛したからだよ。
相手は肥後だからね。
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:02:16.73
>>96
>弥生末に拠点集落が解体するのは歴史的事実なのに <

神武らの東征は、結果的には毛人や出雲銅鐸祭祀部族との「共存」で落ち着いたので、
拠点集落が残存していた筈で、
弥生末は古墳(前方後円墳)時代ではなく、その直前であるので、
九州倭国からの「東征毛人五十五國」軍がの到着支配していた事になり、
拠点集落がほぼ解体していた、という事はあり得る。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:08:33.94
>>100
>青銅の鑓鉋、青銅の斧は佐賀市の本村籠遺跡で出土している。
時期は弥生前期末〜弥生中期初め。
この青銅鑓鉋や青銅斧には使用痕がある。<

ふーん。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:17:58.43
>>118
「南→東」や「正北抵新羅」や「冢」などのような、文献考古の史料事実や史料実態を
「嘘」とか「妄想」とか
語気荒く決めつけたり、無視抹殺しているけど
証拠は何も出さず
あまつさえ理由も言わない

大和説は、そんな俺さま主義の・・・・アホ詐欺師の断定屋
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:25:33.45
>>628
>広域で防衛したからだよ。
>相手は肥後だからね。

広域同士が戦いをしたってことは
広域のうちの一つは倭国王がちゃんと支配できてたことになっちゃうだろ

 倭国乱、相攻伐歴年。
 乃共立一女子為王、名曰卑弥呼
と合ってないよ
それだと倭国王権まだ健在で女王共立する意味ねーだろ
女王共立して乱が収ったなら女王は肥後まで支配したことになっちゃうし
辻褄ぜんぜん合わないぞ九州説
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:28:01.67
>>631
>「南→東」や「正北抵新羅」や「冢」などのような、文献考古の史料事実や史料実態を
>「嘘」とか「妄想」とか
>語気荒く決めつけたり、

してませんが、何か?

九州説さんったら
またウソまみれの投稿ですか
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:47:30.94
>>632
じゃあ畿内には弥生時代の戦闘の跡はあるのか?
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:50:28.91
九州説って東に何里、南に何里しか考えてなくて
倭国のビジョン無いんじないの?
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 07:52:04.10
>>634
高地性集落が社会的緊張の高まりを示してる
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:15:29.18
畿内説と北部九州説のトンデモ同志のトンデモ言い争いだな
まさにトンデモ論争100年続く・・
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:29:32.21
>>635
>九州説って東に何里、南に何里しか考えてなくて
>倭国のビジョン無いんじないの?

それ、畿内説のことだろw
倭国と大和を混同しているw
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:33:10.85
>>638
そう断定する根拠は?
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:33:47.72
>>637
なにどっちもどっちみたいに粉飾して
畿内説の敗北を誤魔化してるんだ?

200回掘ったのに
北部九州では当たり前に出る鉄器が全然出ませんでした。
北部九州を通らないと魏と連絡できないんだから
魏と連絡していたのは北部九州だけでした。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:35:39.47
>>638
九州説にビジョンがあるなら
とりあえず女王の都と
邪馬台国の範囲と
倭国の範囲を
現代の地名で具体的に答えてもらおうか
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:36:35.63
で、畿内説の言う邪馬台国の倭人が暮らしていた
模範的な2世紀3世紀の集落とはどこのことだい?
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:37:14.15
>>640
鉄器が九州のどこから普通に出てるか
具体的に答えてもらおうか
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:37:27.71
畿内説について討論が成り立たないから

九州説について説明させて
適当に突っ込んで精神勝利するだけの

みじめなレス乞食キナイコシ
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:37:46.69
>>642
で、畿内説の言う邪馬台国の倭人が暮らしていた
模範的な2世紀3世紀の集落とはどこのことだい?
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:38:21.96
>>643
女王卑弥呼の墓である平原遺跡の周囲
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:38:40.25
>>642
だから「模範的」の定義を言え
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:39:54.78
>>646
>女王卑弥呼の墓である平原遺跡の周囲

墓以外?
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:41:35.32
>>646
具体的にどこから何がでてる?
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:42:10.49
>>648
墓の中からは銅鏡百枚と一緒に
女王卑弥呼へ魏から贈られた五尺鉄刀
鉄鏃も出ているが、女王卑弥呼だから女性用装身具が主体で鉄製武器は少ない
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:42:48.70
>>649
で、畿内説の言う邪馬台国の倭人が暮らしていた
模範的な2世紀3世紀の集落とはどこのことだい?
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:49:13.65
>>650
甕棺がなくても、大和のように鉄が溶けたりはしていないなw
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:50:25.97
>>120
そんなふうに具体的事実を含む指摘いっさい抜きで
総論的な悪口を言うだけの大和説って
ただの中傷屋ってことだよ
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 08:57:38.46
>>652
はは、なるほど。平原遺跡の卑弥呼墓は木棺だな。
弥生時代の鉄は全国各地でふんだんに出土しているのだから、
溶けるかどうかなどという視点で考えたことが無かったよ。
北部九州だと鉄器の出ない遺跡のほうが珍しい。
有名どころだと平塚川添遺跡とかかな?

鉄などより、
絹がどれくらいの確率で消失するのか、
という研究の方が大事だな。
逆算すると、もともとどれくらい使われていた筈かがわかる。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:04:26.91
>>620
>板付、もともとなかった説に削平説が対抗

環濠内に食糧貯蔵穴もあるのに住居がない方が不自然
板付にしても那珂遺跡にしても、弥生銀座の初期環濠はすぐに埋められてる
都市が大きくなり過ぎて環濠で囲めないからだろう

>弥生後半からじわじわ埋没してる環壕は伊都が倭国乱と無縁だった証拠になっちゃった
今宿五郎江の環濠が埋められたのは土器などから3世紀前半と言われている。
丁度卑弥呼が共立された時期と重なり、倭国大乱の終焉時期を示唆する。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:09:56.38
>>655
倭国大乱の講和条件に伊都国の堀を埋めることが組み込まれたのかもな
後々伊都国を滅ぼすためには防衛の要所である今宿五郎江の環濠は邪魔すぎる
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:12:04.40
>>655
>今宿五郎江の環濠が埋められたのは土器などから3世紀前半と言われている。
>丁度卑弥呼が共立された時期と重なり、倭国大乱の終焉時期を示唆する。

うそ
弥生後期後半から埋没が始まり弥生終末には完全に埋没する
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:16:11.34
卑弥呼時代に羅城ならともかく
なんで環濠?

魏志倭人伝に環濠集落なんて書かれてるか?
いないよな
つまり魏使は環濠なんてない伊都で卑弥呼と外交して
卑弥呼の平原遺跡女王墓を見て
帰っていった

畿内説は発想が貧困杉w
スケールが小さいw
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:18:56.99
>>656
勝者が伊都に入るという条件だったのだろう。
椅子取りゲームなんだよ。
王都である伊都に入ったものが倭王を名乗る。
だから倭王の王統は入れ替わることがある。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:19:10.07
>>168
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説のコピペ基地害のスイッチ入ったか
余程ショックなんだな、可哀想なやっちゃ
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:22:47.00
畿内説と北部九州説のトンデモ論争が100年続いてる
もう100年続きそうだ・・・・・、
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:24:00.16
もちろん勝者というのは北部九州倭人の、って意味だぞ
鉄器鉄鏃で戦ってた神々のことね

本州日本海沿岸の倭種や、畿内毛人は、無関係
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:25:33.78
>>658
そうだな。
伊都の王城は高祖山だろうから、怡土城と同じで中国式山城だろう。
それなら羅城や山上にそびえる楼閣があったろう。
まさに魏志倭人伝にある王城の楼閣高くして兵が厳かに守っていたのだろう。
塀のような玉垣に囲まれただけの纒向の宮とは大違いだ。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:26:19.65
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が「お互いトンデモ」だからもう100年の猶予をくださいとむせび泣くスレ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:27:59.79
>>172
>御所、葛城は水田跡だけじゃなく、同時期に鏡と銅鐸を祭祀具として使用していた倭で唯一の場所だからな。
まあ神武が紀元前に目指してきた理由もそれで、正に国の中心そのものだわ。
弥生中期の時点で鏡所有してるという事は、大陸へ使いを出したのもここからという事だ。<

ダメだな。御所葛城は、
銅鐸祭祀であるから、出雲系の銅鐸祭祀部族であったのであり、
また、多鈕細文鏡?があった、という事は、
半島や吉武高木の系統の渡来があった、という事になるから、
結局、出雲系と九州倭国系の混合地であった、という事になるだけだ。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:28:01.80
>>663
山城だから魏志倭人伝でも「城柵」ですな
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:28:16.91
>>662
畿内毛人は無関係だが、出雲だけは関係あったかもな。
記紀は出雲を倒して筑紫に王権を樹立したと書いてあるし、考古学的に筑紫は畿内と関係は低いが出雲とは密接な関係があった。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:28:58.55
>>665
>また、多鈕細文鏡?があった、という事は、
>半島や吉武高木の系統の渡来があった、という事になるから、

スクナヒコナを想起さえる
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:33:12.31
結局のところ、記紀は大筋で正しいんだよ。
ただし畿内説お得意の年代前倒し詐欺がその頃から始まったわけだ。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:37:54.88
>>658
>卑弥呼時代に羅城ならともかく
>なんで環濠?

畿内側は邪馬台国時代に環濠があるとか言ってないが?
九州説がまた発狂してるのか?
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:39:36.29
>>670
今すぐスコップ持って鉄器を探してこい

鉄製のは使うなよwww
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:40:40.10
まきむくで鉄器が一つくらい出土したら面白いだろうな
骨董市の三角縁のときみたく
超超大発見のごとく大騒ぎするぞwww
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:43:31.32
筑紫、伊都説人種は福岡の考古をまるっきり知らないのに連呼する
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:44:24.50
平原女王卑弥呼のお膝元である三雲遺跡からは
海外土器やら硯やら海外伝来の彩色ビーズやら見つかりまくってるのに
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:44:29.24
>>663
>それなら羅城や山上にそびえる楼閣があったろう。
>まさに魏志倭人伝にある王城の楼閣高くして兵が厳かに守っていたのだろう。
>塀のような玉垣に囲まれただけの纒向の宮とは大違いだ。

九州の脳内妄想と畿内の実在を比較して
にんまりにまにまドヤ顔してる
九州説のお脳は花畑
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:45:34.03
>>670

上の方で環濠云々と言っていたのはそっちだろ。
本当にああ言えばこう言うだな。
言っていないなど言い逃ればかり。
やれやれ
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:45:45.60
>>671
ホケノ山に文字通り
山ほどあるから、もうご馳走さま
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:47:35.87
>畿内の実在

住居を失い
稲は根刈りで根こそぎ奪われ
蛙の骨まで齧りながら
強制労働

無知で打たれて野垂れ死にだから墓も残らん
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:47:57.51
>>674
つまり公孫氏や帯方郡と繋がりがあった邪馬台国は伊都国だということ。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:49:06.96
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が「ホケノ山の鉄器」は畿内のものだとむせび泣くスレ
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:50:33.82
>>679
硯がないと字が書けない
字が書けないと外交文書のやり取りができない
外交文書のやり取りができる相手にしか金印は贈らない
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 09:54:45.88
>>681
つまり九州は適格だが、畿内説はあり得ない。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:14:00.92
>>682
その結論を出す論理が存在してないな
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:14:17.68
>>657
後期後半から終末期なら3世紀の前半であってる
どんないちゃもんつけようと奈良には
ニキビみたいにポツポツとてろきた小さなムラがあっただけだがな
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:15:54.46
魏志倭人伝の
「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」

これは、どういう意味で記述したのだろう。   @阿波
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:16:34.25
>>683
レス先に書いてあるよ。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:16:52.17
板付の環濠も他の遺跡の環濠も昔は後に住居が削平されたんだろうと言ってた
今宿五郎江は後期を中心とした環濠で終末期に埋没する
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:18:59.98
>>676
>上の方で環濠云々と言っていたのはそっちだろ。

また証拠出さずにゴマかす
九州説はカス
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:21:20.04
>>682

漢代の倭奴国に適格
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:23:18.26
>>685
>「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」
>これは、どういう意味で記述したのだろう。   @阿波

計算上えらい南方にあることになった倭国の風俗が
やっぱり南方風だったから納得いくって説明
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:26:51.40
魏志倭人伝の
「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」

これは、どういう意味で記述したのだろう。   @阿波
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:32:06.53
「自古以來其使詣中國皆自稱大夫」

「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」 ←これは、どういう意味でここに記述したのだろう。   @阿波


「今倭水人好沈没捕魚蛤」
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:35:55.00
>>692
倭人の風俗との類比のため
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:37:59.50
令亀法の如し倭人の卜骨と合わせて
華夏族と倭人との繋がりを記述してる
東夷伝序文の東夷のなかには中国の礼が伝承されている国があるという記述と関連させている
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:43:41.66
>>186
朝から「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の断末魔ですな
>弥生前期で既に秋津辺りに倭で最大の水田、<

弥生前期というものの年代を書かないところで、大和説学者のインチキが露呈。

>つまり人が住んでいるなら、神武東征神話が
紀元前なのも確定で東遷説も終了だわ。<

そもそも、葛城御所秋津付近は、
神武東征でも神武の支配化にはなっていなかった地域であり、
出雲銅鐸祭祀部族系の地域であったのであり、
そのように解さなければならない地域であり、
ほぼ弥生全時代に可能性がある地域。

まあこれが結論だよね
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:46:36.78
>>190
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しがバレた大和説の、
断末魔が朝から凄い
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:54:20.21
>>676
ありもしない他人の発言を捏造してエセ批判を展開
抗議されると証拠も出さずに言った言ったと捏造三昧
これが九州説のやり口なのだ
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 10:59:06.37
>>696
このように九州説は証拠を出さず誹謗中傷に明け暮れる
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:00:17.27
>>693
>倭人の風俗との類比のため


文身亦以厭大魚水禽」

↑これに導くための「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」だったようだね。   

↓これは、文脈が異なると言うことだね。

「自古以來其使詣中國皆自稱大夫」


>>694
>華夏族と倭人との繋がりを記述してる

文身亦以厭大魚水禽」

↑これに導くための「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害」だったようだね。   

↓これは、文脈が異なると言うことだね。

「自古以來其使詣中國皆自稱大夫」
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:02:00.10
>>695
>弥生前期というものの年代を書かないところで、大和説学者のインチキが露呈。

弥生前期と書いてあるんだが
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:14:36.46
>>244
日本書記には「日向の襲の高千穂峯」とあり、襲の字から
南九州を指していると思われる記述です。

また、「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、
夕日の日照る国なり」の 「韓国に向かひ」から高千穂を福岡に比定している
ようですが、ここでいう韓国とは朝鮮半島のことではなく、膂宍(そじし)
之空国(からくに)と言われた地域のことです。霧島には「韓国岳、古くは
韓国見岳」があり、眼下に姶良郡(アイラ)カラクニがあります。
また、笠沙の御前は言わずもがな、「朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」
から東西南が海に面している、まさしく「日向」である霧島・鹿児島が
天孫降臨の地であると思います。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:21:06.25
>>219
>残念ながら倭に丹山があるから当時の九州は北部以外倭ですらなかったかもなww
ヤマト朝廷が成敗してはじめて熊本辺りより南側も倭になる。
これで倭人伝に火山の記述が皆無で、倭国伝に阿蘇の記述があるのにも一致するだろう。
つまり倭人伝の時代はまだ、熊本辺りから南側は畿内ヤマト、女王国と対立していたという事だ。<

「南≠東」などに拠って、×。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:23:19.57
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:25:01.31
>>220
>九州脳では丹は酸化鉄でしかないベンガラww
だから無能なんだろうな。<

「南→東」などの嘘つき騙しのアホ大和脳には、
「丹は顔料」という事も判らんらしい。
だから無能なんだわ。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:26:17.13
>>701
そんな片田舎の山中に王都なんてない。
大陸との交易で栄えた港町博多と、それを一望する伊都の高祖山が倭国の王都だよ。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:26:49.98
あります。 ×
ありもす。 ○

思います。 ×
思いもす。 ○
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:29:18.17
高祖山 ×
宅蘇山 ○
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:40:23.07
>>704
>「南→東」などの嘘つき騙しのアホ大和脳には、
>「丹は顔料」という事も判らんらしい。
>だから無能なんだわ。

山で顔料が採れると思う九州脳w
とれるのは原料
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:47:32.83
此地は 韓国に向かひ〜甚吉き地
だから韓国に向いてないところから出雲を制して来たわけだね
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:48:44.09
>>708
山で採れるって何のことだ?
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:54:07.26
>>524
>反論を諦めて、討論の世界では敗北宣言の意味にしかならない嘘の悪口を言い放ってきたな、、、

つまり反論をせずに荒らし投稿ばかりの連続句読点は、敗北宣言だけを書き続けているとww
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:56:12.45
>>258
かわいそうだけど現実は厳しいね、
「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説なんて、
茶番はもう終わりだな。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:59:01.20
畿内説と北部九州説のトンデモ論者のイタチ論争が100年続いてる、
さらにもう100年続きそうだ・・・・・、
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 11:59:57.17
>>543
>九州では鉄が大量に出土するというのに。

大量になんて出てませんがなw
弥生時代全期間の分を全てカウントしても畿内の3古墳で出る量に満たないww

しかも3世紀に限定すれば雀の涙で、邪馬台国ではないことが確定の伊都国、奴國を除けば、
皆無に近いぞw

北部九州でも鉄は朽ちてしまうのが自然の成り行き
金属状態より酸化鉄の方がエネルギー的に安定なんだからww
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:01:26.59
>>546
>おるぞぉ〜!
>アホォ!

こういう根拠なしの捨て台詞って恥ずかしくないのかねぇ?
まあ九州説は恥知らずしかいないけれどww
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:06:56.04
>>710
水銀朱
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:07:33.71
>>548
>荒尾の組み合わせ式木棺は弥生前期。
>纏向遺跡の矢板は3世紀前半。
>丁寧に擦り削ったのだろうな。

バカか?
お前が反論として出した荒尾遺跡の板材が表面仕上げしていない割板だって言われているのにww
どこにもお前が言うような砥石で擦った平面なんてないぞww

どこまでも恥ずかしいやつだな!
九州説の恥さらしww
>>548だけじゃないけれどw

この人、論理も整合性も無視して無理押しし続けるのは邪馬台国の会の中の人の
ポジショントークだからってことなんだろうとは思うけれどw
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:08:34.57
ま、けっきょくのところ、

纒向学センター VS 伊都国博物館
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:09:56.41
ま、けっきょくのところ、

町おこし、村おこし、
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:10:11.15
>>548
>それに、溝の矢板は川水の流れで擦られて皆同じような平面になったものだ。
>みたら分かるだろ。

矢板っていうのは岸に並べて「置く」ものじゃなくて、地面に打ち込むものなんだぞww
土に埋まっていた流に擦られない部分も同様に平面なんだが?ww

こいつ本当にバカすぎw
九州説の恥さらしww

いいぞ、もっとやれ!ww
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:11:01.88
>>715
>弥生時代全期間の分を全てカウントしても畿内の3古墳で出る量に満たないww

どういう計算だ?

具体的にはどの遺跡とどの古墳を比べているのだ?
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:11:30.60
>>717
水銀朱が山で採れるというのは何のことだ?
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:15:02.91
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が「お互いトンデモ」だからもう100年の猶予をくださいとむせび泣くスレ
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:15:29.25
荒尾南遺跡で砥石が盛んに使用された時期は、
弥生時代後期から古墳時代前期と考えられている
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:15:40.33
>>550
>鉄器がなけりゃ板は作れないという妄想は捨てろよ。

また話をそらして自分が大間違いのデタラメを書いてたのをごまかしてる

本当に人間のクズそのものだなww

荒尾遺跡の木棺の板材が砥石で綺麗に仕上げたというのも嘘

「鉄器がなければ「大量の板材」は作れないし、纒向大溝の矢板のような綺麗な表面のものは
 鉄器、おそらく鑓鉋で仕上げているので、纒向に鉄器がなかったというのはデタラメ」
というのがこちらの言っていること

木棺一つ作るくらいは石器でできるのも当たり前

とことん九州説がデタラメだということのモデルケースだなww
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:16:35.82
>>723
>水銀朱が山で採れるというのは何のことだ?

とれるよね?
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:16:48.48
ま、けっきょくのところ、、

桜井市政 VS 糸島市政

の、田舎者乱闘。。。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:17:55.49
>>723
>水銀朱が山で採れるというのは何のことだ?

水銀朱の元となる原料「辰砂」だよ。   @阿波
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:18:33.53
>>562
>九州にも起点を置いていた分家国があったような気もするな…

分家国ではないけれど、奴國が早くから畿内と協調関係にあるよ

>そこに卑弥呼のような女王代理がいて、

それが一大率だろ?
九州における出先の代官
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:20:10.73
>>719
>ま、けっきょくのところ、
>纒向学センター VS 伊都国博物館

それ、両方とも畿内説だぞ
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:21:18.10
>>567
櫂一本作るのと、何百枚も矢板を作るのは別のことだってww

この九州説のバカ、ドンドン深みにはまっていくw
おもしろ杉w
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:22:35.41
>>730
>分家国ではないけれど、奴國が早くから畿内と協調関係にあるよ

分家国ではないけれど、奴國が早くから倭国(阿波)と協調関係にあるよ。   伊都国(直方辺り)は、出入国管理局を置いた。   @阿波
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:22:39.21
>>571
>倭国の周旋は5千里

周旋は元も場所に戻らないし、一周したりしない!
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:23:21.03
>>730
>分家国ではないけれど、奴國が早くから畿内と協調関係にあるよ

分家国ではないけれど、奴國が早くから倭国(阿波)と協調関係にあるよ。   伊都国(直方辺り)には、出入国管理局を置いた。   @阿波
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:23:24.20
伊都国歴史博物館は西谷名誉館長からして畿内説
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:28:16.02
>>600
>郡使は伊都に滞在し、その先はせいぜい不弥国までしか足を伸ばしていない。

この妄想も何度教えても理解しないなぁw

伊都国に書いてある郡使往來常所駐は、往き帰りに素通りせずに
必ず立ち寄るところという意味なのに
それを現代語の「常駐」だと脳内変換してるからおかしな妄想になるんだよ
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:28:59.96
>>737
その通り。   @阿波
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:29:03.18
>>727
とれるが、
それが邪馬台国の何の関係があるのだ?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:30:52.59
>>737
意味が違うな

常駐ではなく、
来た時には必ずとどまるという意味だ。

伊都が目的地。
常駐しているのではなく、来倭したら伊都に必ず滞在して、
そして帰っていく。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:33:42.63
>>628
>相手は肥後だからね。

おいおい、肥後相手だったら今宿五郎江遺跡いらんだろう?
防衛拠点としてまったく意味がない場所になるぞ?ww
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:34:15.69
>>740
>伊都が目的地。

伊都国が「邪馬臺国」かね?   @阿波
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:34:43.89
>>726
「鉄器がなければ「大量の板材」は作れないし、纒向大溝の矢板のような綺麗な表面のものは
 鉄器、おそらく鑓鉋で仕上げているので、
 纒向に鉄器がなかった以上は、
 河内あるいは北部九州などで仕上げた板を持ち込んだのだろう」
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:36:38.93
>>640
>北部九州では当たり前に出る鉄器が全然出ませんでした。

畿内で出てるし奈良盆地で出てるし纒向遺跡の範囲内でも出てる

逆に九州は「3世紀」で「奴国、伊都国以外」だとほぼ皆無ww
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:37:49.00
>>744
>逆に九州は「3世紀」で「奴国、伊都国以外」だとほぼ皆無ww

お前はどこの世界で生きているんだ?
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:37:55.64
>>743
>北部九州などで仕上げた板を持ち込んだのだろう」

そんな遠方からわざわざ持ち込まんでも、直ぐ近くの倭国(阿波)に任せなさい!  わははははは   @阿波
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:38:40.00
>>743

まあ矢板は建物と比べたら技術的には新米の仕事
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:38:40.77
>>740
>伊都が目的地。

伊都国が「邪馬臺国」かね?   @阿波
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:38:43.56
>>650
>墓の中からは銅鏡百枚と一緒に

でも平原1号墓ではその銅鏡百枚の候補になるような舶載鏡が欠片も出ないのですが?ww
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:38:43.80
>>650
>墓の中からは銅鏡百枚と一緒に

でも平原1号墓ではその銅鏡百枚の候補になるような舶載鏡が欠片も出ないのですが?ww
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:39:52.15
常駐とは、帯方郡使が伊都国に常駐していたということではなく、
帯方郡使が来倭時に泊まる豪華な宿舎があったということに過ぎない。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:40:07.38
>>750
銅鏡百枚は当時貴重な銅原料としてなけなしの銅を魏が特別にくれたものだ

溶かして八咫鏡として生まれ変わった
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:41:01.43
>>654
>絹がどれくらいの確率で消失するのか、

絹はタンパク質だから生分解性100パーセントだぞ?
残る方は完全に偶然任せになるから、確率がどうとか考えるやつは自然科学が分かっていない
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:42:29.65
石器で矢板を一枚作成する延べ時間がxだとします。
100人いたとします。矢板を10000枚作成するには、何時間かかるでしょうか、、、
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:42:44.04
>>743
なんでそんなに鉄器がなかったことにしたいの?
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:43:35.54
>>755
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:43:43.09
>>740
>伊都が目的地。

伊都国が「邪馬臺国」かね?  わははははは   @阿波
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:43:55.23
奥山氏が、非論理的な意見の発表を繰り返すだけになってきているのでは、ないのかな。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:45:15.54
>>755
「なかったことにしたいの?」
だと?w

まるで本当は鉄器があったのに、
九州説がなかったことにしようとしているような書き方だな

鉄器が出土していない、のだろうが
それが事実だ

鉄器が出土していない、という事実に基づいて話をしているのに、
「なかったことにしたいの?」
とは何事だw
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:45:33.63
>>680
>世界最大の超大型内行花文鏡

割るために作った、ただ大きくすることだけが目的の手抜き図像かつ
巣が入るような粗製鏡をありがたがるのも九州説の惨めさの象徴的な部分だよな
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:46:50.40
>>752
>溶かして八咫鏡として生まれ変わった

魏帝の下賜品を?

まあ、九州説が自分から進んで天下の笑いモノになるのは結構だけどね
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:47:05.62
>>760
破鏡は畿内にもあるだろが
ホケノ山もそう

銅鏡は権威品だったから、
盗掘されて悪用されたら困るだろ。
だから破鏡にして副葬した。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:48:02.17
伊都国は郡使が渡海して疲れてるから
ブタ料理専門中華飯店(宿泊付)みたいなところ
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:48:22.33
>>761
魏はたいした銅鏡を作っていない。
後漢後期の銅鏡が最高レベルで、
あとは鉄鏡の時代へと移っていったのだろう。

無造作に記載された銅鏡百枚はおんぼろの銅塊で、
銅原料として譲られただけ。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:48:42.60
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:49:26.71
>>747
>まあ矢板は建物と比べたら技術的には新米の仕事

纒向で出土した垂木と考えられている木材が鉄器で加工されているとの報告あり
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:51:07.77
>>764
もっとソレあちこちで吹聴してね
九州説のど没落が早まるので大歓迎だ
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:52:03.22
>>722
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口

○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品

○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品

軽く九州の弥生全期間を超えてるだろ?
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:52:42.14
>>767
没落したくてもしようがないだろ
鉄器の分布だけで
魏と外交した邪馬台国は北部九州確定なんだから
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:54:12.60
>>762
王権の象徴wをカチ割って埋める伊都国って
それ、滅亡してるよね
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:54:50.49
>>740
>来た時には必ずとどまるという意味だ。

>伊都が目的地。

これが嘘ww

伊都国から奴国へ行って、不彌國を見てそこからさらに水行20日で投馬国
さらに水行十日陸行一月で邪馬台国

伊都国内に投馬国なんてないだろ?ww
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:58:58.45
>>768
で、その素晴らしい鉄器国家の鉄器住民はどこに住んでいるのかな?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 12:59:21.89
>>743
>纒向に鉄器がなかった以上は、
>河内あるいは北部九州などで仕上げた板を持ち込んだのだろう」

「 纒向に鉄器がなかった以上は、」←これが嘘ww

「 河内あるいは北部九州などで仕上げた板を持ち込んだのだろう」恥の上塗りww

九州説って鉄しか主張できることが無いんだなww
そしてそれがきちんと理詰めで論理的に否定されてしまったから、
「荒尾遺跡の板材は砥石で作った」とか、すぐバレるデタラメ捏造、
詭弁を弄して必死でばたばたしてるww

おもしろ杉w
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:00:37.87
>>773
>纒向に鉄器がなかった以上は、
これが事実

事実への反論になっとらんぞ?

鉄器で不利になったから
話題そらしかw
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:01:28.12
>>745
そういう負け惜しみを書いてないで
具体的な「3世紀」で「伊都国、奴国以外」の鉄器の出土例を示せばいいんだよw
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:02:49.37
「鉄器がなければ「大量の板材」は作れないし、纒向大溝の矢板のような綺麗な表面のものは
 鉄器、おそらく鑓鉋で仕上げているので、 」

と、畿内説が言ったから、

「纒向に鉄器がなかった以上は、 」

という、厳然たる事実を踏まえると、
大量の板材を作ったのは鉄器がある人々であり、

「河内あるいは北部九州などで仕上げた板を持ち込んだのだろう」
阿波でもいいがw

という結論に至る。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:04:19.88
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:05:22.42
北部九州でヒノキを使ってる遺跡がない
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:05:55.97
>>752
>銅鏡百枚は当時貴重な銅原料としてなけなしの銅を魏が特別にくれたものだ

>溶かして八咫鏡として生まれ変わった

魏皇帝が自ら詔書で「悉可以示汝國中人、使知國家哀汝」といって下賜した品を鋳潰したとか
とんでもないことを考えないと「困ってしまってワンワンワワン」なのが九州説ww

そのあとも魏に使いを出してるのに、相手の皇帝のメンツに泥を塗ったと主張するのが
九州説のご都合主義の極みw
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:08:47.12
>>759
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口

○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品

○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品

「それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを示す
鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」

出てるなww
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:10:01.34
>>779
貰ったもの

金印
絳地交龍錦五匹(原材料)
絳地縐粟罽十張(原材料)
蒨絳五十匹 (原材料)
紺青五十匹 (原材料)

紺地句文錦三匹(原材料)
細班華罽五張 (原材料)
白絹五十匹 (原材料)
金八兩 (原材料)
五尺刀二口(うち一本は平原卑弥呼女王墓)
銅鏡百枚 (原材料)
真珠チ丹各五十斤(原材料)

ほとんどが加工原料だな。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:10:45.70
>>762
>盗掘されて悪用されたら困るだろ。

でも那珂八幡古墳の第二主体では畿内から贈られた三角縁神獣鏡を破砕せずに副葬してるねぇ?ww
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:10:56.39
>>780
>出てるなww

出ていないねぇ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:11:18.14
纏向遺跡でも朝鮮由来のツクシ型羽口が出てるから
北部九州の韓濊人は来てると思うよ
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:11:58.06
>>782
でも那珂八幡古墳の第二主体では畿内から贈られた三角縁神獣鏡を破砕せずに副葬してるねぇ?ww

当たり前だろ
征服先から献上してきた葬具など
盗掘されても悪用のしようがない

せいぜい銅原料として売り払うくらいか
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:12:15.30
>>297
>>タケミカズチノカミのその父は、つまり川上の大祖神は、
伊都(イツ)之尾羽張と名乗っていたと記紀に残されている。<

>孝昭天皇の后は尾張氏の祖である「おきつよそ」の妹です。<

ふーん。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:13:44.93
>>784
つまり鉄器関係は北部九州人が絡んでいたと考えられるのだが、
そもそも河内や阿波の鉄器も北部九州人が絡んでいたのなら
河内(にいた北部九州倭国関係者)や
阿波(にいた北部九州倭国関係者)が
板を作って巻向に持ち込んだとも言える。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:14:24.58
>>776
>「纒向に鉄器がなかった以上は、 」

>という、厳然たる事実を踏まえると、
>大量の板材を作ったのは鉄器がある人々であり、

つまり纒向には大量に鉄器があったんだよ
それ以外に合理的な解釈はない

存在した鉄器が1700年後に出土しない合理的な説明は簡単だけどね

結局、登呂遺跡に鉄がなかったという証明もお前はできないんだから諦めろww
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:16:11.29
墓に副葬するときに盗掘のことは考えないだろう
九州説は金目のものを盗むことばかり考えて生きている
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:16:33.10
>>788
おいおいおい

「合理的な解釈」という言葉を持ち出すのなら、
河内や阿波、あるいは北部九州で
鉄器を使って作った板を大量に持ち込んだ、
というのが合理的だろ?

周囲から全く鉄器が出土しない。

一方で、北部九州的な内行花文鏡を副葬した古墳の中からだけ
鉄器が大量に出土する。

征服だよ。征服。

合理的に解釈するならな。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:17:20.72
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:22:20.57
>>787

鍛冶屋は賤民だな
糸島にも韓鍛冶宅蘇山がある
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:24:42.25
>>792
>鍛冶屋は賤民だな
へーそうなんだ。
だから扇谷遺跡とか淡路島とか海上輸送できる遠方に鉄器工場を作ったんだなあ。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:30:57.58
淡路島は五斗長垣内遺跡が鍛冶工房で
舟木遺跡が集落遺跡で製塩土器やイイダコ壷、畿内に多い絵画土器が出る
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:31:49.42
>>726
>「鉄器がなければ「大量の板材」は作れないし、纒向大溝の矢板のような綺麗な表面のものは
 鉄器、おそらく鑓鉋で仕上げているので、纒向に鉄器がなかったというのはデタラメ」
というのがこちらの言っていること <

あのね、鉄の量が問題では無いのかな?
矢板は外から持ってきたか、土木作業員が持ち込んで工事が終わったら持ち帰ったとも考えられる

要は生活で鉄器を常時使っていたら、出土してもおかしくないのでは
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:33:31.77
>>715
間違った前提を勝手に導入した詐欺
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:34:26.60
失礼
矢板は外から持ってきたか、土木作業員が鉄器を持ち込んで工事が終わったら持ち帰ったとも考えられる
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:39:06.92
野鍛冶は自然風が必要だからな
淡路島や近江は強い風が吹く
春一番(春先に吹く強い南風)の発祥になった壱岐には地上炉が見つかっている
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:50:44.84
>>785
>当たり前だろ
>征服先から献上してきた葬具など

無理があるねぇww

「征服先」と言った時点で、倭国は九州のみという九州説の大事な大事な前提が破綻するし、
征服先から献上されたものなど倉庫にうっちゃっとけばいいものであって、
当時の北部九州最大の墳丘墓で、奴国首長墓の盟主墳にわざわざ大事に
副葬するようなものじゃないだろう?ww

九州説の反論は常に具体的な根拠などない、整合性を無視した非論理的なその場しのぎの
思いつきでしかない

そして矛盾を論理的に指摘されて、恥をかき続けるww
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:54:01.52
>>799
>倭国は九州のみ
そうだよ
北部九州倭国が征服して統一を果たしたんだろ

>征服先から献上されたものなど倉庫にうっちゃっとけばいいものであって、
可哀想じゃないか!!
北部九州倭国に憧れて献上してきたのに、うっちゃるなんて酷すぎる!
せめて棺の外くらいには置いておいてあげようよ!

矛盾しないね
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:54:29.16
合理的な解釈をするなら
石包丁で穂摘みしていた人々が征服されて、鉄鎌で根こそぎ稲を奪われて、
飢えて桃や蛙を食していたのを、
鉄器標準装備した北部九州倭国正規軍が悪い支配者を打ち倒して彼らを救出した。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 13:58:32.73
>>313
>自分の知能、理解力が不足してるだけだよ、
それを九州脳と呼ぶんだけどなw <

大和説は、
自分の知能、理解力が不足しているだけではなく、
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの、
インチキ詐欺の上になっているだけだから、
それを大和説の脳、って呼ぶんだけどな。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:00:08.60
>>790
>河内や阿波、あるいは北部九州で
>鉄器を使って作った板を大量に持ち込んだ、
>というのが合理的だろ?

どこまでもバカ丸出しww

大量の板材を運ぶより、小さな鑓鉋を運んでその場で加工する方が合理的だろ?ww
実際、纒向大溝の矢板の話が出たときに最初はそう主張する九州説のバカがいたぞ?
というか、>>790、お前だろ?

このネタに噛みついてる九州説、お前一人だからww

でもそれだと、結局纒向に鉄はあったけれどその鉄が回収されれば出土しないというごく当たり前の
考え方が否定できないことに気付いて軌道修正して、石器でも矢板が作れるとか迷走したあげく
すべて否定されて現在に至るだからなww

ドンドン踊っておくれw
九州説の無能さのモデルケースだ!ww
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:00:55.54
>>798
稲作の伝播とともに、北部九州では弥生前期末〜中期前葉には遼東半島から朝鮮半島西北部で生産された鋳造鉄製品が流入し、

その破片を研磨加工した鉄器の使用がみられる。

中期後葉には朝鮮半島産の鉄素材を用いた鍛冶技術による鋳造鉄器の生産が始まる。

北部九州の鍛冶炉の定着と時期を置かず、徳島市矢野遺跡では規模・構造ともに北部九州に劣ることのないT類鍛冶炉による鉄器製作が確認される。

類似施設は徳島市名東遺跡・鳴門市光勝院寺内遺跡・拝原東遺跡・芝遺跡にも認められる。先進技術のいち早い導入は吉野川下流域の特徴である。   @阿波
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:01:46.86
>>801

そのコンプレッスの表れが韓国起源説なんだよ
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:01:55.14
1類 掘り方を大きくとり、その内壁・床面をよく焼き固め、その中に木炭や土を交互に重ねた
防湿目的の地下構造のあるタイプ Ta: 楕円形 Tb: 円形
  ● Ta:  中期末葉〜後期初頭 福岡県仁王手遺跡 広島県高平遺跡 徳島市矢野遺跡
         後期後葉まで、東瀬戸内地域、徳島県域で集中的に展開される
     Tb:  中期末葉〜後期初頭 福岡県安武深田遺跡 徳島市名東遺跡 
 後期後葉〜末葉   阿蘇市狩尾遺跡・湯の口遺跡 大分県高松遺跡 
   高知県西分増井遺跡ほか
  ● T類の炉は九州北部の炉として出現するが、
   後期以降九州北部にはみられず、周辺部に点在
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:02:08.80
2類 掘りかたのみで、内壁がわずかに焼けているタイプ
 ● 中期末葉〜後期初頭 春日井市赤手遺跡 その後 九州で一般的な炉となる。
 ● 後期以降 九州以外にも広く伝播 V類 W類と並存する場合がある。
 日本海沿岸で顕著である
 島根上野U遺跡 安来市柳遺跡 七尾市奥原峠遺跡 松山市束本遺跡・北井門遺跡 
 善通寺市次見遺跡 徳島県芝遺跡 高知県西分増井遺跡 大阪府星ケ丘遺跡
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:02:19.78
3類 ほとんど掘りかたを持たず。床面をそのまま炉として使用するか、
若干の粘土を敷いて操業するタイプ
  ● 最古例は 中期末〜後期初  京丹後市奈具岡遺跡
  ● 後期以降 香川県下川津遺跡 豊田市南山畑遺跡
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:02:26.54
4類 掘りかたを持たず。床面をそのまま炉として使用するタイプ
  ● 最古例は 中期末葉  庄原市和田原D地点遺跡
  ● 後期以降 山陰から北陸にかけての日本海沿岸地域で 多数例発見
  ● ひとつの工房内に複数基並存する例が知られている。
  ● 岡山市津寺一軒屋遺跡で焼土面だけが検出されており、W類の可能性
(「古代国家成立過程と鉄器生産」 P40)
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:03:51.42
>>803
>大量の板材を運ぶより、小さな鑓鉋を運んでその場で加工する方が合理的だろ?ww
あんた本当に馬鹿だな。


大量の板材を運ぶ
→大量の板材を運ぶだけでいい

小さな鑓鉋を運んでその場で加工する方が合理的だろ?ww
→その原料の「丸太」はどこから入手するんだ?
湿地帯だった盆地で現地入手できたのか?

丸太を大量に、しかも鉄器や職人と一緒に何もない場所へ運んでくるくらいなら、
大量の板材のほうがはるかに運びやすいだろうが
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:03:59.72
>>797
>土木作業員が鉄器を持ち込んで工事が終わったら持ち帰ったとも

つまり畿内纒向では、大量の矢板を作るのに十分な量の大量の鉄器を必要に応じて
調達利用できたという主張だね?ww

畿内は鉄過疎地帯というのはこの時点で破綻したよww
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:05:51.98
>>811
だが現実は残酷だ・・・
鉄器出土ゼロだから、

〇矢板は外から持ってきたか、
×土木作業員が鉄器を持ち込んで工事が終わったら持ち帰ったとも考えられる

という結論に至る。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:06:33.28
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:11:54.80
>>800
>北部九州倭国に憧れて献上してきたのに、うっちゃるなんて酷すぎる!
>せめて棺の外くらいには置いておいてあげようよ!

九州脳ってすごいなww

朝貢して金印をもらった魏皇帝からの貴重な鏡は、
 ⇒ 銅材料だから鋳潰す
倭女王の権威の象徴と主張する鏡は、
 ⇒ 盗掘されるといけないからバキバキに打ち砕いて壺にも入れず墓坑にばらまく
征服先から献上されたと主張する鏡は、
 ⇒ かわいそうだから地域首長の盟主墳の埋葬主体(第二主体)に大事に副葬

これを連続で書けるんだからすごい!
合理的思考のできるまともな日本人とは相容れない、
合理性や真実とは無関係な声闘の文化の人なんだろう
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:13:11.47
>>332
「南≠東」などの文献考古の史料事実や史料実態に追い詰められて
大和説がどんどん奇形化していく

末期症状だ
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:17:10.80
>>814
あんたほんと馬鹿だな。

公孫氏によって遮断されていただろうが。

卑弥呼が魏から銅鏡百枚を貰ったのは
公孫氏滅亡直後で海外交易が途絶えていた時代の最後。
だから銅鏡百枚は貴重な銅原料として鋳潰した。

権威である大型内行花文鏡は盗用されないように
破鏡にして副葬。
これは平原卑弥呼だけでなく、代々の倭国王墓に共通する文化だ。
一部は畿内にも入っている。

その後は魏、そして晋の時代と、安定して外交ができているのだから、
海外交易も安定して、銅原料の入手は容易となり、
三角縁神獣鏡の頃にはわざわざ鋳潰す必要などなくなった。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:17:42.49
>>741
だから時代が違うんだろ。
畿内説は時代をごちゃ混ぜにして話を誤魔化している。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:18:17.19
>>811
現地の溝で寸法合わせが必要

他で大まかに仕上げた板材を持ってきて、
現地では一人二人の職人が最後の寸法合わせだけやって
溝が完成したら帰っていったんだろう

あいつら蛙食ってたぜヤベえw、とか土産話も尽きなかったことだろう
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:18:38.74
>>744

畿内説は事実と向き合うように。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:19:33.87
>>750

八咫の鏡に改鋳したからだよ。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:21:39.30
>>810
>大量の板材を運ぶ
>→大量の板材を運ぶだけでいい

このバカどこまでも馬鹿をさらすつもりらしいなw

大量の木材を運ぶ「だけ」ww

現代なら重機もトラックも舗装された道路もあるから、運ぶのはそれほど負担ではないけれど、
荷車も街道もない時代に他地域からかさばる重量物を「運ぶだけ」とか、脳みそ湧いてるとしかww

しかも運ぶ地域が「河内あるいは『北部九州』など」からとか、ちょっと見ないレベルのバカだ

>湿地帯だった盆地で現地入手できたのか?

これも九州説のバカなところだよなw
奈良盆地の四囲は全部、木が生い茂った森林だぞ
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:26:52.59
>>760

平原の八咫の鏡は、遠くから眺める、祭祀専用の鏡だったんだよ。
おそらく、一番出来が良かったものは天皇家に伝世された。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:27:57.77
>>763

伊都にあったのは鴻臚館や筑紫館の前身だよ。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:28:19.43
>>810

纒向遺跡では矢板の他にも盤、蓋、布巻具、鶏形、板、棒、丸太、割木、木端と
ヒノキを多用している
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:28:38.78
>>812
>だが現実は残酷だ・・・
>鉄器出土ゼロだから、

>>783で「出ていないねぇ」と7文字並べただけでは、何の否定にもならないんだよ?w

短里が否定されたときもそうだったけれど、無理なことを根拠なくただ繰り返すだけになるから
九州説って惨めww

Occam's razorを持ち出すまでもなく、大量の矢板は使う場所で調達するのが合理的だし
大量の矢板を作るのには十分な量の鉄器の必要

纒向遺跡の範囲内で鉄の利用を示す鉄鍛冶遺物も出ているし、鉄がなかったという判断は、
九州説のご都合主義によるインチキ解釈以外の理由がない
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:28:40.65
>>768

どうしてその程度で九州を超えると思った?
根拠は?
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:31:15.93
>>373
「南→東」などの嘘つき騙しをするように、
頭が変でないとに、
大和説を支持するのはムズカシイのね
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:31:27.78
>>771

郡使は通過したところは里程を記録できた。
距離を日数で記録するのは倭人。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:33:08.94
>>816
>公孫氏滅亡直後で海外交易が途絶えていた時代の最後。
>だから銅鏡百枚は貴重な銅原料として鋳潰した。

銅原料であること以上に、魏皇帝の下賜品であることの方がよっぽど重要だし貴重品!

公孫氏が滅亡して交流が復活した以上、帯方郡あたりでいくらでも銅材は交易でも手に入るww

もうさ、平原1号墓に同時代の舶載鏡がないのをごまかすために、
どんなデタラメでも強弁するってのはまともな日本人とは懸け離れた感性だなww
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:39:29.39
>>378
「南→東」などの史料事実の否定や曲解の嘘つき騙しの作り話の大和説の先祖は、
どこかの国で滑石で黒曜石やダイヤモンドを擦っていました。
この人種は連呼するという特徴があります
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:45:19.89
>>826
>どうしてその程度で

「その程度」?wwwwwwwwwwwwwwww

お前ら九州説の大好きな「弥生時代全期間」の福岡県の鉄鏃の出土数が398(邪馬台国の会調べw)
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/206yaziri.htm

畿内3古墳で
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
「鉄鏃 約60本」 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口

○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、「鉄鏃約200本」、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品

○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、「鉄鏃170本以上」、小札、U字形鉄製品

軽く400本を超えてるw
お前ら九州説は鉄にこだわるけれど、魏志倭人伝の鉄記述は
竹箭或鐵鏃或骨鏃だけ

東夷伝全体でも
國出鐵。韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
で、楽浪郡、帯方郡も弁辰の鉄を使ってたと書いてある
楽浪郡、帯方郡が鉄不足だったなんてどこにも書いてないし、そんなこと誰も考えないだろ?
倭国の鉄事情も二郡と並列なんだから、まったく不足はないんだよ
纒向でも登呂遺跡でもねww
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:49:08.22
>>822
>平原の八咫の鏡は、遠くから眺める、祭祀専用の鏡だったんだよ。
>おそらく、一番出来が良かったものは天皇家に伝世された。

平原1号墓の出土鏡は46センチ鏡であって八咫鏡ではない!
九州説の捏造はここから始まるから質が悪い

皇統の皇位の証したる八咫鏡が、ただデカいだけの巣の入った鏡だとか
冗談でも言うべきではない
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:51:30.38
>>828
>郡使は通過したところは里程を記録できた。

船に乗って移動する経験などない郡使が、船に乗せられて移動しても
里程を記録できたはずがないんだよ

九州説の言うことはことごとく非論理的ですべて否定されてしまうw
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:53:39.63
>>379
>>魏志倭人伝には「水銀朱」という文言が書かれておらず、
>>丹の色に関しての「朱丹=朱色の顔料」という文言が書かれているだけだ。<

>朱色の顔料が山にあるわけないだろ 人が加工するから顔料になる
山にあるのは原料だ 水銀朱だよ <

倭人伝では、卑弥呼が魏に「丹木」を上献しているが、
「丹木」は当然植物の「木」であって、「丹木」が水銀な訳がないだろ?。
また、「朱丹」とは「朱色の顔料」という意味であり、
丹木の場合は、その木が「朱色の顔料の材料成分を含んでいる」という意味だろ?。

以前にも書いた事があるが、
播磨の「紅山」という山の山肌に「紅色の苔」が沢山生えていて、
だから「紅山」と呼ばれていた。
植物にも「朱色の色素」を含んでいるものもある、という事だ。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 14:54:00.36
>>818
>現地では一人二人の職人が最後の寸法合わせだけやって

その意見でも、纒向に鉄があったと九州説の人間が認めていることに変わりは無いんだが?ww

纒向に鉄がなかったというのは九州説でも維持できないレベルのインチキだww
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:03:07.89
>>393
>普通当時丹といえば辰砂を指すのは常識なんだが、・・・<

普通、「丹」とはいろんな色を持つ種々の顔料の事であり、
朱丹と言えば、朱色が出る顔料である、という事になる。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:06:26.04
>>835
鉄器は出土しとらんという事実
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:07:03.07
>>833
>船に乗って移動する経験などない郡使

その根拠は?
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:09:47.51
>>831
>東夷伝全体でも
>國出鐵。韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
>で、楽浪郡、帯方郡も弁辰の鉄を使ってたと書いてある
>楽浪郡、帯方郡が鉄不足だったなんてどこにも書いてないし、そんなこと誰も考えないだろ?
>倭国の鉄事情も二郡と並列なんだから、まったく不足はないんだよ

倭人は弁辰の鉄を取りに行っていたから鉄器があるのが当然。
鉄不足だったなんてどこにも書いてないし、そんなこと誰も考えない。

だから倭人の国とは、鉄器が大量に出土している
北部九州邪馬台国。

鉄器が出土しないほど貧しかった
>纒向でも登呂遺跡でもないww
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:11:01.85
おいおい待てよw
3古墳で九州全部を越えてるとか本気なのか畿内説はw
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:17:41.88
そろそろ誰か突っこんでやれよw
もうスレも後半だし突っこんでもいいよな?

弥生時代の九州の鉄器と
古墳時代の畿内の鉄器を比較して
なにが言いたいのかとw

時代を同期させるなら
せめて「三角縁神獣鏡以前」と「以後」で比べるとかしろよ

この畿内説者は完全な詐欺師確定だな。
今回のスレで最初からずっとドヤ顔で詐欺行為w
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:21:20.35
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:32:57.18
>>410
>それ、九州説の人の大好きな捏造だけれど、大陸から見て意味のある語は「倭」であって、
倭人は倭種の人、倭国は倭人の国ってだけだよ
「皆」倭種なんだから、対馬も壱岐も北部九州も渡海千里の先もみんな倭種だ<

ダメだ。
それなら「倭人」で済む。
それを敢えて(倭人ではなく)「倭種」と区別して書き分けた、という事は、
倭地にいる一般倭人とは区別された存在として、
「倭人と種は同じである」とか「倭人から別れた種である」という事を言おう、
としているという事だ。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:35:57.41
>>555
畿内説は学者が一旦纏向で大風呂敷広げてしまったものの、纏向からはゴミみたいなものしか
見つからないから、広げた風呂敷をどう回収するか今は途方に暮れている状態
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:38:12.75
>>412
>丹が仙薬たる水銀朱、辰砂だからこそ、倭国の産物として特記されるのであって
ベンガラだったらどこにでもあるものだし、わざわざ書いたりしないってことが、
九州説には分かってないんだよな<

ダメだ。
卑弥呼は「丹木」という植物を、特産物として、魏朝に上献している。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:41:07.68
>>845
甕棺墓に入った人骨ですら消滅してることがあるのに、
なんで蛙の骨が残っていたんだろうね
しかもかじった痕跡すら分析できるくらいしっかりと

奈良県の土壌は遺物を残してくれるドジョウなんだねえ
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:50:17.11
>>418
>鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が揃って
シェアを拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。この5地域は平安前期には、やはり
揃って地位を低下させている。ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を
凌駕する人口扶養力を養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」
『この5地域は平安前期には、やはり揃って地位を低下させている。』
この「平安前期に地位を低下」させた後の資料をドヤ顔で繰り返しコピペする九州説が哀れだ<

ダメだ。
鬼頭は「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しの皇国史観大和説文言を使っているから、
「大和説という結論先にありき」の思想宗教狂った似非学者であり、
そんな・・・・アホ学者の論理など、何の信頼性も確率もなく、
価値もない。

それが判らないらしいこの投稿子らも、おそらく同じ穴の貉。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 15:59:27.32
>>420
>「報告書すら読んでな」 「嘘」 とか決めつけるが理由を一切書かない
九州説が苦し紛れの言い訳の代わりにただ罵って誤魔化しているようだ
九州説信者の異常性が際立つ投稿だな <

この投稿そのものに、
「報告書すら読んでな」とか 「嘘」 とかと、決めつけた理由が一切書かれていない。

大和説者が苦し紛れの言い訳の代わりにただ罵って誤魔化しているようだ
大和説信者の異常性が際立つ投稿だな
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:01:09.03
>>442
>4世紀初旬と思われる北九州の城野遺跡では中国産の水銀朱が大量に使われていたね。
大和産でないのは何故だろう?<

成程。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:18:26.07
>>430
>>九州最大級の方形周溝墓(弥生時代終末期=約1800年前)と、
赤色顔料(水銀朱)が多量に塗られていた箱式石棺。
城野遺跡の存在は何を意味するのか。<

>答え出てるわ
「大和政権と仲良くならず、勢力は衰退していた」と
同市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室の宇野慎敏学芸員は話す<

この「学芸員」ではダメだ。
「大和政権と仲良くならず、勢力は衰退していた」では、
大和政権が盟主として存在していた、
という嘘つき騙しの「結論先にありき」が前提になっており、詐欺師であるだけ。
おそらく「学芸員」クラスでは、
「南→東」などの嘘つき騙しの上司や大学の教授らから洗脳されたままであり、
いずれも人間のクズだな。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:23:09.32
なるほど保護するどころか都合の悪い遺跡を破壊しようとしているのかな?
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:27:58.21
>>682
アホくさ、九州が伊都な時点で九州説なんて100%成立しとらんw

墨書文字自体、一番確認される場所は津や松阪周辺だし、そこは丹山の下流だ。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:28:48.54
>>437
>組み合わせ式木棺は、縄文晩期後半に北部九州にもたらされたとされている。
板を長方形に組み合わせて棺をつくるのが組み合わせ式木棺。
とすれば、板を作る技術はこの時期にはすでにあったということだ。
その板の表面はちゃんとした平面に仕上げられているわけだから、粗板をちゃんとした平面に仕上げる道具が縄文晩期後半にはあったということだな。
この時代には列島には鉄器はなかったから、粗板を平面に仕上げる道具は砥石しかないだろう。
つまり、矢板なんかは石器だけで作れるということだ。
纏向大溝や登呂の矢板は、石器だけで作れたんだよ。
しかし、大和説者は、縄文晩期後半の組み合わせ木棺は鉄斧で作ったと言い張るんだろうな。<

ふーん、成程。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:29:50.85
北部九州説なんて伊都=邪馬台国なんだろ?

倭人伝無視しないとそんな説成立出来る訳ないだろww
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:32:50.98
>>846
丹木なんて植物はそもそも存在すらしない。
おそらく丹で塗った何かだぞ、丹塗りの矢とか
装飾物の類いだ。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:33:00.41
>>855
伊都が邪馬台国の首都な
里程と日程は並列

ちがうというなら、朱儒国までの里程について説明してね
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:37:07.10
>>857
伊都は邪馬台国の首都なんて妄想も甚だしわw
当時の伊都はあくまで出張所、三世紀の大宰府に過ぎない。
大宰府を大和国なんていう奴は日本史板にいる資格すらないぞww
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:39:14.84
>>857
説明なんてアホでも出来る、資料や地図をもって証明しないと学問ではない。

九州説なんてだから行程パズルと言われてるんだぞ。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:40:40.57
出張所なのに大和の痕跡が全く見られない件
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:40:47.68
>>858
どこの出張所だよ?
当時は伊都三雲遺跡こそが日本の最先端だろうが。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:42:36.26
>>859
考古学資料を見れば、鉄器や硯や海外土器などから伊都が首都の鉄器国家=北部九州邪馬台国

地図を見れば、韓国に向かう筑紫の日向
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:42:37.26
九州説なんそんな恥ずかしい主張、死んでも出来ないよ。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:43:54.53
>>863
九州の弥生遺跡と畿内の古墳を比較するなんて恥ずかしいことができたんだから、
君ならできるよ!
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:44:20.49
>>784
>纏向遺跡でも朝鮮由来のツクシ型羽口が出てるから
>北部九州の韓濊人は来てると思うよ

あちゃー、纒向もやはり筑紫の傘下に過ぎないことが確定しちゃったw
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:44:29.78
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:45:00.38
>>862
邪馬台国に鉄が豊富なんて記述はない、邪馬台国の怪の編纂した安い解説本の読み過ぎだなw

卑弥呼は鬼道使い、丹山すらない北部九州に適した場所なんて皆無だよw
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:45:22.12
>>788
>結局、登呂遺跡に鉄がなかったという証明もお前はできないんだから諦めろww

あったというなら証拠を出せ。
一時的に使われても、その持ち主たちは農民を残して他へ移動しちゃったんだ。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:46:54.17
>>866
>トンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡

桃の種はかじってないからな!
ここ重要
桃の種はかじってない
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:46:58.38
平原なんて正に畿内勢力の足場にすぎないからな、だから畿内東海様式の墓なんだしw
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:47:07.37
>>799
>「征服先」と言った時点で、倭国は九州のみという九州説の大事な大事な前提が破綻するし、

大英帝国の植民地が世界中にあっても、英国といえばブリテン島の島国だよ?
畿内を植民地にしても、倭国は福岡。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:47:28.99
>>849 >>849
>この投稿そのものに、
>「報告書すら読んでな」とか 「嘘」 とかと、決めつけた理由が一切書かれていない。

この投稿したひと、間違いなく発狂してるよな
九州説側が理由もなく決め付けてると批判した文章だもの
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:48:10.84
>>870
じゃあ畿内東海は朝鮮の足場に過ぎないな
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:48:16.35
>>870
ごめん
文明人だから
蛙なんて食べられないwww
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:48:47.04
>>805

九州北部にいた卑弥呼の出自は、朝鮮半島ではなく、呉の太白の姫氏だよ。
勝手に妄想するなよ。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:50:23.37
>>870
ちがうよ

北部九州王墓の祖である吉武高木木棺墓様式の墓だよ

東海のもまた吉武高木由来
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:51:03.78
>>867

>>831
>東夷伝全体でも
>國出鐵。韓、濊、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
>で、楽浪郡、帯方郡も弁辰の鉄を使ってたと書いてある
>楽浪郡、帯方郡が鉄不足だったなんてどこにも書いてないし、そんなこと誰も考えないだろ?
>倭国の鉄事情も二郡と並列なんだから、まったく不足はないんだよ
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:51:29.38
>>829
>もうさ、平原1号墓に同時代の舶載鏡がないのをごまかすために、

後漢が滅んだから、魏の鏡の権威は必要としなくなったんだよ。
魏の鏡より大きい鏡を国産化できてしまったのだからね。
魏の鏡は材料に過ぎない。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:51:57.96
倭人伝における鉄なんて骨や石と同じ扱いなのに、邪馬台国の怪の詐欺連中にかかれば
何故か邪馬台国の魔法の無敵アイテムなんだよなw

せっかくの捏造話も阿波や近江て鉄に関する遺跡の出土で、もはやマヌケなバカかボケた爺さんしか鉄器詐欺にはひっかからないのにw
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:52:34.58
>>842
>この畿内説者は完全な詐欺師確定だな。
>今回のスレで最初からずっとドヤ顔で詐欺行為w

激しく同意する。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:52:55.36
>>879
鉄器が出土しなさすぎて気でも狂ったのかな?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:53:04.61
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:53:45.32
>>858
>当時の伊都はあくまで出張所、三世紀の大宰府に過ぎない。

大宰府って、天子が祭り事を行う役所のことだそうだ。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:55:27.47
>>876
つまり北部九州から東海へと中国からのルートが紀元前位で既に出来ていただけの話。
当然畿内がその中心だろう。
抵抗していたのが九州の中部より南側だ。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:59:16.30
本当に九州説の人の主張の仕方が朝鮮人にそっくりなんだよな
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 16:59:48.42
>>871
倭を九州だけと言っちゃうと
丹とか青玉とか卜骨とか
倭人伝と合わなくなった九州説が死亡
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:00:17.58
>>886
そういう返しをするあたり、よほど心当たりがあるんだなw
テンプレはまさに朝鮮論法だからw
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:00:40.91
>>884
哀しいねえ
中国からのルートじゃなくて
北部九州からの一部の東征者がいただけの話

鉄器の普及分布を見なよ
アフリカに出張するにしても電化製品もっていくだろ?
倭人が暮らすなら鉄器をもってくるんだよ

畿内だと河内だけだね
倭人が住んでくださってたのは
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:01:42.27
>>888
あ、やっぱそう思うよな!

今回のレーダー照射とか、GSOMIAとか、
韓国の論法とキナイコシの論法が全く一緒なんだよね!
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:03:57.79
>>887
丹は山に有ればいいから九州でもいい

青玉は新潟しかないから他の地域では×

倭国が支配下の越から入手していたと考えるのがスマート
丹も阿波朱など完全に倭国の支配下
長崎でも翡翠は採れるからそれでもいいが

卜骨は原の辻遺跡で問題なし
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:04:46.37
>>483
>邪馬台国は倭では最大七万戸の国だからな、少なくとも葛城地方以上の弥生時代の水田跡は今後はデフォになる。
まあ畿内説は既に河内をも含めるからもとから
問題はないからなw <

「南≠東」などで×だし、
「邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言」であるからでも、×。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:05:36.94
博多も歴史的にいろいろな工芸品を作ってるけど
銅鏡の本場の中国でも作ってない
平原のようにただデカイだけっていうのは
福岡の感性じゃないね
レプリカを大阪の業者が寄贈して
朝鮮人集団が八咫鏡だと連呼してるということにも表れてる
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:06:30.25
>>890
奥山(キナイコシ)のDNAが朝鮮製だからw
自分では気が付かないところも朝鮮人らしいところw
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:06:52.24
銅鐸にせよ銅矛にせよ
どんどん巨大化させるのが倭人クオリティ
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:07:24.00
>>487
>畿内説の立場では北部九州は畿内や東国からの中継場所という立場なんだぞ。<

「南≠東」などの嘘つき騙しに拠って、×。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:07:46.86
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:08:27.40
>>884
紀元前から畿内が中心とかマジキチすぐる
九州説を憎むあまりに完全に妄想世界に
侵食されちゃったね
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:09:09.12
巨大銅鐸は作るのも難しいし鋳造技術レベルは高い
大きな矛は濊人が使うと濊伝に書いてある
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:09:44.31
>>851
甕棺墓領域外のその遺跡ですら鉄器だらけなんだよね
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:10:39.53
>>870
九州勢力が東海地方にまで進出しただけだよ。
あくまでも倭の本家は筑紫。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:11:56.25
>>887
倭の王都である伊都に各地から献上されていたよ。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:12:56.28
>>894
>レプリカを大阪の業者が寄贈して

畿内の業者じゃん。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:13:16.30
>>902

ど没落した甕棺墓集団は九州東部にも行ってない
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:14:20.23
>>904

そう
福岡では関心無い
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:14:51.02
>>900
でもその銅鐸祭祀氏族は消滅して、九州北部の銅鏡文化が列島を席巻して今日まで三種の神器を含めて全国の神社の神宝は鏡なわけだが?
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:14:51.93
>>905
没落ならどこかに落ちのびるでしょ?
倭国乱で社会変革があってチョンマゲ切ったんだよ

あ、誤解しないように
倭国の中での高度な社会変革の話であって

蛙食ってた地域は無関係なw
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:16:33.01
>>907
銅鐸職人さんが征服者である北部九州倭国に媚びて作ったのが三角縁神獣鏡な
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:16:35.07
>>905

九州東部は隣の豊国だからね。
筑紫の甕棺墓が倭国大乱で実権を失い、肥国から木棺墓の卑弥呼が共立された(平原遺跡)。
完璧だな。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:17:15.04
>>886
それも教養のない、な
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:17:26.67
>>908
>没落ならどこかに落ちのびるでしょ?

記紀によると、大和に落ち延びたらしいよ。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:17:35.55
>>910
ちょい待ちw
肥国だって甕棺墓の国でしょうがw
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:17:43.78
>>908

ど没落したといってもトンズラこいたんじゃなくて
平原5号周溝にも博多の方形周溝にも埋まってる
少数勢力だからな
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:18:38.86
>>913
甕棺墓ではないよ?
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:19:41.93
>>891
>丹は山に有ればいいから九州でもいい

ダメだな
九州では出てない

>青玉は新潟しかないから他の地域では×

つまり九州はダメ


>卜骨は原の辻遺跡で問題なし

本土で無いので九州説死亡
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:21:06.89
>>916
博多の目と鼻の先だよ。
海で隔てられているのではない。
海でつながっているんだ。
倭人は海人だからね。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:21:13.08
肥人種は盗みが好きだからw
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:21:16.04
>>916
で、丹を採掘していなければならないという根拠は?

其山有丹 その山には丹が有る
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:22:17.29
>>916
で、長崎で翡翠が出て実際に使われているのだがな
九州だと出土もするし、新潟の翡翠も大量に使用している

他地域と比べて単に有利なだけ
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:22:52.14
>>916
>卜骨は原の辻遺跡で問題なし

で、本土でないからダメという根拠は?
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:23:20.36
>>917

博多の目と鼻の先の沿岸の宗像にすら受け入れられないのが甕棺墓
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:25:00.27
>>922

宗像は天孫族ではないからね。
でも天孫族に従う氏族であることは記紀から明白。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:25:13.65
>>922
お前の祖国を初めて統一した新羅の祖を輩出した多婆那国だからな
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:25:23.28
>>915

サリンテロのとこ?
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:26:44.41
>>838
>鉄器は出土しとらんという事実

出土しているし、出土していなかったと言い張ったところで、
1700年前の鉄が出る保障なんて最初からないのだから、
「出土しない」ことは「なかった」ことを意味しない

○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口

○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品

○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品

「それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを示す
鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:28:23.77
>>926
はい、畿内説お得意の

詐欺がバレても押し通してやり過ごす手法www
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:29:08.59
出真珠青玉 其山有丹 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味

真珠や翡翠を産出する

その山には丹が有る(産出はしていないからわざわざ分けている)

生姜・橘・山椒・茗荷も有るだけで、
使用して旨味成分を出すことを知らない
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:29:15.96
>>924

だから甕棺墓は宗像にないから従ってない
甕棺墓は全羅南道で存続する
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:30:00.37
>>840
>だから倭人の国とは、鉄器が大量に出土している
>北部九州邪馬台国。

畿内奈良盆地も1世紀の登呂遺跡も鉄に不自由していない倭人の地だよ
そして倭人の地にある国が倭国だというだけ

九州のみの倭国は破綻してるぞww
畿内に矢板を大量に献上してるんだろ? お前のお花畑脳内ではww
無関係な倭種の国だといっていたのに、ずいぶん劣化したものだww
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:31:08.20
>>870は一流の釣り師だな

方形周溝墓は三雲南小路王墓からの伊都国の王墓様式
しかし三雲南小路の埋葬者は300年間追葬されていたらしい。
そんな大物ということは埋葬者は漢委奴国王ではなかろうか
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:32:05.81
>>841
>おいおい待てよw
>3古墳で九州全部を越えてるとか本気なのか畿内説はw

超えてるだろ? 軽く?

430超>398ww

反論したければ、具体的な数字をつけて反論しろ!
無能なバカが!ww

お前ら九州説の大好きな「弥生時代全期間」の福岡県の鉄鏃の出土数が398(邪馬台国の会調べw)
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/206yaziri.htm

畿内3古墳で
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
「鉄鏃 約60本」 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口

○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、「鉄鏃約200本」、銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品

○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、「鉄鏃170本以上」、小札、U字形鉄製品

軽く400本を超えてるw
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:32:11.09
>>930
え?矢板?
矢板が欲しいの??
もっと欲しいのか?

ほれ
矢板を恵んでやるぞ?

ほれw

あらら
蛙を食べてるから
年貢を十公ゼロ毛人から九公一毛人にしてくださいとか
言われれるかと身構えたが

畿内毛人はずいぶんと謙虚だなあw

もっと庄内式土器くれ!
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:33:06.20
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:33:44.60
>>930
>鉄に不自由していない

奈良では石器をリサイクルしてたそうじゃないかw
鉄貧乏は大変だなw
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:34:20.72
>>932
今日も畿内説は議論に敗れてコピペ連打ですかね

弥生九州遺跡と畿内古墳時代を比べてなにがしたいのか
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:34:55.22
>>935
馬鹿にするな

石器をリサイクルしないと蛙をさばけないじゃないか
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:35:05.85
>>841
>弥生時代の九州の鉄器と
>古墳時代の畿内の鉄器を比較して
>なにが言いたいのかとw

九州説の主張する弥生時代の鉄器というのが、実は弥生時代全期間を累計した物で
3世紀のものはほとんどないww

編年研究の進展により、3世紀の卑弥呼の時代が既に古墳時代に入っていたことが
確認されているので、北部九州でも古墳時代の草創期を含む最初期のデータで比べないといけない

でも、九州説が3世紀の鉄器のデータを出さないからしょうがないよねww

九州説は無能なバカしかいないw
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:35:44.96
>>891
>倭国が支配下の越から入手していたと考えるのがスマート

それだと倭人伝がウソ書いたことになるね
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:36:33.56
>>932
>ホケノ山 畿内 3世紀中葉

嘘は良くない
炭素年代測定によりホケノは4世紀以降と確定
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:36:45.84
>>931

その三雲南小路を調査して周溝があるから
方形周溝墓だろうと判断してるのは考古学者
考古学者の判断では平原1号は200年ころ
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:38:14.18
>>938
お前の出している古墳は全て4世紀だろ
3世紀には鉄器ゼロだ
ゼロ
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:40:05.22
>>891
>丹は山に有ればいいから九州でもいい

イミフ
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:41:36.14
>>857
>伊都が邪馬台国の首都な

伊都国の時点で女王之所都と書いてない時点で、その説は成り立たない
ダメ押しに、有如刺史な地方官の一大率がいる時点で伊都国は邪馬台国から遠地であり
水行20日+10日、陸行1月の記述とも整合する

>里程と日程は並列

これは、何度も書いているが、
伊都国まで萬二千里は消化できない
北部九州まで水行10日では物理的に到達できない
水行と渡海をごっちゃにする解釈は最初から間違い
投馬国が女王国より以北の国とも真っ向から矛盾する

>ちがうというなら、朱儒国までの里程について説明してね

黒歯国、螺国は淮南子にもある伝説の国であり、
具体的な地理を考えるのはバカのやることww
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:42:38.08
>>901
>甕棺墓領域外のその遺跡ですら鉄器だらけなんだよね

そんな浪費文化圏のなにが偉いと思うわけ?
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:43:00.79
>>932
いやだからさw
なんで墓の中だけなのよw

人間だぞ?
生まれる
育つ
成人する
兵士を率いて、戦ったり、戦い以外でも生活している
そして年老いて死亡して、埋葬される

外で鉄器が出る時代の人が埋葬されるからこそ
鉄器が副葬されるわけだろ?

鉄器が大量に副葬されているということは、
畿内現地の人物なら、生活空間に同様の鉄器が潤沢に出土する時代の人物
そうでなければ、同じ時代で生活空間に鉄器が潤沢に出土する地域の人物
ということだ
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:43:40.06
>>860
>出張所なのに大和の痕跡が全く見られない件

痕跡あるよ

サキゾノ地区の庄内大和甕
使用痕がないのも確認されている
大和の祭祀をやるために一大率が持ってきたんだろう
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:43:48.04
>>943
敗北確定でもはやイミフとすっとぼけるしかないわな

出真珠青玉 其山有丹 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味

真珠や翡翠を産出する

その山には丹が有る(産出はしていないからわざわざ分けている)

生姜・橘・山椒・茗荷も有るだけで、
使用して旨味成分を出すことを知らない
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:44:42.92
>>861
>当時は伊都三雲遺跡こそが日本の最先端だろうが。

その三雲遺跡群の、いい場所のサキゾノ地区を一大率に押さえられちゃってるんだねw
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:44:55.38
>>947
畿内毛人を生口として連れてきた痕跡

一大率は主に対外交渉専門でそんなしょーもないことには関与しないよw
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:44:57.33
>>908
>蛙食ってた地域は無関係なw

漢帝国は無関係なの?
朝貢してないいなかった国?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:45:02.16
>>508
>倭の海人が居住していた場所なら畿内説の場合、河内湖周辺から摂津、馬見丘陵、矢田丘陵辺りも候補になる。<

「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
「南≠東」などに拠っても、×。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:45:31.32
>>949
畿内毛人を生口として連れてきた痕跡

一大率は主に対外交渉専門でそんなしょーもないことには関与しないよw
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:47:28.53
>>949
あ、ごめん
食事に蛙を出さなかったから怒ってるの?

いやーなかなかいなかったんだよね
北部九州倭国では蛙なんて食べないからさ
海産物の賄い飯は畿内から来た生口さんのお口には合わなかったようで・・・
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:47:58.89
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:48:31.20
>>954
それは文化的に遅れてるね九州
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:49:00.04
>>868
>あったというなら証拠を出せ。

開き直ったよ、こいつww
日本の考古学全てにけんかを売るつもりだなww

登呂遺跡では、纏向大溝同様に、多数の金属器で加工した矢板が出ているし
鉄の刃を付けて使うのが前提の袋鍬の柄も多数出ている

登呂遺跡で鉄を使っていなかったと考える人は、九州説にもいないだろ?
お前以外にはww
というか、そこに疑問を持つ人は通常の日本人の中には一人もいないww

お前が one & only だぞww
誇らしいニダ、ホルホルって言ってもいいんだぞww
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:50:21.35
>>941
>方形周溝墓だろうと判断してるのは考古学者

そんな判断考古学者じゃなくてもできるし
考古学者を名乗るなら仿製鏡の編年をしろよ
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:50:22.38
邪馬台国の読み方がそもそもヤマタイコクだとなぜ言い張れるのか。ヤマトコクだと
すんなり畿内説浮上するでわないか。そもそも九州説が正しいとされるのは、偽の
ヤマトコクを名乗る偽国があり、魏と繋がるべく使いを送り、魏の陳寿が倭国に来た時に
偽のヤマトコクである邪馬台国に連れて行っただけだろ。魏は当時からヤマトが畿内に
あるのを知っていたはずだし、魏の陳寿が邪馬台国への道順が後半グダグダに書かれた
理由も、立ち寄っていないから適当感が否めないんだろw

魏の陳寿はヤマト国の偽国の視察をしたに過ぎない。魏はヤマト国だと信じていたが、
騙されたのは魏の陳寿だな。邪馬台国はヤマト国であり、畿内説は間違いない。偽国が
なんだったのかが謎ではあるが。そもそも偽国が王は女帝だとしたのか、当時のヤマト国の
王が女帝だったのか。卑弥呼の存在の有無の方が重要な気がするww
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:51:02.86
>>957
登呂遺跡では、纏向大溝同様に、多数の金属器で加工した矢板が出ているし
鉄の刃を付けて使うのが前提の袋鍬の柄も多数出ている

鉄器は見つかってないけど
わずかな鉄器を使っていた痕跡が残っている

誇らしいニダ、ホルホル
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:52:08.77
>>871
>畿内を植民地にしても、倭国は福岡。

ブリテンが植民地にしていたのはブリテン人の地ではないから、英国ではないな
でも、魏志倭人伝に皆倭種と書かれている以上、畿内大和も倭人の地であり倭国なんだよww

九州説の畿内は無関係な倭種の地で倭国は九州のみってのは、何重にも破綻している

さらにその上積みが、畿内を征服したとか、畿内に矢板を献上したとかいう、お前の
脳内妄想なww
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:53:20.96
>>959
不憫だなあ

記紀に書いてあるだろ
倭と書いてヤマト

音声読み上げソフトでも倭=ヤマトと読み上げる

北部九州にあった倭国=ヤマト国
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:53:23.85
>>874
>ごめん
>文明人だから
>蛙なんて食べられないwww

フランス人に謝れww
フランス料理では、かえるは高級食材だww
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:54:13.07
>>958
>考古学者を名乗るなら仿製鏡の編年をしろよ

あるけど?


知らないの?
九州説って情弱だなあ
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:54:47.59
>>534
>そこで新しい需要や政治システムを構築する必要があったから技術者を渡来させ、
構築物による創造都市の概念が成立したのが
畿内ヤマト王権の成立に繋がるのではないだろうか<

九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があり、
「地方の市を監督する大倭職」が置かれたからであるから、×。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:55:08.08
>>876
>北部九州王墓の祖である吉武高木木棺墓様式の墓だよ

だったら、王権の鏡として多鈕細文鏡を選べよw
鏡はこの時期は、たまたま副葬品に入るレベルだよ
威信材ではあるけれど、王位の象徴などではない
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:55:22.31
九州はは無知が作った
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:55:22.54
>>961
お前ちゃんと魏志倭人伝よんでるのか?
倭種ってのは紀元前から倭人が入植していた日本海沿岸だぞ?

その南にあるのが朱儒国
そしてその東や南に黒歯国(考古学的に大阪湾沿岸)や裸国
さらにその奥地の記載すらされていない畿内は

毛人の地だwww
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:56:27.18
>帯方郡が鉄不足なんてことない

アホやね。
「二郡に供給す」と書いてあるやん。
鉄が郡へ貢がれていたから鉄不足にならんのよ。
そして、掘ったらその鉄が出てくるわな。
一方、大和はどこからも供給されてなかったから、鉄が出ないのよ。
ちゃんと文献読めよ。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:56:32.88
>>968
それ、倭人伝のどこに書いてあるの?

九州説は妄想ってこと?
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:56:40.50
>>966
最初は航海術も未熟で多鈕細文鏡が権威

発達して
漢帝国と外交できるようになったら
内行花文鏡が権威
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:57:43.21
>>970
お前ちゃんと魏志倭人伝よんでるのか?
倭種ってのは紀元前から倭人が入植していた日本海沿岸だぞ?

その南にあるのが朱儒国
そしてその東や南に黒歯国(考古学的に大阪湾沿岸)や裸国
これらは倭種であるかどうかすら書かれていない




さらにその奥地の記載すらされていない畿内は
記紀など日本文献によると

毛人の地だwww
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:58:09.25
>>878
>後漢が滅んだから、魏の鏡の権威は必要としなくなったんだよ。

魏の皇帝から鏡を下賜されているんだから、魏の権威を尊重しないとだめだろうが!
本当に、時系列とか事実関係、因果関係を論理的に考えられないんだな、こいつは

その後、また魏に使いを出しているのに、
「前にこちらの皇帝からいただいた鏡は権威にならないので鋳潰しました」っていうのか?ww

社会生活もまともに営めないだろ? ここまで頭が悪かったら?w
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:58:12.78
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が毛人が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:58:44.55
>>969
>一方、大和はどこからも供給されてなかったから、鉄が出ないのよ。

なら、なんで纒向に鍛冶遺跡が四つもあるのだ?
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 17:59:35.60
>>975
なけなしの財産で手に入れた鉄器を加工して加工して下降して
使い回した跡が残ってるだけだろ?w
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:00:42.28
>>947
日本全国どころか楽浪郡など各地の土器が集まる
伊都国でただ一点見つかった畿内庄内瓶をヤマト支配の根拠にする
畿内説ガイジ
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:00:42.81
>>973
魏の皇帝は「鉄鏡をもって尊しとなす」
文献に明記されているだろうが

魏にとっては銅鏡なんざ過去の遺物で
銅原料を倭人に与えただけのことだよ
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:02:37.39
>>891
>丹は山に有ればいいから九州でもいい

九州では3世紀時点で鉱脈が知られていないから、其山有丹と書かれないからダメ

>青玉は新潟しかないから他の地域では×

九州だけの倭国という九州説の主張では破綻する
畿内説のように列島の広い範囲の倭国を想定する場合は糸魚川も倭国でOK

>倭国が支配下の越から入手していたと考えるのがスマート
>丹も阿波朱など完全に倭国の支配下
>長崎でも翡翠は採れるからそれでもいいが

デタラメですねww

>卜骨は原の辻遺跡で問題なし

その場合、卜骨は倭国の風習ではなく、壱岐国に書かれる
詭弁にもならないおバカさんww
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:03:55.77
>>972
>お前ちゃんと魏志倭人伝よんでるのか?
>倭種ってのは紀元前から倭人が入植していた日本海沿岸だぞ?

倭人伝にそんなこと書いてないな
九州説名物の妄想か
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:04:41.87
>>899
>紀元前から畿内が中心とかマジキチすぐる

流通経路の中心と言っているだけで、政治の中心とは言ってないぞww

こうやって捏造をして、脳内畿内説を論破したつもりになる惨めな九州説が>>899ですよっと
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:05:02.27
>>567
>板についてだが、福井県三方町の縄文前期の遺跡である鳥浜貝塚では多数の木製品が出ている。
それらの木製品のうちには杭材、割材のほかに板材も出土している。
また良好な残存性のある櫂も出ている。
この櫂の水かき部分の平面は、明らかに砥石で擦り削ったものだ。
砥石以外の道具は考えられん。 時代は縄文前期だぞ。
しかもこの櫂の柄の部分も砥石で擦り減らして行って細く成形してある。
木材を石の楔で割り裂いて、その粗板を砥石で擦って板や柄にまで仕上げる技術は縄文前期にはあったということだ。
つまり、纏向や登呂の矢板が作られるまでに板を作る技術は長〜い間保持されてきたということだな。<

ふーん。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:07:40.32
>>979
鉱脈が知られていなかったという根拠は?
大分の水銀鉱脈など露頭が多数あるし、
文献にて川の上流から朱が流れてくることが古くから知られていた
=鉱脈があることは周知の事実だった
ことがわかっているのだが

長崎翡翠が使用されていたことが考古学的にわかっている事実を
デタラメとして逃げか?
お前は真正のクズだな畿内説者さんよ

なに言ってるんだ?
壱岐は倭国内だろ?
むしろ倭国発祥の地

魏使の視点からしても、
生まれて初めて「海外渡海」して、壱岐対馬に上陸して卜骨してもらったら、
倭国の風習として興奮して記載する
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:08:36.94
>>981
流通経路の中心なら北部九州経由で大陸系の遺物がもっと出るだろ
マジキチwマジキチww
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:08:44.23
>>981
流通経路の中心という根拠は?
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:09:32.54
>>917
>海で隔てられているのではない。
>海でつながっているんだ。
>倭人は海人だからね。

また墓穴掘ってるww
だから、本州は渡海千里の倭国ではない倭種の国ってのは破綻してるだろ>

日本海沿岸を海岸沿いに行くのが水行で、丹波から陸行で大和に行くんだよ
自分でもこの経路を追認したって気づいてないんだろうなw
https://i.imgur.com/63gSUj1.jpg
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:10:12.72
流通経路の中心なら栄える

流通マージンで栄える

蛙の骨をかじる生活にはならない
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:11:16.17
>>927
>詐欺がバレても押し通してやり過ごす手法www

詐欺と言いたかったら、具体的な数字を挙げて反論しろww

編年は信じないにだー以外、言えることのない九州説の惨めなことww
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:11:18.46
>>987
南じゃないからクズ詐欺師だなお前は
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:12:05.33
>>989
小枝から4世紀のホケノ山
それより後の古墳群

みじめな詐欺師だな畿内説のお前はwww
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:12:14.20
女王卑弥呼の平原女王墓から見つかった世界最大の超大型内行花文鏡を頂点とする国産大型内行花文鏡将軍達が鉄器を持って東征した現実に敗れたトンデモ畿内説が蛙の骨をかじった跡を見つけてむせび泣くスレ
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:12:22.30
>>984
九州の倭人が知らなかっただけで魏使の独自調査で調べ上げたのかもな
植生から何からかなり綿密な調査をしたみたいだし
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:12:55.80
>>582
>魏志倭人伝に書かれている記述があまりにも膨大過ぎて、九州北部なんかじゃ
収まり切れない規模の話だろ、これww
近畿説でしか説明出来ない。たまたま外交用である九州の支配国に
邪馬台国の誰かが来ていて魏の使いに内部事情を説明してたとしたら・・・ <

投馬國は、「至の前に途中移動文言がない」から不彌國からの側副傍線国説明であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、
不彌國の直ぐ南に邪馬壹國女王之所都がある事になり、
この男は×。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:13:14.24
日本で出土した蛙の骨をばかにしてるのは朝鮮四つ部落民
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:13:35.92
>>732
>櫂一本つくるのと、何百枚も矢板を造るのは別のことだって

アホォ!
作る技術が同じなら、あとは職人の数の違いだろが。
わけのわからんこと言うな。
アホォ!
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:15:19.20
>>946
>なんで墓の中だけなのよw

簡単に言えば、「耕されなかったから」だよ

錆びて朽ちた鉄は外力でばらばらになる
纏向遺跡の土地も田んぼになっていた時期が長くて、さまざまな擾乱を受けている

そういう擾乱のない場所として残ったのが古墳の埋葬主体部なんだよ

一方で、古墳の墳頂は戦国時代などに城に使われたりして、破壊されてしまっているのも
多いんだけどな
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:15:56.50
>>993
九州の倭人は100%知っている
だって阿波で水銀朱を採掘していたからな
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/23(土) 18:16:03.61
>>995
桃の種はかじってないからな!
ここ重要
桃の種はかじってない
10011001
垢版 |
Over 1000Thread
このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1日 19時間 13分 47秒
10021002
垢版 |
Over 1000Thread
5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。


───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────

会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。

▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/

▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

ニューススポーツなんでも実況