邪馬台国畿内説 Part538
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1574868157/ >>507
>単に畿内でも十分に鉄はあったから鉄貧乏ってのは嘘だってこと <
纏向は「鉄器」貧乏。 大和の東阿波型土器は、職人さんがやってきて造った。
阿波の普通の忌部人民さんが移住したわけではなさそう。^^ >>572
魏志倭人伝に書いてないことまで読み取るな!って言ってるんだよ
大和説は、魏志倭人伝を「解読」という名目で、
「南→東」などのような捏造ばかりするから、それはダメだって教えてるんだよ >>576
>一号墓の周溝の内側、墳丘部分にまで土坑墓を掘られてるんだぞ?w
1号墓被葬者への崇敬の念が極めて速やかに失われたことを示しているだけなんだが?
https://imgur.com/bzIw7Aa
この図を見れば、陪葬は勿論、殉葬の可能性もあるな。 >>588
>九州説の主張点は畿内には鉄器がないだけ?
>>563にあるように古墳三基だけでも大量に見つかってるんだけど<
いずれも4世紀の墓であり、年代が全く合わない。 矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
卑弥呼の宮室は大和じゃないのに、倭人伝に鉄鏃と出てるだけでどうしても大和に鉄器が必要だと矢板鉄器生産を妄想する卑弥呼大和教。
鉄器のない大和の矢板は、縄文以来の伝統によって砥石で表面擦ったんだよ。 >>579
>3世紀初頭から鉄の鑓鉋があって、<
唐古鍵の槍鉋の年代は不明。
>(九州説の主張でも直後の)古墳から大量に鉄の鏃が出ていて
ピンポイントで3世紀半ばの纒向には鉄はあっても鉄鏃はなかったとかいうのは、
バカの言い分以外の何ものでもないだろ?ww<
ホケノも椿井大塚山も黒塚も、4世紀頃であり、根拠にならない。 大和説者は、やっぱ大和の土壌の科学分析してもらわないと。
溶けたとしつこく食い下がっているが、調査したら大和の土壌は鉄が溶けにくいものだったりしてな。
そうなれば、大和説者は天下の笑いものだがな。
早よ、専門家に調査してもらえ。 >>16
>大和の東阿波型土器は、職人さんがやってきて造った。
「東阿波型土器」製作工人集団の「忌部はん」たちだね。
>阿波の普通の忌部人民さんが移住したわけではなさそう。^^
阿波の普通の忌部人民さんも移住しているよ。 開拓農民として。 @阿波 >>582
>A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。<
当然、卑弥呼時代の絹であり、弥生時代の絹だ。
>高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、<
卑弥呼が贈ったのだから、弥生時代の九州に存在したのだ。
>奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。<
下池山は、4世紀であり、卑弥呼の検使とは合わず、布目の間違い。
>九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。<
ダメだ。大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国に過ぎず、
前方後円墳自体が筑紫の那珂八幡などの模倣の3世紀末以後であり、
筑紫では、須玖岡本や一貴山銚子塚で、鏡を包むのに使われており、
大和の絹は「東征将軍らに拠る搬入」絹であった事になる。
>「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)<
唐古鍵なら、在地の出雲銅鐸祭祀部族らと、神武ら東征後の欠史八代との合同国だから、
双方の技術が合わさった、という可能性があるが、
しかし、大和説学者の年代論は信頼性が全くなく、信用出来ない。 >>582
>正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。<
ダメだ。
卑弥呼は「南≠東」などに拠って、筑紫の女王であり、大和や纏向の王ではなく、
「正始四年に倭の献上した絳青縑」も、筑紫から魏に贈ったものだ。
つまり「金原」は、
大和説という「結論先にありき」のインチキ論法を使った似非学者であった、
という事になる。
>茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。<
いずれも、卑弥呼が贈ったのだから、筑紫の最高級品を贈った、という事になるだけだ。 >>583
>>ノコギリが導入されるまで 薄い板を作るのはかなり難しかった<
>前に教えただろう? 板材は割板として作って鑓鉋を使って仕上げるんだよ
まあ釿(ちょうな)でもいいけれど <
「薄い板」は、木材には年輪があるから割板では年輪に沿って曲がってしまうから、
無理だな。 >>559
>鉄器がなかったと言い張るのが不合理<
纏向の史料実態は、鉄器はなかった、という事。 >>561
国粋皇国史観の人種差別的殺人戦争狂の大和説者らは、
「南→東」などのように、
史料事実の否定や曲解のはウソしかつかない
というよりウソしかつけない >>564
まだ「南→東」などの嘘つきだましの大和説の類スレ主は、
3世紀の纏向に鉄器があった、と言ってるのか?。
>畿内で見つかっている鉄器
○ホケノ山 畿内 3世紀中葉 ・・・
○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉・・・
○黒塚古墳 3世紀後半・・・<
いずれも4世紀。 >>564
「南→東」などの嘘つきだましの大和説者を含むトンデモの要件は、
嘘つきかガイキチ、あるいは両方 >>567
>須玖岡本遺跡D地点とか、三雲南小路遺跡とか、甕棺墓時代に北部九州の繁栄のピークがあって
それがド没落してるからだよ <
「ど没落」していない。
甕棺は、天孫族系の倭人王族の阿毎氏らの埋葬形態であったが、
姫氏系の卑弥呼が共立され、箱式石棺に葬られたために、
共立を推進支持した阿毎氏の王族らも、埋葬形態を変更したのだ。
>吉野ヶ里遺跡北墳丘墓も中央埋葬者を含め甕棺墓だ<
吉野ケ里も、甕棺であったが、
(那珂八幡などの前方後円墳と同じく)前方後円墳埋葬に変わったから、
甕棺埋葬を変更したのだ。 >>568
>しかし、その「鉄用の砥石が大量に出ているし」て、どこの遺跡の話?。
前から書いているが、その資料どこにあるのよ。
唐古鍵から出た鉄器は、1個だけ。
あんだけの工房遺跡で鉄器が1個だけだぞ。
過疎過ぎるわ。
さらに奈良全体でも鉄器は数えるほどしか出てない。<
成程。 >>569
>平原1号墓が突出しているのは
バキバキに割られた仿製鏡がやたらたくさん出ることだけ!<
破鏡は、「ペンダントの鏡」用。
仿製鏡ではなく、明帝下賜の21枚の「尚方作」鏡を含む、
渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡。
>ガラス製品も鉄剣も丹波の首長墓に負けてる<
女王だから、「玉と鏡」が多い。
>舶載鏡はやたら古いのが2枚だけだし、<
本当に舶載鏡であったんなら、壹與が親から伝えられて所持していた鏡。
>この時点で卑弥呼の墓の候補になれない
やたらに多い仿製鏡は出雲の荒神谷の銅剣大量埋納と比較すべきもの <
荒神谷には鏡がない。 >>507
>単に畿内でも十分に鉄はあったから鉄貧乏ってのは嘘だってこと <
纏向は「鉄器」貧乏。 >>572
魏志倭人伝に書いてないことまで読み取るな!って言ってるんだよ
大和説は、魏志倭人伝を「解読」という名目で、
「南→東」などのような捏造ばかりするから、それはダメだって教えてるんだよ >>576
>一号墓の周溝の内側、墳丘部分にまで土坑墓を掘られてるんだぞ?w
1号墓被葬者への崇敬の念が極めて速やかに失われたことを示しているだけなんだが?
https://imgur.com/bzIw7Aa
この図を見れば、陪葬は勿論、殉葬の可能性もあるな。 >>588
>九州説の主張点は畿内には鉄器がないだけ?
>>563にあるように古墳三基だけでも大量に見つかってるんだけど<
いずれも4世紀の墓であり、年代が全く合わない。 >>579
>3世紀初頭から鉄の鑓鉋があって、<
唐古鍵の槍鉋の年代は不明。
>(九州説の主張でも直後の)古墳から大量に鉄の鏃が出ていて
ピンポイントで3世紀半ばの纒向には鉄はあっても鉄鏃はなかったとかいうのは、
バカの言い分以外の何ものでもないだろ?ww<
ホケノも椿井大塚山も黒塚も、4世紀頃であり、根拠にならない。 >>582
>A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。<
当然、卑弥呼時代の絹であり、弥生時代の絹だ。
>高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、<
卑弥呼が贈ったのだから、弥生時代の九州に存在したのだ。
>奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。<
下池山は、4世紀であり、卑弥呼の検使とは合わず、布目の間違い。
>九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。<
ダメだ。大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国に過ぎず、
前方後円墳自体が筑紫の那珂八幡などの模倣の3世紀末以後であり、
筑紫では、須玖岡本や一貴山銚子塚で、鏡を包むのに使われており、
大和の絹は「東征将軍らに拠る搬入」絹であった事になる。
>「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)<
唐古鍵なら、在地の出雲銅鐸祭祀部族らと、神武ら東征後の欠史八代との合同国だから、
双方の技術が合わさった、という可能性があるが、
しかし、大和説学者の年代論は信頼性が全くなく、信用出来ない。 >>582
>正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。<
ダメだ。
卑弥呼は「南≠東」などに拠って、筑紫の女王であり、大和や纏向の王ではなく、
「正始四年に倭の献上した絳青縑」も、筑紫から魏に贈ったものだ。
つまり「金原」は、
大和説という「結論先にありき」のインチキ論法を使った似非学者であった、
という事になる。
>茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。<
いずれも、卑弥呼が贈ったのだから、筑紫の最高級品を贈った、という事になるだけだ。 >>583
>>ノコギリが導入されるまで 薄い板を作るのはかなり難しかった<
>前に教えただろう? 板材は割板として作って鑓鉋を使って仕上げるんだよ
まあ釿(ちょうな)でもいいけれど <
「薄い板」は、木材には年輪があるから割板では年輪に沿って曲がってしまうから、
無理だな。 >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
おいおい、何を偽スレでまた大嘘を書いて悦に入ってるんだ?ww >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ? >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ?
その時点で、縄文時代というのが既に疑問符がつく >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ?
その時点で、縄文時代というのが既に疑問符がつく
水田耕作が、単なる種籾の到来だけではなく >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ?
その時点で、縄文時代というのが既に疑問符がつく
水田耕作が、単なる種籾の到来だけではなく、技術一式の導入だと言われるのは >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
そもそも、矢板を使っているのは水田遺構だろ?
その時点で、縄文時代というのが既に疑問符がつく
水田耕作が、単なる種籾の到来だけではなく、技術一式の導入だと言われるのは
導水路の土木整備や水量管理なども含むからだ >>20
>矢板は縄文時代からあるにもかかわらず、鉄が出ない大和の矢板だけはどうしても鉄器生産と胸を張る大和説者の鉄器バカ。
それに何度言っても、でこぼこの石器で作った板と、綺麗な鑓鉋で作った板を同一視するなといっても理解しないしww
「石器で矢板」君も「石器で矢板バカ」にグレードアップした方がいいのかな?w >>22
>大和説者は、やっぱ大和の土壌の科学分析してもらわないと。
>溶けたとしつこく食い下がっているが、調査したら大和の土壌は鉄が溶けにくいものだったりしてな。
>そうなれば、大和説者は天下の笑いものだがな。
>早よ、専門家に調査してもらえ。
必死か?ww >>36
>この図を見れば、陪葬は勿論、殉葬の可能性もあるな。
ないよ?ww
本体と何十年も、年代が離れた殉葬墓なんてないだろ?w >>584
>それが何か
畿内では鉄製品がちゃんと管理されてた証拠
九州のように戦乱でもあって打ち捨てられたような状態ではなくて<
纏向で鉄製品を使ってそれを管理していたのなら、
纏向に「管理」された場所があった筈であり、
それを提示出来なければ、それは鉄製品がなかった、という事。 >>589
>>しかし、その「鉄用の砥石が大量に出ているし」て、どこの遺跡の話?<
>もちろん纒向遺跡だが?
桜井市埋蔵文化財センターに行けば砥石の現物が見られるよ<
そりゃ、鉄器の修理工場らしき発掘があったんだから、砥石もあっただろうが、
「大量」か?は、不明だな。 畿内で鉄が出土すれば、たとえ1個でも大漁なのだニダ! >>591
>・・・この位置関係と年代観を考慮すると 邪馬台国と卑弥呼の存在というよりも、
邪馬台国滅亡後の後継地として選ばれたと考えたほうがしっくり来る <
「南≠東」などに拠っても×だし、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言であるから、×。 >>597
>ホケノ山は中頃の築造。<
ホケノは、那珂八幡の後の石塚の後で、有棺有槨であるから、3世紀末。
>これより前の3世紀前半の大和はほとんどは鉄器過疎。
そこで、卑弥呼が死んだ直後に大和に鉄器が溢れるようになるわけ。<
卑弥呼が死んだ直後、というのが間違い。
>ホケノ山の副葬鉄器は博多からの戦利品だよ。
ホケノ山、黒塚、メクリはそうした博多から移送した鉄器群。<
違うな。 ホケノも九州倭国の「東征毛人五十五國」将軍の中の一人であり、
副葬鉄鏃などは、東征軍の武器。
>これをみれば、纏向の政権が博多、山門で何をしたのか明確過ぎるほど明確だろう。
そしてこの時期から、纏向の政権加盟国でも鉄器が出土し始める。
鉄器過疎地帯が3世紀中頃を境に鉄器充足地帯に変貌するということ。 お分かりか。<
ホケノも九州倭国の「東征毛人五十五國」将軍の中の一人であった。お分かりか?。 >>600
>そして適当なことよく考えもしないで書いてるうちに
そちらが卑弥呼は大和にいたと思ってる事を自ら書いてしまっているが
女王卑弥呼の居た邪馬台国は畿内で決まりでいいってこと? <
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つきだまし文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。 >>601
>>砥石の現物が見られる <
>アホォォォォ!
この砥石は3世紀後半のブツじゃないか。
矢板が打ち込まれたのは3世紀前半だっただろが。
ヴォォォケェェェェ〜!<
ふーん。 >>52
>p124
登呂の土質は鉄器の腐食率が高く、青谷上寺地の土質は鉄器の腐食率が低いとし、その差は6倍が見積もられるということだな。
しかし、この調査では、登呂にはもともと鉄器がなかったのか、それともあったが全て腐食分解したのかという事柄についての判断はできない。
そのあたりを判断するためには、土壌サンプルがもっと多く集められなければならない。
ただ、こうした調査は重要であるのは言うまでもない。 鉄は以外と無くならないぞ
まあ誰でも知ってると思うが、酸化膜が出来たらそれ以上錆びるには相当な時間を要する >>609
>九州の山門は畿内の大和と張り合ったら
前方後円墳や三角縁神獣鏡等の遺跡比べ勝負になる事をわかっているのか<
畿内なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言であり、
「正北抵新羅」や「南≠東」などに拠って、倭国の中心は北部九州であり、
大和は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国の旧小国の附庸國であり、
「日本國者倭國之別種也」であり、
大和日本國は九州倭国を併合吸収継承出来たのは、白村江の後。 >>614
>九州こそ畿内の朝廷のほうから下賜された鉄器を
管理もしないでほっぽり出しにしていたのだな <
大和は、九州倭国の別種分家の旧小国であり、
「南≠東」などに拠って、「畿内の朝廷」という事が×。 >>49
>必死か?
単なる印象評価だが、登呂の土壌と大和の土壌の土質は異なるのじゃないか。
登呂は平地の水田地帯。大和の桜井や天理あたりは山裾の小扇状地。
まあ、とにかく大和の土壌を実際に調査してもらえよ。 >>616
>九州の絹 弥生中期→弥生後期 ど 没 落 中<
没落していない。須玖岡本や一貴山銚子塚で鏡を絹で包んでいるし、
「筑後〜久留米」に遷宮後も、久留米や宮地嶽から「金刺繍の絹織物」が出ている。 >>56
>ホケノも…将軍の中の一人であった
ダメダメ。
ホケノの被葬者は、博多制圧のために派遣された武力集団の司令官ともいうべき最高祭祀者。 >>48
弥生の前期の組み合わせ木棺の板は、表面がごく平面的だがな。
前期にはまだ鉄器はないし。
石斧で粗削りして、表面は砥石で擦ったんだよ。 >>47
>矢板を使っているのは水田遺構だろ?
いやいや。
大和鉄器バカが言ってるのは、纏向大溝の南溝の矢板。
水田遺構の矢板については、登呂の矢板について言っている。
どちらの遺跡でも鉄器が出土していないの。
鉄器が出ないのは、溶けたからだと胸張ってるのよ。 >>60
>まあ誰でも知ってると思うが、酸化膜が出来たらそれ以上錆びるには相当な時間を要する
その酸化膜ができる条件は、自然界に打っ棄られた鉄で成立することは事実上ないから、無意味だよw >>66
>弥生の前期の組み合わせ木棺の板は、表面がごく平面的だがな。
そういって出してきた荒尾遺跡の木棺の板材がこれ
https://i.imgur.com/BisVK6m.jpg
でこぼこだな
纏向大溝の矢板と比べれば差は歴然w
https://i.imgur.com/EaD9Ol5.jpg >>67
>どちらの遺跡でも鉄器が出土していないの。
そして登呂遺跡の鉄が出ない理由はきちんと実証されてるなww
http://www.jssscp.org/files/abstract/23_poster.pdf
P124 ここでも「砥石で矢板」君は懲りずに踊ってくれるのか?ww 卑弥呼の時代の邪馬台国って、北九州と四国や中国地方、畿内までほぼ収めていたんだよおそらく・・
中心都市は、北九州、阿波、飛鳥。その他30国以上の連合国。対する勢力は南九州の狗奴国を
中心とした渡来人連合国家。九州の倭国大乱が起こったとされる2世紀後半から渡来人連合国家
と邪馬台国と倭国小国連合が長きに渡り戦って来た。そういう時代の話なんだよ、魏志倭人伝って! 邪馬台国の特定場所などもうどうでもいいww
卑弥呼という女王が偉大過ぎて、その後の大和の国の中でも天皇や王を
乗り越えて、神話や神の域まで到達しているんだぞ。そこが重要だろ!!!
卑弥呼のシャーマン逸話は、いつしか天照大神として信仰されるようになった。
日本の古代話の神話化が始まった起源は卑弥呼の存在にあると断言出来る! 8世紀の飛鳥時代でも、大和の中心が奈良でなぜ王権に各地の国々は争いなく従ったのか?
そう考えたら、邪馬台国が当時から倭国全体を仕切ってた理由が分かるよな。神話伝説のような
古代史の本があるから、話がややこしくなってるだけ。簡単に考えれば、邪馬台国は当時から
かなりの王国でリーダー的存在だった事が伺い知れる。西日本を支配下に置いてたのは卑弥呼の
時代から。 >>71
>鉄が出ない理由は
う〜ん、やはりアホか。 >>70
>纏向大溝の矢板と比べれば
纏向の矢板が皆なめらかで段差なく揃っているのは、水流で削られたから。 倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 @阿波 岐阜県荒尾南遺跡の弥生前期組み合わせ木棺の写真をみると、底板にはカンナ型の平砥石で擦り削った一定幅の筋跡がみえる。
弥生前期にはまだ鉄器は列島にもたらされていないので、板が石器で作られたことは明らか。
矢板自体はすでに縄文時代に作られている。矢板作りの道具は石器だ。
縄文丸木舟の櫂も出土しているが、柄と水掻き部分はきれいに成形され、水掻き部分の表面は平面であり、よく削られている。
こうした板の表面仕上げに砥石が使われたことは自明のことだ。
鉄器がなくても木製品の平面仕上げはごく普通に砥石でできたこと。
それを矢板は鉄器で作られたとしか発想できない想像力の貧困さは、大和説者に顕著だ。
どうしても、弥生後期、終末期の登呂や大和では鉄器が日常的に用いられていたと考えているらしい。
この時期の近江や大和以東では鉄器は過疎状態で、西日本のようには流通していなかったことが理解できないようだ。
つまり、歴史認識において明らかに基本的な欠陥を抱えているとしかいえない。
なぜそうなるのかというと、倭人伝の倭国では鉄鏃が用いられていたと書かれており、その倭国を大和などに比定しているために、どうしてもその時期の大和などでは鉄器が普及していたとの歴史観になってくるのだ。
しかし、その時期の大和では鉄器自体はほとんど出土しないために、普通に日常的に流通していたそれらの鉄器は溶けてしまったのだという論理を持ち出してきているもの。
大和の土壌は鉄器を溶かしやすいというわけである。
そこで、登呂と青谷上寺地の科学的な土壌分析で登呂の土壌は鉄を腐食しやすいと報告されたことを大和にもあてはめて、大和の鉄は溶けたことが証明されたと飛び跳ねているのが現状。
しかも、大和の土壌はまだ科学的に分析されていないのに、矢板が同様に出土していることでもって登呂と大和の土壌はおんなじだと決めつける始末。
印象評価では、登呂と纏向あたりの土壌は明らかに異なる。
まあ、飛び跳ねるのは纏向の土壌分析が行われてからにするのが妥当ということになる。
大和説者が飛び跳ねるのはそれからでも遅くない。 ある物質が、3年で1%減少するとします
つまり3年で存在量が99%になります
300年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか?
1800年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか? 答えは、
300年後で36.6%
1800年後で0.24%ですね この減少率がわずかに高くなって、3年後の残存率が98%になったとします
ある物質が、3年で2%減少するとします
つまり3年で存在量が98%になります
300年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか?
1800年後、この物質の存在量は初期値を1とした場合、どれだけ残っているでしょうか? 答えは
300年後で13.3%
1800年後で0.00054%ですね この、3年で2%減少するというのは鉄の損耗率としてはかなり少なめの見積もりです
また、さびが進むのは表面からですが、小さくなるほど体積に対する表面積の比率が高くなるので
残りが少なくなればその分損耗率は大きくなっていきます 残存率が0.00054%というのは、100万個最初にあっても
5個程度しか残らないという数字です
1800年後に見つからないのはむしろ当然ですね >>88
それなのに大量に九州では見つかるというのは、いかに筑紫が鉄器が満ち溢れた豊かな国であったかということだ。 >>89
>その残存率に科学的根拠があっての話かね。
2006年の文化財科学会での報告
http://www.jssscp.org/files/abstract/23_poster.pdf
PDFの23/223ページ、資料下のページ数で124ページ、
「鉄製遺物を埋蔵する土壌環境の腐食に対する影響の相対的評価の試み
登呂遺跡と青谷上寺地遺跡の比較に基づいて」
と比べても小さな減衰率で計算しているよ >>90
>それなのに大量に九州では見つかるというのは、いかに筑紫が鉄器が満ち溢れた豊かな国で
>あったかということだ。
福岡に鉄鏃が1000万個存在したと主張するのかいww
まともに計算すれば福岡だって1個も残らないんだよ
それでも見つかるのはたまたま残りやすい条件が実現しただけの偶然でしかない
条件の異なる特異的な偶発事例をもとに考えるのは、バカのやることだ >>92
>条件の異なる特異的な偶発事例をもとに考えるのは
その特異的な偶発事例が福岡だけでなく、摂津、河内、丹後までの西日本全域とそして関東地方で起こっているわけなんだが。
むしろ、大和、近江、東海、中部、東北が鉄器過疎的特殊事情地域なんだよね。
この両者は土質が違っているという報告でもあるのかね。 >>91
>…と比べても小さな減衰率で計算しているよ
それじゃ、福岡の残存数から逆算して、福岡では元々は何個の鉄器があったことになるのかね。 >>92
>まともに計算すれば福岡だって1個も残らないんだよ
あのなあ、事実と大いに食い違っているなら、それは机上の空論だよ。
意味がない。
そんなもので纒向に鉄がないことを言い訳できると思うなよ。 鉄が腐食しやすい土壌と腐食しにくい土壌があることはその研究で分かったが、では大和の天理や纏向あたりの土壌はどうなのよ。
天理や纏向が山裾の狭い範囲の扇状地であるのは、登呂より青谷上寺地のほうに似ているようだ。
青谷が登呂よりも鉄の腐食しにくく残りやすい土壌だとすれば、纏向なども残りやすい土壌であるようにみえる。
この考えが正しければ、纏向などは元々鉄器がごく少なかったということになるね。
いったい、どうよ、これ。
いずれにしても、纏向の土壌を調査してからでないと、大和で鉄は溶けたとは言えんでしょ。 >>71
>登呂遺跡の鉄が出ない理由はきちんと実証されてるな
やっぱアホやね。
登呂の土壌は単に鉄を腐食させやすい土質であるというだけのこと。
その調査結果はあくまで登呂の土質についてであって、登呂に鉄があったかなかったかという調査ではないということがお分かりでないらしいな。
元々登呂には鉄がなかったとしたら、その調査結果は単に登呂の土質が鉄を腐食させやすいというだけのこと過ぎないということになる。
登呂の鉄は溶けたと言うには、登呂には鉄があったことをまず証明しなければならないんだよ。
それから、はじめて土質のことが問題になる。 >>97
結論ありきでバカなことを言い続けるのが九州説
登呂遺跡では鉄の刃先を付けて使う袋鍬の柄も出ているし、鑓鉋で作られたと考えられる矢板も
大量にある
登呂遺跡に鉄器がなかったなどというバカはいないよw >>98
いくらお前がここでわめいても、纏向が邪馬台国の都だった証拠がないことに変わりはない 日本書紀崇神紀に記された「筑紫〜任那間二千里」は、航路距離にしろ、直線的距離にしろ、その単位が1里200mの場合に「二千里」に該当する。
崇神紀の二千里は、1里200mとする日本里でもって判断された距離のようにみえる。
したがって、魏略や倭人伝の1里430mによる里数と日本書紀崇神紀の1里200mによる里数は、その性格がまったく異なると考えるのがよいのではないか。
ただ、このような単位の相違があったとすれば、倭人伝に記される卑弥呼の墓については、帯方郡使の張政が邪馬台国の役人から聞いた「径百余歩」は魏里換算では「径五十歩」であった可能性が出てくる。
とすると、卑弥呼の墓は「径72.5m」だったということになってくる。
しかし、卑弥呼の墓の「径百歩」は単に(大きい)という意味ではないかと考えられるので、「百歩」を実数だと考える必要はないのではないか。 千はたくさんの意味で明確な数値は示さないが、
七万戸、百歩は正しい数字と主張するのがキナイコシ
都合のいいところだけ正しいことにしている
まさにチェリーピッキングw >>98
>登呂遺跡では鉄の刃先を付けて使う袋鍬の柄も出ている
弥生時代の東日本の鍬は身部分も木製であったことが知られている。
登呂の鍬は木製鍬に鉄器の刃先を装着するものだったとするには、その鉄製袋鍬先の出土が必要だ。
そんなものは一つも出てないし。
矢板は石器でも作れると、何遍も言うたろが。 >>102
鉄器の普及が弥生後期からみられる福井県域でも、鉄製鍬先が登場するのは古墳時代になってからだ。
それよりも鉄器普及が遅れる鉄過疎地帯の登呂の弥生後期層で鍬先を使った木鍬があるはずがない。 >>103
神奈川県逗子市の池子遺跡では弥生中期後半の木製品が大量に出土しているが、鍬先は全部木製型だ。
袋鉄製鍬先はみつかってない。鉄器そのものがない。 >>104
浜松市の千人塚古墳から鉄製鍬先が出土している。
この古墳は5世紀の築造だ。 >>92
>福岡に鉄鏃が1000万個存在したと主張するのかいww
つまりキナイコシが主張しているのは机上の空論なんだよ。 静岡県の鷹ノ道遺跡。
登呂遺跡の北方に広がる弥生〜律令にかけての遺跡。
鉄製鍬先が出土。
この鍬先はU字型。
U字型鍬先は古墳時代に用いられるようになった。
袋状鉄製鍬先は出土なし。
静岡県浜松市の須部U遺跡。
弥生時代 鉄器出土なし。
古墳時代 鉄斧、鉄鍬先出土。 ほとんど一人で造ったのかな、なぜ知っている人がいるんだろう。
『2ch 偉人 aa』ほとんど仮名。 後の〜そういう家のホンモノの写真なのかな?
ドンバ、ドラクエ、・・・、・・・、・・・その他。 仏教、黄金の寝言は寝て言え?
もれ(仮)の父親の子供の頃、
あのような雰囲気なんだけどw
頭も坊主頭で、耳は違うけど。 王母・・・寒いな・・・、
こういう名前の家なんだけどw何なんだろう。
本当に何かの家なのかな。 勝〜!みたいな事を言っている人がいたでしょ、
そういう名前、父親の下の名前w
ドンバ(不明)の写真は、
老婆も生まれていない頃の写真だと言っているから、
詳しいことはわからない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています