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邪馬台国畿内説 Part537
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0001◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:22:37.68
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1574712019/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:24:12.50
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:24:46.05
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:25:18.78
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:25:52.05
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:26:25.64
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:27:03.75
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。

 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く)
0008◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:27:35.95
(承前)
◆6−2
 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。

 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:28:09.60
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
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2019/11/28(木) 00:28:58.23
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0011◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:29:30.60
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III  ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
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2019/11/28(木) 00:30:06.47
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
   「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
 以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。
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2019/11/28(木) 00:30:40.23
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く)
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2019/11/28(木) 00:31:13.23
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 交趾郡:雒陽南萬一千里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
 以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
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2019/11/28(木) 00:31:45.69
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
 中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。

◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
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2019/11/28(木) 00:32:26.20
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
 これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
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2019/11/28(木) 00:33:00.93
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
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2019/11/28(木) 00:33:31.90
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと


 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0019◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:34:17.64
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。

呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。

 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0020◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:34:53.10
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。

 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、纒向遺跡メクリ地区で「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。
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2019/11/28(木) 00:35:26.46
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。


◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
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2019/11/28(木) 00:35:59.91
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0023◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:36:30.93
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。

 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png

 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。
0024◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:37:03.59
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:37:35.98
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:38:09.87
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
 ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:38:46.98
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:39:22.59
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:39:50.60
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
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2019/11/28(木) 00:40:25.79
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:40:59.98
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:41:31.35
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:42:05.07
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:42:40.12
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
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2019/11/28(木) 00:43:12.55
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)

 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
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2019/11/28(木) 00:43:46.48
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
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2019/11/28(木) 00:44:20.73
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
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2019/11/28(木) 00:44:54.09
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
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2019/11/28(木) 00:45:27.75
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
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2019/11/28(木) 00:46:00.40
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
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2019/11/28(木) 00:46:33.38
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
 文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
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2019/11/28(木) 00:47:07.34
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
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2019/11/28(木) 00:47:39.46
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
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2019/11/28(木) 00:48:12.62
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:48:46.74
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 00:49:19.91
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
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2019/11/28(木) 00:49:51.05
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
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2019/11/28(木) 00:50:25.48
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
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2019/11/28(木) 00:50:57.19
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
 備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
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2019/11/28(木) 00:51:31.17
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
                (漢書西域)
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2019/11/28(木) 00:52:04.74
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
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2019/11/28(木) 00:52:36.87
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
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2019/11/28(木) 00:53:10.82
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
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2019/11/28(木) 00:53:43.57
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
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2019/11/28(木) 00:54:15.70
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。

 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
 乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
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2019/11/28(木) 00:54:48.80
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。

 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
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2019/11/28(木) 00:55:44.63
 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
 

◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。
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2019/11/28(木) 00:56:17.23
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
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2019/11/28(木) 00:56:51.07
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。

 庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。

 生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
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2019/11/28(木) 00:57:27.57
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後
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2019/11/28(木) 00:58:20.69
円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。


◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
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2019/11/28(木) 00:58:53.05
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。

 これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。

三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
 旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
 其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
 不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
 逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」

とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。

 もとより倭人伝は倭人の国々を
  1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
  2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。

倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。
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2019/11/28(木) 00:59:27.22
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2019/11/28(木) 00:59:59.37
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2019/11/28(木) 01:00:34.42
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
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2019/11/28(木) 01:01:06.45
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。
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2019/11/28(木) 01:01:40.78
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
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2019/11/28(木) 01:02:13.25
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。


◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
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2019/11/28(木) 01:02:46.24
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
 ※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
 ※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
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2019/11/28(木) 01:03:19.33
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。

 八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
0071◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/28(木) 01:03:51.43
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!

A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。

 北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
 西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
 南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
 東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
 ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。


◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
  畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!

A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。

 IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。

 畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
0072◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 01:04:26.24
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
  布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!

A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。

ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。

科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。

◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
  彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!

A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
 これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。

 呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
0073◆n7jxAxKCBhb6
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2019/11/28(木) 01:04:59.87
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!

A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
  東漢にあっても普通に食用であった。
  「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
  「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
 纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。


◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!

A:合理的な理由がない。
 纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
 一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。

 纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。

以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0074◆n7jxAxKCBhb6
垢版 |
2019/11/28(木) 01:05:34.07
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
 荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 ◆1を修正、FAQ 98を追加
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 01:33:15.66
>>74
いつもスレ立て、テンプレ貼りお疲れ様です。

>>1さんのお仕事は、この問題について調べに来た一般の方々への
「灯台」のようなものと思います。

これからも、一般の方々の道を照らしていただければと思います。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 02:40:09.61
間違った方へ導いているけどね。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 03:03:47.15
そうやって反論もできないまま悪口だけ言ってるから
九州説は自分たちの破綻を自分で天下に披露してる
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 03:12:26.24
お約束通り投稿しておきます >>750の投稿がわかりずらい(ゴメン)ので私なりに
 
1、750鐵鏃使ってるとそこらに鏃が転がってなきゃオカシイ? おかしくない
          ⇒ 可笑しいか、可笑しく無いかの判断は個人の判断ですが、鉄の量を計る上では参考になります
            文化程度の尺度になるかと思います 畿内は他説に比べ少ないと思います

2、750駅前大型建物が「宮室樓觀城柵嚴設」と合わない? それ、理由がない
           ⇒ 大型建物は樓觀の役目を果たしていません。彼と同じく平屋だと思うからです。見つかればよいのですが
3、750婢千人自侍、常有人持兵守衛 どこに住んでたが倭人伝に書いてある? 書いてないから合致しない例に出来ない
         ⇒何処に住んでるかは不明ですが、「自侍」「常有」からマキムク内でも近辺でもいいですがその痕跡は今のところありません。
         古墳は基本的に有棺無槨
4、古墳は基本的に有棺無槨  なにも問題ない   
         ⇒これは証拠を示すべきです。当時ヤマトにはないと心得ています

2と3とに言えますが
「魏志倭人伝」には、卑弥呼の居るところは「宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛」と書かれています。
この漢字の並びを見ただけでも物々しい警戒がうかがえますが、マキムクにはその様子は感じとれません。
                

以上 私なりの意見です
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 04:00:00.63
前の536の
>>694
>石器で作れることは、鉄器で作れた
纏向大溝の矢板とは特に関係ないな

大溝の矢板の先などに鉄器で削った痕跡がみられるということならその意見は妥当だが、
調査報告書などにそのような記述があるのかね?
ないのなら、どんな道具で削ったんだよといことになり、石斧で削って砥石で仕上げたのだろうという意見が優勢になるというわけだな。
早よ、その「鉄器で削った痕跡」とやらををアップしたまえ。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 04:09:50.27
>>79
>石斧で削って砥石で仕上げたのだろうという意見が優勢になるというわけだな

優勢になってないから妄想というわけだな。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 04:29:17.46
ほんとーに、何度言っても、わからない人々がいるみたいだから

『千葉 漁師 創価』

調べてみた?戸籍などを何やらと言っている人がいたりするでしょ、
盗んだり?創価が犯人だというわけではないんだけど。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 04:36:05.63
これは成太作(?)の話なんだけど


『創価学会池田大作氏および父様の戸籍謄本(詳細版)を 知る方,教えて頂きたい』


同じような話をしているでしょ、家の系図なども何やらとか
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 04:45:46.82
日本自体、終了という話をしているだけ、
マスコミというのはメディア(一部テレビ、ラジオ・・・芸能など含め)・・・、
同じような意味なんだろうw
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 04:50:08.45
何度、言えばわかるんだ?
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:05:48.11
創作物があったりするでしょ、
これは家の話だな・・・と、わかる人はわかる。


プリンス〜元プリンス(元プリンセス)。
うらしまん。どらくえ。龍宮。・・・。・・・。

漫画なども同じ、人権侵害のようなことばかりしていたり。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:08:51.41
魏略や倭人伝の「万二千里」はどこから出てきたものか。
翰苑倭国条に謝承がまとめた後漢書の一節が採録されているそうだ。
「楽浪郡儌去其国万二千里」がそれ。
「儌」は「徼」であろう。「徼外」は砦の外、国境の外を意味するので、「楽浪郡儌」は楽浪郡の郡境の意味になる。
「楽浪郡儌去其国万二千里」は(楽浪郡の郡境はその国から万二千里のところにある)という意味になる。
この謝承後漢書は西暦250年頃にまとめられたとみられている。
一方、魏略は魏末〜晋初にかけてまとめられたとされ、その時期は魏が終わった265年前後とされている。
ということは、魏略が書いた「自帯方至女国万二千余里」の前に謝承の「楽浪郡儌去其国万二千里」があって、魏略の万二千余里はこの謝承の万二千里を採録した可能性が高い。
となると、謝承後漢書の「其国」は後漢に朝貢した奴国を指していることが推測されるため、そもそもこの万二千里は魏略の女国とは無関係の里数であることが分かる。
つまり、奴国が楽浪郡から万二千里のところにあると言っているもので、これが魏略では楽浪郡が帯方郡に置き換えられ、また奴国ではなく女国に置き換えられたということである。
このように、万二千里は魏略が書かれる前にすでにあった里数だということだ。
では、この万二千里はどこから来た里数なのか。
1世紀頃にまとめられた論衡恢国篇に「越裳献雉倭人貢鬯(暢)」があり、倭人が周の成王に薬草の暢草を貢いだというもの。
この論衡の倭人が奴国に置き換えられ、そして漢書地理志にみられる大月氏国までの距離の約万二千里がその奴国までの距離として採用されたのが謝承後漢書の「楽浪郡儌去其国万二千里」だということなのだろう。
この考えが正しければ、魏略の女国までの万二千里は元々は大月氏国までの距離を指す里数であって、倭人の女国までの距離ではなかったということになってくる。
そういうことなのだろう。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:09:25.63
ゲイ?ホモ?
何だったのか知らないけど、歌舞伎〜とか、
そういう話もしているし
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:14:22.31
矢板ですが、石器で削ったと思う・・・鉄器に比べ安価だし結構切れますよ(石器 切れ味 で検索)
ところで
鉄器で削ったとして畿内説に優位に働くのですか?
それとも、なんで削ったのかの議論ですか?

>>79
>「鉄器で削った痕跡」とやらををアップしたまえ。<
痕跡は無理でしょう。板に鉄粉が付いている???んなの無理
苦し紛れに放った言葉でしょうかね?
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:15:41.67
>>80
>優勢になってないから妄想というわけだな

そんなことより、きみのすべきことは纏向大溝の矢板が鉄器で削られていたという調査報告をアップすることだよ。
調査報告のそのわずかな個所の記述をここに書き込めばいいんだから、すぐにできるだろう。
早くやりたまえ。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:20:18.45
馬に乗り、謎の刀(剣)などの話も、ほとんど同じような、

『姥清水』に出てくるキャラ?
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:32:05.81
>>78

飲食を給する男子一人だけ出入りしてるような処なので
三重県多気郡明和町の斎宮跡(飛鳥・奈良時代から南北朝時代にわたる遺跡)と
比較したほうがいい
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:34:43.97
>>89

お前が大量の石斧を使った証拠を出せばいい
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:34:46.79
『姥清水』

若い衆を何やら〜と言っているでしょ、
集めいていたのかな、なぜか男ばかり。

母親が・・・、寒くなってきて、
冷凍(保存)保管されていた?月が出てきて・・・ほとんど同じ設定。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:39:01.58
>>673
また大和説は、「南≠東」への反論から逃げた
大和説は逃げてばかり
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:40:22.33
>>674
「南→東」などの嘘つきだましに関する証拠出せないどころか
自分の説も説明できないのが
究極無能大和説
・・・・アホ詐欺師は悲惨である
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:40:45.02
何かを盗んだり・・・、
そういう事をしていた人たちがいたから、
どこそこに住んでいたというのも、わかるんだろうw
ホンモノの話、当時、この辺りに住んでいたんだなとか。


例えば『姥清水』
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:41:40.41
>>675
「南→東」の根拠や「纏向が卑弥呼の都」の根拠言わずに逃げるなら
大和説なんて
最初から存在しなかったってことで
結論ですな

大和説は×
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:42:22.94
>>676
口に出すのも恥ずかしいようなカス説なんだろう
「南→東」などの嘘つきだましの大和説だもの
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:44:37.22
>>680
>「鬼道」という言葉から考えるなら
張魯が教団を率いて漢中一国を支配していたようなシチュを念頭に置けばいい <

「事鬼道、能惑衆」は、魏使らは「鬼道と似ている」という判断を書いているのであり、
「張魯らの鬼道だ」とかと断定した訳ではない。
もちろん張魯らもが、自分らが「鬼道だ」、なんて自称した筈もない。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:45:40.71
>>684
>自分の口からひとことも説明出来ないのは
わかってないからだね <

タイトルの「古墳造営労働力の出現と煮沸用甕--造営キャンプの検証にむけて」を見れば、
大体、「纏向は古墳造営キャンプ」説であるんだな、と判る。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:49:05.30
>>716
「南→東」や「冢=前方後円墳」の史料事実の改竄や、
「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」の抹殺や、
「日本國者倭國之別種也」の曲解などの大和説は、
捏造が好きだな
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:50:03.09
>>720
史料事実と現代大和説の学術論文を混同する大和説は
つまり学問に無縁ということだ
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:50:56.16
>>744
また「南→東」などの嘘つきの・・・・詐欺師の大和説が、
「質問の応酬の無限議論」を開始して、
発狂した
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:51:52.36
>>745
「南→東」などの嘘つきだましの大和説は、
「言葉尻を捉えて、無限質問応酬」に持ち込んで、
都合の悪い論点から逃亡する、
ってことで、よろしい?

この喜劇
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:52:52.62
>>754
>だが巻向は三輪山の麓だしな、丹山もあるし
祭祀場所としてこれ以上相応しい場所はない。<

日本中、殆どどこでも山が見え、信仰や祭祀の対象になり得るし、
「顔料の取れる山」もあり得るし。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:55:05.09
前の536の >>694

>石器で作った矢板と、鉄器で作った矢板は見ただけで容易に違いが分かるんだから
石器で作れることは、鉄器で作られた纏向大溝の矢板とは特に関係ないなww
「矢板」という単語だけに頼った論証は無意味だよ
いい加減に諦めな
お前が恥をかいただけww<

これはイカン
見ただけで違いがわかる?千里眼?
今の科学技術をしても1,700年も時がたってりゃ無理だと思うよ
あと最後の捨て台詞はイカンよ 恥をかいたのはどちらか知らんけど 
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:55:08.77
>>757
「南→東」などの嘘つきだましの大和説の人は説明能力がないんだね
説明出来ないのは、自分でも解ってない証拠だよ
つまり大和説は空論ってことさ
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:56:04.41
>>763
つか、倭地全体に通用する話が多いから
纒向だけだ、というのには、ちゃんとした考証いるだろ?
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:57:01.33
>>770
>卑弥呼が鬼道を使うというなら、合わない事もないけどな。
当時の中国で鬼道とは後々道教だし。
神仙思想といえば象徴的な山に桃や鏡、水銀朱はセットなんだぞ。
3世紀末の三輪山の麓には全てあるからな。>

道教が自分らを「鬼道」と呼ぶ筈がないし、
「鬼道」というのは、根拠や論理が良く分からない意味不明な「道」、
という意味であった可能性が高いし、
当然、魏使らも、そのようなつもりで記録した、という可能性が高いもの。
だから、「神仙思想」というものとの類似、程度では、
状況証拠的であるだけで、特定根拠にはならない。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:58:10.65
>>780
>畿内説は倭人伝の記述を重視してるんだよw<

嘘を付くな。
「南→東」などのような史料事実の否定曲解をしているし、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言を使っていたし、
どこが「倭人伝の記述を重視」しているんだい?。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:59:08.96
>>824
明らかに誤った妄言を撒き散らす人間がいたら諌めないとね。
畿内なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言を使い、
「南→東」などの嘘つきだましの大和説を放置したら、
日本の歴史は闇の中だよ。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 05:59:58.59
>>854
「南→東」などの嘘つきだましがバレた大和説は、
反論不能ってことでFA?
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:01:00.92
>>858
>畿内説は考古学者が中心になって進んでるんだからさ <

この男もアホだね。
歴史という学は「何時どこで何が起きたのか?」を知って、
何故それが起きたのか?説明するもの。
そして、文献は、何時どこで何が、などを記載してあり、非常に価値が高い史料になるが、
考古は、紀年考古発掘ではない限り「何時」は全く分からず、
「どこで何が」しか判らず、順番を推定出来る位であり、
そのままでは、歴史の絶対的な根拠にならず、価値が低いもの。

つまり、「南→東」などのように、
同時代に実地に見聞計測された高確率の文献記載を否定曲解して、
考古発掘だけで、「何時?」を自由自在に動かした大和説考古学者は、
一種の嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師であり、×。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:01:50.52
>>861
>箱式石棺が有棺無槨だと思う理由は? ないよね<

「棺」は原則として、ほぼ遺体を容るに足るサイズであり、
「槨」は原則として、遺体や棺を容るに足る「小部屋」であり、
明らかにサイズが違っていて、魏の役人らは「箱式石棺を槨だ」と間違えるがない。

そして、張政や魏の役人らは、卑弥呼の葬儀を実見しており、
祇園山の箱式石棺を見た上で、「有棺無槨」と報告した事にもなる。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:02:52.27
>>868
>九州に多い箱式石棺が有棺無槨に該当しないことは 認めるね?<

箱式石棺は、遺体や身に付ける副葬品を包む程度の棺であり、
それを包み更に棺の外に外部にの副葬品が置ける「小部屋」的な槨が存在しないから、
箱式石棺は、「有棺無槨」に相当する。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:05:19.52
>>872
>小型丸底土器は庄内式の最初からある <

小型丸底は、壁厚を書かなければ、庄内か?布留か?の区別にならない。

>箸墓の木製輪鐙は箸墓築造から何十年も後の布留1の層から出土 <

木は、水や土砂よりも軽いから、
浮き上がる事もあれば、水を吸収して浮き上がらない事もあり、
それだけでは、絶対年代根拠にならず、
箸墓築造何十年後、と断定は出来ない。

すべて常識だから一般科学者者は、大和説を支持していない
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:06:00.87
ほとんど同じ話(談)というのも、おかしな話。
偶然なのか、ただストーカー(犯罪なんだけど)がいるというだけなのか。

『サイバーパンクSPECIAL』〜なぜか『れでぃお・がが』の・・・。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:06:16.22
>>908
>前方後円墳秩序・・・<

都出比呂志は、「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」という史料実態を全く知らないか?、
判らなかったアホ学者。
実際には前方後円墳はは、九州倭國の那珂八幡などが古く、
それや前方後方墳なども、を東征将軍らが大和で進化させたもの。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:06:54.56
>>944
「南→東」などの嘘つきだましの大和説が負けると
荒らしが始まる
いつものパターン
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:07:50.42
>>978
「南→東」などの嘘つきだましの指摘に、
具体的な反論が出来ない大和説って
悲惨だね
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:08:32.09
>>984
「南→東」などの嘘つき騙しに騙し関して、
具体的な話をしろと言われると、逃げて逃げて逃げ回る
それが大和説
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:14:13.82
いい加減な投稿する畿内説が袋叩きに合ってるなww
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:15:40.46
>>92
>お前が…出せばいい

アホォ〜!
鉄器使ったと言うてるのはお主じゃ。
その鉄器使った証拠出せよ。
アホォ〜!
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:24:32.80
>>123

石斧と砥石で木材加工したと言ってるのはお前らの人種だけだから
お前が纒向で石斧を使った証拠を出せばいい
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:26:29.02
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。・・・・・・・・・・・・・・・・

おいおい反論はしておくよ
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:31:31.79
>>77
人間 我慢 辛抱が 大事
さしたるカキコミでもないので無視したら

おっと オレもですネww
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:38:28.47
気付いている人は気づいている、
もれ(仮名)の書き込みw
よくわからないけど、本当は凄い話ばかりなんだろう、
実在しているの、実在していたの?みたいな話とか。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:40:34.80
実際は邪馬台国とも・・・関係ありそうな話ばかりだし。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:42:13.85
>>78
>「魏志倭人伝」には、卑弥呼の居るところは「宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛」と書かれています。
この漢字の並びを見ただけでも物々しい警戒がうかがえますが、マキムクにはその様子は感じとれません。<



                
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:42:50.53
>>75
>いつもスレ立て、テンプレ貼りお疲れ様です。
>>1さんのお仕事は、この問題について調べに来た一般の方々への
「灯台」のようなものと思います。
これからも、一般の方々の道を照らしていただければと思います。<

いや、テンプレは、
「南→東」や「冢→前方後円墳」などの史料事実の否定曲解や、
「日本國者倭國之別種也」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などの史料事実の隠蔽や、
「考古編年論が文献の史料事実や史料実態よりも優越する」というような、
人類や学問や科学の常識に反する犯罪者的な宣伝を書いており、
宗教や聖書やオーム経典のように、詐術的であり、
皇国史観国家礼賛の唯我独尊タカ派の宗教的な宣伝をしており、
国民にも人類にも全くためにならず、
むしろ戦争を鼓舞扇動して害になるばかりの、「国民や人類の敵」になるものである。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:45:29.58
>>77
>そうやって反論もできないまま悪口だけ言ってるから
九州説は自分たちの破綻を自分で天下に披露してる<

そうやって「南≠東」などの史料事実に、
反論もできないまま悪口だけ言ってるから
大和説者やテンプレは、
自分たちの破綻を自分で天下に披露してる
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:47:31.27
>>124
もうやめたら
あんたが悪いよ
変な投稿するから
>>106に書いておいたけど
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 06:47:52.72
徳永英明『Wednesday Moon』

どらくえ〜、ほとんど同じような話
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 07:01:25.40
>>80
>>石斧で削って砥石で仕上げたのだろうという意見が優勢になるというわけだな <

>優勢になってないから妄想というわけだな。<

当然、縄文学会の説明や、
5chの国民や、人類の常識などで「優勢」になっているのであり、
大和説考古学会は、麻原オームやキョクウ皇国史観国粋殺人戦争狂らと同じく、
国民や人類の支持が少なく、劣勢だ、という事だよ。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 07:08:45.14
>>124
>お前が纏向で石斧を使った証拠を出せばいい

アホはしょうがないな。
ワイは、鉄器使わんでも矢板は作れるというてるだけ。
大和で鉄器が出ない以上、纏向大溝の矢板を作った道具としては石器があるじゃないかというわけよ。
お主みたいに、鉄器はなくても矢板は大和の鉄器で作ったと言い張るような音痴じゃないわい。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 07:14:12.42
>>86
>・・・では、この万二千里はどこから来た里数なのか。
1世紀頃にまとめられた論衡恢国篇に「越裳献雉倭人貢鬯(暢)」があり、倭人が周の成王に薬草の暢草を貢いだというもの。
この論衡の倭人が奴国に置き換えられ、そして漢書地理志にみられる大月氏国までの距離の約万二千里がその奴国までの距離として採用されたのが謝承後漢書の「楽浪郡儌去其国万二千里」だということなのだろう。
この考えが正しければ、魏略の女国までの万二千里は元々は大月氏国までの距離を指す里数であって、倭人の女国までの距離ではなかったということになってくる。
そういうことなのだろう。<

魏使らは、「余」の有無を使っての書き分けをしており、
有効数字1桁程度の近似値化もしており、
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」のように、
きちんと「道里可得略載」であった事も説明しているんだから、
魏使らは、きちんと里数を計測して近似値化していた、という事だ。

そして、それが淮南子などの「萬二千余里」と一致していた、という事は、
漢代の淮南子らも、何らかの計測情報を知っていた、という事にしかならない。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 07:27:42.30
『アニメの神様』
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 07:33:55.42
妄執老人たちの朝は早いな
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 07:34:53.90
『ヱヴァンゲリヲン』?
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 07:49:54.51
今朝も、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、テンプレートを論破されて、ゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されてしまっているな、、、
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 07:57:24.48
あとポケモソの主人公と、
とある作品の某と某・・・というキャラ、
本当は同じ家の・・・みたいな事を言っている人もいたりw
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 08:26:20.41
>>124
纒向から出た鉄器を示せばいいだけだろ?
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 08:27:39.76
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長

私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 08:28:09.18
湿潤耳垢:弥生系「倭国」筑紫、出雲、越
乾燥耳垢:古墳時代以降に流入した半島(ツングースク)系「日本国」

https://i.imgur.com/VqqGojH.png
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 08:47:24.84
神様のいない何やらという作品があるでしょ、
殺したからだと言っているんだよw


他の???が神様をはじめました?
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 08:53:13.18
いい加減に気付いているだろう、
神殺し〜というアニメの台詞なども同じ。

もののけ姫?
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 08:54:00.54
>>145
祭祀の宮、鬼道使いに鉄なんて不用なんだが。
ヤマトの鉄工房は信貴山ですよ。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 08:55:59.41
そういう作品なども、
創価か何かなんだろうみたいな話ばかり、なぜなんだろう?
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 09:00:46.11
>>109
そもそも道教なんて文言が当時中国にはないのだら仕方ないのだがw
倭人伝は中国側の資料だよ、鬼道とは初期道教 の事。卑弥呼とは鏡や丹をやり取りしてる以上は否定する要素がない。
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 09:02:14.31
日蓮何やら?部落か何かなんだろう?
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 09:05:51.01
何時代からの話なのか知らないけど、
部落なんだろう?
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 09:21:08.63
>>152
そして鏡文化は九州北部が中心。
神道を象徴する三種の神器が副葬されるのも、主に九州北部。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 09:39:12.88
>>135

だからお前が矢板を作った道具としては石器があるじゃないかというんだから
石斧を探して来い
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 09:52:01.39
>>156

>>135は、鉄器と限定する必要はないと言っているのでは?
鉄器を使ったと主張する方が証拠を提示しないと。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 09:55:09.78
なんで畿内説は証拠も示さず大きな顔をしているの?
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 09:59:32.73
>>157

>>135>>79で「石斧で削って砥石で仕上げたのだろうという意見が優勢になるというわけだな。」
と書いている
鉄器は古墳時代以降でもほとんど捨てられていない
出なくなった石器が使われ続けていると考えるなら
鉄器が一般に普及する鎌倉時代まで
かつて使っていた打製石器や黒曜石を日本では使い続けていると考えなければならない
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 10:14:53.25
>>159
言っていることがチグハグというか場当たり的というか、適当だな。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 10:17:28.27
古くなった鉄器が普通に捨てられていた九州とはえらい格差だな。
奈良県の状況を全国に当てはめて説明しようとするのは畿内説の悪い癖だ。
で?
君は鎌倉時代まで奈良では鉄器が普及しなかったという説なの?
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 10:25:00.77
>>157
それがね、もう一方の分からずや、
1700年前の矢板が、鉄器で作ったか、石器で作ったか、見ればすぐわかると、馬鹿げたこと
言って、石器派の人を、罵倒したのが原因
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 10:36:55.68
>>156
工事が終われば、持ち帰るから現場には無いと思うよ!
鉄器も同じ、
彼が言ってるのは、鉄器で削ったと言う証拠を求めているのだよ!
これも無理だろ、しかしあんたは、見ればわかると投稿したのが、間違い。
訂正して、罵倒したことを謝れば、良いだけじゃん。
謝るのは簡単、顔見えないし、あんたは特定できないだろうから
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 10:44:01.50
>>146
成る程な、
桜井市にも常識人いるね!
やはり、橿原考古学研究所の、ハネッカエリが、
名誉か、地位、金に目が眩んだのかな?
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 10:58:04.89
>>161

北部九州は遺伝子が朝鮮人に近いから当然えらい違う
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:02:06.79
>>150
兵の武器は何だったと思いますか?
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:12:16.08
首狩や顔面ぐじゃぐじゃに変形させる民族と同じように
鉄器を捨てていなければ在ったことにならないと考えるのが根本的に間違い
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:12:29.91
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)

畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)

大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)

熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長)
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:12:51.50
>>146
>清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。<


そうですよ、清水さん。
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があったのですよ。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:13:34.85
>>168
しかし他の地域では古くなった鉄器が見つかったりするものなのだが?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:18:53.38
>>171

捨てられてるのはそんなに多くない
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:25:05.38
>>168
吉野ケ里で言うと、建築物に使われていた蝶番が出土してるんだからそういう物を期待してるわけで。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:30:06.79
>>173

成人用甕棺なんかないから期待してもらっても困る
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:30:37.35
見つかった数に差があるのだから、もともとあった数にも差があったと考える他ない。
鉄器の普及度に九州北部と畿内で圧倒的な差があったのは確実。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:31:08.18
>>174
甕棺を持ち出して誤魔化すな。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:32:19.05
甕棺ではない平原遺跡などでも、鉄剣が溶けずに見つかっているね。
なぜ畿内の土壌でだけ鉄がよく溶けたことになるのかな?
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:32:51.80
見つかった数に差があるのだから、もともとあった数にも差があったと考える他ない。
鉄器の普及度に九州北部と畿内で圧倒的な差があったのは確実。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:33:30.08
鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後

http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:33:43.82
天智天皇5年(666年)、百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。凡そ緇素(出家者と非出家者)を択ばず。癸亥年より3年間、同様に官食を給賜する。
天武天皇13年(684年)、百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。
朱鳥元年(686年)、新羅沙門行心が謀反し、飛騨国の伽藍に徙す。
持統天皇元年(687年)、投化した高麗56人を、常陸国に居住させ、投化した新羅人14人を下野国に配する。又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
持統天皇2年(688年)、百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。
持統天皇3年(689年)、投化した新羅人を、下毛野に居住させる。
持統天皇4年(690年)、帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。
霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。
霊亀2年(716年)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。
天平5年(733年)、武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。
天平宝字2年(758年)、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。
天平宝字二年(758年)、美濃国席田郡の子人・吾志等、賀羅造を賜姓される。
天平宝字4年(760年)、帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。
天平宝字五年(761年)、新羅征討に備え、美濃・武蔵各国の少年20人ずつに、新羅語を習わせる。
天平神護2年(766年)、上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。
宝亀十一年(780年)、武蔵国新羅郡人の沙良・眞熊等2人が広岡造を賜姓される。
延暦七年(788年)、美濃國厚見郡人の羿鹵濱倉が美見造を賜姓される。
延暦8年(789年)、信濃国筑摩郡人の後部牛養が田河造を賜姓される。
延暦16年(797年)、信濃国人の前部綱麻呂が安坂姓を下賜される。
延暦18年(799年)、百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。
弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。
弘仁11年(820年)、遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱)
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:35:01.80
>>175

朝鮮から古鉄を拾ったり盗んでくるのだから
朝鮮人が多いほうが古鉄は多いだろう
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:38:44.13
>>181
朝鮮から持ち込むのは延棒だよ。
それを九州北部で製品にした。
奈良盆地には流入ルートがない。
海がない後進地域だから。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:39:58.20
あと、鉄剣は古鉄ではないからね。
当然。

畿内説は揚げ足取りしかしないし、それさえも満足に行えていない。
ダメダメだなw
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:43:55.27
>>183

鉄剣が集落に捨ててあった遺跡とはどこの?
古鉄を再利用した後集落に捨てた鉄器を含む総数だろ?
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:53:36.14
戦時中に防空壕などを掘リまくってた頃に弥生時代の鉄器が出土して、戦後に埋もれた防空壕を調査したら近代の鉄器と弥生時代の鉄器が入り混じって出土するそうだ。
簡単に溶けてなくなったりする物じゃないと思うよ。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 11:57:57.38
防空壕がある場所はだいたい土中を撹乱していない
古墳時代は間違いなく鉄器の保有数は増えてるので
北部九州での弥生時代と古墳時代で集落に捨てられてる鉄器の数を比較したらいい
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:04:42.38
倭人伝には鉄の記述なんてないと何度言われたら理解出来るんだよw

魏史韓伝に出てくる倭人?鉄を取りに来る倭人は半島にいたり、北部九州から来る倭人に決まってるだろ、邪馬台国なんて関係ない話だw
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:05:21.96
倭人伝に書かれている倭人特有の風習である
中国が夏の時代から行っている卜骨や黥面の風習が
日本列島の何時の時代からどこの地域で見られるかを観察しなければならない
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:08:43.48
>>186
鉄はリサイクル出来ないせいか、再び青銅時代に戻ってるはずだぞ?
そして丁度その頃に銅鏡が流行ってるはずだ。
だから3世紀後半に最盛期迎えた纏向で鉄が出ないのは当たり前と思っていいんじゃない?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:09:05.66
>>155
鏡なんて弥生前期の時点で葛城や河内まで来てるだろ。実際鏡作神社は奈良盆地にあるからな。
北部九州は単に中継ぎ問屋みたいなもんだよ。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:13:59.00
>>167
兵は鬼道なんて使わないだろw
戦場に多くの巫女やまして女王の宮を造るなんてあり得ない話。

北部九州には鬼道の気配が希薄だからな
巫女が沢山いて祭祀場所としては三輪山の麓が一番相応しい。
まあこんなの当然の話だ。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:14:45.91
>>191

>鉄はリサイクル出来ないせいか、再び青銅時代に戻ってるはずだぞ?

それ誰の研究だ?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:19:08.68
>>186
奈良県は防空壕を掘らなかったのか?
そんなわけないよな。
奈良県はどこを掘っても弥生時代の鉄器がほとんど出ない。
福岡県はどこを掘っても弥生時代の鉄器が出る。
言い訳するなよ、見苦しい。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:19:26.21
>>191
>鉄はリサイクル出来ないせいか、再び青銅時代に戻ってるはずだぞ?
>そして丁度その頃に銅鏡が流行ってるはずだ。
>だから3世紀後半に最盛期迎えた纏向で鉄が出ないのは当たり前と思っていいんじゃない?

根拠もなく都合のいいことばかり言い張る畿内説
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:19:50.07
>>186
>北部九州での弥生時代と古墳時代で集落に捨てられてる鉄器の数を比較したらいい

なぜ違う時代のものを比較するの?
詐欺?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:20:44.59
>>188
>魏史韓伝に出てくる倭人?鉄を取りに来る倭人は半島にいたり、北部九州から来る倭人に決まってるだろ、邪馬台国なんて関係ない話だw

つまり倭人とは九州北部の人で、倭とは九州北部のことなんだよ。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:21:15.06
五斗米道は鬼道の連中と確か蜀の近くの山に国こさえとったはずで陳寿も詳しいと思うぞ。そういう連中が屯田兵と共にやってきたんだよ、物部は屯田兵の頭だろ?
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:21:53.41
>>189
倭人伝には絹の話も出てくる。
食べ物の話もあるね。
それらを全て数えていくと、ほぼ全て九州北部、それも福岡県で揃うんだよ。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:22:08.06
>>197

集落に捨てられる鉄の数と保有数が比例するかどうかわからんだろ
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:22:48.78
>>192
奈良は銅鐸文化圏だよ?
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:24:58.73
>>193
>北部九州には鬼道の気配が希薄だからな

鬼道が初期の神道のことなら、三種の神器を榊にかけて祭祀を執り行ったのだろう。
鬼が先祖の霊のことなら、王が歴代の祖に礼拝したのだろうから、やはり弥生王墓が並ぶ九州北部、それも伊都であった可能性が高い。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:26:30.39
>>191
>鉄はリサイクル出来ないせいか、再び青銅時代に戻ってるはずだぞ?
>だから3世紀後半に最盛期迎えた纏向で鉄が出ないのは当たり前と思っていいんじゃない?

キナイコシの珍説集に入れておけば?
鉄は継続して朝鮮から供給されるよ。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:27:05.15
>>200

絹にしても甕棺盛行時代は多く、ど没落した終末期、古墳時代初には激減している
前スレにも書いたが
北部九州説は甕棺時代〜200年ころ(平原1号)の遺物を根拠にしている
学者の研究に基づいた畿内説は3世紀初〜古墳時代を根拠にしている
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:27:20.67
>>201
比例しないという根拠は?
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:28:16.53
>>205
平原遺跡は甕棺ではない。
やり直し。

反論が全く有効ではないねw
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:28:44.07
>>195
>奈良県は防空壕を掘らなかったのか?
奈良は疎開先でもあるし、戦時中は比較的安全だったから
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:28:54.67
>>205
卑弥呼の時代である200年頃を研究して何が悪いの?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:29:56.32
>>208

今度、奈良県の人に聞いてみよう。
防空壕を掘らなかったのかどうか。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:30:21.67
>>209

200年頃に死んだ人は2世紀後半に活動した人
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:30:31.02
キナイコシの言い訳が苦しすぎるw
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:30:47.98
>>194
日本国の歴史の授業を受けたなら、鉄はコスパが悪かったと習ったはずだが?
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:32:28.85
>>195

首狩時代の鉄器はね
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:32:49.87
>>198
北部九州には丹山がない時点で話にならないな。
また戸数でも投馬国五万すら収まる場所はない。
まあ倭人伝の記述を重視するなら北部九州説なんてもはや日本で一番可能性が低い場所だよ。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:34:18.94
>>213

青銅器時代に戻ったという研究は誰のものなのかと聞いている
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:35:50.76
>>203
そもそも伊都は邪馬台国ではないからなw
北部九州に具体的な女王伝承が何もない。
神功天皇にしても元々畿内葛城辺り出身なんだからな。
結局北部九州は出張先という事だよ。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:40:08.39
>>215
佐世保市相浦の佐世保層群相浦層は自然水銀の産地として有名だろ。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:40:53.72
>>210
呼んだか?
防空壕どころか屯鶴峰には本土決戦用に
長野と同様司令部が掘られたんだからな。
まあ鉄とは何の関係もないが。
畿内の弥生時代末期の鉄なら信貴山周辺だよ。
今でも痕跡は多少は残ってるが、あそこは
日本でも有数の地滑り地帯なんだぞ。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:45:16.28
>>218
弥生時代の痕跡があればな、丹生神社の所在地が集中するのも紀伊半島だ。

またそれをいうなら鉄の神である金山彦、金山媛神社の所在地は大県遺跡のある信貴山なんだがw
ここは弥生時代の鏡も出土済な。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:46:06.68
>>216
青銅時代→鉄器時代では無いんだよ。
鋭利な物には鉄、祭祀用途などでは青銅と使い分けていたんだよ。
だから祭祀中心の古墳時代は青銅の方が多く用いられ、鉄剣などは不要だった。
勘違いしないでほしいが、決して畿内説を擁護してるわけじゃないよ。
邪馬台国時代はまだ争いの絶えない時代だったんだから鉄の時代だったはずだ。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:49:11.47
>>220
自然水銀が湧き出てくるのに痕跡などいらんわ。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:50:13.24
>>221

銅鏡は唐の時代でも和鏡を作ってるが
青銅器時代とは言わない
鉄器時代から青銅器時代に戻ったというのは誰の研究なのかと聞いている
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 12:58:47.16
「鉄はリサイクル出来ないせいか、再び青銅時代に戻ってるはずだぞ」
というのは

九州説の>>204が思っただけということでいいな
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:00:26.71
>>225のアンカは

>>204 ×
>>191 ○
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:01:39.52
>>223
青銅器時代や鉄器時代というのはグローバル視点であって、日本には存在しない。
それをあたかも存在したかのように話をしてるからそれに合わせて戻ったと表現しただけ。
正確には鉄より青銅を利用する方が多くなった時代=古墳時代という意味だよ。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:04:23.01
365日24時間5chに張り付いて
誰の賛同も得られない妄想を垂れ流し
キモオタ特有の汚い鼻息を吐きまくる
キナイコシはなんのために生きてるのだろう
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:04:54.97
畿内に鉄器時代が訪れなかったのは明白だ

<魏志韓伝より>
「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
(韓国は鉄が出るので、韓国、?国、倭国がこれを採っている。
諸の市で買い物をするときは中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪と帯方の二郡にも鉄を供給している。)
 
■重要事項
・3世紀頃は鉄は市で通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png

■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
 
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった
・一大率は畿内政権とは無関係
・倭国として認識された範囲に畿内は入ってなかった
 
■裏付け
・纏向遺跡では鉄器は出土せず、釘一本すら見つかっていない
・纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない
・もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
(畿内説の有名な迷言)
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:05:51.15
あと遺跡発掘で勘違いをしてる奴が多いが、
奈良中部に南部なんて明治時代以降、地面を掘る大規模開発なんて殆ど皆無なんだからな。

公共工事のついでに何かが出るというのは全国共通だが、奈良は制限も多いから掘る機会が特に少ない。
巻向だって県営住宅の工事で偶然発見できたし
何より巻向駅の下に重要な場所が掛かってしまっている。

また最近やっと葛城にバイパス工事したお陰で
既に弥生時代前期最大の水田跡がでただろ?
あの辺りや橿原、田原本なんてまだ何が出るかわからないんだよ。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:06:09.73
>>227

古墳から鉄器や鉄テイが大量に出てる
沖ノ島でも学術調査で鉄の板が見つかっている
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:06:48.48
>>156
>石斧を探して来い

石斧なんてごろごろしているぞ。
奈良県では、例えば、唐古・鍵遺跡。
伐採・加工用の石斧が出土している。
また、この唐古・鍵遺跡では弥生末期層で鉄斧が出ており、木製品には鉄器で削った跡もあるそうだな。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:08:50.61
>>222
じゃなぜ丹生神社が集中しないんだよw
つまりさほど重視されなかったという事だ。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:09:14.97
>>215
>北部九州には丹山がない時点で話にならないな。

丹にすがるしかない畿内説w
他のほぼ全ての項目で九州北部が圧倒するからね(鉄器、絹、野菜)
で、奈良盆地に採掘が行われていた弥生時代の丹山はあるのかな?
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:10:37.85
>>217

間違った前提をお題目のように唱えていても、反論にはならないよ?
あれ?
桜井市にある新興宗教って、お題目を唱えるんだっけ?
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:11:18.97
ここの九州説は鉄器があったかどうかを追求したがるけど、ほとんどが「鉄鏃」を根拠としていると思う。
しかし俺はの根拠は「魏志韓伝に倭人が鉄を採りに半島まで来ていたと書いてあるから」なんだよ。
その証拠として、鉄器が出土しなきゃおかしいと思ってる。
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:12:19.30
>>219
>日本でも有数の地滑り地帯なんだぞ。

九州なんて、毎年土砂災害だぞ。
撹乱で失われる遺跡の割合は高い。
しかし奈良盆地より圧倒的に鉄器を含めた遺物が出る。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:12:42.32
>>234

九州北部の野菜とは?w
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:13:00.18
>>219
奈良盆地は防空壕を掘らないから鉄器が出ないというキナイコシの嘘が論破されました。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:14:13.41
>>237

洪水で埋まったら残る
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:15:37.85
>>221
>邪馬台国時代はまだ争いの絶えない時代だったんだから鉄の時代だったはずだ。

それと並行して銅鏡祭祀は延々と福岡県で続いていた。
その一つが平原遺跡だ。
巨大鏡を破るという派手な祭祀は人目を引いただろうね。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:16:28.93
>>224
主張している人に聞くのは当然でしょ?
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:17:34.15
「鉄はリサイクル出来ないせいか、再び青銅時代に戻ってるはずだぞ」
というのは
畿内説の>>191が口から出まかせを言っただけということ。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:17:47.50
>>230
奈良盆地は北部九州よりも広範囲にしかも丁寧に調査が行われている
と誰か言ってたぞ?
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:19:27.16
>>230
>何より巻向駅の下に重要な場所が掛かってしまっている。

駅や線路は開発じゃないのかよ。
ダブスタたな!
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:21:25.10
>>243
まあ実際のところ戻ったようなもんだろ
纏向がそれを証明しているw
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:21:34.84
>>236
鉄族は倭人伝に直接記載があるからね。
どちらにしても畿内は可能性が低いということにしかならない。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:22:41.04
>>244

キナイコシはその時その時で適当なことを言うからね。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:23:22.29
>>246

その間も九州北部は鉄器時代が続いていたけどねw
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:26:16.82
>>189
>倭人伝に書かれている倭人特有の風習である
中国が夏の時代から行っている卜骨や黥面の風習が
日本列島の何時の時代からどこの地域で見られるかを観察しなければならない <

関係なし。
魏の役人らは、狗邪韓国〜女王之所都〜(足摺の侏儒國付近までの)倭種の間に、
ト骨も鯨面も見たから記録した。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:32:47.60
その通りだ、
てきとうな言いぐさ言い訳が行き詰まるとトンズラし、
ほとぼりが冷めた頃に舞い戻って、鉄は溶けたなどと口から出まかせを云いまくる。これの繰り返し・・・、
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:33:25.96
畿内説が祭祀中心時代に移行した証拠として、唐古鍵の鉄器時代→纏向の青銅時代と言うのなら、それは畿内説を補強する上で有益だと思うけどな
畿内もホケノ山古墳で大量に鉄器が出土していると言い張る奥山にそんな知恵は無いかw
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:34:48.04
>>236

東夷伝は魏(220年 - 265年)の時代を中心とした時代
「國出鐵韓濊倭皆【従】取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡」は
魏が238年に帯方郡を直轄地にした後の時代も含まれる
弥生時代中期に北部九州に持ち込まれている二条突帯鋳造鉄斧の古鉄は
燕で作られたもので韓国よりも日本のほうが出土は多く韓伝の記載とは関係ない
鉄器は卑弥呼の遣使以降に急激に出土が増える地域を根拠にしなければならない
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:39:59.11
>>253
またそんな見当違いな所をピンポイントで深読みするのか?w

前スレ
828 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/11/27(水) 13:06:52.95
この図が示しているのは鉄の出土量だけではなく、馬の居なかった3世紀当時の物流状況をも示していると言える。
こんな状況下で奈良盆地に首都を置いて一体何ができる?

鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:42:19.27
>>253
>弥生時代中期に北部九州に持ち込まれている二条突帯鋳造鉄斧の古鉄は燕で作られたもので

それが北部九州の鉄のすべてと見なしているのか?w

奥山お得意の超拡大解釈w
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:46:05.57
>>254-255

東夷伝に何が書いてあるのかを読み取らなければならない
魏の特使が倭国を訪れた時代には
昔朝鮮半島から持ち込んで土に埋まってる鉄器など関係ない
0257日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:55:23.68
畿内説派、ホケノの小枝を4世紀と認識してることは間違いない。
だからこそ、崩落で重たい石より先に落ち込んだなどと、口が腫れそうな出まかせをいう・・・、、
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:56:19.18
>>256
倭人が取りに来ていた鉄というのは、当然鉄製品のことではなく鉄鉱石だろ?
そして半島で製鉄して鉄テイを持ち帰った、もしくは掘り出した鉄鉱石で鉄製品を買って、それを持ち帰った
「昔朝鮮半島から持ち込んで土に埋まってる鉄器」で問題無いだろ?w
0259日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 13:58:21.14
>>253
>鉄器は卑弥呼の遣使以降に急激に出土が増える地域を根拠にしなければならない

それはおかしい。
郡使が倭を訪れたときにはすでに鉄器が普及していて、それを報告しているわけだ。
それ以前から倭には鉄が潤沢にあった。
その理由は韓伝にあるとおり。
魏の時代になって急に倭に鉄が流入したわけではない。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:01:38.46
>>258

製鉄された鉄を韓で入手していたのは魏の時代
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:02:37.98
>>259
>倭には鉄が潤沢にあった。
貴重な鉄を行方不明になるような鏃に使うぐらいだもんなw
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:02:52.88
>>253

鉄は古斧で持ち込まれたのではない。

>>258
>そして半島で製鉄して鉄テイを持ち帰った、もしくは掘り出した鉄鉱石で鉄製品を買って、それを持ち帰った
>「昔朝鮮半島から持ち込んで土に埋まってる鉄器」で問題無いだろ?w

製鉄は半島で行い、延べ板を持ち帰ったんだよ。
通貨みたいに鉄が流通していたと書いてあるだろ?
0264日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:03:54.32
>>259

>郡使が倭を訪れたときにはすでに鉄器が普及していて、それを報告しているわけだ。
>それ以前から倭には鉄が潤沢にあった。

そんなことは書いてない
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:04:49.48
通過のように流通できる鉄がこれっぽっちも残さず回収されたマキムクw
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:05:33.47
>>264

それ以前から鉄器は出土するからだよ。
考古学を無視するな。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:05:49.69
九州説は鉄大国の倭国を夢想している
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:06:11.40
>>263
>通貨みたいに鉄が流通していた
そうだよ。
そこで蝶番などを買って持ち帰ってたんだろうと考えるのが普通だろ?
鉄の延べ板だけしか持ちかえらなかったとか言い出すかオイ?w
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:06:48.48
>>266

魏使は発掘調査してない
0271日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:07:47.74
>>268
>そこで蝶番などを買って持ち帰ってたんだろうと考えるのが普通だろ?

バカか?
はるばる渡海してそんなものを持ち帰るのか?
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:08:50.29
>>270
当たり前だろ?
なに言ってんだこいつ?
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:09:03.55
>>267
畿内説もホケノの鉄がーっ!
って言ってただろw
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:10:01.46
>>271
じゃあ蝶番は国産だと言うのか?
そんな証拠はどこにも無いぞ?
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:11:15.30
>>268

吉野ヶ里異人遺跡の鉄製蝶番は中期前半の甕棺墓に副葬されたもの
そんなものの存在など魏使は知らん
0276日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:12:45.27
ここは、破綻した邪馬台国畿内説のスレッドだったな、、、
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:14:40.49
>>276
邪馬台国畿内説は、破綻したので、このレベルの低いスレッドは、僕達の備忘録や日記として使用しているのだったな、、
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:15:27.87
>>275
>吉野ヶ里異人遺跡
まず、そこが妄想だろw
北部九州には倭奴国時代からの半島や大陸との交易が盛んだったことを示す蝶番などの遺物があるのに、なぜ畿内にはそういった遺物が無いのか?
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:15:40.77
僕達は、今、論理という物事を研究しているのだったね。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:17:18.73
論理という物事を研究するために、生死どちらであっても、奥山氏という人物の身体が必ず存在していることが前提の、世界Aを考えます。
この世界Aの奥山氏について言及している、真偽不明の文章が、二つあるので、a、bと名付けます。
a、、奥山氏は、朝鮮人です。
b、、奥山氏は、死体です。
ある物事xが、偽のとき、─xと表現します。
ある物事yが、真のとき、ある物事zも真であるとき、y/zと表現します。
物事を認識する順番を、「」の内側からと定めます。
「」は、入れ子状にも、使用します。

奥山氏が朝鮮人で死体であることを、a b ─ / 「  」で表現できるだろうか、、
例文、、、「「奥山氏が朝鮮人ならば死体である」というのは、偽である」ならば、奥山氏は、朝鮮人である、、、「─「a/b」」/a
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:20:32.70
>>278

妄想って何が?
交易か盗んだか拾ったか知らんが、
中国製と考えられている副葬された鉄製蝶番は使われなかった
そして甕棺墓はど没落した
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:24:17.62
>>282
君ちょっと頭の具合が悪そうだから、一度お孫さんに確認してもらってから書き込んでね
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:24:39.94
なぜ、、、「「奥山氏が朝鮮人である」ならば「「奧山氏が死体である」ならば、「奥山氏が朝鮮人である」」」という物事は、常に真実となるのだろうか、、、
「a/「b/a」」は常に真。。。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:27:38.61
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、この世界の奥山氏は、論理を把握できていないのだったな。。。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:28:47.51
>>285
余事象の事を理解していないのだったな。。。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:29:39.96
北部九州説は甕棺盛行時代の遺物を根拠にするから
甕棺墓集団はど没落したと教えてやると
甕棺の後に共立された女王だと言いながら
また甕棺時代のものを出してくる
0288日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:29:54.69
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、論理を把握できていない奥山氏と、討論することは意味が無いことなのだったな。。。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:31:03.30
論理という物事を研究するために、生死どちらであっても、奥山氏という人物の身体が必ず存在していることが前提の、世界Aを考えます。
この世界Aの奥山氏について言及している、真偽不明の文章が、二つあるので、a、bと名付けます。
a、、奥山氏は、朝鮮人です。
b、、奥山氏は、死体です。
ある物事xが、偽のとき、─xと表現します。
ある物事yが、真のとき、ある物事zも真であるとき、y/zと表現します。
物事を認識する順番を、「」の内側からと定めます。
「」は、入れ子状にも、使用します。

なぜ、、、「「奥山氏が朝鮮人である」ならば「「奧山氏が死体である」ならば、「奥山氏が朝鮮人である」」」という物事は、常に真実となるのだろうか、、、
「a/「b/a」」は常に真。。。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:35:44.89
「ならば」とはどのような物事なのだろうか。。。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:40:30.33
「物事を認識する順番を、「」の内側からと定めます。」という文章は、僕達の考えていることを正確には伝達できていないな。。。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:43:58.33
「物事を認識する順番を、「」の内側からと定めます。」という文章は、
「物事を認識する順番を、文章の先頭からと定めますが、「」の内側は、1組づつ、まとめて認識すると定めます。」
と直した方が良いな。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:45:35.03
論理という物事を研究するために、生死どちらであっても、奥山氏という人物の身体が必ず存在していることが前提の、世界Aを考えます。
この世界Aの奥山氏について言及している、真偽不明の文章が、二つあるので、a、bと名付けます。
a、、奥山氏は、朝鮮人です。
b、、奥山氏は、死体です。
ある物事xが、偽のとき、─xと表現します。
ある物事yが、真のとき、ある物事zも真であるとき、y/zと表現します。
物事を認識する順番を、記号列の先頭からと定めますが、「」の内側は、1組づつ、まとめて認識すると定めます。
「」は、入れ子状にも、使用します。

なぜ、、、「「奥山氏が朝鮮人である」ならば「「奧山氏が死体である」ならば、「奥山氏が朝鮮人である」」」という物事は、常に真実となるのだろうか、、、
「a/「b/a」」は常に真。。。
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:45:54.79
>>287
倭国大乱収束のきっかけが卑弥呼女王の共立だよな?
甕棺墓時代BC300〜AD180年(AD300年も有り)
AD180年頃に卑弥呼女王共立

甕棺から大陸や半島の遺物が出土するという事は、卑弥呼時代以前から交易があったという証拠だろ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:48:28.16
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、論理を把握できていない奥山氏と、討論することは意味が無いことなのだったな。。。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:51:12.05
>>294

卑弥呼の時代以前に北部九州ではど没落していた
全羅南道では存続する
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:51:58.09
カエルの骨の周囲にある礫は、たいてい腐ってたりするけど、カエルの骨は腐らない。生きているんです。土もほとんどカエルの骨には付着しないから、掘り出すときは『ふわっ』と軽く取れる
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:55:14.05
倭人の倭国は呉の末裔と言っていることから、渡来人であることがわかる。
甕棺墓は中国や東南アジアで古くから存在していた形式である。
日本だとこの甕棺は弥生時代の北部九州に集中して見られる。

そして弥生終末期には邪馬台国が存在した。
魏志の7万戸という規模からすると、それなりに長い期間定置されていた国だと考えられる。

畿内の出る幕無し。。。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:56:33.47
巨大豪華な「古代吉野ヶ里砦」の役割は何だったのだろうか
そして其の栄華の前後に存在していた目達原古墳域の地政的意義は・・・、
邪馬台国・卑弥呼の時代との関連は・・・、
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 14:58:56.06
倭人伝に書かれた夏后少康の子が封じられた会稽あたりでは
食蛙の習慣は江南食文化の一つであったようだ
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:06:20.49
>>298

成人甕棺墓は紀元前のベトナム中部を中心にジャワやフィリピンに分布する
中国は新石器時代に日本の縄文時代と同じで幼児用
華北西部に一部彩陶の甕棺があるらしい
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:08:55.92
>>300
>食蛙の習慣

そんなの珍しくないだろw
昔はどこの民族も何でもかんでも食ってただろw
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:15:13.95
末路は、蛙をも掴む・・・、か、
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:17:31.92
>>303

陶器の甕は日本でも後の時代まで利用したみたいだが
(九州北部では昭和50年代ころまで)
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:25:54.66
>>305
甕棺の風習を持つ地域を抽出すれば呉越の末裔が住んでいた範囲がわかるのでは?
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:26:42.81
>>302

熊本の古墳時代中期の方保田東原遺跡石棺墓の若い女性被葬者は
腸の内容物とみられる糞石に昆虫の肢などの外殻の破片がびっしり詰まっていた
飢餓で昆虫ばかりを食べたため、外殻が腸内で消化不良をおこし
固まって便秘状態になった直後に亡くなったと考えられている
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:29:05.01
>>306

成人甕棺墓はベトナム中部を中心にジャワ、フィリピン
呉地域は知らない
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:45:14.54
>>307
食い物が無かったから虫を食ってたというわけじゃないと思うぞ
寒冷期の飢饉であれば畿内は熊本より大変な状態だったはずだし
俺は食えないんだけど、現代でもイナゴの佃煮とか蜂の子とか食ってるじゃん
最近はセミを唐揚げにして食ってる人もいるらしいがw
カエルは中国で食った事があるけど、よく言われるように鶏のささみと一緒
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:47:32.64
>>309

昆虫ばっかり食わんでもよかろうに
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:48:58.88
イナゴ美味いぞ
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:52:21.31
カエルの骨の周囲にある礫は、たいてい腐ってたりするけど、カエルの骨は腐らない。生きているんです。土もほとんどカエルの骨には付着しないから、掘り出すときは『ふわっ』と軽く取れる
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:56:47.36
>>312
カエルの骨もゴッドハンドかw
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:57:10.96
謝承の後漢書には、楽浪郡境から其の国(奴国)まで万二千里だと書いてあり、
魏略と倭人伝では、帯方郡から邪馬台国まで万二千里と書いてある。
ということは、そもそも万二千里は邪馬台国までの距離ではなかったということ。
したがって、帯方郡から末盧まで計1万里なので、邪馬台国は末盧から二千里のところにあるとする議論は無意味だということになる。
また、楽浪郡は現在の平壌にあり、帯方は沙里院かソウルなどにあったとされるから、万二千里の起点が異なるのに同じ万二千里だというのは不合理な話である。
これらのことからすると、万二千里は実測した里数ではなく、単に遠いところを意味する慣用句のような里数であると理解するのがよいということになる。
そうなると、馬韓沿岸から狗邪韓国までの七千里や対馬、壱岐、末盧の三千里も実測とは関係のない慣用句である万二千里を地理に合わせて単純に割り振っただけの里数だということにもなってくる。
とすれば、この万二千里の単位である1里を70m〜100mの間のいずれかの長さだとする考えも、まったく意味のない話だということになる。
まあ、そういうことだな。
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 15:59:41.40
>>314
記紀によると任那〜筑紫間は2千余里あるそうだが?w

崇神65年の記事 「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
0319日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:07:30.78
>>192
>鏡なんて弥生前期の時点で葛城や河内まで来てるだろ。実際鏡作神社は奈良盆地にあるからな。
北部九州は単に中継ぎ問屋みたいなもんだよ。<

いや、多鈕細文鏡は、吉武高木に先に存在するから、
葛城のは、北部九州経由の鏡だ。
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:07:46.99
つい数十年前までは、
野に出て取っては食べ、捕まえては食べしたものだ。
まして古代に、蛙や蛇やイナゴをたらふく食っていたとしても、ありふれた光景だったであろう。
それを神懸かりに云うのは、現代都会人のただの物珍しさにすぎぬ。、
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:10:59.67
>>193
>兵は鬼道なんて使わないだろw
戦場に多くの巫女やまして女王の宮を造るなんてあり得ない話。
北部九州には鬼道の気配が希薄だからな
巫女が沢山いて祭祀場所としては三輪山の麓が一番相応しい。
まあこんなの当然の話だ。<

いや、関係が余りないし、
むしろ戦時中の方が「神頼み」になって、「神祭祀」が流行る、位だ。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:11:37.23
>>319
そうだよ、で最終的目的地が葛城だ。
そこが倭の重要な場所なのはマトモな日本人なら異を唱えるはずがない。
しかも倭で最大の水田跡まであったんだからな。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:14:26.69
>>201
>集落に捨てられる鉄の数と保有数が比例するかどうかわからんだろ<

「比例する確率」が高い。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:19:21.27
「ならば」とはどのような物事なのだろうか。。。
0327日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:19:56.96
論理という物事を研究するために、生死どちらであっても、奥山氏という人物の身体が必ず存在していることが前提の、世界Aを考えます。
この世界Aの奥山氏について言及している、真偽不明の文章が、二つあるので、a、bと名付けます。
a、、奥山氏は、朝鮮人です。
b、、奥山氏は、死体です。
ある物事xが、偽のとき、─xと表現します。
ある物事yが、真のとき、ある物事zも真であるとき、y/zと表現します。
物事を認識する順番を、記号列の先頭からと定めますが、「」の内側は、1組づつ、まとめて認識すると定めます。
「」は、入れ子状にも、使用します。

なぜ、、、「「奥山氏が朝鮮人である」ならば「「奧山氏が死体である」ならば、「奥山氏が朝鮮人である」」」という物事は、常に真実となるのだろうか、、、
「a/「b/a」」は常に真。。。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:20:53.73
奥山氏が朝鮮人で死体であることを、a b ─ / 「  」で表現できるだろうか、、
例文、、、「「奥山氏が朝鮮人ならば死体である」というのは、偽である」ならば、奥山氏は、朝鮮人である、、、「─「a/b」」/a
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:27:29.46
>>321
魏志が文書名で、韓伝、倭人伝などが章のようなもの。
その韓伝の記事の中に、倭が鉄を取りに来ていた事が書いてあるという話。
アホのくせ頭の悪いの?
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:31:22.53
>>205
>絹にしても甕棺盛行時代は多く、ど没落した終末期、古墳時代初には激減している<

九州倭国では、317年頃に博多湾岸地域から「筑後〜久留米」付近に遷宮している。

>前スレにも書いたが
北部九州説は甕棺時代〜200年ころ(平原1号)の遺物を根拠にしている<

平原1号は、明帝の下賜鏡が元になった21枚の尚方作鏡があり、
壹與の墓の可能性が高いから、266年以後だ。
また、吉野ケ里の甕棺は、前方後円墳時代以前まで続いていたから、
3世紀後半半ば頃の那珂八幡頃以前まで、甕棺時代だ。

>学者の研究に基づいた畿内説は3世紀初〜古墳時代を根拠にしている<

大和説考古学者は、「南→東」とか「畿内」などの嘘つきだましをしているから、
全く×であり、
大和の絹も、東征毛人五十五國らによる前方後円墳時代に九州倭國文化が流入した事になるから、
石塚の3世紀末以後にしかならない。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:38:23.63
>>209
>卑弥呼の時代である200年頃を研究して何が悪いの?<

卑弥呼の「女王時代」は、「240年の梯儁らとの面会時点で年已長大(35歳位)」
と記録されているから、20歳に共立されたとしても225年位の共立だ。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:39:19.04
>>322
無茶苦茶な事をw
戦争の場に女王が巫女引き連れて赴くのか?
国政は弟が行うと書いてあるのだが。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:42:31.91
>>330
前方後円墳、箸墓の祖は橿原の瀬田、阿波、吉備にあり北部九州にはない。
いい加減荒らしは止めたら?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:46:22.23
>>215
>北部九州には丹山がない時点で話にならないな。<

関係なし。「丹山」は「顔料の材料が採れる山」の意味。

>また戸数でも投馬国五万すら収まる場所はない。<

投馬國は南九州。

>まあ倭人伝の記述を重視するなら北部九州説なんてもはや日本で一番可能性が低い場所だよ。<

まあ、倭人伝の記述からは、大和なんて、もはや、
日本で最も可能性が低い地域の一つ。
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:48:18.89
>>329
それを倭人伝なんて主張するのはお前位だろw
そもそも韓半島に倭人がいるなんて当然の話。
邪馬台国から鉄を採りに倭人が来た、と書いて
ないと話にならんw

妄想願望だけで史を語るから九州説のような
愚かな物を未だに主張するんだよ。
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:53:28.34
>>331
おいおい初心者か?w
「240年の梯儁らとの面会時点で年已長大」とは書いてないぞw
卑弥呼は倭国大乱終了時に既に女王として共立されてたんだぞw
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:53:51.74
なぜ、、、「「奥山氏が朝鮮人である」ならば「「奧山氏が死体である」ならば、「奥山氏が朝鮮人である」」」という物事は、常に真実となるのだろうか、、、
「a/「b/a」」は常に真。。。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 16:55:37.85
「ならば」とはどのような物事なのだろうか。。。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:05:31.11
>>335
>邪馬台国から鉄を採りに倭人が来た、と書いてないと話にならんw
鉄の普及した地域が倭と呼ばれた領域であり、邪馬台国はその一部ということだ。
そしてその範囲に畿内が含まれていないという話。
畿内が邪馬台国どころか倭国の一部だったとすら言えない状況だ。

奈良はアホ未満しかいないのか?
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:10:40.07
今のところ、漢委倭奴国の金印を貰った頃から卑弥呼の時代まで継続して存在していた国の痕跡は吉野ヶ里だけ

佐賀)吉野ヶ里遺跡[ BC450〜AD250年 ]
鳥取)青谷上寺地遺跡[ AD50〜150年 ]
滋賀)伊勢遺跡[ AD50〜180年 ]
奈良)唐古鍵遺跡[ BC550〜200年 ]
奈良)纏向遺跡[ AD150〜350年 ]
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:17:25.15
>>217
>そもそも伊都は邪馬台国ではないからなw <

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言であるし、
伊都国は、「屬女王國」であるから女王国の中に含まれる国。

>北部九州に具体的な女王伝承が何もない。<

大和政権と記紀が「倭國の存在や歴史を抹殺盗用造作」してしまったから。
しかし、風土記に「甕依姫」伝承>として残っている。

>神功天皇にしても元々畿内葛城辺り出身なんだからな。結局北部九州は出張先という事だよ。<

神功は、367年頃に、
九州倭国の東海姫氏國の高良大社の初代玉垂命(女性)と一緒に、
新羅征伐に行って、「玉を使って勝った」という伝承があり、
大和側の女性であるが、九州倭国の「一将軍」として活動していた、という事になる。
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:19:07.15
>>282
魏と倭は朝貢貿易していたのに、その証拠となる舶来品が畿内に乏しいのは何故ですか?
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:19:30.88
>>218
>佐世保市相浦の佐世保層群相浦層は自然水銀の産地として有名だろ。<

ふーん、佐世保にもあったのか。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:23:12.52
>>303
昔、九州の一部では昭和初期まで使われていたとか読んだような気がする。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:24:42.09
>>309
量の問題だろ。
イナゴに稲をやられて腹いせに食べたのかと思うと哀れだ。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:25:51.62
九州人は呉越の末裔だから畿内人とは顔つきが違うんだろうよ
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:25:57.75
>>294

九州説は平原遺跡や祇園山を推しているのに、なんでキナイコシは甕棺を取り上げるんだ?
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:32:49.50
>>231
>古墳から鉄器や鉄テイが大量に出てる
沖ノ島でも学術調査で鉄の板が見つかっている<

ふーん。
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:34:58.09
>>335

なにをごちゃごちゃ言っているんだ?
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:35:06.50
>>232
>石斧なんてごろごろしているぞ。
奈良県では、例えば、唐古・鍵遺跡。
伐採・加工用の石斧が出土している。
また、この唐古・鍵遺跡では弥生末期層で鉄斧が出ており、
木製品には鉄器で削った跡もあるそうだな。<

ふーん。
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:35:52.92
>>340
>鉄の普及した地域が倭と呼ばれた領域であり、邪馬台国はその一部ということだ。
>そしてその範囲に畿内が含まれていないという話。
>畿内が邪馬台国どころか倭国の一部だったとすら言えない状況だ。

賛成!
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:36:50.56
>>348
>九州人は呉越の末裔だから畿内人とは顔つきが違うんだろうよ

畿内人は半島人だもんな。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:37:15.53
私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)

畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)

大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)

熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長)
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:38:08.78
唐古鍵遺跡の鉄斧?
出土したのは木製の柄だけだったような?
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:46:42.39
>>253
>弥生時代中期に北部九州に持ち込まれている二条突帯鋳造鉄斧の古鉄は
燕で作られたもので韓国よりも日本のほうが出土は多く韓伝の記載とは関係ない
鉄器は卑弥呼の遣使以降に急激に出土が増える地域を根拠にしなければならない<

ふーん。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:47:48.11
>>355
>関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、

関西は目尻を外側に引っ張ったような顔ツキが多いかな
髭やスネ毛がほとんど無い男も多い
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:53:23.96
>>315
>記紀によると任那〜筑紫間は2千余里あるそうだが?

確かに日本書紀では2千余里と書いてある。
この日本書紀の記述では任那がある方位を新羅の都から西南としてあることに注目すると、
この日本書紀の任那に渡る航路として考えられるのは、福岡→唐津→壱岐→対馬→釜山→順天となるようにみえる。
この航路を地図で計ると420kmになる。
次に、当時の律令の1里をみると、周漢とおなじ400mとする解説がみられる。
しかし、日本の1歩は中国の1歩(=日本の2歩)の半分であるので、当時の律令里の半分の200mで計算すると、
航路の420kmを1里200mで割ると2100里となる。
この2100里は、日本書紀の2千余里とぴったり重なる。
したがって、この考えにしたがえば、日本書紀の任那〜筑紫までの2千余里の単位である1里は200mだったことが考えられる。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 17:55:06.98
>>257
>畿内説派、ホケノの小枝を4世紀と認識してることは間違いない。
だからこそ、崩落で重たい石より先に落ち込んだなどと、口が腫れそうな出まかせをいう・・・、、<

ふーん。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:02:00.13
>>360
これも

■小型丸底土器出土
石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と
討論を行った際、ホケノ山古墳から4世紀後半の
小型丸底土器が出土したことを述べている。
 小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、
布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
 ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、
それよりも新しい布留T式土器が出土したことに
なるので、考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は
布留T式の時代と言うことになる。
 石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。
 
報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、
小型丸底土器は、発掘時に墓の上の方から落ちて
きたのではないかと、苦し紛れに書いている。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:05:56.22
>>232
>石斧なんてごろごろしているぞ。

「忌部はん」 が持ち込んだ倭国(阿波)の「緑色片岩製柱状片刃石斧」

「柱状片刃石斧」

弥生時代前期から中期のはじめにかけて、緑色片岩製柱状片刃石斧が、大阪湾から東部瀬戸内沿岸地域に流通する。
弥生中期後半、青色片岩製の柱状片刃石斧が近畿〜東部瀬戸内地域一帯に多量に流通する。この青色片岩は、三波川帯でも、とくに眉山と高越山において、特徴的かつ大量に産出することが知られている。
この生産・使用を始めたのは、弥生中期前葉・中葉の吉野川中流北岸の河岸段丘上に住む人々である。阿波市日吉谷遺跡、同桜ノ岡遺跡、同赤坂V遺跡などで未製品が出土している。
弥生中期後葉にいたって、これらは下流域の徳島市南庄遺跡でも生産されるようになる。南庄遺跡での生産が活発化して以降、藍閃石―塩基性片岩製の柱状片刃石斧は、広域に流通することが知られている。
東かがわ市池の奥遺跡、同成重遺跡、善通寺市旧練兵場遺跡、和泉市池上曽根遺跡などに多量にもたらされており、これらの遺跡を起点に、さらに流通していったものと考えられよう。
現時点で確認できた分布範囲は、奈良(磯城郡田原本町唐古・鍵遺跡)・大阪(茨木市東奈良遺跡、岸和田市畑遺跡、同下池田遺跡、東大阪市巨魔遺跡など)・和歌山(和歌山市太田黒田遺跡、みなべ町青蓮谷遺跡など)
・兵庫(神戸市玉津中遺跡、同伯母野山遺跡、姫路市丁・柳ケ瀬遺跡、同大山神社遺跡、三田市奈カリ予遺跡、同有鼻遺跡など)・岡山(赤盤市用木山遺跡など)・香川(三豊市紫雲出山遺跡)におよぶ。
愛媛県でも、点々と見かけることがある。沿岸部だけでなく、内陸部の奈良、兵庫県の三田盆地などにも流通する。
第2回 青石の考古学
講師: 徳島大学大学院 准教授 中村 豊 氏
日時:平成28年6月25日 土曜日 14:00〜16:00
配布資料より、一部抜粋


こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:09:22.33
>>361
小林行雄氏による弥生土器の編年

@ 弥生土器X様式期に小形丸底鉢(東阿波型土器)の登場

A その後、庄内式大和形甕の登場   @阿波
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:28:06.41
>>275
>吉野ヶ里異人遺跡の鉄製蝶番は中期前半の甕棺墓に副葬されたもの
そんなものの存在など魏使は知らん <

ふーん。レベルが随分上がって来たな。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:38:36.29
>>363
定型化した小型丸底鉢

寺澤薫などは、ホケノ山古墳の築造時期は庄内3式期であるというが、出土した定型化した小型丸底鉢は、
これまで布留1式期の標準とされていた土器であり、ホケノ山古墳は布留1式期の築造である。寺澤薫などは、
また、ホケノ山古墳の、木槨を覆う石槨という二重構造の埋葬施設は、弥生時代後期末以降の石槨構造が古墳時代の
長大な竪穴式石槨に変化する中間形態であるとして、ホケノ山古墳の築造は庄内3式期であるというが、
古墳の規模が異なる場合には、古い構造が残存することがあるため、ホケノ山古墳の埋葬施設の特徴から、
築造時期を想定することはできない。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:40:01.16
>>282
>妄想って何が? 交易か盗んだか拾ったか知らんが、
中国製と考えられている副葬された鉄製蝶番は使われなかった <

意味不明。

>そして甕棺墓はど没落した<

天孫族系が中心的に使われていたのが、(那珂八幡頃から)前方後円墳が導入され、
甕棺よりも、箱式石棺や竪穴式石室の方が選択されるようになった、というだけ。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:45:14.59
鉄器文化の広がりは海外交易のあかしと言える。
そして同時期に国内で流通した範囲が経済共同体「倭国」だったと言える。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:54:28.13
>>287
>北部九州説は甕棺盛行時代の遺物を根拠にするから
甕棺墓集団はど没落したと教えてやると
甕棺の後に共立された女王だと言いながら また甕棺時代のものを出してくる <

ダメだ。
甕棺は卑弥呼の墓である祇園山の墳裾に3つ出ており、
吉野ケ里では、前方後円墳に代わる直前まで甕棺が残っていた。
という事は、甕棺は、卑弥呼の後もまだ使われており、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などの前方後円墳時代の直前まであった、という事だ。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 18:56:28.12
古墳時代のほぼ前半は温暖であった。
しかし,後半,すなわち5世紀初めを除く5世紀から6世紀初めにかけては低温で,
弥生時代の末期とほぼ同じ程度にまで下がった。
この低温な時代への変化はかなり明瞭であった。
巨大古墳の出現はちょうどこの寒冷期に対応している。(吉野正敏)

農業生産力が高い畿内が食糧難の寒冷期に王権を強化させたことがわかる
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:01:35.48
>>369
>農業生産力が高い畿内が食糧難の寒冷期に王権を強化させたことがわかる

そもそも、畿内に王権など存在しない。   @阿波
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:04:45.19
毎年洪水の阿波は、江戸時代に藍の栽培を始めるまでずっと食糧難だった
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:06:08.35
>>370
キナイコシは量という概念がないようだ。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:07:45.63
>>372
そんな場所に七万戸の国は無理だからな
勿論都にはなれず早くに棄てられた死の国という事。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:07:56.97
畿内説という甘い夢を崩されたキナイコシが踠いている。
しかし夢からはいつか醒めなくてはいけない。
筑紫こそ倭国なり。
卑弥呼を含む歴代の倭王の統べる王都なり。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:14:07.78
>>375
>そんな場所に七万戸の国は無理だからな

碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州や畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:15:23.43
>>376
>筑紫こそ倭国なり。

いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「倭国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:15:54.50
>>340
アホはお前だよw
しかも頭が古いわww
そもそも鉄、鍛冶の神の本拠はというと金山彦神社のある信貴山なんだけどな。

北部九州は単に半島に近いから鉄器の出土が多い、それだけの話。
それに1世紀の時点で畿内の淡路島や近江に既に鉄工房が確認されてる以上は、
倭のエリアは少なくとも伊吹山辺りまでは
当然エリアに入る。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:16:42.76
>>305
>甕棺って中国では6世紀頃まであったんじゃないか?
>陶器の甕は日本でも後の時代まで利用したみたいだが
(九州北部では昭和50年代ころまで)<

ふーん。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:16:56.84
何度でも書くが、纏向大溝の矢板を見て石器で加工したとか言い張るやつはバカだぞww

石器で木がこんなに綺麗に加工できますって動画あげている人がいるけれど、
一品物で思いっきり手間隙かけている「工芸品」と大勢で大量生産する工業製品を
「石器で加工している」というだけで同一視するのはただのチェリーピッキングの変種w

前にも石器で矢板が作れるとか言い出した時にも教えただろ?
でこぼこの矢板と表面の平らな矢板を「矢板」の2文字で同一視するのがバカだってw

纏向遺跡の矢板を鉄器で加工した証拠を出せとか言ってるバカがいたようだが、
弥生時代に石器で加工した矢板があったら逆に出して欲しいww
鉄器時代に石器で木材の平面加工する人は弥生人でもいないよw

石器で櫂が作れたんだから、矢板だって作れるといって、すぐさま、
その櫂はでこぼこだと言われて水でふやけてでこぼこになったとか、
纏向の矢板は水流で平らになったとか、不規則発言しかしていないくせにww

前から何度か言っているが、自分で石器でこのレベルの矢板を10枚くらい
作ってみろよ
そうすれば、これだけ綺麗な平面の矢板を石器で大量に作るのは無理だって
身にしみて分かるだろ?ww
https://i.imgur.com/EaD9Ol5.jpg

それから、見て分からないとかいっているやつもバカ
明らかなきちんとした平面は、金属加工の証拠と見るのが標準
大量生産品なら、なおさらだ
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:17:36.45
>>376
当然王都は畿内だよw
そんなの当たり前すぎて疑問視する奴はアホだよ。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:19:13.75
>>377
ムリムリ、葛城以上の水田跡を見つけてからだね、阿波が論として成立すりにはw
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:19:25.81
>>382
>当然王都は畿内だよw

いくら言い張っても、碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波   
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:22:33.21
>>383
>ムリムリ、葛城以上の水田跡を見つけてからだね、阿波が論として成立すりにはw

ムリムリ、碌な弥生集落遺跡や資源の無い葛城に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。  

「邪馬臺国」たる弥生集落遺跡を見つけてからだね。   わははははは   @阿波 
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:23:45.79
>>188
>倭人伝には鉄の記述なんてないと何度言われたら理解出来るんだよw <

倭人伝読んで下さいと御願したでしょ

竹箭或鐵鏃或骨鏃 
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:29:10.51
>>379
>それに1世紀の時点で畿内の淡路島や近江に既に鉄工房が確認されてる以上は、

3世紀までに衰退してしまう。
キナイコシ風にいうと没落だっけ?
出雲の勢力圏は筑紫の興隆とともに没落したわけだ。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:30:03.97
>>78
>⇒ 可笑しいか、可笑しく無いかの判断は個人の判断ですが、鉄の量を計る上では参考になります
>文化程度の尺度になるかと思います 畿内は他説に比べ少ないと思います

鉄は錆びて朽ちたら何も残らない
出土量、残存量が当時の使用量の尺度として使えると考えるのは、この時点で既に間違い

古墳時代に入っても、古墳以外からの出土がない時点で、出土しない理由を考える方が合理的
古墳時代にも、古墳以外では鉄を使っていなかったと考えるのは不合理

>⇒ 大型建物は樓觀の役目を果たしていません。彼と同じく平屋だと思うからです。見つかればよいのですが

辻地区の大型建物はおそらく魏使が邪馬台国を訪問した時には既に廃絶後と見られる
その頃の纏向遺跡の中心は尾崎花地区へ移っている
辻地区の大型建物群は
・当時それだけ大きな建物(倭国際大)を必要とする主体が纏向にあったこと
・軸線を揃えて建て並べるという新しい設計思想を示すこと
の2点で、王権の所在を示す傍証となっている

>⇒何処に住んでるかは不明ですが、「自侍」「常有」からマキムク内でも近辺でもいいですがその痕跡は今のところありません。

歩いていた人や働いていた人の痕跡って、何だと思うんだ?
それにあたるものは九州にも何一つないだろ?
つまり「痕跡は今のところありません」という言及は論説としては無意味だ

>⇒これは証拠を示すべきです。当時ヤマトにはないと心得ています

何を言ってるんだ?
畿内の古墳で大陸の人に「槨」とみなされる構造を持つものは横穴式石室が現れるまで一つもないぞ?
つまり3世紀代の古墳は全て、有棺無槨の墳墓だ
大陸の「槨」は、中に人が入って葬送祭祀のできるこんな構造だ   
https://i.imgur.com/Hc9f7Bb.jpg
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:30:51.52
>>381
>纏向遺跡の矢板を鉄器で加工した証拠を出せとか言ってるバカがいたようだが、
>弥生時代に石器で加工した矢板があったら逆に出して欲しいww
>鉄器時代に石器で木材の平面加工する人は弥生人でもいないよw

でもそれを作った人たちは、道具の鉄器を持ってどこかへ去ってしまった。
そこに土着していたわけではないということ。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:31:29.41
>>79
>大溝の矢板の先などに鉄器で削った痕跡がみられるということならその意見は妥当だが、

これだけ大量の平面の矢板を作るには鉄器の鑓鉋が必要
そう思ったから、お前もひところ、九州や河内で作って持ち込んだとか言い出したんだろ?

本当にバカが見苦しいわ!
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:31:53.85
>>336
悔しいのかな・・・
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:32:11.11
>>389
>出土量、残存量が当時の使用量の尺度として使えると考えるのは、この時点で既に間違い

間違いだという理由は?

>古墳時代に入っても、古墳以外からの出土がない時点で、出土しない理由を考える方が合理的

そもそもなかったからだよ。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:32:36.81
>>389
>出土量、残存量が当時の使用量の尺度として使えると考えるのは、この時点で既に間違い

その通り。   鍛冶炉遺構の多寡だね。   @阿波
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:33:20.52
>>88
>矢板ですが、石器で削ったと思う・・・鉄器に比べ安価だし結構切れますよ(石器 切れ味 で検索)

石器は木材に溝を彫るには使えるけれど、平面を出すのに不向きだから、その言い訳は通らない
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:33:37.07
>>381
キナイコシ、ww連発して勢いで窮地を脱する作戦
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:34:13.13
>>389
>歩いていた人や働いていた人の痕跡って、何だと思うんだ?
>それにあたるものは九州にも何一つないだろ?

工房とか建物とか道具とか。
九州にはたくさんあるし、特に糸島市は異常にたくさんある。
金属工房、土器、硯など。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:34:55.84
マキムクのはヤリガンナじゃなくてチョウナだったと思う
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:35:04.07
>>306
>甕棺の風習を持つ地域を抽出すれば呉越の末裔が住んでいた範囲がわかるのでは?<

それはちょっと難しい。
呉王夫差の遺民の「姫氏」は、火の国山門に渡来して来て、
肥後の狗奴國も姫氏であった可能性があるが、
肥後に甕棺が多かった、という話は聞かないし、
卑弥呼の墓の祇園山の墳頂は(甕棺ではなく)箱式石棺。
それに引き換え、「燕の南方にいた」と思われる天孫族系は、
博多湾岸で紀元前から甕棺を使っていた。
ただ、松野氏姫氏系図では、
姫氏の一部が北上して委奴に移って、倭奴國王を輩出した記録があり、
という事は、委奴の地で阿毎氏と姫氏が合同(婚姻?)していたのではないか?、
という事も考えられる。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:35:11.10
>>391

悔しいのう悔しいのう
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:35:37.30
>>88
>鉄器で削ったとして畿内説に優位に働くのですか?
>それとも、なんで削ったのかの議論ですか?

何で削ったのか、は鉄の鑓鉋で削ったと考えるのが当然

鉄器で削ったことが大事というより、大量の矢板を用意するのに十分な鉄器を
畿内ヤマトが使っていたということになり、「鉄がないから邪馬台国ではない」と
いう九州説の頭の悪い主張がまた一つ死ぬだけのこと
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:38:11.03
>>135
>ワイは、鉄器使わんでも矢板は作れるというてるだけ。

石器で作った矢板はでこぼこ
こういう綺麗な矢板は、薄刃が作れる金属器でこそ大量生産できる
青銅の鑓鉋は3世紀には存在しないので、鉄器で作ったとする以外にない
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:38:33.86
>>381
>この投稿について

いろいろ書いとるが、文章の意味がよう分からんな。
このような文章は、何をかけばいいのか焦点が定まっていないときに生まれる。
つまり、論破されてよろよろになっているフシがあるな。
石斧なんぞは奈良の発掘でもごろごろ出てくるが、鉄器はほんの僅か、数えるほどしか出てない。
いかに奈良が鉄器過疎地帯だったか分かるというもの。
さらに、纏向大溝の矢板の表面がそろって整った平面になっているのを、川の水の流れで擦れてそうなったと考えずに、鉄器加工した証拠だと的外れな主張をしているのなんかは、お笑いだよ。
とにかく、この矢板の先に鉄器痕があるとか言っていたが、調査報告書には鉄器痕があるとの記述はみられない。
ウソだったのだろうな。
ウィキですら、唐古・鍵遺跡の木製品には鉄器痕がみられると書いているくらいだから、肝心かなめの纏向遺跡の矢板に鉄器痕があるなら、調査報告書が特記しないはずがないよな。
まあ、矢板は縄文時代にすでにあるのだから、鉄器がなくても石器で作れるということだ。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:41:15.55
仮に鉄器が纒向でも使われたとしても、使った人たちはそれをきれいに回収してどこかに去ってしまった。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:41:23.50
>>164
>これも無理だろ、しかしあんたは、見ればわかると投稿したのが、間違い。

どうして?
石器で作った綺麗な平面を持つ矢板が示されない限り、纏向大溝の平らな矢板は
鉄器で作られたと考えるのが当然

登呂遺跡の矢板も、河内のどこかの矢板も当然に鉄器で作られているのに
纏向遺跡の矢板だけ石器で作ったと言い張るやつが場かえでしかないのは
まともな合理的志向のできる人には瞬間的に分かることなんだよw
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:41:58.82
>>389
>出土量、残存量が当時の使用量の尺度として使えると考えるのは、この時点で既に間違い

その通り。   鍛冶炉遺構の多寡だね。   @阿波
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:43:31.92
・ホケノ山古墳は炭素年代測定から4世紀以降
・三角縁神獣鏡は中国で一枚も発掘されていないから仿製鏡
・突如巨大古墳が出来るまで奈良は後進地域
他から勢力がやってきたとしか思えない
・人類学的に、土器の移動は必ずしも権力の移動を伴わない
民間交流の証である場合が多い
・3世紀頃の畿内には他地域を圧倒するような巨大なクニがない

奈良に邪馬台国なんてナイナイ
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:43:34.48
>>171
>しかし他の地域では古くなった鉄器が見つかったりするものなのだが?

だから、畿内で出ない理由を考える方が学問としては合理的だし有益
土地利用の変遷が、重要なんだろうなとは思う

纏向遺跡の範囲の大半は、後世に水田化されている
そういう場所では特に、鉄器は残りにくい
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:45:04.67
>>340
賛同
鉄の量は文化程度の尺度
キナイコシ掘立小屋が大きいと喜んでる場合じゃないよ
マキムクは吉野ヶ里よりチンケなの自覚して無いのかなww
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:45:25.69
>>175
>見つかった数に差があるのだから、もともとあった数にも差があったと考える他ない。
>鉄器の普及度に九州北部と畿内で圧倒的な差があったのは確実。

これが明確な間違い
残存している鉄の方がレアケース

見つかった鉄を何倍すれば当時の使用量になるという換算式なんてないんだから
残存量から当時も多かった、少なかったというのは無意味

前にも書いたが、指数関数をなめるな
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:46:54.16
>>177
>甕棺ではない平原遺跡などでも、鉄剣が溶けずに見つかっているね。
>なぜ畿内の土壌でだけ鉄がよく溶けたことになるのかな?

平原遺跡は水田化されてなくて、耕されていないからその分残りやすかったとはいえるだろう
畿内でも水田の底にならず耕されていない古墳の墳丘上では大量に残ってるだろ?
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:47:10.76
>>410
見つかって無いものをあったというのが
無意味
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:47:39.86
>>178
>見つかった数に差があるのだから、もともとあった数にも差があったと考える他ない。
>鉄器の普及度に九州北部と畿内で圧倒的な差があったのは確実。

繰り返すが、これは考えの足りないものの考え方の典型
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:49:42.00
>>179
>鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
>奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね

これが、時系列や編年をまったく考えない九州脳の典型
というより、これ以外のデータがないから必死でしがみついているというのが正解なのかな?

弥生時代全期間で多いと言っているが、3世紀分だけ出してくれといっても出せない九州説w
そして、3世紀の畿内の古墳3個だけで弥生時代全期間の鉄鏃の量を超えてしまうww
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:53:07.81
>>197
>>北部九州での弥生時代と古墳時代で集落に捨てられてる鉄器の数を比較したらいい

>なぜ違う時代のものを比較するの?

北部九州でも、弥生時代よりは古墳時代の方が鉄器の使用量は多くなっているはずだろ?

九州説のバカの考えるように、鉄がたくさんあるほど鉄器がたくさん出土するというのが、
北部九州での弥生時代と古墳時代で集落に捨てられてる鉄器の数を比較したら実証できるはずだぞ

そんな簡単な論理も理解できないのか?ww

まあ、実際には古墳時代に北部九州で集落に捨てられている鉄器の量なんて、ほぼ皆無なんだけどねw
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:53:09.14
九州脳にかかると弥生人のほとんどは真っ裸だったことになるな
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:54:09.92
>>402


川の水の流れで擦られて平面になったようにみえる。
もともと砥石で板の表面を擦って平板にしただろうが、川の水だよ、一番の原因は。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:54:26.74
>>381

ユーチューブ
https://www.youtube.com/watch?v=FlecIx2LurA

当然この人以上に古代人の職人は腕前があったんだろ

それよりぁーー君ね 1700年前の矢板が鉄で削ったか石器で作ったか
一目でわかる、学者名あげてくれよ
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:54:54.25
>>203
>鬼道が初期の神道のことなら、

それは根拠も証拠もソースもない妄想ですねw
初期の神道は自然崇拝で磐座信仰の形を取るものなどが有名
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:55:09.63
鉄器が出ないのを騒いで誤魔化す。
精神性が完全に半島人と一致www
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:56:04.01
>>206
>比例しないという根拠は?

だから、北部九州での弥生時代と古墳時代で集落に捨てられてる鉄器の数を比較したら実証できるはずだぞ
3世紀限定の北部九州の鉄器の出土量のデータは?
ないんだろ?ww
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:57:17.94
>>411
ifの話は無意味
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:57:25.47
>>207
>平原遺跡は甕棺ではない。

>>205の「甕棺時代〜200年ころ(平原1号)」は、
平原1号まで甕棺墓時代が続いているという意味じゃないぞ?

九州説は日本語能力が低い
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:58:06.47
木の年輪には硬いところと軟らかいところがある
軟らかいところが先に減っていくので劣化しても表面は平らにならない
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 19:59:31.20
>>308
>成人甕棺墓はベトナム中部を中心にジャワ、フィリピン
呉地域は知らない<

呉付近に関しては、Yahoo時代に甕棺があった写真を見た事があるし、
倭人(天孫族?)に関しては、
燕の南の、山東半島の南西の内陸部に「倭」の文字のある石版?の出土があったし、
紀元後数世紀に高句麗?の記録に「倭」の文字があ?ったし、
甕棺自体も、中国の北方方面に存在した、という記載の記憶がある。
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:01:02.17
>>209
>卑弥呼の時代である200年頃を

悪くはないけれど、結局大陸がきちんとした倭国の情報を持つようになったのは
239年の卑弥呼の遣使以降だから、その前のことをぐだぐだ言ってもピントがボケるだけだぞ
239年以前のことは言葉の通じない異人からの伝聞情報だと思った方がいい

卑弥呼の共立年代を2世紀末と言う人が多いが、没年(248年?)を考えると3世紀に
入ってからと考えた方が自然
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:02:17.65
>>369
ふーーん 

しかし豊かなわりには文化程度低くねーか
吉野ヶ里も弥生末期じゃねーの
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:04:13.84
>>222
>自然水銀が湧き出てくるのに痕跡などいらんわ。

液体の金属水銀が湧き出してくるとか考えてないよな?
水銀と言っているのは硫化水銀の鉱石、辰砂のことだぞ?

さらに言えば辰砂といっても、砂状であることはまれで
辰砂という鉱石、鉱脈をさしていう言葉だ
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:04:21.98
>>419
>初期の神道は自然崇拝で磐座信仰の形を取るものなどが有名

神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。

忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩 

「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」    @阿波
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:06:37.89
>>229
>畿内に鉄器時代が訪れなかったのは明白だ

これくらいしか九州説にはいえることがないのに、
これが纏向大溝の矢板は鉄器で作ったと認めると、
それだけで否定されてしまうから、九州説が必死なんだよw

猿回しの猿が踊っているのを見て笑うようなものだけれどww
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:07:44.41
>>233
>つまりさほど重視されなかったという事だ。

飛鳥時代以前に、北部九州で存在が知られていた水銀朱の産地なんてないからね
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:09:11.75
>>236
>その証拠として、鉄器が出土しなきゃおかしいと思ってる。

これが間違い
>>236は鉄製品を使っているだろうけれど、
>>236の家からは鉄器は出土しないだろ?

500年後に>>236の家を掘っても鉄器は出ないよ
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:12:08.64
>>245
>駅や線路は開発じゃないのかよ。

桜井線は、そういうのお構いなしに土を持って線路を通していた時代から同じ場所にあるんだよ
今から桜井線を移設するとかいう話になったら、考古学者が大喜びするよ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:13:55.12
>>258
>倭人が取りに来ていた鉄というのは、当然鉄製品のことではなく鉄鉱石だろ?

いや、鉄素材または鉄製品を持ち帰った、取りに行ったと考えるのが普通
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:14:35.70
>>315
>謝承の後漢書には、楽浪郡境から其の国(奴国)まで万二千里だと書いてあり、
魏略と倭人伝では、帯方郡から邪馬台国まで万二千里と書いてある。
ということは、そもそも万二千里は邪馬台国までの距離ではなかったということ。<

謝承の後漢書の記載自体の信頼性の史料批判が必要である事と、
魏略と魏志は、魏の役人たちの実地の計測記録が元になっていて、信頼性が非常に高い事と、
また、いずれも千里以下を四捨五入された形の記録であるから、
楽浪郡の出発地の外縁部と、帯方郡の出発地の外縁部との里数差が千里位なら、
どちらも萬二千余里と書かれる可能性がある訳で、
そういう点でも、問題にならない。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:15:26.79
>>263
>製鉄は半島で行い

別に倭人が製鉄する必要はないだろ?
製鉄された鉄を取りにいったと単純に考えればよい
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:16:28.28
 邪馬台国畿内説という物事に関して、「い」と「ろ」と名付けられた、2つの文章が発表されました。
い、、、邪馬台国畿内説は、朝鮮人の民族運動である、、
ろ、、、邪馬台国畿内説は、完全に破綻した、、、
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:16:39.19
>>268
>そこで蝶番などを買って持ち帰ってたんだろうと考えるのが普通だろ?

その蝶番は、使うためじゃなくて面白いお宝として持ち帰ったみたいだよw
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:18:49.44
>>281
だから、九州説は古い内輪の情報だけしか見ていないって言われるんだよw
何年前のだ? それw

それ弥生全期間だから、3世紀だけの九州の出土量を出してみてって
何度言われても出さないしww
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:20:11.27
「邪馬台国畿内説が、朝鮮人の民族運動であれば、「邪馬台国畿内説が、完全に破綻したのならば、邪馬台国畿内説は、朝鮮人の民族運動である。」」という物事は、真実なのだったな。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:21:29.00
奥山氏は、頭が悪すぎるな、、、

440日本@名無史さん2019/11/28(木) 20:18:49.44
>>281
だから、九州説は古い内輪の情報だけしか見ていないって言われるんだよw
何年前のだ? それw

それ弥生全期間だから、3世紀だけの九州の出土量を出してみてって
何度言われても出さないしww
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:23:34.16
>>442
そうだね。
そもそも、奥山氏は、「3世紀だけの九州の出土量」という表現をどのように定義するのだろうか、、、
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:24:52.18
邪馬台国畿内説という物事に関して、「い」と「ろ」と名付けられた、2つの文章が発表されました。
い、、、邪馬台国畿内説は、朝鮮人の民族運動である、、
ろ、、、邪馬台国畿内説は、完全に破綻した、、、
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:25:55.85
>>411
>畿内でも水田の底にならず耕されていない古墳の墳丘上では大量に残っているだろう?

大阪府の弥生中期の鬼虎川遺跡の場合、現表面下約4mで遺構が出土し、溝、土坑、柱穴、土器、石器などがきれいに出土している。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:26:14.02
>>294
>倭国大乱収束のきっかけが卑弥呼女王の共立だよな?

これは、それほどあてにならない
・倭国乱があった
何年も倭王が居なかった
・卑弥呼が共立された

というだけ

>甕棺墓時代BC300〜AD180年(AD300年も有り)
>AD180年頃に卑弥呼女王共立

これは年代詐欺だな
いわゆる甕棺墓時代と言える成人用の大型甕棺の盛期は桜馬場遺跡が最後で、
せいぜい2世紀前半がやっと
「(AD300年も有り)」これはうそ
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:29:37.93
僕達は、少し前に、ある物事の待ち時間に、奥山氏の作成したテンプレートを眺めて、「花粉」という単語を発見したと思ったのだが、気のせいだったのだろうか、、
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:30:08.33
>>345
>白珠が自然水銀(硫化水銀)のことかもしれない

硫化水銀は白くないんだな、これがw
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:30:11.92
邪馬台国畿内説という物事に関して、「い」と「ろ」と名付けられた、2つの文章が発表されました。
い、、、邪馬台国畿内説は、朝鮮人の民族運動である、、
ろ、、、邪馬台国畿内説は、完全に破綻した、、、
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:31:32.27
>>349
>九州説は平原遺跡や祇園山を推しているのに、

まあ、この時点でバカなんだけどな

どうしてこの二つが推されているか、考えたことあるか?
墓の近くに別の墓がたくさんあったからだぞww
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:32:03.59
>>448
笑いリラックスできる予感がしたのだが、時間がきてしまったのだったな。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:32:13.77
>>333
>前方後円墳、箸墓の祖は橿原の瀬田、阿波、吉備にあり北部九州にはない。<

それがどういう根拠なのか?は知らんが、
阿波と吉備は、元々出雲銅鐸祭祀部族系であって、
そこへ、九州倭国の東征軍が何度か征服し、出雲系と九州倭国系の両方の影響下になり、
結局は、九州倭国系の方がメインになって行った地域だ。

おそらく瀬田もそうだ。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:32:58.14
邪馬台国畿内説という物事に関して、「い」と「ろ」と名付けられた、2つの文章が発表されたが、反論がないな、、、
い、、、邪馬台国畿内説は、朝鮮人の民族運動である、、
ろ、、、邪馬台国畿内説は、完全に破綻した、、、
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:34:35.29
>>365
>これまで布留1式期の標準とされていた土器であり、

その後、庄内期からあったことがはっきりしたからw
九州説は古い情報にしがみつくw
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:37:05.14
今夜も、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人が、嘘をついているな。
0458提言失礼
垢版 |
2019/11/28(木) 20:37:57.84
「思う」を省きます

七万戸とかは余り 邪馬台国論争には必要ない。
魏使が数えたわけではないから、伝聞。
倭国の情報操作。

要は論争で必要なのは国力であり人口でも何でもない
当時の国力を図るのは文化水準の高い遺跡なり、遺物があるか?多いか?が鍵
戦争を肯定するわけではないが
インドがイギリスに占領されたのはなぜ、  あの人口の多い中国が日本に戦略されたのはなぜ

巨大古墳は当時の先進的な文化程度を象徴して無い だた労力にまかせ大きな墓をつくっただけじゃん  年代比定も???

邪馬台国論争は各候補地の文化水準の論争だよ 当然 倭人伝に近づける必要はあるけど

戸数は考慮しなくて良い 
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:38:01.29
>>390
>でもそれを作った人たちは、道具の鉄器を持ってどこかへ去ってしまった。

でも、それを作っているところを魏使さんが見れば、ヤマトに鉄があったってことになるねw
持ち帰った云々は何の意味も持たない

その場で鉄を潤沢に使ったことが論証できれば、その場に鉄があったと確実に言える訳だ
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:38:14.10
>>456
その後、都合が悪いので編年基準を変更しました

と言う一文が抜けてるぞw
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:39:13.85
>>337
>「240年の梯儁らとの面会時点で年已長大」とは書いてないぞw
卑弥呼は倭国大乱終了時に既に女王として共立されてたんだぞw<

「倭国大乱」なんてなく、「倭國亂」であったし、
倭國亂の直後に卑弥呼が共立されたんなら、
倭國亂も3世紀の第1四半世紀頃になるだけだよ。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:40:26.31
やはり、このスレッドでは、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の自作自演が、繰り広げられているな、、、
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:41:16.67
学者が畿内は鉄文化とは縁遠い、じゃあなぜ大和が主権を握ったのかという研究をしているのに
鉄文化にドップリだったと主張したがる5ch宣伝係w
目の付きどころが斜め上ですねw
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:41:41.67
俺は畿内でも九州でもどっちでもいいのだが、
ここにくると程々に抵抗してサンドバッグになってくれる馬鹿(キナイコシ)が常駐しているから、九州説のフリして書き込んでる
0465提言失礼
垢版 |
2019/11/28(木) 20:43:00.25
これ少し変更
✖巨大古墳は当時の先進的な文化程度を象徴して無い 
◎巨大古墳は当時の先進的な技術で作られていない 労力
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:43:17.02
奥山氏は、人生を楽しんでいるのではないのかな、、、
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:44:07.96
僕達は、少し前に、ある物事の待ち時間に、奥山氏の作成したテンプレートを眺めて、「花粉」という単語を発見したと思ったのだが、気のせいだったのだろうか、、
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 20:49:15.49
>>417
>川の水の流れで擦られて平面になったようにみえる。
>もともと砥石で板の表面を擦って平板にしただろうが、川の水だよ、一番の原因は。

まだその戯言を言うのか?wwwwwwwwww
前に、纏向大溝は水が流れていなかったって言う九州説もいたのにww

それに矢板ってのは、土に打ち込んで使うものだぞ?
川岸に置いて並べるものではなく?
土に打ち込んだ部分まで平らになっているのはどういう訳だ?

それに、砥石で擦ったってのもいい加減に諦めなww
お前の言で言えば、板を擦った砥石を見つけてから言ってくれw
0469提言失礼
垢版 |
2019/11/28(木) 20:50:10.48
径百歩もしかり 魏使が実見したかも疑問
倭国の情報操作
0470日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 20:50:14.34
花粉は、東へ吹く風に乗り、砂よりも飛び広がるのだったな。
0471日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 20:51:02.05
>>418
>当然この人以上に古代人の職人は腕前があったんだろ

だから、同じことを何度も言わすなよ!

手間隙かけた一品物の工芸品(芸術作品)と
大量生産の工業製品を一緒にしても無意味

この人と同じだけ手間をかけて纏向大溝の矢板を作っていたら、
それだけで100年くらいかかりそうww
0472日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 20:52:06.51
奥山氏は、人生を楽しんでいるのではないのかな、、、
0473日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 20:53:14.50
キナイコシの想定では奈良にはどれくらいの
鉄があったの?
比率で表すと福岡:奈良=?
0474日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 20:54:50.00
奥山氏は、労働をしないので、投入した労働力が、比例的に生産量を高めることを知らないのだったな、、、

471日本@名無史さん2019/11/28(木) 20:51:02.05
>>418
>当然この人以上に古代人の職人は腕前があったんだろ

だから、同じことを何度も言わすなよ!

手間隙かけた一品物の工芸品(芸術作品)と
大量生産の工業製品を一緒にしても無意味

この人と同じだけ手間をかけて纏向大溝の矢板を作っていたら、
それだけで100年くらいかかりそうww
0475日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 20:56:13.39
>>356
>唐古鍵遺跡の鉄斧?
出土したのは木製の柄だけだったような? <

ふーん。よくご存じですね。
0476日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 21:04:39.95
>>436
>どちらも万二千余里と書かれる可能性がある訳で

万二千余里が謝承の後漢書では奴国までの距離であったものが、魏略・倭人伝ではその奴国が邪馬台国に置き換えられている。
つまり、万二千余里がもともとは邪馬台国に関するものではなかったということが重要。
その邪馬台国ともともとは関係のなかった万二千余里でもって邪馬台国の位置を探ろうとすることは無理があると言える、ということ。
そして、この奴国までの万二千余里を漢代の1里400mで計算すると4890kmとなり、実際の地理的距離より大幅に長大であることから、この万二千余里は遠いところという意味の慣用的な表現だろうと推定したもの。
なお、謝承後漢書の万二千余里と魏略・倭人伝の万二千余里は別々の資料によったものであって、魏略・倭人伝の万二千余里は謝称後漢書の万二千余里とは別であるとするも、
その根拠となる別々の資料はみつからないし、中国の史書がすでにある著作をそのまま採録する傾向があることからして、魏略・倭人伝の万二千余里は謝称後漢書からの採録であると考えるのがよいと思われる。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:05:49.02
矢板は、古くなった床板の使い回しの可能性が、高いのだったね。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:07:07.01
奥山氏は、人生を楽しんでいるのではないのかな、、、
0479日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 21:07:21.61
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏の、弱々しい抵抗が、僕達の嗜虐的嗜好を高め、つい、奥山氏を揶揄ってしまうので、真実の究明という道からの道草を食うことになるね。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:07:37.57
480
0481日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 21:07:53.37
>>457
>朝鮮人が、嘘をついているな。<

お前は九州説から去れ 恥だ
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:08:35.79
萬二千里は、実測されたのだったね。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:10:38.81
やはり、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、正体を現したな。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:12:43.13
花粉は、東へ吹く風に乗り、砂よりも飛び広がるので、恣意的に、物語を作成出来るのだったな。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:15:15.57
>>438
お前もだ 九州説から去れ 

言っておくが、私は減日本人であるがあなた同様
朝鮮・大陸・モンゴルのDNAは多少なりともある

差別的な文言は止めたほうが良い

天皇の先祖は渡来人説もあるが、先祖が渡来人でも構わないと思っている

九州説支持者故 あえて言う

畿内説支持者は言っても無駄だから

過去、指摘したが、九州チョ○と言われた

論争に差別的な投稿は良くない
0486日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 21:18:58.94
>>458
部分的に賛同
0487日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 21:20:54.45
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、朝鮮人だからという理由で、奥山氏を差別する者は軽蔑されれば良いが、
真実の究明とは、あまり、関係のない話なのだったな。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:21:42.08
>>458
>邪馬台国論争は各候補地の文化水準の論争だよ 当然 倭人伝に近づける必要はあるけど<

@阿波だろ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:21:58.06
>>458
>当時の国力を図るのは文化水準の高い遺跡なり、遺物があるか?多いか?が鍵

その通り。   碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州や畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:22:44.43
>>466
>奥山氏は、人生を楽しんでいるのではないのかな、、、<

家族が悲惨だかもなww
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:24:22.87
>>458さんは、@阿波ではありません!  念のため。   @阿波
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:24:37.06
>>487
僕達は、奥山氏が朝鮮人だからや、奥山氏の頭が悪すぎるという理由で、差別や軽蔑するのではなく、奥山氏が卑劣なので軽蔑しているのだったね。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:25:55.00
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、頭の悪い、卑劣な朝鮮人なのだったな。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:27:06.06
萬二千里は、実測されたのだったね。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:27:33.46
>>447
それの何処を見て舶来品とするのか?????
鉄だから???
それより、周りの赤土?が木になるけど・・・・
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:28:52.13
>>405
>石器で作った綺麗な平面を持つ矢板が示されない限り、纏向大溝の平らな矢板は
>鉄器で作られたと考えるのが当然

キナイコシが自分勝手なことを言い張っているだけだ。
根拠がないということを隠す気もなくなってきたな。
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:29:09.60
>>359
>確かに日本書紀では2千余里と書いてある。
この日本書紀の記述では任那がある方位を新羅の都から西南としてあることに注目すると、
この日本書紀の任那に渡る航路として考えられるのは、福岡→唐津→壱岐→対馬→釜山→順天となるようにみえる。
この航路を地図で計ると420kmになる。
次に、当時の律令の1里をみると、周漢とおなじ400mとする解説がみられる。
しかし、日本の1歩は中国の1歩(=日本の2歩)の半分であるので、当時の律令里の半分の200mで計算すると、
航路の420kmを1里200mで割ると2100里となる。
この2100里は、日本書紀の2千余里とぴったり重なる。
したがって、この考えにしたがえば、日本書紀の任那〜筑紫までの2千余里の単位である1里は200mだったことが考えられる<

そりゃ無理。
崇神65年の記事 が「任那者、去筑紫国二千余里、北阻海以在鶏林之西南」
であるんなら、任那が、筑紫国から二千余里である事は明確であり、
(筑紫から)北は、阻海されて、以在鶏林之西南の位置である、という事になる。
また、そこには、唐津や壱岐や対馬のことは書かれておらず、
直線距離的な表現のような書き方。
だから、二千余里は、糸島半島〜宗像や門司付近の海岸門司から任那への海上距離。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:29:35.43
>>408
>だから、畿内で出ない理由を考える方が学問としては合理的だし有益

もともとなかったからだよ。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:30:12.95
奥山くん
ぜひ花粉について熱く語ってくれw
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:33:30.12
>>361
>■小型丸底土器出土
石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、
ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が出土したことを述べている。
小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、布留式土器の重要構成要素となっている器種である。
ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、
それよりも新しい布留T式土器が出土したことになるので、
考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。
石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。
報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、
小型丸底土器は、発掘時に墓の上の方から落ちてきたのではないか
と、苦し紛れに書いている。<

ふーん、成程。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:34:04.38
>>419
>初期の神道は自然崇拝で磐座信仰の形を取るものなどが有名

卑弥呼により次のフェイズに移行したんだろう。
偉大なる女王の神格化とともに。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:36:32.62
>>423

だから、なんで甕棺を絡めるんだ?
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:39:18.99
>>433

その他の副葬品も合わせれば、当代一の行事であったことは明らかだ。
平原遺跡一つだけで、どれだけの技術と富が集積しているかわからないのか?
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:41:12.67
>>455
矢板がどうのこうのはいいから


この記事

・・近畿の鉄器の評価がわかれる・・・

を解説していただくといいのですが
「鉄器の評価」・・ウーーン
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:41:36.50
>>365
>定型化した小型丸底鉢
寺澤薫などは、ホケノ山古墳の築造時期は庄内3式期であるというが、
出土した定型化した小型丸底鉢は、これまで布留1式期の標準とされていた土器であり、
ホケノ山古墳は布留1式期の築造である。
寺澤薫などは、また、
ホケノ山古墳の、木槨を覆う石槨という二重構造の埋葬施設は、
弥生時代後期末以降の石槨構造が古墳時代の長大な竪穴式石槨に変化する中間形態であるとして、
ホケノ山古墳の築造は庄内3式期であるというが、
古墳の規模が異なる場合には、古い構造が残存することがあるため、
ホケノ山古墳の埋葬施設の特徴から、築造時期を想定することはできない。<

ふーん。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:44:35.63
>>446
>>倭国大乱収束のきっかけが卑弥呼女王の共立だよな?

>これは、それほどあてにならない

おまえ、いい加減にしろよ?
その一番大事なところまで魏志倭人伝を無視したらなにも残らない。
邪馬台国はおまえの身勝手な妄想の国じゃない。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:46:26.86
>>451
>墓の近くに別の墓がたくさんあったからだぞww

お?
平原遺跡の陪葬墓を認めるのか?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:47:40.34
萬二千里は、実測されたのだったね。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:48:33.63
>>508
実測の足し算だったね。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:49:18.28
福岡:奈良=10:1もあれば纒向が都だと言ってもいい
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:51:12.75
>>459
>でも、それを作っているところを魏使さんが見れば、ヤマトに鉄があったってことになるねw

カンナがあっても意味がない。
魏志倭人伝にあったのは鉄鏃を使う兵が守り、楼閣が高く、千人の下女が働く王城だ。
カンナを使った痕跡があっただけではダメだ。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:51:57.37
>>509
貴方は、論理という物事を、研究しているのではないのかな。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:52:34.14
>>510

頭おかしい?
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:53:30.35


有田遺跡は弥生時代前期末でしたが、弥生時代中期の遺跡で絹が出土した遺跡は、
中期初頭の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡神埼町)、中期前半の栗山(福岡県甘木市)、
吉野ヶ里、比恵(福岡市博多区)、吉武高木(福岡市西区)の各遺跡、中期中葉では朝日北(佐賀県神埼郡神埼町)

中期後半では須玖岡本(福岡県春日市)、吉野ヶ里、門田(もんでん:福岡県春日市)、樋渡(福岡市西区)、
立岩(福岡県飯塚市)、三会村(長崎県島原市)、吉ヶ浦(福岡県太宰府市)、
弥生時代後期では吉野ヶ里、栗山、宮の前(福岡市西区)唐原(福岡市東区)の各遺跡から人骨に付着、
あるいは副葬品に付着した形で絹が見つかっています。
何れも福岡県を中心にした北部九州にある遺跡です。

弥生時代に続く古墳時代になると島根県、兵庫県、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、熊本県、静岡県、
福井県、栃木県、茨城県、鳥取県、岡山県など広い範囲で絹の遺物が出土します。

これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう

畿内は無理がありすぎ  強弁ばかり 
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:54:26.78
論理学では、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだったね。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:54:52.52
>>369
>古墳時代のほぼ前半は温暖であった。
しかし後半,すなわち5世紀初めを除く5世紀から6世紀初めにかけては低温で,
弥生時代の末期とほぼ同じ程度にまで下がった。
この低温な時代への変化はかなり明瞭であった。
巨大古墳の出現はちょうどこの寒冷期に対応している。(吉野正敏)
農業生産力が高い畿内が食糧難の寒冷期に王権を強化させたことがわかる<

「5世紀初めを除く5世紀から6世紀初め」は、
九州倭国の東海姫氏國の「倭の五王」の時代。
そして、6世紀になって、阿毎氏の磐井が王になり、
それに大和の継体や物部が反乱して磐井を死なせて、九州倭国の王家の一員になって、
王位継承権を得た。
そのため、書紀が、大和王が九州倭国の執政的王や太宰であるような記載が出来た。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:57:32.06
>>515
NHKは、論理学を重んじるので、邪馬台国畿内説に証拠がない、と断言したのではないのかな。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 21:59:10.50
>>370
>弥生時代中期、貨泉に鏡が来てる時点で倭の中心は既に畿内だね。<

「南≠東」などに拠って、×。
河内や大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の旧小国の附庸國であり、
九州倭国の地方の市を監督する「大倭」職の国。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:01:19.58
おい、奥山氏、はっけよい。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:01:41.67
520
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:04:27.51
邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、頭の悪い、卑劣な朝鮮人なのだったな。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:04:43.90
おい、奥山氏、はっけよい。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:08:34.78
花粉は、西から東へ吹く風に乗り、砂よりも飛び広がるので、発見された花粉の種類や地層を恣意的に選択すれば、都合の良い物語を作成出来るのだったな。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:18:00.09
ノコギリが導入されるまで
薄い板を作るのはかなり難しかった
0525キウス ◆PyuQX798ps
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2019/11/28(木) 22:22:08.69
ふと考えるのですが

魏使は帰国して、当然報告をする
魏使も後で嘘だとわかる報告はしない。
伝聞と実証は分けて報告するだろう
すると 方位距離はたぶんOK 日数は気候等に左右される
次に 物証として嘘をつけないのは・・・

なんちゃってですが、魏使の気持ちになって倭人伝のアプローチもよいかと思いますが
今 私も無い知恵絞って考え中 

奥山さん同様、鎮守の加筆・修正もあろうかと思いますが
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:24:35.74
農地開拓は屯田兵だよ、屯田。大陸から来た賢い連中で宗教集団だよ、神農を身につけ 辺境地を開拓し出したの。物部が兵の将。中国の知識を得てる連中。
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:31:26.67
前近代の人間は近代合理主義のような行動思考をしない
現実より観念の方が優先される
0529日本@名無史さん
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2019/11/28(木) 22:35:30.13
>>379
>そもそも鉄、鍛冶の神の本拠はというと金山彦神社のある信貴山なんだけどな。
北部九州は単に半島に近いから鉄器の出土が多い、それだけの話。<

大和や纏向は、北部九州などに比べて、鉄器は殆ど出土せず、少ない。
それだけの話。

>それに1世紀の時点で畿内の淡路島や近江に既に鉄工房が確認されてる以上は、
倭のエリアは少なくとも伊吹山辺りまでは当然エリアに入る。<

倭国は、「正北抵新羅」に拠って北部九州であり、
大和は、倭國の別種の旧小国の附庸國であり、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国であり、
大和や河内や吉備や丹波や近江や紀伊や、吉備や播磨や摂津などは、
倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国。
それだけの事。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:39:11.88
畿内説 マキムク王都説は

関西のノリツッコミでんがな

そうそう  追突

なんでやねん 御釜じゃねーよ
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:40:49.74
>>382
>当然王都は畿内だよw
そんなの当たり前すぎて疑問視する奴はアホだよ。 <

「南≠東」などに拠って、×。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:47:06.15
>>389
>辻地区の大型建物はおそらく魏使が邪馬台国を訪問した時には既に廃絶後と見られる
その頃の纏向遺跡の中心は尾崎花地区へ移っている
辻地区の大型建物群は
・当時それだけ大きな建物(倭国際大)を必要とする主体が纏向にあったこと
・軸線を揃えて建て並べるという新しい設計思想を示すこと
の2点で、王権の所在を示す傍証となっている <

「南≠東」などに拠っては、纏向説は、×。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:49:49.26
>>499
>ぜひ花粉について熱く語ってくれw<

同意 花粉の炭素年代も計れるナ

花粉・炭素年代で検索で出てきた

たぶんやったんだろうな花粉他も含め

畿内説に合致したのが 桃核の一部だったんだろうな

土器についた炭素もおなじだな、

別にだーーれも3世紀にマキムクに人がいなかったと言ってねーから

3世紀の炭素年代の物 見つかってもいいじゃん

おらが町も3世紀に人がいたけど、誰も炭素年代で立証しないしする必要もない
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:56:29.12
>>78
>鉄の量を計る上では参考になります

ならないでしょ
鍛治の作業場がいくつも見つかってるのに鉄器は散らばってないんだから

>文化程度の尺度になるかと思います 畿内は他説に比べ少ないと思います

ならないでしょ
散らばってるのは無管理状態の指標

>大型建物は樓觀の役目を果たしていません。

建物Bが物見台に復元されてるでしょ

>何処に住んでるかは不明ですが、「自侍」「常有」からマキムク内でも近辺でもいいですがその痕跡は今のところありません。

あるでしょ
一般集落なら近隣にたくさんある

>古墳は基本的に有棺無槨 ⇒これは証拠を示すべきです。当時ヤマトにはないと心得ています

再三示されてるよね
中国にあるような槨は日本の古墳には無いし

>「宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛」と書かれています。
>この漢字の並びを見ただけでも物々しい警戒がうかがえますが、マキムクにはその様子は感じとれません。
                
それは主観
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 22:57:00.78
魏の使節団がちゃんと邪馬台国の位置を正確に書いてくれてたら何事も無くすんなり認められてたんだが、残念だw
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:00:53.44
鎮魂歌
【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0537キウス ◆zDcsAEpKdA
垢版 |
2019/11/28(木) 23:04:58.53
>>491
阿波さん
奥山氏が自作自演と言うからね
私は無視していますが
>>458は私です
名無しのキウスです 王都は京都としました 
太平洋ルート説です

畿内でなく 京都を中心とした圏内が邪馬台国だと思いますよ

作為的なマキムク王都説が無ければ畿内説から離れなかったです
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:09:29.33
邪馬台国はヤマトで確定
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:10:02.10
>>517
NHKの番組みのがした
くそーー
でも NHKもまともになったのかな

以前 磯田氏が苦虫をかんだ顔して 畿内説を語ったのは印象に残ってるよ
磯田氏も本望じゃなかったのだろうな
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:11:41.40
>>420
>鉄器が出ないのを騒いで誤魔化す。

騒いでごまかしてるのはお前だろうが?
でこぼこの木棺の底板を砥石で平面にした証拠だと言ったり、
でこぼこの櫂の話を出して石器でも作れるとかデマを流したり、
水流で矢板が平らになったとかデタラメを言ったりww

日本人なら恥ずかしくてたまらないだろうに、無理なデタラメをさらに無理押ししようとするww

>精神性が完全に半島人と一致www

いや、お前のようなデタラメを平気で繰り返すやり方が半島仕様なんだぞ?
まあ九州説全般がそうなんだけどさw
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:11:41.46
>>420
>鉄器が出ないのを騒いで誤魔化す。

騒いでごまかしてるのはお前だろうが?
でこぼこの木棺の底板を砥石で平面にした証拠だと言ったり、
でこぼこの櫂の話を出して石器でも作れるとかデマを流したり、
水流で矢板が平らになったとかデタラメを言ったりww

日本人なら恥ずかしくてたまらないだろうに、無理なデタラメをさらに無理押ししようとするww

>精神性が完全に半島人と一致www

いや、お前のようなデタラメを平気で繰り返すやり方が半島仕様なんだぞ?
まあ九州説全般がそうなんだけどさw
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:13:45.14
>>422
いや?
平原遺跡は水田化されてないのも、
畿内でも水田の底にならず耕されていない古墳の墳丘上では大量に残ってるのも現実の話で
ifの話じゃないぞ?
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:16:40.41
540もキウス
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:16:54.89
>>445
>大阪府の弥生中期の鬼虎川遺跡の場合、現表面下約4mで遺構が出土し、
>溝、土坑、柱穴、土器、石器などがきれいに出土している。

4メートルも上に積もれば残るだろうさ
纒向の辺りは扇状地だから結構削れるんだよ
そういうところを水田化すると、鉄が残るには最悪級の環境になる
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:17:08.48
>>540です
その次に磯田氏がマキムクを訪れた時
橋本が対応し、磯田氏「あれ、寺澤さんと聞いてきたのですが・・」
これ磯田氏のイヤミだと思ったよ  
磯田氏は考古学のエキスパートじゃないけど、真実を探求する目は持ってると感じたね
その番組で、磯田氏は事実だけ語ってたね 
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:19:41.30
>>460
>その後、都合が悪いので編年基準を変更しました

庄内期からって書いてあるだろ?
相対編年でもまったく問題なく収まるんだよ

編年基準を変更したのはより合理的になるように組み立てているのであって、
九州説のように不合理に不合理を重ねるような馬鹿をやっているのとは話が違う
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:20:58.33
>>540です

そんなに忙しくない 寺澤の戦略を見抜いてたのだろうな磯田氏は
馬鹿だよ寺澤は 策におぼれてしまったね
橋本は好感が持てたが、寺澤に相当ビビらされてるとな
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:22:03.19
バカはキウス
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:23:17.65
>>510
んーー
キナイコシの確率論でっか
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:24:00.92
>>463
>学者が畿内は鉄文化とは縁遠い、じゃあなぜ大和が主権を握ったのかという研究をしているのに

それも曲解だな
学者が研究しているのは、鉄の普及と国力はそんなに関係してなかったという部分だぞ

鉄自体は本来出にくいから、鉄器による加工品(矢板w)とか
鉄器による代替で消えた文物(石庖丁)などを精査して
見えない鉄を追うのが正統派の研究
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:26:32.00
>>464
>俺は畿内でも九州でもどっちでもいいのだが、

これは明確にウソだな

>九州説のフリして書き込んでる

まともな理性を持った人間は、九州説のフリなんて恥ずかしくてできない
つまりお前は、ザラゴキや連続句読点と同等のバカだってことだ!
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:28:14.26
>>465
>◎巨大古墳は当時の先進的な技術で作られていない 労力

巨大古墳の後円部を正円で作るのは当時の先進測量技術だよ
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:32:33.07
>>477
>矢板は、古くなった床板の使い回しの可能性が、高いのだったね。

だとすると、これだけ大量の矢板を賄えるほど多くの床板があったということだから、
纒向に住戸がない問題は完全解決だな!
https://imgur.com/EaD9Ol5
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:33:29.24
橋本さんも、家族を養わなければいけないから我慢してると思う。
職を離れれば清水さんのように本音で語ると思う

それが、いまの畿内説の体質ですよ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:34:25.37
>>481
>お前は九州説から去れ 恥だ

朝鮮人を揶揄されると火病るザラゴキw
九州説のかなりの部分はこの成分でできている
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:37:39.66
>>496
>キナイコシが自分勝手なことを言い張っているだけだ。
>根拠がないということを隠す気もなくなってきたな。

逆だ、バカw
弥生時代の平らな矢板を石器で作ったと主張するやつは世界でお前だけだぞw

これまでどれだけデタラメを否定されて恥をかいてきたのか忘れたのか?
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:42:51.95
>>498
>もともとなかったからだよ。

残念ながら、鉄用の砥石が大量に出ているし
鉄器で作った矢板も大量に出ている

鉄器がなかったと言い張るのが不合理

だいたい、周辺(唐古鍵など)にあって、(九州説の主張でも直後の)古墳から出てて、
ずっと昔(1世紀)からより遠く(登呂遺跡)まで出ているのに
「3世紀前半の纒向にはなかった」というのはある意味常軌を逸している
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:44:07.91
>>545
>纏向の辺りは扇状地だから結構削れるんだよ

適当なことを言っちゃって。
奈良の遺跡は扇状地ばかりじゃないぞ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:44:16.87
朝鮮儒教の九州説はウソしかつかない
というよりウソしかつけない
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:45:21.35
>>501
>卑弥呼により次のフェイズに移行したんだろう。
>偉大なる女王の神格化とともに。

本当にご都合主義だなww
卑弥呼よりずっと古い吉武高木や須玖岡本遺跡でも
三種の神器が揃ってるって言ってたのは何だったんだ?ww

お前、「石器で矢板」の人だろ?ww
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:45:41.00
また九州説は畿内に鉄器がないを言ってるのか
畿内で見つかっている鉄器

○ホケノ山 畿内 3世紀中葉
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口

○椿井大塚山古墳 畿内 3世後葉
鉄刀7本以上、鉄剣十数本以上、鉄矛7本以上、鉄鏃約200本、
銅鏃17本、鉄製甲冑1領、鉄鎌3本、鉄斧10個、鉄刀17本、
鉄製ヤリカンナ7本以上、鉄錐8本以上、鉄ノミ3本以上、
鉄銛十数本、鉄ヤス数本、鉄製釣針1本
その他鉄製冠ではないかと疑われる鉄製品

○黒塚古墳 3世紀後半
刀剣類27口以上、鉄鏃170本以上、小札、U字形鉄製品
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:47:18.56
九州説を含むトンデモの要件は嘘つきかガイキチ、あるいは両方
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:47:25.60
>>551
うそつきは韓国人のはじまりw

2018年2月10日 もっと九州掲載
『初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。
ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。』

松木 武彦(まつぎ・たけひこ) 大阪大文学部卒、同大学院博士課程単位取得。
専門は日本考古学。日本列島の古墳研究や考古学を通じた戦争、国家形成論などを研究。
2014年から国立歴史民俗博物館の研究部門教授。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:48:46.15
畿内説も否定はせんが、原住民が発展させた説は断固否定するwww
やっぱ九州倭人が飛鳥を乗っ取って都にした方が正しい見方!!!
どっちにせよ、九州人が起こした文明なのは間違いない。日本書紀でも
神武天皇記は、九州から始まって畿内だから、まず疑いようがないわな・・・
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:49:12.36
>>502
>だから、なんで甕棺を絡めるんだ?

須玖岡本遺跡D地点とか、三雲南小路遺跡とか、甕棺墓時代に北部九州の繁栄のピークがあって
それがド没落してるからだよ

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓も中央埋葬者を含め甕棺墓だ
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:49:59.38
>>559
>唐古鍵などにあって…

しかし、その「鉄用の砥石が大量に出ているし」て、どこの遺跡の話?。
前から書いているが、その資料どこにあるのよ。

唐古鍵から出た鉄器は、1個だけ。
あんだけの工房遺跡で鉄器が1個だけだぞ。
過疎過ぎるわ。
さらに奈良全体でも鉄器は数えるほどしか出てない。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/28(木) 23:54:33.48
>>503
>その他の副葬品も合わせれば、当代一の行事であったことは明らかだ。

それが近視眼でバカの主張だって何度も教えてるだろ

平原1号墓が突出しているのは
バキバキに割られた仿製鏡がやたらたくさん出ることだけ!
ガラス製品も鉄剣も丹波の首長墓に負けてる

舶載鏡はやたら古いのが2枚だけだし、この時点で卑弥呼の墓の候補になれない
やたらに多い仿製鏡は出雲の荒神谷の銅剣大量埋納と比較すべきもの
青銅器の埋納量でも当代一なんかではないのはすぐに分かる
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:01:59.75
関川さんの説の是々非々は別にして彼はまっとうな研究者ですよ
彼はもともと畿内説支持者だったですよ
マキムク王都説が確立する前に異論を唱えたから、
押しの強い人たち集団(暴力団と言わないが)に追いやられたかも

マキムクは遺跡として価値は認めますが、先ばしるのは良くないです
奥山さんも被害者にならないよう シカと自分なりに研究してください
24時間貼りついてたら、勉強にもなりませんよ
その結果 マキムクが王都と確信したらそれはそれで良いですが
今段階で判断するには早いです・・・・
さて このスレで
今解決すべきは、南⇒東の根拠づけです

これは、畿内説論者が誤情報とか誤記とかいいますが・・・説得力に欠けます
ザラコク氏の指摘に畿内説の誰も明確な答えは出していません。 5ちゃんに限らず
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:02:51.40
>>506
>その一番大事なところまで魏志倭人伝を無視したらなにも残らない。
>邪馬台国はおまえの身勝手な妄想の国じゃない。

やっぱりお前はバカなんだなぁ(しみじみ)

魏志倭人伝を無視しているんじゃなくて、
魏志倭人伝に書いてないことまで読み取るな!って言ってるんだよ

魏志倭人伝にあるのは倭國亂、相攻伐歷年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。
「乃ち」としか書いてない
「乱を収めるために共立した」などとは書いてないんだよ

九州説は魏志倭人伝を「解読」という名目で捏造ばかりするから、それはダメだって教えてるんだよ

戸数の二重帳簿詐欺もダメだし、島巡りもダメ、水行の起点が帯方郡ってのもダメ
放射読みもダメww

九州説がいかに不合理を積み重ねないとダメなのかよく分かるなww
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:05:36.01
>>530
1票入れときます
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:08:39.45
>>533
>おらが町も3世紀に人がいたけど、誰も炭素年代で立証しないしする必要もない<

ごっつぁんです !
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:08:57.85
>>507
>平原遺跡の陪葬墓を認めるのか?

一号墓の周溝の内側、墳丘部分にまで土坑墓を掘られてるんだぞ?w
1号墓被葬者への崇敬の念が極めて速やかに失われたことを示しているだけなんだが?
https://imgur.com/bzIw7Aa

そんな埋葬時期の異なる土坑墓を、殉葬墓とカンチガイしたから、
径百歩とは懸け離れた小さな方形周溝墓を卑弥呼の墓候補として持ち上げている滑稽さww
九州説の笑い所としてポイントの高いところだよなw
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:09:56.45
九州説の主張点は畿内には鉄器がないだけ?
>>563にあるように古墳三基だけでも大量に見つかってるんだけど
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:12:41.80
>>534
????
寝ます 後日投稿しておきます
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:14:24.79
>>511
>カンナがあっても意味がない。

3世紀初頭から鉄の鑓鉋があって、(九州説の主張でも直後の)古墳から大量に鉄の鏃が出ていて
ピンポイントで3世紀半ばの纒向には鉄はあっても鉄鏃はなかったとかいうのは、
バカの言い分以外の何ものでもないだろ?ww

これまで>>511の通り名のいいのがなかったんだけど、これからは「石器で矢板の人」って呼ぶね!
左側スロープ君に並ぶ壮挙だな!ww
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:16:10.84
>>566
しかし纒向はどう見ても東海政権の傘下だろ?
弥生風の出土品も貧相だしw
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:16:47.01
>>563

これらの古墳に鉄器が多量に副葬されるような時期になっても
鉄器は集落からはほとんど出ない
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:19:21.36
>>514
>これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう

別に養蚕の起源は北部九州でも構わないよ?
ただ九州で出る弥生絹は織りの密度が低い低級品で、魏に朝貢されたちゃんとした絹は
畿内で出てるんだけどね

◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

>畿内は無理がありすぎ  強弁ばかり 

九州説は「絹」の一文字だけに頼ったチェリーピッキングだから、中身の議論に入ると
破綻するんだよ
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:22:03.74
>>524
>ノコギリが導入されるまで
>薄い板を作るのはかなり難しかった

前に教えただろう?
板材は割板として作って鑓鉋を使って仕上げるんだよ
まあ釿(ちょうな)でもいいけれど
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:23:41.09
>>581
それが何か
畿内では鉄製品がちゃんと管理されてた証拠
九州のように戦乱でもあって打ち捨てられたような状態ではなくて
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:26:14.69
>>554

裏技 美味しゅうございした

だよな 前方後円墳の円を作るのは
当時の先進測量技術とはいえないよな
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:29:43.18
>>553
俺もそう思うが
反応するあんたのほうが笑える
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:31:53.12
>>584

そういうこと
管理されたことによることのほうが大きい
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:31:56.03
>>497
>直線的な…二千余里は…門司から任那への海上距離

門司からなんて、なにそれだが。
門司から順天までの直線距離は350km。
日本書紀の任那まで2000里は日本里による里数とした場合、
1里200mなので350kmを1里200mで割ると1750里となる。
2000里より若干少ないが、まあ近似の里数にはなる。
これでみても、任那〜筑紫間2000里はそんなものだ。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:35:36.19
マキムクの名物
卑弥呼みたらし団子 消費税UPでいくらになったのだろう
NETでみつからない
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:36:24.10
唐子鍵と三輪山
ここは一つのポイントだと思う
唐子鍵は近隣土器や銅鐸鋳型が出土してることから3世紀半ばまで出雲や北陸東海系の文化

三輪山の大物主祭祀は3世紀末からの遺構が認められるけどそれ以前は謎
唐子鍵は三輪山の冬至の日の出方向にあたることから位置的に三輪山祭祀の原型地と思われるが四世紀始め頃には衰退し、その後近隣に銅鐸製作のノウハウを引き継いだと思われる鏡作神社が立ち上がる

その唐子鍵と三輪山の隙間に入り込むように開発されたのが巻向遺跡であり巻向古墳群でこれは完全な鏡祭祀

この位置関係と年代観を考慮すると邪馬台国と卑弥呼の存在というよりも、邪馬台国滅亡後の後継地として選ばれたと考えたほうがしっくり来る
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:38:37.89
スマン
みたらし団子 店内で食べないから消費税UP関係なかった
スマン
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:39:49.77
>>585
>だよな 前方後円墳の円を作るのは
>当時の先進測量技術とはいえないよな

は? 日本語通じますか?

自分で直径100メートルの正円を描いてみろよ!
できやしないから
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:45:25.32
>>591
しかりです
邪馬台国は横に置いといて

考古学的にあの地の主軸は唐子鍵がキーと思います
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:54:00.22
>>594
50メートルの縄を持ってきてくれたら、描いてやるよ
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 00:56:38.39
>>577
>古墳三基だけでも大量に見つかっている

ホケノ山は中頃の築造。
これより前の3世紀前半の大和はほとんどは鉄器過疎。
そこで、卑弥呼が死んだ直後に大和に鉄器が溢れるようになるわけ。
ホケノ山の副葬鉄器は博多からの戦利品だよ。
ホケノ山、黒塚、メクリはそうした博多から移送した鉄器群。
これをみれば、纏向の政権が博多、山門で何をしたのか明確過ぎるほど明確だろう。
そしてこの時期から、纏向の政権加盟国でも鉄器が出土し始める。
鉄器過疎地帯が3世紀中頃を境に鉄器充足地帯に変貌するということ。
お分かりか。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:07:57.03
>>468
>土に打ち込んだ部分まで平らになっている

その土に入っていた部分が分かる写真をアップしてちょ。
鉄器で削ったのなら、その削り口も分かるわな。
早よ、アップしろよ。

平たい砥石はいくらでもあるだろう。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:10:46.89
>>597
そして適当なことよく考えもしないで書いてるうちに
そちらが卑弥呼は大和にいたと思ってる事を自ら書いてしまっているが
女王卑弥呼の居た邪馬台国は畿内で決まりでいいってこと?
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:19:04.73
>>597

なんで関係ない山門が入ってるんだ
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:19:05.14
>>589
>砥石の現物が見られる

アホォォォォ!
この砥石は3世紀後半のブツじゃないか。
矢板が打ち込まれたのは3世紀前半だっただろが。
ヴォォォケェェェェ〜!
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:26:23.50
>>601
>なんで関係ない山門が入ってるんだ

歴史を知らんのか。
卑弥呼がそこにいたんだろが。
卑弥呼の謎の死の原因が何だと思うとるのかよ。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:29:13.53
>>603

山門信号機付近は三池炭田から歴史に参加すればよい
大それた考えを抱くな馬鹿者が
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:30:54.27
>>551
>見えない鉄を追うのが正統派の研究

お前に妄想など無価値
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:31:59.24
>>560
>>545
>>纏向の辺りは扇状地だから結構削れるんだよ

>適当なことを言っちゃって。
>奈良の遺跡は扇状地ばかりじゃないぞ。

福岡の方がはるかに大きな扇状地じゃん。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:33:17.08
>>565
>ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。

実はできていなかったんだよ。
前提が誤っているから矛盾を生じている。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:33:23.87
九州の山門は畿内の大和と張り合ったら
前方後円墳や三角縁神獣鏡等の遺跡比べ勝負になる事をわかっているのか
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:34:01.57
>>567

だからそれが卑弥呼の先代までの男王たちだろ。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:36:53.62
>>584
>畿内では鉄製品がちゃんと管理されてた証拠

ああ、無駄遣いしないように、九州の朝廷から管理されていたのだな。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:50:28.38
387 409 418 427 458 464 465 469 473 485
486 495 499 504 510 519 522 525 530 533
537 540 546 548 550 556 571 573 578 586
590 592 595
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:53:16.86
>>611
畿内の方がずっと鉄器は豊富なんだけど
今まで見つかってる中で九州は2世紀までの総数1100点
畿内は古墳3基から600点ほど
畿内には7200基の古墳があるそうだから古墳1基300点の単純計算で
畿内には200万点ほど鉄器がある事に
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 01:57:56.05
九州こそ畿内の朝廷のほうから下賜された鉄器を
管理もしないでほっぽり出しにしていたのだな
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 02:08:36.66
>>597
>これより前の3世紀前半の大和はほとんどは鉄器過疎。

いくら言われても
「見つかってない」を「無い」と混同する
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 02:41:05.01
>>514
九州の絹

 弥生中期→弥生後期

  ど 没 落 中

w
w
w
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 05:21:34.81
>>408
>>しかし他の地域では古くなった鉄器が見つかったりするものなのだが?<

>だから、畿内で出ない理由を考える方が学問としては合理的だし有益
土地利用の変遷が、重要なんだろうなとは思う
纏向遺跡の範囲の大半は、後世に水田化されている
そういう場所では特に、鉄器は残りにくい<

「水田化」は日本中で見られた事。
大和と筑紫とでも大差があった筈がなく、類スレ主はまた、×。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 05:27:03.26
>>410
>>見つかった数に差があるのだから、もともとあった数にも差があったと考える他ない。
鉄器の普及度に九州北部と畿内で圧倒的な差があったのは確実。<

>これが明確な間違い 残存している鉄の方がレアケース
見つかった鉄を何倍すれば当時の使用量になるという換算式なんてないんだから
残存量から当時も多かった、少なかったというのは無意味
前にも書いたが、指数関数をなめるな<

要は確率の大小の問題。「確率の大小」をなめるなよ。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 05:44:30.24
>>411
>>甕棺ではない平原遺跡などでも、鉄剣が溶けずに見つかっているね。
なぜ畿内の土壌でだけ鉄がよく溶けたことになるのかな?<

>平原遺跡は水田化されてなくて、耕されていないからその分残りやすかったとはいえるだろう
畿内でも水田の底にならず耕されていない古墳の墳丘上では大量に残ってるだろ?<

平原には周溝があった筈だし、柿木林になっていた、という事は、
何度も土砂体積の水害もあった低地だった、という事だろうし、
まあ、反論根拠にならないんだろうなあ。
要は「確率の大小」の問題。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 05:54:28.92
>>569
出雲の銅剣は一人の首長のものではなく各首長が持ち寄った物だと言われる
荒神谷遺跡の周囲に大規模集落が無いことから集団祭祀場だったのだろう
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:00:41.50
>>413
>繰り返すが、これは考えの足りないものの考え方の典型<

繰り返すが、これは、「確率の大小」の問題。
自然や歴史は、不可知部分が殆どなのであり、
存在確認出来た史料事実などからの帰納的確率的な推論をするしかないものであり、
それを、
都合の悪い史料事実や史料実態を、例えば1%位の不可知部分の存在で否定抹殺し、
また、1%位の「都合の良い史料実態」をチェリーピッキングして、
それが全てであるかのように宣伝するのが、
思想宗教に狂った「なんでも絶対断定」の・・・・詐欺師の手法であり、
考えの足りない大和説者らの考え方の典型 。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:19:57.93
>>414
>>鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね 奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね <

>これが、時系列や編年をまったく考えない九州脳の典型
というより、これ以外のデータがないから必死でしがみついているというのが正解なのかな?
弥生時代全期間で多いと言っているが、3世紀分だけ出してくれといっても出せない九州説w
そして、3世紀の畿内の古墳3個だけで弥生時代全期間の鉄鏃の量を超えてしまうww<

これが「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者のチェリーピッキングの典型。
「時系列や編年」は、当然「嘘吐き騙しの大和説学者」らの編年に基づいた推論であり、
その年代比定が始めから低確率的であり、
奈良や山城の3古墳はほぼ4世紀であり、
東京や千葉の古墳はどちらかと言えば年代不明であるもの。

つまり、類スレ主は、始めから、
「低確率な実態」を根拠にして、相手を批判誹謗する、
というインチキ詐欺をしている。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:29:54.97
>>415
>北部九州でも、弥生時代よりは古墳時代の方が鉄器の使用量は多くなっているはずだろ?<

なってないだろうな。
九州倭国は「自昔・・・東征毛人五十五國」や半島戦のために、
鉄武器が大量に必要になったのであり、
だから、九州では鉄出土が減少し、東征軍が占拠した大和などが鉄が増加した。
(丁度、戦前の日本が鉄くずを必死で拾い集めたのと同じ)
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:32:12.05
まだ同じ話をしているの?わかりやすく言うとアニメの神様。

漫画、ゲームの神様・・・芸能、その他も同じ。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:33:42.44
>>416
>九州脳にかかると弥生人のほとんどは真っ裸だったことになるな<

この意味不明文は、放置しておいてもよいんだが、
「南→東」などに嘘吐き騙しの大和説者の低脳振りがよく判る例なので、掲載。
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:36:30.65
テレビなどで言われているでしょ、
陛下?不明?何だか知らないけど、その家ではないんだよ。

アニメの神様・・・・、本当のカミタマなのかな?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:39:43.54
>>419
>>鬼道が初期の神道のことなら、<

>それは根拠も証拠もソースもない妄想ですねw
初期の神道は自然崇拝で磐座信仰の形を取るものなどが有名<

成程。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:41:40.44
〜一系、直系?
そのような事ばかり言っていたり、そういう話を信じ込んでいる人々がいるとか、
話をしている人々がいるでしょ、なぜだと思う?
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:51:15.75
>>421
>だから、北部九州での弥生時代と古墳時代で集落に捨てられてる鉄器の数を比較したら実証できるはずだぞ
3世紀限定の北部九州の鉄器の出土量のデータは?
ないんだろ?ww <

ダメだな。
大和説学者や大和説考古学者らは、「南→東」などの嘘吐き騙しをしているし、
「自昔」から「東征毛人五十五国や渡海北平九十五国」があったから、
鉄武器が大量に必要であった事を隠している嘘吐き騙しであるから、
信用出来ず、根拠にもならない。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 06:58:03.62
>>426
>239年の卑弥呼の遣使以降だから、その前のことをぐだぐだ言ってもピントがボケるだけだぞ
239年以前のことは言葉の通じない異人からの伝聞情報だと思った方がいい <

卑弥呼の遣使は「景初二年=238年」であるので、
こっそり「239年の卑弥呼の遣使」という嘘吐き騙しを書いた類スレ主は、
嘘吐き騙しの・・・・詐欺師であり、×人間。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:01:12.07
>>629
北部九州の志摩では砂鉄から鉄器を作っていた
志摩は糸島市になってる
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:01:16.55
>>569
これと比較しろよ

弥生時代後期、ついに出雲の地に「王」が登場します。
王の存在は「王墓」の築造により証明されます。
出雲市大津町の丘の上にある「西谷墳墓群」こそ出雲最初の「王墓」群です。
※島根県立古代歴史博物館より
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:01:55.21
この曲も同じでしょ『シャイニン・オン君が哀しい』

『ザ・モモタロウ』でいうと、うらしまの使用する技wなぜか、うらしま。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:07:51.72
聖徳太子はいなかったので今の教科書には載っていない
聖徳太子?誰それ??ですよ
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:08:20.02
>>569
丹波に3世紀の古墳とかあるのかよ
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:08:50.55
なぜか同じような画像ばかり出てきたり、グーグル。
『ガンダム サングラス』『デスラー』『』

ですらー、ラーの何やらと書いてあるし、ドラクエにもあったでしょ、ラーの・・・。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:10:58.85
>>431
>飛鳥時代以前に、北部九州で存在が知られていた水銀朱の産地なんてないからね<

大和の記紀は、倭國の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分偽書であるんだから、
九州倭国の歴史や産物は当然「無視」したんだろうなあ。
しかし、肥前には、松浦川の上流だけではなく、佐世保にも水銀があったらしい。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:13:46.50
>>613

>畿内は古墳3基から600点ほど
>畿内には7200基の古墳があるそうだから古墳1基300点の単純計算で

>古墳1基300点の単純計算で

どういう計算?
畿内式誇大解釈方程式?
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:16:55.08
『姥清水』〜『シャイニン・オン』なぜか同じような話
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:16:56.64
>>637
松浦あたり山中の水銀?
かなり後世に陶器用の粘土を採掘していて不純物として見つかった
実用性はない
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:47:46.29
和を以て・・・、ほとんど同じような話でしょ。


>別のバンドからそれぞれ集められて作られたバンド。
>みんな志向が違ったから長くは続かなかったが、
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:51:57.19
>>537
>畿内でなく 京都を中心とした圏内が邪馬台国だと思いますよ

古代王都の勃興地として、奈良や京都の内陸は無理!  冷静になりましょう。


>作為的なマキムク王都説が無ければ畿内説から離れなかったです

畿内にこだわり過ぎ!     「当時の国力を図るのは文化水準の高い遺跡なり、遺物があるか?多いか?が鍵」   @阿波
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:52:24.54
>>641
つまり歴史の専門家は「邪馬台国は九州」なんて言わない、と・・・
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 07:54:57.21
>>644
歴史の学者特に考古学者は畿内というね
いくら貰っているか知らんけど
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 08:01:45.77
デスラー???????ほとんど同じような事が書いてあるし、

>初期作品では、
>たった1回の失敗に対しても戦って死ぬか自決か
>デスラーによる処刑しか選べなかったが
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 08:04:43.69
>>566
>神武天皇記は、九州から始まって畿内だから・・・

「九州から」などと、どこも記されていない!  ウソはイカンぜよ。   @阿波
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 08:13:39.07
>>645
さすが九州説、発想がゲス
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 08:53:27.04
>>558
>弥生時代の平らな矢板を石器で作ったと主張するやつは世界でお前だけだぞw

鉄器もあれば石器もあれば  で いいんでねーの
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 08:53:43.73
>>613
>畿内には200万点ほど鉄器がある事に

あからさまな捏造乙
だから畿内説は信用されない
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:05:23.51
>>440
>だから、九州説は古い内輪の情報だけしか見ていないって言われるんだよw
何年前のだ? それw
それ弥生全期間だから、3世紀だけの九州の出土量を出してみてって
何度言われても出さないしww <

https://i.imgur.com/4CWy1Ih.pngは、
「魏志倭人伝記載の遺物、大略西暦300年以前、弥生時代の遺物」
と説明されてあるから、それで十分。
だいたい、大和説学者の「弥生時代」や「古墳時代」の年代や区分自体が、
インチキ騙しであったんだから。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:08:28.66
>>650
試算を単純計算って言ってんだから捏造じゃないだろ
打倒か不当か弁ずるべきところで中傷に走っちゃうのが
九州説の限界
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:08:36.29
>>594
お前はあほキナイコシ 一発で
>>596にやり込められてんの
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:13:32.15
>>651
「大略西暦300年以前、弥生時代の遺物」
の一言で常識の世界からドロップアウトしてますが
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:16:26.34
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
>>594日本@名無史さん2019/11/29(金) 00:39:49.77
>>585
>だよな 前方後円墳の円を作るのは
>当時の先進測量技術とはいえないよな

は? 日本語通じますか?

自分で直径100メートルの正円を描いてみろよ!
できやしないから
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

小学生でも、描けるんじゃねーかwww
やはり、キナイコシは算数できないなwwww
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:16:38.95
>>653
どうしてそんなヨタ話で
他人をやり込めることが出来るとか
夢想してんの?
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:20:30.07
>>621
奥山は理数にトンチンカンだから
何度言っても理解できないよ
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:20:36.96
九州説は情報が古いとよく言ってるけど、真実には新しいor古いという概念は無いんだよ。
違いがあるのは解釈だけ。
そして真実というものは基本的に不確定なもの。
正しいとか間違いといった表現も使えない。
じゃあどうするか?
形あるもので示す事。
畿内説のように実態の無いものを信じろと主張する方がおかしいんだよ。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:21:22.82
>>568
>唐古鍵から出た鉄器は、1個だけ。
>あんだけの工房遺跡で鉄器が1個だけだぞ。

つまり、それだけ鉄というものが残りにくいという証拠だな

>過疎過ぎるわ。

この判断が、不合理な間違ったものだということ
「石器で矢板」君は、合理的思考のできない人だからしょうがないね

いまだに九州説にしがみついてる時点でお察しだけど
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:21:47.77
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪(伽耶)韓国の南から儋耳朱崖(ベトナム)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国?】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国?】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国?】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を海南島までグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行一月」を転用して幻の【奴国?】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:24:50.96
>>643
おっしゃる 通りですが
私は、滋賀・福井・東海の一部も視野に入れてますよ
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:25:02.14
>>660の模式図だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀【奴国@】女王之所都▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
   ┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」_〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀【奴国A】(幻)〜│←『(女王之所都)計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其【奴国A】東南 船行1年」
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:26:06.18
>>661
キウスデス  スレ違いの投稿失礼
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:26:35.70
>>655
では何故だれも正確な円形の墓を作らなかったのかな?
倭製の鏡を作ってるんだから原理は知ってるはずだ

それはね、作る気が無かったからだよ
きちんと瀬方形の建物だって作らなかったろ
何事もやる気がなければ出来ないんだよ

正円を描くとか東西軸を合わせるとか。そういう発想が入って来るのが新しい
そう作ることの意義を意識する
それが「先端」の技術なんだよ
0665日本@名無史さん
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2019/11/29(金) 09:26:53.41
>>580
>しかし纒向はどう見ても東海政権の傘下だろ?

これもバカ丸出し
東海の土器は、纏向で出る土器の3%くらいだぞ
伊勢・東海系を全部東海にしても7%程度

銅鐸だって三遠式銅鐸は畿内方面にはほとんど進出していない

現代の区分でいう近畿地方の中でも、唐子鍵は真の意味での拠点集落だし、
東海勢も朝日遺跡などから十分な勢力だったことが分かるけれども、
東海が畿内まで来て纏向遺跡を建設したなどというのは、
畿内説を下げることで九州説が上がると考えるどこかの国と似た思考法の
バカの戯言だ
0666日本@名無史さん
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2019/11/29(金) 09:27:45.05
>>660
>>662
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て発注書簡の封泥金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国 東→渡「海A」千余里 複有「国皆倭種B」(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南↓有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上、「渡海複有国皆倭種(→東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾が生じる。
また、鉄製武器(軍事力)も文字・駅伝制(通信手段)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
消去法により、九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本か鹿児島かだが、邪馬台国七万戸を統治する倭女王をして、魏帝に援軍要請させるほど窮地に陥れる国の軍事力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)を想定。
面積から見て、川内平野でゎ「平野面積≒戸数」となる3世紀の開墾能力では無理があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、北岸の吉野ヶ里遺跡を始め、弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉を、
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:29:10.37
>>658
>九州説は情報が古いとよく言ってるけど、真実には新しいor古いという概念は無いんだよ。

九州説はこんなふうに時系列観念が無いから
歴史研究が無理
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:29:36.07
>>666
すると、欽明(現皇室開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/鯨魚@八代淡海→近江琵琶湖)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!

漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋【宋/斉/梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」任命(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名をそっくり移植。阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)

まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京)
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:29:42.89
>>644
それを畿内説互助会と言う
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:30:59.60
>>446
>>甕棺墓時代BC300〜AD180年(AD300年も有り) ・・・<

>これは年代詐欺だな
いわゆる甕棺墓時代と言える成人用の大型甕棺の盛期は桜馬場遺跡が最後で、
せいぜい2世紀前半がやっと
「(AD300年も有り)」これはうそ
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html

これも、大和説考古学者らによる年代詐欺だな。
何度も言ってきたが、
まず、卑弥呼の墓である可能性が非常に高い祇園山が、墳裾に3個の甕棺を持っていた事と、
吉野ケ里が、(3世紀後半半ば頃の那珂八幡と同じく)前方後円墳が始まった時点で、
甕棺が終了する、という事があるから、
筑紫付近における甕棺の減少は、3世紀中頃からだ、と決定的になる。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:31:20.40
>>668
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が1世紀前の邪馬台国「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。

ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国)の@景行A成務B仲哀、応神朝(邪馬台国)C応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0

その応神朝@筑紫(邪馬台国の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。

この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き(継体の大和入り20年に仮託)、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化を成就。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での完敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、継体→安閑・宣化→阿毎多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。

ここに倭王権は史上初めて北部九州を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の「畿内」には、崇神朝・応神朝はもちろん、直前の継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、超巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:32:26.41
>>667←このように理由を述べずに否定するのがキナイコシw
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:32:47.18
>>596
>50メートルの縄を持ってきてくれたら、描いてやるよ

バカだなぁww
50メートルの巻尺、使ったことがないんだろう?ww

実体験のないやつはすぐに見当違いのことを言い始めるw
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:33:49.42
>>656
あんたね 直径100メートルの円 描けないの?
50Mのロープと運動場あれば描けるよ・・小学生でも
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:34:46.67
>>659
>つまり、それだけ鉄というものが残りにくいという証拠だな

そのとおり
誰だって経験的には知ってたが
2006年の文化財科学会で土壌によって鉄の溶け方が6倍も違うと発表されてから
マトモな頭の人は鉄器出土量で単純比較なんてしなくなった
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:36:40.92
>>674
それを
誰もやらなかった現実を直視しろよ
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:37:06.27
>>673
それ労力の問題だろww
直径100Mの円を描くのが3世紀の先進的技術かよww
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:38:40.23
>>597
>ホケノ山は中頃の築造。
>これより前の3世紀前半の大和はほとんどは鉄器過疎。
>そこで、卑弥呼が死んだ直後に大和に鉄器が溢れるようになるわけ。
>ホケノ山の副葬鉄器は博多からの戦利品だよ。
>ホケノ山、黒塚、メクリはそうした博多から移送した鉄器群。
>これをみれば、纏向の政権が博多、山門で何をしたのか明確過ぎるほど明確だろう。

この年代観がデタラメそのもの

奴国の中心にあたる比恵那珂遺跡で、畿内第V様式の時期から継続的に大領に
畿内様式甕が出土していて、庄内期からは比恵那珂遺跡で大量に作って周りに
配布している実態を無視している

それに、戦利品で持ち帰ったにしてもその後北部九州で全然鉄が出なくなるのを
どう説明するんだ?

ザラゴキの東征将軍のでたらめでもそうなんだが、本国に当たるはずの北部九州が
3世紀以降まったく見るべきものがないのをどう説明するんだ?ww

そして、見るべきものがなくなるのは、実は3世紀になってからではなく、
2世紀初めの甕棺墓勢力がド没落した時点から、なんだがなww

年代詐欺は実は九州説のやり口だww
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:39:00.44
>>671
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(唐)に対し、新益藤原京を新設した「畿内」に、筑紫邪馬台も阿蘇邪靡堆もあったと思わせたかったからなのである!

白村江海戦惨敗で東遷した九州本家の天智の死後、壬申の乱でついに倭王権を獲得した大和分家の天武が正史記紀を編纂し(唐を刺激する九州本家の所業=継体創始の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消)、
それに合わせて九州の地名をそっくり移植し、畿内をその歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!

7世紀唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
隋書倭国伝(倭王阿毎多利思比孤@阿蘇邪靡堆)、旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(→東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。

事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が近江大津京に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた「倭国」@九州の歴史テーマパークにするため、後漢書東夷伝の「大倭」を借用しつつ、
発音は北部九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代の「畿内」にあったとされる「ヤマト王権」(定説)は、
唐外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として強行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた幻想で、
特に前者は、記紀(ヤマト王権)という虚構のゴール地点から、魏志倭人伝と考古学の年代繰り上げ操作という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:41:37.48
>>673
一人でもできるよ
広い運動場があれば、50Mの巻き尺で前方後円墳の円部なんて
あんたは、50Mの巻き尺を引っ張って円を描くことを想定してるだろうが
違うやり方あるよ 
ヒント 点と線
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:42:22.51
>>599
>平たい砥石はいくらでもあるだろう。

平たい砥石は、平たい金属を研ぐことで平たくなるんだww
平たい金属を研いだ平たい砥石で擦ったから平たい板ができるって主張するのかい?

本当に「砥石で矢板」君は、とことんバカで恥を上塗りすることに躊躇がなくて面白すぎるww

平たい金属を研いだ平たい砥石があるなら、板を加工するのに砥石を使うより
金属器を使ったほうがよっぽど便利だし効率もいいって、弥生人でも当然に考えると思うが、
「砥石で矢板」君は、合理的思考能力において弥生人より劣るから、「砥石で矢板」って
思うんだよね?ww

本当に、バカすぎw
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:42:45.60
>>677
>それ労力の問題だろww

10mの円形だって描かなかったんだぞ
九州説は現実を直視しろよ
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:44:01.70
水平ではない地表面に
正確な円を描くのはすごく難しい
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:44:05.34
>>679
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、

A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!

@(武寧王の百済を完全属国化した)継体が南北朝の中国二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)

-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:44:34.22
>>255
>鉄そのものが出てるよ
ここで見られる
http://www.town.tawaramoto.nara.jp/material/files/group/34/79734129.pdf

それでも、やはり北部九州や筑紫の卓越さや古さは変わらず、
瀬戸内以東や唐古鍵などは、量的質的に北部九州に遅れ、
纏向からの鉄器の出土の説明もない。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:45:45.47
>>680
知ってりゃ誰にでも出来ることも
人類は長い年月かけて習得してきたんだよ

つまり歴史が理解できないから九州説なんだな
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:46:05.47
>>673
まず東西南北に半径50Mの印をたてる
そして・・・やめたアホを相手にするのは
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:46:33.61
今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:48:09.22
>>685
>纏向からの鉄器の出土の説明もない。

何人もで何度も説明してるけど?
鍛冶作業場の後は何箇所もあり鉄器は散乱していない
古墳からまとめて出る
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:49:54.34
>>456
>>これまで布留1式期の標準とされていた土器であり、<

>その後、庄内期からあったことがはっきりしたからw
九州説は古い情報にしがみつくw<

だから、その「庄内期からあった」という小型丸底の「壁厚」は、
どうなってるんだ?、と聞いているんだよ。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:50:03.45
古墳が運動場に造られたのではないところがミソ
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:50:09.44
>>664
イミフ
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:50:10.86
>>685
>れでも、やはり北部九州や筑紫の卓越さや古さは変わらず、

3世紀に追い越されてるね
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:50:12.23
日本は多民族国家です

◆九州渡来人の入植ルート(紀元前)
中国長江→九州※中国系
半島→対馬海峡→九州※出戻り縄文人含む

倭国

◆畿内渡来人の入植ルート(4世紀〜)
半島→若狭湾→滋賀・三重→東海・伊勢※ツングース系

倭種の国

自称日本国

倭国と合併して正式に日本国となった

by DNA
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:51:10.28
>>690
>だから、その「庄内期からあった」という小型丸底の「壁厚」は、

薄いよ
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:51:44.19
>>692
これが理解できないから歴史がわからない
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:54:59.06
>>664
ほらよ、あんたの好きな寺澤
前方後円墳の円を描くのが先進的技術じゃないよ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
弥生時代の円丘墓 (列島各地域の円墳--主として大型円墳をめぐって<特集>)
寺沢 薫
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:57:40.51
ふーーん
 3世紀 円を描くのが畿内では先進的技術か
ふーーん
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:58:21.16
また説明能力のない人がきた
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 09:59:31.35
正円じゃないし規模が段違い
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:02:03.77
いかなるときも論理的に話せないのが九州説の特徴だね
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:02:22.78
キウス
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:02:53.50
>>602
>アホォォォォ!
>この砥石は3世紀後半のブツじゃないか。

だから、3世紀後半といっても卑弥呼の死からほとんど時間がたっていないぞ?
纏向遺跡自体は2世紀末からあるのは確実

纏向遺跡の全時間、全領域の発掘ができるはずもないのだから、総合的に
整合性の取れるように考えていくのが当然

2世紀末の大量の矢板があり、それ以前の唐子鍵に鉄のごつい斧が出土しているし
「出土した木器の加工痕から鉄器の存在を裏付ける研究がなされており
唐古鍵遺跡の木製品にも鉄器による加工痕が残っています。」という状態

九州説は、数十年単位の編年は不可能といいながら、数十年単位の編年の差を
鬼の首を取ったようにわめき散らすww

レベルが低すぎw
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:03:00.35
近畿地方において鉄器化が始まるのは紀元前 1 世紀のことである。三田市奈カリ与遺跡では,鉄
鏃・板状鉄斧・ヤリガンナ・刀子など 10 点を超える鉄器が出土している。現状では,後期に入っ
て飛躍的に増加するわけではないが,石器の激減や鉄器研磨用を含むであろう砥石の増加から,鉄
器化の進行が推測される。後期前半にはなお石器が残存するが,後期後半になると,転用と思わ
れる石器はあるものの基本的には石器は消滅し,ほぼ鉄器化が達成されたと考えられる[禰%c
1999]。生産された鉄器は,後期前半までは打ちのばした板を鑿で切り取ったものが多いが,後半
になると,板状斧に対し袋斧が量的にも増え,鑿でも袋状のもの,茎が方柱状で長い刀子など,板
状品よりも高度な加工技術を要する厚みのある製品が出現している。

確かに鉄器出土量は多くはなく,全国で同じように発掘調査が進むなかで,現状の量による畿内
の鉄器化進行に対する疑念もある[村上 1998]。しかしこれは遺跡の状況と発掘調査の状況が大き
く左右している。近畿地方における弥生後期の集落は,河内や大和をはじめ特定の拠点的な遺跡の
ほかは,小規模分散化している。後期の集落の多くを占める小規模集落は,把握されても鉄器が見
つかることはあまりないだろう。そして,中河内や奈良南部の拠点的な遺跡については,河内平野
では遺構面が深く大規模開発でなければ調査がおよばず,奈良盆地の場合は調査の契機となる開発
事業がこれまで少なく,いずれにしても十分明らかになっていないのである。

一方で,宅地造成などで面的に調査が実施される丘陵地では,古曽部芝谷遺跡・観音寺山遺跡・田辺天神
山遺跡などからは,そう長くはない存続期間ではあるが一定量の鉄器が必ず出土する。

比較的小規模と思われる星ケ丘遺跡において,U類鍛冶炉が確認され鉄器加工が行われている事実は
むしろ重要である。畿内の中枢部である河内や大和南部では,より大規模な鉄器加工が行われていたことが
推測される。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:04:10.58
行き止まりの枝葉末節水掛け論に夢中になって、幹を見失った机上の空論、畿内説!w
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:04:49.07
技術を習得する大前提として
図形を書くのに正確を期そうという意思が必要なんだね
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:06:03.72
歴代中国に朝貢した国とは

周:不明(倭と呼ばれた領域も不明)
後漢:倭奴国
魏:卑弥呼の女王国→邪馬台国
晋:台与の女王国
〜 記録が途絶える 〜
隋:畿内の自称日本国(倭国代表国交代?)
唐:日本国
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:06:31.30
>>705
具体性のない悪口しか言えない九州説
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:08:05.20
>>606
>福岡の方がはるかに大きな扇状地じゃん。

須玖岡本遺跡のあたりは扇状地といえても、福岡市の大半は海岸平野だろ?
なんだかいちいち常識のない人は本当に話が通じなくて困る
https://i.imgur.com/FDSPkY1.gif
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:08:57.27
>>683
だから、前方後円墳の円部は正確な円では無いのだよww
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:09:01.48
>>704
ゴタクはいいから、さっさと奈良盆地で鉄器を掘り出せばいいだけ
もう何十年掘ってんだ?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:09:01.77
>>708
宋斉抜けが間抜け
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:09:23.58
>>609
>だからそれが卑弥呼の先代までの男王たちだろ。

先代だってww
200年も前の人を、先代とか言ってちゃだめだよww

年代詐欺は九州説の十八番w
この人も「石器で矢板」の人かな?w
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:10:05.64
>>703
3世紀前半の砥石だったらメクリで出てるよ
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:10:07.48
>>711
平地の前方後円墳ならあり得るよ  たぶん
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:11:21.32
>>712
とっくに出てるが?
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:13:11.40
>>620
>出雲の銅剣は一人の首長のものではなく各首長が持ち寄った物だと言われる
>荒神谷遺跡の周囲に大規模集落が無いことから集団祭祀場だったのだろう

と同じことを、平原1号墓についても考えればよいってこと
平原遺跡周辺に大規模集落なんてないだろ?
それに、家族墓として累代の造墓が見られるのに、1号墓以外に厚葬墓がないことも
この考え方を後押しする

三雲遺跡群の集落の首長は、三雲遺跡群の中に王墓を作っているんだし
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:14:32.99
>>697
でおしまい 円の話は
振り上げた拳のやり場がない場合は
静かに手を下せば良いのですよ
こねくり回すとロクなことは無いですよ
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:14:43.71
>>631
>北部九州の志摩では砂鉄から鉄器を作っていた
>志摩は糸島市になってる

それは、だいぶ時代が下る(少なくとも5世紀以降)から、
邪馬台国の問題を論じるうえではあまり関係ないな
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:15:54.25
鉄器の時代は1世紀には始まってるんだから3世紀に畿内まで浸透しているのは当たり前。
しかし出土量に極端な差が生じていることから、情報伝達や物流に難がある時代だったと考えられる。
あるいは倭国大乱で派閥が出来、分裂していたとも考えられる。
例)魏志倭人伝の「邪馬台国vs狗奴国」
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:17:04.80
>>718
平原に他地域の人が何か持ち寄った痕跡ある?

いや、皆無
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:18:11.63
>>632
>弥生時代後期、ついに出雲の地に「王」が登場します。

そして、ほかにも吉備や丹波、大和で巨大墳丘墓を作る各地の「王」が登場するんだが
北部九州はその波に乗り遅れる

出雲の王が各地の祭器を回収して大量の銅剣に改鋳して埋納し、立派な墳丘墓を作るのに対し
伊都国の勢力は、大量の鏡に改鋳したはいいけれどばきばきに割って、小さな墓の墓坑に
ばら撒いている訳だ

こういう比較が必要、ということ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:18:34.94
>>719
反論どころか
説明すらできずに
そそくさ逃げる九州説
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:18:36.00
墳裾が傾斜地で平面が正円でなくとも
段築が上がっていくごとに補正されていき
墳頂平坦面では正円に近くなる
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:20:54.30
>>717
彼が言ってるのは矢板を削ったであろう鉄器のことじゃねーの
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:21:07.69
3世紀に運動場を要求する九州脳
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:21:32.95
>>635
>丹波に3世紀の古墳とかあるのかよ

このように、九州説は根本的にもの知らずw
九州説の内輪のデタラメ文以外は読んでいないから、常識がないw

古墳という言い方はしていないが、赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳丘墓は
いわゆる弥生王墓といわれるクラスだ
https://i.imgur.com/24hmW5K.gif
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:22:02.47
>>726
九州説名物無限後退
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:22:20.29
>>457
>「思う」を省きます
七万戸とかは余り 邪馬台国論争には必要ない。
魏使が数えたわけではないから、伝聞。
倭国の情報操作。<


史料事実は、十分で確実な史料批判なしには、「抹殺」していけないもの。
邪馬台国なんて史料事実の存在もしなかった嘘つきだまし文言を使ってはインチキ。
「七万戸」は、おそらく倭人からの貴重な伝聞情報。
倭国は、別に「情報操作」などする必要がなく、普通にして居れば済むもの。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:22:59.15
>>645
>いくら貰っているか知らんけど

このレベルの下種な考え方が九週説のデフォw
学術レベルの討論には耐えられないw
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:23:44.01
>>681
砥石うんぬんは別にして
鉄がなくても平たい石はできるよ
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:25:42.92
>>649
>鉄器もあれば石器もあれば  で いいんでねーの

石器で矢板を作ろうと思うと、一枚作るのに4日間かかりでこぼこの矢板になります
鉄器で矢板を作ろうと思うと、一枚作るのにせいぜい半日、平らな矢板が作れます

矢板を600枚作る必要があるときに、あなたはどうやって矢板を作りますか?ww

逆に鉄器が十分になければ矢板を大量に作ろうとはそもそも思わないという話
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:26:32.61
>>731
邪馬台国論議は学問では無く、学者や一般人が入り混じって同レベルで意見し合う「場」である
というのが学者の認識です。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:26:37.63
必死に話題を変えるキウス
日中に書き込んでるのはクビになったんだろう
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:26:57.03
>>459
>>(纏向)でもそれを作った人たちは、道具の鉄器を持ってどこかへ去ってしまった。<

>でも、それを作っているところを魏使さんが見れば、ヤマトに鉄があったってことになるねw
持ち帰った云々は何の意味も持たない
その場で鉄を潤沢に使ったことが論証できれば、その場に鉄があったと確実に言える訳だ <

「南≠東」などに拠って、「魏使さんが見る」という事があり得ないから、
類スレ主の方が、×。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:27:23.00
>>733
しかし現物を調査したプロが
大型の鉄器を磨いた砥石と言ってるわけだ
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:28:01.68
>>734
>矢板を大量に作ろうとはそもそも思わないという話

纏向の現状からは、よそから買ってきたとしか言えない状況なのを認識してるか?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:28:13.01
>>735
どこの学者の?
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:29:13.61
>>733
わかったよ
石と石をこすり続ければいいのでしょ ちがうかな?
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:29:19.25
>>654
>お前はあほキナイコシ 一発で
>>596にやり込められてんの

やり込められたないよww
那珂八幡古墳ほかの纏向型前方後円墳の後円部が不整形なのはどうしてだと思う?ww

50メートルの縄を引っ張って円を描くってのは、やってみると分かるけれど
できないんだよww

重機で整地されたグラウンドのような平面なんてないんだしw

こういうところも、九週説のバカなところ
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:29:52.76
>>739
よそから買ってきたとしか言えない
という理由は?
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:30:19.92
>>743
畿内は何週説なの?w
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:30:53.45
>>665
>東海が畿内まで来て纏向遺跡を建設したなどというのは、

じゃあ纒向は周辺と孤立した田舎だ。
あれ?
全国から人と物資が集まっている大都市のハズでは?
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:31:39.57
>>682

丸い円墳を作ることに意義を見出さなかったんだよ。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:32:38.09
>>744
付近に使われたであろう道具や作ったという痕跡が無いだろ
そもそも人が居た痕跡すら薄いんだぞ?
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:33:17.07
>>724
捨て台詞は止めたほうがいいですよ
振りかざしたコブシは静かに下ろすこと
円を描くのが3世紀先進的技術と思い込むのは
あなたのかってですが・・・
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:33:33.60
>>674
>あんたね 直径100メートルの円 描けないの?
>50Mのロープと運動場あれば描けるよ・・小学生でも

やったことのない人の戯言
50メートルのロープを引っ張って円弧を描いてごらん

綺麗な整地面ですらロープは撓むしなかなかに難しいぞww
50メートルのロープを引っ張ったときにどれくらい伸びるか、実体験がないだろw
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:34:34.86
>>469
>径百歩もしかり 魏使が実見したかも疑問
倭国の情報操作 <

張政ら魏の役人らは、卑弥呼の葬儀を見たまま記録し報告すればよいのであり、
わざわざ、「情報操作」をして、バレれば、首が危ないのであり、
だから、「倭国の情報操作」と解釈するこの男の思想か宗教か脳がおかしい。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:38:16.24
>>677
>直径100Mの円を描くのが3世紀の先進的技術かよww

現代だって原野に直径100メートルの正円を描けと言われたら
まず重機で整地することから始めないといけない

草や木がぼうぼうのところに直径100メートルの正円を描くというのは
なかなか大変だぞw

重機を使う時点で、3世紀からしたらオーバーテクノロジー過ぎるw
まあ、その辺は人海戦術でも何とかなると言えばなるけれど

自然地形で高低差があるところに50メートルの縄を持ち出しても
平面プランで正円の墳丘は作れないってのもお忘れなくw
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:39:39.03
だから>>749が捨て台詞の典型だって
論理的な結論でもなけりゃ
話も後にも続かないでしょ
典型的な捨て台詞
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:41:29.48
>>705
>行き止まりの枝葉末節水掛け論に夢中になって

枝葉末節に噛み付いてきたバカな九州説を諌めているんだよw
そして、結局そんな枝葉末節でもまともな議論ができずに
逃げにかかっているのが>>705
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:42:51.19
>>734
計算は別にして労力的にはそうでしょうな
しかし、マキムクの矢板を鉄器で削ったという証拠にはならないと思いますよ
大量にマキムクから見つかっているのは土木用木工具です
土木具も鉄であれば説得力がありますが・・・
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:44:35.01
>>755
もと沼地の泥相手の作業なので鉄器は不要
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:45:21.04
>>722
>平原に他地域の人が何か持ち寄った痕跡ある?

おいおい、出雲地域だって、出雲以外の地域の人が何か持ち寄って荒神谷遺跡の
銅剣を作った痕跡なんてないぞ?

伊都国の範囲内で、たまたまなくなった伊都国の有力家系の人物の墓に
盛っただけでしょ
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:47:27.14
つーか絶対必要だったのは伐採用鉄斧じゃね
この時代もう伐採用石斧は廃れちゃってんだから大量のヒノキは鉄器で伐ったんでそ
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:49:20.81
>>757
>おいおい、出雲地域だって

西谷三号の供献土器
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:49:59.70
>>733
>鉄がなくても平たい石はできるよ

何の目的で作るんだ?

磨製石器を作るための砥石(本来は砥石とは言わず研ぎ台とかいうんだけど)は
くぼんでるだろ?
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:51:48.34
>>757
出雲の西谷3号墓や4号墓には
他地域の土器が供献されている
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:52:20.91
>>759
また適当にこじつける
矢板が設置された時代に唐古鍵は存在しないだろ?
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:53:52.70
現時点、唐古鍵と纏向は別物だ
距離が近くても時間は飛び越えられない
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:55:36.75
>>764
>現時点、唐古鍵と纏向は別物だ
>距離が近くても時間は飛び越えられない

どうして?
古墳時代初頭も存続してるけど?
唐古鍵
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:56:10.18
唐古鍵は布留の初頭まで存続
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:56:14.45
>>739
>纏向の現状からは、よそから買ってきたとしか言えない状況なのを認識してるか?

この「纏向の現状」というのが、九週説のお花畑脳内にしかないからなぁww
「石器で矢板」君は完全に引き時を失ったね

まあその目的で、石器で矢板を作ったとか言ってたやつは逃げるぞっていくつか前の
スレで煽っておいたんだけれどw

>>675
「2006年の文化財科学会で土壌によって鉄の溶け方が6倍も違うと発表されてから
 マトモな頭の人は鉄器出土量で単純比較なんてしなくなった」
をしっかりと噛み締めた方がいいよ

指数関数で、底(等比級数の公比)が6倍違えば、1700年で何倍違うんだ?って話
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:56:51.54
>>763
情弱が九州説を作った
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:56:55.96
>>741
>石と石をこすり続ければいいのでしょ

何のために? 何の目的で?ww
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 10:59:45.32
>>746
>じゃあ纒向は周辺と孤立した田舎だ。

その纏向(15%)ほどにも、地場産以外の搬入土器が多い遺跡は3世紀の日本中
どこを探してもないんだけど?ww

3世紀に人がいたところはいくらでもあるとかいってたバカな九州説がいたけれど
こういう特異な場所は纏向遺跡しかないんだよ

北部九州には各地から文物が集まったとか言っているけれど、搬入土器の比率は
5%もない
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:00:20.21
>>476
>万二千余里が謝承の後漢書では奴国までの距離であったものが、
魏略・倭人伝ではその奴国が邪馬台国に置き換えられている。<

>つまり、万二千余里がもともとは邪馬台国に関するものではなかった
ということが重要。
その邪馬台国ともともとは関係のなかった万二千余里でもって邪馬台国の位置を探ろう
とすることは無理があると言える、ということ。<

「謝承の後漢書では奴国」の「奴国」は存在していなかった筈の国名である事と、
「邪馬台国」なんて文言も存在もしていなかった嘘つきだまし文言であるから、
この投稿子自体が嘘つきだまし人間であり、
信頼性がなく、×。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:00:46.01
祭祀が重要視されるようになったきっかけは異常気象による飢饉だろう。
卑弥呼女王時代の2世紀末に起きた大飢饉によって、多くの倭人が半島に避難したという記録もある。

<新羅本記>
173:倭の女王卑弥呼が使者を送った
193:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。

参考『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。
飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。』

という事は、卑弥呼は銅鐸文化を否定する側=銅鉾文化圏の人物だったということだ。
銅鉾/銅鐸分布:https://i.imgur.com/QsuokqV.png

瀬戸内〜北部九州で畿内式土器が出土するのは、それが政権勢力圏というわけではなく、
畿内を出た非難民の移動経路を示しているだけではないのかな?
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:02:27.41
>>741正解です

もっと簡単なのは平たい石を拾ってくれば良い
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:03:09.02
>>721
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/14677/20141016121835844887/BA66949967_5_21_34_nojima.pdf
鉄からみた弥生・古墳時代の日本海交流 野 島   永

http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/data_s/siryo/data171004.html
北陸の玉と鉄 −弥生王権の光と影−

76 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/11/26(火) 08:53:04.88
湿潤耳垢:弥生系「倭国」筑紫、出雲、越
乾燥耳垢:古墳時代以降に流入した半島(ツングースク)系「日本国」

https://i.imgur.com/VqqGojH.png

79 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/11/26(火) 09:04:11.00
>>76
その図の丸で囲まれた部分が狗奴国のように見える
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:03:28.09
>>770
>3世紀に人がいたところはいくらでもあるとかいってたバカな九州説がいたけれど

古代日本列島無人伝でも読んだのか?w

お前の祖国である半島は新石器時代まで無人だった時代だったけどなw
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:05:08.58
>>764
>現時点、唐古鍵と纏向は別物だ
>距離が近くても時間は飛び越えられない

おいおい、唐子鍵と纏向遺跡、共存期間ありますがなww
それに、誰がどう考えても纏向遺跡建設の大事業の後方支援の最有力候補が
唐子鍵と芝遺跡だぞ

唐子鍵にあって、纏向遺跡に持ち込まないと頑なに考えるのはただのバカww

ヒノキだって纏向遺跡の中に生えていたわけじゃないんだから、ヒノキを山から
運ぶのと唐子鍵から鑓鉋を運ぶのとどっちが大変だと思う?ww
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:06:04.55
>>742
畿内説の学者に聞かせたいね
まあ畿内説に限らず
説=事実とはかぎらないがね
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:06:08.65
>>707
>柳川市と書いてある辺りが山門

実際の地図にちゃんと当たったうえで場所を決めるようにしようね。
山門はこの海岸線の図にある柳川市の柳の字の東方向にあり、ちょうど6000年前の縄文時代の海岸線辺りになる。
弥生時代の200年頃の海岸線は山門のかなり西になる。
山門の卑弥呼の祭祀所は広い水田地帯にあったようだから、そこまで潮は入ってきていなかった。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:08:26.75
>>775
>古代日本列島無人伝でも読んだのか?w

九週説の人にとってのバイブルか何かでそんな本があるのか?ww

纏向遺跡が2世紀末〜3世紀初頭には存在したことが否定できなくなって、
「3世紀に遺跡があったからと言ってだから何? 
 3世紀に人がいたところなんていくらでもあるでしょ?」
と逃げ口上を放ったバカな九州説がいるんだよww
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:09:26.00
>>776
唐子鍵と纏向遺跡の関連性はまだわかっていない
唐古鍵が古墳時代まで継続していたというのは、当時の責任者いわく「薄い根拠で精一杯延長した結果」だ
当時、奈良で人伝いに聞いた話だ
橿考関係者なら覚えてるはずだが?
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:09:48.25
>>778
>弥生時代の200年頃の海岸線は山門のかなり西になる。

山門の「どこ」のことを言っているんだ?
お得意の「吉井信号」のあたりは、ちょうど海岸線のあたりだぞww
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:10:17.81
>>777
まあ要するに
都合の悪い情報は理由なく却下していかないと
九州説は立ち行かないからね
この辺がちゃんと情報の信頼性を吟味して採否を決めてる畿内説と
正反対なところだが
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:10:48.42
>>769
まえレス読んでね 鉄なしで平らな石器を作る話
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:10:57.03
>>779
>九週説の人にとってのバイブルか何かでそんな本があるのか?ww

お前に聞いてるんだが?w
日本語が不自由なあちらの人かな?w
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:12:30.27
>>780
>唐古鍵が古墳時代まで継続していたというのは、当時の責任者いわく「薄い根拠で精一杯延長した結果」だ

それ、なんか根拠あるの?

それとも、いつもの「畿内説は畿内説だからウソなのだー」?
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:12:46.69
>>782
>都合の悪い情報は理由なく却下していかないと
>九州説は立ち行かないからね

畿内説による超巨大ブーメラン発言w
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:14:02.88
>>783
常に何も説明できない九州説の貧困
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:14:22.54
>>704
>近畿地方において鉄器化が始まるのは紀元前1世紀のことである

三田市は兵庫県にあって、この三田市域はちょうど丹後から明石、淡路へ通る鉄器移動ルート上にあることから、早くから鉄器流通地域となっていた。
このルートからははずれる大和や近江以東は鉄器過疎地帯としてのちのちの時代まで鉄器の出土が乏しい。
近畿と言ってもその東半分は鉄器過疎地帯。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:15:18.59
>>761
平らな石を作る話にコメントしただけだから
砥石の話をしたわけじゃないからね

だから冒頭に
砥石うんぬんは別にしてと 前置きしてるの
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:15:26.71
>>786
ブーメランと証明してごらん
できないから
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:15:33.03
>>785
今も奈良にいるなら地元の人にでも聞いてみれば?
学者がそこらでベラベラしゃべってた時代があったんだよ
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:19:07.47
>>791
このように
九州説は証拠の出せない話しかしない
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:20:51.37
>>790
纏向時代の倭国はそれどころじゃなかったようでw

AD193年:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。

倭国は飢饉で避難民であふれた時代であり、大人数が一カ所に集まって都市や古墳を建造しているような余裕は無かったということ
つまり纏向は倭人の遺跡では無い可能性もある
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:25:30.41
>>793
>纏向時代の倭国はそれどころじゃなかったようでw

食料求めて韓国に来たなら
九州は飢饉
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:26:11.99
<ヒノキ>
木目が通り、斧や楔で打ち割ることによって製材できるヒノキは古くから建築材料として用いられてきた。
『古事記』のスサノオ神話の中で、ヒノキを建材として使うことが示唆されている

さすがにスサノオの時代には鉄器はまだ無かったであろう
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:26:27.18
『倭人 朝鮮人』

何度、言えばわかるんだよ、邪馬台国も倭人、有名な話w
日本の皇族(正確には違う)なども倭人だと書いてない?
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:27:42.64
>>703
>3世紀後半といっても卑弥呼の死からほとんど時間がたってないぞ?

その卑弥呼の死が問題なんだから。
卑弥呼の死の時期のあたりから、大和では突然ホケノ山に鉄器がどっさり副葬されるようになるのよ。
なんで突然鉄器が大和で溢れるようになったのか、得意のオツムで考えてみたまえ。

唐古・鍵の鉄斧は大型と小型の中間くらいで、削り用ではなかったかとウィキに書いてあるだろうが。
唐古といえど、ごつい伐採用の大型鉄斧は入手できなかったということだろうな。
そんな削り用の小型鉄斧で、矢板は作れんよ。
纏向の矢板は石斧と砥石だよ。
唐古の鉄器は全部でも数点にすぎん。
大和最大の拠点工房遺跡ですら、そんな程度なのよ。
実態を見ような、実態を。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:29:13.72
>>797
>どっさり副葬されるようになる

なるわじゃない。
たまたまホケノ山でまとまって副葬されてただけ。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:29:27.39
当時の中国人〜〜〜〜〜〜〜本当のカミタマwなんだろうという話。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:31:44.63
>>743
いろんな前方後円墳があっていいんでの

>50メートルの縄を引っ張って円を描くってのは、やってみると分かるけれど
できないんだよww <

できるよ
運動会で先生がダンスの大きな円を巻き尺で作ったし
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:35:57.02
>>703
>纏向遺跡の全時間、全領域の発掘ができるはずもないのだから、総合的に
>整合性の取れるように考えていくのが当然

おまえの妄想はいらない。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:36:09.13
>>791
くわしく
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:36:22.46
あまてらす=ひみこ?だとしても同じ。
ひみこ=あまてらす=ひみこ・・・それだけの話。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:36:24.04
>>715
>3世紀前半の砥石だったらメクリで出てるよ

メクリ1号墳は3世紀後半ね。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:37:48.81
>>703
>だから、3世紀後半といっても卑弥呼の死からほとんど時間がたっていないぞ?

また年代繰り上げ詐欺かよ。
畿内が倭国の植民地から倭国の一員に繰り上がったのは卑弥呼の崩御による西日本全体の再編がきっかけだと考えるのが妥当。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:39:04.48
あまてらす=神、それだけの話w
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:39:43.36
>>710

奈良盆地など問題とならないくらいの巨大な扇状地ですね。
畿内説は井の中の蛙。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:41:55.78
歴代中国に朝貢した倭国とは

周:不明(倭と呼ばれた領域も不明)
後漢:倭奴国を中心とする対馬海峡
魏:卑弥呼の女王国(邪馬台国)、投馬国などの並立
晋:台与の女王国
〜 記録が途絶える 〜
隋:筑紫倭国
唐:倭国と日本国の並列、後に倭国は吸収される
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:42:12.57
根本はね
3世紀に直径100Mの円を描くのが先進的な技術や発想だったかということだろ。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:42:20.49
>>514
>絹
有田遺跡は弥生時代前期末でしたが、
弥生時代中期の遺跡で絹が出土した遺跡は、
中期初頭の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡神埼町)、
中期前半の栗山(福岡県甘木市)、吉野ヶ里、比恵(福岡市博多区)、吉武高木(福岡市西区)の各遺跡、中期中葉では朝日北(佐賀県神埼郡神埼町)
中期後半では須玖岡本(福岡県春日市)、吉野ヶ里、門田(もんでん:福岡県春日市)、樋渡(福岡市西区)、
立岩(福岡県飯塚市)、三会村(長崎県島原市)、吉ヶ浦(福岡県太宰府市)、
弥生時代後期では吉野ヶ里、栗山、宮の前(福岡市西区)唐原(福岡市東区)の各遺跡から人骨に付着、
あるいは副葬品に付着した形で絹が見つかっています。
何れも福岡県を中心にした北部九州にある遺跡です。
弥生時代に続く古墳時代になると島根県、兵庫県、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、熊本県、静岡県、
福井県、栃木県、茨城県、鳥取県、岡山県など広い範囲で絹の遺物が出土します。
これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう
畿内は無理がありすぎ  強弁ばかり<

ふーん、成程。
奈良県はやはり「古墳時代」であったんですね。 
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:43:25.65
『朝鮮人 倭人』

あと中国という国があるでしょ、日本の中国地方ではなくてw
知らないのかな?中国。

説明不要
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:43:42.83
>>797

他所のことはいいから山門信号機の下を掘ってこい
ばかたれが
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:43:48.81
<伊勢遺跡>
伊勢遺跡は滋賀県守山市にある弥生時代後期期の遺跡です。
独立棟持柱付大型建物が立ち並ぶ大規模な政治祭祀空間の遺跡です。
遺跡中央の方形区画に大型建物群が東西対称的に配置され、周囲には
直径220mの円周上に祭殿が等間隔に多数配置され ...

直径100mぐらいどうってことはなかったんじゃ?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:45:51.31
>>780
>当時、奈良で人伝いに聞いた話だ

伝聞の伝聞ww
ソースは明かせないww

捏造のお手本のようなデマ情報ww
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:46:57.60
そろそろ頭の病院に行けと言っているんだよ。
テレビなんて信じているの?報道などがあるでしょ、実際は報道でもないんだけどw

王、king・・・上の人間。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:48:10.21
>>783
>鉄なしで平らな石器を作る話

何のために? 何の目的で?ww

一言二言、答えるだけのことなのに、ひたすらにごまかして逃げて答えられないっていうのは、
もう既に何のためにこんな捏造妄想話をしているのか、自分でも分からなくなっているんだろ?w
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:48:57.12
まさか正円って言葉知らんのか
さすがは九州説の無教養
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:49:25.43
家はテレビもラジオもあるし、
頭が悪いんだろう、知っている人は知っているんだけどw
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:49:45.65
>>784
>お前に聞いてるんだが?w
>日本語が不自由なあちらの人かな?w

そんな本はないって分かってて、話を合わせてやっているのにw
本格的なバカww まあ、九州説という時点でお察しww

繰り返しww
纏向遺跡が2世紀末〜3世紀初頭には存在したことが否定できなくなって、
「3世紀に遺跡があったからと言ってだから何? 
 3世紀に人がいたところなんていくらでもあるでしょ?」
と逃げ口上を放ったバカな九州説がいるんだよww
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:53:25.18
>>788
>このルートからははずれる大和や近江以東は鉄器過疎地帯としてのちのちの時代まで鉄器の出土が乏しい。
>近畿と言ってもその東半分は鉄器過疎地帯。

「砥石で矢板」君、いくら言ってももう無理だよww
九週説の「畿内には鉄がないから邪馬台国ではないにだ」はもう通らないw

>>675
「2006年の文化財科学会で土壌によって鉄の溶け方が6倍も違うと発表されてから
 マトモな頭の人は鉄器出土量で単純比較なんてしなくなった」
が出た時点で終了してるw

その証拠に、ずっとこのスレにいて意味のないでたらめごまかしを続けながら
「砥石で矢板」君は>>675に一言も触れないじゃないかww
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:53:48.34
あと地震、洪水・・・災害などの話w

人工的に〜〜〜〜〜???〜〜〜〜〜だと思うと言っている人がいたりw
いたでしょ?なぜだと思う?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:55:32.94
>>810
もういいよ 畿内では先進的だったでいいよ
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:55:43.05
>>538
>邪馬台国は畿内で確定してるのにまだやってるのかよ<

邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つきだまし文言であるし、
「南≠東」などに拠って、×。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:56:55.46
>>789
>平らな石を作る話にコメントしただけだから

前にも書いたけれど、物理的に可能というだけでは、
実際に存在する事物に関して存在理由を説明したことにはならないんだ

纏向遺跡に存在して、研ぎ出した平面を持つ砥石は金属器を研ぐのに使ったのが確実
そして、青銅器を研いだ例は3世紀にはないから、当然に鉄器用の砥石だと判断される

「石器で矢板」君がどんなにがんばっても、纏向に鉄がなかった・鉄過疎地域だった、と
いうのは、現実の考古学的出土遺物という物証で否定される
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:57:14.50
ほとんど、もれ(仮)と、同じ話(ここの書き込み)をしているものがあったりw
なぜだと思う?
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:57:14.60
>>718
>平原遺跡周辺に大規模集落なんてないだろ?
>三雲遺跡群の集落の首長は、三雲遺跡群の中に王墓を作っているんだし

畿内はめちゃくちゃ広い範囲をごちゃ混ぜにするくせに、狭い糸島平野の中で地域を分けるって、どんなダブスタ詐欺だよ。
それらは全て200年にわたり九州北部を支配した倭王の遺跡だよ。
しかも鏡の鋳型なども見つかっており、「各地の首長」が持ち寄ったなどというのは妄想。
伊都が鏡の配布元であったことは鋳型の出土で明白だよ。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:58:18.66
>>793
>AD193年:倭人が飢饉。避難民が新羅へ。

それ、三国史記(12世紀!)だろ?
ドンだけ後代史書のチェリーピッキングに頼るんだ?ww
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:58:19.97
>>720
>それは、だいぶ時代が下る(少なくとも5世紀以降)から、
>邪馬台国の問題を論じるうえではあまり関係ないな

キナイコシが「没落した」と叫ぶ糸国の繁栄は、実は4世紀5世紀にも続いているということだね。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:59:10.84
>>539
>邪馬台国はヤマトで確定<

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つきだまし文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 11:59:26.40
>>723
>伊都国の勢力は、大量の鏡に改鋳したはいいけれどばきばきに割って、小さな墓の墓坑に
>ばら撒いている訳だ

そういう破鏡文化のカケラを大事にしていたのが、ホケノなど畿内の首長なんだよ。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:00:32.72
>>728
>古墳という言い方はしていないが、赤坂今井墳丘墓や大風呂南墳丘墓は
>いわゆる弥生王墓といわれるクラスだ

出雲や越を征服して筑紫が盟主になったと記紀に書いてあるね。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:01:11.80
>>743
>やり込められたないよww

負けを認められないキナイコシの強がり
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:01:28.22
>>817
事の発端はね
「平たい砥石は、平たい金属を研ぐことで平たくなるんだww 」の投稿から始まってるの
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:01:58.94
>>743
>那珂八幡古墳ほかの纏向型前方後円墳の後円部が不整形なのはどうしてだと思う?ww

定型化前の初期型だからかな?
前方後円墳も筑紫から広がったのかもしれないな。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:03:49.87
>>797
>なんで突然鉄器が大和で溢れるようになったのか、得意のオツムで考えてみたまえ。

なんでその時期の北部九州で鉄器がほとんど出ないのか、お前の乏しい頭では理解できないんだろうなww
「石器で矢板」君は、本当にバカww

ホケノ山から鉄器が溢れるようになるというのが既に間違いw
ホケノ山以前の、奈良盆地において鉄器が残る条件を満たす「農地として耕されていない
墳丘墓の埋葬主体」の発掘例がないというだけのことなんだ

銅鐸の発見はほとんどが近代考古学以前の発見
北部九州ではどこでも掘れば鉄が出るみたいなことを言っている人もいるが、
そういうちょっと掘って出るようなところは、奈良盆地のように土地利用が何度も
変更されたところは近代以前に掘り出されてしまっているし、耕すときに遺物としての
形を残さなくなっている
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:04:03.61
>>757
>伊都国の範囲内で、たまたまなくなった伊都国の有力家系の人物の墓に
>盛っただけでしょ

卑弥呼の支配当時の倭国に輸入された贅沢品のほぼ全てが平原遺跡に集められているね。
他のどこに卑弥呼がいたというのかな?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:04:52.20
>>766
>唐古鍵は布留の初頭まで存続

奈良盆地の時間軸は邪馬台国と関わりがなかったように見えるね。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:06:00.98
>>800
>運動会で先生がダンスの大きな円を巻き尺で作ったし

それ、直径20メートルかそこらだろ?
半径50メートル、直径100メートルというスケールになると、物理的に困難になる

伸びにくい樹脂プラスチックの巻尺などない時代に、稲わらで作った綱が
どれくらい伸縮するか、実体験がないとイメージできないだろ?ww

この辺も、バカだよなww
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:06:37.77
テレビでも何でも同じ、
よく(平気な顔をして)何でもないような?顔をして出演できるな・・・w
と思って、観ているんだけど。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:06:53.45
>>801
>おまえの妄想はいらない。

このように「石器で矢板」君は、意味のある論理的な反論ができないかわいそうな人w
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:08:17.97
朝鮮民族の民族運動である、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している、今日の奥山氏は、どのような物事で論破されているのだろうか、、、
0844日本@名無史さん
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2019/11/29(金) 12:08:25.02
▼砥石の歴史

 日本では昔から、良い天然石が多く発見され使われていました。
 その歴史は古く、縄文時代の磨製石器(砂や石で磨いた石器)が初めてと言われています。

 旧石器時代は、石を割って作った打製石器が殆どでした。
 縄文時代には、割れにくく硬い石を磨いて磨製石器を作り、それで斧を作り木を伐採し、
 細かく加工する事で住居の建築が進み、竪穴式住居の技術に発展したと考えられています。
 


株式会社 大和製砥所 より
所在地
▼本社・工場
奈良県香芝市畑5丁目1613番地 
0845日本@名無史さん
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2019/11/29(金) 12:08:43.01
邪馬台国畿内説という物事に関して、「い」と「ろ」と名付けられた、2つの文章が発表されました。
い、、、邪馬台国畿内説は、朝鮮人の民族運動である、、
ろ、、、邪馬台国畿内説は、完全に破綻した、、、
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:09:40.03
>>681
>平たい砥石は、平たい金属を研ぐことで平たくなるんだ

発想が貧困。
現在の物からしか発想できんボケ。
平砥石は縄文時代からある。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:10:42.98
>>843
巻き尺という物体に関する物事で、邪馬台国畿内説が破綻したのではないのかな。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:11:16.80
>>842
>>795
0850日本@名無史さん
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2019/11/29(金) 12:12:16.53
>>808
>奈良盆地など問題とならないくらいの巨大な扇状地ですね。
>畿内説は井の中の蛙。

扇状地の定義、知ってるか?(呆れ)
もうどこまでも、日本の科学体系とは相容れないんだな、九州説はw
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:13:06.42
人工地震?災害などの話は、
テレビやラジオなどで言っていたわけではない、陰謀関係のスレ、あと予言w
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:13:08.03
「運動会で先生がダンスの大きな円を巻き尺で作った」という物事が真実ならば、「邪馬台国畿内説は完全に破綻した」という物事が真実になるのだろうか、、、
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:13:38.76
>>814
>直径100mぐらいどうってことはなかったんじゃ?

伊勢遺跡の環状配置の建物群は「正円」に並んでいないww
                     以上
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:13:39.42
>>829
>>786
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:15:02.91
床材を滑らかにするための木工用のやすりが有ったのではないのかな。。。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:16:30.54
>>830
>キナイコシが「没落した」と叫ぶ糸国の繁栄は、実は4世紀5世紀にも続いているということだね。

繁栄してないだろ?
製鉄が当たり前になった時代に、たまたま砂鉄が取れる地域だったから砂鉄製鉄をしていたってだけ

伊都国は国造すら置かれない、県主レベルの豪族の土地
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:16:46.37
距離を測るには、奥山氏が理解できていない三角の角度の知識が便利なのだったな。。。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:17:28.49
>>833
>出雲や越を征服して筑紫が盟主になったと記紀に書いてあるね。

記紀のどこに?
きちんと引用して示してごらん?w
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:18:22.75
暴力団、ヤクザというわけではないんだけど。

あの白い服・・・、あの謎の写真なども、
家の話なんだと言っているのにw

あと水神 馬・・・河童?そういう話も、ほとんど同じだしな・・・。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:19:06.09
>>834
>負けを認められないキナイコシの強がり

といいながら、本論部分には一切触れない負け犬の九州説ww
草木がぼうぼうの原野で、直径100メートルの正円を書いておいでww

最初から「グラウンドで」って言っている時点で、破綻しているのにww
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:20:56.33
>>835
>「平たい砥石は、平たい金属を研ぐことで平たくなるんだww 」の投稿から始まってるの

そうだよ?
そして、物理的に原理的に可能ではあっても、石と石を擦り合わせて平らにした例を
いち例たりとも出せない時点で「平たい砥石は、平たい金属を研ぐことで平たくなる」というのを
追認していることにしかならないって分からないのかな?ww

本当に「石器で矢板」君は面白いなww
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:21:53.17
水神 馬 猿 河童・・・、
何やらというのはネットの話w
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:22:00.27
>>836
>定型化前の初期型だからかな?

つまりその当時には、後円部を丸く作りたくても
実際に正円にする技量がなかったということだな
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:23:00.37
>>844
ありがとう
私は矢板は石器で作ったと思ってますが、砥石は無いだろうと思ってました
眼から鱗です。表面を砥石で磨くのはありですね。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:23:06.08
>>838
>卑弥呼の支配当時の倭国に輸入された贅沢品のほぼ全てが平原遺跡に集められているね。

これって、まさか「倭国は北部九州だけだから、出雲や丹波はノーカウント」って
いう九週説のいつもの詐欺?ww
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:24:08.60
大昔の床材を滑らかにするための木工用のやすりは、砂と一緒に使う物体で、平らな砥石と区別がつかない可能性が有ったのではないのかな。。。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:25:28.49
>>678
>畿内第X様式の時期から継続的に…

庄内甕が博多で出土するのは3世紀中頃。
3世紀中頃に突然大和の甕がやってくる。
そして、それに引き続いて地元産の筑前型が造られるようになり、それに続いて筑前型布留甕へと変わっていく。
博多地域が政治的な変化をみせるのは3世紀中頃であり、その時期に八幡古墳も造られる。

3世紀中頃に博多で起こったのは、輸入鉄器など貴重財の大和による独占化。
それによって、博多自身による独自販売が制限されて衰退する。
大和が独占した鉄器などの輸入貴重財は大和へ移送され、大和で連合政権加盟各国へ配布された。
ホケノ山や黒塚、メクリなどの副葬鉄器はそうした博多からの移送品。

卑弥呼の宮室を大和を設定する限り、この3世紀中頃に起こった歴史の大転換にはたどりつけない。
大和卑弥呼の偽歴史でよがるだけのつまらなさ。
ダイナミックな実歴史を探求したまえ。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:26:19.79
巻向の矢板は、床材を転用した可能性があるな。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:27:35.16
まさか・・・本物なんだろう、ホンモノだったんだろうwという話、
かなり前のことになるんだけど、とあるゲーム内に作成したキャラ。

かぶき・・・w
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:28:22.67
ここの畿内説を破綻させるのは、だいたいキナイコシなのだな。。。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:29:32.96
皆さん、キナイコシが白旗(松傾)を上げてますよ
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:30:42.13
頂点を中心とする、50mの長さの放物線の高さが、1mの時、両端の距離は何メートルになるのだろうか、、、
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:33:26.74
『ドンバ 河童』(RPG、ドラクエのキャラになっていたり)?

よくわからないんだけど、当時ネットゲームなどもなかったでしょ、
他の国にはあったのかな。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:34:36.73
>>873
逆に、両端の距離が50mの、頂点を中心とする、1mの高さの放物線の長さは、何メートルになるのだろうか。。。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:37:12.00
『サイバーパンクSPECIAL』

偶然にしては、おかしな話ばかり。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:41:56.15
嘘みたいな話だなと思われるかもしれないけど、
ほとんど・・・、日本の土地などがあるでしょ?実際は・・・みたいな話。


説明不要
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:42:00.30
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏は、前方産後円墳が巻向に初めて出現した4世紀の者達より頭が悪そうだな。。。
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:42:38.17
前方産後円墳とは、何だろうか。。。
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:43:24.57
前方後円墳。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:44:41.99
測量するために、全面的な整地は必要ないのだったな。。。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:45:22.72
とある漫画に出てくる、
銀〜〜というキャラ、なぜか同じようなキャラだしな・・・。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:47:16.81
巨大な正12角形を作るためには、まず、面積が1/4の正12角形を作れば良いのだったね、、、
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:50:13.15
最初に、まず、面積が1/4の正12角形を作り、中心と角の計13本の直立した棒を立て、高さを揃えて印をつけるのだったな。。。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:51:36.49
両端の距離が50mの、頂点を中心とする、1mの高さの放物線の長さは、何メートルになるのだろうか。。。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:51:53.37
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏は、前方産後円墳が巻向に初めて出現した4世紀の者達より頭が悪そうだな。。。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:52:15.15
前方産後円墳とは、何だろうか。。。
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:54:33.09
漫画やゲームなど、
なぜ家の写真と同じ?なのかは、わからないんだけど。

本当に何かの家なのかな。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:54:33.88
>>839
>奈良盆地の時間軸は邪馬台国と関わりがなかったように見えるね。

ということにしたくて必死でデマを並べ続ける九州説が姑息で惨めだww
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:56:38.77
棒同士の高さの目印は、水を張った広い口の土器が水平になるように固定し、口に筒を渡して、目視で合わせれば良いな。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:57:06.66
>>844
>縄文時代には、割れにくく硬い石を磨いて磨製石器を作り、それで斧を作り木を伐採し、

そういう磨製石斧の磨いた磨き台は、石斧の曲線に合わせてくぼんでいると
何度教えれば分かるんだ?

平らな砥石は金属用ww

似た話を書くことでごっちゃにしてごまかそうというのが、
チェリーピッカーの常套手段
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 12:58:01.17
巻向遺蹟の時間軸は、邪馬台国と関わりがなかったという真実が、完全に証明されてしまった可能性が高いな。。。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:00:31.66
『倭猿』

なぜ真似をしているだけだと言っている人がいるのか、
実際は倭〜?の家の話ではないからなんだよ。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:00:52.52
何年も包丁を研いだので、砥石がくぼんでしまっているな。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:01:14.58
>>846
>平砥石は縄文時代からある。

あるある詐欺ですか?
現物を具体的に出してね

そして、縄文時代のことは、それこそ時系列的に無関係だろ?ww

弥生時代に縄文時代のことを気にして石で木を擦る弥生人はいないww
というか、縄文時代にもと石で木を擦った縄文人はいないぞ?ww

「砥石で矢板」君はどこまでも支離滅裂になってきたなw
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:02:03.20
砥石とは、何を研ぐために使用しても、最初は平面で、最後はくぼんでしまうのだったね。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:03:34.00
>>896
つまり、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏が、また、嘘をついていたのだな。。。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:04:03.76
>>854
ヒノキを建設部材に使ったというのと、ヒノキを砥石で擦ったというのは、
まったく意味が違うだろ?

完全に負け戦なのに、引き時を見つけられずにぐだぐだで
でたらめを引きずり続ける「砥石で矢板」君が、九週説のある意味典型ww
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:04:47.71
>>772
なるほど
飢饉の最中に土木工事なんてやってられる訳がないよなw
野宿も無理だろw
食い物が桃と蛙じゃ栄養失調になっちまうw
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:05:26.09
>>786
>>782
>>都合の悪い情報は理由なく却下していかないと
>>九州説は立ち行かないからね

>畿内説による超巨大ブーメラン発言w

まさにそれw
そして魏志倭人伝と全く関係なく唐古鍵遺跡だの纒向遺跡だの持ち出して妄想を繰り広げている。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:05:31.18
>>856
>伊勢遺跡の時代から数百年後なんだから精度は上がってて当たり前だろ

精度が上がったというなら、その分が最新技術だということだなw

伊勢遺跡で直径200メートルの円があるから、直径100メートルの正円をかけたはずというのは
論理的に通らないということ

なぜなら伊勢遺跡では正円ではないからww
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:06:44.31
>>794
>食料求めて韓国に来たなら
>九州は飢饉

多分そうだったんだろ。
否定する理由など何もない。
甕棺墓の一族が没落したのもその頃だろ?
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:06:45.84
太古の昔から、木工品は、磨かれ滑らかにされたことがあったのだったな。。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:07:25.72
>>865
>私は矢板は石器で作ったと思ってますが、砥石は無いだろうと思ってました
>眼から鱗です。表面を砥石で磨くのはありですね。

何のために砥石で磨くんだ?
そして、鉄器が十分に使える時代に、作業効率の劣る石器で矢板を作る理由は?

というか、こいつ、キウスかな?
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:07:36.34
巻向の矢板は、床材を転用した可能性があるな。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:08:29.72
>>868
>庄内甕が博多で出土するのは3世紀中頃。
>3世紀中頃に突然大和の甕がやってくる。

はいまた、時系列無視の大嘘ww

自分で「>畿内第X様式の時期から継続的に」と引用しているのにww
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:09:22.73
>>905
古くなった床材を、集めたのだね。。。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:09:35.58
>>675
>土壌によって鉄の溶け方が6倍も違うと発表され

この報告は登呂遺跡と青谷上寺地遺跡の二か所について調査したものであり、土中の硫化物や微生物の違いにより腐食はまちまちだとしているもの。
大和の土壌の調査ではない。
大和の土壌の調査を出せよ。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:09:57.81
伊勢遺跡のように1〜2世紀の祭祀遺跡で十分計画都市の形を成しているのだから、纏向で新しい祭祀中心時代を迎えたとは言えないという事だね。
畿内説は卑弥呼から古墳時代が始まったかのように印象操作をしているだけなのですね。
よくわかります。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:10:37.65
>>859

出雲の国譲りを知らないのか?
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:11:08.95
>>902
>否定する理由など何もない。

12世紀の三国史記の3世紀頃の記述がまったくあてにならないのは常識ww
否定する理由がないの前に、参照する理由がないw
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:12:11.80
>>908
畿内とは全く関係ないものを根拠として持ち出す、畿内説による印象操作の犯行現場ですね。
わかります。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:13:08.33
>>911
>3世紀頃の記述がまったくあてにならないのは常識

ヤマトの正史である記紀もひどいがなw
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:13:17.09
よーし完成したようだな、
・・・その後に(降臨)下りてきたのが、アマテラスだと言いたいんだろうけど、
実際に倭〜の話ではないだろう、その後の渡来人の話。なぜか日本に住んでいたわけでもない。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:13:28.33
太古の昔から、木工品は、磨かれ滑らかにされたことがあったのだったな。。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:13:28.59
>>899
>飢饉の最中に土木工事なんてやってられる訳がないよなw

そうなんだよ。
だから畿内は倭国の歴史とは切り離された時間が流れていたことになる。
神武らが筑紫を捨てたのは、戦乱だけではなく、気候が安定した土地を求めて東へ向かったのかもね。
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:14:14.66
>>908
>大和の土壌の調査ではない。
>大和の土壌の調査を出せよ。

これだから、理系の素養がかけらもないバカは度し難いww
6倍も違わなくても、10年で2倍違えば、100年で1000倍、
1000年で百万倍異なることになるんだよww

指数関数をなめるなと、何度教えれば理解するんだろうね?ww

「砥石で矢板」君は、左側スロープ君並みに踊ってくれるから、本当に面白いw
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:15:48.77
>>909
纒向遺跡と伊勢遺跡が関係するなら、纒向遺跡はかなり劣化縮小しているぞ。
とても纒向遺跡が王宮だとは言えない。
特に、首長層が利用すべき建物が纒向遺跡には一つしかないことだ。
伊勢遺跡は首長層が集合していたことが窺えるのとは実に対照的だ。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:15:49.74
>>913
>ヤマトの正史である記紀もひどいがなw

そう言いながら、
>>833
 >出雲や越を征服して筑紫が盟主になったと記紀に書いてあるね。」
みたいに、都合のいいところだけチェリーピッキングするのが、九州説ですね!ww
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:16:12.02
>>659
>鉄というものが残りにくいという証拠

元々の量が少なければ、当然出土量も少なくなる。
ごく当たり前のなりゆき。
大和は鉄過疎だったという結論よ。
そうでないと言うのなら、大和の土壌の調査してからだな。
お主が金だして調査依頼してみてから、言えよ。
大和の土壌は硫化物や微生物が特に多く鉄の腐食度が非常に高いとかな。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:16:18.28
記紀を参照して書かれたはずの新唐書や新羅本記の内容が現存する記紀と異なるのは、記紀が改ざんさている事を示唆しているよね
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:17:10.22
>>910
>伊勢遺跡のように1〜2世紀の祭祀遺跡で十分計画都市の形を成しているのだから、纏向で新しい祭祀中心時代を迎えたとは言えないという事だね。

畿内説では、むしろ伊勢遺跡の祭祀機能を引き継いだと言っているのだが?w
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:17:16.81
倭〜、後の日本の皇族?は、その下の人間だと言っているのに。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:18:26.81
>>919
腐っても日本国の正史だぞw
畿内説はそれすらも否定するんだなw
お前は何に記載されてる邪馬台国やヤマトを探してるんだ?w
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:18:46.27
>>916
>そうなんだよ。
>だから畿内は倭国の歴史とは切り離された時間が流れていたことになる。

だから、三国史記でしか確認できない飢饉なんて想定するだけ無駄だって!ww
そんなに半島の歴史書(12世紀w)リスペクトなのは、血統のなせる業なのかな?
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:21:29.70
>>920
>元々の量が少なければ、当然出土量も少なくなる。
>ごく当たり前のなりゆき。
>大和は鉄過疎だったという結論よ。

だから、「砥石で矢板」君はバカだっての!ww

何度も何度も書くけれど、指数関数をなめるな!
減少率が2倍違えば、最初にどんなに差があっても、百万倍の差があっても
千年後にはなくなってしまうww

それが実証研究で6倍という数値が出ているのだから、どうしようもないw
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:22:19.58
熊本城の地下の鉄1トンが1年間に0.001パーセント減るとします。。。
巻向の掘立柱の地下の鉄1トンが1年間に0.002パーセント減るとします。。。
2000年後には、それぞれ何トンになるでしょうか、、、
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:22:21.85
>>610
>名前が邪馬台ににているから

邪馬臺はヤマドイの発音。
ヤマトとは結び付かん。
山門はヤマドとも読む。
ヤマドとヤマドイはよく似ている。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:22:47.19
なんでも良いけど、倭人の話ではないんだと言っているのに、
邪馬台国(不明)は倭人の国なんだろうけどw
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:23:11.24
>>922
>畿内説では、むしろ伊勢遺跡の祭祀機能を引き継いだと言っているのだが?w
何でも根拠なく勝手にこじつける畿内説の自己紹介w
まず先に唐古鍵で引き継げよバカw
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:24:01.64
>>921
>記紀を参照して書かれたはずの新唐書や新羅本記の内容が現存する記紀と異なるのは、記紀が改ざんさている事を示唆しているよね

発想がおかしい
他国史書が、まじめに引用していない&事大主義で盛ってる、が答えだよ

大体、現存最古のものが、新唐書や三国史記より記紀の方が古いのが残っているのに
何を言ってるんだ?ww
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:24:51.27
>>925
お前スレ読んでるか?

『名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。
飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。
それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。』

という事は、卑弥呼は銅鐸文化を否定する側=銅鉾文化圏の人物だったということだ。
銅鉾/銅鐸分布:https://i.imgur.com/QsuokqV.png
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:25:04.84
邪馬台国、なぜかドラクエにも出てくるでしょ、
ロトたちに退治されたり、なぜだと思う?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:25:17.79
>>930は「砥石で矢板」君だね?ww

大体分かるようになったよ!ww
もう、こいつはバカにするだけでOKだw
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:25:52.11
>>922
>畿内説では、むしろ伊勢遺跡の祭祀機能を引き継いだと言っているのだが?w

そうだね。
だから畿内説は間違いだと言える。
纒向遺跡は伊勢遺跡の機能を継承できる規模と内容を持っていない。
招待客を泊める棟持柱建物がないから会議が開けない。
纒向遺跡はあくまでも首長一人分の宮。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:26:01.23
>>927
やはり、破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奧山氏が、また、嘘つき騙しをしていたのだな。。。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:26:34.32
>>931
>新唐書や三国史記より記紀の方が古いのが残っているのに
どうやって残してきたのかも知らないのか?
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:26:52.37
『三貴子』
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:26:58.53
>>932
>卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという

お前が理解していないだけ
この「大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であった」というのは、
数年単位のピンポイントの話じゃないんだぞww
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:28:00.62
>>925

ありとあらゆる史書を否定しないと気が済まない畿内説
それはもう、ただの妄想だということだよ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:28:23.34
>>934
>>930は「砥石で矢板」君だね?ww

ハズレだ残念w
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:29:43.81
記録文献とまったく噛みあう気の無い畿内説とは・・・w
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:30:10.33
>>931
>他国史書が、まじめに引用していない&事大主義で盛ってる、が答えだよ

他国の史書が日本のことを大袈裟に書くわけがないだろ?
記紀が畿内説よろしくなんでも過大に古く年代前倒し詐欺なのは知っている
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:33:30.00
『三貴子』
↓↓↓↓↓
↓↓↓↓↓
邪馬台国の卑弥呼、倭〜不明?たしか退治されるでしょ。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:33:40.28
国語辞典に追加するべきだよなw

も【妄想】(もうそう):[〜する] 畿内説など架空の世界を頭に描く事
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:33:54.68
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、意見を発表すればする程、頭の悪さが際立ち、僕達を笑いリラックスさせてくれるな。。。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:36:28.97
>>935
>纒向遺跡は伊勢遺跡の機能を継承できる規模と内容を持っていない。
>招待客を泊める棟持柱建物がないから会議が開けない。
>纒向遺跡はあくまでも首長一人分の宮。

つまり、伊勢遺跡では建前上対等だった首長連合が、
ただ一人の王を戴く形に再編されたんだよ

現在4棟まで確認済みの建物群の全容が分かる日が来れば、
また一段、古代史の理解が進むだろう

まあ、そうなっても九州説は「見ない聞かない認めないにだー」で
情報リテラシー極低の情弱で身内だけで「九州に決まってるんだー」って
言い続けるんだろうけれどww
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:36:29.24
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、意見を発表すればする程、頭の悪さが際立ち、僕達を笑いリラックスさせてくれるな。。。

熊本城の地下の鉄1トンが1年間に0.001パーセント減るとします。。。
巻向の掘立柱の地下の鉄1トンが1年間に0.002パーセント減るとします。。。
2000年後には、それぞれ何トンになるでしょうか、、、

926日本@名無史さん2019/11/29(金) 13:21:29.70
>>920
>元々の量が少なければ、当然出土量も少なくなる。
>ごく当たり前のなりゆき。
>大和は鉄過疎だったという結論よ。

だから、「砥石で矢板」君はバカだっての!ww

何度も何度も書くけれど、指数関数をなめるな!
減少率が2倍違えば、最初にどんなに差があっても、百万倍の差があっても
千年後にはなくなってしまうww
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:37:49.26
>>862
砂岩だけど、擦り合わせたら、平らになった。
君もやってみたら
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:38:01.92
>>940
>ありとあらゆる史書を否定しないと気が済まない畿内説

情報精度も無視して、あらゆる史書から
チェリーピッキングする九州説はアンチ科学だって話w
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:38:59.90
>>941
>ハズレだ残念w

ということは、九週説の>>941から見ても「砥石で矢板」君は
残念なやつっていう評価なんだなww
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:39:23.11
『ドラクエ ジパング』
邪馬台国があって・・・、たしか主人公(ロト)たちに退治されるんだけど。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:41:36.01
なぜだと思う?・・・・・・・・『❓』となるでしょ。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:41:51.90
>>638
割り算も出来ないキナイコシw
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:42:16.44
>>949
>砂岩だけど、擦り合わせたら、平らになった。
>君もやってみたら

「砥石で矢板」君も完全に壊れたなww
誰も求めていないことを一人でやって(しかも妄想の中でww)、意味もなくつぶやくw

「砥石で矢板」君に求められているのは、
「弥生時代に木材を擦るのに使ったと報告書に書かれた平らな砥石」の
実例を具体的に示すことだよww

そんなものはないけれどねw
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:43:51.48
>>895
縄文の船で検索したら
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:44:54.08
>>804
砥石は三世紀前半のもの有り
報告書で確認のこと
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:47:42.00
「報告書」を収集し熟読した、優れた者達が、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が全くないと、発表したのではないのかな。。。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:47:48.79
>>828

平原遺跡周辺に大規模集落なんてないだろ?   @阿波
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:47:53.24
>>828
>畿内はめちゃくちゃ広い範囲をごちゃ混ぜにするくせに、

そんかこと、した証拠は?
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:48:36.11
奥山氏の出生届は、ハングルで書かれていたのだったな。。。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:49:26.70
>>962
奥山氏の死亡届も、ハングルで書かれるのではないのかな。。。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:50:01.01
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、意見を発表すればする程、頭の悪さが際立ち、僕達を笑いリラックスさせてくれるな。。。

熊本城の地下の鉄1トンが1年間に0.001パーセント減るとします。。。
巻向の掘立柱の地下の鉄1トンが1年間に0.002パーセント減るとします。。。
2000年後には、それぞれ何トンになるでしょうか、、、

926日本@名無史さん2019/11/29(金) 13:21:29.70
>>920
>元々の量が少なければ、当然出土量も少なくなる。
>ごく当たり前のなりゆき。
>大和は鉄過疎だったという結論よ。

だから、「砥石で矢板」君はバカだっての!ww

何度も何度も書くけれど、指数関数をなめるな!
減少率が2倍違えば、最初にどんなに差があっても、百万倍の差があっても
千年後にはなくなってしまうww
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:51:12.21
奥山氏は、指数関数の授業を受けていない可能性が高いな。。。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:52:20.28
主人公たち?

おそらく王母〜龍宮〜の家の話なんだろう・・・・、
実際は、むかーしの中国人だろうと言っている人がいたり。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:52:26.51
最初の年に、例えば1g減ったとしても、減少率が同じなら、次の年には1gまでは減少しないのだね。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:53:01.99
これまで九州説は鉄のことを話していれば畿内説には負けないと思っていたのが
完全に九州説の敗着になってしまったのが面白いw

2006年の文化財科学会の発表では
「模擬古墳から検討した埋蔵環境下における遺物保存に関する研究
(その4)金属製遺物の腐食に及ぼす石室内環境の影響」
という発表もあって、石室内と土壌中で鉄の残り方が異なることも実証研究されているね
http://www.jssscp.org/files/abstract/32_oral.pdf
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:54:37.82
>>868
>3世紀中頃に突然大和の甕がやってくる。

3世紀中頃に突然「東阿波型土器」の甕がやってくる。   @阿波
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:55:28.59
>>967
つまり、最初の年に、例えば1g減ったとしても、減少率が同じなら、2000年後まで、2kgの減少は絶対にありえないのだね。。。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:56:13.23
>>957
>縄文の船で検索したら

で?
どの縄文の船が、砥石で擦ったって報告書に書いてあるんだ?
「砥石で矢板」君は検索したんだろ?

それを「具体的に紹介」すればいいのに、どうしてしないんだい?
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:56:47.18
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、意見を発表すればする程、頭の悪さが際立ち、僕達を笑いリラックスさせてくれるな。。。

熊本城の地下の鉄1トンが1年間に0.001パーセント減るとします。。。
巻向の掘立柱の地下の鉄1トンが1年間に0.002パーセント減るとします。。。
2000年後には、それぞれ何トンになるでしょうか、、、

926日本@名無史さん2019/11/29(金) 13:21:29.70
>>920
>元々の量が少なければ、当然出土量も少なくなる。
>ごく当たり前のなりゆき。
>大和は鉄過疎だったという結論よ。

だから、「砥石で矢板」君はバカだっての!ww

何度も何度も書くけれど、指数関数をなめるな!
減少率が2倍違えば、最初にどんなに差があっても、百万倍の差があっても
千年後にはなくなってしまうww
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:57:47.90
奥山氏よ、指数関数をなめるな。
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:58:37.52
>>910
>出雲の国譲りを知らないのか?


卑彌呼の時代は、狗奴国(長国)は敵側である。

卑彌呼宗女壹與の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」   @阿波
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:58:49.02
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、指数関数の授業を受けていない可能性が高いな。。。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 13:59:35.76
>>968
>石室内と土壌中で鉄の残り方が異なることも実証研究されているね

これで、古墳で見つかるのに集落遺跡で見つからない理由がきちんと示されたってことだな
水田になったからとか、耕されたからとかいうのは考えるまでもないってことだ
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:02:22.97
また、お前か?と同じような話、
調子に乗りすぎて・・・、その後、大陸のほうから渡って来た一団に殺されたんだろう。


邪馬台国の話。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:04:52.19
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、指数関数の授業を受けていない可能性が高いな。。。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:05:20.46
矢板を鉄で作ったとして畿内説とどういう関係があるの?
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:06:06.13
>>828

平原遺跡周辺に大規模集落なんてないだろ?   @阿波
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:06:45.45
>>868
>3世紀中頃に突然大和の甕がやってくる。

3世紀中頃に突然「東阿波型土器」の甕がやってくる。   @阿波
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:07:10.15
>>910
>出雲の国譲りを知らないのか?


卑彌呼の時代は、狗奴国(長国)は敵側である。

卑彌呼宗女壹與の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」   @阿波
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:07:56.96
それと、なぜ、王母〜なのか?なんだよな。
むかーしの中国人なんだろう。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:08:40.95
僕たちは、畿内の3世紀の先進技術は円を描くことだと学んだのだね
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:09:55.02
>>547
>>その後、都合が悪いので編年基準を変更しました <

>庄内期からって書いてあるだろ?<

違うな。
佐原編年では布留1のの箸墓が卑弥呼の墓にならず、都合が悪いので、
大和の庄内を 50〜100年古くする変更をした事が、問題なんだよ。

>相対編年でもまったく問題なく収まるんだよ<

だから、布留0なんてインチキ編年を新たに造作して、
相対編年の絶対年代を全体に50〜100年古くして、
庄内1を3世紀初頭にまで持って来たなんだよ。
その操作には、絶対年代を確定するような根拠はどこにも入っていなかった。
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:11:18.31
>>971
あんたの
>縄文時代にもと石で木を擦った縄文人はいないぞ?ww <
の間違いを指摘してあげただけ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:13:02.33
倭国大乱とか、そういう話ではない、鎮圧?
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:16:28.51
これも以前から書いていることなんだけど、
いい加減に頭の病院に行けと言っているんだよ。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:20:33.37
それよりも


やよい姉ちゃんというのは、
家の近所に住んでいる、やよい(?)姉ちゃん?
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:22:13.07
>>551
>>学者が畿内は鉄文化とは縁遠い、じゃあなぜ大和が主権を握ったのかという研究をしているのに<

>それも曲解だな
学者が研究しているのは、鉄の普及と国力はそんなに関係してなかったという部分だぞ <

ダメだ。
大和説学者は、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「日本國者倭國之別種也」や「白村江での倭國の大敗」などの事を、
全く無視隠蔽するインチキをしている。
鉄を大量の持ち得た倭国の「東征毛人五十五國」があった事が、
大和王権の成立や発展の最大の原因だよ。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:22:45.03
あの謎のサイバーパンク・・・コミック、
川崎区の南部のほうの話なんだけど、どういう話なんだろう
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:23:51.06
指数関数の授業を受けられなかった奥山氏が、可哀そうになってきたな。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:23:51.54
>>980
それを根拠として纏向にも鉄器文化があったと主張してるだけ

学者連中は鉄なんか要らなかったという説を構築中なんだけどねw

それにしても一切鉄器が出土しないのは想定外だったろうなw
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:24:16.90
>>552
大和説学者らの、
「南≠東」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」や、
「日本國者倭國之別種也」や「白村江での倭國の大敗」などの事を、
全く無視隠蔽するインチキをしている狂気。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:28:27.67
ほんとーに頭が悪いんだろう、
なぜ「トンキン、トンキン」と言われているんだと思う?ネット用語。

東京のことらしいんだけどw
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:29:12.07
なぜ、3世紀の纏向では、鉄が使われなかったのだろうか、、、
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:29:26.16
2013年、邪馬台国畿内説は、完全に破綻しました。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:30:06.85
九州説は嘘ばかり
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/11/29(金) 14:30:15.47
今回のスレッドでも、邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、完全に論破され、ガサゴソと逃げ回るゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されてしまった。
10011001
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