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秦氏はどこから来たか 2
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001アッシー
垢版 |
2020/01/06(月) 17:36:16.25
みなさんのお陰でいよいよ秦氏ユダヤ教徒説が定着してきました。
さらにご協力ください。
0002日本@名無史さん
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2020/01/06(月) 17:57:26.53
>>998
>いや、山陰地方にずっとあったのよ。それがたまたま日本書紀編纂者の過程の
>情報収集でみつかり、素戔嗚のオロチ退治の話に取り入れられただけ。


何の根拠もない

創作の上に創作を重ねるなよカス

創作発表板でやれゴミ
0003日本@名無史さん
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2020/01/06(月) 19:00:49.79
オロォチ=大龍神は出雲の地元にあったフォークロア。
それを日本書紀編纂所が大国主に話をつなげるためにオロォチ退治の話をでっち上げた。
しかも、本来シュメールの7頭蛇の神話を中国文献から見つけてきて、オロォチ=大龍神を8頭のバケモンに変身させやがったというのが真実。
元々のオロォチは農耕の水源の神だった。
稲作と関係ない話なの。
0004日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 19:20:27.97
新羅古碑の「波旦緹」の謎がほぼ解明された。
この「波旦」のパタンの音が中国西域のホータンの音によく似ていることに注目すると、
どうやら謎が解けてくる。
ホータンは翡翠の産地で、ホータンを表す漢字表記の和田を用いた「和田の玉」が有名だ。
ホータン産出の白色の翡翠で造った玉は中国で最高級の玉とされる。
しかし、この原石の翡翠には鉄分が浸透して表面が赤くなったり黄色になったりする外皮ができている。
また、外皮が原石の全面についているものもあり、それが全面赤色のものもあるのだ。
こうしたことからして、ホータンの玉が非常に有名であったことを考えると、
「波旦の緹(てい=赤色)」は「ホータン玉の原石の赤い外皮」のことである可能性が出てくる。
この考えに立つと、玉の原石の外皮は白色の高価な部分を覆っているものなので、これがなければ玉は高価な高級品になるわけで、
この外皮が邪魔をして値が下がるということになってくる。(続く)

この外皮を取り除くと白い高価な玉が作れるのだ。
ただ、外皮を取り除かずにそのまま加工して、赤い模様のついた玉や黄色の模様のついた玉も造られる。
0005日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 19:29:53.21
秦氏っていつ滅んだだ?
0006日本@名無史さん
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2020/01/06(月) 19:40:59.63
>>4
この高級玉の原石についている外皮を取り除くのは手間のかかることである。
このことは、日本の「鼈甲の皮」の諺と同じのようにみえる。
「鼈甲の皮」は面倒くさいという意味である。
鼈甲細工をするために鼈甲についている皮を取り除くのが手間のかかる面倒な作業であるので、
子供が面倒なことを言ったりするとその子供を指して「鼈甲の皮だな」と表現することがあるのと同じというわけだ。
そういうわけで、「波旦の緹(てい=赤色)」は(ホータン産の玉の原石に付いている赤色の外皮)という意味であり、
(高価な玉にするために取り除かなければならない邪魔な外皮」という諺なのだろう。
そうなると、現代中国にある「波旦風鈴草」の言葉は、ホータンの玉の原石についた外皮の赤色のような花を付けたキキョウのことであると推測することが可能になる。
波旦について解釈が紆余曲折したが、波旦=ホータンとする解釈が一番安定している。
つまり、新羅古碑に書かれている「波旦」は中国西域のホータンのことだという可能性が極めて高くなる。
そして「波旦の緹(てい)」は、ホータン産の玉の原石につく赤い外皮に関する諺を言っているということになり、蔚珍地域の土地の名ではないことになってくるのだ。
たぶん、間違いないだろう。
0007日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 19:56:59.27
>>5
滅んでないだろ。
秦氏系図をみたら、本流は東儀、島津、長曾我部だ。
傍流はいろいろあるよ。
0008日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 20:02:02.19
香春一の岳の南麓の香春神社の前の道は、
奈良時代から平安時代にかけて官の古路と呼ばれ、
都と太宰府との間の官人の通路であった。
その道筋に豐比命は遷座し、
香春の神を祀る採銅技術を持つ
秦氏の威勢を示したのであろう。      
0009日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 20:13:01.62
まあ、遼河人が渡来したのが弓月君で、ハタと名乗ったとする場合、その根拠が必要になる。
これまで、根拠らしい根拠が出てないんだから、かなり怪しいということになってくるよな。
新羅の波旦土地名説が崩れかかっているので、あとは遼河人ハタ氏説だけだけどな。
コンキョだよ、コンキョ。
0010日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 20:27:17.12
>>9
遼東郡秦人が新羅あたりに入植したのは秦代なんだが。

根拠は三国志。

弓月君はずっと後世の人物なんだが頭大丈夫かそちら?
0011日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 20:33:56.85
>>8
採銅技術を持つのが渡来系辛嶋だったという説もあるし。
宇佐の元宮にある三角池も渡来人が造ったとされる。
そうした渡来系の氏族の辛嶋氏が香春から宇佐に移ったということのようだから、
辛嶋氏がその元締めだったのかもなぁ。
この辛嶋氏と秦氏が同族だとする説があるのだが、両者をつなぐ物証がみあたらんような。
0012日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 20:45:18.20
>>10
モンゴル近辺の遊牧民が遼東地方に定着して農耕民化したのが秦人という説明だったが、その秦人が秦代に半島東南部に移住して辰韓の元となり、そのうちの一派が渡来したのが秦氏ということのようだが、
その秦氏が渡来した時期はいつなのよ。
0013日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 21:05:03.33
>>12
定説通り4C後半だろうね。

奈良県で秦氏が遺したと思しき日本最古級の須恵器の工房跡が見つかっているし、
日本最古級の土壁の住居跡が見つかっているからね。
0014日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 21:07:41.70
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
0015日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 21:41:22.81
>>13
その4世紀後半渡来の秦氏と弓月君は無関係という説なわけ?
一方、日本最古の須恵器は、今のところ宇治市街遺跡出土の須恵器で、韓式土器、馬鍬も出ているそうだ。
時期は4世紀後半頃。
弓月君は淀川から遡って、まずその流域に入り、それから宇治、伏見へと進んだ。
奈良には最初は行ってないようだ。
大和でみつかった土壁建物は、秦氏とは関係ない氏族とちゃう?
0016日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 21:50:01.94
秦氏の渡来前の土地が半島の蔚珍の波旦だという説はほとんど崩れてしまったから、秦氏新羅由来説は信憑性がなくなったよ。
波旦(パタン)はホータンのようだから、新羅の波旦を出自の土地とすれば、自然に中国西域のホータンに最終的な出自の土地を求めなければならなくなる。
まあ、秦氏の先祖名が浦東で、これがホトゥの発音なので元々ホータン出身説が強固だけどね。
それに、波旦=ホータンならば、ますます秦氏ホータン出自説が強力になるだけ。
0017日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 22:00:48.62
秦氏の正式子孫で名前が残ってるんで勢力基盤築いたんがいたん越前から加賀あたりやろ

そいつらは大名にまで名を残してる

戦国時代に一揆頻繁して滅んだ
0018日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 22:03:24.94
日向出身で古代氏族みたいなんで名を残したのが惟任、惟住氏やろ

名家の名として公家の朝廷から光秀に名跡継ぎあって惟任の名をもらったろ

光秀
0019日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 22:05:36.86
太宰府の官人役人として名を残したのが

橘(たちばな)氏

日本書記が書かれたころよりある古代氏族として名前が残ってる
0020日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 22:07:33.55
豊後に由来があるのが大伴(おおとも)氏

歌人として名を残した大伴家持(おおともやかもち)はその子孫
0021日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 22:24:31.26
すでに気づいているだろう。


自分よりも、下の人間(国)に賞などを貰ってもな・・・(某□位なども同じ)、
という例えなど。

『中華思想』
0022日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 22:44:34.71
例えば、何やら賞などでも良い、
そういう思想から、独立して自分(自国)たちで作ろうということになった?

みたいな事を言っている人がいたでしょ。いなかった?
0023日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 22:46:52.35
例えば、日本の天皇賞(不明)とか。
いままでは中華思想の下(属国)だったんだけど・・・。
0024日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 22:59:34.64
例えば、日本の天皇賞などに対しても「❓」
みたいな人はホンモノの『中華思想』だろう。

むかーしの渡来、漢人、中華。

某□位なども、一応貰っておくかとか。
0025日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 23:07:45.76
『デスラ〜』なども同じようなキャラクターでしょ。
0026日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 23:07:49.95
>>17
秦氏はあちこちにその後裔をのこしているようだ。
室町時代に加賀国の守護大名となった富樫氏は、平安時代初期の藤原利仁の子孫らしいが、
この藤原利仁の母親が越前の国人の秦豊国の娘だそうだ。
富樫氏の先祖は平安時代初期の頃に越前秦氏の娘を母にした藤原氏の子孫ということになる。
この越前秦氏は坂井、丹生、足羽など加賀北部を地盤にしていたようだ。
富樫氏が越前秦氏そのものの子孫というわけではないのかもよ。
ただ、加賀には秦氏の一党が勢力を張っていたのだから、その越前秦氏の支援を得たということはあるのかも。
0027日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 23:16:45.20
>>26
この越前北部の坂井あたりは、新羅系の土器がまとまって出た地域だし、秦氏がこれらの新羅渡来系の住民を囲い込んで、そこの部曲の管轄者として一族を送り込んだのが秦豊春ということなのかも知れんよ。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 23:21:27.93
漫画やアニメ・・・創作?
そういう設定などがあるでしょ、ほとんど同じ。

あと、なぜ知っているの?詳しいんだろう?となるはず。

某という家や人物の下()にいるんだけど、実際は上の・・・。
そういう設定の作品やキャラなど。
0029日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 23:27:26.11
しかしなんだな、日本人は権威元から箔付けてもらうのが好きだな。
余計な財などはいらん、箔でいいわ、その箔が剥げんように頑張るさかい、なんてな。
権威元も箔だけなら安いもんやろ。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/06(月) 23:43:20.81
あとドラゴンボールで言うと、
主人公の出身国(惑星)のTOPだというキャラ、主人公ではないんだけど、
実際は主人公よりも上。うらしまんも同じ。
0031日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 10:23:51.11
古代の話をしようと思ったら
最低は古事記や日本書紀の原文の知識は必要だな。
コンビニや書店にどこにでも置いてあるような
トンデモ系の歴史読み物の知識で語らないように。
0032日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 12:45:57.18
〜チョンコ(学術名:朝鮮ヒトモドキ)が何でも朝鮮起源にしたがる理由を知ろう♪〜

一時期より減少したとは言え、無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭にチョンコは何でも朝鮮半島由来にしたがる性質を持っています。

幼少期から刷り込まれる「日本の文化は全てウリ達が教えたニダ」という華夷秩序を土台としたミンジョク洗脳。
「元祖・本家以外に価値を見出させない」というチョンコ独自の価値観によって、関連性を感じると即座に朝鮮起源と思い込んでしまいます。
さらに「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とするチョンコ特有の性質は「火病」の原因として有名な気質です。

以上3つの性質により、チョンコは何でも朝鮮起源にしたがるのですが、インターネットの普及や英語話者の増加に伴い、ミンジョク洗脳は高等教育を受けた者から順に徐々に開放されつあります。
また国際社会に進出した者達は起源主張が文化的に低俗であることを自覚し、常に日本を意識し続けることが卑しい行為だと認識し始めていますが、発言すればリンチに遭うので公言できないのです。

残念なことに、高等教育を受けた者や国際感覚を持つ者は韓民11%、朝鮮民6%、在日民2%と言われており、言い換えればチョンコ全体では10%に当たる725万人ほどしか自覚や認識が進んでいません。

また百済ヒトモドキは高句麗ヒトモドキに絶滅させられ、新羅ヒトモドキは自ら唐の奴隷となって文化風習を捨て、高麗ヒトモドキはモンゴル帝国にレイプされまくりで民族的形質を完全に失っているという事実を意図的に見ないようにしています。

しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする現生ヒトモドキ属の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、ヒトモドキ属社会にも大きな影を落としています。

韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。

ここからもチョンコには半万年の実績に基づいた「奴隷根性」が遺伝子レベルに深く刻み込まれていると言えます。
0033日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 12:46:14.55
我が国の反日感情の正体は「反省を知らない被害者意識」である - 朝鮮日報 2016-06-04

我が国には一等国民と二等国民が存在する。 政治家や公務員、公企業や大企業の正規従業員が一等国民、非正規や契約従業員や日雇い労働者が二等国民である。 そして我が国民の60%以上、つまり我が国民の過半数は二等国民である。

九宜駅ホームドア事故で死亡した青年は二等国民だったが、ここに我が国民性の本性が見られた。 いつものように「罪なき被害者」と大々的に報道され、翌朝には「加害者探し」と共に「傷つくのはいつも罪なき人である」という論調になった。
政治家たちは二等国民からの共感票欲しさに捜査中の事件現場を土足で荒らしてまで現場に赴いて苦悶の表情で感傷的なコメントをして雰囲気を盛り上げる。 「恨(ハン)」の雰囲気だ。

我が国では「恨」が発動すると真実はどうでも良くなってしまう。 合理的な捜査結果は「被害者を踏みにじる行為」とされ、再発防止のための対策も「責任逃れと隠蔽」とされる。 ただただ悲しい表情で哀悼し続けることだけが求められてしまう。
いわゆる「思考停止状態」だ。

この一とニしかない国民構造のせいで、過半数の我が国民の戦闘意欲や敵意は少数派である一等国民に向けられる。 この「恨」は我が国民が常々感じている「ウリの不遇は誰かのせいでありウリのせいではない」という心理を加速させる。
これは日本に対する「反日感情」も全く同じである。 1980年代、韓国製品が売れないのは「日本企業が邪魔をしてるせいだ」と政府主導で教育され、2000年代には「我が国民が優等であり、日本国民が劣等だから韓国製品が世界で売れている」と教育した。
我が国民は日本人のような「自己反省」が得意ではない。 「自己反省」は「自己卑下」と同列であり、自らの非を認める行為だからです。 ウリたちは「正義の被害者」であり、反省などしてしまうと「悪の加害者」の罪が軽くなってしまう。
加害者は悪なのだからもっともっと罰せられるべきだというのが我が国民感情である。 
自分よりも上位にある者を引きずり下ろしたいという卑しい感情を「正義の鉄槌」という大義名分を得ることによって爆発させるのは本当に快感であり、麻薬よりも中毒性も依存性も高いのです。

https://news.v.daum.net/v/20160604032203791
0034日本@名無史さん
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2020/01/07(火) 12:46:25.93
「手当たり次第反日」という愚民化政策 - 中央日報 2019年05月10日

西洋の日本愛は過去形ではなく現在進行形だ
文化から産業に、また欧州から米国に、むしろその領域を拡張している
先週末ソウル聖水洞に長い列を作った「コーヒー業界のアップル」というブルーボトルとそのアップルの2社とも、米国人創業者が日本に魅了されて製品の中に日本の魂を溶かし込んだといっても過言ではない

韓国人は「日本が単にお金で世界の人の歓心を買ってきたのだ!」と思い込もうと必死だが、真実の日本人は文化的な深さと驚異的な匠の精神で世界の人を魅了してきたということだ
しかし韓国という色眼鏡を通した途端に日本は全く違う国になる
いくら旧怨があるからと言っても、日本の実力から目を背けるどころか日本を貶すためなら事実を捻じ曲げることも、自らの指を食い千切る(比喩ではなく実際に集会で指を食い千切るパフォーマンスは頻繁に起こっている)ことも厭わない我々の姿勢は異常と言える

実際に史料を見る勇気さえあれば、たちどころに歴史歪曲だと判明するようなことが事実であるかのようにまかり通り、事実を指摘されても訂正をするどころか謝罪もしない
悲しいことにこういった現象は韓国において特に驚くようなことではない
韓国で「手当たり次第反日」は常に免罪符なのだから

事実を軽視した我々の「精神勝利」が、朝鮮建国以来、最悪の戦争につながった朝鮮通信使の誤った判断と何が違うのだろうか
1592年、ファン・ユンギル正使は「外敵の侵犯に備えなければならない」と進言したが、全く同じものを見てきたはずのキム・ソンイル副使は「豊臣秀吉はネズミの目。恐れる必要はない」としてソンジョの判断を曇らせた
この愚かな判断は皆が知っている通り、後に民が過酷な代償となって降りかかった

「手当たり次第反日」は国内政治に利用しやすいのかもしれないが、国民を阿呆にして国を危機に陥れる
壬辰倭乱、そして1997年外国為替危機の時にあれほど辛い思いをしたのに、私たちは事実ありのままの姿で見なければならないという当然の常識でさえ学ぶことができず、他人の助力に感謝も出来なかった

我々に今本当に必要なのは事実を事実として受け止め、建設的な未来を目標として一歩ずつ前に進むという姿勢であるべきなのだ
https://news.joins.com/article/23463310
0035日本@名無史さん
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2020/01/07(火) 14:37:08.30
「波旦」の字がみられる古碑によって秦氏新羅由来説は有力な説となっていたが、
先にみたようにその「波旦」は中国西域の都市ホータンに関連する諺の一部であった可能性が高く、
蔚珍に波旦という地名はなかったことが推測される結果となった。
このことによって、秦氏のハタ音が蔚珍の地名としての波旦(パタン)に由来するとの説はほとんど崩壊したようにみえる。
したがって、秦氏のハタ音の由来については、残るのは皇別氏族の波多氏のハタ音を借用したとする説のみとなった。
この波多氏のハタ音を秦氏が借用した可能性があるかどうか、見ていくことにしよう。
0036日本@名無史さん
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2020/01/07(火) 16:41:36.25
>>35
渡来した弓月公(秦氏)が、武内宿禰の子の皇別氏族とされる波多八代宿禰の波多姓を借用したとする説がある。
秦氏のハタ音は、この波多氏のハタ音に由来するとするものである。
そのように判断する根拠については明らかでないが、いろいろなブログをみると平安時代初期の三代実録に「岡屋公祖代が八多朝臣の姓を賜った」とする記事があり、
この岡屋公祖代は「百済王の後裔である」とも記されていて、百済からの渡来人としている。
百済からの渡来人の子孫である岡屋公祖代が八多朝臣の姓を天皇からもらった、というもの。
この岡屋公の岡屋は、宇治市域にあった小椋池東岸の岡屋を本拠地としたことから氏名(うじな)としたものとする意見がブログにみられる。
小椋池の湿地の開拓を行った氏族なのかも知れない。
そして、この三代実録の記事を採録し、これに続けて「波多、八多トモ二秦二同シ。今モ姓氏ト為ス者アリ」とする個人の意見を付したブログも見られる。
この個人の意見は三代実録の記事自体には見られず、どのような根拠によってそのような意見が述べられているのか不明だ。
したがって、岡屋公が百済からの渡来者を先祖に持つ氏族であるとする記事は三代実録や新撰姓氏録に見られるものの、この岡屋公が秦氏の一族であるかどうかは確定しがたい。
また、この岡屋公が八多の姓をもらったのはその祖先が渡来してきてから後のことであり、武内宿禰の子とされる波多八代宿禰と弓月君(秦氏)が同時期の人物とみられることからして、
弓月君(秦氏)が波多氏のハタ音を借用したする説とは時期的に合致しない。
つまり、岡屋公祖代が八多朝臣の姓をもらったことと、弓月君が波多氏のハタ音を借用したかどうかの問題とは、別の話だということになる。
なので、岡屋公祖代の賜姓の件は、弓月君(秦氏)のハタ音の由来の問題からは切り離したほうがいいようだ。(続く)
0037日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 17:03:09.12
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0038日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 17:57:21.63
そもそも、秦氏のハタ音の由来については、平安時代初期にまとめられた古語拾遺や新撰姓氏録で述べられているものだ。
そこでは、仁徳天皇に献上された絹や綿が肌に柔らかだとして、「秦を波陀(ハダ)と言う」としている。
これは、秦氏のハタ音の由来が仁徳天皇の発言にあるとするものだ。
絹織物を天皇に献上したとする記事は日本書紀では雄略天皇紀にみえ、この記事では秦氏に禹豆萬佐の姓が与えられたとしている。
シチュエーションがよく似ていることから、古語拾遺の話は日本書紀の記事をベースにして、秦氏のハタ音の由来を述べているものと考えることができる。
そして、その時期が仁徳天皇のときだとして、ハタ音の始まりを弓月君の渡来から1世代か2世代目ころに置いていることになる。
古事記では弓月君を秦氏とみなしているので、古事記よりあとの古語拾遺の秦氏が弓月君の氏族の氏名(うじな)であるとしていることは間違いないのではないか。
このようにみると、弓月君がハタの氏名を称したのが仁徳天皇のときであるとする古語拾遺の記事が信用できるかどうかということになってくる。(続く)
0039日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 18:37:09.96
仁徳天皇が言った肌に優しい織物のハダからハタか

一番可能性が高そうな

なぜなら、蘇我氏の由来はスサノオ命が「すがすがしい」と言った事にあやかって、
最初にスガという姓ができ、それが訛ってソガになったと記紀に書いてあるからだ

蘇我は須賀から分かれたんだな
0040日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 19:32:23.28
>>39
その話は古語拾遺が言っていることで、日本書紀や古事記にはそうした記述はみられんな。
作り話じゃないの?
古語拾遺を書いたのは忌部氏で、忌部氏は賀茂氏と関係があり、賀茂氏には秦氏から人が入っているので、
秦氏と忌部氏が関連あるとする説もあって、古語拾遺の秦氏関連の話もまんざらでない部分もあるのかもしれない。
しかし、それは弓月君の時期よりずっと後のこと。
秦氏のハタの音の由来にどこまで事実が反映されているか定かでない。
0041日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 19:49:12.89
>>39
まあ、須賀→菅→蘇我の説もあるけどな。
素戔嗚が叫ぶ、「きゃぁ、スガスガシイ〜」→須賀もありだが、さすがに素戔嗚説はやりすぎだろう。
洲処(すか)→須賀→菅→蘇我じゃない?
つまり、蘇我川の砂地に住んでいたのが蘇我氏だろう。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 20:08:19.12
>>38
古語拾遺が秦氏のハタ音の由来を仁徳天皇の時期に求めていることと、秦氏系図が秦酒公が弓月君の子の浦東の子であるとしていることと時期的な符号がみられる。
一般に流布している秦氏系図の弓月君の子の浦東など4人の名の出所と、古語拾遺の仁徳天皇の時期の設定とは何か関連があるのかも知れない。
古語拾遺からすると、ハタ音は系図にみえる秦酒公に発するということなのかも知れない。
そうなると、そもそも、浦東などの4人の名の出所はどこなのかということになるが、その出所は不明だ。
この系図にしても、ハタ氏は酒公までしか遡れないということになる。
では、仁徳天皇の時期に弓月君は皇別氏族の波多氏のハタ音を借用して自らの氏名(うじな)としたという説になるのだろうか。
まあ、このあたりはまだ情報が足りないな。(続く)
0043日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/07(火) 20:27:23.08
蘇我氏自体が渡来人やろ
0044日本@名無史さん
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2020/01/07(火) 20:27:52.68
字面、使用法見てもそれしかないわ
0045日本@名無史さん
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2020/01/07(火) 21:27:21.07
>>42
どうも、弓月君の子である浦東君については、秦酒公の親としてこの浦東君の名が出てくるということかも知れない。
秦氏の系図を乗せるブログでは、秦酒公の父を浦東君とし、母は不明としている。
そして、浦東君自身については、まったく事象が記されていない。
また、浦東君の兄弟は別に3人いるのであるから、この別の3人についても、浦東君の兄弟として秦酒公の系図に書かれているということなのだろう。
この系図では秦始皇帝を秦氏の始祖としていることからして、新撰姓氏録の記述に依拠していると考えるのがよいのかも知れない。
そうすると、平安時代の秦氏にはそのような先祖の記録が実際にあったということになってくる。
それが、秦氏がハタ姓を持つようになったのが仁徳天皇の時期だとしている理由なのだろう。
浦東君は後世に創作されたものではなく、渡来当初から伝えられていた名であるとみていいのではないだろうか。
ただ、これまでに見てきているように、浦東はホータンの名であるとみられるところからして人物名ではないことも考えられるので、
そもそもの渡来者は秦酒君かも知れないという線が出てくる。
そうすると、秦酒君の渡来は仁徳天皇の時期ではなく、応神天皇のときとするのがよいことになる。
この観点から皇別氏族の波多氏との関連をみるのがいいように思えてくる。(続く)
0046日本@名無史さん
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2020/01/07(火) 22:01:05.58
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0047日本@名無史さん
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2020/01/08(水) 00:51:09.83
>>43
蘇我氏は皇別だろう。
0048日本@名無史さん
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2020/01/08(水) 03:35:24.55
〜チョンコ(学術名:朝鮮ヒトモドキ)が何でも朝鮮起源にしたがる理由を知ろう♪〜

一時期より減少したとは言え、無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭にチョンコは何でも朝鮮半島由来にしたがる性質を持っています。

幼少期から刷り込まれる「日本の文化は全てウリ達が教えたニダ」という華夷秩序を土台としたミンジョク洗脳。
「元祖・本家以外に価値を見出させない」というチョンコ独自の価値観によって、関連性を感じると即座に朝鮮起源と思い込んでしまいます。
さらに「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とするチョンコ特有の性質は「火病」の原因として有名な気質です。

以上3つの性質により、チョンコは何でも朝鮮起源にしたがるのですが、インターネットの普及や英語話者の増加に伴い、ミンジョク洗脳は高等教育を受けた者から順に徐々に開放されつあります。
また国際社会に進出した者達は起源主張が文化的に低俗であることを自覚し、常に日本を意識し続けることが卑しい行為だと認識し始めていますが、発言すればリンチに遭うので公言できないのです。

残念なことに、高等教育を受けた者や国際感覚を持つ者は韓民11%、朝鮮民6%、在日民2%と言われており、言い換えればチョンコ全体では10%に当たる725万人ほどしか自覚や認識が進んでいません。

また百済ヒトモドキは高句麗ヒトモドキに絶滅させられ、新羅ヒトモドキは自ら唐の奴隷となって文化風習を捨て、高麗ヒトモドキはモンゴル帝国にレイプされまくりで民族的形質を完全に失っているという事実を意図的に見ないようにしています。

しかし、一番の問題は「他者との比較が自己確立の唯一の手段」とする現生ヒトモドキ属の価値観にあります。
この価値観はホモ・サピエンスへの迷惑行為もさることながら、ヒトモドキ属社会にも大きな影を落としています。

韓国経済新聞/中央日報日本語版のコラムを読んでみましょう。
http://japanese.joins.com/article/029/204029.html
>特に韓国の人々は他人を意識して生きる傾向があり、虚礼虚飾もこうした傾向から出たものだ。
>これは奴隷のような人生だ。
>奴隷は主人を意識して生きなければならない。

ここからもチョンコには半万年の実績に基づいた「奴隷根性」が遺伝子レベルに深く刻み込まれていると言えます。
0049日本@名無史さん
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2020/01/08(水) 03:35:40.22
我が国の反日感情の正体は「反省を知らない被害者意識」である - 朝鮮日報 2016-06-04

我が国には一等国民と二等国民が存在する。 政治家や公務員、公企業や大企業の正規従業員が一等国民、非正規や契約従業員や日雇い労働者が二等国民である。 そして我が国民の60%以上、つまり我が国民の過半数は二等国民である。

九宜駅ホームドア事故で死亡した青年は二等国民だったが、ここに我が国民性の本性が見られた。 いつものように「罪なき被害者」と大々的に報道され、翌朝には「加害者探し」と共に「傷つくのはいつも罪なき人である」という論調になった。
政治家たちは二等国民からの共感票欲しさに捜査中の事件現場を土足で荒らしてまで現場に赴いて苦悶の表情で感傷的なコメントをして雰囲気を盛り上げる。 「恨(ハン)」の雰囲気だ。

我が国では「恨」が発動すると真実はどうでも良くなってしまう。 合理的な捜査結果は「被害者を踏みにじる行為」とされ、再発防止のための対策も「責任逃れと隠蔽」とされる。 ただただ悲しい表情で哀悼し続けることだけが求められてしまう。
いわゆる「思考停止状態」だ。

この一とニしかない国民構造のせいで、過半数の我が国民の戦闘意欲や敵意は少数派である一等国民に向けられる。 この「恨」は我が国民が常々感じている「ウリの不遇は誰かのせいでありウリのせいではない」という心理を加速させる。
これは日本に対する「反日感情」も全く同じである。 1980年代、韓国製品が売れないのは「日本企業が邪魔をしてるせいだ」と政府主導で教育され、2000年代には「我が国民が優等であり、日本国民が劣等だから韓国製品が世界で売れている」と教育した。
我が国民は日本人のような「自己反省」が得意ではない。 「自己反省」は「自己卑下」と同列であり、自らの非を認める行為だからです。 ウリたちは「正義の被害者」であり、反省などしてしまうと「悪の加害者」の罪が軽くなってしまう。
加害者は悪なのだからもっともっと罰せられるべきだというのが我が国民感情である。 
自分よりも上位にある者を引きずり下ろしたいという卑しい感情を「正義の鉄槌」という大義名分を得ることによって爆発させるのは本当に快感であり、麻薬よりも中毒性も依存性も高いのです。

https://news.v.daum.net/v/20160604032203791
0050日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 03:36:09.96
「手当たり次第反日」という愚民化政策 - 中央日報 2019年05月10日

西洋の日本愛は過去形ではなく現在進行形だ
文化から産業に、また欧州から米国に、むしろその領域を拡張している
先週末ソウル聖水洞に長い列を作った「コーヒー業界のアップル」というブルーボトルとそのアップルの2社とも、米国人創業者が日本に魅了されて製品の中に日本の魂を溶かし込んだといっても過言ではない

韓国人は「日本が単にお金で世界の人の歓心を買ってきたのだ!」と思い込もうと必死だが、真実の日本人は文化的な深さと驚異的な匠の精神で世界の人を魅了してきたということだ
しかし韓国という色眼鏡を通した途端に日本は全く違う国になる
いくら旧怨があるからと言っても、日本の実力から目を背けるどころか日本を貶すためなら事実を捻じ曲げることも、自らの指を食い千切る(比喩ではなく実際に集会で指を食い千切るパフォーマンスは頻繁に起こっている)ことも厭わない我々の姿勢は異常と言える
実際に史料を見る勇気さえあれば、たちどころに歴史歪曲だと判明するようなことが事実であるかのようにまかり通り、事実を指摘されても訂正をするどころか謝罪もしない
悲しいことにこういった現象は韓国において特に驚くようなことではない
韓国で「手当たり次第反日」は常に免罪符なのだから

事実を軽視した我々の「精神勝利」が、朝鮮建国以来、最悪の戦争につながった朝鮮通信使の誤った判断と何が違うのだろうか
1592年、ファン・ユンギル正使は「外敵の侵犯に備えなければならない」と進言したが、全く同じものを見てきたはずのキム・ソンイル副使は「豊臣秀吉はネズミの目。恐れる必要はない」としてソンジョの判断を曇らせた
この愚かな判断は皆が知っている通り、後に民が過酷な代償となって降りかかった

「手当たり次第反日」は国内政治に利用しやすいのかもしれないが、国民を阿呆にして国を危機に陥れる
壬辰倭乱、そして1997年外国為替危機の時にあれほど辛い思いをしたのに、私たちは事実ありのままの姿で見なければならないという当然の常識でさえ学ぶことができず、他人の助力に感謝も出来なかった

我々に今本当に必要なのは事実を事実として受け止め、建設的な未来を目標として一歩ずつ前に進むという姿勢であるべきなのだ

https://news.joins.com/article/23463310
0051日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 03:41:17.44
>>45
弓月君の子の4人の名は、なんということはない、新撰姓氏録の秦氏の系譜の中に書かれているな。
普洞という名の子には「古記に(浦東)と言う」とちゃんと書いてある。
この4人の子の名については、当初から記録があって伝えられていたということだ。
問題はない。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 04:02:45.00
>>42
どうやら、皇別波多氏のハタ音を渡来秦氏が借用したとする説の出所が分かった。
波多氏は大和の高市郡波多郷の氏族であり、この波多郷は現在の高取町羽内あたりになるそうだ。
一方、新撰姓氏録の山城国の秦忌寸の系譜では、渡来した弓月君が大和朝津間腋上に土地を与えられて住んだとする記述があり、
この朝津間腋上は葛城郡腋上の地であるので、地図上では波多氏の波多郷と弓月君の腋上は隣接しているのが分かる。
そこで、波多氏に管轄された弓月君が自らの氏名(うじな)に波多氏のハタを借用したとするのが、この説のようだ。
やっと出発点に来たな。
まあ、これからだ。
0053日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 09:00:44.17
秦氏は元々の姓はなかったのか?弓月君というぐらいだから。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 09:08:48.20
先祖は江南やろ
ただ政権中央に入れてもらうのには失敗したけど
0055日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 09:14:19.06
太秦とか右京はよく氾濫した川の水がくる難しい土地で
あまり優遇されて無かったけどよく残ったよな
偉い人たちは左京に住んで都といっても右京は寂れてた
0057日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 11:53:45.87
日本古来の建築である高床式に切妻造の屋根をもつ建築 確実に華南・長江周辺から来てるよね あれは黄河文明ではない
0058日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 12:38:27.66
>>54
江南から来といて何で三足や耳の付いた中国大陸の中国陶磁器がねえんだカス

江南はBC10C頃から原始青磁のメッカだぞ

方や、朝鮮半島に在地産の磁器がお目見えするのは10Cだぞ

その時代差、約2000年

馬鹿すぎだろチンコロのおまえ


>>57
確かに高床式建築のルーツは長江流域だろうな

ただ日本の高床式倉庫は『松菊里型住居とセットで』弥生早期の江辻遺跡に
初登場するの

つまり日本の高床式倉庫は松菊里型住居がある場所から取り入れたという事

このときの長江や江南の住居はすでに土壁の戸建てだから、長江や江南から
伝わるべきは何よりもまず土壁建築のはず

長江や江南とは直接的な関係など一切ない

チンコロは日本の掲示板に来るな
0059日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 13:39:33.56
中国人はチョンコの軽薄な精神性をよく理解してるアルが、日本人はチョンコをまったく理解していないアル。
日本人はチョンコが「人間」だと思い、対応しているので、大小様々な問題が発生するアル。

中国人から日本人に忠告するアルよ。

「チョンコは犬だと思って付き合うが吉アル」。 それがチョンコのためでもあるアル。

筋の通らない理屈を言ったら、100倍の制裁を与えるアル。
感謝の気持ちは、王が家来に褒美を与える様に接するべきアル。
正論や理屈は意味がないアル。 強制と命令で動かすアル。
裏切りに対して、泣きついてきても情は絶対に駄目アル。
実行できない無理な命令を出して、出来ない事を責め続けるアル。

    ∧∧
   /   \    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (    )  <  厳しく躾けて世界最下層の犬畜生だと教え込んだのに・・・
  ( O   )    \______________________
  │ │ │
  (__)_)

    ∧∧
   / 支 \   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   ( `ハ´) <  勝手に普通の人間扱いしちゃったのは誰アルカ!?
  (m9ヴィシ! つ  \__________________
  .人  Y
  レ'(_)
0060日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 13:39:45.25
    ∧∧ これがあるべき本来の姿アルよ                 
   / 支\               
  (  `ハ´)      Λ韓Λ   
  ( ~__)) ~づ。。   .<丶`∀´>  ワンワンニダー!!!!   
  | | |   ゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚=====  
  (__)_)   C/    l   
            し−し−J 
0061日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 13:54:30.90
       |`゙'''ー==============ー'''゙|
    .   ゝl!i!li!lil!li!lil!il!ili!lil!i!li!lil!il!ili!イ
      ,.r''"=|_|^|_|_|__|_|_|_|_|_|_|_|_|_|_|^|='、,,
  __,.r''"=/^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|^|=゙''-、__.
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   ヽ::_丿 ヽ::_丿 ヽ::_丿 ヽ::_丿 ヽ::_丿 ヽ::_丿
   ..|::::[_]::::[_].┏━━━━┓:[_]::::[_]::::|
   ..|:.┌──┐┃.門 恩 迎.┃┌──┐.:|             .o__________
   .ヽ└──┘┗━━━━┛└──┘./             /   属 国 清 大   /
    |:::::::::::::/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ:::::::::::|  .||〜〜┐.    ./  旗  国  麗  高  /
    |::::::::::::|               .|:::::::::::|   .|| 歓 |    ./  /// ̄ ̄\\\ /
    |__:|          .     |__:|   .|| 迎 |    ./    /   / ̄`|    /
    |  ::::|           ..    |  ::::|   .|| 宗 |   ./    |\_/   /    /
    |  ::::|            ..   |  ::::|   .|| 主 |  /  \\\__/// /
    |  ::::| ニダー、今年も貢物.  |  ::::|   ..|| 国 |  /               /
    |  ::::|  少ないアルよ     |  ::::|   || 様 | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   ,,,r,,,.,,,:,:,|,,,、      ∧∧   ,,L,,,,,:,:,::|,,  ||〜〜┘/
   ..|     :::::|      /支\ |'    :::`| .||    /
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     ∧,,_∧       (  ))) )     ∧,,_∧ ヒェー、宗主国様お許しを…
  、,.,,<♯`Д´>     | | |    <`Д´♯>,,.,、
 (,⌒) |lll|lll|l ))     (__)_)   (( l|lll|lll| (⌒,).
..⊂、`ヽ⊃   >⊃           ..と<   とノレ
     ∨ ∨                 ∨ ∨ Σ ガンガンガガガン…
0062日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 14:37:09.08
朝鮮煙幕で誤魔化す中卒チンコロ
0063日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 15:15:18.18
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
0064日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:01:34.89
日ユ同祖論の起源~東方見聞録と聖書・キリスト教と儒教
https://youtu.be/-9peZnV-esg
0065日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:13:00.74
>>53
渡来した弓月君の子の浦東君の子が秦酒公で、この秦はハタと読んでいるので、酒公の氏名(うじな)はハタであったことはまずまちがいないようだ。
このハタが元々からの姓だったのか、それとも渡来後に自らの姓は捨てて波多氏のハタを借用したのかというところが、今の焦点。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:24:43.16
>>65
秦酒公の親の浦東君はホトゥの発音だと思うが、別の表記では普洞と書かれている。
この普洞の発音はポドゥ。
弓月君の子の名の発音はみなタリム盆地外縁地方のオアシス都市の名と重なるので、
この浦東ホトゥ、普洞ポドゥはホータンとみることができる。
秦氏のルーツはホータンだとする説は少なくないよ。
なので、秦氏の元々の氏名(うじな)がホータンであるとは思えないな。
渡来後に出身地のホータンを縮めたハタを氏名(うじな)としたということは可能性のあることだけど。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:35:53.27
>>58
松菊里型住居がある場所ってどこなん?
0068日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:37:03.11
松菊里型住居とは
朝鮮半島の松菊里遺跡にみられる円形の竪穴住居の形態で、竪穴中央部に
約 lmの楕円形の土坑があり、両側に2本の柱穴がある。
平面形が円形の竪穴住居跡にのみ中央部の楕円形土坑 と両側の柱穴があり、松
菊里遺跡では正方形や長方形の竪穴住居跡には見られない。

http://kodaiken.sub.jp/old_siryou/ronbun/kouza_pdf/hara2018.pdf
0069日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:38:46.53
松菊里型住居 とい う呼び方は中間研志氏が提IIEし た。
「松菊里型住居一我国稲作農耕受容期における竪穴住居の研究」
後年に忠清南道の体岩里(手 せ■)遺跡で無文土器時代前期の松菊里型住居が見
つかり、一番古いことが分かつた。
0070日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:40:05.62
忠清南道(チュンチョンナムド、ちゅうせいなんどう、韓国語表記:????)は、大韓民国中部(朝鮮半島中西部よりやや南)に位置する行政区。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:41:03.38
水稲工作技術+高床式住居が忠清南道へ伝来

忠清南道から水稲工作技術+高床式住居+松菊里型住居が日本へ伝来

こうか?
0072日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:41:35.51
水稲工作技術+高床式住居が長江から忠清南道へ伝来

水稲工作技術+高床式住居+松菊里型住居が忠清南道から日本へ伝来

こうか?
0073日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:43:27.27
>>58
松菊里型住居なんか 関係ないわゴキブリが
0074日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 16:43:50.63
松菊って
俺の先祖と天皇の先祖は両方ともここから日本に来たのか?
天津神って天津の神か?
0076日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 17:03:04.42
>>64
このユーチューブの番組の考え方は面白いと思うが、そうした日ユ同祖論の系譜と、
千葉の芝山古墳や埼玉の行田の古墳からつば広の帽子を被り、鬢を長く伸ばして巻いたような髪型をし、
髭をたっぷり生やした姿の人物埴輪が出ていて、この人物埴輪の姿とユダヤ教徒の超正統派の姿と瓜二つであることは、また別の問題だと思うよ。
4世紀後半〜6世紀後半にかけてのユダヤ教徒の日本への渡来は歴史上の事柄であって、それが日本文化とどう関わったのかという点はこれからの問題であって、
本質的には日ユ同祖論の系譜とは異なるものだと思うね。
このユーチューブの番組の投稿者も、一度千葉の芝山古墳の人物埴輪を見てみて、それを原点としていろいろ組み上げたらいいと思うがね。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 17:09:07.56
>>75
この社がなんでこんなに高いのかという問題については、
出雲では元々山上に祭祀所を設けていたが、平地へその祭祀所を移したことから、
元々の高さの祭祀所が求められたという説があるな。
まあ、掘っ立て柱の倉庫形式が百越にルーツがあるとする説は、それはそれで結構なことだけどな。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 17:10:05.75
>>74
あまえたことを言うでない。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 17:44:16.24
どっちにしろ秦氏は燕国を滅ぼして今の北京から遼東半島まで駐留していた秦の軍人や大陸から逃れてきた漢族が大陸に戻れなくなって
j半島に残留した連中の子孫ってだけだよ
0080日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 18:20:06.67
>>69
忠清南道 瑞山市 海美面 休岩里
休岩里遺跡
36.698327,126.556275 36.692460,126.558120
二つの遺跡をまとめて休岩里遺跡
典型的な松菊里型遺跡ではなくて
青銅器時代前期の細長方形住居跡と中期の松菊里型文化が結合
0081日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 18:21:10.61
辰韓(秦韓)には、半島語をしゃべらずに
秦語をずっと喋っていた地区があったんだろう?
そして、それから後に、日本列島の中にも、
中国語(秦語?)の通じる地区が登場する。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 19:49:43.34
>>72
朝鮮半島には中国大陸の中国土器・陶磁器が一切ない

だから長江から直接、朝鮮半島というのはない

両者とも遼東半島から朝鮮半島に入ってきたとしか考えられないね

ただし遼東半島までのルートが遼寧経由なのか山東半島経由なのかが分からんが

稲作は山東半島経由だろうけど、高床式倉庫は遼寧経由の可能性もある
0083日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 20:47:26.33
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
0084オレンジ・エア
垢版 |
2020/01/08(水) 20:47:59.51
秦の始皇帝の時代に徐福集団が佐賀にやってきた、後の秦氏である。


基本だから忘れないように。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 20:52:27.59
>>84
中卒の妄想だという事だけは忘れませんが
0086日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 21:03:39.07
>>81
渡来直後ならあったかも。
2代目くらいにはもうバイリンガルで、3代目には元の言葉を忘れる。
そんなもんよ。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 21:30:14.68
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

 
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられ、一方、板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始しました。
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。

また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。

 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。

 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 21:56:03.33
>>87
詐欺乙チンコロ


今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
0089日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 22:37:21.77
>>79
そうした流れ者が、大王が絶賛するような超高級絹織物を作れるか、ということも考えんとな。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 22:40:33.79
水稲農耕を過大評価しすぎている。
陸稲よりも同じ面積あたりの収穫率は高いけど
その反面、農作業は水稲は陸稲よりも手間がかかる。
日本では戦前まで、陸翔はかなり行われていた。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 22:46:51.98
>>84
あれこれつぎはぎするにしても、そのパッチの選択をちゃんとせんとね。
柄がチグハグになってヘンだから。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 23:09:39.47
>>88
水田じゃなくて畑での栽培なら日本は6000年前からやってるぞ
0093日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 23:20:11.95
>>52
秦氏が移動した経路はおおむね判明しているよ。
宇治市街遺跡では4世紀後半の最古の須恵器や韓式土器、馬鍬などが出ている。
それから、5世紀に入ると伏見の深草あたりで前方後円墳が造られ始める。
この深草の複数の古墳は秦氏の造営になるものではないかとされている。
この時期には、まだ太秦は開発されていないようだ。
日本書紀では4世紀後半に弓月君の一団が渡来してきており、弓月君は秦氏の先祖だとされているので、秦氏の先祖がこの時期に伏見の深草に定着したことを想定するこどか可能だ。
淀川を遡ったのだろう。
同じ日本書紀では、天日槍という渡来人も淀川から琵琶湖の大津付近へ進み、そこから日本海側へ出るコースを取っているから、
秦氏の先祖の移動コースもほぼこれと同じと考えてよいのではないか。
一方、平安時代初期の新撰姓氏録では、山城国の秦忌寸の系譜に渡来した弓月君は大和の葛城郡腋上に住んだと書かれている。
そこで、この記述を信用した場合、渡来した弓月君は山城の伏見と大和の腋上に分かれて住んだということになる。
しかしながら、伏見深草の方は出土物や遺跡などで秦氏の存在が推定できるものとなっているが、大和の腋上については証拠物件がないのが難点だ。
そして、この腋上秦氏は、所属していた葛城氏が5世紀中頃に衰退するとともに葛城氏と並び立っていた鴨氏とともに木津川の岡田へと移り、
そのあと鴨氏は山城の鴨川あたりに定着して、秦氏は太秦などに定着したとする説がみられるものの、腋上秦氏そのものが存在していたことを示す物件がみあたらないのだ。
もし、腋上に秦氏が存在していなかったら、すぐ隣の高市郡波多郷にいた皇別波多氏のハタの氏名(うじな)を秦氏が借用してハタを名乗ったとする説も成り立たなくなってくる。
秦氏の先祖が葛城郡腋上に存在していた物証が、とにかく必要になるというわけだ。(続く)
0094日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 23:22:50.91
>>92
中卒チンコロの頭の中だけでな(嘲笑
0097日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/08(水) 23:35:36.51
>>95
中卒チンコロの頭の中だけでな(嘲笑
0098日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 00:53:11.70
>>96
新羅あたりの絹織物は普通の流通品。
大王絶賛の超高級絹織物は、ホータン産。
弓月君は、ここから来た者等だろうな。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 02:35:11.79
月氏国
大月氏国
月支国
弓月君
月弓尊
0100日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 03:07:45.50
月の砂漠を〜♪ という歌があったな。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 04:17:06.83
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

 
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられ、一方、板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始しました。
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。

また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。

 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。

 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 06:34:03.77
>>97
お前は小卒以下 アホすぎて草も生えない

>縄文中期に稲作 熊本の土器で稲もみ圧痕を確認

西谷正・伊都国歴史博物館長(九州大名誉教授=考古学)の話 「縄文中期に稲作があったことを示す確定的な証拠。稲もみの圧痕という実物で確認しており、貴重な発見だ。」
0103日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 06:36:41.47
>>97
現在日本最古の稲の痕跡は縄文時代前期の岡山県朝寝鼻移籍から発見された稲独特の細胞「プラントオパール」
0104日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 06:38:06.41
少なくとも縄文時代後期後半(約三千五百年前)には焼畑による稲作があった
0105日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 11:59:36.92
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました。
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻した遺跡は論外です。

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 12:36:31.36
>>103
日本最古の稲のプラントオパールは12000年前

鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている
0107日本@名無史さん
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2020/01/09(木) 13:45:50.23
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0108日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 13:48:30.92
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました。
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻した遺跡は論外です。

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。
0109日本@名無史さん
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2020/01/09(木) 13:57:56.45
020/01/09(木) 13:48:26.62
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0110日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 13:58:42.46
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 13:59:37.76
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0112日本@名無史さん
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2020/01/09(木) 14:00:04.28
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 14:01:52.66
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0114日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 14:02:17.34
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 14:02:46.14
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0116日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 14:03:06.92
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 14:03:59.81
7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0118日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 14:04:23.21
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 14:42:13.39
>>106
これはさすがに桃の木だよ。
遺跡の名前書いてね。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 14:49:29.50
>>104
文化庁は弥生時代からしか稲作を認めないんだからな。
水田稲作が始まった縄文晩期を弥生早期として置き換えて、縄文稲作は認めないのよ。
だから、縄文時代にいくら稲のプラントオパールが出ても、イチャモンつけられて稲作はないことにされる。
気をつけたまえ。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 15:04:23.35
>>120
菜畑より前のイネの現物(稲籾、籾殻、炭化米)が一粒もないからだよ

バカ中卒
0122日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 15:15:47.84
だからお前は小卒以下 アホすぎて草も生えない

>縄文中期に稲作 熊本の土器で稲もみ圧痕を確認

西谷正・伊都国歴史博物館長(九州大名誉教授=考古学)の話 「縄文中期に稲作があったことを示す確定的な証拠。稲もみの圧痕という実物で確認しており、貴重な発見だ。」
0123日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 15:26:35.52
>>122
悔しかったら、菜畑より前のイネの現物(稲籾、籾殻、炭化米)の証拠を一粒でも出してみろよ


バカ中卒の華南ウンコ色ブタチックニグロチック 突顎 インドシナロピテクスくん
0124日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 15:30:38.44
>>120
文科省は反知性主義的、非科学的だな
0125日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 15:33:39.33
自答自答する華南ニグロブタwwww
0126日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 15:40:28.40
ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

ここは台湾の田舎町。どこからか南方太鼓を叩く音が聞こえてくる。

見てみると叩いているのはそう、東南アジア顔した台湾人。

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

半裸で意味不明の南方語の掛け声を唱えては太鼓をしきりに叩いている。

叩く。叩く。しきりに叩く黒い手。

そして黒い顔に潰れた広い鼻。突き出した口元とゴツゴツとした輪郭。

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

ツカポコタカ♪ツカポコタカ♪セローイ!

一瞬、ニューギニアの奥地に居るような感覚に私は襲われたのである。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 15:59:53.79
>>124
まあ、陰謀といえるな。
日本の文化は水田稲作を基幹として出来上がっていて、その稲作を管理するのが国家であるという妄想がそれ。
水田稲作の管理主体は神社であり、その神社を統括するのが伊勢神宮というわけだから、まあ、神社の神主がこの陰謀の首謀者ということになる。
この水田稲作主義は、縄文の陸稲があってその上に弥生水稲がある、つまり縄文文化が基層にあるという超絶真実をみとめたら、稲作管理統括の権利を縄文系畑作種族にも半分やらなければならなくなるので、縄文稲作を絶対認めない強欲なのだ。
陰謀の根にはそれがある。
つまり、渡来人文化と縄文現地人文化の戦いだということになるな。
もちろん、意地汚く戦いを挑んでいるのは、渡来人文化のほうだといえる。
まあ、陰謀なのは間違いない。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 16:23:53.34
>>127
おまえがなw

悔しかったら、菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも出してみろよ


バカ中卒のインドシナ華南ウンコ色ブタ広鼻 突顎 タラコ唇半ニグロくん
0130日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 16:32:46.26
>>128
じゃあ、出してみろよ

菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも


バカ中卒の華南ウンコ色短顔ブタ広鼻 突顎 巨大タラコ唇ベトナミーくん
0131日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 16:35:37.78
>>93
仮説としては、腋上秦氏(波多氏)はあり得る。
葛城円大臣が皇子時代の雄略に滅ぼされるのが5世紀中頃。
葛城氏の下で渡来弓月君(自称波多氏)を管理していた皇別波多氏が力を失ったその間隙をぬって、
同地域の鴨氏とともに自称波多氏も逃避し、その自称波多氏は岡田から太秦へ進んで定着した。
この太秦の近くで古墳が造られるようになるのが5世紀末〜6世紀初頭とされる清水山古墳。
その後もこの墓域で古墳が造営される。
つまり、5世紀末頃に太秦に造られた古墳の被葬者は、5世紀中頃に腋上から逃避した腋上波多氏であり、
新撰姓氏録の山城国の秦忌寸の先祖だとすると時期的な整合性は取れる。
これがこれまで唱えられている太秦秦氏の由来であり、かなり信憑性があるようにみえる。
この説からすると、秦氏のハタは皇別波多氏のハタに由来するとすることが可能になるようだ。
しかし、では伏見の深草に定着していた弓月君の分派はこの時期まで自らを何と自称していたのかという問題が出てくる。
とにかく、秦氏のハタは波多氏のハタに由来するとする説は、このような考えのようだ。(続く)
0132日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 17:51:27.40
>>131
しかし一方では、太秦地域にみられる5世紀末頃の古墳は、従来からこの地域に住んでいた氏族のものであり、
秦氏が太秦に入ったことを根拠づける葛野大堰築造は600年を前後する飛鳥時代になってからの可能性があるとする研究がみられる。
つまり、6世紀代の秦氏の本拠地は深草にあり、太秦に秦氏が進出するのは7世紀頃であるとするものである。
この研究にしたがえば、大和の腋上波多氏が葛城氏衰亡の5世紀中頃に鴨氏とともに逃避して、5世紀後半に太秦の地に定着したとする説が成り立たなくなってくる。
このように、葛城郡腋上に弓月君が定着したとする新撰姓氏録の記述と太秦の秦氏をつなぐ説が途切れてしまうと、腋上の弓月君(自称波多氏)の存在を語るのは新撰姓氏録の記述だけということになってしまう。
そして、仮にその記述を信じたとしても、太秦の秦氏につながるのは7世紀前半頃になってくる。
その頃にはすでに伏見の深草では秦を名乗る秦酒公の氏族がいて、その秦の字はハタと読まれているのであるから、秦氏のハタ音の由来は腋上秦氏(波多氏)のハタとは無関係ということになってくるのではないか。
もちろん、腋上の弓月君(波多氏)が本家筋であり、その本家のハタ音を深草の秦氏族が取り入れて自らもハタと名乗ったとすることも可能であるが、これについても、やはり根拠が必要だろう。
いずれにしても、腋上秦氏の存在を示す物証が必要であることに変わりはない。(続く)
0133日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 20:14:38.73
7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0134日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 20:19:13.43
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 20:24:51.22
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です。
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました。
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません。

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻した遺跡は論外です。

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です。
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています。
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです。
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です。
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません。
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます。
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 20:37:37.64
>>135
詐欺チンコロ乙



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.
0137日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 21:25:32.68
古代の朝鮮関係で秦姓の人が活躍した例もある。
『魏略』には、戦国七雄の一の燕が東北方への侵略を行い、
秦開という将軍を派遣して箕子の後の朝鮮侯を討伐し二千里の地を奪ったと記される。
その時期は燕の全盛時代の昭王(前311〜前279在位)のときとみられる。
秦開という人物は『史記』匈奴伝にも見え、
燕の賢相・秦開はかって人質として東胡にあり、
厚い信を得たが、帰国してから東胡を破り千余里を得、
その地に燕は五郡を置き長城を築いて胡人を防いだとある。
この五郡のうち、最も奥地の遼東郡は郡治が襄平(いまの遼陽)とされるから、
『魏略』と『史記』匈奴伝は同じことを記したものであろう。
秦開の系譜は不明であるが、遠くは秦王室と同族であったことも考えられ、
秦開の族裔がこの討伐以降、朝鮮半島に遷住したのではなかろうか。
あるいは、秦韓王家はこの秦開同族の流れだったのかもしれない。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 22:16:14.17
日ユ同祖論者、あらすなよ、wikiとかを。
ウンザリなんだよ、トンデモ説で。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 23:05:04.46
>>138
朝鮮煙幕チンコロの中国(長江、江南、華南、四川、雲南etc.)から来た来た詐欺と
日ユ同祖論者のユダヤ人が来た来た詐欺がウゼエ

両方とも衣食住に関する生活痕遺構が全くないから何らの考古立証もできねえ
0140日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 23:28:20.51
>>137
基本的に遼東郡に中国大陸人は定着してないっての

定着してたなら鬲が普及してるはずだろ

中国大陸人の炊飯器なんだから

耳の付いた器形もない

在地産の原始青磁もない

遼東郡には中国大陸人は定着しておらず、土着のウラルアルタイ語族の遼東人が
漢化して異民族燕人秦人漢人になっている

そして、その異民族秦人が朝鮮半島に流れてきたため、馬韓は領土の東部の
一部を割いて、その異民族秦人たちに与えた
0141日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/09(木) 23:45:47.00
>>139
今や、渡来人秦氏がユダヤ教徒だったかどうかは、古代史の最大の謎になっている。
世界のユダヤ人も手に汗握って注目する「日の国のユダヤ教徒の謎」だ。
ユダヤ人のY遺伝子の研究とともに、古代史世界のトップシークレットだからな。
凡百にはついてこれんテーマだよ、これは。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 00:44:22.27
秦氏の祖先は、中国大陸が漢王朝によって統一される前に
朝鮮半島に亡命してきた中国人には間違いないと思う。
何故なら、当時の朝鮮半島には、「國」のことを「邦」と書く中国語をしゃべる人たちがいて
大陸では漢王朝の創始者の劉邦の名前の一字が「邦」なので「國」という漢字に変えたのに
それ以前に半島へ亡命したので「邦」のほうを使い続けていたから。
ただし、秦の始皇帝とは直接は関係なく、むしろ、
秦によって滅ぼされた燕の重臣だった秦氏の末裔の可能性が高い。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 00:47:15.76
>>137
嬴氏が周の帝からもらった領地が秦邑であったことから秦国の名生まれたそうだ。
なので、秦はそもそもが嬴氏とは関係のない地方名だったことになる。
そして、秦の字は(生長の早い植物)の意味だという。
この秦を氏名(うじな)とする宗族がいたとしても不思議ではなく、現にこの秦開以外にも秦の宗名を持つ人物は少なくないようだ。
そうした秦を宗名とする秦開の孫が秦の嬴政の暗殺を企てた荊軻に同行したが失敗し、この時に秦開が半島へ逃亡し、その秦開の子孫が日本へ渡来した秦氏だとするのは面白いが、
秦氏に関連する何か資料がないと、ちょっとにわかには信じにくいな。
博識なのは評価するよ。
0144日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 00:47:26.06
朝鮮半島では三韓の前は衛氏朝鮮という
中国の漢族系である燕の亡命王権によって統治されていた。
この燕の重臣には秦氏という貴族がおり
実際に燕が健在だった時代にも、
秦開という将軍が朝鮮半島北部を平定したという記述がある。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 00:52:34.39
燕は朝鮮半島北部に隣接し
朝鮮半島北部にも版図を広げてた。
だが、西方の秦によって、燕は滅ぼされると
隣に朝鮮半島北部へ亡命する者も多かった。
実際にそれで出来た国が衛氏朝鮮である。
また、この燕には、秦氏、韓氏、箕氏という貴族がいた。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 01:04:04.00
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0147日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 01:12:21.85
ずっと前に、中国人のサイトで、日本の秦氏についての考察を見つけたが
 
「秦の始皇帝とは直接は関係ないでしょう、
どっちかというと、燕の秦氏の末裔のほうが可能性が高い」と言っていたな。
燕は秦に滅ぼされて、朝鮮半島に多く亡命したけど、
その中には衛氏、韓氏、秦氏らがいたと。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 01:33:06.79
>>132
新撰姓氏録に、渡来した弓月君が葛城の腋上に住んだと書いてあることについて、これを裏付ける資料は他にない。
なぜ腋上であったのかについては、葛城襲津彦が伴って渡来したと日本書紀に記されていることと関連があるだろう。
そして、隣接して高市郡波多郷に皇別波多氏が住んでいたことも関連があるのかもしれない。
この時代には秦氏のハタ音の由来が分からなくなっており、弓月君を葛城の腋上に住まわせることによって、深草や太秦の秦氏のハタ音の由来を説明しようとしたのかも知れない。
これはまったくの想像にすぎないが、秦氏のその企画通りに、波多氏のハタ由来説が唱えられる結果となっているということも考えられる。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 02:15:13.47
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0150日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 06:36:00.22
>>147
渡来した弓月君の実態が朝鮮半島に逃避していた秦開の子孫でだったとする説は面白いと思う。
そこで問題となるのが、渡来したその秦(シン)氏がなぜ弓月君と呼ばれたのかということ、またなぜ自らをハタと名乗ったのかということ。
この呼称の問題が解けないと、その秦(シン)氏が太秦、深草のハタ氏であるとイコールで結ぶことができないのではないか。
このことについて、皆が頭を悩ませているね。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 08:25:19.07
そんな難しい事ではないと思うんだが。

単に遼東郡秦人の後裔を自称していた帰化人が日本でハタと名付けられ、
楽浪郡、帯方郡漢人の後裔を自称していた帰化人が日本でアヤと
名付けられただけだろう。

優れた機織物を献上していたからハタ、文筆をするからアヤと名付けられただけだろう。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 11:26:34.40
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0153日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 12:35:00.71
>>152
ほれ死ねい詐欺チンコロw



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.
0154日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 12:40:06.77
>>153
挑戦ヒトモドキは文盲かよ笑
0155日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 12:46:24.79
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
0156日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 12:46:49.55
>>153
なんで、そんなに凄いんだよw

『Chosen』〜「選ばれしもの」?
0157日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 12:56:09.85
『選ばれし者  destiny ガンダム』
日本では・・・みたいな存在なのかな、後にカミタマに・・・とか。


これは数年前の、とあるスレの話なんだけど
「神上がりの方法を教えてください」という謎の書き込みがあったり。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 13:38:30.58
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0159日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 14:48:45.19
>>158
ほれ死ねい詐欺チンコロw



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.
0160日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 15:12:23.36
>>140
漢化したのなら、三本足鍋使ってるだろな。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 15:14:09.46
>>159
オクキョンの年代は暫定値とされていて、信憑性がない。
水田跡が出るのは紀元前300年代の遺跡だそうじゃないか。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 15:36:16.90
>>160
元はウラルアルタイ語族の別民族なんだから、漢化できない部分も当然出てくるわな。

遼東郡漢人は漢服じゃなくて併合前の胡服のままだったんじゃないかな?
0163日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 15:48:37.04
>>140
こんな事言うやつ正気の沙汰じゃないな 自分で何も知らないと告白してるようなもんじゃないか?
秦軍に攻められ燕王喜が逃げ込んだのが遼東 
司馬仲達にせめられ公孫氏が逃げ込んだのが遼東

そもそも古代から山東半島と遼東半島は目の鼻の先 実際は小島を伝っていけば余裕で渡れた
遼東半島を支配していた公孫氏は山東半島の一部も支配していた 
0164日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 15:51:36.63
>>151
根拠なしに推定で主張しても、信憑性に欠けるけどな。
説としてはその他大勢の一つと位置付けられるよ。
機織物の機の字を一字でハタと読んでる例はないから、
機の字をハタと呼ぶのだとしたら、どうして機の字をハタと呼ぶことになったのか語源説明がいるよ。
ハタの言葉に機械を意味する語意がなけりゃならん。
しかし、そうした語源説明をみたことがない。
機織物のハタ(機)からそれを氏名(うじな)としたとは考えにくい。
逆じゃないか。秦氏が新しい織機を導入して独占的に絹織物を生産したことから、その織機で織った絹織物をハタ(秦)の織物と呼び、それに機織物の字を当てたのだろう。
それに、アヤは綾=柄・模様の意味で、漢氏が織る織物の模様が秀でていたのでアヤと呼ばれたとされているな。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 16:00:06.36
アヤは文のアヤだろ

若尾文子さんのアヤだよ
0166日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 16:18:16.61
>>163
知ってるけど何か?

燕王喜はすぐに秦軍に捕らえられて処刑されてるから遼東に定着してないね

公孫氏の地元は遼東なんだから、遼東に逃げるもクソもないだろ


バ カ 乙 !

.
0167日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 16:42:40.74
始皇帝の姓氏は、秦氏じゃないからな。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 17:01:55.33
>>148
新撰姓氏録が編纂されることになり、秦氏が祖先をはっきりさせる必要に迫られ、秦字にちなんで秦始皇帝の子孫であるとする始祖説話を考え出したとすることは考えられることである。
そして、秦字の由来はそのように処理できたが、一方、ハタの音の由来の説明に難儀したのではないか。
そこで、記録されていた弓月君の子の浦東(普洞)のホトゥ音がどこから出てきた名であるかについてストーリーを作ることになり、
ホトゥの発音と似た発音をする大和の高市郡波多郷を出自とする皇別波多氏から借用したとし、また弓月君が葛城襲津彦に率いられて渡来したことから、
弓月君が波多郷と隣接した葛城郡腋上の地に住んだとするストーリーを作った、と考えることができるのではないか。
そして、太秦に拠点を置く秦忌寸がその腋上秦(ハタ)氏の子孫であるとしたのではないだろうか。
これはまったくの想像であるので、根拠はないに等しいが、葛城郡腋上に秦氏がいたというデータがみられない以上、
葛城郡腋上の秦氏はこのときに作り出されたストーリーだとするのが理解しやすいのではないか。
太秦の秦忌寸は、深草の秦氏から別れた一族であるとするのが妥当だろう。
宗像からの交易ルートの京都側の最初の受け入れ拠点を開発するために太秦に移ったと考えるのがよいのではないか。
その時期は5世紀中頃ではないか。
深草には4世紀後半に秦氏が入り、深草では5世紀初頭頃から深草で前方後円墳がつくられ始めていることを考えると、
深草入植第2世代が太秦に移動したとかんがえるのがよいようだ。
このように考えれば、太秦の秦氏は大和の葛城から鴨氏とともに岡田に来て、それから太秦に移ったものだとする考え方は、
実は平安時代初頭の新撰姓氏録の頃に造られたストーリーに基づく説であり、実際には太秦の秦氏は深草の秦氏から出た一族だとするのがよいようにみえる。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 17:37:59.52
>>169
この太秦の地への秦氏の深草からの入植は、宗像からの渡来人や交易品の京都における受け入れ拠点を開発するためだったとすれば、葛野大堰築造が600年前後の時期になることは、なんら不都合ではないということができる。
そうすれば、太秦近くに5世紀後半から古墳が造られ始めることが理解しやすい。
また、600年頃に秦河勝が蜂岡寺を建てたとされることと同時期の葛野大堰建設とは矛盾しない。
その頃になって、嵯峨野の土地開発が始まったと考えればよいのであって、秦氏が太秦の地に入植した当初の目的とはまた別のことだとすればいいと思われる。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 18:07:33.43
>>170
まあ、相当強引ではあるが、秦氏のハタは皇別波多氏のハタの借用だとする説は、
そもそもが秦氏が自らのハタの音の説明のために祖先の弓月君が波多氏の波多郷に隣接した葛城の腋上の地に住んだと創作したことを元ネタにする説であり、
弓月君が腋上にいたとする具体的なデータがない以上、秦氏のハタが皇別波多氏のハタにちなむものであるとする説は根拠の薄いものであるとせざるを得ない。
むしろ、4世紀後半に深草に入植した弓月君の一族が秦酒公を名乗り、その一族から5世紀後半頃に太秦へ進出した者たちがいて、それが秦忌寸の先祖であり、
秦河勝はその太秦秦氏の6世紀後半の人物だとするのがよいように思える。
このように考えると、秦氏のハタ音は当初から弓月君の一族が名乗っていた氏名(うじな)であり、それは弓月君の子とされる浦東君のホトゥの音にちなむものだとするのが妥当ではないだろうか。
0172日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 18:19:05.62
>>165
若尾文子の文をアヤと読むのは、仮名文字が模様のようであるので、模様を表す綾(アヤ)から転化されて意味づけされたものだろう。
まず模様を表す綾(あや)があって、それから文に(あや)の読みができた。
漢氏が渡来した4世紀後半頃は、文の字にアヤの音はまだ付いていないのではないか。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:14:56.53
隋書倭国伝:隋書が完成したのは西暦650年代。
「翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、
百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(つしまこく?)(対馬)を経て大海に出、
東に一支国、竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、また東で秦王国へと至る。
その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」
 
つまり、飛鳥時代には、日本に秦氏がいた可能性が極めて高い。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:22:20.89
>>167
秦氏は始祖の弓月君が秦の始皇帝の子孫だとする系図を作っていて、自らの氏名(うじな)の秦字は始皇帝の秦帝国の秦にちなむものだとした。
しかし、これはルーツに箔をつけるためのものであって、秦字は実際には太秦の秦を採ったものだろう。
太秦は、古代中国でローマを表した大秦の字の大を太に改めたもので、秦氏の本拠地をローマにみたてたものだ。
そのローマのような大国を表した太秦の秦字を採ったのが秦氏の秦字だ。
どういうわけで古代中国では大きな秦をローマを表す文字としたのかというと、秦王という表現があり、この秦王の秦が国を意味したので大きな国の意味の大秦をローマに当てたものだ。
つまり、秦氏の秦の字は秦王の秦字であり、国を表していると考えるのが妥当。
なので、太秦の字は「大きな国」を表している。
この「大きな国」とは、実際にはエルサレムを意味しているとするのは、秦氏ユダヤ教徒説による主張となるが、今はそこまで踏み込まない。
秦氏の秦は太秦の秦を採ったものだな。
燕の秦氏や秦韓の秦ではないと考えられる。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:24:09.81
>>166
公孫氏は漢族だっつうの低能 お前こそ何が言いたいんだ? 知恵遅れかよ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:29:40.07
>>166
公孫氏は遼東太守な 遼東に定着してないってどういう意味? 公孫氏が何代岩渡支配してたとか分かってんのこのバカは
遼東太守という役名の人間がいたということは明らかに漢族の支配下だったって意味な

お前だけずば抜けてレベル低いから頼む バカは出てこないで 要らない人間だからお前はw
0178日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:43:00.75
>>174
この隋書の「秦王国」は秦王の国という意味で、秦王とは皇帝の臣下に国を与えて王とする侯国のことだ。
元々は、漢の皇帝が臣下に秦の領土の一部を与えて王扱いしたことから、その臣下を秦王と呼ぶようになり、その後臣下の諸侯に国を与えて王扱いするその国を秦王国と言うようになったもの。
国を与えられて王を名乗れるのは皇族に限られ、臣下の諸侯を王と呼ぶことはなかったものの、その原則を外れて臣下の諸侯に国を与えて王扱いすることはたまにあったそうだ。
というわけで、隋の使節団が報告した「秦王国」は、倭のこんなところにも皇帝の秦王国があるのだろうかと不審に思ったということに過ぎん。
秦氏とは何の関係もない。
隋の使節団が見たのは、太宰府の唐風の服を着て仕事する官吏たちだったということだろう。
秦氏自体は、5世紀にはすでに秦の字を氏名(うじな)にしていたのではないか。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:46:07.16
>>177
何だ、日本語も読めねえ中卒チンコロか(嘲笑

遼東に定着してねえのは秦軍にすぐに処刑された燕王喜だと書いてあるだろがカス

すぐに処刑されてるのにどうやって定着するんだよボケナス!

それと、公孫氏の地元は遼東なんだよ。

地元に逃げ込んでも意味ないだろがボケ



日 本 語 も 読 め ね え 中 卒 チ ン コ ロ 乙 !


.
0180日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:46:35.83
>>175
きみ、大丈夫かい?頭の中。。。
ウズマサを太秦という漢字をあてるようになったのは
秦氏の拠点だったからで
 
ウズマサの語源は、
雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が、
絹を「うず高く積んだ」ことから、
「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられたから。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:54:28.14
鹿児島県人のY染色体を大量に検査したら
島津氏、惟宗氏、秦氏のモノが分かる。
そこから、秦氏の出自が推測できるようになる。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 19:57:49.41
絹をうず高く積んだ事から考えてもハタは機織りのハタだろうね
0183日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:03:59.13
>>130
菜畑や板付出土の炭化籾にノギがついているのなら考えてもみるが、菜畑などの炭化籾にノギが付いてなかったら、縄文後期の土器の籾痕にノギがないから稲はなかったとは言えんからな。
はよ、菜畑の炭化籾にノギがついてるか確認しろよ。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:11:19.14
>>183
弥生から水稲栽培が始まったとするのはドグマであって、縄文晩期には水稲栽培は始まっており、縄文中期には陸稲栽培が始まっていた。
弥生から水稲栽培が始まったとするのは陰謀だ。
縄文人に水稲栽培の権利を認めないために仕組んだのが「弥生から水稲栽培が始まった」説だな。
神社の神主による陰謀だよ、陰謀。
0185日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:13:11.19
ユダヤ教ってどこにあったんだよ?

キチガイみたいなんいついたが?
0186日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:14:46.60
遺伝結果全否定〜、そいから宗教的ルーツもないわな(^O^)

バカのなったらよいな〜病やろこれ

ザコによくありがちな話やでな
0187日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:25:21.54
>>180
日本書紀のいつもの語源説明だよ。
信憑性はほとんどない。
ウズマサは秦氏がつけた地名。
そのウズマサを天皇に大量の供物を積み上げてみせたことからもらった号だというのは、
すでにあった地名が、秦氏が多数の渡来人を囲い込んだことを正当化するための話に用いられただけ。
日本書紀はよく読み込まないとね。
0188日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:29:02.58
>>183-184
自答自答って楽しいか?w


で、菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?



早く出せよバカ中卒の華南ウンコ色ブタチック 突顎 インドシナロピテクスくん
0189日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:36:04.93
>>185
千葉の芝山古墳の人物埴輪の中に混じっている帽子かぶって鬢長く伸ばして髭いっぱいたくわえた人物埴輪は、
今のユダヤ教徒の超正統派とおんなじ。
この人物埴輪と類似するものがオワケの鉄剣が出た埼玉行田の古墳からも出てくる。
これらの古墳は5世紀後半から6世紀後半に造られたものだ。
芝山へ行って、資料館のその埴輪を拝んで来いよ。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:37:18.02
日ユ同祖論みたいなトンデモ説から
いいかげん、卒業しよう。
バカにされるぞ、そのうち、世界中から。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:42:59.30
>>188
陰謀の尻馬に乗って、文化庁の提灯持ちするのは、絵にかいたような走り遣い。
はよ、菜畑の炭化稲籾のノギを持ってこい。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:44:09.63
>>190
イスラエルの秘密組織に狙われんなよ。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:52:24.21
>>182
間違い。
ハタ印の絹織物を新しい機械で織ったから、その機械で織った布を「秦の織物」と呼び、
その秦を機の字に置き換えたのが機織物の字。
機の字には、元々はハタの読み方はない。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 20:58:13.36
>>189
韓服に似てるよな。

帽子なんか特に。

https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFxnZRhew34Aqy6U3uV7;_ylu=X3oDMTBiZGdzYWtnBHZ0aWQDanBjMDAz?p=%E9%9F%93%E6%9C%8D++%E5%B8%BD%E5%AD%90&aq=-1&oq=&ei=UTF-8#mode%3Ddetail%26index%3D3%26st%3D0
0195日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:02:45.26
>>193
じゃあ服部のハタはどこから来たの?


はた織り部→はとり部→はっとり

.
0196日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:06:47.22
>>191


で、菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?



さっさと出せよバカ中卒のインドシナ華南ウンコ色ブタ広鼻 突顎 黒人形質原人くん
0197日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:08:36.98
>>189
千葉の芝山があるところを6世紀中頃から武社(むさ)国と呼んだが、
この武社(むさ)と武蔵(むさし)の(むさ)は同じだ。
この(むさ)は、トルコ語ではユダヤ人の指導者だったモーゼのことだ。
なんで、芝山や行田にユダヤ教徒の超正統派の姿をした人物埴輪があるのか、よ〜く考えてみたまえ。
答えは、おのずとジワァ〜と分かってくるからさ。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:09:04.44
>>187
21世紀に生きるお前のトンデモ説よりも、8世紀の知識で書かれた日本書紀のほうが
信用になるだろう。

>>192
それじゃ、おまえ、やっぱ日ユ同祖論がトンデモだって、内心は知っているんだな。
ちなみに、イスラエルでも大部分の人や正当な学会では
日ユ同祖論なんて相手にされていない。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:13:42.55
>>196
黒土遺跡の稲籾圧痕があるだろう。
これをノギがないから稲籾でないとイチャモンつけたのが文化庁。
そんなら、菜畑の炭化稲籾にノギがあるのかよ、という実に簡単な反論。
はよ、菜畑の炭化稲籾のノギ出してこいよ。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:14:50.72
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
0201日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:24:59.94
>>198
ウズマサのウズの解釈からして、日本書紀は間違っている。
ウズを「積む」意と考えているが、ウズは「積む」意ではなく「いっぱい」の意味だ。

日ユ同祖論だと言うたのは黄身であって、鷲じゃないからな。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:29:32.46
>>196
そんだけ長い徽章つけたら、さすがに元帥くらいだろうな。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 21:55:15.27
>>195
服部は元々は服織部で、のちに織の字が省略されて服部となった。
読み方は元々はハタオリべ。
それがべ音が落ちてハタオリとなり、さらにタとオが短縮してト音になったことから、
ハトリの読み方になったが、ハトリは言いにくいので、ハットリとハ音とト音を話すためのッが挿入されてハットリとなった。
これからすると、服部の服の字をハタと読んでいるのは、機をハタとよんだのと同じで、その着物の服地を独占的に生産しているのが秦氏だったので、
元々は秦織部(ハタオリべ)だったのだろう。秦氏が独占して服地を織ったので、
秦織部にその服の字を当てて服織部としたのではないか。そして、読み方は元のままのハタオリべの読み方をしたのだろう。
機にハタの読みが元々からあったのであれば、このハタオリべに機の字を当てて機織部→機部としてもいいばずだが、そうせずに服の字を当てて服部としているのは、機にハタの音がなかったことを示している。
要するに、ハタオリの元々の意味は、秦織りだったということだよ。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 22:40:31.11
>>198
日ユ同祖論なんて、いまどきムーくらいだろ。
一方、科学の世界では、ユダヤ人の一部のY-Eと日本人のDの類縁関係が割り出され、
人文科学の世界では千葉の芝山、埼玉の行田とユダヤ教徒の関係が明るみに出てきていて、
これが太秦の秦氏に大いに関連がありそうだという謎に迫りつつある。
科学だな、科学の世界だよ。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/10(金) 23:34:04.51
>>204
>一方、科学の世界では、ユダヤ人の一部のY-Eと日本人のDの類縁関係が割り出され、

はあ?おまえ、大丈夫か??似非科学だぞ、お前の解釈は。
類縁関係?
日本人のD系とユダヤ系のE系が同じYAP遺伝子と言っても
両者の分岐年代は6万年前だぞ。
それで同祖というのなら、イタリア人にもE系がいて、ユダヤとイタリアのほうがずっと同祖と言えるし、
ユダヤで多いのはJ系とR系で、古代のユダヤの主流派はJ系な。
中韓に多いO系とユダヤ主流のJ系の分岐年代4万年くらいだ。
 
つまり、日本人とユダヤ人の間よりも、
ユダヤ人と中国人・韓国人、ユダヤ人とアラブ人、ユダヤ人と欧州人の間のほうが
よほど同祖と言える。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 00:02:10.23
>>171
新撰姓氏録には、大和国に秦忌寸の名が見える。太秦公宿祢同祖としている。
この属性は山城国の秦忌寸と同じであり、山城国の秦忌寸も同じ太秦公宿祢同祖となっている。
山城の秦忌寸は深草の秦氏だとみられる。
また、摂津にも秦忌寸はいて、太秦公宿祢同祖としている。
同じ摂津には秦人の名の者がいて、これは秦忌寸同祖としているので、秦氏の支流とみられる。
河内にも秦姓の者がみえるが、同じく秦氏の支流のようだ。
こうしてみると、深草の秦忌寸と大和の秦忌寸、摂津の秦忌寸は太秦公宿祢と非常に近い秦氏のようだ。
この大和の秦忌寸を見落としていたことになる。
改めて考え直してみることにする。
0207日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 00:08:32.38
ガンダム・・・『サムライ トルーパー』?
0208日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 00:11:33.56
?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
このような話ばかりでしょ、設定、コンセプト?
0209日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 00:18:25.18
寒いな〜・・・、
この家の話なんだと言っているのに。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 00:19:24.49
>>205
ユダヤ人の一部のY−Eと日本のDは類縁だが、
同祖論をいうほど近くはないわ。
科学的にはDEから別れた類縁の遺伝子を持っていると言っていること。
一方、芝山の人物埴輪と関連があるかとするユダヤ教徒との間についても科学的に考えるべきだというとるわけ。
オカルトとは別よ。
黄身はオカルト好きらしく、えらく反応しとるじゃないか。
鷲はそんなオカルトとは無縁じや。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 00:34:56.10
>>206
この大和の秦忌寸は摂津の秦忌寸と同じく、後世に深草秦氏から大和へ移った秦氏とみるのがよいのではないか。
大和秦忌寸が弓月君の直系であれば、新撰姓氏録にはこの大和の秦忌寸の項に太秦公宿禰や深草の秦忌寸の系譜の記事が書かれているべきであるが、
その他の秦氏と変わらない簡単な記述しかない。
だだ支流の秦氏よりは太秦の秦氏に近い関係であったことが分かる。
なので、これまで考えて来た朝津間腋上の弓月君は秦氏の創作だとすることは変更しなくていいように思う。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 00:39:21.72
他のスレの話になるんだけど・・・低脳がいて、
何度、説明しても理解できないみたいだし。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 01:06:17.72
とあるスレw

eyes(アイズ、会津?)が、
何やらという話ばかりしている人もいたり。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 01:15:28.13
eyes・・・・・・・・・詳しいことはわからないけど、
いまの福島県のほうの話でしょ、老婆談も同じだしなw
0215日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 01:32:56.28
『サイバーパンクSPECIAL』

 なぜか・・・ほとんど同じw
0216日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 02:17:01.16
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0217日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 02:29:20.04
0218日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 04:13:19.18
>>211
掖上あたりに4世紀後半〜5世紀中頃までの古墳は見られない。
少し南に下ると5世紀初頭の大型の室宮山古墳があり、これは葛城襲津彦の墓ではないかとされている。
さらに、5世紀後半にも大型古墳が造られている。
4世紀末頃〜5世紀の古墳がみられるのは馬見古墳群で、これは掖上よりずっと北にあり、
葛城氏の初期の古墳群ではないかとされる。
金銀を大王に奉ったとされる弓月君が掖上にいたような痕跡はみられないのだ。
腋上の弓月君は、新撰姓氏録のために秦氏が創出したストーリーなのではないだろうか。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 10:31:59.43
遼東郡は山東省の名門・田氏なども大陸から移住し人口も増えていた 戦乱など生活の厳しさから逃れようと辺境に移動するのだな
だが続かなかった その漢族たちは大陸に戻れずどこに消えたのだ?
0220日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 12:02:51.15
  ク    ク   || プ  / ク   ク  || プ  //
  ス  ク ス _  | | │ //. ス ク ス _ | | │ //        ■■■■■■
  / ス   ─  | | ッ // /  ス   ─ | | ッ //       ..■;;       ■ 
  / _____  // /          //      .  iiii   ー'''' ''ー ii 
.  /   l⌒l l⌒l \  ))   ____           (6   \  /|
. / / ̄| ,=| |=、| ̄ヾ   / ____ヽ          〈___     | |  __〉   プヨ族は偉大ニダ
/ ̄/ ̄.  ー'●ー'  ̄l ̄ |  | /, −、, -、l  ))   ―-、ノ/ |   . ●● | <史料はないけど偉大ニダ  
| ̄l ̄ ̄  __ |.    ̄l ̄.| _| -| ,=|=、 ||      | -⊂)/ _\__ Д _ノ__   辰王は誇らしいニダ
|. ̄| ̄ ̄  `Y⌒l__ ̄ノ ̄ (6.   ー っ-´、}      |   |/  :::::: ≡ :::: (、  ヽ 実在は不明でも誇らしいニダ
ヽ  ヽ    人_(  ヾ    ヽ    `Y⌒l_ノ      ヽ  `\( .:::::: ≡ :::: |___| 馬韓は芝らしいニダ
  >〓〓〓〓〓〓-イ   /ヽ  人_(  ヽ      `− ´ ( .:::::: ≡ ::::.  |  | 下半身丸出しで囚人奴隷の如く
/   /  Θ  ヽ|  /    ̄ ̄ ̄ ヽ-イ          ( :::::: ≡ ::::::  (t  ) 礼俗を弁えなくても素晴らしいニダ
0221日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 12:38:25.50
秦氏の系図で、どのあたりから実在性あると思う?
0222日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 13:00:55.52
>>219
食えなくて消えていった、あるいは定着できず帰っていったとしか考えられないね

定着できたなら、中国大陸の中国陶磁器があるはずだからね

遼東は鬲一つ受け入れられていない
0223日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 13:16:28.63
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0224日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 13:54:46.05
>>221

23魔方(23mofang)が劉邦の可能性が
高いと思われるSNPを特定
劉邦の出土人骨が無い以上確実では無い
(漢王朝は約1800年前に滅び、その後も
中国では何度も異民族の王朝交代が
行われているし、当然劉邦の系図も無い)が、
今出来る限り最も信頼出来る共通祖先年代(TMRCA)から公平に導き出した結果は素直に認めたい。
https://www.23mofang.com/community/topics/parentage/5e1551d5900ad4000765cb39

参考文献
yfull及び23魔方がTMRCAを算出する基にする計算式(全配列データに基づくY染色体SNPの新しい速度定数の定義)
https://www.researchgate.net/publication/273773255_Defining_a_New_Rate_Constant_for_Y-Chromosome_SNPs_based_on_Full_Sequencing_Data
Y染色体の塩基置換突然変異率
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19716302

劉邦系図
https://i.imgur.com/c6lVsZP.jpg
yfull O-F155(CTS1304)
https://i.imgur.com/HaGFHLB.jpg

古代文献(伝承)を全否定するわけでは無いが、
東漢氏の出自についての信憑性は限りなく仮冒
(今現在日本人からO-F155のSNPは出ていない)
に近い。
漢氏の起源は、高祖劉邦の漢帝国を西暦二十五年
に再興した劉秀(光武帝)から九代目 の後漢霊帝と言われる。戦乱で朝鮮半島(帯方郡)へ逃れた漢王二十九代阿知王は、その 子都賀使王及び七姓氏・十七県人を率いて289年9月5日に備中国窪屋郡大倉谷に渡来 する。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 14:48:51.83
>後漢霊帝と言われる。戦乱で朝鮮半島(帯方郡)へ逃れた漢王二十九代


詐称詐称

そんな凄い人物がやって来といて、何で中国大陸の中国陶磁器が
遼東にも朝鮮半島にも一切伝わっていないのか?

単に中国大陸にルーツがない異民族漢人の遼東郡漢人なだけ
0226日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 16:19:57.29
>>221
秦氏の系図では、秦始皇帝関連の記述は箔付けで信憑性ない。
その秦始皇帝関連の中で、新撰姓氏録の中に融通王としているのは弓月君(ゆずき)の和訓の発音を漢名化したものであるので、
始皇帝血脈の融通王という人物は存在しないと思われる。
また、弓月君は秦氏の先祖の出身地方名であり、弓月君という人物は存在しない。
その弓月君の子に当たる位置に書かれている浦東君ほかの子の名は、秦氏の先祖やそのほかの氏族の渡来前の出身都市名であると思われるので、やはりこの浦東君などの名の人物は存在しない。
しかし、その都市から渡来した人物はいたと考えられ、その人物がどのような人物であるか系図以外の別の資料はないが、浦東から来た人物とつながる秦酒公がその渡来者であった可能性がある。
系図では、その秦酒公から5代目が秦河勝であるので、1代30年としても酒公から河勝まで120年くらいになり、その時代は5世紀後半に当たる。
しかし、秦河勝が日本書紀に登場するのは600年前後で、7世紀初頭前後の人物と考えられるので、酒公から河勝までの200年ほどを5代でつなぐのは無理であることを考えると、
弓月君の渡来が4世紀後半であり、それから5世紀後半くらいまでの100年ほどの間の3代くらいが秦酒公の名で語られていると考えるのがよいと思う。
このようにみると、系図の信憑性としては秦酒公の子と記される意美からが個人名として信頼できるのではないか。
まあ、4世紀後半に渡来したホータン出身者とその子、孫あたりの個人は酒公の名で総括されているということではないか。
いわば、武内宿祢が長い間生きていたように書かれているのと同じように考えるのが妥当ということになるね。


日本書紀の雄略天皇のときに酒公が登場するが、それは3代目の人物ではないか。
そのあと意美から丹照までの3代を経て6世紀後半の河勝の事態になる。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 16:34:16.77
東漢氏が漢王朝の劉氏の末裔かどうかは分からないけど
漢王朝の劉氏の末裔が朝鮮半島にいた記録はある。
何故なら、帯方郡の太守になっていたのが、
後漢皇室の庶流の劉マ、劉ムの親子だったから。
一応、東漢氏は、彼らの末裔だと主張している。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 17:40:32.88
秦氏のハタ音の由来として挙げられる宇佐八幡宮の幡(ハタ)由来、朝鮮半島蔚珍の波旦(パタン)由来、機織りの機(ハタ)由来、服部の(ハタ)由来、
皇別波多氏のハタ由来のいずれについても、秦氏のハタ音の由来とするには難があるようにみえる。
波多氏については可能性がないわけではないが、波多氏の祖の弓月君が葛城の掖上に住んだとする新撰姓氏録の記述だけに依拠するものであり、
これを補完するデータに乏しい。また、掖上弓月氏が太秦に移ったとする説についても、葛城円大臣が滅んだ時期と太秦地域の古墳造営の時期が同じであることに関連して、掖上から太秦への移動を仮説しているものであって、
その移動仮説を補完するデータに乏しい。
これは弓月君が掖上に住んだとする新撰姓氏録の記述に立脚するものであり、その記述が創出されたものであったら瓦解してしまう性質の説である。
先にも述べたように、弓月君が掖上に100年ほどのあいだ住んだことを裏付ける資料はみあたらず、姓氏録の記述が怪しいものとなってくる可能性が少なからずある。
このようにみると、弓月君が隣接していた波多氏からハタの氏名(うじな)を借用したとする説は信憑性が薄くなる。
したがってこれまで挙げられた各説のハタの由来は、いずれも肯首しがたいものといえる。
では、秦氏のハタ音は謎のままかということなるが、やはり秦氏系図からするとそこに手がかりはあり、系図の浦東君などの4君の名に手がかりを求めるのがよいようにみえるのだ。
その4君の名を改めて見てみることにしよう。(続く)
0229日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 18:54:52.15
中部、北陸方面への渡来者の入植は弥生時代から続いていたが、
大和政権は5世紀頃から増えた渡来人を関東方面へ入植させる政策を取った。
その渡来者の中に渡来ユダヤ教徒がいたことは、もう明らかだ。
前にも言ったが、千葉の芝山や埼玉行田の古墳とその出土物がそれを証明している。
この渡来ユダヤ教徒の関東入植を支援したのが太秦や深草の秦氏だ。
これは、オカルトでもなんでもない。歴史上の事実にすぎん。
その太秦の秦氏は、太秦をローマに匹敵する繁栄した国、エルサレムに例えたのも事実だ。
ここにくると、オカルト信者たちは急にざわめき始めるが、オカルトはまだ早い。
そして、その秦氏はトルコ語を話す中国西域ホータンからの渡来ユダヤ教徒を先祖に持ち、そのトルコ語は秦氏の交易路に沿って明確に残されている。
オカルト信者たちは、ここでオォ〜!とどよめくのがよい。
関東への交易路にある信濃の浅間山のアサマはトルコ語と和語のチャンポンで火の山という意味だ。
そして、このトルコ語のアサates(アティス=火)とよく似た発音の阿蘇(アソ)もトルコ語の火の意味である可能性が高い。
秦氏の話したトルコ語は交易路に沿ったあちこちに残っている。
これこそ、オカルト信者が夢想だにしなかった世界なのだ。
気絶せずによくよく考えてみるのがよい。
秦氏は渡来当初、トルコ語話者だったのだよ。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 19:41:16.27
>>227
その漢王朝の劉氏の末裔という部分からもう詐称だろうな。

元ウラルアルタイ語族の異民族漢人の遼東人は最初は中国大陸の王侯貴族の名前を
パクって自らを漢人風に名付けたはず。

異民族なんだから最初は漢字も漢人風の名前もないのだよ。

中国大陸の王侯貴族の名前をパクって自らを漢人風に名付けた訳だから、
当然ながらその中国大陸の王侯貴族の後裔を自称する事が流行ったに違いない。

楽浪郡、帯方郡の生活土器は中国大陸人が入植したにしてはあまりにも稚拙で、
中国陶磁器とは似ても似つかぬ、全然違った土器文化、全く別の土器文化が
伝わっている。

もちろんこれは遼東郡にも言える事だが。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 20:52:00.98
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0232日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 22:52:01.93
>>230
お前も妄想でわめき続けても誰にも相手にされてないっていい加減に気づけけや狂人
0233日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 22:54:50.87
>楽浪郡、帯方郡の生活土器は中国大陸人が入植したにしてはあまりにも稚拙で、

完全に病気ですね ていうかお前は大陸人が遼東を支配して他事実を認めたくないだけだろ
歴史的事実を完全に無視してるもんな 呆れるわ
0234日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 23:12:30.73
>>232=233
朝鮮煙幕チンコロだろ、おまえ


じゃあ楽浪土器&帯方土器と同期する中国大陸の中国陶磁器をその目でしっかり比べてみろやカス

全く違っていて、中国大陸人の入植なんか一切考えられないぞ

文章はウソや間違いや勘違いやデタラメだらけだが、
土器はウソを付かない
0235日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 23:18:24.16
西暦3世紀中ごろ、ちょうど魏志倭人伝の時代
帯方郡太守は、後漢皇室の皇別の劉氏だったから。
劉マ、劉ムと二代がそう。これは中国の文献に多く残っている。
東漢氏、坂上氏は、劉ムの孫の阿知使主を末裔だと自称している。
応神天皇の時代に阿知使主とともに日本に帰化した漢人に
七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)がいる。
だから、東漢氏、坂上氏が帯方郡にいた漢人の可能性は高いが
本当に後漢皇室の流れの劉氏の末裔かは分からない。
阿知使主(あちのおみ)って、和語の発音を漢字であてただけと思うが、本当の漢字名は何だったのか?
0236日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/11(土) 23:37:32.44
>>235
詐称としか考えられないよ

楽浪土器・帯方土器と同期する中国大陸の中国陶磁器をその目でしっかり比べてみろよ

三足もない、耳の付いた器形もない、原始青磁もない

中国大陸には7000年前からある皿(盤)という器種ですら、朝鮮半島に
お目見えするのは4C初頭だ

中国大陸の高度な中国陶磁器文明に浴していた文明人がこんな原始的な土器を
使う原始人になれるのか?
0237日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 00:24:14.63
>>236
こんなところ吠えたところで、
日本でも、中国でも、いや韓国でも
歴史教育では、楽浪郡、帯方郡の半島支配について
学習するよ。
楽浪郡、帯方郡を支配したとしても、現地にいた住民は半島原住民だし、
支配階級の漢人の遺物もちゃんと発掘される。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 04:03:00.15
   ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
   ┃ ▼よく分かるちょんこ半島の歴史
   ┃
   ┃有史以前 : 黒い山葡萄原人が生息。
   ┃2世紀 : 漢軍の駐屯地になる。
   ┃4世紀 : 日本の属国になる。
   ┃7世紀 : 唐の属国になる。
   ┃13世紀 : モンゴルの属国になる。
   ┃14世紀 : 再度中国(明)の属国になる。
   ┃17世紀 : 明が滅亡し、清の属国になる。
   ┃20世紀 前半 : 日本の属国になる。
   ┃20世紀 後半 : 北半分がソ連の、南半分がアメリカの属国になる。
       ∧_∧   。
      (  ´∀`) / <これでテストは満点        E[]ヨ
      (つ  つ      ━━━━━━━━━━━━━━━━
     | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
     |          |            
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| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
0239日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 09:40:47.67
残念!! 遼東でも中国系の土器が発見されまくってました

楽浪土器とは・・・

楽浪土器とは1)泥質灰色系胎土、2)滑石混和胎土、3)白色胎土に分かれる(谷 2002)。

1)白色胎土の楽浪土器は、山東東部の龍口市埠下王家村窯址などで生産されたものと同じ。
2)泥質灰色系胎土は漢王朝や戦国時代に遡る周王朝の製作伝統にある土器である。
3)白色胎土だけが土着の伝統的土器、いわゆる古朝鮮土器と言われるものである。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 10:56:17.63
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0241日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 15:11:05.63
>>239
楽浪土器と同期する中国大陸の中国陶磁器(すでに土器の時代ではない)は
大部分が原始青磁だぞカス

中国大陸から移植されるべきは原始青磁製法と登り窯のはず

ところが楽浪郡に移植されたのは原始的な瓦質土器製法とアナ窯だけ

中国大陸では楽浪郡が設置される1000年以上前から原始青磁の時代に入っており、
紀元前10世紀頃には早くも江南が原始青磁の一大生産地になっていた

戦国時代の中国大陸では原始青磁が全体の半分近くを占めていたのにもかかわらず、
遼東や朝鮮半島で磁器が生産されるのはその1000年以上あとの事だ


残 念 !
0242日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 15:12:37.47
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
0243日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 15:16:59.85
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0244日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 15:20:12.69
>>243
ほれ死ね詐欺流布チンコロw



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.
0245日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 16:11:59.36
>>228
渡来した弓月君の子として秦氏系図が挙げているのは、真徳(シントク)君、雲師(ウンシ)君、武良(ブリョ)君、浦東(ホトゥ)君の4人だ。
系図は、秦氏はこの4君のうちの浦東君の子孫だとしている。
弓月とは、中国史書では現在の新疆ウイグル自治区のタリム盆地外縁地方を指す言葉であるので、
4人の子の名はこの地方の都市名ではないかとみて、地図上にその名と重なる発音の都市を探すと、
次の都市名が子の名の発音と重なるのが分かる。
真徳(シントク)→トクス県
雲師(ウンシ)→雲宿鎮(ウンシュク)
武良(ブリョ)→烏魯却勒鎮(ウロキャクロク)
浦東(ホトゥ)→ホータン地区
この発音の類似は、確率的にみて有意性は非常に高いとみることができる。
しかも、これらの都市はばらばらに位置しているのではなく、タクラマカン砂漠のあるタリム盆地外縁をぐるりと巡る幹線の街道の上に立地している。
唯一、烏魯却勒鎮がその幹線の支線の街道の上にあるが、温宿鎮と近い距離にある。
そうすると、秦氏の先祖は、この系図ではホータン地区の出身だとすることができる。
このように、系図に挙げられている弓月君の子の名が実はオアシス都市の名だとすれば、
考えられることは弓月君とはそれらのオアシス都市から来た渡来者の一団の総称として用いられた名だということだ。
つまり、弓月君、浦東君などの個人名は存在せず、系図のこれらの名は出身地を記録したものだということになる。(続く)
0246日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 16:25:28.51
>>245
このようにみると、タリム盆地外縁地方のオアシス都市から渡来した渡来者の一団には、ホータン出身の秦氏の祖先のほかにも少なくとも3氏族の集団がいたということになる。
この秦氏の先祖も含む4氏族がすべて血縁関係のある集団であるのか、それとも血縁関係にない一団であるのかは、定かではない。
しかし、幹線の街道上にこれらの都市が立地していることからすると、何らかの連絡のあった者たちであるとみることも可能だ。
ここで、注意すべきなのは、このタリム盆地外縁地方は、4世紀頃にはチュルク系の高車と呼ばれる部族が支配的に存在していたことが知られていて、
これらの都市から渡来した集団はこのチュルク系の言葉を話していた可能性が高いということである。
また、チュルク系の言葉はこの地方より西方のカザフ平原でも一般的に話されていた言葉のようである。
こうしたことを前提とすれば、ホータン出身の秦氏の先祖がチュルク系の言葉を話す集団であったことは不思議ではなく、むしろ、ごく自然な当然のことだと思われるのだ。
そして、日本における秦氏の交易路の周辺をみると、そこにはトルコ語の発音とよく重なる発音の言葉がみられるということなのである。(続く)
0247日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 16:38:52.79
>>244

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0248日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 16:42:37.21
>>246
つまり、このトルコ語の発音と重なる言葉を集めると、どうやら旧約聖書の出エジプト記のエピソードやユダヤ民族が死海の西の土地に入るまでの旧約聖書の物語が浮かんでくるというわけだ。
それについては、おいおい話して行くことにしたい。
とにかく、秦氏系図が挙げている弓月君の子の名の発音はタリム盆地外縁地方のオアシス都市の名の発音とよく重なり、
その子の一人である秦氏の先祖の浦東君の発音であるホトゥはホータンの発音に極めてよく重なり、浦東のホトゥはホータンに比定することが可能であって、
秦氏一族はそのホータンから渡来した一族だとみなすことができるというわけだ。
この秦氏の先祖ホータン出身説は、なにもこの板だけの主張ではなく、各種ブログですでに主張されてきた説である。
さて、次から、秦氏に関わるトルコ語の真相を見て行くことにしよう。
わははははは。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 17:37:16.93
>>247
ほれ死ね詐欺流布チンコロw



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.
0250日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 17:58:25.75
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0251日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 18:01:00.83
>>248
書くのを忘れたが、これまで見て来たように、系図で秦氏の先祖とする浦東君のホトゥの発音はホータンの発音とよく重なるもので、他の子の名が同地方のオアシス都市の名の発音とかさなることからして、浦東のホトゥはホータンを表した字だと考えることができる。
そして、その浦東のホトゥの発音が秦氏の氏名(うじな)のハタの発音ともよく似ていることから、秦氏のハタの音は浦東君のホトゥの発音に由来するものであるとみなすことができそうだ。
可能性は低くないと思われる。
つまり、秦氏のハタとはホータンを表すホトゥ(浦東)を和語音としてさらに明確に発音してハタと変化したものと考えるのである。
秦氏のハタ音は、このホトゥ由来であるのはほぼ確かだろう。
朝鮮半島蔚珍の古碑にある波旦(パタン)がホータンを表していて、そのホータンを表す波旦がパタンと発音されるように、秦氏のハタはホトゥ(浦東)の音を和語発音で明確に発音してハタに変化したことは十分に考えられることだ。
そういうことだ。
わははははは。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 18:14:39.72
トンデモ流す奴が多くて、うざい。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 18:16:59.33
>>250
ほれ死ね詐欺流布チンコロw



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.
0254日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 21:08:06.70
おめーらは、秦氏系図の弓月君の子の名が何であるかま〜たくつかめなんだ抜け作どもだ。
鷲が初めてその正体を突き止めたのよ。
もう、残念がっても無駄。
その歴史的栄誉は、鷲のものなんよ。
あかべえだ。
わははははは。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 21:10:05.84
月を使うな普通なら月は湖を指すだ
0256日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 21:11:20.75
254
またハズレやろ
0257日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 21:22:35.79
そして、その秦氏がホータン由来のトルコ語話者だったことの解明に至っては、もう他の追随を許さん古代史の今年のヒットメーカーだよ。
まあ、去年からこのことは分かっていたことだがな。
秦氏の太秦(うずまさ)は、ユダヤ教徒の幕屋の意味だなんてことは、学者もこれっぽっちも気が付かなんなだ超絶真実なのだ。
こうしたユダヤ教徒はカザフ平原にはごく普通にいたんだがな。
日本は完全神道の国だからまちがってもユダヤ教徒はいなかったと考えるのは、水田稲作は弥生からとドグマを吹聴して縄文稲作などなかったとするヘボ学者と同じ。
日本の歴史は書き換えなくてはな。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 21:26:10.46
>>255
月の砂漠だよ♪
0259日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 21:33:11.31
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
0260日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 22:14:40.93
>>258
縄文末の前の4500年前に来て、オロォチ=大龍神を伝えてるよ。
縄文末に来たのは江蘇省あたりの海民だ。
彼らが伝えたのはオオヤマツミだ、オロォチじゃないわ。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 22:19:29.81
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0262日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 22:22:17.56
どちらにしろ、浅間(アサマ)はトルコ語の火を表すates(アティス)と和語の山を表す(マ)の複合語で、火の山の意味だ。
阿蘇(アソ)も同じ火の意味だろう。
まあ、アイヌ語かもなんて言っているうちは、だめ。
ちゃんと、秦氏のトルコ語を知らなければな。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 22:57:52.17
いや、そこは秦氏(トルコ)→和人→アイヌの伝播を主張しないと
0264日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 23:10:24.66
済州島には1万年前に九州縄文人が渡っており、7600年前には蔚山にも進出している。
この済州島の縄文人が8000年前に遼河に到達して、そこの先住人とともに生きていたフシがある。
したがって、6000年前の櫛目文土器が出た漢江上流のソウルあたりの遺跡は縄文人のものである可能性がある。
つまり、遼河が乾燥化で農耕が放棄され、遼河の住民がその他のモンゴル系、ツングース系と同じように南下するのは4500年前だから、
彼らの南下に押されて半島南端地方まで下った縄文人が、中国史書にみられる半島倭人のルーツだよ。
このモンゴル系やツングース系が南下する前は、半島には縄文人しか住んでいなかったというのが歴史の真実よ。
半島を縄文人から乗っ取ったのがモンゴル系やツングース系ということになるな。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 23:14:39.42
>>263
5世紀は、毛人=エミシだな。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 23:26:33.28
>>262
専門家じゃないから分からんけど、トルコ語の火は、
ates(アテッシュ)→ペルシャ語由来。
od(オド)→古代テュルク語のot由来。テュルク諸語もこっち。

アテッシュとアサは発音がかなり異なる。テュルク諸語のotの
方がむしろ近い。

>>264
自分もこの説にほぼ同意だが、支持者はあんまいなさそう。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/12(日) 23:28:12.68
>>260
んなコト言ってる頭のおかしな考古学者いねえ

八岐大蛇は大蛇だし、紀元後の話だバカ


>>264
7600年前に半島南部に渡った隆起文土器人は九州系じゃなくて済州島系なんだそうな

その時代の九州はすでに隆起文土器の時代は終焉していて次の段階の縄文土器の
時代に入っている

遼寧で隆起文土器が出土した話はないから考古立証できないね
0268日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 00:47:13.67
>>266
トルコ語のodの発音はオデ、カザフ語のotはオトか。
アサには近くないな。
やはりates(アティス)からティが脱落してアスとなったのだろう。
アサマのアサにはアスのほうが近いし、阿蘇のアソも同じだろう、火だ。

そもそも、1万年前の済州島に縄文人の遺跡があることすらあまり知られていない。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 00:50:52.58
龍神なんて伝承ないぞ日本

向こうから水墨画が伝わり広まったんだからな

虎も同じ
0270日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 01:02:35.90
>>266
確かに、トルコ語のates(火)に対応するペルシャ語はatash(火)だな。
ペルシャ語には火の意味でazarがある。
こちらがぴったりだ。ペルシャ語azarがトルコ語に入ったazar的な発音の言葉があったのかも知れん。
今のトルコ語に火を意味するazar的な語彙はないな。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 01:06:15.11
>>269
その龍は土器の絵の系統だよ。
その前に遼河人の移住で入っていたのがオロォチのロォ(龍)だろうな。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 01:32:47.09
>>270
トルコ語にペルシャ語のazar(アザ=火)の発音と同じazap(アザ=苦しめます)の語彙がある。
ペルシャ語のazarと関連あるかもな。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 01:38:14.04
あっそ(^O^)
0274日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 01:41:17.84
>>271
んなコト言ってる頭のおかしな考古学者いねえって言ってんだろバカ

遼河土器が日本のどこにあんだよ中卒!
0275日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 01:59:04.17
>>272
カザフ語にjagwの語彙があり、これは(燃やす、点火)の意味だ。
ペルシャ語のazar(火)のzar音とよく似ている。
語頭のa音が落ちただけで、ペルシャ語のazarと関連があるだろうな。
トルコ語にもペルシャ語のazar(火)関連の語彙があったはずだ。
また、キルギス語にはカザフ語のjagw(燃やす、点火)に対応するorttooの語彙がある。
これらをみると、チュルク系固有語にot(火)があり、外来語としてペルシャ由来のates(火)やjagw(燃やす・点火)などの語彙があるということになるな。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 02:05:08.42
>>274
対馬海峡渡るときに、水主から置いて行けといわれたと何度言えばいいのか、ホトトギス。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 02:51:35.79
浅間(あさま)、阿蘇(あそ)がトルコ語由来の火の意味だったら、日本の歴史変わるな。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 03:42:13.30
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0279日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 07:14:21.84
>>278
ほれ死ね詐欺流布チンコロw



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.
0280日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 14:48:02.23
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 14:56:02.60
>>274
あれ、曽畑式土器知らんのか。
0282日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 15:37:13.83
これまでのところ、秦氏のハタ音は中国西域の都市ホータン由来とするのがよいようにみえる。
秦氏系図では、渡来した弓月君の子である浦東君が秦酒公の親とされ、その浦東の発音のホトゥがホータンと極めて類似しているためだ。
そのホトゥをホータンと結び付けるのは、ホトゥの親とされる弓月君の弓月はタリム盆地外縁地方の中国語での呼び名であるので、
弓月を浦東君の出身地方とするのことに不都合がないからである。
そして、その弓月地方の最大の都市がホータンなのである。
このように、ホータンを表しているホトゥ(浦東)が秦氏のハタの由来であるとするのが、もっとも系図に忠実だといえる。
秦氏の系図には秦氏の先祖の出身地方名と出身都市名が記録されていると考えるのが妥当だ。
そして、そのホータンからの渡来者からおよそ3代の人物が秦酒公の名で総括されているとみれば、
600年前後の時期に活躍したとみられる秦河勝に系図は無理なく引き継がれる。
何代かの人物を一人の人物にまとめることは、日本書紀の武内宿祢の例にもみられる方法であるので、
秦氏の系図においてもそうした方法が取られているとみることに不都合はないだろう。
秦氏のハタ音の由来は、まあこのようなことだろうな。
わははははは。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 17:19:50.31
>>282
そして、このホータンあたりから西のカザフ平原に向かってはチュルク系の言葉が共通話語だったことからすると、
渡来した弓月君たちがトルコ語と重なる言葉を話していたとしても、何の不思議もないのだ。
このことと、朝鮮半島から日本の関東地方までを交易の舞台とした秦氏のその交易路の周辺でトルコ語と重なる地名がいくつも見られることは、
まったく不都合なく結びつくことなのである。
秦氏がトルコ語を話したとすることをオカルトと受け取る人士は、こうした中央アジアの歴史の知識がないための迷妄的誤解をしていると言える。
そんな程度では、この秦氏がギリシャ系改宗ユダヤ教徒だったといったら、もうのけぞって身悶えするのではなかろうか。
黄身たちがのけぞることは、鷲の本意ではないから、もうしばらく黄身たちが馴染までトルコ語の話だけにしておきたい。
わははははは。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 18:24:49.30
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0285日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 19:32:05.06
>>279さすがチョンコロ
文盲にも程があるだろ笑
まさに↓だな爆笑
 ___
‖    |
‖現実 ∧_∧  .ヘ,,∧
‖ \ ( ・∀・) <`Д●>  見えナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
 ___
‖    |
‖空気 ∧_∧  .ヘ,,∧
‖ \ ( ・∀・) <`Д●>  読めナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
 ___
‖    |
‖常識 ∧_∧  .ヘ,,∧
‖ \ ( ・∀・) <`Д●>  知らナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
 ___
‖    |
‖未来 ∧_∧  .ヘ,,∧
‖ \ ( ・∀・) <`Д●>  全くナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
 ___      人
‖    |     (_)
‖人糞 ∧_∧  (___)
‖ \ ( ・∀・) <`∀●>  目がナイニダ
|| ̄ ̄⊂   )  (   と)
凵    し`J   U U
0286日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 19:38:30.54
>>284
ほれ死ね詐欺流布チンコロw



今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。

紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。

こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。

http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


.
0287日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 19:53:13.08
>>281
曽畑式土器は曽畑式土器がメインの集落遺跡というものがなく、轟B式土器が
メインの集落遺跡で作られているから、渡来人によるものではなく、
轟B式土器人自身が朝鮮南部の櫛目文土器の影響を受けて作っていただけとの事。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 19:57:23.99
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 20:46:20.58
淤加美神(おかみのかみ)、または?神(おかみのかみ、Okami 10.5pt.png神)は、日本神話に登場する神である。

『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では?神と表記する。

日本の龍神だ
0290日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 21:12:51.40
>>289
大山祇の子分だな。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 21:31:13.94
>>287
そのあたりの話は皆知っている。
しかし、現物が渡っていないことには、真似のしようがない。
半島縄文人が持って渡ってきたか、九州縄文人が半島へ渡って持ち帰ったものか、いずれかだな。
とにかく、現物がないことには、話に聞いただけではそっくりには造れない。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 21:45:17.02
魏の帯方太守の劉夏。楽浪太守の劉茂の一族。
238年に劉夏は邪馬台国の女王卑弥呼が派遣した難升米一行を迎え入れて、洛陽まで同行。
  
魏の時代にも、楽浪郡や帯方郡の太守に劉氏がついていた。
その関係で、劉氏と日本との間に外交関係が出きていた。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 22:21:50.87
>>291
半島縄文人じゃなくて櫛目文土器人だろ?

櫛目文土器がメインの集落遺跡がないから、九州縄文人が半島へ渡って搬入を
含めて製法をパクったんだろうな

まあ、櫛目文土器人が渡来したなら、搬入土器なしで記憶からの再現でそのものが
作れるがな

ただ曽畑式土器はオリジナルの櫛目文土器とはかなり違った縄文土器の要素が
入った土器だから、やはり九州縄文人がパクっただけだろう
0294日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 22:30:49.41
なにがカザフ語だよ
0295日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 22:32:34.63
293
縄文人、ハプロD系統だぞ

それが答え

日本に4万年前からいる
0296日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 22:33:55.99
なにが半島縄文人だバカが

聞いていて呆れるわ
0297日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/13(月) 22:46:07.15
>>295
35000年くらい前な

ただ、そのDの旧石器人も半島から渡ってきた訳だが

つまり、半島もかつてはDだった訳だ
0298日本@名無史さん
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2020/01/14(火) 02:09:28.41
>>293
土器つくるのは女の仕事だった。
男が土器見て覚えて、海渡って縄文女にあれこれ言っても、うまく伝わらんだろう。
現物もってこんけりゃならんわけよ。
それに、現物持って来ても、女がそのままに造ってくれるか分からんよ。
土器づくりには模様などその部族の誇りが込められてるから、他所の模様はそう簡単に入れさせてくれん。
曽畑式がかなり縄文要素が入っているというのも、女らがそのままそっくり作れんと我を張った結果やろな。
そこをあれこれ機嫌とって折衷的なのを造らせたのかもな。
どっちにしろ、現物は必要よ。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 02:17:20.96
>>294
トルコ語もカザフ語もキルギス語も、みな近い親戚だよ。
otが証明してるがな。
しかし、浅間、阿蘇のアサ、アソは、ペルシャ語のazar(火)由来のトルコ語にあったそんな言葉から来ているはず。
浅間、阿蘇は元々の和語じゃないわ、そのままじゃ意味が分からんからな。
0300日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 02:38:55.57
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0301日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 02:40:41.29
>>298
搬入の話に話をすり替えて誤魔化してるだけの甚だ不自然な詭弁

じゃあ、何でマダガスカルの渡来人はスラウェシ系の土器を、ポリネシアの渡来人は
ラピタ土器という華南系の土器を作れてるの?

搬入じゃなくて記憶から再現しているだけの話だろがカス
0302日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 02:53:11.09
>>299
カザフ語にzhalyn(ザリン=炎)があり、
zhaghu(ザフ=点火、火を付ける)もあるから、
ペルシャ語のazar(アザル=火)とよく似ている。
ペルシャ語のazarのa音が落ちたのだろう。
a音が落ちる前のペルシャ語のazarとほとんど同じ語彙がトルコ語にあったはずだな。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 03:12:33.88
〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜

無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、チョンコは通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に松菊里型住居と名付けられました
板付遺跡の発掘調査は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され1980年から発掘調査を開始し、学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません

現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけで、恣意的に埋め戻したオクキョン遺跡など論外です

なお、現時点でソングンリ遺跡で水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンリ)里遺跡の「紀元前300年」頃です
また松菊里型住居とは床面中央に大きな柱穴があり、付随して小さな柱穴が相対する位置にある住居形式ですが、現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠の一つが北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリの住居跡には炉の形跡が一つもないこと、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなどです
 
これら客観的な科学検証に基づくと、3,000年前には水稲(水田による稲作)や竪穴式住居を完成させていた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
 
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように、馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます
0304日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 03:16:29.83
>>302
ペルシャ語のazar(アザ=火)がトルコ語に入ったあと、別のペルシャ語のatash(アタス=火)が入って来て、
トルコ語にates(アティス=火)として定着するとともに、元のazar(アザ=火)が駆逐された可能性がある。
一方、カザフ語にもペルシャ語のazar(アザ=火)が入ったが、発音の都合でa音が落ちてzhalyn(ザリン=炎)として残った。
秦氏のトルコ語には、この失われたazar(アザ=火)が生きていたのだろう。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 03:49:48.93
>>304
ペルシャ語のazar(アザル=火)やカザフ語のzhalyn(ザリン=炎)は、古代ペルシャのゾロアスター教と関係あるのかもな。
ゾロアスター教は火を神聖視した。
開祖のゾロアスターの綴りはzartoshtだそうだ。
このzar(ザラ)が神聖な火の代名詞となったのかもな。
カザフ語のzhalyn(ザリン=炎)は、このゾロアスター教に由来しているかも知れん。
とすると、ペルシャ語のazar(アザル=火)はa・zarで、aは強調音かもね。
そして、イスラム教が起こってゾロアスター教が追いやられると、トルコ語からもazar(火)の言葉が駆逐されたということが考えられるな。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 14:10:18.62
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
0308日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 15:14:47.69
>>306
このケースだけから、全ての土器は半分以上男が造っていたと断定するのは無理。
もっと調査範囲を広げるべき。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 15:20:10.62
土器なんか移住先に優れたものがあればそっち使うだけのこと とくに現地嫁をもらった場合はそうdすよね

料理を作るのは古代は女達だから
0310日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 15:20:49.24
女が使う土器を実家から持ってくる それだけの話なのよ
0311日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 15:51:34.00
>>305
パキスタンなどで公用語として用いられるウルドゥー語はヒンディー語系の言葉だが、このウルドゥー語のag(アー)は火の意味だ。
ヒンディー語では、火はaag(アーグ)。
そこで、ペルシャ語の火を表すazar(アザル)は、a・zar(ア=火・zar=ザラスシュトラのザラ)で、ゾロアスター教の火の意味かも知れない。
また、カザフ語やキルギス語の炎を表すzhalyn(ザリン)は、ヒンディー語系のa(火)の語彙が付かずに、ザラスシュトラのzal(ザラ)だけで火の意味を持たせた語彙であることが考えられる。
トルコ語にはペルシャ語由来のazar(アザル=火)があったのだろうな。
それが浅間(アサマ)のアサ(火)の由来だよ。
阿蘇のアソ音も同じで、火の意味だ。
0312日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 16:00:45.29
>>309
それが正解だな。
仮に、身ひとつでアメリカへ移住したと考えた場合、荷になる食器などは持って行かず、現地の宿で出された食器使うし、落ち着いたら現地の食器を購入するよな。
菜畑などに中国系の土器がみられないのは、これとおんなじだよ。
0313日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 16:14:14.04
>>308
考古学に全く向いていない中卒素人の詭弁

移住先の土器の方が優れているとどうやって分かったの?

何で分かったの?

実際にあちらの土器と使い比べなければ分からないはずだろ

で、劣っているなら、長い年月の中で徐々に使われなくってフェードアウトしていくはずだろ

その過程の痕跡が遺跡にガッツリ遺る訳だよ

その過程すらないのは、ただ単純に来てないだけ

詭弁乙、バカチンコロ
0314日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 16:27:29.42
>>312
バーカ

菜畑はそれまでの黒川式縄文土器を退けて渡来系の新型土器が山陰から伝わっているんだが

その渡来系の新型土器が中国陶磁器とも朝鮮土器とも違う土器で、その独特な文様が沿海州土器と一致する土器だった

渡来系の土器はガッツリ見られるんだよカス
0315日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 17:55:49.66
ホータンから渡来した弓月君たちのうち秦氏の先祖は宇治から深草へ移り、深草を拠点とした。
この深草は、宗像から続く山間の山陽道を経て亀岡から山城の向日に出る街道につながっており、
この深草からは近江を経て尾張につながる街道の要衝にある。
また、深草は淀川からの街道とも結ばれていて、秦氏の先祖が深草を拠点に選んだのは、
そうした交易上の利点を考えたことが理由にあったのだろう。
そこで、深草の秦氏が太秦の地にも拠点をもとめたのは、かなり早い時期ではなかったかと考えられる。
というのも、宗像からの山間の街道が亀岡を経て山城に出る要衝の向日には、秦氏より早く山城に進出していた氏族が拠点を築いていて、
宗像との交易路を自家の影響下に置きたい秦氏としては、この亀岡から向日を通るルートを避けて、
別のルートで亀岡に出る必要があったと推測できる。
そこで、太秦の地に拠点を置いて嵯峨野から桂川の街道を北へ進み、保津峡あたりで渡河して山越えで亀岡に出るルートを選んだのではないか。
この考えが妥当であれば、秦氏が嵯峨野の太秦の地に進出したのは嵯峨野の開発のためではなく、自家の影響下に置くことのできる交易ルートの確保のためだったということになる。
葛野大堰の設置が5世紀後半、あるいは6世紀後半と秦氏の深草への定着からかなり遅い時期となるのは、当初は嵯峨野の開発が秦氏の目的にはなかったためではないか。
このようなことが言えるとすれば、太秦(ウズマサ)という地名は、秦氏がこの嵯峨野の地へ拠点を置いた当初から名付けられたことが推測できるのである。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 18:46:34.66
日本人のD系統だけには海藻を消化する遺伝子を持ってんだってさ

他の人類遺伝子にはない日本人特有の遺伝子

つまり海中を漂う海藻を消化できる
0317日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 18:47:05.83
海流流れじゃないの?
0318日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 18:47:23.19
帯方郡、楽浪郡は、西暦313年に滅んだことになっているが
その後も5世紀初頭まで、半島南部に
帯方郡、楽浪郡の漢人による政権や都市が存在していて
彼らは大陸の東晋の元号を使用していた。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 18:59:43.21
元王侯クラスのチンコロが日本に来ていたのは間違いない
0320日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:05:48.56
元王侯クラスのチンコロのシンボルだった龍と鼎は?
0321日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:10:13.16
ハプロDってなら日本、アンダマン、チベットが有名やがそれぞれが分岐してから5万年だってだからね
0322日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:11:12.33
海を潜りながら海藻を食べながら泳いでこれるだ
0323日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:25:36.42
>>312
それが常識的な考え方というものですよね
そもそも古代の土器なんて重すぎる 船に乗せて持ち込もうなどと考えるわけない
持ち込むのは鏡とか祭祀に欠かせないのと武器 土器なんて作り方さへ分かってれば最悪自分らですぐ作れるから要らんし 
現地の在住してる人たちが売りにきたら買えばいいわけだしw
0324日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:27:37.38
>>320
チンコロ王の鏡がある
0325日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:27:50.57
>>314
太ったカバか。
縄文晩期中期の突帯文土器のルーツはロシア沿海州のシニ・ガイ文化にあるとする説は、仮説段階にすぎん。
しかも、その土器については「土器の突出した口縁部には刻み目がみられ」としてあり、この突出が粘土帯を巻いた突帯かどうかははっきりせん。
確かに、縄文の貝殻条痕のみられる黒川式の次の土器が突帯文土器だが、この突帯文がどこから現れたかはまだ分かっていない。
シニ・ガイの土器の突出口縁部が突帯なのかどうか、早よ、調べてこい。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:27:56.32
>>314
それ大陸系の器が日本に渡来するのと全く距離的に違うやん?
帯方郡を経由してきたとしてもだ
0327日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:32:25.78
>>321
チベット、アンダマンのDも、その昔、トバあたりから南下した者らだろう。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:39:00.93
ハプロD系統っていや日本、アンダマン、チベットが有名やね

それぞれの分岐が5万3000年前で日本人だけにあるんだってさ

生で食って多糖類にまで分解できるだ

つまり、、!
0329日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:41:01.09
>>318
その帯方・楽浪の流れ者が秦氏の先祖なら、先祖の名を浦東なんて漢名らしくない名は用いんだろうな。
ちゃんとした漢名使うはず。
それに、漢に滅ぼされた秦の字は御法度じゃないか?
0330日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 19:56:12.40
>>316
この海藻消化説はあやしいらしい。
元の論文はそんな内容ではないようだしな。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 20:36:21.95
>>323
またまた搬入の話に話をすり替えて誤魔化し乙

マダガスカル土器もラピタ土器も故郷の記憶からの再現土器だぞカス


>>325
下のリンクの36ページの

『図 28 ダリニー・クート 15 出土土器』

の14、15を見る限り突帯だな

菜畑の山ノ寺式は最古の弥生土器じゃなくて、すでに次の段階の弥生土器だぞ

最古の弥生土器であり刻目突帯文土器は島根山口広島岡山あたりから出土する前池式だぞ

だから菜畑の山ノ寺式は島根山口から入ってきたとしか考えられないね

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&;item_id=27596&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1
0332日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:15:10.40
>>297
Dが半島から渡ってきたことを示す遺跡・文物は?
0333日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:16:08.44
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
0334日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:19:17.28
>>316
性染色体は形質と関係ない
俺はO系だが形質の99.9%以上が日本人形質であり、当然ながら海藻消化も可能
0335日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:21:26.40
>>331
その渡来集団の勢力圏って
完全にスサノオの出雲やな
0336日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:35:12.47
3000年前に沿海州シニ・ガイ文化勢力が日本に渡来して出雲建国

日本に35000年前からいる土着勢力が国譲りを敢行→日本建国

超簡単に言ったらこんな感じか
0337日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:39:08.27
土着勢力に国という概念があったのかどうか?
0338日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:42:14.79
沖縄よりちょっと南の島に海底遺跡あるよ

完全に海の下にある人工的遺跡

あんなん使いこなせる種族って?
0339日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:42:36.65
う〜ん(╹◡╹)
0340日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:44:34.36
チベット一アンダマン一日本→そっから少ないがカムチャッカにまで広がってるんはいるんはいる(╹◡╹)

完全なる海洋族やな
0341日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:44:56.11
Dが35000年前に半島から?

10万年前〜12000年前まで(氷期)の陸地
https://i.imgur.com/PzDIWPH.png

白いところは全て陸地
日本海はほぼ巨大湖で
東シナ海の大陸棚は巨大平野でそのまま九州に繋がる

北から南下なら現在の朝鮮地域を通る必要が無い
日本海(湖)沿岸を通る方が楽

南から北上でも現在の朝鮮地域を通る必要が無い
東シナ海の大陸棚は巨大平野で九州にそのまま繋がるから
0342日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:45:26.94
ただ、前池式が出雲あたりから広がっていった事だけは確か
0343日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 21:49:48.54
>>337
神話では、国を作ったのは出雲、それに対して国譲りを敢行して日本建国
約3000年前に沿海州シニ・ガイ文化勢力が日本に渡来して国と言う概念を齎した
と考えられる
0344日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 22:26:29.50
3000年前
島根県・沿海州シニ・ガイ文化勢力が渡来
山形県・三崎山遺跡の青銅刀(中国の商(殷)時代の青銅器と同じ鉛)
福岡県・曲り田遺跡の鉄器(中国 ・楚系の鉄) 日本に到達したアイアンロード(南部ルート)の終着点

シニガイ文化は弥生土器と青銅器のセット
3000年前に西から来た鉄器集団と交戦して負けて日本に来た
弥生土器と青銅器を齎して国を作った

アイアンロードの北部ルートはそこで止まったが
南部ルートで楚の鉄が福岡県に伝来
35000年前からいる土着勢力が鉄器を用いて国譲りを迫って日本建国
0345日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 22:28:56.10
櫛目文土器はハプログループN (Y染色体)が担い手である。
沿海州南西部も古くは遼河文明圏であり、遼河人(北部モンゴロイド)由来のハプログループN(Y染色体)が高頻度であったと考えられるが、
中国江南より無文土器を携えたハプログループO1b2 (Y染色体)がやってくるなり、父系(Y染色体)がNからO1b2に置き換わったと考えられる。
一方の母系(mtDNA)(およびおそらく殆どの核DNA)は遼河人起源のまま保たれ、
江南起源Y染色体O1b2-遼河人起源のmtDNA・核DNAのセットが沿海州南西部から主に西日本の日本海側に弥生人として渡来したと考えられる。
これが土井ヶ浜遺跡などの弥生人が北方系の形態を持つにもかかわらず、Y染色体のみが南方系である所以である。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/14(火) 22:55:57.36
>>345
青銅器が作れるようになったのはBC2Cの話だぞ

中国江南から無文土器が伝わっといて、何で無文土器に中国土器の三足や耳が付いた器種器形がない?

江南には7000年前からある皿も甑も釜も竈もないんだぞボケナス

そんな星占いよりも当たらねえゴミ指標捨てろ!
0347日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 13:57:26.06
欽明天皇のときに、深草の秦大津父が馬をともなって伊勢に行った。
その帰りに二匹の狼が争っているのを見て争いをやめさせた、という話が日本書紀に出ている。
大津父が馬をともなって伊勢に行ったのは、商いのためだったと考えられている。
馬をともなっていたのは荷を運んで行ったのか、荷を買い入れて馬に運ばせたのかいずれか分からないが、
馬は一匹ではなかっただろう。かなりの頭数をそろえて行ったのではないか。
伊勢は、鳥羽から伊良湖岬へ海を渡り東国と交易し、人が往来する拠点であった。
また、志摩の海産物を都へ運ぶための交通の要衝でもあった。
大津父が伊勢へ馬の隊商を組んで行ったのは、そうした物資の商取引の仕事をするためだったと考えることができる。
しかし、こうした物資の集まるその伊勢の名の意味が、よく分からないのである。
秦氏がからむケースでは、とにかく秦氏のトルコ語に当たってみるべきなのが鉄則だ。
そこで、トルコ語ではどうか。

伊勢(イセ)
トルコ語 ise(イシェ)=仕事に、ビジネスに

is(イシュ)は仕事、ビジネスの意味で、仕事に行くはise git(イシェ・ギッ)となる。
稼業はisgal(イシカイ)、取引はislem(イシラム)などだ。
このise(イシェ=仕事に、ビジネスに)は、まさに大津父が馬を引き連れて伊勢に行った目的そのものと言える。
天照大神のいる伊勢は、トルコ語ise(仕事に、ビジネスに)に限りなく近いのだ。
わははははは。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 14:17:23.26
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0349日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 14:17:49.09
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 14:50:42.55
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| 1.追撃論破 ▽                            |
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| 3.人糞付与                               |
| 4.罵声投入                               |
| 5.指差爆笑                               |
\_________________________/
0351日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 18:51:49.38
>>347
さすがにコイツはアホすぎる 伊勢=伊氏の勢力圏、伊氏の領土というだけの話だぞ妄想キチガイ
0353日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 20:40:47.86
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0354日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 20:43:00.86
>>351
どうだ、のけぞったか。
伊勢とは伊氏の勢力圏だとよ。
笑っちゃうわ。
伊氏なんておらへん。
妄想全開やな。
伊勢は、秦氏のトルコ語ise(イセ=仕事に、ビジネスに)だよ。
日本書紀がなんでわざわざ秦氏と伊勢の関わりを持ち出したと思うてるのよ。
秦氏が東国への物資集散拠点である伊勢に深く関わっていたことを示しているのだ。
で、大津父が奥さんに「ise gidecegim(仕事にいってくるさかいに)」と告げたことから、それがise=伊勢になったのよ。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 20:43:23.61
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 20:44:43.62
韓奴(爆笑)
0357日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 20:53:33.87
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

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0358日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 20:54:05.19
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 20:59:19.13
>>354
雄略天皇のときに、腕のいい大工の闘鶏御田なる者を秦酒公が助ける話が、日本書紀に書かれている。
この話では伊勢の采女が登場する。
なぜ伊勢の采女なのか。
やはり秦氏と伊勢の関わりが深かったためだろう。
伊勢に商いに行っていたのは秦大津父だけでなく、秦氏全体が伊勢に利害を持っていたということだな。
伊勢は、ise(仕事に、ビジネスに)だよ。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 21:58:00.90
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| 2. AA追加                                |
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\_________________________/
0361日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 23:19:53.00
草莽には分からんだろうな。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 23:38:48.32
>>354
紀伊半島とか「伊」が入った地名なんか日本には山ほどあるわこの低能 豪族の一族名だよ 「紀氏」が存在するのと同じなマジキチ野郎
0363日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 23:40:06.80
>>354
お前が知らないだけで日本の歴史上「伊氏」は存在してるよバカ低能 
0364日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 23:41:03.35
>>359
アホの妄想 お前十年ぐらい言ってるのかそれ?
 誰にも相手にされてないって気づけやキチガイ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/15(水) 23:44:56.65
なんなら「伊」姓は、漢人の姓として大陸や半島に存在していることも指摘しといてやろう
そして日本の歴史上、伊姓を名乗った人物も存在する

お前のトルコ語では〜は何の証拠もない、ただの妄想だがな 低劣な妄想を振り回す迷惑な低能クソアホが 消えろ
0366日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 00:13:52.27
>>365
奈良時代までに伊を名乗った氏族なんておらん。
そもそも伊をなんて読んだのよ?
妄想もいいかげんにせんとな。
中国や半島のことは知らんがな。
0367日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 00:15:36.84
>>364
んなら、おめが伊勢の意味を解説してみろや。
できゃせんのに、大きな口たたくでねえ。
0368日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 00:25:06.17
>>362
アホぉ!
伊氏の勢力圏の伊氏がどこにいたというの。
しかも、おめは、この伊氏を何て読むの。
まさか仕事氏じゃあんめ。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 00:36:03.52
>>362
その伊氏の系図出せや、ボケ。
紀氏の紀は、元々は木(きい)じゃ。
紀伊の字にしたのは格好つけただけなんよ。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 07:44:50.10
楽浪郡、帯方郡が崩壊したのが西暦4世紀前半。
その後も西暦5世紀前半までは半島南部には
漢人政権や漢人都市国家が継続して、彼らは大陸の王朝の元号使ってた。
その西暦5世紀前半ごろに秦氏や東漢氏が日本へ移民してきた。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 10:39:32.54
ほとんど渡来人の話だと言っているんだよ、
嫌なら刑務所にでも行け。あと精神病院というのもあるから。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 12:39:14.19
>>369
> 紀氏の紀は、元々は木(きい)じゃ。
それもお前の勝手な決めつけであって「紀氏」だって大陸の名前で春秋時代から存在した
お前は馬鹿だから妄想で決めつけて話が迷惑極まりない

お前がトルコ語が語源であるという根拠の文献を出せば?w 出来るの低能ちゃん
0374日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 12:56:25.50
天孫〜何やらとか、どこの池沼なんだ?
ドラえもんの話?精神病院に行ったほうが良いぞ。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 12:58:16.57
『精神病院』に行けと言っているんだよ、わからないのか?
0376日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 13:01:07.72
これは他のスレにも書いていることなんだけど、
お前の名前は?そこの池沼に言っているんだよ。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 13:12:51.56
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
0378日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 13:17:18.17
ドラえもんの話?低脳なんだろう?
説明すると、頭が悪いという意味。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 15:17:07.04
チョンコ精神崩壊w
0380日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 15:21:34.53
>>372
アホじゃね。
だから、早く伊氏の系図出せというとるのよ。
大陸にあるという宗族伊氏や紀氏と紀国の紀氏がつながる根拠をしめしてから言え。

早よ、伊勢に伊氏がいた証拠だすんだヨ。
どんだけか、鷲のise説のほうがまともか分かるからな。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 15:24:29.59
>>370
3行目と4行目が飛躍しすぎ。
妄想、オカルトの部類じゃ。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 15:42:04.32
どこの基地外なのか知らないけど、お前の名前は?
0383日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 15:43:12.47
>>372
しかし、中国に紀姓があることと、日本にも紀姓があることを、血脈としてひとつながりだと根拠もしめさんと主張するようなアホはどの板に行ってもみられるが、
おめもそれらと同じ短絡人間だということを示しておる。
しょうもねえ輩だわ。
一応まともな者なら、嘘でもそのつながりを示してからトンデモ説を吐く。
しかし、おめに至っては何の根拠も示さんと、「中国に紀姓がある、日本にも紀姓がある、これらは一つの血脈だ」というんだから、笑っちゃう。
早よ、根拠示せ。
アホぉ〜!
0384日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 15:43:32.50
なぜ基地外だと言われているのか、わからないんだろう?
誰の真似をしているのか知らないけどwwwwwwww

何やらなのじゃ?
0385日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 15:47:31.54
>>382
アホか。
ひとの名を聞く前に、自分の名を名乗るのがルールじゃ。
ひとの名は聞くが、自分は名乗らんアホ。
ええかげんにせえ。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 15:48:42.56
基地外、精神病院に行けと言っているんだよ。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 16:01:37.79
>>372
伊勢がトルコ語ise由来であるのは、伊勢と秦氏は深く関わってるのが根拠よ。
その秦氏がトルコ語を話していたことを示す例は多数ある。
京都太秦から続く交易路の要衝には、トルコ語の発音と重なる地名などが多数みられるわけよ。
ここから帰納して、秦氏はトルコ語を話す渡来人だったと言ってるのじゃ。
おめも、伊氏が伊勢にいたという根拠を早よ示せ。
アホぉ〜!
0388日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 16:21:18.13
>>387
まあ、AとBをつなぐ直接の根拠もなく、AとBは同じ系統だと主張するには、多数の同系を示す例を挙げる必要があり、
学者らは皆、この点で死に物狂いの研究をしているわけじゃよ。
それを、おめみたいなアホは思い込みだけで胸張る始末だから、どうしようもない。
おめみたいな思い込みだけで一つの説を主張できるのなら、世話ない。
ただし、それでは誰も認めん。
世間は、それを独りよがりというわけよ。

中国の紀氏と日本の紀氏が一つの血脈だと、早よ根拠示せ、アホバカヒョットコチョーチンが〜!!!
0389日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 16:25:02.80
まあ、トルコ語のiseが伊勢の元だけどな。
わははははは。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 16:56:20.70
>>370
秦氏が帰化したのは4C後半な

楽浪郡、帯方郡は半島北部だぞ

帯方郡は楽浪郡遺跡の少し南の沙里院にある唐土城遺跡だよ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 17:16:54.71
楽浪郡・帯方郡は高句麗領内にある訳だから、楽浪郡・帯方郡が滅んだとき、
その多くは百済に亡命したんだろうな。

でないと、阿直岐も王仁も漢氏も倭に来れないからな。 

もちろん楽浪郡・帯方郡に残って、楽浪郡・帯方郡を復活させようと頑張っていた
楽浪郡・帯方郡漢人も5C頃までいた訳だが。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 17:21:51.33
>>389
こいつホント言葉遊びだけのアホで幼稚だな
伊勢みたいな海人族系の大勢力が集まってるとこでそんなトルコ語が〜なんて奴らが入ってくる余地あるわけ無いだろアホ低能
0393日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 17:23:31.49
>>388
おいおいキチガイよ お前が示せよ紀氏が木氏の根拠をw
伊なんて姓は日本に存在しないとか言ってた何も知らない馬鹿よ
0394日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 17:34:27.81
>>389
じゃあヤマトのヤマはインドのヤマが元な
0395日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 17:57:19.15
>>389
伊勢はトルコ語のis sehir(イス・セヒル)の短縮かもな。
is sehir(イス・セヒル)は、ビジネスの街の意だ。
伊勢は、東国や志摩からの物産、また都からの物産の集散地だからな。
取引の街というわけだ。
ise(イセ=仕事へ、ビジネスへ)よりも、is sehir(イス・セヒル=ビジネスの街)のほうがそれらしいな。
わははははは。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 18:29:16.34
>>390
楽浪郡は現在の平壌、帯方郡は現在のソウルのあたりだよ。

西暦4世紀前半、帯方郡や楽浪郡が崩壊したあとに
半島南部に漢人が逃げ込んでいて、
いくつかの漢人政権や漢人都市国家が出来て
100年位続いていて、大陸本土と連絡とっていった。
それも5世紀前半以降は百済に吸収されていった。
このへんは記録にも残っている。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 18:41:45.42
>>396
むかしは帯方郡はソウルあたりだと思っていたが、ソウルは当時の考古文物が
何にも出土しないんだよ

沙里院の唐土城遺跡は当時の考古文物が出土しているのはもちろん、
帯方太守 張撫夷塼と刻まれた塼槨墓が出土したのが決定的証拠だよ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 18:51:33.59
394
うん

日本語と共通なんインドのタミル語とかそんなんが近い

チベット語はあれ文法を解析したら支那語と共通祖先から枝分かれ
0399日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 18:52:46.13
チベット語を話す支那人らと共通祖先から枝分かれした連中らの中に日本人らと共通祖先を持つ連中らが混じってる

これが正解
0400日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 19:07:17.52
>>392
伊勢に前方後円墳があるだろ。
伝承にも、先住の勢力が追い出されたとされる。
松阪にも大和あたりから進出した氏族が前方後円墳を造っている。
伊勢の前方後円墳と同じ時期の造営だ。
大和の勢力がどっと進出したのよ。
その大和の勢力の後ろ盾に秦氏がいて、伊勢の商取引に参入していたわけだ。
その商取引が行われる街を秦氏がイス・セヒルと呼び、その短縮形のイセの呼称が大和で定着して、そのイセが伊勢の名になったのよ。
歴史をちゃんと知ろうよな。
勉強したまえ。


歴史のこと何も知らんと罵詈雑言を
0401日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 19:18:11.83
>>394
つくづく、アホやなぁ。
山は八間だ。
広い空間という意味やな。
谷の上の広い空間を八間と言い、それがその空間の両脇の岡を呼ぶ名に変わった。
それがヤマ(山)の語源やぞ。
なにがインド語や。
根拠示せ。
アホ〜!
0402日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 19:42:22.42
>>397
会稽郡の太守を務めた曹氏の墓が、安徽省亳県でみつかっている。
曹氏一族の墓域にある。
会稽太守を務めたあと役を退いて故郷の墓に葬られたわけだ。
帯方郡太守を務めた張撫夷についても同様に考えて、
帯方郡太守を退いたあと住んだ沙里院近くの地に葬られたと考えることが可能だ。
なので、帯方郡は沙里院とは別のところにあったことも考えられる。
この張撫夷の墓のレンガ文字が、帯方郡が沙里院にあったことを示す決め手にはならんな。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 20:20:17.67
日本に渡ってきた説がデマなん分かるだよ
0404日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 20:22:36.31
そんな高貴な連中らは地元に墓を備えている

日本に逃れたなんて話自体がデマだよ

向こうで隠しになってるだろ墓場域

見つからないよ〜に隠しになってるわけさ
0405日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 20:39:19.64
>>402
勤務地からはるか遠方に葬られるより、勤務地の近隣に葬られる方が
はるかに多い訳だし、韓国内の遺構からは当時の文物の出土がない

帯方太守 張撫夷塼と刻まれた塼槨墓の出土が決定的証拠である事には変わりない
0406日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 20:40:14.83
>>402
この墓のレンガには漁陽張撫夷と書いたものも出ているそうだ。
漁陽は今の北京の地だというから、帯方郡太守を務めた張撫夷はその漁陽の出身で、太守の役目を退いたあと、沙里院に住んでそこで死んだことから、墓が沙沙里院の近くに造られたとすることが可能だ。
なので、この帯方郡太守張撫夷のレンガから帯方郡は沙里院だったと確定できることにはならんはということになるな。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 20:54:58.71
>>406
402の論理だと漁陽に葬られなきゃおかしいだろ

沙里院に葬られたのは勤務地が近隣にあったからに他ならない
0409日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 20:55:46.85
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
0410日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 21:04:29.39
>>395
おいアホ はよ紀氏が木氏っていうお前の根拠教えてくれや 自称研究者の低能ちゃんwww
0411日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 21:32:39.86
>>393
伊の姓が奈良時代以前にあるのなら、早よ挙げてみろ。
チョンマゲだろ。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 21:35:19.93
>>410
アホぉ!
中国の紀、伊と日本の紀、伊が血脈でつながっとる証拠、早よ出さんか、ボケ。
おめが先に出せ、アホ。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 21:36:40.68
>>410
鷲は研究者やないぞ。
単なる素人じゃ、ボケ。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 21:39:22.18
>>407
うん、いいとこ突いたな。
三国志に出でくる帯方郡太守は、だいたい赴任してきてるわな。
あんた、偉い。
沙里院の線はないな。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 21:43:00.88
>>408
漁陽に葬られなかったのは、何かの理由があってのことだろう。
皆がみな、故郷に葬られたとは限らんだろうからな。
何かの事情があって、漁陽には帰らなかったということでOK。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 21:51:34.91
>>410
和銅6年に、国名に良字を使うようにとの取り決めがあり、紀伊国はその時に改められたとされとる。
紀はあとから付けたのよ。
中国の紀氏となんの関係もあらへんわ。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 22:01:47.93
>>410
ウィキみてみろ。
7世紀初頭に国名がつけられたときは木国だったと出てるわ。
これを紀伊国と良字に変えたということやから、元の木国は(きいの国)と読んでいたことになるわな。
おめは、早よ、伊氏が奈良時代以前にいたという証拠だせよ。
ほん、うそっぱち言う奴や。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 22:13:13.15
帯方郡はソウルに隣接する地域だろう。
漢江の北部に帯方郡あったと思われる。
元々は楽浪郡だった地域を
版図を拡大させるにあたって、
楽浪郡の一部を分割、新たに広げた版図と合併して
新たに帯方郡を設置したんだろう。
0419日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 22:15:50.21
帯方郡にいた漢人の役人は、
中国に帰郷できたものも多かっただろうが
一部は、そもまま半島南部へ難民化して
そこで新たに漢人政権や漢人都市国家を作ったことが
実際に資料残っている。
その中の一部が日本へ亡命。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 22:36:57.92
>>405
沙里院から出る文物が帯方郡に関係するものかどうか、確定的な出土物はないようだ。
近くに楽浪郡庁(平壌)があるわけだし、その出先が沙里院にあったのかも知れん。
出土物はそうした関連の可能性も捨てきれんし。
0421日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 22:51:22.93
伊勢の元は、秦氏のトルコ語is sehir(イス・セヒル=ビジネスの街)の短縮形(イス・セヒル)のイセだよ。
日本書紀には、秦氏と伊勢のつながりを示すエピソードがよく登場する。
相当、伊勢は秦氏とつながりがあったのだろう。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 22:57:47.49
>>419
亡命はもっとずっと後の白村江の百済滅亡時だろ

秦氏はもちろん、楽浪郡帯方郡漢人の後裔の漢氏も文氏も天皇の要請で招聘したんだよ

王仁博士もな


>>420
沙里院は当時の瓦が出土してるだろ

当時の役所があった証拠だよ

帯方郡じゃないとして、何でそんなところに役所があったのか
説明できないね
0424日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 23:09:30.04
>>423
いずれにせよ、まともな考古学証拠があるのは沙里院の唐土城遺跡だけ
0425日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/16(木) 23:59:52.85
チべット族が敬意をしめすときに捧げる薄絹のカタが中国語でハタ(哈達)
チベット系ペー族(白族)が崇拝する本主がウズ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 00:02:21.61
伊勢は五十瀬
0427日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 00:07:52.32
南伊勢の阿曽浦の案内板では「アソという地名の原義は『水の浅い所、湿地』
0428日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 00:29:07.88
>>422
塼室墓の塼はレンガことで、屋根を葺く瓦のことじゃないよ。
棺を入れる墓室をレンガで造っているいるもの。
このレンガに文字を書いたりして経歴を示したりするわけ。
屋根瓦を使うわけじゃないからね。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 00:46:58.27
沙里院は瓦も出てるぞ
0430日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 00:50:45.25
>>426
後撰和歌集の伊勢は人の名。
五十瀬は、(いそせ)の読みを(いせ)と短縮しているだけ。
多くの瀬の意味。
五十瀬は伊勢国の伊勢のことではない。

提出文は、突き返し相当。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 00:51:50.29
>>429
家があれば、瓦くらい出るさ。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 00:54:21.10
>>427
そりゃ、アサイ(浅い)のアサが訛ってアソになったのじゃろ。
火山の阿蘇とは別よ。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 01:11:34.42
その説も信憑性があるわけじゃないからなあ
0434日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 01:25:52.90
火山にだけペルシャ語のazar(アザル=火)を使って
火のことをアサと呼ばないのはおかしい
0435日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 01:40:56.10
>>425
チベット文化圏では、心からの敬意を表すための贈り物にカターがあるという。
薄い絹などで作られた細長い布だ。
そのカターは、カ=口、ター=布(あるいは印)の意味だ。
秦氏のハタ音とこのカターを結びつけるには、それなりの根拠が必要だ。
音が似ていると言うだけじゃ、ハトでも真似できる。

また、チベット語のウズは頭、頭目の意味だ。
これは和語としては渦巻(ウズマキ)のウズと音が類似する。
渦巻の元々の語彙は、頭の旋毛(つむじ)から出たものかも知れん。
頭の頭頂部では毛が巻いているが、頭=ウズだとしたら、その頭(ウズ)の頭頂部の巻き毛がウズマキということになるからな。
この頭頂部の巻き毛がウズマキかもな。それが潮や川の流れの渦巻の呼称になったことが考えられる。
しかし、秦氏のウズマサとは関係ない。
日本書紀で秦氏がウズマサの名を貰うシーンがあるが、その場面のウズマサの言葉と頭(ウズ)とはまったくつながらんからだ。

出直してよく考えてくるのが似合いだ。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 01:45:06.79
ホータンは音が似てるだけだろ
0437日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 01:50:03.35
>>434
一般に言う火(ヒ)は伝統があって変わりにくい。
宗教がらみだし、女が火を扱うのが日常だから、これは変わらん。
しかし、特定の火山については、これを誰かがazar(アザ)→アサ、アソと呼び始めて、地元以外の人が皆アサ、アソと呼ぶようになったら、
いくら地元の呼び名があっても抗し切れん。すぐに地元もアサ、アソと呼ぶようになる。
日本人は、他称に弱いからな。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 01:52:40.41
>>436
ホータン以外の名も、弓月君の子の名と合致するぞ。
4人の子の名が全部ホータンの近辺の都市の名に合っているということは、確率的に言うても完全に有意性がある。
つまり、間違いないということやな。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 01:53:45.82
>>437

特定の火山を誰かがazar(アザ)→アサ、アソと呼び始めて、
地元以外の人が皆アサ、アソと呼ぶようになったという根拠はあるのか?
0440日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 01:56:20.23
>>431
当時の瓦な

他は当時の瓦一つないんだよ

ソウル説がいかに願望ばかりの空中楼閣な説なのか分かる
0441日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 02:51:18.06
>>427
さる陸繋島愛好家が南伊勢町阿曽浦を探訪したブログがあって、
その阿曽浦の原義を書いた看板についても報告している。
この陸繋島愛好家のみたてでは、阿曽浦が陸繋化する前には海が浅かっただろうから、アサイのアサ→アソウ→アソの変化だとみなしている。
このアソウについては、別に熊谷市の地名大麻生についてのブログにもアソウは湿地のことだとする見解が述べられている。
これからすると、湿地のことをアソというのかと思ってしまうが、やはり水深の浅いことのアサが訛ってアソウとなり、それがアソになるのではないか。
このアソの音に漢字を当てる際に、阿曽山の内側の湿地にみたてて阿曽の字を用いたのではないか。
地図をみると、この阿曽浦の近くにも阿曽という地名がみられる。
ここは川が集落の中央あたりを流れる盆地のようで、その川沿いは昔は湿地だったのではないか。
先の熊谷市の大麻生と同じで、元々は水深の浅い湿地帯だろう。
こうしたことからすると、水深の浅い湿地をアサ→アソと訛ったことが考えられる。

では、そもそもの熊本の阿曽は、カルデラ内の水深が浅い湿地だったからアサ→アソと呼ばれ、それに阿曽という漢字を当てたのかということになってくる。
まあ、これは考えてみる価値がありそうだなぁ。
しかし、浅間には湿地はないだろう。
浅間は、トルコ語azar(アザ=火)由来だよ。
0442日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 02:51:23.98
>>438

確率的にって、系図上は都市名というか亀茲国の歴代の王名だろ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 02:55:01.05
>>441

浅間山の噴火でできた湿原があるだろ
0444日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 04:23:52.61
>>442
系図では弓月君と人の名として書かれているが、弓月はタリム盆地付近の地方名だし、弓月君が人物名でないなら子も人物名でない可能性が強い。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 04:33:49.14
>>443
浅間山の名が記されている最古の文献は平安中期の藤原宗忠の日記だ。
この日記の天仁元年(1108年)9月5日に「麻間峯」が出てくるそうだ。
浅の字は使われてない。
湿地がどこにあるんだよ。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 04:59:42.25
>>444

その系図を皆信用してないから出自が謎になってるんだろ
0448日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 05:19:28.51
>>443
アソじゃないんだからよ。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 05:49:19.20
>>447
池の平湿原は浅間山から西に8kmも離れたところにあり、
その間には高峰が4つもある。
この湿原が浅間山に関連付けられてアサの音の由来になったとは到底考えられん。
阿曽の場合は、外輪山の中にあるから、阿曽山の名の由来に関連付けられる可能性があるが、
浅間の池の平湿原は無理。
関連付けるとすれば三方ヶ峰が浅間山にならなければおかしい。
それに、アサマのアサはアソじゃないしな。
まあ、いろいろググってみると、浅間、阿曽はむかしから語源解明があれこれなされているが、アイヌ語やマレー語に語源を求めるものもあるな。
しかし、トルコ語には思いが及ばなかったのは惜しかったな。
もっとも、秦氏がトルコ語を話していたことに行き着かなければ、トルコ語の発想は出てこんから、とにかく無理だっただろう。

日本語は単音だけの言葉はほとんどない。
アやソだけで意味を表すようにできてないのが日本語だ。
アとソをつないで初めて言葉が成立する。
日本語は中国語じゃないんだからよ。
アソと2音になってるのだから、そこに意味を求めないとな。
しかし水がビチャビチャしている湿地にアソという地名がついているのは面白い。
阿曽山の湿地は日本一の広さがあるらしい。
各地に阿曽の名があるのは阿曽山の湿地が有名だからかもな。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:14:02.61
>>449

浅間山のカルデラ湖の山体崩壊で周辺が湿地になったのだから
古代には一帯をアサマと呼んでいたかも知れない
水の浅い所、湿地にアソ地名はあるが
トルコ語の火などというのは関連性が無い
南伊勢に浅間神社はあるが阿蘇信仰はない
0451日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:14:25.55
>>446
これまで、浦東(ホトゥ)がホータンだと突き止めた人はいる。
ブログでそう指摘しているからな。
しかし、浦東(ホトゥ)以外の子の名を別の都市名と重ねることができなかったから、
それ以上に論を進められなかったということだろうな。
この4人の子の名全部をタリム盆地周辺の都市名に重ねることができていれば、そのブログ主も秦氏の出自について確信が持てたはずだ。

系図の信憑性に関しては、浦東の名については、新撰姓氏録が「古記に浦東と記されている」と書いており、秦氏の系譜についての「古記」があったことが分かる。
そうした点からも、弓月の名と子4人の名の「実在性」は信憑性があるということになるよ。
そうした「実在性」に確信がもてなかったから、系図を信憑性がないものと判断してきたのだろな。
ヤフーの地図を拡大して、子の名とタリム盆地周辺の都市名を重ねてみる作業をしてみるだけでよかったのにと思うな。
みな、惜しいことをしたのさ。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:24:28.93
>>451

都市名は合致していないし、音が多少似てるくらいで
信憑性があるということにはならんよ
0453日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:41:40.32
>>450
浅間信仰は江戸時代に盛んになったようだ。
江戸時代じゃ、九州の阿蘇とは関係ないだろう。
まあ、阿蘇はトルコ語の火からはずしてもいいかもな。

しかし、浅間はトルコ語の火(ペルシャ語のazar)由来だろう。
azarの元々の意味は(ザラスシュトラの火)だろうな。
このazarはヒンディー語系のa(火)+ゾロアスター教の合成語だと思う。
秦氏が信濃の火山を火の山と呼んだのがアサマだよ。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:48:32.90
>>452
多少もなにも、日本からずっと離れた砂漠地帯の都市名と日本の氏族の系図の人名が似ているなんてことは、普通はあり得んことだ。
にもかかわらず、子4人の名が全部4つの都市名とよく似ているんだから、あり得んことがあり得てるということになるのよ。
系譜には古記があったのだから、それは空想的に創出されたものでなく、古くから伝えられたものだと信用するよりない。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:55:54.71
>>450
浅間信仰は富士山講だからね。
平安時代の熊野三山講や江戸時代の伊勢講とおんなじよ。
平安時代にはすでに「浅間峰」はあるんだから、浅間信仰と浅間の名は無関係。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:58:49.14
>>453

日本では火をトルコ語で呼んでないのに
浅間にだけトルコ語を使ったという根拠がない
0457日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 06:59:14.66
>>454

『漢書』(西域伝)に亀茲国のことは書いてある
0458日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 07:06:34.52
>>455

阿曽山の湿地をイメージして南伊勢に地名をつける理由がないと言っている
0459日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 07:19:02.15
>>455
伊勢は、トルコ語 is sehir(イス・セヒユ) の短縮のイセな。
意味はビジネスの町。
商取引が盛んな都市という意味だよ。
秦大津父が馬の隊商組んで深草から通っていたのがこの商取引の盛んな伊勢だった。
イセの名は、秦氏のトルコ語由来だな。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 08:05:09.95
あっそ
0461日本@名無史さん
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2020/01/17(金) 08:15:14.81
>>458
水が浸入するような湿地をアサと呼び、その後アソと変化したところで湿地をアソと呼び習わす言葉ができた。
その後、そうした湿地のアソに阿曽山の阿曽の字を当てるようになり、
それが普及して全国のアソに阿曽の字が当てられるようになった。
その一つに三重県南伊勢町阿曽浦があり、また近くに大紀町阿曽があるということ。
これは仮説であるが、面白い解釈だと思われる。
阿曽のカルデラ内には日本一の広さの湿地があり、その湿地のゆえにアソの名があって、そのアソに付けた阿曽の字を真似て、
皆自分ところの湿地アソにその阿曽の字を当てたということだね。
仮説としては面白い。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 08:21:16.04
10年以上同じ戯言書いてるだけのトルコ語バカは放置でいいでしょ そもそもTurk系と思わしき帰化人は存在しない
0463日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 08:32:32.23
>>439
九州の山門はヤマドの発音だったが、奈良の役所がこの山門(ヤマド)をヤマトと奈良発音で記述し、通達し始めると、いつのまにか九州在地の者の発音もヤマドからヤマトに変わってしまったのよ。
お上のような権力を持つ者がこうだと言えば、いつのまにかそれに馴染んでしまうのだわ。
律令ができたころにはすでに麻間と呼ばれていて、木簡には役人が麻間と書いていたのだろうな。
現地ではいつのまにか麻間に変わっていたということだよ。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 08:39:27.99
>>462
なに言っちゃって。
秦氏がおるじゃないか。
半島への交易路にある壱岐のイキと、トルコ語の数詞2を表すイキがまったく同じだということは、
自明の事実だろう。
だれがかの島をイキとよんだのか。
秦氏に決まっておる。
鷲は、壱岐は元々は石島と呼ばれていたと思う。
それがイキに発音が変わったということだね。
つまり、2番目の島だというわけよ。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 08:42:58.70
火の呼び名は

ホ←だよ

火群(ホムラ)立つ篝火のみたいなん
0466日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 08:44:41.34
炎(ほのお)はホムラとも読むが火群(ほむら)のこと
0467日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 08:47:38.29
阿は阿国(おくに)とも阿子(あご)とも使うがなんらかの前頭詞やな
0468日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 09:07:08.94
>>440
ウィキをみると、鳳山郡や安岳郡、信川郡など載寧川理由域の一帯には他国からの流入者を含めた者たちによる中国人社会が形成されていたとし、
塼室墓や瓦ほか中国系の出土物はそうした背景によるものであって、必ずしも帯方郡庁には結びつかないとする説が出ているそうだ。
帯方郡庁沙里院説もまだまだ確定しないようだわ。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 09:29:43.03
>>465
炎(ホノオ)のホだね。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 09:35:45.70
火は単独でホ

火の緒(ほのお)と書いて炎(ほのお)と読む
0471日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 11:12:17.94
>>467
中国や長江周辺の少数民族では「〜ちゃん」の意味だよ
0472日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 13:29:03.89
>>463

山門をヤマドと発音した炭坑夫が訛ってるんだろ
0473日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 13:29:29.26
>>468
分かるよ

でも、他の遺構、特に韓国内の遺構は当時のまともな考古文物が何にもないんだよね

願望ばかりで空中楼閣を描いているだけで

当時の考古文物、帯方郡太守の文字まで揃っているのは沙里院の唐土城遺跡だけ

だから仮に間違っていても、沙里院からもうそんなに遠くない場所だろう

暫定的確定地ではある
0474日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 13:44:29.49
>>464
トルコ系なんか秦国だけじゃなく中華諸国とも敵対してたほうだろ
何のつながりもないのに名乗るわけないわ いいかげんにしろ
0475日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 15:17:25.38
>>474
トルコ語を話すからと言って、秦氏がトルコ人であった可能性はゼロだ。
中国西域のチュルク系民族とは別の、ホータンにいた交易人だよ、秦氏は。
トルコ語を話すからトルコ人というその短絡、なんとかならんのか。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 15:24:55.93
>>473
誰かも言っているように、郡の大守を務めた者が辞めたあともそのまま郡庁のある都市に残ることはない。
皆、故郷へ帰ったり、別の郡へ行ったりするわけだから、張撫夷が沙里院で郡の太守を務めてきて、
辞めたあともそのままそこに住み続けたというのは相当無理。
帯方郡庁が別のところにあったことを示すのが沙里院近くの張撫夷の墓だよ。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 15:29:04.19
>>472
奈良だけが濁音をつけん発音するの、変だと思わんか。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 15:37:55.81
>>477

濁音をつけるのが山門の炭坑夫
0479日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 15:39:47.66
>>470
緒は端の意味だから、火の先端が炎。
和語の(ほのお)も火の尾の意味だから、燃えている部分の先が(ほのお)だね。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 15:45:33.39
>>467
阿子は我が子。
ワタシのワがアに訛っただけ。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 15:54:39.86
>>466
ホノオは火の尾で、単独の火炎の先端をいう。
ホムラは火群と書くように、火が複数むらがっている様子をいう。
ちょっと微妙な違いだね。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 17:35:59.48
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0483日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 17:40:07.41
>>465
火をヒ、あるいはホと二通りの発音するのはなぜか。
ホがヒの訛りだとみなしやすいが、そうでもないと思われる。
ヒの語源はマレー語のapi(アピ)と関連するようだ。
一方、ホの語源はタガログ語のapoy(アポイ)と関連するようだ。
api、apoyに共通するaはヒンディー語の火を意味するaag(アアグ)に由来し、マレー語自体の火を表す言葉はpi(ピ)だろう。
一方、タガログ語自体の火を表す言葉は、poy(ポイ)となる。
このことは、タイ語で火を表すのがfi(ファイ)であることから、aが外来語であることが推測されるわけだ。
そこで、マレー語と関連があるのが和語のヒであり、タガログ語と関連があるのはホということになってくる。
マレー語とタガログ語は根のところで同じ系統の言葉であるものの、火についてはヒとホの違いがあるということだ。
ということは、和語のヒとホは根は同じであが、微妙に異なる系統の言葉だとみることができる。
マレー語とタガログ語にはそれぞれ祖語があるが、その祖語が日本列島にたどりついた時期では、ヒとホのうちホの方が先に列島に上陸していたと考えることができる。
火の発音としてホが地盤を形成していたところへ、ヒの音があとから入って来たということになる。
元々からあった列島の旧石器人の火の発音は失われた可能性が高いが、かがり火のガリがその火を表した言葉であった可能性がある。
これは、モンゴル語の火を表す言葉がgal(ガル)であり、モンゴル語と和語には相関する語彙が相当あることからして、かがり火のガリが火を表したと考えることが可能になるからだ。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 18:01:55.96
>>478
その山門(ヤマド)をヤマトと発音したのが奈良人だったというわけ。
そして、万葉仮名でヤマトと書き続けたから、ついには九州のヤマドも根負けしてヤマトに変わったという次第。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 18:07:12.93
かがり(篝)は籠、編んだものだろう
0486日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 18:11:40.38
>>484

九州は西南部のアクセントが北部とは違う
境界のアクセント形式は崩壊しているから
南部から来た人の訛だろう
0487日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 18:24:37.65
>>475

ハタとホータンの音が似てるというだけの短絡的な考え
0488日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 18:37:12.33
>>476
じゃあソウルには帯方郡を裏付ける考古文物に一体何があるの?

当時の漢人系の墓もないよね

沙里院からは当時の貨幣も出てるからな

貨幣経済があった場所だという事

仮に違っていたとしても、沙里院からそんなにもう遠くない場所だよ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 19:02:04.39
漢書に帯方県は帯水の河口にあるとあり、帯水が漢江だと推定されているのが根拠
0490日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 19:39:18.85
>>476

別の郡へ行ったら
塼に帯方太守張撫夷の文字は刻まないだろう
0492日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 20:09:04.94
>>490
胴衣

他の郡で亡くなったら、帯方太守じゃないもんなあ

そこが帯方郡だから帯方太守と書かれた訳で
0493日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 20:10:31.61
緒は現象の端緒になるって意味

つまり火の緒で正解
0494日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 20:11:31.76
火の尾ならもっと長く火の列が伸びてる現象を表現するわ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 20:50:39.33
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0497日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/17(金) 21:24:01.73
>>475
それで西に行かずにわざわざ東の倭国を目指すと考えるお前にはついていけないわ 病気だろ
0498日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 04:52:04.72
太秦です
0499日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 09:40:48.92
トルコ語を話してホータンにいたけど皆で倭国に移動しましたwww こじつけが酷いなバカは
0500日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 14:53:39.38
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0501日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 15:45:38.35
>>485
カガリ(火)の呼び名が、そのカガリを受ける鉄籠に転化したもの。
篝の音はコウ。
コウ(篝)+ガリ(火)=カガリ(鉄籠で燃やす火)。
これが鉄籠自体の呼び名となった。
裁縫のカガリ縫いは、布端を糸で×形に縫い付けること。
篝の鉄帯が×形に組まれているのと同じ形になるところから、カガリ縫いと呼ばれたもの。
成り立ちの後先を逆に見てはだめ。
カガリの元々の成り立ちは、コウ(篝)+ガリ(火)=コガリ(鉄籠で燃やす火)→カガリ→鉄籠(カガリ)→カガリ縫い。
第一、編んだものをカガリと呼ぶ例はない。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 15:48:59.54
>>499
弓月の字があるのをどう解釈すんのよ。
浦東(ホトゥ)以外の子の名もホータン近辺の都市の名に重なるのをどう解釈かんのよ。
頭がトンデモ構造しとるから、トンデモ発想になるの。
ネジ締め直したらどう?
0503日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 15:51:28.11
>>498
太秦だよ。
これ、ウズマサの音に当てた字だから。
ウズマサの解釈が問題ね。
トルコ語をこれに当ててみたら?
問題はあっという間に解けるから。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 15:53:17.66
>>497
普通、西から東へやってきた者が、西へ逃げるのは敗北。
敗北せずに生き延びるには、東へ行くよりないの。
0505日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 15:58:13.56
>>492
会稽曹君。 
会稽大守。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:00:19.16
>>490
張撫夷の最後の役職が帯方郡大守だったのだよ。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:03:36.24
>>488
すでに研究されているように、それらは沙里院に中国人社会が形成されていたことを示すもので、そこが帯方郡庁の所在地だったことが確定されるわけではないよ。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:06:50.21
>>486
山門は地理的に熊本に近いから、発音アクセントも熊本方面と似ていたかもな。
発音については、山門南部系説に同意する。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:16:40.64
>>506

ということは張撫夷は別の郡へ赴任していない
0510日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:27:16.34
>>509
赴任地には留まらないから、撫夷の墓が沙里院の近くにあるということは、帯方郡は沙里院とは違う別のところにあったということ。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:31:49.05
>>501
ご飯の(おこげ)。
コ=黒い、ゲ=燃える。
モンゴル語gal=火。
和語の(おこげ)のゲ=燃えるはモンゴル語のgal=火と同系の言葉。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:48:42.62
帯方太守から別の郡の役人になって亡くなったとき、わざわざ帯方太守と墓に書くか?

帯方太守が最後の仕事だとして、別の郡に移り住んで亡くなったとき、
わざわざ帯方太守と墓に書くか?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:53:09.03
>>501

篝の漢字の字義を言っている
1.熏籠。2.盛物的竹簍。3.臂篝。竹篾編成的農用袖套。4.用籠罩住;用籠罩住的。5.用樹枝草葉等在野地裡堆燃起的。

ガリを火の意味で使う例はなかろう
0514日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 16:59:14.07
ふつうは帯方太守の在任中に亡くなったときだけ、墓に帯方太守と書くんじゃないか?
0515日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 18:00:00.33
>>514
日本の役人でも、新聞などが取り上げるときは最終経歴だから、その点はどこも同じだろう。
任期途中に死んでも、生きたまま退官しても、同じとちゃう?
0516日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 18:05:19.99
火をガリって読むんだ?
それは知らなかった
まあ火(ホ)読みは中国語の発音と同じやからね
0517日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 18:06:14.64
なら単字から組み合わせで読み始めたんが始まりの表現かなりあるんだろね
0518日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 18:23:59.77
>>515
当時の墓にそういうケースってあるの?

退任した別の郡の太守だと墓に書くというケース
0519日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 18:25:25.75
>>513
篝は竹を組んで作った荷かご。
名詞としては「木や竹を四角く組んで火をつける組み木」の意味。
この篝の字には火の意味はない。

和語では、照明のために燃やす火を「かがり」と言うとある。
この火を燃やすための鉄籠を「かがりかご」と呼ぶようだ。
この鉄籠に篝の字を当てて「かがり」と呼ぶのは、「かがりかご」の「かご」が落ちたものであり、
篝自体を元々から「かがり」と呼んでいたものではないようだ。

和語に「こげる(焦げる)」の語彙があるが、このコゲルの語幹はコゲ(例・おこげ)であり、コ=黒、ゲ=火、燃える意味だろう。
このゲ=燃える、あるいは火とモンゴル語のgal(火)は同系だと思う。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 18:35:30.72
>>519
追加

コゲ(焦げ)のゲ(火、あるいは燃える)と、カガリ(照明のために燃やす火)のガリは同根の語彙であり、
このゲ、あるいはガリとモンゴル語のgal(火)はおそらく同系の語彙だろう。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 18:56:16.10
>>520
追加2

日本神話のカグツチが火の神であるのは示唆的だ。
カグが火の意味だろう。
また、竹取物語のかぐや姫のカグも同じだと思う。
この火を表すカグと燃える火を表すカガリとは同根の言葉だと思うね。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:08:19.97
>>518
先に挙げたけど、曹操一族の根拠地だった土地に造られている塼室墓の一つには、
会稽太守、会稽曹君と書いたレンガがみられるようだ。
会稽郡の太守を務めた曹一族の一人の墓だとされている。
会稽郡太守を務めて引退したか、任期途中で死んだか、それは分からないが、その人物が故郷に葬られたのだろうというわけ。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:08:44.55
>>519

カゴに火を入れて照明にしてるから
カゴ入り火→カガリ火 あたりだろう
0524日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:13:08.83
>>522
だったら帯方太守は故郷の北京あたりに葬られないと
0525日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:17:51.08
>>516
日本語の語彙のほとんどは単音の組み合わせとちゃうの。
ア+メ=雨。
カ+ワ=川。
など。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:18:17.95
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0527日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:28:11.07
>>516
中国語の火(ホ)は中世音。
上古音=マル(?)
中古音=ファ
中世音=フォ
現代=ファ
0528日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:31:00.11
>>524
前にも言ったように、この張撫夷の場合は、故郷に帰らない何かの事情があったのとちゃうの?
0529日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:40:50.18
香具土←かぐつち
0530日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:52:40.55
>>523
籠(カゴ)+火(ヒ)=カゴヒ
カゴヒ→カガリビ になるかね?
0531日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 19:57:42.58
>>530

カゴ入り火
0532日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 20:11:39.66
手に持つ照明が手火(たひ)で
固定した篝(カゴ)入りの照明をかがり火
だろう
0533日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 20:20:05.61
>>504
別に西から東に来てないじゃん モンゴル系かそこらがトルコ系言語を習得してるんなら東には来ないだろ トルコ系かトルコ語使ってたのがが半島より東に入って来たって歴史的な記録があるのかね
0534日本@名無史さん
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2020/01/18(土) 20:46:31.38
東国や志摩の物産が集まり、また都からの物産などが集積される商取引の場所である伊勢と秦氏が深い関係にあったことは、日本書紀の記述から推測できる。
その秦氏がトルコ語話者であった可能性があり、その秦氏のトルコ語から伊勢の名を解明すると、伊勢(いせ)の音はトルコ語のis sehir(イセユ=ビジネスの街)とよく重なる。
このis sehir(イセユ)が短縮してビジネスの街=イセと呼ばれたのが、伊勢(イセ)の由来ではないか。
この伊勢(イセ)は和語では解明不能なのだから、いっそのことトルコ語由来にしてはどうか。
0535日本@名無史さん
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2020/01/18(土) 20:57:46.49
帯水西流の条件に合わなくともがむしゃらに黄海道にもっていきたいひとがいる
0536日本@名無史さん
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2020/01/18(土) 20:58:48.36
>>533
トルコ語は秦氏の属性の一つにすぎない。
北部中央アジアの共通語であったチュルク語系の言葉を話していたというだけのことであって、
さほど重要なことではない。
秦氏の正体に迫るツール(道具)の一つだと考えるのが妥当だ。
本質の問題は、そのトルコ語を話す秦氏がユダヤ教徒であったなかったかの見極めにある。
秦氏がユダヤ教徒であったとすれば、千葉の芝山や行田の古墳出土の人物埴輪にみえるユダヤ教徒の存在とぴったりつながることになる。
そういうわけでトルコ語について秦氏との関連を調べているのだね。
ユダヤ教徒は西から東に来たことはすでに解明済みの人類学の一項目であるので、ユダヤ教徒秦氏が西から東に来たことはごく普通の事柄となるのよ。
要は、秦氏がユダヤ教徒であったかなかったかの問題に尽きるのだわ。
0537日本@名無史さん
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2020/01/18(土) 21:01:51.89
安岳3号墳のぬしも
ぞろぞろと履歴を列挙している

永和十三年(357東晉)
十月戊子朔廿六日癸丑

【使持節】【都督諸軍事】【平東将軍】【護撫夷校尉】
【樂浪(國)相】←→ 「樂浪國王」(女王?)
【昌黎(郡太守)】【玄菟(郡太守)】【帯方(郡)太守】
【(幽州遼東郡平郭縣)都郷侯】
0538日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 21:20:28.03
>>532
平安時代の和名抄では「炬火(かがりび)」を「太天阿加之」と説明しているそうだ。
これは「たてあかし」と読むというから、(立て明かし)の意味だろう。
何かの器具を立てて、そこで燃やす火のことだな。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 21:27:44.67
>>532
手火松だな。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/18(土) 21:47:00.95
>>535
帯水が西流しとるぞ

下のリンクの中ほどの地図参照

https://www.getit01.com/p2018020129102665/


>>537
安岳は城跡がないし、帯方郡が高句麗に滅ぼされた後の墓だしな

沙里院の唐土城を高句麗に乗っ取られて、安岳で帯方郡の復活を夢見て
奮闘してたんだろうな
0541日本@名無史さん
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2020/01/18(土) 22:51:06.65
>>538
火の語彙
ヒンディー語 aag(アーグ)=火
パンジャブ語 aga(アガ)=火
モンゴル語 gal(ガル)=火
日本語 kagari(カガリ)=火
日本語 kagu(カグ)=火

まあ、モンゴル語のgalはパンジャブ語のagaの語頭a音が落ちたものであり、
日本語のkagu、kagaは逆にk音が付加したものだろう。
ということは、日本語の火を表すkaga、kaguはパンジャブ語、ヒンディー語のaga、aag由来だろうな。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 00:36:38.69
神名のアグ音は
火天として仏典に取り入れられた
インド神話における火の神のアグニ(Agni)から
パクっただけじゃないかな
0543日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 01:07:09.04
>>541
日本語のkaは蛇じゃないですかね
0544日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 02:21:41.87
>>542
agniはサンスクリットの火じゃよ。>>543
0545日本@名無史さん
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2020/01/19(日) 02:22:20.39
>>543
カエルだね。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 02:44:33.15
>>544

日本語ではアグ音の火は神話くらいしか使ってないから
0547日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 08:44:54.98
秦氏は東の果て日本に到達して、日本人と同化して日本人になった
様々な技術をもたらしたにもかかわらず
必ずしも地位や権力をもとめるようなことはなかった
そして、神道に深く関わることとなる
0548日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 12:01:31.70
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14


韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 13:59:06.68
>>546
かがり火、かぐや姫、輝くなど現代までつながってます。
身の周りの火としての意味は、カグツチくらいだけどね。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 14:04:14.12
>>543
カガチは、赤いホオズキが元じゃないの。
その赤い色が蛇の目の色との連想から蛇がカガチと呼ばれるようになったというね。
赤いのは火だから、カガチもパンジャブ語のaga由来かもな。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 14:47:28.83
これまでのところ、秦氏が交易路として行き来した街道の要衝の地には、トルコ語で解釈すると意味がはっきりする地名が少なくない。
半島との交易ルート上にあった壱岐は、トルコ語の語彙と重なるものとしてはiki(イキ)=数詞の2がある。
また、同じく半島へのルート上にある筑紫は、トルコ語のckis(チクシュ)=出口がある。
こうした半島との交易に重要な役割を担った宗像の沖ノ島の女神の神体は御身(ミミ)と呼ばれるが、沖ノ島の島の形が女性の乳房の形と似ており、
この乳房をトルコ語ではmeme(メメ)という。宗像で沖ノ島の女神の神体をわざわざ御身(ミミ)と表現するのはトルコ語のmeme(メメ)由来だからだと考えられるのだ。
そして、秦氏が本拠を置く山城から馬の隊商を組んで取り引きに通った伊勢(イセ)は、その秦大津父や秦酒公などが深く関わった商取引の町であったことが分かるが、
その取り引きのビジネスの町とはトルコ語ではis sehir(イセユ=ビジネスの町)と発音する。伊勢(イセ)のことばの由来は秦氏のトルコ語であろう。
そして、これらの地名が現在まで残っているのは、秦氏のトルコ語による地名が政権の公式の呼び名となり、律令が整ってからは正式名として記帳されるようになったからだ。
こうしたことを考えると、秦氏は政治的に表面立った活躍をしていないといわれるが、その影響力の実際は絶大だったことが分かる。
このように、トルコ語が秦氏の話し言葉だったことが相当高い確率で推定できるのだ。
そして、このトルコ語によって判明する秦氏の信教が、これまで話題にのぼっていたようにユダヤ教であったことが炙り出しのように浮かび上がってくるのである。
今後は、その秦氏のユダヤ教に焦点を当てて、秦氏のトルコ語の世界を見ていくことにしよう。
                   ◇     ◇
秦氏のユダヤ教なんだからな。ムーじゃねーぞ。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 14:50:41.39
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
0553日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 16:19:17.43
>>549

篝(カゴ)入りの照明だけを「かがり火」と言うから
かがりに火の意味はない
「かがやく」は古くは「かかやく」
0554日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 17:07:52.89
>>550
蛇=ka の方が古いよ
0555日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:15:30.15
>>553
夜に明かりのために燃やす火をカガリと呼び、
この燃やす火を受ける鉄籠をカガリカゴと呼んだそうだ。
篝がこのカゴ。
カガリ火に篝火の字を当てるのは、後代にこの篝でもって燃える火を表すようになったため。
だから、カガリビ(篝火)は(燃える火+火)の意味になって本来は変な表現なのだが、カガリを篝の意味に転化してしまったために、再度火の字付けなければならなくなったもの。
元々はカガリ=火だったの。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:17:45.25
>>553
カカヤク(輝く)は、奈良弁の特殊な発音ではないか。
元々はやはりカガヤク(輝く)だろう。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:35:20.17
>>555

鉄籠が使われるようになる以前に、
夜に明かりのために燃やす火をカガリと呼んだという典拠はある?
0558日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:42:00.57
>>556

元々はというのはどこの地域の発音?
0559日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:44:14.32
>>553
ホオヅキの古語は赤加賀智、輝血、赤輝血だそうだ。
八岐大蛇の赤赤した目の色からホオヅキの袋の色をカガチと呼ぶようになったと言われるが、信憑性がない。
むしろ、ホオヅキの実の袋の赤い色がカガチで、大蛇の目が赤いというのはそのあとにこじつけたと思われる。
ヘビの目が赤いことはないそうだ。
怒り狂った大蛇の目が、人間の目のように血走っていると想像した結果だろう。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:47:53.71
>>558
奈良に入る前だから、奈良より西の地域。
奈良に入ったとたんに、カガヤクはカカヤクと濁点が落ちた。
ヤマドイもヤマトと濁点が落ちた。
奈良は濁点にとっては魔界といえる。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:49:41.97
赤い眼の蛇はいるね
0562日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:50:49.76
>>560

異人地域を基準にしてはだめだ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 18:50:50.90
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14


韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 19:04:10.55
>>557
デジタル大辞泉-篝(カガリ)
@かがり火をたく鉄製のかご。かがりかご。
      (検索→「篝(カガリ)とは-コトバンク」)
0565日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 19:25:53.27
>>562
学者の研究では、奈良時代の発音は断点が極端に少ない。
一つの語彙が別の語彙と結び付くとき、前の語彙の語尾が濁点化するのが日本語の変化の法則だ。
しかるに、都のあった奈良の地の発音は、この濁点化が驚くほど少ない。清音と呼んでいるが、日本語の文法からすると、異質である。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 19:26:43.33
>>561
アルビノヘビ以外はないそうだ。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 19:53:33.64
>>565

奈良時代に都では漢語の影響は受けてるだろうね
地方では「かがやく」という語を何時から使ったかも確認できない
0569日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 19:54:07.26
>>547
確かに、今はその点がトレンドだ。
しかし、秦氏のユダヤ教は日本の神々の世界に溶け込んだようにみえているものの、
日本の神々の世界とは画然と別世界を形作っているといえる。
秦氏が原始的キリスト教を持ち込み、それによって日本の神々の世界に大きな影響を与えたとするのは、一種のプロパガンダではないか。
今トレンドの秦氏の信教と日本の神道の融合という考え方は一部のキリスト教徒の主観のようにみえるな。




神々に姿を求めなかったのは秦氏が渡来する前からであるし、日本の神の道では多神は絶対的に生き続けているからだ。
日本の神々の世界をユダヤ教、あるいはキリスト教の神世界に関連付けようとする一種のプロパガンダではないか。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 20:25:27.50
>>567
シマヘビの目は赤いのもあれば、黄色いのもあるようだ。いろいろだ。
しかし、カガチの名のつくのはヤマカガシであり、これは身体が赤い色をみせる。目は赤くない。
このヤマカガシの名は、その身体の赤い色に対して付いたものであり、カガシ(カガチ)が赤色を表す言葉であることが分かる。
ヘビ全体の呼称がカガチ、カガシなのではない。
赤い色を表すカガシ、カガチなどカガの言葉があって、その赤い色をしたヘビの名としてカガシ、カガチの呼称が生まれたと思われる。
その赤い色を表すカガがパンジャブ語のagaに由来するのではないかというわけだね。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 20:47:27.50
>>570

古代に蛇の種の分類などしてないだろう
0572日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 20:48:43.64
>>570
まず、赤い袋が目に付くホオヅキがカガチと呼ばれ、それから赤い身体の色のヘビがカガシ、カガチと呼ばれたということだね。
後先の点を言えば、ホオヅキが先。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 20:53:00.31
>>571
いやいや、古代の人ほどそうした野生の生き物を細かく分類しただろうね。
どんなものにも神が宿るのだから、そりゃこまかく分類してちゃんと祀らないと祟られる。
おそらく、蟻の出入りする穴にすら神の名を付けたのではないか。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 21:04:20.98
>>573

蛇の種類を分類して祀ったりしてないだろ
0575日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 21:14:11.09
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
0576日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 21:22:38.56
>>574
そりゃ、分からんな。
祀ったかもよ。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 22:21:40.86
>>568
古代の銅鏡は銅、錫、鉛などの成分で造られていたそうだ。
日本の銅鏡は中国鏡に比べると銅の割合が多かったという。
銅の割合が多いとできた鏡の表面は赤味がかった色になる。
そこで思うに、「かがみ」とは「かが・み」であり「かがの神」という言葉だと理解できる。
となると、「かがみ」の「かが」とは何か。
鋳造したての銅鏡は赤かったのだから、この「かが」とは赤い色を意味する「kaga」ではないのかということになってくる。
「鏡(かがみ)」とは「火のように赤い色をした神」の意味ではないか。
「輝く」の語源がパンジャブ語の火を意味するagaに由来するkagaだとすれば、「輝く」は現在我々が使っている「きらきら光る」の意味の「輝く」ではなく、あくまで「火のように赤く照る」意味であると考えることができるからだ。
とすると、「鏡」の字に「かがみ」の音をつけたのだから、銅鏡が渡来する前に赤い色を表す「かが」の言葉がすでにあったことになるのではないか。
そして、銅鏡が渡来するのは弥生時代中期からとされてているので、この時期にはすでに「かが」の言葉があり、銅鏡が入ってくるのは北部九州が先であるから、北部九州には「かが」の言葉があったと考えるのが妥当だろう。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 22:39:40.80
鏡の語源は「屈み」だよ
水面を屈みこんで見るからね
0579日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 23:08:53.38
>>577
国内銅鏡の鋳型の最古のものは、福岡県春日市の須玖タカウタ遺跡から出たものだそうだ。
弥生中期前半頃。

かがんで見たから屈みか、天才だな。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 23:41:58.78
>>578
 池や水溜まりに行って見る前に、竪穴式の家のすぐ外に置いてある天水受けの水甕で見ろよ。屈まなくても見えるからな。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/19(日) 23:54:02.92
>>577

錫の量が多いと脆くなるので
銅鏡よりも他の青銅器のほうが銅の割合は高い
須玖タカウタ遺跡からは朝鮮半島由来の粗文鏡の鋳型が出ているので
おそらく北部九州では朝鮮半島で鏡を呼んだ名称だろう
0582日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 01:14:53.52
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14


韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 02:01:35.58
>>581
前300年代頃の朝鮮半島ではどんな言葉が話されていたか、まるで分かってないそうだ。
しかし、半島南岸付近は九州縄文人系の部族がいたらしいので、鏡(かがみ)と似た言葉があったのかもしれんよね。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 02:20:55.49
>>583

遺伝子も形質も墓制も縄文時代とは違う
0585日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 03:56:13.17
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14


韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 10:15:23.11
>>580
屈まなくてもいいほど大きな水甕?
それ水甕じゃなくて葬儀用じゃね?
0587日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 11:16:52.26
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14


韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 13:11:01.29
>>586
共用じゃな。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 13:15:56.61
>>584
後の中国史書では「…倭に接す」と書かれているので、半島南端付近は倭人=縄文系の土地だったことが分かる。
これは、1万年前以降にも縄文系土器などが出る遺跡が半島南端付近でみられるので、この弥生中期頃も縄文系倭人が住んでいたとみるのがOK。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 13:25:10.33
>>589

弥生中期の九州島には魏志に書かれた倭人の卜骨の風習はない
0591日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 14:08:48.59
秦氏と関連が深い交易ルート上に、iki(イキ=数詞2)、cikis(チクシ=出口)、meme(メメ=乳房)、es sehir(イセユ=ビジネスの町)など
トルコ語の発音とぴったり重なる地名がみられる。秦氏の影響力が非常に高かったことが推測されるのだ。
さて、ここで秦氏の本拠地の地名などから、秦氏の信教が何であったのかみて行くことにしよう。
まず、ウズマサだ。
漢字は太秦が当てられている。これは魏略にみえるように大秦がローマを表していて大きな国の意味であることから、
この大秦の大を太とした太秦は同じく大きな国を意味していると見るのが妥当だ。
この秦氏の太秦が大きな国という意味であることはまず間違いないが、ではどのような大きな国なのかというと、
ウズマサの言葉の解明が必要になってくるのである。
ウズマサの言葉の解釈は多くの研究者などが言及しているが、秦氏をトルコ語話者とした場合、その解釈は大きく異なってくる。
ウズはウツに濁点がついたもので、これは日本語の文法に則っている。
このウズマサをトルコ語で見ると、ウツ=uc(数詞3)+マサ=masa(机)=3つの机の意味となる。
「3つの机」とは何か。
秦氏をユダヤ教徒と仮定した場合、ユダヤ教における「3つの机」はユダヤ教の神の居所である幕屋に備える3つの祭壇のことが想定される。
幕屋の入り口に犠牲を焼くための祭壇、次に神に奉げるためのパンを置く机、そして一番奥の聖所に近いところに置く香を焚くための祭壇がそれである。
このように「3つの机」は幕屋での祭祀のことを表しており、幕屋の祭祀という意味の言葉であるウヅマサに大きな国を意味する太秦の字を当てているということは、
ユダヤ教の神を祭るための幕屋をここに設け、そしてこの地に神の国が所在しているのだと示していると考えることができる。
つまり、太秦(タイシン)、即ち大きな国とはユダヤ教の「神の国」のことだということが分かるのである。
秦氏のトルコ語から判断すると、太秦(ウズマサ)はユダヤ教の「神の国」を意味しているのだ。
                     ◇      ◇
このようにウズマサの言葉の意味が正確に解けない限り、秦氏の正体に真に迫ることはできないのだよ。
わははははは。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 14:12:31.53
>>590
骨のひび割れで吉凶などを占う卜辞を倭人が行うようになるのは、
卑弥呼などの時代になってからかもな。
弥生中期にはまだ卜辞を取り入れてないのとちゃう?
0593日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 14:19:59.47
>>592

出雲、大和、伊予では弥生前期から始まる
弥生中期には東海、関東にも拡がる
九州がもっとも遅くて少ない
0594日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 14:48:02.21
>>593
そうだろうな。九州縄文系は卜辞はいらなかった。
だから、半島南部にも卜辞の形跡はない。
むしろ、九州には軒先にブタの頭骨を吊るして避邪を行うまじないがあったからな。
このブタの頭骨まじないは中国由来だろう。
卜辞はいらなかつたのよ。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 14:57:39.57
半島南岸も卜骨はある
0596日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 15:39:02.03
弥生文化には亀卜がないから、そこからも弥生人は中国系ではない事が分かる
0597日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 15:39:36.67
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 15:46:40.19
山東省城子崖遺址から牛、鹿の肩胛骨の卜骨が出ている
0599日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 17:24:17.65
>>595
壱岐、対馬に卜骨が現われるのは弥生中期。
これが佐賀市や柳川市などの地域にも表れるのが弥生後・中期。
卑弥呼が卜骨をしたとすれば、ちょうど最新流行のまじないだったことになるな。
この卜骨は朝鮮半島南端東南部の原三国時代の伽耶地方でもみられるそうだ。
中国から直接来たというより、遼東などから来たかと考えられているな。
いずれにしても、卜骨は卑弥呼の当時、目新しいまじないであって、それまでは縄文、倭人はそういうことはしてなかったということだ。
そもそもが、ひび割れの割れ方で吉凶などを占うという発想が縄文人的ではない。
そのひび割れに神の意思が現われていると考えるのは、異常だ。
神を非常に恐れていた証拠だな。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 17:29:23.66
>>599

北部九州が畿内山陰の影響を受けるまでは
倭人がいなかったんだよ
首狩と顔面変形崇拝だから
0601日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 18:28:32.07
>>591
4世紀後半に渡来した秦氏は淀川をのぼって山城の深草に拠点を置いたが、たぶん相当早い時期に今の太秦の地に小さな拠点を設けたのではないか。
それは、北部九州の宗像によって渡来した同じ信教の者たちが山陽道の山間の街道を経て山城に入いるのを受け入れるためだったと推測される。
この宗像からの山間部の街道が山城に出る要衝の向日市のあたりには秦氏より前に進出した氏族がいたことから、
秦氏が関わる渡来者を受け入れるについて、間にこの氏族が介入するのを避けて秦氏自身の影響下で受け入れるためには別のルートが必要になったと想定するわけである。
太秦からは、桂川を遡って山越えで亀岡につながるルートがある。
この太秦の地に古墳が造られるのは5世紀末頃からであるが、5世紀代のこのあたりの遺跡からは韓式土器や須恵器が出土し、朝鮮半島とのつながりが色濃いものであったことを示している。
秦氏がこの土地に太秦(ウズマサ)と名をつけたのは、5世紀の中頃ではないのだろうか。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 18:30:59.72
>>599
訂正

上から2行目の「弥生後・中期」は「弥生後・末期」の誤り。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 19:18:53.79
>>600
逆だ
それこそが倭人であり、日本人とは別種
0604日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 19:28:40.11
>>603

そんな風習は魏志、後漢書には書いてない
北部九州の甕棺墓集団は2世紀くらいまでに滅亡した
0605日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 19:50:42.65
>>604
じゃあ漢委奴国王金印(西暦50年ごろ)の時代の北部九州諸国は倭人ではないってことか?w
ちゃんと漢書には倭人って書かれてるぞ

確実に日本列島の住民について記した最古の文献資料として後漢時代の章帝の治世下(75年 - 88年)に歴史家の班固、班昭によって完成した『漢書』地理志がある。
燕地の条には「夫れ楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」の記載がある。



それより前の書物にも書かれてるぞ

後漢代の1世紀ころに成立した王充著『論衡』には「倭人」の名がみえる。以下に、本文を記す。

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

「成王時 越常獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず

「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

このように倭人が周王へ暢草(薬草)を献上したという記述があり、早ければ武王紀元前11世紀末頃、記述のある成王とすれば紀元前10世紀頃の出来事である可能性がある。


3000年前から倭人だぞ
0607日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:08:39.25
>>605

後漢書は卑弥呼が共立された倭国を書いているから
1世紀に朝貢した倭奴国が倭國の極南界で王名記載なし
倭人伝には女王に従属している別の名なしの伊都國王が書かれている
漢書地理志や論衡の倭人の記事は倭国ではないから
倭地がどこにあるのかはよくわかっていない
0608日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:26:26.80
>>607
倭奴国って「ワノクニ」のノを含めて漢字表記しただけだろ
しかも後漢書には「奴国」が二つ書かれてるだけで「倭奴国」とか書かれてないだろ
0609日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:32:51.87
>>608

倭奴国が「ワノクニ」?
奴国は「ノクニ」か?
すぐ後に倭國王帥升等を書いてるのにそんなわけがなかろうw
3世紀には倭奴国というまとまりは無くなってるんだよ
0610日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:41:50.88
漢書 1世紀中頃
日本列島には倭人がいて100ヵ国以上の国を興している
毎年年末年始の挨拶などを漢までしに来ている(暦を漢と共有)
倭人の代表である倭人諸国の大王に「漢委奴国王」金印を授けた(ワの国王)
金印出土地は福岡県志賀島

後漢書 3世紀末頃
日本列島に倭人が100ヵ国以上作ってたけど、今確認できるのは30ヵ国ぐらい
倭人諸国は男を王にしていたけど戦争になったので、ヤマト国の女王が倭人諸国の大王になって終戦した→倭と書いてヤマトと読むようになった

日本書紀
日本と書いてヤマトと呼ぶようになった
0611日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:45:11.42
大倭王が居する邪馬臺國は倭奴国の筑紫より北にある
0612日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:46:48.28
>>609
間違えてたわ
倭国=倭人が作った諸国
倭奴国=倭人が作った諸国の内の奴国
漢委奴国王=倭人が作った諸国を纏める倭人の代表=奴国の王が倭国大王になったことの証左

倭國王帥升=倭国大王となった奴国王の後裔か、奴国から倭国大王を簒奪した者か、定かではない
0613日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:48:01.80
>>611
後漢書における「倭奴国」の記述ってどこにあるんだ?
0614日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:48:37.51
>>605
周の方の倭人は中国大陸の方の倭人だろ

呼称は同じだが別種

そもそも周代の中国大陸人に日本列島はまだ知られていない

周代にはまだ日本列島の存在は知られてないだろ
0615日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:51:46.22
>>614
秦の始皇帝が焚書した際に難を逃れた周〜戦国時代を記した書物のリバイバルである『山海経』にも倭人が書かれているから、少なくとも紀元前5世紀頃には認識されてただろ
0616日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:54:43.37
そもそも日本列島の存在知っていた証拠あるんか?やつらがさ
0617日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:55:20.59
>>614
史料的には紀元前5世紀頃には認識されていたと考えられるし
考古学的には大陸との交易は旧石器時代から行われているし
氷河期終了海面上昇日本列島化が起こった12000年前からも断続的に移民や交易があったから
存在自体は語り継がれていてもおかしくないし、それが伝説化したのが蓬莱や扶桑であると考えられるでしょ
0618日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:57:30.49
倭人とやらを日本人と妄想するクセでもあるんか?w

倭の起源は向こうに書かれてる時点で否定されてんだよ

そいからやつらが文化を与えただのみたいな妄想も却下だよ(^O^)

バカはなんでバカか分かるか?
0619日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 20:58:29.22
617
おいこら!

アンカー付ける相手が違うだろ(╹◡╹)
0620日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:08:27.35
山海経の倭の記事は海内北経にあり、これら地理情報は3世紀頃までに本体に付け加えられたもの
0621日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:16:20.70
>>617


で、その楽浪郡時代より前の中国大陸との交易物は?



ワクワクテカテカ
0622日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:18:12.85
>>618
倭人≠日本人を説いている

倭国は倭人の国
日本国は日本人の国

倭国(わのくに)は倭人(わじん)が作った、北九州が首都
倭国大乱を経て
大和国(邪馬台国)は大和人(やまとじん)が作った、奈良が首都、倭国の諸々を流用したので倭(やまと)になった
古墳時代は大和時代
白村江の戦い及び壬申の乱を経て
日本国は日本人(にっぽんじん)が作った、大和国の諸々を流用したので日本(やまと)になった
その後すぐに日本(にほん、にっぽん)になった

日本国と日本人の根拠地を関東に求めて、関東(日本国)から関西(大和国=大倭国=邪馬台国)に国譲りが行われて、それが神話化したする説もある
0623日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:18:37.94
>>619
ミスってるのはお前のアンカーの付け方だぞ
0624日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:22:24.29
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:33:37.67
>>621
大陸→日本
38000年前、磨製石器(大陸では70000〜50000年前)
16500年前、土器(大陸では20000年前、東南アジアではさらに遡る)
3000年前、青銅刀、鉄器、弥生式土器、水稲工作技術

日本→大陸
23000年前、釣り針およびそれを用いた釣り技術(世界最古)
18,000年前、黒曜石ナイフ
15000年前、料理(世界最古)
12000年前、稲(大陸では9000年前)
7500年前、舟、遠洋航海技術、鯨漁(世界最古)
5000年前、硬玉翡翠加工技術(世界最古)
0626日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:39:40.89
だいたい中国人が他民族につける呼称はその民族の自称とは違っている
0627日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:46:45.27
>>622

マージナルマンの願望
0628日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:48:14.37
>>625
んなコト聞いてねえ

楽浪郡時代より前の


中 国 大 陸 


との交易物を聞いているんだスットボケ


で、その楽浪郡時代より前の中国大陸との交易物は?


.
0629日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:50:37.97
間違えてたので修正


大陸→日本
38000年前、磨製石器(大陸では70000〜50000年前)
16500年前、土器(大陸では20000年前、東南アジアではさらに遡る)
3000年前、青銅刀、鉄器、水稲工作技術

日本→大陸
23000年前、釣り針およびそれを用いた釣り技術(世界最古)
18,000年前、黒曜石ナイフ
15000年前、料理(世界最古)
12000年前、稲(大陸では9000年前)
7500年前、舟、遠洋航海技術、鯨漁、弥生式土器(世界最古)
5000年前、硬玉翡翠加工技術(世界最古)
0630日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 21:52:22.40
>>627
あらゆる学問の情報を集めて総合的に判断したらこれが一番筋が通ってると思うけど
お前はどう思ってるんだ?
0631日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 22:09:57.27
>>629



で、楽浪郡時代より前の


中 国 大 陸 中 国 大 陸 中 国 大 陸 


との交易物は?


.
0632日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 22:44:01.50
>>631
勾玉
パジリク古墳群(紀元前3世紀前半)
墳墓内墓室壁掛け
馬に乗るマフラー髭おじさん
馬の鼻面と胸に勾玉
0633日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 22:48:58.82
楽浪郡設置以前の燕の明刀銭は
日本では那覇市の城岳貝塚、具志頭村だけで出ている
0634日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/20(月) 22:52:08.46
>>632



で、こちら側の交易した楽浪郡時代より前の中国文物は?


.
0635日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 01:39:54.33
>>634
三曇南小路遺跡・前200年ー前100年
内行花文鏡
0636日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 02:37:10.92
>>635
内行花文鏡は後漢の鏡だろが

つまり、紀元後の鏡

残念!



で、こちら側の交易した楽浪郡時代より前の中国文物は?


.
0637日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 02:44:25.40
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14

韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。

http://www.ilbe.com/view/11226303291
0638日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 13:45:16.05
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
0639日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 14:05:50.64
まあ松浦氏(嵯峨源氏)んときは海賊として高麗まで押し入り荒らしまくったらしいからなあ

日本の幕府に苦情がきてなんとかしろ!って要求された記録が残ってるだ
0640日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 14:07:50.09
源氏連中らなんだな高麗荒らしまくった連中ら

棟梁が公家源氏の子孫
0641日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 14:10:05.52
この他に安倍貞任の子孫の末裔らを名乗る連中らが引っ付いていたらしいんだよ
0642日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 14:52:01.61
>>636
大阪加美遺跡弥生中期層
埋葬施設
ガラス勾玉、ガラス平玉
0643日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 16:25:51.68
>>601
秦氏の交易ルート上には、トルコ語でみると意味のよく分かる地名が少なからず見られる。
伊勢のイセなどもトルコ語のis sehir(イセ=ビジネスの町)とぴったり重なる。
そこで、山城から関東までの秦氏の交易路は諏訪を中継するようであるので、この深草から諏訪までの交易路をみてみると、その途中に多治見(タジミ)がある。
この多治見(タジミ)も意味のよく分からない地名なのだ。
この多治見(タジミ)の由来をあれこれ見てみると、この地に多治比部(タジヒべ)が移住してきたことからついた地名だとするものがある。
多治比部は、丹(辰砂=水銀朱)を生産する集団だとされており、丹生など丹の字や多の字を当てることがあるようだ。
多治見の由来が多治比部の移住にあるとするこの解釈は妥当なものではないだろうか。
ところが、この多治比に関連して、実はこの多治比(タジヒ)はマムシの古名とする説がみられるのである。
マムシは毒ヘビの名であるので、どういうわけでタジヒがマムシの呼称となったのか非常に面白い。
そこで、これを追求してみると、なんと秦氏につながりそうな謎解きとなったのである。
これを見てみることにしよう。(続く)
0644日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 17:14:40.61
>>642
中国文物にガラス勾玉はないぞ

ガラス勾玉の鋳型が国内で出てくるから、そのガラス勾玉は国内で鋳られたものだ

だからBC1C以降のものだよ

ちなみに近畿の弥生中期=九州北部の弥生後期である事もお忘れなく

重ね重ね残念!



で、こちら側の交易した楽浪郡時代より前の中国文物は?


.
0645日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 17:25:20.23
>>643
マムシの毒はハブよりも強いが、咬んだときに出す毒量はハブよりも少ないそうだ。
そこで、このマムシにタジヒの呼び名がついているのは、おそらく辰砂から水銀作を作る作業工程で発生する水蒸気に含まれる毒素と関係するのだろう。
この毒素がマムシの毒と関連付けられて、水銀生産集団の多治比(タジヒ)のタジヒがマムシの呼び名として転化したのではないか。
おそらく間違いないだろう。
そして、これがどう秦氏に結びつくのかということであるが、ここで秦氏のトルコ語の登場である。

トルコ語で毒はzehir(ゼヒ)。
これを動詞化すると、to zehir(トゥゼヒ=毒する)となる。
毒素を含む辰砂の多治比(タジヒ)と、毒するというトルコ語のto zehir(トゥゼヒ)の音は極めてよく似ているのだ。

丹生(ニュウ、ニブ)は辰砂が採れる所の意味で、伊勢多気の丹生鉱山が有名だ。この鉱山のあるところの村も丹生村の名があった。
和歌山県には丹生都比売神社がある。全国各地に丹生の地名が広がっていて、辰砂が採取された所であったとされる。
そして、問題なのが丹生(ニュウ、ニブ)の音と多治比(タジヒ)の音の違いである。同じ辰砂採取に関わる名であるにも関わらず、発音がまったく異なる。
丹生(ニュウ、ニブ)が和語系であるのははっきりしている。しかし、多治比(タジヒ)はまったく別系統の言葉のようである。
その多治比(タジヒ)に秦氏のトルコ語を重ねてみると、毒する=to zehir(トゥゼヒ)と辰砂から水銀を作る工程で発生するの毒素の被害と実によくぴったり重なるのである。
ここまで似ているとすれば、多治比(タジヒ)の名は、秦氏のトルコ語に由来するものだとしてほぼ間違いないのではないだろうか。
わははははは。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 17:33:39.70
>>569
それは原始キリスト教を今のカトリックとかの影響で誤解しているから
原始キリスト教は
こころの限り力の限り神を愛しなさい
あなたと同じように隣人を愛しなさい
そして新しい教え 互いに愛し合いなさい
これらの教えに集約されるもので、それはすなわち
教えではなく実践するものであり、日本人が言葉にしなくても
親から子に伝えてきた生き方 和をもって心直く正しく生きること です
これが本当の原始キリスト教でしょう
また神への礼拝は生活の場に近い神社で絶えず行われるように
たくさんの神社を創建しました
0647日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 17:45:28.54
>>644
原料になるガラス玉は古くは漢代の中国で造られたと考えられている。
ガラス勾玉は、その輸入ガラス玉を溶かして造った。
加美遺跡のガラス勾玉、ガラス平玉の原料が中国から輸入されたものであることは、ゼンゼン問題ない。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 17:55:20.33
>>646
神社の建物などができるのは、仏教寺院が建てられるようになってからというのが通説。
つまり、神社神道の源は6世紀代ころに成立したものではないか。
秦氏が渡来した4世紀末頃〜5世紀代にかけては、まだ原始的キリスト教は渡来してないような。
まあ、奈良時代頃からの神道にキリスト教が影響を与えたかどうかについては、これからの研究だろうね。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:01:43.57
>>647
ガラス材は朝鮮半島から輸入したものだよ

その朝鮮半島のガラス材は遼東から輸入され、その遼東のガラス材は
河北から輸入されたものかもしれんがな

いずれにせよ、中国大陸との直接交易によるものではない

重ね重ね残念!



で、こちら側の交易した楽浪郡時代より前の中国文物は?


.
0650日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:27:51.22
648
原始キリスト教ってキリストの弟子らがそのあとどこに行ったか?って話だろ

キリストの弟子の足取りを追ってるのがヨーロッパの連中であり必死こいて探してるだよ

ついでに敦煌遺跡は仏教を信仰していた中央アジアの連中らの遺跡
0651日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:29:01.77
キリスト教自体まだまだ辺境宗教にすぎない

仏教の勢力はカスピ海周辺まで及んでた
0652日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:31:13.35
仏教は10世紀ころから衰退を始めて今や東南アジアと日本の檀家くらいだけやね

中国は道教に切り替えた、インドはインド神話主体のヒンドゥー、中央アジアはイスラム教
0653日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:32:25.38
キリスト教勢力圏自体の古代予想図見りゃほんとにローカル宗教って分かるよ
0654日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:36:52.09
>>646
今の家には神棚があり、この棚の神札に神が依りつくとされている。
この神棚の最古の記述は古事記にみられ、この古事記では天照大神が高天原を統治するようになったときに、
伊弉諾尊が首に掛けていた玉を棚に祀ったというもの。
この神棚は神社神道に由来するものだろう。
天照大神と結び付くのだから、そう古いものではないと思える。
その伊弉諾尊の玉=神体があるのだから、家の中は清浄にしていないとだめということになる。
この考え方の元になっているのは、5世紀代に始まった磐境(いわさか)だろう。神が宿る岩などのある聖域を石囲いしたもので、やはりこの磐境は清浄にしてかなければならないというもの。
こうした磐境はユダヤ教の幕屋の囲いと同じだとする考えもあるよだが、さて、それはどうか。
磐境は俗界と神域を区切る結界だろうし、ユダヤ教の幕屋の囲いは人が入らないように囲う柵であろうから、別物ではないか。
この磐境の元々のものは、縄文以来の神体山などへの立ち入り禁止の掟であるようにみえる。
まあ、どの宗教でも神域を清浄に保つことは求められたことであるだろうけどね。
また、神域でのもめごとなども禁忌となっただろうし、こうした決まり事はどこでもおなじではないだろうか。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:38:09.61
つまりキリストの弟子らの足跡を追うなら分かる

キリスト教自体は伝播するほどの力はまだない

すでに1000年の歴史を持つ仏教が普及していたからな
0656日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:39:35.06
毒蝮三太夫みたいな名前かw
0657日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:39:42.59
できて2,300年くらいやろ

ヨーロッパの連中らが海外にまでキリスト教を広めよ〜ってやったのは1500年ころから
0658日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 18:50:32.48
>>649
北部九州の輸入業者が、半島の輸入業者に「中国産のガラス玉が欲しい」と言って取り寄せたガラス玉があったのは当然。
このケースでは、直接輸入と言える。
これを否定するのは無理。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 19:12:01.28
>>658
んなコト言ってる考古学者いねえ

どこまで行っても遼寧・朝鮮経由の間接輸入なだけ

重ね重ね残念!



で、こちら側の交易した楽浪郡時代より前の中国文物は?


.
0660日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 20:27:16.10
>>648
桜井市の大神神社をはじめ創建年代不詳というくらい
古くからある神社はたくさんありますよ
伏見稲荷神社とか松尾大社、白髭神社など秦氏創建の神社も多い

>>654
>>神棚の神札に神が依りつくとされている
依りつくとはされてないでしょう
神札を目標に礼拝するだけではなかったかな
神社のご神体とかはそうでしょうけど
0661日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 21:00:44.89
秦氏と関連があるとみられる千葉芝山や埼玉行田の古墳から出たユダヤ教徒の超正統派と同じ髪型をして帽子をかぶり、
髭をたっぷりたくわえた人物埴輪の元となった人々はユダヤ教徒だったとみてなんの不都合もないし、
そうした人物埴輪が出たこの両古墳群の前方後円墳の周濠が馬蹄形でなく長方形という驚くべき形がユダヤ教の幕屋の形と瓜二つであることも不都合はないとすれば、
秦氏がユダヤ教徒だったとする説もそれほど変な考え方ではないと思うよな。
ユダヤ人やその他のユダヤ教徒が中央アジア方面に進出していたのも歴史的にすでに判明していることだし。
だから、4世紀後半から5世紀頃としては、原始キリスト教を想定するよりも、ユダヤ教徒の渡来を想定するほうが自然でしょうね。
0662日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 21:10:42.15
>>660
すみませんが
神棚の話は間違っていたかもしれないので、撤回します

>>650
それが、エリサレム教団ですね
0663日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 21:11:32.06
>>660
ちょっと表現がずれたか。
神棚の神札は、神が依りついた札を神社からもらったものだから、すでに依りついている札ということだね。
それを拝んで家内安全などをお願いするわけだな。

伏見稲荷や松尾大社の名が微妙なのよ。
イナリはトルコ語で降臨するという意味だし、松尾は種無しパンのマッツオだしね。
このイナリをキリスト教のイエスを表すインリだとするのはどうなんだろうね。
マッツオと一連のものだと解釈すれば、イナリは神が降臨したシナイ山を指しているようにみえるけどね、キリストじゃなく。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 21:22:56.22
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
0665日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 21:32:37.06
>>662
な〜るほど、エルサレム教団というのがあったのだね。
ユダヤ教ナザレ派の一部がその人々だったというのは面白いね。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 21:55:26.34
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14

韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。

http://www.ilbe.com/view/11226303291
0667日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 22:18:05.14
>>659
何もかも朝鮮半島で中継してるんだからよ。
青島から九州博多まで直接舶載するわけじゃないから、直接取引の線はない。
直接取引の設定は、設定ミス。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 22:41:22.98
>>667
御意

中国大陸からガラス材を直接輸入していたなら、ガラス製の中国文物があるはずだからね

ない

ガラス材は青銅や鉄と一緒

ただ単純に朝鮮南部から輸入していただけ
0669日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 23:09:15.35
>>663
稲荷山のイナリはINRIを表した言葉であり、キリストのことだとする主張がある。
このINRIはラテン語のIESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM(ユダヤ人の王 ナザレのイエス)の頭文字を取ったものであり、
ラテン語でこのINRIはイーモリの発音となる。インリではないようだ。
このINRIを英語読みするとイヌイの発音になる。
また、このINRIをインリと読むのはローマ字による日本語読みである。
5世紀頃の日本にINRIをイヌイと英語読みしたり、ローマ字音でインリと発音する人たちがいたとは考えにくい。
稲荷山のイナリの発音は、INRI(ラテン語のイーモリ、英語のイヌイ、日本語のインリ)の由来ではないと考えるのがよいのではないだろうか。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 23:22:42.07
>>668
そのガラス製の中国文物が加美遺跡などのガラス小玉だというのが学者の見解とちゃうの?
0671日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 23:32:28.75
>>670
ガラス勾玉のどこが中国文物なの?

中卒?
0672日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/21(火) 23:43:02.47
>>671
そのガラス勾玉の材料はどこ製のガラス玉なのよ。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 00:38:37.61
>>672
弥生人からしたら、どこ製だろうが関係ないんだっての

朝鮮半島から輸入した単なる素材なだけ
0674日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 01:28:00.86
>>673
市場のメカニズムが分かってない。
商品もどこの製品かで値段が変わる。
日本製と韓国製では値が違うのよ。
ガラス玉も中国製か朝鮮半島製かで値が異なる。
中国製は値が張るが、品質はいいとかね。
買うほうは選ぶんだよ。
ここが分からないと。
0675日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 07:05:00.95
>>674
弥生時代だぞ

弥生人からしたら、どこ製だろうがぜーんぜん関係ない

朝鮮半島から輸入した単なる素材なだけ


ブタニグロは日本の掲示板に来るな!


繰り返す


ニグロブタは日本の掲示板に来るな!
0676日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 08:56:46.52
秦の始皇帝は天下を併せ、蒙恬をして長城を築かしめ遼東にいたる。 遼東半島で燕王喜を捉えた。

遼東半島までは常に中国勢力圏であり、帯方郡があった現在の首都ソウルも大陸の支配下に合ったのが現実なのだ。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 08:58:20.70
吉野ケ里古墳でみつかったガラス玉は色も形も遼東でみつかったものとそっくりだな
0678日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 14:57:24.05
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0679日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 14:58:03.54
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 15:24:44.39
>>675
人間の本性に対する理解がおかしい。
この点、弥生でも同じ。
中国製と半島製では、値が違うのよ。
中国製を欲しがったの。
アホは早く目覚ませ。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 16:04:12.94
>>669
では、稲荷(イナリ)は何を表しているのかということになるが、
稲荷(イナリ)の元々の発音は、稲生(イナイ)だとされている。
この稲荷は伏見深草の秦氏の神体山の名であるので、やはり秦氏のトルコ語を適用してみると、
トルコ語でイナイと発音するのはiner(イナイ)だ。
(神が降臨する)は、tanri iner(タンギ・イナイ)となる。
つまり、稲生(イナイ)は、トルコ語の降臨、下りる意味のイナイと発音がまったく同じなのである。
このことに、秦氏がユダヤ教徒であったとする仮定を重ねると、
秦氏の神体山である稲生山(イナイ山)とはユダヤ教の神が降臨した山の意味であるとすることが可能になる。
西の太秦の秦氏の神体山が松尾山であり、このマツオの発音がユダヤ教徒の祭りのときに用いられる種無しパンのマッツオと同じであることからすると、
どうやらこの二つの山の名がユダヤ教徒の聖典にみられる出エジプト記に関連しているらしいと想定することができる。
つまり、この神が降臨したイナイ山はシナイ山に見立てられた山名である可能性が高くなるのだ。
そして、種無しパンマッツオ→シナイ山と続けば、どうやらユダヤ教の聖典に記述された出エジプト記がこの2つの山の名のベースになっていることが推測できる、ということになってくるのだ。
わははははは。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 16:05:18.57
まだ同じ話をしているの?
お前たちの(一部w)書き込みなんて相手にされていないんだよ。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 17:21:37.34
狐神(胡仙)はだいたい中国北部から満州の狄の民間信仰
0684日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 17:25:04.96
>>682
秦氏が原始キリスト教徒だったとするのは、何の根拠もない主観に過ぎんような気がするよ。
あるいは、故意に秦氏とキリスト教を結びつけているとか。
秦氏のトルコ語で見るかぎり、秦氏はユダヤ教徒だな。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 17:46:27.73
>>683
日本語のキツネとフィンランド語のキツネを表すkettu(ケット)は、発音がほとんど同じだ。
フィンランド語の原郷は中国の遼河地方にあるから、キツネの言葉については日本のキツネもフィンランド語のケットも同系の言葉だろう。
ただ、秦氏の稲荷社でキツネが狛犬の代わりをしているのは、田の神を祀る狐塚と習合しただけだけどな。
0686日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 18:06:16.72
>>677
朝鮮半島の韓国域でみつかっている最古のガラス玉は忠清南道扶余郡の合松里遺跡でみつかった青色管玉だが、
この遺跡は前2世紀とされている。弥生中期中葉に当たる。
このころにはすでに大阪の加美遺跡でもガラス平玉が出ているので、
こうした日本のガラス玉は中国から朝鮮半島に輸出され、ほとんど間を置かずに日本に輸入されたものだろう。
朝鮮半島は単なる中継地にすぎんように見えるよ。
0687日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 18:13:35.49
>>685

日本で稲作が始まったころに狐を祀ったようなものはない
0688日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 18:49:36.55
>>680
ほんまそれな
人間は10万年前から進化していないので、本質的に10万年前から変化無し
というのが現実だからね
0689日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 18:55:59.42
>>681
日本神話
国譲りを迫られた大国主の子孫が信濃に逃げ込んだ(諏訪)

神社縁起
海神の末裔が信濃に移住した(安曇)

信濃
イナゴを食す

旧約聖書
イナゴを食べよう
0690日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 18:56:19.10
>>682
松傾き
0691日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 18:58:44.10
漢の時代にキリスト教の教会がたくさん建てられていた
0692日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 19:00:03.98
キリスト教ネストリウス派が日本に来たのは飛鳥時代

秦氏が日本に来たのは古墳時代
0693日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 19:03:08.94
唐代に留学僧や渡来僧達が持ち帰った宗教の盛り合わせだな
0694日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 19:06:47.93
縄文時代=アニミズム(古神道)
弥生時代=道教伝来、アニミズム(古神道)+道教=神道
古墳時代=儒教伝来
飛鳥時代=仏教伝来、神道+儒教+仏教=十七条の憲法
0695日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 19:10:11.19
「日本にいつキリスト教が到来したか?」という日本の歴史上の問いに関しては、
ネストリウス派キリスト教(中国で景教と呼ばれたもの)が5世紀頃、秦河勝などによって日本に伝えられたとする説・研究がある
0696日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 19:22:23.46
縄文時代=アニミズム(古神道)(神器:勾玉)
弥生時代=道教(神器:剣と鏡)伝来、アニミズム(古神道)+道教=神道(神器:剣と鏡と勾玉)
古墳時代=儒教伝来(王仁)、景教伝来(秦)
飛鳥時代=仏教伝来(司馬)、神道+儒教+仏教=十七条の憲法
0697日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 19:24:12.17
縄文時代=アニミズム(古神道)(神器:勾玉)
弥生時代=道教(神器:鉄剣と銅鏡)伝来、アニミズム(古神道)+道教=神道(神器:鉄剣と銅鏡と勾玉)
古墳時代=儒教伝来(王仁)、景教伝来(秦)
飛鳥時代=仏教伝来(司馬)、神道+儒教+仏教=十七条の憲法
0698日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 19:29:25.86
695
適当にゴロ合わせして主張してるだけだろ

ヨーロッパでは国教としてキリスト教を定める運動が起こった

キリスト教が伝来したから広まった?

死ね
0699日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 20:12:43.58
>>684
このキツネについては、ちょっとした謎があるんだよね。
日本語のキツネとフィンランド語のキツネを表すkettu(ケット)が同系の言葉であることは、まず間違いないと思われるが、
では、日本語のキツネのネは何かという問題になるのよ。
このネは女を意味する和語のネかとも思われるが、はっきりしない。
そこで、日本語の語彙と類似する語彙がかなりみられるモンゴル語でキツネの語彙を探すと、
モンゴル語では、キツネはuneg(ウネ)なんよ。
ここで、キツネを表すフィンランド語のkettu(ケット)とモンゴル語のuneg(ウネ)を合わせると、
みごとにkettu-uneg(ケット-ウネ)→ケツネとなり、日本語のキツネのネが説明できるのよ。
しかしそうなると、日本語のキツネは遼河語とモンゴル語の合成語かということになってくるのだが、それでは謎がいよいよ深くなってしまうのだね。
要するに、キツネは難問だということだよ。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 20:28:55.03
>>699
そのケツネで、大阪のケツネうどんの由来が分かるけどね。
0701日本@名無史さん
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2020/01/22(水) 20:35:13.65
>>687
だからよ、伏見稲荷のキツネは時代が新しいということになるな。
伏見稲荷創建のころにはキツネはなかったのとちゃう?
伏見の稲荷神社創建→狛犬→キツネの順番かな。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 20:43:01.04
>>689
旧約聖書では、昆虫は食べてはいけないが、イナゴ類だけはOKと書いてあるらしいな。
信濃の昆虫食は、旧約聖書民のOK食だったのか!!!!
0703日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 20:51:43.82
>>700
京都では模範性を重んじ、語幹をそのままきちんと言うが、
大阪は逸らしてeで言うようになったという。
東京でi言うんやったらこっちはeで言うたろか、と言うふうに大阪ではeが多用されるようになった。
ケーヘンなどの言い方もその結果だと言う。
過去には京都が模範的で江戸も逸らしてエゲレスなどとeが多く発音された
0704日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 20:54:17.50
>>701

話を作ったらいかん
0705日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:04:31.83
(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑


http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

.
0706日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:07:17.82
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:10:06.45
>>695
秦河勝は推古天皇や聖徳太子の時代である600年前後の人物だとされているので、6世紀末〜7世紀初頭ということになるな。
秦氏の先祖が渡来したのは4世紀後半頃とされているので、秦河勝はそれから200年ほどのちに活躍したみたいだ。
ネストリウス派が400年代に日本に伝わっていたとは考えにくいのじゃないの?
0708日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:14:47.04
>>704
伏見稲荷創建時の写真ないんか?
0709日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:30:14.68
キツネの神話みたいな話は日本にもともとないよ

つかキツネ自体見たことないだ

北海道あたりに行けばいるらしいが

分福茶釜のタヌキならよく見るが

太ったネコがドタドタ走ってるよ
0710日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:30:59.29
タヌキなら集団でタムロってるのよく見る
0711日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:33:00.38
>>703
大阪が逸らし好きなのは分かったが、
江戸がエゲレスと言うたのは、英語england(イングランド)のオランダ語engelland(エンゲランド)読みからじゃろうな。
江戸では蘭学がはやっていたから、イギリスはオランダ語でエゲレスと言うてたのとちゃう?
0712日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:42:38.83
>>711
ウィキ見たら、エゲレスはオランダ語のengrelsch(エンゲルシュ)が元らしいな。
しかし、エンゲレシュがエゲレスに訛るとは、日本語もええかげんやな。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 21:53:23.92
>>710
朝起きて庭見たら、丸い穴があちこちたくさん掘れてる。
狸が来て、ミミズ食べたのやろな。
小さな穴いっぱいや。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 23:00:51.30
>>681
トルコ語バカよ お前の話はいらない ただ似てると言うだけで何の根拠もない こじつけに過ぎんわ
0715日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 23:02:03.07
>>707
中国でネストリウス派が紹介されたのは635年(貞観9年)らしい。
7世紀前半だ。
ただ、空海は景教を学んだのではないかとされ、また浄土真宗にも「山上の垂訓」を記したものが伝えられていて、親鸞もこれを読んだだろうとされている。
しかし、これはもう平安時代のことであり、4世紀、5世紀の時代のことではないな。
このようになると、ネストリウス派は除外していいのではないか。
あとは、原始キリスト教や東方諸教会が問題になる。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 23:05:02.47
>>686
>青色管玉

これですね 不思議ですわ 帯方郡を経由して船で来たということですね?
0717日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 23:07:43.04
>>714
そう先走らんでも。
発音も意味もよく似てるとなれば、そら、真剣に取り組んでみんとな。
トルコ語のto zehir(トゥゼヒ=毒する)=多治比(タジヒ・辰砂の水銀化の工程で出る毒ガス)は、ちょっと面白いやろ。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 23:10:12.57
>>716
乍南乍東ですよ。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 23:12:53.73
>>718
韓人の方可四千里を越えてからですよ。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 23:25:10.01
>>717
多治比氏の氏神を祀るのが堺市美原の丹比神社だが、
この神社の祭神が火明命だ。
火明命は火の神様。
辰砂を硫黄と共に火で熱し、その際に発生する水蒸気を冷やすと水銀になるのだが、
水銀精製集団の多治比族が火の神である火明命を祀るのはごく道理だと言えるわけよ。
トルコ語を介して古代をみると、あれこれと面白い歴史の光景が垣間見えるということだな。
黄身もちょっと鷲を見習い玉枝。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/22(水) 23:27:43.34
>>720
ちょっと訂正

4行目の「辰砂を硫黄と共に火で熱し」は「辰砂を火で熱し」の誤り。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 00:09:05.40
火明命は明らかに製鉄集団が祀ったものでしょうに やめて欲しい
0723日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 01:00:01.69
製鉄民が水銀精製もしてたんだろ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 01:36:01.30
>>722
製鉄集団の神は、天目一個神。
火明命と製鉄の関係は聞いたことないな。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 01:52:18.10
海洋民の灯台神だよね
0726日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 10:25:02.32
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14

韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。

http://www.ilbe.com/view/11226303291
0727日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 11:14:33.74
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
0728日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 15:25:40.22
>>725
火の神さんなのは間違いないようだけど、
この時代に夜に舟漕いだとは思えんから、火明命灯台の火説はボツ。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 16:28:22.25
>>715
東方諸教会と呼ばれるのは、中東、ギリシャ、アナトリア、東ヨーロッパに広がったキリスト教の諸教派の総称。
ローマを中軸とする西方諸教会に対する言葉で、中軸はコンスタンチノープルが担った。
ギリシャ正教などいくつもの教派がある。
この東方諸教派と秦氏との関連をいう説がみられるが、東方諸教派は各教派の教会の総体であり、組織立った体系をもっている。
公会議が開かれると、全ての教会の代表がコンスタンチノープルに集まり、議題を協議したりする。
したがって、秦氏がこの東方諸教会の中の特定の教派に属す地方教会の一つであったのであれば、そうした公会議にも代表を送ることになるわけで、単独かつ独自に日本で活動していたということは考えられないのである。
そして、この東方諸教会の第1回公会議(325年)で異端と認定されて追放されたのはアリウス派と呼ばれる教派だった。
イエスは神の神性を持たない人間であるとする教義のため、イエスを神の神性を持つ存在とする他教派から排斥されたわけだ。
秦氏が渡来したのは4世紀後半とされているので、このアリウス派の追放と時期的につながることから、秦氏をこのアリウス派であると考えることになる。
しかしながら、このアリウス派の教会がローマ領から追放されて向かったのはゲルマン地方であり、そこで活動を行ったとされている。
そうしたアリウス派教会相互のネットワークを持つアリウス派の中の一派が、そのネットワークから離脱して単独で東方はるかな日本にやってきたとは考えにくいことだ。
また、先に述べたように、秦氏がキリスト教徒であり、その拠点の稲荷山のイナイの呼称をイエスを表すINRIに同定する説は無理があり、
秦氏をキリスト教徒であるとする根拠が薄いことを考えると、東方諸教会と秦氏を結ぶ証拠は乏しいと言わざるを得ない。
これらをみると、秦氏と東方諸教会を結びつける要素はほとんどないと言わざるを得ない。
東方諸教会は、秦氏から外すのが妥当だろう。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 16:30:55.71
お前たちの論など、実際は相手にされていないんだけどなw
0731日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 16:36:57.46
他のスレにも書いていることなんだけど、
なぜ知っているんだと思う?詳しいというのか・・・w
0733日本@名無史さん
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2020/01/23(木) 17:36:50.79
>>720
さて、山城の深草を出て伊賀、尾張、多治比を経て武蔵へ向かう交易路の中継拠点が諏訪だ。
この諏訪とユダヤ教の間に関わりがあるとの説は、かなりの信憑性でもって語られている。
では、この諏訪と秦氏は関係があるか。
山城の太秦秦氏の神体山が松尾山であり、このマツオの発音がユダヤ教の種無しパンのマッツオとよく似ており、
また深草秦氏の神体山である稲荷山の元々の呼び名がイナイであって、これがトルコ語の降臨、下るを意味するイナイとまったく同じ発音であることから、
稲荷山はユダヤ教の聖典の出エジプト記にみられるシナイ山にみたてた命名ではないかと考えることができる。
このことから、秦氏は太秦から武蔵までの交易路をユダヤ教の出エジプト記などにちなんで命名をしている可能性が出てくる。
そこで、この諏訪に秦氏のトルコ語を重ねてみると、まず注目されるのが諏訪湖である。
この諏訪湖に秦氏のトルコ語を重ねてみると、

諏訪
トルコ語 su var(スバ)=水がある

つまり、諏訪(すわ)とは、トルコ語の「水がある」という意味であり、諏訪湖を指している可能性が出てくるのだ。
では、このsu var(スバ)は単に諏訪湖を指しただけの呼称なのかというと、どうもそうではないようだ。
先の太秦、深草の神体山の名が出エジプト記のマッツオ、シナイ山と関連付けて名付けられているような点からすると、
出エジプト記では、その後、ユダヤの民が砂漠で水に渇いたとき、モーゼが杖で岩を叩いて水を出す重要なエピソードがあるが、
この諏訪湖の水をそのエピソードに重ねてみると、ユダヤの民のエジプト脱出、シナイ山での神からの戒律の授与、そして砂漠でのモーゼによる水の湧出と、
マッツオ、イナイ、スバ(水がある)がぴったり重なるのだ。
どうやら、秦氏は、ユダヤ教徒のエジプト脱出から約束の地までの出エジプト記の旅を、武蔵までの交易路の上に描いているフシが出てくるのである。
つまり、諏訪は、ユダヤの民が砂漠で水を得たエピソードの地として描かれた土地であったとすることが可能になるのだ。
                     ◇    ◇
諏訪は、トルコ語のsu var(スバ=水がある)由来の地名なんだよ。
わははははは。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 18:11:07.12
731
読み解き方の違いニダ(╹◡╹)
0735日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 18:12:54.13
>>732
この千葉芝山の人物埴輪が出た古墳の築造は6世紀後半。
一方、同じ姿の人物埴輪が出ている埼玉行田の古墳の築造は5世紀後半。
この二か所の古墳にはともに非常に珍しい長方形の周溝が巡っている。
1世紀の期間にわたる二つの地域の古墳がほぼ同じテーマで造られていることは、
この100年間にわたって一つの思潮が継続していたことを示しているようだ。
特に、6世紀後半の千葉芝山と大和の政権とは直接的につながっていることからすると、
芝山と行田の勢力と秦氏は強く結ばれていた可能性がある。
芝山と行田の勢力を武蔵に送ったのは、当時大和の政権に深く浸透していた秦氏であったとすることが可能である。
0736日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 18:18:05.59
>>734
諏訪(すわ)の発音の解釈に、何か面白いのがあるかね。
鷲の解釈が一番具体的だな。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 18:29:43.84
>>734
えらく簡単に済ましてくれるな。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 19:18:56.75
>>734
諏訪(すわ)は、古事記では州羽(スハ)、和名抄では須波(スハ)。
語源解釈では、諏訪=沢(サワ)由来だとするものがみられる。
しかし、スハ、スワ音でもって沢を呼ぶ例は、他にはみられない。
また、沢(サワ)からスワ音への音韻変化も考えにくい。
諏訪=沢(サワ)説は根拠に乏しい。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 19:53:01.31
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14

韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。

http://www.ilbe.com/view/11226303291
0741日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 20:13:57.45
>>738
YAPを持つY−Eは地中海沿岸とアフリカに広く分布していて、このEの遺伝子を持つのはユダヤ人に限らないようだ。
YAPの変異を持つEと日本人のDは祖先をたどればYAPを持つDEだったということはその通りのようであるが、
Eを色濃く持つアフリカのベルベル人とも、同じくEを持つユダヤ人とも日本人のDは遠い親戚だということになるわけで、
こうしたYAP変異を持つEとの関係をユダヤ人のEにのみ関連しているとするのは、いささかバイアス掛け過ぎの印象。
ベルベル人も遠い親戚になるし、その他のアフリカのEの部族とも親戚だァ! ということになるね。
0742日本@名無史さん
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2020/01/23(木) 20:20:42.97
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14

韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。

http://www.ilbe.com/view/11226303291
0743日本@名無史さん
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2020/01/23(木) 20:28:45.07
>>734
出エジプト記のダイジェスト版をプリントアウトしたのが、太秦〜武蔵までの交易路ということだな。
このことと、行田や芝山のユダヤ教超正統派的人物埴輪を重ねると、秦氏はユダヤ教徒であったという炙り出しの絵が取り出せるということになる。
ただ、秦氏がユダヤ人であったかどうかは、まだよく分からないけどな。
ユダヤ教徒だったのは、おそらく間違いないだろう。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 20:35:42.67
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14

韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。

http://www.ilbe.com/view/11226303291
0745日本@名無史さん
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2020/01/23(木) 20:38:01.97
>>742
そして、今の韓国人は皆、どこかの両班の族譜につらなっているそうじゃないか。
中島みゆきが歌ってるだろう、〜みんなどこへ、行った♪
0747日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 20:50:00.25
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。

あちらで皿は盤と呼びます。

ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。

日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。

中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。

その時代差、約5400年。

弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
0748日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 21:02:16.98
サミュエル・ハンチントンが分けた文明

・中華文明
・ヒンドゥー文明
・イスラム文明
・日本文明 日本一国のみで成立している文明

・東方正教会文明
・西欧文明
・ラテンアメリカ文明
・アフリカ文明 ただし文明と呼べるかどうかは未定w
0749日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 21:16:15.65
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0750日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 23:51:30.66
>>729
さて、最後に残るのは原始キリスト教徒が秦氏だとする考えだ。
この原始キリスト教とは、イエスが刑死してから70年以前頃のキリスト者の教義を指すそうだ。
イエスが刑死したのは30年頃とされているので、ほぼ100年頃までがその原始キリスト教の時代だといえる。
この頃の彼らを表現するとすれば、ユダヤ教イエス派、あるいはユダヤ教ナザレ派とするのがよいとされている。
そして、このイエス教派は外部に向けて宣教を始めるのだが、イエスの死後10数年後にはシリアのアンティオキア(現在のトルコ最南部地域)で宣教を行っており、
この頃に彼らはキリスト者と呼ばれるようになったとされる。10数年でエルサレムからアンティオキアのおよそ500キロを北上したことになる。
こうした宣教活動を経て、信者自身が自らをキリスト者と称するようになるのは2世紀頃だという。
この頃までに新約聖書の文章が書かれたとされている。
つまり、新約聖書の記述ができるこの頃から原始キリスト教を脱し、ユダヤ教とは別の道を歩くようになるということのようだ。
このあと、4世紀初頭の313年にローマ帝国はキリスト教を公認することとなった。
さて、紀元100年頃までのユダヤ教ナザレ派の布教活動が日本に及んだかということであるが、
紀元100年頃といえば倭国の帥升が楽浪郡へ朝貢を願い出た時期だ。弥生後期が始まった時期に当たる。
この頃に日本へユダヤ教ナザレ派の布教活動がなされたとは、これは考えにくいというよりないだろう。
広大な中央アジアをどのように越えたかということも考える必要があるからだ。
そもそも2世紀初頭頃にはユダヤ教ナザレ派はすでにキリスト教として展開して行くのであるから、
秦氏が渡来した4世紀後半までユダヤ教ナザレ派が存続していたとは思えない。
つまり、秦氏原始キリスト教徒説は、やはりこれは考えにくいと言わざるを得ないのだ。
              ◇     ◇
なお、現在のキリスト教各宗派では、この原始キリスト教の流れを汲んでいるとするようだ。
カトリックであれ、プロテスタントであれ、おおむね自らのルーツをイエスの愛弟子たちの布教に求めているということになる。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/23(木) 23:59:23.17
>>749
あんたか、この突然玄関開けて入ってくるひとコマ漫画の作者は。
あまりにうますぎる。
著作権取っとけよ。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 01:20:57.20
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0753日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 01:54:44.83
>>750
というわけで、秦氏=キリスト教徒説はおおいに無理があるということになる。
そして、千葉芝山や埼玉行田の人物埴輪や古墳周濠の形をみれば、明らかにユダヤ教徒が5世紀後半〜6世紀後半に関東に住んでいたことが明らかだ。
このユダヤ教徒の関東入植を支援したのは秦氏だった可能性は極めて高い。
秦氏が拠点とした太秦(ウズマサ)地名は、ユダヤ教の幕屋を表していると考えることができ、この幕屋はキリスト教でないならばユダヤ教しか該当しないからだ。
つまり、秦氏は、渡来した同教者の関東への入植を支援したということなのだろう。
その入植地までの道のりを出エジプト記のエピソードにちなんで地図化したということだ。
次に、その到着地である土地を何と地図化したかみてみることにしよう。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 02:22:58.78
>>728
星を頼りに航海していた古代の方が
むしろ夜に航海していたんだよ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 02:49:34.99
ユダヤ教はトルコ語で地名をつけて回る宗教ではない
食事に関する非常に厳しい戒律がある
0756日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 06:37:31.73
アフリカから来ました
人類みな兄弟
0757日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 11:16:10.92
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0760日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:13:13.01
>>754
それは屋久島から奄美大島へ渡るような遠距離の渡海の場合。
沿岸を丸木舟で漕ぐ古代の場合、夜だと磯や暗礁で危なくてとても夜漕ぎはできんよ。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:14:49.13
>>759
鷲は、秦氏はギリシャ系のトルコ語を話すユダヤ教徒だと思っとる。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:30:12.98
>>759
太秦(ウズマサ)や稲生(イナイ)、諏訪(スワ)などはトルコ語を当ててみると、ぴったしカンカンだ。
それに壱岐(イキ)、筑紫(チクシ)、御身(ミミ)もトルコ語が当てはまる。
5世紀頃にトルコ語を話した渡来人がいたことを示しており、トルコ語を話した可能性のあるのはタリム盆地あたりから来た秦氏しかおらん。
その秦氏が上のように交易路の要衝に出エジプト記のエピソードにちなむ地名をつけているのは、秦氏が旧約聖書を聖典とするユダヤ教徒だったからだ。
これが最も妥当な想定だ。
筑紫(チクシ)は出口というトルコ語に由来しとるのよ。
黄身は筑紫(チクシ)の語源を何だと考えるかね。
一度、それを皆さんに披露してはどうかね。
わははははは。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:31:35.89
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0764日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:31:44.61
>>758
証拠がないわな。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:33:14.71
>>763
拍手、10回!
0766日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:33:30.98
我々は歴史を直視しなければならないせよ!李氏朝鮮こそ世界一の奴隷超大国だった - イルベスレッド 2020-01-14

韓国関連の歴史学者ジェームズ・パレ教授は、「同じ民族を対象に子々孫々継承して奴隷とした国は、朝鮮しかない」というテーマで論文を書いた。
バレ教授は、かつて、奴隷制度を完全に廃止した日本と、奴隷の身分継承を廃止した清を挙げ、朝鮮の奴婢制は、同族を奴隷とする相対的に過酷な奴隷制と見ざるを得ないとした。

朝鮮の人口の10%以下であった両班は選ばれた存在であった。
両班は国のために国防の義務と納税の義務がなかった。
手を土で汚すこともなく、書堂に行く時も本を包んだ包を年老いた召使いに持たせて従えながらも、食事や服、酒、肉があふれていた。
特に、大勢の妾と奴婢たちを相手に性的な欲求も思う存分発散することができた。

朝鮮は全体で、両班10%、平民40%、奴婢50%の身分制社会であった。

16世紀、安東の名門両班クォン・ボルが子孫に残した財産をみると、奴婢がなんと317人もいたという。
両班の家族1世帯が奴婢を300人以上抱えていたのである。

日帝時代に全女性人口のうち0.1%が強制的に慰安婦連行されたのが事実だったとしても、朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全女性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、おもちゃとして生きなければならない運命だったのだ。

日帝時代に全男性人口のうち0.1%が強制徴用として連行されたのが事実だったとしても朝鮮時代と比べればマシだ。
朝鮮時代には、全男性人口のうち50%以上が生涯賃金も受けられず、労働しなければならない運命だったのだから。

http://www.ilbe.com/view/11226303291
0767日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:33:54.45
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0768日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:35:13.76
>>755
トルコ語が食事と何の関係あるのよ。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 13:42:31.28
まあ、秦氏がキリスト教徒という線はないな。
異端として追放されたネストリウス派が中国に到達するのは唐代だからね。
それ以前にキリスト教らしい宗教は史書などにみえない。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 14:03:54.71
秦はpada、海という意味だ
故地が韓国南部の臨海郡ということだろう
0771日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 14:06:27.03
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0772日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 14:35:49.00
>>768

ユダヤ教がだろw
0774日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 15:15:43.39
>>770
前にも言ったが、波旦は地名は地名でもホータンのことだ。
この波旦は諺の一部として用いられている。
蔚珍の土地名ではないよ。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 15:19:38.16
>>772
ユダヤ教徒がトルコ語を話さないという発想が全然ダメ。
ユダヤ教徒がトルコ語を話している例が実際にある。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 15:29:50.69
>>775

ユダヤ教の食事に関する戒律の話をしてるんだが
0777日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 15:35:30.00
>>773
間違いない。
2万年前の氷河期の最寒期のものだろう。
旧石器人が造ったのだろうな。
このあたりは旧石器人の通行の要みたいなところだからな。
遠くから見えるから標識として祀ったのだろう。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 15:38:14.15
>>776
ユダヤ教は、イナゴ食はOKよ。
その他の昆虫はダメ。
まあ、イスラム教でも厳しい食物規定あるから、それより古いユダヤ教に食物禁忌あっても当然。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 15:59:10.37
ユダヤ教のカシュルートではブタを特に禁忌する
0780日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 16:16:51.68
>>756
そう言う資格はある。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 16:17:35.20
>>779
イノシシはええんか。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:02:29.40
>>753
ユダヤ教徒が東国に入植した最初は5世紀中頃だと思われる。
その地は、今の埼玉県行田市だ。この行田は京都から尾張、諏訪を経て利根川の最上流から少し東へ下ったところにある。
この行田のある埼玉と東京、神奈川の一部が、律令で武蔵国と名付けられたエリアだ。
そして、武蔵地方で最も大型の前方後円墳が造られたのがこの行田で、5世紀後半〜7世紀まで続く古墳群がある。そのうちの最初期の稲荷山古墳からは有名な銘入り鉄剣が出ている。
さて、この行田などを含む地方が武蔵(ムサシ)と呼ばれたことは述べたが、ではその武蔵(ムサシ)とはいかなる意味か。これまで可能性の高い語源解釈はみられない。
まったく不明と言っていい。
そこで、秦氏の交易路にみられるトルコ語由来と考えられる地名の例もあることから、この武蔵(ムサシ)にトルコ語を当ててみると、なんと驚くべき結末となるのだ。(続く)
0783日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:23:33.07
サシ、サスは焼畑を意味する古語
0784日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:30:15.45
>>782
これまで、京都の松尾山(マツオ=マッツオ)、稲荷山(イナリ=イナイ、降臨・下る→シナイ山)、諏訪(スワ=水がある→モーゼが水を湧出させた)とユダヤの民の出エジプト記のエピソードを当てた名である可能性の高いことを述べたが、
そうした例に従って、今度も武蔵(ムサシ)を出エジプト記などのエピソードに当たってみると、
交易路の最終到着地の行田は、ユダヤの民が向った約束の地に当たることに気づく。
その約束の地は、モーゼがユダヤの民を引き連れて向かったところであるので、その地はモーゼが向ったところということになる。
そこで、秦氏のトルコ語でこれを見ると、

モーゼ
トルコ語 musa(ムサ)

モーゼはトルコ語ではmusa(ムサ)なのだ。
そして、方向を示す和語は(し、シ)であるので、モーゼが目指したところはまさにmusa(ムサ)+和語(シ)=ムサシとなるのだ。
このように、トルコ語のモーゼを表すムサと方向を表す和語のシを合わせたムサシが(モーゼの目指したところ)の意味になるのは、単なる偶然ではないであろう。
このムサシに漢字を当てたのが武蔵であるのはいうまでもない。
このように、ムサシのムサの音がトルコ語のモーゼを表しているとみなすことが正しければ、この武蔵の地方名はトルコ語に由来していると考えることができ、
そのトルコ語を話していたのは秦氏以外には考えにくいということなのである。
つまり、秦氏が描いたのは、松尾山(マツオ=マッツオ)→稲荷山(イナイ=降臨・下る=シナイ山)→諏訪(スワ=水がある=モーゼが水を湧出させたところ)→武蔵(ムサシ=モーゼが目指したところ=約束の地)の双六式の地図だったということになるのだ。
関東地方に武蔵(ムサシ)という名を付けたのはトルコ語を話す秦氏だったことは、まず間違いないだろう。
                 ◇       ◇
そういうことなんだよ。
わははははは。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:33:15.99
>>784
電気ムサ(ムシャ)?
0786日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:33:50.18
武蔵の古名はムナザシ
0787日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:35:51.19
とある漫画?などにも出てくるでしょ、電気ムサ。
そういう役とか設定のキャラ、いじめられている?

ほとんど仮名、キャラクター名。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:41:29.97
>>783
そのサシ、サスは何語なの?
どういう成り立ちでサシが焼き畑地を指すのか不明。
説明が必要だね。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:42:38.34
ケンジくん、ケンジくん・・・・、
あの作品もそうでしょ?それとも他の作品だったのかな。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:46:23.93
『ザ・モモタロウ』という作品で言うとシュテンドルフ?

 実際は違うのかな、いじめられているキャラでしょ。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:52:21.41
>>783
所沢市教育委員会の「歴史物語」では、所沢市小手指(こてざし)の地名由来として、「武具の籠手にちなむとも、焼き畑による原野の開墾に由来するとも、原野に生えていた茨の名からきているともいわれるが不詳」とあるな。
要するに、サシが焼き畑による開墾地のことだとするも、よく分からんというてるのよ。
サシが焼き畑に関連する言葉だとする根拠は何?
アイヌ語なの?
0792日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 17:54:26.02
トルコ語じゃないことだけは確かw
0793日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 18:08:45.57
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0794日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 18:16:38.77
>>788
奥四万十山の暮らし調査団というところが書いているブログ「四万十町地名辞典」に多くの焼き畑関連の地名が記載されていて、
その中に「サシ・サス」の項目がある。
そして、「サシ、サスは焼き畑を意味する古語」と書いてある。
また「サスは関東に非常に多い地名」だとしている。
この「サシ、サスは焼き畑を意味する古語」だとする根拠は何だろうか。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 18:22:33.02
>>794
さるブログでは、焼き畑を意味するサシ、サスは朝鮮古語だとするものがある。
「サシ、サスは焼き畑を意味する古語」とする文言と「焼き畑を意味するサシ、サスは朝鮮古語」とする文言は同じなのかもな。
では、朝鮮古語にサシ、サスを焼き畑の意味で使っている例はあるのかということになってくる。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 18:24:56.46
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0797日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 18:41:01.65
>>795
上のブログは「晴徨雨読」の桟敷ヶ丘2/22であるが、
このブログでは「地名の語源」(鏡味完二)を引いて次のように書いている。
「…サシ、サーシは傾斜地を表す。これには焼き畑も表すのだが、古朝鮮語とするのは城をサシと呼ぶ事のようだ」
これをみると、どうやら、サシは焼き畑の意味の古語だとする考えは、この「地名の語源」あたりから引いているもののようだ。
しかし、この「地名の語源」では、サシの元々の語源は城を意味する朝鮮語のサシであるとしているようだ。
しかも、サシは傾斜地を意味するとも書かれているので、この傾斜地と傾斜地で行う焼き畑を重ねてイメージしたものではないか。
このようにみてくると、朝鮮語の古語にサシ=焼き畑を意味する言葉があったかどうか、怪しくなってくる。
一考の余地ありだな。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 18:49:00.62
>>792
この焼き畑のサシは朝鮮語の城(サシ)が元らしいな。
朝鮮の城は山城だから、城を指すサシが山の斜面の傾斜地をも意味するのは理解できる。
しかし、その傾斜地がどう焼き畑につながるのかね。
焼き畑は傾斜地でするとの思い込みによる単なる空想じゃないの?
朝鮮語に焼き畑を意味するサシの言葉はないだろう。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 18:58:35.53
>>798
現在の韓国語では、焼き畑はhwajeon(ハジョン)だな。
サシ=焼き畑説は、このハジョン(焼き畑)をサシ(傾斜地)の音に結び付けた解釈じゃないの?
0800日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 19:19:53.08
ハジョンがサシっていうのは朝鮮人の考えだろうね
0801日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 19:24:54.26
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
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                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0802日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 19:53:07.99
>>799
韓国語のhwajeon(ハジョン)の元字は火田だ。
火田民と呼ばれる焼き畑農耕民がいた。
李氏朝鮮の圧政で逃散し、山間に潜り込んで焼き畑をした。
この火田の発音がhwajeon(ハジョン)だ。
ハジョンのハシ(火田)が関東のサシの語源としたのが、サシ=焼き畑説だろうな。
しかし、このハシとサシはつながるのかね。
サシは城の意味だとしているわけだから、傾斜地まではサシでもいいが、焼き畑のハシにはつながらんと思うけどな。
焼き畑は山の斜面ですると思い込んだ空想じゃないの?
0804日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 20:12:52.69
トルコ語地名おじさん集団はエジプトを出たときからマッツァーが好きだったんだから
稲なんかつくらないで京都や関東で小麦を作ってパン屋を開店すればよかったのに
0805日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 20:19:26.51
メシアの到来を象徴する葡萄の木も栽培して
ブドウパンを売り出せば大繁盛するであろう
0806日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 20:41:11.24
>>802
まあ、いずれにしても、武蔵(ムサシ)は(ムサ・シ)であるとする考えを変えねばならないほどの説ではないな、サシ=焼き畑説は。
ムサはトルコ語のモーゼを意味する言葉で、ムサ・シはモーゼが目指したところの意味でOKね。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 20:41:59.50
おい
0808日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 20:42:17.39
まったくだ ユダヤ人が来てたら パン焼き釜ぐらい どこかの古墳群から見つかってるだろうし稲より麦育ててたはずだし米酒より葡萄酒のはず 民族に特有な文化的な証拠が全くないんよ
0809日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 20:49:36.94
>>803
焼き畑のサシは刺しかよ。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 20:53:24.61
>>804
餅があるじゃないか。
わざわざ味の落ちる小麦でパン造らなくても。
秦氏は餅をマッツオの代わりにしたんだね。
それ以来、日本でも神さんに餅奉げるようになったのよ。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 21:02:41.92
>>808
今みたいにイースト菌をスーパーで売ってるというようなことはなかったからな。
パンも葡萄酒もイースト菌が命なのよ。
このイースト菌を入れないパンがマッツオなの。
単に小麦粉を練って焼いてもうまいパンにはならんのだね。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 21:07:25.80
>>803
むっちゃおいしいコンブの意味か、ムサシは。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 21:23:57.21
トルコ→日本ってアイアンロードやん
0814日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 21:29:02.26
>>811

そのうまくないパンが好きなんだろ
トルコ語地名おやじ達はw
0815日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 21:35:25.00
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。

と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》

◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》


クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。

エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。

鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。

スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。

伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。


◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ

◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0816日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 21:56:53.75
>>813
最初からその話だぞ
0817日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 22:34:43.20
808
葦穂を最初に食い物にした連中探しゃあよいだ

稲も葦穂だろ
0818日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 22:35:24.66
葦穂が伸びるな湿地帯だろ
0819日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 22:39:42.47
稲も日本に無かったわけじゃない

稲作耕作が行われていなかった話だ

稲だけじゃなく稗、粟あたりも縄文時代の土器からでとる

縄文ツボ自体が穀類の入れもんやけな

あれは貯蔵庫にもなった

土中に埋めといて腹が減ったらツボから手掴みして食ってたんだろ
0820日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 22:50:14.26
本当の話なんだけど・・・w

『シュテンドルフ』〜『六芒星』

ウラシマンというキャラもいて、・・・龍宮〜の家でしょ。

ほとんど仮名、キャラクター名。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 23:20:37.42
>>811
イースト菌? 必要ならそれぐらい持ち込むし ユダヤ人は小麦も葡萄も育たない生活環境は合わないから日本には住まないよ
日本に来たのは稲作に適したこう高温多湿の湿地帯を探してた稲作やってたアジアの連中に決まっとるんやで 考えろ
0822日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 23:28:08.80
>>819


で、その証拠の菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?


で、菜畑より前の九州北部・中国地方西部出土の証拠の縄文壺は?


それにイネより前の雑穀の農耕遺構はない(下のリンク参照)


https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


壺は貯蔵器だが、貯蔵庫ではない

貯蔵庫は最初は地中の穴蔵を使っていたが、弥生早期じゅうに高床式倉庫が
半島南部から松菊里型住居とセットで江辻遺跡に伝わり、弥生中期までは穴蔵と
高床式倉庫の二本立ての貯蔵庫が使われたが、弥生後期になると穴蔵は
使われなくなった
0823日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 23:30:44.99
>>814
祭りだから種無しパン作って食べるのよ。
おしいとして食べるんじゃないな。
エジプト脱出するのに時間迫っているし、パン生地に種入れて寝かしとく時間なかったから種入れずにパン生地焼いて食べた、ということを忘れんように種無しパンを祭りで作るんやな。
それにしても、マッツオを松尾としゃれるのやから、日本語はちゃんと話せたということや。
二世のバイリンガルやろな、このしゃれの松尾を付けたのは。
0824日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 23:39:23.14
>>786
ムナザシは南武蔵の多摩川支流域が縄張りだったらしいな。
ムサシは埼玉など北武蔵。
そもそものムサシは北武蔵地方だよ。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 23:45:04.92
>>818
その葦を原材料として秦氏が造ったのが紙。
葦のトルコ語発音がkamis(カミ)な。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/24(金) 23:45:10.80
硬くてまずい松尾パンを日本のどこで食ってたんだ?w
0827日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 00:19:42.37
ユダヤ教で葦は神聖視してないな
0828日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 00:24:14.66
>>826
稲荷山の頂が餅だから、松尾山も頂で乾パン食ったのだろう。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 00:26:13.91
>>827
だから紙の材料にしたんだろう。
しかし、その紙を見た大和人は神聖視したらしいけどな。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 00:38:21.74
>>829

それユダヤ人じゃないだろ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 03:07:02.78
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0832日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 11:58:42.20
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0833日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 14:22:29.22
>>830
秦氏がユダヤ人だったか、ユダヤ人ではなかったか、定かには分からないな。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 14:29:52.70
しかし、語源解釈では、なんか適当に朝鮮に結びつけるものがあるようだ。
近いからと、むやみに朝鮮起源にしてはいかん。
武蔵(ムサシ)はム・サシで、そのサシは朝鮮語の古語の焼き畑を意味する言葉だというのも、実にいいかげんな解釈のようだ。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 14:35:21.96
朝鮮学はテキトーな言葉遊び
0836日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 14:49:35.40
>>824
ムサシに当てた漢字が武蔵。
この武蔵の字自体の発音はムソ、ブゾ。
なので、ムサシの発音はムサ・シの構成だと考えられる。
このムサと、多摩川支流域のムナザシは別の語彙であり、
ムサシの古名がムナザシだとするのは疑問だ。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 15:02:30.18
朝鮮語の焼き畑はハジョンだろ
0838日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 15:12:03.22
>>836

ムナザシが多摩川支流域というのは
どこから出てきたんだね?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 15:32:42.48
>>784
さて、太秦秦氏の神体山松尾山(マツオ=マッツオ)→深草秦氏の神体山稲荷山(イナイ=降臨、下る=シナイ山)→諏訪(スワ=水がある=モーゼが水を湧出させた)→武蔵(ムサシ=モーゼが目指した所)とつらなる山名、地名は、
出エジプト記やその他のユダヤ教の聖典の重要エピソードから採った双六式の地図だということができる。
いわば、太秦から武蔵の入植地までのルート説明だ。
それを出エジプト記のユダヤの民の約束の地までの旅として設定したということだ。
秦氏がユダヤ教徒であったことの証拠だといえる。
しかし、この双六式のユダヤの民の約束の地までの旅の地図で、ここに挙がっていない重要なエピソードが実はもう一つあるのだ。
ユダヤ教の聖典によると、ユダヤの民を率いたモーゼは、約束の地の手前で死に、目指していた約束の地に自らは入ることができなかった。
ユダヤの民が砂漠で水に渇いたとき、モーゼは神の指示に従って岩を杖で打ち、その岩から水を湧出させてユダヤの民の渇きを癒したが、
この岩打ちの際にモーゼは岩を2度打ったのだ。神が指示したのは岩を1度打つことだったので、この2度打ちが神の指示に背いたことになり、
約束の地を目の前にしてモーゼは死ぬことになったのだ。
この重要なエピソードが、これまでの秦氏の双六式のルート地図に欠けているのである。
ユダヤ教の聖典のユダヤの民の約束の地への入植までのエピソードから考えると、武蔵の行田の周辺のどこかに、モーゼの葬られた所が設定されているはずなのだ。
そこで、いろいろとみてみると、その「モーゼの葬られた所」が判明することになった。(続く)
0840日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 15:33:06.12
群馬、東京都、山梨、神奈川、静岡、栃木、茨城、千葉に
サス、サシ地名が多い
「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
「さねさし」は「相模」の枕詞
なので、武蔵はム-サシ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 15:39:40.41
縄文時代に何をしにモーゼさんが関東に来るんだよ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 17:14:49.81
>>840
関東にサス、サシの地名が多いということだ。
先に挙げていたムネザシと今回のサネサシからすると、相模地方に関連する言葉のように見える。
明らかにムネ・サシであり、サネ・サシだ。
ムネ・サシについては、胸刺国造の領地は多摩川の支流域だとされている。
そして、サネ・サシは相模の枕詞ということなので、相模国の範囲をみると、西は小田原の酒匂川、中央は茅ヶ崎の相模川、東は横浜の中村川の範囲とされている。
両者のサシに共通するのは、領域に関連する川に関係した何かの境の目印のような印象もする。
このことからサシとサカイの共通項を取り出すと、サ音である。
境は、サ(遮る)+界ではないか。
とすると、サシのサは(遮る)のサと考えることもできる。
このように考えると、サシは何かの境界を表す言葉ではないのだろうか。
もう少し考えてみるよ。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 17:25:54.72
国造は後世だな
0844日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 17:54:12.13
>>842
サシを何かの境界を表す言葉だとした場合、サネ・サシのサネはソネの訛りと考えることができる。
ソネは曽根とすることができ、曽根では北九州市小倉南に曽根干潟があり、大阪市北区曾根崎の淀川河口の砂洲がある。
曽根は干潟、砂洲の呼び名だとみなすことが可能だ。
相模国の東の境界である中村川のあたりの横浜村があったあたりは、江戸時代まで砂洲が海に伸びていたので、この砂洲が境界の目印となっていた可能性が考えられる。
とすると、サネは曽根の訛りと考えた場合、サネ・サシは干潟、砂洲でもって領域の境(遮り)としたその場所を指すのではないか。
この考えからすると、ムネ・サシはムネと呼ばれた場所でもって領域の境(遮り)とした呼称ではないかとすることが可能だ。
つまり、サシは何らかの境界を指すことばだとすることができるのではないか。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 18:10:58.38
柳田国男の地名研究では関東の焼畑に関する山間地名として
サスとソリがあるという
ソリは動詞でソラスになり荒らすことであるらしい
また、石川、岐阜、福井の山地では焼畑耕作をムツシ、アラシという
焼畑のために利用したのち放置して適当な休閑をおき,
再び焼畑に利用できるような土地をムツシと呼ぶらしい
0846日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 18:13:54.47
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0847日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 18:58:51.47
>>841
ユダヤ教の旧約全書を読めよ。
0848日本@名無史さん
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2020/01/25(土) 19:04:23.86
>>845
ムツシは(蒸すし)かもな。
放っておいて地味を蒸す(肥やす)。
サスはサシ由来かな。
朝鮮語のサシが焼き畑の火田(サジョン)に結びつきにくいことは述べたけどな。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 19:12:08.05
>>844
問題は、このムネサシ、サネサシとムサシがつながるのかということだね。
ムサシには武蔵の字が当てられていて、この武蔵の字はムサシのムサに重なる字だから、
ムサシはムサ・シだと思うけどね。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 19:36:13.50
焼畑のしばしば行われ、また地形のそれに適する区域を、甲州などは何々草里といい、
駿河・遠江ではゾウレといって、地図にはよく蔵連などという文字が宛ててある。(柳田)
0851日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 19:44:44.20
木簡や瓦では无耶志、无射志、牟射志だから
武蔵の漢字より音が先
0852日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 20:25:11.71
>>849
藤原宮木簡では、ムサシは无耶志(ムザシ)、牟射志(ムザシ)、牟佐志(ムサシ)、無邪志(ムザシ)と書かれているそうだ。
藤原宮は694年〜710年まで続いた。
一方、720年完成の日本書紀では武蔵国と書かれている。
藤原宮木簡に書かれた牟射志(ムザシ)などの表記を格好よく武蔵(ムサシ、ムザシ)と書いたものだろう。
その書き換えの際に、それまで書かれていた牟射志(ムサシ)などの志(シ)を落として武蔵(ムサ)の字を当てて、
これをムサシと読ませたのであろうから、
ムサがムサシの語幹であるのでシは落としてもかまわない、ということだったと考えることができる。
すくなくとも、日本書紀の編纂者はそう考えたのではないか。
ということは、当時、ムサシはムサ・シと認識されていたとすることができるだろう。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 20:28:57.84
好字を当てただけでシ音は落としていない
0854日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 20:33:30.08
>>850
焼き畑に関連したソリは、草里という漢字表記の漢音読みだということか。
草地のことだから、休耕してある焼き畑地の意味だな。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 20:51:24.22
>>853
武蔵はムゾ、ムソ、ブゾ、ブソとしか読めない。
これをムサシと読ませるのであるから、本来ならば武蔵志と書くべきところだ。
しかし、その志の字は落としているのだから、武蔵の漢字についてはシ音は落としていることになる。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 21:05:44.68
713年の好字二字令
0857日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 21:08:12.71
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。


◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕

◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット


鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。

鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。

甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。



稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
0858日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 21:09:55.85
波伯吉国は伯耆、可美都氣野は上野、之母都家野は下野
0859日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 21:49:15.74
>>856
好字二字令で変わったようだな。
之母都家野→下野
都家(ツケ)が落ちたのは都のツは津、家の毛は作物=稲なので、これは落としてもよいと判断したのだろう。
上の田と下の田で十分だということだろうな。
牟射志は、志を落としても不都合はないということだったのだろう。
志を落として牟射(武蔵)を残したということは、ムサシの言葉のうちムサが語幹であり、ムサが重要だったからということでOK。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/25(土) 22:20:25.29
>>859

毛は作物=稲なので、これは落としてもよいというのはお前の個人的価値観
上毛野朝臣を賜姓されている
0861日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 00:30:04.58
>>860
上毛野朝臣が賜姓されようが、そんなこと知るか。
上都毛野の中2文字を抜いて上野にしたのは律令の役人だろ。
藤原宮の役人に言え。
アホォォォォォ!
0862日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:01:44.34
>>861

改新の詔が発せられて豪族による土地の所有を廃止したわけだから
上毛野国の国名は上毛野氏が領有するイメージが強いんだな
だから誰が決めたか知らんがいろいろと考えたんだよ
武蔵にお前が妄想してるモーゼ(ムサ)の墓も松尾の硬パン屋なんぞも影も形も無い
0863日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:02:23.43
しかし、ムネサシ、サネサシのサシが何かの境界を意味しているかも、
というのは案外当たっているのかもな。
と言うのも、岩手県に江刺市があり、北海道に江差町があって、
ともに共通する地理的要件がみられるからだ。
岩手県江刺(エサシ)市は今は奥州市になっているが、
この奥州市江刺地区は坂上田村麻呂が設けた肝沢城の北上川をはさんだ東側の対岸にた当たる。
北上川の対岸から東側はエミシの土地だったわけであり、
この肝沢城の対岸の江刺区の土地がエミシとの境界になっていた可能性があり、
江(エ)は川岸であり、刺(サシ)は境界を意味したことも考えられる。
また、北海道江差町は、昔はニシンで繁盛した土地だ。
北前船はこのニシンで作った肥料を積み込むために江差の港に多数入港した。
そして、幕府は、北海道での北前船の入港を松前、函館、江差の3か所に限定していた。
ということは北前船は江差から北へは行かなかったということだ。
このことからすると、江差は北前船にとっては北限の境界に当たる港だということになる。
江(エ)は湊で、差(サシ)は境界を意味していた可能性が出てくる。
つまり、岩手県の江刺(エサシ)も北海道の江差(エサシ)も、
川や海の境界を表す表す言葉だったということになってくる。
要するに、このエサシは多摩川のムネサシ、横浜のサネサシと同じサシ(境界)ではないかということである。
そうなると、このサシのサ音は、遮る(サエギル)のサ、境(サカイ)のサ、坂(サカ)のサと同じ意味の言葉ではないか、ということになってくるのだ。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:11:21.08
>>861
ちょっと訂正な。

上から3行目の藤原宮の役人は、平城京の役人の誤り。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:11:39.98
北海道の江差は地形からしてアイヌ語の岬だろ
0866日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:16:23.19
>>862
武蔵の行田では、小麦くらい作っていただろう。
それで乾パン焼いて、皆に配ったはずだ。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:16:26.31
北海道は枝幸町もエサシ
0868日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:18:36.54
>>866

お前の話は山門の信号機付近の祭祀場と同じで全てお前の作り話だ
0869日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:20:44.87
>>865
アイヌ語にしたら、何でももっともらしく聞こえるからな。
江差に岬なんてないだろ。
今は島をつないでいるが、昔は沖の小島だ。
砂洲を岬と言うかよ。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:25:42.75
>>869

江差の陸側が岬だったんだろ
0871日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:35:08.64
江差の姥神大神宮あたりが岬だろう
0872日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:36:11.61
>>867
慌てるな。
梅ヶ枝村と幸村が合併して枝幸村になったんだよ。
ウメガエ村のエとサチ(サシ)村のサシを合わせてエサシにしたんだよ。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 01:51:57.99
>>871
そのあたりが浜だろう。
神社の先の海側はぐるっと埋め立て地だ。
岬じゃないな。浜だよ。
0875日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 02:06:11.30
江差の、姥神町南端、津花岬の一角に「折居の御井戸」と称する遺跡がある。
折居姥(於隣)の屋敷跡・姥神社の古社地と云われ、神域として信仰されている。

https://esashi.town/matsuri/page.php?id=131

岬が古社地
0876日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 06:57:33.11
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0877日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 12:21:22.32
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
0878日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 13:38:49.39
ナマズ信仰か
0879日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 14:43:53.52
>>875
江差の地形が岬と呼べるかどうかと、江差が北前船の北限であるということと、また別の問題だよ〜ん!
0880日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 14:49:35.96
>>873
枝幸町の町名は梅ヶ枝町と幸町が合わさった町名じゃないの?
アイヌ語のエサウシ(突き出た岬の所)とは無関係のようじゃがの。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 14:52:28.89
>>875
岩手県の肝沢城の北上川対岸にある地名の江刺(エサシ)はどうすんのよ。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 14:58:38.29
>>873
残りの4割の中に枝幸があるのよ。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 15:38:55.48
>>868
その作り話が、歴史の真実だったということだがな。
0884日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 15:52:04.87
サシは二つというような意味だな。
差し向かいと言えば、二人が向かい合っていることを言う。
またサシで勝負だと言えば、二人だけで勝敗を決めることだ。
この向かい合う二つがサシなら、江刺、江差、ムネサシ、サネサシも意味が分かる。
江刺は北上川をはさんで肝沢城の対岸の向かい合う土地だし、
江差も浜側と鷺島が向かい合っている。
サネサシも横浜村がある砂洲と本土側が向かい合う地形だ。
ムネサシは、多摩川の自然堤防で両側に向かい合った土地ということでokだ。
そうした向かい合う二つの土地の地形が、そもそも境界になることは多い。
なので、サシのサ音は、遮るのサ、境のサ、坂のサのエッサッサでいいのだ。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 18:40:06.72
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0886日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 19:51:15.86
さて、渡来者の入植地となった関東エリアを秦氏がムサシと名付けたのは、この入植地をユダヤ教徒の約束の地と設定し、
モーゼがユダヤの民を率いて目指した国に見立てたためだ。
つまり、秦氏のトルコ語でモーゼはmusa(ムサ)であり、そのムサ(モーゼ)が目指したところを指す言葉として和語の方向を表すシが当てられて、
ムサシ(モーゼが目指したところ)とする国名が創出されたというわけだ。
このムサシには牟佐志などの字が付けられていたが、好字2字で国名などを表す政府方針から、
日本書紀ではムサシには武蔵の字が当てられることとなった。
しかし、秦氏としては、ユダヤの民を率いたモーゼが死んで葬られたとするユダヤ教の聖典に記された土地を設定しないことには気が済まなかったのだろう。
武蔵(ムサシ)の行田にユダヤ教徒が入植した5世紀後半から100年後の6世紀後半に、行田の古墳と瓜二つの古墳が千葉芝山に造られる。
この芝山の古墳からは、行田の古墳から出土した帽子をかぶり鬢を長く伸ばして巻きいたうえに、
顎髭をたっぷり生やしたユダヤ教徒の超正統派の姿と同じ姿の人物埴輪が出土し、
またその古墳を巡る周濠も行田の古墳と同じ長方形に造られ、その上さらに二重に荘重に巡らされているのだ。
この古墳のある芝山の地は、6世紀頃に何と武社国(ムサノクニ)と名付けられて、新たな国として設けられたエリアである。
その武社(ムサ)は、武蔵(ムサシ)のムサと同じ発音であり、秦氏のトルコ語からするとモーゼの国の意味になるのだ。
つまり、モーゼが死んで葬られた国と解釈することができるのである。(続く)
0887日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 19:55:25.20
武蔵は牟◯◯がら始まる旧名あるだろ
0888日本@名無史さん
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2020/01/26(日) 20:04:12.14
>>887
ムサシがム・サシなら、そのムは何だよ。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 21:19:26.62
>>886
ここで、ユダヤの民を率いたモーゼが死んだ場所をみてみると、
モーゼはヨルダン川の手前のピスガの頂のネボに登って約束の地を目にし、
そして死んだあとモアブの谷に葬られたとされている。
秦氏はそのモーゼの死に場所を千葉の芝山に設定し、そして芝山の二重にしつらえた周濠の古墳をモーゼの墓に見立てたということであろう。
秦氏としては、ユダヤの民を率いて長い旅をしたモーゼに何か思い入れがあったのかも知れない。
地図でみると、この芝山は埼玉や東京の一歩手前の土地であり、約束の地を目前にして死んだモーゼが葬られた場所として申し分ないように見える。
ここで、芝山の地域に名付けられた武社(ムサ)国の成り立ちを見てみよう。
元々房総半島には一つの勢力が根を張っていたが、その半島の中ほどの地域に新たに別の勢力が進出し、元からの勢力はそのために衰退したと見られている。
この新たなせてりょくが進出した芝山地域では、6世紀後半に大型前方後円墳の築造が始まり、その支流とみられる古墳群も多数造られて行く。
そして、前方後円墳造営の終末期の6世紀末以降は方墳などに変わりつつも、この勢力は継続して行くようだ。(続く)
0890日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 21:27:44.85
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
0891日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 21:37:34.30
>>889
この武社国の国造は大和政権の最高位の臣の姓を受けており、
武社国が大和政権にとって極めて重要な位置を占めるものであったことが分かるとされている。
なぜ、このような高い地位を与えられたのかというと、これまで日本海側から東北地方へ進出していた大和政権が、
新たに太平洋側から東北地方に進出することを図り、この武社国を設けることで東北経営のための橋頭保を築いたのだと研究されている。
ここを拠点として陸、海ともに北上する方針をとったというわけだ。
その重要な国の名が武社(ムサ)と名付けられたわけであるが、武蔵(ムサシ)とともにこのムサはトルコ語でモーゼを意味することはすでに述べた。
そして、出エジプト記などのユダヤの民の旅の行程で唯一残っていたモーゼの死に場所のエピソードを新たに設定したのが、この国名だと解釈することが可能なのである。
芝山のこの古墳が行田の古墳と瓜二つであり、周濠は二重しつらえで行田の古墳よりも荘重に造られていることが、この解釈を導く物証となっている。
この古墳が造られたのが行田の古墳から100年後であることは、行田の古墳が造営された際の思潮が100年後にもそのまま継続していたことを示しており、
行田の勢力が単に芝山に影響を与えたということではなさそうである。
むしろ、行田と芝山が大和の政権と深く結びついた勢力によって運営されていたことを示しているように見えるのだ。
その勢力とは、太秦と深草の秦氏だったということは、おそらくまず間違いないと言えそうである。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 23:30:41.78
>>891
これで、秦氏出エジプト記は完成した。
その双六式地図の各地はすべてトルコ語で解けた。
秦氏はトルコ語を話したホータン出身のユダヤ教徒だったのだ。
そして、その秦氏はユダヤ人だったのか否か。
たぶん、秦氏はギリシャ系の改宗ユダヤ教徒だったのだろう。
そういうことだ。
わははははは。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 23:32:12.77
891
それ秦氏関係ないじゃん
0894日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 23:32:41.85
なんなんこの短絡のバカ
0895日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/26(日) 23:41:19.06
>>892
凄いよな 
隋の使節に「また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり」と言わせたり
京都では稲作を頑張って米作を広めた秦氏をユダヤ人認定して勝利宣言する こんなイカれた馬鹿には感心するが金輪際スレに出入り禁止にしてもらいたい
0896日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 01:48:23.98
>>893
この武社国の国造は孝昭天皇の子を先祖とする人物、あるいは和爾氏の先祖に当たる人物などとされているが、定かでない。
しかし、臣の姓をもらったとされるのだから、武社国が重要な国であったことを思わせるとされている。
この人事は大和政権の承認のもとに行われているのだから、武社国の国造は相当な立場にあった人物だろう。
秦氏と縁があった人物だろうな。
この人物の墓が問題の二重周濠の前方後円墳だよ。
この古墳を造営した勢力がユダヤ教徒だったということだな。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 01:50:17.46
>>895
なんかいろいろチャンポン煮転がししてるが、意味不明だよ。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 02:05:29.94
>>896
それに、6世紀の大和政権がわざわざ作った国に、和語として意味不明な名を付けていること自体変な話。
しかし、これが変なことでないのだとすれば、トルコ語で武社国を発音してみたらモーゼ国となるわけだから、秦氏が国の名付けに絡んでいたと考えることが自然なわけ。
しかも、その国の首長と目される人物の墓にユダヤ教徒の超正統派と同じ姿をした人物埴輪が出てくるわ、古墳の周濠がなんと長方形をしいるわとなれば、ユダヤ教徒の存在を想定するのがごく当たり前ということになるのよ。
当時、トルコ語を話すのは秦氏しかおらなんだはずだからな。
とにかく、武社国の国名のムサは、トルコ語で読めばモーゼということなんよ。
つまり、ムサの国といえば、モーゼが死んで葬られたところのことだとピンとくるのよ、トルコ語を話すユダヤ教徒にとってはね。
そのために、秦氏はそのムサの国名を付けさせたということだわ。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 08:14:02.71
麦食を捨てて米食をとった
そりゃあ米の方が美味いからだろうw

そんな瑣末な事より、なんヤハウェを捨てたのか
捨てていない。ヤハウェは八幡大菩薩としてよみがえっている。
音読みはヤハタだからな
0900日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 09:20:30.66
>麦食を捨てて米食をとった
>そりゃあ米の方が美味いからだろうw

こいつの思考回路はどうなってるんだ・・・ 根拠示せやハゲ無能
0901日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 09:26:35.32
>>897
どんだけ掘ってもヘブライ語のへの字も出てこないのに秦氏ユダヤ人説唱えてるオカルトキチガイが、だろ?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 09:36:07.18
世界で1カ所、食べる場所を選ぶなら日本だ

  アンソニー ボーディン

もし残りの人生、1都市の食事しか食べられないとしたら、迷わず東京を選ぶ。
シェフ仲間の大半がそう答えるだろう。変化し続け、好奇心をあおり、香り、
味、習慣が幾重にも折り重なって、永遠に予測不可能な場所、それが東京だ。

言葉が分からなくてもハッピーに人生を終えることが出来るだろう。
奇想天外で、素晴らしく、恐ろしく、すべてが不可解なゾクゾクする場所。
魅惑的で脅威的。混沌として、混乱していて強烈で、そして何より美しい。
0905日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 09:37:19.80
トルコ語話す秦氏とか言ってるのは匈奴が渡来した言ってるのと同じでユダヤ人は全く関係ない
あの時代の大陸のトルコ語圏でユダヤ人が暮らしていた痕跡などどこにもないわカスがww あるなら出してみろ

ユダヤ人がいたなら連中は万里の長城の内側に入って中華文明圏で商売してただろうし記録があるはず 一切ないわな
0907日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 10:34:34.62
まもなく中国はユダヤにより4分割される

ロスチャイルドによる中国4分割 韓国消滅
https://i.imgur.com/HfXPcc5.jpg
https://www.yodobashi.com/product/100000009002107075/
世界支配層は、「中国を4つに分割し、そのうちの1つにシオニストを住まわせる計画」だ。
すなわち、旧満州に「ユダヤ国家」を建国する。この大事業は、イスラエルが進め、
日本も資金的、技術的支援を行う。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 10:35:07.25
チャーチルはユダヤの傀儡だった
http://livedoor.blogimg.jp/shiderz402-seikei/imgs/b/a/ba6d19cc.jpg
チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。

借金は返せず、ヴィクトリア地区の汚いマンションに住んでいた。
そこにロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが、大戦が始まる1年前にきて
一つの条件をのまされた。その条件とは、首相になって第二次世界大戦を
引き起こすという条件だ

つまり、ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、
金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということだ。このことは世界中で起こっており、
日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つだ。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 11:39:33.77
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 12:26:54.58
> 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

中国ってどの範囲の話してんのこのコピペ馬鹿は? 曖昧すぎんだろ低能
0911日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 12:35:45.77
麦食ってのは聞いたことがないんだが

食ってまずいから粉にしてウドンだのソバに使うんじゃね?普通
0912日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 12:37:39.67
>>910

土器(北朝鮮人)が頑に隠していた真実
過去10年近く2CHで繰り返し天皇家及び秦氏等有名氏族を朝鮮起源だと、さり気なく煽っていたが、とうとう馬脚を現した。

954 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 (スッップ Sd70-CK3n) :2019/12/26(木) 16:12:05.87 ID:F/PQZLdKd
>>949
天皇はOで沿海州南岸から渡来した弥生人の後裔だろ

神武天皇の時代は朝鮮半島人の帰化はまだないぞ

朝鮮帰化人は4C後半の秦氏まで待たなければならない


『土器のハプロタイプはおそらくO1b2a1a2a(O-L682)』
https://www.yfull.com/tree/O-L682/
注意
日本の皇室をO1b2a1a1(O-CTS713)系統とする出所不詳の説があるが、これは朝鮮半島に多いO1b2a1a2a(O-L682)系統に近い種であると錯覚させようとするバイアスがかけられている疑いがあり注意
0913日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 12:37:46.56
米や稗、粟の混ぜご飯なら聞いたことあるが

麦って主食として食うには不味すぎるんじゃねえの?
0914日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 12:38:52.05
麦ご飯だの食うなほとんど健康食扱いだよな

普通は不味すぎるから加工に回すんだべ
0916日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 12:45:13.13
その進んでた中国や朝鮮が、一気に日本に追い抜かれたのはなぜw
0917日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 13:02:25.74
中国メディア 日本はなぜ何度も訪れたくなるのか
https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20191103013/
想像以上に素晴らしいから

理由として日本はどこに行っても気分が良いことを挙げた。
利用者に優しく、民度も高いので滞在していて気分が良い。
列に割り込まれる心配とストレスがなく、道を渡るのも危険を冒す必要がなく、
中国と違って車は自ら停止してくれる。

また、ショッピングや美食も想像を超えるほど素晴らしい。
日本のお菓子は驚くような味が多く、どれも魅力的で、陶器やガラス工芸もどれも美しく、
小型家電は乙女心をくすぐる良さだ。

美食に関していうと、すき焼きのおいしさには、ご飯が3杯は軽くいけると感激し、
天ぷらや、国宝級の神戸牛、さらには、たこ焼き、たい焼きなどのB級グルメもおすすめだ。
中国にとって良いことだらけで、訪日中国人が増加し続けているというのもうなずける。
日本は、これからも観光客に愛されることだろう


古代ユダヤ人も日本の居心地のよさにホレて、居着いちゃったんたんだろうなw
一神教とかどうでもよくなった。八百万の神の思想も、なかなかいいじゃないかと
0918日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:01:21.21
>>899
ヤハウェが八幡大菩薩としてよみがえったて、笑っちゃうわ。
ヤハウェの言葉は畏れ多うて、ユダヤ人は口にせなんだらしい。
その代わりにアドナイ(私の主)という言葉を使ったそうや。
それに、八幡(ヤハタ)はユダヤ人を意味するyehudi(イェフディ)が訛ったものやと日ユ同祖論者は胸張っているぞ。
しかし、トルコ語のユダヤ人を表すyahudi(ヤフディ)のほうが八幡(ヤハタ)の音に近い。
八幡(ヤハタ)がユダヤ人の意味だというのは、寝言だろ。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:06:30.24
>>901
もうこの頃には、ヘブライ語は話し言葉ではなくなり、旧約聖書を読むための文章語になっていたそうじゃないか。
ヘブライ語書いた文書が出てこないのはあたりまえ。
頭、おかしいのと違う?
0920日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:07:48.47
>>902
明治頃になって作られた嘘やろな。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:12:58.93
>>903
小麦粉は油気がないからパサパサして、これを練って焼いても旨くない。
何かの汁物につけて食べんことには、とても食えん。
パンと肉が取り合わせになるのは、そのためよ。
それに比べたら、コメはうまく炊くと絶妙に旨い。
まあり肉ものを必要とせんのだな、日本のコメは。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:20:55.82
>>905
クリムチャク人知らんのか。
ユダヤ人で、チュルク系の言葉を話しとる。
ずっと昔は、トルコ語話すユダヤ人はざらにいたのよ。
秦氏の先祖はホータンにいたのだから、普通にトルコ語を話した。
何の不思議もない。
カザフ平原で商売したユダヤ教徒は、なぜか中国に入らなかったんよ。
その理由は、道教、儒教が肌に合わなんだからからやろな。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:22:39.06
>>906
碧眼だったとすら言われているから、北欧系じゃね。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:23:57.92
>秦氏の先祖はホータンにいたのだから
秦氏の誰がそんなこと言ってた? 文献でも証拠があるなら教えてくれ 証拠もないのにお前の勝手な妄想を語るなよ
0925日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:25:20.36
>>907
いつ始まるん?
鷲が生きてる間に、それテレビで見れるんか。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:25:38.08
>>923
オカルトもいい加減にしてくれ
0927日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:29:19.60
>>908
アメリカにもそんな話があったぞ。
セオドア・ルーズベルトではなかったか。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:32:01.97
>>912
秦氏が土着半島人だという説は、ふた昔前の説。
今は、ホータン出身がトレンド。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:33:09.88
>>913
肉と一緒でなけりゃ、ムギはとても食えん。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:34:06.25
>>915
戦後に来たユダヤ人だろ。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:42:28.50
>>917
秦氏の先祖がホータンの交易商人だった可能性は高い。
日本の勾玉がアルタイ地方まで運ばれているから、その近くのホータンの交易商人には日本の情報はあったのだろう。
日本についてまったく情報がないままに、流民のように日本へ流れついたということではないだろうな。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:56:22.01
>>926
分からんぞ。
ヘレニズムの東方拡大で、碧眼の遺伝子が秦まで波及していたかもな。
0933日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 15:59:16.27
>>924
古文献に弱いな。
新撰姓氏録の秦氏の系譜みてみろよ。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 16:03:46.51
トルコ自体の母体になったやつらが紀元前のモンゴル高原あたりの支配者なんじゃねえかってのが説やがな

そいつらが西に行ってトルコあたりの文化の母体になった説がずっと有力やった
0935日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 16:04:09.07
やつら西に追い払われたの
0936日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 16:05:29.09
トルコあたりではそっちの文化継承が起こってるだろ

共通するのは東から西に行った連中らが持ち込んだ場合だけ
0937日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 16:09:44.32
いい加減に相手にするのも飽きたんだけど、
どこの工作員なんだ?
0938日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 16:11:00.83
『倭猿』?

ググってみた、本当のことばかりだから。
古代〜という話。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 16:22:06.03
中国などに対抗するために創られた話なんだろう。
〜ユ同祖論、大陸のほうから、渡ってきた〜〜王とか。

どうだ凄いだろうwみたいな話?
0940日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 16:54:14.90
>>938
どけ半島ゴミ
0941日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 16:56:25.34
>>933
読んでないけどホータン出身とは書いてない、「秦氏は漢人」であると書いてるのは皆知ってる話
お前は大学行っても進級出来ないなそれじゃ 妄想が過ぎる 非科学的なアプローチ 論外
0942日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 17:05:58.92
例えば仏教あたりに従事していた職人らが日本に渡ってきた説のが信憑性高いんやけどね
0943日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 17:16:50.36
ホータンミャンマー政府の起源は唐の王朝と血縁を結んだ連中らがやってきて王朝を樹立したやが?

つまり古代唐の政府の模倣から始まってる
0944日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 17:43:20.13
だから仏教絡みに従事していた職人連中らの総称だって方がイメージ湧くだな

秦氏の正体
0945日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 17:57:32.77
>>934
そのカザフ平原のトルコ系の遊牧民の間を商業で渡って来て、ホータンに交易商人として定着していたのが秦氏の先祖。
だから、トルコ語が日常の話し言葉だったわけ。
こんなことは、カザフ平原ではごく普通のことだったのよ。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:05:38.04
>>941
そら秦始皇帝の血脈だという系譜作ってるのだから、漢人の部類に記載するのは当たり前。
弓月君の子の浦東君が秦酒公の親だと系譜は伝えているのだけど、この弓月はホータンあたりのタリム盆地地方の中国の呼び名。
浦東の発音はホトゥ。タリム盆地地方の呼び名の弓月とホトゥを合わせると、このホトゥはホータンであることは簡単に割り出せる。
で、これまでにこの浦東君がホ―タンを指していると指摘したブログはいくつもみられる。
何も、鷲が初めて指摘したわけじゃないよ。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:12:37.90
オウムの・・・と同じような話。
古代何々(凄い存在)の〜末裔、生まれ変わり、〜など。

何か知っているとか?頭の良い人がいるのかな。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:13:52.30
>>944
法隆寺作ったのがペルシャ人職人だったとされてるな。
しかし、法隆寺できたのは7世紀初頭。
秦氏の先祖の弓月君が渡来したのは4世紀後半だからな。
秦氏と時代が違う〜!
0949日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:21:27.96
948
中国から来た連中らが勝手に住み着いて自分らだけで仏教を信仰していたやつらがいたってのは分かってるんだよ

それが4世紀あたりだろうとな

7世紀ってのは正式に認められた時代だっつ話

朝廷では寺院なんかも公式で建てられるよ〜になった

つまり勝手に来た連中らが非合法に建てまくった寺院らならそれ以前にもある
0950日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:23:34.18
まったく許可もなく勝手にやったやつらがいたんだわな
0951日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:25:22.92
日本で仏教の公布が始まるのは8世紀からだよ
0952日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:26:03.47
それが日本仏教の始まり
0953日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:38:52.50
>>943
ミャンマー北部のカチン州は良質の翡翠の産地。
ずっと昔はカチンの翡翠は中国で最良級の玉として人気があった。
ホータンの玉とカチンの玉が双璧だったの。
このミャンマーのカチンから中国への回廊は、さらにずっと昔には、ミャンマー沖で採れるタカラガイも運ばれるルートだった。
このミャンマー沖のタカラガイは中国の夏、殷の遺跡で大量に出土する。
ミャンマーと中国の関係は唐に限らず、そのずっと昔から続いているもの。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 18:50:16.77
>>949
百済へ仏教が伝わったのは384年とされているな。
4世紀後半。
ちょうど秦氏の先祖の弓月君が渡来した頃。
ホータンから来た弓月君が百済に住み着かなかったのは、仏教のこともあったのじゃないの。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 19:04:46.08
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0956日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 19:10:00.43
ほんに黄身らは、秦氏を朝鮮に結びつけたがるな。
秦氏が朝鮮土着の氏族という線はない。
どこを掘っても、その骨は出てこん。
秦氏の血脈は、アナトリアの黒海沿岸のコミュニティーに入植したギリシャ人だ。
このギリシャ人がユダヤ教徒に改宗し、その中の者が商業でカザフ地方へ出て、そこからホータンまで進んだのよ。
朝鮮土着の氏族の線はどこにもないな。
諦めろ。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 19:27:38.42
だからあ根拠を示せよ妄想キチガイ
0958日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 19:28:40.71
ホータン弓月君が百済に来たってどこに書いてる情報なんだ? お前の脳内じゃないよな
0959日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 19:40:13.36
>>946
おいおい何が「当たり前」なんだよ
秦氏は半島の残留漢人だから先祖は始皇帝の孫の〜王なんて話もある程度説得力が合って許容の範囲内だっただけ、でしょうよ

「ホータン出身のトルコ語話すユダヤ人」が日本に来てそんな作り話して認めるわけねえだろう
本物の大陸系渡来人がワンサカいるなかで 何でそんなアホな作り話できる? 通用するわけねーだろカス
0960日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 19:44:11.04
>>957
朝鮮土着氏族の線は、蔚珍の波旦だけだろ。
この波旦はホータンだ。
朝鮮にホータンがあるのか。
あるとすれば、黄身の頭の中だけじゃ。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 19:46:29.05
>>958
日本書紀を読め。
弓月君は百済のほうから来たと書いてあるじゃろが。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 20:16:49.49
>>959
姓氏録できたの平安初期だからね。
その頃には出自がどこの誰なんて、皆目分からなくなってるのよ。
だから、皆、好き放題に書けるし、実際書いてるわけ。
それでも、大陸の蛮族が出自だと誰も書いていない。
箔付けるの大好き人間ばっかなのよ。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 20:31:45.75
中華(漢人)では駄目なんだよみたいな、派閥(工作?)があるんだろう、
中華だと、某(例えば、倭何やらなど)よりも上になってしまう。

とか。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 20:51:15.22
それと、なぜ、この話(例え)ばかりしているんだと思う?


日本の某ロックバンド(オズボーンの影響下)よりも、
オズボーンのほうが確実に上だしな・・・。

とか、そういう例え。

日本では某(確実にオズボーンの影響を受けた)のほうが人気もあって、
ランク(?)などの上なんだけど、実際は・・・。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 21:03:55.61
例えば『渚・モデラート』

出生名、劉となっているでしょ。

あと倭の五王〜その辺りを調べてみて。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 21:07:46.87
ジャスティス・孫も同じ。
実際は、日本の・・・より上?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 21:10:16.66
963
あるよ

当たり前の話じゃん
0968日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 21:12:35.69
それ認めるならそれ名乗った連中らに支配されるだけやで(╹◡╹)

つまり成り済ましだろができるだろ?
0969日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 21:13:09.68
966
なに言ってんのおまえ
0970日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 21:40:38.27
>>959
弓月君を融通王と漢名に変えてるじゃん。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 21:43:19.61
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 22:46:31.18
コピペ野郎、お前の言う中国の範囲ってどこからどこまでなんだよ 曖昧すぎんだろ低能
0973日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/27(月) 23:49:42.04
>>972
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0974日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 00:25:32.00
島津氏はどこから来たの?
0975日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 07:53:31.19
秦(はた)という名前はどこから来たか。

背乗り。
秦氏が来た頃、日本でスーパースターがいた。
百濟アケ王擁立に功績があった羽田矢代宿祢である。
この羽田という名前に便乗した。

20世紀、在日が竹田姓を名乗り始めるのも、
明治天皇ゆかりの由緒あるこの姓に便乗したのである。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 11:28:57.21
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
0977日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 12:24:39.23
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0978日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 13:49:09.15
>>975
単に音が似ているだけかもね〜♪
0979日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 13:50:36.65
>>974
惟宗氏との接続が微妙。
繋がっているなら、秦氏だけどね。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 13:56:47.35
>>975
有名氏族の姓を借用したのであれば、波多、あるいは羽田などそれと分かる字を当てないとな。
秦氏の系図にその波多、羽田の名を名乗った支流は見当たらん。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 17:02:26.48
だいたいが、秦氏をあれこれと結びつける者が多いが、ほとんどが時系列をゴチャゴチャにしており、根拠をはぐらかしている。
唯一まともなのは、鷲だけ。
秦氏ホータン出自、4世紀後半に宇治から伏見の深草に進んで定着した。
それからほどなくして太秦にも拠点を設けて、宗像からの人的・物資的集散の場とした。
この太秦に秦氏が別の目的で力を入れるのは5世紀後半になってから。太秦に古墳が造られ始める。
その財力が関東経営にも投下された。行田に人が送られ古墳が造られ始めるのもこの頃だ。
また、東国の物産が集まり、志摩の海産物も集まる伊勢の運営を仕切ったのも同じ頃だ。
そして、6世紀後半になると、大和政権の東北進出を支援して千葉の芝山に新たに創出された武社国にも人を送った。
これが、秦氏の経歴だ。
わははははは。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 18:37:50.42
わははははは。
これがトルコ語を話すホータンからの渡来者の国内での活動の大枠だ。
ユダヤ教徒だよ、間違いない。
黄身らに解明できるはずがない〜!
アホォ〜!!!!
0984日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 19:20:25.20
まあ大友氏や島津氏の祖の母親がどちらも頼朝の側室なんだけどね
0985日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 19:22:24.41
頼朝の側室が生んだ子供が島津忠久、大友能直なんだけどね

細かいことは気にしないだ(╹◡╹)
0986日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 19:22:43.55
まあ秦氏なんやろ
0987日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 19:47:15.15
ロスチャイルドと毛利元就

矢は1本なら直ぐに折れてしまうが、5本束ねると簡単には折れない。
だから5人兄弟 助け合って生きていけ という家訓。
何処かで聞いた話だな と思ったら 毛利元就の3本の矢だ。

ただし毛利とは逆だ。毛利は矢を束ねるように兄弟団結して折れないようにする一致団結型
ロスチャイルドは兄弟バラバラに生きて、一人駄目になっても他は生き残って行くリスク分散型

これ豆な
0989日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 20:08:14.64
>>972
江南から来た来た詐欺のサギサギチンコロが顔面に風穴を開けられた瞬間



589日本@名無史さん2020/01/02(木) 02:07:18.22
>>570
いや、江南の話だが。

江南の高床式「住居」は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式「倉庫」を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式「倉庫」が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。


>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。

>  @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
>     ロングハウス式高床建物
>  A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
>     木骨泥墻・環濠村
>  B石家河期(前2600〜前2000年)
>     木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html
0990日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 21:06:57.48
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&;aq=-1&oq=&ei=UTF-8
0991日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 21:51:39.38
釜だの鼎だの当時の渡海レベルでわざわざ持ってくると思ってるのがお目出度いわな 想像力0だね
0992日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/28(火) 23:45:49.28
わははははは。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/29(水) 00:30:04.02
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0994日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/29(水) 10:45:55.23
>>990
海外いくのに馬鹿重い釜や鍋持っていくんだこのコピペ馬鹿
0995日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/29(水) 11:08:01.38
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0999日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/29(水) 12:39:30.36
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ 秦氏もきっと
    |┃ ≡ .∧_∧  < 韓半島出身ニダ!
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  きっとそうに違いないニダ
    |┃=_     \ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


       トンスル飲んで寝とけウソツキ種族
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
1000日本@名無史さん
垢版 |
2020/01/29(水) 13:39:11.43
わははははは。
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