【初心者】スレッド立てる前に質問をPart40【歓迎】
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<お願い>
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・質問が続くようでしたら,「名前」欄に「最初の質問のレス番号数字」を入れることをお奨めします。
・ここは日本史板なので,沖縄史は対象として不可です。
・このスレでは過度な論争は自粛してください。政治的な主張の場ではありません。
・煽り質問もままあります。スルーしてください。
前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart39【歓迎】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1574256603/ 飛鳥時代・平安時代の疫病で新型コロナやSARSのような症状のものありますか?
この時代の疫病って中国から持ち込まれた感染症だったりしませんか? 中国発祥じゃない疫病であっても中国から直接もしくは中国から朝鮮半島経由のどちらかでしか日本に入り込まなかった時代だと思う 渤海との交流もあるし、満洲・沿海州からくる可能性だってないわけではないだろう 渤海も満洲,沿海州も中国だろう。唐の領域ではないが 長城以北を中国と言い張るのは
かなり強い違和感があるな 満州はともかく渤海は半分だけ中国の中だろ
渤海郡を中国の域内における拠点としたから渤海という国名なんだし 古代日本には馬がいないとされますが
東北地方が馬の産地になったのはいつからですか? 奈良時代の天然痘大流行はかなりの規模だったみたいだけどな
政権中枢の藤原四兄弟はじめ人口の約三割が亡くなったといわれる
この流行の影響で奈良の大仏と全国の国分寺の建設、墾田永年私財法が成立 中国人は元々、新型コロナに変異したコウモリのコロナに耐性があり
アメリカ人に感染して変異したタイプが東アジア人に感染したという説
変異したことで東アジア人にも感染するようになったがやはり致死率が低い
日本人は飛鳥・平安のどこかで中国人が感染したコウモリコロナに出会ってたんじゃないかと
【新型コロナ】A型(米豪)→B型(東アジア)→C型(欧州)、突然変異で三つのパターン形成…武漢発生源は証拠なし?
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1586960792/l50 昭和の戦争で中国が満洲を侵略した後の事情で歴史を捏造してはいけない >>16
んなことはない
「古代」の範囲を知らないのか何なのか明らかでないが、
小学中学で習う初歩中の初歩の日本史くらいは勉強しておいたほうが良いぞ 東北地方南部は奈良時代のうちに日本の一部として扱われてるよな
中部は平安時代に入ってからだが、平安時代は古代だし。
しかし、東北地方の北部が日本の一部として組み込まれたのは奥州藤原氏を滅ぼしてからで、つまり中世に入ってからだよな 奥州藤原氏は「鎌倉幕府に」服属しなかったから日本人ではないとかいう珍説?
古代に鎌倉幕府なんてないのだが
既に斉明天皇の時代には津軽の人々が朝廷から官位を賜っていた
平安時代には郡も設置されていた
古代から日本だね 蝦夷は「天皇陛下に」見捨てられてたから日本人ではないとかいう珍説? 奥州藤原氏が日本の地方豪族としては最初に東北地方の北端まで支配した、それまでは北端を支配するのは日本の豪族じゃなくて独立した現地豪族(アイヌ系か? 不明)
しかし、藤原氏はその領内を(従来から日本の一部として扱われていた地域を除いて)日本の一部という形式にせず、化外の地、外国として統治する形式にして、自らは朝廷に従っていた
だから北端まで日本として扱われるようになったのは鎌倉時代から >>19-20
古代の東北地方は、面の支配ではなく点の支配、一部の領主が朝廷に従っていて、飛び地的に朝廷の支配下の土地が散在してるだけだよ
面の支配が及んでたのは東北地方の南部だけ、多賀城とかあたり
平安時代になると秋田城介とかあるように、もっと北進してるけど、面の支配ができてるのはもっと南部だよね
奥六郡あたりになると、面の支配ではないよね
奈良時代のうちに支配が及んだ地域だって班田収授はほぼ施行できてないし いや。阿弖流爲や安倍忠頼(晋三の先祖)は日本人だったろうに >>23
安倍氏は中央から赴いた天下り系なのか現地人なのか不明確だろ
阿弖流為は現地豪族だろ
どとらも、明確な日本人とはいいきれない 長髄彦や卑弥呼は日本人だろうけど、阿弖流爲や安倍忠頼は明確な日本人とはいいきれない >>25
現地人だとしても、日本の服属して名前まで日本風にしたのなら最早日本人
その後に反乱して鎮圧されたことを理由に日本人ではないとすることはできない 明智光秀って土岐源氏だったので征夷大将軍になれる資格はありますよね
本能寺の変は朝廷のために賊の信長をやったという話ですし変のあとに征夷大将軍になっていれば光秀に味方する大名は増えていたのでは? 大返しで時間がなかった
朝廷も下手なことをして敵視されたくないし慎重にならざるを得ないだろう >>31
就任手続きに時間かかるしな
でもひょっとしたら、内定してる扱いしてたかもしれんね
光秀滅亡後には大慌てしてるし、その前後の日記が欠落してる現象とかもあるし もう爺の光秀に味方なんて誰もしないよな
先が無いもん 少なくとも、本能寺の変の直後には朝廷の人々の多くが(洛中の商人含めた有力者たちも多くが)光秀に取り入ろうと、おもねったと思う
なんせ武力で信長を滅ぼした直後だ、ヘタに機嫌を損ねたらなにするか分からんしな
その間に光秀と懇意にした、懇意にしようとしたことじたいが秀吉の時代になると失点となったから、記録がない。処分されちゃったんだろ 義昭から無理やり将軍職を奪うの?
それこそ光秀討伐の大義名分になるよ 信長の領内では国衆の名前があまり挙がってこないのは中央集権が進んでいて国衆は織田家直属の家臣になったなのでしょうか? >>31
幕府開くのに清和源氏とか関係ないぞ。
室町の足利氏はたまたまで、徳川はどこかの名家の末裔と
いうことにしたくて、こじ付けで清和源氏にしといた。
そもそも鎌倉幕府4代目以降は藤原氏や皇族将軍になってる。
>>34
親族の細川親子が謹慎したのに対し、泣き言めいた
書状送ってる時点でアウトだわな。
(藤孝を取り立てるためで天下平定したら隠居する、とか)
他に味方した人といえば、混乱に乗じて旧領を回復しようとした
京極や武田くらいで彼らは真の味方とは言えないし。
秀吉が大返ししなくても立ち枯れた可能性大だと思う。 細川の文書は藤孝が捏造した文書という説もあったのでは >>36
光秀の本意ではないかも知れないが、
将軍職は天皇から賜るものだから光秀討伐の大義名分にはならないだろう 明智の書状が秀吉に奪われず無事毛利の下に到達したらどうなったか
明智と毛利が同盟すれば多少は可能性が出てくるか 100年前のスペイン風邪のときはどうやって立ち直ったんだろう 二年三年と長くかかったことやら感染者総数から考えると集団免疫で収まったとしか思えない>スペイン風邪 これだけは欠かさずみてる
日本史好きなら絶対みろ的なテレビ番組あったら教えて >>46
ぶらたも
ヒストリア
ちえいず
DJ日本史(ラジオ) >>41
中立同盟ならともかく、攻守同盟は作れないだろう。
秀吉を挟撃するのがせいぜい。
織田家は信雄の軍が無傷で残ってて、信忠の美濃や尾張の
軍も糾合できるだろうから、明智の前途は明るくないと思う。
この地域で味方しそうなのって、失地回復を狙う安藤守就
みたいな人しかいないだろうし。 勿論、「真の味方」というわけにはいかないだろう
でも、秀吉の件は毛利と利害一致、勝家の件は上杉と利害一致で後方を脅かせる
信雄と信忠くらいは明智で何とかしてほしいね
徳川が味方に付いてくれたら良いけどな
でも仮にその場は大成功したとしても光秀の後を継げる者がいるかというと厳しいか 信忠は明智が最初に殺してるよな
信雄は、前後の行動が怪しくて、ひそかに光秀と共謀してたのではないかと疑う余地さえある状態と思う
もし光秀が「信長の首をとった、討ち取ったぞ!」と宣伝できてたら三日天下にはならなかったのではないかな 家康って名家好きで守護大名の末裔を探し出しては
旗本にしてあげてますね。
武田、一色、畠山、赤松、山名、今川、吉良など。
でも細川京兆家、斯波武衛家はどうして取り立てて
あげなかったんだろう?
名門中の名門だろうに。 ローマ帝国がキリスト教を国教化したことよりも、キリスト教を公認したこと(ミラノ勅令)の方が
歴史上の重大事項とされているのが意外に思える
弾圧→公認→国教化という流れで、弾圧から転じた歴史的価値は大きいが、長い目で見たらやはり
「国教化」の方が重大事項のような気がしないでもない ミラノ勅令 → 信教(もち基督含む)の自由を認めた法令 <人類の歴史の進歩を著わす>
国教化 → (実体は)アタナシウス派の他宗派への弾圧活動 <負の歴史>
どうだろう? 源平合戦のころは兵が全員ぶつかりあうような総力戦はほとんどなく、
代表が何人かきりあって勝敗が決まるみたいなことをどこかで読んだのですが、本当ですか?
それと元寇のころの鎌倉武士って戦争を知らない世代しかいなかったので江戸時代みたいに平和ボケした状態ですよね? 代表者だけで戦うという風習はなかったと思うけどなー
ただ、戦国時代と比べて戦闘員が少なかったのはたしか
戦闘員は騎馬弓兵に分類されるらしい「武士」だけで、足軽も雑兵もいないから、人数が少ないんだよね
戦闘員より何倍か多い従者・下人が同行してるけど、戦闘要員じゃない
そして、だ
鎌倉時代は頻繁に紛争があって、平和な時期の方が少ないぐらいだから、江戸時代と違って平和ボケする暇はなかったはず >>55
そういう解釈も成り立つけどね
ただ、当代随一の大帝国がキリスト教を国教化する
つまり、それ以外の宗教は認めない、というのはすごいこと
ローマ帝国の国教化がその後のキリスト教や世界に及ぼした影響も
めちゃくちゃ大きいだろう 和弓って現在では弓道部の人が毎日的に当てる練習をしていますが、昔の(武人はともかく)弓隊の足軽は弓の稽古を日々していたのでしょうか?
あと武田の騎馬隊とか馬に乗りながら槍を振るう稽古をしていたのですか? 弓はもともと足軽の武器じゃなく正規の武士の武器だった
武士の主力の武器は刀ではなく弓だった
もちろん日常的に練習はしていた 江戸時代の旗本って江戸在住が義務付けだったそうだけど、
隠居しても領地に住めなかったの? だいぶ前にタバコは昭和人でも吸わないと
他スレで言われました。
かなりショックでした、父が
元喫煙者で今、慢性気管支炎を
患っているので。
祖父も元喫煙者で直腸ガンで死去。
ちなみに自分は非喫煙者です。
って言う事はタバコは明治人や大正人に
好まれるのですか?
まさかタバコは江戸人に好まれていたとか?
いまいち日本の喫煙に詳しくありません、
詳しい人は是非教えてくれたら非常に
有り難いです。
気になって×2、仕方がありません。 タバコは明治から昭和の成金趣味
昭和人でも吸わないってのは昨今は昭和生まれでも吸わないってこと
それを理解できないあなたの脳には病気があります 昭和末期ごろには、成人男性の大多数は喫煙者だった
低所得者でも買えるよう税率の低い低価格タバコもあったし、普通のタバコもそう高い値段ではなかった 煙草を吸うのはマナーだよ。平成に入ってから煙草CMが規制され,分煙が徹底され,禁煙に到る
今は喫煙シーンですらタブー扱い >>62
旗本って幕府の直臣だし、大半は幕府の役人が他の旗本たちの領地も合わせて一括で領地を治めてて、自分の領地を治めることができなかったからね
正月とかに領民があいさつに訪れる以外に交流がないのが普通
五千石とか大手の旗本は別だけど 多数の小国に分立していた中から、その中の有力国のプロイセンが統一して「ドイツ帝国」を築いたのは、
薩摩(とか長州とか)が統一して「大日本帝国」を築いたようなもんですか? お城や歴史博物館のお土産になっている嘉永年間大名地図を買ってトイレに貼って眺めてるのですが
その中で三人だけ卿が付けられているのに気付きました
その三名は加賀宰相、水戸中納言、尾張大納言でした
将軍家慶と紀伊中納言には付けられていませんでした
また島津や毛利など後の勝者にも付けられていません
はたしてこれを作成した方は何を持ってこの三名に卿をつけたのでしょうか? >>68
ドイツの場合、ドイツ全土を統一することを諦めて「2つのドイツ」という方向で統一を進めていった
東ドイツのことじゃないよ、オーストリア帝国とプロイセンの2つって意味な
日本で喩えれば、薩長が幕府を滅ぼさずに幕府系の東日本国と薩長主導による西日本国に分けて、それぞれ別個に統一しようとするようなものかと 今井信郎って自分は見張りしてただけって言ってますが、
龍馬暗殺時の詳細とかがWikipediaにのってますよね?
自供して殺したって言ったのか、あくまで見張りだけと言ったのかどっちなんですか? >>70
「卿」は参議以上大納言以下の貴族にたいする呼び方だから
尾張水戸加賀は当主が参議か大納言になってる
嘉永の時点だと家慶は太上大臣で当然大納言より上
紀伊家は当主が後継いだばかりの子供の慶福(家茂)でまだ参議になってない
毛利(敬親)も島津(斉彬)も官位が参議より下 >>73間違えた
家慶は左大臣
太上大臣は死んだあとだった >>64-66
有り難う御座いました。m(_ _)m
自己解決しました。
日本の喫煙は江戸時代に伝わった様です。
西暦1603年辺りの頃に・・ >>73
ありがとう
将軍は公なんだな、付いてなかったけど
紀伊中納言慶福て書いてあったけど嘉永年間には左近衛権中将
さらに将軍になって安政になってから参議なのか
中納言は誤植か >>76
今のような紙巻きたばこって戦後に出てきたんだっけ、戦後に普及した(登場は戦前か戦中)か、どっちだっけ
戦中のタバコ販売(配給だった)は紙巻きじゃなくて計り売りだったことは、当時の販売店の祖母から聞いている 明治5年、土田安五郎が紙巻きたばこの販売を始める
明治27年宮内省が菊の御紋入り恩賜のたばこ製造委託を始める
紙巻きたばこがたばこの中で主流となったのは日本では第一次大戦後のことである
大正12年、紙巻きたばこが刻みたばこの製造量を初めて上回った >>79
天皇から賜わる「恩賜の煙草」というのが映画やドラマでたまに出てくるけど、紙巻きタバコだよ。 >>79
キセルに詰めるための刻みたばこと、紙巻き用のたばことは葉の刻み方が違うので、その戦時中に量り売りをしていたというたばこが紙巻き用であるのなら客が自分で紙に手巻きして吸っていたのだろう 計り売りのタバコ葉の件だけど、たしか何種類か扱ってたはずなので、両方あったのではないかなあ
紙巻きをおいてたかどうかは、聞いたのに忘れたのか聞いてないのか、どちらだろうか
当時のキセルの現物も残ってるよ
あと、当時のものかどうか不明だけど、飾り用っぽい物も残ってるよ 江戸後期に樺太とかを案内してくれたアイヌ達にお礼として与えた品物の中にも煙草があった
これはどんな煙草だったのだろう タバコは大きな葉っぱだが、そのままであの小さなキセルの火皿に詰められるわけもないのだから葉っぱを刻んだものだっただろうよ
刻みたばこは紙巻用とは違って極く細く葉を刻んだ繊細なものだったな 時代劇で御馴染み、銭形平次親分が居間に座ると前には物入れまで付いた立派な火鉢(と言っても木製のサイドテーブル風)がデーンと据えられていた
炭火で暖も取り、湯も沸かし、煙管(キセル)に詰めたタバコに火も点ける
子分のガラッ八が親分てぇへんですぜと駆け込んでくると、親分はきせるの雁首を火鉢の角でパーンと叩いて煙草の灰を叩き落とし、捜査活動に出動したものだ 公家はなんで藤原北家だけ一人勝ちしたんでしょう?
南家とか式家みたいな乱を起こした家が没落するのは分かるが。 みんなで仲良くより一人勝ちするのが歴史のありようでは?
五摂家並び立ったことのほうが不思議だ >>89
いや、だから何で一人勝ちしたのかって疑問です。
物部、蘇我とかわが世の春を謳歌した一族は追い落とされてますよね。
どうして藤原北家だけ長続きしたんだろうと。 主要な貴族家を家臣にして取り込んでいったことが大きいような気もする
多くの貴族が朝廷の臣であると同時に藤原氏の臣でもあった。
あと、朝廷の財力が衰えて、藤原氏の家臣にでもならないと朝臣としての収入だけでは生活できないものが増えたこと? >>91
つまり藤原北家に対抗できる家がなくなってしまったと。
古代豪族からの流れの貴族は藤原氏の配下に組み込まれたので、
段々と官位に名前が見えなくなったんでしょうか?
奈良時代から平安時代に掛けて、次第に名前が見えなくなって
歴史の中に埋もれた感じですし。 承和の変、応天門の変、昌泰の変、安和の変で対抗勢力を積極的に潰しに行ったのもある 藤原氏と北家が台頭する過程なら
・長屋王の変
・橘奈良麻呂の変
・藤原仲麻呂の乱
・宇佐八幡宮神託事件
・藤原種継暗殺事件
・伊予親王の変
・平城太上天皇の変
も重要 >>94
うーむ、関係はあるが藤原北家が主体とは言えないものばかりではある 平成の大宰相として安倍晋三氏の名前は後世の歴史教科書に載るかね
安保法制でいわゆる普通の国へ一歩前進したこと
米国連邦議会での演説は平成外交のクライマックスの象徴になるのでは
G7伊勢志摩サミットでは世界の首脳から好かれる安倍総理と評判になった
経済の面では完全雇用の状態を達成した どういう風に進歩したっけ?
米軍による沖縄侵略を防げないばかりか沖縄住民弾圧に加担するばかり
より傀儡国家へと後退した印象が強い あちこちに喧嘩をふっかけてるトランプが日本に対してはあまり文句を言わないのは、安倍さんが個人的に好かれているからではないか >>93の「承和の変、応天門の変、昌泰の変、安和の変」のうち、
昌泰の変だけが教科書に名称としては記載されていなかった
意外にも菅原道真に関する記述自体が余り細かくは書かれていないね 幕末における朝廷内の勢力図の変化、8月何日だったかの政変って
マイナーだけど、もっと重大な事柄じゃないですか?
長州派の公卿の失脚であり、キーマンの岩倉も蟄居させられた政変ね >>98
違う。喧嘩を吹っ掛けられる前に安倍が全てを受け入れるからです そういえば飼料用トウモロコシ買うのどうなったんだろ >>95
でも、それらの事件がなければ北家ひとり勝ちにはならなかっただろ 因果関係があるというだけで羅列するなら乙巳の変やそれ以前もあるし親が生んでくれなければともなり兼ねない
北家主体は絶対条件ではないがもう少し決定的な要因が欲しい感がある 19世紀後半の日本が独立を守れたのは米国のおかげでしょうか
幕末に米国と条約を締結して独立国家としての地位が保全されたということでしょうか 欧米が中国や朝鮮を独立国家として認めなかったという話は聞いたことがないし
フツーに日本の教科書を読めば、江戸幕府と各国との不平等条約を改めさせるために
新政府が苦労していることが書かれてあるのだが… いえ。アメリカ連合国が米国を攻撃してくれたから手が回らなかった。
国内でもっとリー将軍を称えて善いと思いますが… >>106
幕府も突っぱねれば戦争になりかねないとして通商は認めないが補給だけは認める 日米和親条約
更に通商を求めてきたので突っぱねると戦争になりかねないので日米修好通商条約を結んだ
内乱になれば外国につけ込まれる所だが短期に政権交代 明治維新
中国のようにならないよう富国強兵に邁進
独立を保てたのは知恵と努力の結晶ですよ 日本の明治時代について学びたいという外国人に英語でお薦めの書物をご存知の方おられませんでしょうか >>106
記録文書の分析によると、幕府は開国前から開国不可避なことは把握済みで、
最恵国待遇の原則を考慮して最初の条約締結相手国は日本に対する利害がもっとも少ないであろうアメリカの一択だと想定し、
ロシア等の干渉をはねのけながらペリーの到着を待ったとか、
その時点からすでに通商条約が不可避であると想定してはいたことがわかってきた
後年に問題となった不平等条約の件は、条約締結当初の時点では最善策であり、あれ以外の条件は採用し得なかったことも明らかとなった >>107
中国はともかく朝鮮は独立国と認めるには条件が足りなかったとされている
日韓併合に反対して国際連盟で韓国の独立を求め、日本による併合の無効を求めた際にも韓国は独立国の要件を満たさないとして門前払いされている 戦艦大和は日本の戦艦の中では対空兵装が充実していたと聞き出したが、沈没時の戦闘で敵機を僅か十数機しか撃ち落せなかったのは何故ですか?
VT信管がないとこんなもん?それとも当日の天候が悪くて敵機を識別し辛かったから?それとも敵機の性能が良すぎたから? 高校レベルの日本史でさえ自信ないので学び直したい
まずは「詳説日本史B」と「詳説日本史研究」 どちらがおすすめですか? >>113
高速で飛ぶ小さな目標に弾丸を当てるのは難しいと言うことだな
機銃で飛来物に弾丸を当てるのは現代ではレーダー技術の粋を凝らしてやっている
大和も就役後に戦訓を生かす形で対空火器を泥縄式に増設して行ったがなぁ
「男たちの大和」という映画をみたが、機関砲の弾倉に詰めた弾丸はあっと言う間に打ち尽くしてしまう
弾倉を取り換える係の忙しいこと
あれでは弾幕を張るというほど撃ちまくるのも難しそうだった 大和が設計された戦前の戦闘機と実際に戦った戦時中、特に末期ごろの戦闘機で性能が違いすぎたことも大きいかもね 装填係の他に方向指示係、機銃の方向係、機銃の上下係、撃つ係が居るんでしょ
当たるわけ無い 日本には馬が古代にはいないとされてますが
馬の名産地の東北にもいなかったということですか? 戦艦の大砲は照準の係からの指令によって一斉に砲身の向きが整えられる
大和の対空機銃もその方式に準じて機銃群ごとに機械的に照準を行うようになっていたが、航空機相手の射撃にはついてゆけるスピードではなかったようだ
戦闘開始でその指令系統も乱れて各機銃の目測照準になった日にゃぁ当たるわけもない
映画の主人公配属の機銃は増設露天機銃で最初から丸に十の字の目測照準器でやってた >>118
もともと日本列島にウマは生息せず
日本各地の発掘による所見では4世紀末から5世紀にかけて日本での馬飼育の痕跡が見られる
奈良時代には東北が有数の馬産地として姿を現してきた 〉〉120
返答ありがとうございます
4世紀後半に飼育しはじめて
奈良時代にはもう有数の馬産地って相当早くて驚き >>118
そもそも、野生種の馬を家畜化したのが世界全体で1度だけ、他は家畜馬が逃げて野生化したのを再家畜化してるだけ、と言われてるし >>112
質問は19世紀、日韓併合は20世紀
>>113
日本海軍の対空射撃は撃墜を目的にしているのではなくて敵機の攻撃意図を削ぐのが目的。
映画なんかで指揮官が目標を指示して手動による対空射撃をやってるけど、本当に効率よく撃墜を企図するなら
機銃や砲をエリアごとに区分して、敵機がいようがいまいが決められた角度にだけ射撃しなければならない。
時速数百キロで飛行する目標を目で追いかけても意味がないし、攻撃を受ける艦艇は左右に舵をきり続けるから弾道は直進しない。
あと、大和の主砲の威力は凄まじくて爆風楯で覆われていない機銃は主砲射撃中は使えないからカタログスペックは当てにならない。 >>123
19世紀の韓国は中国の属国だから独立国扱いされないだろ 日清戦争の頃までは独立国扱いじゃなく中国の一部扱いだったからロシアの進出もなかったんじゃん
中国の保護下じゃなくなったから日本とロシアの係争地になったんじゃん >>120
では馬は誰が連れてきたんだ?
中国からの使節とか? 雷撃機が魚雷を放とうというときはまっすぐに照準を定めて直進する
大和が対空射撃をバリバリ行う中を、舵も切らずまっすぐに進んでくる米雷撃機には敵ながらその勇気に感心させられたと言う
米軍機乗組員も雄々しくその義務を果たした
そうして巨艦には攻撃機が殺到した‥‥ >>127
掘り返してりゃどこかの馬の骨が出てくるだけさ
誰が連れてきたとか書いた物はねぇよ
誰がどうやって連れてきたか‥考えろよ 6世紀末にロバやなんかを百済から贈られたなどとあるが、考古学的にはもっと古い時期から馬の骨が出てるってことだ 日本人の特殊性である表立って個人が自己主張するのははばかれるのに、集団でのいじめや匿名でさまざまな嫌がらせをする文化は歴史的には何に由来しているのでしょうか。 好太王碑にある高句麗との戦いで馬の重要性を知ったとも考えられているね
任那経由で入手したのだろうか 丸木舟に舷側の板を張ったくらいのフネしか持ってないが、一頭ずつ運ぶんでは効率が悪い
ウマはくくりつけて泳がせてみようぜ
体、全部沈んでしまうということもないようだ
まぁ、可能かどうかは後世の者が実験航海すりゃいいこどだし
‥‥などと倭人どもがワァワァとやっております >>132
律令制や神道からかな
主導する人には権威が必要
それ以外は何様?ってなるんじゃないかな
ブランド主義的な物が根付いてる オホーツク海周縁で活動していた北方系旧石器時代人(日本列島にいた旧石器時代人のグループのうちでもメジャーな集団のひとつ)がもちこんでて北海道や東北には早くから野生化した馬がいた、という可能性は? 養老二年(718年)、出羽、渡島(北海道)の蝦夷八十七人が京の都へ上り、朝廷に馬千匹を献上した、と扶桑略記にあるが、当時の渡島(北海道)に馬はいなかったので、このときの馬は出羽のものであろうと言われている
十五世紀には戦に敗れて蝦夷地へ逃亡した武士も居たので、馬を持ち込んだ可能性もあるが記録もなくてわからない
江戸時代になると幕府巡検使が蝦夷地に渡った際は乗用、物資輸送に多数の馬を使用しているので、すでに相当数の馬が飼われていたと思われる アイヌ語で馬のことは「ウンマ」と言う
明らかに日本語から来ている
稀に「チョーメ(チョメ)」とも言うようだが、これも上馬か乗馬が語源と考えられている
子馬のことは「チョーニ(チョニ)」と言うそうだが、これは不明
そんなに古くから馬と付き合いがあるわけではなさそう >>94
藤原北家が権力を握り続けて没落しなかったのは、荘園制度が大きいのかな?
摂関家に名義貸しを頼むと税だけでなく様々な負担が免除されたので、
いろんな連中が摂関家に
「うちの土地をおたくの荘園ってことにして下さい」
って頼んだので、摂関家がなくてはならない存在になって潰されもしないし
対抗勢力も出ず、北家一門も枝葉のごとく広がった。
この解釈はどうだろう? 論点としては、寄進先は別に藤原家に限られないことと、国司からしたら不満であることか
農民から支持を得ることが貴族同士の権力争いに直結するかというのもありそう
元の実力差が既にかなりあったのが更に広がったというところか 新選組って幕末の政治や文化に直接大きな影響を及ぼしたわけでもないけど、
100年以上経った現在でも有名で人気もある
新選組っていうグループ名だけでなく、その中の剣士が何人も有名でいる
これってかなり凄いことだと思う >>142
荘園の寄進先は「いろんな有力者たち」だよ
大抵の「いろんな有力者」は更に寄進して藤原氏の元に集まる傾向はあったけどね
寄進が階層的だった点、これを見落とすと荘園のことを理解できなくなるほど重要、たぶん。 マレー沖海戦で一式陸攻に沈められた戦艦プリンスオブウェールズ号は、カタログスペックでは毎秒四千発もの対空砲を放つことができたそうですが、
マレー沖海戦では陸攻17機にしか被弾させることができず、内墜落させたのは僅か一桁に過ぎなかったそうです。
プリンスオブウェールズの射撃主の練度が低かったのでしょうか?
それともカタログスペックの方が過大評価だったのでしょうか? 寄進を受けた藤原が更に皇族に寄進している例もあるしな 日本の双発攻撃機の多くは被弾、工廠修理2機、隊内修理25機、喪失2機、21名戦死の被害を出しており、2艦の対空砲火の激しさを証明している
日本のような遅れた海軍国では大砲も当たりはしない、航空勢力に至ってはイタリア並みで全くたいしたことはないと思っていたのだが、英軍の複葉攻撃機に慣れた目には日本の航空機は速度が大きくて対空砲火が心細くなってしまった
とにもかくにも航空勢力を伴わない艦隊は脆弱なものになってしまった時代の到来が示された
英軍駆逐艦による救助作業を日本側は全く妨害せず、沈没を確認した日本機は翼を振って敵の敢闘をたたえた
南海の花束:後日、現場には花束二束を投下し、敵味方の戦死者に捧げた >146
↓を読んで納得してくれ
「第2次大戦のイギリス戦艦」『世界の艦船』第634号、海人社、2004年11月
この種の質問を続けるのなら軍板のミリオタに聞いた方が熱心に回答してくれると思うよ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E6%9C%9D
鈴木重朝が処罰されないどころか、家康に雇ってもらえた理由は何でしょうか?
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍本隊に属して伏見城攻防戦の先鋒
となって一番乗りを果たし、伏見城に籠もる鳥居元忠を討ち取った。戦後は浪人の
後に伊達政宗に仕え、後に政宗の仲介により慶長11年(1606年)に徳川家康に
直臣として3000石で召抱えられ、しばらくして水戸徳川家の徳川頼房の旗本
として付けられた。
家康からしたら、最悪級の敵では?
あくまでも、それぞれの仕える君主の旗の下に行われた純粋な戦闘行為の結果
と割り切ったのでしょうか? 人物については伊達政宗の保証付きだったということなんだろ 一兵卒が任務を遂行しただけだからな
恨みで手打ちにすれば西軍に付いた将兵は次は俺かもってなる
鳥居を討った兵を許せばみんな安心して徳川に従うだろうって腹でしょう 官軍の官ってどっからきてるんですか? 皇軍ならまだわかるんですが 祖彌窮ら甲冑を環き山川跋渉した昔でもあるまいに、いくさは将軍のやること
天子様が軍を率いるわけではありまへん
官軍(政府軍)の呼び名でよろしい
天子様が軍服お召しになって白馬に跨る時代になってから、皇軍とか呼ぶ人もお居やしたなぁ
満洲国つくったりして戦雲たなびくようになってから新聞やらで皇軍、皇軍言うてましたわ
その後は聞きまへんし、流行り言葉やったん違いますかぁ 天皇が直接に軍を率いた最後っていつ頃だろう
候補だと思った承久や南朝はすこしちがうんだよなあ
奈良時代まで遡るのかな? 天皇は王ではなく皇帝なのになぜ幕末では尊王攘夷という言葉が生まれたのでしょうか?
また孝明天皇は熱烈なる尊王攘夷派の長州藩をなぜ嫌っていたのでしょうか?孝明天皇にとって長州藩は自分を押してくれてる藩になるにもかかわらず 天皇が直卒したと感じるのは壬申の乱のあたりかな
穢れ思想の影響もあるのか戦場に出るのは滅多にない 尊王攘夷は春秋時代の支那の言葉をそのまま使っている
周王を尊び、侵入する夷を攘(はら)う意 現代人は結果を知っているから、そんな思考になる
二百年以上安定的に続いていた政治体制を崩そうとしているのだから
現代でいうと暴力革命を是とする過激派みたいなもんだぞ >>159
朝廷をぶっ潰そうなどという勢力はなかったんだから
薩長も徳川も尊王、勤皇の気持ちには違いがない
薩摩の方が天皇を将棋の駒に例えてか「玉」などと秘かに呼ぶだけタチが悪かったくらいだ >>158
保元のときは軍の総大将に行ってこいといって作戦方針を命じただけで軍の指揮を取ったわけではなくないか
本陣の建物から出てないし、承久のときと大差ない気がする >>163
皇居に突貫するような、普通なら大逆と認定されるほどの問題行為を行ったのは長州以外みんなすぐに敗北して消え去ってたんだよな? >>163
皇帝やら天皇のことを玉体と呼ぶのは普通だし、略して玉と呼ぶのも珍しくない気がする >>156
どうでもよい文を字間違えて引用するとは 官軍 vs. 賊軍
枢軸国 vs. 連合国
皇軍 vs. 鬼畜米英
プロバガンダ 軍人か軍人じゃないかの線引きは何ですか?
明治〜昭和の時代の天皇は軍人でもありましたが、
何をもって「軍人」とするのでしょう? 滋賀の高島の三尾氏なんですが
壬申の乱の時に滅んだんですか?
皆殺しにされたの?
継体天皇を輩出したのは三尾氏だし
当時、絶大な権力を誇ってたのに、壬申の乱以降から急に姿を消しているのですが。 >>172
天皇は海外ではキングではなくエンペラーと呼ばれてるぞ エンペラーはおかしい、日本の王にすぎない
韓国はそう言ってかたくなに日王としか呼ばない
そういう韓国も日清戦争の結果、支那の属国を脱したとき、もう支那の子分の朝鮮王じゃないと大韓帝国皇帝を称した
それでも立ち行かなくなって倒産、日本と合併(併合)
日本も支那皇帝の子分じゃないからと倭王ではなく天皇と称したのだ >>174
壬申の乱のあと、大友方の豪族たちは凋落し大海人方の豪族たちが台頭した
大友方についた豪族たちのうちで復権したのって藤原氏ぐらいじゃね? >>177
滋賀高島市出身の人間なんですが、有力豪族の三尾氏の子孫とかどうなったのか?気になりまして
急に消え去った感じがします。
安曇川三尾の人も、聞いた限りでは知らない感じです。
不思議です。
有力者は皆殺しにされて、遠縁は平民とか身分を落とされたのかな?とか思ってます。 歴史的事実としての日本建国は701年の大宝律令の成立をもってとするのが妥当でしょうか
その場合、建国記念日は条文が完成した8月3日が妥当でしょうか 現在では全く違和感ない神社参拝の作法「二礼二拍手一礼」
これって大昔からの伝統ってイメージがあるけど、戦後かららしい
正直、マジかよ?って思う
それまでは普通に深々と一礼するだけだったらしいけど、
ある時から急に「二礼二拍手一礼」ですよって決められたのか?
当時の人々はどう思ったんだろう?
神社って全国津々浦々まであるし、初詣や観光、願掛け、お祭りなども含めて、
神社参拝って結構国民広くに関わることやん
詳しい人の見解を聞いてみたい 神社作法が公式に決められたことはない
明治期に神職の作法として決められたものを一部抜粋して、これがお参りの作法だ等と紹介した人がいて、徐々に広まったらしい
エセ蘊蓄の拡散定着、要するに単なるデマだったってとこでしょう もともと縄文のアニミズム信仰が先で
それから、神道がそれを利用して広めたんだ。
だから、縄文人がそんなことにこだわってたとは思えない。 そんな古いもんじゃない
神道のいろんな風習の多くは、世間で思われてるよりはあたらしい 二礼二拍手とか昭和の頃は言われてなかったな
仏様と違うのは拍手することだとくらいしか言われてなかった
だいたい礼して終わりだったらお祈りするヒマがない
仏様に対するときと同じように手を合わせて祈ってたもんだ 未来の質問になるけど、このまま新型コロナが収束したら安倍総理は世界的な英雄として評価されますか
誰ともうまくいかないトランプとの関係も良好だったわけだし、なんか不思議な魅力があるのかね安倍総理って むしろ、コロナでごたついているのに
・なにもかも放り出す
・岸田辺りに禅譲(傀儡)
・自民党総裁任期を延長
どれにするのかが気になる
まぁどれを選んでも朝日新聞は批判するんだろうけどw >>185
幸運に助けられた迷走総理みたいに扱き下ろされるだろうね 安倍総理のライフワークである憲法改正を目指しての4選じゃないかな 安倍総理には憲法改正に命をかけてほしい
数年前に話題になったアーミテージ=ナイレポートの内容によると日本は憲法改正してOKだったはず
アーミテージさん、ありがとうと言える日がくるといいな 葬式が喪服が黒ってのも明治かららしいね
死装束に代表される白が主流だった
結婚式も黒の振袖を使って留袖に仕立て直すのが一般的だったみたい >>190
関西だけど、三十年くらい前の親族の葬式では、近親者は白装束着てたぞ。
それで棺桶担いで、先頭は提灯とか持ってたぞ。 >>181
でも、多くの神社には参拝の作法として「二礼二拍手一礼」と書いた紙が貼ってある
手を洗ったり口をゆすぐ所にもその作法が書かれた紙が貼ってある >>192
貼ってなかったから国民一般はそんなこと知らなかった そんな本職用の作法は明治以前にも遡らないものだし、一般人がその通りになんぞしなくていい、祈る気持ちが一番というのが最新の潮流だろ 日本の神様では「天照大神」が最高神、神様の代表格になっているけど、
その親である伊弉諾尊、伊弉冉尊がなぜ代表格にならなかったんだろう
天照大神の親だというだけじゃなく、この「日本列島」を産み出した神様でもあるのに・・ 参拝の作法の違いとか言う前に
江戸時代以前だと神に祈る=仏に祈るだしな >>195
古代ギリシャの最高神はゼウスで、ゼウスの父親であるクロノスも母親であるガイアも最高神ではない
もちろんクロノスの父親であるウラノスもだ
だが、それに違和感を感じる人は少ないだろ
それに、親を重視するなら、イザナギの親は? スサノオ神は無視? >>197
伊弉諾尊、伊弉冉尊は神話の中ではっきりと「日本列島」を
産み出したとまで書かれているんだよね
天照大神や素戔嗚という重要な神の親でもある
なんか判然としないなって思ってしまう
天照大神を貶める意図とかは皆無だよ 伊弉諾尊は世界そのものだからじゃね
ゼウスの子イエスを崇めるのと同じ。この世界に遣わされた担当神様 イエスはゼウスの子ではなくない?
神のことを「でうす」ということはあるけど
名前は「JHWH」 仙洞御所の敷地内から秀吉が最後に建てた京都新城の遺構が発見されたそうだが、
京都新城の敷地範囲は目の前にある京都御所よりもはるかに広大だったみたい
京都御所+周囲の公家屋敷を合わせた範囲くらいあるみたい
関白政庁の聚楽第も御所よりも広大だったらしいけど、御所からは少し距離があったし、
朝廷の重要な役職の関白の政庁という建前もあった
しかし、京都新城は特別な役職の政庁っていうわけでもなかったっぽいし、なによりも
天皇のおわす御所の目の前、また格式高い公家たちの屋敷の目の前にそれらを凌駕する
広大な城を建てるってなかなかの度胸じゃないですか?
いくら権力や財力があろうとも、ちょっとやり過ぎな気がするがいかがですか >>201
今日の新聞で初めて京都新城の存在を知ったんだが、
何のために建てたんだろうな? 関白屋敷としてだな
二代目の関白豊臣秀次を成敗してその屋敷たる聚楽第を壊してしまった後、また京都新城を建てた
三代目関白秀頼を想定していたんじゃないかな
関白は朝廷の役職だから御所の近くがいい ところが、秀頼は京都にやってきたときにちょいと宿泊しただけで、大坂に行ってしまい、ご存じの通り関白になることもなかった
京都新城は秀吉没後の北政所の屋敷となり、後に跡地の一部が上皇のための仙洞御所となった 徳川時代より信長秀吉時代の方が金持ってる感じがするのは何故だろう 南蛮貿易で稼いでた
金銀の産出量が多かった
とかかな 単に家康が倹約家で、ノブヒデが派手好きだったからそう見えただけの気のもするが。 でも家康も立派な江戸城つくったし、駿府城も立派なものだったらしい 信長の最大石高は700万石で家臣団も大名化してないから徳川幕府の400万石より上なんだな 聚楽第は豪華絢爛だったらしいが、京都新城は聚楽第に匹敵するくらいの豪華絢爛さだったの?
そこまではいかない? タイトル忘れたけど長谷川等伯の小説で京都新城が取り上げられていて珍しかった記憶 >>212
聚楽第の金屏風絵を見るともっと高層だし、全体的にやっぱり聚楽第の方が凄そうだね
京都新城が悪いわけじゃないけど 弥生人の側頭部で髪をくくる髪型
古代天皇とか絶対にやってるイメージですが、
あの髪型とか衣服とか装飾は、後世のイメージですか?
それとも根拠はある?
飛鳥時代とかでも格好とか分からない気がするのですが、その前の時代なんか分かるのかなあ?って思います。 みずらはその後も絶えていたわけではなく、少年の髪型として幕末まで一部で結われ続けていた
古墳時代の埴輪に見られる髪型である
1983年、茨城県武者塚古墳(7世紀後半)からみずらに結われた髪の片方がほぼ完全な状態で出土している >>216
すいません。
みずらって、かつらみたいな装飾品なんですか?
それとも自毛? 髪の毛はどんどん伸びるものだから、どうかしてまとめなくてはならないでしょ >>218
自毛で結う。でも古墳時代あたり以降の髪型であって弥生時代は不明です。 >>219
当時は切る道具が無かったから
くくるしかなくて、こういう髪型になったのですかね? 男女とも古代以来江戸時代までずっと髪は髷を結えるだけの長さがあった
短くなったのは明治以降に西洋流の調髪が入って来てから 縄文時代は漆塗りの櫛、動物の骨製のヘアピン、糸製のヘアバンドも出土している
弥生前半の土偶では男は筒状、女は髷状の頭をしている
弥生の終わり頃としては魏志倭人伝に「婦人被髪屈紒」とある
紒(ケイ)は髪を結ぶ、束ねるという文字である
昔もいろいろと髪を束ねて身だしなみを整えていたようだ 京都御所の紫宸殿は最重要クラスの儀式をやっていたらしいけど、
そこまではいかないレベルの儀式はどこでやっていたのですか?
また、公家のさまざまな日常業務はどこでされていたのですか?
それらをやっていた建物はもう今は残ってないのですかね >>209
>信長の最大石高は700万石で家臣団も大名化してないから徳川幕府の400万石より上なんだな
前から不思議なんだが、清洲会議で織田配下の武将が
独立大名になったのはドサくさ紛れなのか?
三法師を跡継ぎにしたのも、所詮織田家の宗家ってだけで
みんなを統率する大織田家のトップってわけでもない。
もし信忠が生きていたら彼がトップで、勝家や秀吉はその配下の
ままだったんだろうかと気になる。 >>224
江戸時代の霊元天皇は天皇代替わりのときの重要儀式である大嘗祭を復活させたという
重要儀式も途絶えたりしてたんだな
同じく光格天皇は新嘗祭を始めとして朝廷の儀式を復活させた
新嘗祭などは担当の公家が自分の屋敷で細々と伝えていたという
公家に任せてたのもあったんだね 大坂夏の陣のときは、大坂の民衆に対する虐殺、略奪もおこなわれたのでしょうか >>
戦のあとで兵士が人や物を掠奪するのを乱妨取り、乱取りと言った
そもそも乱取り目的で戦に参加した農民も多く、それは悪事とも思われていなかった
桶狭間では今川の兵が乱取りに夢中になっているスキを織田方は突いたという甲陽軍鑑の記事はさもありなん
大坂夏の陣図屏風には乱妨取りの様子が描かれている
真田幸村の娘は落城後、仙台兵に乱妨取りされた 言っちゃ悪いが近代でも現代でも、起こってることだしな。
血気盛んな兵士の娯楽ってそれしか無いからな。 >>226
ありがとうございます
現在の京都御所って、途中で御所が火災か何かで使えなくなって、
貴族の邸宅に天皇がご厄介になってそのまま御所(仮御所)になって
現在に至ったって聞いた
それはつまり、その貴族の邸宅にあった大きな建物を紫宸殿にしたっていうこと?
それとも、その貴族の邸宅に後から紫宸殿(や他の建物)を増築していったってこと? 今の京都御所の地が里内裏となったのも南北朝のとき以来明治初年までと長かったから、紫宸殿もそこに建ててたでしょ
それ以前のことはあまりに古くて覚えていません
思い出したら教えてください 里内裏(仮御所)がいくつかあって院政で政治の主体が摂関家でなくなり
京都御所に落ち着いた 今の京都御所に陣取って院政をやってたのは天皇じゃないんですけど
あと、紫宸殿はどうなってたかと質問されてるんですけど 公家の筆頭格の近衛家や鷹司家の本宅敷地よりも、秀吉が建てた城郭の中の
一つにすぎない京都新城の方がはるかに広大で、それが近衛家や鷹司家の
本宅敷地の至近距離のところにあったのが何とも言えないですね >>225
清洲会議後も秀吉は織田家家臣であって
小牧長久手で織田家との主従関係が逆転したんだよ 古代の倭の評価は中国から見たらどんな評価なんでしょうか?
高句麗、新羅くらいの評価なのか?それよりも上か?下か?知りたいです。
客観的には難しいと思いますが。 夷、南蛮、西戎、北狄‥
君たちもっと頑張らなくっちゃ 戦国時代の区分についてですが
戦国時代の始まりは、享徳の乱なのか応仁の乱なのか明応の政変なのか
戦国時代の終わりは、秀吉の奥州再仕置をもってなのか、大坂の陣で羽柴氏を滅ぼしたあと幕府が元和偃武を宣言したことをもってなのか >>235
じゃあ秀吉も勝家も織田家の家臣って立場だったのか。
賤ヶ岳の戦いのあと
秀吉「俺の方が実力上だから下克上ってことで織田さんは俺の下ね」
信雄「ざけんじゃねーぞ家臣が。こうなったら親父の盟友の家康と組むぜ」
こんなことだろうか?
三方が原の戦いで織田家の家臣だった連中が軒並み独立
(といっても秀吉の配下)
ということだろうか。 どちらかというと、主家の俺をないがしろにする秀吉許さんと信雄が軍をおこして家康たちを味方につけて秀吉討伐しようとして返り討ちにあった感じではないかと >>239
いやみんな織田家臣から秀吉家臣になったわけで独立してた時期などないよ >>241
不明だけど、25代の武烈天皇以前は実在を疑う歴史学者は居るけど、
継体天皇の実在を疑う学者は居ない。
特に神武から数代目は、実在が強く疑われているのは事実。
神話の世界だしね。
ゼウスとかの世界だしね。
ゼウスなんて実在じゃねーし 日本書紀とか古事記を書かせた時に、話を盛るなんて、よくある事。
大学ノートに、ファンタジー小説を書いた時に、先祖を200代前から書くようなもん。 武烈より前でも雄略とかは実在を疑う人は少ないのでは
それ以前は、応神まではまだマシな感じで、そこを境に急速に疑わしさが高まる感じでは? 秀吉って軍団制ではなく遠征軍をその都度構成する感じですか? 孝元天皇は実在するだろう。それに関する鉄剣が見付かったから しかし武烈は実在はあやしまれているから
分かりやすく説明したら、継体から史実的に確実って説明が、確実。 >>248
悪いけど、雄略の間違いでは?
孝元の鉄剣は聞いたことないな。
無知ならすいません。
雄略の名が入った鉄剣は聞いた事ある。 熊本県玉名郡江田船山古墳出土 銀象嵌鉄刀の銘にある獲加多支鹵大王が雄略天皇だと言われてい 伊勢神宮をつくったのは天武天皇ですよね
ということは皇祖神信仰と天皇を中心とする日本という国のかたちをつくったのは天武天皇ということかな
壬申の乱の勝利者である天武・持統朝をもって日本建国 天武がいなかったら、そもそも天皇は名乗ってない。
オオキミのまま。
日本書紀と古事記も無い。
その意味でも天武の存在はデカイ
神風特攻とか大戦のアジア諸国の軋轢を考えたら、オオキミのままで良かった気がするな。 へんに万世一系とか、デッチ上げたせいでおかしくなった気がするわ。
万世一系なんて、歴史学者は完全に否定してるのに。 旧体制を滅ぼして勢力刷新したのはたしかだけど、それ以前の存在を否定するのはどうかと
従来の中央で勢力を持ってた有力豪族の大多数が朝廷がわ=旧体制として勢力を失ったから、
それまでは生き残ってた蘇我氏も物部氏も完全に没落することになったし、
藤原氏も一旦は政権からはなれて逼塞することになったんだけどさ
中央の有力豪族のなかで大海人方だったのって大伴氏以外には少ないしな 古文板で聞いたけどスルーされたので教えてください
杉田玄白の詩らしいんですが、どういう意味でしょうか?
仮の世にかりの契りとしりなから
ほんしゃと言ふにたまされた。
ここは狐の宿かひな。コンコン。
文化八のとし此今様をうたひ躍りたりと
ゆめミし姿の
うつし絵
https://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu06/nu06_5797/nu06_5797.jpg 飛鳥から奈良時代は平均寿命短かったのになんで天皇の即位は30歳以上じゃないとダメだったんだろう
成人年齢が30歳ということなのか
今の参院議員に立候補できるのが30歳以上と定められているのと同じ感覚なのか 現代人の感覚だと、昔の人より現代人のほうが頭が良いと思っちゃうけど、万葉集とかみても昔の人も読み書きできる上級民なら頭良いよな >>257
自前の人脈、勢力を作り上げないとダメだっただけではないかと
それを作るには、相応の実績を残してないと無理だったからではないのかな >>257
合議制みたいにやってたとか?
実際は話し合いで選んでいるとか。 継体って、日本書紀とかの記述が正しいとしても、思いっきり合議制で選んでるよな。
もし、簒奪してあとから応神天皇の血を引いてるとしても、どっちにしても、出自の怪しい天皇だし、万世一系じゃない。 あとから応神天皇の血を引いてると詐称したとしても
の間違い おっさの俺が子供の頃は遺跡といえば「登呂遺跡」が日本で一番有名だったが、
途中で「吉野ケ里遺跡」が出てきてからは急に名前を聞かなくなってしまった
つい最近も吉野ケ里遺跡は国史指定30周年だかでニュースになってた
登呂遺跡はもうずいぶん長いこと名前を聞かないな〜 信長晩年の有力家臣たちのことを方面軍団長というけど、当時は実際には何と表現してたの?
侍大将とか備とか頭みたいな当時の言葉で。 奈良時代が不安定で政変や争乱が絶えなかったのはなぜでしょうか
皇位継承が不安定だったからでしょうか 帝位継承者がきっちり決まっていれば
安定してただろう。
壬申の乱とか、天智天皇の皇子を殺して
天武天皇が即位してる。
まあ、天智天皇も殺しまくってるから、自業自得。
神話の時代から言えば、雄略とか武烈もむちゃくちゃやってるけど。 当時の道徳行為を今の道徳心で批判しても仕方がないけど。 >>268
それの他にも、それらしい原因はある
一般的に、気候がよくて豊作が多くなる時期は治世が安定し、気候不順が多くなると反乱や紛争が多発して国が傾いたり分裂したり滅んだりしやすくなる
疫病が流行りやすいのも気候が不順なときが多い。飢饉の時に流行りやすくなるんだよ
ペスト流行の時だって、その前から飢饉が多発していたことが知られている。
奈良時代中期には天然痘の大流行があったが、この時期には気候にも問題があった
そんな時代だから、安定しにくかったという側面もあると。 なるほど気候の問題もあるんですね
世界史ですけど、寒冷化でローマ帝国が滅んだって言われてますし
寒冷化のときは社会が不安定になる コロナ騒動の2020年は高校野球夏の甲子園大会が戦後初の中止となりました
甲子園球場のお膝元が大被害を受けた阪神淡路大震災や戦後最大級の社会的混乱を
巻き起こした東日本大震災ですら中止されなかったくらいですから、過去に中止されたのは
戦争くらいだろうと思っていたら1918年の「米騒動」でも中止されていました
もちろん米騒動の名前くらいは知っていますが、正直、そこまでの事態だったのでしょうか?
コロナの場合は感染拡大の懸念という特殊性がありますが、米騒動にはそこまでの特殊性は
ないと思いますし、東日本大震災級の社会的混乱はイメージできないのですが・・ 信長の比叡山焼討ちは、比叡山延暦寺だけを焼き討ちしたのか、山下の村落もろとも滅ぼしたのかが気になる >>274
情報源には「米騒動」しか書いてなかったけど、これはきっと
「米騒動」+「スペイン風邪の流行」の合わせ技っぽいね
納得しました
ちなみにスペイン風邪は日本でも本当に大きな被害が出たらしいね 街亭の戦いで馬謖は山上に布陣したのが仇となって張郃に大敗してしまいましたが、
山崎の戦いではなぜ羽柴軍と明智軍は天王山に布陣することにこだわったのでしょうか? >>277
天王山の争奪戦が勝敗を決めたなんてのは作り話だよ >>250
遅レス横レス失礼
稲荷山銘文に出てくる「オオヒコ」が記紀に出てくる孝元天皇の皇子、ということではないかなあ
それを根拠に孝元天皇実在というのは飛躍な気もするが >>257
そんな規定はない。文武天皇は15歳で即位
ただ聖徳太子や中大兄あたりからそれなりの年齢じゃなきゃなあ、という慣例、雰囲気はあったと思う >>278
光秀にとっては天王山は死守したい要地だが、秀吉にとっては攻略すべき標的のひとつでしかないはず、だっけ?
秀吉の根拠地や秀吉に味方する諸大名の領地と京都の間を結ぶルートを遮るための防衛拠点は天王山が最後で、あとは平地しかないから、
天王山を抜かれたら京都を諦めるしかない >>280
天智天皇が20代の直系庶子に皇位を継がせようとして慣例が替わったのじゃ?
奈良時代から年齢より直系を重んじてる。応神天皇は70ぐらいで即位じゃん 応神が居たのか?
実在不明の人物を上げて、こうですって言われてもなあ 秀吉ってどうして関白を選んだんだろう?
羽柴氏のまま征夷大将軍の位をもらって幕府を開くのも
ありと思うんだが。
それよりも藤原氏の猶子になって摂関家の一員になろうとか、
新姓の豊臣を賜るほうがよほど無理げーと思うんだけど。
朝廷としても豊臣を創設するくらいなら、羽柴氏に征夷大将軍の
位を就けるほうがよほど難易度低いと思うんですよね。
(源氏しか幕府開けないってのは妄言とします) 秀吉含む同時代の人たちにとって将軍といったら力のない室町殿の印象が強く魅力が低かった点
それ以前の鎌倉殿も頼朝直系が絶えて以降は北条の傀儡でしかなかったし
だったら新しく武家の権威を作ろうとしたんじゃないかな
多門院日記の天正12(1584)年に秀吉が征夷大将軍就任を断った記述もあるらしい >>282
大友皇子は即位したかどうか不明だけど、持統天皇が自分の息子や孫に継がせたくて、息子は早死にしたけど孫の文武天皇を14歳で即位させてからは年齢制限が撤廃された感じ >>284
征夷大将軍じゃないから幕府と呼ばれないだけで
豊臣も幕府(武家政権)を開いていることにはなんら変わりない 天正9年秀吉が信長に献上したお歳暮の内容はどんな物ですか? 秀吉が関白太政大臣となってからも将軍は義昭だった
2年余りのちに将軍を辞して秀吉に一大名としてもらい、御伽衆として太閤のよき話相手であった 征夷大将軍を目指したのは信雄との争いが本格化してからだろうが、そうこうしてるうちに信雄を屈服させ家康も敵ではなくなってからは、
官職を得る障害がどんどんなくなっていって、関白にも手が届きそうになったので征夷大将軍なんてどうでもよくなった感じでは 将軍と言えば室町殿のこと
とにかく昔からそう決まってるんだからしょうがないじゃないか
信長様だって現に将軍である足利義昭様を廃して自分が将軍にとそんなアホなことは考えなかった
‥これが当時の秀吉の気持 関白と言えば摂家の持ち回り
とにかく昔からそう決まってるんだからしょうがないじゃないか
信長様だって現に太政大臣である近衛前久様を廃して自分が太政大臣にとそんなアホなことは考えなかった
‥これが当時の秀吉の気持
で合ってますか? 秀吉は地に落ちた将軍職より上に行きたかったんだと思う
出世欲に支配された男だと思うね 現実的な財力や軍事力を持つ秀吉、
財力や軍事力はあまり持っていないが、身分や格式が秀吉よりも上の近衛や上位の公卿たち
あった時の会話や振る舞いはお互いどうだったんだろう?
秀吉の方が恭しくして、公卿たちが「まあまあ、楽にしてください」みたいな感じ? 関白といえば摂家の持ち回り
だから秀吉も近衛家の猶子になる手続は欠かせなかった 別に近衛家である必然性はない
他の4家でもよかったはず 持ち回りだったからこそ付け入る隙が出来てしまったのね >>290>>285
ということは、秀吉は征夷大将軍職は要らなかったみたいですね。
現代人から見ると徳川幕府のイメージが強いから将軍は強力に
思えるけど、鎌倉・足利の将軍見てると「お神輿」でしかない。
「神輿が自分で歩けるのなら歩いてみろや」
って配下の武将から言われかねない存在だし。
>>294
>秀吉は地に落ちた将軍職より上に行きたかったんだと思う
みなさんの書き込みを見てひらめいたんだが、将軍だとどうしても
関白の下になってしまい、表面的にはへりくだらないといけない。
でも自分が関白になれば、武家も朝廷も同時に支配できる
メリットがあると気が付いたんでは?
自分が頭下げるのは天皇陛下ただ一人になるし、天皇家以外に
生まれた人間としての最高峰を欲したのもあるかな。 少なくとも、最初のうちは義昭に交渉して自分を猶子(養子みたいなもの)にするよう頼んで断られてるので、将軍位を求めた時期があったのはたしか
しかし、関白になれた以後は将軍位にたいする興味がなくなったことは確実 逆に言えば無理やり将軍職を奪うのは世間体が悪すぎるぐらいには
足利将軍家の権威が残っていたとも言えるね 足利義昭は1万石の小身となっても、前将軍としての権威があるので豊臣政権下でも大大名の格式をもって遇された
江戸時代でも名家、旧家の権威は消えるものではなかった
明治には華族に列せられている
元はどこぞの藩主であったが今は万石以下の家が大名と同じ扱いをうける大身旗本となっている例は多い
足利尊氏の次男を祖とする鎌倉公方の末裔は下野喜連川で5000石ほどを領していたが名門の高家として10万石並の格式だった
新田義貞の末裔は上野で120石を領するのみだったが、廊下ではあったが将軍に拝謁する格式
そのほかに、三河松平家の諸子、親不孝の咎で大名を改易となった家なども元は名家として大名に準ずる待遇を受ける家があった 吉良上野介は4200石だから大名ではない
しかし清和源氏足利氏支流(足利宗家継承権を持ったまま分家となった家)という名門で、没落しているところを徳川家康に旗本として取り立てられ、高家として浅野内匠頭らを指導する立場であったのはご存じのとおり 近現代になっちゃうけど、近現代板ないからこちらで
みなさん、内閣総理大臣、天皇陛下の靖国神社参拝についてどう思われますか?
英霊への感謝や謝罪、追悼の行事、A級戦犯合祀の問題、韓国中国の国民感情への配慮、
政教分離原則の問題、等々、非常にセンシティブなテーマですけれど ルイスフロイスなよると秀吉は非常に狡猾で抜け目なく頭がとても良かったんだそうな
それなのに秀次切腹の件で罪のない人達をたくさん殺して将来への禍根を残したりと優秀な人間とはおもえない落ち度もあるんだよなあ 秀頼を次期天下人にするために秀次は不安材料として抹殺した
この底意を世の人々に悟られるのはマズい
悪逆だから成敗したのだという建前にしておきたい
秀次の周囲に居た者を生かしておいては、実は秀次はそんな悪い人ではなかったなどという話がどうしても漏れ出てくるものだ
将来への禍根を残すわけにはゆかない、かわいそうだが抹殺する
‥‥親馬鹿の恐ろしさだな >>305
日本近代史という板があるぞ
探し方が悪くて見つけられなかったのかな? 秀次は刀の試し斬りと称して無数の人を辻斬りしたり、胎児を見てみたいと言って妊婦の腹を割いたり、女人禁制及び殺生禁制の比叡山に女房を連れて遊行し山で狩りをして多数の獣を殺したりしたから。 やっぱ、皆殺しにしといてよかったわ
四百年の後も秀次悪逆説を信じてもらえてて 「妊婦の腹を裂いて胎児を・・・」とか暴君の定番エピソード過ぎて困る
まあ逆にそのおかげで捏造だと分かるのだけれども >>312
武烈天皇にもそんな暴君エピあるね
妊婦の腹エピではないけど、家康の長男信康にも暴君エピあったね 赤ん坊を上に放り投げて銃剣で刺すって創話もあったな >>312
だいたい史記の故事(おそらく創作譚)からの転用だよな >>314
ドイツ軍兵士が赤ん坊を銃剣で、バージョンもあるぞ。
もちろん、疑わしい。
ちなみにガス室とかも見つかってないしな。 >>318
勝てば官軍とも言う。
負けた方は悪者にされる。
ガス室は見つかって無いし、ヒトラーがユダヤ人を殺すように指示した文書などもない。 >>307
秀吉も晩年は弱って失禁事件なんて起こしてたそうだし、
自分の目の黒いうちにって思ったんだろうな。
もし秀吉が先に死んだら秀次が関白のままで、豊臣家を
自分の息子に継がせたいと思うから、秀頼の命が
危なくなると考えるわけで。
秀頼に関白職を明け渡して秀次は後見ポジション、
秀次の息子たちは秀頼を支えて参議になる、
ってのは理想的過ぎるんだろうな。 仮に秀次が秀吉の意向通りにするつもりでいても側近、一族、派閥が大人しくしてるとも限らないしな
秀頼派閥も疑心暗鬼になってるだろうし
権謀術数大好きっ子が集まる世界だから禍根を断つのは当然の成り行き ある武士、秀次公が側室としておのが娘を関白屋敷へ入れり
娘、都に到着したばかりにていまだ関白の閨に入るを得ぬ折、太閤の命くだる
これは赦免あるべしと数多聲あがれど、側室なれば容赦ならずとてあたら花の命をぞ散らせにける >>323
元が武家だけに、藤原北家みたいにいくつもの家に分かれて
共存共栄とは出来なかったでしょうね。
豊臣家にとって災難なのは石田光成たちが決起して、大阪城を
勝手に拠点にされたことで、戦後に蔵入れ地を家康によって
気前よく分配されても文句言えなかったこと。
豊臣からすると西軍の決起は迷惑そのものだったろうな。
>>328
最上義光の娘の駒姫。 十五歳の駒姫処刑で悲嘆に暮れる最上義光は自身も秀次への加担を疑われて太閤の譴責処分を受ける
これにより義光の太閤への憎悪は決定的となり、徳川家康への傾斜を強めて行った 秀康や八条宮がいたのに,他人の子の鶴松を産ませたのですか? >>331
禍根を残しまくりというわけですな
仮に本当に秀次が悪逆非道の人だったとしても、
無関係な人をも根絶やしにするのが正当化されるわけないんだよな 今の価値感だとそうだろうけど
当時の価値感だと、関係者は皆殺しとかが当たり前なんだろう。
信じられないだろうが、少し前の日本でも、いや今の日本でもしつけとかで子供が死んでも親は無罪同然だし、事件にもならない。
夫が妻を殴ったりするのも普通だったし、しつけと称して子供を半殺しにするのも当然だったぞ。
むしろ義務みたいに考えている奴とかいるぞまじで。 >>334
んんん?
三行目以下の例が全然関係ないような? >>334
今の時代でも犯罪者が出ればその家族もろとも叩くという文化があるな
それと一緒だな
陰湿な日本の伝統だよ いやそれはお前個人の人格の問題であって、日本は関係ない 悪いが、文化も関係してると思うぞ。
中韓がまともとは絶対に思わないが、日本も腐った文化とか思想を持った奴が多いのも事実。 老害文化にしても、中韓は一応敬意は払うが、あんまりうざかったら追い出すらしいけど、日本では特攻隊みたいに年上の上司の為に年下の部下が犠牲になるのは当たり前みたいな思想が蔓延してる。
ぶっちゃけ中韓の文化以上に深刻な思想だと思うぞ。 >>339
思っただけの話でしょ
西洋とかの諸外国に比べて比率が高いという統計でもあるのか? 権力、権威に抗するのは恐ろしいことだ
ヒドい目にあうのがオチ
だが、逆の弱い立場にある者を攻撃するのは容易
天下人が悪逆(悪者、反逆者)として処分対象にした者ほど立場の弱い者はない
落ち武者もそう
敗北した者、力を失った者は住民による狩りの対象となってしまう
生きてゆくのがハードな戦国時代は弱肉強食、乱妨狼藉はあたりまえの風潮
それでも今の日本は島国らしくのんびりした所がある
コロナパンデミックでも諸外国が不思議に思うくらいお上の自粛要請に従う
大陸には「上に政策あれば下に対策あり」と言うくらい自律的に我を張らないと生存が難しい国もある いったん、お国の為に子ね。モードに入ったら
他の国よりも生存が難しくなるけどな。 >>345
どこの国でも軍隊を持っているが、実戦となれば兵隊は命を張ってやっている それはそうだけど。
民間人含めて、一億玉砕とか本気でやろうとしてたのは日本だけだぞ。
ソ連でもナチスドイツでも、自国の民間人は避難が基本だぞ。
ナチスドイツに占領されたソ連の住民はドイツに協力的だったし、その逆もしかりだぞ。自決を強要したりはしてない。 支那・米国・ロシヤが民間人含めて凌辱し殺しまくったからだろう
ドイツやその同盟国は軍紀があった 全く、都合の悪い事は全部、他国が悪いから、か。
スターリン、ヒトラーも真っ青の論理だな。 徳川家康は三方ヶ原で武田軍にコテンパンにやられ、もう駄目だここで腹を切ると言い、御傍衆にとめられた
白虎隊の少年達は会敵もできないまま、御城のあたりに火の手が上がるのを見て最早これまでと皆で腹を切った
近代になtっても日本の兵隊は負けとなると、粘るよりも華やかに散る方が賛美された
沖縄戦でももうお終いだ、皆で死のうと民間人が集団自決をする
追いつめられるとパッと立ち上がり、パッと死ぬようなところはある なんか相手にしないほうがいい奴みたいだな
かなりの高齢で何か嫌な体験をしたようだが、特定の人が悪かったから全体が悪いと決め付ける
これは彼自身が言う腐った思想そのもの
学問的要素も何もないし、終了で >>348
レジスタンスに協力しないで占領してるナチスドイツに協力したフランス人は戦後にひどい扱いされてるだろう。 >>354
それは結果論だろ。
ドイツが勝ってたら、レジスタンスについてた方はえらい目に遭う。 >>353
親戚で若い時から社内で出世して肩で風を切ってた人がいるけど
在職中に終の棲家を建てても、同僚や部下が御祝儀をもって訪ねてくることもなく
趣味もないから定年退職後一日中家にいて誰も訪ねてこない
家族との会話もない
リビングでTVを見ながら「けしからん」とか「このままでは日本は駄目だ」と一人でぶつぶつ呟いて
家族から気持ち悪がられている人がいるけど、>>351を読んでなんとなく思い出した
誰かと会話がしたいからわざと頭の悪いことを言って話しかけられたいのかも 趣味も出来なくなれば同じだろう
結果論ではどれも同じ 満済准后、太原雪斎、安国寺恵瓊、金地院崇伝、南光坊天海
なんで室町〜戦国時代は黒衣の宰相が多数輩出されたのですか 坊さん自体武家の次男坊とかで出自も明らか
さらに経典法典を学ぶことにより兵法書も読めるようになっていて戦国を乗り切る知識を得ている者も多かったんじゃないでしょうか
軍神上杉謙信も坊さんから還俗してるしね つうか、むかしの寺は俗世なみの階級社会で、出自がそれなり以上ないとキチンとした教育もうけられてなくないか
寺に入らなくてもそれなりの教育を受けられる立場の人しか、寺の中で教育を受けてないのではないかという疑い。
庶民は寺に入っても僧兵にしかなれないよね
僧兵コースではなく、教育を受けて僧侶コースに乗ってる人はもともと支配階層出の人だけと思う
秀吉もホントはそういう出自だったのではないかなあ >>360
秀吉がある程度の支配階級の家の出なら、そう名乗ってるだろうし。
家康が清和源氏の徳川を名乗ったような粉飾しようの無い貧農だったんだろ。
ところで僧兵って言い方はまるで修行もしてる坊さんが
武装してるみたいに聞こえるんだが、寺侍とかの方が
呼び方としてふさわしくはないかな? そもそも木下姓はどこから来たのか?(臥下樹)
何故おねの実家・杉原家(分家?)は杉原姓ではなく木下姓を使ったのか。よく分からん 江戸時代ではないのだから農民も普通に苗字を名乗っていたのでは >>362
木下が元もとの苗字で、ねねの元もとの苗字が杉原。
浅野家の養女になって秀吉に嫁いだ。
ねねの兄貴に木下姓を下げ渡したみたいだ >>360
同感だな。
秀吉の後の大政所の再婚相手の竹阿弥だって、織田信秀の茶坊主か何かを
やっていたのだろう?
それと秀吉も幼いころは前田利家と遊んでいたと言っていたしな。
今で言えば、織田信秀が県会議長で実質的な県政のドンだとしたら、
前田利家の実家が市議会議長の家、秀吉の家が市会議員くらいでは
ないのかな?
そして市会議員の放蕩息子で三流私大中台の最終学歴で
各地を流れ歩いたという感覚ではないのかねぇ。
継父と折り合いが悪くて家を追い出されるときだって、針売りとして商売が
できるだけの元手と紹介状をもらった形跡があるのだし。 豊臣秀吉の出自は世上いろいろと物語られているが、歴史学的には何も断定できない
本人は、母の胎内に日輪が入って身ごもったとか、母が宮仕えの折、天皇の手がついて生まれたものだとか、そういうことを流布しようとしていただけだ
父は弥右衛門なのか竹阿弥なのか誰なのか断定できず、母の名が仲(なか)というのも確証はない
木下姓も父のものか、妻の実家から来たものかもわからない
同時代の武将たちも秀吉は下賤の出で、若い頃は窮迫していたとの認識で共通していた
竹中半兵衛の子息は「怪しの子」と書き記しているが、身元怪しき下賤の子なのだろう
加藤清正や福島正則は同じ村の身内から引き立てたものだが、前田利家は海東郡の城主の子で身分が違うし、幼い頃の接点jはない 土豪の子供らと遊ぶとか、秀吉も土豪の一員ってことだよな
平民百姓ではなかったのではないか?
領主の茶坊主だって、一般庶民から登用される訳じゃないだろ 古事記と日本書紀は、ほとんど同じ時期に書かれているのに、なんで一本化しなかったのでしょうか?
2つで微妙に内容が異なってたりして
歴史学的には興味深いとは言え、一冊にまとめるべきでは?って思います。
ほかの豪族とかの歴史書は全て破棄処分したのに、詰めが甘いって思うのです。 >>370
>ほかの豪族とかの歴史書は全て破棄処分したのに、詰めが甘いって思うのです。
この根拠はなに? >>373
実際に他の豪族とかの歴史書は全く残ってないじゃんか。 >>374の書いた良質なレスも廃棄処分済
だってひとつも残ってないじゃないか >>372
日吉丸がいつどこで読み書き算盤を覚えたんだ? ろくな教育を受けられなかったから、晩年になってもひらがなしか書けないままだった可能性 >>374
古事記が編纂された頃までは、史書は各家の口伝しかなく、書物として存在したことはなかったと思われるのだが。 >>379
各豪族の歴史書はあっただろ。
そもそも渡来系の豪族が記録を残してない訳がない。
無かったって言う方が無理があるって。
天武天皇が編纂を命じたのだから、天皇に都合よい編纂は明らかにされてるだろ。
天から降りてきた箇所とか。
現実には有り得ん神話の世界だぞ。 そんだけ勝手に決めつけてりゃ歴史学なんてホーイのホイでヘッチャラだな 文字を持ってる渡来系豪族が、自分たちの歴史は絶対に残してる。
それが口伝しかないってアホかと。
蘇我氏にしても入鹿 イルカ 馬子 うま 蝦夷 東方の野蛮人
こんな動物や野蛮な名前を自分の名に用いるわけ無いだろ。
改竄しまくってる。
勝者が歴史を書き換えてるだけだよ。 >>383
わざと動物の名前や悪い名前にしたんだろ >>384
その可能性もあるけど、実名を消して、わざと野蛮な名前にしてる説もあるよ 山中鹿介とかいるしな
動物の名前を用いるわけないってのは的外れ >>383
蝦夷以外はそう悪い名前とも思えないが。 >>383
もとは渡来人の多くは任期滞在で、任期が終わったら帰国する人が多かった
渡来人の豪族の多くは白村江以後の列島定着ではないかな >>383
入鹿は読みはイルカだけど動物の種類としては海豚のことじゃなくて鹿だろ >>391
ガチで?初耳だ。無知で悪いな。
渡来人の中で実際に大陸に戻って行った有名な渡来人っている?
教えて。 ところで当時「馬」の字は「うま」と読まれていたの? >>394
馬は現物も名前も大陸から入って来た
原語でマーとかメーみたいに言われてたのがこっちでちょいと訛ってウマになった
馬子(うまをひく職業)は「まご」と訓むことだし、飛鳥時代みたいに古い頃は「ま」と言っていたかも知れんね
で、何でそんなこと訊くのよ >>395
>>394じゃないが、質問スレだからだろw いや、蘇我馬子や入鹿や蝦夷やらの名前考察の一環かなと 九州だか薩摩だったか名前に動物の文字入れるのがステータスだった様だよ 蘇我氏は渡来系の最大豪族だぞ。
動物の名前を入れる慣習は無い。 そりゃ蘇我などという政権の大立者はオホキミからもらったような凄い素晴らしいかっこいい名を名乗っていたかも知れない
けれど悪者として誅殺されたんだからそういう立派な名前はそぐわないとして史書では書き換えられたかもしれない
昔のことだ、ホントのホントのところなんて分からない 中大兄皇子たちより、格好いい名前だったら、誅殺した自分らの示しがつかないからな。
その後の白村江の戦いでボロ負け、壬申の乱で、身内で殺し合いやって、豪族からの支持はガタ落ちだったからな。 しかし、天皇によって和気穢(きたな)麻呂と名付けられた男が実は清麻呂という名前だったことはしっかり後世に伝わっているが‥ >>399
旧のかつらぎ氏と同じで、渡来人を束ねる氏族であって渡来人ではないよ >>402
その天皇が死後すぐに権威否定されたから悪事が記録に残されただけかもしれんのだよな
そうでなければ記録に残されず葬られていたかも、だな >>403
その時代の記録が日本書紀以外に残されてないから、本来の名前なのか書き換えなのかを調べることはできないんだよな
先代旧事本紀は偽書だし。 大陸の人なら逆に、馬が苗字に使われるくらいだし
あと、馬韓という国もあったね >>409
馬韓って自称なのか?
中華が付けた名前だろ。
卑弥呼とか倭人みたいに、当て字でな。
あまり良い意味じゃないぞ。 中国でも朝鮮でも馬という苗字はある
馬超とか馬謖とかは有名
彼の中ではこういう人達の名前も蔑称で改竄されたことになるが史実とは違う >>413
でも、鬼頭さんとかいるけど、「この鬼ー!」って言えば侮蔑になる >>413
三国時代の馬一族は有名だが
蘇我氏の名前が改竄されてないという根拠にはならないな。
実際にそういう説を学者が主張してるのは事実だし。 仮に蘇我氏が在来系じゃなく、配下だけでなく総領家までみんな渡来人だったのであれば、
馬という名前を悪く思わなかったんじゃないか、蔑称じゃなかったかもね、と言ってるだけのような?
ところで、馬、蝦夷、鹿と並べるということは、蝦夷は獣の一種って扱いだったのかな? >>415
いや真っ先にそちらが改竄されたとか蔑称だとかいう根拠を示すのが当然だろう
ここまで妄想と決め付けのみしか示されておらず一切の根拠がない
馬氏と馬子では何故違うのか何も説明できていない
トンデモ学説を唱える人が誰かいれば他の学説は否定されて史実ということになるのか?
そんなことを考えている学者はいないぞ >>415
涼西の馬氏、馬騰馬超馬タイのことなのか、荊州の馬氏の五常(馬良とか馬謖)のことなのか、どちらを言ってるのかな 馬超の馬姓は先祖が功績をあげて馬服君に封じられたため
色々あって馬姓に変更
邪馬台国にも馬って文字入っているけど馬自体に悪い意味があった気はしない こちらの人の名を書いてみるほうがマシだろう
蘇我高麗 −−− 稲目 -- 馬子 −− 蝦夷 −− 入鹿
|
− 馬背
用明天皇
|
|−− 厩戸皇子
|
穴穂部間人皇女(蘇我) 卑弥呼も自称なんか?
自称な訳ないだろ。
したがって、蘇我も自称ではない。
勝者が歴史を書くからこういう名前にされた。 マシというよりトドメになっちゃうよ
仁徳天皇は大鷦鷯天皇だし、菟道貝蛸皇女という名の皇族もいる
動物の名前を使ったら蔑称で改竄確定なんてのは完全に破綻 >>423
蘇我さんちの名前は他と比べてかわってんね
素人はそういう印象どす(´・ω・`) 泉親衡の乱って不思議だ。
首謀者の泉は逃亡で行方知れずのままで、擁立された
頼家の息子が謀反人の扱いになって出家させられてるし、
結果として和田一族が蜂起に追い込まれて滅亡してる。
擁立された栄実って謀反を承知してたんでしょうか?
それとも泉に勝手に名前を使われただけ?
あと泉は行方知れずとはどうなったんだろう?
そもそもこの乱って栄実と和田一族を追い込むため
北条氏が泉を使った自作自演?
どなたか見解をお願いします。 入鹿と蝦夷は明らかに本名ではないだろう?
ただ筑紫の君磐井とか物部守屋とか反逆者も本名が記載されている例もあるから
蘇我入鹿や蝦夷だって本名がわかっていればきちんと記載されていたのではないかな?
あの時代は言霊思想が強かったから本名はよほどの身内じゃないと分からなかった
と思うのだけど、もしわかっていたら日本書紀や古事記の編集者もきちんと
記載していると思うのだ。
おいらの推測だと、あの時は蘇我王朝の状態になっていて、入鹿や蝦夷は王者認定された
から本名が伝わらなかったのではないかと推測している。
卑弥呼だって本名が伝わっていないからな。 本名が分からなかったら、なんて呼んでたんだ?
例えば入鹿の場合、通名が入鹿ってこと?
中大兄皇子も本名があるけど、現在では分からないってこと? >>429
後世のケミョウ・ジツミョウと同様な使い分けだろ?
織田信長のケミョウは三郎だが、これを本名じゃないなどとと言うことはないぞ 九戸政実の乱で籠城からの降伏後に秀吉軍が条件だった助命の約束を反故にして皆殺しにしていますが、このような行為は当時として当たり前だったのでしょうか やはり信用は無くすだろうな。
でも海外では、モンゴル帝国軍が、多くの場合は、降伏したら助命したけど
ごく稀に、降伏してから皆殺しとかやってたみたいだから、多々あることかな?とは思う。 >>432
仮名、実名とかくと仮名だから本名じゃない、本名は実名だとか、頓珍漢な返答が来そうだよな
片仮名で書くしかない 仮名(けみょう) 実名のほかに、かりにつけた名。通称。
実名(じつみょう)本当の名前。じつめい。 豊臣秀吉は反抗的な佐々成政を粛清する口実が欲しくて統治が困難な肥後国に国替えしたのでしょうか? >>437
そんな理由で肥後一国を与えるとかありえないよ 能力的に信頼したから任せたとか、失脚した元同僚に再起のチャンスを与えたいとかいろんなのがあったのかもな タブーかもしれないですが
近畿では天皇陵とされる地域は
だいたい被差別部落になってる気がします。
本来は高貴な住民のはずなのに、なんで差別対象になってるのですか?
古墳の墓守の身分だからですか?
しかし、現在でも貧しいのは自助努力が足りないから? >>438-439
>>437ではないが、俺も粛清目的と思ってた。
目障りな佐々と厄介な肥後の国人を一斉に処断する機会だと。
同じく統治に失敗したのに、木村吉清と処遇が違いすぎる。
>>429
>入鹿と蝦夷は明らかに本名ではないだろう?
しつけーんだよボケ。
だったら根拠示せよ。 伊勢神宮って天皇家の守り神なのになんであんな変な場所なのかなと思ってたけど、壬申の乱のときに大海人皇子があのへんから攻めていったところだからってことかな 最初は大和にあったけど、いいところないかと、近江、美濃、尾張と移りながら伊勢へたどりついたって言うよ 足利義昭は羽柴秀吉の将軍になりたいから猶子になりたいという申し出を断ってるからチビざると嫌っているのだと思ったら、結局は京都に戻って秀吉の庇護のもと悠々自適の生活をしてるんだよな、秀吉の話し相手になるくらい仲良くなってるし
この二人の関係がよくわからん >>440
陵墓の管理を税の代わりとしていた陵戸が中世に入ってから「正規の納税を行っていない」=良民ではない/特殊部落(のはしり)扱いとされたのではないかな >>446
ありがとうございます。
中世の幕府体制になっても、彼らは納税してなかったのですか?
江戸時代とかもですか?
つまり、被差別民だったけど、納税の義務は無かった優遇民だったけど、明治以降は納税の義務が課せられたから、水平社とかで戦うようになった。
という認識であってますか? 陵戸なんて中世にはほとんどわからなくなっていたぞ
だいたい近世の被差別部落が陵戸の伝統を引いているなら
陵墓の場所がわからなくなったりはしない >>448
じゃあ、ただの偶然ですかね?
近畿の人間ですが、なんか関連があると思うくらい、古墳の近くが被差別地域の気がします。 周囲の人の意見は、古墳を作るときに連れて来られた俘囚とかの子孫じゃないか?
みたいな意見を聞きました。 中世の区分で神人とかの平民じゃない集団となってたのではないの
商人集団含めて色々といたので陵戸かどうかわからないってだけではないか?
中世の納税は所属の違いが納付経路の違いになり、色々と複雑だったっぽ
幕藩体制はちなみに中世に含まれない >>451
ぶっちゃけ古墳の周囲に被差別部落が多いのは偶然なのか?何か理由があるのか?どちらと考えて良いのでしょうか? 最近西鋭夫とかいう怪しいオッサン(自称スタンフォード大助手)が大々的に明治維新の本をネットで宣伝してるけど
ぶっちゃけ逆説の日本史レベルなの?
この西は他で憲法九条廃止を主張してるのでどうやらウヨ系らしいな
(まあウヨ系でも内容が正確ならば歴史本を出しても構わんが) >>454
近畿圏の人間としては、偶然と思えない部分もあるけど、答えが無い以上納得します。 >>455
そりゃ井沢元彦の言う穢れ思想だろう。
いまの被差別部落の起源は鎌倉期以降からの話だけど、
おそらくそれ以前から葬式にかかわる人たちはある種神聖視、ある種蔑視されて
いたのではないかな? 古墳周囲は神聖でもあり、穢れもあるから差別された。
って訳ですか。
住んでる住民は古墳時代から住んでることは無いと思いますが、穢れ思想のせいでとばっちりを受けたって感じですかね? 古代賎民(陵戸を含む)と中世被差別民との歴史的連続性についてはほぼ否定されている
中世被差別民と近世部落との連続性は現在議論となるところである なるほど、都市の周辺部に古墳と被差別部落が集まるから、偶然に一致する事が多いって事ですね。 小牧長久手で家康が優勢に戦えたのは甲賀忍による情報収集と味方に引き入れた武田の兵士が強かったからでしょうか? 古墳と被差別部落の関係にこだわってるやつがいるが
古墳なんて全国に15万基以上あって
古代から人が住んでるようなところの近くには
必ずと言っていいほど古墳がある
被差別部落との関係なんてそう思いたいからに過ぎない >>462
秀吉方の池田とか森が与力の立場で秀吉に命令権がなくて統制が取れなかったせいじゃないでしょうか。 畝傍山なんて山の住民がほぼ部落民だった。
偶然かなあ?って思います。 江戸時代中葉以後、全国平均的には人工は横ばいだけど被差別部落は人口がのび続けてるからね
それで相対的に多く見える可能性も。 大和の古墳と部落の分布について質問者以上に詳しい人間はここに居らんよ >>470
え、そうは思わんのか
そんなにおまいは詳しいんか 秀吉の遺言を無視して秀頼を殺した家康に当時から批判はなかったのですか? 江戸時代の江戸の川、例えば大川って汚かったんじゃないかと思うのですが
どうなんでしょ?
今と違うとはいえ100万人の生活背水受け入れてたんでしょ? >>474
昭和30年代までは白魚が上っていたそうだから少なくとも魚がすむのには
問題がないレベルでないの? >>472
奈良県の遺跡地図はウェブ公開されてるぞ
古墳と部落の関係云々が妄想だってすぐわかる 古墳時代に日本に来た渡来人は、例えば古墳建設の役目が終わったら帰国する場合もあったのですか?
それとも日本に全員住み着いた? 例の古墳築造目的とか聞いたことがないな
渡来人が定着したか帰国したかなんて
全員の出入国記録がない限りわかるはずない
バカですか? >>476
ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou70/kai07010.html
「天皇陵と被差別部落との関係」だった。部落出身の生徒の所へ家庭訪問する。貧しい家のうしろに、立派な天皇陵がある。
また、全く別の生徒。そこにも、別の立派な天皇陵があった。
何回も、そのような経験をくりかえすうちに、疑問が生じた。「果して、この両者には、関係はないのか。」と。
自分は奈良以外の近畿ですが、やはり古墳の近くは被差別地域になってます。
たぶん偶然でしょうが、こういう記事も見つかったので不思議なのです。 古墳と天皇陵の区別もつかないアホが自分の感覚を信じても正しいはずがない >>481
古田も古墳と陵墓を混同してミスリードしてるし
思い込みを述べているだけでなんら史学的検証をしていない >>481
ちなみにそのリンク先に登場する藤田友治は
大阪府下で教師をしていたので奈良県のことではない >>474
生活排水って言ったって、いまと違って化学物質とかないし 都市の生活排水の養分で江戸前の魚がよく育ったとよく言われるが、今と同じで内陸山林から流れてくる川の養分も大切だと思う
あと、都市の要らぬ養分は広大な干潟で浄化され、貝の身に変わった
総州行徳のあたりは庶民も貝ばかり食べていて、台所の俎板はバカ貝の殻で擦れてしまっているってんで、バカでスレていることを行徳の俎板と洒落たのが江戸っ子 天皇、部落、渡来人に執着して
自演と嘘が大好きなキウス >>492
書き込みの趣旨がよくわからないが‥
すれっからしの馬鹿野郎という悪口を「行徳のまな板」と言い換えるわけだ
ハマグリよりバカ貝の方が安いから庶民がよく食ってたんだろ
バカ貝というのがあるんだぞ 世間一般的に、「豊臣秀吉は晩節を汚した」といわれるのは、
@実子秀頼に家督を譲りたいがために、甥の秀次に謀反の罪を着せて皆殺しした
A勝てる見込みもないのに、明を征服するために朝鮮出兵を強行した
このどちらが主な理由でしょうか? 五分というかそれだけじゃないでしょ
余りにも横暴すぎた >>496
女漁りとか?
「秀頼の事、切に切にお頼み申す」
の結果が大阪の陣だから笑ってしまう。
なんかもう同情の余地もないというjかw 北条や九戸が投降してきたのに約定を違えて殺すとか
千利休に対する謎の切腹命令とか 天皇家に苗字がないのは、江戸時代以前の庶民に苗字がなかったのと同じことなのかな 天皇は別に尊敬はしてないけど
天皇が苗字がないのは権威付けの為
天皇が功績があった臣民に苗字を与えるために
自分は苗字を持たない。
逆に言えば、天皇以外で苗字が無いのは、ぶっちゃけ賤民扱い。
渡来人とかは、おそらく最初から苗字みたいのは持ってたと思われる。
天皇も大陸の習慣の真似して、苗字を与え出したと思われる。 秀吉ってあれだけ女に手を出して中出ししまくって子供ができなかったてんだから
どれだけ重度の無精子症なんだべ
弟も子供なかったんだっけ? あの時代高熱でタマタマ死んじゃうことも多かったんじゃね? >>502
秀忠に継がせたかったが為に実息の信康,秀康,忠吉,信吉,忠輝(未完)を殺しまくったんだよね?
末の3人だけは対抗馬になりうえなかったので存命できた あんなガタイのいい秀頼が実子なわけないと、当時誰もが思っていたことだろう 浅井長政がデカくて、その血が入ってるから、不思議ではないって聞いたぞ >>505
ああ、そうか。おたふく風邪で……。
あり得る。 少なくとも、秀頼の他に産まれなかったわけではないな
幼くして死んだのがほかにいるんだから 当時から玉砕精神はあったのですか?
伊達政宗の残虐性を轟かせた「撫で斬り」の真実
ttps://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60793 >>511
なかなか面白い分析だね。小手森城の撫で斬りはひどい話だと思ってたけど
「伊達には何もくれてやるな」という焦土作戦であり、それに対する政宗の
強がりが撫で斬りの真相だなんて。 ちょっと、お知恵を拝借したいのですが、
江戸の古地図を眺めていたら、三田二丁目に「島津 スチ」
と書かれた大名屋敷を発見しました。佐土原藩の上屋敷のようなんですが、
スチ の意味が分かりません。
わかる方がいらっしゃいましたら、教えてください。 >>513
文字が擦れていて実は「アハチ(淡路)」だという可能性は? 門跡寺院は皇子、世襲親王家の皇子、摂家の庶子、時に足利将軍の庶子が入室してますが
そういった人物が常に一定数いるわけではないので
門跡が不在になったりしたのですか? 右の長屋は備前島原松平家中屋敷
正面の綱坂を登った突き当りの左側に、日向佐土原二万七千石島津淡路守下屋敷がある
ベアトその屋敷を写真の題名にして「薩摩島津家下屋敷」としたのであろう
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/zoom/x400w/1443.jpg 参勤交代というシステムは、古今東西ありふれたものなのでしょうか? >>515
不在の時はある
門跡が若死にすると次代の候補がまだ修行中だったりするからね
次代の候補すらいないと先代が復帰したりすることもある
他での候補者を移籍させることもある >>島津 アハチ でした。島津淡路守ですね。お騒がせしました。
国立国会図書館デジタルコレクションで、原版にあたりました。 >>514
ご指摘の通りでした。ありがとうございます。 >>517
大名というのが、建前として軍事指揮官であって本分が軍役だとされていたから、
軍役の一環として将軍の近くに出仕するべきであると考えること自体は鎌倉時代や室町時代と同じ
常に江戸に、ではなくて領国と江戸を定期的に往来する制度となると、類例は少ないかも 遅レスだが
古事記、日本書紀、続日本紀あたりを通読すれば蘇我氏の名前を蔑称とは思わないだろう
梅原猛がそうだが、関心のある所だけ読むから珍説をひねり出せる >>524
じゃ、小一郎のまま死んだ弟と大和大納言豊臣秀長とは別人物だったのか! >>526
秀長の夭折した息子も小一郎って言うんだよ 日本に文字による記録が遅れたのは何故ですか?
飛鳥時代に入ってから、漢字が導入されたけど、どう考えても、弥生時代に渡来人が入って来た時に、漢字とか持ち込んでいるはずなのに、なんで普及しなかったんですか?
少なくとも渡来人とかは歴史とか日記みたいのを書いてたと思うのですが。 文字を使うなら先ず極く実用的なメモとか、あるいは呪術的なこともあるかも
だが、史書を編み日記を付けるなんて文芸的なことはちょっと‥おおごとじゃないか知らん 終戦直後の学校生活に関する文献や動画等の資料でおすすめのものはありませんか?
特に小中学校における終戦後の教育内容転換に伴う混乱や学校生活の変化について調べています。当事者(=子供)目線での資料であればなお良いです。
よろしくお願いします。 >>532
都内に行ける方なら、九段下の昭和館はどうかな?
https://www.showakan.go.jp/
去年行ったけど戦前、戦中、戦後の生活が見られて面白かった。 戦前にタイムスリップしてもぬるぽと叫ぶと叩かれるの? >>499
聚楽第の破却とか、秀次の一族のほとんどを処刑とか。
中には駒姫なんてほとんど関係ない人まで。
脳か精神の病気にでも掛かってたんだろうか?
秀吉が現代の一般人なら、騒音垂れ流しやゴミ屋敷作ってたり
隣近所に難癖付けまくる迷惑老人になってたかもな。
そう考えると晩年に酷いエピソードがほとんどない家康って凄いな。
豊臣潰しくらい。
あれも格上と思い込んでた豊臣が悪い部分もあるし。 豊臣政権が続いていたら、後年になって、何幕府と呼ばれそうでしょうか? 幕府とは征夷大将軍が朝廷外に設ける役所
豊臣氏は関白で朝廷内の役職 幕府という蔑称は江戸時代に使われだした用語
豊臣政権が続いていたら,当然平・豊臣もカウントされる 天皇家存続の危機は、大東亜戦争敗戦の前では、いつになりそうでしょうか? >>542
禁門の変。ここで薩摩が負けていたら天皇家は滅んでいた 思考実験で有名な「テセウスの舟」について、どのように思われますか?
歴史好きにとっては、これはかなり興味深い思考実験だと思うのですが >>546
頭部以外後世の復元の飛鳥大仏は国宝に指定されない。知名度も低い。 過去に何が起ったのかを明らかにしようとすることだけが歴史学なので、
過去に起こった(と思われる)出来事をどう評価するか、は歴史学とは関係無いと思う 私はバカです。本当にバカな質問なんですが、お願いします。
私は、数年前、子の小学校入学に際し、自分がバカすぎては子に迷惑がかかるのを気にして、2ちゃんねるで質問したり、
この板とかで「日本史入門したいならこの漫画(小説)を読め」的なスレを見て、そこで勧められていたいくつかの漫画と、
小説(司馬遼太郎氏の作品)と、昔の大晦日特別時代劇DVDを借りて言われたものは全部見ました。
おかげさまで、バカなりに、戦国時代と幕末時代には(バカのくせに、というレベルでは)くわしくなりました。
しかし、まだよくわからない時代があります。子どもがそろそろ歴史の勉強をする頃なので、話を合わせたいです。
ぶっちゃけ、武田さんが上杉さんとの間で、戦いながらもシンパシーがあって塩を送ったとか、
寺田屋で龍馬の奥さんが裸だったとか、そのとき活躍した長州の人が槍の名手だったとか、
そんなのばかり知ったけど、すっぽり抜けてる時代がたくさんあります。その抜けてる時代のことも早く知りたいです。
つまり戦国時代よりも前のことをもっと詳しくなる漫画小説ドラマを教えてください。子が成長してきているので時間がないです。
昔は、藤原さんって人が多すぎませんか?全ての藤原さんのキャラが立ってて、暗記しようとしなくてもちゃんと印象(記憶)に残る作品をおしえてください。
あと、源さんも多すぎます。権力を握った人もいれば、ボロ負けした人もいるみたいだし、逃げたと思ったらモンゴルで人生逆転した人もいるらしい。
それから、皇室のことも複雑です。皇室が南北に別れてマジやばかったこともあるみたいだし、四国の島に追い出された人もいた
そうですが、実はその悲しい人がすごい宝物を持っていたとか、複雑すぎてわかりません。
というわけで、戦国時代と幕末時代以外の時代について、バカでも知らないうちに理解できる漫画小説映画ドラマを教えてください。
まったくわかりませんが、「大化の改新って、一種のクーデターなんだよね。日本史上ではきわめて珍しいよね」みたいなことを飲みの
席で言ってちやほやされてたバイト君の記憶があります。ああいう感じの「わかってる感」を自分の子どもに見せたいです。
よろしくお願いいたします。 第二次世界大戦ってものすごいばかにみえませんか?
日本軍戦車数両とかそのレベルで1万人島にたてこもる
米軍飛行機弾薬大量母艦その他一杯で
爆撃しまくりで、日本軍1万人ただうえから弾薬落とされただけで死亡
みたいなのがやけに多いんだが。戦う意味がなさすぎ >>549
石ノ森章太郎 マンガ日本の歴史 全55巻
デジタル配信もされてます。
氏、渾身の作品です。 江戸時代の藩札ってちゃんと通用したの?
たとえば、税額が年貢米5石の農民が、自分ところの領主の発行した米穀5斗の額面の藩札を納税日に年貢米を10枚持って行って、はい今年の納税完了ってなるの?
それとも、年貢米は藩札じゃ受け取れない、ちゃんと米穀持ってこい、ってなる? それとも、手数料やら引かれてしまう? 年貢の金納はないわ
明治になって地租が金納になって、そんなことやったことない百姓達は慌てた
信用力が低い藩札の受け取りは、領主の側としても自分で発行しておきながらイヤだったでしょ 藩札ってのは、借用証書を紙幣なみに流通させるような代物で、通貨と手形の間みたいなもんだろ
それに、額面が大きいんで一般の納税には向かないと思うが 年貢米を取ってそれを米相場で売り捌いて領主の財源とする
米が入らなくて自分が発行した藩札が入ってくるって、それはどむならんわ
だいたい百姓に藩札渡すような取引がないだろ >>555
額面が米一石の藩札なら、藩主に貸してるお米一石の返済を受け取る権利でしょ?
藩主の元に米一石の藩札が戻ってきたら、その一石分は城からお米を出さずに済むんじゃん。
それが年貢の納付に使えないのは不思議な話だ。 >>556
農民の産品は多岐に渡るよ。
たとえば、
加工食品、漬物、素麺、高野豆腐、味噌、茶葉、干柿
繊維製品、乾繭、綿花、漉き麻、雁皮、糸、布、縄
水産食品 鯉、鮒、泥鰌、蜆、干鮎
農畜産物 野菜、果実、花卉、蝋、藍、紅花、藺草、牛、馬、鶏、鶏卵
採取品 薬草、薪、芝、自然薯、石、土、漆
労力の余る寒冷期には、内職や出稼で副収入
小作人を沢山抱えてる豪商だと、町の商人との間で>>133
米や金銀の貸し借りもあるだろう。 >>558に挙げられている品目の中に米は見当たらない
藩札はそりゃぁ商人相手だろう
米を一般の商品のように百姓に扱われては封建制の根幹に関わる
藩札を差し出すような百姓が居たら‥手討ちにしてやりたい気分だ(イラッ
幕藩体制を維持する立場の侍としては自由な取引は規制するぞ
豪商が小作人を大勢抱えるようなことはない
これも封建制の根幹に関わることだ
百姓は村の庄屋に年貢米を納め、庄屋が領主にまとめて納める
明治に税金が金納になっても従来のようにしたいものだから、地主に農地をもらってもらい、地主に米を納める従来のようなやり方を百姓は好み、東日本では大地主が生れた (幕府は自作農推進の立場だが、東北あたりの大名領には殿様以上の生活をするような大地主も居たようだが) 江戸くらいの被差別部落民と今の被差別部落民では、ほとんど関係無いって聞きましたが事実でしょうか?
今の住んでる連中はただの貧民みたいな感じな連中って聞きましたが。 >>559
小作人を抱えてるのは誰?
小作人は直接の納税義務はない農家で、別の農家(本百姓)に雇われてたり土地を借りたりしている人でしょ?
耕作権・納税義務を持つ本百姓に対して、大きな耕作権を持つ本百姓のところか耕作権を借りて物納で地代を納めてるのが小作人じゃないの? >>561
江戸くらいの被差別部落民は,他地域に移り住んでもう居ない
今の被差別部落民は,そこが何の地域かも知らず,安いからという理由で住み着いた
こんな感じかな? 実態数の比率は誰も調査しないから知らない >>562
>>558で時代劇の越後屋みたいなところが大勢の小作人を抱えるみたいな書き方だったので、それはないだろと書いたまで 地主は元々沢山の農地を持つ豪農、庄屋のような旧家が「地主業」をやってたんで、商売人が参入するようなもんではなかっただろうな
幕府は自作農が納税するというのが健全とみていて、不在地主は嫌った
西日本などは自作農だらけ 例えば飛鳥時代に建てられた木造寺院で、過去に何度か部分的な改修が行われ、
一番最近では昭和の頃にも一部改修がされた寺院と、江戸時代後半に建てられた
木造寺院でまだ一度も改修がされてない寺院があった場合、寺院の歴史やら由緒やらとは
関係なく、「歴史的建造物」としてはどちらの方が価値があると思われますか?
あなたなりの判断基準や見解などもご教示いただければ幸いです 江戸時代後半のお寺なんて近すぎて全くたいしたもんではないな
奈良時代の国宝薬師寺東塔は修理を重ねて、今も解体修理、腐朽木材取り換えをしたところだが、たいしたもんだ >>561
江戸時代には、部落にだけ許認可されている独占的な仕事があった
明治維新後に独占が廃止されて部外者が参入し、しかし一般の仕事には雇ってもらいにくかったので、明治に入ってから部落の貧困化がいっそう進行したのは確実 >>565
江戸時代には、自分が居住する村以外の地主になることが規制されていたから、商人が農村の地主になるのは容易ではなかった
それでも事例は色々あるとは言え。 >>566
喜多方の国指定重要文化財「長床」は江戸時代かなんかの改修で柱を切り詰められたのを
無理やり継ぎ足して復旧した痕が目障りなんでもっと綺麗に直して欲しいと思います。 >>566
『「歴史的建造物」としての価値』が『歴史やら由緒やら』と関係しないわけないじゃん、と思う
固定資産税制度上の資産価値額ならどっちも0円だろうな、と思う 長篠の戦のあとの武田家はどうすれば生き残れたでしょう?
失敗としては
○御館の乱で景勝側から黄金と領地割譲を受けて好意的な
中立をしたため北条と敵対関係に。
○高天神城見殺し
○新府城の築城で多大な労役による不満と、
「防衛線をそこまで下げるの?」
という前線諸将からの不信感があると思う。
御館の乱ではあくまで景虎サイドで戦い、
基本的に遠江、三河方面を主戦場に。
新府城みたいな負担と疑惑招くものは作らず。
これで信長に対抗できないかな? 何で鎌倉や大宰府は室町時代以降は中核都市としては衰退したの?
奈良市なんかとは何が違ったのだろうか 鎌倉は三方を山に囲まれて狭いので発展しようがない。 >>572
いずれも、滅亡を早めるきっかけではあるが、それをやめたぐらいでは滅亡を遅らせるだけ、避けられるわけではない
武田の滅亡を切っ掛けとして本能寺の変に繋がった側面を考えると、武田の滅亡を遅らせても本能寺の変が遅くなる程度で、結局は信長に滅ぼされて終わるはず >>573
大宰府はしらんけど鎌倉は室町時代半ば過ぎまで関東の中心として栄えてるよ 鎌倉公方が消滅してからの鎌倉ってあまり触れられないよな >>573
・鎌倉:鎌倉公方が1455年に古河へ移住したため、関東の政治的中心としての役割が大きく減少した。
また、東海道が、鎌倉→三浦半島→海路で房総半島というルートから、平塚・藤沢・戸塚と経て江戸に至るルートに変わったため物流上の重要性が減少した。
・大宰府:九州・中国地方の政治的・軍事的中心としての役割が博多に移った(前者は平清盛時代、後者は元寇移行)。 >>573
奈良って栄えてたのか?
大阪のベッドタウン化が遅れた奈良は、50年前、見渡す限りの田んぼの向こうに東大寺の屋根、興福寺の塔、若草山が見えるくらいのものだった
江戸時代、京が花の都なら奈良は花の田舎だと言われていた 栄えてたどころか首都だったじゃねぇか
>>573は、鎌倉、太宰府は奈良と違ってその後衰亡したと書いてるだろ 滋賀の湖西出身だけど
小さい古墳とか結構あるから
今は衰えてるけど、古代は栄えてたイメージがある。 >>579
中世のどこかの時期までは、いくらかは栄えてたはず
酒造の本場が灘でもなく京都でもなく奈良だったことも含め、それなりの地場産業が発達してはいた
その後、徐々に衰退していったのではないかな
南北朝頃には酒造りは奈良じゃなく京都が栄えてたような気がする。灘はもっとあとだよな 多聞城の近くには"日本のディズニーランド"と賞せられた奈良ドリームランドがあった
早くに潰れてしまったが、今に廃墟を残す >>565
不在じゃない大地主も居れば、自前分の田んぼ耕しつつ、小作人に貸したり、自前分の田んぼに出面費手間賃払って手伝わせたり、あるじゃん。
自前の田んぼだけでは食いつないでいけないから、副業で小作や出面やらやってたり、むしろ小作で借りてる田んぼのが自前の田んぼの何倍もある自作小作兼業もあったりしただろ? >>569
豪商が商工業始めるというのは、けっこうあった。
それこそ、藩札の引請人になってた豪商までいたろ。三田藩とか尼崎藩とか麻田藩とか。
上方から招聘されて仙台藩の米札(藩札)の管理を任された山片蟠桃の生家も豪農で且つ商家。
藩札に関わった話は伝わっていないけれど新大和川付け替えの請願で有名な中甚兵衛も農家でありながら、
金融、菜種・木綿の取扱いをした商家。 >>548
いやいや、過去に起こった出来事の評価や価値を判断するのも歴史学の範疇でしょう >>590
れき‐し【歴史】 の解説
1 人間社会が経てきた変遷・発展の経過。また、その記録。「日本の歴史」「歴史上の事件」「歴史に残る」「歴史をひもとく」
2 ある事物・物事の現在まで進展・変化してきた過程。「菓子の歴史」「歴史のある店」
3 「歴史学」の略。 >>575
では武田家の滅亡を防ぐにはどうするべきだった?
一度徹底的に敵対してるから、徳川のような
与力大名にもなれないだろうし。
勝頼は隠居で信長の息子の一人を養子にさせられて
武田の跡継ぎにする、北畠コースしか思い浮かばない。 >>592
結果的には、三方ヶ原で徳川・織田軍と戦ってしまったのが悪手だった。
軍事的な勝利と引き換えに、外交上巨大な負債(織田との断交)を抱えてしまった。 だね
信玄が亡くなっていなければ三方ヶ原の戦いが悪手なんて到底言われない
突然の死を予見しろというのも酷な話だし、やはり長篠の戦いが悪いとしか >>592
勝頼の代になってから、なるべく早い段階で講和を求めておくしかなかった
織田方の城を攻めたりする前に講和していたらチャンスがあったけど、長篠の頃になるともう、信長のほうが勝頼への恨みを募らせていて講和できなくなっている >>579
そんなにウンコ溢れてねえよ。戦国時代以降、お公家さんも牛車乗らないし >>592
身内にひどいことしたら滅びるのよ。
斎藤も織田も豊臣も。
徳川だって、家光の系は続いてないだろ。 信康の件は、信長に要求されて仕方なく切腹させたことにして逃げ切ったのでは
当時の情勢を見るに、切腹させることに積極的だったのは信長じゃなく家康のほうに見えるけどねえ >>597
信長に人質送って講和できて、御館の乱では影虎について
北条、上杉影虎と同盟関係に。
これだと周囲すべて安泰で、将来的に信長に臣従の礼をとって
配下大名がいいところかな。
屈辱かも知れんが滅ぶよりずっといい。 信長は同盟はするけど臣従はさせないでいずれ滅ぼすというスタンスじゃね?
長宗我部も手のひら返されてるし同盟関係だった北条も結局開戦してるし
どこまで自勢力を広げる気だったんだろうか
秀吉はガンガン臣従認める作戦だからあっという間に天下人になれたが信長は時間かかりそう >>603
だろうね。ウンコ漏らしたときの顔を絵師に書かせたりしてるし。
家康どんな顔でウンコもらしてたか知りたい人は、名古屋の徳川美術館に見に行ってみ。 長曽我部については、毛利が讃岐に進出し出した頃に一部の城で戦闘を避けて毛利の進出を許したことを毛利への内応と疑われたのが原因で、
最初から長曽我部を潰す意図があったわけではないようだよ >>606
「しかみ図」は家康死後に書かれたもんだし、
脱糞話に至っては遥か後代に創作された小説ネタ 浜松出身の奴が、武田軍に負われた家康が餅代を払わずに、逃げたから
銭取り とかいう地名があるって言ってたけど
武田軍に追われた家康が餅なんか食うわけないから、後世の作り話だと思ってる。 >>609
スタミナ高カロリー食だぞ。
重量あたり体積あたりのカロリー高くて、徒歩時代の旅人が峠で一休みのときに食べるんだぞ、そのための峠の茶店だぞ。
戦争に負けて二進も三進も行かない逃亡あるのみの家康が馬に水飲ませる間に茶店で餅を注文して食ってもおかしくないだろ。 有栖川宮の織仁・職仁・・・・
はつくりを維持したかったのに偏が足りなくなったので
威仁になったのですか? 昭和は前半の戦争の時代と後半の高度経済成長の時代と二分されるけど、戦争の時代があったおかけで高度経済成長が実現したのか、戦争がなかったほうがより発展していた可能性があるのか
戦争の時代は経済が統制されて、それが戦後の護送船団方式の起源になったという説がある
一方で国中が空襲と原爆で破壊されまくって、戦後は焼け野原のスタートとなり、戦後の数年は非常に厳しい時代となった
国力としては破壊的にリセットされてからのスタート 破壊的にリセットされてからのスタートだったら
電源周波数を50か60のどっちかにしようとか
鉄道を広軌にしようという話になったわな
どっちも戦争前から言われてるのだから ドイツもそうだけど、都市圏が無差別爆撃でめちゃくちゃ破壊されたから、インフラがやりやすくなった説を聞いたことあるぞ。
それで、都市部が発展した説。 都市圏が国力の全てに論法がかわりました
この先もゴールポストはどんどんかわります >>616
瓦礫を拾い集めて元の執念のように石造りの街並みを復元したりしているけどな >>614
かつては軽工業偏重で重工業や化学工業などがほとんどなかった日本で重工業や化学工業が必要になり発達したのは戦争遂行のための需要が延びたからだろ
そこから自動車産業やでんきさんぎょうも派生していったのでは
戦争がなければそれらの産業分野の発達は大幅に遅れてたはず 戦争のおかげで、特に飛行機は発展したと思う。
戦争が無かったら、ジェット旅客機とかまだ飛んでなかった可能性すらある。
ジェット戦闘機を開発するために、ジェットエンジンが作製されたからな。 >>620
宇宙で燃料を燃やすために酸素も積み込んでゆくが、大気圏で噴流式推進をやるのなら酸素は空気中おものを使えばよい
これジェット機なり
戦争によらずして思いつくなり 古代では、半島や中国が先進地帯として
渡来人が重用されたのに、なんで現代では、半島や中国が目下の地域に見えるのはなぜなのか?
近代化に日本が成功したけど、大陸は近代化に遅れて、それで見下すようになったからですか? 目下に見えるという、その貴方の中に答えはあるでしょう 薩摩藩が幕府から借金してて賠償金をイギリスに払って和睦した
イギリスが求めていた生麦事件でイギリス人斬った藩士への処罰は
薩摩藩が「犯人は逃亡しました」とかごまかしてうやむやになった >>625
その借金はちゃんと幕府に返したのですか? >>622
朝鮮半島は支那への中継地として利用価値が高かっただけで、三韓や任那の人の質は必ずしも高くなかったから、6世紀には既に属国、
支那は支那で唐の玄宗皇帝あたりかピークで、文明・文化は衰退するばかり。10世紀には以降は習うものが無くなってしまった。 >>624
それとイギリスから蒸気船やら武器やら購入したから。
戦争相手がいい商売相手になった。 >>555
手形なら、他領の藩札なら受取拒否も道理だろうけど、自領の米札で年貢米の代納に使えないって、おかしくないかい? >>629
平安時代の国風文化は、中国の文物を必要としなくなったことで成立したのではなく、
中国の文物を入手し難くなったから成立したものだぞ
独自文化を本当に作り出そうとしたのは江戸時代に入ってからだ
それより前だと、一向宗とか日蓮宗が独自信仰といえる他では大体が中国指向(といっても、日蓮宗の場合は日蓮の知識の卓越さが大きな要素となっているし、その「
知識」というのは中国製のの知識だから、中国に頼らない独自性志向とは言いにくいかも) >>629
明朝は?
日明貿易で日本側が喜んで冊封受けてたが。 朝敵なのに勝ってしまった北条氏は、維新後の扱いはかなり悪かったのですか? 平安時代って風呂(蒸し風呂)には月一でしか入らなかったそうな。
痒みとか体臭とか気にならなかったんだろうか?
体臭はお香で誤魔化しても痒みはどうしようもないと思うのですが。 かゆければかくだろうけど、風呂に入らなかったら耐えられないかゆみに襲われるものなの? 織田信長が黒人奴隷から兵法を学んだというのは本当なのでしょうか そもそもどっからそんな話が?
可能性はゼロじゃないかもしれないが。 弥助のことなんですけど、ハリウッド映画が作られてるらしくて、弥助が信長に対して兵法などを教えるというシーンがあるらしい アフリカのズールー族は、かなり兵法に近いものを持ってて、一時的にはイギリス軍を撃退しているけど
ズールーも大ダメージを受けて、結局はボロボロにされてる 信長が兵法を学んだのは少年期だろ、平田三位とかいう人物を呼んで兵法稽古と記録されてるぞ >>637
頭とか洗わないと3日くらいでかゆくなります。
掻いても元を断たないとまたかゆくなるだけだし。 頭を洗おうとしても昔は石鹸、シャンプーもなかったけどね
作家の五木寛之は年にいっぺんくらいしか頭を洗わないので有名だったな
体臭?
香を使うなんてほんの上流階級でしょうよ
一般ピープルはそんなものないよ
イヌ、ネコも人類も野生状態では入浴しなくても生きていけるようにできているから大丈夫 安閑天皇と応神天皇の古墳、見に行ってきたけど、本当に合ってるの?
宮内庁の認定ってどれくらい正しいの?
継体天皇の古墳は間違いで有名だけど。 >>647
信憑性が怪しいヤツが一部と、間違ってる可能性が高いのが過半、正しそうなのはごく一部
と言われている >>649
古墳ですかね?ありがとうございます。
まあ、古代天皇は実在自体が怪しい人が居ますしね あ、アンカー間違ってるわ
古墳の治定の信憑性のはなしね
だいたい間違ってる
これはまず正しいだろうと考えられてるのは二基か三基くらいしかないはず >>650
逆に考えるんですよ。古墳に葬られている天皇は実在する 本物はこれだと考えられてる古墳とくないちょうの治定が違う陵墓も少なくない
代表格が継体天皇陵とか欽明天皇陵あたりか >>653
いやそれはおかしいでしよ。
そもそも被葬者が不明で実在も不明で、その結論はおかしい 被葬者がいなかったら古墳ではないだろう。実在はする 何で蒙古は商人や僧を装って日本にスパイを放たなかったの?
馬鹿みたいに正司を送り付けては鎌倉幕府に処刑され続けて開戦までろくに情報収集出来ないままだったじゃん。
ただでも不利な海戦だし、これでは勝てる訳が無い
(もしかしたらスパイは出していたかもしれないがまるで役立たずだったんだろか) >>656
古墳の被葬者は天皇ばかりじゃないんだぞ >>656
応神や仁徳とされる古墳があっても
強大な地方豪族の古墳の可能性もあるし
応神や仁徳が実在したことにはならない。 誉田山古墳(応神天皇陵)や大仙古墳(仁徳天皇陵)のような大規模なものは天皇陵である可能性が高いが、どの天皇かというのはもうひとつ定かではない
また継体天皇陵は摂津国三嶋郡にあると書かれた史料により三嶋藍野陵が比定されているが、三嶋郡にはもうひとつ今城塚古墳があるのである
今城というように中世には城砦に利用されて荒れていたため、もうひとつの古墳の方だとされたのだろう
しかし、今城塚の方がグンと規模が大きい
三嶋藍野陵はたぶん豪族のものだろう
そのほか豪族の陵墓が誤って天皇陵とされているものもあるはずである 三島郡でなく三嶋の上の郡とする史料もあるので、島下郡の太田茶臼山ではなく島上の今城塚のほうが史料に合うのではなかったかと 継体って死んだ年齢も40代説と80代説あるし、越前から来た説と近江から来た説ある。
出自を含めて、謎だらけの人物。
この人物が、現在の皇室の確実な始祖って言うんだから、もう草しか生えない。 渡来人って古代に大量に入ってきたって言いますが
渡来人のネットワークみたいのがあったのでしょうか?
職の斡旋をする人とか。
そうでないと、いきなり訳の分からない土地に入って来ないと思います。
豪族とかから、褒美を貰って技術を使用する訳ですし。 継体の死後、子息の安閑や宣化が即位するも
すぐに、原因不明で死亡してるし
何か抵抗勢力の存在を感じるんだけどなあ。 母系で直前の武烈につながる欽明と違って安閑たちは畿内出身じゃない外の豪族の母親から生まれてるので、
畿内の豪族の多くは欽明の兄たちを疎んでただろうと思う
継体天皇はまだしも安閑宣化の両名は、当時の豪族たちからは非正統扱いを受けたのではないかな 欽明は武烈の血を引いてるから
地元豪族の支持を得やすい。
安閑、宣化は、外様の血筋だしな。 中国だと王朝が交代するのに、日本はどうして天皇家が
万世一系で続いたんだろう?
世界でも日本だけじゃないか? 実際には交代してる可能性あり
万世一系説より王朝交代説の方が有力。 「の方が有力」とまでは思えないが、それを勘案したとしてもかなり長い もし途切れたとしても、遠縁の親族から引っ張ってきて、永遠に続くだろ。
継体みたいなもん。
1500年前の時代で正確な記録も残ってなくて、五世孫って本人が言っても、本当だとしても、もはや別系統の人間。
地元豪族から大和入りを阻止される訳だわ。 かなり長いどころか、継体天皇から起算しても圧倒的に世界最古 宮内庁は遺伝子調べさせないために古墳調査させないんだよな
割と近世で途切れてるのかもしれない 皇子の親王に対して皇女の内親王
皇子の王に対して皇女の〇〇は何ですか? 日本人じゃないんだろ
三笠宮家の彬子女王殿下、瑤子女王殿下
高円宮家の承子女王殿下 ↑
江戸時代/明治時代の区別ができないアホのひと? >>680
アホの子かな?
継体の母親は振媛 ふりひめ だぞ。
古代は普通に ヒメ とか付けてるぞ。 皇族に限らなくても皇族も使うなら問題ない
日本語がわからないのかな ヒコ(彦)だって古代は高貴な人しか使わないものだったっぽいのに江戸時代になると庄屋とかでも普通に使ってるし明治になるとほぼ一般化した
姫も同様だろ
古代史の用語でヒメ・ヒコ制ってのもあるしさ >>684
日本語を理解できていないのはお前だろ
>>677をよく読もうなw >>683
王 だって、皇族に限らず、もっと広範囲で使われてるんだから、
姫が皇族以外にも使われてる点は問題にならないと思う
著名な武士達の一部で幼名に〜王とついてる人を何人かは確認できるだろ >>685
日本書紀の時点でヒコもヒメも天皇皇族后妃以外の豪族にも使われてるよ >>688
最初の問いである>>677をよく見よう 姫昌,額田王,千寿王,春王…
“内親”王 > 女王 >>681
近世以前においても内親王宣下を受けていない女性皇族は女王とするのが一般的
例
後西天皇女御明子女王(高松宮好仁親王王女)
東山天皇中宮幸子女王(有栖川宮幸仁親王王女)
徳川家治御台所倫子女王(閑院宮直仁親王王女)
徳川家慶御台所喬子女王(有栖川宮織仁親王王女) 世襲親王家の子女は皇子でも皇女でもないでしょ
最初の問いである>>677をよく見よう 質問者か?
これまでの回答を見て理解できなかったのならまずいぞ
取り敢えず現行制度の話なのか、昔の話なのかはっきりさせよう 適正な回答は三度も出てるけど、変な横槍に埋もれて分かりにくくなってるのかな 超初心者です。お願いします。
周囲であまりに話題になっているので、今更ですが、麒麟が来るというドラマを、これから見ようと思っています。
休業中に、本木さん演じるマムシさんという人が序盤早々なのに討ち取られて帰らぬ人になったのが見所だったそうで、
そのシーンの話題のせいで見る気になりました。
しかし、私の勘違いかもしれませんが、マムシさんが戦ってやられたのは、自分の息子というのは本当でしょうか?
本当に勘違いかもしれませんが、息子といっても連れ子とかじゃなく、正真正銘、ガチで自分の血を分けた息子らしいと
聞きました。本当ですか?
それ、コンプライアンスというか、今のテレビでそんなの放送できるわけないと思うんですが、どうなんでしょうか?
マムシという人は、マジで実の息子に○されて、しかもそれがドラマの序盤の名シーンになったんですか?
あと、今後、麒麟が来るでは、こんなシチュエーションがごろごろ出てくるんでしょうか?史実をベースにしたドラマだから
今更ストーリーは変えられないんでしょうが、子が親を○すなんて、そんなシーン、親子で見てる人はどうしたんでしょう?
受験勉強のために歴史を大河や漫画で興味を持たせようと思ってる親御さんも多いと思うんですが、いきなり子が親を○す
シーンが出てきたら家庭の雰囲気がぶっ壊れると思うんですが。 >>697
原因は道三が当時主君だった土岐頼芸の妾を貰い受けたことに始まります
生まれた子義龍は頼芸の子ではないかという不安材料があったのですね
しかも義龍は正室の子では無かったので確実に自分の子の帰蝶とお気に入りの娘婿信長に美濃を与えようと考えてたようです
譲り状は反乱を起こされてから書いた物でしょうが恐らく元々計画してた物では無いかと私は思います 子が親を殺すのは駄目でも他の殺人は構わないという思想の持ち主だろうか
精神年齢的に戦国時代を見るのはまだ早いのでは?
誰も人が死なず犯罪も行われない話だけ見ていればいい >>698
『麒麟がくる』の物語の中では利政(道三)は高政(義龍)を自分の子だと一貫して主張している
高政のほうが自分の出自を飾りたいがために土岐家の息子を騙っているという設定
家督を譲った後に高政が兄弟を殺したので対立することになった 兄弟を殺すシーンでは質問者の家庭の雰囲気はぶっ壊れないんだろうか >>700
二人の弟を何のために殺したんだろう?
殺しておいて自分が早死にするから、跡継ぎの龍興が
信長に国を追われるのに。 道三が国を譲ろうとした相手は元々は信長ではなく次男か三男だった
それで先手を打って、道三と弟を先に殺そうとした
単なる後継争いだね
それで長男との敵対が避けられなくなったから、信長を頼る必要が出たんだろ
次男も三男も既に殺されたあとで、
ならば信長に国を譲るからといって協力をあおいだのでは 戦前には「皇国史観」
戦後、特に1980年代頃は「自虐史観」
と呼ばれる歴史観が支配的でした
さて、それ以降の日本はどんな「歴史観」が主流なのでしょうか?
近年、「歴史修正主義」とか「反知性主義」なんて言葉がありますが、
これらはいわゆる「歴史観」とはちょっとニュアンスが違いますよね? 今年の大河は『太平記』で脚本書いてた人も参加していたから十数年ぶりにみたけど
主人公以外は全部バカって、ラノベかよ orz
光秀が優秀であるために信長は視聴者にも分かり易く劣った人物でなければならないという風潮
誰が決めたんだろう… >>703
じゃあ何で長男に跡目を譲ったんだろう? >>707
実の息子として信じていたから。
>>706
あの信長は歴史考証の小和田哲男がそそのかしてるらしい。
戦国の革命児じゃない信長像を提示したいらしい。 >>705
歴史修正主義は左翼が他人攻撃するときの文句だからなぁ
元は文字通り正しく治すって意味だったらしいが
今回の黒人騒動でも過去の奴隷がでてる映画とかをつぶしにかかってるし、あれこそ修正主義だろーと思うなぁ Netflixがダークエルフの登場する作品を削除したらしい
多分日本のアニメ『コナン』も駄目だろうな、反社会的な連中を黒く描いているから 「太平記」はトレンディー大河の先駆けだったけど,今やスイーツ大河だもんな。歴史考証は等閑
科学的マルクス史観だな
共産・小池晃「オーバーシュートをロックダウンでアウフヘーベンしましたの。オホホ」←削除
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1593212980/ >>711
2000年ごろから、特に若者の右傾化、保守化、内向き化が言われ始めた
また、ネットスラングから「ネトウヨ」なる言葉が出てきて流行語にもなった
この辺の社会状況を指した「歴史観」の名称ってどうなるんだろう? 馬鹿だわ。安倍ちょん政権が2006年〜。2ちゃんの『電車男』が2004年〜
ネット掲示板の黎明期から存在した?w 一般右翼がネットを利用するようになっただけだ
左翼(極左・労働組合)の減兆は壁崩壊の2000年ごろ 歴史の質問に該当するかは微妙ですが…
よく知られているように、明治時代に南朝正統となり、足利尊氏は逆賊となってしまいました。
しかしながら、事実として現在の皇族は北朝の系列であり、
そうなったのも尊氏や室町幕府のおかげといえるでしょう。
とすると、現在の天皇を含め明治天皇にとって尊氏は恩人のはずです。
それなのに、逆賊呼ばわりとは恩知らずすぎないでしょうか?
普通に、論理的に考えて尊氏を逆賊とするのには無理があると思うのですが
戦前にこういった主張をした人はいなかったのでしょうか?
また、もし、仮にこういったことを主張して、戦前の皇国史観の観点から論理的に反論できるでしょうか? 幕末までの天皇家の申し送りのなかでは南朝こそ逆賊だったが、
明治維新を断行した武士達がそろいもそろって南朝正統論者で、
その要求に屈して南朝正統説を公認して終戦まで続いた
その後、正閏論を討議することのできない状態になったので、
南朝正統説が公的な後ろ楯を失ったのみでどちらが正統とも(表立っては)口にしなくなったので、
北朝が正統であるはずなのにそれを公認することができずに今に至る 南朝正統説は実在しないものを上に置くことで民主化を目指したものだったって意見があるね 日本書紀を否定して弘文天皇をでっち上げたんだから
南朝正統論も否定すれば良いのになぁ http://imepic.jp/20200628/384090
映画見てて気になりました。
これは戦国時代を舞台にした、アニメ映画のワンシーンですが、
奥の方、なぜ陣営の中に着物を着た女性がいるんでしょうか?
別に意味は無いかもしれないけど気になる 冬の陣の大坂城内なのか名護屋城なのか攻城側なのか…
気にするべき状況が何なのかがそんな説明では他人には分からない 崇峻天皇の暗殺は蘇我氏ではないって説を聞きましたが
現在では有力なんですか?
どう見ても、母親が蘇我氏の出で
后も蘇我氏の崇峻天皇が、蘇我氏に殺されるっておかしいと思ってました。
蘇我氏に一番推挙されているのに。 天智天皇,後三条天皇,足利高氏は母親が蘇我氏,藤原氏,北条氏でなかったがために… >>725
秀吉の刀狩りで寺社の武装は全面的に禁止となった >>722
蘇我馬子の姉2人(堅塩媛、小姉君)が欽明天皇に入侍して大勢の子を産んだおかげで
蘇我氏の血を引く天皇候補は大勢いたため
馬子が崇峻天皇と気が合わなければ別の天皇を立てようとしてもおかしくない
藤原全盛期にも藤原氏の血を引く天皇が退位させられたりしているし 何で室町時代初期は扱いが地味なの?
高師直や足利直義や護良親王などは活躍してるのに充分な知名度があるとは思えない 継体が、本当に応神の子孫なのか?
疑われているけど、応神自体が実在しない天皇の説が強いですが、だとすると継体が天皇の子孫ってのは嘘確定じゃないですか? 実在しない説が強いというのは妄想だろう
暦のない時代の年数は正確に伝わるわけがないがそれ以外には特に疑わしくはない >>732
仲哀とか神功の実在も疑われているけど。
その子の応神は当然実在しない。と思われてもしかたない。 阿呆か
その理屈なら継体天皇も当然実在せず、その子孫も今上天皇も当然実在しないことになる 継体が古代天皇と無関係の、いわゆる新王朝だとすると符号が一致する 思想的な背景が見えれば、実際の被害者数がそんなに多くなくても重要事件とみなされますが、
逆に思想的宗教的な背景がない一個人の起こした事件であれば、一時的なセンセーションはあっても
例えば後世の歴史教科書に掲載されるようなことはないように思われます
この点についてみなさんはどのような見解を持たれているでしょうか? >>735
「符号が一致」とはどういうことなのか知らないが、
実在しない説と王朝交代説は合わないだろう
実在しない天皇の業績を細かく書くほど自由に設定を作ったくらいなら、
継体天皇が少し離れた血筋であるというような危うい設定は作らないだろう >>737
応神は両親の仲哀も神功も居ない説が強いからな。
両親も居ない。
業績もこれといったものがない。
事件とかを書いてるだけで、実態がない。 そのずっとあとの25代武烈天皇も居ない説が強いから
15代の神代の天皇はもっと怪しい。 言ったとおり「居ない説が強い」というのは妄想だけで根拠がない
武烈天皇も含めて実在しないなら、普通に継体天皇の父親として徳のある人物に描かれる
わざわざ正統性や威厳を損ねるような設定を作る理由がない >>740
アホ?
継体について、調べたほうが良いぞ。
武烈は継体の父親じゃないぞ。
その程度の知識も無いのに古代天皇について語るな。 >>741
日本語の読解力をもう少し身に付けてから会話したまえ
「実在しない歴代天皇を設定するなら継体天皇の父親として描く」という文章なのだが、
この文章からは当然実際には父親として書かれていないという解釈にしかならない
それが嘘の設定なら「正統性を損ねるような設定」だとも書いてある
虚偽でそんな設定を作る理由はないと言っている しかしね。武烈は存在しないって説は歴史学会では優勢だし
新王朝交代説も優勢であるという事を
知っておきたまえ。 今回も論拠なし
何も反論できていない上に、恥ずかしい間違いをしておいてその口調は恥の上塗り 古代の天皇は年齢を盛ったせいで信用度が激減してるよなw 紀元数を稼ぐために、初代から9代までは実在しない天皇を加えて
年齢も加えまくって、年数を稼ぎまくってるからな。
実在はおそらく四世紀くらいに初代の大王が居た。ってレベルだろう。
しかも、血縁関係は不明。 >>742
歴史学会の見解では、実際は応神天皇の血を引いてない継体天皇の即位を正当化するために、暴君としての武烈天皇を創り上げて
継体がやむなく仕方なしに即位したってシナリオを作ったってのが一般的。
本当は簒奪者だけどね。
いくら継体でも父親じゃないのでそこまで捏造する事は出来なかった。
そこで中国の易姓革命を見習って、同じような記述をした。
ちなみに殷の紂王も実際は、結構名君だった説がある。 『三国志』や『三国遺事』の記述に比べたら遥かに信用度が高いけどね
手白香皇女で女系が繋がっている。武烈天皇を討ってもいないがw(暴君って何よ? 推戴っていうが、実際は押し入り簒奪であとで
記紀で編纂して変更してる可能性が高い。 先代の帝すら架空の人物を捏造できるくらいなら何でもできたはずでしょ
当時を知るものがいなかったということだろう
それでわざわざ少し遠い血筋から暴君の出た家系を引き継いだ設定にする意味がない 史料を疑って自分の考える歴史のほうが真実の可能性が高いなんて言うのは小学生でもできる
自分の考える歴史のほうが正しいと思う論拠や証拠を示すことができないなら話にならない
学会では優勢なんて連呼しても騙される人はいないだろう 王朝交代説の方が明らかに優勢で一般的なのに
それも知らないのかね。 むしろ万世一系なんて、明らかに戦前に作ったのに
それを信じる方がおかしい。
少しでも調べたら分かる事なのに。 @卑弥呼〜他戸親王
A桓武天皇〜孝明天皇
B大室寅之祐〜徳仁 論拠も証拠も議論しない架空の学会で優勢なのだそうで >>757
ようつべで
古代天皇制はいかにして成立したか
っていうNHKの教育番組が上がってるけど
その一話目で、オオキミを輩出出来るいくつかの豪族のグループが存在して
古代は血縁関係の無いオオキミだったって言うのが、最新の歴史学会では定説になってる。
だから、万世一系というのは、おそらく違うだろう。
ってハッキリ言ってるけどな。
きちんとした歴史学の教授だよ。 持ち回り説は、邪馬台国と大和朝廷は無関係で、大和朝廷の成立は4世紀という想定が主流だった頃の主流説なだけじゃないの?
いまじゃなく以前に主流だった、その頃に作られた古い番組では? NHKの
古代天皇制はいかにして成立したか?
は、去年放送して、まだ一年も経ってないよ。
ほかほかの最新情報と言っても過言ではない。
まあいろんな説がある。って言うのは知っておいた方が良いよ いろんな説があるのは当たり前
万世一系の話題もしていない 鎌倉幕府って何で倒されたんだろう?
武士(御家人)の権利を保障してくれた最初の政権なのに、
元寇の乱で恩賞少ないからって、大覚寺統に味方するって
短絡的過ぎません?
防衛戦争なので領土や略奪が得られないのだから
しょうがないだろうに。
というかそのため普段から土地貰ってるんだろうに。 当時はあまり愛国心はない
どっちかって言うと褒美目当てで戦っている。
まあ、自衛隊が戦ったけど、給料が支払われなかったと思えば? 元寇の為に長年防衛に資財を投じてきた地頭御家人達
当てにしていた恩賞もなく商人に借りた金返せなくて所領を借金の形に手放すなんてことが多かったようです
金が払えない=リストラが増える
浪人は盗賊になり世が乱れる
幕府の権威が失墜してチャンスとみた後醍醐天皇の倒幕の動きに呼応する者が現れたと言う流れでしょう 元寇で足利家時が自害。遺言で孫の高氏が討幕
イエズス会と組んだ織田信長が討幕
エゲレスと組んだ薩長が…
恩賞の有無は関係しない。打算のみ >>762
所領の細分化が進んで困窮していた小規模の御家人らが増えたことや質入れ・売却と徳政の影響で所領争いが多発するようになったのが大きいのではないかな
争っている当事者としては、近隣に味方がほしい
近くで同様な争いがあれば、その片方と同盟を組みたい
そんな感じで所領争いが局地戦でなく広域化してしまい、
それが倒幕の戦いに組み込まれる余地ができた
敵方が幕府の支援を受けてるなら自分は倒幕がわに参加するしかないよね >762
何十年も前のうっすらとした記憶だけど
たしか佐藤進一氏が『日本の歴史』(中公)で
鎌倉(幕府)は裁判所として機能していたのに
元寇によって公平性の担保が失われたので信を失ったと述べられていたような気がする 元寇までは関東の武士だけを束ねる政権であって全国統治を行うべき存在ではなかった、いわば山賊の総大将にすぎなかった
関東以外出身の武士やら武士以外(寺社とか)をも統治するようになって権限拡大したのに、それに対応する体制をとれなかったのが敗因か 日本史において、鎌倉幕府の執権よりも低い地位で、事実上、最高権力を手に入れた例はありますか? >>768
鎌倉幕府が全国政権になったのって
元寇じゃなくて承久の乱からだろ 承久のときはまだ、武士以外にたいしては支配権がないぞ
寺社とかに命令を出せるようになったのはモンゴルに対する戦時体制にはいってからだ ガチで実在が確実な古代天皇って推古あたりからですか?
実在を疑ってる学者が一人も居ないレベルの確実な天皇です。
一人でも疑わしいって言う人が居たらアウトと考えて。 欽明天皇あたりでも実在を疑う話は聞かない気がするが……
中国から王として認められたかどうかは実在論争とは関係ないと思うので、おいておく
そもそも、推古よりまえの百年以上の間、中国との往来は途絶えてて、中国に認めてもらったこともなかったけど、それを大王として不適格と認識していた様子はないし。 >>775
倭の五王?
あれはヤマト王朝の大王という証拠はないはずだけど。
だから、当時の大王や天皇がいたという証拠にはならない。 >>565
建前は建前で、農閑期に正丁が町に出稼ぎに出る、農家の一部の人員が入れ替わり町に働きに出ている、というのは常態化していたろ。
豪農の地主は地主で、商工業を手広くやっていたのも珍しくない。
それこそ、工場制手工業の段で、糸屋機屋なんて農村の地主のやっていたことだし、農産物の集荷、種苗・農具の販売、生活物資の調達、農民を対象とした金貸
なんてのは、在郷地主のやることだったろ。 >>578
更級日記で、上総国司が帰京する際に、墨田川を越えて下総国から武蔵国に入ってる場面があるよ。
菅原孝標の上総介任官が1036年で任期は4年だから、1040年頃。
鎌倉幕府のできる150年も前には、上総から京へ行く道順は、上総→下総→武蔵→相模で、上総→安房→相模ではなくなっていたんではないの? >>778
在村で商売やって成功できるほど商業ってのは簡単ではない
在村をやめたら村内の土地所有に法規制がかかるから、商業に転じたあとも庄屋を兼業するのは割りと難しい
抜け道や例外もあるとは言え、江戸時代には在村でない庄屋は少ないんだよ
それでなくても村内で揉めて庄屋をやめさせられるもと庄屋だって度々出てるぐらいだし >>776
でも、当時の日本列島で大和朝廷以外で大王を詐称して中国まで遣使できるような有力な地方豪族は残ってないだろ
百済とかの半島の国が日本列島からの使者をでっち上げて偽物を朝貢させたなら別だが。
ただ、その時代の大和朝廷が天皇家の祖先ではない可能性があるのはまあ想定できるけどさ >>779
奈良時代に全国規模で整備された陸上路の街道も、平安時代半ば以後は保守困難な区間が増えて浜辺や海路に置き換わる区間が多くなったから、平安時代中期に使えたルートが鎌倉時代に使えなかった可能性もある >>781
北九州の磐井とかなら
十分な力はあると思うぞ。
ヤマトに対抗出来る力を持ってた。
おまけに新羅も味方だった >>781
神武天皇とか崇神天皇とか応神天皇とか継体天皇とか
前王朝から入れ替わってるような記述とかあるからな。
それ以降にも入れ替わる機会はあったろうし。 >>781
高句麗の王と、今の北のキム王朝と血縁が無いように
倭の五王と、今の天皇と血縁があるのか?分からないから、カウント出来ないだろ。 >>785の一行目と二行目の繋がりが分からないのは俺だけ? >>786
すまん。
倭の五王が、今の天皇の祖先って言うのは、高句麗の王が金正恩の祖先であるって言うくらい
信憑性が無いって言いたかった。 >>781
後代の足利義満が日本国王を詐称できたんだから,古代では朝飯前だったろう
遣隋使を送った大王は阿毎多利思北孤であって推古はありえない
>>784
明治から大室姓に入れ替わったね >>787
直系祖先かどうかはともかく祖先でない可能性は低いと思うがな
幾度となく王朝が交代したイギリスの王たちが基本的に二番目の王朝であるノルマン朝の血をひいてるのと同程度の意味で。 >>789
確かに政略結婚とかで血縁がある可能性は高いな アメリカはなぜ日本の領土を割譲しなかったのですか?
無人の諸島部くらい返還しなくても文句は言われなかったと思うのですが
なぜ気前よく返還したのでしょうか 日本の禅宗(主に臨済宗)では、上位に京都五山、鎌倉五山が設定され、
そのさらに上に別格として「南禅寺」があります
京都五山の天竜寺と相国寺の開山である夢窓疎石、建仁寺の開山である栄西、
鎌倉五山の建長寺の開山である蘭渓道隆、円覚寺の開山である無学祖元あたりは
日本の歴史教科書に出てきますが、一番格上の南禅寺の開山は出てきません
(無関普門っていう僧侶)
なぜ最高格の禅寺の開山は出てこないのですか? 足利義政、徳川家光、徳川吉宗など晩年脳溢血になって後遺症に悩まされた人物は数多います。
医学が未発達の時代、脳溢血を起こしたらどのように処置したのでしょうか?激痛とともに意識を失ったら、起きるまで寝かせるだけですか?
頭に溜まった血を抜いたり、手術をしたりは無理ですよね。
また、何の処置も出来なくても意識戻って(麻痺は残るとは言え)再び生活できるようになるもんなんですか? >>796
吉宗は賢明のリハビリ効果があって、かなり回復しただろう? >>794
格上だから格下よりも有名とは限らない
その理由はいろいろあるだろうけど、確かに興味深いことではある 中風:悪風に中(あた)る意なり。突如半身不随になる病いなり。
その後、外の悪風によるでなく内から起こる病い、気と考えられるようになり中気と云へり。
また卒(にわか)に中(あた)る、として卒中と云ひ、また俗に「よいよい」jと云ふ。
貝原益軒:肥満、飲酒癖あるひとは用心すべし
医師師香月牛山:老人の病い多かるなかに、中風ほどうるさきはなし。
体のかなわぬさえあるに、心も恍惚となりて、さながら嬰児の如し。 >>798
リハビリは復活した後だよね?
脳溢血起こしてブッ倒れて、そこからリハビリ出来るまでにどうやって復活するんだろう? キリスト教の宣教に対し、「神を信じないと地獄に落ちるなら私の両親は既に地獄に落ちている」
と論破したという話。
私は山岡荘八の徳川家康で知ったのですがいつ誰が考えたのでしょうか?
元ネタが盂蘭盆経っぽいので、割と新しいというか山岡氏のオリジナル? ムハンマドを一族から放逐するために父親のことを悪く言わせたんだっけな 似たような話がヨーロッパでの布教初期のゲルマン人酋長の話としてでているし
昔からよくある話だったみたい リハビリは少なくとも、日本では最近の治療法。
近代化の前には絶対にない 明智光秀は家康と穴山梅雪の饗応係を信長から命じられて懸命に準備して努めたのに信長に過失を責められて咎められ饗応係を解任され、それに光秀の部下は怒って安土城の水堀に準備していた魚とかを投げ捨てたそうです。
という話の中で、光秀が犯した饗応係としての不手際とは具体的には何だったのでしょう?
腐った魚を出してしまったりしたのでしょうか? 中風で身体機能が損なわれたら、なんとかまた機能を取り戻したいと練習くらい人間はするさ
ぶっ壊れた脳神経回路の代替回路が発達するということもある >>803
ゲルマン人にキリスト教を布教するときに、
ゲルマン人の族長に同じようなことを言われたという記録があるから、
昔から同じようなことを考えていたのだろうて。
なお、キリスト教がそれに対してどんな返事をしたのかは知らん。 >>810
そもそも、脳溢血起こして倒れたら、息があるうちは寝かしといて起きるまで待つって感じ? 脳溢血と言うな
そんな事が体の中で起こっているとは本人だって分かっていなかった
悪い気にあたって体が不自由になったということだ
軽い人は頑張って動こうとするし、重ければ家人は面倒みるのが大変だっただろう
面倒みる人に恵まれなければ野垂れ死ぬだろう YouTube高校は、ほんと分かりやすくて、おすすめだよ 江戸時代では農民、町人の藩を超えて移動の自由はどれくらいだったんだろう?
例えば苛政で知られた南部、津軽藩の農民なんて寒冷期の飢饉で
餓死するよりは江戸に出て人足でもやった方が生き延びられると
思うけど、それをする自由はあったんでしょうか? たとえ自由往来ができても、飢饉で苦しいときに江戸まで赴く旅費を捻出するのは、かなり難しいと思う
大半の人は江戸に到着する前に力尽きて終わりではないかと
飢饉で食料価格が数倍に上がってるんだから、道中で食べ物を買う食費は普段の何倍にもなる
かといって、健脚でも十日ぐらいはかかる? 道中の食料を持って旅をするのは重いでしょ? 太平洋戦争で日本軍は、海からポートモレスビーを攻略するという中止になったMO作戦に代わる作戦として、ニューギニア島のソロモン海側から最高峰4,000メートルのオーウェンスタンレー山脈を越えて、ポートモレスビーまで直線距離にして220キロを陸路侵攻するという「レ号作戦(別名、スタンレー作戦)」を立案した。
大本営参謀の辻政信中佐は作戦の即時実行を指示、この影響でろくな事前調査もないまま7月18日にポートモレスビー攻略命令を発し「レ号作戦」は実行されることになる。
日本軍は各自60Kgもの食糧や弾薬を背負い、オーウェンスタンレー山脈の標高2,000メートル以上の峠を越え、9月16日にポートモレスビーの灯を遠望できる直線距離50キロのイオリバイワまで進撃した。
しかしそこで食糧弾薬の補給が途絶えた。
馬匹や人力による搬送はすでに地形的に限界を超えていた。
また8月のアメリカ軍のガダルカナル島上陸によりソロモン諸島の戦いが激化、作戦機が引き抜かれて制空権を失い空輸による補給も不可能だった。
南海支隊には後退命令が出され、将兵は飢餓とマラリアに苦しみながら元来た山道を引き返した。
一方の連合国側はポートモレスビーから近いオーストラリアから大量の物資が運ばれており、缶詰された食料も豊富だったという。 >江戸時代では農民、町人の藩を超えて移動の自由はどれくらいだったんだろう
つーお蔭参り
>江戸に出て人足でも
つー宗門人別改帳
つー無宿 皇軍は朝鮮半島はおろか南京も簡単に制圧できましたが,米軍は朝鮮半島北部で赤軍に敗れました
人海戦術が最強ということで合ってますか? 朝鮮戦争のとき、中国からの援軍の人数がすごかったことはよく知られてますよね
まさに人海戦術
対するに、南京攻略の頃の中国は国民党と共産党の争いで十分な軍を集められなくて、少し前まで南京を拠点にしていた政府が引っ越して(つまり、逃げ出した)去ったあとです
守備軍の規模は決して多くはなかった
やはり数でしょうね 人数は国共内戦前の時期の方が多かったでしょう。督戦隊の能力の差では?(人海になってなかった) 秀吉の唐入りは攻める大義名分は合ったのでしょうか? 継体天皇の古墳と宮内庁が認定している太田茶臼山古墳ですが
実際は違う説が有力ですが
天皇陵ではない可能性はあるのですか?
大きな豪族の陵墓の可能性はありますか?
雄略天皇の陵墓を見に行きましたが、凄く小さかったので、天皇陵でも豪族の方が大きい事はあると思うのです。 >>824
大義名分とは違うが南蛮人が明を侵略するために秀吉を利用した >>826
天皇陵ではなく地元豪族の墳墓だと考えられています >>824
NHKスペシャル 戦国〜激動の世界と日本〜(1)「秘められた征服計画」
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&ch=21&date=2020-06-28&eid=01955&f=46 >>828
おお!ありがとうございます。
大王に匹敵するくらいの力を持った
豪族がいたという事ですね。 >>829
ことし暴力事件を起こして逮捕されたけど、すぐに復帰できてよかったよね 王政復古の大号令について質問です。
薩長は何でこんな事をしたのでしょうか?
それまでの日本の内戦で勝ち抜いた勝者は
関白なり摂政なり将軍職に就いて朝廷からオーソライズを形式的に貰い実権を振るえました。
薩長も江戸幕府倒したので、まあ単一のリーダーではなくグループなんでコミティーを作り
それに対して朝廷からオーソライズだけ形だけ取れば史実通り明治維新に取りかかれたと思います。
更に天皇に権力を戻すと、薩長以外にも権力の重心が発生し、天皇の暴走リスクや、他の勢力による天皇取り込みのリスクが
発生しますので寧ろ不安定になります。
薩長はなぜ内戦で勝利したにもかかわらず、なぜこれまでの歴代の権力者のパターンを使って自分達に権力の重心が安定するように
形を作らず天皇に実権を戻すまでの手続きをしたのでしょうか? 孝明天皇暗殺説もあるように
天皇が言うこと聞かなければ、殺して首を挿げ替える。
これは古代天皇から続いていること。
だから天皇が権力や権威が弱まってる時の方が、安らかに暮らせた。
天皇制の是非はともかく、今上天皇も権力や権威が弱い方が本人も幸せだと思う あの、あの後醍醐天皇ですら天寿を全うしてるんだから、暗殺なんてたいてい事実無根 天皇で暗殺されたのはまだ大王と呼ばれていた崇峻天皇くらいじゃないか >薩長はなぜ内戦で勝利したにもかかわらず、なぜこれまでの歴代の権力者のパターンを使って自分達に権力の重心が安定するように
>形を作らず天皇に実権を戻すまでの手続きをした
『ベルツの日記』で、伊藤博文は天皇を評して人形を操るような所作を示したと著書に書いてるよ 建前上は天皇に実権を集中させるように見せて、実態としては天皇を傀儡化しただけ
むしろ従来以上に天皇の自由を奪ってるよな >>837
孝明天皇が、トイレで槍で突き殺されたって目撃証言は?
天皇の侍医と女官がそれを目撃して、女官はほくそ笑んでどこかに行ったという目撃証言 孝明天皇は毒殺説もある。
そっちが有力だと思ってたわ。 >>834
尊王と称して徳川から政権を天皇に取り戻すというのが大儀だから慶喜の大政奉還を受けて
王政に復古すると宣言する必要があった。そうしないと尊王を信じてる大衆が付いてこない。 慶喜が大政奉還したのは、「天皇を無視して勝手な政治を行う慶喜を討つ」などど薩長から戦争ふっかけられるのを避けるため
そして新しくつくられる天皇中心の政府の首班となって実権を握り続けるため
この慶喜の目論見がうまくいきそうになったので、薩長あたりはクーデタをおこして大号令を発し
慶喜を排除した新政府の成立を宣言した 補足
江戸幕府は中央政権と最大の藩という2つの性格をもつ。老中も中央政権の閣僚であり最大の藩の家老でもある
大政奉還は中央政権をやめただけであり、圧倒的にでかい領地と軍事力をもつ最大の藩として存続している
そのボスである慶喜を天皇中心の新政府に迎えるべきだという意見は朝廷内にも有力藩にもあった
だからクーデタをおこした >>830
太田茶臼山古墳 同規格でググったらわかるけど
誉田御廟山古墳などと形が似ている。単なる地方豪族ではなくヤマト政権と密接な関係をもつ人物の墓と考えられている
継体の祖父という説もあったりする 小名木善行(ねずさん)とかいうおっさんが
戦国時代、合戦場となる畑の農民の補償のため事前に農作物を買い取っていた
みたいなこと言ってるのですけど本当ですか? >>842
天然痘の症状に似せた毒殺なんて可能なの?
孝明天皇は若いのに重度の脱肛だったらしいね。あの時代に脱肛でどうやって生活してたのか不思議で仕方ないわ。
まず、普通に座れんでしょ?
風呂は入れたとして、拭くのが難しいよね?
雑菌も入るし、どっちにしろあまり長生き出来なかった方なのかね? 新たに安楽死説を提唱ですか?
天然痘で自然死を祈ったのに恢復傾向だったから毒殺か >847
保障というのが分かんないけど
城攻め前に買い占めていたことを曲解したのか
境目の地域だったので、半手(半納)若しくは略奪防止の制札を
受け取るための前納を曲解したのか
わざわざ農作物を買い取る理由が分からない
ビジネスマン向けの小説だったら主人公は良い人アピールでありそうな描写だけど >>847
レアな事例を拡大解釈してるか、もしくは史料の曲解かと
秀吉が兵糧攻めのために米を買い占めた事例など、なんらかの類似例からの拡大解釈かなと思います
もしくは、過去に学者の多くが日本の戦国時代に略奪が少なかったと思い込んでた頃に歴史を学んだまま、知識がリフレッシュされてない人の可能性も? >過去に学者の多くが日本の戦国時代に略奪が少なかったと思い込んでた頃に歴史を学んだ
誰?そんな事を言っていた学者って
よくネットで紹介される藤木久志氏の著書『雑兵たちの戦場』の主題は奴隷狩りではなくて
戦場での人狩りや略奪を農村はどのように防いだかだよ
奴隷狩りという言葉にだけ反応した子供が十年ぐらい前にはここでも大暴れしていたけどね 大義名分も無いまま利休に切腹を命じたうえ晒し首とは、やってることはただの暴君だよな そもそも戦国時代って、凶作・基金が多発してた、貧しく不穏な時代だ
餓死と略奪が日常の時代なんだよ
自国内、自領内以外で戦場周辺の住民を気遣いする余力のある領主・大名なんていない
ただ、自領の住民にたいして略奪が起きると致命的なことになるので、略奪対策が皆無だったわけではない。 本の宣伝文句で奴隷制度があったという子供はお前だろう。閉じ込めるのは不可能 雑兵たちの戦場って本はタイトルしか見たことないけど、それがなにか?
もちろん、帯とか宣伝文句も見てない
室町戦国期に飢饉多発なのは他の複数の研究者による結論だしな すみません話が変わりますけど、天皇の皇子が娘しかいない宮家に婿入りした場合についての質問です。
○○宮と皇子が名乗ることができるのは、婿入りしてすぐでしょうか?
それとも○○宮が卒去するなどして、家を継いでからになるのでしょうか? 現行法では宮家には婿入りできません
宮家の女性が皇族以外と結婚する際は皇籍を離脱して嫁入りするしかないため、それは不可能です。 >>858
すみません説明が足りませんでした。
平安時代などの過去の事例でどうなったのかという質問です。 世襲宮家が登場したのは鎌倉時代末から南北朝時代にかけてのこと
それ以前には宮家はない
そして、それ以後近代に入るまで、非皇族の娘婿を跡継ぎにした宮家はない
そもそも、非皇族の婿は皇族じゃないから親王宣下をうけられないし つまり皇子が新しい宮様になって他の宮家から妻を迎えるという形になるという事ですか。
ありがとうございました。 >>856
読んでない自慢がキターーーー!! ということだろう。同一人物ぽくないな まあ、オチを言えば、雑兵たちの戦場はタイミングかなんかの関係で買ったことがなくて、戦国の作法ほか2冊のみ買って読んだんだけどな
当時、雑兵(旧版)は絶版だったはず。 戦争の兵糧として大いに年貢が取り立てられ農民が苦しんでいる
↓
これらは農業担当の役人のせいに違いない
↓
農業担当の役人暗殺、これでやっと年貢が軽くなる……と思いきや逆に重くなる
↓
実は農業担当の役人は
「戦争の為の兵糧を取り立てるのは必要だし重要だか、これ以上は農民の生活が成り立たない。ここまでで勘弁してやってくれ」
と言っていた人だった
っていう話をどこかで聞いたのか自分の脳内で生み出したのか分からなくなった
時代すらわからないし、もしかしたら日本史ですらないかも知れない
ここの人たちのお力貸してクレメンス 元ネタの所在は分からないけど、史実としては農業担当の役人なんて戦国時代にはいなくて江戸時代の制度なんだよね
だから、兵糧のための年貢過重はあったかもしれないけど、担当役人を云々とはいかなかった 星新一だったか?
若返りたい老人が、秘密の施設を訪れて
若返り手術を受けるのだけど
意識を他の若い肉体にコピーするだけで
自分の意識や肉体はそのままで
会話が聞こえてきて
古い肉体はこちらで処分しておきます。
みたいな感じで終わるの。
すれ違いスマソ。
思い出した。 数年前のこのスレには某氏の名前をだすと脊髄反射で発狂する奴がいたから誰の何という本かは伏せるけど
定められた農作物を定められた期限に収める↓
戦争中なんで(契約外の)労役に協力してくれと要請される↓
労役に応じる↓
戦争終わんないから追加の労役を要請される↓
働き手が獲られるのを嫌がった農村は役立たずを送り出す↓
北条家ぶちキレる
という文書は実在する 発狂するって、855みたいな意見の問題児がいてたってことか しばらく相手をしてみたけど、嫌いだ・認めないしか言わないから触っちゃ駄目なタイプだと思ったし
まだここにいて又話しかけられるのは嫌だからw
同意できるかどうかは別にして、井沢が嫌いだと言っている奴の方がマシなレベルだった 多少似通った話はあるけど特定はできなさそうね
協力ありがとう、近代日本史や世界史方面でも探ってみる
それでも特定に至らなかったら自分の脳内物語として何かしらの創作で使うわ 加藤一二三氏が神武以来の天才って異名を持ってるのずっと謎だったんだけど当時の神武景気といわれた好景気に引っ掛けたのかな 熊本県阿蘇市を旅行しましたが、この阿蘇市一帯に「吉良」姓を名乗っている方が多いのに気付きビックリしました。邸宅跡の樹木とかが阿蘇の史跡みたいになっていたり。
興味があって調べましてがかつては熊本の県議会議員だった方がいらしたり、
この阿蘇の「吉良」さん、歴史的に名家なんでしょうか?
あの源氏や足利の血を受け継いだ吉良一族なんでしょうか? >>877
土佐吉良氏吉良親実の子孫が町氏と名を改め肥後藩に仕えたとあるから
おそらくその子孫がまた吉良に復姓したのでしょう
あの吉良上野介とは違う流れです >>879
源平藤橘なんて百姓にもウジャウジャ居る 日本史の肖像画の事。
日本の歴史の人物で肖像画ありますけど、カメラが登場したのはここせいぜい100年くらい。
昔の極端に言えば聖徳太子といった千年以上前の人の肖像画ってどうやって書いたんですか?
似顔絵なんて現実的に無理そうですし、仮にあったとしても千何百年前の似顔絵なんて千年経った今だとこの世に現存していませんよね? 本人の死後に書かれることも多いし
頼んだ人の注文を聞いて想像で描くだけやろ 想像図とか多いよね
飛鳥時代の服装じゃなく奈良時代の装束を着てる聖徳太子画像とかみたいに。
あと、別人の絵が勘違いで当てはめられる事例も多い
頼朝像やら信玄像やらであったね 聖徳太子は6〜7世紀の人だが、聖徳太子像とされる絵は8世紀支那の風俗をその当時の描法で描かれたものである
源頼朝肖像は同時代の人間である藤原隆信の筆によると伝えられているが、最近の説では源頼朝ではなく時代がずっと下る足利忠義が描かれていると言われる
足利尊氏だと言われてきた騎馬武者像は、家来の高師直じゃないかと言われている
武田信玄像だと言われ、黒澤明監督はその絵の顔によく似た勝新太郎を信玄役にしたが、喧嘩別れして仲代達矢が代役となり映画は完成した
近頃は、ありゃぁ武田信玄の肖像ではないとされ、むしろ仲代達矢の方に似た別の絵が武田信玄像だと言われている 織田信長像で有名なのは、一周忌に長興寺へ寄進されたものだが、狩野永徳の弟である宗秀の筆によるもので、若いころを描いたもののようだ
京都での信長の菩提寺である大徳寺に残る肖像は狩野永徳の筆によるもので、もっと歳を取ってからの顔だが、長興寺の肖像とよく似た顔をしている
だから、信長の顔はおなじみの肖像でだいたい間違いないようだ つか神武天皇とか、完全に想像だろ
実在した可能性はほぼゼロの人物だけどね。、 イエスやマリアと違って嘘の肖像が流布されていないからね。良心の現われ
写真があっても閔妃は偽者だったし,伊達政宗は両目開いているし,本物は存在しない 神武天皇肖像画って‥明治以降の近代に描かれたもんじゃねぇか そもそも肖像画というか日本画は見たものを忠実に描くものではないからね 警察みたいに目撃者の証言をもとにして、モンタージュ手法で
似顔絵を描いていたのかもしれないぜ。 3億円事件では似顔絵から一歩進んでモンタージュ写真を使ったため、写真だからこの通りなんだろうと思われてしまい、却って捜査の妨げになってしまった >>889
日本画に限らず、絵はそういうもの
見たものをそのまま描いてバカにされたのが「印象派」 奥羽地方の歴史って、地元民の名前が判るのは、阿弖流為より前にある? >>896
伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は阿弖流爲の少し前の人。伊治は所領の地名で呰麻呂が名前です。
一度は朝廷に服して公(きみ)の姓をもらった。しかし蝦夷だからと蔑視する者がいて我慢できずに
反乱を起こした。宝亀の乱という。主だった者を殺し国府多賀城を焼いて逃亡した。朝廷は討伐しようと
したがその後の消息は不明なので逃げ切ったと考えられる。 薩摩佐土原島津に囲まれてる伊東氏って苛めとか受けませんでしたか? 織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちが責められますが,石山本願寺の件は何故責めらないのでしょうか?
後代跡地に大坂城を造るなど,こっちの方が非道くない >>899
石山本願寺は焼き打じゃなくて和睦して退去したんだから被害は出てない。 延暦寺も僧兵とかを焼き殺しただけ
って言い分は通らないの? 比叡山焼き討ちはできるだけ皆殺しにするために周辺の集落も焼き討ちしたんじゃなかったっけ 比叡山も本願寺も戦争したわけだが、本願寺の方は戦争というイメージなのにたいして比叡山の方は弱い者イジメのイメージになってるのが違いだな 近頃の発掘調査では延暦寺の山上伽藍は主だった建物二棟の焼土層が見つかるくらいで、全山焼き討ちとは見えない
山上、山中の建物はその前から取り壊されていたものが多いように見えるとのこと
生臭坊主どもは女とともに坂本へ降りていて、そこを攻められたのかも知れない >>897
厳密には現地人の名前ではないよね?
伊治公呰麻呂という名前は、朝廷の支配下に入った段で与えられた和風の名乗で、
地元での名前ではないよね? 武田勝頼は長篠の戦いの後に織田徳川に全面降伏したら甲斐一国安堵もしくは最低でも織田の目が届く尾張美濃あたりに国替えになって、少なくとも名門甲斐源氏の脈絡を保つことはできたのでしょうか? もうその時点で手遅れ、武田を滅ぼすまで講和なしと信長が決めたあとの戦いだからね >>905
伊治は朝廷が設置した郡名ですが呰麻呂というのは元々の名前と思われます。
阿弖流爲も史料には大墓公阿弖利爲と書かれていて「大墓公」という姓をあたえられた
呰麻呂と同様の立場だったと考えられています。
大墓公の意味するところは未だに謎ですが。 >>908
でもwikipediaの記事には和人の名前に改めたという説もある、とありますね。 >>907
そうだったんですか
いつの時点で信長は武田を滅ぼすと決意したのでしょうか? 質問の趣旨は違ったようだが、和風の名前に改めたかとしても現地人の名前でないことにはならないだろう
朝廷側が勝手に呼んでいただけなら別だが本人が納得の上で改名したのだから 古代の実名を避ける習慣は、一般人はいつまであったのでしょうか?
近代に入ってからもあったのですかね?
特に若い女の人は、名を名乗ってはいけなかったようですが。
平成では、そんな習慣はないでしょうが、昭和くらいまであった? 今更ですが呰麻呂と同じ時に外従五位下を賜った蝦夷の名として「吉弥侯部伊佐西古」が挙げられています。
そして呰麻呂の反乱の翌年即位した桓武天皇が賊の首魁として名指したのが「伊佐西古・諸絞・八十嶋・乙代」です。
読み方は不明。 >>913
実名がはばかられるから呼び名があった
信長様とは呼べないから三郎様、上総介様、上様と呼んだ
今でも部長、課長などの役職名があればそれで呼ぶ
上司を実名では呼べない 昭和天皇の暗殺を謀った未遂事件の「虎の門事件」「桜田門事件」は
ことの重大さからするとあまり有名ではありません
※虎の門事件は正確には天皇即位前の摂政の宮時代ですが
当時の天皇は大日本帝国の国家元首にして主権の総覧者、
さらに言うなら「現人神」であった時代
この時期の天皇暗殺未遂事件ならもっと事件が有名でなり、
歴史学的にも重要度が高くなっても不思議ではないはずなのに、
なぜこんなに知られていないのでしょうか?
未遂とはいえ、時代状況的なことを考えればものすごく大きな事件だと思います 例えば『キテレツ大百科』(コロ助というキャラ)
暗殺、暗殺未遂事件(不明)だろう、仏像などの話だろう。
犯罪でも何でもない、三流〜四流?認識の違いなんだろうけど。 明治時代の頃にあった、有名な冤罪事件w
当時の人間がいたりするでしょ、
まがい物、偽者、騙りの集団だったとか? 明治天皇の暗殺未遂とされる幸徳秋水の「大逆事件」はかなり有名ですよね
明治天皇暗殺未遂と昭和天皇暗殺未遂、これをどう評価解釈するかですが、
天皇の「神性」や「神格化」では昭和天皇の方が上回ってましたよね
そうなると、昭和天皇暗殺未遂の方がことの重大さでも上になるのが一般的だと思われます
幸徳秋水の「大逆事件」は冤罪の要素があるという側面はあるでしょうけれど 『天王 像』
何やら刀で削ったり〜、
目のあたりが〜〜〜〜で、少し切ってみたり。 今の上皇様も皇太子時代に沖縄で火炎瓶を投げつけられるという
暗殺未遂事件があったような気がする >>918の言わんとしていることがよくわからないのだがどういうこと? そりゃ国家が書き込んでいるわけはないだろう
天皇か首相だとでも思ったか? >>923
ああ、彼は意味不明なポエムを書き込む謎な人だから。 >>917の書き込みってそんなに頓珍漢なものだったかな?
普通に不思議に思うんだけどね >>927
いや、質問のほうじゃなくて、918以後の連投がアレなだけなんだが 昭和天皇はA級戦犯合祀後に靖国参拝を止められてしまわれたが、
それは内閣の助言ではなく、自らの意思なのでしょうかね
富田メモかなんかで「それが私の心である」と書いてあったとか聞いたけど 古墳を隈なく調べて
奴婢100人分の人骨がある古墳が
卑弥呼の古墳だという認識でOK?
(´・ω・`) それ以上の数の奴婢の生き埋めしてる古墳があるから駄目でしょ。 それに、骨って周辺環境が良くないと溶けて無くなっちゃうしな >>931
おまえリアル中卒だろ
平均的な土壌に遺体を土葬して骨が土に還るまでに数十〜100年くらいしか掛からんの
数百〜数千年経っても骨が遺っている場合は、甕棺墓に護られたり、
たまたまアルカリ性の高い土壌だったり、海岸の貝カルシウムに護られたりと
特殊ケースなんだよ
石棺や木棺に遺体を収めても数十〜数百年で消えてなくなる
奴婢100人の人骨なんて古墳時代初めまでにとっくにないよ(嘲笑 >>934
博識だな。
勉強になる。
化石みたいに残ると思ってたわ。 >>935
1万年前の人骨が出た、2万年前の人骨が出たとか簡単に言うけど、
それは宝くじで1等が当たるくらいの確率の世界なんだよ
インディジョーンズの先生方に感謝しないとな 金井東裏遺跡「甲(よろい)を着た古墳人」
NHKとTBSが先月、一時間番組やったとこだし >>935
化石ってさ、大多数の遺体が腐って消え去るなかで、奇跡的に残ったやつのことなんだよ
だいたい99.9%ぐらいは消えてなくなる >>936
二万年にもなると、ネネアンデルタール人の可能性もあるな。 ナガスネヒコを祀ってる神社が無いのは
なんでですか?
石切神社が、隠れて祀ってる説は聞いたことありますが
堂々と祀っても良いかもしれないのに
なんで祀れないのですか? >>940
日本武尊に負けた熊襲梟師を祀る神社がないのと同じ。 スレチならすいませんが
神社で祈る時に、自分は親から必ず金を入れるように言われて、入れているのですが
他の人を見てたら、半分くらいの人は何も入れずに祈ってるように見えるのですが
金を入れずに祈る人は結構多いのですか? 記紀神話を見れば、古来の神々というのは力が強い/できることが多いだけで人格というか性格の面では普通の人間とあまりかわらないとわかります
つまり、賽銭もあげないで祈ってる人は神様から無視される可能性が高いのです
あいつらアホかと思いながらニヤニヤと眺める程度にして、決して真似ないことをお勧めします >>940
当初はまつっている神社があったかもしれませんが、千何百年も経つと、明確な支持基盤? でも持たない限り、神社を維持できなかったかもしれませんね
もしくは、明治初期に多くの神社が統廃合されて消えたさいに、どこか近所の神社に吸収されてなくなったのかも >>945
いや性格が人間なら金を出さなくても助けてあげたいと思うでしょう
勿論人間の性格も千差万別だし相手の願いの内容にもよるが >>946
神社の維持費の足しにする費用も出さないとか、キミは相当にケチな人だね
臨時で人を雇って手伝ってもらうには給料を出す必要があるだろ
人件費だって維持費のうちじゃないか
それとも、神職の人が自腹で神社の維持費を出せとか無茶な要求を出してるの? >>948
いや、けっこう自分勝手な振る舞いをする神が多く見られるんだから、自分の縁者(子孫とか)を優先して参拝者を後回しにするぐらいはありそうでしょ
それに、衣食足りて礼節を知るというように、自分も困ってるのに他人を助けるとかはなかなかできません
(中世の神話のなかでは、神々は迷える衆生の一員として描かれているので、自分も困っている と考える方が妥当かと) >>948
いやあ、神話の神様って日本に限らないだろうが
自分勝手な神様が多い気はするが
とくに天照とか、出雲に国を譲るように迫ったり、瓊瓊杵尊を地上に派遣して、支配するように命じたり、猿田彦は天孫の侵攻軍に寝返った土着民の裏切り者だし。 神がアホだから地がこうなったって考えた方が妙に納得するし 最悪の神はデウスだろう
信者の息子を供えろと試したり,洪水を起こして動物をほぼ皆殺しにしたり… 悪行に暇がない 今は一神教の神様は慈悲深い神様って教えてるみたいだけど。
一神教の初期段階では、何度も人類を滅ぼそうとする厳しい神様なんだよね。
天使だって、今は優しいイメージだけど、初期は神の命令で人類を殺しにくる使徒だしね。 >>949
「性格が普通の人間なら」という話をしているだけで自分が賽銭を払うかという話はしていない
全く問題外の的外れな意見
>>950
縁者を優先するくらいは仕方ないのでは
小銭を払ったくらいでその順位が入れ替わるわけでもあるまいし >>953
「デウス」とは「神」を表す一般名詞であり特定の神を表すものではない
尤も一神教信者からしたら神と言ったら自分の信仰している神ということになるだろうが、
今回の文脈からはそういう解釈もできない 「中国」とは「国」を表す一般名詞であり特定の国を表すものではない
でも使うよねw 現地の言葉で代用するのはふつー 「中国」って辞書で調べてみたらよいのでは?
現在では特定の国を表す言葉だ
従来からの一般名詞での用法もあるが「国」と同義ではないな 外の国は外国だが、自分とこの国は中国という
日本で内外というのは中外という 自国(?)表現で使う「中つ国」「ミズガルヅ」も「中国」と同じく、一般名詞っぽく見える固有名詞だしな
これが「葦原の中つ国」だと完全に固有名詞 中国は内国みたいな意味だった
そうしてあの地域はまわりからCHINA、シナと呼ばれてきた
CHINAは今でも使われる
だが、昭和の初めに日本人がシナ、シナと言うのを聞いて彼らは軽侮の念をもって言われていることを感じ取った
そりゃあのころはとうしょうもねぇ状態の国だったからそういうもんだっただろう
そこで中華民国政府はこれからは支那言うな中華民国、中国て言えと日本政府に申し入れた
で、公式文書では支那は使わないことになった
(個人の使用を縛るものではない) 欧米は今でもCHINAみたいな呼び名で言ってるんだが、ドイツがヘタレで中国マネーに目がくらんだのか伝統的なCHINA(ヒーナ)でなくMITTERLAND(中の国)と呼ぶ向きこあるそうだ 日本の事を倭って呼ばれたら
嫌だろうから
昔は自称してたけど
一応、中国も中国って呼んだほうが良いだろ。
わざわざ相手の嫌がる事をする必要はない。
同和地区でエタ部落呼ばわりしない方が良いだろ。 欧米にはchun guoて言えとは要求してないな
日本はよそと同じchina系統の言葉で呼んでいただけ
(彼らは自分でも支那と称していた)
倭なんて今やどこも使ってない言葉
支那(china)は今も現役の呼び名 秦(チャイナ)と呼び続けているんだから日本も秦(はた)・唐(から・もろこし)を使い続ければ好かったんだよ
新井という儒学者が余計なことをしたから
唐(玄宗)が最盛で後は学ぶものがなかったんだから,そこで止まって正解 欧米圏での中国の呼び名の元は秦だけじゃなく遼(契丹)とか清とかも併存してるだろ、秦だけと決めつけるべきではないぞ ローマ時代に清朝は存在していないよ。国境を接しているロシヤでは契丹(キャセイ)の呼称 奈良時代の大仏建立は民の苦しみを救うといいながら
実際には建立のために民が苦しめられてたわけで。
「これおかしいですよ。大仏建立やめません?」
こういう正論言う人はいなかったんでしょうか? 迷信深い人ばっかだったし。
今でも、ブラックなんておかしいですよ。
止めませんか?
って正論言っても無視されるようなもん。 エジプトのピラミッドも昔は奴隷労働によって作られたと言われてたけど、最近の発掘だと宿舎完備でパンとビールで毎日高カロリーの食事にありつけたってなってるな >>972
ピラミッドは一説だけど、失業対策もあったらしいな。
労働者を食わせて、働かせて、治安悪化も防げる。
墓も建てれる。
頭良いわ。 飛鳥奈良時代って女性天皇がめちゃくちゃ多かったけど
男の天皇で有力なのが居なかったから
中継ぎ説と、本当に女性が力が強かった説と二つあって
今では女の権力が強かった説が有力だと聞きますが
古代は儒教とか仏教とか神道の穢れとかの思想を受けにくかったのでしょうか? >>976
天武・持統皇統をなんとしても繋げるためだったんだと思う
伊勢神宮のあの場所にしたのは壬申の乱ゆかりの地だったからだと思うし、アマテラスは東の海から昇る太陽であると同時に女性なのは持統をモデルにしているからだろう >>968
契丹が存在した期間は短くて、もちろんローマ時代にはなかったけど、実際に呼んでるだろ
ロシアが建国されるより前に契丹は滅んでるのにさ ロシアが建国されるより前は金張汗国が存在したよ。歴史なんだからもちろんのこと
それらが滅ぼした時の国が契丹です。だからロシア人にとって支那とは契丹を意味することがおおきい 遼を滅ぼした金とキプチャク汗国は別物だし、ロシアの前身となった国はそこから独立した別の王朝だし、連続してないのでは 西遼(カラ・キタイ)を滅ぼしたモンゴル帝国とキプチャク汗国は親子関係だし
“そこから独立した”というのは連続性があるというだヴォケ 遼を滅ぼしたのは満州族(だっけ?)女真族の金
金を滅ぼしたのがモンゴル 高句麗も女真系なんだよね
南部朝鮮は日本人に近く縁があったと思われるが北部朝鮮は遊牧民を祖とする民族で関係性はあまりないんだよな 高句麗は扶余族だったと思うけど、あれって何系統の民族なの?
ホントに女真族?
金と後金(のちの清)が女真族なのは知ってるんだけど…… 辻政信が作戦の神様と呼ばれていたらしいですが、彼の功績はシンガポール陥落くらいで、あとは勝ち戦がないのに何が作戦の神様なのですか? 作戦の神様とも呼ばれたが、一方で悪評も絶えなかった
軍人は積極果敢なことを言う方が意見が通ってしまうものだ
辻は消極的なことを言うものは上司でも直言し、降格を策謀し、自決の強要までやる
そうして自身の生存のためには積極果敢に逃亡し、工作した
そういう人だ テレビで池上さんが日本は独立した、主権を回復したと敗戦以後のことで言っていたんですけど、裏を返せば敗戦から
ある程度の期間は独立を失っていた
と言うことなんですか?
じゃあ日本は滅亡して
敗戦以前の日本と断絶期間が
あったと言うことなんですか?
前漢と後漢みたいな感じに
断絶したと言うことですか? 日本の降伏から連合国軍の占領により日本の主権の上にGHQ権力が乗っかってしまった情けない状態になったが、議会も行政府も曲りなりに連続しており、断絶とは言えない 神話の話なんですが
仲哀天皇は、神のお告げで、朝鮮半島を攻めろって言われて
海の向こうにそんな国は見えない。
みたいに答えたんですか?
仲哀は古墳時代だろうから、渡来人とかから新羅とか百済の存在は知ってるはずだと思うのですが。
設定を考えて無かったのですかね? >>900
Made In Occupied JAPAN >>992
新羅という村々は存在しても豊かな筈もなく金銀財宝もなく行くだけ無益だろう
これは住吉大神が間違っていると思う 藤原氏の専横時代だったとおもいますが
死後に反乱の関与が発覚して
墓を掘り返して遺骨に鞭打ちされた有名人がいたとおもいます
誰でしたっけ? 薬子の変で調べても出てこなかったのでここで質問した後に
年のために親父の方を調べたら一発で見つかりました
スレ汚し失礼しました 大伴も古代の武烈継体欽明あたりだと
蘇我並の大豪族 このスレッドは1000を超えました。
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