足利尊氏の強さは異常
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当時の並み居る強豪を全て相手にしながらも
ほとんど生涯無敗の連勝街道を達成して征夷大将軍まで上り詰める。
ここまで強すぎる武将は日本史上で見てもそうはいない
もしかして足利尊氏は日本史上最強の戦術家だったのか。 相模で生まれ三河で育った今川了俊は九州島で無双したものな。
三河で生まれ三河で育った細川頼之は四国島で無双したものな。
上野で生まれ上野で育った山名時氏は北近畿山陰で無双したものな。
三河で生まれ三河で育った中条長秀は京師で無双したものな。
中世史の川添昭二さんは今川了俊は鎌倉生まれで子供時代に東海地方へ移住したと書いてたな
中世史の佐藤進一さんは高兄弟は三河出身の三河武士と書いてたな
中世史の峰岸純夫さんは足利尊氏は鎌倉大倉生まれの鎌倉武士と書いてたな
中世史の海津一朗さんは楠木氏は武蔵北部出身の武蔵武士と書いてたな >>5
戦前のクソ皇国史観のせい
いまだに尾を引いてる 後醍醐が嫌われすぎてたから足利尊氏が民衆や武士団から支持されてたことを愚かな明治政府はできなかった 尊氏の唯一つの失敗は征夷大将軍の称号を手に入れたのに頼朝を先例とした家康みたいに関東に室町幕府を作らなかったことだ >>22
鎌倉に生まれに決まってる
鎌倉以外は俗説 >>24
必ずしもそうとは決まっていないと思いますよ
根拠は全くないわけではありません
まず足利氏というのは、門葉に準ずる特別な家柄で得宗家からも重きを置かれた家柄です
で、足利尊氏はみなさん「嫡子・長男」と誤解されていますが
実は「嫡子・長男」は「足利高義」と言い、母親は金沢文庫の設立者で北條氏の有力者「金沢顕時」の娘です
つまり「庶子・次男」の尊氏は、母の実家である藤原系上杉氏の荘園で生まれた可能性が高いわけです
ちなみに、その尊氏が元服と同時に官位を貰うという厚遇を受けていますが
その時には「高義」は存命中である事から、「高義」は本家足利を
尊氏は婿養子として「赤橋高氏」にするつもりだったのでは?という仮説を持っています 足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。
足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著) 今の足利市あたりの武士が強かったのはよくわからない。 足利市出身ではないのか
足利市では町おこしキャラクターにされてるが 相模で生まれ三河で育った今川了俊は九州島で無双したものな。
三河で生まれ三河で育った細川頼之は四国島で無双したものな。
上野で生まれ上野で育った山名時氏は北近畿山陰で無双したものな。
三河で生まれ三河で育った中条長秀は京師で無双したものな。
中世史の川添昭二さんは今川了俊は鎌倉生まれで子供時代に東海地方へ移住したと書いてたな
中世史の佐藤進一さんは高兄弟は三河出身の三河武士と書いてたな
中世史の峰岸純夫さんは足利尊氏は鎌倉大倉生まれの鎌倉武士と書いてたな
中世史の海津一朗さんは楠木氏は武蔵北部出身の武蔵武士と書いてたな 一つ違いの同父母弟、足利直義が半分くらい活躍したから成り上がれたんだろ
そして最後は、その恩人直義を毒殺
酷いもんだ 嫡男の兄が都合よく逝ったので足利家を相続できた高蛆
ラッキー高蛆 尊氏の敵が間抜けすぎたな
鎌倉落としたのに放棄するとかおかしいべ 北朝を奉じて後醍醐と対決したくせに
途中で北朝から南朝に移動し直義と争う
鎌倉時代から江戸時代の間を混乱させたのは朝敵氏 後醍醐なんか独裁者だろw
太平記にも後醍醐に徳がないから戦乱が絶えないと記されてるぞw 後醍醐は嫌われすぎて誰も味方してくれなかったのが真実 民や御家人を救った尊氏が朝敵なら
天皇や公家達の方こそ国賊だな 尊氏の一番の長所は
鈍感力
直義と戦って負けたのに気がつかないで勝ったと思ったこと >>48
新田義貞は?今日、太田市の新田神社行って来たんだ 新田氏は徳川家の心の先祖だからな
徳川家が江戸時代に将軍になっていなかったら、忘れ去られていただろう >>64
当時の考えでは新田氏も足利一門だった
実際尊氏はそれに加えて義家流全体を一門にしてしまった 足利一門って、みんな仲悪いよな
戦いに明け暮れて自滅するし
なんで仲良く出来なかったの? 謙信が関東から畿内の武将だったら歴史が変わっていただろうな
天下統一が30年早まっていたのではないか? 高蛆も関東出身
しかし京に居着いて関東は人任せ
鎌倉幕府を倒したあとは自分の都合で北朝、南朝に無責任降参
日本の秩序を狂わせた逆賊朝敵、高蛆氏ね 足利は下野だけじゃなく三河にもかなりの勢力があった。
一方新田は本拠の上野では大した勢力ではなく越後に越後新田党という大勢力を抱えていた。 三河に勢力があったのは分家の斯波とか吉良だろ
特に庶長子家系の斯波家は鎌倉幕府では足利本家並みの待遇だったらしい >>78
足利は斯波・吉良などの一族を掌握しているからいい。
新田は近場の山名を掌握していなかったりしている。 執事の高一族が横暴になり、直義が高一族と対立
高蛆は高一族のロボットだから、高一族と一緒になって直義討伐
アホ なので×ですから○ だから△
本来「なので」は断定の助動詞「だ」の連体形「な」+理由や原因を表す接続助詞「ので」
によって構成されるため、他の言葉と結びつく言葉なのです。独立した接続詞でありません。
ですから、文頭に「なので」を用いて文章を始めるのは、文法的に間違いです。 山名氏は新田本家を裏切って足利の手下になった
六分の一殿とか煽てられた一瞬の最盛期の後は衰退 >>84
大河の太平記の岩松は本家の新田を立てていたが、
新田次郎の「新田義貞」ではそんざいに扱っていた。 >>88
自己レス
訂正 負けていたろう→同時代に生きていたら負けていただろう 現代に生まれてたら一流のIT企業の取締役になってそう アベノマスク届いた
ありがとう安倍総理
やっぱり安心の自民党だね 足利義昭も個人の能力の善し悪しはともかく、
幕府クローザとして申し分のない活躍したよな >>84
山名初代、二代と上州児玉党系の家臣が有能だった
山陰、京住みの子孫はボンクラ >>96
義昭は秀吉が養子になることを受け入れて足利16代将軍として任官させていたらその後
どうなっていたらどうでしょうね? >>101
元武家の棟梁として秀吉政権の末席に座れたし
子孫も従四位くらいにはなれたかもね
将軍家の断絶は避けられたし
徳川政権での喜連川の高家扱いよりもっと良かっただろうね。 幕末の時代も南朝正統論のようで
足利って人気がなかったみたいだね
2000年代あたりから南朝正統論はかなり弱くなってきてると思う 皇国史観はおいといても
尊氏は主君変えまくりで
先祖代々の主君で自分で選んだわけではない鎌倉幕府はともかく
自分で主君と見込んで仕官した後醍醐天皇に弓ひいてるのが評判悪いんでは
明智光秀が評判宜しくないのと同じ >>102
秀吉が16代になってたら家康も幕府を滅ぼすことできなかったのかな? 約250年間、日本を混乱に陥れた悪の元凶
永遠の朝敵 110
朝廷存続が目的の連中らやないからな
将軍の家系ってのは武家の棟梁八幡神義家の末裔ら 当然、神の子孫を自ら名乗る連中らだから神憑り的な活動記録残した連中らは多い
負けたときは死ぬときだ!くらいの割り切りを自分らで示しているしな 同じ源氏でも関東で武家の棟梁としてまとめるために活動したのは義家の子孫だけなんだよ
それ以外では京都で守備につく系統の源氏の連中らが多い
そっちは摂津源氏の関係者の家系って言われてる
足利氏なんかは下野源氏だろ
美濃源氏ってか尾張源氏として土着した連中らなんだけどな
その代表格が美濃土岐氏、それらを取り纏めるために美濃守護となった連中 義家の弟として協力したのが義光の系統
甲斐源氏や信濃源氏の連中らやな
足利氏が全国に勢力を張るときは将軍にはなれないが副将軍的な立場を取り拡張した 平氏の末裔らにしろ武家の棟梁家に対してのみ忠誠を取ったの
平清盛みたいなんも平氏の連中らからすれば敵でしかない
家老に流れた連中らも多い 四国三好氏なんかは名門だが信濃源氏の末裔として四国入りしてるわけ
自身は将軍になれない家系だから足利将軍家に従うしか生きる道がなかったのさ 徳川氏なんかは尾張源氏からの氏子から発展したはもう明らかだろ
将軍にはなれないから三河源氏の吉良氏(足利氏)から家系図を借りた 南北に別れたり、東西に別れたり
都に入れなかったり
将軍殺されたり
超面白い時代を開いてくれた尊氏、好きです 120
単なる京都あたりの守衛で終わり
武家の棟梁になれないからよ 他の存在にはなれないってのは分かるだろおまえにもな まず頼朝のときは関東にいた武家平氏の連中らが自分らの棟梁として担いだ
尊氏のときは義家の近親の子孫の連中らが武家の棟梁として担いだ
だから足利以外でも俺にも権利あるだろって感じで同じ義家の子孫の連中が従わずに自分が将軍になろうとした どっちかっちゃ始めから将軍になれない家系の連中らは生き延びるために死ぬ目にあっても忠誠に走った 南北朝時代とは
偏執狂の独裁者と、躁うつ病のカリスマに、マジメ人間が振り回され、DQNがヒャッハーした時代のこと。 >>126
義貞は征夷大将軍になろうとしたんだろうか? 129
だから清和一族の棟梁
武家の棟梁となり得る資格を持つ義家の中での二大候補が尊氏と義貞 八幡神義家の子孫の中で頼朝ってのは義親一為義って流れから現れた
そっちの系統は滅んだわな
時代が少し遡り義家が死んだときに源氏の惣領になろうとしたんが義家の弟の義光なんだよ
そんときに義家の子らが何人もいたんだが長子義親は謀反の罪で遠島となっていた
兄弟らを守るために活躍したんが義家の二男の英雄源の義国
伯父である義光が総領を狙ったが義光とは合戦を起こしやがては義家の孫の為義を源氏の総領につけた
その義国の子が新田と足利 武家の基礎ってのはすでに平安時代後期に決まってたんだよ つまり源氏の総領家ってのは
義家一義親一為義一義朝一頼朝ってなったわけ
それとは別に源氏の中での英雄としての流れは
義家一義国一義重(新田)
一義康(足利)
ってなって残った
やがては義国の子孫らが主役となって活躍した時代が室町時代
一族としては日本の中でも最大規模で勢力を全国に広げたからな そのころ尾張源氏(摂津源氏の連中らが流れたらしい)
かなり親王家なんかに対しても援助してるんだとさ
やっぱり京都の護衛だよ だいたい初期には摂津源氏、河内源氏、大和源氏に割れただ
摂津源氏は代々、京都の護衛の大将職を歴任した
河内源氏はもともとは鎮守府の将軍として東国で合戦に当たってたんだな
大和源氏の連中らは仏教関係なんかで僧侶になるやつらも現れてそちらで勢力を伸ばした つまり
徳川氏なんかはもともと
摂津源氏→美濃(尾張)源氏→加茂(足助)氏の氏子って流れなわけ
室町時代は美濃守護についたのが土岐氏だろ
この氏族が摂津源氏らの子孫らが住んでいた地域が多いからその守護的な立場に立ったんだろ
明智光秀にしろ摂津源氏から出たと言われとる そりゃもともと将軍になれる家系(義家の子孫)じゃないからな
吉良氏(足利)氏から家系図を借りて系図を作り将軍となった
摂津源氏から引っ張ったとしても京都の護衛の大将で終わりにしかならない その時代の将軍殺しは日本最大の大罪だからな
下手すりゃ日本全国の武家連中らを敵に回すそかならない だいたい伝わる家伝みたいなんがあるでしょ
祖先らの家訓なわけ >>143
桜井の駅で正成が集めた兵は1174。
そのなかには大和の越智氏伊賀の服部氏丹波の蜂谷氏伊予の杉本氏の兵も含んでおり。
本拠の摂津・河内・和泉ではほとんど集めることが出来なかった模様。 足利が三河で集めた群勢がおよそ一万
これで六波羅落としたんだ
鎌倉は越後の新田一門が義貞に合流してついでに足利尊氏の子を掲げた関東足利やいろんなんが集まり鎌倉攻撃
群勢不明 そのあとは後醍醐天皇の命令で
新田が越後と上野の守護
足利が相模と武蔵の守護になったんだね
新田勢はほとんど北陸の戦いに駆り出された 源義重
里見義俊・庶長子
山名義範・庶子・伊豆守
新田義兼・大炊助
世良田義季
額戸経義 147
その里美義俊の子孫だろと言われてるのが新田義貞
新田本宗家は鎌倉時代に落ちぶれすぎちゃって新田家当主の新田朝氏の養子となったとする文書が見つかってるの
事実、里美氏らの子孫らは最後まで新田氏の家臣団の中核を成した 越後あたりに広がっていたのも新田義兼の子孫らじゃなく里美(新田)義俊の子孫ら
義貞が新田を継いだときから里美義俊の子孫らが新田に従った 義貞はそのあと越後入りしてるんだね
そんで北陸に拠点を構えたわけ
南北朝時代は新田一門名前が出なくなってくるがほとんど北陸の合戦に繰り出された 鎌倉と京都に拠点構えたのが足利やからな
記録には残っとらんわけよ
そんで京都からくる足利勢と京都奪還目指して進出して戦ったのが越前金ヶ崎の戦い
山名なんざの場合は足利方として山陰方面に進出して山陰山陽を抑えただ
そんでやがて感応の擾乱が始まったろ
足利直義について室町幕府から離脱したの まあ義重の子孫の新田一門の中でも足利に寝返ったの山名くらいしかいないんだけどね
逆に足利一門だが足利より新田に従ったのもいたから境界はあいまい >>155
大島義政は?
それから岩松は足利一門?新田一門? 尊氏は強いし
足利の一門も優秀な武士が多かったと思う
細川、山名、斯波など >>154
金ヶ崎って
昔から戦場になる重要な地形なんだね 156
大島氏は里見一門、義貞の命令で尊氏に従った
岩松氏は、、、知らん あとは足利一門なら桃井尚義って人物がいるだ
支流の桃井直常は尊氏の弟、直義に従ったが桃井宗家は義貞についた だからけっこう曖昧
足利一門の有名なんはそりゃ足利についたの当たり前やけどね 足利と新田は元は同族だし
この家系の武人が優秀な人多かった
北条は政治力はあったが武力的には弱かった
尊氏も意外に北条もあっけなかったなぁと思っただろう >>166
和田義盛の乱や宝治合戦の時も足利や新田が和田や三浦に付いたら北条は滅びていたかもな。 里美連呼してるオッサンは、里美という名前に思い入れでもあるのか? 元弘3年(1333年)5月8日、新田義貞は、自分の領地にある生品神社前で、幕府討伐(兵を送って従わない者を攻め討つこと)の旗あげを行いました。
このとき従った人々は、近くの親族で、僅か150騎にも足りませんでした。このとき、兵士たちはみんな、「これだけの軍勢では不安だ」と思っていました。
ちょうどその日の夕方に、利根川の方から馬に乗り、鎧甲を着た姿もさっそうと、2千騎ばかりの軍勢が、砂煙りを上げて現れました。
「スワ敵兵か」と、一同目を皿のようにして族印を見ると、これは敵ではなく、越後(新潟県)の国の一族で、大井田・里見・鳥山・田中・羽川らの援軍でした。
http://ooidadouzokukai.com/history/history02/ 足利尊氏が武蔵、相模守護に任ぜられてる
桃井直常は越中守護
初期の話や 後醍醐天皇の元に参賀したときにそれぞれ認められた
やがて公武不和により尊氏が離脱した 義貞が越前で討死したときは里見が越後の群勢をまとめて二万の群勢で援軍に行こうとしたが義貞が死んだので中止、そのあと瓦解した 後醍醐天皇崩御の知らせが届いてから七日間、尊氏と室町幕府は喪に服した。
百カ日法要では「先帝を想う」と尊氏が自ら弔文を詠んで哀悼の意を示した。
その内容は単なる型どおりの追悼ではなく、個人的感情のこもったものとなっており、
尊氏個人の目から見た後醍醐像を知る手がかりともなっている。
尊氏の今日こんにちあるのは、一に先帝のおかげでした。
まことに、鴻恩のほかのものではありません。
その温柔なお姿、ありがたい叡慮のお声など、なお耳の底にある想いです。
攀慕の愁腸、尽し難しとは、このことでしょうか。
慚愧の念、哀傷の感、どういってみても、いまの私の思いはこれを筆舌にすることもできませぬ……。 義貞死後は義貞の息子の義宗が新田一門の総領となった、義貞の弟に脇屋義助と言う人物がおり越後を拠点に南朝方の有力武将として君臨した 斯波氏って尊氏の時代は優秀だっだと思うけど
子孫には暗愚しかいないイメージです。
創業者は優秀で手本があるのに
子孫の教育って難しいね 斯波ってなあそれまで足利に従ったことがない家系なんでな
鎌倉幕府においても足利と同列に扱われた家系なの 高蛆は永遠の国賊
北条を裏切り朝廷を裏切り、自分に都合がいい朝廷をたてて私物化した
高蛆氏ね 後醍醐こそクソ独裁者だっただろうが
皇国史観なんてクソくらえ! 足利と離れた(つまり京都を離れたあとやな)は東北に自分の斯波幕府を作っちまってんだな
足利とは関係なくやっちまったんだよ それの対抗馬に足利から送られたのが東北管領の畠山なんでな
南朝では顕家がやっぱり伊達を家臣として南朝政権作っとるだよ
みなそれぞれ独立してな そりゃ足利になんか従えるか〜(・∀・)
って連中らがいたのは分かるがだいたい足利か新田かで分かれたからな 足利、斯波、畠山氏はそれぞれ足利系列だが当時の当主格人物らがそれぞれ家を継いでいるんだな
結果は残ったやつが足利を継ぐみたいなことが起こった
だからこの三家は本来まったく同列 他の一門はだいたい分家してみたいなんだから家臣の家柄と呼ばれた 十代後半の若さで伊達氏始め東北の諸大名を統率して関東で義詮、京都で尊氏を破った北畠顕家こそ最強。
最後は後醍醐に人徳がなかったから北畠に味方する武士が少なくて高師直に敗れたが名将度合いは師直よりも上、尊氏といい勝負だっただろう。
楠木正成はゲリラ戦は強かったが大軍を率いてどの程度やれたのかは不明、戦術戦略ともに優れていたがあの身分で大軍をまとめられたかどうか? 高師直、師冬兄弟も清和源氏なんだな(°▽°)
義家の下の方の弟が高(高階)氏に養子に入って義国に仕えたのが始まり 高師直、師冬兄弟も清和源氏なんだな(°▽°)
義家の下の方の弟が高(高階)氏に養子に入って義国に仕えたのが始まり 筑波山の麓、常陸国伊佐庄中村(下館市)から中村常陸介念西入道が子息らとともに伊達に下り、氏を改めて伊達氏を名乗ったのをはじめ、
相馬・蘆名・結城・二階堂・伊東・長沼の諸氏は一族または家人を地頭代として奥州に派遣し、新しい所領を経営した。
これらの諸氏はみな関東地方に本領を持つ豪族であり、家督が子息・一族郎党を引き連れてその主力をいち早く奥州に移した伊達氏を例外として、
ほとんどが鎌倉後期(南北朝期)まで関東の本領に住したのである。
(『福島県の歴史』山川出版社) おみこし北畠軍の中身は関東兵
『保暦間記』
「東国ノ武士、多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力モアリ。是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所下シ奉ルベシトテ、
国司ニハ(中略)土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル。誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル。
(中略)同十二月、主上ノ宮成良親王ト申ニ、尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副テ、関東八ヶ国守護トシテ下向アリ。
鎌倉ノ将軍トゾ申ケル。サレドモ、出羽・奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士、多ハ奥州ヘ下ル間、古ノ関東ノ面影モ無リケリ」
これは非常に大事なことを語っている。
鎌倉時代の武士は、東北に所領を持つ関東武士としての勢力が強かった。
奥州に強力な国司制度をしいたのは、その関東武士の勢力の根源を断ち、鎌倉の権威にかわる権威を東北につくるためである。
その政策が成功して、東北に所領ある武士は、大半奥州に下向したので、鎌倉は名ばかりとなった。
そういう意味のことが述べられているのである。
(山川県史シリーズ4『宮城県の歴史』高橋富雄) 関東が地盤なんに何で京都に幕府置いたん?
天皇家とかぶるやん
京都に本部関東に支店(鎌倉公方)
より関東に本店京都に奉行所
の鎌倉江戸両幕府の方式のほうが絶対安定したやろ >>195
近畿近辺に南朝があり北畠や楠などの支持勢力も健在。
守護大名が南朝押し立てて反乱を起こしおろか足利直義はまだしも尊氏までも南朝に降伏
してるような状況では関東には幕府は開けない。
幕府が関東にあったら兼良親王と菊池武光の東征も成功しただろうな。
日本が二つに割れていただろう。 >>197
義満が貴族化して京都にいたかったのと。
山名氏清の乱とか大内義広の乱とか有力西国守護大名の反乱が起こったりで。
4代の義持の時代には上杉禅秀の乱と連動して弟義嗣が西国の大名と反乱を起こそうとしたり。
それを平定したら関東公方持氏と対立したりで関東に戻るという状況ではなかった。 >>197
結局足利幕府は鎌倉幕府の北条や江戸幕府の徳川みたいに全日本を掌握してなかったから関東に戻れなかったんだね。
やるとしたら義満・義持の時代だね。
それも義満が貴族化せず義持と仲が良かった場合にのみその大事業は成功したね。 足利兄弟が護良親王を担ぐ
即位してもらって後醍醐は隠岐にまた押し込め
二人は関東に戻って幕府
親王も将軍より天皇の方がいいっしょ
パッパも息子の晴れ姿遠い隠岐から思い浮かべて満足
ほら誰も困らない 九州で神風が尊氏に吹いたのは皇国史観ではタブーだったろうな 九州で神風が尊氏に吹いたのは皇国史観ではタブーだったろうな 現皇室は尊氏が立てた北朝系やぞ
皇室から見たら尊氏は大恩人やろ 菊池武夫という菊池氏の末裔と称するバカが尊氏逆賊論を提唱。 菊地って九州地方にある土地名だよね
この豪雨も尊氏の呪いか? 201
少弐は尊氏の子の直冬を娘養子にして縁組し足利直冬軍団を九州で結成しとるだよ
ただし足利直義が尊氏に殺されて京都足利にとり直冬は賊軍大将となったろ
だから最後は離縁されて直冬は追放されのたれ死んだ 九州管領を置こうとしたろ
渋川、今川氏などが京都から派遣されたが自分らの支配体制はすでに固まってただよ
だから管領家が機能しない形で九州三家(島津、大友、少弐)で協力されてダメになった(°▽°) 九州は中央足利からは半独立体制のままいっちまった(°▽°) 尊氏が九州に落ち延びたときに協力したのも少弐氏なんだな
九州尊氏軍団を結成して京都まで攻め上がった
その二番煎じやろしたんやね(°▽°)
源氏の連中らより藤原一族の少弐が尊氏軍団結成しただよ >>205 >>208
菊池氏は南朝側にも拘わらず肥後守護はおろか筑後守護まで任じられていた。 楠木正成はゲリラ戦は上手かったけど野戦での指揮となるとどうなのだろう? 懐良親王を奉じて南朝王国築いたんだろ
関東に入国したんが征夷大将軍に後醍醐から任命された護良親王だからな
足利直義によって最後は殺されただよ(°▽°) 北朝を築くことに熱心だったのはどちらかっちゃ足利直義らだったからな
美濃の土岐氏や上杉などは直義派 210
南朝からな
越後だって北朝方守護として赴任したのが上杉
南朝方守護として存在したのが新田ってなってたんだぞ
もともと南朝方守護の新田氏の拠点だったのが越後の上田城
北朝の支配が固まっていくにつれて上杉に仕えるようになった新田一族の末裔らも多くなってきて戦国時代 211
だから負けたじゃん
九州から西上してくる尊氏率いる大軍にな そのあとは関東から転戦した高師直あたりを大将とした大軍に追い立てられて南朝吉野に逃げたんだろ
五万近い大軍が集まったと言われてる 南朝に兵なし!将なし!
よく北朝側に殲滅されなかったな >>211
ゲリラ戦ができるということは野戦も普通にできる
尊氏を九州に追いやるのに勝利してる
そのあとに尊氏に負けちゃうけど だって将軍だもん
高の師直、師冬兄弟も一貫して尊氏のみに従っている
あとは根っからの尊氏派だったのが村上源氏の佐々木道誉(高氏)と赤松円心(則村) 直義との戦いのときは尊氏が京都を離れたあとに佐々木や赤松が京都を包囲した かつては源氏の祖、義家と争った甲斐武田や佐竹なんかも尊氏派として戦ってる
すでに初期に将軍候補から外れて縁も遠くなっていたからな 細川なんかは四国管領として四国入りして戦いを繰り広げて勢力を築いたろ
戦国時代に織田信長がやったなんとか地方軍団みたいのは足利がすでにやっていたことの真似でしかないんだよ 丹羽長秀を四国管領みたいのに任命して四国入り狙っていたころ本能寺の変が起こったわな 南北朝時代の歴史はバカが皇国史観だのほざいてあまりみんな知らなすぎるんだよ
その結果がやたら信長持ち上げたり徳川が凄いだのってバカが現れたわけ そいから藤原ってのは古代あたりに天皇家と縁戚を組んで勢力伸ばした連中らだろ
源氏ってのは天皇家の弟の家系と言われ源氏自体が天皇を滅ぼすために動いたことはないんだな 新田義貞は勇猛な武将だが尊氏を相手にするとやることなすこと裏目に出てたな てめえで考えてよいチャンスを与える(°▽°)
考えろや >>228
考えたからこその質問なんだが?
昆虫並みの脳味噌かテメーはw >>215
> 九州から西上してくる
九州から西上?
フランスに渡米みたいな? 楠木正成、新田義貞、北畠顕家の3人が揃えば
さすがに尊氏に勝てるが
尊氏の九州敗走の時に顕家を東北に返したのは失敗したか
しかし、顕家も東北の軍だし軍を維持するのも難しいから戻るのはしょうがないしねぇ 新田は北陸の武士団を従えた
平定戦もそっちばかり繰り出された 南朝からすれば護良親王が征夷大将軍として関東に入りその補佐役が足利って考えだったんだろ
つまり宮将軍の再現だわな
殺されて終わった(°▽°) 今川了俊がいなけりゃ兼良親王の東征は成功していたな。 あ〜今川了俊な
九州平定を成し遂げて、明から冊封を受けた親王勢力から足利義満に対明貿易の実権を移し、高麗の捕虜を送還して実質、倭寇を終わらせた人だよ
政治家としての能力が高い 今川了俊が名将なのは間違いないが少弐冬資を殺害したのは唯一の汚点だよな
なんか孔明的な印象あるのに、なにか一歩孔明に及ばない感じになってしまった 今川、斯波、山名、吉良、上杉、みんな戦国時代には弱っちい守護職になっちまったけど
室町初期のご先祖様は優秀な武将だったんだね 今川了俊の女系子孫が松平信康。長生きすれば、天下人だったのにな。 細川頼之と今川了俊がいなかったら室町幕府は崩壊したであろう。 >>244
関東地区の上杉は最弱だったしゃん
地元なのに後北条の強さに完敗したし。 上杉じゃなくて長尾(平)氏やからな
上杉家はどっちかっちゃ府内において御所を構えた 在地領主なんかに領土の安堵状を出すことにより府内に出仕させたんだよ
出仕した連中らが家臣となった 別に戦の強さは関係ないニダ(°▽°)
戦に強いってなら源氏出身者らもかなり強い
もちろん平氏も強い 南北朝時代に活躍した平氏っているの?北条氏ぐらいか 250
鎌倉側の主体がほとんど平氏らだったからね
鎌倉討滅が起こったんなら予測がつくだろ 六波羅や太宰府あたり仕切ったのから一時は北条一門で日本全国の守護職の半分を占めた
反乱起こさなきゃ源氏連中らも滅びていたわ 内管領、長崎円喜だって平氏出身やぞ
鎌倉時代にもどちらかっちゃ源氏排他して平氏ら身内で政権を固めた
最後は生き残るために後醍醐天皇の綸旨に応えた 以降、平氏出身者で守護につく連中らすらほとんど消えた
長尾氏の場合なんかは上杉家と婚姻関係を結んでいた関係こら守護代なんかを兼任した
御所を構えた上杉家はほとんど戦わないから代わりに軍勢を率いて守護勢力側として合戦なんかに参加しただ
やがて下克上でのし上がるのはそんら連中ら つまり後醍醐天皇は反平氏の綸旨を全国の源氏の連中らに与えたから全国の源氏が天皇に付いた
足利(源)氏ってのは北条(平)氏から当時の源氏の棟梁と見做された
源氏の棟梁が北条に従っている限り反乱起こしても孤立して終わり
だから尊氏が幕府討滅に動いたとき全国の源氏連中らが一斉に反幕府に回った 鎌倉時代は陰謀の時代や言われとるでな
足利が謀反起こしたら鎌倉幕府自体が簡単に消滅したからかなり監視が厳しかったらしいぞ そのあとの源氏連中らの伸び凄いだろ
日本全国に進撃したまさに(°▽°)
国内の守護職なんか源氏一統がまさに占めた
東北総大将の北畠(村上源氏)顕家もまた源氏 最後は松平という源氏を僭称した土豪上がりに持っていかれたけどな >>76
下野に勢力など殆ど無いが
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城 >>76
続き
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 262
三浦氏→東北芦名(平)氏
越後長尾(平)氏→上杉家の家督を最後は譲られる
伊勢(平)氏(室町幕府の政所役人)→後北条氏
千葉(平)氏→上総あたりの守護になったんいたかな?
小山田(平)氏(武田信玄の家臣)
いても本流が滅びたから生き残った連中らは他家の家老なんかとして残ってる 平家が滅んだあとは頼朝の家老の北条時政が最後は実権握ったろ
平家の生き残りなんかを幕府の役人なんかに北条氏の子孫らが入れてんだね
長崎円喜なんかそっちの末裔だろ 源氏は御家人としては優遇されたが幕府の執政にはあまり参加できなかったんだね 御家人で終わりってことはいいとこ地頭で終わりってことだよ 尊氏のときには一斉に源氏の連中らばかりが幕府の執政にしろ主流となった 織田信長なんかは平家の子孫を自称か知らんが名乗ったんだわな
三度目の平氏滅亡だよ
討ったのが美濃源氏を称する明智光秀ってのがまたw >>263
伊勢氏は三河にいた藤原さん
後北条氏の先祖、伊勢俊継
伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)
■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去
■伊勢俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・藤原俊経の息
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去 >>263
続き
■円辰(****〜****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋
・三河国滝山寺僧
■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・三河国滝山寺僧
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去 259
南北朝の時代からすでに二百年過ぎたあたりからもはや何のために戦ってるのか当の連中らすら分からなくなっていただ もはや誰でもいいや(°▽°)→徳川に持っていかれた 足利が細川きら下克上起こされたろ
あれで室町幕府は実質終わった 権威とかそんなんじゃないんだよ(°▽°)
源氏の将軍を同じ源氏の一門が殺したことなかったからな
それやった時から統率が取れなくなったんだよ 同じ源氏の大将を源氏の連中らが殺すことはタブーなん 武田信玄なんかは悪党言われたが同族(源氏)を滅ぼしまくったから言われたんだよな
他氏族を倒しても悪党言われんわ 他の氏族の連中らにしろ同じ源氏を滅ぼしたやつに従うなんざ嫌だね(°▽°)って必ずなるんだよ 278
そんで織田信長が上洛する名目を与えたんだろ
義昭が要請したときも信長が源氏ではない他氏族出身だからそれに応えたわけさ
三好らはそのあと逆賊となって討伐されたろ 同族殺しはどっちかっちゃ他氏族の連中らから見て反吐がでる行為に映るべ(°▽°)
そんなやつら皆殺しにしたるわ!ってなるぞ 尊氏が九州に落ち延びたときに尊氏に従ったのは少弐(藤原)氏だろ
将軍として仰ぎ尊氏軍団を結成した中核や >>75
三河生まれ三河育ちの可能性が高い
徳川家康の生誕地と直線距離で約1.5キロしか離れていない
おそらく足利尊氏直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 >>216
高氏嫡流の本拠地は、三河国菅生郷、比志賀郷
関東は関係ない 天武天皇の皇子、高市皇子を祖先とするのが高階氏
八幡義家の家来で高階惟章と言うのがいましてそこに義家の子供が養子に入りました
それが関東高氏の始まり
高句麗から来た連中らが初めは高氏名乗ったみたいやが高橋だのそっちかな? 足利からは主に吉良姓取ったやつが三河総代となって赴任しとる
斯波姓に繋がるやつらは上総や陸奥で荘園開発に当たった 新田系列と言われとる里見一門は越後あたりの上田あたりを中心に広がったわけ
平安時代後期から鎌倉時代はそれぞれみな荘園開発に当たった時代 そこの総大将が世に出れば家臣らも活動が広がる時代なわけよな
三河だのにいた連中らが名を知られるのは吉良もあるが足利に引きつられて世に出た 織田氏なんかは越前に斯波氏が守護として赴任したときに家老となったわけ
尾張も守護兼ねたときに家臣として尾張に土着した 氏族の分裂はそのまんま荘園の広がりに合致してるわけ おれが耕した土地は俺のもの
朝廷や本家の奴らには収穫やりたくない
そもそも京都から遠い荘園の収穫物って京都まで運んだりしたの? >>289
織田剣社の今の宮司って織田さんじゃないんだな? >>285
違う
源頼朝と初代足利氏、足利義兼の曽祖父
関東は侵略された側
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝 >>286
違う
斯波氏の本貫は、鎌倉期唯一の所領だった三河国壁海郡碧海荘(三河県岡崎市、豊田市、安城市)だが、庶流は豊橋のあたりにいたらしい
大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html
>中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任
足利家兼(斯波家兼)
父:足利宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 平家の生き残りが越前で忌部氏の養子になった!ってのが織田氏平家末裔説 忌部または斎部氏の姓とする氏族
祖先は天の太玉の命(あめのふとたまのみこと) >>295
現在の宮司上坂省一氏。世襲じゃないのか? 南北朝の時の一色と畠山は存在感が弱いと感じたけど
意外に出世していくんだね
没落したのは高氏ぐらいか 畠山は河内源氏の拠点、河内守護を代々継承したでしょ
一色は伊勢守護をやったあとは鎌倉公方の家臣になったし
高氏はたしかに没落したがんなん他にもたくさんおるわ 阿波は小笠原氏が鎌倉時代にすでに土着してるし
小笠原の支流が三好だから細川が守護になったあとに守護代になったんだろ 安芸武田や若狭武田は尊氏が京都にきたときから守護となったし 摂津源氏なんかは鎌倉時代に頼朝に本家が滅ぼされたが一族なんかが美濃に住み着いたでしょ
その子孫なんかが美濃守護土岐氏や明智光秀やらと言われとる 信濃源氏の小笠原氏は承久の乱のあと阿波守護ってなったわけね
阿波小笠原氏の祖と言われてんのが小笠原長房
小笠原長房の子孫から三好長慶なんかが出ただ(°▽°)
小笠原長房自体は甲斐源氏武田氏と同じ源義家の弟の源義光の子孫ニダ(°▽°) 新田氏の話に戻るが里見三兄弟が資料に現れる
里見義俊から始まる里見氏は里見義胤が継いだ
その弟に里見義貞ってのがおりこれが本宗家の新田朝氏の養子となり鎌倉攻めのときは
新田(里見)義貞の鎌倉攻めに里見義胤らが従ったとある 群馬あたりならこの話が本当だろって真実話として説になっとるだよ だから流れ的には新田義貞らと後年、新田氏を称した岩松氏はまったく関係ない 同じ新田だから岩松が越後守護になれるか?みたいな話よ
絶対になれない 岩松自体は最初から足利の家臣でしかない立場のみを取り続けたわけ >>315
大河太平記では義貞に頼りにされていた岩松。 316
だからそれが不思議なのよ
義貞が新田本家の生まれなら岩松あたりと関わりあるが伝え聞いてる話は義貞か新田に養子に入ることで越後、上野辺りに存在した里見一族(里見義俊の子孫ら)が新田本家側に参加して新田一族の主力を成していったわけ
義貞が越後守護になったときは里見一族から守護代がでとるん
山名も新田から分裂した一門だから別に義貞とは別行動でもおかしくないけどね
里見一族は義貞に対して絶対的な忠誠心示し死ぬまで義貞と共にした 新田本家自体は領地を岩松と分割したり幕府の政策で本家と呼べる力がすでにないのよ 越後あたりの荘園開発したのは新田一門が平安鎌倉にかけて開墾したのは書いたわな まあ署名的には新田朝氏の養子に里見義貞が入ることにより越後新田党(里見義俊の子孫ら)が新田軍と合流して新田義貞が里見義胤らを従えて鎌倉討伐軍を進めた、それに足利尊氏の子供の千寿王を掲げた足利党などが合流した 太平記ってのは足利義満が編纂を命じて書かせた足利方から見た記録でしかないの
義貞の養子入りの話なんか足利が知っているわけないだろ 太平記が書かれた時代より祖父の世代の話らを調べて義満が書かせてんだよ 足利尊氏にしろ新田義貞らにしろ事前にお互い話し合っているのは間違いないと思うがな
そんくらい北条氏専制の時代やけ
また北条氏が一族で繁栄する替わりに落ちぶれた御家人らが大勢でた時代 高氏が活躍できたのは、同母兄弟の直義の力があったから。
高氏一人だったら新田にも勝てなかっただろう 岩松氏は最初から足利方やけ
里見氏は関東公方そのあと古賀公方の内臣になった
関東足利と上杉氏の対立のときに鎌倉公方から本領安堵されとんだわな
自分の味方として新田一族らを味方に引き入れた それからは鎌倉公方方としてずっと行動しとるわけ
安房里見氏も公方の命令で現地支配したらしい 鎌倉公方の権威が強かったときは東北あたりの大名らに対する取り次ぎを行い公方に従った 御弓御所ってのもあったでしょ
古賀公方の分家の
上総を公方の内臣の武田信長、安房を里見ってんで知行するよ〜に計らったわけ
それから上総、安房二国の軍団は公方直轄の軍団組織した それに佐竹や宇都宮、結城氏だの足利とあまり関係ない連中らを味方に引き入れて西関東は上杉氏、東関東は公方が支配する体制となった 上杉謙信や北条氏の台頭なんかもあったがこれは戦国末期まで続いた 新田姓やら新田の惣領職は尊氏が岩松氏に与えてるんだわな
以降、新田岩松氏として金山城を拠点とする独立大名になった 里見一族の連中らの拠点、もともと上野より越後に所領持っていただ
新田名乗った連中らもだいたい越後を拠点としただよ
義貞もな 太平記の義貞と岩松の会話不自然だでな
義貞は祖先伝来の上野八幡庄で旗揚げして鎌倉を攻めただ 新田次郎の「新田義貞」では岩松は義貞にぞんざいだったが。
大河では旗揚げの前に義貞は「岩松を呼べ。」と。 うん
足利にヒケを取らないくらいの大身だもん
里見義貞ならな 祖先義俊の子供の義成は真っ先に頼朝の旗揚げに従ったし頼朝の寵子と言われるくらい近臣中の近臣となった
鎌倉時代通じて没落したのなんか一度もない 里見家を継いだ里見義胤が義貞の兄だって言われてんだわな
義貞が新田朝氏の養子に入り越後から義貞の兄弟、親類縁者らが続々と駆けつけてさらに他氏族の源氏らも加わり足利千寿王が合流したら関東のその他の庶家も合流した言われとるけ
誇張か知らないが鎌倉攻めの総数20万人らしいんだけど 尊氏は南朝と敵対したときに岩松氏に対して新田惣領家としての家格を与えたわけ
つまり新田義貞が新田姓を名乗る対抗馬に仕立てて正当性を与えよ〜としたわけ
以降、岩松氏が北朝方として新田岩松氏を名乗った
義貞らはそれにも関わらず宮方将軍として各地を転戦しとるだよ
新田本家の領地自体、鎌倉末期にはほとんど得宗領になっちまってるだ 新田岩松氏はそのあともずっと続いて戦国時代まで存在して今も子孫はいる 新田次郎のは義貞があくまで新田朝氏の実子として一族の岩松氏との関係描いたもんでしょ
そりゃな 太平記はいくつかの伝記をまとめて一冊の本にしたんだってね
初期ころのは足利直義も見てるらしいでよ
義貞が朝氏の実子かどうかについては書かれてないけどね 桃井氏は桃井尚義が鎌倉で討死にしたんだろ?
桃井宗家は新田義貞に従い南朝方として戦った
桃井直常だの足利直義についたのは桃井の分家の連中
越中守護になったらしいやん
子孫なんかそっちにいるんでないかい
得川(世良田)氏は新田義貞について越前に行き討死したんじゃなかった? 昔の武将ら自分らの経緯を文章として書き保管していたらしいんだよ
群馬の榛名地方が里見氏に関係ある地で里見氏の残した文筆が見つかったんじゃねえかな?
そんで里見方から見た新田一族みたいな文章が見つかったんだと思っただ
太平記には反映されてない その中には新田朝氏の養子として里見忠義の三男、義貞が養子に入るときの経緯なんかが書かれていたらしいんだな
新田自体は没落しすぎちゃって足利から保護受けてほとんど家臣扱いくらいにまで落ちぶれていた 最終的に太平記をまとめたの足利義満だからな
新田(里見)あたりと義満が関係あるなら太平記にも反映されたろうがまったく接点がない
南北朝時代が終わったあとは鎌倉公方に仕えて近臣となっただよ
同じ源氏一族だからその点は信頼できたんだろ
以降は戦国末期まで行く 房総半島に鎌倉公方の勢力張るときの名目は
鎌倉公方が鎮守府将軍足利氏、里見が関東副帥里見氏ってんで現地に入っているから房総半島の公方軍団を組織した 八幡荘ってのが東国における河内源氏の拠点になったんだよ
その歴史は源頼義の時代にまで遡るからいろいろ見つかるわけ
この地を抑えるのに代々、執着しとるでね
源頼信の起請文も見つかった
武運を祈って願掛けしたよ〜なことが書かれてある 源義家のあとの時代、頼朝の方の系譜は鎌倉に領地持っていたから移ったでしょ
義家のあと、八幡荘を譲られたのは義国
義国から義重に移って代々、新田氏が管理してきたんだ
足利氏ってのは下野の藤原姓足利氏と合戦があったんだがそのあとに義国の次男の義康がその地を受け継いで源氏姓足利氏が成立した 義家の母親が三浦(平)氏だからそんときに鎌倉を譲られてんだね
つまり母親の実家の領地を受け継いだ
後年、義朝が本拠構えるんだがそんときの縁故を頼ったわけ 新田氏ってのは一族でも新田荘に領地もっていないと新田姓名乗れないの
里見氏の場合なんかは新田荘に領地持っていた初代あたりは新田名乗った
それ以外は里見氏を名乗ったわけ 藤原氏の場合なんかは発祥の地は大和国藤原郷でしょ
ここに領地を持っていることが苗字を名乗る担保みたいなんよ
氏族が分かれていき地縁がなくなることに改姓したわけ 徳川将軍家の場合なんかは世良田氏の末裔を名乗ったんだから江戸の将軍が徳川を名乗るのは徳川郷を抑えた者のみが徳川姓を許されたわけさ
世良田氏の氏族で実際に伯耆守護となった山名氏に協力するために現地に行ったのがいたらしいがそんときに源姓徳川氏名乗り始めたのがいたのが最初
前列 徳川氏の場合は改訂されたって意見が大半だから逆に立ち入り真実を掴むのは難しいの 摂津源氏の一族で源姓賀茂氏を名乗ったのがいたらしいんだよ
そっちの氏子だと思うけどね
三河では源姓賀茂氏が戦国時代あたりには消えてるの 摂津源氏だったら京都守護の大将の家系だからそれはやれる その通りに選ばれその通りに生きたのいたべ
明智光秀
逆賊とは呼ばれとらんよ 東北藤原氏は藤原氏一族が藤原姓を名乗らなくなったころから藤原姓を名乗り始めたわけ
もともとは清原氏だしな
つまり仮冒
この藤原氏が海外では名が知られてるだな 松平氏の祖先なら松平信光ってのがいるがそれが三河の賀茂神社に起請文だしてるわけ
こんときは賀茂朝臣を名乗ったらしいだ
世良田氏を名乗ったのは家康の祖父の松平清康 賀茂氏を名乗ったのは摂津源氏の浦野氏、三河では室町時代あたりは足助氏って名乗った
これのみが源氏姓賀茂氏 摂津源氏ってか源経基王の二男、源満政が祖先やったね
この氏族が尾張、三河あたりに住みついたらしいだ
摂津源氏は美濃源氏だからそうだよな
尾張源氏ってのはこの満政の末裔 >>358
秀郷は藤原秀郷と呼ばれず俵藤太と呼ばれたんだと思うけれど、
利仁はなんって呼ばれたんだろう? 368
藤原っしょ
藤原北家魚名流やけ
まだ地縁は失ってない 平将門のもとに逃げ込んだ藤原玄明は鹿島玄明で、
藤原純友の副将だった藤原恒利は藤原恒利なんだよな。 高望王の息子のうち平国香は石田太郎。
平良兼を羽鳥次郎、平良将を豊田三郎といわず。
平良文のみ村岡五郎なんだよな。 つまりその土地に縁故ある場合だけその苗字名乗れんだね
新田氏は新田荘
里見氏は八幡荘里見郷、山名氏は八幡荘山名郷 足利が岩松氏に新田荘の管理権与えたろ
たとえ新田一族だろうが別の苗字を使った 義貞のときは義貞が新田宗家に養子に入ったからな
足利は足利荘に地縁なくなりゃ足利は名乗れない本来ならな 八幡源義家は八幡荘の領主だから八幡太郎義家
八幡荘縁故に連なる源氏らの聖地とも言える場所だから東国にいる源氏武将らはみなこの地に集まり進軍した場所 越後あたりにおける新田一族の統括権なんかは大井田氏が握ったから越後あたりにおける新田一族の代表格は大井田氏になるみたいなん 里見一族や山名一族は新田荘に領地持っていないのよ
だから大井田氏なんかも大井田新田とは名乗らずに大井田里見と名乗った 兄貴分で俺について来いて感じだけど隙が多いよね 政務は他人任せ
尊氏が結構負けてることとか南朝に一度降伏してることや
同母弟の直義の反乱とか順風満帆て感じではない 関東公方足利持氏のとき将軍足利義教が乗り込んできて持氏含めて家族ら皆殺しにしたろ
こん時から室町幕府と関東公方は本格的に対立していくよ〜になったんだね
里見一族の場合は南朝が活動していたころは南朝側として北朝勢力を駆逐するために活動している
そんで南北朝が終わっても戦っていたんだがやっぱり終わって所領なんかも失ったわけ
関東公方持氏の子の成氏が幕府と対立するよ〜になり里見の一族を味方に引き入れたんだよ
そのあと里見一族は成氏に仕え始めて古賀公方の家臣化していったの 上杉ってのは幕府方、今川もな
関東公方、足利成氏の命により里見一族は上杉方と合戦したりもしたわけ 新田岩松ってのはまったくの別行動
そのころは旧新田勢力は全て鎌倉公方の家臣団に名を連なるよ〜になった
岩松は新田を名乗りながらそのまんま存続した 関東足利と上杉が手を組んだときは当然、上杉とも手を組んだわけ
古賀公方は北条と手を組み始めたろ、謙信が関東管領を継いだころは御弓公方に仕え始めた
そんで上杉と里見で同盟したわけさ
安房里見は御弓公方足利氏を立ててるから関東副将軍を名乗った 新田義貞が継いだ新田本宗家は惣領家は途中で滅んだべな
義貞の配下の新田一門は中身はほとんど里見一門、残った残党らはすべて里見一門に他ならないんだよ
ややこしいのはここなんだよ
新田は岩松氏が継いだってことになってるが里見一族はまったく関係ない
だから里見氏らが岩松氏に味方することもないしな
そのころは関東公方足利氏の家臣団としての活動に移っていたわけ 新田一門は普通なら義貞のときあれだけ活動範囲が広いんだから伝承なきゃおかしいでしょ
でも里見一門の方が遥かに広がっている
当たり前の話なんだね
義貞の総領家が滅んだあとは残った連中らが名乗ったのが里見って名前なんだよ 足利一門はほとんど幕府の重臣らだろ
足利将軍家一足利一門
関東足利家一新田(里見)一門
て構図になっただよ
新田総領家は岩松氏が継いだ 足利一門はほとんど幕府の重臣らだろ
足利将軍家一足利一門
関東足利家一新田(里見)一門
て構図になっただよ
新田総領家は岩松氏が継いだ 徳川氏あたりが系譜にかなり絡んでくるからなあ
そのあとはご承知のように改易だのが多発
犯行主はま〜系譜的にやばい徳川氏らの犯行は明らか
つまり自分らの地位をおびやかす相手らを滅ぼしたわけ そのあと降って上杉派でもなく徳川派でもなく残るしかない
自分らの主張は彼らの滅亡に繋がるしかないからな 大河ドラマでも戦国時代ばかりだが
そろそろ南北朝をテーマに取り上げてほしい 平氏だってそおだろ
平家は平姓を名乗り続けた
平氏は地名を名乗った 河内源氏の場合は河内に所領があることが源姓を名乗り続ける条件みたいなもんよな
戦国末期まであそこは源姓畠山氏が配置された 頼朝のとこもそうだろ
河内源氏の棟梁を継いだってことは河内源氏の拠点を頼朝の家系が継いだから連中らは源姓を名乗った
新たな土地に移った連中も土着した連中らは源姓を名乗らず新たな苗字に切り替えた
初代あたりのみ源姓名乗るがな
苗字を名乗りだす場合は普通、新たに氏神神社⛩作るんだよ 新田氏の場合は新田神社作った
里見氏の場合は郷見(さとみ)神社を作った
つまり氏神がそれぞれ違うんだな
新田氏の祖は新田義重
里見氏の祖は里見義俊 群馬の場合、昔の神社は諏訪さん祀っていたとこ多いべ
これ武田信玄がその土地を支配した結果を表すわけ
諏訪の神を祀っているとこは旧武田の家臣あたりのやつらが支配した名残りなの 今では諏訪の神さんを祀るのから切り替えたとこが大半やに 逆 諏訪神社を祭っているところに武田が攻め込んだだけ
ちなみに諏訪神社が一番多いのは新潟県 上州合戦には武田の四男、勝頼が大将として乗り込んできただよ
そゆことか 406
源(みなもと)姓は頼朝のときに頼朝の子孫以外名乗るのを禁じる命令が全国に出されたの 公式には名乗れない
あくまで苗字の他に氏族として何に連なるか?ってのを申請するときに名乗った
だいたい朝廷相手にな
源氏なら将軍、平氏なら太政大臣、藤原は摂政関白って最高位がすでに決まっていたからな なにが?
それ以前は好きに名乗っていたんだよ源姓をな
ただし河内庄と縁故ないやつらは源姓名乗れなかったの
つまり京都あたりに地盤がある連中らしか古代にしろ名乗れない 名乗れる条件決まっていたの
摂津源氏の連中らなんかみな名乗っとるわい
頼朝は名乗ることさえ禁じた >>413
鹿ケ谷の陰謀に加わりその謀議を密告した行綱は源ではなく多田。 武田の祖先、新羅義光いたろ
朝廷に対する讒言なんかで義家の子供ら滅ぼして自分が河内源氏の棟梁になろうとした疑惑があるんだわ
そんときに新田足利の祖先、義国が義光を殺そうとした結果、義光は追放されたの
そんで関東にやってきて佐竹や武田氏の祖先になったと言われてるの
義国はそのあと義光らと合戦しながら東国に根を張った
河内源氏の惣領家は義家の孫の為義が継いだ 頼朝にすればもともと武田や佐竹って祖先の仇なんだよ 頼朝の祖先の家系は河内源氏の領地を継いだの
義国が関東の八幡庄を継いだわけ 頼朝は八幡庄には入れないから祖先の縁により鎌倉に住み着いたの
義光の子孫らは常陸、甲斐、駿河って初期はひろがった
義国の子孫らは八幡庄から新田開発などにより新田庄開発、足利庄開発って伸びた もともと熊谷氏(平氏)あたりは義家のときに家臣団みたいのに名を連ねていたでしょ
祖先が義家に従った平氏の連中らは頼朝の家臣とやがてなっていった 武蔵あたりの平氏の武士団はほとんど頼朝の家臣となっていったからな
後年、足利が武蔵の守護職に任じられたが源氏の本家みたいなんとして後醍醐帝から認められたんかもな 皇族から外れた皇子連中らが源姓を名乗り始めたが多くなりすぎて 初めはどっかの土豪のとこに養子に出されるんが多かったらしいがまだ増えすぎだから坊門に押し込んだんだわな 平氏は皇族から外れて一旦、貴族になってから地方の役人になって赴任したのが多い
それが平姓を名乗った つまりそれぞれの名乗りの経過が
皇子→源氏、皇子→貴族→平氏
ってんで区別した これで互いに源氏と平氏が生まれただ
平氏の方が一回、臣下に降りてるから源氏より家格は下がるわけ
これで差が付いた もともと藤原氏が摂関家の独占なっちまったが源氏からも摂関家出せたんだよ 公家社会きら離脱した連中らのが多いからその子孫らの大半が武家になっちまった 八幡神たる応神天皇を祀るのはだいたい
河内源氏の子孫らと坂東八平氏の子孫ら 平氏だからって八幡信仰がなかったわけじゃない
平家にはないけどな 清和源氏の一族でも摂津源氏は多田神社、光政の子孫らは加茂神社祀ってるからやはり八幡信仰じゃないしな 武田氏の子孫らは信玄神社作ったから離脱した可能性高い
もともと新羅神社だしな
八幡信仰する場合の縁組みは旦那が源氏で嫁さんが平氏ってのが基本 武田氏の連中らが土着したならまずは新羅神社を祀ったと思うんだよ
つまり新羅神社の名残があるのは義光の子孫ら 八幡信仰をした連中らの政治体系がもともと
大将はもちろん源氏、その嫁さんを平氏からだして
嫁さんの兄弟らが源氏の大将の義兄弟となりて戦った
この形 もともと諏訪信仰ってな信濃(長野県)の国宗みたいなもんだから信濃に縁があるならみな諏訪信仰だよ つまり越後あたりに諏訪信仰が多いならそっちが流れた連中らが多いだ 優柔不断と評されてるけど
そうとも思えないんだけどね 楠木正成が挙兵したときに幕府軍の一員として出兵したのが初陣? 尊氏も京都維持すらできんかったからの
天皇置かなきゃ別の勢力がすぐ占領する >>445
そこが初陣だね。高師直なんかも初陣かと 足利尊氏は不思議な魅力があるよな
色々と無関心なように見えてやる時はやる感じが意味わからん 足利尊氏は死ぬまで戦い続けた!って言われてるからな
最後は九州で反乱起こした足利直冬(尊氏の庶長子、直義の養子)を討伐に行く途中で死んだんだっけ? 京都の将軍家は息子の義詮が継いでいたから心置きなく自分から進んで戦いに赴き途中で死んだ
とにかく戦い続けた将軍てんで有名 まさに将軍として軍勢を率いるためだけに生きた武将(°▽°) 頼朝はどっちかっちゃ合戦は部下らに任せっぱなし
尊氏は自ら率先して合戦三昧 自分から進んで政治をとることもなかった
そっちは弟の直義に任せっきりでだから二元政治と呼ばれた
これが直義派と呼ばれる連中らを生み出しやがて観応の擾乱が起こった とにかく尊氏自体は合戦以外の行動には興味すら示さなかった こうして室町時代が始まった
尊氏以上に戦い続けた武将なんざ同時代にはおらん 政治家としては落第扱い
ってより政治やったこんないんだよ尊氏 一緒に合戦をやった連中らは尊氏派となる
ただし政治一切やらないから政治を実際にやっていた直義と協力していた連中らは直義派となる
この繰り返し 清和源氏だけ飛び抜けて広がったからな
頼信の起請文、満仲が本当に経基の子ならその祖となる天皇の名前を掲げりゃよいだろ
だが自らは応神天皇の末裔だって名乗ってるわけ
継体天皇も応神天皇の血は引いてるが本来は天皇になれなかった傍流の出なんだよ
わざわざ応神天皇の末裔だの名乗るかの? 京都あたりに姉が住んでる場合くらいしか人なんて言うこと聞かないからな 地縁が切れたら独立して動きだす
当たり前
母親じゃないんだよ 後醍醐天皇仁君説が有力になってきたらしいな
教わった内容と全く違っておもろい 九州に敗走してからの逆転劇
楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら名将を各個撃破
弟、直義に敗北から逆転して勝利
これらを見ると尊氏は信長とは違う凄さを感じる人だね
作家も表現できないような人物像、カリスマ性の持ち主 最後はもう一度九州下向をしようとするが果たせず混乱の残る中亡くなる
戦い続けた人生だったからか尊氏と伝わってきた馬上の肖像画の方が印象強い
作家が表現できないは言い得て妙
物語的な面白さはむずかしそう 468
昔は武将なんかにしろ自分の記録として文を書いて残したんだよ
そゆの集めたのがやがて編纂され物語りとして残るだ 南北朝なんかだったら互いに敵味方に分かれてそれぞれが残したりしてるわけ
足利方から見た太平記の記録
里見方から見た里見日記の記録
後醍醐の随臣北畠さら見た記録みたいなんがそれぞれあるわけ 編纂資料を集め残す許可は普通、大将が行うからな
太平記だったら足利直義も目を通したし義満の命により本格的な文献として残せって命令が出されてるからな
主に僧侶らに対して命令を下し書かせたらしいぞ だから日本初期なんかもあるだろ
それが書かれたころには日本にも仏教が入っていたわけ
天武天皇なんにしろ文を書ける連中らがいたから編纂の命令を下しているわけ 里見氏から見れば里見義貞が新田本宗家に養子に入ったから新田義貞となったなんてのは当たり前
足利方からは義貞は新田の義貞としかならんが
里見一族から見れば里見一族の大将、里見義貞だから義貞の呼称も里見義貞となるの >>465
Wikiの受け売りや
以下の本は読んでない
[注釈 4] 後醍醐天皇の歴史的実像を知る上での入門書としては、政策面では、日本史史料研究会・呉座勇一編『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(洋泉社、2016年)[8]、人柄の面では中井裕子「後醍醐天皇」(『室町・戦国天皇列伝』所収、 戎光祥出版、2020年)[9]などが挙げられる。 日本で一番人気のある信長と比較することで
尊氏の凄さが分かるんじゃないだろうか >>477
直接対決なら信長かもしれないが
謀反で殺害されてないし大将としての器は尊氏でしょ 楠木正成も破った尊氏が信長に負ける要素が見当たらない 無理無理、尊氏ごときは所詮どさくさに便乗した逆臣に過ぎない
肖像画さえ他人の流用という厚顔無恥の日本史のゴミ 尊氏が正成や義貞を破ったのは
信長の時代で言えば信玄や謙信あたりだろうね まー、足利氏って明治維新の時木像が首切られてるし、江戸時代にはもう逆賊イメージができてたんだよねw
大日本史は南朝政党論だし、新井白石や頼山陽も尊氏は裏切り者というので悪口ばかり書いてるしw
尊氏が評価されている史書と言えば、やはり梅松論くらい?あまり知られていない歴史書だよねw 尊氏が逆賊なら、悪天皇の後醍醐天皇が肯定されてそうで怖いな。
悪い君主は排除されて然るべき。そしてそれを行った尊氏が非難されるのはおかしい 幕末明治大正も尊氏は人気ない
最近は南北朝の本も売れてるし
むしろこれから人気がでる人なのかも 強いってイメージ無いんだよな
最後は庶子にやられた傷で死んでるし ヅラスガ「強盗キャンペンでアベコロナ推進ぢゃ!よっしゃ、よっしゃあ」 確かに戦に強かったみたいだけど
直義、道誉らがいなかったら将門級の逆賊で終わってたよな >>494
歴史にIfはない
尊氏はなんだかんだでうまく乗り越えてる 日本の南北朝時代は三国志のキャラとかぶる。誰かこれを元にシナリオを作ってほしい
足利尊氏→劉備 将の器あり。戦上手の劉備
足利直義→孔明 几帳面な孔明、直義派が存在するのでカリスマ性はある
高師直→?統 天才軍師ながら女や欲に溺れる面あり
高師泰→?徳
佐々木道誉→関羽 風流を愛するバサラ関羽
土岐頼遠→張飛 大酒飲みの猛将
赤松則祐→趙雲 品行方正な優等生
吉良貞義→黄忠 元寇と南北朝を経験した老将
後醍醐→曹操 軍事的才覚は曹操に劣るが教養人としては互角。カリスマ性もあり
護良親王→曹彰 父に疎まれる野蛮な面あり。
新田義貞→袁紹
楠木正成→孫堅 一方の勢力。
楠木正行→孫策
楠木正儀→孫権
北畠親房→馬騰 策士家の馬騰
北畠顕家→馬超 義に厚い馬超。東北の騎馬と涼州の騎馬 尊氏は頭はいいが優柔不断ですぐやれないタイプ、ADHD系とみた 500
頼朝も数人の家来を連れて暴走半島に落ち延びているし尊氏も船で渡って九州まで落ち延びたんだぞ
従う家来らはいいとこ10人くらいや そんで向こうに渡り味方となる者らを募るわけ
尊氏の場合はまず九州の少弐一族らが迎えて味方についた
南朝方は阿蘇を拠点とした菊池一族やな
それと合戦して勝ったあとに勢力が膨らみ20万人近い西軍を指揮して京都まで駆け上がり占領した もともと北条氏あたりも西国に勢力を伸ばしていて九州探題軍てのが生きていたからそれが尊氏の味方についたんだな この九州探題軍の生き残りがやがては尊氏×直義のときに直義方について尊氏に反乱を起こした
その頭目となったんが直義の養子の直冬やな
やがて九州探題軍と京都尊氏軍の間で和睦となった
少弐は直冬を追放してやがて直冬は九州で斬り殺された
その代わりに九州探題として室町幕府の命令により九州に入ったのが今川了俊
この人が南朝方の兼良親王勢力をやがては滅ぼし九州を平定した
高麗からあった倭寇対策なんとかしろや!😀って朝鮮のワガママを聞いてやり倭寇対策にも乗り出してやった 当時の九州の兵で尊氏は大軍になった感じだけど
実数は1万2万ぐらい? 九州全域、四国、瀬戸内水軍、山陰、山陽まで加わったんだけど🙃 だから西軍て書いたろ
頼朝の時代に中国を監視するために配備された島津一族や九州探題軍の少弐、大友まで全部な 細川の四国方面の活躍はあまり語られないね
尊氏と同時期に四国に攻め入り平定しただけに
もっと評価されていいはず
この時点で尊氏の西軍と義貞の東軍という形になり
まさに西軍と東軍の激突だったんだな ほんとバカは歴史知らないんだな
鎌倉幕府によって奥州探題、六波羅探題、九州探題が設置されてんだろがよ
九州島津は中国方面監視のために配置されたよ〜なもんやぞ
足利将軍の時代も中国船などの行き来の情報は島津から足利将軍に届いてるだろ なんだその評価ってのは?
天皇中心史観がそもそも間違ってるしてめえらバカか? 足利尊氏の不屈の精神力には驚かされる。あの精神力の源泉は一体何なのか。後世の織田信長
と同じような自分の正しさを信じる力のようなものがあったように思える。何か超一流のギャンブラー
のような蘇りと不屈の強靭さがあるね。 >>520
後醍醐天皇が吉野で朝廷を開いたあたりで直義に実権を譲り引退してたような時期もある
その後の高家と直義の対立で表舞台に出てくる 週刊少年ジャンプで連載開始!
https://www.shonenjump.com/j/rensai/nigejozu.html
魔人探偵脳噛ネウロ」「暗殺教室」の松井優征が少年ジャンプに帰還!
最新作は史実を描く逃亡譚!鎌倉と室町の歴史の狭間で、誰にも物語られたことのない逃げる英雄がいた――。
その名は北条時行。足利高氏によって鎌倉幕府を打倒され、家族も地位も失った少年は、地の果てまで逃げ延び復讐を遂げられるか! >>522
北条時行だったら足利直冬の方が主人公にしやすいと思うが
なぜ時行になるのか >>526
頼朝と義経の例もあるが
この二人は子供の頃は一緒じゃなかったから、やや関係は疎遠なんだよな
対して足利兄弟は母親も同じで仲良く少年期過ごしてるだけに
この争いは立ちが悪いw >>1
足利尊氏の強さの本質は、何回負けてもいつの間にか
敵を上回る大軍を組織して、逆襲することなんだよな。
正直、足利尊氏は戦闘では何回も負けているだろう? >>530
だと思う。
とにかく足利尊氏は何回も負けているからな。 >>529
いつのまにかって尊氏は味方につけるためなら恩賞を弾んだからな
お陰で室町幕府はいつも金欠
守護大名のほうが金持ちだった >>532
尊氏がそこまで考えていたのかどうかは知らんが、
室町幕府の大名操縦方法は内輪もめを起こさせて、
仲裁することを繰り返すのに対して、
徳川幕府は法治主義で有無を言わさず取りつぶしをすることで管理していたからな。 尊氏は中世日本の超大物なのに頼朝、家康の間に挟まれてるから影が薄い >>530
尊氏自体は曹操を評価してたみたいだけどな 週刊少年ジャンプでは、足利を何度も追い詰めた北条町時行すごいという筋書きだろう
ただ裏返せば、何度も追い詰められ、京都や鎌倉、果ては擁立した天皇上皇を奪われても、足利の天下は覆らなかったという底堅さが足利の異常な強味といえる >>537
北条時行は史実では最後は捕らえられて切られるのだけど、
ジャンプ的にはどうケリをつけるのだろうか?
これがビッグコミックならそういう結末もありかもしれないけど、
少年ジャンプだろう?
いくら中世ブームと言ってもなぁ。
ガキに中世の魅力なんてわかるのかな? >>538
伊勢に逃げたのでは?という流れの後北条へつなげる予感。あくまでジャンプ的な結末をという意味でご容赦を。 >>533
尊氏には守護大名を取り潰すだけの力がなかったんだよ
反攻勢力の息の根を確実に仕留めてから死んだ家康と違って
義満頃まではずっと内乱続いてたし 結局のところ武士が担ぐ神輿として
足利尊氏以上の人がいなかったんだろうな
北条新田同じ足利の直義よりも尊氏を担ぎたがったから
何度負けても生きていれば尊氏についていく 筑波山の麓、常陸国伊佐庄中村(下館市)から中村常陸介念西入道が子息らとともに伊達に下り、氏を改めて伊達氏を名乗ったのをはじめ、
相馬・蘆名・結城・二階堂・伊東・長沼の諸氏は一族または家人を地頭代として奥州に派遣し、新しい所領を経営した。
これらの諸氏はみな関東地方に本領を持つ豪族であり、家督が子息・一族郎党を引き連れてその主力をいち早く奥州に移した伊達氏を例外として、
ほとんどが鎌倉後期(南北朝期)まで関東の本領に住したのである。
(『福島県の歴史』山川出版社) 鎌倉では、平泉の再興を阻止する東北非政治化がその政策の基調であった。奥州総奉行を置きながら、これを単なる中継機関程度にしか扱わず、
やがてこれを鎌倉直轄としたのも、そのことを示していよう。
それともう一つ、鎌倉時代には、地頭の生活の本拠は関東=鎌倉にあったから、彼らが東北武士として働くことはほとんどなかった。
(『宮城県の歴史』山川出版社) >>547
無敗ではないだろう
負けると全滅する前に逃げて再起、その判断力がなかなかのもの >>537
あの時点で鎌倉を直接滅ぼしたのは新田だし
後醍醐が敵のトップなんだから
尊氏よりも新田や後醍醐が天下とると思わないとおかしい気が いやほとんど無敗だろ
だって負けたのは二つもないだろ? 家康が大河の主人公でがっかりしてる人が多いようだが
幕末、源平と2年続けて戦国を扱わないから
必ず3年目は戦国を扱うと思った
真田丸や女城主では家康は裏の主人公とも言えたので
また家康かと思ったが最近の大河では家康人気が上がり秀吉は落ちてる感がある
それでは4年後に南北朝と言いたいところだけど、やっぱ難しいかなぁ 半万年続くチョンコの伝統職
〃⌒⌒ヽ、 お兄さん遊ばな〜い?
( ノハヾ ゝ(同胞の9cmじゃ物足りないの)
<`∀´*> ノ 安くしとくニダよ〜!
m/^〜し~ (あとで謝罪と賠償を請求するニダ)
(__/ / ウェー、ハッハッハ
ノ~ ̄\___
| γ⌒) ノ
| γY レ^つ
|〃 .|、__/
`| |
. | |
(__シ 兄弟でいえば秀吉兄弟が最高か
その次が足利と思ったら頼朝兄弟も強いか >>557
武田弟っていまいち実績がわからないけどね ┌―――――┐
│ ∧在∧ │
│ <=(´∀`) .│ 「なりすまし」に
│ ( ).....│ ご注意ください
└―――――┘ >>562
つい先日まで土曜朝にやってた
やっぱ直義殺すシーンは良かったわ . ¶ (´⌒;;)
|| llll 馬鹿チョンコ!
|], ∧日∧ 糞食いや糞酒なんて止めろ!
|] (`ω´# ) 大日本帝国民になりたいんだろう?
人 [||と // )
(._ ). Д | | |
(__ ) (_(_.)
。゚<;゚`Д⊂ヽ
( ) ウリの唯一の楽しみを奪う日帝はなんて酷い奴等ニダ!! アイゴー!!
でも日本人名カッコ良いから名乗りたいニダ
1,200年も奴隷国家だったから宗主国風の名だったニダ
アイゴー! アイゴー!
∧_,,∧ アイゴー! 。 ∧_,,∧ 。
〃,<;∩Д´> :∧,,_∧: < ゚`Д⊂ヽ
/(_ノ ィ \ :<、 ⌒ヽo: ( ノ
⊂こ_)_)`ヽつ :(_,,ィ、__つつ ム_)_) 〜1910年
∧支∧
( `八´)
(  ̄|| ̄) ニ∧_∧ <ははぁ!宗主国様〜
| ̄.| ̄| <`∀´ ;>⌒)
/__l _ゝ = と と_(_つ
1910年〜1945年
. _
,,'⌒丶、 ,,'⌒丶、. |●|
ゝ☆==> ゝ☆==>| ̄
( ´∀`) ∩<`∀´ヽ>∩<今日からウリ達も一等国民ニダ!
( ~=|=) > く 大日本帝国万歳!
| | | ( <⌒)ノ
(__)_) ヽ,_,フ
1945年〜
| ̄ ̄|
_☆☆☆_
( ´_ゝ`) ∧_∧ <ウリ達は無理矢理イルボンに
( ω )<`д´ヽ> 併合されたニダ!
| | | ⊂ ⊂.) 本当は戦勝国民ニダよ!
(__)_)(__と_) 尊氏を本州から蹴散らした北畠顕家の軍勢は太平記という聖書よりも正しい記述を除くとしても
ガチの大軍だったんだろうな 北条「六波羅探題たのんだ。」
高氏「ちっす。」
後醍醐「僕朕と組まなーい?」
高氏「ちっす。」→六波羅撃破
後醍醐「僕朕の字あげるお。」
尊氏「ちっす。」
尊氏「失礼するっす。」
後醍醐「うわあああん」→島流し
楠木・新田「てめえふざけてんじゃねーぞ!」
尊氏「消えろザコ」→撃破
尊氏「俺将軍♪」 夢窓疎石「尊氏?あいつはおれがマインドコントロールしたよ」 日本中(正式に朝敵)と世界中を敵に回しても生き残った長州の元勲最強でよくね? >>575
冷静に考えれば西欧列強を敵に回し
国内では朝敵
よくここから逆襲できたもんだ >>578
それでいて尊王攘夷!!と叫びそれを(日露戦争、不平等条約解消を)やり切った山縣有朋は日本史最強の男。
尊王攘夷運動やってた志士はだいたいやる前に死ぬか失脚している。
一方山縣は中枢に居続けた。色々言われるし言っていいが。
まあ後醍醐天皇による怨念のお蔭でもあるわなw
それによって尊氏を国民の朝敵にした長州の元勲、山縣最強でいいだろw 山縣有朋が90歳ぐらいまでいきてればなぁ
昭和の日本も変わっただろう 南朝の執念のおかげで明治維新、不平等条約解消ができたし近代国家になった
名君・明治天皇はそのことがわかっていた
そして自分が北朝ということ以外完全に南朝に降伏した状態になった
その象徴が皇居前に鎮座する楠木正成像
そして尊氏は国賊になった
しかし南朝の精神を大切にしていたら滅びの時がくるがそれ防いだこれも名君の昭和天皇
昭和天皇は明治天皇と違ってかなり後醍醐天皇のことを警戒していたのは割と有名
そしてそれを教えたのは旅順で大損害を出し悔やんでいた乃木希典で昭和天皇の教育係
そういう背景があるから2.26事件で将校にブチ切れおれ自ら殺してもいいとなったし
第二次大戦で国民総出の湊川の戦いをやらすわけにはいかないとなった
これは尊氏が北朝を守りぬいたおかげだろう
まあ尊氏は後醍醐天皇も好きなんだけどさw 皇居前の正成像のとなりに尊氏像立てないかな
いい塩梅だと思うんだが 明治〜戦時中の尊氏の扱いってやっぱ国賊だったの?
楠木・新田が忠孝の雄だもんね。 上は尊氏って結構いい奴じゃね?って言った大臣のクビが飛んだり
下は子供が尊氏の墓を壊したりと正真正銘の国賊だった 日本史上最大のイデオロギー闘争
日本史上最強のポリコレ
それが南北朝正閏論だった
それに比べたら日本での社会主義とか鼻くそ 楠木正成と足利尊氏がそれぞれ5万の兵を率いて戦ったらどちらが勝ちそう? カリスマ度というかリーダーシップがあるのが尊氏だからな
その度合が同じくらいなら余裕で正成でしょう
幕末でいうなら西郷と大村みたいな 歴史人物の話ってたまに刺し傷とか感じるときあるよな 楠木正成ってゲリラ戦には優れているけど大軍を率いての野戦での実績はないんじゃないの? 君主:光厳天皇
大将:尊氏
参謀:正成
これなら最強 やっぱ皇居前の正成像の隣に尊氏像立てたら最高だろ
正成、尊氏が守るならまず滅びることないww 生涯の移動距離は5000kmらしいな
https://www.youtube.com/watch?v=hnX6E5Uq0dk
南北朝は基本的に移動距離がキチガイ
南朝方の北畠顕家も新田義貞も 戦国時代は勢力均衡の時代だから
南北朝みたいな異常な移動できないもんな
現地調達も横行
顕家が秀吉よりも行軍が速いのもそういうこと
戦国時代って国際法的な戦時と平時等の区別あるし
現代の戦争から見ても遥かに文明的
まあ戦国初期までは室町の野蛮な名残りはあったけれども >>604
>顕家が秀吉よりも行軍が速いのもそういうこと
たしかに速い、途中に味方の国があったからかな 顕家、正成、義貞を討ち取った足利が凄い
こいつらを逃せばしつこいからね 後醍醐天皇のおかげ
味方なのに足利方より怖いからなw 後醍醐天皇はあんなもんでしょ
九州から来た尊氏軍が多かったんじゃないかな 湊川の戦いの戦力差って想像の域を出ないと思うが
どれくらいあったと思う? なんでこういうスレって>>1がIDコロコロしながら一人で書き込み続けてるの? 後醍醐天皇は頭悪いよな
後白河天皇みたいにキチガイのふりした怪物政治家みたいに立ち回ればなー
途中武将同士の潰し合いみたいなそういうところまで行ったけど
やっぱ頭悪い
せっかく天皇を表立って殺したりむやみにやたらに潰したらいけない不文律あるのに >>604
この頃は領国経営や大名の存在がないからじゃね
各国に守護、国司、地頭らが乱立状態で権力分散しててまとまった勢力がないし
大軍連れてけば障壁なんてないも同然
軍隊も国単位じゃなくて一族郎党だしね
例えば足利の場合全国に散らばった一族を招集したわけで戦国みたいに領国単位で構成されてないよね 足利の時代は日本の分岐点だわな
それと比べると徳川の時代はそーでもねー 尊氏カリスマ論ってあるけどカリスマではないよな
何回も戦場に死に掛けてるし前線に立ってるのがカリスマ?
実際はカリスマというよりキャプテンシーがある人というのがより正しいだろう
まさに棟梁にふさわしく修練を積んだ大工の棟梁のごと
だから「終わった!自殺するわ!」ってなっても人望があるから援軍が来る
本物のカリスマというか日本史最高峰のカリスマは後醍醐でしょう
「朕のために戦ってこい!死んで来い!」で自分は安全な場所いたんだから
これだけで14世紀で数万人も動員できるってとんでもないぞ
尊氏だって後醍醐のカリスマに畏怖して直で潰すことはできなった
それどころか崩御しても祟りがあるぞい!とびびり霊を鎮めるため
全国に安国寺利生塔立てまくった
(鎌倉、建武、南北朝、室町と全時代で勝ち組だった夢窓疎石のいいカモではあったけど)
実力主義と神秘主義ともいえるが >全時代で勝ち組だった夢窓疎石
全時代で勝ち組とはどういうことですか? 北条高時、後醍醐天皇、光厳天皇、足利尊氏、直義ならびに足利一門、他多数の権力者を弟子にし帰依された勝ち組のお坊さん
尊氏みたいなメンヘラは最も洗脳しやすく足利の金で全国で公共事業させて勢力拡大
ついでにモンゴル人の金で天龍寺を建てさした >>623
人物として人柄のよさもあったんだろうか
戦国時代は夢窓疎石ほど有名な人はいないしね 後醍醐のどこがカリスマ?
太平記には後醍醐帝は徳がないから民衆の人心が離れて
民衆の人心掌握を果たした尊氏に負けたと書かれてるぞw 後醍醐のどこがカリスマ?
太平記には後醍醐帝は徳がないから民衆の人心が離れて
民衆の人心掌握を果たした尊氏に負けたと書かれてるぞw 後醍醐についていく奴もいたからカリスマはあっただろう あのう楠木正成が民衆の人心は尊氏に移ってるから我々は負けると後醍醐に直言してるんですが? 後醍醐が当時の民衆から好かれたことなんかねえだろ?
ここらへんは足利尊氏は上手かったよな 太平記には後醍醐天皇は徳がない暴君だと記されてるぞ
なんでこんなものが戦前の日本には人気あるんだと? 魔力があるだけで別に人気というか評価は高くない
南朝正当論者のありふれた認識は楠木などの臣下は「よく頑張った」という評価で
「ご、後醍醐天皇はちょっとね・・・」というだいたい太平記の評価通り 魔力がある・・・その表現があってるよホント
後醍醐天皇はカリスマあるよ ってか尊氏自身が後醍醐天皇大好きだからな
崩御してもなお慈しんでいたのが尊氏
ってか後世で南朝正当論が復活するのって尊氏の後醍醐天皇対する愛のせいだろ 天皇権威と真っ向勝負しても圧倒的に支持されてしまう
足利尊氏と源頼朝は超カリスマだったんじゃないでしょうか? 太平記には後醍醐には徳がなく民衆から嫌われてたとしか書かれていない 結局は明治政府の天皇絶対神聖化で
朝廷と全面戦争した室町幕府と北条得宗家は極悪人にされて
朝廷を抑え込んだ徳川幕府も暗黒時代にされたのよ 頼朝はカリスマ、尊氏はキャプテン
梶原景時が義経あいつヤバいっすよ。どうしますか?とお伺いを立てた時に
頼朝公は扇子をパッと広げニヤリと笑われた
これでずーっとついてきた武将や兵隊が義経を見捨てて義経死亡w
これが本当のカリスマ
キャプテンはおまえら行くぞ!と率いる(義経、織田信長もこれ)←少年ジャンプの世界
カリスマはいってらっしゃいと見送る(後醍醐もこれ)←教祖様の世界
一方上杉謙信はどっちもいけるしどっちも一流w 尊氏は勝った相手にも同情して徹底的に追い詰めなかったから、
自分が負けても目こぼしされ逃げることができ再起できた 源頼朝→足利尊氏→徳川家康
三大幕府の三大開祖
俺は真ん中が一番好きだ 実は足利尊氏こそ日本史上最高のカリスマじゃねえか?
倉山満も足利尊氏のカリスマ性は群を抜いてるといってる 足利尊氏は後醍醐天皇に反抗する気なかった
つまり室町幕府を開くことは当初考えてなかった
反抗する気なかったのに結局は反抗した
幕府開く気ないのに結局開いた
結構行き当たりばったり それでも天皇相手に勝利したのはカリスマだったからよ >>648
そういや源頼朝も尊王攘夷派からは評価低いんだよな >>652
3人とも尊皇派からは朝敵扱いにされてる 2人とも源氏なんで元はといえば天皇に繋がる
徳川さんも源氏らしいが本当かどーかしらんw >>659
家康が頼朝を崇拝してたのは有名な話だが
尊氏はどう思っていたのか? 江戸以降尊氏国賊論が盛り上がる
そして国賊にした決定打を加えたのは日本史最強の男・山縣有朋 これみなかねての
覚悟なり
何を嘆かん
今更に
さはいえ悔し
願わくば
七度この世に生まれ出て
憎き敵をば
ほろぼさん
さなりさなりと
うなづきて
みなもに消えし
湊川 汝をここより
返さんは
我が私のためならず
おのれ討ち死になさんには
世は尊氏のままならん
早く生いたて
大君に
仕えまつれよ
国のため 立ち上げる×起こす〇興す〇設ける〇発足する〇
たち(<たつ)」は自動詞であり、「あげる」は他動詞なので、自動詞他動詞の混じった、文法的に異例な語。
自動詞「たちあがる」を他動詞化したものであろう。
コンピューター用語"boot up"の訳語として、情報産業業界で広く用いられるようになり、
1990年代半ばからビジネス俗語として広まり、現在では新聞記事や学術論文にも用いられるようになった。
黒歴史 14世紀は中国は明の建国、朝鮮は李氏朝鮮の建国
そして日本は南北朝と同時に政権が変わった
唯一の時代か 江戸時代は徳川が新田の子孫を自称したため人気ないし
明治大正も後醍醐天皇に反した為人気なし
現代も複雑すぎて司馬が作品にするには難しいと述べてる
ネットの登場でやっと少し人気が出たってところか 江戸時代の、喜連川藩足利氏は、
足利尊氏以来の圧倒的な強さと格式を引き継いでいた。
江戸時代を通じて、真の征夷大将軍は、
喜連川藩足利氏であると公言し、
藩の家臣たちは、管領や四職よんでいた。
室町幕府の再興目指して幕末まで活動していた。
足利尊氏の強さを語るならまさに、この話まで語るべきであろう。 >>655
尊氏は鎌倉幕府が滅びると
先んじて征夷大将軍になっていた護良親王を
阿野廉子から後醍醐天皇に密告させて闇に葬り
中先代の乱の鎮圧に兵を出せというなら
征夷大将軍にしろと後醍醐天皇に直談判
最初から征夷大将軍になる気満々だよ >>695
義満出てくるまで尊氏に従わない反乱分子だらけだろ
結構負け戦多いしな 初代の尊氏から幕末動乱であるw
記念すべき最初の幕末志士第1号が高師直くん 北畠はよく伊勢の守護になれた
南朝側では唯一じゃないの? 尊氏の強さは戦の強さよりも謎のカリスマにある
短期間に2度も京を失陥して九州まで都落ちした時も何故か殆ど家臣団に離反されず
多々良浜の戦い以降は朝廷に付きがちな西国武士達の圧倒的支持を受けて入洛している
地方に左遷されても
戦いに負けても
最後に天下を取る尊氏はまるで劉邦 尊氏が北朝光厳上皇から錦の御旗を受け
こちらが真実の朝廷軍だと宣言したからだろ
太平記にもそう書いてある >>704
御家人の土地を元弘以前に戻したってのもあるけどね
太平記はソースとして信頼出来んのかな
軍勢80万騎とか当たり前のようにかいてあるし >>703
尊氏は西郷に近いものがあるんだろう
劉邦に似た面もある >>705
尊氏が東寺に陣を置いて光厳上皇を自軍に迎えたのは一次史料で確認できるが
何を言ってるんだ >>711
光厳上皇の事じゃなくて太平記が引用元として不適格だって言ってるんだが
ちゃんと文章読んでくれ >>712
尊氏が北朝光厳上皇から錦の御旗を受け
こちらが真実の朝廷軍だと宣言したのは
史実として正しいから
太平記の部分だけ削れば問題ないな 光厳天皇って後醍醐天皇と違って賢いよな
後醍醐天皇の圧倒的な存在感に隠れるがもっと注目されるべき天皇 日本版劉備に似てるのはヤマトタケルノミコト、西郷隆盛 二千年以上変化していない人類史の構造
インフレ目標とホロコースト→ 古代の現象も分析可能!!
公僕はちゃんと去勢しろ。
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/sisou/1628655514/ >>12
その書き方だとタケカワユキヒデが糞になっちゃう… 尊氏は家格が抜きん出てたからだいぶ得してるよ。当時はまだまだそれがものをいう時代ではあったし。もちろん尊氏がいろんな意味で優れた武将だったことは確かだが。 尊氏の周りってクセのあるヤツ多いよな、高師直とか佐々木道誉とか… 中先代の乱、本が出て知られるようになった
つい最近TV番組まであった 頼朝は義経がいなかったら平家を倒せなかった
家康は信長が搗いて、秀吉が捏ねた天下餅をくすねた
征夷大将軍らしいのはやっぱ尊氏
九州大返し、そして湊川の戦いで大勝利とかロマンやん 尊氏は護良親王のいなかったらダメだったじゃん
それは建武政権の後醍醐天皇もそうだけど 誰かがいたおかげで天下が取れたなんてのは
みんなそうなるだろうね 足利成氏も危機に陥ると必ず援護者が現れて反転攻勢に出ている
足利子孫の中でいちばん尊氏に近いのは成氏だと思う >>734
足利尊氏の子孫である上に、足利尊氏が強かった証でもあるやん 第2代の古河公方・足利政氏の子である義明は、兄の高基と対立して出奔。上総真里谷城(千葉県木更津市)主の真里谷信清の支援を受け、下総小弓城(千葉市中央区)を占拠した。以降、義明は小弓公方を自称する。
天文7年(1538)10月、義明は北条氏綱と国府台(千葉県市川市)で戦った。この戦いで、義明は弟の基頼、長男の義純を失い、自らも討ち死にした。その後、家督を継いだのが、次男の頼純である。
国府台合戦後、頼純は安房里見氏の庇護下にあった。その後、頼純は里見氏の家督争いに巻き込まれたが、天正18年(1590)の小田原征伐後、小弓城の奪還に成功したという。
やがて、頼純は足利家の血筋を引くこと、娘の鳩子が豊臣秀吉の側室になったので、嫡男の国朝に下野喜連川(茨城県さくら市)に400貫の所領が与えられた。頼純が亡くなったのは、慶長6年(1601)である。 喜連川藩の歴代藩主も、足利尊氏のDNAを引いてるんだから話題にしても良いだろ いや俺は、ただ足利尊氏と言うことを考えるとき、その子孫に与えた影響まで考えていいと思うから、喜連川藩の話をだな まぁ喜連川藩の話まで含めて話をしてもいいだろ
全然、他人と言うわけではないし 足利尊氏 英雄になり国賊になり戦後は界隈でしか注目されなくなった
楠木正成 国賊になり英雄になり戦後は界隈でしか注目されなくなった 喜連川家は足利尊氏の次男が祖となっているらしい
ここで話題になってる強すぎる足利尊氏、そしてその子孫たち >>752
足利惇氏は東京府立中学から同志社大学卒業で学習院じゃない wikiみた。以下引用
関東公方系足利氏で旧喜連川藩家の足利子爵家当主。先代当主足利於菟丸と後妻ヒロの長男。前名・惇麿。妻は有馬頼寧の次女・澄。父の隠居に伴い、1935年(昭和10年)12月2日に子爵を襲爵した[3]。死後、甥(惇氏の弟・宜麿の長男)の足利浩平が足利家を相続した。
喜連川藩の家系か 傍系の宮原家は尊氏子孫だが喜連川は途中で水戸コ川家の養子いれてんじゃん 惇氏さんは学習院で南北朝時代の授業になると、周りの子らの視線が痛かったそうな
尊氏は最高峰の国賊だったし 楠木正成と佐々木導誉は当時の武士道では変わりモン
正成は裏切らなさすぎ、導誉は裏切りすぎ
尊氏くらいが中世の武士道のスタンダードじゃないかな 高蛆は
北条を裏切った、後醍醐天皇を裏切った、北朝を裏切った、弟を裏切った、息子(庶子)を敵にした、家来を裏切った
日本一の裏切り者と言えるだろう 尊氏も普通に裏切るからそりゃ国民国家できる時に
楠木正成を模範的なモデルにするよね
さすが近代日本の尖兵になっただけある
中世の武士道じゃ国民国家を否定するというか作れない
あの時代じゃ皇居前に尊氏像なんて教育に悪すぎる
ただ尊氏をモデルしたら逞しい日本人が育ちそう笑 後醍醐天皇と南朝一筋の楠木正成
裏切りしまくりで権力を握った足利高氏
明治政府が、どちらを祭り上げるかは一目瞭然
足利高氏は国賊扱い 時を越えて江戸時代、尊氏の魂が引き継がれた喜連川が注目されるのか 嫡流系の足利義昭の息子は江戸時代初期に生きていたのに出家させて取り立てず
傍系も傍系の小弓公方の末裔を取り立てたのが喜連川
そして現在の血筋は水戸徳川の流れ
江戸時代は喜連川を名乗っていたのに明治になって自由に苗字を決めていいとなったら
足利を名乗りだす 徳川家康「まあオラも新田義貞の末裔で、さらに元は源氏、さらには元皇族にたどり着く高貴の出自じゃがな!」 新田は源氏だから元は源氏って言い方は違うな
にしても家康の征夷大将軍につくためのしょーもないウソが
南朝正統論の呼び水になって末代の徳川幕府終焉に響いた 太平記の主役は足利尊氏でも楠木正成でも後醍醐天皇でもない
高師直こそ主役なのだ 太平記の時代、室町はキャラが個性豊かすぎて戦国がキャラ薄く感じる >>774
でも、戦国時代をテーマにしたゲームはいくらでもあるのに、
太平記をテーマにしたゲームは存在しないじゃん。 足利尊氏と源頼朝は正反対
敵対していない兄弟まで殺した頼朝、敵対してもなかなかできなかった尊氏 頼朝はちゃんと芯のある政治家だからな
尊氏は後醍醐天皇も弟も好きなのに、最後殺し合う
意志が弱いことは尊氏の行動を見ればわかるし >>775
南北朝は昭和にも影響ある時代だからなー戦後はなー
江戸時代、近代は滅茶苦茶人気ある時代だよ
楠木正成なんか近世、近代最大のヒーローだし
太平記なんて日本近代のバイブルだし
その時代にゲームあったら南北朝、室町時代は人気間違いなし
三國無双の正義の蜀が憎き尊氏、高師直を討てるゲーム性は流行るだろw それこそ忠臣蔵は江戸時代中に流行していたが
あれは演義として親しまれていて設定は南北朝。正義の楠木正成が高師直を討つって話
実際大石は当時から楠木正成の再来だ!と言われていた
まだ当時は公演を行うには検閲があったので吉良の役名が高武蔵守師直とおもっくそ高師直w
で武蔵といえば徳川のお膝元なので幕府の悪政批判でもあった
しかし師直はガチで武蔵守だったから検閲を逃れるw
悪政を敷く武蔵の支配者が討たれた〜!ざまあみろ!って庶民の溜飲が下がる物語だった
まあ今になってよく批判されるのは良くわかるが流行った背景がわからないと 最近吉川太平記読んだんだけど
尊氏=優柔不断の印象の方が強い 吉川英治の私本太平記読んでみ。
考え方めっちゃ変わるで 足利将軍家の男子は、家督争いを避けるために、嫡子以外は仏門に入れられ生涯独身だったので、男系子孫が簡単に絶えてしまった。
男子を仏門にいれず分家させておけば、足利将軍家の子孫は残っていたかもしれない >>776
当時母親が違えば兄弟でも幼少期は別々で他人のようなものだ
頼朝が粛清したのはすべて異母弟
同母兄弟の尊氏・直義とはかなり親愛の情が違うはず
もし土佐で敗死した同母弟希義が生き延びて
頼朝と合流していたらどうなっただろうか 尊氏は実の息子の直冬を、まるで仇敵のように憎悪していたけどな >>761
裏切ったのは後醍醐の方。
公家に有利な制度ばかり行ったのだから。
武家の棟梁としては黙ってられないに決まってるわけで。 今では常識だが後醍醐は公家も冷遇した
だから公家にも不評だった
後醍醐は自分の好き人を優遇したいってだけ
南朝の親分・北畠親房も建武の新政が始まって
公家の世が来ると思ったらまた武士の時代にと嘆いたほど 北畠顕家の上奏文は絶対実現できないと分かったうえで書いた遺言書だろう こういう時代を経て、その精神が喜連川藩に引き継がれていくんだね >>793
武家の世でいいなら鎌倉幕府でよかったのでは?
尊氏は都合のいい時だけ後醍醐や公家たちにすり寄るから一貫性がないんだよ
武家の棟梁でもないし ゴダイゴの祟りを恐れて、氏は天竜寺をたてた。
祟られるようなことをしてきた自覚はあるようだ。 氏は戦前日本において、謀反人・逆賊の代表格として忌み嫌われてきた。若い頃に氏を称賛したということが発覚しただけで国会において追及を受け、ついには大臣辞任に追い込まれた人がいた
水戸学は、尊氏が正統である後醍醐天皇と対立して別の天皇を擁立したことは反逆行為であるとして強く糾弾した。
この思想は幕末の志士たちに強い影響を与え、江戸幕府を倒す旗頭として天皇を前面に押し立てました。これによってできた明治新政府は天皇を中心とした政治を標榜しました。
すると必然のように足利尊氏は天皇に反抗した人物として逆賊扱いされるようになってしまったのです。 >>799
生きているうちは大丈夫だったけど
死んだあとは祟りから逃れることはできなかったみたいね笑 ・北条を裏切った
・後醍醐天皇を裏切った
・北朝を裏切った
・弟を裏切った
・一門を裏切った
・北朝を裏切った
ありとあらゆる者を裏切りまくった高氏
最後まで裏切らなかったのは最愛の息子義詮くらい 近世以降からの武士道の理想像は楠木正成がダントツ人気として
この時代の武士道の理想像は赤松円心だと思う
ちゃんと尽くすしやたらと裏切りわけでもないし、裏切る時は守るべき者のために裏切る
バランス良い 高氏の悪行が日本を凋落させていった。
室町時代は、日本の黒歴史 北畠親房は、理想ばかり吐いて現実無視の御花畑公家だから無理。
武士階級を、平安時代中期のような公家の召使いとしか思っていない。
呆れた結城や小田は北畠親房と南朝から離れ、関東の南朝勢力終了。 北畠親房の息子は東北で活躍したが。
運が良かったのだろう 南朝方は楠木正成も新田義貞も北畠顕家も名和長利も同床異夢で共闘する気はなかった 名和長年は、活躍が見当たらないと思ったら、湊川合戦後に京都に入った足利高氏に敗れ、1336年に逝っていた。
三木一草の一人らしいが。
伯耆守だったから木にこじつけとか 楠木正成、結城親光、名和長年、千種忠顕
まともに草木の字が入ってるのは楠木正成だけ 足利って義満が少しすり寄る素振り見せた程度で、どこまでも天皇を足蹴にするよな
葬式も出せないわ、即位出来ないわ、まともな食事もできないわ、、、、
あげく自分でもコントロールできないヒャッハーの世界を創り上げて暗殺されたり、
お父上とばかりに傀儡になったと思ったら、、またヒャッハーしようとして結局倒幕。
どっか欠陥遺伝子なんだろうな フィクションの信長の100倍怖い義満の子・足利義教は尊皇家だよ 義家子孫ってことでそこまで天皇家を敬う気持ちもなかったのだろう >>798
尊氏の祖父で切腹した足利家時は、鎌倉幕府自体はそのままにして、
安達泰盛や金沢北条家と手を組んで得宗専制を修正しようとしたのだろう
(家時の関与や構想はどこまでか不明だが)
しかし得宗専制は強大化して鎌倉幕府=得宗になってしまい、
もう得宗を倒すには鎌倉幕府自体を滅ぼすしかなくなったのかもしれん 猛烈な実力主義でもあり権威主義の時代でもあった
北条には後者が足りなさ過ぎた
形式的にも実力に反してしょぼい官位だったし >>820
後醍醐天皇が討幕を志して護良親王が武器を手にとって挙兵に応じる者を募って
どうも後醍醐方が勝てそうだということで尊氏もそれに乗っかっただけで
尊氏単独なら執権の妹婿として鎌倉でのんびりやってたと思う
足利家時の自害については、室町幕府成立後に足利一門の今川了俊が記した「難太平記」によって
北条徳宗制に対する強い抵抗心からの自害で子孫が天下を取るためだったと色を付けられたが
あれは主君である北条時宗への忠誠を誓うための殉死で(時宗の死の2か月後に自害)
足利家が北条得宗とともにあることを世に証明するためだったともいわれている
安達泰盛が得宗北条貞時に討たれた霜月騒動よりも1年前の死で
足利家時が安達泰盛と手を結んで得宗専制を辞めさせようとして貞時と対立し
敗れて自害したわけではない 北条時宗の死を悼んで出家するなら長井時秀や安達泰盛の例もあるが、家時は出家してないだろ
霜月騒動の前哨戦といわれた北条時国失脚事件(家時が切腹した1284年6月に発生)に絡んでの家時の切腹だったのではないか?
なお翌年の霜月騒動では足利一族の吉良満氏が平頼綱の軍勢に敗れて切腹している >>825
北条時国の粛清に絡むものなら時国は配流になっているのに
家時には何の罪状もなかったのはおかしい
そもそも時国は自害していないのに
罪を得ていない家時だけが自害するはずもない
家時の死により12歳の嫡子貞氏(尊氏の父)が家督を継ぐ
貞氏は得宗北条貞時を烏帽子親として元服すると貞時から大層な可愛がられ方をして
足利家当主としては初めて「源氏嫡流」を名乗ることを許される
家時が貞氏に粛清されたならまずありえないことだ
家時が北条得宗への忠誠のために殉死したので息子が恩恵にあずかったとみるべき 訂正
家時が貞氏に粛清されたなら→家時が貞時に粛清されたなら >>826
北条時国に連座して罪を蒙りそうだったから足利家時は切腹したんだろう
罪状といっても時国だって「悪行」という大雑把な理由だし、罪状なんてあってなきがごとし
それよりも家時が北条時宗に殉死して切腹なんて聞いたことがない
足利の当主が執権に殉死なら、大事件なのでもっと史料が残っているはず
家時の跡を継いだ貞氏は幼少なので、翌年の霜月騒動では主体的に動けず
ただ足利一族の吉良満氏が得宗に成敗された
貞氏に得宗が寛大に接したのは、いわゆる飴と鞭。慰撫政策だな。 足利家時の義母(家時の父・足利頼氏の正室)は北条(佐介流)時国の父の姉妹
佐介流は北条時房を祖とする家だが、北条時光も陰謀を企てたとして弘安年間に佐渡へ流罪となっており、この時期に得宗から目をつけられていた家だったのは確か >>829
無知すぎて話にならん
家時が切腹なら貞氏も切腹だって
北条時国が配流になったあとその息子が大出世したのか?
親が謀反を起こしたら息子は取り立てるなら全員謀反起こすわw >>833
北条時国は流罪先の常陸で得宗の命令で斬られたけど、息子たちは別に討ち取られていないよ
足利家時が切腹命令を受けたから、貞氏が切腹命令を受けるはずだとはならない
政治的配慮というやつだ
足利一族の吉良満氏が霜月騒動で切腹したにもかかわらず、
足利家当主の貞氏が連座を受けずに厚遇されたりするのも政治的配慮だよ
吉良満氏の子供の貞義も別に切腹を受けてはいない
むしろ吉良満氏の息子の貞義は、足利尊氏が鎌倉幕府打倒の密かな決意を聞いた時に
支持を表明している(大河ドラマ「太平記」では「吉良の爺」として出演)
名越一族だって宮騒動や二月騒動で得宗の手で粛清が相次いだが、
その後に名越一族で生き残った者は登用されたりしている https://youtu.be/2kQwxUMydq4?t=1196
大河ドラマ「太平記」
真田広之演じる足利尊氏が三河で吉良・今川など足利一族の分家を集めて、
鎌倉幕府倒幕の密かな決意を発表
吉良の爺(霜月騒動で得宗に敗れて切腹した吉良満氏の息子の貞義)が「どれほど待ち望んだか、よう仰せられた」と尊氏への支持を表明したのが、このドラマのハイライト 得宗の命令で足利家時が切腹したというよりも、安達と平頼綱の権力闘争の板挟みに疲れて心を病んで切腹したんじゃねと思う 西郷が尊敬してた人は楠木正成なのに尊氏に似てるんだよな
信念がなくブレブレで正成になれなかった
西郷も尊氏も心が弱いからそりゃ心が強い正成に敬意示すよね これほどある尊氏と西郷の共通点
カリスマ性、追い詰められるとメンヘラ・自殺癖を発揮、優柔不断な性格、政府転覆に貢献、武家の棟梁・リーダーとして立ち上がる
そして天皇(後醍醐、明治)の逆賊になる
尊氏の頃は後醍醐天皇が明らかに普通の天皇じゃないし時代が許した
西郷の頃は明治天皇みたいな真面目な天皇だったし
楠木正成の意志を継いだ者がウジャウジャいたしもう時代が許さなかった 鎌倉殿の13人のNHK宣伝がものすごいこと
こけると首が飛ぶくらいの勢い
足利も一応は北条の類縁者だからいいか 大久保は革命家と見たら護良親王に近い気がする
さらに前の時代でいうと源頼朝
尊氏・直義兄弟は信念が半端だし大久保は護良親王、頼朝みたいに信念の人だからな
山縣有朋は徳川家康
しかも家康よりすごい 清廉潔癖の護良親王と
権謀術数の大久保利通が似てるわけがない
同じ権謀術数の足利尊氏や赤松円心こそ大久保利通 清廉潔癖の護良親王と
権謀術数の大久保利通が似てるわけがない
同じ権謀術数の足利直義こそ大久保利通 足利尊氏→西郷隆盛
足利直義→大久保利通
これが一番しっくりくるよ いやあ本当に足利兄弟は西郷と大久保の最強コンビにそっくりすぎるよ 利通と直義の共通点は常人ではしでしかねない胆力がずば抜けてることだな 戊辰戦争の頃から西郷をまったく評価してなかったことで有名な大村益次郎は
戊辰戦争後に西郷を指して「足利尊氏みてえに九州から攻め上がってくるぞい」って警告、ぶっ殺す準備していた
大村は非武士階級の子なんで西郷が武士に拘りがある守旧派の反乱分子予備軍と見抜いていたようだ
戊辰戦争でも機会があれ死んでほしかったような布陣とってたもんな
しかし実際ぶっ殺すのは親愛なる大久保 山田風太郎も室町小説で足利兄弟と西郷、大久保はそっくりすぎると評していたわ 司馬遼太郎は足利尊氏を高評価していた
その理由が日本史上初めての民衆革命を足利尊氏が始めたんだと 太平記には後醍醐天皇は徳がないから民衆の人心を掴んだのは足利尊氏だと書いてあるだろうが 農業生産と中央集権が並行して成立するということは
財貨と軍事力の均衡がそこにあったということ
逆に言えばそこの不均衡があらゆる変・乱の原因のような気もする。 別に天皇だからって支持する必要ねえんだよ
とんでもない暴君天皇だって実在したんだから
それだと朝廷と対立した武士側が支持されるよ 政道を私物化せずに公論で治める
公議公論は明治維新の概念だが、この時代にも援用できる
神皇正統記でも北条義時や泰時は人望に沿って統治した
しかしその子孫はやがて得宗の利益のみに拘泥していき、政道を私物化して滅んだ
ところが北条滅亡後の建武の新政も後醍醐天皇周辺に政道が私物化して、あっという間に終了した 神皇正統記って後醍醐天皇への嫌味本でもあるからな
曲げられない、逃げれない立場なのにちゃんと後世に反省を残すあたり
北畠親房は立派な人 昭和天皇みたいな名君でも臣下がバカじゃ負けるってパターンは当たり前だがある
南朝の臣下は有能だけどムリゲーやらされてるようなもんだから
さすがに後醍醐天皇が味方じゃナポレオンみたいな戦術の天才が敵のほうがいい
まあ昭和天皇というか普通の天皇ならまず尊氏が離反することなく
そもそも南北朝の動乱をやらせてあげない(笑) どこが名君?
名君なら米中二正面戦争を許可すんなよバカ天皇が >>840
頼朝、尊氏、西郷の3人は似ている。
転生じゃないんだろうけどさ。 本人たちは「似てる」と言われても、いや違えよ、て思うだろうきっと
西郷に至っては源氏ですらない。菊地氏=藤氏。 喜連川藩の歴代藩主は、足利尊氏の血を引いてるからとても似ていた 医師になるのは、めちゃくちゃ簡単だよ。
どんな馬鹿医大でも国家試験の合格率7割以上はあるし、自治医大以上ならほぼ100%。
弁護士の場合は難関ロースクールを卒業しても、国家試験を通るのは10%程度。
医師になるには金と時間がかかるが、試験自体は簡単。
うちは従兄弟三人医師になったが、英検二級すら落ちるレベルの頭だからね。
医師国家試験の合格率ランキング見てみ。
一番低い杏林大学ですら、79.4%。
奈良県立大以上の偏差値の25校は95.0%超え。
これのどこが難関試験なの?
医学部に学費を支払える財力のハードルが高いだけで、医師にはバカでもなれる。
弁護士、司法書士、会計士、英検1級あたりは、バカには絶対に無理。
まとめると
医師国家試験→バカでも受かる。しかし、医学部6年間で1,000万以上かかる学費のハードルが高い。
司法試験→ロースクール卒業しても、合格できるのはごく一部。非常に難関な試験。
司法書士→ロースクールに行かなくても受験できるが、難易度は司法試験並み。
英検1級→英語がずば抜けて優秀でないと合格できない。英語の偏差値100必要。(実際にはそんな偏差値はないが)
会計士→おそらく、最難関試験か。会計大学院修了者の合格率は7.6%しかない。
不動産鑑定士→鑑定理論が地獄。単体の科目としては最難関の一つ。経済学などは公務員試験より簡単か。 西郷隆盛と足利尊氏は何となく似てると前から思っていたが
けっこう言われてたんだな >>878
作り上げたものが全然違う
何の政治的達成もないグダグダの室町幕府と、
世界史上の奇跡ともいうべき明治政府。 WW2しかり天皇が政治の世界でも偉そうにすると国家は滅びるな 天武天皇は、バリバリ政治を行っていたが、極めてうまくいっていた 後醍醐天皇に、刺激を与えたのは醍醐天皇だから、
醍醐天皇が悪いなぁ とくに能力があったわけじゃないんだけど魅了されるものが2人にはある。 相手が日本史上最高のファンタジスタ・後白河法皇だったら勝てなかったな
東国政権が精一杯
尊氏より格上である賢将・頼朝もあれに触れたやばいって近寄らないようにしてたしな 尊氏を支えた最大の功労者は佐々木道誉だよな
尊氏死後幕府を支えた功労者も佐々木道誉 源頼朝→足利尊氏→西郷隆盛
カリスマオーラのみで君臨してた 後醍醐天皇は無能ってかカルト崇拝のマジキチだろ?
もし南朝が勝利してたら日本はオウム顔負けの恐ろしいカルト国家になってたような
足利が勝利して本当によかったわ 別にカルトじゃないけどその姿が室町時代も続く南朝勢力圏で重税で大変だったそう 残念ながら今でも熊沢天皇の即位を望んでいる人が一定程度います 南朝が勝利してたら大日本帝国みたいに日本滅亡してたかもしれない 足利持氏は、学習障害
足利基氏は、注意欠陥多動性障害だったらしい 尊氏と義満は同時にこの世に存在した期間がほとんどかぶってないんだよな 尊氏の死後100日目に義満が誕生したんだよな
この因縁は生まれ変わりじゃないかと 100日後とかじゃなくて、死んだ日の翌日とかだったらなあ どちらかというとお人好しっぽい尊氏が冷静かつ冷酷な義満に生まれ変わるって想像できんわ。 現実の足利尊氏ほど冷酷な打算家もいまいぞ
ここも西郷隆盛と非常によく似てて愛嬌の塊なのは事実だが腹黒さも天下一 尊氏も西郷もニコニ笑いながら人を殺せる豪胆の持ち主さ 西郷の時は不平士族の受け皿だったわけだ
明治政府の廃藩置県、秩禄処分、廃刀令、四民平等で士族の存在自体
が喪失しようとしていた
士族も農民商人と同じ平民として暮らすことを覚悟した者以外からすれば、
元の武家社会復古を夢見て西郷を担ぎ上げた
士族にとっては死活問題だったわけで、南北朝期はここまで武士らが切羽詰まって尊氏を担いだわけではない 現実的には江戸中期には副業しなきゃ食っていけない下級士族より農工商の方が生活水準高いケースも多かったのでは? 尊氏も西郷も朝廷側と戦争したが尊氏は勝利して西郷は敗北した。
足利直義=大久保利通がついてたほうが勝つ法則なんだろうな。 >>921
農村の大地主の家に武家から預かったという借金の証文や担保の鎧兜などがあったと聞いてる。
下手したら食えない侍は帰農して小作人になるしかなかったのかもしれんね。 赤穂浪士の討ち入りなんか商人が幅を利かす世になったもんで
武士舐めんなよ?やっぱ武士偉いわーって契機なり日本全国で熱狂
幕府もやっぱ武士なんでっ吉良くんを討っていいよ♪わざと討ちやすいようにしたし
江戸幕府はこういうコントロールうまいよな
ただこれに限らず根本が腐っていきそれが幕末なって思いっきり表面化する
大久保は未来のため、西郷は過去のために死んだ ちゃんちゃんっと >>931
当然足利家です。
足利尊氏のDNAを引き継いでる事は間違いないし、
江戸時代に入ってからも高い格式をちゃんと認められていました。
室町時代に、使えていた家柄は皆、喜連川藩を重んじていたそうです やはり栃木の足利市が足利尊氏出生地なんでしょうかね?
最近は京都の綾部あたりだといわれてますが そもそも尊氏は足利荘へ生涯行ったことがないという話も >>935
現在の栃木県足利市にもただの1度も行ったことがないぞ おそらく足利尊氏、直義は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれたであろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 喜連川藩は、
江戸時代、上杉氏や細川家を自分たちの家来の家柄とみていた 家康は新田と吉良(足利)に入れ込んでた
新田氏の末裔と称してたし
尊氏なんかより頼朝かな
吾妻鏡の愛読者だから源氏かっこええって人 保元の乱終結後の源義康の足跡っていまだに不明なのか? 平治の乱後の源頼朝の足跡も、しっかりと語って欲しい 残虐性を愛嬌で見えなくさせてたのは豊臣秀吉も同じでしょう 何度も負けたが死ななかった。
これ重要。
それこそ天が尊氏を生かしてたんだろう。 >>959
尊氏=曹操
義貞=劉備
義満=司馬懿
って感じだわな
悪党=黄巾
北条=漢王朝
しかし南北朝では董卓に相当する人物がいない
源平なら義仲で戦国なら信長が董卓なんだが後醍醐天皇は違うよな >>936
正直尊氏とほとんど無関係なのに明治以降逆賊タウン扱いされてた足利市はマジ可哀想だと思う。 時の大衆から支持を集めていた超カリスマ足利尊氏を逆賊扱いにした大日本帝国は神に見放されて滅びました 新田次郎の小説「新田義貞」では、足利の地に遊びに行った小太郎義貞が高氏(尊氏)を見かける場面があった。
NHKの大河ドラマでも河原で高氏と義貞が邂逅している。
しかし現実にはあり得ないシーンだったということか。 >>970
無かった証拠も無いけどあった証拠も無いかな。
創作を否定する理由は無いよね。 超カリスマ足利尊氏を逆賊にした大日本帝国は天から見捨てられて滅びました >>972
西郷隆盛のごとく民衆から絶大に支持されていた足利尊氏を悪役にするなんて大日本帝国が70年余りで終了したわけだよ
吉川英治の太平記を読めや カリスマを悪役にしたらあかんよ
楠木はそこまでカリスマじゃなかったよ 後醍醐がカリスマじゃなかったら反足利勢力の結集なんて無理
あれはあれでやっぱり英雄の器なんだよ
名君ではないだろうが まあ全国民の支持を集めた足利尊氏よりだいぶ劣るけどな 北条義時と後鳥羽上皇、足利尊氏と後醍醐天皇の対立の構図は似ている気がする。
後醍醐天皇も善戦健闘したとは思うよ。 たった1人で5万人の敵地に乗り込んで生還した足利尊氏は超カリスマ
まさに江戸城に1人で乗り込んだ西郷隆盛だ 千早赤阪の悪党にして、後醍醐天皇に忠義を貫いた男。
不忠者、足利尊氏を許さず、湊川で戦って伝説となった男楠正成 >>973
当時の公家の大多数にもそっぽ向かれてた >>990
太平記の新田勢って少年マンガの主人公チームだよね。 その主人公が絶望的な戦いを繰り返すのが悲しいよな。
木の芽峠に始まって金ケ崎城の悲劇、八幡攻撃の時に義助のモタモタ、
最後は一方的に矢で射られて泥の中で悶死だ。 クズの木正成は「義貞を切って尊氏を味方に」って言った最低人間だからな。
尊氏を味方につけることは大切だがあの時点で義貞を見捨てる理由がどこにもない。
後醍醐天皇がその気になれば尊氏と義貞を対立させずに配下に置くこともできた。
それでも義貞は湊川のクズの木を助けるため無謀な突撃を繰り返した。
仇を恩で返した義貞こそ真の英雄。正成は糞。 湊川の戦いで、足利尊氏と最後まで戦った名将、楠正成 このスレッドは1000を超えました。
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