邪馬台国畿内説 Part616
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1594143620/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に配置された大型建物等(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
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・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
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その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
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・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。
贅六チンカス 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
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・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
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・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。
贅六ウイルス ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前の情報が窺知できる。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他なるまい。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。
うんちっち ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。
ゲイホモアッー! (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
(本項 続く)
(承前)
◆8−2
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化に起因する列島での社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。
アッー! ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと
。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
記紀においてもヤリとホコの区別が無いことは、天日槍を知らぬ者を除き常識である。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。
就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。
これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。
畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。
他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。
纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/WkCxjLW.png
矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。
纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。
大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。
古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002)
という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998)
◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 邪馬台国オナニー大好きな猿、贅六のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、贅六の先祖、クソムシが生息していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、健常者を中心に贅六を省いた国家規模の連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既に贅六を征伐していた。贅六は雑魚。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内ではない。贅六はガイジである。
邪馬台国論争は不毛。贅六を弄り倒して皆で笑い合いましょう。
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本のどこにも影響力を持たないカルト宗教奴隷の贅六が生息していた。その劣等生物は各地の首長に嘲笑され、いたぶられた社会のクズであったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内(笑)に中国(笑)文化が急速に浸透(笑)する時期である。そもそも中国など存在しない。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物ではないし、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できない。
弥生(笑)など存在せず、そして贅六は相変わらず底辺であった。
換言すれば、弥生(笑)←ねぇよ墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生(笑)←ねぇよ社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。つまり贅六は雑魚。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当しない。畿内(笑)様式の土器が漸進的に北部九州に流入したという事実はないし、こ那珂比恵地域への人口流入もない。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人(笑)や楽浪商人(笑)と直接交渉による交易をする段階に入る。そんなものはない。贅六は雑魚。
絶域であった贅六の9cmが中華(笑)社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の贅六の海綿体である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に贅六はどこにいたであろうか?
それは糞の中以外にありえない。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や太平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
太平広記はその書名が示すとおり太平興国年間に編纂された類書であり、当該箇所は東晋代成立の捜神記から採録している。則ち太平興国の時点で原テキストに東越閩中の所司が「東治都尉」とあったことが判明する。
東越閩中に置かれた都尉の治は東候官に他ならず、三国志等の版本が成立した北宋太平興国の修史活動期における編集従事者の認識が窺知される。
倭人伝中の「会稽東治」については、中華書局が既に「東冶」と校訂しているが、丁謙・盧弼らの考證に先立ち、成都書局が同治10年に殿本を校訂して「東冶」に改めている。跋文に四川総督呉棠、四川学政翰林院編集夏⼦鐊ら同治年間の人士の名が見える。
https://i.imgur.com/E6TFLyl.png ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことが明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
庄内大和型甕と庄内河内型甕は、庄内 I 段階に大和川河口地域に成立した初期庄内甕(庄内式古相)から分化して、庄内 II 段階に至り倶に確立した。胎土・製作技法・形態により識別されるのみならず、分布域も明瞭に区分可能である。
生駒西麓型とも呼ばれる庄内河内型甕は、中河内地域で圧倒的なシェアを占める一方で、摂津・和泉並びに大和盆地では低シェアという、極めて特徴的な偏在を示す。
これが、中河内地域の排他性を意味しないことは、中河内地域主要遺跡の持つハブ港的性格を鑑みれば明瞭である。事実、吉備の文化は中河内を経由地として纏向に極めて濃厚に転移している。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
本Qに見られるような直線的進歩史観で歴史が理解できないことは言うまでもない。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝でも、各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。
もとより倭人伝は倭人の国々を
1)自女王国以北、其戸数道里可得略載、
2)其余国遠絶、不可得詳
と截然と二分類しており、「自女王国以北」と「其余」で悉皆である。
戸数・到達所用日数・官の情報が既知である投馬国を「遠絶ゆえに不可得詳」のグループに配することは極めて不合理であり、投馬国については戸数と道里が略載されている。
倭人伝に於て投馬国が「女王国以北」と認識されていること明瞭である。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものであろう。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭頃の実年代が与えられている。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量であり、市中から発丘獲得物を含む雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しい。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png ◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步、高六丈六尺」(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
「帝王世紀曰。(洛陽)城東西六里十一歩、南北九里一百歩」
「晋元康地道記曰。城内南北九里七十歩、東西六里十歩」(後漢書劉昭注)
※晋元康年間:291〜299
「洛陽十二門、南北九里」(太平寰宇記所引陸機『洛陽記』)
※陸機(261〜303)」呉陸遜孫、晋入朝289
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰)
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。 ◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。
◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
改新詔における畿内国の定義が畿内第V様式圏に酷似する事実の指摘(濱田2014)は注目に値しよう。 ◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。
◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬があって疑わしい。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。 ◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
◆FAQ 97
Q:纒向は蛙を食う貧困な寒村だ!
A:西漢は皇帝の宗廟に羊・兎・食用蛙を供えるのが常であった。
東漢にあっても普通に食用であった。
「羔、菟、鼃所以供祭也」霍光伝師古注
「鄭司農注云蟈蝦蟇、玄謂蟈今御所食蛙也」周礼両鄭注
纒向土壙祭祀において今人が高級食材とする鯛・鴨・桃などと並んで神饌とされることに不自然はない。
◆FAQ 98
Q:纒向は古墳築造のための施設であって都などではない!
A:合理的な理由がない。
纒向の建設は庄内0式段階で運河掘削が開始する。
一方、90m級にまで巨大化して弥生墳丘墓の域を超えた墳丘墓の築造は庄内2式段階に開始する。
よって遺跡内への搬入土器が広域に亘る特異性発現、運河掘削ともに、大型墳丘墓築造開始より1世代を超えて先行しており、因果関係が認め難い。
また辻地区の大型建物は3式段階には廃絶しており、箸中山古墳の築造開始に先行する。
よって此の因果関係も求め難い。
纒向型土壙祭祀の開始も大型墳丘墓築造に先行する。その祭祀内容には葬送儀礼との関係が窺えず、寧ろニヒナメヲスクニや鎮火祭といった服属儀礼や鎮護国家的行事との関連性が指摘されている。
導水施設における祭祀も池上曽根や伊勢遺跡に先行事例が求められ、墳墓との関連がうかがえない。ことに木樋を用いた祭祀は首長居館周辺で執行される特異な祭祀として後世に残っている。
以上より、纒向は祭祀に特化した特異な大遺跡であるが古墳祭祀には特化しておらず、古墳造営とのみ結びつけるのは不合理である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】なし 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1593835897/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*マスクを着用してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある妄想をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することを歓迎いたします。
マスクを着用していない方の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>178
というより、その製品だな
事実から論を起こさないから >>999
「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説学者や、
阿波や呟きらは、老衰で狂死 >>176
>・・・※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しや、
炭素年代測定などでの、国民や世界からの共同研究を拒否して隠蔽工作をした、
大和説学者らやスレ主や東大理系博士号やウソつき詐欺師らに、
その証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません >>178
「南→東」や「正北抵新羅の議論逃亡」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
大和説学者や、スレ主や、東大理系博士号や、阿波や呟きや中国人渡来説拒否男らは、
嘘吐き騙しのウンコ製造機 >>182
議論逃亡って真っ赤なウソ
九州説はウソばかりつく
閉園時代に「九州倭国」なんて無い
これでトンデモ九州説は完全論破済みだ
静かに死ね >>181
そう叫ぶだけで証拠を出してない九州説が
自分の投げたブーメランで自分自身を撲殺してるんだよ
九州説じいさんはどれほど馬鹿かって
みんなが笑ってるよ、きっと >>182
訂正
平安時代に「九州倭国」なんて無い
これでトンデモ九州説は完全論破済みだ
呻いて死ね >>182
だったら早く考古立証しろよ中卒妄想老害
で、BC5Cに呉王夫差の遺民が山門に渡来定着した事を証明する生活痕遺構と
その中国系の衣食住に関する生活文物や住居は?漢字は?
今すぐ考古立証をビシッと決めてみろよ中卒妄想願望チキン >>182
だったら早く考古立証しろよ中卒妄想老害
で、BC5Cに呉王夫差の遺民が山門に渡来定着した事を証明する生活痕遺構と
その中国系の衣食住に関する生活文物や住居は?漢字は?
今すぐ考古立証をビシッと決めてみろよ中卒妄想願望チキン >>182
だったら早く考古立証しろよ中卒妄想老害
で、BC5Cに呉王夫差の遺民が山門に渡来定着した事を証明する生活痕遺構と
その中国系の衣食住に関する生活文物や住居は?漢字は?
今すぐ考古立証をビシッと決めてみろよ中卒妄想願望チキン >>186
>議論逃亡って真っ赤なウソ九州説はウソばかりつく
閉園時代に「九州倭国」なんて無い
これでトンデモ九州説は完全論破済みだ静かに死ね
議論逃亡しておいて真っ赤なウソ 大和説はウソばかりつく
大宝元年に大和が九州倭国を併合吸収継承した事を宣言した後も、
九州倭國は、大宮姫らが薩摩で大和支配に抵抗し、
筑紫の太宰府が、「大長」年号を立てて倭国を継続し、
新羅や渤海などとの国交も持ち、
平安後期には、宋への遣使も派遣しており、
九州倭國の存在や残映があった事を示していた。
閉園時代に「九州倭国」なんて無い
これでトンデモ九州説は完全論破済みだ
静かに死ね >>205の訂正
>>186
>議論逃亡って真っ赤なウソ九州説はウソばかりつく
閉園時代に「九州倭国」なんて無い
これでトンデモ九州説は完全論破済みだ静かに死ね
議論逃亡しておいて真っ赤なウソ 大和説はウソばかりつく
大宝元年に大和が九州倭国を併合吸収継承した事を宣言した後も、
九州倭國は、大宮姫らが薩摩で大和支配に抵抗し、
筑紫の太宰府が、「大長」年号を立てて倭国を継続し、
新羅や渤海などとの国交も持ち、
平安後期には、宋への遣使も派遣しており、
九州倭國の存在や残映があった事を示していた。 >>184
「南→東」や「正北抵新羅の否認」など、
そう叫ぶだけで証拠を出してない大和説が
自分の投げたブーメランで自分自身を撲殺してるんだよ
大和説学者や、スレ主や東大理系博士号とやらが、どれほど馬鹿かって
みんなが笑ってるよ、きっと >>188
>だったら早く考古立証しろよ中卒妄想老害
で、BC5Cに呉王夫差の遺民が山門に渡来定着した事を証明する生活痕遺構と
その中国系の衣食住に関する生活文物や住居は?漢字は?
今すぐ考古立証をビシッと決めてみろよ中卒妄想願望チキン
歴史や古代史の学問に関しては、
考古は、文献に比べて、
半文献的な紀年金石文など以外は、年次特定に絶対性がなく、
発掘地点にしか特定力がなく、半分×情報なのであり、
文献記録を覆すほどの証拠力はないんだよ。 >>213
で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?
. >>215
>そんなこと考えてる学者はいない
「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」などの史料事実の曲解や否定の大和説学者は、
信頼性が全くなく、その確率も、ほぼ0。 >>218
>山口県を投馬国とする説より
魏志倭人伝の方角基準・・・
魏の時代の三韓の一つ馬韓50国に対し、倭国は30国・・・
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に拠って、×。 >>220
>「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」などの史料事実の曲解や否定の大和説学者は、
ほかに学者いないよ >>217
>で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?
松野氏姫氏系図や新撰姓氏録や野馬臺詩や、
魏略〜通鑑前編の中国側の記録。 >>220-223
土台人古田集団は竹島を韓国領と言い張っている反日有害朝鮮人なので
日本の学者を信頼しない人種集団 >>224
全く事実に相違する意味不明な投稿をする「東大理系博士号」の大和説者は、
おそらく、京都アニメ犯人や赤報隊などの殺人狂のような、狂気の・・・・人種。 >>227
>京都アニメ犯人や赤報隊などの殺人狂のような、狂気の・・・・人種。
九州説さん
あなた、汚い罵倒しかしてないよ
どう「全く事実に相違する」のか、ひとことも言わない
そういうのって、宗教でしょ
異端狩りしたい狂信者の行動だよ 「東大理系博士号」奥山の名言
・太陽の周りを回る地球の様に電子が原子核の周りを回っている
・C14年代測定で出現する新しい年代は異常値である >>223
>>で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?
>松野氏姫氏系図や新撰姓氏録や野馬臺詩や、
おい、九州説
いったい、それのどこが
BC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物だ >>229
>>京都アニメ犯人や赤報隊などの殺人狂のような、狂気の・・・・人種。
>九州説さん
あなた、汚い罵倒しかしてないよ
どう「全く事実に相違する」のか、ひとことも言わない
チャンと、
「土台人古田集団は竹島を韓国領と言い張っている反日有害朝鮮人なので
日本の学者を信頼しない人種集団」
という投稿が、「全く事実に相違する意味不明な投稿をする」、
と行ってあるよ。
だから、そういう投稿をするってのが、宗教でしょ
異端狩りしたい狂信者の行動だよ >>232
>>>で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?
>>松野氏姫氏系図や新撰姓氏録や野馬臺詩や、
>おい、九州説 いったい、それのどこがBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物だ
勿論、
それらの文献の情報の淵源が「BC5Cから5Cまで間の漢字記録だ」という意味だし、
中国の3世紀の魏略〜通鑑前編の情報の淵源も、
「BC5Cから5Cまで間の漢字記録」だ。 >>238
「土台人」というのは北朝鮮の工作員が用いる用語
「竹島を韓国領と言い張ってる反日有害朝鮮人が日本の学者を信頼しない」のは
古田集団であるお前がやっている事実 >>240
日本語が分からないらしいなスットボケジジイ
それはBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物じゃねえだろがゴミカス
BC5Cから5Cまで間の遺物を出せって言ってんだぞ
BC5Cから5Cまで間の遺物を
で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の日本国内の漢字記録遺物は?
. >>240
>それらの文献の情報の淵源が「BC5Cから5Cまで間の漢字記録だ」という意味だし、
そんな詭弁が通じるなら
いまお前が書いても「BC5Cから5Cまで間の漢字記録」になる。
つまり詐欺
しかも情報の淵源が「BC5Cから5Cまで間の漢字記録だ」なんて証拠も無い
九州説は詐欺だ .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>250
学界の主流が負け犬なわけないだろ
普通の人なら凋落の九州説を負け犬というね >>241
>「土台人」というのは北朝鮮の工作員が用いる用語
「竹島を韓国領と言い張ってる反日有害朝鮮人が日本の学者を信頼しない」のは
古田集団であるお前がやっている事実
最初に、
「土台人古田集団は竹島を韓国領と言い張っている反日有害朝鮮人なので
日本の学者を信頼しない人種集団」
という、全く事実とは違う嘘つき騙しの誹謗投稿をしたのが、
大和説者側の人間であり、
その人間は、おそらく、「東大理系博士号」を自慢した類スレ主であり、
5chも、そのような「明らかな虚偽投稿」を許可した。 >>251
>学界の主流が負け犬なわけないだろ
>普通の人なら凋落の九州説を負け犬というね
いくら強がっても、お前は所詮は無職の負け組w >>243
>日本語が分からないらしいなスットボケジジイ
それはBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物じゃねえだろがゴミカス
BC5Cから5Cまで間の遺物を出せって言ってんだぞ
BC5Cから5Cまで間の遺物を
で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の日本国内の漢字記録遺物は?
私は、始めから、「BC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物」なんて意味不明の、
精神的な異常性を示す文言に対する返事を書く、なんて、
言っていないし、まともに相手にする気もない。
要するに、世間の人々に、
この投稿者の精神的な異常性が判って貰えばよいだけ。 >>245
>>それらの文献の情報の淵源が「BC5Cから5Cまで間の漢字記録だ」という意味だし、
>そんな詭弁が通じるなら
いまお前が書いても「BC5Cから5Cまで間の漢字記録」になる。つまり詐欺
しかも情報の淵源が「BC5Cから5Cまで間の漢字記録だ」なんて証拠も無い
九州説は詐欺だ。
この投稿は、例の「東大理系博士号」だな。
しかし、「BC5Cから5Cまで間の漢字記録」なんていう「でっち上げの造作」文言など、
まともに相手にする気もないし、
「東大理系博士号」男の「言葉尻を捉えての誹謗」も、関心がない。 >>249
「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」の史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しや、
「造作文言や言葉尻での誹謗」と、
ゴリ押しだけの大和説
詐術性や無能性がすぎる キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ
ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ
イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ
ココココココココココココココココココココ
シシシシシシシシシシシシシシシシシシシシ
はははははははははははははははははははは
無無無無無無無無無無無無無無無無無無無無
職職職職職職職職職職職職職職職職職職職職
キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ
ナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナ
イイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ
ココココココココココココココココココココ
シシシシシシシシシシシシシシシシシシシシ
はははははははははははははははははははは
負負負負負負負負負負負負負負負負負負負負
けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ
組組組組組組組組組組組組組組組組組組組組 >>251
「南→東」や「正北抵新羅の議論から逃亡」などのなど、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説が、
学界の主流や勝ち犬なわけないだろ
普通の人なら、国民の過半数や世界の学者らから否定され、
凋落した大和説を負け犬というね >>255
では、偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の日本国内の漢字記録遺物の
証拠提示の要求に何の証拠提示もできず破たん
松野連系図は偽書である事が確定するが
よろしいですかな?よろしいですかな? >>255
>私は、始めから、「BC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物」なんて意味不明の、
>精神的な異常性を示す文言に対する返事を書く、なんて、
>言っていないし、まともに相手にする気もない。
>要するに、世間の人々に、
>この投稿者の精神的な異常性が判って貰えばよいだけ。
あなた
「で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?」
と聞かれて
「松野氏姫氏系図や新撰姓氏録や野馬臺詩や、・・・」
って返信書いたんだけど。
つまり九州説はまたウソをついて世間を騙そうとして
バレて追及されたら
またウソついて
罵倒して
煙に巻こうとしてるんだね >>262
>では、偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の日本国内の漢字記録遺物の
証拠提示の要求に何の証拠提示もできず破たん
松野連系図は偽書である事が確定するが
よろしいですかな?よろしいですかな?
系図というのは、元々、
半分はある程度の事実や実態であり、半分は自家に伝えられた主観的な文献である、
というだけの事。
そして、古事記も日本書紀も、一種の自家の系図であり、半分偽書である事になる。
よろしいですかな?。 >>263
>>私は、始めから、「BC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物」なんて意味不明の、
精神的な異常性を示す文言に対する返事を書く、なんて、
言っていないし、まともに相手にする気もない。
要するに、世間の人々に、この投稿者の精神的な異常性が判って貰えばよいだけ。
>あなた
「で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?」
と聞かれて
「松野氏姫氏系図や新撰姓氏録や野馬臺詩や、・・・」って返信書いたんだけど。
だから、私は、
「BC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物」という文言がインチキ設定だから、
「で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?」
という文に対しての直接的なまともな返事を書いておらず、
相手にもしていない。
つまり東大理系博士号男は、またウソをついて世間を騙そうとして
バレて追及されたらまたウソついて罵倒して、世間の人々を騙して、
煙に巻こうとしてるんだね >>253
>>241 に書いてるとおり反日有害朝鮮人のお前がやってる事実 >>267
>>>241 に書いてるとおり反日有害朝鮮人のお前がやってる事実
マスコミさん、
この「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」の嘘つき騙しの大和説者の、
東大理系博士号の投稿が、事実と異なる嘘つき騙しになっており、
更に、5chも、そんな、嘘つき騙し投稿を許容している、
という事が事実であり、実態なんですよね。
また、5ch >>266
>だから、私は、
>「BC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物」という文言がインチキ設定だから、
>「で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?」
>という文に対しての直接的なまともな返事を書いておらず、
>相手にもしていない。
QQQQQQQQ
あんたは
223 名前:日本@名無史さん :2020/07/11(土) 11:59:11.04
>>217
>で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?
松野氏姫氏系図や新撰姓氏録や野馬臺詩や、
魏略〜通鑑前編の中国側の記録。
AAAAAAAA
って答えたんだよ
あとから誤魔化すな
九州説は平気でウソつくな 「東大理系博士号」と虚勢を張った奥山の発言は、誰もがネタだとはわかってはいたが、あまりのレベルの低さくさに、中卒を疑う必要性が出てきしまった、のであるな。。。 >>269
お前はサンフランシスコ平和条約は無効、竹島は韓国領、日本人拉致テロは日本側に原因があると
言い張っている土台人古田集団の反日有害朝鮮人 >>271
>「東大理系博士号」と虚勢を張った奥山の発言は、誰もがネタだとはわかってはいたが、あまりのレベルの低さくさに、中卒を疑う必要性が出てきしまった、のであるな。。。
奥山が「東大理系博士号」だと名乗ったのなんて見たことないし
奥山の発言が「あまりのレベルの低さくさに」なんて言う根拠も見たことない >>271
>で、その文献記録が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の漢字記録遺物は?
松野氏姫氏系図や新撰姓氏録や野馬臺詩や、
魏略〜通鑑前編の中国側の記録。
AAAAAAAAって答えたんだよ
あとから誤魔化すな
九州説は平気でウソつくな
「松野氏姫氏系図や新撰姓氏録や野馬臺詩や、魏略〜通鑑前編の中国側の記録」
というのは、
「BC5Cから5Cまで間の漢字記録」にはなっておらず、
だから、私は、
この・・・・アホ質問者の質問には答えず、きちんと無視していた、
という事の証拠なの。 >>265
松野連系図が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の日本国内の
漢字記録遺物の証拠提示の要求に何の証拠提示もできず破たん
松野連系図が偽書である事がここに確定しました
観覧者の皆様方、ありがとうごさいました >>272
>お前はサンフランシスコ平和条約は無効、竹島は韓国領、日本人拉致テロは日本側に原因があると
言い張っている
マスコミさん、
私は、そんなアホな事を言う筈がないんですよね。
私が言ったのは、
サンフランシスコ講和条約は、部分講和であり、非講和国との講和は出来ておらず、
竹島は連合国の管理下であり、
日本人拉致は、殺害目的ではなく、日本人の血が欲しかった可能性がある、
という事まで。
>土台人古田集団の反日有害朝鮮人
マスコミさん、
これも、東大理系博士号自称男の「完全な嘘つき騙し」投稿ですね。
5chは、何故、許可するんでしょうか?ねえ。 >>276
あとから「相手がバカだから」と言えば
自分はどんな嘘をついたことも許される
という、恐るべき主張を
九州説が言い張ってますが
倫理的に間違ってます >>277
>松野連系図が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の日本国内の
漢字記録遺物の証拠提示の要求に何の証拠提示もできず破たん
「松野連系図が偽書ではない事を証明するBC5Cから5Cまで間の日本国内の
漢字記録遺物の証拠提示の要求」
という文言自体が何の論理性もなく、無意味でアホな反論要求なである事になり、
だから、この男の要求が破綻。
松野連系図が半分真実である事がここに確定しました
観覧者の皆様方、ありがとうごさいました >>279
ウソを言うな反日有害朝鮮人
お前はサンフランシスコ平和条約そのものが無効と書いたし
以前日本人拉致テロは日本側に原因があるとも書いた
日本の民間人の血が欲しかったなんてのは何の理由にもならん
お前のような反日有害朝鮮人を集めているのが工作員の協力者土台人 なつかしいなw
https://i.imgur.com/csZKYcY.png
原子核は例えるなら太陽
電子は周りを回る水星
東大阪中学理系卒www >>1と東大理系と言ってる人は投馬國の比定、ルートが違うと
以前から何人かが教えてやってるのに全一病ジジイはまるっきり理解できない >>280
マスコミさん、大和説者は、
「南→東」や「正北抵新羅の議論からの逃亡」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しをし、
相手の投稿やその趣旨を曲解捏造して、
あとから「相手がバカだから」と言えば
自分はどんな嘘をついたことも許される
という、恐るべき主張を言い張ってますが
倫理的に間違ってますよね。 >>284
じゃあ奥山は東大阪中学理系卒なのか?w >>282
>ウソを言うな反日有害朝鮮人
お前はサンフランシスコ平和条約そのものが無効と書いたし
以前日本人拉致テロは日本側に原因があるとも書いた
日本の民間人の血が欲しかったなんてのは何の理由にもならん
お前のような反日有害朝鮮人を集めているのが工作員の協力者土台人
「南→東」や「正北抵新羅の否定」などの史料事実の曲解や否定の、
嘘つき騙しの・・・・アホ大和説者の東大理系博士号自称のお前と違って、
私は普通の国民であるから、
私は、ウソを付かないし、ウソを付く必要がない。 九州説は学術的な説でも何でもなくて
実態は教祖古田の開設した古田教という宗教そのもの >>283
でその東大理系の人のレスのどこが東大阪中学理系卒wwwなんだ? ミュー粒子観測結果はまだか?
で、箸墓の被葬者は卑弥呼だったのか?w
超理系音痴の奥山のことだ
ミュー粒子で卑弥呼と断定!とか言いかねないなwww >>298
>>283は東大理系と言った人のレスだったんだろ? >>299
東大理系と偽ったスレ主=奥山だろw
ニュー速では自称研究者と名乗ってたがw >>897
>半島の東岸のオクキョン遺跡に水田稲作が突然現れるのがおかしいってことね
半島の東岸のオクキョン遺跡に水田稲作が突然現れることは、至極当然の事である。
佐賀県唐津市にある菜畑遺跡は、半島への出航地(平戸市周辺))に近い。
半島の東岸は、対馬からの着岸地なんだから、オクキョン遺跡に水田稲作が突然現れるのは、至極当然の事である。 わははははは @阿波 >>300
奥山がニュー速にいたとか、妄想もう病気だろ 朝鮮半島の水田稲作跡を時系列的に羅列すると、
オクキョン遺跡(BC1100)
↓
ムアラファト遺跡 (BC800)
↓
マジョルリ遺跡(BC500)
http://www.kigen-technosakaki.jp/2020/03/-83.html >>294
>奥山と連句点のやり取りだぞw
名前とか、何も書いてないけど
なぜ、それが奥山と連句点のやり取りなの?
どうしてそうだと決めたの? >>293(テスト投稿が通ったようなので、投稿再開)
>九州説は学術的な説でも何でもなくて
実態は教祖古田の開設した古田教という宗教そのもの
マスコミさん、
古田さんも私も、宗教ではなく、
自然や歴史の文献考古の資料事実や資料実態や、議論実態からの、
帰納的確率的な学術的推論をしているだけなんですよね。
それに対して、大和説者らは、「南→東」や「正北抵新羅の否認」などのような、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しをしているんですよね。 >>306
その時系列は、「忌部はん」 の半島北上を如実に表わしているね。 わははははは @阿波 >>309
>自然や歴史の文献考古の資料事実や資料実態や、議論実態からの、
>帰納的確率的な学術的推論をしているだけなんですよね。
その証拠、絶対に出さないでしょ?
それはウソだと告白してるのと同じ >>311
>>自然や歴史の文献考古の資料事実や資料実態や、議論実態からの、
帰納的確率的な学術的推論をしているだけなんですよね。
>その証拠、絶対に出さないでしょ?
それはウソだと告白してるのと同じ
古田本全体が証拠だし、
私の全投稿も証拠。
しかし、この大和説男(おそらく東大理系博士号男)は、・・・・だから、
当然、知らん振りし、見ないで、
同じ事をしゃべりつづけるんでしょうね。 >>311
>>自然や歴史の文献考古の資料事実や資料実態や、議論実態からの、
帰納的確率的な学術的推論をしているだけなんですよね。
>その証拠、絶対に出さないでしょ?
それはウソだと告白してるのと同じ
古田本全体が証拠だし、
私の全投稿も証拠。
しかし、この大和説男(おそらく東大理系博士号男)は、・・・・だから、
当然、知らん振りし、見ないで、
同じ事をしゃべりつづけるんでしょうね。 >>314
>古田本全体が証拠だし、
そういうのが「証拠がない」典型
特定して提出できないものは証拠じゃない >>309
投稿しすぎでパン食らってるときテスト投稿するのは自殺行為 >>306
その時系列は、「忌部はん」 の半島北上を如実に表わしているね。 わははははは @阿波 >>897
>半島の東岸のオクキョン遺跡に水田稲作が突然現れるのがおかしいってことね
半島の東岸のオクキョン遺跡に水田稲作が突然現れることは、至極当然の事である。
佐賀県唐津市にある菜畑遺跡は、半島への出航地(平戸市周辺))に近い。
半島の東岸は、対馬からの着岸地なんだから、オクキョン遺跡に水田稲作が突然現れるのは、至極当然の事である。 わははははは @阿波 マスコミ各社の皆様へ
九州説はとっくに負けたにもかかわらずこのように畿内説の掲示板を荒らして
嫌がらせを繰り返しております
背景には何らかの組織的な力の存在も疑われます
九州説の実態を国民に暴いてスクープすれば
また発行部数も伸びるのではないかと思います
何とぞご検討のほうを宜しくお願いいたします >>320
日本稲作が半島から入っているのは確実なんだが、こちらから往訪して稲作を
テイクアウトしただけだぞ
菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一つも作ってないんだから >>323
>日本稲作が半島から入っているのは確実なんだが、
どこから入ってこようが関知しない。
>こちらから往訪して稲作をテイクアウトしただけだぞ
「忌部はん」 の進出が確認できればよい。
>菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一つも作ってないんだから
半島への出航地なんだから、朝鮮人が居ないのは当たり前。 @阿波 >日本稲作が半島から入っているのは確実なんだが、こちらから往訪して稲作を
>テイクアウトしただけだぞ
>菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一つも作ってないんだから
>こちらから往訪して稲作をテイクアウトしただけだぞ
どこから入ってこようが関知しない。
>こちらから往訪して稲作をテイクアウトしただけだぞ
「忌部はん」 の進出が確認できればよい。
>菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一つも作ってないんだから
半島への出航地なんだから、朝鮮人が居ないのは当たり前。 @阿波 >日本稲作が半島から入っているのは確実なんだが、こちらから往訪して稲作を
>テイクアウトしただけだぞ
>菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一つも作ってないんだから
>日本稲作が半島から入っているのは確実なんだが
どこから入ってこようが関知しない。
>こちらから往訪して稲作をテイクアウトしただけだぞ
「忌部はん」 の進出が確認できればよい。
>菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一つも作ってないんだから
半島への出航地なんだから、朝鮮人が居ないのは当たり前。 @阿波 >>323
>菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一つも作ってないんだから
朝鮮人の着岸地は福津市( 万津浦)宗像方面なんだから、朝鮮土器は当然福津市( 万津浦)宗像方面から出土する。 @阿波
http://www.yado.co.jp/tiiki/munakan/Imagawaiseki/Imagawaiseki.htm >>329
誰も反論できないだけ! わははははは @阿波 >>330
誰も阿波の言う事を聞いてないだけなんじゃ >>332
恐ろしくて、耳をふさいでるだけ。 わははははは @阿波 理路整然と説明できる、阿波以外では考えられんでしょ。 わははははは @阿波 行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 >>333
たぶん耳を塞いでるんじゃなくて
塞がれてるんじゃ いつまでも箸墓だ、平原だ、言ってりゃいいってもんじゃないんだよ。 いい加減に目を覚ませ! @阿波 >>337
だれに? 上司に? 金づるに? @阿波 >>322
マスコミさん、
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は
とっくに負けたにもかかわらず
このように掲示板を荒らして
嫌がらせを繰り返しております
背景には何らかの組織的な力の存在も疑われます
大和説の実態を国民に暴いてスクープすれば
国民のためになるのではないか?と思われます
何とぞご検討のほうを宜しくお願いいたします >>323
>日本稲作が半島から入っているのは確実なんだが、こちらから往訪して稲作を
テイクアウトしただけだぞ
菜畑遺跡の弥生人たちは朝鮮土器を一つも作ってないんだから
ふーん、成程。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>344
>史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説は
>とっくに負けたにもかかわらず
>このように掲示板を荒らして
>嫌がらせを繰り返しております
この畿内説掲示板で嫌がらせや荒らしを執拗に繰り返しているのは
当然ながら畿内説の者じゃない
つまり>>344は
平気でウソを書いて畿内説に嫌がらせをしている男だ マスコミ各社の皆様へ
畿内説は妄想説であるにもかかわらずこのように九州説の指摘をはぐらかして
嫌がらせを繰り返しております
背景には何らかの組織的な力の存在も疑われます
畿内説の実態を国民に暴いてスクープすれば
また発行部数も伸びるのではないかと思います
何とぞご検討のほうを宜しくお願いいたします >>350
>畿内説は妄想説であるにもかかわらずこのように九州説の指摘をはぐらかして
>嫌がらせを繰り返しております
どんな指摘を「はぐらかし」た?
どんな「嫌がらせを繰り返し」た?
九州説が平気でウソを書いて
畿内説に嫌がらせをしているという
実例がどんどん積み重なって
帰納的に九州説の穢れが証明されるよ マスコミの皆様へ
畿内説は自己都合で生まれ、自己都合で終わりました。 >>351
どんな指摘を「はぐらかし」た?
どんな「嫌がらせを繰り返し」た?
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」や「畿内」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説が平気でウソを書いて
九州説に嫌がらせをしているという
実例がどんどん積み重なって
帰納的に大和説の穢れが証明されるよ ↑
こんな
>>354
>どんな「嫌がらせを繰り返し」た?
だから、九州説はこんな嫌がらせを繰り返してるよ
汚い連中だ >>354のように
そうやって九州説は平気でウソをつく
それを悪いとも思っていない
正常じゃない >>364
>だから、九州説はこんな嫌がらせを繰り返してるよ
汚い連中だ
マスコミさん、
だから、大和説は、>>272の、
「お前はサンフランシスコ平和条約は無効、竹島は韓国領、日本人拉致テロは日本側に原因があると
言い張っている土台人古田集団の反日有害朝鮮人」
のような、
言ってもいない事をでっち上げるような、
こんな嫌がらせを繰り返してるんですよね。
汚い連中ですよね。 >>366
そうやって、
「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」などの史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しや、
史料事実からの帰納的推論の古田説を、有りもしない曲解捏造した罵倒宣伝で、
大和説者は平気でウソをつく
それを悪いとも思っていない
正常じゃない 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>372
>大和説者は平気でウソをつく
何がウソだというんだ
証拠でもあるのか?
おまえら九州説は荒らしをして
ウソをついて
誹謗中傷するけど
研究も立論もしないよな 倭人伝の舞台は九州島だ。
不彌国を吉野ヶ里に置いて読めば、方角・里数ともにピタリ収まる。 >>376
>倭人伝の舞台は九州島だ。
絶対に、ない! @阿波 >>376
不彌国からさらに南に移動した先の
沖縄とか台湾あたりになる会稽東治の東が邪馬台国と魏志倭人伝には書いてるよ あの@阿波が、絶対に、ない!
と力説するからには、・・絶対にある。 >>376
まあ糸島も博多も通らない倭人伝解釈なんて、世間から可哀想なもの見るような視線を注がれるだけだな .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>373
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態にに拠って、×。
この大和説馬鹿のおかげで、大和説の嘘吐き騙しが露わに。 >>375
>>大和説者は平気でウソをつく
>何がウソだというんだ 証拠でもあるのか?
おまえら九州説は荒らしをしてウソをついて誹謗中傷するけど
研究も立論もしないよな
マスコミさん、
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、史料事実の曲解や否定が、
大和説者のウソなんですよね。 >>379
>不彌国からさらに南に移動した先の
沖縄とか台湾あたりになる会稽東治の東が邪馬台国と魏志倭人伝には書いてるよ
マスコミさん、
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この男(おそらく大和説者)は×人間であり、
また、不彌國で女王之所都への萬二千余里がほぼ終わってしまっているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の直ぐ南にある事になり、
「沖縄とか台湾あたり」とするこの男は、×であり、
また、「会稽東治の東」には、「沖縄とか台湾あたり」には全くならないから、
この男は、嘘吐き騙しであり、大和説は×なんですよね。 >>383
>日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
マスコミさん、
(姫氏の)呉王夫差の遺民の「公子忌」らは、当然、
いわば「着の身着のまま」での逃避行で、
海に入りて九州の倭地の火の国山門に上陸したんだから、
当然、生活用品も家なども持って来れる筈もなく、
現地の倭人の生活方式を模倣踏襲するしかなかったんですよね。
だから、この大和説男のクレームは、・・・・アホであり、×ですね。 >>389
>現地の倭人の生活方式を模倣踏襲するしかなかったんですよね。
異邦人がやって来たが、母国文化の影響一切持ち込まずって
言ってりゃ世間で笑いを取るだけさ >>389
記憶からの再現は?
呉王室のシンボル、鼎と龍くらい山門にいても再現できるだろ
それと漢字もな
おまえ全部破たんしてんだよゴミ中卒 >>387
>邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
>この男(おそらく大和説者)は×人間であり、
俺の説に反対するから人格非難するとか
俺の説と合わないからおまえの説は間違いとか
そんな論理で動く脳には
説を立てる活動は無理 >>386
>「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、史料事実の曲解や否定が、
>大和説者のウソなんですよね。
お前は「曲解」だって証拠出さないんだから
ウソだって証拠も無い
つまりお前は中傷しかしてない ザラコクとかいう中卒老人って、一言で言うと「裸の王様」って言葉がピッタリだなw
全部破たんして素っ裸なのに、延々と俺様は正しいと主張し続けている
いくら主張し続けたとて、おまえは素っ裸だよw >>390
>>現地の倭人の生活方式を模倣踏襲するしかなかったんですよね。
>異邦人がやって来たが、母国文化の影響一切持ち込まずって
言ってりゃ世間で笑いを取るだけさ
公子忌らは、着の身着のままの流民に等しい。 >>391
>記憶からの再現は?
呉王室のシンボル、鼎と龍くらい山門にいても再現できるだろ
公子忌らが、一般の生活用品などの製作法を知っていた筈がない。
>それと漢字もな
当然「大夫」という漢字は知っていた。
おまえのイチャモンは、全部破綻してんだよ、ゴミ大和説男。 >>392
>>邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、
この男(おそらく大和説者)は×人間であり、
>俺の説に反対するから人格非難するとか
俺の説と合わないからおまえの説は間違いとか
そんな論理で動く脳には 説を立てる活動は無理
違うな、誤魔化すなよ。
私が「非難する」のは、
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などのような、
大和説者らの、
史料事実や史料実態を否定や曲解する嘘吐き騙しの行為。 >>393
>>「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、史料事実の曲解や否定が、
大和説者のウソなんですよね。
>お前は「曲解」だって証拠出さないんだから
ウソだって証拠も無い
出している。「南→東」は曲解だし、人類の常識に反するウソであり、騙しだ。
つまりお前は中傷しかしてない >>394
大和説学者や、スレ主や、東大理系博士号や、大和説者らって、
一言で言うと「裸の王様」って言葉がピッタリだな
全部破たんして素っ裸なのに、延々と俺様は正しいと主張し、
大和説の誹謗を続けている
いくら主張し続けたとて、おまえは素っ裸だよ >>395
>公子忌らは、着の身着のままの流民に等しい。
ワシの説には証拠は要らないんじゃぁーという説は
嘲笑しか貰えません >>396
そこら辺でしょっちゅう弥生土器なんか作ってるんだから、輪に交わって、
粘土段階の浅鉢に三本足を付けてやるだけじゃねえかカス
で、「大夫」と書かれた漢字記録遺物は?
. >>398
>>お前は「曲解」だって証拠出さないんだからウソだって証拠も無い
>出している。「南→東」は曲解だし、
ほら、また言い張るだけで
「曲解」だって証拠出さない
>人類の常識に反するウソであり、騙しだ。
「常識」だって証拠出さない
「ウソ」だって証拠出さない
「騙し」だって証拠出さない
つまり九州説はインチキしか言わない >>400
>>公子忌らは、着の身着のままの流民に等しい。
>ワシの説には証拠は要らないんじゃぁーという説は
嘲笑しか貰えません
越王勾践に拠って、父の呉王夫差は殺されたんだから、
公子忌らは、全速力で逃げるだけ。
だから、着の身着のままの流民。 >>401
そこら辺でしょっちゅう弥生土器なんか作ってるんだから、輪に交わって、
粘土段階の浅鉢に三本足を付けてやるだけじゃねえかカス
回りは倭人ばかりであり、そんな中で、変な講釈や偉ぶった言葉を使えば、
今度は倭人からも、皆殺しにされかれんではないか。
>で、「大夫」と書かれた漢字記録遺物は?
魏志倭人伝の記録。 >>397
>私が「非難する」のは、
>「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などのような、
>大和説者らの、
>史料事実や史料実態を否定や曲解する嘘吐き騙しの行為。
つまり、根拠も何にも無い
「実態なのだ」という俺さまの説に反対するから
おまえの説は「嘘」だ「騙し」だ「曲解」だって
理由もなく、傲慢に罵ってるだけってことだよね
あまつさえ「議論隠蔽」だとか、あなた「嘘」ついてるよね
そんな狂った論理で動く脳には 他人の共感を得られる説を立てる活動は無理 >>406
着の身着のままの流民であっても、いくらだって記憶からの再現はできるだろがボケ
弥生人のみすぼらしい服装にちょこっと漢服の要素を取り入れて発表してやれば、
それだけで集落一のファッションデザイナーになって注目の的だぞ >>406
>越王勾践に拠って、父の呉王夫差は殺されたんだから、
>公子忌らは、全速力で逃げるだけ。
>だから、着の身着のままの流民。
だからワシの説には証拠は要らないんじゃぁー
という説は
嘲笑しか買えません >>404
>>>お前は「曲解」だって証拠出さないんだからウソだって証拠も無い
>>出している。「南→東」は曲解だし、
>ほら、また言い張るだけで「曲解」だって証拠出さな
普通の成人人類は、「東西南北」はほぼ間違えない、
という証拠を、数え切れない位書いて置いた。
>>人類の常識に反するウソであり、騙しだ。
大和説者は、「常識ではない」という証拠出さない
「ウソではない」だって証拠出さない
「騙しではない」だって証拠出さない
つまり大和説はインチキしか言わない >>407
で、「大夫」と書かれた国内の漢字記録遺物は?
. >>406
>越王勾践に拠って、父の呉王夫差は殺されたんだから、
>公子忌らは、全速力で逃げるだけ。
>だから、着の身着のままの流民。
船も無しにか?
w
w >>408
>>私が「非難する」のは、
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などのような、大和説者らの、
史料事実や史料実態を否定や曲解する嘘吐き騙しの行為。
>つまり、根拠も何にも無い
「実態なのだ」という俺さまの説に反対するから
おまえの説は「嘘」だ「騙し」だ「曲解」だって
理由もなく、傲慢に罵ってるだけってことだよね
あまつさえ「議論隠蔽」だとか、あなた「嘘」ついてるよね
そんな狂った論理で動く脳には 他人の共感を得られる説を立てる活動は無理
マスコミさん、
普通の成人人類は、「東西南北」はほぼ間違えない、
という事は、人類の常識であり、
この大和説男(おそらく東大理系博士号)は、それに一切答えず、
都合の悪い史料実態にも、「証拠は?」と永久に言い続ける議論テクニックで、
世間の人々を騙そうとする・・・・詐欺師なんですよね。 >>411
>普通の成人人類は、「東西南北」はほぼ間違えない、
>という証拠を、数え切れない位書いて置いた。
「ほぼ間違えないという証拠」?
そんなもの、どこに書かれてるの?
見たことないけど、実在するの?
捏造じゃないの?
書いたという証拠は?
>大和説者は、「常識ではない」という証拠出さない
そんな証拠出せと要求されてないし、出す必要も無いでしょ
いくら聞かれても、あなたは「常識だ」という証拠を出さない
これが「常識だという証拠がない」証拠になるね >>409
>着の身着のままの流民であっても、いくらだって記憶からの再現はできるだろがボケ
弥生人のみすぼらしい服装にちょこっと漢服の要素を取り入れて発表してやれば、
それだけで集落一のファッションデザイナーになって注目の的だぞ
公子忌らが、漢服の作り方など、知っている筈がないな。 >>414
>マスコミさん、
>普通の成人人類は、「東西南北」はほぼ間違えない、
>という事は、人類の常識であり、
「証拠は?」 >>410
>>越王勾践に拠って、父の呉王夫差は殺されたんだから、
公子忌らは、全速力で逃げるだけ。だから、着の身着のままの流民。
>だからワシの説には証拠は要らないんじゃぁー
という説は嘲笑しか買えません
「越王勾践らに拠って、父の呉王夫差は殺された」という事が根拠。 >>413
>>越王勾践に拠って、父の呉王夫差は殺されたんだから、
公子忌らは、全速力で逃げるだけ。だから、着の身着のままの流民。
>船も無しにか?w
通鑑前編には「海に入りて」と書かれているから、当然「船」を使った。 >>417
バーカ
弥生社会では土器も住居も衣服も自分たちで作るんだぞ
服を自分たちで作っているときに、まずは自分のために漢服の要素を取り入れた服を作るはずだろ
土器だって、まずは自分のために鼎や鬲や甑を作って
炊飯するはずだろ
自ずと故郷の文物の影響を受けたものができてくるはずじゃないの >>419
>「越王勾践らに拠って、父の呉王夫差は殺された」という事が根拠。
根拠にならないな
夫差は降伏の使者を送って、家来とともに追放するという返事を聞いては自殺したんだもの
立派なお墓もちゃんと作ってもらってるし
息子が着の身着のまま全速力で逃げる理由なんてない >>420
>通鑑前編には「海に入りて」と書かれているから、当然「船」を使った。
じゃあ船ごと九州に来てるんだろ?
着の身着のままって嘘だよね >>414
>マスコミさん、
>普通の成人人類は、「東西南北」はほぼ間違えない、
>という事は、人類の常識であり、
>この大和説男(おそらく東大理系博士号)は、それに一切答えず、
「それに一切答えず」?
あんたは「証拠は?」って聞かれたんだろ?
返事があったんだろ?
あんた、またウソついたじゃないか >>407
>>419
で、「大夫」と書かれた国内の漢字記録遺物は?
. >>421
>バーカ
弥生社会では土器も住居も衣服も自分たちで作るんだぞ
服を自分たちで作っているときに、まずは自分のために漢服の要素を取り入れた服を作るはずだろ
土器だって、まずは自分のために鼎や鬲や甑を作って
炊飯するはずだろ
自ずと故郷の文物の影響を受けたものができてくるはずじゃないの
嘘つき騙しの詐欺師のアーホ。
公子忌らは、呉王夫差の子だから、服も作れず、土器や鼎や鬲や甑の作る事も、
殆ど出来なかったの。 >>422
>>「越王勾践らに拠って、父の呉王夫差は殺された」という事が根拠。
根拠にならないな
夫差は降伏の使者を送って、家来とともに追放するという返事を聞いては自殺したんだもの
立派なお墓もちゃんと作ってもらってるし
息子が着の身着のまま全速力で逃げる理由なんてない
自殺したんなら、殺されたのと同じであるし、
公子忌らは、自殺させられるのが怖いから、逃亡して流民になった。 >>426
じゃあ死ぬしかねえじゃん
弥生社会では土器も衣服も住居もぜーんぶぜんぶ自分たちで作るもの
死ぬくらいなら、土器も衣服も住居も作れるようになるだろがカス
甘えるな! >>427
>自殺したんなら、殺されたのと同じであるし、
命は許すと言われたのに自分の意思で自殺したんだから
殺されたのと同じというのはウソ
>公子忌らは、自殺させられるのが怖いから、逃亡して流民になった。
親父の夫差だって自殺させられてないのに
小さい領地もらえるはずだったのに
好き好んで流民になるとか妄想でしょ
船にも乗って来たのに、なんで着の身着のまま流人なの? >>423
>>通鑑前編には「海に入りて」と書かれているから、当然「船」を使った。
>じゃあ船ごと九州に来てるんだろ?
着の身着のままって嘘だよね
当然、船で九州へ、東シナ海の横断直行するような冒険をする筈がない。
山東半島まで沿岸航行し、半島の長串岬へ島伝い航行をし、
更に、半島西岸南岸を沿岸航行するか?、半島を縦断するか?して、
東南端付近から、南へ海峡を横断して、「火の国」まで逃げた。 倭人伝の舞台は九州島だ。
但し糸島や博多奴津を経由する必要はない。あそこは先住の渡来人だが、帯方郡に征服された奴婢だからね。
それよりも、末盧国東南の吉野ヶ里を不彌国として読めば、方角・里数ともにピタリ収まる >>427の訂正
>>「越王勾践らに拠って、父の呉王夫差は殺された」という事が根拠。
>根拠にならないな
夫差は降伏の使者を送って、家来とともに追放するという返事を聞いては自殺したんだもの
立派なお墓もちゃんと作ってもらってるし
息子が着の身着のまま全速力で逃げる理由なんてない
自殺したんなら、殺されたのと同じであるし、
公子忌らは、自殺させられるのが怖いから、逃亡して流民になった。 >>428
>じゃあ死ぬしかねえじゃん
弥生社会では土器も衣服も住居もぜーんぶぜんぶ自分たちで作るもの
死ぬくらいなら、土器も衣服も住居も作れるようになるだろがカス
甘えるな!
公子忌は、呉王夫差の子。
土器も衣服も住居も、造り方を知らない。 >>437
>>自殺したんなら、殺されたのと同じであるし、
>命は許すと言われたのに自分の意思で自殺したんだから
殺されたのと同じというのはウソ
自殺したんなら、越王勾践に負けたからであり、殺されたのと同じ。
>>公子忌らは、自殺させられるのが怖いから、逃亡して流民になった。
>親父の夫差だって自殺させられてないのに
小さい領地もらえるはずだったのに
好き好んで流民になるとか妄想でしょ
船にも乗って来たのに、なんで着の身着のまま流人なの?
親父の夫差が小さい領地に閉じ込められるんなら、公子忌は、公子でなくなり、
まともに生きていけなくなるんだから、当然早く逃げて、流民となる。 >>438
>自殺したんなら、越王勾践に負けたからであり、殺されたのと同じ。
命は助けるって言われたのに勝手に自殺したんだから
殺されたというのもウソ
息子も殺される危険はない
>親父の夫差が小さい領地に閉じ込められるんなら、公子忌は、公子でなくなり、
>まともに生きていけなくなるんだから、当然早く逃げて、流民となる。
領主になれるのに流民になるとか
あり得ない インチキ系図が最後の頼みって
九州説も落ちるところまで落ちたもんだ 「加茂宮ノ前遺跡(縄文時代)」
阿南市加茂町にある加茂宮ノ前遺跡のは発掘調査では注目すべき成果がいくつもあった。
その一つに縄文時代後期(約4千〜3千年前)の集落跡の発見を挙げることが出来る。
集落跡からは、竪穴住居2軒のほか、屋外炉(火を燃やした跡)、土坑などが見つかった。
注目されるのは、県内で初めて確認された円形配石遺構16基だ。
1基の円形配石遺構は、直径が1〜3m。
人の頭よりやや大きい砂岩の河原石を円形に並べたもので、円の内部には小石や、白色の小円礫(砂利)が敷き詰められていた。
また、16基あるサークルが一部重なり合っていることや出土した地層に高低差があることから、
全ての円形配石遺構が同時期に作られたのではなく、長期間にわたって順に造られたと考えられる。
配石遺構は、主に祭祀施設として利用されたと考えられる。
縄文時代前期から中期(約7千〜4千年前)ごろ、中部地方を中心として直径が50mを超えるような環状列石(ストーンサークル)が造られるようになった。
後期に入ると、その分布は東北地方にまで広がる。
一方、西日本では、こうした大型の環状列石は造られることはなく、代わりに小型の円形配石遺構が造られた。
しかし、発見された遺構は極めて少ない。
円形配石遺構が竪穴住居に近接している加茂宮ノ前遺跡の場合、日常生活と祭祀をした場所が一体として発見された稀な例として、全国的に注目されている。
(県埋蔵文化財センター事業課長・氏家敏行)
2019年(令和元年)6月30日 徳島新聞朝刊 「加茂宮ノ前遺跡(弥生時代)」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡は、那賀川の右岸、標高24〜26mの自然堤防上に立地している。
発掘調査で弥生〜古墳時代集落の中心部を確認した。
それ以前の調査成果と合わせ、竪穴住居が約100軒発見されたことになる。
県内の他の弥生時代集落では、鉄器が製作されたとみられる竪穴住居は各集落の中で1,2軒程度しかない。
ところが、加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居の約半数では、鉄器を生産していたことを示す鍛冶炉が複数設けられていた。
生産に関わる道具類と鉄鏃などの製品も出土した。
背景には、水銀朱の生産との関連が考えられる。
これまでの発掘調査で、石臼や石杵といった水銀朱の生産に使った道具類のほか、原材料となる辰砂が大量に出土している。
その流通ネットワークを通じて、当時の最先端技術だった鉄器の製作法とその原料の鉄が持ち込まれたと推測できる。
加茂宮ノ前遺跡の弥生時代中期末〜後期初頭の竪穴住居からは、稀少な装飾品も多数発見された。
この時期の県内の他の遺跡からは、ガラス小玉や凝灰岩製管玉などが数点しか出土していない。
加茂宮ノ前の集落が繁栄していた証といえる。
県内の弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例は、県内では加茂宮ノ前遺跡が初めてだ。
それ以外は鳴門市大麻町の光勝院寺内遺跡、徳島市名東町の名東遺跡、徳島市国府町の矢野遺跡など、いずれも吉野川下流域の遺跡に限られていた。
(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲)
2019年(令和元年)7月 1日 徳島新聞朝刊
https://www.topics.or.jp/articles/-/69979 >>440
>命は助けるって言われたのに勝手に自殺したんだから
殺されたというのもウソ息子も殺される危険はない
勿論、「自殺した」という情報も、当然勝者の越王勾践側からの情報であり、
絶対性はない。
>領主になれるのに流民になるとかあり得ない
これも同じ。
起こった事実は、呉王夫差は越王勾践に負けて死に、
公子忌は、海に入りて倭になった、という事まで。 >>441
起こった事は、呉王夫差は越王勾践に負けて死に、
公子忌は、海に入りて倭になった、という歴史実態であり、
その事を記録した松野氏姫氏系図を「インチキ系図」と断定し、
「南→東」や「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定をして、
世間の人々を騙そうとするとは、
大和説も落ちるところまで落ちたもんだ >>446
事実だ、なんて証拠も無しに断定するのは非学問の九州説ら椎名
史書はまるまる無視
出所不明の系図だけ盲信とは
w >>448
>事実だ、なんて証拠も無しに断定するのは非学問の九州説ら椎名
史書はまるまる無視
ダメだ。
その「史書」とやらは、当然勝った越王勾践側からの情報や記録であり、
勾践は、当然、自分らを悪人ししたくないのであり、信用出来ない。
>出所不明の系図だけ盲信とはw
都合の悪い系図は、何でも否定とか、は、
嘘吐き騙しの詐欺師の所業だな。 >>451の小訂正
>>448
>事実だ、なんて証拠も無しに断定するのは非学問の九州説ら椎名
史書はまるまる無視
ダメだ。
その「史書」とやらは、当然勝った越王勾践側からの情報や記録であり、
勾践は、当然、自分らを悪人にしたくないのであり、信用出来ない。
>出所不明の系図だけ盲信とはw
都合の悪い系図は、何でも否定、とかするのは、
嘘吐き騙しの詐欺師の所業だな。 >>452
>都合の悪い系図は、何でも否定、とかするのは、
この薄馬鹿が
常識ある人間が、出所不明情報なんて信用するわけないだろ
そんなの、突然知らない人間からかかって来た電話と同じなんだよ
信用する奴はうすらばか
知能ある人間はまず、そんなの詐欺だろうと疑うんだよ >>453
>>都合の悪い系図は、何でも否定、とかするのは、
>この薄馬鹿が
常識ある人間が、出所不明情報なんて信用するわけないだろ
そんなの、突然知らない人間からかかって来た電話と同じなんだよ
信用する奴はうすらばか
知能ある人間はまず、そんなの詐欺だろうと疑うんだよ
この薄馬鹿が。
常識ある人間は、情報の出目などの史料批判をせずに、
その情報を全面的に信用したり採用したりする筈がないだろ?。
そんなの、突然知らない人間からかかって来た電話と同じなんだよ
信用する奴はうすらばか
知能ある人間はまず、何故そんな情報の電話がかかって来たのか?を考えるんだよ。 >>455
>常識ある人間は、情報の出目などの史料批判をせずに、
>その情報を全面的に信用したり採用したりする筈がないだろ?
ところがお前は史料批判しなかった
出所不明の系図を盲信した
何故か?
ばかだからだ マスコミ各社の皆様へ
畿内説は妄想説であるにもかかわらずこのように九州説の指摘をはぐらかして
嫌がらせを繰り返しております
背景には何らかの組織的な力の存在も疑われます
畿内説の実態を国民に暴いてスクープすれば
また発行部数も伸びるのではないかと思います
何とぞご検討のほうを宜しくお願いいたします 畿内説の成分分析の結果がでました
畿内説を構成する要素
@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。 マスコミ各社の皆様へ
九州説はこのようにまるで白い布で世間を騒がせた新興宗教のように狂的です
この実態を面白おかしく記事にすれば部数の売り上げも伸びるのではないかと思われます
ご検討のほうを宜しくお願いします >>456
>>常識ある人間は、情報の出目などの史料批判をせずに、
その情報を全面的に信用したり採用したりする筈がないだろ?
>ところがお前は史料批判しなかった
出所不明の系図を盲信した
何故か?ばかだからだ
当然、史料批判をしており、
その内容は、「松野氏姫氏系図」に関する議論で、何度も書いた。 旧来の九州・畿内邪馬台国スレッドの凋落が痛々しいかぎりだ。 いと哀れなり! @阿波 >>459
マスコミ各社の皆様へ
大和説は、「南→東」や「正北抵新羅の否定」などのように、
「東西南北」の方向記載の史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しをしており、
まるで白い布で世間を騒がせた新興宗教のように狂的です
この実態を面白おかしく記事にすれば部数の売り上げも伸びるのではないかと思われます
ご検討のほうを宜しくお願いします 倭人伝の舞台は九州島だ。
末盧国東南の吉野ヶ里を「不彌国」と置いて読めば、方角・里数ともにピタリ収まる .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 畿内の伝統的文盲w
ヤマト政権は字が読めなかったので邪馬壹国(シャマイゴ)をヤマトと読んでしまったのです。
また、魏志倭人伝に記載のある市場の監視役だった「大倭」という文字をヤマトの当て字に使うなど、文字文化の遅れを感じさせます。
@卑弥呼時代の魏志倭人伝に登場するのは邪馬「壹」国(シャマイゴ)
Aその後ヤマト政権が朝貢する時代の文献では邪馬「臺」国または邪靡堆国(シャマタイゴ)
江戸時代の新井白石や本居宣長らが@とAの違いに気付き、大和と邪馬台国は別物であると言い出したのが邪馬台国論争の始まり。
現在の畿内説は@の時代からヤマタイコクだったという主張で、九州説は@Aは別物または@がAに移動したという主張である。
しかし旧唐書によると日本列島には「倭国」と「日本国」が別種と記述されており、邪馬台国九州説であれば矛盾は無い。
※倭国は元倭奴国であり漢委倭奴国王の金印は福岡県で発見されている >>469
九州のどこにシャマイゴなんて名前の国があったの? マスコミ各社の皆様へ
九州説の騒乱っぷりはかつて世間を騒がせた引っ越しおばさんに勝るとも劣りません
記事にまとめれば同じように大いに世間の話題を集めて
販売部数も伸びるのではと思われます
宜しくご検討をお願い致します >>462
>当然、史料批判をしており、
>その内容は、「松野氏姫氏系図」に関する議論で、何度も書いた
またウソでしょ
なんと書いたか、聞いても答えないでしょ?
史料批判したなら、情報出所はどうして不明のままなの?
出所不明情報など誰も信用しなくて当然だよ >>472
マスコミさんへ
「南→東」や「正北抵新羅の否定」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
大和説の騒乱っぷりはかつて世間を騒がせた引っ越しおばさんに勝るとも劣りません
記事にまとめれば同じように大いに世間の話題を集めて
販売部数も伸びるのではと思われますね
宜しくご検討をお願い致します >>474
>>当然、史料批判をしており、
その内容は、「松野氏姫氏系図」に関する議論で、何度も書いた
>またウソでしょ
なんと書いたか、聞いても答えないでしょ?
史料批判したなら、情報出所はどうして不明のままなの?
出所不明情報など誰も信用しなくて当然だよ
松野氏姫氏系図は、江戸期末に鈴木真年氏(後の東大教授)が、松野氏の末裔を探し当てて、
系図を筆写し、国立国会図書館と静嘉堂に保存された事。
呉王夫差の姓は姫氏であり、倭國王らが姫氏であった事は、
日本書紀私記や野馬臺詩などにも記載されている事。
新撰姓氏録にも松野氏が呉王夫差の後裔である事が記され、
中国文献でも、魏略〜通鑑前編の史書にも呉王夫差の遺民が渡来して来た事が記載されている事。
系図には、
元の系図伝承での「右注」説明と、後に追加された「左注」説明とが書き分けられ、
また、火の国山門に渡来した公子忌と、その500年位後の漢委奴國王の間には、
8代しかなく、1代平均60年位しかなく、
普通の婚姻年齢の20歳位には全く届かず、かなりの記載漏れがあり得え、
そのような系図欠損の存在が、逆に、
松野氏姫氏系図が造作していなかった、という事の証拠になる事。 >>477
>松野氏姫氏系図は、江戸期末に鈴木真年氏(後の東大教授)が、松野氏の末裔を探し当てて、系図を筆写し、
おいおい
その話からして出所不明だろうが
ばかじゃないのか?
誰かに指摘されてたろ
おまえ、答えられなかったじゃないか 松野連系図なんて言ってるの、この板だけだっての
考古学者の誰一人として松野連系図なんて喚いている先生などいない
それはなぜか?
ただ単純に偽書だから >>478
>>松野氏姫氏系図は、江戸期末に鈴木真年氏(後の東大教授)が、
松野氏の末裔を探し当てて、系図を筆写し、
>おいおい
その話からして出所不明だろうが
ばかじゃないのか?
Yahoo時代の議論で、大和説学者?のmkpoや天誅らが紹介してくれた事。
古田説派の室伏氏や内倉氏も記載していた。
>誰かに指摘されてたろ
おまえ、答えられなかったじゃないか
知らんな。
2chや5chの・・・・アホ大和説者の投稿など、関心がないから、殆ど読んでいないよ。 >>479
>松野連系図なんて言ってるの、この板だけだっての
マスコミさんらは、どう思っているのか?は知らんが、
世間では、
https://ameblo.jp/hirom0211/image-12444947549-14367638746.html
にも書かれているように、「ビグ」というお嬢様も書いておられる。
>考古学者の誰一人として松野連系図なんて喚いている先生などいない
それはなぜか?ただ単純に偽書だから
マスコミさん、
大和説考古学者らは、単純に全員、
「南≠東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などのような、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの、・・・・アホ詐欺師であるから、
ですよね。 マスコミ各社の皆様へ
畿内説は妄想説であるにもかかわらずこのように九州説の事実を隠蔽したり
嫌がらせを繰り返しております
背景には何らかの組織的な力の存在も疑われます
畿内説の実態を国民に暴いてスクープすれば
また発行部数も伸びるのではないかと思います
何とぞご検討のほうを宜しくお願いいたします 大学教授とかまともな立場にある人の主流は
九州説でも畿内説でもなく東遷説だからな
九州説では1〜2世紀の衰退が説明できないし
畿内説では鉄が少なく発展の始まりが遅いが
東遷説だとどっちも説明できる >>484
>大学教授とかまともな立場にある人の主流は
九州説でも畿内説でもなく東遷説だからな
東遷説では、根本的に、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態が説明出来ないし、
大和の「日本國者倭國之別種也」や「東征毛人五十五國」などの説明も出来ないし、
弥生銀座や糸島や筑後〜久留米や肥後の繁栄も説明出来ないから、×。
>九州説では1〜2世紀の衰退が説明できないし
九州の「1〜2世紀の衰退」など、存在しないから、×。
>畿内説では鉄が少なく発展の始まりが遅いが
東遷説だとどっちも説明できる
根本的に、卑弥呼の女王之所都は大野付近〜安徳台付近になるから、東遷説も×。 >>484
>九州説でも畿内説でもなく東遷説だからな
どこへ東遷したんだい? @阿波 >>480
>大和説学者?のmkpoや天誅
不明
>室伏
大阪府立隔週定時制高校勤務、文芸評論家
>内倉
慰安婦偽証で商売したアカヒの記者 >>484
1〜2世紀は九州に限らず倭国大飢饉の時代だから畿内の唐古鍵も同様に衰退している
なお近畿→瀬戸内→大分→福岡へと畿内式土器が広まっているのは避難民が移住した痕跡であると考えるのが妥当
畿内に鉄が無いのは銅鐸や銅鏡などの青銅品に拘りを持つ文化圏だったからだと思われる
つまり鉄の邪馬台国vs青銅の狗奴国 >>480
>>>松野氏の末裔を探し当てて、系図を筆写し、
>>おいおい
>>その話からして出所不明だろうが
>>ばかじゃないのか?
>Yahoo時代の議論で、大和説学者?のmkpoや天誅らが紹介してくれた事。
つまりネットで小耳に挟んだだけってことだ
それどころか、そのお前の言っていることが真っ赤なウソでないという保証すらない
つまり「松野連系図」は出所不明の怪情報ということだ
そんなものを信じるのは電話でオレオレ詐欺に騙される老人くらいだ >>484
>九州説でも畿内説でもなく東遷説だからな
どこへ東遷したんだい? まさかドツボの奈良盆地じゃないよね? 東遷信者さん。 わははははは @阿波 >>489
>1〜2世紀は九州に限らず倭国大飢饉の時代だから畿内の唐古鍵も同様に衰退している
だから、灌漑稲作も壊滅状態なんだよ。 なんとか生き延びられたのは「忌部はん」 の雑穀栽培普及のお陰。
>なお近畿→瀬戸内→大分→福岡へと畿内式土器が広まっているのは避難民が移住した痕跡であると考えるのが妥当
畿内に軽量薄型土器の発祥はない。 軽量薄型土器が広まったのも、「忌部はん」 のお陰。 わははははは @阿波 1〜2世紀の九州の衰退は具体的には
伊都国を除いた九州北部地域で有力者の墓や集団墓がなくなる
これはさすがに否定できないだろ
勉強してませんて言ってるようなもの
そして1世紀に大阪の池上曽根遺跡や静岡の登呂遺跡が現れる >>484
>九州説でも畿内説でもなく東遷説だからな
どこへ東遷したんだい? まさかドツボの奈良盆地じゃないよね? 東遷信者さん。 わははははは @阿波 九州の王になれない分家の王族が日本の東の方に移住して成功したと思われる
それをみた九州の王は移住して東の文化レベルが低い人たちを丸め込んで
統治できると考えたとしてもおかしくはない
卑弥呼東遷は場当たり的なものではなく勝算があってのこと >>519
>九州の王になれない分家の王族が日本の東の方に移住して成功したと思われる
根拠のないつまらん妄想かい。 わははははは @阿波 >>519
いつも東遷信者は、どこへ東遷したんだい? と聞かれると返答に窮してのたうち回る。 わははははは @阿波 >>519
結局、物部東遷説も、奈良盆地でドツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ。 畿内説同様にね。 @阿波 >>522 卑弥呼が最初に引っ越したのは滋賀県の伊勢遺跡だと思うよ
円形に建物を配置した宗教都市で稲作とかの跡がないし年代も合う
そして銅鐸文化だったのでこれを廃止して銅鏡にかえた
纏向への移転はこのあと
それぞれの遺跡の年代から可能性としてありえるでしょ >>524
>卑弥呼が最初に引っ越したのは滋賀県の伊勢遺跡だと思うよ
冗談に付き合ってあげるとして、滋賀県の伊勢遺跡より、「加茂宮ノ前遺跡」が遥かにふさわしいと思うよ。 わははははは @阿波 各地の土器の集まり方は重要でしょ
卑弥呼は30国の女王だよ >>525
>阿波は各地の土器の集まり方が畿内に負けてる
阿波から、全国各地へ拡散して行ってるんだから当たり前の事象だよ。
ただし、「若杉山辰砂採掘遺跡」などへは、辰砂の取引で来ているようだ。 @阿波 >>527
>各地の土器の集まり方は重要でしょ
全国各地の「忌部はん」 が、「古墳造営前線基地」に馳せ参じただけのこと! わははははは @阿波 >>489
>1〜2世紀は九州に限らず倭国大飢饉の時代だから畿内の唐古鍵も同様に衰退している
なお近畿→瀬戸内→大分→福岡へと畿内式土器が広まっているのは避難民が移住した痕跡であると考えるのが妥当
倭国が大飢饉であったのか?は、絶対的な根拠にならず、
九州倭國の東征毛人五十五國に拠って、福岡の弥生銀座→大分→瀬戸内→近畿に、筑紫式の土器が広まった。
>畿内に鉄が無いのは銅鐸や銅鏡などの青銅品に拘りを持つ文化圏だったからだと思われる つまり鉄の邪馬台国vs青銅の狗奴国
畿内も邪馬台国も存在せず、狗奴國は「火の国」であるから、×。 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼の陵墓 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼の陵墓 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>531
>九州倭國の東征毛人五十五國に拠って、福岡の弥生銀座→大分→瀬戸内→近畿に、筑紫式の土器が広まった。
なんの証拠も無い
ってか
通説に真っ向から反対するのに
なんも理由言わずじゃ
誰が信用するんだ
ばかだろ >>484
東遷説をを唱えている大学教授の名前を挙げてみな
もちろん心理学者は畑違いだから専門の考古学者でな >>498
>1〜2世紀の九州の衰退は具体的には
伊都国を除いた九州北部地域で有力者の墓や集団墓がなくなる
これはさすがに否定できないだろ
勉強してませんて言ってるようなもの
伊都国を含めた九州北部地域で有力者の墓や集団墓がなくなっていない。
>そして1世紀に大阪の池上曽根遺跡や静岡の登呂遺跡が現れる
池上曽根は、貨銭が出土している事などに拠って、
九州倭国の「東征毛人五十五國」で出来た国であり、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職」がいた国で会ったんだろうと、思われる。
登呂は、それがなく、やはり毛人と出雲系部族との混合地であった、と考えられる。 >>517
>九州の王になれない分家の王族が日本の東の方に移住して成功したと思われる
それをみた九州の王は移住して東の文化レベルが低い人たちを丸め込んで
統治できると考えたとしてもおかしくはない
卑弥呼東遷は場当たり的なものではなく勝算があってのこと
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
卑弥呼は東遷しておらず、×。 >>524
>卑弥呼が最初に引っ越したのは滋賀県の伊勢遺跡だと思うよ
円形に建物を配置した宗教都市で稲作とかの跡がないし年代も合う
そして銅鐸文化だったのでこれを廃止して銅鏡にかえた
纏向への移転はこのあと
それぞれの遺跡の年代から可能性としてありえるでしょ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
卑弥呼は東遷しておらず、纏向への移転も×。
伊勢遺跡も、
九州倭國の東征毛人五十五國の主力軍と、出雲系や越系部族との共存地域であり、
大和や纏向は、東征主力軍の後で、別動隊が征服した地。 畿内の古墳には阿蘇石が使われてるし、結局は九州勢が占拠したんだな >>538
>九州倭國の東征毛人五十五國の主力軍と
とか、お笑い
畿内の大王が「東征毛人五十五國」したってのが
教科書にも載ってる定説なの
理由も言わずに素人が「オレ様の意見」を結論だけ言い張って
誰がマトモに信用すると思うの?
ひとは理由を聞いて納得するのにさ >>539
阿蘇石?
下っ端家来がヘコヘコお辞儀しながら献上しただけでしょ >>527
>各地の土器の集まり方は重要でしょ
卑弥呼は30国の女王だよ
卑弥呼は「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
筑紫の女王であり、その女王之所都は、おそらく大野〜安徳台であり、
弥生銀座が、邪馬壹國女王之所都の中心地であり、
各地の国や東征毛人五十五國の「市」交易の中心地。
土器も、 >>532
まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼の都は「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」、
などの史料実態に拠って、
ハイ終了
大和説解散! >>533
>>九州倭國の東征毛人五十五國に拠って、福岡の弥生銀座→大分→瀬戸内→近畿に、筑紫式の土器が広まった。
>なんの証拠も無い
ってか
通説に真っ向から反対するのに
なんも理由言わずじゃ
誰が信用するんだ
ばかだろ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態の、
曲解や否定をする嘘つき騙しの通説学者や大和説学者を、
誰が信用するんだ?、
バカだろ?。 >>534の小訂正
>>498
>1〜2世紀の九州の衰退は具体的には
伊都国を除いた九州北部地域で有力者の墓や集団墓がなくなる
これはさすがに否定できないだろ
勉強してませんて言ってるようなもの
伊都国を含めた九州北部地域で、有力者の墓や集団墓がなくなっていない。
>そして1世紀に大阪の池上曽根遺跡や静岡の登呂遺跡が現れる
池上曽根は、貨銭が出土している事などに拠って、
九州倭国の「東征毛人五十五國」で出来た国であり、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職」がいた国であったんだろうと、思われる。
登呂は、それがなく、やはり毛人と出雲系部族との混合地であった、と考えられる。 >>548
>池上曽根は、貨銭が出土している事などに拠って、
>九州倭国の「東征毛人五十五國」で出来た国であり、
トンデモ説さんは「東征毛人五十五國って
いつの時代にやった設定を作ってるの?
デタラメすぎない?
他の人はみんな最低でも高校卒業程度の学力あるんだよ >>540
>畿内の大王が「東征毛人五十五國」したってのが
教科書にも載ってる定説なの
理由も言わずに素人が「オレ様の意見」を結論だけ言い張って
誰がマトモに信用すると思うの?
ひとは理由を聞いて納得するのにさ
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、
「東征毛人五十五國」をしたのは、九州倭國の将軍らなのであり、
「畿内」なんても存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
教科書会社も大和説を定説とする大和説学者も、
国民を騙そうとする犯罪者であり、・・・・アホ人種なの。 >>549
>>池上曽根は、貨銭が出土している事などに拠って、
九州倭国の「東征毛人五十五國」で出来た国であり、
>トンデモ説さんは「東征毛人五十五國っていつの時代にやった設定を作ってるの?
デタラメすぎない?
他の人はみんな最低でも高校卒業程度の学力あるんだよ
倭王武の上表文は「自昔・・・東征毛人五十五國」と書かれており、
倭王武は、当然「国生み神話」時代からの、
出雲攻撃や淡路確保や神武ら東征なども含めて「自昔」と書いたんだろう、
という事になる。 >>550
>「東征毛人五十五國」をしたのは、九州倭國の将軍らなのであり、
だからそうやって理由も言わず
定説と正反対の結論だけ連呼して
いったい誰が納得してくれると思うの?
それだから九州説はトンデモとして死んでいくんだよ >>551
>倭王武は、当然「国生み神話」時代からの、
>出雲攻撃や淡路確保や神武ら東征なども含めて「自昔」と書いたんだろう、
>という事になる。
九州って、またそれかよ
国生み神話と倭王武の関係なんにも言わないで唐突っていうか
どこが「当然」なの
狂ってない?
国生み神話って畿内から広がってきから
九州王朝を否定してますけど >>541
機内式土器?
下っ端家来がヘコヘコお辞儀しながら献上しただけでしょ 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>550
>教科書会社も大和説を定説とする大和説学者も、
>国民を騙そうとする犯罪者であり、・・・・アホ人種なの。
あたま狂った放言ばかと呼ばれたくなくば
九州説は
その証拠だすように >>553
>国生み神話って畿内から広がってきから
狗奴国ですからね >>554
>機内式土器?
>下っ端家来がヘコヘコお辞儀しながら献上しただけでしょ
そんなものを王が祖先祭祀に使わない >>557
理由一言も言わない九州説
それはクズ説 >>556
>その証拠だすように
そりゃ、無理というもの。 証拠を出せるのは、阿波だけなんだから。 わははははは @阿波 まさかアホの学者でもすべての渡来人が対馬海峡経由で上陸したなんて考えてないよな?
九州、出雲、京都、福井、富山などから上陸し、それぞれ内陸へと開拓していったわけよ
そして畿内式土器の分布と重なるのがこれだ
↓
乾燥耳垢:近畿上陸組の渡来人(ツングース系)
湿潤耳垢:縄文系弥生人(本来の日本人)
https://i.imgur.com/wPgk6Bx.png
参考)
耳垢の違い=DNAの違い
https://i.imgur.com/IbqopHU.png >>560
>空想で返すな珍カスw
いや、通説の返しだ >>556
>その証拠だすように
そりゃ、無理というもの。 証拠を出せるのは、阿波だけなんだから。 わははははは @阿波 >>552
>>「東征毛人五十五國」をしたのは、九州倭國の将軍らなのであり、
>だからそうやって理由も言わず
理由は何度も言っている。
「自昔・・・東征毛人五十五國」という上表文を書いたのは、倭國王武であり、
その倭國は、「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」に拠って、九州にあった国だ。
史料事実や祖量実態やと正反対の結論だけ連呼する大和説学者や、
その学者らが連呼する嘘吐き騙しの「定説=大和説」を、
いったい誰が納得してくれると思うの?
それだから大和説はトンデモとして死んでいくんだよ .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>553
>>倭王武は、当然「国生み神話」時代からの、
出雲攻撃や淡路確保や神武ら東征なども含めて「自昔」と書いたんだろう、
という事になる。
>九州って、またそれかよ
全て、史料事実や史料実態からの、帰納的確率的な推論をしているだけだ。
>国生み神話と倭王武の関係なんにも言わないで唐突っていうか
どこが「当然」なの狂ってない?
倭國王武は「自昔・・・東征毛人五十五國」をして来た、と上表しているんであり、
九州倭國の建国頃からの東方地域への征伐戦は、全て、
「東征毛人五十五國」であった、という事になるのだ。
>国生み神話って畿内から広がってきから
九州王朝を否定してますけど
九州倭國の国生み神話は、「東征毛人五十五國」の中の征伐戦の一つであり、
出雲との勢力争い戦争を含めて、越付近まで達しており、
瀬戸内地域の国生み戦争も、同じ頃から始まった事になる。 >>555
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などに拠って、×。
馬鹿のおかげで、大和説学者らのインチキ騙しが露わに。 >>557
>>国生み神話って畿内から広がってきから
九州から、
日本海側を越位までと、瀬戸内を通って淡路付近までであるから、×。
>狗奴国ですからね
「南≠東」などに拠って、×。 >>559
史料事実や史料実態の根拠や理由一言も言えない大和説
それは、嘘吐き騙しのクズ説 >>574
>理由は何度も言っている。
>「自昔・・・東征毛人五十五國」という上表文を書いたのは、倭國王武であり、
>その倭國は、「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」に拠って、九州にあった国だ。
だから、そういうタワゴトを誰も「理由」と認めてくれないのか、考えてみろよ
常識ある人が5世紀の史料を11世紀の史料で解釈変えるかどうか
考えてみろよ
なぜ「自昔・・・東征毛人五十五國」という上表文を書いたのは畿内の大王だというのが昔も今も常識なのか、考えてみろよ
そして
京都に都がある国のことを「正北抵新羅の倭國」って書いてる事実を見ろよ、目を逸らさないでさ
なぜ九州説が学問的に相手にされなくなったか
明らかだろ? 4世紀の古墳を3世紀の根拠であるかの様に印象操作する畿内説は論外 >>582
>史料事実や史料実態の根拠や理由一言も言えない大和説
そんな事実があると言い張るなら
証拠出せよ >>565
まさか「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しのアホの大和説学者でも、
すべての渡来人が対馬海峡経由で上陸したなんて考えてないよな?
出雲の「国引き神話」にもあるように、
出雲でさえも、新羅や越は北朝鮮やウラジオストック方面から国を引いている訳よ。 ホケノ山古墳も4世紀濃厚
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」 >>579
>>>国生み神話って畿内から広がってきから
>九州から、
>日本海側を越位までと、瀬戸内を通って淡路付近までであるから、×。
口先で言い張るんじゃなくて、証拠出せよ
「九州説は史料から帰納する」ってのがウソだって証拠ばかり増やすな >>566
「南→東」や「正北抵新羅の無視」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの大和説
それは非科学 >>584
>4世紀の古墳を3世紀の根拠であるかの様に印象操作する畿内説は論外
証拠出してから言いな >>567
>>空想で返すな珍カスw
>いや、通説の返しだ
いや、通説大和説は、「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをしているから、×だ。 >>571
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
理由の言えない大和説は、
トンデモ説 >>583
だから、何故そういうタワゴトを誰も「理由」と認めてくれないのか?を、考えてみろよ
常識ある人が、
5世紀の倭國王武の上表文の「自昔・・・東征毛人五十五國」の倭國が、
11世紀の唐会要倭國伝の「正北抵新羅」の倭國と、違う国だと解釈するのか?どうか
考えてみろよ
なぜ「自昔・・・東征毛人五十五國」という上表文を書いたのは、
九州倭國の大王だというのが昔も今も常識なのか、考えてみろよ
そして
北部九州に都がある国のことを「正北抵新羅の倭國」って書いてる事実を見ろよ、
目を逸らさないでさ
なぜ大和説が、学問的にも世界中からも相手にされなくなったか
明らかだろ? >>585
>>史料事実や史料実態の根拠や理由一言も言えない大和説
>そんな事実があると言い張るなら
証拠出せよ
大和説学者らが、「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをした事。 >>595
>大和説学者らが、「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、
>史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをした事。
だから、その証拠出せよ >>594
>九州倭國の大王だというのが昔も今も常識なのか、考えてみろよ
そんな常識が実在するんなら
するって証拠出せよ >>588
>>九州から、
日本海側を越位までと、瀬戸内を通って淡路付近までであるから、×。
>口先で言い張るんじゃなくて、証拠出せよ
「九州説は史料から帰納する」ってのがウソだって証拠ばかり増やすな
古事記と書紀の本文と一書群とで少し違う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%94%A3%E3%81%BF
自分で、国生み神話に書かれた地名群を見ればよい。 >>593
>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
>史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、
>理由の言えない大和説は、
言っているだろ
「正北抵新羅」と書かれてる倭國から
藤原北家の平安貴族が使者に来てるって
だから倭国は北部九州限定じゃない
九州説は平気でウソをつくなあ >>596
>>大和説学者らが、「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをした事。
>だから、その証拠出せよ
大和説学者らが、「大和」説を唱えた事。 >>604
>自分で、国生み神話に書かれた地名群を見ればよい。
見れば九州説の
>>579の
>>>九州から、日本海側を越位までと、瀬戸内を通って淡路付近までであるから、×。
が真っ赤なウソと誰にでも丸わかり
九州説ウソつき説の証拠がまた積み重なる >>601
>>九州倭國の大王だというのが昔も今も常識なのか、考えてみろよ
>そんな常識が実在するんならするって証拠出せよ
(日本國伝とを別の場所に書き分けた)唐会要の倭國伝の、
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」であった、
という史料実態が証拠。 >>577
>倭國王武は「自昔・・・東征毛人五十五國」をして来た、と上表しているんであり、
>九州倭國の建国頃からの東方地域への征伐戦は、全て、
>「東征毛人五十五國」であった、という事になるのだ。
それ聞いて誰もが
>国生み神話と倭王武の関係なんにも言わないで唐突っていうか
九州説が「当然」狂ってるのが理解できるよ >>605
>>「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しの、理由の言えない大和説は、
>言っているだろ
「正北抵新羅」と書かれてる倭國から
藤原北家の平安貴族が使者に来てるって
唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、
全く離れた別の場所にある違う国であった、として書き分けており、
そして「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、倭國伝に書かれているのだから、
「薜原朝常嗣」は、倭國使節を名乗った事になり、
「藤原北家の平安貴族」名になっていないから、
東大理系博士号は、嘘吐き騙しの詐欺師である事になり、×人間だ。
また、だから倭国は北部九州限定だ。
東大理系博士号男や大和説者は平気でウソをつくなあ >>610
>唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、
>全く離れた別の場所にある違う国であった、として書き分けており、
その国名で初朝貢した順番に整理されてるだけ
そして平安時代に朝貢した倭国の使者が常嗣なので
倭国=日本は確定
日中どちらでも定説だ 5ch畿内説の言動パターンは解析済みです
畿内説を構成する要素
@畿内説に合わない倭人伝を認めない。
A畿内説に合わない記紀を認めない。
B畿内以外の考古学的出土物を認めない。
Cフルボッコされた畿内説の負けを認めない。
D無視されると勝利宣言する。
E自分で荒らして他説のせいにする。
F論を批判せずに個人を罵倒する。
G存在しない遺跡や確認できない資料を提示して煙に巻く。
H畿内説に合わない鏡を認めない。後で作り始めたことにする。
I証拠を要求するが何を出しても証拠を認めない。
J証明を要求するが畿内説自身は証明ができない。
K論破していないことを論破したと主張する。
L計算ができない。
M方位も距離も畿内に合わせて読み替える。
N川と海の区別がつかない。
O東西南北が分からない。
P日本製を中国製と偽る。 >>609
>>倭國王武は「自昔・・・東征毛人五十五國」をして来た、と上表しているんであり、
九州倭國の建国頃からの東方地域への征伐戦は、全て、
「東征毛人五十五國」であった、という事になるのだ。
>それ聞いて誰もが
国生み神話と倭王武の関係なんにも言わないで唐突っていうか
九州説が「当然」狂ってるのが理解できるよ
倭國王武は「自昔」の「昔」の範囲を書いていないんだから、
これを聞いて、普通の人は誰もが
国生み神話と倭王武の関係も否定出来なくなり、
何も言わなくても
大和説者や東大理系博士号男説が「当然」、
狂ってるのが理解できるよ >>610
>唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、
>全く離れた別の場所にある違う国であった、として書き分けており、
そんなの、契約書のファイルを社名ごとに整理したから社名変更の前後で別ロッカーに収納したよなもんだ
唐の役人はわかってたから混乱しなかったが、短命国後晋のひとがトンチンカン解釈してしまった
それだけ >>612
それ、証拠が一つもない
つまり九州説の狂った恨み節だな >>611
>>唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、
全く離れた別の場所にある違う国であった、として書き分けており、
>その国名で初朝貢した順番に整理されてるだけ
中国への列島の倭國からの遣使は、
倭奴国時代から「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」までであり、であり、
大和日本國の国号や独立を認めたのは、唐初の「武徳中」であるだけだ。
そして開成四年に朝貢した倭国の使者が「薜原朝常嗣等」なのであり、
大和日本国の使節ではなかった、というだけだ。
倭国≠日本國は確定
日中どちらでも史料事実であり、定説だ >>613
>倭國王武は「自昔」の「昔」の範囲を書いていないんだから、
>これを聞いて、普通の人は誰もが
>国生み神話と倭王武の関係も否定出来なくなり、
それ、普通の人じゃなく
異常な馬鹿だから
普通の人は最初から別の史料を安易に結び付けない >>610
>「薜原朝常嗣」は、倭國使節を名乗った事になり、
>「藤原北家の平安貴族」名になっていないから、
日本列島から同じ年同じ月に入朝した一文字違いの使者を別人だと言い張る九州説を
日本人の誰が嘲笑しないと思うの? >>616
>倭国≠日本國は確定
>日中どちらでも史料事実であり、定説だ
定説だと言い張るなら
そう主張してる学者の名前を書いてみせろ
詐欺師 >>614
>>唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、
全く離れた別の場所にある違う国であった、として書き分けており、
>そんなの、契約書のファイルを社名ごとに整理したから社名変更の前後で別ロッカーに収納したよなもんだ
唐の役人はわかってたから混乱しなかったが、短命国後晋のひとがトンチンカン解釈してしまった
それだけ
いや、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」は、倭國伝に書かれているが、
日本國伝には書かれていない。
だから、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」の遣使は、倭國使だ。
それだけの事だ。 ジャパンとニッポンとは別の国って言ってるようなものか もう九州説には何の希望もないのに、まだ暴れてるという事はまだ希望を
持ってるという事なんだなw >>623
自演ばっかりしてる九州説が疑心暗鬼
ここ畿内説スレなんだから畿内説が何人いてもおかしくないのにね >>595
>>大和説学者らが、「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘吐き騙しをした事。
>だから、その証拠出せよ
大和説学者らが、「嘘つき騙しの大和説を唱えた」、という事が証拠だ。 >>635
>大和説学者らが、「嘘つき騙しの大和説を唱えた」、という事が証拠だ。
だから「嘘つき騙しの大和説」だって証拠は? >>621
旧唐書では、倭国と日本国(ヤマト)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭国条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれと言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
■参考
遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭腫(日本国)の使節団が
中国で争いを起こしたと書かれている
■結論
この時点で倭国と日本国は別政権でした
やはり日本が統一政権となったのは8世紀という事で間違いない >遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭腫(日本国)の使節団が
>中国で争いを起こしたと書かれている
遣唐使の時代ですらまだ日本は完全に統一国家と言える状態には無かった >>601
>>九州倭國の大王だというのが昔も今も常識なのか、考えてみろよ
>そんな常識が実在するんなら
するって証拠出せよ
唐会要が記載した倭國は、唐代半ばまで記録されていて、
5世紀の范暢が「倭國王を大倭王」と呼び、
5世紀の倭國王武が、
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」をした事を主張し、
広範囲の216国を征服支配している事を上奏したのだから、
九州倭國の大王だというのが昔も今も常識だ。 倭の五王が居たんだから少なくとも5勢力があつたんだよ
付かず離れずで >>605
>「正北抵新羅」と書かれてる倭國から
藤原北家の平安貴族が使者に来てるって
だから倭国は北部九州限定じゃない
ダメだ。唐会要は、
「正北抵新羅」として倭國の中心が北部九州にある事を主張し、
薜原朝常嗣等を「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」と書いて、
倭國使節を名乗った事を記し、
日本國伝には、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」という遣使の記録を書かず、
使節名も「藤原北家の平安貴族」にはなっていないから、
「倭國から藤原北家の平安貴族が使者に来てる」という記録にはならない。
東大理系博士号や大和説者は平気でウソをつくなあ >>638
>これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言葉である。
それ、史料から帰納した?
してないでしょ
ダメだね、無効
始皇帝の統一でも類似表現あるから
>遣唐使に参加した伊吉博徳書には、我客(倭国)と別倭腫(日本国)の使節団が
>中国で争いを起こしたと書かれている
日本国とか書いてないよね?
人名も完全に韓国式だったでしょ?
新羅支配下にいる半島の日系人だよ >>607
>>自分で、国生み神話に書かれた地名群を見ればよい。
>見れば九州説の
>>579の
>>>九州から、日本海側を越位までと、瀬戸内を通って淡路付近までであるから、×。
が真っ赤なウソと誰にでも丸わかり
九州説ウソつき説の証拠がまた積み重なる
ダメだ。国生み神話は、
(天孫降臨以前の)天照らが九州の海峡付近にいた頃の「国生み」伝承であり、
「筑紫」は、天孫降臨による国生み地として書かれただけであり、
だから、国生み地が越付近や瀬戸内方面であった、という事が、
間違いになっていない。 >>641
>「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」をした事を主張し、
>広範囲の216国を征服支配している事を上奏したのだから、
>九州倭國の大王だというのが昔も今も常識だ。
それ、あんたの説であって
それが世間の常識だなんて証拠ないよ
世間じゃ教科書で反対のこと習ってる
そっちが常識に決まってるでしょ >>609
>>倭國王武は「自昔・・・東征毛人五十五國」をして来た、と上表しているんであり、
九州倭國の建国頃からの東方地域への征伐戦は、全て、
「東征毛人五十五國」であった、という事になるのだ。
>それ聞いて誰もが
国生み神話と倭王武の関係なんにも言わないで唐突っていうか
九州説が「当然」狂ってるのが理解できるよ
これを読めば、
倭王武の「自昔・・・東征毛人五十五國・・・」などが、
九州倭国の建国当時から倭王武の頃までの全征服領土拡張戦争を含む、という事が明らかになり、
大和説者や東大理系博士号が、当然「狂ってる」という事が理解できるよ >>642
>倭の五王が居たんだから少なくとも5勢力があつたんだよ
さすがに九州説でも
ここまでの馬鹿は
珍しいんじゃ
ないのか?
どこが馬鹿か指摘出来ない人は、かなり恥ずかしい
正解発表、いる?
いらないよね >>614
>>唐会要は、倭國伝と日本國伝とを、
全く離れた別の場所にある違う国であった、として書き分けており、
>そんなの、契約書のファイルを社名ごとに整理したから社名変更の前後で別ロッカーに収納したよなもんだ
唐の役人はわかってたから混乱しなかったが、短命国後晋のひとがトンチンカン解釈してしまった
それだけ
それは、唐代には、
倭奴國の頃から唐代までの倭國が存続し、
武徳中に(倭國の別種の)大和の日本國の存在が唐に認められた、
という事の証拠であり、それだけ。
別に、唐の役人らや唐会要筆者が隠蔽や錯誤をした訳でもない。 >>644
>日本国とか書いてないよね?
別倭種と書かれているのだから、何れにせよ複数の倭の国が出入りしていたということだ
よって畿内中心の統一国家など妄想のまた妄想と確定してOK >>617
>>倭國王武は「自昔」の「昔」の範囲を書いていないんだから、
これを聞いて、普通の人は誰もが
国生み神話と倭王武の関係も否定出来なくなり、
>それ、普通の人じゃなく異常な馬鹿だから
普通の人は最初から別の史料を安易に結び付けない
いや、倭國王武は、素晴らしい名文の上表文を書いており、
意味も根拠もなく「自昔」の文言を付ける筈もなく、
当然「東征毛人五十五國」なども無根拠に記載する筈もない。
要するに、大和説者や東大理系博士号が、普通の頭ではなく、
思想宗教に狂った・・・・アホ詐欺師の頭である事を示している。 つまり畿内説はガセだったんですね
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1593835897/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*マスクを着用してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある妄想をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することを歓迎いたします。
マスクを着用していない方の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>618
>>「薜原朝常嗣」は、倭國使節を名乗った事になり、
「藤原北家の平安貴族」名になっていないから、
>日本列島から同じ年同じ月に入朝した一文字違いの使者を別人だと言い張る九州説を
日本人の誰が嘲笑しないと思うの?
倭國からの使節であり、薜原朝常嗣と名乗った、と受け止めるべきである、と思うの。
それが、史料事実や史料実態のまともな受け止め方。 >>645
>ダメだ。国生み神話は、
>(天孫降臨以前の)天照らが九州の海峡付近にいた頃の「国生み」伝承であり、
言い張るだけ?
根拠ないんでしょ? そもそも畿内説の言い分と合致する史料ってあるのか?w
ボケた老害の雄叫びのようなテンプレw >>619
>>倭国≠日本國は確定
日中どちらでも史料事実であり、定説だ
>定説だと言い張るなら
そう主張してる学者の名前を書いてみせろ
詐欺師
勿論、旧唐書や唐会要や新唐書らの筆者の定説であり、
それらの史料事実からの帰納的確率的な推論をする学者や国民の定説であり、
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」のような、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの大和説学者らや東大理系博士号男らの説は、
定説にならない。 >>621
>つまり倭国は日本だったというオチ
いや、倭國と日本國とは別國であった、という事がオチ。 そんな事よりも、
なぜ詳しい人がいたりするんだろう。
系図(家などの系図)などは、
あてにならないと言っている人もいるし。 >>622
>ジャパンとニッポンとは別の国って言ってるようなものか
「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」の大和説学者らは、
ニッポンと朝鮮とを、同じ国だ、といっているようなものか。 邪馬台国九州説というものが
学校で習う歴史の常識とはかけ離れてると
皆さんに判れば
それで結構 >>624
もう「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態で、
大和説には何の希望もないのに、
まだ暴れてるという事は、
まだ希望を持ってる・・・・アホ詐欺師や東大理系博士号らが生きている、
という事なんだな >>647
>東征毛人五十五國
関門海峡から東の本州が毛人の国というのは
反日朝鮮人の朝鮮起源説だけ >>631
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態で、
負けてばっかりしてる大和説が疑心暗鬼
ここは、掲示板なんだから、脳がおかしい大和説者が何人いても、
おかしくないがね >>637
>>大和説学者らが、「嘘つき騙しの大和説を唱えた」、という事が証拠だ。
>だから「嘘つき騙しの大和説」だって証拠は?
大和説学者らは、「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しをしたから。 >>669
嘘なんて言ってないぞ
邪馬台国は会稽東治の東つまり沖縄あたりと書いている魏志倭人伝の行程を
東に向けてみれば畿内に相当するとただそれだけの話
実際そうだし 皆さん
邪馬台国九州説というのが
学校で教えてる日本史とは相容れない
野史であると
おわかりですね? >>646
>>「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」をした事を主張し、
広範囲の216国を征服支配している事を上奏したのだから、
九州倭國の大王だというのが昔も今も常識だ。
>それ、あんたの説であって
それが世間の常識だなんて証拠ないよ
いや、
「詔除武使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
などと書かれているから、大倭王であり、世間の常識だ。
>世間じゃ教科書で反対のこと習ってる
そっちが常識に決まってるでしょ
「南→東」や「正北抵新羅の議論逃亡」などの、
史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しの教科書では、
世間の常識にはなれないし、決まってもいない。 >>669
>大和説学者らは、「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、
現にいま議論してる「正北抵新羅」を
「議論隠蔽」などと連呼して憚らない九州説が
どんなに異常なウソつきか
わからない人はいないね >>676
>九州倭國の大王だというのが昔も今も常識だ。
>「詔除武使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
>などと書かれているから、大倭王であり、世間の常識だ。
それが九州倭國の大王だって?
そんな常識ないでしょ?
そんな常識があるという証拠は? >>677
それを吉備で調査している時代なんだぞ?
取り残されたお前が知らないだけでw >>661
>邪馬台国九州説というものが学校で習う歴史の常識とはかけ離れてると
皆さんに判ればそれで結構
邪馬台国も畿内も存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
学校で習う大和説が、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態と、
かけ離れている、という事が、
国民やマスコミの皆さんに判って貰えば、それで結構。 >>679
>それを吉備で調査している時代なんだぞ?
何を?
誤爆? >>663
>関門海峡から東の本州が毛人の国というのは
反日朝鮮人の朝鮮起源説だけ
マスコミさん、
大和説者が、また、九州説を曲解してそれで九州説を誹謗し、
「反日朝鮮人の朝鮮起源説だけ」だなんて、
人種差別に狂って頭がおかしくなったような投稿をしてますね。
おそらく、議論に負けて狂暴性を発揮しだしたんでしょうが、
テロをされるかもしれませんから、気を付けましょうね。 >>668
>邪馬台国=大和国だろ
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
大和国の事を指すのか?、邪馬壹國の事を指すのか?も不明であり、
いずれにしても大和國説では、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの史料実態に矛盾しており、
×ですよね。 >>684
勝手にヤマト政権とは呼んでるが、大和とは限らないだぞ?w
大和にはその欠片すら見つからねえからあちこちで調査開始してんだぞ
お前が知る由無しw >>690
それも世間常識と違うな
さすが九州説
世間じゃ、ヤマトにあった政権だから
ヤマト政権と言ってるだけ >>671
>嘘なんて言ってないぞ
邪馬台国は会稽東治の東つまり沖縄あたりと書いている魏志倭人伝の行程を
ほら、嘘を言っている。
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
「会稽東治之東」はほぼ」九州島付近であって、「沖縄あたり」にはならないから嘘つき騙し。
>東に向けてみれば畿内に相当するとただそれだけの話
実際そうだし
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから嘘だし、
原文は不彌國の「南」と書かれているのに、大和は不彌國もはるか東の方であるから、
×である事になる。 これが世間の常識
「出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」 >>674
>皆さん 邪馬台国九州説というのが
学校で教えてる日本史とは相容れない野史であると
おわかりですね?
マスコミの皆さん、
学校で教えている大和説というのが、歴史の史料事実や史料実態とは相容れない、
インチキ説であった、
という事がお分かりですね?。 >>695
>学校で教えている大和説というのが、歴史の史料事実や史料実態とは相容れない、
>インチキ説であった、
という理由が学問的に説明出来ないから
九州説が消えることになったんだよ <ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■結論
纏向遺跡は大陸、九州とも疎遠だと判明した 畿内説とかいてインチキと読むw
纏向の桃の種が祭祀の貢物だとか言い張ってる桜井市のバカかw
桃の種が発見された場所からして建物とは無関係
https://i.imgur.com/xOM3DEb.png >>677
>>大和説学者らは、「南→東」や「正北抵新羅の議論隠蔽」などの、
>現にいま議論してる「正北抵新羅」を
これウソね。
「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州である」という説明に対して、
反論して来た大和説者は、未だにいない。
「議論隠蔽していない」などと連呼して憚らない大和説者が
どんなに異常なウソつきか
わからない人はいないね >>694
世間の常識w
九州説支持:54.4%
近畿説支持:35.7%
その他:9.9%
https://i.imgur.com/iEhi8FB.png >>693
会稽東治とは現在の中国福建省福州市のあたり
その東は沖縄や台湾
邪馬台国は邪馬臺國と後漢書や隋書ほか様々な史書に出てくる >>678
>>九州倭國の大王だというのが昔も今も常識だ。
>>「詔除武使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
などと書かれているから、大倭王であり、世間の常識だ。
>それが九州倭國の大王だって?
そんな常識ないでしょ?そんな常識があるという証拠は?
中国語では、
「王」という文字が「一つの国の王」を指すのに対して、
「大王」という文言は、
「複数以上の国を支配する王」である場合に使われるのが原則であるから。 >>492
>それも世間常識と違うなさすが九州説
世間じゃ、ヤマトにあった政権だから
ヤマト政権と言ってるだけ
それじゃ、畿内とか邪馬台国とか大和朝廷とかの呼称を使うのは、
止めな。 《太平寰宇記》《卷一百七十四》
"又按《東夷記》云:倭有名日本,自云國在日邊,故以為稱,葢惡舊名也。"
※参考 《翰苑》《百濟》に「《東夷記》曰:百濟始建居狄城本馬韓之地」あり 《冊府元亀》
東海嶼中野人,有邪古、婆邪、多尼三國。皆附庸於倭。北限大海,西北接百濟,北抵新羅,西南與越州相值。
《唐会要》
東海嶼中野人,有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
頗有絲綿。出瑪瑙。有黃白二色。其琥珀好者。云海中湧出。
《太平寰宇記》
其國東海島中野人,有<闕>古,波<闕>,多凡三國。皆附庸於倭。西與越州相距。
頗有絲綿。出瑪瑙。有黃白二色。其琥珀。云海中湧出。
《新唐書》
其東海嶼中又有邪古、波邪、多尼三小王,北距新羅,西北百濟,西南直越州,有絲絮、怪珍云。 >>694
>これが世間の常識
「出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」
それが世間では非常識。
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って征服された、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職の国」であり、
中心は九州倭國であり、大和は中心にはならない。 識者の間における常識
「ヤマト政権を大和政権と書くのは禁じられている」
昔あったなあ「大和時代」ってw
『その後の研究の進展によって「大和」「朝廷」などの語彙、認識や定義は改められつつある。
このため近年では同時代を3世紀半ばから始まる「古墳時代」と呼称するのが一般的である。』 >>699
>纏向の桃の種が祭祀の貢物だとか言い張ってる桜井市のバカかw
>桃の種が発見された場所からして建物とは無関係
さすがにこれは九州説の中でも特に知能低いな
桃その他が土壙祭祀の供物なのは、建物との関係に関わらず確定してる
土壙は建物廃絶の儀式と関係あると考えられている 縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良
平安、鎌倉、室町、江戸、明治、、、だろ
飛鳥時代に仏教の寺院などが建立されだした
百済式寺院などがな >>710
>それが世間では非常識。
>大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って征服された、
>九州倭国の「地方の市を監督する大倭職の国」であり、
>中心は九州倭國であり、大和は中心にはならない。
そんな珍説が常識だと言い張る根拠は?
また「わしがそう言っとるからじゃー」? >>710
>大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って征服された、
>九州倭国の「地方の市を監督する大倭職の国」であり、
>中心は九州倭國であり、大和は中心にはならない。
あんたがそういう説なのは知ってんだよ
聞いてんのは、それが世間の常識だっていう根拠だよ >>685
お前らのは九州説じゃなくて関西の反日チョンの朝鮮起源説 >>702
>会稽東治とは現在の中国福建省福州市のあたり
東治は、「地名」ではなく「東にある治所」という意味であり、
「会稽東治」は会稽の東方の「揚州の管轄下」の地であるから、
「福建省福州市のあたり」説は×。
>その東は沖縄や台湾
「会稽東治之東」は、ほぼ九州島付近であり、
「沖縄や台湾」は全く×。
>邪馬台国は邪馬臺國と後漢書や隋書ほか様々な史書に出てくる
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
後漢書の邪馬臺國は、
(魏志の邪馬壹國の中に含まれる)久留米〜筑後の小地域國の呼称であり、
邪馬壹國≠邪馬臺國である。
従って、隋書や他の史書などの「邪馬壹國→邪馬臺國」の書き換えは、
後代史家の「自己解釈に拠る書き換え」の失敗であるから、×である。 >>708
>《太平寰宇記》《卷一百七十四》
"又按《東夷記》云:倭有名日本,自云國在日邊,故以為稱,葢惡舊名也。"
※参考 《翰苑》《百濟》に「《東夷記》曰:百濟始建居狄城本馬韓之地」あり
後代の「太平寰宇記」が「按じた」事など、
同時代的な記録史料よりもはるかに価値も確率も落ちる史料であり、
そんな文は、根拠にはならない。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. >>723
邪馬壹國≠邪馬臺國
これも関西の反日有害チョンだけが言い張ってること >>723
会稽東治は会稽郡東治県で現代の福建省福州市あたり
その東は沖縄や台湾
久留米〜筑後の小地域國を邪馬臺國と書いている史書はない
その辺は伊都国や奴国と書かれている
邪馬壹國は12世紀以降の倭人伝に生じた誤記 >>707
>世間じゃ、ヤマトにあった政権だから
>ヤマト政権と言ってるだけ
倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。 @阿波 >>719
>飛鳥時代に仏教の寺院などが建立されだした
その飛鳥時代の中心地は、現在の徳島県小松島市。 飛鳥寺院も倭国(阿波)。 @阿波 >>721
>>大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って征服された、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職の国」であり、
中心は九州倭國であり、大和は中心にはならない。
>あんたがそういう説なのは知ってんだよ
聞いてんのは、それが世間の常識だっていう根拠だよ
何だ?、また勝手な非常識な解釈をして、世間の人々を騙そうとするのか?。
私は、
「これが世間の常識
「出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」」
という文が、世間の非常識だ、と言っているのであり、
「大和は、九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って征服された、
九州倭国の「地方の市を監督する大倭職の国」であり、
中心は九州倭國であり、大和は中心にはならない。」
という私の文が世間の常識だ、とは言っていないんだよ。
お前は、京都アニメ犯人のような、
勝手な解釈で人殺しをするような・・・・詐欺師人種であり、
人間のクズだな。 >>719
>飛鳥時代に仏教の寺院などが建立されだした
その飛鳥時代の中心地は、現在の徳島県小松島市。 飛鳥寺院も倭国(阿波)。 @阿波 >>722
>お前らのは九州説じゃなくて関西の反日チョンの朝鮮起源説
この投稿も、事実に反する全くの嘘つき騙し内容であり、
東大理系博士号男らが、・・・・的な宗教で頭がおかしくなった事を示す投稿だな。 >>719
>飛鳥時代に仏教の寺院などが建立されだした
その飛鳥時代の中心地は、現在の徳島県小松島市。 飛鳥寺院も倭国(阿波)。 @阿波 倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。 @阿波 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。 @阿波 >>728
>会稽東治は会稽郡東治県で現代の福建省福州市あたり
その東は沖縄や台湾
「東治県」情報は、書陵部の紹煕本に単独で発生した文言であり、
張元済ら全員から否定されて「東冶県」とされている文言であり、
根拠にならない代物であるから、×。
>久留米〜筑後の小地域國を邪馬臺國と書いている史書はない
付近に「臺」の地名が残っている事と、
317年頃に糸島付近から久留米付近に遷宮があり、
その後、久留米や高良大社付近が617年頃に太宰府に遷都するまで、都があった、
という事からの、推論。
>その辺は伊都国や奴国と書かれている
書かれていない。
>邪馬壹國は12世紀以降の倭人伝に生じた誤記、
宋明清代の校勘では、写本版本の全てで邪馬壹國であり、
梁書以後の史家に拠る「自己解釈に拠る書き換え」になっている文言は、
証拠にならない。 原子核が太陽で電子が水星だという発言は、頭の回転が止まった事を明示しているのだな 内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>739
宋明清代以前の校勘ではほぼ邪馬臺國という事になるんだけど 畿内説:日本の学者の通説、3世紀前半に九州でもっとも発展している博多湾沿岸の首長層は
畿内を中心とした広域政治連合に参加している
九州説:お爺さん個人の夢、わしのところはまだ参加しとらん
朝鮮起源東征説(九州王朝説):朝鮮人でありながら朝鮮民族としての歴史を語ることができない人種の
関西を中心とした組織的工作活動、
日本人が共通の歴史観をもつことへの妨害活動 >>739
冶と治は意味も同じで手書きで文書を書いていた時代はよく取り違えられていた事がわかっている >>744
>宋明清代以前の校勘ではほぼ邪馬臺國という事になるんだけど
邪馬臺國=やまと國=倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。 @阿波 >>745
>畿内を中心とした広域政治連合に参加している
奥山の心のよりどころw
根拠不明、定義も不明な妄言
漠然とした表現で印象操作する詐欺的手法 三世紀の大阪湾周辺は南海トラフの津波で流され、奈良盆地に避難したのかと思いきや、河内の土器はほんのわずかしか出土しない
みんな西へ逃げたんだよw >>749
ひとりじゃ、なんにも出来ないのかい?とっちゃんぼうや。 わははははは @阿波 どんどん発展してゆく情報社会の中で、権威ある学者の一言で物事が決まると思ってるのは「科学に疎い&情弱」である証拠 >>754
その「科学に疎い&情弱」が、九州・畿内説。 @阿波 >>754
そうそうそう、謎の鑑定団と同じ。
実際は、大したモノでもないのに・・・とか。 例えば、もれ(仮)が作った・・・(どうでも良いような皿w)のほうが、
実際は国宝級とか、そういう話。 >>744
>宋明清代以前の校勘ではほぼ邪馬臺國という事になるんだけど
宋明清代以前の、後代史家に拠る「邪馬壹國→邪馬臺國」の書き換えは、
自己解釈に拠る勝手な書き換えであって、校勘にはならず、
また、5世紀の裴松之の考証や校勘でも、邪馬壹國→邪馬臺國の校勘をしていない。 >>754
情報化社会が整備されたので、研究者の論文を読む一般人も増えた
日本の研究者を罵倒し、戦後日本の行政機関を襲撃したように拒絶しているのが反日朝鮮人 >>758
宋明清代以前の史書は魏書曰くと魏志倭人伝の文をそのまま引用して倭人伝を書いている
つまり引用した魏志倭人伝には邪馬臺國と書いてあったということ 九州説は何度言われてもとっくに化石と化した教祖古田の主張をくり返すばかり
説というよりは宗教と言われる所以 『2ch 偉人 安達羅何猶弖結観音』
なぜか家の話(老婆談〜)?と同じのような。 >>745
>畿内説:日本の学者の通説、3世紀前半に九州でもっとも発展している博多湾沿岸の首長層は
畿内を中心とした広域政治連合に参加している
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるから、この男は×であり、
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
九州倭國の「東征毛人五十五國」などの史料事実や史料実態に拠って、
大和は、九州倭國の東征軍に拠って造られた、
「九州倭國の地方の市を監督する大倭職の国」であり、
「畿内を中心とした広域政治連合」という設定が嘘吐き騙しであり、×。
>朝鮮起源東征説(九州王朝説):朝鮮人でありながら朝鮮民族としての歴史を語ることができない人種の
関西を中心とした組織的工作活動、
日本人が共通の歴史観をもつことへの妨害活動
これも、大和説男たちが、人種差別の殺し合い戦争を国民に鼓舞扇動するための、
九州説者に関する「嘘吐き騙しの虚偽」の宣伝扇動をしているのであり、
怖いですから、騙されないようにしましょうね。 >>746
>冶と治は意味も同じで手書きで文書を書いていた時代はよく取り違えられていた事がわかっている
これも、古代においては、治と冶とは全く意味が違う文字であり、
だから取り違える事は全くのようになく、
裴末之も全く校勘していない。 >>765
お前らは九州説じゃない
朝鮮起源東征説 >>724
>後代の「太平寰宇記」が「按じた」事など、
>同時代的な記録史料よりもはるかに価値も確率も落ちる史料であり、
>そんな文は、根拠にはならない。
《太平寰宇記》は《唐會要》と同時代だってw
”又按《東夷記》云:倭有名日本,自云國在日邊,故以為稱,葢惡舊名也。”
この佚書である《東夷記》からの引用は《翰苑》にもある。
単純に考えると《東夷記》は《翰苑》より古いことになってしまうが、《翰苑》の成立は660年以前とされている。
この《翰苑》における《東夷記》からの引用部分は雍公叡の注の可能性がある。
しかしながら、この太宰府天満宮の《翰苑》は9世紀ころ平安初期の書写とされている。
この時点で《舊唐書》《唐會要》の成立よりも古い。
つまり《東夷記》の成立は、《舊唐書》《唐會要》の成立より古いことは確実。
また唐代の《通典》にもそっくりな表現がある。
《通典》「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱。」
君の理論通りなら、唐代の文献に書かれていたのなら、後代の《舊唐書》《唐會要》よりも信用できるということでいいはずだね。 >>753
>情報化社会が整備されたので、研究者の論文を読む一般人も増えた
日本の研究者を罵倒し、戦後日本の行政機関を襲撃したように拒絶しているのが反日朝鮮人
マスコミさん、
これも、人種差別ヘイトスピーチや殺戮戦争を鼓舞扇動する、
犯罪者的な大和説者の投稿になっていますね。
先の戦争での大量殺戮や、原爆などでの大量の民間人の死亡や、戦争放棄の反省は、
どうなってしまったんでしょうかねえ?。
誰がこんな「殺し合い戦争をしたい社会」に変えてしまったんでしょうかねえ?。
マスコミさんらの変質も、大きな原因になったのではありませんか?。 >>762
>宋明清代以前の史書は魏書曰くと魏志倭人伝の文をそのまま引用して倭人伝を書いている
つまり引用した魏志倭人伝には邪馬臺國と書いてあったということ
宋明清代以前の後代史書は、
「魏書曰く」とか書きながら、「そのまま引用」していない嘘つき騙し史書。 >>763
大和説は、
何度言われてもとっくに化石と化した教祖大和説学者の主張をくり返すばかり
説というよりは宗教と言われる所以 >>767
マスコミさん、
大和説者らは、まともな人間じゃなく、
「南→東」や「正北抵新羅の議論抹消」などの史料事実の曲解や否定の嘘吐き騙しや、
人種差別的が殺戮戦争を鼓舞扇動する・・・・宗教人種そのものでしょうね?。 >>770
反日チョンは「人種差別」の意味がわかっていない
行政機関を襲撃するのは犯罪、日本の学者を罵倒すれば嫌われて当然
つまり犯罪者差別、嫌反日
反日のくせに差別で商売するのが日本に不要な人種反日チョン >>659
系図のないような奴の家の先祖などは、
あてにならないと言っている人もいるし
>>757
ゴミ
どうでも良いようなゴミがこじつけ妄想 >>771
引用文をそのまま書かない場合は脚注をつけるのが史書の習わし
魏志倭人伝を引用して邪馬臺國と書いてある史書の倭人伝に
脚注のあるものはないよ
つまり書いてある事をそのまま写したという事さ >>772
畿内説は宗教ではなくて
ちゃんとした学者が論文書くときに用いる学説 >>769
>>後代の「太平寰宇記」が「按じた」事など、
同時代的な記録史料よりもはるかに価値も確率も落ちる史料であり、
そんな文は、根拠にはならない。
>《太平寰宇記》は《唐會要》と同時代だってw・・・
またこの男が曲解して、私を批判している。
私は、「按じた」事が悪い、と言っているんだよ。
前史の記述をそのまま転写引用するのなら構わんが、
前史の記載を「按じて書き換えた」ら、
そりゃ「後代史家の自己解釈に拠る勝手な書き換え」になってしまう。
そして、この男も、私の投稿を「おそらく按じて曲解捏造解釈に書き換えて」、
世間の人々やマスコミを騙そう、としている。 >>779
>前史の記載を「按じて書き換えた」ら、
ただ「按じた」ってことは
書き換えたとは言ってない 旧唐書も後代史家が按じて倭國と日本國を分けて書いたわけだな
故中國疑焉ということはよくわかってないわけだから
唐會要は按じて新唐書が書かれる前に、按じて書かれた旧唐書を補った会要だから
あまり按じないまま分けて書いてしまったということ 何か知っているんだろう?
かなり前のことになるんだけど、同じことを書いたようなw
謎の、〜鑑定団などの話。 『日本昔話 石楠花』
なぜか同じようなネタ・・・、山の上のほうに住んでいたとか。 『探偵 白馬 黒羽』
なぜかルパン三世のような話もしているしな・・・・、何かの刀(剣)とかw
まさか・・・そうか? 実際は福島県の伝説なんだろうけど、山の上のほうw
『福島 安達太良』〜『2ch 偉人 安達羅何猶弖結観音』 老婆が言うには、なぜか川俣町とか、そっちのほうの話。 それにしても、
ほんとーに謎の『華族 スレ』?なぜ老婆と同じ話をしているんだろう。
近藤某という人物の話もしているし、家の母親は群馬なんだけど、旧姓近藤。
そのスレなどの親戚でもないし。
そのスレの近藤某など、騙り、成り済ましか?何かなんだろう。 藤原秀郷?
ホンモノの伝説によると・・・上野国〜下野国(いまの群馬とか?)周辺の話。
家紋も『下り藤』だと言っていたり。 『龍宮 寒いな〜』(傾いた松の木w)
〜の人物がいるでしょ・・・?なぜか、この家の嫁(旧姓 近藤)。 明治時代()の〜?
知らないし、関係みたいな話をしていたり、よくわからない話ばかり。 明治時代の頃の何やら?
ほとんど後付けで〜みたいな話のような気がするんだけど。 阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>781
>>前史の記載を「按じて書き換えた」ら、
>ただ「按じた」ってことは
書き換えたとは言ってない
ダメだ。
太平寰宇記は、旧唐書などが記録した、
「日本國者倭國之別種也 或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地」や、
白村江の後で、大和日本國が(母國の)九州倭國を併合吸収継承した、などという記録を、
敢えてなかった事にして抹殺し、
通典の「倭一名日本、自云國在日邊、故以爲稱」で、
九州倭國と大和日本国が同じ国であったかのようなウソ説明を選択採用している。
それこそが、「太平寰宇記が按じて、自分勝手な解釈を記載した」という事の証拠だ。 「考古学は残酷」
鉄器加工の先進地であるばかりでなく、国づくりに必要な当時の先端技術を縄文時代から育んで、すでに有していたことをはじめて知りました。
●阿波独特の文様 弧帯文土器
●吉野川から産する「王者の石」 阿波の青石・結晶片岩とそれを使った墳墓築造技術
●朱の生産
●吉野川の蛇紋岩を使った玉つくり
●上記の生産を可能とした鉄器作り & 銅鐸など金属器加工技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa04.htm @阿波 「考古学は残酷」
考古学の進展と遺物分析の進歩により、今や阿波説一択の時代となってしまった。
三世紀に国家形成期の日本列島が地域性を超えた交流圏を形成していた事実を、考古学が証明している。
その交流圏の中心地が存在することも考古学が証明している。 その中心地は、決して畿内や九州ではない。
石器(泥質片岩製の石棒・青色片岩製の柱状片刃石斧)文化圏、蛇紋岩製勾玉文化圏、銅鐸文化圏、神道祭祀文化圏、
水銀朱文化圏、積石塚墳墓文化圏、軽量薄型土器(東阿波型式)文化圏等々
同心円状に広がる文化圏の中心地、それが正に邪馬台国(阿波)であった。 @阿波 >>782
>旧唐書も後代史家が按じて倭國と日本國を分けて書いたわけだな
故中國疑焉ということはよくわかってないわけだから
唐會要は按じて新唐書が書かれる前に、按じて書かれた旧唐書を補った会要だから
あまり按じないまま分けて書いてしまったということ
ダメだ。
旧唐書は、唐代記録に拠って、
白村江で戦った相手は「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と書き、
その前の武徳中に存在を認めた「大和の日本國」は全く記載しておらず、
その事は、唐代の元記録が、九州倭國と大和日本國は別國であった、としていた事の証拠であり、
通典はその事を曖昧にした半分×書であり、
唐会要は、旧唐書の記録を信頼し、
太平寰宇記は、旧唐書の白村江の記録を、按じてこっそり隠蔽して、
自己解釈に拠って前史書記録を恣意的な選択記載をした、
という事の証拠だ。 >>800
>その前の武徳中に存在を認めた「大和の日本國」は全く記載しておらず、
そんな存在認めた記録って、何よ?
そんな記録どこに有る?
>その事は、唐代の元記録が、九州倭國と大和日本國は別國であった、としていた事の証拠であり、
記録がなけりゃ寝言だな 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 >>801
>>その前の武徳中に存在を認めた「大和の日本國」は全く記載しておらず、
>そんな存在認めた記録って、何よ?そんな記録どこに有る?
釈日本紀か引用した延喜講記だ。またWikiを引用して上げよう。
『釋日本紀』巻一 開題 延喜講記.
(前略)延喜講記日。自唐所号也。
隋文帝開皇中。 入唐使小野妹子。改倭号爲日本。
然而依隋皇暗物理。遂不許。
至唐武コ中。初号日本之号。(後略)
>>その事は、唐代の元記録が、九州倭國と大和日本國は別國であった、としていた事の証拠であり、
>記録がなけりゃ寝言だな
だから、旧唐書が、白江(白村江)で戦った相手を、
「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と記録し、
「日本國」などとは全く記載しておらず、
大和日本國軍は、白村江では殆ど参戦していなかった、という事だ。
つまり、旧唐書は、九州倭國と大和日本國とを別種別國になっていた、と認識しており、
その事を隠蔽した通典や太平寰宇記は、半分×書である事になるのだ。 ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: >>815
>「日本國」などとは全く記載しておらず、
そこまで薄馬鹿かよ
隋は小野妹子の国号変更を認めてないんだろ?
唐が武徳年間に認めたという記録もない
認めた最初は武后の時代だ
白村江戦当時、こっちが日本と号していても、中国側のからの呼び方は「倭」で当たり前だ
つまり
>「日本國」などとは全く記載しておらず、
>大和日本國軍は、白村江では殆ど参戦していなかった、という事だ。
は、阿呆の寝言 ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: 奥山宣伝係の功績
以前は70%ほどあった畿内説だが・・・
2015年度
九州説支持:54.4%
近畿説支持:35.7%
その他:9.9%
https://i.imgur.com/iEhi8FB.png ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: >>853
九州説が惨敗してるな
筑後説だろうが伊都説だろうが、九州説の中で過半数取れないだろ? ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: 「前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料」
徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、
同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
http://www2.odn.ne.jp/kofun/hagiwara.htm
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外にはどこにも存在しないのである。 @阿波 >>863
近畿説と書いてあるだろw
お前が勝手に畿内説=纏向説と勘違いしてるだけだが?w 忌部の郷の「伊加賀志神社」は朝廷から「大明神」の称号を送られている。 @阿波 >>877
近畿説はほぼ纏向説だよ
その他は泡沫だから 忌部の郷の「伊加賀志神社」は朝廷から「大明神」の称号を送られている。 @阿波
延喜式式内社「伊加々志神社」https://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ ∧ ∧ {^^}
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ヽ弋 。 X 。イ(`ー′ つぶせ! つぶせ!!
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⊂⌒ヽ从/( ;`Д´) >>1
';:;:,;.:,;: 朝鮮半島の先住民も、九州の土民も、畿内の土民も、倭国(阿波)の先進文化の移入を喜び受け入れ、尊敬し、「忌部一族」を王と仰いだ。 @阿波 >まじ、奈良盆地より伊勢平野のほうが、はるかに立地的に優れている。
理由 : 伊勢平野は、東に「東渡海千餘里」の豊かな海がある!
片や、奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかりのくそ田舎! わははははは @阿波 ∧ ∧ {^^}
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ヽ弋 。 X 。イ(`ー′ つぶせ! つぶせ!!
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';:;:,;.:,;: >>749
>>(旧唐書は白村江の対戦相手として全て倭國や倭衆や倭賊と記載し)
「日本國」などとは全く記載しておらず、
>そこまで薄馬鹿かよ 隋は小野妹子の国号変更を認めてないんだろ?
これもダメだ。
隋は開皇20年に、倭國内の九州の俀國の遣使を受け入れて、
(国号変更のない)記録しており、
大和からの「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の初めての遣使の、
小野妹子の説明など、承認出来る筈がないのだ。
>唐が武徳年間に認めたという記録もない
延喜講記に記載出来た、という事は、唐側が大和日本國の存在や国交を認めて、
それを記録した、という事だ。
>認めた最初は武后の時代だ
これもダメだ。唐会要が、武后の頃の記録として、
九州倭国の遣使記録と大和日本國の遣使記録の、両方があった事を、
倭國伝にも日本國伝にも分けて記載している。
>白村江戦当時、こっちが日本と号していても、中国側のからの呼び方は「倭」で当たり前だ
つまり
>「日本國」などとは全く記載しておらず、
>大和日本國軍は、白村江では殆ど参戦していなかった、という事だ。
は、阿呆の寝言
つまり
>「日本國」などとは全く記載しておらず、大和日本國軍は、白村江では殆ど参戦していなかった、という事だ。
の否定は、阿呆の寝言 >>749
>>(旧唐書は白村江の対戦相手として全て倭國や倭衆や倭賊と記載し)
「日本國」などとは全く記載しておらず、
>そこまで薄馬鹿かよ 隋は小野妹子の国号変更を認めてないんだろ?
これもダメだ。
隋は開皇20年に、倭國内の九州の俀國の遣使を受け入れて、
(国号変更のない)記録しており、
大和からの「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の初めての遣使の、
小野妹子の説明など、承認出来る筈がないのだ。
>唐が武徳年間に認めたという記録もない
延喜講記に記載出来た、という事は、唐側が大和日本國の存在や国交を認めて、
それを記録した、という事だ。
>認めた最初は武后の時代だ
これもダメだ。唐会要が、武后の頃の記録として、
九州倭国の遣使記録と大和日本國の遣使記録の、両方があった事を、
倭國伝にも日本國伝にも分けて記載している。
>白村江戦当時、こっちが日本と号していても、中国側のからの呼び方は「倭」で当たり前だ
つまり
>「日本國」などとは全く記載しておらず、
>大和日本國軍は、白村江では殆ど参戦していなかった、という事だ。
は、阿呆の寝言
つまり
>「日本國」などとは全く記載しておらず、大和日本國軍は、白村江では殆ど参戦していなかった、という事だ。
の否定は、阿呆の寝言 >>879
いや半分以上は河内、葛城説だろw
いずれも明日香(大和王権発祥地)とは無縁w ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: >>903
>いや半分以上は河内、葛城説だろw
結局、畿内説は、奈良盆地でドツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ。 そして、結果的に物部東遷説もね。 @阿波 >まじ、奈良盆地より伊勢平野のほうが、はるかに立地的に優れている。
理由 : 伊勢平野は、東に「東渡海千餘里」の豊かな海がある!
片や、奈良大和の纒向遺跡の東は、笠置山地や布引山地など、山ばかりのくそ田舎! わははははは @阿波 女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww >>863
大和説がまた惨敗してるな
葛城説だろうが河内説だろうが阿波説だろうが東海説だろうが、
九州説でない限り、過半数取れないだろ? ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: >>877
>近畿説と書いてあるだろw
お前が勝手に畿内説=纏向説と勘違いしてるだけだが?w
近畿説とか誤魔化しても、どっちみち、
「南≠東」や唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、
近畿説も×だよ。 >>879
>近畿説はほぼ纏向説だよ
その他は泡沫だから
近畿説も纏向説も、その付近の泡沫説も、全て、
「南≠東」や唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、×だよ。 近畿人て頭アホやから仕方ない
未だに何処行っても標準語を話せない我の強いガイジ民族やしwww ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: >>918 >「南≠東」
これいつも使うけど意味が分からない
説明と証明をして
納得できる説明でなければ認めないからね ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: >>918
>女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)
馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww
馬鹿のおかげで、
「南≠東」や唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などの史料事実の曲解や否定の嘘つき騙しがバレ、
大和説の敗退が露わに。 ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: >>920
>纏向ででた鉄を加工補修際に空気を送る
鞴羽口(ふいごはぐち)の平べったい形状と
http://www.nishida-s.com/main/categ4/23yamanobenomichi/2-1-3-2.jpg
纏向の運河の補強の板の形状が九州のものと同じ
http://inoues.net/club/makinuku_new001.jpg
ふーん。
やはり、九州の技術が、
「東征毛人五十五國」の征服軍に拠って、纏向に持ち込まれたのか。 ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: ウソと荒らしだけで、九州説はどうやって通説に対抗する気なんだろうね 登呂遺跡や池上曽根遺跡の高床式倉庫の
伊勢遺跡や纏向遺跡の建物も九州の技術がないと建てられないと思うんだよね
紀元前あたりで隆盛を誇った九州北部だけど
57年漢委奴国王、107年帥升みたいな
厳しく統治する王の出現がイヤで東に向かった人々がいて
東に稲作や建物を作るノウハウが伝わって九州が衰退した
これ後漢書的にも遺跡的にも繋がるんだよね >>948
>厳しく統治する王の出現がイヤで東に向かった人々がいて
結局、物部東遷説も、奈良盆地でドツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ。 畿内説同様にね。 @阿波 漢委奴国王や帥升のやり方に不満を持って年貢的な税を取られたくない民衆が
縛りがない東に向かったのは自然なことだよね
波が穏やかな瀬戸内だから天候のいい日を選べば小船でもいけただろう
そうしてできたのが支配者層の建物がなく
みな平等って感じの登呂遺跡じゃないかな 池上曽根遺跡には支配者を思わせるでかい倉庫がある
小さい高床式倉庫が並んでた中で特別でかいのが作られた
九州王のやり方を真似た人が南大阪に出現して
この南大阪の勢力が大阪、奈良、滋賀南部、摂津に勢力を広げたころに
卑弥呼を迎えたと考えてる ∧ ∧ {^^}
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⊂⌒ヽ从/( ;`Д´) >>1贅六
';:;:,;.:,;: >>920
時代が違う
纏向は5世紀頃までの遺構が入り乱れてる
ゴットハンドが3世紀と言い張る
捏造畿内説の日常茶飯事w >>950
>縛りがない東に向かったのは自然なことだよね
結局、物部東遷説も、奈良盆地でドツボにはまり、息の根を止められる宿命なんだよ。 畿内説同様にね。 @阿波 >>948
高床式倉庫が半島から松菊里式住居とセットで江辻遺跡に伝わったのが
弥生早期のBC9C頃
だからBC6C頃の弥生中期には畿内に高床式倉庫が伝わっている
登呂遺跡にも紀元前までには伝わってるよ
九州北部が隆盛を極めていたのは弥生中期までだろうな
甕棺墓文化の衰退とともに九州北部は衰退していった >>960
>高床式倉庫が半島から松菊里式住居とセットで江辻遺跡に伝わったのが
>弥生早期のBC9C頃
それは取りも直さず、「忌部はん」 の半島進出を示している。 @阿波 ∧ ∧ {^^}
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';:;:,;.:,;: >>927
>>「南≠東」これいつも使うけど意味が分からない説明と証明をして
納得できる説明でなければ認めないからね
ふーん?。
これは嘘つき騙しの・・・・アホ詐欺師の大和説者の投稿なんだろうから、
説明など書いて上げても無意味で無駄なんだろうが、
マスコミや世間の人々には説明がいるかも知れない。
「南」は、九州北岸の不彌國の南に邪馬壹國女王之所都がある、という説明の「南」であり、
瀬戸内や阿波や大和や東海は、九州北岸から大体東だから、×だ、という意味です。 >>947
「南→東」や「正北抵新羅の議論放棄」などの史料事実の曲解や否定のウソと、
荒らしばかりで、
大和説者はどうやって九州説に対抗する気なんだろうね >>968 じゃあそれが正しいという説明はできないんだね
どう考えても魏志倭人伝の水行陸行のところは間違ってると思うけどね
沖縄台湾あたりになっちゃう
このおかしさをみてないだけじゃん
それだと認められないので使うの禁止ね ∧ ∧ {^^}
_(=゚ω゚)⌒ i | ギャハハハハハ
(⌒ ー 一 r、!
ヽ弋 。 X 。イ(`ー′ つぶせ! つぶせ!!
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';:;:,;.:,;: ちょっと前の奥山は畿内説を「定説」と言い張っていたが最近は弱気になって「通説」と呼ぶようになったんだな
日本語の使い方が少し上達したようだw 三国が争ってた時代で倭国に来た使者が
呉の都の建業近くにあることにするために書き換えた可能性はある
これを歴史的資料を使って消してみ
今世に出てる文献だけでは絶対無理だから >>948
>登呂遺跡や池上曽根遺跡の高床式倉庫の
伊勢遺跡や纏向遺跡の建物も九州の技術がないと建てられないと思うんだよね
紀元前あたりで隆盛を誇った九州北部だけど
57年漢委奴国王、107年帥升みたいな
厳しく統治する王の出現がイヤで東に向かった人々がいて
東に稲作や建物を作るノウハウが伝わって九州が衰退した
九州は、「東征毛人五十五國」を実行した方だし、
白村江も戦った方だし、
唐会要倭國伝の「正北抵新羅」などに拠って、唐代まで倭國の中心地であったんだから、
衰退なんてしていなかったんだよ。
>これ後漢書的にも遺跡的にも繋がるんだよね
遺跡の繋がりは、九州倭国の「東征毛人五十五國」があり、
九州倭國の「地方の市を監督する大倭職」が置かれたから。 >>951
>池上曽根遺跡には支配者を思わせるでかい倉庫がある
小さい高床式倉庫が並んでた中で特別でかいのが作られた
九州王のやり方を真似た人が南大阪に出現して
この南大阪の勢力が大阪、奈良、滋賀南部、摂津に勢力を広げたころに
卑弥呼を迎えたと考えてる
「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの」史料実態に拠って、
卑弥呼を迎えていないから、×。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。
釜に至っては5Cまで待たなければならない。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html >>960
>・・・九州北部が隆盛を極めていたのは弥生中期までだろうな
甕棺墓文化の衰退とともに九州北部は衰退していった
唐会要倭國伝の「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」や、
「倭國の白村江の戦い」などに拠って、
北部九州は、唐代まで隆盛を極めていた訳で、
甕棺の減少に関係なく、
衰退していなかった。 >>974
情弱
魏志倭人伝が書かれた頃すでに呉は存在しない >>991
ホケノ山古墳は炭素年代測定法と副葬品から3世紀中期以前のものと鑑定 まーだやってらっしゃるのか
卑弥呼の陵墓 ← 黒塚古墳(天理市)
卑弥弓呼の陵墓 ← 高尾山古墳(沼津市)
ハイ終了
解散! >>996
ホケノは炭素年代だけじゃなくて
副葬品も3世紀 このスレッドは1000を超えました。
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