【初心者】スレッド立てる前に質問をPart41【歓迎】
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・ここは日本史板なので,沖縄史は対象として不可です。
・このスレでは過度な論争は自粛してください。政治的な主張の場ではありません。
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前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart40【歓迎】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1586958020/ 記紀では、葛城氏が滅ぼされたのは雄略天皇となってますが
この事は考古学的に見て、正しいと言えますか? 戦後、政教分離原則によってすべての神社が民間の宗教法人のなりましたが、
国家功労者や国難殉死者を祀る靖国神社がいち民間法人になるっていうのは
無理があったと思います
詳しい方の見解が聞いてみたいです 神社と名乗ってる以上、仕方がないだろ。
特例措置は取れない。
宗教的な名前を使用しない平和施設にするしかない。
共産党が名前を変えずに、中立の政治的思想です。
って言うようなもん。 宗教を一神教または教祖がいる創唱宗教と説明すればよろし
明治の神仏分離令に次ぐ政教分離(神社は仏教でもなければ宗教でもない)が正しい道 福島県磐梯町では観光の目玉として慧日寺跡を整備して金堂を建てた。そこに薬師如来を
祀りたいのだけど宗教施設に予算を出せないので仏じゃなくて木造彫刻という名目でやっている。 無宗教には霊も魂も存在しないのだから当然慰霊という概念もないし墓も必要ない
無宗教の慰霊施設などというのはありえないんだよね >>4
神社でなくなってたら問題なかった
神社のまま存続しようとしたら民間神社にせざるを得なかった
役割的には神社をやめてた方がよかったろうにな >>8
町の慰霊塔とかは宗教法人化してるのか?
してないだろ。
巨大な慰霊塔立てて、これは芸術作品のモニュメントです。勘違いして祈ってる人がいますが。
って言っといたら完璧 >>4へのたくさんのレス、ありがとうございます
神社の形だからダメなのか・・ならば一層元の形である招魂社に戻したらいいのか
それとも神社と招魂社は同じなのか、いろいろ難しいですね
>>7
気になったんですが、薬師如来云々の前に金堂そのものは良いのだろうか?
金堂って寺院(宗教施設)の伽藍のことですよね >>12
>金堂って寺院(宗教施設)の伽藍のことですよね
そうですが廃寺跡なので金堂を再建するだけなら宗教にならないという事なのかなと想像しています。
町民じゃないので詳しい事は知らないのです。慧日寺は平安時代に京都から下ってきて仏教を布教した
徳一が建てたお寺です。近くにある道の駅磐梯はバンダイつながりでガンダムの像が飾ってあったり
しますが、徳一と慧日寺跡の宣伝も盛んにやってます。でも廃寺で観るべきほどの物はないので
金堂を再建したり薬師像を収めたりしてるわけです。
一応慧日寺資料館はあって発掘調査で出土した史料が展示してあるんですけどね。地味なので。 >>12
招魂社って名前だと神社になってしまうのではないかと 靖国神社の成り立ちや役割、意義を考えると、国家護持=国の施設に戻すこと、を主張する人たちがいるのもわかる 滋賀の出身なんですが
古代の成務天皇、神功皇后とか
架空の人物の可能性が高いと言われてますが
なんで滋賀の出身にしたんですか?
大和とか河内にすれば良かったのに。
継体とか舒明は、実在の人物と言われてますが、彼らが滋賀の出身だったから
記紀の編纂時にわざと入れたんですか? 舒明天皇は息長氏の出身で
息長氏は滋賀の米原が本拠地です。 息長氏って蘇我氏や葛城氏よりも前の時代に大和朝廷で有力だった豪族だよね
大和朝廷の有力者のなかには、上つ毛氏(上野あたり出身?)や紀氏、吉備氏のような、大和以外の地方出身者もいるので、近江の豪族が力を持つことはあり得たかも。
架空の故人の出身地に選んだ理由としては、継体天皇のころに作られた話などと想像すればいいかもね 鎖国の話で、カトリックのポルトガルやスペインと断交したのは
わかるとして、東南アジアとも断交して日本人町を
見捨てたのはなぜでしょう?
シャムやカンボジアの日本人町なら宗教も関係なく
貿易できると思うのですが。 交易を支那、朝鮮、阿蘭陀に限って厳格に管理し、幕府が独占する政策を取った
支那、朝鮮もそういう海禁策を取り、自由な貿易は認めなかった 神社寺院とかがありますが、地名と神社の名前が一致してるケースが多いように思いますが
地名が先に付いてて、神社が後に建てられて名前がついたのか?
神社にあやかって、地名をつけているのか?
どちらでしょうか?
ケースバイケースでしょうか? それでいいのか?
諏訪神社とか地名のほうが先ではないのか
宗教色のある名称かどうかで概ね判断できるのでは >>23
シャムやカンボジアの貿易も独占すれば良かったのでは >>13
揚げ足取りみたいで申し訳ないのですが、例えば廃神社跡地で
拝殿だけ、あるいは鳥居だけを税金で建立するのはOKなんだろうか?
いろいろ示唆に富むテーマですよね >>27
三輪神社も似たようなもののような気がする
三輪神社よりも三輪山と三輪の神のほうが古いのは確実だけど、
三輪山と三輪の神とでは、どちらが古いのかは調べようがないしなあ
ひょっとすると、三輪という地名が神の庭という意味で、その三輪山の神だから三輪の神だったのかも 朝廷が没落して無力化していて、
室町幕府も没落して無力化していたから、
群雄割拠の戦国時代になってたわけなのに、
天下統一して国をまとめた実力者の豊臣秀吉が
自分の権勢を補強するために朝廷の威光を利用したと言われる
そもそも没落して無力化していたのに、
天下人、最大実力者の秀吉を補強できる威光が朝廷にあったのだろうか?
日本史の興味深い勘所 >>30
大神(おおみわ)神社です。三輪山が御神体
神の由来が三輪でない限り 神社に古代天皇とか皇祖の関係の神が奉じられるようになったのは
天皇の権力が強化された律令制以降からと考えていいですか?
それ以前は主に山の神みたいな土着神が主だったと。
山のそばに住んでますが、山の入口のそばに山の神の石の祠みたいのがあって、解説文のタテ看板があって、古来から入山の前に拝んでた。みたいに書いてあります。 >>33
山の神などの土着の神と祖霊である氏神とだと思います。それぞれの地方を牛耳る有力者が
それぞれに祖霊を祀っていたであろうということです。
>>31
没落して権威も失ったけど信長や秀吉といった実力者が庇護して敬うことで権威が復活するのです。
その復活した権威が秀吉のような実力者に支配者としての正当性を保証するのです。 >>28
日本人の東南アジアへの渡航を禁止
海外に居住する日本人の帰国も禁止
長崎出島に来航してくる支那、阿蘭陀のみを貿易相手にした
(日本側からは渡航しない)
朝鮮は外交として通信使が来るのみ >>35
>日本人の東南アジアへの渡航を禁止
>海外に居住する日本人の帰国も禁止
だからどうしてそうしたんだろう?
東南アジアの日本人町はカトリックと関係ないだろうに。 外洋に乗り出せる船の建造禁止
長崎にやってくる朱印船、阿蘭陀船だけを相手に交易する
こう決めたのだからそれに従え
いろいろ言うな、黙らっしゃい 幕府独占交易を出島まで築いて厳重管理の下で行うのである
あっちこっちに出かけて行ったり、あっちこっちの内地に外国船がやってきたりしたら管理が追っつかん
楽して儲けるスタイル〜♪ 幕府支配の国柄と言ひ条、大名は領地領民を支配して独立して財政を持つ
大名の貿易を野放しにせば、莫大な富を得て天下に謀反を企てむ恐れあり
臭い匂ひは元から断たなきゃ駄目
(薩摩は琉球を支配して儲けてるけど、やっぱり維新で幕府はヒドい目にあわされる) 琉球と薩摩はウインウインの関係だよな
だから琉球処分にも素直に応じた 倭の五王なんですが、彼らの正体は何だったんでしょう。
一応、大和の古代王権じゃないか?って言われてますが、反論としてはそもそも大和という証拠も無いし、北九州あたりの王が派遣してる可能性もあるし、
大和王権だとしても、血縁関係が王同士で繋がってるのか?怪しいって説もあります。 大和以外の王だという証拠を持っている人がいるとでも? 継体の時代でも、北九州には磐井という大豪族が居て、大和に抵抗して数年間戦っているけど。
倭の五王はそれより100年近く前だから、大和は強くない。他の豪族かもしれんって説はあるぞ。 >血縁関係が王同士で繋がってるのか?怪しいって説もあります
倭の五王とやらは,支那の史書にしか論拠が無いのに,その史書に書かれている血縁関係を否定するは何ぞや? 護良親王はなぜ皇族なのに戦闘力が高かったのでしょうか? >>38-40
貿易は幕府が一括管理と、大名に勝手に貿易をさせないし
外国にも行かせないってことか。
それならわかります。
西洋ではオランダだけ許可したけど、イギリスが一度撤退してから
もう一度貿易の再開を求めたけど拒否されてます。
新教の国だからいいように思うけど何で駄目なんだろう? >>46
鎌倉時代ごろまでは、武芸達者な貴族もいた
そもそも武士の武芸の源流そのものが貴族の中から出てるのではないかという説すらある >>47
今般英吉利國、本朝と交易再開を望む申し入れ是有り
然れど且つては自ら商館を閉ぢて退去せしに再び交易を望むは餘りに勝手なり
亦、夫れ英吉利國王室ハ葡萄牙王室と縁組に因りてよしみを通ぜんとし居り、剣呑至極 >>46
江戸幕府が「禁中並びに公家諸法度」で天皇公家の武芸を禁止するほど
当時は未分離だったってことだろう
それでも江戸時代の光明天皇は武芸大好きで毎日御所で鍛錬していたため
京都所司代の板倉が「おやめいただかないと私は切腹せねばなりませぬ」と諫めたところ
「武士の切腹を朕はまだ見たことがない。ただちに見せよ」といった話は有名
戊辰戦争では親王が出陣してるよね その一方で、公家が武芸をたしなむことはみっともないと考える価値観が、太平記本文の時代にはすでに存在してもいる
そのみっともない公家の実名・実例入りで書かれてるほどには。 重箱の隅を突くと「光明天皇」は南北朝時代の北朝天皇
正確には、「後光明天皇」だね 南京虐殺について調べてると出てくる以下の語の読みを教えてください
・下関
・角良晴
あと角良晴証言で第六師団が軍司令官(時期的に松井岩根)に中国人12,3万人の扱い
について尋ねたという件があるが、
第六師団は第10軍(司令官:柳川平助中将)隷下であり松井岩根に尋ねるのはおかしいという指摘がある。
しかし南京事件時点(1937年12月中旬)において第六師団の命令系統が調べても分からなかった。
南京に関しては朝香宮または松井岩根が管轄していたのでそこに尋ねるのは当然ではないか?と思うがどうなのか 角大尉が下関に残った支那人12,3万人の虐殺指示を中継して出したという話だろう。素直に信じますか? そもそも、殺戮と虐殺の違いもわからない人が大虐殺と言ってる件について
殺害を命じた可能性なら、ひょっとしたら何らかの情勢によってはあり得るかもしれないが、
虐殺を命じる意味がない。その必要性など、どう考えてもありえない。
また、実行能力的にも、大規模に虐殺するのは無理だろ
なんのためにわざわざ「残虐な殺しかた」を実行する必要があるのか。 角良晴証言で虐殺指示を勝手に出したのは長勇とされている。角じゃない。
「すみよしはる」でいいんだろうか?
下関は、今南京に下関区があり「かかんく」と読まれているから「かかん」だろうか? そりゃ現地の人はXia quanとか言ってるんだろうが、日本で漢字を読むときは一般的な漢音でカカンと読んでおくしかないだろう なぜ鎌倉時代に新しい仏教がたくさん生まれたのですか? >>57
ヒトラーのユダヤ人虐殺だって
実際は命令書とかもないし
ガス室も見つかってないし
何百万人も死んだという証拠は無いんだぜ。ユダヤ人団体が勝手に主張してるだけで。
信じられないだろうが、本当の話なんだぜ。 朝鮮半島あたりの事件だったと思うが
謎の発砲音がして敵襲だと勘違いして戦闘が始まったみたいなやつ
名前なんだっけ? 銃器のなかった時代だが、富士川の戦いのことかと思ったわ
海外じゃなく日本だが。
つか、音で勘違いして戦うのって普通じゃね? >>61
跡地とかの、遺跡群はいったいなんなのさ? >>65
何のことか?分からないけど
どんな事象でも、そういうものはあるよね。 >>60
日本政府が大陸最新のトレンド、仏教を受け入れて王城鎮護、国家安泰の道具とし、国家公務員の僧侶を養成してお経の研究、加持祈祷を行わせた
けれど時代が下って律令国家も廃れてくると、公務員ではない民間の僧侶が出てきて一般民衆の魂救済を行うようになってきた
古代から中世へと移り行く鎌倉時代やから、そういういろいろ変わり目なんやね そのほかにも。平安時代後半ぐらいからかな? 末法思想というのが広まってて、新しい方向性が求められたのもある
中国の戦乱が北宋によって統一されたことで仏教のトレンドを学びに中国にわたる人が増えたから禅宗が持ち込まれた、みたいなタイミングもあるし、いろいろ複合的な要因があるよね >>68-69
ありがとうございます。
勉強になります。 >>65
絶滅収容所でもないガス室もない普通のユダヤ人収容所が残っているだけじゃん ぶっちゃけ、同じ時期にある国が起こしたとされる虐殺は、プロパガンダであり捏造だ。
ある国が起こしたとされる虐殺は、100%事実って主張するから、荒れる。
多少の真実やプロパガンダは必ず含まれている。 古事記の本の挿絵に描かれている服装とかは、どの程度正確なんですか?
古墳時代の服装なんて、副葬から出てきてもボロボロで再現は不可能なはず。
平安、飛鳥時代あたりの服装を描いているだけではないですか? 大河ドラマでユースケサンタマリアが演じる朝倉義景について質問です。なぜ強大な信長と争ったのでしょう?港か街道ふさがれて経済封鎖でもされたのでしょうか?ちなみに福井の地震スレで地理や歴史の話題も出ていたので興味が沸きました。 ホントどうして強大な勢力に刃向かったりするんだろうねぇ
織田信長が今川義元やら武田信玄に敵うわけないだろうに
朝倉対織田ならイケそうだが
浅井を裏切らせて信長が敦賀に出てきたところを挟撃すればやっつけられる 同じ斯波の家臣ではあるが信長は守護代の家臣の家柄
プライドが許さなかったのかも
それに経済的にも敦賀から京への琵琶湖海運の利権問題で軋轢があったんだと思う
比叡山攻めもそれに関わる既得権益の引っぺがしだしな 織田が叡山領を押領して返さないので、織田と敵対する朝倉を入山させて滞陣させ、朝倉の味方をした
今後そんなことはやめろと言うも叡山はうなずかないので織田は攻めた 質問の趣旨が、義昭の上洛命令に従わず信長が攻撃する口実を与えたのかという意味であれば
有名無実化が進行している足利家に関わりたくなかったのであろうし
仮に軍を向けられても雪国である本国での長期持久戦に耐えうるだけの国力はあったからだろう。
朝倉家の失敗は、国力を弁えず、国外に大軍を長期間派兵したことだと思うが。 >>76
当時は信長の勢力はまだ不安定で、義昭が朝倉に内応したら逆転できる余地があったからだろ
信長と信玄の力関係は、信玄のほうが国力で勝ってた頃には国境を接してない
戦いはじめた頃には国力で信長のほうが何倍も大きくなってからだ
むしろ信玄の蛮勇を咎めだてるべき あ、信長と朝倉家が争う原因について尋ねた者です。レスをいくつもどうも。個人的には琵琶湖水運を押さえられて敦賀と京の往来に支障が出た説に一番納得しました。比叡山と朝倉家の同盟関係もその辺が大きい気がします。 朝倉義景が上洛して「今後も琵琶湖水運利用させて下さい」と頼めば丸く収まったのか、それとも信長はとことん朝倉を追い詰める気だったのか。。とりあえずユースケサンタマリアの演じる義景に注目です。 えー?
琵琶湖水運の支配は六角氏であって朝倉は無関係だろ 浅井も六角と争えるほどの力は持ってないぞ
一応は京極と六角が近江の半分ずつを持つという分割型の守護だったけど、
六角との争いのなかで京極のほうは衰えて力を失って、家臣のひとりにすぎなかった、家老ですらない浅井の保護下にはいってたほどだから
六角が近江の大半を押さえていたってことだろうな >>83朝倉は水運を使わせてもらう立場だからこそ、新勢力と争うか手を組むか問題になる訳じゃないですか。理想は琵琶湖水運の旧勢力六角、新勢力織田の双方と仲良くする事だろうけどなかなかそうは行かない。 (織田)琵琶湖水運牛耳れば儲かりそうだな。おい六角と延暦寺、俺に明け渡せ
(六角と延暦寺)悔しいけど強すぎる。あ、朝倉どの〜
(朝倉)え?誰が琵琶湖仕切ろうと利用できたら満足なんだけど
(義昭)朝倉よ、わしからも頼む
(朝倉よ)あれ?あんた信長のお陰で将軍なれたのに二枚舌?関わりたくない奴だな 六角氏って、信長に攻めこまれたとき、鎧袖一触で敗北して滅んだように勘違いされてるけど、
あいつら本拠を攻め落とされても奥地の甲賀に逃げ込んでゲリラ戦とかで抵抗をつづける難敵だからな
足利義尚の幕府軍に攻め込まれたときも甲賀から抵抗軍を出して戦いつづけてたし、
それで10年近く(?)近江に釘付けになったせいで酒浸りになった義尚は病死した
信長とも十年ぐらいは戦いつづけてなかったっけ?
少なくとも、浅井が滅んだ頃にはまだ抵抗をつづけてたはず >朝倉は水運を使わせてもらう立場
そもそも義景の時代の朝倉氏が積極的に何を売り出してたの?
それは畿内でしか需要のないものなの?
領内の商人が商家として他国に売りに行くことはあっても、朝倉家が琵琶湖の湖賊と積極的な関わり合いをもつんだろうか。
質問者が(実情を無視して)現代的な理屈付けで納得しているんだからもういいんじゃないのかなぁ。 >>88
ゲリラ状態だともう水運とか南近江の権益は手から離れてるよね 戦国大名を張ってた六角氏は滅びた
あとは豊臣家の家来や前田家の家来をやって明治を迎えた >>90
甲賀郡周辺、奥地の陸上部しか持ってないから水上支配はできなくなってるね
ただ、港湾とかを脅かすことは多少はできてたろう
山を越えて伊賀国にも影響力を残してたから伊賀には反織田の勢力が多かったね
部下にあたるのか仲間なのかわからんけど。 日本の公文書が漢文で作られていたのはいつまででしょうか? 何を以て漢文とは況ふ
渡来人書き記したる漢文から倭臭芬々たる漢文へ
已んがては擬漢文と云ふべき和文まで移ろひ来し方を省りみれば >>89じゃあ朝倉が織田と争った理由は何なんですか?秀吉や家康のように領地がえ命じられた時代ではないし。争う理由は何? いくら昔と今の感覚違っても、「格下に頭下げたくない」とか、「昔からの付き合いで援軍断れない」とかの理由で戦争しないですよね?信長が畿内占領したって北陸の朝倉がどう困るのかどうしても分からない。そこで「畿内との街道や水運の物流塞がれて追い詰められて」と考えたのですよ。 織田信長に擁立された新将軍足利義昭による朝倉への上洛要請を断ったのは、朝倉が織田に臣従するのを嫌ったためとされる
新将軍への協力を断った朝倉は、敦賀を領して織田の領地美濃と京都の間に近く危険である
そこで信長は、朝倉は将軍への叛意ありとして敦賀を攻めることとした >>94
まあ、だいたい擬漢文だよね
朝廷の公文書は明治維新まで擬漢文だっけ
幕府は擬漢文も少しあるだろうけどだいたい和文かな? >>97なるほど、確かに敦賀は現在でも近畿と東海をつなぐ交通の要。織田側には朝倉を警戒する十分な理由があった訳ですね。 朝倉も挨拶行けばいいのにね。武田や上杉に比べたら都まで相当近いんだし。信長に頭下げるんじゃなくて、あくまで将軍に頭下げる訳だけどもうイコール感覚だったのかな?でも家来や領民の事を最優先で考えるべきだった。 敦賀の手前には浅井も居るのに、信長は浅井へ相談もなく敦賀へ出兵した
浅井の家臣も一枚岩ではなく、信長の行動に憤慨するものがあった
浅井が敦賀出兵の信長を襲ったのは確かだが、その軍勢の中に浅井長政が本当に居たどうかまではわからない
父親の久政が主導したのかも知れない
それでもとにかく浅井と織田は敵同士にはなってしまった >>101ん?本隊の長政自身が出兵したから、妻のお市の方が兄信長に小豆袋でこっそり知らせる事ができた訳でしょ。どこかの支隊が動いた位じゃ、お市様には兄のピンチは分からないよ 浅井が裏切るとは夢にも思わなかったと言われてるに「小豆袋」の暗喩で気付くかな? 小豆袋の話は『朝倉始末記』だけに載っている話であるが、できすぎた話で事実ではないだろう
朝倉の本拠、一乗谷を攻める軍議を織田方が行っている時点で、浅井の軍勢が小谷城を発した報らせが続々と届いたという
織田方の偵察諜報の線にひっかかっていたのだ
お市の小豆差し入れが九里の距離をのんびりと運ばれてくる余地はなかった お市は信長が軍議のため敦賀にとどまっているかどうかも知る由はなかった
どこまで届けるつもりだったのか‥ そうか、小豆袋の話は創作か。早期撤退の成功は偵察部隊の手柄と。それにしても大したことだよ。やっぱ武将達助けるために雑兵は相当刈られたんだろうね なんか朝倉問題が長引いちゃいましたね。自分の疑問はきっとユースケサンタマリア演じる義景が語ってくれるでしょうし、そろそろお開きとさせて頂きます。レスどうもでした。 >>96
いや、戦国大名の社会はいまならやくざの世界に近いんだよ
格下に頭を下げるような親分には部下がついていかない
つまり、配下の離反に直結する
もっとも、当時の朝倉氏が、信長の擁立した新将軍義昭に頭を下げた程度で部下が離反するとも思いにくい気はしなくもないんだけど 毛利元就は敵と味方を分けて、味方の国人には頭を下げまくってる印象 古代の天皇陵なんですが、めちゃくちゃ胡散臭い気がします。
特に応神とか仁徳とかあの辺です。
古代の巨大な権力を持った豪族の陵墓を、律令制を構築した天皇が勝手に自分の代々の墓って主張したんじゃないですかね? >律令制を構築した天皇が勝手に自分の代々の墓って主張
違うだろ
江戸時代の尊王思想勃興で天皇陵所在地の考証がなされたのを旧宮内省が引き継いで天皇陵だと「主張」しているもの >>112
なるほど、いずれにせよ天皇陵なのか?どうか分からないし、実在したか?も分からない古代天皇も多いですもんね。
欽明天皇辺りからは、確実でしょうが
それ以前の30人くらいは居たか?どうか不明だし、血縁があるかも不明ですもんね。 >>114
実在したことはわかってても墓所は確定ではなく、古墳の治定の大多数は間違ってると考えられてるんだよな
正しいのは天智天皇陵ふくめ二〜三基だけ、逆に継体天皇陵とか欽明天皇陵は治定とは別のとこが確実視されてるほど。 >>116
雄略も強大な権力を持ってたのに
古墳はめちゃ小さいから怪しい。
安康天皇に至っては、古墳ですらないって考古学的に言われている。自然丘らしい。
もうめちゃくちゃ。
むしろ宮内庁が不敬だろ。って突っ込みたくなる。
おかげで、今城塚みたいに継体陵に入って行けるから、いい面もあるけどな。 違う人の墓を「○○天皇陵です」って言う方が不敬だよねえ 自分の論を受け入れなければ外国からの侵略を受けて日本は滅びてしまうと日蓮は言った
激しい人なので激しいことを言いたかったんだろう >>120
国際知識があったわけじゃなく、たまたま当たったのか?
今で言う胡散臭い宗教の「地球滅亡論」が当時で言うところの
「外国の侵略」になるんだろうか。 素人妄想。
あの頃の巨大仏教組織は巨大な貿易企業でもあったから、何らかの情報を得てたのでは…… まあ情報は詳しかったらしいけどね
その一方で、信仰がらみの滅亡予言に情報を悪用したというべき側面はある 安倍首相の真珠湾訪問、オバマ大統領の広島訪問、ローマ法王の広島訪問、
トランプ大統領と金労働党委員長の会談、金労働党委員長と文大統領の会談、
平成の天皇陛下の生前退位(譲位)、
この辺りは将来の歴史教科書に掲載されますか? >>123>>124
情報を知ってて、「私は預言者だ」とばかり布教に利用したのか。
フィレンツェのサヴォナローラみたいだな。
でも日蓮の宗派ってそんなに力あったのだろうか? 日蓮は開祖で、これから力をつけていこうという段階ではなかったか? ここで聞いていいのかな?
質問させてください。尺貫法?江戸〜明治期の単位についてです。
とある本を読んでいたら、「○○の面積は5方里8分5里で・・・」
のような書き方をしている箇所がありました。
この面積を㎢に換算するにはどうしたらよいでしょうか? 五方里八分五厘とは5.85平方里のことなんだろうな
1里の長さは古代では400mくらいのときもあったが、新しいところでは3.93km
1平方里=3.93km×3.93km=15.44平方キロメートル
5.85平方里=5.85×15.44=90.32平方キロメートル
‥こんなもんでねぇかな 足利尊氏は、最初から自分の幕府を開くつもりだったのでしょうか? その遺言というのはおそらく後付けで創作されたもので、建国神話の一種でしょ 尊氏は鎌倉で産まれ育ったし、名字の地である足利には死ぬまで1度も行ったことないだろ 中先代の乱はもともと尊氏が鎌倉にいたなら余裕で撃退できただろうな 今城塚古墳みたいに、大迫力の大古墳で、しかも中に入れる古墳ありましたら、ご教授願います。
大阪、京都、奈良辺りでお願いします。 石舞台は蘇我馬子の墓とされているわけだが、天皇ではないので陵墓には含まれないんだよね(古墳には含まれるはず)
馬子の後継者だった蝦夷の墓は(実際に葬られた場所ではなく生前に造営してた方の墳墓は)大陵と呼ばれたというから、その先代の墓は陵墓も同然な気もするけども。 >>139
京都
久津川車塚、蛭子山、網野銚子山、神明山、私市円山
大阪
津堂城山、西陵、摩湯山
奈良
五条野丸山、室宮山、外山茶臼山、メスリ山、狐井城山 信長ってすべての大名を滅ぼすつもりだったんでしょうか?
敵対して滅亡→斉藤、朝倉、武田、六角
裏切って滅亡→浅井、北畠(強制隠居後に陰謀)
本能寺の変で滅亡秒読み段階→上杉、長曽我部、毛利など
北条、九州や東北の諸大名もこのまま潰されたかな?
秀吉みたく「頭下げれば一国くらい安堵するでよ」みたいな
優しさも感じられないし。 降伏して部下になったら基本的には部下として扱ってるよ
裏切られたと感じた相手にだけ苛烈なだけだ 日本史板ってここと邪馬台国スレしかまともに稼働してないの? >>143
服属してきた国衆には普通に知行安堵してるし歯向かった所滅ぼしてるだけじゃない?
幕府を倒して朝廷を事実上支配してからは基本的に天下人として振る舞ってて紛争停止を命令してたりするし大友氏とか後北条氏とか東北の大名は信長に服属を表明してる
秀吉とか家康みたいに後から滅ぼしたり改易するのはありそうだけど 神社と寺は、お互いに相手をどう思っているのですか? >>145
長続きしてるパースレだと城スレとかあったよな、まだ人いるのか知らないけど 神仏習合でやってきたけれどその中では仏僧の方が幅を利かせていた
神職なんて下働きみたいなもの
それが明治政府の神仏判然令(分離令)が出たところで民衆の中から廃仏毀釈の運動が起こった
寺請制度の中で民衆統制の役割を担ってきた寺僧に対する不満・反感が噴き出したのである
一方、神社は国家神道と呼ばれる路線を歩んで幅を利かせた
やがて敗戦により国家神道の道は断たれた
‥そうして今、寺、神社共に食ってゆくことさえ難しい状況で、お互いをどう思うなんて余裕もなく汲々としている
(神仏習合の復活がちょいとしたトレンドでもある) 有名観光寺社は儲かっているが、小さなところは潰れて行ってる 大阪東部に住んでますが
東大阪の生駒山の麓には、神武天皇の伝説が多いです。
枚岡神社とか石切神社とか、日下町とか、盾津とか、
もちろん神武天皇は実在してないのは知ってますが、とすると、このような伝承は、天智天皇、天武天皇の大化の改新とかで天皇の権力が神格化され始め強大化した時に、造作されて、関連してる地域に遺構が作られたのでしょうか? >>149
江戸時代は近江の比叡山の日吉大社ですら、延暦寺の言いなりになってたからな。 鎌倉名越切通から出土した女性の頭蓋は4か所の穴が穿たれていた
さらし首のための孔だと考えられる
女性のさらし首について絵画資料や文献は確認できないが、人骨が出土で、処罰のあとに埋葬されることまで確認できたということである 蘭書をたずさえて刑場へ赴き、非人による腑分けを見学したということが「蘭学事始め」に記されている
この腑分け胴体は、さらし首ではないが打ち首となった青茶婆の異名を持つ女性の遺体であった
養育料を目当てにもらった子を何人も殺したという罪状だった 国家神道よりも前の時代でも天皇は日本の神々を祀る祭祀王的な存在だったんですよね
(平安時代に譲位後に仏門に入る天皇はいたけれど)
つまり、国家神道よりも前の時代でも「天皇=神道のトップ」という図はあったわけですよね
それでも、神道(神社)は仏教(寺院)に対してそこまで弱かったんですかね
その辺はいまいち腑に落ちないところです >>152
江戸時代後半や明治大正、昭和初期ぐらいまでの時期に既存の遺構と神話的意味を混ぜこんで新しく伝承を造作したとこも多いんだと思う >>153
元々は地域の神社、地方豪族の神社だったのが延暦寺の影響で勢力を伸ばして大社なんて呼ばれるようになったんだから、延暦寺の言いなりだったのが当然でしょ
寺はよほど辺鄙なとこの小さい寺でもどこかの寺院で修行した本職の僧侶が住持になるのがふつうだったけど、神社は大手以外は地元の有力者が神職を兼任するか近隣の寺の住持が神職を兼任するのが多かった
地域の寺はプロの僧侶が切り盛りしてたけど地域の神社はアマチュアの神職が切り盛りしてたわけだ >>158
えーと
神職のトップは天皇ではなく配下、神祇官の長官(白川氏)と次官の吉田氏ではないかと思わなくはない
天皇は神職のトップみたいな位置付けと神々の末席? 末ではないんだよなあ …… の兼任みたいな?
もとはといえば、奈良時代後半の天皇が仏法の下僕とかやったのが始まりのような? 仏教…悟りを開くための自己研鑽
神道…祭り
宗教ではないの矛盾しない。坊さんが祭りに参加してはならない則は無い 元寇で捕虜になり、そのまま日本に居着いた人はいたのですか? かつて日本と仲の良かった宋人は助命されたらしいけど
奴隷扱いだったんじゃないかね。 >>161
>>神祇官の長官(白川氏)と次官の吉田氏
彼らも神々を祀る祭祀をしていましたが、天皇も祭祀をしてましたよね
いわゆる宮中祭祀のことです 朝廷は仏教と神道の間で矛盾に葛藤しなかったのだろうか >>154
江戸時代だと有名なのは白子屋お熊
なお判決を下したのはかの大岡忠相 >>166
蘇我物部戦争
勝ったのは蘇我
これで決まり
朝廷でも天皇以上の権力を持つ大豪族には勝てん 筑紫平野の卑弥呼の邪馬台国は大和盆地南東部の纒向遺跡に成立した倭王権とはなんのつながりもないのに、なんで邪馬台国論争は人気なんだろう >>163
当時の武家社会では捕まえた捕虜を下人(≒奴婢)にすることは多かったから、帰国できずに日本に抑留された人もいたんだろう
居着いたといっていいのかどうかは分からんけど >>166
最初期はともかく、平安時代ごろからは神仏習合が進んだから、神社と寺も融合するのが普通だったしな
矛盾は少なかったのでは >>169
邪馬台国が筑紫平野にあったとの説は徐々に砂上の楼閣状態になってきてるんだが 何が出土すれば、邪馬台国の決定的な決め手になりますか? 金印かなあ
日本のどこにも埋まってない可能性もあるけども。 金印を潰して、金塊にして宝飾品とかにした可能性もあるな。 高松塚古墳についてお伺いします。
司馬遼太郎: 「高句麗」
宮本常一: 「高句麗ではなく、中国の北方文化」
どちらが正解でしょうか。 >>152
その頃と思う。
日本書紀がその辺りに作られてるからな
そこに天皇に即位する前の神武が当時はでかい入江になってた大阪を難波で休憩した後に東進して奈良に向かうも抵抗が強くて諦めたくだりがある。
大阪東部はまさにその場所。
で、神武は諦めて南進し、新宮辺りから再上陸して奈良に入り、
神武天皇として即位する。
だから少なくとも700年までには固まってた話なんでその辺りからずっとあるはず。 >>179
神武が居たって話を流したのは、朝廷の役人とかですかね? 事実上の初代天皇は誰になるんだろう
初期倭王権である倭の五王や行燈山古墳やら大仙古墳やらの被葬者はのちの大王家との血縁関係はないだろう
継体天皇のときに易姓革命が起こったと考えるのが自然
ただ継体のあと安閑→宣化→欽明と横の継承がすんなり行われたのは不自然なんだよな
実際には欽明が安閑・宣化を滅ぼして大王位を継承したのではないかと思う
欽明死後も欽明の子世代による横の継承が行われてるけど崇峻の暗殺があったりして王権が不安定だった
この中で初代天皇は誰だったか問題は結構難しいと思う 宮内庁が埋葬されている天皇のDNA鑑定を拒んでいるというのは本当ですか? 秀吉が家康を東海5カ国から関東に転封した件ですが、よく考えたら
太閤検地の前じゃないですか?
(少なくとも北条領は)
検地前に丸ごと転封なんて前代未聞だと思うのですが。 神武(と、後に追号されることになる始祖王)の存在そのものは五世紀頃から信じられていたとされる
ただ、どのような業績なり経緯なりを持つ人物と考えられていたかは分からない
登極の経緯も出身地も血縁関係も全て変更されて記紀に記された可能性があるだけだ 戦国時代の転封は珍しいことだったが、検地して生産高を把握してから行われるわけではなかったろ
検地の目的のひとつに転封を容易に行えるようにすることがあった >>182
DNAがどんな物質なのかお勉強してください いや、ミトコンドリアDNAなら古人骨から取り出して分析もできるよ
問題は、ミトコンドリアDNAは父親からは引き継げないから父系を調べることができないことだけ すいません。
それじゃあ、事実上、歴代天皇が血縁なのか?分からないってことですかね? >>181
事実上の始祖は継体だろうし、たぶん宮内庁も内心はそうなんじゃね?
欽明が、断絶した系統から后を迎えて
皇子を出しているのも事実だろうから
やはり、今上天皇の始祖は継体で異論ないと思う。 記紀の中の大王で、実在の可能性のある王は崇神だろう。
応神から大阪に本拠地が移っているし、
応神は九州から来た天皇だから、崇神の系統とは血縁はない。 歴代の天皇の皇子の中でも世襲宮家を持てず、出家してそのまま断絶した皇子や
皇族が少なからずいたと聞きます
天皇の皇子をすべて世襲宮家にしていては朝廷の財政が持たないっていう側面が
あったと思いますが、だからと言って半ば強制的に出家させて一生独身を通させる
(子孫を残せない)という対応は非情だったような気もします
むしろ臣籍降下させてある程度自由に生きていけっていう風にはできなかったんでしょうか? 継体辺りから続いてれば調べられても何ら問題ないだろうが
相当最近に途絶えてるのかもしれないね 質問なんですが、
頼朝に右近衛将軍とか征夷大将軍になったら幕府開けて支持層の利益になりそう、
って裏技を教えたのは誰でしょうか?
それとも自身で思いついたの? 右大将とか征夷大将軍というのは形式的なものだと思う
頼朝は平氏を滅ぼした時点ですでに独立した勢力だったのではないか
そして平氏を滅ぼしたとともに、侍所・政所・問注所の支配機構と全国支配の要となる守護・地頭を設置した時点で鎌倉政権の成立とみていいのではないか 朝廷が平家みたいに京に居座られると困るから征夷大将軍に任じて東の守りに追いやったんじゃね? >>197-198
なんか、遠征司令官なら現地軍政権あるから、そういう建前での発想かなと思ってました
なんか、武士の利権代表を担保する資格みたいな認識でした >>196
頼朝は木曽義仲の征東大将軍に見劣りしない大将軍号が欲しいと要求した。
征夷大将軍が欲しいとは言ってない。それを受けて朝廷側で議論して征夷大将軍に任官した。 >>201-202
ありがとうございます
実権があったから特に肩書にはこだわらなかったんでしようか?
大江さんは名前を聞いたぐらいの公家かと思ってググッたら、普通に武士っぽくてワロタ >>203
いや肩書は必要だよ。
>>202の書いていることはwikiの頼朝の項に書いてあるから読んでみて。もうちょっと詳しく書いてあるから。
頼朝が望んだのは朝廷行事に煩わされることがなく、且つ、全国の御家人に命令できる地位。 え、頼朝は全国の武士を支配してはいないだろ
頼朝の部下は、ほとんど関東の武士だけ
まあ、平家やら奥州藤原氏やらを滅ぼしてぶんどった土地を部下らに与えて支配させたから、
位置的な分布でいうなら全国ではあるが 全国の武士を支配できたのは承久の乱以降ね
勝手に曲解して他人の言葉を否定しないで 承久の乱のあとですら、関東の武士達が全国の土地を支配に組み込むようになっただけで、関東以外の武士の多くは幕臣ではなかったはずたけど 承久の乱以降もいわゆる本所一円地の非御家人までは統制できなかったのでは
元寇をきっかけに動員できるようになったけど
そういう意味では支配体制は強化されているはずなんだけど
なのに鎌倉幕府の終焉はあっけなかった
御家人の所領が分割して相続されるシステムが幕府を支える御家人の力を弱めたからか 取り敢えず
何か言いたいことがあるのなら歴史用語は正確に使ってくれないと、言いたいことは何も相手に伝わらないという
当たり前の事に気がついてね >>191
聞いた話だが、皇子をお寺に入れると
皇子:一生食いっぱぐれがない
お寺:門跡寺院として格があがる
天皇家:もし天皇候補がいなくなったら還俗させて
天皇にすればいいという、体のいいスペア
という三者ともにwinwinの関係になるからだそう。
あと臣籍降下については、かつては
親王→王→臣籍降下と天皇から数代経て民間人になったけど、
(もう皇族じゃないし自力でという心構えがあったろう)
のちに親王を即お寺に入れたので、自力で生き抜くだけの
気概がなかったんじゃないかな? 天孫降臨神話って持統-草壁皇子-文武ラインが皇統を継承するという宣言なのでしょうか >>211
寺が食いっぱぐれが無いのは?どういう仕組みなんだろう。
農民が食い物持ってくるの? >>196です
皆さんありがとうございます
大江さん、ブレーンとしてもネゴシェーターとしても有能だったんですね
もう一つ伺いたいのですが、
将軍位にも禁衛系と辺境鎮定系がありますが、禁衛系は在京なり頻繁な上京なりが要求されたのでしょうか? 勝手に用語作ってすみません、
禁衛系というのは近衛大将のような「禁裏を護衛するサテライト」的なやつです
辺境系ってのは安東とか征夷とか平蛮みたいなやつです 近衛府は常設の官職で職掌が決まってる。在京が基本だから頼朝は権大納言と右近衛大将をすぐにやめてる。
安東将軍とかは必要な時に任命して任務が終われば解任される。必要な時とは蝦夷征伐とか平将門征伐とか。 >>211
ありがとうございました
しかし、いくら食いっぱぐれがないといっても、仏門に入るのは厳しい修行が大変だし、
一生独身を貫くということであり、相当な決断が必要なことではないでしょうか?
そういう人生を強いるというのはなかなかハードなことだと思われて仕方ありません >>218
ありがうございます
よく考えたら親衛隊とかは常設で中央府にあるけど、遠征軍は臨時的なものですね
頼朝としては地盤にふさわしい看板だったんでしょう
スッキリしました >>219
当時の皇族はそういうもんだって思ってたんじゃないでしょうか。
現代でも皇室に生まれたらそれに沿った活動するのと同じかと。
皇族が「不自由な生活やめてユーチューバーやるぞ!」なんて
出来ないでしょう。
また当時、自活しようとしても普通に戦死・横死・餓死者がいた時代なので
子孫を残す以前に自分が死ぬ危険が大きかったと思う。 現代人が現代人の感覚で考えたら、そりゃ>>219みたいに思うわなぁ 蘇我氏の渡来人説は完全に否定されているってウィキに書いてありますが
現在でも、渡来人説は有力な気がしますが
いかがでしょうか? 近江国の国境は湖の外周を囲む形で不自然じゃないですか? >>225
渡来人集団を多く従えていたのはたしかだが、それら渡来人集団は最初から蘇我氏の配下だったのではなくて葛城氏の配下だったわけだ
葛城氏の滅亡後に蘇我氏が横取りする形で従えただけだろ
葛城氏も渡来系氏族じゃないわけだし、蘇我氏を渡来系と見なす理由はないのではないかな >>227
近江の面積の大半は陸地、山も多いとは言え平地も広い
近江の全体面積からしたら琵琶湖の面積は二割以下しかないんだぞ 滋賀の出身だけど、琵琶湖と山岳に挟まれて、居住地は少ない。
しかし、古代から交通の要所が多かった。特に西部に渡来人も多いし、渡来人の古墳も多い。継体天皇も渡来人に囲まれて、最新技術を持ってたという。
そういう理由で近江商人が発展した。
三井、三越、高島屋、トヨタ自動車の初代社長とか、近江出身。 >>228
しかし、完全に否定はされてないのでは?
検索したら、新しい記事でも蘇我氏は渡来人って書いてるのはチラホラある。 そりゃ、新しい記事でも書いた人の頭の中にあるのは半世紀ごえの古い説のままってことも多いから、記事の新旧だけじゃ分からないよ
典拠、記事のもとにした研究の新しさを見ないと 天皇は首相とは違い2回やっちゃいけないルールでもあるのですか? 一度退位して皇位を譲ったあとで、あらためて即位した天皇も歴史上何人かいるよ
重祚って言うんだけどね 太上天皇以外の皇族男子が全て薨御した場合,重祚は在り得ますか? ただ、近現代の天皇は生前に退位することを想定していないから、退位したあとで再び即位するのは無理だよね
どうしても続けられなくなったから退位したい、ということがようやく可能になったけど、そこから重祚は無理でしょ 草壁系列だと思うけど
母親が天皇になったりしてたような。
異例中の異例。 奈良時代はむりやり持統=草壁皇統を継ごうとしたから不安定になった
長屋王は邪魔者として消されたし、孝謙のときは天武系王族がどんどん粛清されたし >>230
>>三井、三越、高島屋、トヨタ自動車の初代社長とか、近江出身。
滋賀出身だけど、恥ずかしながらこれ↑は知らなかった
伊藤忠、西武の創業者が滋賀出身なのは知ってた 滋賀出身の著名人(偉人)といえば、マジレスすれば井伊直弼が一番だろう 滋賀県民は、安政の大獄は仕方がなかったという認識? >>243
あの時代、責任ある幕府の大老の立場で「攘夷」に舵は切れなかっただろう 人間天皇、象徴天皇になった戦後以降、天皇崩御後に御陵の他にかつての明治神宮のような
その天皇を祀る神宮が造営される可能性は限りなく低いですか? 創価学会が反対するから無理です
>>246
安政は彦根対水戸の諍いだよ。徳川様に逆らった水戸が悪い
関ヶ原は近江対愛知(尾張・三河)の戦い >>247
個人とか企業が金を出せば
可能だろ。
宗教法人化して、勝手に作れば良い。
政府が作るのは、流石に無理じゃね? >>245
自分の知ってる限りは出てこない。
古事記に伊邪那岐は淡海つまり滋賀の多賀に隠れた。
って淡海の多賀で死んだって意味とされてきたけど
実際は写本したときに淡路と淡海を書き間違えたらしい。
実際は淡路にも多賀って地名がある。
多賀大社も淡路にもある。滋賀にもあるけど。 >>250
仮に企業が造営したとして、その神宮に公職者が公職の立場で参拝するのはNG?
公職の立場でなく一私人としての参拝はOK?
ちなみに何年か前、安倍首相が首相の立場で外国のVIPと一緒に伊勢神宮を参拝したのは
OKだったわけだよね >>245
神話から古代天皇の段になると畿内に近いし
資源が多いから、格段に出てくる。
うる覚えだが
景行天皇は大津に行幸した際に、亡くなって、成務天皇は大津に都を作ったし
ヤマトタケルは滋賀の伊吹山で亡くなってる。
神功皇后は滋賀の米原市の出身。
応神天皇は武内宿禰に連れられて、近江の湖西を通って福井の氣比神宮に参ってる。
他にも、古代の有名天皇では仁徳とか雄略にも近江は出てきたと思う。
まあ、彼らが実在してたかは知らんけど
雄略を除くと、たぶん藤原不比等のファンタジー小説の産物だと思ってる。
雄略にしても、どういう人物だったのか?記紀の内容通りなのか?分からないしな。 >>252
個人的には、公職の人間が公人として参拝したらイカンやろ。
って思ってる。
一応中立の立場やしな。
欧米だと、教会とか行くのだろうけど。 >>251
神話には東の佐渡まで登場するのに、あんな大きな地形的特徴を持った琵琶湖に触れていないのはちょっと不自然な気がしました 江戸藩邸(大名屋敷)、とくに上屋敷について質問させてください。
一般に、藩邸の上屋敷の表座敷というのはどのようなものなのでしょうか?
表座敷という表現が合っているのかわかりませんが、要するに知りたいのは、奥(私用)ではなく表(公用)で、藩主が藩士らを集めて何か発表したりする場所のことを想定しています。
その表座敷(=広間?)の、形や広さ等を、可能な限り詳しく教えていただきたいと思います。
自分なりにイメージしているのは、上段・中段・下段之間がある、江戸城本丸御殿大広間なのですが、実際のところはどうなのでしょうか?
藩士は何人くらい入るのかとか、上段下段の有無とか、藩主の座る場所がどんな感じなのかとかが知りたいです。
どうかよろしくお願いします。 >>255
神話は創作だから、編纂者の興味のある地域だけがクローズアップされるのは仕方がない。
イザナギとイザナミが最初に淡路を作ったのは、淡路出身の者が関わってたせいだろ。 >>256
謁見とかの儀式的な役割もあるんだから、儀式規模によって決まるのでは
つまり、藩士の人数によって規模が違う
藩士の人数は石高によっておおむね決まるから、藩の規模次第にせざるを得ない
それに応じて格式というものが決められていったのではないかな >>257,>>259
レスありがとうございます。
確かに藩の規模や儀式の規模によって違いますね。
質問内容の不備、大変失礼いたしました。
自分が一番知りたいのは、幕末期時点での水戸藩(実収28万石程度、公称35万石)の上屋敷(小石川邸)で、儀式の規模は最も大規模なものを想定しています。
ちなみにネット上で見つけた小石川邸の見取り図っぽい画像(どの時点の小石川邸なのかは不明)には、「台御殿跡畠なり」という表記が見られます。
「台御殿」というのはおそらく裏御殿に当たるものだと思います。
またその画像では、「表御殿」の中に「御奥玄関」や「御台所」等の表記が見られます(画質の関係で読み間違いの可能性はあります)。
このことから、小石川邸では表御殿の中に、本来裏御殿内にあるべき施設や部屋があったものと、自分は推測しています。
なので、同程度の規模の他藩の藩邸に、もし表御殿と裏御殿があるのが一般的なのだとしたら(そもそも規模を問わずに、全ての藩邸に表御殿と裏御殿があるものなのでしょうか? その辺についても教えていただけるとありがたいです)、水戸藩の表御殿(及びその中にあるはずの表座敷)は、同程度の規模の他藩の藩邸と比べて、比較的狭くなっているのかも知れないと考えています。
以上の推測の妥当性も含めて、水戸藩または同程度の規模の他藩の藩邸の事情、とくに上屋敷の表座敷(=広間?)に詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教授願いたいと思っております。
(ちなみにその画像では画質の関係で細かい文字は読めず、また全ての部屋・施設が表記されているわけではないようなので、一番知りたい表座敷についてはわかりませんでした)
長文になってしまい本当にすみません。
どうかよろしくお願いします。 高島市の出身ですが
継体天皇の出生地なのに、学校でも習わなかったし
成人して古代史に興味を持つまで、継体の事は全く知らなかったです。
平和堂とかの滋賀の観光スポットとかにも継体天皇については全く触れてないし
個人的には、滋賀は左よりの教育者が多いので、皇国史観とかに抵抗を覚える人が多いので、教えないのでは?って思ってます。
中江藤樹とかはめちゃくちゃ宣伝広告してるのに不思議です。 継体の本当はどこの出身なのかあるいは本当に存在していたのか怪しいところがあるからでは 継体天皇でググったら王朝交代説なんてワードが出てくるね
かなり素性が怪しい天皇だったんだな >>261
皇国史観とか学校で教えないだろ
神世の時代から歴史的事実として教えるなんて >>264
まあ、卑弥呼は習いましたがね。
継体はまず間違いなく実在がはっきりしてるし、地元の観光にも使えると思うんですがね。
福井とか銅像立てまくってるし、福井の出身みたいに宣伝してますしね。
高島ももっと利用して古代史ファンを集めて活性化に使うべきだと思うのですが。 >>263
ぶっちゃけめちゃくちゃ怪しい天皇です。
簒奪者説もあります。
しかも今上天皇の確実な祖先だと言う。
簒奪者の子孫が今上天皇、、、。 >>265
卑弥呼は筑紫平野の地方部族だし、のちの歴史に全くつながらないのにな 邪馬台国の場所ってそんなに重要なのかなあ
ヤマト王権とは関係なさそうだし 巻向で大規模な遺構が見つかってるし
箸墓古墳は卑弥呼の死亡とピッタリ一致。
宮内庁のアホが箸墓古墳の被葬者を間違えてるけど、いつものこと。年代が合わないから考古学者は宮内庁を相手にしてない。 巻向で大規模な遺構が見つかってるし
箸墓古墳は卑弥呼の死亡とピッタリ一致。
宮内庁のアホが箸墓古墳の被葬者を間違えてるけど、いつものこと。年代が合わないから考古学者は宮内庁を相手にしてない。 書き込みエラーが出たので、もう一回書き込みボタンを押してしまった。スマソ >>267
邪馬台国九州説は学説としては既に完全に死んでて、信憑性の低い陰謀論のひとつになりさがってるよ >>270
宮内庁は水戸学・国学系統の思想に染まった旧皇国史観系の職員が多いから、邪馬台国九州説信者が多数派なんじゃないかなあ >>274
皇国史観的には、邪馬台国は九州なん?
神武が九州から来たから?それに合わせてんの? >>270
箸墓古墳は前方後円墳だよ
前方後円墳は初期倭王権特有の、または初期倭王権の影響下にあったところ特有のものだから
卑弥呼が初期倭王権とつながりがあると考えるのは危険思想だと思うんだよな
そんなに早くから畿内で中央集権が成立しているわけがない
箸墓古墳の築造は3世紀後半だから
Wikiによると、箸墓古墳は宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。
宮内庁の治定は不正確だろうけど、初期倭王権の盟主墳と考えるのが自然。
初期倭王権というのも盟主は有力豪族は持ち回りの連合政権だったのでは
継体のときに王朝交代が起こってるし、継体以降の不可解な兄弟継承があったことを考慮すると、大王家の世襲が固まったのは欽明のころではないだろうか >>276
兄弟継承は欽明以降もやってるぞ?
敏達、用明、崇峻、推古、これら全て欽明の兄弟だぞ?
古代は兄弟相続が正統だぞ。
史実か?どうか?は置いて、記紀によると雄略は従兄弟とかも殺しまくってるから、ずっと古代は親族相続だったか?
血縁のない豪族の中から選出してた可能性が高い。 >>275
皇国史観の根元的な部分として、邪馬台国は九州でないと困る
派生的な部分ではなく、かなり重要な根本に近いとこで九州説
というか、邪馬台国は九州だと言い出した思想系譜から皇国史観へと発展してると言っていい >>277
崇峻を暗殺したあと誰を後継者にすればいいかわからなくなったから推古を立てた感じなのかな 平城太上天皇の変は、平城の皇子である高岳皇太子を廃するために嵯峨天皇側が起こしたクーデターだったのでしょうか >>278
なるほど、邪馬台国が九州にあるだろうという考え方から、神武の高千穂出発があるのですね。
斬新ですね。
でも、根拠はあるの? それは無関係ではないかな
皇国史観では、古代の天皇が中国に朝貢して臣下の礼をとったはずがない、中国に朝貢した邪馬台国は天皇の祖先であってはならない、と考えてる >>282
えっ?
倭の五王も、中国に朝貢してるやん?
皇国史観者とかネトウヨならともかく、普通の歴史学を学んでたら、卑弥呼と同じことやってるだろ?
倭王って認めて下さいってやってるやん。位を与えて。って言ってるやん。
実際に当時の倭の王権は連合政権みたいで不安定だったのは、歴史学では常識だろ。
まあ、倭の五王も実際、大和の王なのか?分からんけどな。
北九州とか出雲かもな。 皇国史観の祖先である国学の方面では倭の五王も天皇ではない説が。
本居宣長が五王は熊襲による僭称といったように。 日本国紀で百田が応神天皇?だっけか?は熊襲が天皇になってる説を出してたのはそのせいか?
継体天皇でも百田は王朝交代が起こってるって説だったような。 織田信長があれだけ勢力を拡大して、天下人目前まで
いけたのはどうしてでしょう?
それまでの畿内の覇者の細川、三好と何が違うんだろう? 太平洋戦争末期は日本中の都市が空襲の焼夷弾で焼かれましたが、
それで焼失した文化財、歴史遺産で最も貴重重要なものをいくつか教えてください >>286
細川や三好を支援していたのは堺の守旧派で新興商家にシェアを食われ続けていた
その新興商家とwinwinな関係を結んだのが信長
軍事面では朝鮮征伐の折に朝鮮が日本の火縄銃の大量投入戦術の威力を知り慌ててデッドコピーを粗製乱造して対抗したように
鉄砲の輸入元と製造地を抑え他家に対して優位に立つことができたから 維新後の廃仏毀釈と、米軍の空襲、どちらが文化財を破壊しましたか? >>289
廃仏毀釈だろ。
米軍は文化財をなるべく避けてた形跡はある。
国内の内乱が一番ダメージがデカイ。 >米軍は文化財をなるべく避けてた形跡はある
ねぃよ!
米軍が最優先したのは民間人の居住地を爆撃して一人でも多くの日本人を殺すこと。
米軍が日本最大(ホボ唯一)の弾薬製造所を狙ったのは日本がボツダム宣言を受け入れることが確実になってからだぞ。
米に日本の文化財への配慮を望む者がいたことと現実に日本で何をしたかは別。
それに戦後に進駐した連合国の連中と戦勝国人を名乗って文物を奪った朝鮮人は無視していいレベルじゃない。 よく「コロナ禍」は将来、絶対歴史教科書に載る!なんて声を聴くけど、
約100年前の「スペイン風邪」も特に歴史教科書に載ってるわけじゃないですよね
「スペイン風邪」は世界中で甚大な被害を出したし、日本でも40万人前後の人が亡くなったと
言われていて、現状、「コロナ禍」よりも断然被害は大きかったと思われる
本当に「コロナ禍」は将来、歴史教科書に載ると思いますか? >>288
なるほど。
だから堺の商人に厳しかったのか。
鉄砲も数多く備えてればそれだけ有利ですしね。
では鉄砲が伝来しなかったままなら、圧倒的な軍事的優位に立てず、
室町時代あるあるのグダグダな攻防してたんだろうか。
あと本拠地を常に敵の最前線に持ってきて、すぐ攻めては
引き返す手段を活用できたのもあるかな?
繰り返しやられると相手は迎撃するも、防戦なので得るものはない。
配下の武将に不満がたまったところで調略かけて絶対に負けない
形勢を作ってから本格侵攻してたのも大きいと思う。 >>287
各地に一応は残っていた「天守閣」ですかなあ。
名古屋も燃え、広島は吹き飛び。 長年にわたり人を屠っているインフルエンザは教科書に載らない >>293
鉄砲は、防衛では有用だが攻撃には本当に有用なのかなあ? 朝鮮出兵では、日本軍の銃はフル活用されたのですか?
また当時の明や朝鮮の軍には、日本と比較して、どの程度銃が普及していたのでしょうか? 明と朝鮮は、日本軍の鉄砲を見て
装備を増やしたとか聞いたな。
もともと鉄砲は中国発祥なのにな。
すげえな。日本。 追撃戦だと攻撃側も防御(撤退)側も鉄砲を役立てるのは難しいだろうな
移動しながら弾をこめるのは困難そうだ
籠城戦だと双方とも鉄砲を使うこと自体はできるけど、遮蔽物の活用という点で防御がわの方が圧倒的に有利かな
それ以外の、通常の野戦がいちばん鉄砲を有効利用できるのかなあ
カラ入り(唐入り、明朝を攻めること、実際は韓でしか戦ってないから韓入りだが)の後半は防衛戦が多かったようだから、城にこもっての拠点防御で役立ってたんじゃないかなあ 秀吉は朝鮮を中国攻めの通路に使おうとしてただけで
攻める気は無かったけど、常識で考えて、武装した他国の兵士が自国の通過を許すはずが無いので、戦争になった。 通路っつうけど、まあ普通なら「道案内」という名目は先陣担当だよなあ
即座に降伏して征明に従軍しろと言ったようなもんなんで、そりゃ従わんよな
かつての元寇の頃の、日本や南宋を攻めるのに従軍/動員されたのと似たようなことになってそう
でも王朝がわのマトモな判断は通用しなくて、各地で反乱が起きて秀吉に内応し、一旦は半島の大半が秀吉支配下に落ちたんだよな
その際の秀吉政権による半島の支配状態、扱いが悪かったから反乱続出しただけで。
ちょうど反乱が起きた辺りで明からの援軍がきて共同で日本と戦った感じか 昔の人は侵略行為に全く罪悪感がなかったのでしょうか >>300
フランスが相手でベルギーは関係ないからとww1を始めたら
ベルギーに喧嘩を売られて途方にくれたドイツ人には常識がなかったんですね 分かります >>301
そもそも侵略は悪いことだという認識がないからね
むしろ正義だと思ってるとこが多かった 古代は、まつろわぬ民は皆殺しだからな。
従わないだけで殺すって野蛮だよなあ。、 このスレにも戦争で負けたのに従わないなら殲滅するしかないとか言ってた奴いたぞ >>303
ベルギー国王はドイツ人だったんよ
ドイツ連邦を構成する1公国(ザクセン=コーブルク・ゴータ)の傍流 藤原道長・頼通時代が安定してたのは一条中宮にして後一条・御朱雀母の藤原彰子が君臨してたからなのかな 斉藤義龍って土岐氏を名乗った方がよかったんじゃないでしょうか?
道三を殺したあとも斉藤氏を名乗ってると、実父殺しの汚名を
着せられると思うんですが。 塩田恵太郎は薬学部卒のエリートだと思うのですがどうしてdisられるんでしょうか? >>302
そもそも李氏朝鮮は女真人が建てた国だし
支那だっていろんな民族が支配してきたわけで やられる前にやる
以前にやられたことをやり返してる
もうどっちが先にやったかなんて分かってない
大陸の隣国関係なんてそんなもんでしょ 戦前の日本の繁華街ランキング書くとしたらどうなりますか?
現在ですと渋谷や新宿が有名ですが戦前はそこまでではなかったと聞きます
当時の東京と大阪を代表する繁華街ベスト5ほど書いてくれたら嬉しいです >>309
義龍は道三倒した後に足利義輝から一色姓を貰って名乗りを変えた
龍興を攻め滅ぼした信長が最後までそれを認めなかったからなんとなく無かったことになってるけど >>315
初めてそれを知りました。
義龍が長生きしていたら信長の勢力伸張もそう上手く
行かなかったかな? >>287
建築なら増上寺と寛永寺の徳川家霊廟、名古屋城
彫刻なら三重県四天王寺の仏像群
あたりが最も大きいと思います。興味がおありなら文化庁編集の『焼失文化財』をご覧ください >>289
たぶん廃仏毀釈でしょうね。空襲は都市対象なので近世のものが多く(七寺や先述の四天王寺など例外はありますが)、希少価値はそれほどでもないものが多いと思います
一方廃仏毀釈は、若干現存するとはいえ内山永久寺がまるごと消滅し、大きな神社の神宮寺がたくさん失われています。こちらの方が圧倒的だと思います
文化財の消失は悲しいですが、今ある物の管理だけでも四苦八苦しているので、ある程度間引かれたことはプラスに働いていないこともなくはないと思って、心なぐさめることにしています 廃仏毀釈のときは小規模な地域寺社の過半を破却したからな
神社の半分と寺の過半が消滅してるはずだ 湖西の生まれだけど、廃仏毀釈で延暦寺の重要文化財が多く失われたのは、信長以上の暴挙だわ。 継体天皇の出生が怪しい点ですが
滋賀の高島市にある継体天皇の父親の彦主人王の古墳は、もともと円墳で
明治期の比定時期に、古墳を改造して帆立貝式古墳にしてます。
円墳だったら、大和王権と関係ない豪族なので、継体が応神の子孫を名乗って血縁関係ない人間による簒奪説、王朝交代説が正しいような気がしますが、どうでしょうか? そこの豪族は応神の子が婿入りしたことで大王家と親戚になったということになってる家で、親戚ではあっても分家ではない(血縁の真偽はともかく)はずですよね
大和朝廷との明確な主従関係を結んでなかったから前方後円墳ではないということでしょう
もっと近い親族からは大王候補をたてることができなくて白羽の矢をたてたのではないかと
本人の血縁ではなく、大王家への婿入りだったのではないか、
仁賢天皇の皇女で武烈天皇の同母姉である手白香皇女を正妻にしたことで大王になったのではないかと考えられます。
手白香皇女の血をひかない安閑天皇と宣化天皇の代は安定せず、手白香皇女の血をひく欽明天皇の代になってようやく大王として安定していますし、
これ以後は欽明天皇の血をひかない者が大王候補になったことはありません。 >>322
一応、記紀によると彦主人王は応神の4世孫であって、入婿とは書いてないですよ。
入婿は、継体です。
説明すると、簒奪説は継体の一族は、天皇の系脈には全く関係ない一族が皇位に就いた説です。 継体は調べれば調べるほど、天皇の親族なのか?親族ではないのか?分からない人物ですわ。
今は傍系説、一応遠い親戚じゃね?が有力みたいですが。 >>323
応神の子が独立して地方豪族になったのではなくて、もともとそこにいた豪族のとこに入婿で入ったのではないか(憶測)、その子孫が継体なのではないか、という意味です
大和入りも実態としては地方豪族であったオオド王が大和の大王家に婿入りしたものではないかと。 継体以前は大王位は有力豪族の持ち回りだったと思う
決まった大王家というのがなかったわけだから簒奪とまではいえないだろ
大王家が定まったのは欽明以降 900ぐらいじゃないの? 邪馬台国の所在地がどこであろうとも。 王統の成立という意味では欽明大王の治世である6世紀中盤だろ 戦後で体制が変わってるからな。
人間宣言してるから、75年くらい説だわ。 僧兵は、仏教の教義と自らの暴力行為の間で葛藤は無かったのですか? 僧兵は仏道を学んでない人が大半だから板挟みにならない
挟む板が片方しかないのにどうやって挟むのか、ということだね 僧兵は江戸時代以降の呼称
大きな寺院には雑役に服する大衆(堂衆)が居た
学僧と違って仏道修行なんてやってるヒマもその気もない
こういうのが自衛のため武装していた
一応、僧服らしきものを着用するが、頭巾の下の頭を剃りもしていなかっただろう >>330
閑院宮の兼仁親王(光格天皇)が入婿したので18世紀
体制は移ろい変わっても王統が変わらない それ言ったら、皇紀2600年とか神武とかも与太なんだが?
宮内庁の言い分自体が全て与太話になってしまう。 皇紀の二千六百何年ってのを事実だと信じてるやつは少数派だろ
その意味では明治天皇すり替え説と信憑性のレベル的な差はない そりゃ神代をそのまま歴史的事実と思うのは今どき流行らない そかな、聖書のノアの方舟神話の大洪水とか、最初の天地創造すらも信じてるやつが意外なほど多い国もあるぐらいだよ? 某、切り札的大統領の国だけど。 宮内庁なんかこれだもんな
箸墓古墳(はしはかこふん)、箸中山古墳(はしなかやまこふん)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。
実在が疑い人物が被葬者って 天皇陵について調べてみ。
考古学歴史学的に存在しない、後世の作り話の天皇の古墳が宮内庁によって比定されているし、実在してると思われてる天皇についても、9割くらいが間違いで、中には自然丘を古墳と誤認してるケースもある。
天皇陵の正解は1割くらいしかないらしい。
まあ、宮内庁も与太話を信じてないだろうけど、仕事だしな、そのへんは同情する。
ネトウヨにも同情するわ。信じてないと背信行為になるしな。 江戸時代の比定を引き継いでるからだろう
近代的な方法で調査し直しとなると発掘も必要になってくるから、できないんだろう >>344
1割じゃなくふたつ、二基だと聞いたけど 正しいのは二基だけ、あとは全て間違い‥‥こういう1か0の断定はよしなさいよ
大昔のことはそんなハッキリわからないんだから >>347
須恵器とかの出土品からの年代測定など、科学的な証拠がある。
世界的な考古学から見たら、あきらかに誤り。
あとは古墳の形状で、年代が分かる。 >>299
ほぼ同年代のオランダで起きた軍事革命をスウェーデンのグスタフ・アドルフが発展させて漸進射撃を編み出したけど
会戦はともかく追撃戦には向かない兵種でしょうね
代わりに三兵戦術を活用して騎兵の活躍の場を増やしたから、任せられる兵種に任せられれば一番かと
戦国時代の日本の備単位だと集中運用は難しいだろうけど >>348
発掘が許されないのに出土品も無いだろう
もっとはっきりさせるために学舎が天皇陵発掘をしたいと言っているんだろうよ >>350
もっと調べてみ。
天皇陵は限定だけど、調査とかされてて、土器とかの資料あるよ。
今、世界遺産になった仁徳天皇陵、つまり大仙古墳ですら、出土品とか副葬品の展示あるよ。
知らんの? >>347
いや、ほぼ疑いの余地がないのは二基だけ、他はそれなりに確実度が高いものからほぼ確実に間違ってるのまで様々
少なくとも、継体天皇陵とか欽明天皇陵は別の古墳がほぼ確実といわれてるので、宮内庁の治定が間違ってることが確実視されてるな 確実ではないから治定を変更できないんだろw
何人の天皇がいると思っているんだろう。この人 言った本人じゃないけど、
そのそれなりに正しい可能性があるものもあるのだから、
二基以外全て誤りと断定するのは逆に誤りということでは 有名なのは継体と欽明、継体の后の手白香皇女、有名な箸墓古墳は年代が明らかに合わないので、疑いようなく間違い。宮内庁以外で支持してる者は居ないレベル。
安康天皇、雄略天皇は、古墳ではなく自然丘らしい、周辺の地からも出土品なし。 日本の、原始時代と文明時代の境はどのあたり?
弥生時代まで原始時代、大和時代から文明時代
ではないのか? 焼結した土器で煮炊きしてた縄文時代かて原始時代とは言わへんで 原始時代とか原始人という言葉は学術用語としては廃止されたんだよね 捏造事件の影響がね…
縄文時代以降は事件後でも信頼できるらしいけど 日本には原始人がいた。朝鮮半島やアメリカにはいなかった 日本列島の旧石器時代人はオホーツク海向こうからの渡来の他に朝鮮半島からの渡来もあったので、もちろん半島にもいたよ 神の手を持つ考古学者によって日本の旧石器は70万年以前にまで遡ったが、今、ちゃんと言えるのは3万5千年前だという 信用失ってるから、外国の考古学者から見たら、3万年前でも怪しまれているんじゃ。 歴史学的用語の「原始」が廃止されたなんて話しは聞いたことがない。出典を教えてくれ。 現在では原始時代ではなく原史時代なり先史時代と呼ぶ、
原始人ではなくアウストラロピテクスなど属名を用いるのが普通、とのこと 原始時代が存在しない朝鮮半島への配慮です
上述の通り狭義にすればアフリカにしか存在しえなくなる 半島は、半万年の歴史を持つ世界文明の起源地だぞ。
イルポンよ。 聖書の天地創造が4500年前、半島だけはそれ以前から存在していた
つまり聖書の天地創造で作られた天地の範囲には、半島だけは含まれていない こんにちは、日本初の英和辞典て、『諳厄利亜興学小筌』と『諳厄利亜語林大成』どちらなのでしょう?
辞典というものの解釈の違いでしかないのですかね 例えば、ある神社の氏子が
祭神を変えようとして、神武天皇から
神武天皇と戦ったナガスネヒコに
変えるのは可能なんですか?
条件は氏子の総意とします。 現在の地方小規模神社は複数の小さな神社の集合の場合が多いし、できるんでないの、たぶん。
現在の主神を脇の神社に入れて新しい祭神を勧請する形にしたら問題ないと思う、たぶん。 大阪歴史博物館の難波宮の説明読んできたけど
36代孝徳天皇からの説明が書いてあって、古墳時代の応神天皇とか仁徳天皇の名前は書いてなくて
百舌にある巨大な古墳を作った王権が
古墳時代に都を作ったとみられる。みたいな説明文だったわ。
応神、仁徳は歴史学考古学的には、実在の怪しい人物なんだろうな。 日本の本土でロシアやドイツの捕虜が厚遇されたという話を聞きますが、それは彼らが白人だったからですか? 第一次世界大戦までだろ?
白人
国際法を守ろうとしてたから
列強の仲間に入りたくて、列強の捕虜は厚遇してた
こんな感じじゃね 古事記の高天原の場所は韓国にあって
韓国には実際に、ここが高天原。みたいに石碑が立ってるみたいですが
信憑性は何%くらい? 室町時代とか江戸時代の頃は
「セックス」「陰茎」「陰唇」をどのように読んでいたのでしょうか? >>384
まあ、1%未満がいいとこでしょ
新羅の初代王が東の海の向こう(要するに日本列島)から来たとか辰韓の王やら箕氏朝鮮の王やらが中国から来たという神話なども同様ですが、
遠い異国から来たことにした方が神秘性が出るって程度のものだと思いますよ >>386
でも、日本の土着の豪族が王朝を築いた可能性よりも、外来の先進技術を持った連中の方が、圧倒的に高いとは思う。
シヴィライゼーション系のゲームとか1世代進んだら、圧倒的に戦争は強いし。
事実、日本書紀とか渡来人を登用して治水を行ったとか、頻繁に出てくるし。
応神天皇以降。 外来のユダヤ人が朝鮮王朝を築いたって話だろう
中華もツングース系(朝鮮民族と同系)が征服した >>388
いままでに判明してる知見からみると、そうでもないんだよね
半島の文明度は先史時代の終わりごろまでは日本列島と大差がない
軍事力的にはむしろ日本列島より劣ってる すいません。
古代天皇で、実在してない可能性がありますが
景行天皇は近江の大津で亡くなってます。
その子の成務天皇もおそらく大津です。
その次の天皇の仲哀天皇は北九州で亡くなってます。
でも全員、現地ではなく奈良とか大阪に古墳があります。
骨とか髪の一部を持ち運んで、埋葬したのですか?
現在ならともかく当時、遺体をまるごと運べるとは思えないです。 おいおい、大和川は淀川に合流してるから大阪湾まで下る必要はないぞ
(江戸時代半ばの付け替え工事で合流しなくなった)
合流場所は京橋の少し上流あたりかな
古代なら河内国北部が広い干潟・湾になってて、どちらの川も河内湖に注いでたから、そこ経由で大和川に行けてるな
あと、奈良盆地北部には淀川に流れ込む支流がまだいくつもあるから、エリアによっては大和川までいかなくても奈良盆地までなら行けたよ 神武天皇が居ないとされているので
居ないのは全然構わないのですが
天孫降臨の時に、なんで直接、大和におりてこずに
日向の高千穂に降りてきて、わざわざ東征とかしたんでしょうか?
このストーリーを考えた人は、どういう思いでこのエピソードを入れたんですか? 今、NHKのラジオ番組で、古墳時代と朝鮮半島、やってるけど、弥生時代の文化は朝鮮半島から入ってきた。って論調してるぞ。
お前らの意見はどうよ? あの頃の南朝鮮と日本の征服王朝が近い存在だってのはあると思う
けど今の朝鮮は北方の遊牧系に占領されて今日に至ってるので別物だと思うね 御木本幸吉氏に由来する養殖真珠発祥の地って、ミキモト真珠島と多徳島の二箇所があるのですが
どういうことなのでしょうか。ざっくり調べてみた結果、両方の場所で実験を進める中ミキモト真珠島で
半円真珠を発見、それを気に本腰入れて養殖する決意をし多徳島の方を拠点として
以後量産体制を確立するとともに真円真珠の養殖に(こちらは厳密には彼自身じゃないが)成功って
解釈=真珠島は半円初めて見つけた場所、多徳島は拠点移して真円養殖につなげた場所、で大丈夫でしょうか? >>396
むかしはそう言われてたけど、いまは微妙になってきてると思う >>397
高句麗は女真族などと同様のツングース系の可能性が高い(証明は困難とされ、ツングース系と表記するべきではないと考えられてはいるが)のだから、もとから北部は遊牧民系だろ >>399
2ちゃんねるの学説ではな。藁
正規の歴史学会では、半島から入ってきた説が一番有力。 >>396
南朝鮮から弥生文化をもたらした勢力が初期倭王権につながる可能性もありそう
古墳時代にかけては南朝鮮から倭国にかけては同じ経済圏だったのでは 半島南端には縄文人やら弥生人やら古墳時代の倭人といった日本列島からの移住者がすんでたんだよ 倭人のルーツの一つが朝鮮半島ということは間違い無いでしょ ネイティブ日本人が隼人とか蝦夷とか呼ばれてる奴らでしょ
大陸系勢力が進出してきてそいつらを蹴散らしたと考えるのが自然かな
ただ攻めてきたと言うより土着した大陸系移民が勢力を伸ばしたって感じじゃないかな? 一つに絞る必要はない
文化なんていろんなものが交じるもんだ その見解には賛同し兼ねるが、非常に長い歴史からして対馬が日本領である事実は揺るがない 雨森芳洲:近江国伊香郡雨森村生れ 優秀な人材を探していた対馬宋氏にスカウトされて仕えた
釜山の倭館に三年滞在し、朝鮮語を学んだ
中国語も学んで堪能であったが、ある中国人に「君はいろんな語学に通じているようだが、なかんずく日本語が最も流暢だ」と言われた
雨森は男色をたしなんだが、朝鮮通信使の一員が日本の男色趣味は奇っ怪だと眉をひそめたので、「学士はまだその楽しみを知らざるのみ」と諭したという 今では、異常だけど
あの有名な武田信玄も男色で家臣の忠誠を集めてたみたいだな。 戦国時代とかの男色は子供相手じゃなくて二十代三十代のおっさん相手の方が多いがな
といっても、若い頃からの関係がおっさんになってからも続いてるだけのことがおおい >>416の例のように男同士親密になり信頼関係を構築する手立てでもあった キリスト教では同性愛は神の掟に反する大罪であった
中国、朝鮮でも王朝が禁令を出した
日本ではそういうこともなかったので古代ギリシャ並みに享楽を得ていた せんせい、質問∩(´・ω・`)
日本人の名字は、二文字が増えたのはなぜなんでしょ?
中国は基本的に一文字ですよね?
かつて国名(地域名)を二文字にする命令があったようですが、その名残? 男色で滅んだのはアレクサンドロスと信長? 他にいる ギリシャ神話とか北欧神話とか
ネットでつまみ食いだけの中二病患者が
飛びつきそうな質問だな >>422
苗字は地名からが多いし、その地名は二字令の影響もあろう
ふじはら、をの、おほの、いしかわ、たけだ、まつだいら‥二字向きで一字向きじゃないわな
朝鮮のように姓を本家のように揃えるまでも支那からの圧力も強くなかったんだな >>423
どちらも滅亡の原因と男色は関係ないから、他の例を探すべき
どっかにいるだろうけど >>423
諸説あるが戦国時代だと大内義隆・大崎義隆の義隆コンビ 男同士でも男の役目を果たすのがタチ
女の役目になるのがネコ
舘ひろしに対抗してねこひろしの芸名が生まれた >>422
本性は源平藤橘だぜ(藤原は2文字だが)
源さん大杉問題で土地の名前で区別しただけ
あと橘は増えること無く廃れたんだよな しかし、中国、朝鮮で、男色が流行らなくて、日本で流行ったのは不思議だよな。
影響受けそうな気がするけど。
けど、宦官の習慣とかも伝わらなかったから、そんな感じかもしれんな。 朝鮮は影響受けざるを得なかった
畏まって真似してないと碌な目に合わない
それに比べれば日本は選択的な影響の受け方ができた
海に隔てられて好きなようにやれた 中国でも男色は上流階級流行っただろう
そこまで残らなかっただけで
日本への伝播も仏教経由だと思われる たしなみというなら、世間に恥じることなく皆おおっぴらにしてたってこと? >>1
こんなスレ主が多いから尖閣諸島が危険に晒されるのである。
沖縄・琉球の歴史を日本史に含めないという考え方に立脚すれば、
当然北海道も日本史に含めることができないこととなる。
我が国の領土問題は歴史認識に根幹が存在することを日本人から消去させる卑劣な行為に、
私は断固として反対したいと思う。 >>438
西欧では初夜権とか公開出産とかおおっぴらだけど
日本は文化が違う。面前ではしたないことはしない >>440
北海道は日本に組み込まれたのが明治維新の前後だから日本史板じゃなく日本近現代史板の方で扱うべきで、このスレどころかこの板で扱うべきではない
それに比べたら、琉球はこの板で取り扱える範疇だからスレでの扱いを注記する必要があるのでは
まあおおかた、政治論議に流れて歴史論議から外れるから……
あ、違った
少し前に暴れてたおバカさんを召喚する呪文だから詠唱禁止になってるんだっけ >>441
日本でも初夜権に似た風習は一応あったんだけど フランスの国王妃マリー・アントワネットが出産するときなんて市民が大勢見物に詰めかけた
めでたい現場に居合わせたかったんだろう 北海道も樺太も最も遅い解釈で江戸時代初期には確実に日本領 お前の妄想では真実は揺るがない
政治的な主張をする場ではない(>>1)のでスレチ >>416
信玄なんて誰だか分からんやつとの手紙が残っていただけ
島津や毛利など西国のほうが盛んだよ >>450
いちおう、明治以後を扱う日本近現代史の板がこの板とは別にあるから、そちらの質問系のスレッドの方がいいと思う むー
過疎ってる板との噂は聞いていたが、質問系のスレすらないのか 人名についてですが、
かまたりふひとふささきむちまろとか言ってたのが、
冬嗣、良房とかの江戸時代ぐらいまで続くような名前に転換したのなんでなんですか? タケル、イルカ、ムチマロみたいなのは名前にあとで適当に漢字を当てたんだろう
時代が下ると良さそうな漢字をまず決めて、アクロバティックな訓読みをするようになった
頼朝(なんで朝がトモなのか難しい)、
義経(経がなんでツネなのか)、
慶喜(喜をノブと訓むなんて‥)
こういうのは現代もキラキラネームとして健在
火星(まぁず)、男(あだむ)、今鹿(なうしか)etd‥ 朝とか経とかは、だいたいみんな同じ読み方で使ってるし、一般ルールにしたがった読み方だったのではないかな
今では使わなくなった読み方なだけだろう
慶喜の読み方はよくわからんが。 天平の頃に大和ネームに漢字当てる方式から、
上下でそれぞれ意味ある漢字の組み合わせに変化するんだよね
天皇家も文徳天皇あたりからそんな感じ
誰かが中華の影響受けたのかな 慶喜って逆だろ?
喜慶でよしのぶなら、ギリ分かる。
なんで?逆?
って、最初に思ったな。
学校は理不尽を学ぶ場所とはよくいつたもの。 >>461
徳川家慶(とくがわいえよし)の家臣?だった頃に分与された文字だから同じ読み方になる
徳川慶福(とくがわよしとみ)も同じだろ
むしろ、なんで福を とみ と読むのか気になるが。 鳥取は取る→取り は変化として普通だし、鳥も音便変化として普通だから、文字単位ではおかしな読み方をしてはいない
漢字を書くときに鳥の文字が先かあとか迷うだけだ。読みの似た文字が連続してるだけ。 >>463
下の字が枯渇したからとかはないんですか? 分家だから縦の通し字もなさそうですし 父が正親、子が正朝なのに主君から一字貰ったせいで松平やすやすになってしまった善四郎さん
なぜ下の字を変えない 「経常」という語もあるし「経」を「つね」と読んでもおかしくない
「福」が「とみ」もわからんでもない
「喜」が「のぶ」はなんでだろう せんせい、流れで質問∩(´・ω・`)
「頼朝」=「よりとも」って読むんだよー
っていうのは、どういう資料からなんですか?
例えば吾妻鏡とかに「よりとも」ってふりがなあるんですか? たまに漢字が分からん時適当に同じ読みの漢字使ったり当て字を使ったりする
いだったら昔は伊と書いたり以と書いたりしてた
ひらがなカタカナの元祖みたいなやつ(すげー種類有る)
読みがわからん奴はそういう資料が見つかったりして判明してくんじゃないかなぁ
ただ朝をともと読むのは割と普通じゃね? それと、何らかの論拠で読み方が分かる人以外は原則として音読みにする おお、思ったわ。
古事記とか日本書紀って、最初期の原文は漢字しかないだろうに、どうやって発音とか読み方がわかったのだろうって。 じゃあ、極論ですが、飛鳥時代の木簡が見つかってるけど、今の学者が読むのと、当時の役人の読み方は違ってる可能性があるのですか? 必ず正しく読める、わけがない
幕末の河合継之助ですら
・つぎのすけ
・つぐのすけ
どっちかわからない まず口伝で伝わってる物はあるよね
学問は引き継がれてる訳だから
地名もそう普通じゃ読めないけどそう言われ続けてきたからそうだってのもある
まあうろ覚えの先生が適当に教えて今日まで残ってしまってるのもあるだろうけど 朝の字にはトモにあたる意味は無さげで、言われてみれば不思議ですね。9世紀の大江朝綱、10世紀の藤原朝忠は普通にアサと読むようです(根拠は不明
頼朝の父の義朝からトモと読むようになるのでしょうか。吾妻鏡はルビ無いような気がします。調べてみます ささいな質問から、詳しそうな人が
たくさんレスしてきたな。
これだから、学問板を読むのはやめられない。 桐野作人
浅井の読み方/「あさい」か「あざい」か
『大日本史料』10-17に収録された「南部文書」三である(305頁)。
これは浅井久政・長政父子の死去の綱文(天正元年8月27日)に収録された史料で、浅井氏の位牌所、菩提寺だった徳勝寺の住持楊厳が浅井家追善再興について述べた文書である。
慶長16年(1611)7月朔日と年次が入っている。
これはほとんど仮名で書かれ、しかも清音・濁音が混在していて、浅井の読みを検証するのにこれ以上ない史料である。
1.あさいびぜんのか□(不明字)、なのりハすけまさ
2.あさいしもつけのかミひさまさ
3.あざいびぜんのかミながまさ
4.あざい三たい(三代)
「あさい」読みが2例、「あざい」読みも2例と見事に拮抗している。
それでは結論はどちらともいえないかというと、そうではないだろう。
中近世の古文書や古記録では清音表記が圧倒的に多い。そういうなかで、濁音表記がこれだけある点が非常に重要で、1.2.も実際の読みは濁音の可能性さえある。 >>474
当時の役人の読み方が単一で正解という訳でもないだろう。名前は直接呼ばない
本人も知らないんじゃね ググると朝をトモと読む理由を書いた知恵袋が見つかりましたが、正しい説明とは思えません
たとえばですが、元就のことを「元成」と書いてある史料があってナリと読むとわかったりします。それに従って良いのか疑問の余地がないでもないですが
古事記・日本書紀については万葉仮名を使って読みを示していることがあります
たとえば古事記「次天之常立~。訓常云登許」、すなわち「常はトコと読む」といった具合です
日本書紀の平安時代の写本には訓点がついているものもあります。成立当初の読みと違うかも、などくわしいことは私にはわかりません そういえば、西郷隆盛のエピソードでも知られるように、そもそも下の名前はあまり使わないので、読みかたとなると一層わからないのでしょうね。
三連投失礼しました。 こういう例もあります。
続日本紀に出てくる「伊治呰麻呂」という蝦夷の名前の「伊治」は長らく「イジ」と読まれてきた。
しかし昭和53年に解読された漆紙文書に「此治城」とあり、これを「コレハリ城」と訓じる説が
提出されて「伊治」=「此治」=「コレハリ」であろうということになった。 朴正煕は親日家と喧伝されていますが,竹島や賠償金を要求した奸物です
何故誤解させる人がいるのでしょうか? >>483
本来の読み方が分からなかったので便宜的に音読みで呼んでただけでは >>470ですが、色々とありがとうございました
明確に確定資料があったりなかったり、口伝だったりということでよろしいでしょうか。
万葉仮名、変体仮名あたりもヒントになるのかな。
近い時代でも佐山象山も「しょうざん/ぞうさん」論争がありますね。 徳川慶喜も、よしのぶ、よしひさ、のりよし、いずれかよくわからない
ケイキと呼ぶ人も多く本人もそれを好んでいた >>488
近世でそんな感じなら、江戸以前は
合ってるのか?どうか?わかりませんね >>488
慶喜の偏諱を受けた実弟、会津の松平喜徳が「のぶのり」だから
慶喜は「よしのぶ」だろ 室町時代に節用集って辞書があるな
やはり昔から読み方わかんねえって難題はあったんだろうな >>491
室町時代でも飛鳥時代の最初期と比較したら、1000年近く経ってるから
読み方とか分からんかったろうなあ。 >>490
Yoshihisaとの本人署名が残る
明治の節用集には、のりよしと有る 読み方はいろいろあるんだからどうでもいい、ケイキとでも言ってくれと本人は思っていたんだろう
今でも漢字名の人は戸籍には漢字が載っているだけ
読み方は本人が途中で変えればそうなってしまう 将軍時代はよしひさ
隠居後はよしのぶ(世を忍ぶ)
にしたのかもしれない 幕末の将軍の名前がわからないって衝撃だな
適当に上様と言っておけば良かったからか 織田信雄(のぶお)
>>496
あと官職・自称呼びとか
やめても先の〜みたいに呼ばれるし よしのぶは故郷である水戸の者がそう呼ぶから元々そうだったのだろう
将軍時代は家来にそう言ったのだろう幕府文書によしひさとある
薩長の志士や福沢諭吉などは訓みはわからないんだろう、ケイキと書いている
静岡に引っ込んでからはケイキ様で通っていた 家を継いだ子が慶久なのでケイキ、ケイキュウ親子と区別がつくように呼ばせたようだ >>497
信雄から偏諱を受けた家臣たちの名前が「雄〜」を「かつ〜」と読むことから、のぶおじゃなくのぶかつだ、と言われていたが、ホントにのぶおなん? のぶおは内大臣になってるから読みが公家流になったんじゃなかった? ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1255459987 信雄は公家読みでのぶおとも呼ばれたことが言いたかった
公卿の慣習だと雄が後ろだと「お」、前だと「かつ」らしいね
秀忠からの感状の漢字が間違っていたため苗字を変えた水原(杉原)さんなんて事例も 明治維新より前は夫婦別姓が主流なんだけど、夫婦別姓がおかしいとか、日本史板で何の寝言を言ってるんだい? 北条政子とか日野富子とか、知りませんか?
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の正室、正妻の名前が北条政子です。源ではなく北条。
応仁の乱で有名な、室町幕府八代将軍 足利義政の正室が日野富子です。こちらも足利富子ではなく日野富子です。
ある程度以上の身分の女性は、嫁ぎ先ではなく実家の名字を名乗っています。 源と北条は氏と名字の関係だから例として微妙ではある しかし源頼朝は苗字がないんだよな
そして、姓は苗字と違って変わらない(というか、苗字だって結婚しても変わらない) 呼び名だもん。結婚しても芸名を替えないのと一緒
徳川家に生まれても松平氏とか姓は違う 源という姓を使ってた最後の一人ってのは存在しない
姓は苗字と併用されたので、徳川家も足利家も北畠や佐々木もみんな源姓を使ってた、明治維新までずっと。
戸籍制度の創設時に姓か苗字かどちらか片方しか使うなと命じられたから、姓を捨てることになっただけだ。
その時までずっと源。
そうではなくて苗字なしの源姓の人というなら、鎌倉時代ごろにはだいたいみんな苗字持ちになってるから、その付近の誰か、かなあ 実朝以降も公家ではいそうだけど>源
平頼綱なんか時代的には結構遅いよね >>512
明治初期に一斉に失くなったので、誰か特定のひとが最後の一人として残ってはいない
源という苗字のひとならいまも残っているが、源という姓ではないしな わざと言ってるのかもしれないが話の元は名字なしで呼ばれた源氏最後の人は誰だろうってことでしょ?
明治の話は関係ないと思うけど 頼朝が将軍になった時点で他の源氏は本貫の地名を名乗るようになったって事かな?
で三代目頼家で途絶えたから地名呼びの源氏しかいなくなったって事かね 頼朝旗揚げの時点でも、既に苗字を使ってる有力者が複数いるみたいなんだよなあ
源 義広(みなもと の よしひろ/志田 義広 しだ よしひろ)
とか佐竹とか。甲斐源氏(武田とか)も近江源氏(佐々木)とかも ひょっとしたら頼朝だって、身内、周辺のひとだけが源と呼んでて他勢力からは伊豆頼朝とか、北条の所領に住んでたから北条頼朝とか呼ばれていた可能性ならあるかもしれない。
勝ったから源頼朝になっただけ説 源氏・平家・平氏は耳にしても、源家は聞いたことがない。なぜ? 頼朝は同時代でも鎌倉殿・佐殿と呼ばれたことがほとんどじゃない
平家が伊勢平氏の呼称だっただけで
頼朝の系統も続いていたら源家と呼ばれたかもしれない
ただ他の源氏・平氏と同じく〜源氏(頼朝の場合鎌倉か?)と呼ぶ方が他と比べてもおさまりがいい気がする 鑑真のお墓を掘ったら
鑑真の骨ってあるんですか?
(´・ω・`) 神武天皇陵は明治時代に作られた。
あとはわかるな? >>523
「源家重代の太刀」みたいに普通に使うと思うよ >>527
それ珍しい部類じゃない?
〜源氏重代のなんとかみたいな表現が多い気がする
もしくは平家に対応させて源家みたいな >>528
ググってみても「源家重代」の方が圧倒的にヒット数が多いし、私もそう覚えていたのですが……
平家物語の『剣の巻』見てみたら、「源氏重代」のみが使われてますね
源家重代という言い回しがどこから生じたかは分かりませんが、元は源氏重代だったようです
それで源氏と平家の対比ですが、清和(陽成)源氏に限っても諸流ある源氏と正盛流が突出して強力だった平氏を平家物語などで意識して氏と家で呼び分けしてたのが定着したのではないかと思います “家”と“氏”の使い分けを分かってない文が続くな
>>526
作られたのは古代。特定したのは江戸時代 祈祷なんて何の役にも立たないことは歴史が証明しているのに、権力者達はなぜ祈祷をやめなかったのですか? 元寇が、北条氏に権力が集中していないタイミングでやって来たら、日本は元の属国になっていましたか? >>531
神頼みってやつだろ。
俺も無神論者のつもりだけど
意味ないって思うけど、近くの神社で
賽銭入れてお祈りするもん。 神社行かなくなったな初詣も含めて
興味無くなったのかな たまに行って、ダメもとでお祈りすると
少しスッキリするよ。
駄目だったら、諦められるし。
神社の境内は、たいがい木とか生えてるし、良い散歩とかにもなる。
そういう意味でたまに行ってるわ。 混血だと整った顔になり美形になる場合が多いそうですが、日本人に美形が多いのは日本人が縄文人と弥生人の混血だからでしょうか? 元々の縄文人だって混血
容貌には食生活の影響も大きい
こんな顔になりたいという希望とか、メイク技術の変化とか、いろんな要素で、平均的な顔貌そのものも大きく変わる
半世紀前のアイドルの顔を見てみ、好みに合う顔は少ないでしょ?
当時の庶民の顔が分かる写真見ると、美形の人って見当たらないでしょ? 縄文、弥生、古墳あたりの時代の
美人が今の美人に値するか?どうか? 大阪東部に住んでますが
神社の祭神が応神天皇が多い気がします。
まあ河内王朝の始祖とされていますので当然かな?とは思ってますが
いつぐらいから、祭神になったのでしょうか?
もともと神社はアニミズムの自然崇拝のはずです。
自分で考えましたが
飛鳥時代の天皇の律令制が出来た時
平安時代の天皇の権威が高かった時
江戸時代の尊皇攘夷の時
明治以降の国家神道の時
いつぐらいでしょうか?
ご教授願います。 じゃあ八幡宮がいつぐらいから、大量に出来たのか?
でお願いします。 明治初期、神仏分離の際に多くの神社で祭神が変更された
八幡神は奈良時代後半以後に普及したが、平安末とか鎌倉時代ごろによく増えたのではないかな? >>536
美形多いかな??
TVに出てる人は美形集めてるとは思うけど >>543
アメリカのサイト「Manolith」が世界で美女が最も多い15の国を統計データから選別したそうです。
1位:フランス
フランスは世界のファッションリーダーとして見られてきた。フランス女性もまた、その美しさとファッション性で他国の女性の羨望であり続けている。
2位:アルゼンチン
アルゼンチンは混血の人が多いため、金髪女性も多い。
3位:スウェーデン
スウェーデンのチョコレートとケーキが美味なように、女性もスィートだ。
4位:ルーマニア
ルーマニアの体操選手を見てもわかるように、ルーマニアには多くの美女がいる。
5位:オーストラリア
英語を母語とすることからオーストラリア人との交流は容易だ。オーストラリアの女性は一般的に親切で友好的である。
6位:イタリア
イタリアは世界的にセクシーな女性が多い国である。誇張でなく、イタリアは国全体がセクシーな雰囲気に満ちている。自動車や服装、砂浜まで、とてもセクシーだ。
7位:ドイツ
モデルのクラウディア・シファーをはじめ、ドイツ女性は美の化身である。
8位:スペイン
華やかで情熱的な女性が多い。
9位:日本
日本映画が海外で大規模に公開されることがないため、日本女性の美しさはこれまであまり知られていない。しかし日本を代表する美女である深田恭子が、映画「モノリス」を通じて知られることになった。
10位:ロシア
寒いロシアの女性はとても情熱的で、英語の発音もとてもセクシーだ。
11位:タイ
タイは、最も男性たちが行きたがる国だ。人気女優でスーパーモデルのパンケーキ・ケームニットはタイ美女の代表である。
12位:イギリス
クイーンズ・イングリッシュを操るイギリス女性はセクシーで可愛く見える。
13位:レバノン
レバノンは「世界の隠れた宝石」と呼ばれている。エキゾチックで魅力的な女性がたくさん住んでいるのだ。
14位:ブラジル
ブラジルも美女が多いことで有名な国だ。モリーナ・バッカリンなどはその際立った例といえるだろう。
15位:アメリカ
アメリカは世界中の人が集まる国だ。当然美女も少なくない。 美人の起源は何処の国か?知ってるよな。
イルポン? >>547
韓国美人の起源が韓国なのは認めていい
それ以外の美人は韓国起源とは認められない
俺的には韓国美人は好みじゃないな 関西と関東ですが、古代は関西の方が格上だったはずです。
少なくとも関西人から見たら、しかし今は拮抗どころか?関東の方が経済と人口も格上です。
いつから、関西と比較して関東が上に見られるようになったのでしょうか?
想像では、鎌倉時代か?江戸時代くらいか?明治時代か?ってとこでしょうか?
大和王権や平安時代では確実に関西が格上だと思ってます。 江戸時代でも関西が上と考える説の方が主流
つまり、明治維新からあとですね
江戸時代には、関西(当時の呼び方では「上方 かみかた」)から江戸に運ばれた商品を「下りもの」といい、それ以外の地方の産物(関東や東北などの産品)を「下らないもの」としていました。
下らないという言葉の起源ですね 関東の方が上という認識が全国的に主流になってたら倒幕は失敗してたと思うな
つまり、明治維新よりあと。 お前ら終わったな。
今、NHKのラジオ番組で
朝鮮半島から見た古墳時代
やってるけど、古代に大和王権が朝鮮半島に侵攻した証拠は考古学には認められない。って言ってるぞ。
神功皇后も広開土王碑も、誇張されて書かれているだけで、倭人が朝鮮半島で大規模に行動した形跡はない。って言ってるぞ。 >>554
いや、前から言われてたことだろ
今さら何を言ってるんだ
百済や新羅が日本に朝貢したので高句麗王が軍事行動して、百済や新羅が高句麗に朝貢するようになったという意味の碑文だといわれている
百済は特に、長く日本に朝貢したんだよ >>556
朝鮮半島にある倭人の古墳は
百済に仕えてた倭人が亡くなって
それで和風の古墳を作ったって言ってるぞ。 戦前までは関西も存在感あった気がする(企業・財閥の本拠地など)
戦後になって東京一極化が加速したような >>555
実質首都のようなものだった江戸を見捨てるようなことをすれば、大きな混乱を引き起こす
巨大な人口が逼迫して社会不安にもなる
それよりも江戸のインフラを利用して新首都を建設すればよい 東京は大震災と空襲で焼け落ちたから再開発がやりやすかったんじゃない >>554
日本人が朝鮮半島に移住したんだから
侵攻や大規模な行動の証拠や形跡があるわけないだろう。好太王碑は吉林省にあるから朝鮮半島での行動ではない
ちなNHKは日本人の税金を使った朝鮮人の… 朝鮮人は日本人が百済を助けたことに恩は感じないの? >>566
百済があった全羅動という地域は高麗の時代から強く差別されているので、いかに全羅動の人達が古代に日本と連携していたので親日であろうともそれが朝鮮全体の意向となることはまずはい。
それどころか、全羅動の人達は日本に対する恨みは恐らく朝鮮の中でも一番深い。
というのも、秀吉の第二回唐入りの時には全羅動の一般人まで大量に殺されたから。 唐入りの初めは圧政に対する救世主くらいに思われてたらしいじゃん >>562
少人数小規模の移住ならまだしも、まとまった人数の大規模な移住なら居住地の奪い合いになって先住者と争いになるのが普通
といって、小規模な移住なら、日本式の古墳が作られるはずもない。
争いの痕跡がないというなら、普通の移住じゃない。
現地の国(小国)の依頼による軍事派遣とかじゃないの >>566
百済の有力者たちの多くは故国を捨てて日本に移住したからな、
日本に助けられたひとの多くが半島を出てしまった以上、日本に感謝してた百済系のひとは半島にはいなくなったと思った方がいいのでは >>568
今ではボロクソに言われてるけど
ヒトラーのソ連侵攻は、最初は共産主義からの解放軍と思ったロシア人から
歓迎されてたらしいけどね。 >>572
亡命というよりも自殺に近いけど、この世を憂い儚んだ僧侶たちが南海にあるという観音菩薩の浄土、補陀洛を目指して船を出した補陀洛渡海とか。
南海浄土へ 帰らぬ船出 補陀洛山寺の渡海船(もっと関西)
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO30250240Z00C18A5960E00?s=2 >>569
無人の朝鮮半島にどんな先住者がいたんですか? 定住生活の前ですら、人が移住すれば先住者と争いになるだろうに。
半島に人がいなかったのなんて、旧石器時代の初期ぐらいまでじゃないの?
韓国人の祖先かどうかは別にして、ずっと住民はいただろう? >>572
社会主義が弾圧された戦前とかは、大陸に逃げてたらしいな。 >>572
朝鮮半島にある前方後円墳は、日本から朝鮮半島に渡って、百済とかに仕えてた倭人の古墳だから、一応それに当たるとは思う。 前方後円型墳墓ならともかく、前方後円墳は主従関係を軸にした墓制だから派遣された豪族しかあり得ない
んだが、半島にあるのは前方後円墳なのか前方後円型墳墓なのかどっちなんだ? >>572
女優の岡田嘉子は恋人の演出家杉本良吉(共産主義者、妻帯者)と昭和13年1月に厳冬の樺太国境を徒歩で越えてソ連へ亡命
駆け落ち事件として連日新聞紙上を賑わせた
ソ連としては日本人を警戒し、ソ連入国3日後には二人は引き離され、翌年スパイ容疑で裁判にかけられ、拷問で自白させられた岡田は10年の刑、あくまで否認を続けた杉本は銃殺刑となった
戦後、岡田は日本語放送のアナウンサーになり、現地の舞台にも立っていた
1972年、岡田は里帰りして徹子の部屋などテレビ出演していたが、ソ連に戻り1992年没 >>580
俺の生まれる前から徹子の部屋があって草 日本赤軍とか亡命者からもしれないが勢力ではないし
成吉思汗になった義経ぐらい 歴史的には、日本は亡命者を出すよりは受け入れた側ですか? 勢力と呼べるかわからんけど明治維新後の日本からの移民(棄民)とか
日本に来た移民というと南宋からの移民と白系ロシア人とかか よくわからんけど
紀元前には、中国の戦国時代で避難民が渡ってきたし
古墳時代には半島からの渡来人が来てるし
飛鳥時代には百済の王族貴族が来てる。
近代では、清王朝の王族とか来てたような。
半島台湾併合で、その時に渡ってきて今は在日になってるだろ。 >>582
義経がまだ日本にいた頃からジンギスカンの活動の記録が残ってるから、同一人物ではないよ >>557 >>578
古墳を作るのには相当な労力が必要
単なる臣下の外国人のために古墳を作ったという説は無理だろう 侵攻した先の住民が協力的な訳ないから
臣下説が正しいとは思う >>587
とんでも説では、途中で入れ変わった説があるんだよなあ。 勝手なイメージだけど、義経はチビ、チンギス・ハーンはやや大柄と思ってる >>588
臣下として渡ったから武力を持ってたはずがないと思ってるのか
自前の武力をもって逗留してたから、じまえで(自分の配下だけで)それだけの労力を調達できたんだろ >>591
当たってる
でもとんでもは、シークレットブーツ出してくる 曹操みたいに影武者だして大きく見せるより実用的か? >>589
連合軍の侵略を受けた日本人も侵略軍に協力させられただろう?
そういうものだ
逆に臣下の外国人のために自国よりも広大で重労働の墓を作ることに協力的なわけがない >>589
ノルマンコンクエストに住民が抵抗したとは聞かないけど。 >>596
でも、NHKラジオの
朝鮮半島と古墳時代
では、百済に仕えてた倭人の墓って言ってたよ。 君主は国家第一の下僕だから間違ってはない。日本人の王なら尚更国に仕える >>598
逆の学説はないと思ってる?
「説」だけなら色々立てられる
根拠や証拠が重要なんだよ >>600
古墳の中から、たしか冠みたいのが出てきて
それが百済の冠であって、当時の倭には
存在しない物。
それが決め手になってるらしいよ。
聞き逃しサービスで聞けるから、聞いてみたら?
歴史学者が国営放送で流してるから、トンデモ説では無いだろ。 現地の高価な品を副葬品にするのは自然だろう
それどころか日本国内の古墳で輸入品が副葬品になっていても何も不思議はない
それが決め手とはどういうことなんだ
全然理屈になっていないじゃないか
トンデモ説でももう少し筋の通ったこと言うぞ >>605
それは君個人の意見だろ。
国際的な考古学会では、百済に仕えた倭人の墓説が有力なんだよ。
だいたいトンデモ説が、ラジオ教育番組で流されるはずがないんだよ。 >>606
それこそ君の妄想だよ
少数説が放送されることはないなんて誰か言っていたか?
こんなに簡単に論破される説って何なんだ >>608
君の方が論破されているね。
じゃあ、日本国内で発見されている大量の渡来人の古墳があるけど
当時、日本は半島人の植民地だったのかい?
半島経由の輸入品の副葬品も、渡来人系の古墳からも大王の古墳からも発見されているけど、大王つまりオオキミも半島の渡来人なんだよね?
それで良いんだよね?
ダブルスタンダードは良くないね。 >>609
何を言っているんだ?
外国の副葬品があったらその外国の臣下の墓だとかいう意味不明な主張は君が唱えているだけでこちらはそれを否定する立場だ
君が何も反論できなかった>>605にそう書かれている >>610
正確には俺が言ってる訳ではなくて
ラジオ番組でやってたんだけどな。 自分で蒸し返しておいて今回も何も反論できないだろ?
これは論破というしかない テレビやラジオでマイナー説を取り上げるなんて日常茶飯事やん 受信料支払いの「強制」を求めるNHKの発想は、中国や北朝鮮と同レベルだ
ttps://president.jp/articles/-/39847 神道と天皇は同じって言うのは
国家神道の教育の結果であって
出雲とか伊勢神宮、諏訪とかは
もともと天皇と関係ない神を祀ってた。
って意見を聞きましたが、どの程度正解ですか? 各地の神社の祭神の多くは元々、天皇と直接的には関係なかったのが、律令時代初期ごろか、もう少し前ぐらいか?に天皇を中心とする神話体系の中に位置付けられるようになったとか云々
伊勢神宮だって本当は飛鳥時代末ごろに皇祖神の位置付けとなったのではないかと疑われる 出雲は国譲りで奪われた側だし諏訪なんて国譲りに抵抗して負けた立場だもんもともと天孫と関係ないだろ。 天地創造時の出雲の扱いはどうだったんだろ
あっちはイザナギとかとは別系統だよね? はじめまして質問させてください。
大石内蔵助の辞世の句とされる、極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそえて 四十八人
というものですが、出典がまったくわかりません。
創作性がつよいものでしょうか? 細川家下屋敷で義士の世話をしていた堀内伝右衛門が切腹直前の内蔵助に頼んで書いてもらったという自筆の辞世が残っている
「武士の矢並つくろふ 小手のうへに あられたばしる 那須のしの原」
これは源実朝の歌をそのまま書きつけたもので、とっさに頼まれても良い句が思いつかなかったのだろう
このほかに伝わっている辞世もあるが、本人が詠んだ確証もないものであり、結局はっきりした内蔵助の自作辞世は遺っていないとされる 5万石の大名に筆頭家老として知行1500石を与えられていた家に生まれて、結構上級の身分の武士が、
家老になって20年も務めて、辞世の句を用意しないとか無い。
仇討の準備を始めたのが7月末、決行日を決めたのが10月末、討入が12月15日同日捕縛、賜死が翌2月頭。
死罪が判ってる状況がも長く見て半年、短く見ても1ヶ月半、猶予があるのに、辞世の句くらい練ってるだろ。 >>621
>>623
早速ありがとうございます!辞世は私も何かしらあったのかと思っております。残っていないだけで。
ですが、極楽の〜といった句が辞世として一部?もしかしたら結構伝わっているので
どこが出典なのか探してもいまいち見つからないのです。こんな事考えだしたら道に迷うのは必至なのですが… じゃ、>>620に挙げられている歌が内蔵助の辞世だと思っていればいいだろう 「あら楽や 思は晴るる 身は捨つる うき世の月に かかる雲なし」というのもあるという
しかし、楽(ラク)は漢字の音読み、やまとことばの世界の和歌に使うものではなく、出来が悪い
「あら楽し」とまたほかの人に直されたりしている
と言って「極楽の‥」は何か坊主が詠んだような歌で抹香臭い
また。人に宛てた書状には「覚悟したほどにはぬれぬ時雨かな」の五七五を書いているという
切腹直線に辞世を求められて実朝の歌を書いたくらいだから、まぁそんなものだったのかも 浅野内匠頭の辞世
「風っそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
切腹の頃の季節に合った、前もって考えていたとも思えぬ見事なものだ
発達障害でもあったような気質の人だが、辞世は良いものを詠んでいる
これに比べれば内蔵助のものといわれているものはいかにもという感じだけで、余韻に欠ける
やっぱり偽物じゃないの >>619
記紀では高天原を逐われたスサノオが出雲に降ったというのが出雲に関連する最初の記事と思う。
その後スサノオは八岐大蛇を退治して土着する。そしてその末裔である大国主とスクナヒコナによる
葦原の中つ国の国作りの話が語られる。
出雲国風土記ではスサノオの存在は薄く八岐大蛇も出てこない。大国主とスクナヒコナによる
国づくりが語られる。 >>627
江戸時代にはゴーストライターかスピーチライターかみたいな役どころはいなかったの?
内匠頭も内蔵助も即日切腹だから >>623
討ち入り前は討ち死にする可能性を考えて辞世を詠んでた可能性もあるが、討ち入り後は処刑の可能性を本気で考えてはいなかったっぽいし、実質的には即日執行の唐突な切腹だよな。辞世を残す余裕なんてなかったのではないの? 討ち入りした赤穂浪士にはイマイチ共感出来ないなあ
そもそも何がきっかけで殿様が吉良に斬りかかったか誰も知らないわけでしょ >>631
討ち入りの30年ほど前に起こった「浄瑠璃坂の仇討ち」を
意識していたとも言われてるな。
これはどちらが善悪かわかりにくい上に、討ち入った人たちが
遠島処分くらいですんで、しかも7年くらいで赦免されてから
各大名家に召抱えられるという破格の待遇を受けてる。
改易から無職浪人なら生活に困るので「浄瑠璃坂の仇討ち」
を再びと再仕官を願ってやったのかも知れない。 手本となったのなら三大仇討から漏れた点がおかしくなりませんか? >>630
なんで?
殿様が松の廊下事件で即日賜死刑。その家臣が幕府の決定に対して不服を顕わにして戦闘禁止区域での私闘。
処刑されない方がおかしいだろ
・意見を求められているわけでもないのに、、幕府の決定を批判。
・戦闘禁止区域の武器使
・直参旗本に対して、浪人が狼藉
個々にどれをとっても、死罪相当のことやってるのに、どうして赦免されるような要素があるよ? 神社本庁って、過疎化地域の古い神社とかの修復やったりするんですか?
調べたけど、あんまり何をやってるのか?分からないです。 神社本庁は役所みたいな名前ですけど役所ではなく宗教法人です それはそうですが、過疎化の神社でボロボロのを修理したりとかやってるのですかね?
式内神社なのに、廃墟に近いけど、一応信仰してる痕跡があるので、神社本庁が面倒みてるのかな?って思っただけです。 神社本庁がどんな活動してるか詳しく知りたいなら神社・仏閣板で聞け
あと宮司や神主が1人もいないような小さな神社は基本的に地元の氏子が管理するものだろ
過疎で氏子がいなくなったり、氏子にやる気が無かったらその神社は寂れるままだな >>634
幕府の決定には不服はない、という体裁を一応とるなどして処罰回避を試みてるじゃん 赤穂浪士が赦免を願っていたかはともかく
主君が命を狙った相手がまだ生きているから主君の遺志を叶えるのが目的だったんでしょ 吉良上野介可哀想としか思えない
現代の価値観では。
テロリストの理論だろ >>637
神社本庁はそういうことをしない組織でしょ なんで切腹なんてハードな自殺がスタンダードになったの?
世界的にも稀ですよね? チコ:ねぇ、ねぇ、岡村ぁ、この中で一番切腹が似合うのは誰?
岡:ぼ、僕、行きましょうか、新婚やけど
チコ:なんでお侍はあんなことしたのぉ?
岡:なんで?さぁ‥
チコ:ボーっと生きてんじゃねーよ
切腹が名誉ともされたのは、備中高松城の水攻めのとき、城主の清水宗治の切腹が見事で、カッコよかったからぁ、デデン
それで秀吉が千利休やなんかに切腹させるようになった
でも、作法通りにやるのは難しいから、赤穂浪士でも、主だった数人以外は短刀でなくて扇子や木刀しか用意されなかったし、作法を知りませんと告白する人もあったんだって
長〜い伝統というほでではなくて、江戸時代に建前ばかり言いはやされたんじゃないかしらね
真面目に受け取ってハラキリをしてしまう人は結構あったでしょうけど
岡村はそんなことやめて、シアワセになってね >>643
もともと中国じゃなかったっけ?切腹。
腹を切ってはらわた見せて、無実を証明するのが、最初だったと思うのですが。 切腹、清水宗治の話もたまにきくがこれまた出典が謎。 切腹そのものじゃなくて秀吉が感服し以降広まったというくだり 中国の毛利が敵方の秀吉に通じたため前線の清水宗治が殺された件を秀吉が美化して胡麻化したんだろ
家臣が勝手に和睦を結んで毛利が守るという訳の分からん話だけが残った >>639
仇討は、武士特権だけれど、やる前に幕府へ届出が必要。
同じ藩の藩士一家vs藩士一家で藩の地面の上で解決すりゃあなら藩主に届けりゃOKだったり無届でも許されたりがあるかもしれんが、
場所が江戸で、藩士vS旗本だから、幕府に届けずやっちゃうとただの殺人か、無許可戦闘行為で、やはり死罪相当。 >>642
でも宇佐神宮は古墳時代から続いてる宮司家を追い出してノットうろと画策しているよね。 宮司って世襲だろうが、途中で養子とかで
血縁自体は切れてるとは思うが。
昔は家の存続が大事で血縁は重視されてない。 >>650
>仇討は、武士特権だけれど、やる前に幕府へ届出が必要。
町人や農民も仇討ち出来たみたいだぞ。
むしろ江戸時代後半になると武士より多いくらい。
ちなみに敵を見つけるのが超むずかしいが、もし見つけられた
場合はほとんど成功してる。 江戸時代も終わりになると武士はフヌケだからな。
二百何十年も武装特権を持っている家系で生来の戦士のはずが、
戊辰戦争では、宮様やお公家さんが率いる武装や戦闘訓練やら縁遠かった農商工民寄せ集めの維新方に、
武家で編成されてる佐幕方がコテンパンにやられてしまっている。 内務軍が弱化して治安が悪くなったから、武家政権の信用失墜、倒幕運動。政権の崩壊→版籍奉還明治維新だろ 伝習隊はフランス人直伝の幕府軍精鋭歩兵部隊
だが、指揮系統が古臭く硬直化したものだったので、隊長を薩長の軍が狙撃して倒すと、次に指揮を執る者が不在となり、博徒、雲助、やくざなどから成る隊員は烏合の衆と化した
そういう醜態をさらしたと伝わので「伝醜態」と言ったとか言わないとか
陸軍奉行の大鳥圭介がポテチンと言ったとか言わないとか 長州に居たのは百姓どもだ
雲助や火消みてぇな都会的なのは居ねぇよ 何で元寇終了〜元弘の変までの鎌倉時代末期はやたらにマイナーなの?
平頼綱や長崎高資などはもっと有名でも良いと思うが >>662
室町時代も江戸時代も平和な時ほどマイナーだろ 源平合戦、戦国時代、幕末 ・・・ 大河ドラマの3大トレンド(つまんね そうは言っても延々と和歌のやり取りをドラマにしても 平安時代も権力闘争はあったよ
藤原良房の応天門の変
藤原基経の阿衡の紛議
藤原時平の昌泰の変
兼家vs兼通
円融皇統vs冷泉皇統
中関白家vs道長 島津氏は他所から薩摩にやって来たのに、よく気性の荒い薩摩隼人を従わせることができたよなあ >>670
紫式部と和泉式部の和歌対決なら令和の時代、女の時代に相応しいんじゃ 令和の時代を女の時代にするな
フェミニズム反対
男性を貶めるな 数キロ離れてますが、大きくて立派な神社があるんですが
そこの神社が格好良くてよく参拝してますが、多少離れても氏子とかなれるんですか?
また複数の神社の氏子になっても問題ないですか? >>671
応天の門はマンガにもなってるしいいかも >>675
たいていの地方神社なら、その管轄地域内に引っ越せば、一般の氏子にはなれるのでは
もちろん年会費とかかかるけど。 平頼盛の嫡男光盛の家系って最終的にどうなったか分かる方居ます?
Wikipediaに項目無いので 伏見野宮系の皇族で、明治以降、一番継承順位が高かったのはいつ時期の誰ですか >>664
鎌倉時代に平和な時期とかあったの?
内紛小競り合い暗殺辻切そんなのばっかり、上位の御家人でも毒殺されたり寝首を掻かれたりが日常 >>675
氏子は地縁組織だったり血縁組織だったり神社ごとにバラバラですよ。
氏子の有力者と宮司とが認めれば新たに氏子になれますが、どういう条件で氏子として受け入れるかはその神社・氏子組織ごとに違いますよ。
そもそも、神道には統一した教義も組織の規定も存在しないので、こんなところでぼんやりした質問しても正解は返ってきませんよ。 崇徳院の叔父子の噂ってどう思いますか
さすがに本当だとは思いたくないですけど まあ、そういう人間関係は起こりうることではあると思う
鳥羽天皇の疑いの真偽は分からんけどさ。
思い込み、妄想の類いであった可能性も小さくないだろうとは思う。 「叔父子」という表現を使った例はこの崇徳院の他にありますか? 後醍醐天皇の母親が当初は後宇多天皇のもとで子供を産んでるけど後には後宇多天皇の父親である亀山天皇の寵愛を受けたってのも、ひょっとしたら似たような状態なのかもしれんけどな
だからといって後醍醐天皇が後宇多天皇の子供じゃなく亀山天皇の子供って可能性はないよ 造語というか「叔父御」(叔父を敬う呼び方)にかけたダジャレでしょ
シャレにしては全く笑えないけど そういうことでしたか、納得です
ありがとうございました はじめまして、よく聞く有楽町は有楽斎からという件ですが
大阪→京都と住んでいた彼の屋敷がその地にあったことはちょっと謎なのですが
どうなのでしょうか。 明治になって、永楽町、有楽町と縁起のいい町名が付けられたというだけのこと コロンビア特別区、コロンビア共和国と同じだね。本人は来ていない ワシントン州にワシントンは行ったことがないと思う 多分 敗戦後に日本語横書きの順序が左から右になりました。
古代から続く書き順を逆にするのは大変な文化破壊と思いますが、
これってGHQからの指示でしょうか?それとも日本側の事大主義者がアメリカが頼みもしないのに勝手に動いたのでしょうか? 文化破壊とか言い出す前に日本の文化を勉強したら?
単に昔からの右から左へととじた紙をひらいていくスタイルが廃れただけだろ >>697
江戸時代には、大名は必ず江戸屋敷を持ってたはず
つまり、有楽斎の江戸屋敷はあったはず。
有楽町と関係あるかどうかは別にして、江戸にも屋敷を持ってはいたはずなんだよ >>701
右から左へ書くのって、大変だっただろうと思う。廃れてよかったとさえ。 昔から字は右から左へ書いてゆくものだ
国語の教科書、小説本、新聞、週刊誌‥縦書きのものは右から左へ行が進んでゆく
習字をやらされたときも右に書いて、次に左、さらに左に小さく名前を書く
大きな字で一字一行になっても右から左へ書いてゆく
あれは横書きではなく、縦書きの一種
左横書きは西洋の真似をしたもの 戦前(明治)から左横書きはあって、理数系・工学系は左からが主流
江戸期の蘭学を学んでいる人たちにとっても普通だったしね
むしろ戦中期に右横書きが先鋭化した感がある 日本の漫画雑誌も縦書きだから、右に表紙があって左が裏表紙だ
外国で出版するときは絵面も全部裏返しにして左からページが進んでゆくようにする 古代中国でまだ紙が発明されていないときは細長い短冊型の竹や木に一行ずつ字を書いていた
右手で一枚の竹に字を書いた後、紐で綴られた次の竹簡を左の方からやはり右手で引っ張り出して書いたので、右から左へ書き進むようになったのだろう
漢字文化圏はみなこれに倣って右から左へ書き進めるようになった 木簡、竹簡になぜ縦書きするのかについては‥‥それ以前の亀の甲羅に占いの文字を刻みつけるときからもう縦書きだったのだから仕方ない 小説は縦書きのほうが読みやすい
横書きのネット小説は個人的に慣れない >>705
書いた直後の、まだ乾いてない墨の上に手を置いて(紙に触れないで浮いてるけども)次の字を書くので、うっかり手が下がって紙に触れると墨で紙が汚れるのよ
不便きわまりない
そもそも、文字の中は左から右へ書いているんだ。そのつぎの文字は、さらに右側に書く方が自然。
漢字の筆順と整合性があるのは左から右へ書く横書きだ。右から左は不自然なんだよ、筆順を変えないとダメだ。 難しい漢字とか右から書きとかが新体制になってなくなってよかったな
いまだにそういうのが残ってたら識字率や学力に悪影響してただろう >>699-700
アメリカ合衆国のほうがおかしい
アメリゴ・ヴェスプッチが探検したのは南米なのに >>713
だからぁ、右から縦書きはマンガの吹き出しでも残ってるだろ
日本語小説本でも縦書きだろ >>699
東軍に属して、淀君の伯父で後見人だろ。
一説に和平仲介役、一説に徳川方が豊臣渦中に送り込んだ間者。
江戸と、大坂と、行ったり来たりしてたんじゃないの? >>709
インドは貝葉を、チベットも木製の板を、やはり同じように細長く作って紐でつづって使っていたけれど、
横の左→右で書いてるよ >>719
でも、アメリカ大陸を言うときには、、英語でもスペイン語でもAmericasって複数形だよ? 「Americas (アメリカス)」の名前論としての意義
ttps://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/33/NL33._special.morizumi.html >>718
だからそのことは>>710で触れた
支那では、亀の甲羅や獣骨を焼いてできたひび割れを見て占いをする時代から縦に読み取ってたんだからしょうがない
アラビアみたいに右横書きもあるし、世界的にはいろいろある >>713
中国では「機」の漢字は「机」と書く
「葉」は「叶」だ
そのほか、随分画数を減らした簡単な字を使っている
それにくらべれば日本の人は画数が多くてご苦労さんだね
韓国、朝鮮では漢字そのものを使うのをやめてるぞ
日本も早くかなだけにしなくちゃ、負けてるぞ
中国も朝鮮も縦書きなんぞやめてるぞ
日本みたいに縦書きの本が随分残ってるなんて古臭いぞ
なんとかしろ その中国が近代になってから日本の漢字熟語や漢字表現をたくさんパクっとるんやで
逆に日本が近代になってから中国から取り入れた漢字熟語や漢字表現ってあんまりないだろ パクったりパクられたり
カンガルー対カンガルーかね?
まあ、漢字との親和性が高い民族と言う事でいいんじやね? >>723
漢字文化圏がアルファベット文化圏に学力で永遠に勝てないのって文字、文法の習得が難しすぎるからなのかな >>726
漢字の習得に時間とかソリースを割り過ぎて、重要な問題解決が出来ない可能性があるよな。 そうおもうのなら、かなだけでかけばいいじゃないか
そっちのやりかたにちからをそそぎなさい Kanziwo nikumu hito wa, Ro:mazi de kakinasai.
Or you may Write in English.
御前等 漢字禁止 >>701です。
結局左から右にこれまでと逆に書くように決めた経緯は
誰が主導して決めたのでしょうか 日本語横書きについての質問となっているが、昔は横書きは一切無かった
そんな発想がなかった
扁額に大きな字で「語熟字四」などと書いている場合でも、横長の紙や板に大きな字で右から左に縦書きしたつもりなのである
字が大きいので一字で行がいっぱいになって次の行にすぐ移って行っただけだ
だが、近代に西洋横文字が入ってくると、日本語にも横書きの発想が現れてきて、みんなてんでに右から左からと書き、両者入り乱れる混乱状況があったが、誰主導するとなく、横書きなら自然と本家の西洋風にと淘汰されてきたのだろう 横文字みたいに字を並べるんなら横文字風に「四字熟語」と並べればよいという革新的なことを考えた人は当然居ただろう
それでも昔から「語塾字四」を見慣れている人々はやっぱりそういう見慣れた並べ方をするのも多かっただろう
それで両者入り乱れる時期があった 西洋人なら文字はいつでも左から右へ書く
だが、右からというのも両方あるという意識が日本人にはあった
戦後しばらく経ってからでも、商用車の車体に社名など書く場合、車両の前方から後方に向かって書いているのが見受けられた
車体の左右で左書きと右書きで食い違ってしまっているのだが、それを気にするよりもやっぱり前から後ろに書かなきゃという意識の方が優先した >>733
今の商用車でも少なくないと思うけど、減ってきてはいるな >>727
漢字廃止したけど別にどうもなってない国あるよ いやぁ、漢字みたいなものを廃止したんなら効率アップで、ノーベル賞受賞続出、世界をリードするようになってるんじゃないのか
ベトナムなんて漢字をやめて一挙にアルファベット表記にしたから、もう大変、世界一の先進国になってるだろ、きっと >>731
自然淘汰は無いわ
明確に敗戦までと敗戦後で線引きある 「日本語大博物館」という書籍によると、戦前の鉄道の場合は切符が左横書き、出札口の表示が右、食堂車や寝台車の表示は左、大阪行急行などという文字は右という具合だで、てんでばらばらだったとのこと
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/Hanwa_Tennoji_station_1938.jpg
この昭和13年の大阪天王寺駅の写真では、ずらりと並ぶ観光地案内の看板はすでに左横書きだ
ただ、見づらいが右上の屋上塔屋には「堂食和阪」と右から横書きがある
https://ima.xgoo.jp/column/img2/jnhppp/160429_s03.jpg
もうひとつ、大正15年の朝日新聞紙面
広告の文字は左からが優勢、右からのものは「めどきせ」の薬だけだ
敗戦で国語表記の見直しが取りざたされるなか、新聞の題字など左横書きが進んで行ったのも大きい
ただ、国家権力が線引きして一挙に変えたとかいうことではない 変体仮名もそうだけど、てんでばらはらは文化じゃと? 文化は本質的に權力者の御達しに因つて作られるものではない
今の日本國家も文字の書き方や讀み方は文化的所産である辞書に任せ、政府自らが強權的に取り締まつて違反者を牢屋に入れたり罰金を取ることはしない
しかし、個人の文化的営爲は尊重するとしながらも、学校ヘ育や公文書作成に限定すると言ひながら枠をはめることはしてゐる
変體假名や假名遣、漢字の字體について学校でヘへるものを限定してしまつてゐから、實際には昔の文字を使へなくなつてしまう事態となってゐる
学校ヘ育に頼らず、自分で勉強すれば変體假名も草書體も何でも御座れとなれるのだから頑張るやうに >>741
ありがとうございます!
国家統制が強い時代に、まさかの自然淘汰なんですね。 北方領土に住んでた日本人ですが、和人とアイヌ人どちらが多かったのでしょうか? >>745
今の時代でも国家の統制が強いと言う奴もいるけど
日本史的には国家統制が強まったのは太平洋戦争の中盤以降だよ? プロレタリア文学って知ってる? 一般庶民ではなくアカにとっては戦前から >>749
武田信玄の父武田信虎は胎児が見たいからと領民の妊婦の腹を裂いて殺して胎児を取り出したりしたから人心を失い甲斐から追放されて信玄に取って代わられました 橿原神宮について質問です。
今更あれを作るまで神武天皇を祀った神社って本当になかったのでしょうか。
そうであるなら、日本書紀が書かれた時代から明治まで神武天皇について思いを馳せる場はどこだったのでしょうか? そもそも天皇の権威が常に強かった訳ではない。
明治以降が異常だっただけ。
崇神天皇みたいに神を祀るのが本来の仕事なのに、現人神を名乗った時点で日本の神は天皇を見放した。 >>750
>領民の妊婦の腹を裂いて殺して胎児を取り出した
これは「こいつはこんなに悪かったんだぜ」って捏造するときの定番ですね。
日本書紀にも記載あります。 歴代の幕府が天皇の権威を無視することができなかったのは、日本人全体に天皇を敬う心があったためですか? 思想が尊王かどうかによって回答は
違うと思うけど、おれは権力を持ってなかったから
生き残った説。
もともと天皇は古代の崇神天皇みたいに
神に祈る役目。
本来は権力なんて持ってない。
雄略あたりからおかしくなっただけ。
だから、見逃してもらえた。
神社の世襲でやってる神主みたいなもん。
殺しても、廃止しても、一銭の得にもならん。 >>752
古代なら皇族以外がそのようなことをする必要がなかったし、宮中に祭壇でも作ってたんじゃないの? >>754
だよね、史記の引き写しだし。(あれも創作) そもそも古代の天皇陵とされる古墳は、90%以上は比定が間違ってるって言われているのに。
つか、本当にその天皇が実在してるのか?強力な豪族の古墳を天皇陵って比定してる可能性が濃厚。 崇神天皇 民のために神に祈る
垂仁天皇 人身御供が可哀想だから廃止
成務天皇 名の通り、かなり真面目な天皇だったらしい。
応神天皇 渡来人の力を借りて大幅に国力増強
仁徳天皇 慈悲深い大王、でも浮気しまくり現代のジェンダー史観では大きなマイナス
この辺はまあ名君じゃね?
全員、実在を疑う説があるけどね。 >>723
漢字が覚えられない脳みそ退化している人種 >>724
モーマンタイ
オッケーラー
チョーシーチェンダーマー
ブーヤオ
ブーヤン >>763
明治天皇、お雇い外人の力を借りて富国強兵殖産興業、6人別々の后妾に子供産ませてる
応神天皇と仁徳天皇合わせた大王だね。 >>766
そうだけど、明治天皇のその政策のせいで後世に大きな災禍をもたらしたのも事実。 後知恵で批判することは簡単だけど、あの時代に軍拡せず独立を保つことはできたのだろうか?
あるいは独立は諦めて列強の植民地になってしまったほうが結果的に日本人にとって幸せだったのだろうか? それについては
言い出したら、ソヴィエト、ヒトラー、毛沢東、北朝鮮とか
何やっても、失策じゃなくなるしな。
後世で大損害があった以上、批判されるのは仕方あるまい 軍拡が原因という発想が頭悪過ぎ
お前が人生失敗したのはお前の親を生んだ祖父の責任と言い出すようなもの
失敗したのは失敗した奴の責任だ 明治時代の軍拡が原因とか言っているのは問題の所在がわかっていない 侵略戦争を受けて大損害を出したら、その二世代くらい前の元首の政策は無条件で批判されるのか
酷い話だ 悪妻は百年の不作と言ってな、責任はもちろん祖父にある
だけど死に逃げして責任を取ってくれない 1、「武田信玄」井上一次氏著。昭和8年刊。(著者の紹介略)
(略)多年信虎の行った残虐行為は部下の信頼を失った。今信虎が残虐であったニ三の例を挙げると、通りである。
1)大永七年に鷹狩りに出た際に農夫の徘徊するのを見て、猟銃で撃ち殺したことがある。
2)ある時雲雀を捕るために野に出て、その途中で妊婦にあった。
信虎は、胎児が腹中にある状態を知りたいと思い、て庭前に連れ帰り、妊婦の腹部を割いてみた。
重臣馬場虎定及び山縣虎清はこれを諫言した。
信虎はこれを怒り、膝元にあった大脇差を以って、虎貞の肩口から乳まで切り下げた。
虎清は驚いてこれを制したが、信虎は更に虎清の脳天から鼻頭まで斬ってしまった。
信虎がその後妊婦の腹を割いたことは六、七人にも及んだそうである。
(以下略 加賀美虎光討伐に反対したためという説もあるが…どちらにしても酷い >>776
種子島に鉄砲が伝来するより二十年も前に猟銃で農民を撃ち殺したとか、信頼性の欠片もない与太話だな 信玄が親を追い出すために作った可能性も高いな。
武烈、継体 あっ! >>767
えー? そうなの? 子孫が足らなくて今とっても困った事態に陥りそうなのに? 鎌倉幕府以降、天皇に実権がなくなった後の公家は資金源はどこにあったのでしょうか?
歴代の幕府が予算の中に公家用の予算を入れてたのでしょうか? >>749
あまり許されない
大名が参勤交代の途中で現地の領民を殺した事件では(自領ではなく他領なので参考程度)、領主の大名との軋轢に発展し、数年後には被害者の家族による仇討ちで殺されてるしな
江戸時代の斬り捨て御免ってのだって、急いで処刑する必要のある緊急の案件で裁判代行・処刑代行をする権限が認められてただけで、自由に振る舞えたわけではない。なぜ殺す必要があったかを書類で届け出る義務があった。理由が不適切なら処罰もあった。
災害などで統治に不備があったとの理由で戦国大名の当主が隠居することさえあった。後北条氏の事例が有名だ。 >>762
それはない。ふつうによいやつもいるし悪いやつもいる、だけ。たいていは普通の範疇に入る程度。
まあ、たまには、どうしようもないやつだっているが >>779
信玄じゃなくて、江戸時代の人が妄想で作った与太話ではないかな
甲州流軍学の関係で。 >>781
だいたいは荘園の年貢
戦国時代ごろになると、それでも足りなくなって京都周辺に関所を作って賄ったらしい >>778
種子島はエポックメーキングであって、西国では個人で所有しているものはいたらしいけどね
あと、ソースは忘れたが応仁の乱で銃云々を使用したと書いてある文献があったはず 江戸時代、各藩、銃は何丁までとか制限があったのでしょうか?
城はかなりうるさかったようですが。 >>786
種子島銃かどうかは不明だけど、中国から何らかの火薬兵器を持ち込んだ可能性は
あるよな。
何せ倭寇が大活躍をしていた時代だからな。
当然明王朝の軍隊は倭寇相手に火薬兵器を使用していただろうし、
倭寇だって火薬兵器を捕獲していたと思うのだけどな。 元寇のときの「てつはう」のように全然違うものという可能性は? いわゆる1543年に種子島で購入した銃は当時東南アジアで乱造されていた銃で
翌年来航したときに持ち込まれたのが欧州製じゃなかったか? 軍記物『北条五代記』
昔、相州小田原に玉瀧坊と云て年寄りたる山伏有り。
愚老若き頃、其山臥物 語らせられしは、我関東より毎年大峯へのぼる。
享禄はじまる年、和泉の堺へ下りしに、あらけなく鳴物の声する、
是は何事ぞやと問へば、鉄炮と云ふ物、唐国より永正七年(1510)に初めて渡りたると云て、目当とてうつ。
我是を見、扨も不思議奇特なる物かなとおもひ、此鉄炮を一挺買て、関東へ持て下り、屋形氏綱公へ進上す。 宮内庁が歴代天皇のDNA調査を拒んでいるというのは本当ですか? そもそも歴代天皇のDNAをどう取ってくるのか?
平安時代を含めても古代天皇の古墳は9割、間違ってるってされているのに。
世界遺産にされた応神天皇、仁徳天皇の古墳も、ぶっちゃけ誰の古墳か?分からないのに。 そういった誰か分からないのを特定するための調査すら拒んでいるのではないかと 安康天皇とか武烈天皇の陵墓は、ただの自然丘らしいしな。
専門家が見たら、古墳じゃない。
そんなとこから、どうやってDNAを取る? >>794
そういう意味では合ってるかもしれんが
宮内庁からしたら、定年まで揉め事は起こしたくないのだろ。
天皇陵の比定やり直しになったら、宮内庁の仕事が今の何倍にもなるしな。
そういう意味では、一番不敬な行為をやってるのは宮内庁という矛盾。 自分たちは王制を否定したくせに
隣国の皇室が羨ましくて仕方ないらしいからな 源氏物語について質問です。
世界最古の長編小説とされていますが、
それは世界的にされているのでしょうか?
日本がそう主張してるだけで外国では
別の小説が世界最古とされているのでしょうか? >>801
英雄物語や創世神話、建国神話などの自称・史実の話ではない、純然たるフィクションの物語としては最古に分類されるのでは? 古い時代に、神仏も怪異・変化も全く登場しない世俗の物語は珍しいな
ギルガメッシュもかなり世俗的なところがあるというが、不思議な力の英雄譚でもあるから 源氏物語にも怪異は出てるよね、
主題ではないだけで。
怪異が出てこないと言うと、枕草子とか徒然草あたりには出てない気がするけど、フィクションの物語ではなく随筆だしなあ
平家物語には怪異は出てたっけ?
太平記には出てたと思うけど 歴史物語はフィクションではなくて、一応、実録のつもりだろう 京から関東への道は東海道・中山道がありますが
どちらのほうが主要な扱いでしたか?
東海道のほうが栄えているイメージですが 斜め横を向いて立っている肖像画で、両側に2人一緒立っている構図をよく見かけるのはなぜ? >>810
個人の旅なら中山道が普通だったらしい
大名行列は名目上は軍事行動だが、こっちは東海道
物流は海路が主で陸路じゃないから、どっちでもないとも言えるが、部分的には東海道の宿と重なるとこもあるのかなあ? 荷物の量も影響するのでは
荷物が少ないならば距離が短いほう優先で、多いならば平地優先という感じで 距離が短いのも東海道で、平地が多いのも東海道
それでも中山道の利用は多かったという話なんだが 東海道は旅費が高かったので庶民は中仙道を使った、みたいな経済的事情を考えるべきかも 東海道は川止めに遭うと何日かかるかわからない
また、女は人足に肩車してもらって川を渡るというのもはばかられる
蓮台を頼むと四人ほど人足が必要で、金がかかる
また街道を外れてこっそりと自力で川を渡る男も居たが、女はそうは行かない
川渡しであやまって水をかぶったりしたときも女は大変だろう
こういう川渡しを忌避するところから、女の中山道選択が多かったのかも知れない 海に近い東海道は大きな河川が多く
すべての川に橋がかけられていなかったため
船か人夫に担いで渡ってもらうわけだが
人夫不足で河川で立ち往生することが多かった
参勤交代の大名行列が数多く通る東海道では
江戸に留め置いた大名の妻子がこっそり国許へ帰るのを防ぐため
関所で特に女性の人相改めが厳しかったと言われている 皇女和宮は旧暦10月20日、現在なら11月下旬に都を出て
1か月近くかけて江戸まで大行列で来てるがだいぶ寒い時期だな
江戸時代将軍の御台所は3代以降、皇族か摂家の姫と決まっていたが
(島津から嫁いだ茂姫、篤姫も一度近衛家の養女となり都に立ち寄ってから江戸入り)
御台所の嫁入り行列は東海道ではなく中山道が用いられていたらしい
主な理由は東海道の川止め
あと東海道は狼藉者が多くいるからというのだが
平地の多い東海道のほうが見晴らしがよく遠くから見渡せ物騒だったのかもしれない 義賊って実際に居たのでしょうか?
金持ちからしか奪わず、しかも傷つけず殺さず。
貧しい人に施しをする。
義賊は全て創作って説を聞いたことあります。 鼠小僧治郎吉は最初に捕まった時は初犯だと言い逃れして追放程度の軽い処罰で済んだ
そうしてしばらくは上方に身を潜めていたというから、旅には通行手形が要る、関所があると言っても抜け道はあったってことだ 次に捕まった時は、「俺ぁ覚えてるだけでも三千両以上は盗んだがそれを綺麗に使い果たしちまった
って事はだよ、カネを使った相手に施しをしてやったってことになりゃしないか」
と言ったかどうかは知りませんが、今度はお仕置きがハリツケ、獄門と決まりました
それでも寂しがっちゃぁ行けませんね
市中引き回しのときには今まで来たことのないような上質の絹のベベ
顔にはうっすら紅さえ差していたと言うんですから豪勢なものだ
これは市中引き回しという見世物では主人公があんまりみすぼらしい恰好じゃぁ、お上が見物人の反感を買っちまうからと言いますな
雨域屁泥亜にも書かれてるこってす 多くのレスありがとうございました
中山道の方が難路が多い印象でしたが
橋がないことでの川での足止めや旅費・雪などいろいろな事情で
東海道が優勢とは言い切れない状況なんですね
確かに当時の河川の渡河や途中海路もあった事情も大きそうです
というか河川で足止め食らうことが多いから宿場が発展した面もありそう え、いや、雪で妨げられるのは東海道ではなくて中山道でしょ そうですね、書き方ミスしました
浪士組(後の新選組)の面子の上洛は中山道でしたっけ
東海道はお伊勢参りの集客もありそう 浪士組に参集したのは、脱藩者、農民、ヤクザ、儒者など二百数十名
上洛にあたっては素性の知れない浪士であるため表街道(東海道)は行かせず、中山道の道行きとなり、十六日間の旅で京へ入った 中山道を中津川から馬籠、妻籠を経て南木曽駅まで20kmを歩いてヒーハーしたことがある
昔の人は30数kmから40kmは歩いたという、勘弁してほしい 長距離を歩くと、登りより降りの方がしんどかったりする。
歩きながらヌボーと「登り坂だから少し楽だな」と心の中でつぶやいている自分に気付くとなんだかやるせなくなってくる
つまり何を言いたいのかと言うと長距離歩くなら平地が一番! 古事記に出てくる高天原は朝鮮のことで、天孫降臨とは天皇家の祖先が朝鮮から渡ってきたことを指すんですか?
要するにニギギノミコトは朝鮮人だったのでしょうか? 元寇の折に「てつはう」なる火薬兵器が使用されたのはよく知られた話ですが、
その後どうして日本は火薬を大陸から取り入れなかったのでしょうか?
戦争はその後も鎌倉時代・室町時代を通じて起こっているのだから
現代人の感覚からしたら火薬を輸入して「てつはう」をつくり使用した方が
戦いを有利に進められそうなものなのにその形跡がありません
火薬はそれほど有望視されていなかったのでしょうか?
それとも元や明は火薬の輸出を許可しなかったのでしょうか? 新羅の初代王が東の海の向こうから来たと書いてあるけど日本人の王朝と思わないのと同じで、高天ヶ原を朝鮮半島とは思わないね >>833
火薬を輸入する金が足りなかったからかもね
当時の日本が対価として輸出できるものなんて、金属鉱石ぐらいしかないし >>833
ハンニバルは欧州に象を持ち込んだが誰も象を輸入して軍事利用しなかったように
一時的には効果があっても対処方法が分かってしまえば対応できた
日本の馬は去勢しないので気性が荒く、大きな音を出す火薬兵器は武士階級が嫌った
大陸側で高く売れる高品質の火薬をわざわざ船荷にして送り出す物好きな商人がおらず
日本に持ち込まれた火薬は品質が一定しなかった >>833
「現代人の感覚からしたら」とあるが、当時の人は現代人ではないからなぁ >>840
あの時代倭寇が大活躍をしていたし、
密貿易がかなり活発だからな。火薬兵器くらい手に入れようと思えば入手できた
はずだと思うのだけどな。 あの武器は何としても手に入れなければ、というほどの被害を被ったんだろうか
大きな音にはびっくりしただろうけど そもそも、戦国時代の鉄砲だって、統一の原動力になるほどの威力ではないと今では考えられているんだしな 馬韓も百済も満州にあった
卑弥呼は満鮮にいた
相対性理論はペテンである/無限小数は数ではない
上記の書籍の著者である安達 弘志という人が、数学板で一年以上0.999....=1ではない、と言って暴れて困ってるのですが、日本史板に常駐している可能性が出てきました
どのスレによく出没するとかご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただきたいです いや、鉄砲は数を揃えるのに大名が血道をあげたものだ
矢を射るよりも威力がある
しかし、大掛かりな投石器が必要だろう「てつはう」は、狙いをつけて放つものでもないし、導火線の使用では爆裂のタイミングもはかりにくい
「火薬」って名前も知らないようなものを研究して正体をつきとめ、侵略してくる相手国がら手に入れる困難さを打ち破るほどのものではなかったのだろう >>843
誰が「考えて」いるのか知らんけど
その「考え」では鉄砲の装備率がドンドン上がっているという
現実
を、どう説明しているのかな? 鉄砲が武器として有用だったこと、普及が進んでいったことは事実としておいといて、
その普及と統一へ向かったこととは別問題 そんな想念で総括していいなら
宗教が
商人たちが
平和を望む民衆の声が
統一へと導いたのだとも言えるわな
つまりは、その程度の「考え」であるわけだ 単発式で、1発射つ度に弾をこめる必要がある
弾込めの際には移動をすることができない上に無防備になる
だから前進しながら使うには不利で拠点防衛に向いた武器。
人数差があれば攻撃時にも有効だが、それだけの人数差があれば鉄砲なしでも勝てる。
そういう性質を考えれば、鉄砲の多寡が戦況を左右するとは言えども、双方が鉄砲を持つなら鉄砲の普及はむしろ統一を妨げる要因だったのではないかな
それに、威力は大きいけど当時の鉄砲は弾丸の形状などの都合で命中しにくい
実質的な射程は10メートルほど、名人と呼ばれる人は槍が届くほどの距離まで我慢して、できるだけ引き付けて射つものだった
いまの拳銃だって射程は長くない(離れると当たりにくい)けど、それ以上に当たらないからな
小銃、ライフル銃とは違うんだ。 現代の銃器のようにはそりゃ行かないわ、当然
当時、どうだったかということ
銃が登場してからは、刀傷にくらべて銃創が非常に多くなった
それ以前でも白兵戦での刀傷よりちょっと離れて戦う槍や弓矢による傷が多かった
素人同然の足軽どもだとそんなものだ
時代は下るが、剣に自信の新選組も戊辰戦争では刀の出番はないとしてすっかり銃隊に変わってしまって戦った
西南戦争で薩摩っぽが刀で斬り込みをかけると百姓兵はそりゃたまげてしまったが、政府軍はやはり武士出身の警官隊の斬りこみで対抗した
何べんか戦闘を交えると百姓兵も慣れて随分落ち着いて射撃したという 日清、日露以降でも日本の兵隊は白兵戦に弱いというのが定評だった 信長の比叡山焼き討ちは他の人たちから反感持たれなかったのか
反感の声を弾圧できるほど強大な権力を持っているから関係なかったのか 人名に、「隼人」「蝦夷」「高麗」「新羅」はあるのに、なんで「熊襲」は無いの? 熊襲タケルはいる
というのはおいといて
過去に滅んだ古い部族の名前だからじゃないか?隼人は別にして(これは律令の官制に使われてる名前でもあるから、そちら経由で人名になってる可能性も)
ほかは部族が現役だった時代にしか名前になってないのでは? しもた
新羅と高麗は神社名になってから、そちら経由で人名になってるから、これもリアルタイムじゃないな >>840
国家中枢が遊牧民とオアシス都市商人で国策からして重商主義のモンゴル帝国には概念は有るかもしれんけど、
貢納を許すとかいってるお公家さんや、欲しいものは力づくで奪うのお武家さんやらが国家運営していた鎌倉時代に、
公的な貿易とか有ったんかいな? そもそも貿易の概念が理解できず、モンゴルの国書を無視して施設の首を刎ねたんだろ >>842
弓矢だとよっぽど訓練しないと射程も命中率も上がらんけど、鉄砲だと簡単だからな。
ほら、平家物語の屋島合戦のくだり、源義経が海に落とした弓を必死になって回収する段があるだろ。
源氏の総大将がこんなに弱い弓を使っていたと知られては侮られてしまうと。
寺育ちの義経はまっとうに弓が弾けなかったんだよ。弱い弓で形だけ引いて見せていただけ。
この直後が、扇の的、な。
そういう挑発には大将水から出張ってきて恰好いいところを見せるものだが、自分ではロクに引けない義経は、那須与一を召し出して、射させる。
見事中って大喝采、平家方の老兵が船べりで舞を一さし。これは、与一ageで、相対的に、義経をdisってるわけ。
これも自ら射殺すのではなく、与一に射殺させて、「情無し」とか言われてるのよ。 >>857
球形の弾丸が回転もつけられずに飛び出す銃はナックルボールみたいなもんで空気抵抗が大きくてすぐ減速するし弾道は安定しない
だから、名人と呼ばれる人は敵を引き付けてから、槍が届きそうな距離まで引き付けて射つものだとまで言われていた
弓より届く距離は長いが、威力の減衰が大きいことや弾道の揺れが大きいことから、乱射用としてはともかく、狙い撃ちできるのは至近距離だけ。
それに、移動しながら射つことが困難だったから、拠点防衛か城を包囲して攻撃するときぐらいしか使えないし。
有用さを過信してはいけないよ 弾の回転は勝手に付くもので、なかなかナックルボールのように飛んでゆくものでもない
ただ、回転によって野球の変化球のようにまっすぐ飛ばないという問題が起きて、離れると命中率が落ちるということは起きる
当たれば威力そのものは離れていてもたいしたものである
現代の銃弾のような形のものはライフリングにより回転方向を制御しているからまっすぐ飛んでゆくが、ライフリングがなければ手裏剣のような回転をしてしまう
どんな回転をするかわからないから、昔の弾は球状でなければならなかった
それでもとにかく、戦国期の日本は世界一と言ってもいい銃大国となった
当時の人が頼りにしていたのは確かだ 昔は一人前になること、現代でいうなら成人になることを「元服」といい、
現代の成人式のように「元服式」が行われていました
この「元服」という言い方がなくなったのは何時頃からですか?
また、なぜなくなったのでしょうか? 昔は一人前になること、現代でいうなら成人になることを「元服」といい、
現代の成人式のように「元服式」が行われていました
この「元服」という言い方がなくなったのは何時頃からですか?
また、なぜなくなったのでしょうか? 元服は武士限定だったのですか?
だとしたら、明治の四民平等でなくなった? 藤井寺市にある辛国神社は、もとは韓国神社で、韓国と言う人が関係してるみたいですが、
一応、古代に韓国に派遣されたから、韓国って名前みたいですが、自分は渡来系の人じゃないか?って思ってますが、いかがでしょうか? その頃には韓国という呼び名はなかったはず
三韓という呼び名はあったけども。
カラクニとはいうが、カラ(韓)のどこかの国にいったという意味では?
カヤ国(後の時代に任那と呼ばれた地域に存在した国)あたりだろうか
その地域は六世紀初頭に百済に占領支配されてるけどね 大国主など出雲系と言われている神々は倭人
それを征服した(天孫降臨)高天の原の神々は朝鮮人 高天ヶ原が半島にあったなら、黄泉の国も半島なのかな 黄泉の国は、横穴式石室だって説を聞いたが
イザナギがイザナミを見て、びっくりして逃げて岩で穴を塞ぐのが、横穴式にそっくりらしい。 >>871
竪穴式だったら、墓に入って腰を抜かしても外に出るのは難しいからな。 >>871
雰囲気的にはそれっぽいんだけど、ギリシャ神話にも似たシチュエーションがあるんだよねえ 質問です。
16世紀後半(もしくはその近辺の時代)における、農村の花嫁衣装に関する資料を探しています。
主に意匠、色彩、素材、所有形態などについて知りたいです。
よろしくお願いいたします。 >>850
逆じゃないの?
賊軍方が武士、政府方が戊辰戦争のときに農商工民かき集めてそのまま雇い入れた兵員や警官ではないんかい?
上士の割合なら他藩とさして変わらないけれど、郷士・地侍まで含めてると薩摩藩は3分の1とか4割とかが武装身分だったんだし。 >>859
戦争の際の弓矢だって、雨のように矢を降らせる弾幕戦術の武器で、
矢羽根矢筈に彩色をして一々射々狙い撃ちで獲った敵兵の屍を戦奉行が誰の矢が致命傷か検分する
というようなのは割と特殊なんだけれどね。 ゲーム信長の野望で選びたい武将がわかりません
部下にも慕われる人格者で、ホモとかでない人間的に尊敬できる武将を教えてください
歴史的に負けたとか失脚したとかは問いません
そういうのいないとかなら、消去法でマシな武将でも構いません 男色は武士のたしなみだが、ホモの武将では困るのか
それを選ぶと男同士の性愛場面をこなさなければゲームが進まないことでもあるのか
なければ、どうでもいいだろう 西国のほうが男色が盛んだから東北地方の大名(一部除く)を選べばええ 蘆名や大崎とか東北も男色大名普通にいるし
切支丹なら男色禁止してなかったか 戦闘が終わったら上から下まで全員がズボズボしてたんだろうか…… 基督教や回教では同性愛は犯せば地獄へ落ちる罪、日本では特にそういうこともないから、やりたい者はやってたんじゃないのかな
女が居ない戦場や寺では自然と男同士で愛撫や相互シゴキや肛門性交など好きなことをやって快感を得ていたのだろう
戦に勝てば占領地での女漁りも当然の権利としてやっていたが 男同士で撫でまわし、舐めまわすような親密な関係になれば、主従の忠誠、家臣団の団結にもプラスになることだし ローマ帝国も、キリスト教が広まる前はそんな感じだったらしいな。 日本では、おねぇは話が面白いというのでTVに進出しているが、西欧では考えられないことだそうだ アメリカドラマでは必ずゲイを最低1人は入れなければならない義務になっとるのに
西欧は遅れているのか ポリコレでドラマの端役もらってるのと、実力でトーク番組のMC張ってるのとでは話の方向がちょっと違うような気もするけど 中曽根元首相は大勲位でした
時代が違うから単純比較は難しいとは思いますが、
中曽根元首相の大勲位というのは
平安貴族や武士の世界において、
どのくらいの地位だったのでしょうか?
歴史上の著名人で例えるとどんな感じですか? >>882
最初期の倭寇は日本人が主体だったが、時期が下るにつけて
現地人のなりすましが主流になる。
(あの時代から日本人に成りすましていたのだなww)
バイキングはなりすましはあまり聞いたことがない。
(ただしバイキングの構成民族は思ったより多様で、アジア系の人すらいたらしい)
あとバイキングは他所の土地に移住したり、制服もしたり、土地を分け与えられたり
したけど、倭寇は中国側の資料によると日本人は日本がすぐに恋しくなって
いつの間にかいなくなってしまうのだそうだ。 >>897
遊牧民だって、何々族と呼ばれてるけど遺伝的には多民族の混成が普通だったようだし、むしろ多民族構成になる方が当たり前ではないかと
倭冦については、後期倭冦だけでなく前期倭冦も7割方は現地周辺の民族が占めてたようだぞ、つまり、後から増えたのではない モンゴル民族が生まれたのは12世紀のチンギスハーンが遊牧民をまとめてからで
それまでは多雑な集団で民族意識は無かった。 >>896
律令制のなかに、こういった勲章のシステムがないから比較しにくいけど、人数的に考えて正一位相当の価値があるとは考えられないね
二位近辺か、ひょっとしたら正三位ぐらいかも? 倭寇は歴史の授業で少し触れるだけで、歴史ドラマや歴史番組の題材として取り上げられることはないよね。
やはり日本人にとって隠したい歴史なのかな。 別に隠したいわけではなくて、興味がないだけじゃないかなあ
むかし、空海の映画に倭冦も描写されてた気はするけど、映画自体が面白くなくて不人気だったね
倭冦が出たことじゃなくて、基本となるストーリーが糞だった 平安時代の日本では、新羅、高麗、刀伊(東夷)などの海賊船による襲撃、略奪を数十回受けている
刀伊の入寇では壱岐・対馬など大変な殺戮・拉致の被害を受けたが、学校でも詳しくは習わない ヴァイキングみたいに倭寇が体制側に残れば記録が残ったんだろうが
基本的には賊の記録は体制側からしか残らんよね そもそも倭冦の根拠地は日本じゃなかったから、日本の記録に残りようがない
まあ、16世紀半ば近くなった頃にちゅうごくにあった根拠地が壊滅してからは日本に根拠地をうつしたと言われてるけど、それ以後は長くは栄えてないしな
根拠地の移動の関係で種子島に鉄砲を持ち込んだとかだっけ? 徳川家が大坂の陣で豊臣をほろぼした後秀吉の神号「豊国大明神」をはく奪したわけですが、
これはどういう論理・大義名分でおこなわれたか知っている費いますか?
普通に考えれば豊臣秀吉自身には何の咎もないわけだから神号はく奪は筋が通らないと
思うのですが… >>902
空海も阿倍仲麻呂も何の必然性もなく登場し、「猫、怖いよね」という話だけが滔々と続けられたやつ? >>901
戦国期の島津一族や立花宗茂は絶対に大河ドラマでは
やらないだろうな。
あの民族や特殊な人がかかわると報道や放送が途端におかしくなる。 >>908
島津は沖縄?
立花は分からない。
無知ですまん 加害者としての歴史はできるだけ無いことにしたいんだよね >>910
音なりの国でも同じように(というより、日本より以上に)隠してますもんね 李舜臣に完敗した歴史なんて恥ずかしくて知られたくないよね 李舜臣
朝鮮征伐における朝鮮側の代表的な将。
戦争期間全般において日本軍から逃げ回り、日本の水上補給を一度も停滞・妨害できなかったことで広く知られている。
戦争に全く影響しない一時的な優勢を局所的に得たことで一部勢力から誉めそやされるのは
朝鮮には語るに足りる将が一人も存在しないからである
李舜臣ごときを褒めねばならない事が逆説的に朝鮮軍人の無能を広く世に知らしめている。 ええ?
いちおうは、ゲリラ戦のハシリみたいな戦いをしてたんでしょ
当時の戦争にゲリラ戦なんてないけどさ 上級の武士ってやたら養女があるけれど、どうしてなん?
よその殿様の娘を預かって、別の殿様のところにお輿入れさせてるけど、何か意味あるの?
それとも、飽きた側室をよそに回してるの? 娘を嫁に出すという体裁によって、側近も一緒につれていくわけですよね
それは、今でいう大使館みたいなもの、貴重な外交窓口のひとつです 間違ってたら悪い。
聞いた話、当時は身分が重要だから、殿様が気に入っても身分が低いと輿入り出来ないから、ある程度高い身分の武士の養子になってから、輿入りしたって聞いた。
そうすると、一応高い身分の娘になる。 その通りです。家臣の娘を家康の養女として嫁に出したりする。 >>919
上級の武士ってどれくらいの身分を指しているのか(>>922は徳川家康のことだと言っているぞ)
他家の殿様の姫君を養女にして嫁に出すと言っているが、養親が上級の武士程度だと身分を低めることになるのだが
ここまで姫君しか登場していないのに急に側室が出てくるのはどういうことなのか >>875ですが、やはり農村の生活は解明されていないことが多いのでしょうか? >>921
側室なら別に輿入れする必要無いよね?
徳川吉宗の生母とか、徳川家綱の生母とか、百姓の家の出で城勤めの女中だったし。 >>925
民俗学か地域史の方面から調べるべきかと
ここに出入りしてる回答者の興味からはなれてて、既存研究の存在も知らないのでは
少なくとも僕は知らないけど、研究皆無ではないと思う >>927
上級の武士って殿様のことを言ってるの?
大名の娘を他家の「上級の武士(大名)」が養女にして、また別の大名家へ嫁がせるって‥なにそれ >>929
昔は子供がバタバタ死んでいたからな。
それに婚姻は外交関係として、今以上に重視されていたしな。
有力大名としては、子供は多ければ多いほど持ち駒が増えるのだけど、
子供はそれほどこちらの都合で増やせるものではなかったからな。
あとさぁ
こういったのはヤクザの杯外交と同じで、人間の婚姻ができないのであれば、
何でもいいから義兄弟の縁とか、師弟関係とか
とにかく関係を結んでしまうという発想になる。
特に中世の人は人と人との縁をかなり重要視したからな。
ただの勤め人同士のいさかいでも、上役が出て面子がどうのこうのと言って
殺し合いになった事例が多いしな。 >>925
衣服に関しては歴史学方面よりも服飾史方面から探した方が良いと思います。
全く興味のない分野なので知らないですが。そうした装束に興味をもって調べてるのは
デザインとか服飾関連の人でしょう。
天保くらいから後の衣服だと各地の歴史資料館がコレクションしてたりするんだけど。
それより前の物は残りにくいので。 博物館や地方の豪農の館みたいのが詳しそうだけど
特定の時代ってんは難しいかもね、後の時代からアップデートされるから 戦国時代、宣教師の記すところ
・ルイス・フロイス1565年書簡
通常一夫一婦であるが、たとえ子供が何人あろうとも甚だ軽微な理由によって家庭を去り、他の妻を迎え、夫人もまた夫を捨てて他に嫁す。
但し多くは夫からの離縁が多い。
離縁は王より農夫に至るまでしばしば行われ、すこしも怪しまれず。
こういう状態であったなら、細民の婚姻など極く簡便なものか、無きに等しいこともあったのかねぇ >>930
概算というか試算値で、生後一年以内の死亡率が(おそらく死産や流産を含めて)二割ちょい
そこを生き延びた子供が七歳までに二割弱ぐらい
0.8*0.8で、三割半ぐらい、1/3以上が死ぬ感じらしいね
その他にも、飢饉やら疫病やら戦争で死ぬこともあった、といっても、疫病は町で流行るもので農村部では珍しかったらしいけど
飢饉のときは子供の死亡率も当然増えるので、半分ぐらいとかのこともあり得たかもな >>933
そもそも、むかしは婚姻より葬儀のほうが盛大だったと言われているし 昔のほうが離婚が簡単だったんだね
昔に生まれたかった フロイスはまた、日本では婦人がひとりで旅をすると驚きをもって書き記している
女の一人旅はあやうい
実際、男に襲われることもあったが、あまり気に留めることなくまた旅を続けたとある >875
詳細が一切分からないからピンポイントで知りたい事が書かれてあるのか保障はしないけど
本居宣長『玉勝間』
特定の地域における染織品のアウトラインなら
荒木健也『日本の染織品 -歴史から技法まで-』 >>934
あの時代は武家や貴族の子供も20まで生きるほうが珍しかったみたいだからな。
貧民よりは多少マシな程度というだけでさぁ。
信長の兄弟なんか、10人近くいるそうだけど、天寿を全うできたのは1人か
2人程度だろう? >>924
919はお豪とかそのクラスのこと言ってるのかな
例がゼロではないけど… 近現代史になりますが、日本の街宣右翼について質問です。
本日、こんなニュースが出てます
生活保護費1300万円詐取 右翼団体会長と韓国籍の妻逮捕 街宣右翼ってやっぱり・・・
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1607246900
https://www.fnn.jp/articles/-/116062
街宣右翼のこの夫婦は実は在日だったという事で、これまでの5chで言われてた
都市伝説(街宣右翼の大半が在日)が真実であった事を示すものですが、
朝鮮人が日本の右翼を気取って街宣するという不思議な現象に至った経緯には、
GHQの占領政策などが絡んでいるのでしょうか?
であればどういう対日本のスキームがあったのでしょうか? 身過ぎ世過ぎのために右翼を騙るにしても、自分の国に誇りの一片もあればできないことだ
併合以来、半島人が日本名を使ってきたのも誇りがないからだ
以前は、朝鮮人と違って中国人は日本名を使うようなことはないと言われてきたが、近頃は日本名を使う在留中国人が多くなってきている
誇りとかなんとかいうものよりも成りすまして甘い汁を吸おうという実利が勝っているのだろう 日本の国籍を得たのだから日本人としての誇りを持つのは良いことではないか
そう思ってもらうのは日本側としても誇らしいことだろう 日本書紀は年間誌で
古事記は月刊誌だった
という認識でOK?
(´・ω・`) それは知らんが
古事記は国内向け
日本書紀は中国、朝鮮向けの広報誌なのは間違いなし >>929
たとえば
小出英常(従五位下2万石)娘→井伊直幸(正四位上23万石)養女 - 立花鑑門(従四位下10万石継嗣)継室
谷衛憑(従五位下1万石)娘→有馬則維(従四位下21万石)養女→佐竹義堅(従四位下20万石継嗣)正室 初心者質問のスレだから、うるさいこと言わないの
まあ、あの文面では回答が的はずれになるのも仕方ないと思うけども 登呂遺跡には何故、
トイレが無いの?
(´・ω・`) 登呂博物館って言うくらいなんだからトイレくらいあるだろ 今、登呂遺跡の話してるって、ひょっとしてYouTube高校見てる? >>950
大名は武士じゃないの? それとも武士だけれど上級ではないの? 登呂遺跡は昭和のころは定番だったのだけどな。
今は吉野ケ里遺跡にお株を奪われたなww
マジで登呂遺跡は今でも観光客が入っているの? 神社の形が出来上がったのはいつでしょうか?
鳥居とか、手を洗う所、拝殿、参道、石階段とか、一通りです。
アニミズムみたいな時代のことでは無く、今みたいな、一通り形態が揃ったのはいつでしょうか?
江戸時代辺りから? >>955
江戸時代でも今とはそれなりに違ってそう
完成はたぶん明治 国家神道あたりで統一されたんですかね。
結構最近ですね。
あれだけ同一の基準での建築構造してるのが不思議でした。 江戸時代までは神仏習合だったから、ご神体が仏像の神社があったりお経をご神体にしてる神社があったりもした
僧侶が神職をつとめてる神社もあった
神様が菩薩号を持ってることもあった
そういうのが廃止されて今みたくなったのは明治初期かな 古代で言えば
物部氏も廃仏派って日本書紀に書いてあったから
廃仏なんだろうって信じられていたけど
八尾市の物部守屋の館跡を発掘したら仏教寺院の形跡が見つかったから、蘇我氏との権力争いで滅ぼされたのを、宗教紛争に書き換えられた説が有力なんだよな。
物部氏ですら、実は神仏習合だったというオチ。
日本人は昔から宗教はいい加減。 >>958
明治になって「教派神道」という、まあ乱暴に言えば神道ベースの新興宗教的な
モノが現れまして。新興宗教っていうと叱られるかな。その後、あれこれあって
「神社神道」という神道の形態ができあがります。
この段階で「神社」を中心に神職がいて、氏子がいて、という今の組織図が完成します。
また、神社の社殿ですが、仏教の影響が極めて強いです。この辺も神社神道が確立
された当たりから当たり前になったものかと。
なので>>958さんの仰る「神社の形」は、この「神社神道」形成期と考えて大間違い
ではないと思います。
ちなみに、旧「一宮」は独自の建築様式を持っている神社もあります。 >>963
ありがとうございます。
勉強になります。
やはり明治くらいからの構造なんですね。 >>963
神社のもとになったのは、御先祖様のお墓を祀った説を聞いたのですが
いかがでしょう?
実際に古墳を御神体に持ってる神社があちこちにありますし。 ご先祖様のお墓も神様にしちゃったがホントのとこだと思う 貝塚資料館って
貝料理食べれるの?
(´・ω・`) >>959
そりゃあ、「藩」なんてのが公文書に出てくるのはそれこそ廃藩置県の直前だけれど、大名の完成が明治って!? >>962
大阪の四天王寺って、物部守屋の上屋敷の跡地だよ。
丁未政変で召し上げた物部守屋の屋敷の地面に、いやがらせのように、寺建てたんだよ
蜷川新右衛門親当は子孫なのに、一休さんにほだされて坊主になったよ。寺社奉行はやってない。 >>969
あれ、アンカー間違ってたわ
大名じゃなくて神社のかたちの完成が明治と書こうとした >>971
そりゃ、自社奉行は江戸幕府にしかないだろ
室町時代には、なかったはず >>971
大阪八尾市にも守屋の屋敷があって、そこから仏教寺院の瓦とか出てきたって聞いたよ。 兵士達は戦場で略奪・強姦しまくったあと、何食わぬ顔して家族のいる自宅に戻ったのですか?
それともそういう狼藉を働くのは独身ばかりだったのでしょうか? >>973
強姦は知らんけど略奪はみんなやってたでしょ、独身に限らず。 ゴウカン、リャクダツ、サツジンは昔は娯楽だったろう。
今の価値観とは違う。 >>979
だが、戦場では略奪も強姦も、敵に反撃されて殺されるリスクと紙一重だぞ 強姦などの性事情はほぼ記録に残らんからな
略奪は何日間許可されたみたいなのがあるが 室町幕府第4代将軍義持は室町幕府の権威が揺るぎない安定した時代なのになんで一般知名度が低いんだろ チンギスは略奪、強姦でスキが出来るから、戦闘中は厳禁にして、戦闘後に公平に分配することで、最強の軍隊を作ったからな。 >>960
もう見てないかもしれませんが
「鶴岡八幡宮 江戸時代」でググって出る画像を見ると基本パーツはそろってますね
鶴岡八幡宮は寺とも言えますが、その画像を見ると仏教的建物はたくさんある(神仏分離で撤去)ものの
中心部は神社です
宇治上神社が本殿・拝殿の下限になるかと思います
伊勢神宮は平安初期の文献がありますが、とにかく拝殿がないんで、基本パーツそろうとは言いにくいです もし足利義昭が自分を征夷大将軍にしてくれた恩人の織田信長に逆らわずに傀儡に徹していたら室町幕府は信長の時代に滅亡せずに済みましたか? いせじんぐうだと、時代と共にどう社殿・境内が拡充されたかを解説してる本さえ市販されてるし、分かりやすいかもね
江戸時代でも、内宮の境内は今よりずいぶんと狭い感じ >>987
そんな人が還俗して将軍になったるでとは思わないのでは
足利家最後の一人というわけでもないし >>987
意外と信長は朝廷みたいに、形だけの幕府を認めていたと思う。
そのうえで朝廷も幕府も超えた存在になっていたのではないかな?
文字通り現人神として君臨していたのではないかな?
信長は尾張時代には形だけの斯波氏の守護職を桶狭間の直前くらいまで、
それなりに尊重していたし、のちの徳川幕府だって足利家の子孫が模擬幕府みたいなものを
作っているのを黙認していただろう? 眞子さん小室K問題のいざこざは後世、かつての宮中某重大事件と同じような
トピックになると思いますか?そこまでの事案ではないですか? なる訳ない。
そもそも万世一系なんか何度も途切れてるし、女性天皇だって古代から何人もいる。 古代天皇知らんのか?
欠史8代って聞いたことない?
王朝交代知らんの? 秋篠宮殿下の廃太弟運動へつながればトピックになるかも 女性天皇いても女系天皇は認めない今の路線なら特に問題にならんでしょ >>991
道鏡みたいに現職の女帝と問題になったなら別だが、一介の皇族だから、インパクトは大きく劣るよね
もっと大きな事案が歴史上いくらでもあるよ >>991
みんな皇室、天皇家、天皇制、天皇が大好きだから
長く語り継がれるのは間違いない。
すでに誰かが指摘しているが、この程度の不祥事で天皇制がつぶれる
はずもないのだけどな。
それこそこの程度の不祥事なんて、長い天皇家の歴史ではありふれたこと
だからなww
つぶれるとしたら、子孫が何らかの拍子で途絶えるときだろうて。 >>974
そっちは下屋敷だな。領地経営の屋敷。
それとは別にお召しがあるときに滞在する難波京の上屋敷が四天王寺のあたり。 このスレッドは1000を超えました。
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