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邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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0001九州王
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2020/09/30(水) 15:05:51.45
前スレhttp://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1591674558/-100
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。
0708日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 21:03:03.28
タケミナカタの長男は、建御名方彦神別命、と伝わっています。

ヒコ(魏志倭人伝だと卑狗)がついているので、70年以前に既に成人していて、
北部九州倭国にて官職を得ていたわけですね。

母がワニ族で、
父が建御名方。

建は、将軍として出陣した、の意味ですから、
父と同じ部隊を率いて、出陣したことのある、北部九州に所領を持っていた、人物、
ということになります。

母の出自を考えると、一部で言われている、タケミナカタ=建+ムナカタ
なのかもしれません。

東方(大阪湾)か、北方(半島)かはわかりませんが、
少なくとも初陣を飾って、人生これから、というところで、70年を迎えてしまったのでしょう。
0709日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 21:04:03.33
タケミナカタの次男は、出早雄命(いずはやお)、と伝わっています。

別名は、伊豆早雄命、あるいは、イスハイ。(諫早と似ていますね)
また兄妹の出早ヒメは、伊都速比売命とも書くそうです。

タケミナカタの母親、沼河ヒメは貝輪一族で、
その重要拠点が、貝輪が多数出土して、木棺墓女性指導者を擁する、
沼河=土井ヶ浜遺跡や、長崎県、ですね。

出、伊豆、伊耶、伊那、と考えれば、
出早雄命は本来は長崎県を領有していくはずだった若者。
70年にタケミナカタと共に諏訪に逃れた。
銅戈ニギハヤヒ軍に侵攻されて、追われて追われて伊豆で降伏した。

出、伊豆、伊都、を重視するなら、
出早雄命は対馬海峡航路を取り仕切っていく予定だった若者。
あとは同上。
0710日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 21:05:02.36
以上の二人のどちらかが、金印を秘匿して長崎に残って、
その嫡流が難升米ということになりますね。

本来なら、日本統一につれて滅ぼされる運命だったのですが、数奇な流れで踏みとどまります。

・諏訪タケミナカタが降伏した頃に、北部九州でカモが失脚した。>>99
・倭国乱が発生した
・倭国乱に乗じて、狗奴国勃興した。>>689

・狗奴国王が、曹操から例の鉄鏡を貰った
・後漢が滅亡した(220)ので、漢委奴國王金印が失効し、鉄鏡を持つ狗奴国王が難升米父&金印を軽視し始めた
・難升米は狗奴国王と袂を分かち、卑弥呼側に寝返った。>>702
・難升米が活躍して、親魏倭王金印や銀印を得た

・卑弥呼死去→狗奴国が攻めてきて難升米討ち死に
・次の男王は親卑弥呼の拘奴國を攻め滅ぼしたが国内動揺
・地方勢力のタケミナカタ勢はそのまますんなりと邪馬台国版図に収まった

ちなみに、例の鉄鏡も、曹操魏が265年に滅亡したら失効するので、
景行の九州制圧や、ヤマトタケルの東方捜索旅も、理論的には、265年までの出来事になります。
0711日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 21:16:01.28
なんで諏訪にタケミナカタの母なる沼河の名前が無いかというと、
タケミナカタと、その兄の建沼河男命が、超仲悪かったからですね。

おそらくタケミナカタは、敗走途中に建沼河男命も一緒に逃げるか、
せめてどこか山中に身を隠すよう説得したでしょうが、
頑固な建沼河男命は
「やかましい!金印なんぞ知らん!
 私にやましい事なんぞないのん、なんで逃げないといかんのだ!」
と逆に烈火の如く怒鳴って追い出したことでしょう。

奴国王と、沼河ヒメの子で、田舎お坊ちゃん育ちの建沼河男命はおそらく、
現代の我々と似たような感覚の持ち主で、
>>358
半島出兵の際も、
「人様の土地に来て、人を殺すなんでとんでもない!」とのことで何もせず、
軍議の際はわけのわからない平和理想主義を唱えて、
大国主が鼻白んだのでしょうし、

当時は東で捕獲した毛人などは生口として奴隷扱いが当然の世界(これは世界基準でそうですね)
だったわけですが、
何かで送られてきた生口も、
「人間に上下などない!」と断言して、平等に扱い、
生口が亡くなった際は、
おそらく自分の息子か兄弟あたりの親族と一緒の墓に葬ったのではないでしょうか。

土井ヶ浜遺跡の出土状況からすると、そのように思われますね。
0712日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 21:19:35.88
大己貴命(大奴貴命)が、
八千矛神=中広形銅矛将軍=アマテラス配下の東征将軍スサノオ、として、
カモ族八上ヒメの整備した木俣=瀬戸内高地性集落群、を制圧した時代が、
荒魂ですね。

天神族ではないので、最高位の大王アマテラスにはなれず、
足利義満よろしく、後漢皇帝から金印を貰って、領土を安堵してもらったのが、
和魂ということになります。

海のかなたから、光り輝く金印がやってきて、
それを根拠にして、対馬海峡〜北部九州〜瀬戸内四国〜五斗長垣内遺跡、を治める。
そのための交易管理省庁が、大倭ですね。
長官が、大物主。

元々はアマテラスが日本海沿岸を支配していたわけで、
大倭・大物主の瀬戸内四国は新興開発地域に過ぎなかったわけですが、
次の銅戈ニギハヤヒ軍が畿内征服して、一大交易圏に化けて、
後の日本列島の産業中枢になっていきますから、
大倭支配権の争奪戦=倭国乱が勃発していくわけですね。
0713日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 21:19:50.46
初代大物主は、当然奴族として、
そもそも瀬戸内開発した八上ヒメの残した、木俣神(カモ
同じくカモ族の筆頭である、アジスキタカヒコネ
水軍大将で、海上を巡視して回っていたタケミナカタ
奴国王の最大のバックであったワニのコトシロヌシ

、と、どなたでもありえますね。
0714日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 21:21:11.91
以上が、70年タケミナカタが諏訪に持ち込んだであろう地名から考察できることですが、
また、ピンポイントでは、諏訪には大和や高木もあります。
後世にわざわざ別の読みだと断っていますが。

これらは地名ではなく、重要な役所名ですね。

大倭(おおやまと):交易専門の役所:後のS字甕の交易圏
高木(たかぎ):金印授与式の思い出の吉武高木宮殿

この辺りは、タケミナカタが、北部九州の制度を持ち込んだのでしょうね。
諏訪の大和あたりを本気で発掘したら、筑前町と同じく硯などが見つかるかもしれませんし、
高木あたりを発掘したら、大型建物があるかもしれませんね。
0715日本@名無史さん
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2021/08/08(日) 21:35:36.10
諏訪神氏には大祝という制度がありますね。

嫡子家督相続ではなく、
ダライ・ラマのように、神事にて後継者を決める方式。

女系で言うならば、山鹿貝塚・イザナミ神事の、骨取り神事による共立女王選択。
また、八坂刀売神の出身であるワニ族の城野遺跡には、
北部九州最大の方形周溝墓に男児が埋葬されており、
大祝との関連が示唆されます。

後の皇族にても、例の神託事件がありましたね。
0716日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 10:03:47.06
十月は神無月で、出雲だけ神有月ですね。
全国の神様が出雲に集まって、政策や縁組を話し合います。

弥生時代であれば、神様、つまり各地の豪族など支配層の集まりですね。
旧暦だと現在の11月の時期になりますから、
秋の収穫が終わって、米俵を作って、各地から持ち寄ってきた、ということになります。

古代出雲であれば、香椎〜宗像のエリアに集まったわけですね。
0717日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 10:03:57.97
現代まで神無月神有月が残っているということは、
暦に風習として残るだけの、長期間に渡ってその制度が続いていたわけですね。

ということは、70年までの数十年に過ぎなかった奴国王時代だけではなく、
その後の時代にも、数百年くらいは、古代出雲=宗像が有力だった時代があった、
ということになりますね。

古代豊国=古代出雲+古代伯耆は、カモ系女王が東へ追い出されて、
豊玉姫以降はずっとワニ系女王の国、となりますから、
要するにワニ系の安曇族が仕切っていた、ということになります。

沖ノ島の出土品が豪華な時代、というのがその時代に相当するのではないでしょうか。
0718日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 10:04:37.19
タケミナカタは集まることを免除されていますね。
これも、奴国王時代であれば、タケミナカタは古代出雲の現地にいたわけですが、
70年以降は、諏訪にいて、
当時の交通網では、あまりにも遠すぎて、往復だけで1年くらいかかったわけですね。

諏訪タケミナカタは銅戈軍に一度降伏していますし、
卑弥呼の次の男王以降は一地方豪族として倭国支配に組み込まれますから、
タケミナカタが、諏訪より奥の東国の支配を傀儡政権としてある程度任されて、
年貢をまとめ、万行遺跡に運び込む、
その代わり、北部九州までわざわざ来なくてもいい、
という時代があったのでしょう。
0719日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 12:19:15.65
>>718
古代出雲、豊国の安曇が支配していて、
諏訪タケミナカタがその配下に収まって東国経営していたのなら、
安曇野の地名に関しては、安曇の支配下に収まる時の命名かもしれませんね。
卑弥呼の次の男王が東国派兵した時でしょうか。
0720日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 13:01:25.48
過去スレで検討したとおり、銅鐸はごく最後の巨大なものを除いて、祭祀用ではなく、
環濠集落+銅鐸(Jアラート)の実用品ですね。
主にカモ族が東進するにあたって、
先住の人々と衝突するフロンティアに配備したわけです。

銅矛銅剣戦争で八上ヒメが降伏した時点(荒神谷遺跡)では、
大阪府と兵庫県を取り囲むように銅鐸が分布しており、
これらが被征服側の毛人に残された領域だったことになります。

中広形銅矛も淡路島五斗長垣内遺跡まで。
次の銅戈時代に畿内毛人は征服されますね。
0721日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 13:02:31.29
ちなみに、八上ヒメ時代のカモ銅鐸は、東は岐阜にも出土しています。

紀元前に琵琶湖沿岸の下之郷遺跡で戦って琵琶湖沿岸を制圧したカモ族が、
八上ヒメの時代(前1世紀〜0年前後)には、琵琶湖を足がかりに東は岐阜まで進出していた、
ということですね。

国譲りの際に、天若日子が亡くなった際。
天若日子の父の天津国玉と、天若日子の妻子は登場しますが、
天若日子の母は登場しませんね。

葬儀にやって来たアジスキタカヒコネは、天若日子の遺族から、天若日子本人に間違われます。
アジスキタカヒコネは怒って喪屋を斬り飛ばし、喪屋はまさに美濃国=岐阜へ飛んでいきますね。

アジスキタカヒコネは、カモであり、母の多紀理ヒメがカモ系の豊国女王。
天若日子の母もまた、多紀理ヒメだったのではないでしょうかね。
0722日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 13:04:26.40
伊都説だと、柏崎遺跡が笠沙の岬に比定されますから、
次代のコノハナサクヤヒメは末蘆王家の王女ですね。

オルドス式短剣が柏崎遺跡と琵琶湖の高島市から出土しています。
サルマタイ系のお抱え渡来工人がいて、
その頭領が高島市の熊野本遺跡に鉄工房を与えられていたわけですね。

要するに、天津国玉は末蘆王家の天神族であり、
カモ女王の多紀理ヒメを娶って、天若日子が産まれていた。
その多紀理ヒメを大国主が無理矢理奪い取った。

ニニギがコノハナサクヤにあのような嫌疑をかけたのは、
そのような時代背景があったから、ではないでしょうか。
0723日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 13:05:48.79
八上ヒメ時代の銅鐸分布から考えると、
銅矛銅剣戦争終結時に、カモの東方領土は、
琵琶湖を中心とする大山咋領域と、
瀬戸内四国の大山祇領域と、の二大領域があったわけですね。

中広形銅矛将軍は、カモの瀬戸内高地性集落群=木俣、を制圧して、
淡路島に五斗長垣内遺跡を建設した。

天神族系の末蘆王家は、カモと婚姻して琵琶湖方面の領地を保有していた、
その東端が美濃国だったし、
銅鐸が既に京都市にも入りこんでいた、ということになりますね。
0724日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 14:13:42.29
三遠式銅鐸は、諏訪に逃げ込んだタケミナカタ勢が配備した銅鐸ですね。

諏訪タケミナカタにとっては、愛知県と越後とを防備すれば、東国は守れます。

越後から攻め込まれる分には、侵攻できる山道が限られますので、
山城でしっかり防備して、いくつかの抜け道にだけ銅鐸を配備しておいた、ということでしょう。
越後からはあまり攻め込まれず、最後に銅戈軍の精鋭部隊が攻め込んできて制圧され、
長野に配備されていた三遠式銅鐸はまとめて柳沢遺跡に埋納されますね。

一方の愛知県では、三遠式銅鐸は、銅戈勢力側の近畿式銅鐸と対峙しています。

ちなみに、銅戈軍はニギハヤヒ(+カモ族)ですね。
金属製武器フル装備で、朱塗り盾に巴型銅器。
近畿式銅鐸はカモ銅鐸の最終進化形ということになります。

銅戈東征の当初は、まだ畿内に勇猛な毛人がいてがんばってくれてましたから、
銅戈軍はそちらに手一杯で、
愛知ではお互いに銅鐸を配備して一進一退でしたが、
毛人が次々に制圧されて、朝日遺跡に銅戈軍が進駐してくるころになると、
旗色が悪くなって、三遠式銅鐸側はだんだん捕縛されていきますね。
0725日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 14:13:50.34
三遠式銅鐸が東国にとっての防衛境界に綺麗に出現している。
ということは、
東国は既にある程度統一されていたことになります。

タケミナカタより先に、諏訪を支配していたと言われる、守矢氏などが、
東国をある程度まとめていた可能性が高くなります。
ただし、前方後方墳の建設などはもっと後の話ですし、
王権を示唆する遺物遺跡はありませんから、
王というよりは、各地の首長をまとめる長くらいの立場だったのでしょう。

琵琶湖からカモ族が領土拡張してきたことで、
畿内毛人と東国蝦夷は分断され、
いずれ滅亡する危険を感じて、社会的緊張が生まれ、
その緊張をもとに、本来はバラバラだった毛人や蝦夷が、それぞれまとまって集団防衛するようになったのでしょう。
0726日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 14:14:02.05
>>413
70年にタケミナカタが諏訪に逃げ込むわけですが、
その時のタケミナカタ軍は五斗長垣内遺跡を擁して、金属製武器フル装備ですから、
70年の時に守矢氏に勝利すること自体は可能でしょう。

しかし、すぐに追ってきたタケミカヅチ軍と対峙する必要があります。

追ってきたタケミカヅチに、逃げ込んだばかりのタケミナカタがすぐに負けた場合、
捕縛処刑されて、諏訪にタケミナカタの痕跡は残りませんね。
また、後に銅戈が攻め込んでいるということからも、
タケミナカタが降参したのは70年当時ではなく、ニギハヤヒ軍が整備されて、銅戈を使い始めてから、
ということになります。

よって、70年に逃げ込んだタケミナカタは一旦はタケミカヅチ軍を押し返したことになります。
諏訪での支配体制をある程度確立してから、後に銅戈軍に降伏した、ことになりますね。

と、いうことは、
タケミナカタ軍は、70年より前に、既に諏訪攻略に取りかかっていた、可能性が高いですね。
異伝では、大国主が諏訪を攻略するよう命じていた、とも言われています。
0727日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 14:14:50.44
>>362
59年頃から疫病があったけれども、なんとか持ち直した。
タケミナカタ軍が諏訪攻略に取りかかった。
諏訪攻略中に、70年奴国大洪水が起きた。
タケミナカタ不在の好機を逃さず、天神族が軍を出して奴国王が捕縛された。
大慌てで引き返してきたタケミナカタ水軍だったが、決戦に敗れた。
諏訪はある程度攻略済みだったので、諏訪に逃げ込んで防備を固めた。

これなら無理が無くなりますね。
0728日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 14:56:49.39
西からやって来た異人であるにも関わらず、
なぜにタケミナカタが東国蝦夷に支配者として支持され続けたかというと、
銅戈軍に征服された畿内毛人の運命が原因でしょうね。

銅戈軍に征服されると、畿内毛人のように生口にされる。

だからこそ、軍事経験豊かで、北部九州の進んだ制度をもたらしてくれる(>>714)、
タケミナカタを中心にして防衛したのでしょうね。
0729日本@名無史さん
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2021/08/09(月) 14:57:23.01
70年代に銅戈軍が発足したとして、
107年には160人もの生口を送っています。

庄内式土器は銅戈勢力の考案した海上輸送用の土器ですね。
積載重量を軽減するため薄手で、
揺れる舟にて、木組みに嵌めて固定するために尖り底になっています。

対照的に、諏訪箕輪(諏訪大倭三輪)は陸上輸送ですから、S字甕は平底ですね。
輸送途中で休みたい時に地面に置けますからね。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/09(月) 14:57:59.85
銅戈軍が諏訪を占領したのは、短期決戦ですね。

なぜかというと、柳沢遺跡で銅戈で勝利式典を行っているのに、
関東には石製祭祀型銅戈で貝輪を追いかけているからです。

長野での勝負があっさり決まったが、
タケミナカタ勢の大将(伊豆早雄命?)が関東へ逃げた。

銅戈軍の隊長は、
北部九州から追加の銅戈が到着するのを待ったり、
あるいは現地で青銅器を溶かして銅戈を作ったりする、
その時間も惜しんで、
すぐ長野から出陣して、関東で追いついて捕縛した。

事後に現地で石製祭祀型銅戈を作って勝利式典としたわけです。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/09(月) 14:59:22.53
経験豊富な軍神タケミナカタ本人が存命の間は、
銅戈軍が越後から攻め込もうとしても散々に打ち破られた。
だから銅戈軍は、まずは大阪湾上陸作戦に集中したわけですね。

しかし、
タケミナカタもいずれ亡くなり、
山育ちの息子たちだけになりますね。

さらに、青銅器鉄器の供給が断たれていますから、
金属製武器が枯渇していきます。
S字甕の分布と一致して出土する、多孔銅鏃というのは、
要するに、青銅器の原料が枯渇してきて、少しでも銅を節約するために、
孔あきの銅鏃を開発した、ということですね。

タケミナカタが亡くなった後に、
畿内毛人と戦って百戦錬磨となった銅戈部隊が、
金属製武器フル装備で諏訪に攻め込んできたら、
一たまりもなく占領されてしまった、ということでしょう。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/09(月) 15:01:36.27
時系列としては、
・70年にタケミナカタが諏訪に逃げ込む
・しばらくはタケミナカタ軍は強いので、銅戈軍は大阪湾上陸に専念する
・銅戈軍が畿内を制圧していく

・タケミナカタ死去、諏訪東国の金属器枯渇
・銅戈軍精鋭部隊が諏訪占領、諏訪大将を関東まで追いかけて捕縛
・東国は諏訪傀儡政権の下、銅戈軍の支配下に入る

・反乱予防、忠誠心の証、として、諏訪東国各地で前方後方墳を建設
・生口として北部九州へ大量連行され人口の減った畿内へ、東国から人員補充(庄内式土器の流れ)

蛇鈕金印だから蛇神と自称。
だから苦労して攻め込んだのに、
金印が諏訪に無い、と知った時の銅戈軍隊長の落胆は想像するに余りありますね。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/09(月) 18:25:54.79
長すぎるのと、想像で繋いでいる部分が多すぎて事実と区別されていない。
当たっている部分もあるかもしれないが、読む気が起きない。
もっと短くわかりやすい表現を心がけて欲しい。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/09(月) 19:18:22.22
中広形銅矛が大国主=奴国王で、57年金印を貰いました

奴国王は70年に失脚しましたが、金印はタケミナカタが持って逃げました

タケミナカタは諏訪に逃げ込んで、三遠式銅鐸を前線配備して徹底抗戦しました

銅戈ニギハヤヒ軍は、まず畿内を占領してから、次いで諏訪を占領しました

諏訪に金印は無く、実はタケミナカタの息子が持たされて長崎に隠れていました

難升米は長崎金印タケミナカタの子孫で、その父が狗奴国立ち上げに協力したのですが、
難升米は卑弥呼側へ寝返りました
0735日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/10(火) 00:40:06.37
魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした

だから当時の伊都で到着するのは吉武高木遺跡の宮殿でした

魏志倭人伝に書かれた日程は、238年金印の時のものです

当時の伊都で女王之所都は平原女王墓周辺に遷都していました
0736日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/11(水) 04:26:28.55
なんで金印が志賀島から出土したかというと、
>>707
一族の女系の祖は八坂刀売神でもあるからでしょうね。

そもそも金印などを持っていたから、八岐大蛇系のタケミナカタ一族は
200年も東西の辺境で耐え忍ぶこととなった。
一方のカモ系アジスキタカヒコネやワニ系コトシロヌシは一度は降伏しましたが、
それぞれ早期に中央政界に返り咲いています。
栄枯盛衰を悟った難升米あるいはその一族の方から進んで、
母方の縁がある豊国有力者アズミ族へ金印を献上して、身分保障してもらったのでしょう。

>>698
紀年銘鏡からすると、難升米としては、
238年朝貢、獲得した銅鏡職人が来倭
239年洛陽にて金印銀印授与が決定
240年魏使が来倭して授与式

(243年銀印・率善中郎将を伊聲耆掖邪拘へ譲渡=難升米の邪馬台国将軍就任が内定)
244年邪馬台国軍の将軍に着任
(245年難升米の将軍昇格を祝って黄幢授与)
(247年出陣>>696-697
0737日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/12(木) 23:35:14.54
1世紀初頭
・中広形銅矛将軍=奴国王と平形銅剣女王が夫婦喧嘩で全面戦争
・銅矛銅剣戦争の末期に奴国王が土井ヶ浜遺跡女首長を口説き落とす >>323>>341
・荒神谷遺跡で降伏調印式 >>398
・その頃に出生

1世紀前半
・半島出兵で活躍 >>358-359
・水軍大将に任ぜられ、対馬海峡〜雀居遺跡〜下関〜五斗長垣内遺跡を巡視して回る

55-56年:楽浪郡使を侏儒国(五斗長垣内遺跡・若杉山遺跡)へ案内
57年:倭の奴国王の使者として水軍を率いて奉貢朝賀(後漢書『使人自稱大夫』)

59年:疫病が大流行する
70年:奴国大洪水にて奴国王失脚、旧狩尾神社にて捕縛
70年:諏訪へ逃げ込む >>413

1世紀後半:三遠式銅鐸を前線配備して東国防衛

100年頃:死去
100年代:諏訪降伏 >>731
0738日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/12(木) 23:36:10.53
奴国王の息子には他の有力部族の縁者も多い中で、水軍大将に抜擢されるには、
半島出兵で相当の戦果をあげた、ということですね。
そうなると、当然そこに相応の領地を得ていたことでしょう。

筑摩はもともと「ちくま」ではなく、「つかま(豆加萬)」であった、とのことですし、
諏訪(周防)から見て、北西にある、
ということから、
半島南部の、つ(か)ま國=投馬國であった、可能性がありますね。

投馬國は、それぞれの時代にそこを所有していた一族にとっては、当然重要な領地であり、
諏訪に移動した一族は、投馬國→筑摩つかま、という地名をつけたし、
宮崎に移動した一族は、投馬國→都萬、という地名をつけたし、
ということでしょうね。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/12(木) 23:38:09.08
また、役所を設置しただけでなく、>>714
わざわざ箕輪という地名まで残していること。

銅矛銅剣戦争で言うならば、銅剣勢力は当時敗者であったこと、
下関に名を残していること、
などから、
勝者として瀬戸内を巡視していた、のでしょうから、

そうなると、瀬戸内経済圏を担当する大倭、の海運を管理していたことにもなり、
また金印を保持していた=管理していた、ことからも、

彼が、初代の大倭長官=大物主であった、可能性が高いですね。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/18(水) 16:04:25.46
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。


「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
 


ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!





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0741日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/19(木) 15:02:10.15
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日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出して
土壁の住居の時代に入っていた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では7000年前に高床式住居も登場するが、先行した木骨泥墻に
吸収されて5000年前までに消滅し、4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。





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0742日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 04:22:03.26
>>693
倭国の現地人である難升米が、司馬懿との対話において、
「伊邪國ではなくて、伊耶國ですよ。」と語ったわけですね。

ということは、
倭地の倭人たちは、や=邪ではなく、や=耶、と表記していたことを示しており、
魏志倭人伝に一か所しか記載されていない邪馬壹國の壹は臺の転写間違いとしたら、
倭人自身は、表音訓読では「耶馬臺國」と表記していたことになります。

それと、廣志に記された、>>671の部分は、
景初二年八月の時点で、難升米と司馬懿の共通知識だったことになり、
つまりは、「魏人が来倭する以前から存在する文字情報」だった。

>>735
>魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした
>だから当時の伊都で到着するのは吉武高木遺跡の宮殿でした
だった可能性が高い、
ということになります。
また明帝の詔書には、倭王と書かれて、邪馬壹國が出てきませんから、
倭国 わ 音読み
耶馬臺國 やまと 訓読み
ですね。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:50:15.30
>当時はまだ
なるほど。
考古学の成果が上がっているのだから、それを取り入れなければですね。

斯馬國の御床松原遺跡など、北部九州では紀元前の硯がどんどん見つかっています。
そして57年金印を貰った=外交文書で外交した。
木簡で長文を書いた痕跡である、細かいキズだらけの案も出土。
木簡での書き損じを削るための、弥生時代の消しゴム=金属製刀子も出土。

遅くとも後一世紀。
早ければ前二世紀くらいには、北部九州の知識層は文字を使用していた。
ということですね。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:50:46.11
魏志倭人伝が初出で、魏略にすら記載されていない「邪馬壹國」というのは、
魏人の張政が充てた当て字でしょうから、ちょっと横に置いておきましょう。

漢魏人にとっては、倭国=わ国、であって、
倭人本人から、やまと国と聞いた漢魏人が、それに対して充てた当て字ですね。

倭面土國 107年 倭国王師升の謁見場にいた後漢の記録係
邪馬臺國 247年 来倭した魏の張政
が、それぞれ倭人から「やまと」という音を聞いて、それを表音で記したわけですね。

倭國 わ 音読み
倭面土國・邪馬臺國 やまと 訓読み
0746日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:51:03.94
考古学出土物から、
北部九州倭人は紀元前から文字(漢字)を使用していた可能性が高いわけです。

伊都説であれば、
三雲南小路1号2号がニニギとコノハナサクヤであり、
糸島平野が筑紫の日向。

そこから逆算すると、
吉武高木大王がアマテラスで、早良平野が高天ヶ原。

神代=北部九州倭国の時代ということになり、
伊邪那岐・伊邪那美は、紀元前から漢字で記録されていたことになります。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:52:09.41
伊邪那岐 伊耶那岐 イザナギ
伊邪那美 伊耶那美 イザナミ

前漢の武帝が楽浪郡を設置したのが前108年で、
楽浪土器の出土からして、楽浪郡使が伊都など北部九州倭国に常駐し始めたのは
ようやく0年前後からでしょうから、
紀元前に伊邪那岐・伊邪那美を木簡竹簡に記した倭人は、
漢字は知っていたかもしれませんが、
目の前に大陸の漢人はまずおらず、楽浪人が不定期にいたかどうか、という状況だったわけです。

つまり、一昔前の日本人の英語と同じで、
読み書きは非常に優秀だったが、
会話はダメダメだったわけです。

主要な漢字の音読み(漢読み)は知っていても、
本場での発音があやふやな漢字も沢山あったのですね。

ですから、>>742
邪=耶=や、ではなく、
邪=耶=ざ、として使用していたわけですね。

後の我々などは、漢字に「訓読み」などを充てて、
全く異なる読みで使用しているわけですから、
それに比べればかわいいものです。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:52:20.83
そう考えると、
伊邪國=伊耶國=いざ國、ということになります。

伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

見事に繋がりますね。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:53:56.18
佐賀県の県の木も県の花も楠(クスノキ)ですね。

防虫効果のあるクスノキは、古代から重宝された木で、
舟の材料にもなりましたし、
樟脳の材料として、絹布の保存にも用いられてきました。

クスノキがある→絹布を維持できる→絹布で銅鏡など青銅器を綺麗に磨いて品質管理できる
ということで、
北部九州倭国では、クスノキによって、絹布→銅鏡をピカピカに維持できたのですが、
本州など東方に銅鏡を持っていっても、クスノキも絹布も無くて、すぐ錆びたり緑青がついたりしてただの緑の塊になったわけです。

過去スレで検討しましたが、
東方の開拓最前線における、収穫期のJアラート<銅鐸>などは、
クスノキ&絹布が無いので、
来襲時期が終わると、山の斜面の乾土に埋めて、なんとか温存していたのですね。

それでも錆びたら、酢をかけると錆を取れますが、
当然少しずつ溶けていってすり減ってしまいます。
0750sage
垢版 |
2021/08/25(水) 21:54:36.33
肥前国風土記によると、
ヤマトタケルが今の佐賀市の辺りを巡幸した際に、
クスノキの大木が生い茂っているのを見て、
「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよい。」
と言ったことから、栄の国となり、
後に転じて、佐嘉の国となった、とあります。

明治維新で、佐賀県、佐賀市、に統一されましたが、
佐嘉川→嘉瀬川 川上に與止日女神社(壹與)
佐嘉神社
など、佐嘉の字もある程度残っていますね。

栄 さか

佐嘉 さか・さが

佐賀 さが

となります。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:56:49.99
そうなると、
>>671
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國』
の輪郭が浮かび上がってきますね。

>>742のように、
廣志に記された、『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國』の部分は、
景初二年八月の時点で、難升米と司馬懿の共通知識だったことになり、
つまりは、「魏人が来倭する以前から存在する文字情報」だった。

>>735
>魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした
だった可能性が高い。
楽浪郡史が短里=東夷伝里で測定して、楽浪郡にも記録木簡が残されたし、
倭国側の責任者である奴国王の元にも記録木簡が残されていたわけです。
東夷世界での共通知識、共通認識だったわけですね。

と、いうことは、
「邪馬嘉國」とは、57年以前から、倭人が倭人独自に使っていた当て字の漢字表記であり、

>>748
>伊邪國=伊耶國=いざ國
なのだから、
邪馬嘉國の読みは、
「ざまか」あるいは「さまか」であったことになります。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:57:54.87
現・嘉瀬川=旧・佐嘉川の川上にある、大和町の七ヶ瀬遺跡と、
吉野ヶ里遺跡の北にある、二塚山遺跡とを比較した場合、

後者は、東側、つまり奴国王時代の広義の奴国領域に近く、
副葬された銅鏡は内行花文鏡のみであり、
小型仿製鏡や、免田式土器など、奴国や狗奴国と繋がる性質がある。

前者は、西側で、末蘆國から佐賀平野へ進出する地点に近く、
副葬された銅鏡には方格規矩鏡が含まれており、
末蘆國の桜馬場遺跡の時代、つまりは伊都の井原鑓溝遺跡=107年師升の時代まで栄えており、
伊都天神族系の形質がある。

ことから、
魏志倭人伝の餘旁國を几帳面な陳寿が地理的順番に並べてくれていれば、

七ヶ瀬遺跡が伊都天神族系の都支國で、
二塚山遺跡は奴国奴族系の好古都國だった、
可能性が高いことになります。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 21:58:26.95
現在の佐賀市を中心とする、佐賀県南部に、
末蘆國から峠を越えた、「邪馬嘉國」ざまか、さまか、国があった。
その首都は、現・嘉瀬川=旧・佐嘉川の川上にある、
大和町の、都支國であった。

>>689
>狗奴国を立ち上げて、久留米〜吉野ヶ里を急襲制圧したのでしょう。
>狗奴国軍は陸路で小城市→末蘆國(唐津)へ進軍。
倭国乱に乗じて、狗奴国が勃興し、
佐賀の邪馬嘉國王家と、
唐津の末蘆國王家を、
急襲して滅ぼした。

>>702
鉄鏡を手に入れた狗奴国王は、
220年に後漢が滅亡して漢委奴國王金印が失効すると、長崎タケミナカタを軽視し始め、
(あるいは難升米父と狗奴国内主導権争いをして殺〇して)
難升米は狗奴国王から離反して、倭国(邪馬台国)卑弥呼側へ寝返った。

難升米は大率長官として外交で成果を上げ、親魏倭王金印を入手した。
卑弥呼の死去にて攻勢に転じた狗奴国との合戦で討ち死にした。

実力者の難升米を亡くしたタケミナカタ一族は、喪に服している間に、
卑弥呼の後継者争いが決着して、
勝者である伊都国系男王の元に恭順して辺境豪族としてそのまま召し抱えられた。

前方後方墳は、タケミナカタ一族が服従を示す墓制であり、
北部九州にある前方後方墳の初期のもの、
例えば吉野ヶ里の前方後方墳などは、難升米のものである可能性が高い。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 22:00:27.95
狗奴国の息の根を止めるべく、
第12代が鉄鏡回収作戦を発動した。

大分→宮崎→熊本→筑後と、
狗奴国王の退路を断ちながら、
時計回りに侵攻して、北へと追い立てる。

挟撃して鉄鏡ごと捕獲回収する作戦であり、
神夏磯媛(與止日女=壹與か、その次代)並びにヤマトタケルには、
牽制のみしておくよう指示しておいたが、
若いヤマトタケルが血気にはやって、
西の肥前川上(旧邪馬嘉國の首都=都支國)に逃げ込んだ
狗奴国王クマソタケル(川上タケル)を討ち取ってしまう。

>>329
クマソタケルは息子の一人に鉄鏡を持たせて、日田に潜伏させ、
さらにデコイの諜報部員を数人、東国へと放つ。

完璧だったはずの作戦を台無しにされて、
鉄鏡を逃した=金印を逃して狗奴国勃興を許した失敗を繰り返した
第12代は激怒し、
ヤマトタケルに東方捜索を命じて、旅立たせた。
もちろん見つからず。

数百年後の筑紫の磐井が滅亡し、そもそもの北部九州倭国も滅亡したことで、
鉄鏡はその存在意義を終えて、
手の者によって、ダンワラ古墳へ秘匿副葬された。

ヤマトタケルが捜した鉄鏡が発見されたのは二十世紀になってからであり、
二十一世紀に、曹操墓から鉄鏡が見つかったことで、
その意味が理解されることとなった。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 22:01:12.70
伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

邪馬嘉國 ざまか(さまか) 天神族系

狗奴国によって一旦滅亡(魏志倭人伝の時期)

天神族系ヤマトタケルによって栄国=佐嘉 さか さが として復活

佐賀 さが
0756日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/25(水) 22:04:21.75
57年の記録の一部抜粋なわけですね。
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國 百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國 安倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國 自奴國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國 案倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』

後漢から倭国に到着して、夏至の太陽を基準にした方角で、
末蘆國から東南に短里=東夷伝里で五百里で、伊都国の吉武高木宮殿へ到着する。
また、
末蘆國から南に行くと、邪馬嘉國(さまが国=現・佐賀市など)へ至る。

57年当時に倭国の南界を極めていた、奴国王全盛期の広義の奴国(中広形銅矛分布域)
広義の奴国よりも北の部分、つまり北部九州倭国の各地については、
戸数や里程を略載できる。

伊都の次には御床松原遺跡を中心とする斯馬國があり、
その次には現伊万里を中心とする巴百支國(みもきorみまき)があり、
その次に、現諫早を中心とする伊邪國(いざorいさ)がある。

>>693
>包囲中はヒマなので、
>上機嫌の司馬懿に毎夜接待され、プライベートなことまで語り合う。
司馬懿が、救世主の難升米どのの故郷について聞いたことから勘案するに、

後漢から倭国に到着して、
末蘆國から西南に海行一日すると、
倭国の中の分国としての(日本国の中の大和国や肥前国など、現在の県の意味合い)
伊邪分國(伊邪市・県)がある。

長らく伊族と敵対していたから、絹布は無く、革衣を身にまとっている。

正確には本来は、卑字の伊邪國ではなく、伊耶國である。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/26(木) 18:34:49.18
>>746
>そこから逆算すると、
>吉武高木大王がアマテラスで、早良平野が高天ヶ原。

吉武高木はもっと古いよ。
イザナギやその祖先の世代。

>神代=北部九州倭国の時代ということになり、

まあ、これは概ねその通りだと思う。
神代の王都である筑紫の日向は福岡県。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2021/08/26(木) 20:34:03.66
三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく
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