【初心者】スレッド立てる前に質問をPart43歓迎】
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<お願い>
・常時age進行でお願いします。
・回答に時間がかかることもあります。ご了承ください。
・既に専門スレがあったり、板違いの質問があったりする場合は、速やかに誘導してください。
・過度な論争は自粛してください。
・質問が続くようでしたら,「名前」欄に「最初の質問のレス番号数字」を入れることをお奨めします。
・このスレでは過度な論争は自粛してください。政治的な主張の場ではありません。
・煽り質問もままあります。スルーしてください。
前スレ
【初心者】スレッド立てる前に質問をPart42【歓迎】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1608280594/
なお、同板内の質問スレっぽいスレ
歴史担当の学芸員だけど質問ある?
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1590081701/
は、すでに読者もなく完全に死んでいるので、質問スレとして統一するならばこちらに統一するようにしてください。 このスレッドは、みなさんから寄せられた疑問、質問にもとづいて歴史探偵局長が優秀な探偵たちを派遣し、世のため、人のため、公序良俗と安定秩序を守るべく、この世のあらゆる事どもを徹底的に追及する日本史板でも人気の歴史探偵ナイトスクープです
このスレッドはみなさんから寄せられる回答依頼で成り立っています
奮ってご質問ください ポルトガルやスペインの支配地寄港地には混血がウジャウジャいるけれど、
16世紀〜17世紀の南蛮人は日本に混血児残してないの? 漫画版の太平記を読んでの疑問なんだけれど、
日本の皇族で武装して戦場に出たのって、南北朝の護良親王(大塔宮)から
戊辰戦争の有栖川宮熾仁親王まで飛ぶ?そして護良親王以前だと
ぱっと思いつくのは壬申の乱だけれど、この間だと誰かいる?
以仁王はカウントできるのだろうか。 >>3
支配地(殖民地)と貿易船の乗組員として寄港しただけの所とでは違うんじゃまいか 東征大総督として江戸に入った有栖川宮熾仁親王は徳川と戦端を開くことなく江戸城無血開城を見たが、これは皇族が武装して戦場に出たことになるのか >>6
そうだよ。
何百年も武装特権を持っていたお武家さんが実際には戦場で何の役にも立たず、お公家さんや宮様が率いる農民商工民かきあつめのニワカ仕立て維新軍に
歯が立たない、干戈を交える前にシッポ巻いて逃走なんだよ。 >>4
武芸を好んだというと、皇族じゃなく天皇だが、後鳥羽上皇が有名かな >>4
斉明天皇・葛城親王 筑紫君磐井の乱
安徳天皇 寿永乱
後醍醐天皇 元弘合戦 >>7
>お公家さんや宮様が率いる農民商工民かきあつめのニワカ仕立て維新軍
西郷隆盛が仕切っていた東征の政府軍なんだが >>3
16世紀はいたかも知れないけど、育った子供は親が連れ帰り、大半の子供は育つ前に間引かれたと思うよ。
17世紀になると江戸幕府に完全に管理され、オランダ人が出島での境遇を他の欧州国人に話すと
「そんな扱いを受けてよく耐えられたな」と失笑されるレベル。 歴史学部を禁止にして
日本のどんな歴史を隠そうとしてますか?
例えば宮内チョンが古墳を調べさせないのは
年代測定することでインチキ天皇の墓が暴かれるからですが
天皇のごとき朝鮮猿の素性を隠すために、
歴史学部を禁止するだろうかという疑問が。。
もっと凄い秘密がありそうですか? 鎌倉時代後半、宮将軍と呼ばれていた皇族の征夷大将軍たちは戦場に出たかどうかは知らんけど武装することはあったんじゃないかなあ
幕府のある鎌倉にすんでたわけだし、軍事的緊張はたびたびだったし。 天皇って古代から日本人殺し(征夷大将軍)とセックス以外に
何か実績ある? >>3
いわゆる寛永十三年鎖国令で追放された「南蛮人子孫」は混血です
これが完璧に実施されたのなら、混血はいなくなったということになりますが、潜伏した人も多少はいたでしょう
ですが、ポルトガル人の血を引くことを子にも知らせず、一般日本人に溶け込んでいったと思います 天皇って古代から日本人殺し(征夷大将軍)とセックス以外に
何か実績ある? >>4
後醍醐の子孫は、西陣南帝など後南朝も含めて、何人かは武装して戦場に赴いたかと思います。尊良親王とか懷良親王とか
それ以前となると
臣籍降下して数年たってますが、天武の孫の塩焼王は恵美押勝の乱の時に武装していた可能性があると思います
系譜未詳ですが、将門の乱で殺された興世王はあてはまるでしょう
確認のしようもないですが
興世王のように、国司となって現地に赴任した皇族があてはまる可能性は低くないと思います
以仁王は、平家物語では明言されませんが、落ちのびる時は甲冑をつけていた可能性は低くはないでしょう
カウントしていいと思います >>15
戦争や政治に口出しをし始める前に京へ送り返されてたみたいだけれど >>15
北条が宮将軍の武装を拒んでいたのでは
鎌倉幕府で宮将軍の出陣経験は一度もない >>21-22
じゃなくて、宮将軍の安全を脅かすような事態が起きるから武装が必要だったんじゃないかと
それとは別に。
宮将軍が幕政に影響しそうになったら京都に送り返したのって、それによって幕政が不安定になる程度には影響を与えうる危険な存在だった、発言力があったから警戒されたんでしょ 戦国時代について質問です。
日本史で当たり前に出てくる戦国時代ですが、
そもそも統制が崩れて「戦国」の状態になってしまった経緯はどういったものなのでしょうか?
なぜ戦国時代以前までは戦国にならず、戦国時代には戦国になってしまったのでしょうか? 戦国時代の前から日本列島は争いの場になってました
いったい何と何の争いだったのか
日本の上級国民の素性がバレてしまうので隠されていますが
京都の南朝=新羅人、奈良の南朝=百済人
新羅と百済の宿命の対決が、日本列島に移動してまで続いていたのでした
日本の歴史を調べてみれば、新羅人天皇が誕生した1300年前から殺し合いをする国になってますが
それが戦国時代ではなぜ激化したのでしょうか
戦国時代の天皇の様子から伺い知れるかも知れません
戦乱で焼け出された天皇は誰の支援も無く、小屋に住み
色紙に短文を書いて金持ちに売り歩いていました
死んでも葬式すらされずに腐乱死体になった天皇までいますね
戦国時代は南北朝、つまり新羅vs百済の争いでは無かった
江戸時代が華人支配だったのを見れば
戦国時代というのは、新羅系(京都北朝)のツテで華人の流入があったのではないでしょうか
だから天皇そっちのけの半島人vs華人の争いになったのでは >>24
戦争に呼ばれたわけでもない宮様が槍刀持って自営できるんかいなw
そもそも、武装言うなら、衣冠束帯は文官装束でも刀佩いてますよ。 >>23
宮将軍が命の危険があるからといって武装していたという事実はないわけだが
妄想で話している? 鎧は戦うために着用するものであって、戦闘員でない者が着れば安全というものではないだろう
それは戦いのための象徴の意味くらいしかない >>24
色々な要素が絡み合っているので一言での説明はできないけど、それでもあえて構造を単純化するのであれば、
清盛がなし崩し的に導入した貨幣経済が涵養され、南蛮人の進出で商人たちと彼らが後援する勢力にパラダイムシフトが起こったから。かな。
NHKが再放送中の『黄金の日日』が理解の助けになるかもしれない。(豪華俳優が顔を揃えているが…ドラマ的には出来が今一つだけど…)
旧勢力を支持した能登家や紅屋等の没落と、新興の今井家の勃興が描かれるはず(多分)
そして時代は堺の凋落と博多の隆盛になるが、ドラマはそこまではやらないと思う。 宮将軍も霜月騒動のような時には館で武装していたかもしれませんね。念のためにお付けくだされ、とかで
吾妻鏡によれば大江広元が「頼朝は東大寺供養の時に腹巻つけてた」のべてますし >>33
天皇は途中から非武装になったから
武家の世になっても殺されなかったのと同様
宮将軍も非武装だから刃を向ける者がいなかっただけで
武装して刀振り回してたら鎌倉武士に殺されてますよ >>24
応仁の乱以降、下克上となり戦国時代に突入した
教科書的にいうならこれ
>>31
清盛の時代から戦国時代まで時空を飛び越えすぎだろう
なんで日本史板はおかしなのが多いのか >>34
いや、武器は持たなかったと思うけど、防具くらいはつけたのではないかなあ?
後醍醐天皇だって鎧は着込んでたと思う、武器は持たなかったと思うけど。
後醍醐天皇は草薙の剣を帯同してた可能性があるけど、武器として持ってたわけではないし、帯同してたとしても帯刀ではなかったはずだもんね
つか、あの剣は中身より箱の方が重要っぽかったから、仮に帯同してたとしても箱から出してはいなかっただろうね >>24
室町幕府の権力と権威が弱まって守護大名が言う事を聞かなくなった。
それを端的に示してるのが応仁の乱です。
>>36
草薙の剣の宮中にあったレプリカは壇ノ浦の海の底に沈んだ。
そこで東大寺かどこかから代わりの剣を宮中に納めた。
箱が重要なのは鏡と勾玉です。鏡も火事で溶けて原型を留めていないとされるから。 もともと、室町幕府では有力大名たちの合議がいちばん強く、その合議で決まったことには将軍でも抵抗の余地がなかった
少しでも自分の意図を通すために、義満時代でも、大名間の対立を利用するなど工夫しないと自分の意思を押し通せなかったんだ
これを改善しようとした6代将軍義教のとき、かなり大規模に大名弾圧をして、その反動による謀反で義教は殺されたわけだけど、大名の合議体制は復活できなかった
しばらくの間は(大名と違ってろくな軍事力も持たない)将軍側近たちが幕政を動かしていたが、義尚と義視の問題をめぐって側近たちと大名の対立が激化し、クーデターが起きて側近たちは一掃された
これにより将軍の政治力は払拭されたが、かといって、大名たちを調停することができる存在も出現しなかったので、その対立に翻弄されるようにして将軍も巻き込まれるようになり、応仁の乱が起きた
乱のなかで、三管領のうち二家までが弱体化、明応の政変で完全排除されるにいたって、細川氏の覇権が確立されたが、まもなく細川家の内部争いが勃発して幕府体制は瓦解に向かった
という感じかな、教科書的でない理解だが。 教科書的理解だと、どうなるの?
何が違うのか分からないんだけど? 教科書的理解:応仁の乱で戦国時代に突入した
新説:応仁の乱では将軍の権威は揺るがなかった。明応の政変で将軍が2人になった
その後細川家の内部分裂で将軍2人の喧嘩も大事になり、誰が将軍だ? という話だな
だから応仁の乱ではなく明応の政変を戦国時代の始まりにしようっと(歴史修正主義 教科書だけで解く早大日本史4-2 人間科学部2020
https://note.com/yurin1966/n/n9c276b891347
@ 1493(明応2)年に管領細川氏が将軍を廃する事件がおこり(明応の政変)、これを機に細川氏が幕府の実権を握ったが、その後の権力争いの中で、実験は細川氏からその家臣三好長慶に移り、さらに長慶の家臣松永久秀へと移った。 近年の研究では、松永久秀が三好家のなかで実権を握ったことは一度もないと変わったんだよな >>36
付けてないんじゃね
後醍醐天皇は六波羅探題の見張りをくぐって御所から出るために
「中宮の里帰り」だといって中宮の衣装を着こんで女装して逃げたくらいだし 海外におけるルネッサンスやビートニク、ヒッピームーブメントのような
ある程度の期間継続した文化運動のようなものって、日本史でいうと
何にあたりますか?
末法思想や尊王攘夷運動なども違う気がするし、モヤモヤする 日本はそれに当たるのはあるかどうか
鎌倉時代の新宗教あたりはどうだろ 中世キリスト教文化に縛られていた中、ギリシャ・ローマ文化の再発見、文芸復興を目指したのがルネサンス
我が国ではそれに比すものとして、江戸期の荻生徂徠、伊藤仁斎等が日本の古典に立ちかえり、朱子学や陽明学と言った儒学から離れ、我が国古来の民族精神をありのままに把握しようとした動きがあった
ビートニク(ビート族)は、第二次大戦後のアメリカの文学界で輝きを放ったグループから始まって、快楽主義、非同調主義のライフスタイルが若者たち、とくにヒッピーから支持を受けた
一方、13〜14世紀にかけて男女のまぐわいによる合一こそが法悦であるとし髑髏本尊などの性的儀式を信奉した真言立川流と呼ばれる一派があった
立川談志が落語協会を脱して分派するとき、落語立川流と名付けたのはあきらかにこの教団を面白がってもじったものであろう >>47
仁斎や徂徠はそうではないのでは
立川流も、よく知りませんが、近年の見方は違うようですね >>45
江戸時代後期から末期にかけての復古思想(蘭学から国学へ)、(仏教の影響を受ける前の神道へ)、
尊王思想(幕府から朝廷へ)はちょっとそれっぽいよね
尊王思想はやや政治色が強いけれど ルネサンスもローマ教会からの脱却(ローマ=カトリックから人文主義=ヒューマニズムへ)、これがルソーの政治思想と結び付いてフランス革命へ フランス革命は、思想が原因で起きたんじゃないよ
飢饉による生活苦で追い詰められた人が多かったから革命になったんだよ
だから、コロナ禍で追い詰められる人がすごく多くなれば、大変なことになるよ 第一身分は僧侶ね。つまりローマ教会が指名した司祭さん
だから革命政府はローマ教会の叙任権を剥奪した。抵抗してギロチンされた人がルイ16世
この点を踏まえないと当時の市民革命を理解できない 古代からの天皇は日本人狩り以外に何かやってましたか? 現在は戦後〜冷戦終結、下手したら戦後〜令和の現在に至るまでを
「戦後史」「戦後日本」「戦後社会」などと戦後の一言で括っています
しかし、これもいずれはどこかのタイミングで違う言葉に置き換わるわけですよね? いずれはどこか、と言えばそりゃいずれはどこかだろう
雲をつかむような話だ 昭和後期の55年体制下と冷戦構造の時代
バブル崩壊後の平成の構造改革の時代
で二分されると思う >>56-57
ありがとうございます
時代が流れ、時代区分が再編されたりして「戦後○○」みたいな言葉が
他の言葉に置き換わって一般的には使われなくなっても、歴史本の
昭和後半〜平成〜令和頃のページのコラムや豆知識みたいなところで
「当時は太平洋戦争終戦後の長きに渡って戦後日本や戦後政治、戦後レジームなどと
戦後○○という風に呼ばれた」みたいなことが書かれるかもしれませんね >>53
バラモン(司祭)、クシャトリア(王侯貴族)、バイシャ(ブルジョワ)、シュードラ(プロレタリア) >>59
天皇、上級貴族に太刀無し
ちょっと下の文官で飾り太刀はある >>59
即位の礼を見ていないのかな
天皇の正装、黄櫨染御袍は刀を帯びていない
皇太子の正装、黄丹御袍も同様に刀なし
文官が着る衣冠束帯も平安時代から儀礼用の飾り刀に代わっており実用性なし
これらは儀式用の正装で普段着である直衣姿はやっぱり刀なし 小学校の頃、学級文庫の伝記で江戸か幕末かわからないんだけど「あべのなんとか」って人の本あったんだが、伝記になるような人物に心当たりある人いませんか?
阿部か安倍かは失念してしまいました。
表紙が直訴?してるような紙束持ってる江戸時代の格好した人の絵だったと思います。
同じクラスに阿部って子がいたので、よくその文庫をネタにされてからかわれていたのを覚えています。
ところが、それから中高と日本史で特にあべという名字の偉人を習った記憶がないのでずっと気になってるんですが、ぐぐっても安倍晋三くらいしか出てこないんですよね… 江戸か幕末かって、江戸末期が幕末なんだが
阿部「の」なんて言うのは平安時代くらいだなぁ
直訴してる絵があったんならその直訴した義民の伝記じゃぁないのか 土偶って江戸時代以前には発掘された例はないんでしょうか。埴輪は由来が分かってたし、銅鐸なんかも記録にあるようです。ただし銅鐸の由来は分からずこじつけみたいですが。 >>63
お答えになってませんが
記憶の通り江戸時代で直訴しているなら義民になるでしょう
義民の話は全国各地にあり、知名度も様々です。その本が郷土史的な伝記で、他地域ではほとんど知られていない人の可能性があります
時代別伝記集の中の一つ、例えば第5巻のタイトルは足利義満で、他の室町時代の人もかかれている、という可能性もあります
書きながら思いましたが、アベ姓で著名なのは阿倍仲麻呂と阿部正弘くらいで
どちらも巻のタイトルになるほどではないので可能性低いですね 直訴の内容については文書にまとめ、それをまた紙でつつんだうえで「訴」とか題名を書いたものを御恐れながらと平伏しながら差し出すのが普通
何枚もの紙の束を手に持つというのは何なんざんしょうね??
平安時代の安倍晴明(あべのせいめい)なんてのは小学生は知らないだろうしな 森鴎外の作品に「阿部一族」というのがある
熊本細川家の殿様が死去して、殉死の許しを得ないまま切腹してしまった阿部弥一右衛門の息子たちが不遇な処置を受けて納得できず、反逆して討手によって全滅するという物語
とても小学生向けのものではない 阿倍比羅夫(あべのひらぶ)
7世紀半ばの武将
北越のまつろわぬ夷どもを討つ
樺太まで遠征する
白村江の戦いにも参加
‥小学生興味持つか >>70
一昔以上前で子供向けだと、そういう史実は削ぎ落とされてることも多かったし、脚色かなんかかも いやそんなひどい脚色はないと思うよ
直訴がどんなものかは昔から時代劇でもちゃんとわきまえて描かれてきた
質問者が直訴だと思ったのが間違いの可能性が高い 直訴を描くとなると、訴えの内容は読んでもらえて考えてもらうこともあって民の為になったが、直訴者は死罪になるという厳しい結末を省くわけにゆくまい
小学生にはキツい 「あべのなんとか」って人の本だっていうんだぜ
"の"なんか付いちゃって、江戸時代であることもアヤしい あるいは「あべなんとか」と書きたかっただけなのか
"の"は特に意味を持たない勢いだけの書き込みか
そこらへんもハッキリしてほしいものだ いや、幕末かもしれないというくらいだから、古代ってことはないのか >>70
>何枚もの紙の束を手に持つというのは何なんざんしょうね
「願書」なんじゃないの。「廻状」がきたから証拠の書類をかき集めて差し出した、とか。
ちなみに、双方の書類をひっくるめたのが「御用留」 直訴のイメージ。平伏はねぇわ
ttp://www.amakusatanken.net/nagaoka.jpg
ttps://pbs.twimg.com/media/DnNMLKzU4AE0urY.jpg 雄略天皇のスレが見当たらないからここに書くけど、倭の五王の時代に朝鮮半島に持ってた統治権ってその後どうなっちゃったの?
昔の日本人は朝鮮人に負けて逃げてきたんですか?
そもそも本当にヤマト王権は朝鮮半島に支配領域を持ってたの? >>82
高卒かな?同級生で一人も大学に「願書」をださなかったから言葉を知らなかったとか
>>84
好太王碑 >>84
支配領域ではないとの説が濃厚なはず
半島南部の小国家群にたいして権益をもってただけだよ >>86
以前提出された願書などを役人が書き留めた帳簿が御用留
今、差し出している訴えの文書ではないわな >>88
その読解力では何を言っても無駄だろうが
明日にでも図書館か書店へ行って
岩波の日本史辞典で勉強することを強く推奨する
勝手に意味不明な設定を設けて他人の言葉を否定するようでは、話し合いなんか出来ない事だけは俺にも読み取れるが…
君はこの種の匿名掲示板にはむいてないよ >>86
高句麗の好太王に負けて満洲を失い、白村江で鮮卑族の唐にも敗けて東支那半島を失った >>80には何枚もの紙の束を持っている直訴らしい挿絵に、「願書」なんかや「廻状」とかをかき集めて差し出しているのではないかとレスがある
それに対して、以前の願書、廻状、御用留なんかをかき集めたのならばそれは役人側の文書類、今直訴で差し出している訴えの文書とは違うと言っている
あぁ読解力の無い者に対してめんどくさい説明をしなければならないな 他の人には見えないモノが見えたり
他の人には聞こえないモノが聞こえたり
他の人には理解できない妄想に浸れたり
楽しそうでなによりw >>62
それ言ったら、武装特権があって、出仕に際しては帯刀の義務のあった、江戸時代の武士も、越野刀はイミテーションだったろ。
そこそこの身の上の旗本だって刀は札差や質屋に担保にとられていて、普段の出仕の際にも竹みつ佩いて出勤じゃん、 >>84
天智天皇〜斉明天皇の時期に、新羅が叛乱、
日本+百済+任那 VS 唐+新羅 VS 高麗
の三つ巴の戦争になって、最終的に、百済、高麗が滅亡、新羅が朝鮮半島の殆どを制圧して宗主国を日本から唐に乗り換えた。 >>94
話にならん
江戸時代の大名は登城に際して本物の刀を帯刀していたから
松の廊下刃傷事件が起きたわけだが
これに限らず江戸城内では何度か刃傷事件があり
各大名家でも刃傷事件が起こっている
飾り刀の公家が誰か刃傷事件起こしたことがあるのか >>96
大尽旗本でも腰に佩いてるのが竹ミツだから顔面に刀傷とかこさえてしまう >>96
大名は、幕臣かというと、微妙な立場。
武家諸法度にも、諸侯之家中ハ是レ大君の与ル所ニ非ズってなものよ。
まあ、大君なんていってるから上位で君主という意識も無いわけでもないんだろうけれど、家中(所領)の統治責任は最終的に諸侯(大名)にあって、
幕府・将軍(大君)は責任を負わないって明言しているし、大名の位階についても幕府は推挙はしても与えるのは朝廷・天皇。
大名はちょい艇の臣下であって、将軍の臣下ではなく、動員する権限は無くて、精々同盟者という立ち位置だ。
旗本八万騎というように、幕府将軍が動員をかけることのできる主戦力は旗本。直参とかいうように、将軍の臣下が旗本だよ。
で、その旗本が、主たる収入減が傘や提灯の内職で、武装特権は使と莢だけのイミテーション。 >>98
普代大名と高家は幕臣で親藩大名と外様大名は幕臣ではないという区別 >>98
>大名の位階についても幕府は推挙はしても与えるのは朝廷・天皇
武家官位は家康の時から公家官位の員数外
綱吉以後は幕府が叙任しその後に朝廷の位記口宣を申請 三種の神器を実際に見たというのはいつが最後なのですか?
森有礼が〜とかGHQがとかの都市伝説的なのじゃなくて、史実ではいつなのでしょうか? 現在では皇位継承は「男系継承が古代からの伝統」となっています
だから、「今さら男系継承を崩すのは伝統破壊だ」
「これだけ長く続いたのだからこれからも続けたい」となるのは自明の理です
逆に、なぜこれほど長く男系継承が続いたのか?男系継承が伝統になるより前に、
もっと早い段階、飛鳥時代や奈良時代くらいに男系継承が崩れることはなかったのでしょうか?
男尊女卑の風潮は明治くらいからで、古代や中世においては男尊女卑ではなかった
との説もありますし、邪馬台国の女王卑弥呼、トヨの例もあり、「トップは男ではなく
女の方が全体がまとまる」と言われたこともあります
古代には女帝も出ていますが、当時から「ピンチヒッター」という立ち位置であり、
生涯独身を貫いたとのこと
なぜ、その女帝から女系に移るという選択肢はなかったのでしょうか?
伝統化する前の段階で、女系ではなく男系を貫いたインセンティブは何だったのでしょう? >>103
古代・中世に、女の、大連、大臣、国司、八省の長 が居ましたかいな?
氏姓の女系継承は許されていても女の氏上なんて一人もいない。 >>98
大名の位階を与えるのは形式上は朝廷だが、幕府からの推挙を拒否することはできなかったので、幕府から推挙された時点ですでに任官は決定事項だったんだけど。 >>103
推古天皇は独身ではありません
持統天皇も既婚です 三種の神器の鏡は伊勢神宮に保管してあって
皇族の三笠宮?だったかな、ヘブライ文字とかに詳しいので調べたんだが
絶句してしまって、それ以来その鏡について話すことはなかった
たぶん単なるガラクタだったと思われる
そもそも三種の神器はアークに入ったモーセの石版や壺のことで
それを天皇一味が真似たものだろうけど、その内容はかなり食い違っている
なので苦し紛れに、モーセの三種の神器は徳島県の剣山に埋まっていることにし
そこまでお遍路さんをやらせて、本当に三種の神器があるように思わせている
本当に悲しい工作だよ、お遍路さんは日本の恥
しかし本物の三種の神器は紅海を渡ってエチオピアのアクスムに渡った
日本なんかに来ているわけないじゃないか
剣山に埋めて帰ったというのか
東の果てに三種の神器を捨てに来たというのか
バカげている天皇一味 なんで天皇一味(南朝側)がモーセの三種の神器に拘るかというと
自称ダビデの末裔だからだ
勿論それはハッタリだ
菊の御紋もアークに似せた神輿も明治の捏造 明治維新についての質問ですがどっちの板がいいんだろ、こちらか近代史板か
明治維新の解釈としては徳川絶対王政を打倒した市民革命という解釈でいいでしょうか
大商人の資金力によって倒幕をやったブルジョワ革命という認識です >>110
明治維新前より維新後の方が絶対王制に近いんだけど
だから、貴族制から絶対王制への転換の方が少し似てる
ドイツやイタリアなど、国内統一の遅れた国が統一を推し進めていた時期がちょうど明治維新の時期と同じぐらいだしな トップにはお上が鎮座ましますままなので、王政復古も革命ではなくクーデターだ >>104>>106
確か女帝で生涯独身を貫いた方がいたはず
それは最初から女系継承のリスクを抑えるためだったと記憶してます
古代の早い時期から女系継承にならない、しない為の空気感や不文律はあったのでしょう
それは何故なのかが知りたいです >>110
戊辰戦争では武士同士が二つに分かれて争いました
(ときに否応なく)農民も参加したけど、基本的には武士階級同士の争いです
勝った側が天皇を担ぎ、君主制のもとで議会を開きました
どこにも市民の意見はないです
君主制へ移行したので、辛亥革命のような民主主義革命とはちがいます
ましてやフランス革命のような市民が君主を倒す革命は日本ではまだ起きてません
これからに期待と言ったところでしょうか 君主を徳川家から天皇家へすげ替えたという意味ではフランスの七月革命相当とは言えないでしょうか 朝廷に征夷大将軍の職掌あり
帝は大政を将軍に委任す
大政奉還ありて、新たな大政委任を廃し、王政復古の大号令をなす
維れ新たなる日本の出発なり 大東亜戦無条件降伏
連合国占領下において憲法改正、民主主義化、二度と侵略に立ち上がれぬように牙を抜き、生まれ変わらせる
一大革命の時を迎えるも、天皇退位まで強いるに躊躇あり
革命ならず
ま、今後は成り手が絶えるかも知んないけど >>115
古代の女帝は、推古、斉明、持統天皇までは、後続出身の皇后から即位して女帝、それ以後の女帝は未婚の皇族が即位しての女帝と分かれてるはず >>117
形式的なこととして言うと、幕府は世襲的な宰相職みたいに考える方が妥当では
力をもってた宰相を追い落として君主権を強化して絶対王制を確立した(といいつつ、新政府も君主に実権をもたせなかったので、実際には絶対王制とも言えないが) 江戸時代が始まったころは幕府の力が強くって、宰相は皇帝の子分なんだが、逆に幕府が朝廷に注文つけるくらいのものだった
でも、水戸徳川家なんかは歴史研究を進めて尊王思想を強める
日本全体にもその思想は広まってゆく
江戸後期に全国大名家アンケートでも取ればみな勤皇を言っただろう
徳川も新選組ももちろん薩長もみんな勤皇だ
ただ、幕府政権が古臭くなって矛盾増大して力を失っていった
で、新政府が西洋の憲法を研究して取り入れりゃぁ、もう時代が違うんだから絶対王政の時代みたいにはならない
‥西洋の政治史なんかを日本に当てはめて、ハイ問題解決とやるのはなぁ、無理があるんでないかい ヘナチョコな日本人には市民革命なんて起こせないよ
いつまでも「与えられた民主主義」に甘えて、いやいや選挙に行くだけ
また幕府でも出来ればいいのに。自衛隊が頑張れば新幕府作れるんじゃない? 変則的だけど敗戦革命で民主化憲法を手に入れてるからね
象徴天皇制と戦争放棄を憲法原理にしたマッカーサーは日本史上最大の偉人だよ >>123-124
ドイツやイタリアや、ついでに韓国も似たようなもんだと思う >>122
江戸時代初期の将軍たちは朝廷のことを自分のケライだと思ってたんじゃないかという指摘さえあるよね 古代から日本は、実力よりも血筋で決まるのが伝統だから、
皇統が続いたのだろう。
力だけでは正当性が得られない日本だから皇室は存続できた。
中国のようなところでは無理。 >>123
英仏と違って日本の為政者は重税を課したりなんてことを絶対しないからね。仕方ない 江戸時代は重税を課してたでしょ
磯田道史氏がそういう本書いてた
まあせいぜい一揆しかできないくらい民衆に力がなかったわけだけど 一揆を起こされるような領主は改易させられただろう
島原藩の松倉勝家なんか斬首刑に処されたし、重税は御法度だったのよ 明治のほうが税金は重たいのだが?
ただ明治は中央集権国家だから、地方で何か問題が起これば中央政府が
それなりに対応してくれるし、道路や鉄道や学校を作って還元したからな。
別に税金が重たいから経済が低迷するとは限らないという事だ。
問題なのはお金が循環しないことだ。 >>105
鎌倉幕府・室町幕府からの武家の任官は推挙は度々断わってましたけど?
江戸幕府も制度的にそんな特権持っていたわけでなく、結果的に推挙したものが全部認められてただけでしょう? >>115
称徳女帝だな。
二代続きの異例(光明皇后=臣籍生まれの第一后、阿倍内親王立太子)に続いて、弓削道鏡を皇位に就けようとして(皇統の危機)、
政治混乱を招く。橘奈良麻呂の乱、藤原恵美押勝の乱、等々
この後、もう女帝は懲り懲りと800年くらい無かったけれど、徳川の専横に怒った後水尾天皇が、
徳川の血を引く天皇が出りゃ文句無いんよな?
とキレて譲位。
皇后になる前に女帝になったら後代が続かない前例にミッツキレキレ >>122
参内せず自分の領地で好き放題、味方の貴族を集めて命令し放題、という
絵にかいたような悪い大臣だよな >>133
すまん、江戸幕府のことしか念頭になかった >>133
江戸幕府の場合は、武士の任官は朝廷の定員外、幕府の権限の範囲のことと決めたので朝廷が任官拒否できなかった模様 >>131
江戸時代は抜け道が色々あるから、変な連中が言うほど重税ではなかった。
明治新政府は地租改正で抜け道を塞ごうとしたから全国で大規模な暴動が多発した。
>>133
江戸幕府は、その特権を創設して朝廷に認めさせたんだよ。 国替えについて質問です。
「今の領地を取り上げるから別の土地に移れ」
というのは秀吉が先駆者だと思います。
東海から関東に移封された家康や、尾張伊勢から東海に
移封を拒んだ織田信雄などいますよね。
秀吉以前はこういうことは出来なかったんでしょうか?
たとえば武田氏は甲斐の国が本貫地でのちに安芸の国も貰ってますが、
甲斐より安芸が豊かなのは誰でもわかるわけで。
「甲斐の国の守護を解任するから安芸に行ってくれ。
その方が得だろ?」
というのは成り立たなかったのでしょうか?
革新的な信長ですら「国替え」やってないんですよね。 室町時代初期までは守護は遷替の職とされていて解任は珍しくない
解任して代わりに別の国の守護に任命ってのは少なかったけど。 山梨よりも広島が豊かなのは明白なんてのは現代の感覚で言っているのではないか
昔の甲斐と安芸をキチンと評価したうえで言っているのか
全国的な統一基準で行われた太閤検地が無いことにはあちらの領地とこちらの領地で採れ高にどれほど差があるかも実は判然としない
秀吉は太閤検地のあと大名の首のすげ替えを始めた そもそも、甲斐に加えて安芸の守護も兼任することになった当時は、守護職はさほど収入があるわけではなく、むしろ名誉職に近かった
といっても無収入というわけではないのだが。
当時の武士にとっては領地、収入は荘園が基本だったんだよ
武田氏は甲斐国内に多くの荘園をもっていた 徳川家重、領地は甲斐国に14万石持ってたけど、
なんで三位参議なのに甲府“宰相”なの? 参議の唐名が宰相
中納言の唐名が黄門
大納言の唐名が亜相 宰相とは朝廷において政治を補佐する者という意味である 武士は農民を強姦しようが首を切り落とそうが自由だった
(徳川が禁止するまでは)
そこまでの身分差がついた原因、武士と農民に分かれた起点は何だったのでしょうか やはり太閤検地で収入が明確になったことで大名の
首のすげ替えが出来るようになったのか。
「1万石足すから他所に移ってくれ」
とか。
>>143
>当時の武士にとっては領地、収入は荘園が基本だったんだよ
荘園も太閤検地のせいで消滅したのかな?
あと鎌倉時代など「○○荘を賜る」なんてよく出てくるけど、
「○○荘」は大体どれくらいの規模だったんでしょう?
明治大合併以前の小さな村の規模かなと思ってるんですが。 荘園の規模は千差万別
多くの関係者の間で譲ったり分割したりして細切れになったりしたのか、近畿の荘園は微細なのが多く、村ひとつサイズのも少なくない
また、村の境と無関係な荘園境界によって村が細切れになってるような事例さえ少なくない(そんな細かいピースが複数の村にまたがって、飛び地飛び地とか)
対するに、関東や東北には郡ひとつサイズ、時にはそれ以上に大きな荘園も多い 武士は戦のときは農民に刀を持たせて戦わせ
それが全滅したら出ていくんだよ
武士はチンピラ朝鮮人であり、時代劇と現実は異なる
武士は農民を強姦しようが首を切り落とそうが自由だったが
徳川によって、理由なく農民を切ることは禁止された
禁止されても試し切りとか普通にやっていたようだ
そこまでの身分差がついた原因、武士と農民に分かれた起点は何だったのでしょう 決定的な差となる起点があったとの仮定での質問だが、そういう仮定の質問には答えられないな 李氏朝鮮時代の両班と混同している
朝鮮半島の圧制と専制
ttps://okwave.jp/qa/q1293639.html >>155
ここは日本史板であって朝鮮史ではないんだけど
中世近世通して日本ではそういう戦い方は行われてないから、明らかに日本の話じゃないんだよね >>155
あえて釣られてやるが、
逆だ低学歴。
徳川は、逆に村方騒動や庄屋名主の反乱、一揆、暴動が全国であまりに多発したため、
それこそ元和演舞からはじまり、
名主庄屋が下級武士等への殺傷は許さないという旨を打ち出してんだが。
しかし収まらず、島原の乱レベルの、
関ヶ原の二倍の大軍を投入しても幕府総督は討ち取られ、二年にも渡って内乱となった島原の乱の首謀者は、八家の庄屋であった事実
また地獄谷地獄では江戸初期、水戸藩でも、徴税にきた下級武士二人を庄屋が切り殺し、水戸藩へ俵につめて送り返し、
水戸藩が庄屋に投降をもとめても拒否。
それどころか、庄屋は村民を武装させて対抗し、3ヶ月に及ぶ水戸藩との内戦してるんだが? 江戸初期の岡藩 )
http://www.e-obs.com...heo/heodata/n332.htm ;
↓
〈旧在地領主層を庄屋に任命〉
>>大分県下における近世大名は、すべて他国から入部してきた大名である。この大名が領主として領民を支配し、
>>年貢などを納入させることは、当初かなりの困難が伴った。
>>例えば、 中川氏 は文禄3年(1594)に 岡藩主 として入部したが、
>>入部の行列が 大友氏 の浪人の集団に襲われたり(赤岩合戦)、領内の村々に古年貢帳の差し出しを命じた際も、
>>磔(はりつけ)木を持参するという強行手段を構じなければ提出させられなかったりしたのである。
>>このような困難な状況を打開するために近世大名がとった方法は、旧在地領主層を庄屋に登用し、特権を与えるという懐柔策であった。
>>岡藩 の場合、各村に庄屋を任命し、それを統轄し 郡奉行 と庄屋とのパイプ役として千石庄屋を任命している。
>> 千石庄屋 の名称は、1,000〜1,500石を統轄範囲単位として1人ずつ任命されていることによる。そして、これらの庄屋層には在地領主時代からの特権の一部を認めていたのである。
>>>>>>>>>このように諸藩では、旧在地領主層との妥協の上に藩政をスタ−トさせたのである 大名が庄屋名主にびびって、
わざわざ懐柔策を提出して頭下げてんだが現実は? なんで幕府大名は財政収入を年々のバラつきが不安定な農家からの年貢に頼ったんだろ
江戸時代は貨幣経済が発達したんだから貨幣経済の主要な担い手である商人からがっぽり徴収すればよかったのに >>155
いつの世にても武力を以て無法、非道を働くは多かりき
平安京の昔にても都の検非違使の当てにならぬ事甚だし
夜盗横行する剣呑さ也
鎌倉の世となりて武士勃興すれば、これまた力弱き地下の者どもに無体なる働きを為せり
人皆あるいは惣村団結して自衛の力を保たざるべからず
太閤殿下の刀狩より東証大権現の世と成りては侍の他、地下の者帯刀相許されざる事となり、自衛の力とて失ふ
かやうなる世にては武家の野放図なる手討ちこそ差し止めらるべき
地下の者に明らかなる無礼あるを除いて、無暗に民百姓を討たざる様、徳川氏定むる也 >>163
お前て本当に何にも経済とか江戸のことわかってねんだな、、
あきれるわ >>163
村を運営する庄屋が、その中から一定量を年貢として上納した
百姓一人ひとりが大名に直接納付してたわけじゃないし、徐々に年々の収穫のばらつきを判定して年貢額を調整する制度が廃止されていったんで、年貢は固定量になっていってるよ
銭貨じゃなく米のままが多かったとはいえ。 町人に課税しようとしても今のように所得を確定申告させるわけでもないので難しかった
町家の間口の広さに応じて課税したり、商工業者に独占営業の利権を得る代償として冥加金を納めさせたりもした
また御家に入用が出来た場合に豪商、豪農に御用金拠出を申し付けていた
それでも米の年貢が基本であり、商工業への課税は補完的なものにとどまった 江戸幕府が倒されたのって結局財政の問題だと思うけど、薩長は討幕の財源は豪商や豪農からの借金で賄ったのだろうか 薩摩島津家家老調所笑左衛門広郷の奮闘
薩摩は五千万両の借金を抱え財政破綻寸前に陥った
これに対し笑左衛門は商人を脅迫して借金は無利子250年年賦とし、さらに財政改革、農政改革に取り組んだ
琉球を通じての清国との密貿易、奄美で採れる砂糖を御家の専売制、その他売れる商品作物の開発を行った
笑左衛門自身は御家騒動のあおりを食らって自殺させられたが、最終的に島津家は二百万両に及ぶ蓄えを生みだしたk
藩の財政が良くなければ雄藩としての力も発揮できない
だが、幕府側としては幕臣の生活は年々窮乏化してきていたとは言え、幕府総体の財政が行き詰まってしまっていたわけでもない
薩長にまだまだ張り合って打倒するくらいの力は秘めていたはずだが、いろいろと政治的な敗北を重ねて潰れた >>168
借金というよりは、献金を強要した(悪し様に言えば、強盗した)
当時は、京都や大坂では多くの商人が殺されたんだよ ERROR: 余所でやってください。[student]
問い合わせID: rio/65fc2d442f9d0a72
ホスト:zaqdb73e12d.rev.zaq.ne.jp
名前: 学籍番号:774 氏名:_____
E-mail:
内容:
邪馬台国 畿内説のPart705の>>357
>そしてそもそも行程は九州を指していなくて
博多湾岸の不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているし、
不彌國からの側副傍線行程の投馬國はほぼ南九州になるから、
女王國は、ほぼ九州島付近になる。
>指しているのは沖縄や台湾の辺りに相当する会稽東治の東
会稽東治はほぼ上海付近になり、上海の「之東」はほぼ南九州付近であるから、
会稽東治之東は、ほぼ九州島付近になる。
として、5chから投稿を拒否されましたね。 エラーメッセージを調べることもせず投稿拒否と受け取る傲岸不遜 たしか、むかしYahoo掲示板で論争ごっこしてた頃にも、連投規制による書き込み拒否を敵対派による言論弾圧だとか吹聴してたキティガイさんだよな
そういうキティガイしか仲間がいなくなるぐらいに不人気な説だと気付いてない
てか、自分のキティガイぶりこそが自説のキティガイぶりを宣伝してると気付いてない 一般的には明応の政変で将軍のくびがすげ替えられた→下剋上のクーデターが起こり戦国乱世へと突入したという解釈ですけど、
関東においてはそれより少し前の享徳の乱をもって関東公方を中心とする秩序が崩壊して戦国乱世へと突入したという解釈でいいですか 関東の戦国時代はそれが主流のはず
まあ、全国一斉に戦国時代に突入したはずがないのだし。 ではここで問題です
明治の文明開化の原資はなんでしょうか
つまり三井三菱は何で儲けて財閥になりましたか? 将軍足利義政は異母兄である政知を関東へ送り込んだが、既に戦乱長引く中で任地の鎌倉府へ入ることもできないまま、堀越学園をつくって数々の十代タレントを芸能コースに在籍させた >>177
三井は江戸を拠点とする大商人の家
三菱は幕末期に土佐藩の資金運用してたのが、世上の混乱で帰属不明になったとかで資金横領したのが始まりではなかったかな? >>150
徳川政権では禁止してないよ、むしろ切捨御免特権として強化されてるで。 切り捨て御免は裁判権と執行権を行使できるとする制度だが、あとで報告書を出さないといけないし、不当な処罰とバレたらやった武士の方が処罰される制度だよ
規制が強いから、ほとんどの武士は怖くて実行できなかった >>162
新支配層と在郷勢力の軋轢
農民(被支配層)の支配層(藩・大名)に対する反抗
下級兵員の上級将校への叛逆
どれも別段珍しい現象ではないんだけれど
古今東西、いろんな場所・時代で、流血・戦闘を伴う叛乱は起こってたよ。 欧米の警官は発砲し放題なのに、何この格差!?(白人警察のニガー相手を除く) >>181
農民を殺したことによる罪科ではなく、領主の財産を毀損したことによる罰だろ。
江戸時代の農民は独立した人格を持つ存在ではなく、領地のオマケで領主の財産だ。
領主が自領の領民を殺すときにはお咎めは全く無しだ。 お前らってさ、低学歴すぎね?
斬捨て御免が、特権だ?
しかも即時裁判権があっただ?爆笑
お前大丈夫かよ頭?
低学歴のにわかバカが語るなや
裁判権なんかねーよ馬鹿が。
そもそも斬捨て御免は、江戸初期は、旧在地領主層だった庄屋による藩への不屈行為や、下級武士等への乱暴や殺傷が横行しており、
庄屋名主からすると自分は旗本大名と肩を並べて抗弁権もつ位の立場だという考えがあり、
そのため徴税にきた現業の下級武士はただの奴隷的な価値観で乱暴狼藉を働いて逆に殺傷してる騒動が江戸初期が非常に横行してた。
結果島原の乱のような島原地方の庄屋による反乱が、幕府総大将すら討ち取られる事態にまで発展してるわけ。
幕府は軽輩とされる下級武士にも乱暴狼藉は、天下の内乱に繋がりかねないことから、
軽輩にも暴力は一切みとめない、
もしそのような行為を起こしたなら、斬捨て御免という抑止力を持たせたという、全く真逆の例から斬捨て御免を対面としての正当防衛として認めたまで。
なにが、裁判権だよ、なにが特権だよ、
馬鹿じゃねーの糞低学歴が。 そもそも裁判権てなんだよ?笑
低学歴がこれだから参るわ >>182
そもそも江戸初期、
被支配者層なんて、
藩自体、在地に直接行政権の行使なんて江戸を通して無ければ、
お前がいう被支配者層と解される唯一の要因は徴税のみしか藩の直接的な行政行為の関与なんかねんだが?
基本庄屋名主に在郷の行政権は全委任であり、
あくまでも徴税権のみ実効支配の権限行使してるのみ。
被支配者層と呼べる材料が全く具体化されないし、
そもそも大名や藩執政以外の下級武士は完全に生存権すら掌握された完全なる奴隷たる被支配者層だからな。
なにをもって被支配者層だなんて言えるわけ?
なんなんだろな、
ここって馬鹿しかいねーの? >>184
もうさ、お前なんの歴史の知識無ければ論外だわ
二度と書き込むな、
歴史の漫画か時代劇みた程度でかきこむとか、
糞だよお前まじ糞以下 お前らって基本勘違いしてっけど、
https://www.pref.tottori.lg.jp/211052.htm
>>舩越家は、この取調帳が作成された時期には中庄屋を務めていました。中庄屋とは高5000石の割合で置かれ、大庄屋を補佐した村役人です。
鳥取藩は、大庄屋は一万石の直接監督領を賜ってて、
屋敷は10000坪の長屋門、名字対等は勿論、戒名は院号許され、
藩家老を凌ぐ待遇と対面を全て許されてて、
下級武士程度が庭にすら入ることもできないんだが?笑
掘建て小屋在住の役すら大名に謁見すら許されず、墓も間違っても院号すら許されず、
長屋門なんて上級武士でも許されず、
しかし、10000石の直接行政権もつ支配領もつ大庄屋はもはや大身旗本レベルの影響力及ぼしてんだが 下級武士
掘建て小屋在住の役すら大名に謁見すら許されず、墓も間違っても院号すら許されず、
長屋門なんて上級武士でも許されず。
ド貧困。
庄屋を呼び捨てすることも許されてない。
鳥取藩大庄屋
鳥取藩は、大庄屋は一万石の直接監督領を賜ってて、
屋敷は10000坪以上の敷地が許されてて、長屋門も許され、名字対等は勿論、戒名は院号まで許され、
藩家老を凌ぐ待遇と対面を全て許されてて、
下級武士程度が庭にすら入ることもできないんだが? 庄内藩 大庄屋
肥後藩52万石二代藩主加藤忠広の改易後、庄屋藩の5000石の庄屋に就任
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/加藤忠広
>>5000石相当の大庄屋・加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している
庄屋は1000石以上の実効支配地持ってる庄屋、腐るほど日本全国いるんだが?笑 加賀 1000石庄屋 平時忠直系の末裔
>>時国家は、祖を平時忠(平清盛義弟で大納言)とする800年続く旧家です
>> 建物の内部は、大納言格式の「縁金折上格天井(ふちきんおりあげごうてんじょう
>>加賀藩主・前田家が訪れた際には「余は中納言だから…」と天井を隠して入室したという
加賀藩主からも呼び捨てはされず、時国殿と尊敬後で呼ばれてんだが?
しかも、納税免除までされ、実質領主として加賀藩主から特別待遇うけてんだが? 戦国大名 田村家
滅亡後
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E7%2594%25B0%25E6%259D%2591%25E6%25B0%258F
>帰農した旧田村家は敗北感を持たず、
>>腹で武勇に富み、各々家門を称して「御屋形様」と呼ばれた。
>>彼らはその高い誇りゆえに、新領主の蒲生氏や上杉氏の武威の前にも容易には下らず、
>>家中の士を軽んずる風さえを呈した。
>>そこで新領主は旧田村家庄屋に任じ、
>>身分を在郷の士分として扱い懐柔した。
>>そのため、彼らは在地の実力者として大いに権勢を誇ったという ◎江戸時代の一色党(伊予)・・・一色右馬三郎の末裔
・一色右馬三郎重之の子重勝は、文禄二年(1593)村の長(郡代官)になりました。
・その長男重次は周布三谷の庄屋になりました。
・次男重直が三津屋の庄屋になりました。
・重次の長男重政は、慶長十九年十月(1614)大阪冬の陣に三津屋港から
軍平二百余人とともに出陣しましたが摂津国尼崎で25歳をもって戦死しました。
さらに源氏の正統名門一式家は
・次男重昌は、周布村一色大庄屋お祖となりました。
・三津屋村庄屋は、三男の重行が継いで大庄屋になりました。
・彼の五男重好(新兵衛範好)は、明理川村の入庄屋になり、貞享元年(1689)には高橋氏に代って壬生川村の入庄屋になり貞享三年から大庄屋になりました。
・明理川の方は、彼の次男が継ぐことになって、一色家は四ヶ村の庄屋を勤めて繁栄しました。 超名門 武蔵一色家
http://4619.web.fc2.com/shiro411.html
秀吉の関東攻めの敗北後
幸手城主だった兄一色義直→直参旗本5000石
弟 政義 →庄屋
>>上川崎の渡辺氏は、家康より幸手領5000石を安堵された一色義直の弟・政義が当地に移り住んで渡辺と称したという。政義は帰農土着し、近世までの名主階層となった。 後北条家の最上位の武将にして、
伊豆下田城主 清水秀康
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/清水康英
>>後北条氏の家臣で伊豆加納矢崎城主(南伊豆町)、下田城主、二城の城主
>>本陣となり幕末に至るまで名主や年寄などを務め、明治に入ってからは沼津郵便電信局を営んだ。 江戸の武士なんか、
戦国以前なんか出自すらわからねーわ笑 江戸期の武士の出自について。
江戸の雄藩、鳥取池田家の大名が、江戸武士の出自をきちんと語ってるんだが?笑
>>家系図学者の鳥取池田家の分家鉄砲洲家の5代藩主で学者の池田定常は武士の系図を調べた結果「今の武家は民間よりあらわれて大名になった者が多いのでその先祖はよくわからない。戦国以前はその実一決しがたい 江戸初期、
たたっ切られてたのは在郷領主層だった全国の庄屋に軽輩の下級武士が無礼者とたたっ切られてた騒動が全国で村方騒動などで多発し、
その結果一揆や藩を揺るがす合戦も起きてる自体にまで及んでいたため、
幕府や諸藩は、軽輩の下級武士にも乱暴狼藉を庄屋が働くことは一切みとめないとし、
自己防衛の観点からと抑止として斬捨て御免を対面的に認めたまで。
なにが裁判権(爆笑)だの特権だよ笑
そもそも屋敷から戒名から待遇から何から何まで、下級武士の殿様たる藩主から庄屋より何一つ特権なんて与えられてねーだろが爆笑 >>199
飴と鞭、懐柔策と恐怖政治、ってのは統治の基本ですけどね。
意識を持ってない牛馬に対してだって、鞭で打つばかりでなく、塩舐めさせるだろ。 そもそも、
真田幸村の子孫も、
男子は仙台藩の上級武士に士官、
娘は庄屋に嫁がせてんだが?笑
そら、軽輩の下級武士じゃ庄屋に無礼働いたらたたっきられるっつーの そもそも、恐怖政治とは?
飴と鞭もくそも、
庄屋名主には、旧在地領主層の特権与えられてる事実上の在郷領主なんだが?
藩は村への直接行政権の介入は一切しないし、
あくまでも藩と村の支配構造として側面というなら、単なる徴税権のみ。
藩は実に江戸幕府300有余年の間、あまりの肥大化していた庄屋名主の在郷権力を切り崩そうとしてるが結局江戸幕府が滅びるまで突き崩せなかったですが? 旗本ですら1000石以上なんて十数家しかないが、
庄屋で1000石以上なんて全国何百家ってあるんだが? 因みにさ、
幕末にいたっても、
下級武士が庄屋を呼び捨てにしただけで、
無礼者だと藩の評定所に訴えまで起こされてるレベルなんだが爆笑
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/
>>12歳で父の跡を継いで北川村庄屋となった。後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚
→→→>>安政4年(1857年)藩の下役人に呼び捨てにされたことを憤り、他の大庄屋と連名で訴状を提出する
WWWWWWWWWWWW
時代劇じゃ絶対ありえない真実の江戸時代の力関係がこれなんだわWWW わかる通り、
斬捨て御免は、江戸初期、
庄屋に下級武士が全国で殺傷されていたため、
治安維持の観点から下級武士に正当防衛の権利を与えたってのが事実なのよ
時代劇じゃ絶対わからねえけどな笑 日本史の知識はある(かもしれない)が
品性と日本語力はないという 細かいことはいいんだ
日本の歴史は調べても調べても嘘だらけだから大雑把に捉えるだけでいい
薩長の倒幕に向かった下級武士というのは朝鮮部落民だった
武士というのは、南朝勢力と北朝勢力に分かれていて
それは南北朝時代よりもっと前から、1300年前から分かれていて
その実態は、北朝の連中は新羅人、南朝の連中が百済人だったと分かってきた
日本の歴史上の人物に日本人は一人もいない
こんな下らない歴史を勉強するのはバカチョンしかいないわけだ
そして薩長の下級武士とは、新しく半島から来た第三の勢力だった
今の日本の支配層は李朝だよ、英国に支援された李氏朝鮮の李朝だよ
以上、日本史は、これだけ知っていればいい
外来種の武士同志が私利私欲で争っているだけの無意味な国で歴史学部禁止も当然か >>203
Wilipedaの「大身旗本」の項目で、3000石超の旗本だけで200家越してるけど?
一万石超の大名が280〜300家くらいある、そのうちの10万石以上の四位国持大名が20家くらいで、5万石級の城持大名が50家くらい、
従五位下がやっとの一桁前半石高の小領陣屋大名が200以上というふうに、順当に考えたら、領地・禄高の大きな家が少なく下の方が数が多い
ピラミッド分布だよなあ。
八万騎の旗本に、1000石超が20家ないとかあるかいや?
それとは別に庄屋。
大体、小は村、大は郡が、管轄単位。村(惣村) < 郷 < 郡で、大体もとの郷長に相当するのが庄屋だな。
明治の頭に郡の数が700ちょい、平安時代の後半で郷の数が4000弱だ。平安時代の最盛期よりも人口は減るどころか結構増えているから、
郷に相当する統治単位の数は減っていないだろうとして、総石高が3300万石から4000郷で割って、平均8000石。
1000石分貰ってる庄屋が数百あったところで別におかしな数字でもないんだけれどなあ。 >>205
下役人だと、足軽・徒士・同心で武士じゃないよ? 「欧米で勉強しましょう」天皇は神の名において少女を騙し海外に販売した
向学心旺盛な少女たちは船底に縛られ、糞尿たれ流しで船員に強姦されながら海を渡った
現地に到着すると、全裸で犬のように売春宿の軒先に繋がれた
妊娠すれば腹を蹴られてボロボロになって死んでいった
少女一人当たり、当時の日本人の賃金の10年分で売れ
船で運んだ三井・三菱が財閥になってしまうほど売れた
三菱は稼がせてもらったお礼に皇太子(昭和天皇)の新居、
渋谷の第一御領地の「花御殿」を建設してプレゼントした
こうして名だたる大企業は軒並み朝鮮人の経営で始まった
明治の近代化の原資は日本の少女たちだったのですが
さて、天皇というのは日本人殺しと人身売買以外に何か実績がありますか? >>208
新羅は半島南部から拡大して半島統一した国であって、北部の国じゃないよ
半島の歴史すら知らないの? 母国でしょ? >>212
郡の数は平安から幕末までほとんど変動してないでしょ
明治初期に大合併があって郡が激減した
大阪府の一部であった河内国の場合、16あった郡が統配合されて明治には3郡に減った
他の多くの地域でも同様に統廃合されてる
他方、平安期には東北地方中部は一部分だけ、北部はまったく郡が設置されていなかった。まだ朝廷の支配下じゃなかったからな
東北地方の北端まで支配を及ぼしたのは奥州藤原氏が最初 >>212
百数十としたのを、百が消えてた、、
幕末には大身旗本の数減ったからな >>216
誰が北部と言ってるんだ低能
南北朝の南北の意味も知らんか低能 >>213
なんでそうだ、間違いなくそうだと断定してんの? >>213
しかも徒士はいちを下級武士の範疇だ馬鹿が
めちゃくちゃだな >>212
それから、旗本八万騎だが、
それは幕府がほざいてるオオホラな。
旗本八万なんていない。
御家人だって江戸在駐の直参御家人だってめちゃくちゃ少ないぞ数
そもそも関ヶ原の参加してる徳川方全部あわせても八万いないのに、
直属に八万の旗本なんていないし、
かなりの徳川プロバカンダが当時含まれてるから。太平記みたいに。 そりゃ、関ヶ原のときは徳川家の本軍は未着だから、戦場にいないのはしかたない 勿論旗本の意味は、その旗本八万騎とは違うが、
家として存在してる単位とは違う。
幕藩体制下では騎は少なくとも家を単位にする。
>>224
丸出しなのはお前だ粕 ではここで質問です
日本では1300年前から南北朝の戦いが繰り広げられ
南朝は百済人で、北朝は新羅人だったことが分かってきました
では明治から新たに登場した、
南朝でも北朝でもない、第三の系統の天皇は何者なのでしょうか? 後南朝(大覚寺統)の大室寅之助です。百済王の血を引く大内家が庇護していたとか >>220
明治の身分の分類で、同心・足軽・徒士は「卒族」もしくは「平民」に分類されて、武士・下級の公家の区分の「士族」ではなかった。
ちなみに、必殺仕事人の中村主水は刀を佩いて役と禄を貰って番所に出勤していたけれど、身分は同心。 >>222
そりゃ全員参戦してたわけではないでしょう?
たとえば家康の子の武田信吉とその配下はお留守番だったでしょう?
関ヶ原合戦で勝ったら勝ったで、石田方の大名から召し上げた領地、更に大坂戦役で豊臣の200万石を分捕って豊臣に味方した大名も取り潰して、
なんだかんだで、小田原征伐のときの関東250万石から大坂戦役後に440万石にまで江戸徳川家領が増えてんじゃん。
統治の為に必要な人員を新たに召し抱えたり、家臣のところの冷や飯食らいの次男坊三男坊を召し出させたりして、旗本等に加えたんじゃないんかい? 関ヶ原のときは恩賞はほとんど豊臣恩顧武将たちに分けざるをえなくて徳川の領地はあまり増えてないよね 「百済王の血を引く大内家」とは鬼塚さんも言ってたけど
大室寅之助というのは南朝天皇の血筋ではないのだろう
時代劇に天皇が出て来ないように、戦国時代の天皇には権威が皆無で、乞食のようだった
たぶんそれは北朝天皇のことで、南朝天皇なんてとうに途絶えていたのだろう
大正天皇を殺して昭和天皇に前倒しというのは
明治・大正天皇はどうでもいい間に合わせ的存在だったと思われる
そして昭和天皇の母親がクリスチャンというのがポイントだ
ここから李氏朝鮮の李王だよ
倒幕に徳川内部から加担した水戸の黄門が梅里と言ってるじゃないか
水戸黄門は最初は満州の電通が作っていた
満州は高句麗だよ
そして梅の里は李氏朝鮮
つまり、百済の源流の高句麗に遡って天皇を出してきたってことになる 幕末の尊王攘夷で、井伊直弼や吉田東洋、孝明天皇、平岡円四郎、佐久間象山、原市之進ら
が暗殺されました。こうして佐幕側は有為な人材が枯渇し、がために倒幕に到る
大正昭和はテロの時代で、同様に原敬、濱口雄幸、井上準之助、犬養毅、高橋是清
が殺されています。犬養首相が殺された時は文民の首相候補が枯渇し、以後軍人首相になり終戦まで
やはりテロは時代を動かす決め手になりますか? 日本を動かしていたのは政治家じゃなくて
英国とバチカンなんだからテロとか関係ない
天皇が上智大学にいるバチカン大使に指示をもらって
皇族が軍隊を動かす
情けない、朝鮮人天皇の国 >>231
だから、徒を下級武士扱いにしてる藩が大半だといってんだよ
そもそもそんな身分なんぞ、
江戸以前から普遍的定義なんてないどころか、
戦国以前の在地武士層とは全く真逆の雑多が武士という存在になってんだ。
江戸幕藩が勝手に江戸以降作った私的制度レベルのものなんだから、
各藩によってもまばらなのはまさに、江戸以前とは成り行き、変遷が全く違うからに他ならない。 >>234
元寇でおなじみのクビライ皇帝、生母はキリスト教徒だったけれど、本人は仏教大好き、民政はなんでもチベット僧のパクパ僧正に相談してた。 >>232
いやですから、そなたが、幕はんのなかでの旗本の家は八万騎だからと揶揄したので、
人の数が家の数ではなく、
家単位に身分は付された株式会社みたいな物だから、
旗本家は八万騎とは直接的な係数の割り出しはできないし関係ないといったまで。 もちろん分かってるだろうが、
下級武士程度の貧困奴隷階層に江戸時代でも、
そこに生れたて次男三男なんぞ大半町人だぞ。 しかも、
士族だの卒だの笑
日本最高峰の武家にして、いや、もう武家とかいう江戸以降の雑多出自の分類ではなく、
軍事貴族という扱いになってるだろうが、
公家以外では日本最高峰にして日本最高峰の血筋たる一家である足利将軍家。
その唯一無二の直系の血筋を引く幕末の平島公方足利家は、
明治新政府に平民にさせられてんだが?
爆笑
WWWWWWWW
明治新政府の都合に日本最高峰の軍事貴族が、
徳川将軍家の偽出自としてる世良田家の数億倍直系の日本で唯一無二の直系リアル源氏は末裔で、足利将軍家唯一の直系の血筋の平島公方家は、平民にされ、
糞みてーな江戸以前は先祖も出生地すらわらねえ雑多上がりの江戸の下級武士でも士族WWWWWW ●日本最高峰の武家の頂点の血筋にして、
リアル源氏の唯一無二のリアル直系で、
足利将軍家唯一の直系の血筋の生き残りの
平島公方足利家 明治政府に平民にされた。
●江戸以前の出生地も出自もわからなければ、
土地もなければ貧困極まりなき下級武士でも余裕の士族
薩摩や長州じゃ、倒幕に参加した漁師や力士、小作人や職人にも士族を乱発wwwww
笑WWWWWWWWW
こんな内的ルールでの割り振りに何の価値だよ笑 公式には、もはや武家という曖昧な江戸以前の雑多あがりとは区別するため、
公式は足利将軍家は軍事貴族という貴族だからな笑 訂正
江戸以降の出自不明の雑多あがりの江戸武士との区別のため、
足利将軍家は軍事貴族という区分にされてる。 軍事貴族のリアル直系のリアル源氏の
現存の日本最高峰の軍事氏族の最高峰の足利将軍家唯一の直系の平島公方家は
↓
平民にされてますが?笑
江戸以前は出自不明だらけの下級武士は皆士族ですが?wwwww そもそも武士なんてみんな外来種なんだから
どうでもよい
たぶん戦国時代は華人が入ってきて
江戸時代というのは華人の時代だよ
そして明治以降は李氏朝鮮の時代だ
日本が朝鮮を併合したことになってるが
真実は逆なんだ >>237
英国が薩摩を手駒にしてアンチキリストの徳川を潰したのは分かりましたが、
薩摩側にテロの被害者がいないのは? 本を読んでいたら、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本の軍国主義、
みたいにセットで出てきたんだけど、日本の軍国主義をナチズムやファシズム
みたいなカタカタの用語にすることはできませんか?
また、ナチズム、ファシズム、軍国主義にはどんな共通点と相違点があるのでしょうか? ナチスがナチズム、ファシスト党がファシズム、軍国主義はミリタリズム
同盟を結んだだけで共通点はないよ。
党>国家という共通点では、中華民国や中華人民共和国とか。先軍思想とも違う いちおう、全体主義という共通項はあると思う
ただ、全体主義的な国は他にもあったわけで、顕著な共通項といいきれるのかどうか 日本の軍国主義は主義じゃない
明治からの日本は英国に作られた元祖ISISなのだ
日本の兵隊さんは、ロシアから中国、東南アジアに派兵されたが
何のために戦争しているか理解できなかった
例えば、シベリア派兵なんてロシアで6年間も殺戮を行っていたが
日本の国会ですら「あいつらロシアで何してんの?」状態だったのだ
命令に従うだけのロボット日本兵に主義主張など無い
英国に言われた通りに意味不明な戦争をするだけ
生きてる価値すらない哀れな日本兵 兵隊は命令に従って動くもの
兵営に入れば個人で要らぬことを考えるのではなくただ命令に従うロボットとなるよう鍛えられる
いわゆる「娑婆っ気を抜く」というやつだ
軍国主義とかいうのは兵隊個人の主義じゃあないよ
国家意思だ ローマ教皇も日本の天皇も近世において権威が一番低下していたけれど、
どちらも近代〜現代に権威が復活してきた
何かの歴史的法則があるのだろうか? >>257
歴史的に言うと、軍隊が政治的にもちからを持つ、発言力を高めるのは珍しいことではない
古代ローマにおいて貴族制から共和制に移行したのだって、軍隊の主力が重装騎兵から重装歩兵に変わったことで重装騎兵の担い手である貴族から重装歩兵の担い手である市民(?)に政治権限が移り変わった影響だし、
中世の日本で武家政権ができたのだって同様
徴兵制でいろんな階層の人が集まる軍隊社会は世論を集積しやすいとする説が台頭したことで軍部(陸軍)は世論の代弁者だと自認して政治力を伸ばしたっぽい
実際のところ、さほど世論の代弁ではなかったが。 天皇は当初は征夷大将軍を組織して
日本人狩りを行ってブイブイ言っていたが
手下の武士が、故郷の半島より広大な新天地で勝手に国を作り始め
天皇は次第に権力を失い、強い武家について回るシャーマンになっていった
それも戦国時代にもなると、戦乱で焼け出された天皇を支援する者もなく
小屋に住むも乞食状態で、色紙に短文を書いて金持ちに売り歩いていた
死んでも葬式もできずに腐乱死体になっていた天皇は
本来はそこで自然消滅するはずだった >>259
現代のミャンマーは市民階級が貧弱で、軍隊にばかり俊英が集まっていて、軍人が企業を経営したりしている
武力まで持っているのだから一強体制で軍部が幅をきかせている
日本の旧軍にも貧乏な家庭の優秀な子が学費無料で士官学校を出たのが集まっていた
シビリアンコントロールを為すべき政治家達が与野党で潰しあいをやっているのをよそ目に昭和維新を目指す青年将校達がクーデターを起こそうともした
だが、もっと上の階級の軍人となるとこれを潰す立場に立ち、あるいは青年将校に担がれた者も結局日和った
軍部は戦争を遂行するのが仕事だし、その動きを文民統制できなかったのが日本の弱味だった 明治政府は当初、政府関係の各組織それぞれに特定の元老がいて、元老の話し合いで政府を動かしてたから、各機関の間の上下間系を明確には規定してなかったんだよな
だから、軍と内閣と国会、その他いくつかの機関が、明確には上下間系がなく、統制できなかった
元老たちが現役のうちはよいが、徐々に元老たちが死去していくにつれ、元老による調整は困難になり、最終的に全ての元老が死去したのちは国会や内閣が軍を統制する方法がなくなった 大臣が言うことをきかなくても総理大臣がお前クビ、交替ってやれなかったんだよな 拝察報道見てて思ったけど、昔って天皇の生の声とかよっぽどでないと聞けないのによくトラブル起きなかったな 幕末について質問です。
「徳川家が朝敵とされた際、250年前に豊臣家を滅ぼしたことも罪状に上げられたor理由にされた(それくらい朝敵とされたことが無理筋だった)」
というレスを時たま見かけるんですが、
ネットでそれらしい言葉で検索しても資料を私には見つけられません。
慶安四年の御触書、いわゆる「徳川慶喜追討令」には「挙兵したのも大阪城に退いたのもけしからん」
といった話しか載っていません。
たとえば、「大阪城云々」が「豊臣家を滅ぼした」ことと混同、誤解されたのでしょうか?
それとも貴族の日記か何かで「検討材料に上がった」程度の話なんでしょうか? 朝鮮の敵で何が悪いんや
徳川は華人だから、南北朝の朝鮮天皇の方が中華の外の野蛮人てことである
日本人に初めて平和と教育をもたらしてくれた徳川の方が
どう見ても下劣な人殺しチョン天皇より格上なわけで >>264
そもそも、天皇が臣下に声をかけるということは普通はできなくて、身の回りの側近たちぐらいしか声を聞かないのが普通 いままで大正に男子普選が始まったという認識でしたが、昭和の時代にもまだ高額納税者しか投票に行けなかったと老人から聞きました
なにかそういった法律があったのでしょうか? >>267
生の声を聴いている東條や安倍が御言葉をガン無視していたんだからトラブルしかない。
西村は懲戒解雇すべき案件。外に漏らすなんて万死に値するだろう 天皇はオリンピックの名誉総裁だから
コロナの感染拡大が心配される中での開催となるから、天皇はそのことについて心配してるとわざわざ言ったんだよ
もし本当にオリンピック開催が始まるとともに感染拡大したら、オリンピックの名誉総裁である天皇の責任問題に発展する恐れがあるから
予防線をはることで天皇に責任が及ぶことを回避したいという意図がある 天皇の政治利用として最大・最後のものは「王政復古の大号令」でしょうか? そのころは今のような象徴天皇制じゃなかっただろ
勅許したりしなかったりで幕府を困らせてたし >>244
領地無し禄無しでは家を維持していないんだから藩?たりえないじゃん。
支配層から脱落した浪人だから統治ノウハウも無ければ旧支配層としての補償を受ける資格も無い。
そもそも、源平藤橘他名族の末裔なんてウジャウジャいるんだから、別段、足利を優遇する理由も無いわな >>277
源平藤橘なんて九割自称だからな。
それに、明治の士族なんて、討幕に参加した薩長側の漁師や小作人にもガンガン発行してるだけじゃなく、
十津川郷士みたいなのにもなんの意味もなく与えてたり、別に基準があるわけじゃない。
だから、
>>支配層から脱落した浪人だから統治ノウハウも無ければ旧支配層としての補償を受ける資格も無い
こんな基準などない。
それに、幕府は足利を超別格に扱って来ただろ、
平島公方より格下の喜連川家も大名並に扱ったり帝鑑家に列しさせてる、御三家並に扱ってんだろ。
さらには平島公方からしたら超絶格下の吉良も高家筆頭で旗本最上流の家格扱いなんだからよ、
足利は超絶別格扱いなんだよ。
平島公方は明治政府が意図的に決まってんだろ
基本は明治政府の勝手な都合と裁量。 「日本に神道なんて無かった」
天皇に関するあらゆることが嘘だと知っていたが
さすがにこれには度肝を抜かれたわ
天皇に関して「これは事実だ!」というものはありますか? 宗教に関することを、これは事実、これは嘘などと二元的に割り切る方が間違ってるんじゃないか >>276
ローマ教皇は世界史板の話題なので
日本の天皇が現代に復権したということについては
憲法で役割を明記させたことだろう
大日本帝国憲法では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
日本国憲法では「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」
これを義務教育で叩き込みテストにも出す
国民誰もが天皇という地位の存在と役割を知ることになり
憲法に規定された偉い人だという認識を子供のうちから持つことになる >>279
ずっと続いている。
存在している。
それだけは間違いない。 神道を伝承している者がいないんだよ
天皇は江戸時代まで仏教で、明治からユダヤ教で、昭和から隠れクリスチャンだ
皇居の近所の上智大学の神学部教授がバチカン大使であり、戦争の指示を受けていた
で、明治からの国家神道はでっちあげの幻だが
日本人の心には古代神道が脈々と続いているだの分け分からんことを言ってるが
誰がどうやって神道の教義を伝えたんだよ
ラジオも電話も車も無いんだぞ
もう本当に何もかもが嘘だぞ天皇は
宮中祭祀なんか大正時代から始めたからな
そりゃそうだ、日本人の誰も天皇なんて知らないんだから
宮中祭祀なんかやっても誰も見に行かないぞ
テレビが無いんだからさ
天皇は渡来人武士向けシャーマンてのが実態だ >>281
憲法や法律ではないけど、明文化ということなら、江戸時代には禁中並公家諸法度という特別なものがありました
まあ、下々の者は知らないでしょうけど 神道のトップたる官職 神祇官ってのが朝廷にあって、いちおうは古代以来ずっと官庁が存続してはいる
教義は失われたのではなく、もとから存在しないだけ なんか、低学歴しかいないんかい
そもそも江戸期の朝廷くらいバチカンが権威失ったとおぼしき事例はない
しかし、中世封建よりバチカンが失墜した権威は確かに明白。
それは朝廷とバチカンではその行き着いた結果に至る課程が全く違う。
カトリック国家は早い段階で三権分立とまではいかなくとも宗教的権威が行政や立法の分離が比較的早い段階で排除していった。
しかし、日本にはそんな近代化は白人様の教養によってもたらされたまでなので、
天皇の権威は単に実質的な権力が伴ってないためのもの。
近代において、そもそもバチカンが封建社会の時代にまで復権を遂げてるとなにをもって感じてるのかしらないが、
少なくとも天皇においては、
薩長閥が、天皇を法律よりさらに不可侵の立場として上において、天皇の権威を我が物にして、その威光を傘に来て国民総奴隷化を図ったために、薩長閥が天皇の権威と存在を帝国憲法で作り上げたから復権した。
天皇が、なにかしか自ら存在と意義をみせつけたのではなく、
特に薩長閥が天皇の権威を作り上げ、不可侵の存在にしたてあげて自ら国家を我が物かなしようとした明治政府の国策が今の天皇の存在感に影響してるだけ。
国民が熱望したとかではなく、
天皇崇拝を一般国民に強制させて
鶴の一声という傀儡を元に国民総奴隷化を図った薩長閥の思うつぼだったってだけだが? しかも、イギリスにおいては、カトリックじゃねーけどよ、
イギリス国教会の権威は歴史においていまだに中世レベルに政治分野でも健在だが?
天皇とバチカンで、イッショクタに話す馬鹿が話にならないってことなんだわ。
全く状況もちげーしよ >>286
デンパ発言ばかりのキティ_guyさんはスレに書き込まないでください 今の天皇は明治に英国がデザインしたものであって
江戸時代の天皇とは別物だ
戦国時代の天皇なんか死んでも腐乱死体で放置されるような奴だった
誰の支援も無かった
本当はそこで自然消滅するはずだった
しかし徳川がちょっと支援してしまった
そして英国がなぜ天皇を神にまでしたのか
それは国家の概念を持たない日本人に中露と戦争させるためだ
中東にアッラーの神のために戦争する変なのがいるじゃないか、あれと同じ原理で
明治政府は、天皇の存在を知らなかった日本人に弁士を派遣して、天皇のおとぎ話をきかせた
皇居のとなりに英国の軍隊が駐留していて、エルサレムのヘロデ門で使っている太陽=菊の御紋を使わせるとか
君が代の曲を与えるとか、日本人のISIS化をしていたんだよ
英国のそういう民族を操るノウハウは凄いものがある 全ては統帥権含む政策から、体制翼参会、国家総動員法に結実されうる全体主義というなの国体、
山縣が国民総奴隷化を唄ったまさにその通りになってんだが、
おい低学歴、
なぜ世界でも稀なこれらの施行が成せたのか、
なら言ってみろや >>277
源平藤橘なんて九割自称だからな。
それに、明治の士族なんて、討幕に参加した薩長側の漁師や小作人にもガンガン発行してるだけじゃなく、
十津川郷士みたいなのにもなんの意味もなく与えてたり、別に基準があるわけじゃない。
だから、
>>支配層から脱落した浪人だから統治ノウハウも無ければ旧支配層としての補償を受ける資格も無い
こんな基準などない。
それに、幕府は足利を超別格に扱って来ただろ、
平島公方より格下の喜連川家も大名並に扱ったり帝鑑家に列しさせてる、御三家並に扱ってんだろ。
さらには平島公方からしたら超絶格下の吉良も高家筆頭で旗本最上流の家格扱いなんだからよ、
足利は超絶別格扱いなんだよ。
平島公方は明治政府が意図的に決まってんだろ
基本は明治政府の勝手な都合と裁量。 https://pbs.twimg.com/media/EGq3OiqUEAAVgbd,jpg
これは誰ですか? 芸者にポーズ取らせて撮っただけでしょうか
中沢琴と書いてあるページもありますが間違いですよね? 中沢琴
上野国利根郡の生まれ
幼少から剣術に優れ、1863年浪士組に参加する兄に従い男装して京に上り新徴組に参加、各地を転戦
身長170cm、男装すれば娘たちが惚れた
昭和2年没 >>254->>256
日本の軍国主義は明治維新以来の「富国強兵」の流れだと思うのですが、
この富国強兵は当時のプロイセン王国の政策を参考にしたとのこと
プロイセン王国も何かにつけ「軍国主義」と言われたのですか? 三国志と項羽と劉邦を見ていて
思ったのですが、日本史でも
孔明の空城の計や陳平の離間の計
みたいな権謀術数が使われた
ケースはあるのでしょうか?
あと日本独自の策略で何がありますか?
三十六計にあるような
策略は無いのでしょうか。 山本勘助が考案したとか言われている戦術で、きつつき戦法というのがあるが
きつつきにそんな習性はないらしい orz 誰が言い出したんだ、コレ…
戦術だと、釣り野伏せかな? >>301
策略はあったかもしれんけど、その内容の記録が残されてないからねえ
策略について書かれてるのはどれも、軍記ものとか物語系ばかりで、史実っぽくないから、残念ながら不明 『甲陽軍鑑』
三方ヶ原の戦い後の浜松城
毛利元就が敵方の尼子国久、江良房栄、宇山久兼に使った 甲陽軍鑑は江戸時代に作られた作品で、史実も含まれてるし創作も含まれてる
作戦の内容が本当に史実とは思いにくいんだけど、史実だと信じる論拠はなに? 『三国志』や『項羽と劉邦』は昭和に作られた二次か三次小説なのに、
何真っ赤にしてんだよ? 回答ありがとうございます。
では陳平、賈くみたいな策士は
日本には居なかったと言うことですね。
信長や秀吉も策士を
雇ってなかったと言うことですね。 戦国武将、信長、秀吉、信玄の
配下には陳平、賈くのような
策士は居なかった、と言うことですかね? >>301
指導者の発言による
ビスマルク: 「鉄と血だけが問題を解決する」
習近平: 「中国人民の血と肉で築いた鋼鉄の長城にぶつかって血を流すだろう」 >>309
明智光秀、黒田官兵衛、竹中半兵衛、石田三成、曽呂利新左エ門、天海 物語、小説に出てくる策士が居なかったのかとか言われても 本朝で言うと、『通人三国師』(夢中楽介 1781年)に、吉原で料亭を営む劉備の元へ借金を抱えた孔明が転がりこみ、さらに仲達が押し掛けるが孔明が撃退するという策略が描かれている >>312
その人たちは誰を相手に
何という策略を使ったのですか? 比較が変。皇帝に仕えた陳平、諸葛亮
正親町天皇に仕えた信長、秀吉、信玄 アホか
天皇なんかに仕えるバカはいない
その頃の天皇は単なるシャーマン
お抱えの&ロ愛子的なもの
戦国時代の天皇は焼け出されて、
誰の支援もなく乞食状態
なんの能力も無かったというわけだ 関白秀吉に仕えた軍師は黒田官兵衛がいたとして
宰相諸葛亮に仕えた軍師は、楊儀になるの? 天皇って征夷大将軍で日本人狩りした以外に何かやってた?
具体的に はじめまして変な質問なのですが、
一般的によく言われる偉人(特に江戸明治の)の名前なのですが、
諱である人と通称とかそういったものである人が混在していて、どんな法則なのでしょうか
例として伊藤博文は諱の博文で基本的に呼ばれるのに龍馬は諱の直陰じゃないし、
バラバラすぎてずっとモヤモヤします。統一してくれ… 明治になって戸籍簿に登録された名前のある人はそれが使われる
板垣退助正形は板垣退助、大久保一蔵利通は大久保利通
戸籍簿ができるまで生きていなかった江戸期の人は、一般に知られていない実名は書かれない
坂本龍馬直柔、大塩平八郎正高、‥ >>324
普通は諱ではなく実名(ジツミョウ)では? アザナではなく仮名(ケミョウ)が普通と思う 仮名実名の他に、雅号とか道号とか戒名など別の名前を使ってる人も多いな
斎藤道三の道三もだし、玄白とかも。
道頓とか太田道灌とか
利休もか 薄汚い寄生虫天皇って征夷大将軍で日本人狩りした以外に何かやってた?
具体的に 戒名で呼んでるのは僧侶だけだけど、僧侶を戒名以外で呼ぶことは少ないよね >>327
勝海舟については勝麟太郎義邦で来たのがエラくなって勝安房守となった
明治になって安房守はなくなったが依然そう呼んでもらいたくて勝安芳と似た字の名に変えたのだろう
だいたいこの男はそういう飾る心がある
明治になって旧幕臣の集まりがあったとき、新政府にしっぽを振って出仕していたのを咎められるように栗本鋤雲から「(無礼者)下がれっ」と怒鳴られてしまった 皆様、変な質問に返信くださりありがとうございます!
確かに法号が一番広まっている人も確かに多く、そのバラバラ具合に納得がいかず。もう思い切って本名がわかっている人は本名、そうでない人は通名で覚え直したいと思います…二度手間感 本名で呼び、書くのが当然と言う考えは近代戸籍での考え
その考えを昔のことにそのまま持ち込むのが間違い
昔は武士の実名などは秘すべきものであり、死んでからくらいしか書かなかった
だから諱(忌み名)ども言われるのである
万葉集に雄略天皇御製として
籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この丘に 菜摘ます児よ 家聞かな 名告らさね‥
という歌が納められている
丘で山菜を摘む女の子に家を教えろ、名前聞かせて‥と迫っているのである
本名みたいな秘密のことを聞き出せたらもうわがものにできたということ
好きな異性に知られてもよさそうだが、変なやつに知られたら呪いに使われるかも知れない
ほんとの名前は隠さなきゃ駄目というのがこの国の伝統だった >>330
出家するときに与えられる名前が戒名だろ 浄土真宗が法名、日蓮宗が法号みたいだね
自分も死んだときにつけられるものだと思っていたけど日本独自みたいだ >>336
それだって、本来は出家するときにつけられる名前なんだよ
葬式仏教という形でリニューアルされたことで、在家信者も葬式の時につけられるようになった、のかな? なんとかの乱、変と同様に例外が多く、質問者がおっしゃるように統一されていなさそうですが
教科書あたりでは武士は実名が基本で、武田晴信、大石良雄になります。
学者、思想家、芸術家は基本的に号です
渡辺崋山、吉田松陰は武士ですが、芸術家優先、思想家優先ということでしょう
林信篤は号は鳳岡ですが、幕臣優先で信篤が多いと思います
武士なのに通称で呼ばれるのは橋本左内、大塩平八郎です
大塩研究会の会長が「平八郎で指名手配されてそっちがよく使われますが、学者ですから号の中斎で呼んでください」と力説してました。左内も同様かもしれません
国学者は実名優先でしょう
よくわからないのは玄白、良沢で、これは通称です。
号は九幸、蘭化で、良沢を尊敬して伝記を書いた人は書名を『前野蘭化』にしています
ますますわからないのは久隅守景、本多利明です
推測ですが、号を変えた人は、通称や実名が安定していたらそちらを使うのかもしれません
上杉謙信、豊臣秀吉、浅野長政あたりから
最後に名乗ったのを使うという原則もあるかと思います
豊臣秀吉、 なんとかの乱、なんとか合戦、なんとかの戦い
どうして天皇が来てから無数の戦が起こるようになったのでしょうか
天皇は国の平和と民の幸せを祈っているのに、まるで効いていない
と思ったら、新羅人の北朝天皇と、百済人の南朝天皇が戦っていました
「天皇の私利私欲の戦い」とは呼びにくいので
戦に適当に地名をつけるなどして誤魔化していますか? まだ7月中旬なのに、夏休みで暴れる学生が増えたなあ
もう試験休みにはいってるからか 寺に出家する天皇が結構いたけど
神社の神職になった天皇・親王・皇子っているの? 神社より僧侶の方が身分は上だった
というか物部氏から奪った神社神道は中身空っぽなので
誰も神社なんかに見向きもしなかった
天皇は明治から神道になったと言っても
どこを探しても神道は存在していない
明治天皇は自分でユダヤ教だと言ってるし
昭和李王も「神道なんて単なる儀式ニダ」と言っている(ホイットニー文書)
昭和李王はキリスト教であり、近所の上智大学神学部の教授が皇居に入って戦争の打ち合わせをしていた
その教授はバチカン大使でもあった 天皇は明治から神道になったと言っても
どこを探しても神道は存在していない
明治天皇は自分でユダヤ教だと言ってるし
昭和李王も「神道なんて単なる儀式ニダ」と言っている(ホイットニー文書)
人食い昭和李王はキリスト教であり、近所の上智大学神学部の教授が皇居に入って戦争の打ち合わせをしていた
その教授は人食いバチカン大使でもあった すげえ、デマ以外の要素が、名詞いくつかを除いて全く見つからねえ
それとて、「その名称の存在はたしかに実在するけど」レベルで、内容は全部デタラメだし 平成天皇も令和天皇も殺されて実は影武者が公務してるってホントですか? >>350
上皇と今上天皇しかいませんが
あなたは半島から来たのですか? 上皇とか今上とか、
薄汚い朝鮮李朝の専門用語を使わないように願いますよ 上皇なんて日本以外にいたのかね?
日本では、平安時代に太上天皇の略称として使われてると思うけど、スモモ朝鮮はもっと後の成立だろ
今上は中国から入った言葉で、スモモさんは輸入しただけでしょ 注)李下に冠を正さず
(スモモの樹の下では帽子をかぶりなおすな) 岩波文庫版の太平記(二)46ページに
《その矢、矢坪(矢のねらい所)を違へず、尾張守が甲の真向のはづれ(兜の正面の下)、眉間のただ中に当たつて、脳砕き骨を分け、胛のはづれ(肩胛骨の端)へ矢さき白く射出だしたりける〜》
ってあるけど、これどんな弾道? ageないとだった
あと、たしかもっと前半のほうに、《車に家を乗せて門を壊す》みたいな描写があって、どういう状況かよくわからなかったんだけど、いま見つけられない、、、
壊した家の材木を大八車みたいなのに乗せて突っ込んだのかなと思うけど、家一軒まるまる乗せたようなことしか書いてなかったと思うんだよね。記憶が曖昧でごめんだけどあれはどういう状況だったのか解説できるひといませんか?? ID表示されないのか
358の質問も岩波文庫版の太平記についてです! 前後一・二ページをスキャンしてウプしているなら兎も角
僅かな語数で文意を推測しても
後から「○○という説明があるからそれは違う」と言い出しそう…… そういう人が身近にいないんです。
質問する板まちがえました、すいません。 >>357
西洋物を引き合いに出してなんですが
ブレイブハートや純潔のマリアでググったら画像、動画出てきますが
割と上に向けて矢を放つので、放物線を描いて上から降ってくる感じになります
なので、一応ありえる描写かと思います
日本の兜の上側真ん中には穴が開いてることがあって、天辺とか八幡座というそうですが
そこに矢が命中することもあったと何かで読んだ記憶があります 今日、地元からちょっと離れた山際の神社に参拝したんだけど、
拝殿の近くにある社務所の中から、結構大きな声で神職や地元の
人の議論?会話?の声が聞こえてきた
「浄土真宗が〜」「日蓮宗が〜」「徳川が〜」「豊臣が〜」みたいな
言葉が聞こえてきたので、俺も議論に参戦したいと思った
そういう自分は大の歴史好き 尊王攘夷って歴史のバグだよね
やらないほうがよかった
幕末の動乱の死者数が多すぎる 琉球処分は日本のアジア侵略大作戦エピソード0に位置づけられる 他の板で質問したのですがレスがなかったのでこちらで失礼します
他に適当なスレがあったら誘導下さい
皇室関係の質問です
故寛仁親王殿下が生前散歩中に警察官に不審者扱いされて職質されたエピソードをどなたかが書かれてたと思うんですが、出典をご存じの方はおられませんか?
しばらく前にネットで記事を流し読みしてて、今日思い立ってネット記事を検索してみてもそれらしい話が見付からないんです。
野球帽を被った親王殿下の散歩姿が中々アヤシイ姿だったから、職質した警察官は熱心な人だったに違いない、っていうフォローが記述されてたと記憶しているのですが。 >>369
皇族の外出には必ずSPがついているが
SPが付いているにもかかわらず警察官から職務質問受けることなんてあるの? >>370
SPと一緒に御所周辺を歩いてたんだけど、親王殿下の身なりが(確かグラサンとマスクと野球帽?)あまりにも一見不審者過ぎて、警察官に誰何されたとかどうとか書かれてた記憶が
御本人もSPも無視して御所に一旦入り、SPが警察官に猛抗議してたとか記載があった気がします
>>371
鬼女の皇室スレで質問したけど、オリンピック開会式で盛り上がってて流されたんです
このスレには詳しい人がいるかもと思ったのですが、ふさわしい板を教えていただけないでしょうかで >>372
訂正
ふさわしい板を教えていただけないでしょうか? ほぉ、これが角の生えた女御と云はるる手合か
色眼鏡に覆面、頭巾の揃つた姿なれば、警護の同心の是を怪しみて咎め立てたるは尤もな事ならむと思料する処
取り立てて言上げする程にも無きかと思ふに‥ 双子が成長する過程で、親がどっちがどっちだったか分からなくなってしまったら
名前が入れ変わってしまうことは往々にしてあることなのではなかろうか?
(´・ω・`) 子供の顔は七回変わると言うけど、毎日見ている母親は間違えないんじゃないの
小学校や中学校で何組かの双子がいたけど、初見ではそっくりに見えても
一月もすれば違いが分かってくるように、見分けがつかない双子なんか俺は出会ったことがない >>378
あの、ここに来る前にそのスレで聞いてて、答えがなかったので移動したんですが…… >>380
不妊治療の弊害で強精剤で多子が多いらしいな。色の違うリストバンドで見分けするとかいうなあ
母親なんて馬鹿ばっかしだし。鹿でも馬と言う
>>379
深夜に聞いて朝一番に答えがないからって、馬鹿だろうね。このスレでは昼間十分すぎる程待っただろう?w
専門スレから、無関係な板の一般スレに来ますか(どうせ女性週刊誌と思ってんだろう >>381
常駐してる人が多いスレだったんで、ある程度待てばもうレスはないと思ってたんです
判断基準がおかしいですかね? 常駐している人限定なら、このスレで聞く理由はないでしょうね。おかしさが分からない困ったちゃん >>381
不妊治療で多子が多いのは、排卵誘発剤で複数の卵子が同時にでてくるとか体外受精で複数の胚を子宮に戻すとかのせいであって、精子には関係ないのが普通
数が少ない卵子が複数ないと多子にはならないよ せんせい質問∩(´・ω・`)
極めて下世話な話で申し訳ないのですが。
江戸時代、男性カップルが長屋に住んでいた……なんて話はあるんでしょうか?
陰間茶屋とか、男性同士の性的サービスがあったのは聞いていますが、同性
カップルが大手を振って市中にいたのかなー、と。 男女であってもカップルが大手を振って市中を闊歩しちゃいかんだろ jk
東海道中膝栗毛の主人公、弥次郎兵衛と喜多八はもともと客と陰間の関係だったのだが、肉欲の対象である美少年の年頃を過ぎても、友達としての信頼関係を築いてご存じの通り仲良く旅を続けていた 源義経は険しい一ノ谷を馬で降りる時に
鹿も四足、馬も四足
と言って降りたらしいですが山の中にいる鹿と平原にいる馬を一緒にはできないと思います
一ノ谷の傾斜がどのくらいのものだったかは知りませんがこのエピソード含め逆落とし全体が嘘くさくないですか? 軍記物の記述が派手に勇ましくなりがちなのは許してやってくれ >>387
そもそも、あの戦いそのものがインチキな攻撃なんだよね
上皇が講和を斡旋する使者を派遣して停戦させたタイミングで本体の範頼が攻め込んでて、それが本当の勝因なんだから
戦場全体の規模からしたら義経の率いていた奇襲部隊は誤差程度にしかなってないよ
前面の戦闘に隠れて坂を降りてるんだから、馬に乗って駆け降りなくても、馬を降りて手綱を引きながらゆっくり坂を降りてても奇襲そのものは成功してたんじゃないかな
小規模な部隊だから目立たないし。 >>387
風雲!大歴史実験「源平 一ノ谷の戦い〜鵯越の逆落としの真実〜」
ttps://m.facebook.com/NHKonline/posts/2222240127802640 寺毛安政(寺毛安政)って誰ですか?
日本史板にちょくちょくでてくる寺毛安政(てらもうあんせい)って
いったい何者ですか? 今みたいな高額なたばこ税がかかってたわけではないから、その分だけ安かった可能性はある
が、貿易コストや流通コストを考えたら、今と大差なかったかもしれん
ただし、紙巻きたばこ(シガレット)はなくて、すべて「刻みタバコ」だがな。 1800年頃 タバコ1匁(3.75g) 38文(700円) 現在
JT 小粋(刻みタバコ) 10グラム入り1パック520円
格安やん
シガレットは高いけど、刻みタバコやと四文の1ぐらいで買えるってことか
>1800年頃 タバコ1匁(3.75g) 38文(700円)
だと、8匁30gで308文(5600円ぐらい?)、小粋 3箱 1560円 江戸時代のキセル欲しいな
今のたばこは紙が毒な気がする 江戸時代のキセルは希少価値で少し高いかもしれんけど、現在のキセルも一部で売られてるでしょ
煙管ように使う刻みタバコもJTから売られてるんだし(一般のタバコ屋でも取り寄せは可能、カートン単位になるけど。) うちの店内在庫(昭和後期の不良在庫だった、現在は倉庫の肥やし)のキセルは1個500円(当時の販売価格)となってるな
デザイン性は、飾り気なしの日常用だが。
今でも専門店にいけば、デザインのよいキセルを売ってると思う 俺が30年前にデパートでタバコ売ってた時はキセルも職人の後継者がいなくていずれ無くなると
言ってたんだがなぁ。 >>338
武田晴信? 源朝臣晴信ではないんかい? 「武田」も通称だろ。従四位下に叙爵されてるし。
浅野長政も、豊臣朝臣長政だろ。豊臣姓に改姓した大名が復姓したのは徳川家康・徳川秀忠を除いて大坂戦役の後だしな。 >>400
苗字を使うようになった以後は姓(カバネではなく、氏の名の方)ではなく苗字を使うのが原則
木曽義仲とかは苗字じゃない可能性もあるが、姓ではなく名字を使う 足利義満は清和天皇の17世孫であるにも関わらず、皇位簒奪を目論んだ。万世一系の危機だったと騒がれますが
伏見博明氏は崇光天皇の18世孫です。他にいないという理由以外で何か違うんでしょうか? >>402
徳川家康も徳川秀忠も、それぞれ、源朝臣家康、源朝臣秀忠で、正二位やら従一位やら叙爵されて大臣やら将軍やらに任命されてるで。 >>402
苗字は通称だろ。
朝廷の叙爵や任官には使わない。
今の田舎の百姓が、村の中同じ苗字だらけだらけだから、屋号とか町内とか田んぼの名前でで呼んだりするだろ。
それと同じに、源平合戦の頃なら源氏も平家もウジャウジャいる、名前も似たようなの多くて多々かぶってたりもする。
源姓で「よしなか」は、伝記がそこそこつたわってるだけで4人もあるぞ。
元禄討入事件で赤穂浪士に切り殺された吉良上野介も、本名、みなもとのよしなか だよ。従四位上左近衛権少将の叙爵任官があるでよ。
そんな調子だから、采地やら本貫地やら屋敷やら戦功の有った場所やら官職やらで、通称が付くわけよ。
中世型封建制だから、采地は世襲されて、通称も相続される。それが苗字だな。
苗字は仲間内の通称に過ぎないから、叙爵や任官や宣旨のときには使わないんよ。 >>405
いや、それじゃなくて、教科書等での表記の基準に関する質問の回答の続きだろ? 姓は先祖代々受け継ぐものとして支那で約6000種がある
朝鮮半島では約300の少なさだ
ところが日本では地名を中心に様々に苗字をつくったので一説には約30万種ある 大河ドラマを見ていたら徳川慶喜はフランスへの公文書では源慶喜(みなもとのよしみつ)と称していました
今でも徳川本家はもちろん御三家の徳川家や御三卿(田安、清水、一橋)、また松平に至るまでその気になれば源姓を使うことができるのでしょうか? 明治初期に戸籍法が制定されたときに氏(源姓とか藤原姓とか)と苗字(徳川とか)の片方に、家ごとに統一させられてからは変更禁止になってるよ
その時点で源を選んでなかったら源は使えない 平(たいら)という苗字はそれなりにいる気がする
藤原は当たり前にいるが https://i.imgur.com/2WgnRTW.jpg
こういう名前で
たいらのゆうな
と読ませる苗字はあるのだろうか? 紀氏の末裔も現存するが
紀を「きの」と読ませてるんだろうか >>414
紀さんは、結構「きの」さんだな。そういえば。
「〜の」とかって気にしたこともなかった。 質問。日本史板で聞くべきかわからないんですけど
石垣に使うでかい石ってあるじゃないですか。あれって石切場?から
持ってきたと思うんですけど。でかい石って尽きないんですかね?
今後石垣が壊れたとして修復する時にでかい石あるんですかね?
人工的に石って作れたりします?もしくは小さい石を溶かして大きい石にする
技術とかあるんですかね? >>417
人工石材コンクリートというものがある
古代ローマ人はそれを石材として用いた
日本は近代までその技術はないので石材は取ってきたけど西洋と違い石垣くらいで上物は木造なのでそれほど分量はいらないし、そもそも石なので崩れても詰み直せばよく新材はそれほど必要としない 石垣でも大きなものは土を盛った上に石を積むので外見ほどには石を使わない、のではなかったっけ? >>418
この歌詞についてかつて地質学的な議論があった
風化侵食により巌が細石になる過程は、山、川を見ていれば見えることであり平安の人にも理解できただろう
だが細石が巌になる事を理解できていただろうか
土砂が堆積し圧力と熱、化学的作用で堆積岩になる事は18世紀以降の近代地質学でようやく見出されてきた事で平安朝の人が知っていたとは到底思えない
そこであり得る話として石灰によるコンクリーション作用である
石灰岩地帯では水に大量の石灰分が溶け込んでおり、この水が析出する際周りの土砂などを固めて岩になるのを見たのでは説があった
有名なのは沖縄のビーチロックで海岸に形成された岩の中にコーラ瓶化石が入ってるほど形成が早い 本土でも岐阜や山口、四国や山梨など各地に石灰岩がある
まあノアの洪水が後氷期海面変動だとかと言うのと同じでかなり無理矢理な議論ではあった >>417
近畿圏の主な石切り場
古代・中世 生駒
中世・近世 六甲
近世・近代 小豆島・家島・etc.
現代 あっちこっち 光明皇后について質問です
藤原不比等が大阪の和泉市室堂の田んぼで農作業してた13才の光明皇后を偶然見かけて都へ連れ帰ったらしいですが、なんでその辺りを通りかかったのかわかりますか?
都から相当遠いのに
あと、光明皇后の鹿伝説ですが、なんでこんなファンタジックな生誕の物語が作られたんでしょうか?
あまりにもお話が出来すぎて、こういう物語が作られた動機って、なにか研究されてるんでしょうか? 歴史資料集の年表を見てましたら、平安時代は天皇欄、摂関欄、
鎌倉時代は天皇欄、院政欄、将軍欄、執権欄、室町時代〜江戸時代は
天皇欄、将軍欄、明治時代以降は天皇欄、内閣欄が左端にあり、
その時代時代の天皇や将軍や内閣総理大臣などの名前が書かれています
もし、この令和の時代で天皇欄、内閣欄にさらにもう一枠追加するとしたら、
どんな欄が相応しいのでしょうか?
ちなみに、鎌倉時代はいくら権力構造が複雑だとはいえ、4つも枠いりますか? 現代は、追加するべき欄はないと思います
かまくらじだいは、時期によって重要度が違いますが、後鳥羽上皇やら後醍醐天皇、摂関家の九条殿やら、頼朝はじめ何人かの将軍、時宗はじめ何人かの執権が重要なキーマンなので、四つとも必要でしょう >>425
個人的には執権の方が重要と思っているのですが、歴史通の中には
「執権よりも得宗の方がはるかに重要だ」と仰る方もおられます
しかし、執権欄はあっても得宗欄はありません
これは、歴史を全体的・俯瞰的に見た時、執権>得宗であるということでFAですか?
ちなみに、該当人物は少ないですが、元老欄がないのも妥当ですか? >>423
光明皇后は藤原不比等の実の娘で、拾ってきた娘じゃないんだけど 歴代の徳川将軍は、増上寺(浄土宗)と寛永寺(天台宗)に葬られていますが、
どちらを墓所とするかは、各将軍の意志に基づくのでしょうか?
各将軍によって、信仰する宗派が異なるからですか?
また、徳川宗家の「家」としての宗派はどうなるのでしょう。
一つの「家」が、二つの菩提寺を持ち、しかも宗派が異なっているというのは、現代では、聞いたことがないのですが。 >>428
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1390698813
ttps://history-land.com/tokugawa-familytemple/
創価学会に支配されている現代日本と違って、江戸時代は多数の宗派を治めていましたからね 幕末の長州藩は他の藩にも増して尊皇攘夷思想が強かったのになぜ孝明天皇は長州藩を嫌っていたのでしょうか? 本当に尊公思想を持ってたなら御所に押し入ろうなどとしてなかった(禁門の変)
長州の尊皇思想が倒幕・反幕の名目でしかなかったからじゃないかなあ 尾崎行雄のことを「憲政の神様」と呼ぶのは何故ですか?
歴代政治家の中でもトップクラスで評価が高いってことですか? 渋沢栄一とか福沢諭吉とかなんであんなに見識が高かったんだろうな
今みたいに大学があったわけでもないのに 大学制度が阿呆なだけ。私塾が良かったのは先公次第で良いから >>426
執権は幕府の公的な役職なので欄があり、得宗は私的な立場なのでないのかと思います。
教科書本文をみると、得宗ではない執権は誰も登場しません。幕府滅亡も最後の得宗高時の自害という形で記されます。
俯瞰的にみた時の重要度は何とも言いがたいです。執権ではない得宗が幕府の実権を握っていた期間は短く、評価が難しいように思います。
得宗だからこそ執権になれるので、得宗が上と思うのですが。 >>426
元老も公的な役職ではないですし、しかも複数いて単独決定権はもっていないですから妥当でしょう。 >>423
このような伝説は初めて知りました。
「光明皇后 鹿 和泉」でググると詳しく記したサイトがいくつかあります。それによると不比等は勅使として槙尾寺に参詣したそうです。
出典は『大阪府全誌』が引用する国分寺の縁起のようです。
なぜ伝説が生まれたのかはわかりませんが
藤原氏には鎌足、房前、宮子にも地方誕生伝説があります。いずれも霊験的な内容を伴っており、藤原氏の類まれな発展が背景にあるのでしょう。 >>428
寛永寺の浦井正明貫主の著書に詳しいのですが、10年以上前に読んだのでうろ覚えで申します。
徳川家はもともと浄土宗で、家康は増上寺を菩提寺と定めました。が、家康の遺言(を曲解した天海の主導)で最終的に日光に葬られました。次の秀忠は普通に菩提寺である増上寺に葬られました。
ところが、家光は家康を深く尊崇し天海への帰依も篤く、二人の墓のある日光に葬るよう遺言しました。
天海は天台宗の僧で、日光と寛永寺建立の中心人物です。彼の活躍で徳川家と天台宗の強い関係が生まれ、天台宗の日光に将軍二人が葬られました。寛永寺には家光の霊廟も建てられ、徳川家菩提寺的な地位を獲得したのです。 >>428 続き
どこに葬るかは公式的には将軍の遺言(徳川実紀に記述がある)ですが、本当に遺言があったかの確認は難しいです。
次の家綱は初めて将軍として寛永寺に葬られました。普通なら増上寺のはずですから、実紀の記述のとおり寛永寺にとの遺言があったとみるのが妥当です。こうして寛永寺も菩提寺となり、ややこしい状況が生まれたようです。
供養料など莫大な収入が約束されるので、両寺は将軍の墓を激しく取り合いました。なので、以後は特に遺言がない場合は幕閣が協議し、バランスをとるように決めたとみられます。
遺言が明確なのは、霊屋の建立を禁じて寛永寺の綱吉霊屋への合祀を命じた吉宗くらいのようです。
以上、長文失礼しました。 >>436
北条時宗その他、鎌倉時代の重要な北条氏を検索すると、まず、第何代執権というのが出てきて、その後で第何代得宗というのが出てくる
その時点で一般社会的には執権の方が重要だということじゃないですかね
徳川家康も東照大権現である前に江戸幕府初代将軍だし、足利義満も太政大臣である前に室町幕府第3代将軍だしね
これは時系列の話じゃなく、重要度の話ね 卑弥呼の鬼道は
大食いフードファイターだった説って
あり得ますか?
(´・ω・`) 少し前のイラクって、宗教の宗派の断絶や争い、民族の断絶や争いを
強権かつ独裁的なフセイン政権ががっちり統治することで
表面上は平和で一定の秩序を保った国であったらしい
でも、そんな状態って今の日本ではなかなか想像しにくい
過去の日本でそんな状態に比較的に近い時代っていつ頃ですか? 五族共和の満州帝国とか日韓台の大日本帝国じゃないのかな
そういう国ではチトーのユーゴスラビアが一番すごいと思う >>441
治天の君みたいなものだと思えばいいよ(例外はいるが、基本的に天皇経験者)。一般社会では(おそらく執権がそうであるように)天皇のほうが重視されてるとう感じかな。 >>447
どの辺が似ているのか分からん
単に多民族がいる国々? >>447
今から考えると満州国は割りとうまく統治していたと考えられるからな。
実際アメリカも参考にしているくらいだし、
まあユーゴのチトーも死後の内戦を考えるとうまく国をまとめていたと思うよ。 >>450
アメリカが参考にしてたとかいう話は聞いたことがないよ。君の妄想?
あとね、五族はともかく、多民族協和の専売特許は清国にあるよ。だから清国の奴が名目上いなければいけないわけでね。日本はその威光を使い損ねただけさ。 >>453
宣統帝の威光を使ったこと。昭和天皇やシアヌークでうまく統治していた
アフガンの失敗はザヒルが使えなかったこと。だからガニみたいな… 料理について質問です。
徳川家康が天ぷらが好きとか逸話がありますが、
現代ではそういう油料理はサラダ油を使いますが
サラダ油は近代で誕生してますので中世以前の日本料理で使う油はサラダ油では無い事になります。
中世以前の日本料理で使う油は何だったのでしょうか? >>448
基本的にその意見に賛成
治天の君とか上皇とか、天皇よりも強い権威権力を持った人は複数いるけれど、
最終的に一番重要なのはやはり天皇ということにおちつくと思う
得宗=治天の君、上皇
執権=天皇
良い例えだと思う >>456
こちらに詳しいですが
https://www.yoil.co.jp/column/383.php
菜種油かゴマ油
歴史的にはゴマ油の方が食用としては多く使われていた。でも極限られて。 >>455
勘違いしてるみたいだが、満州では日本人嫌われてたよ。 >>460
満洲残留孤児は惨い人生を送ったらしいですねw >>458
上皇は権力のない称号にすぎず、
たいていの場合に複数いる上皇たちのうち実権をもってるのが治天、治天の君
治天でない上皇は、単なる年金生活者みたいなもん >>462
治天の君が幅を利かせていた時代の天皇もある意味そうだよ。正統なる皇統の中継ぎにすぎない天皇(後醍醐も実はそう)は得宗じゃない執権みたいなものさ。ただ、得宗と執権の関係性との大きな違いは、正統な皇統なるものがけっこう可変的だったことだね。 >>441
一般社会では執権でよいと思います
朝廷には天皇がいて、上皇が治天の君として院政を行い、摂政か関白もいるが、最高実力者は関東申次で
幕府のトップは将軍だが、実質は執権が率いているようで、得宗の方が力が強く、それでいて内管領が実権を握っているようで、最高実力者はその父
などという実情を一般人が理解するのは難しいと思います >>463
その、実権なしの天皇が引退させられて公職からはなれ、名目だけでなく実質も失った状態が上皇だぞ >>467
中継ぎ(とされちまった)天皇の上皇が、そうなるのは当たり前の話なんで(清盛んときの二条、六条とかもそうだな)わかりきったことを何を今さら、得々と恥ずかしげもなく言ってるんだ? 中継ぎなら珍しい少数例だけど、実際には上皇の大半だぞ >>469
最初から中継ぎの奴もいたが、後々みれば中継ぎになった奴らのこともいってる。だから()して“されちまった”といったわけだが。結果として中継ぎになったという話だね。君は皇統が王家の争いの果て(武力だけではなく権力闘争)、事後的に決まることが多かったことも知らないみたいだな いまの天皇だって千年後の王家からしたら留保つきで中継ぎになる蓋然性が高い。
皇統は弟のほうになるわけだ。
過去の歴代の上皇や天皇はそれに抗うがため、戦乱なり権力闘争に血道をあげたわけだよ。まあ大人しい上皇なら諦めだけだがね。例えば崇徳みたいのはそれが許せなかったら、乱を引き起こした。
後醍醐もそうだ(後醍醐はハナから中継ぎ天皇だったが)。 中世の天皇は早期に譲位してたから、同時期に三人四人と複数の上皇が生きてるのが当たり前だ
そのなかで、治天は一人だけ
しかも、治天は譲位しなくて基本的に終身、ずっと治天を続ける
だから、大半の上皇は生涯にわたって実権をもたないんだけど 戦後昭和を実体験として記憶している高齢者ってこのスレにいるのかな
実際のところヒロヒトってどういう扱いだったの
マッカーサーのおかげで戦犯になって地位を追われることはなかったけど、戦後においては国民から無視されるような存在だったのではないかと思うんだけど
あるいは忘れ去られた存在とも言えるか 元現人神だっただけあって昭和天皇のカリスマ感は大きかった
それよりあとの天皇とは違った
マッカーサーが天皇廃位を思いとどまったのも、日本国民の中での天皇の存在の巨大さを考慮したものだった
廃位すればGHQへの反発が恐ろしい
天皇は十個師団だったかの戦力に相当するとの言葉をマッカーサーは遺している >>407
だから、芸術家や思想家と同じく、武家の人名も、現代で通りの良い通称で載せてんだろ
細川ガラシャとか千々和ミゲルとかも通称どころか同時代にはよく知ってる人でもそれ誰よ?な呼び方よ?
現役時分の名乗は、前者、細川たま、後者、千々石清左衛門紀員だぜ。 >>423
まず、飛鳥時代・奈良時代の政治の中心地は、奈良ら辺ではなくて、大阪ら辺だったから。
平城京を中臣・藤原ファミリーの本拠地に強引に作ってはみたけれど、不便な場所で、国の一大事のときには
陪都の名目で存続していた難波京に天皇以下貴族豪族官人大集合。
難波京の場所は今でいうと大坂城跡から四天王寺にかけてのあたりにあったらしい。
で、大和盆地から難波京への往来には、竹内街道が使われた。
今でいうと大阪中央環状線 堺〜美原、府道三原太子線 三原〜羽曳野、国道166号 羽曳野〜橿原に大体近い経路。
藤原不比等も大臣だから、当然、自領の奈良から、竹内街道で今の堺のあたりを通って、難波京へとしばしば出向いていた。
ついでにいうと、今の地名でいうと堺市〜高石市〜泉大津市〜和泉市〜岸和田市のあたりは飛鳥時代・奈良時代には国の重要地域で、
念入に統治されていた。光明皇后の異父兄橘諸兄が直々に遣わされて久米田池の整備に当たらされたり、聖武天皇の前の元明天皇の
時期には和泉国珍務宮に首都がおかれたりした。
大臣がわざわざ出向いて見にくいくに十分な理由のある土地なのよ。 昭和初期の政治や人々の暮らしについて質問ですが、
今の時代と昭和初期の社会情勢、雰囲気が似ているという話を聞きましたが、どんな所が似ているのでしょうか?
この時代はまだ戦争起きる前で、この時代に生きてきた人々はまさか10年ちょっとで悲惨な戦争に突入して日本が焼け野原になるなんて想像もできていなかったですよね?
また、当時のアメリカの強い要望で、海軍の軍縮をさせられていますが、この時代はまだ日米戦争前ですが、日米関係や力関係はどんな感じだったのでしょうか?
今の多くの日本人が持っているアメリカに対する印象とは全然違ってるのでしょうか? 戦争のことなんかは全部アメリカさんにおまかせ
どうせ敗戦国だもの
金もうけだけ考えこう
‥こういう戦後ニッポンの考えとは違って、戦争前はアジアの強国を張る独立不羈の国家として対米、対露、対中の各戦略を練らなければならなかったのよ
思い通りには行かなくて皆さんにはご迷惑をおかけすることになるけれども‥ 大英帝国 … 世界の覇者。日本の同盟国 → 米国
米国 … 台頭しつつあった反日国家。債権国の強みで日英同盟を潰した → 支那
ドイツ … 前大戦の敗戦国 → ロシア
ソビエト連邦 … 革命の輸出を目論むカルト国家 → イスラム国
1. 日本は日英同盟(日米安保)を結び、ドイツ(ソ連)を倒しました
2. 新たな強国・米国(支那)は対日排斥活動を繰り広げ、カルト国家・ソ連(イスラム国)も誕生した
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3. 米国(支那)は日英同盟(日米安保)を断ち切ることに成功し、ソ連(アフガン)に接近する
4. 日本の右翼(安倍)が血迷ってドイツ(プーチン)と親交を深める。左翼は米国(支那)礼賛
5. 米国(支那)がベトナム(台湾)を口実に戦争へ 仮定の話だけど、東京都知事をした人がその後で内閣総理大臣まで登りつめた場合、
その人の一番の肩書はやはり内閣総理大臣の方になるのですか?
東京都知事でそれなりの評価や人気を博し、内閣総理大臣としてはパッとしない、
不人気って場合はどうなるのでしょうかね?
歴史上のある人物を後世の人間が考察する時、何をもってその人物の一番の肩書と
するのか、何をもってその人物の一番の業績とするのか、
これは非常に興味深く、かつセンシティブなテーマだと思います ちなみに今高橋是清を検索してみたところ、まず第20代内閣総理大臣と紹介され、
その後で「内閣総理大臣よりも大蔵大臣としての評価の方が高い」と書かれてました
この感じだと、先ほどの質問では、まず内閣総理大臣だと紹介され、その後で
「東京都知事としての評価の方が高い」と補足説明される感じになるのかな そうでしょうね
でも、都知事としての成果なり人気を背景に国会議員になっても総理大臣になるのは簡単ではありませんので、なかなかいないでしょうね
石原慎太郎さんなど、惜しいとこまでいったと思いますが、総理の座には届きませんでした 舛添なら東京都知事、厚生労働大臣どちらが一番の肩書になりますか?
橋下なら大阪府知事、大阪市長どちらが一番の肩書になりますか? >>475
細川たま?ありえない誤りだよ。
明智たま。夫婦別姓だからね >>472
だから皇統となるべく上皇は一所懸命なわかなわけさ。崇徳もそう。 >>483
政令指定都市は都道府県と同格ということなので、大阪府知事と大阪市長は同格なのでは? >>487
同格であっても、活躍度、時系列(最初が重要か最後が重要かは知らないけど)などで
肩書の重さも変わるんじゃないかな 都知事と府知事と市長との間で誰がイチバンエラいかの順位が法律で決まったりしてるのかい 誰も文句の言えない確定順位とか無いんだから、高橋是清は大蔵大臣としての功績が大きいと思えばそれを第一に挙げる
記述者の主観による順位でしかないし、またそれしかないだろう >>491
それぞれの権限の範囲そのものは法律で決まってるな
都知事は他の知事より権限が多い
偉さは同等だと思うけど でも福田元首相の説明文で、元首相よりも小泉内閣の官房長官っていうのがトップに来たらやはり違和感が残るねぇ 極官としては総理大臣だけど、総理大臣としては活躍も特徴もない、それより前の内閣官房長官時代の活躍の方が目立ってる、というのならば、そちらをメイン扱いすることもありうる、記述者の主観によるだろう
スガ現総理は、適否はどうあれ、コロナ対策関係などで総理としての印象が強くなるのでは。
カンナオト氏だって、原発事故対策で迷走した印象しかないだろ 米内光政は総理より海相の印象の方が強い とかそういう話かな 麻生太郎は財務相より総理時代の読みまつがいが印象深い 東條「陸相が首相を兼ねた」ケースは、首相w
大化の改新は天智天皇ではなく、中大兄皇子。飛鳥時代に「天智天皇」はいなかったけど おいおい
天智天皇が死んで天智とのおくり名をうけた頃でもまだ飛鳥時代は終わってないだろ?
藤原京への遷都より前はいちおう、飛鳥時代では
天智天皇時代の首都はたしかに飛鳥じゃなくて大津だが。 >>500
天智のような漢風諡号は奈良時代に付けられた。飛鳥時代ではない。
漢風諡号は、弘文天皇の曾孫、淡海三船(おうみの みふね)が天平宝字6〜8年(762〜764)年に
初代神武(じんむ)天皇から第44代元正(げんしょう)天皇までを一括撰定し、奏上したとされている。 >>496
福田さんも菅さんも首相になってからはいまいちだけど、官房長官時代はNo.2としてきっちり仕事したってイメージだし、世間の印象でもそんな感じじゃないか >桓武天皇は6年1班を12年1班に改め、班田収授の維持を図った
戸籍作成の手間が半減する以外に
12年にすると何のメリットがあるのでしょうか? <<440
遅くなりましたが、詳細なご教示、ありがとうございます。自分でもその後少し調べたのですが「複檀家」という専門用語が見つかりました。
用語解説は下のリンクをご参照下さい。
jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/複檀家
『浄土宗大辞典』の「複檀家」の項目です。この解説の4番目の形態に徳川宗家の場合は相当しそうですが、別のサイトの解説からすると、この形態は例外的みたいです。
将軍家だから例外的でも不思議ではないのですが、徳川宗家以外にも、例えば御三家や諸大名家・有力公家の中でも、二つの菩提寺を持っていた事例はあるのでしょうか? >>505
徳川宗家は、亡くなった代々の当主をほぼ均等に二つの寺に割り振って、埋葬・供養していましたが
皇室も同じようなことをしていたという意味ですか? 菩提寺ってのは菩提を弔う寺であって必ず埋葬場所になるわけではないぞ >>480
意外に日本って保守的でね、律令時代に当てはめて等級がついてるのよ。
東京都知事は、いうたら京職。従四位下相当。
内閣総理大臣は、内閣筆頭、最低ランクの内大臣としても従二位。
5ランクくらい違うのよ。 >>504
大名なんて大体そうなってるだろ。
領地で死んだら、領地の菩提寺
江戸で死んだら、江戸の菩提寺
程よい加減で両方とも本貫地に近いと1つだったりするが。 いちおう、律令の官制で常設の大臣は左大臣と右大臣のどちらか片方のみで、内大臣は令外官だし太政大臣は常設でなく、原則として空位にして置いて、特別な該当者が出たときだけ任命という扱いなんで、官位相当の一覧表に当てはめるなら左右どちらかの方がいいと思う、私見だけど。 京都の芸妓・舞妓さんって
要するに今で言うAKBとか乃木坂と同じっていう認識で
OK?
(´・ω・`) >>508
足利義満は室町幕府第三代将軍の後、晩年には太政大臣にまでなってるけど
第三代将軍の方が圧倒的に大きな肩書な気がします
まあ太政大臣は名誉職的なもんなのかもしれませんけどね 義満が生きていた当時にはまだ、征夷大将軍より太政大臣の方が上だった 江戸時代の将軍でも太政大臣になったのは数人しかいないわけだが 今回の菅政権が解散も総選挙もできなくなり八方ふさがりで辞任に追い込まれた
ように、過去こういうように八方ふさがりで領主が辞任や退位に追い込まれた
歴史的な事件は何が浮かびますか? 森喜朗の末期と似てるな
あの時は小泉純一郎登場で一気に風が吹いたけど
今回は河野太郎が小泉純一郎になるのかな >>516
江戸時代になると、少なくとも初期の将軍たちは朝廷、天皇を格下と思ってたっぽいが 班田収授法って全部田んぼなの?
畑は割り当てをしないの? >>517
笠谷 和比古 『主君「押込」の構造―近世大名と家臣団』 (講談社学術文庫) 豊臣秀吉は多指症だったという説がありますが、
これは歴史的史実と判断できるのですか?
それともあくまでも説どまりですか? >>517
領主ではないですが
三条天皇とか金沢貞顕あたりが近いような気がします
近年では海部俊樹とか >>504
すでにご指摘があるとおりです
ぱっと思い浮かぶ井伊家は、彦根の清涼寺と江戸の豪徳寺で、ともに曹洞宗です
紀州徳川家は和歌山の長保寺と江戸の寛永寺がともに天台宗ですが
初代頼宣の正室が熱心な日蓮宗の加藤清正の娘だった縁で
日蓮宗の和歌山の報恩寺と江戸の本門寺が妻女の墓所になっています
あと、おもな大名は高野山にも墓所を設けています
紀州徳川家は徳川本来の浄土宗とは縁がうすかったみたいですが、天台宗、日蓮宗、真言宗の菩提寺があることになります
そういえば、織田家は元来日蓮宗
秀吉が設けた信長墓所は臨済宗の大徳寺
子孫の天童藩織田家の菩提寺は浄土宗ですね >初代頼宣の正室が熱心な日蓮宗
頼宣の生母お万も熱心な日蓮宗 廃仏毀釈について質問です。
廃仏毀釈は明治維新で神道の方を優先するみたいな話が表向きですが
江戸時代までの仏教の社会的な地位に対する民衆の不満などが背景にあったのでしょうか?
寺が戸籍管理してたという事は、現代と違って江戸時代の寺は民衆を見下すような態度の存在であったとか? 寺もたくさん壊されたけど、神社もたくさん壊されてるよ
それまで神社で行ってた様々な宗教活動が、かなりの範囲で禁止されちゃってるし、領有してた土地も多く取り上げられてるし、取り壊されなかった神社も経営が苦しくなったところは多かったはず
それでなくても過半数というか大半というか、極めて多くの神社が潰されてるというのにね >>527
見下すというか寺請制度のおかげで檀家を獲得するための企業努力の必要が無いので
坊主丸儲けの状態で恨みを買っている面はあったのだと思います。 なんで江戸時代の人は肉を食べなかったんだろうな
だからみんな脚気になって不健康で早死なんだよな 肉は高かった
薬と称して食べる事例があった
脚気対策は肉に限らず、白米以外の食材を食べればオーケー、なんだけど、野菜や魚も江戸では高かったから白米しか食べなかったわけで、江戸では物価が特殊で白米が他の食材より安かったのが根本的要因だろう >>530
技術退行があったから。
これだけでは何か判りにくいだろうから、ちょっと長くなるけど、全部書くで。
まず、技術。主たる動力源は、世界中大体、古代=奴隷(人力)、中世=牛馬驢馬駱駝(畜力)、近世=風力水力、産業革命=熱機関。
で、畜力を使うと、副産物として乳脂や、余剰畜の肉が出てくるので、肉乳の利用が盛んになる。
ところが、江戸時代に技術退行があって、畜力の使用が減って、人力の利用に戻ってしまう。一部盛んになりかけた水力の利用すら、
再度人力に切り替わってしまうような有様。揚水水車なんて水力で自動でやってたものが、足踏水車に取って代わる始末。
牛馬のエネルギーは草なんだけど、余った草を、建材に使う有様で、徹底的に牛馬の数を減らしてしまう。
幸い、日本の周辺は好漁場で、鰯・鰊は田んぼの肥料にするくらいに取れ放題だったので、魚を食べて、少ない牛馬は食べるどころか
見る機会も減る有様だった。
で、明治になって、食糧の輸入が自由になる、石炭の利用が本格化して屋根瓦の利用がかなり自由になってくると、草を建材に使うことも減って、
耕牛・荷駄馬の数が急増するよ。 キューバ危機について質問です。
映画やドキュメンタリーで見ると相当煮詰まって一触即発になっていた事が分かりますが、
その当時の日本はどのような状況だったのでしょうか?
田舎に疎開したり目に見える社会的な動きがあったのでしょうか? >>533
たぶん、鎌倉時代末ごろから寒冷期に入って作物の収穫が減ったんだよ
そのせいで、家畜のエサを工面する余力がなくなった
武士達が使う乗馬すら以前ほど多くは工面できないので、農耕馬はほとんどいなくなった
江戸時代初め頃、17世紀に入ってから徐々に気候回復して生産が増えたけど、家畜を増やすより前に人口が増えすぎて家畜のエサを用意しにくかったのではないかな なんで忍者といえば甲賀なんですか?
スパイ養成は普通に考えたら各地で自前で育成してるはずですが 江戸時代も朝廷(天皇)から大政委任された幕府(将軍)が国を統治するっていう体制だったし、
明治以降も基本的に天皇から委任された太政官(参与など)や内閣(大臣)が国を統治するっていう体制
それなのに、なぜ江戸から明治の変革で「天皇中心」とか「王政復古」が強調されるのでしょうか?
明治以降、天皇親政になったとか、天皇がぐいぐい政治に口を出すという体制だったらわかるのですが >>540
その1行目は嘘だ
戦国時代に焼け出された天皇は、誰の支援もなく乞食状態に陥っていた
江戸時代は徳川に支援されたものの、豆腐も買えない貧乏な暮らしをしていたことが記録で分かる
神社の宮司のような存在だ
それが中東でアッラーの神のために戦争している気違いが参考になるが
天皇を戦争させるための神にしようと英国が計画した
貧乏で無力な天皇が突然神になるのは怪しまれるので
膜末には天皇に権力があるように見せかける工作はあったと思われる
無くても、明治政府は「江戸時代の天皇は権力があった」ことを捏造するはず 当時の日本は西欧列強に対抗するために、台湾、朝鮮、満州と領土拡大していった結果、英米中らの反感かってフルボッコにされたわけだけど、
今の日本って北海道と沖縄〜尖閣までの領土しかないにも関わらず世界2〜3位の経済大国で、
軍事費使ってないにも関わらず軍事力も5〜6位くらいまで強い国になってるわけよね
もし、当時から守りに入って、朝鮮半島併合せず放置して、日本の血税、労力を全て日本列島のみに費やしていたらどうなっていたんだろう?
いわゆる当時のアメリカのモンロー主義的な方針で野望出さなかったら、英米の反感買う事もなく、国際連盟脱却することも無く、焼け野原にされることもなく、スイスのような中立国として今よりもっと繁栄できていたと思うんだけど、どう思う? >>540
形式的には将軍の任命や官位授与で幕府より上のように見えてるけど、実態は一介の大名として扱われてるだけ、幕府より下と見なされていた。 >>544
>実態は一介の大名として扱われてる
それはない >>542
当時の国際貿易はブロック経済の影響が強く残ってたから、中国東北部や韓国を勢力圏にいれとかないと経済面で苦しかったんじゃないの
無理言うなぃ >>542
台湾と朝鮮に関しては反対されていないし寧ろ賛同的だった
英米のほうがアジア侵略で大量の植民地を得ていたのだから当然ではある 朝鮮半島は、同じく領有したがってたロシアとの間でだけは揉めただろ >>545
儀式とかでの形式では尊重してるけど、実際の統治に関しては朝廷という大名って程度のあつかいしかしてないよ
開国の勅許とか言われてるあれも、幕府視点では、他の大名達と同じあつかいしかしてなくて、
形式的には相談を装ってるけど実質は幕府で決めたことに賛同させる交渉しかしてない
朝廷に対しても、諸大名に対してもな >>548
その通りだが文脈から主語を察してほしかった
ロシアと敵対するのは英米からしたら利益になる >>24
中世の地球は気候寒冷化と地殻変動の時代だった。
日本列島全土でもこれが銃爪になって壊滅的飢饉が連年続くことになった。
室町幕府の統治原理/秩序はこの事態に全く機能せず無能無力を曝け出した。
これを超克して自前の暴力装置による生存・存続を果たすべく各地に独立地域権力体群が叢生した。
この権力体を「戦国大名」と呼称する。
飢饉下での自力救済は必然的に隣接する権力体間の暴力行使、即ち戦争を伴う。
そしてこうした「戦国大名」間の「喰う為・生きる為の戦争」はそれ自体がまた飢饉を引き起こしていく。
このような飢饉と戦争の無限循環連鎖が常態化・永続化した時期を「戦国時代」と云う。
前近代の生産技術水準下に於ける人類社会は常に飢饉の可能性を潜在させていたが、
自然環境条件の変動によってそれが激しく顕在化したことが敢えて云うなら「戦国時代」と前代との相違だろう。 >>544
>>549
でも、形式的には朝廷から大政を委任されて幕府が統治してるってことですよね
明治以降も基本的には同じじゃないのですかね
実態は明治政府が統治してるわけで、あくまでも天皇は権威や象徴としての
側面が強いですよね
あまりにも「天皇中心」「王政復古」が強調されすぎな気がするんですよね
幕末の尊王VS佐幕の結果として強調されたとしても、それから長い年月が
経っているので、後世の歴史家や学者から「それは実態に即してない」という
批判とかが起こらないのは不思議な気がする
それとも、やはり江戸から明治の変革は「王政復古」であり「天皇中心」なのでしょうかね 満洲に関しては日本の領土ではない
何百年も前から満洲族の領土だった
元から中国領だったと思う人がいるのは戦後の連合国に依る洗脳の結果に過ぎない >>539
淡路廃帝
>>552
法律の署名や大臣等の任命、やることは多くなったよ >>552
明治政府は徳川と比べてカリスマ性にかけていたっぽくて、天皇の権威を前面に押し立てざるを得なかった
なもんで、建前上は天皇大権なんてものをでっち上げて、政府の中心たる主権者のように見せつつ、実際には権限をもたせないように工夫していた
それに対し、幕府は天皇の存在とは無関係に自ら後からで存立していて、天皇の権威も添え物として併用していただけ
むしろ、消滅寸前の天皇を庇護してるつもりであり、幕府の方が天皇より上だと思っていた 芹沢鴨の暗殺時、灯りはどうしたのでしょうか?
今と違って昔の夜は本当の闇だと思うので、灯りがないと斬れないと思うのですが
深夜、灯りを持って八木邸に忍び込み、斬りつけるわけですが、提灯を持ちながら斬るのもおかしな話で、やはり提灯を部屋の片隅に置いてから斬りつけたのでしょうか >>546-548
どこで失敗したんだろう
うまく立ち回ってなんとか英米との戦争回避して発展させることは不可能だったのだろうか
リットンらの提案受け入れてたらアメリカと戦争することはなかったのかな
ただ、日露戦争でアメリカが日本敵視して、オレンジ計画進めてたり、日英同盟破棄提起してきたりすると、遅かれ早かれ衝突は避けられなかったのかもしれないけど、
ミッドウェーで勝ってたら、あるいは戦争するタイミングが違っていれば(アメリカが力つける前に仕掛けてたりなど)違う結果になっていたのかな?
ifが好きで詳しい方いたら教えてもらえると助かります >551
日本語がお上手な外国人?
「銃爪」なんて言葉、初めて見たとググったら
「引き金(ひきがね)」のことね……
ここは民族学校で教えられている嘘を宣伝するスレじゃないんだけど
都合が悪くなると日本語が分からなくなる振りをするのだろうから何を言っても無駄かな(苦笑 >>557
たぶんだが、満州併合を狙って北伐をはじめた国民党が、欧米列強は日本に同情的で頼りにならないと見切りをつけて、大国に侵攻されることを恐れる新興独立国の恐怖心をあおることで国際連盟で反日世論を掻き立てることに成功したからだ
大国が日本に同情的なのは自分達が新興国を併合して拡大しようとしてるんじゃないかとの疑心暗鬼を持って、列強に対する掣肘として満州への日本の進出を責めたんだよ
国際世論の形成に関して国民党に破れた、それこそが敗因 開戦 太平洋戦争 〜日中米英 知られざる攻防〜
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pk9oqmvbpg/
?介石がチャーチルに宛てた電報も残されています。戦況悪化を過大に伝えることで、イギリスの介入を引き出そうとしていました。
「完全に信頼できる筋から情報が入った。日本が南部からの攻撃によって、中国とイギリスとアメリカとの連絡を切断するというものだ。
長期にわたる戦争の中で、初めて私たちの抗戦が崩れる深刻な危機に瀕している。私たちの未来はあなたの手の中にある」(1941年11月2日)
この文書には、チャーチルが自らの手で記したメモが残されていました。
「我々は、彼を助けるべきだ」
太平洋戦争開戦の経緯をイギリスの視点で研究してきたアントニー・ベスト教授は、
チャーチルが恐れていたのは日本が交渉条件をのむことで、アメリカが開戦に踏み切らないことだったと言います。
ナチス・ドイツと厳しい戦いを強いられていたイギリスにとって、アメリカの参戦は勝利の絶対条件だったのです。 >>557
日露戦争自体は敵視される原因ではない
何せポーツマス条約を仲介したのが米国であって、
その際米国は、樺太はロシアが日本から武力で奪った地であるから日本に返還すべきであると言っている
南樺太だけで妥協した日本を称賛さえしたとか
敵視されたのはその後の満洲権益に関すること
それでも米国と開戦せず、ドイツと共同してソ連を挟撃する方針を採用していたらかなり変わっていただろう
ソ連と大半戦うのならそんなに口出ししてこないと思われる >>536
それでは、風力・水力の利用の減る理由の説明にはならんよね。
中世温暖期は17世紀頭まで続いて、小氷期は18世紀末〜19世紀頭が最も寒冷になっていた。江戸時代の三大飢饉もこの時期。 >>562
戦乱の中で攻撃目標にされやすかったから守りきれず廃れた、とかは? (憶測)
技術者が安全に往来できなくなって修理・維持が困難になったとか? >>549
解任して大逆罪で裁くよ、ちょうど将軍が二条城に来てることだし、内裏にでてきたところでとっ捕まえるよ
って御所でお公家さんたちと相談してたら、機密漏洩したのを聞いた慶喜あわてて参内、大政奉還だよ。 >>558
ぐぐったんなら世良公則……云々って出てこないかい? >>566
レス乞食?
話し相手が欲しいのかな?
君には絶対に理解できないことなのは分かってるけど
ま・と・も・な日本人はそこで間違いはしないから >>567
いやそれは偏見だろう。確かに世良公則の曲名が「銃爪」だったからファンの人は辞書登録してる筈。 旧日本軍の暗号がもしも
例えば漱石の『こころ』の何ページの何行目の何番目の文字で表すものだったとしたら
アメリカ軍は暗号解読できなくてミッドウェーで負けることもなかったんじゃないですか?
(´・ω・`) 日本の戦国時代に食い物がそれだけシビアで農耕馬も厳しいならば。
騎馬隊ってのは、本当はどんなもんだったのだろうかと悩む。
木曽馬みたいな小型タイプでも戦闘能力は高いし。でも、食わせるのは
大変そう。 >>570
アラビアの駱駝みたいに、夜間は放って勝手に餌食ってこい方式だったら意外だね。 >>570
10人程度の部下を束ねる指揮官とかじゃないと騎乗しない
基本的に騎乗兵士だけで部隊を作ったりしない
のが戦国時代だけど。まれに例外はある 戦国時代って、庶民にとってはどういう時代だったのでしょうか?
第二次大戦みたいな総力戦の時代では無いので
戦国時代というのは名前倒れというか、荒れてるのは武士だけで
庶民は関係なく平和が続いていたのどかな時代のように思えるのですが なんで、伏見大坂時代ではなくて、安土桃山時代なの?
特に安土城なんて、織田信長が居たのは3年きり、清須会議の2年後には取り壊されてしまってる。
織田信長が安土城主でも、大半の期間は、本願寺攻略、播磨攻略、堺攻略で、大坂に居たし。 信長時代と秀吉時代を合わせたものだから安土は必要だよ お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛官)についてご存じか。この方は神のような素晴らしい人間性を有しているので覚えていた方がよいぞ >>573
村と村の間でも、武士抜きで戦争状態になることもあって、敵対的な村の人に捕まったりすると奴隷にされて売られることもあるなど危険なので、村の外へ出るのも命がけな感じ、一人では出歩けないので集団を組む
だいぶ荒れてた時代 徳川が禁止するまで、武士は気分次第で農民を切り殺していた
そこまでの身分差はどこが起点になったかと言うと
外来種の侵略者と、侵略された原住民の関係だ
武士が戦うというのは、だいたい南朝vs北朝の戦いが多く
それは百済人武士と新羅人武士の戦いである
(この戦いは、驚くべきことに未だに密かに存在している)
武士が戦う前に、農民に刀を持たせて、日本人同士が殺し合いをする
武士がチョン同士の戦いをしているときに、
農奴である日本人が、ただ見ているなんて状態は許されなかったのだ >>569
ミッドウェー海戦で負けることがわかっていれば
あらかじめ『こころ』を配っておくことができるが
負けるとはわかっていない。この作戦だけ特別扱いできない。
何かのコードブックを利用していることが無線傍受ですぐに判明する。
海軍の全ての艦船に『こころ』を配っておくと
鹵獲・難破した船、海軍の補給基地のすべてに『こころ』があるので不自然
また部隊を複数にわけたり再編の時に困る
何十冊も積み込めばいいけど怪しすぎる
日本海軍が『こころ』を利用していることが判明したなら全米の図書館、日系人,日本文学研究者の家で『こころ』探しが始まる >>581
薩摩弁の早口会話したら傍受しても解読できないよ
問題は、多くの師団は徴兵地域別なんで、薩摩弁の分かる人が居ない可能性が高いことだ 満州事変って「柳条湖事件」からだっけ?「盧溝橋事件」からだっけ?ってなる
そこそこ歴史好きでもそうなる
何度覚えても時間が空くとそうなる ・満州事変の経緯を短文で連想ゲームで並べる
柳条湖事件の「り」はリットンの「り」
リットンは満洲臭いと調査
怒って国連脱退
柳条湖事件は満州事変
・駄洒落
関東軍「まんこに突撃せよ、中国の領土を侵せ」
「満」州事変と柳条「湖」事件
盧溝橋は一発の銃弾が日本側からまたは中国側から、日中の軍が川を隔ててにらみ合っている
盧溝橋が北京にある
満州事変とは考えにくい 柳条湖事件から満州事変で、盧溝橋事件から日中戦争か
なるほど! 前方後円墳の被葬者と、例えば推古天皇あたり以降のおそらく確実に現在の皇室と繋がってる人物とは、絶対に血縁関係はあるんですか?
実際は、全く血縁関係のない誰だか分からない巨大な墳墓を、箔付けのために、天皇家の陵墓とか日本書紀の編纂した時にやった可能性はあるのでは? そもそも推古天皇の時代は、前方後円墳は作られてないから、それも奇妙な気がします。 >>587
>前方後円墳の被葬者と、例えば推古天皇あたり以降のおそらく確実に現在の皇室と繋がってる人物とは、絶対に血縁関係はあるんですか?
そんなことを言ってる人は誰もいません。前方後円墳は大和政権に結びつくデザインであり、
地方でこれを作る者はヤマトとの交流があり、作ることを許諾されたことを示す。それが全国に広まると
古墳の規模は小さくなり前方後円墳は姿を消します。最終的に天皇の古墳は八角墳になります。 >>589
じゃあ、前方後円墳の被葬者と推古天皇や聖徳太子くらいの皇族と血縁関係はないんじゃないですか?
そもそも前方後円墳の被葬者は、宮内庁の比定は8割くらいは合ってないとか言われてるし、神話の時代と重なってるし。 >>587 >>591
前方後円墳がさかんに造られたのは3〜5世紀
推古天皇や聖徳太子は6世紀の人
3〜5世紀に巨大古墳を造った一族と推古天皇の時期の天皇家については
継体天皇(推古天皇の祖父)で王朝が変わったとするなら違うかもしれん
ただ継体天皇の出身地だという近江にも前方後円墳はたくさんあるんだよね 平等院鳳凰堂の平等院ってどういう意味なんだろうな
平安時代はまだ撫民政策すら行われてないから近現代的な平等とは全く意味が違うとは思うんだけど >>595
「平等 仏教語」で検索してみてください。宗派その他の理由で細かな違いがあるみたいですが、とにかく仏教のです
経典を漢訳する際に作られた語で、般舟三昧経、法華経、金剛般若波羅蜜経あたりが古い用例のようです >>570
町内・小字レベルの小さいな地名で、馬場、草場、萱場、茅場、ナントカ野、ナンチャラ原、牧ナンヤラ って地名いっぱいあるだろ。
全部草地、牛馬を放っておくようなところだった。 北条政子や日野富子は結婚してからも源や足利に姓や苗字を変えることなく夫婦別姓を貫いたのでしょうか? >>599
明治の戸籍制度開始までは結婚しても本姓や氏は変わらないまま
皇親も例外ではなく、例えば内親王が降嫁しても内親王のままだった 城について質問です。
姫路城を始め、中世、近世に建てられた城を見学しますと、
天守閣まで敵が侵入させないように様々な防御的な工夫が凝らされています。
鉄砲用の穴が壁に空いていたり、狭い通路に誘い込んで上から石を落とす為の場所や、
登れない石垣など。
質問ですが、あの色々な防御的な工夫が実戦で使われて効果が発揮された事はあったのでしょうか?
個人的にはどの城も「こんな工夫が凝らされて敵を撃退するように出来ていた」みたいな解説はありますが、実際に戦闘になってどうだったのかが解説されたものは見た事がありません。 岩屋城の戦いかな?
攻城側に出血を強いることで島津軍の計画を破綻させてる。
個人的にはあの種の施設は大規模戦闘ではなくて平時の防諜や防衛に役立ってる気がする。
少数の部隊による資産の破壊や謀殺は防げるけど、
城単位での個別の防衛施設としては、本丸に敵勢が押し寄せた時点でその城は終わってる。 >>601
幕末の会津戦争の時に若松城の北出丸の枡形虎口での銃撃戦で官軍を撃退して
その後一月に渡る籠城戦となっています。北出丸の城門に取り付いたところを本丸から
堀越しに銃撃して撃退しました。官軍は作戦変更して天守に向かって砲撃したので
城内に攻め込まれることはありませんでした。
既に回答がある通り城内まで攻め込まれたらもう終わってます。 >>523
ググってください。いろんなサイトに丁寧に書かれています。あとは個人の判断でしょう
私は、多指症はそれほど珍しくないこと、前田家・フロイス・朝鮮人という別系統の史料が記していることから、事実とみてよいと思います >現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い
↑
このような莫迦げた表現法は…、イデオロギーに染まった >>600
ありがとうございます
明治以前の日本では夫婦別姓であったんですね
夫婦別姓はサヨ思想で伝統を重んじる保守は夫婦別姓反対であるというネトウヨの理屈は出鱈目であるというのが分かりました >>606
ところが、扱いが曖昧で、同姓か別姓か判らんのよね。
一応、本姓は原則として男系の血統を以って継承なんだけれども、結構例外があるのよ
一番緩く解釈すると、朝廷もしくは氏上(氏長者)が認めれば、母系継承も、血統外からの編入も可能。
例を挙げると、前者、橘宿禰の初代と二代目や皇別摂家(藤原朝臣)、後者、豊臣朝臣。
苗字の方は、家の一員ならば血統外からも継承可能。盛んに養子や猶子が行われていた。
で、女が、婚姻によって、生家の一員のままなのか、今夏の一員に編入されているのか、というのは判りにくい。
盟約の証人や人質の代わりやや、外交担当(生家や閨閥の利益代表)や、腹を貸して子を産みに来ているだけ、
というような、自他ともに生家の一員としての役割・意識の強い場合と、完全に婚家の一員として取り込まれている
ような場合と、どっちもあるからな。
前者なら、当然、婚姻が成立して婚家に住んでいようとも、生家の苗字が正式な名乗にあるだろうし、後者の場合は
苗字は婚家のものを帯びる。 一夫多妻制が伝統だったから、正妻さん以外は「夫人」を名乗れないよな
数多いる側室や継室は当然別姓になる(正室とは別の存在だから 戦国時代の特に織田家の家族や家臣は女性の名前(本名)が知られているけど結婚後は
浅野市
柴田市
羽柴ねね
明智煕子
前田松
という名前になったりはしなかったの? 夫婦別姓(同姓)論の盲点は
浅野長政、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀、前田利家
という本名が知られていると思っている点です 今の戸籍につながるのは壬申戸籍だと思うが
江戸時代の宗門人別帳でも嫁を婚家の家の項にいれたと思うが
当時は庶民は姓を持っていても名乗れなかったと言うし、寺も姓で管理はしていなかったんかな >>610
市姫は織田の一族として浅井の元に出されていたから、あくまでも、織田家の一因のままでいたんじゃないかな。
小谷城合戦でも除名されているだろ。 江戸時代に人別帳
女房など関係で記載することも多く名前すら不明 >>610 >>611
氏姓が必要なのは朝廷から官位を受けるためで
女性も朝廷から官位を受けるとき場合には当然氏姓を名乗る
たとえ正室、側室に関わらず女性は実家の姓を名乗っていることが分かる
源倫子(藤原道長正室)
藤原彰子(一条天皇中宮)
藤原威子(後一条天皇中宮)
平徳子(高倉天皇中宮)
平政子(北条政子/源頼朝御台所)
藤原富子(日野富子/足利義政御台所)
藤原達子(浅井江/徳川秀忠御台所)
源和子(後水尾天皇中宮)
藤原信子(鷹司信子/徳川綱吉御台所)
藤原熈子(近衛熈子/徳川家宣御台所)
例外的に豊臣秀吉は豊臣姓を受けた際に
家族は勿論、従っている大名たちまで全部豊臣姓にした
このため北政所は豊臣吉子の名で官位を受けている
ただこの時期は前田利家やら徳川家康まで豊臣姓で官位を受けている >>609
正室も側室も妻
そのため明治時代の戸籍で夫婦同姓になったときには
正室も側室も妾も同姓を名乗ることになった
大久保利通の妾・おゆうが「大久保勇子」の戸籍名だったりする
当時は妾腹の子も多く跡取りが妾腹なのもごく普通だったため運用は曖昧
一対一の夫婦ごとに戸籍を作るようになったのは戦後から
継室は「後妻」だから現在の戸籍でも夫婦同姓だぞ >>616
その理屈なら、生家の杉原家は尾張浅井の分家筋だから藤原氏、もしくは、浅野長政の幼女となってから嫁しているから源氏のはずだけど、
ねヽは従一位の叙爵の宣下は豊臣朝臣吉子って、豊臣氏だよ? 浅野長政が豊臣姓を下賜されたとされるのは天正20年(1592年)
北政所の弟、杉原(木下)家定が豊臣・羽柴姓を下賜されたのは天正15年(1587年)
とされていて
北政所が聚楽第御幸の功により従一位に叙せられたのは天正16年(1588年)
だから実家も豊臣姓だからと強弁できなくはないと思うが養家の立場や
秀吉が関白任官時に北政所も従三位に任ぜられたというからここの史料も見たほうがいいのか
このときは秀吉は藤原姓なはずだけど杉原も本姓藤原なのか平姓なのかよくわからん つまり夫から妻へ名字を与える訳だな。夫婦別姓はそれを拒否する制度ということ
もう夫婦の形体もなくなるやん >>618ー>>620
ねね以外の例は夫婦別姓なのに
たった一例をもって「夫が妻に姓を与えていた」って馬鹿だろ
秀吉が豊臣姓を受けたときにねねも同時に後陽成天皇から豊臣姓を受けた
姓を与えたのは天皇であって夫ではない
そもそも前田利家や徳川家康も豊臣姓を与えられているのに
ねねの一例だけをもって「夫が妻に姓を与えた」などとはいえない >>619
天正15年に有力家臣に豊臣姓を名乗らせている中に徳川家康もあるけど、徳川松平ファミリーで豊臣姓を許しているのは、
家康と秀忠だけだったで。家康なんて子供ウジャウジャ居たのに。 >>618
杉原氏は天正13年に羽柴を与えられ改姓
秀吉が豊臣を与えられた時点で本姓豊臣、苗字羽柴だろ
浅野とねねはあまり関係がないと思う
江戸時代に本姓豊臣、苗字木下を与えられていたのは
ねねの実家である杉原家だし
実際、秀吉没後にねねの警護役として隣に住んで世話していたのも
実兄や実甥たち >>622
謀反は一族連座の累罰、謀反人の娘は婚家から離縁されて寺に放り込まれるものだが、
玉(明智光秀女、細川忠興正室)は本能寺の変での連座を免れて、のうのうと大坂城下の
大名屋敷町の細川邸に住んでたよね。
明智の一員ではなくて、細川の家の一員と認識されていたからではないんかい? >>601
大坂戦役
和議条件に外濠を埋めるとあるように、濠の防御力はそれなりに大きい。
一度に攻め落とせず、且つ、内堀まで埋めるという違約に加えて、当時に本では製造の難しかったフランキ砲をお急ぎ便の特注で
イギリスとオランダから取り寄せて、ようやく攻め落とした
島原一揆
当時すでに廃城に近い状態の建物も無い原城に立てこもった農民漁民商工民寄せ集め3万7千を鎮圧するに、武士ばっかり幕府軍
12万、歴戦の猛者立花宗茂までくりだしても、手こずる有様。
鎮圧後は、城郭の構造、石垣や濠を悉く破壊。
西南戦争
包囲開始と同時に熊本城の建物に放火を行い、政府鎮台の兵糧の大半を焼いたにも関わらず、40日以上陥落せず。
逆に包囲の為に兵を分散させる羽目に陥った叛乱方の敗因となった。 鷹司孝子の江戸下向お輿入れが寛永元年
鷹司信平の生まれだのが寛永13年だから、姉弟で面識無かったよね?
鷹司信平が15歳で家出してきて「侍になりたい口利してくれ」とか言ったときには、「あんた誰よ?」だったよね? >>625
千姫は夫豊臣秀頼が自刃して豊臣宗家が滅んでも
実家の徳川家に戻り新たに本多家と縁組してのうのうと暮らしてたよね
これは豊臣の一員と認められていなかったからだと?
十市皇女も夫大友皇子が自刃し近江朝が滅んでも
実家に戻り実父の天武天皇のもとでのうのうと暮らしている
女が実家に戻ることもあれば婚家にとどまることもあるし
それと夫婦別姓は何の関係もないぞ >>622
前田利家や徳川家に豊臣姓を与えたのは、後陽成天皇から? 豊臣秀吉から? >>624
本姓は苗字のオマケではないんだし、賜姓を授かるっちゃあ大変な栄誉なのに主君をさしおいて高々三万石の大名が氏姓を直々に賜わるものなのか? >>628
昔から言うだろ、女は三界に家無し って。
今でも、どこの家の娘→だれがしのお嫁さん→なんとかちゃんのお母さんってふうに、
親や夫や子供のオマケ。
戦争は勝者が裁く。
千姫は戦利品として押収されて、たまたま勝ち方の総大勝の娘だったからお咎め無しに助命されて出戻り。 質問です。関東大震災で東久邇宮家の王子・師正王が亡くなった時、
父親の稔彦王はフランス留学中ですが、母親の聰子内親王は一緒にいましたか? もし豊臣秀頼が後の徳川慶喜のように政権を明け渡したら新政府(秀頼の場合は江戸幕府)にはひたすらに従順で恭順の意を示していたら殺されるようなことはなかったのではないですか? >>633
源氏政権は残虐だから、殺されたんではないの? >>633
徳川幕府成立直後の大名改易旋風を見るとねえ…… 東大安田講堂でも有名な安田財閥創始者の安田善次郎が暗殺された事件
現在ではほとんど知られていないけれど、そんなもん? 安田財閥の創始者が暗殺されるって、現代で例えるとSBの孫さんが殺されるような感じなんですか? >>637
大ざっぱだけど、安田財閥+他の財閥で作ったのが現在の芙蓉グループ 政治的軍事的な人質って、なんで人質に出された先の殿様とか有力者の身内と結婚してるの? 戦争責任ってところではやたらと東条英機がやり玉に挙がるけど、
その前の近衛文麿の方がやばくないかな?
三国軍事同盟結んだり、結果重大だったのでは? >>640
一般庶民じゃあ人質の意味もないわけで
それなりの領主の子だから人質になる
平和的に領地を搾取するため >>641
太平洋戦争勃発の原因となった真珠湾攻撃を決めた総理大臣は東条英機だから
やっぱりやり玉に上がるだろう
近衛に戦争責任がないわけではなく東条も近衛もA級戦犯
近衛文麿は終戦時に服毒自殺し裁判にかけられなかったからだが
東条英機は拳銃自殺に失敗し極東裁判で無罪を主張
死刑執行された >>640
赤の他人を裏切るのと妻の実家を裏切るのとでは全然違うやろ >>643
>決めた総理大臣は…
無智の顕われだな。トップの生首を捕ってなんぼ!
陸相であった東條は真珠湾攻撃を「知らなかった」説があるくらいで決めた訳ない
近衛は國に合祀されなかったが、東條は合祀された。その違い >>645
靖国は戦死者と極東軍事裁判での処刑者の
いわゆる戦争関連死者しか祀ってない
近衛は戦死でも処刑死でもないのに靖国に祀られるわけないだろ
阿呆 >>645
他人に無知言う前にお前のその恥ずかしすぎる大いなる間違いを何とかしろよw
>陸相であった東條は真珠湾攻撃を「知らなかった」説があるくらいで決めた訳ない
東条英機 総理大臣在任期間
1941年10月18日- 1944年7月22日
真珠湾攻撃
1941年12月7日(アメリカは12月8日) >>647他
事実を書いただけだろう。近衛文麿の方がやばい 江戸時代、陪臣(大名の家臣)と、直参旗本の間での姻戚関係って多かったの?
直参のが陪臣よか格上みたいな感じがしないでもないけど 「修行中にたまたま拾った塗香の匂いに欲情してオ○ニーしてしまい、そのことを罪悪感として一生抱えた僧侶」というような逸話を聞いたことがあるのですが、僧侶が誰のことか知ってる方教えて下さい。
日本史 逸話 僧侶 自慰 塗香などでググったのですが出てきません>< >>650
大名の家中と旗本は仲が悪いイメージだけどなぁ。
鍵屋の辻の仇打ちとか。 >>649
東条英機は軍人のくせに自決する覚悟がなかった(未遂で終わる)
しかも往生際悪く無罪を主張したため極東軍事裁判でやり玉に挙げられた
見事に自決した公家の近衛文麿を見習え 時代によって人間の身分や属性はいろいろとあるが、かつての武士とその後の軍人は
身分属性がかなり近いと解釈していいものだろうか?
あるいはそんな解釈は全くできないものか? 正直、近衛が自決したから『文官代表』として責任を取らされたのが広田弘毅のように思えるんだよね。 >>653
自決する理由がない。無罪だったんだから、そう主張するのは当たり前
>>654
軍人は身分じゃねえよ。 >>654
軍人ったらガチ実力主義で、出自も縁故も通用しない。
武士は出自だけの無能者。
そりゃ戊辰戦争での佐幕方の不甲斐なさ耳てれば、武士使うの止めた、戦争には国民皆兵ってなるよな。 太公望やアブラハムのように東洋には驚愕的な長命の偉人がいるのに、欠史8代の長寿だけが疑問視されるのは何故ですか? 平安初期の征夷大将軍、坂上田村麻呂は武士ではなく軍事官僚だったと言います
その当時はまだ武士というのが確立してなく、その後、どこかのタイミングで
軍事官僚と武士が融合していったという理解でよろしいのですか?
詳しい方、軍事官僚と武士、さらには野武士との関係性について教えてほしいです >>649
近衛政権の頃と東条政権のころの戦死者の数を調べろ
本土空襲が始まり風上特攻隊で10台若者を戦地へ送り込んだのも
東条が総理大臣になってからだ
明らかに東条の非は大きい
>>653
東条英機は有罪だったから処刑されたんだが
それに鬼畜米英の捕虜になるくらいなら自決しろと国民に命じた
国民の規範となるべき国のトップ経験者が自決失敗だ
無罪だというなら自殺未遂するわけがないだろ 絶対的国防圏が破られて東條は退陣しましたよ。小磯内閣の間違いですね
米英の虜囚になると虐待死されるからで、安全な日本の拘置所とは違います
裁いたのは誰か、拘禁しに来たのは誰か、日本ではありません。少しは調べたら? 天皇は男系のみで繋がっているとされてますが
継体天皇は、武烈の姉の女系の手白香皇女で繋がっているように見えますが
ここで、男系は途切れてませんか?
記紀の系譜が正しいと仮定します >>661
武士の発生について説明するととても長くなるのでwikipediaを読め。 >>665
あまりに長いので全部は読んでませんが、下記の一文が載っていました
>>例えば、武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂は、すぐれた武官であるが、
>>武士であるとはいえない。
あと、武士の発生は10世紀以降とのことだったので、やはり田村麻呂の時代には
まだ武士はいなかったということですね
しかし、紛らわしくて一般人には区別がつかないですよね >しかし、紛らわしくて一般人には区別がつかないですよね
もう死ねよと言う位の莫迦自慢でー 従来、武装自衛した農民や豪族が武士の起源と言われてきたが、最近の説では地方に下った中下級貴族や地方官人が武士のルーツと言われる
ますます田村麻呂の立場と紛らわしいですね >>664
「男系のみで繋がっている」という表現が微妙で混乱が生じているのでは…
言う迄もなく母も皇族という例は多数あり、女系でも繋がっていることは多い
女系は途切れたことがあるが、男系は途切れたことがないという話
御存知と思うが、継体天皇は応神天皇の来孫で全て男の皇族で繋がっている
少し遠いが一応男系は途切れていないことになる >>664
「記紀の系譜が正しいと仮定」するということは、
『日本書紀』の「継体天皇は応神天皇の5世皇孫である」という記述を正しいと仮定するのであるから、
>男系は途切れてませんか?
と思ってしまうあなたは残念な脳みそをお持ちだと言うことだ 継体に関していえば手白香皇女に入り婿したことが何よりも重要で
応神5世孫というだけで単独の皇位継承権があったならば
安閑・宣化の系統でいいはずだからな
手白香や欽明の墓は大和にあるのに継体の墓は大和になく
一度も大和に入れた形跡もないことから
世に認められた大和政権の王ではなかったんだろうけど >>671
頼朝は武官であり武士でもあるという立ち位置? 源氏嫡流という貴族であり、後継の摂家将軍、宮将軍を考えても武士と謂えるかビミョー 奈良の東大寺は何回火事があったのですか?そして大仏は何回壊れましたか? >>674
>>手白香や欽明の墓は大和にあるのに継体の墓は大和になく
一度も大和に入れた形跡もないことから
継体は死ぬ一年くらい前には、何とか大和入りしてるよ。
けど、記紀で、一応入れたって事にして、実際には入れなかったのかもしれんし。
何とも言えんな。
流石に、記紀の編纂者も天皇が大和に入れないのはマズイから
死ぬ少し前に入った事にしたのかもね。
墓も攝津国の高槻市だし、本当は其のあたりで崩御したのかも。 >>676
源氏の嫡流と言っても祖父為義の時代はかなり不遇だったぞ。
父義朝は関東に下って独自に勢力圏を築いたわけだし。
>>669
>ますます田村麻呂の立場と紛らわしいですね
田村麻呂は地方に土着して武士としての勢力を築いていないから違います。
三春の田村氏は田村麻呂の末裔と称しているけど、あれは仮冒です。
例えば一族で房総へ下り勢力圏とした桓武平氏とか下野で独自に勢力を伸ばした
藤原秀郷とかがそうした下級貴族の例です。ちなみに奥州藤原氏は秀郷の子孫です。 日本史において近代の満州事変〜日中戦争〜太平洋戦争の期間はかなり重要度が
高いと思われます
その時期、政府の方針を無視して暴走し、戦線を拡大していった軍部、
とりわけそのリーダー格と召された石原莞爾などはかなり重要人物な
気がしますが、一般的には知名度はさほど高くないですよね
こんなもんで妥当ですか? 平敦盛や源義経が笛を吹いたら武田信玄は聞き惚れるでしょうか? 東京裁判史観において死刑になった人が極悪人。訴追免除された石原さんはね 石原莞爾は、昭和天皇が名指しで嫌って露骨に陸軍人事に介入したからね
京都に左遷された後にそれを聞いた石原は退役してるのに、東京裁判の話柄にはならんわな。
北一輝が二二六で処刑されたのは政治的にやむを得ない面もあるが、
政治的に終わった人間をリーダー格だと見做して処罰するのは、それはちょっと違うだろうと俺的には思う。 建築土木史について質問です。
日本に西洋の自然科学が本格的に入ってくる以前に
姫路城や大阪城など巨大な建造物や城壁が作られています。
長屋レベルの建築物は、経験的な知見で建造出来ますが、築城はそうはいかず、
土台から柱から強度設計が出来ないと作れないと思います。
安土桃山時代や江戸時代はこれらを正確に作る為の西洋の建築学ではない学問体系を用いてたと思いますが
どんな学問体系があったのでしょうか? 寺社建築の長い伝統から来てるんだろうとくらいしか‥
慶長地震で秀吉の伏見指月城が大破したり、こないだの九州地震で熊本城の石垣が崩れたり‥
過去にはほかにもずいぶん崩れたりしてたんじゃないのかな 宮大工が東大寺大仏殿とか巨大建築物をつくってんだが 大久保利通は会計学について疎かったのに何で大蔵卿になった、というか、なれたんですか? キリストの教えも知らない未開の蛮物が何故文明国になれたのか?(言語矛盾だよな〜
こういう手合いの質問多いけど 穴太衆は近江坂本の石工
古墳築造の時代の石工の末裔とも言われる
比叡山延暦寺の石垣積みで鍛えられ、近江の安土城石垣を担当したことで各地の城郭構築にも携わるようになった 江戸時代に、九州のうちの田舎の殿様が農業用水路を築造するときにも、四国から穴太積みの石工を呼んだ 世界最古の木造建築が日本にあるし、マヤやエジプトの遺跡をみれば
西洋の建築学は相当劣っているだろう >>696
塔の語源はインドのストゥーバ
お釈迦様の卒塔婆(墓標)
その大切な墓標(心柱)を保護するために周囲に屋根やら壁やらを巡らせている
心柱とその周囲とは一切連結されていない
だから、構造強度に寄与なんぞしていない
地震が起これば、それぞれが勝手に揺れるので全体の振動を打ち消すようになり、結果的に塔全体の耐震性を上げてもいる >>669
上代古代からかなり新しい時代まで、王侯貴族の余った子の行先の一つが、戦争や統治の難しい土地の地方官。
部の悪いバクチでも取れれば儲けもの、或る意味、死ぬなら死んで構わん、ってヤツ。
本邦もそのセオリーどおりに、上級の貴族や皇室の縁故を辺地の統治に出す。
たとえば、記紀にも日本武尊が辺地の平定にばっかり行かされて死ねと言われているようだと嘆く話が載ってるで。
で、なかなか朝廷の言うこときかない辺地も、さすがに、皇子とか上級貴族の子弟で出張ってくるとビビる。
これは都も本腰入れて殺りにきてるな、と。
このとき、辺地の頭目の取り得る方策としては、対立するのは下策。
下ってきた宮様やお公家さんを味方に取り込むというのが、上策なわけよ。
味方にするには、ハニートラップというか、もう、身内になってしまう。
辺地の頭目の娘とか妹とか姪とかをくっつけてしまう。
妻や妾に差し出すという体裁で、実際のところは婿に取る。
都に居ても余った子、死ぬまで戦争に行かされるか冷飯くわされて飼い殺し。
ところが、死にに行くはずの辺地で歓待されるは有力者の娘を差し出されるは、居心地最高。
すっかり骨抜きにされて、子供とか生まれたりすると、その辺地の頭目の元で養育される。
建前的に貴種の一族ながら、現地どっぷりの人が辺地の頭目の跡目になったりする。 国司として地方に赴任して任期が終わっても都へ帰らずに土着するという例が多いと思うけどな。
都にいても官職がないから自ら地方へ下るんであって死んでも構わんじゃないと思う。 新選組や赤穂浪士がカリスマ化したり、スター化したように、
後世において青年将校や連合赤軍、オウム真理教がカリスマ化したり、
スター化することもあり得るのかなあとかちょっと気になる
どう思いますか? 治承3年の政変をやらずに後白河院政となあなあの関係でやっておけば平氏は長持ちしたと思うけど、どうでしょうか なあなあにしようにも院側が鹿ケ谷のようなことを起こすことが続くのでは
治承三年の政変がなくとも以仁王の挙兵などが起こるだろうし、
もっと前の転換点でないと厳しいかと 日本史上屈指の恐怖政治家・暴君って誰?
足利義教(よしのり)? あんまり有名ではないけど、大久保利通暗殺の事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれる
でも、伊藤博文暗殺や原敬暗殺、浅沼稲次郎暗殺の事件は「○○の変」はおろか、
「○○暗殺事件」とさえ呼ばれない
教科書や参考書で記述がある場合は、「○○に殺された」「○○の凶刃に倒れた」
みたいな表記になっている
この違いは何だろう?そして、もう今後有力政治家が暗殺されても「○○暗殺事件」
みたいな個人名を冠した事件名にはならないのだろうか? “政”変にならないから
半島に飛ばされた“元”有力政治家が殺されても、憲政の常道以降の政党総裁が殺されても代わりがいる
しかし小説の力で第2次寺田屋事件を作ることも可能 >>701
お前の中ではただの犯罪者も国のため・主君のために戦った人間も同列なの? 新選組 → 武士になりたい。ご公儀(謁見も許されない徳川様)のため
赤穂浪士 → 就職活動
青年将校 → 昭和維新。天皇親政による共産主義社会の実現
連合赤軍 → 共産革命
オウム真理教 → ハルマゲドン。麻原尊師のため
序列が必要ですか? モリカケ桜を見る会あたりの不祥事レベルでは、かつてのロッキード事件やリクルート事件ほどの社会的、歴史的バリューはないですか?
それとも、むしろ超えてますか?
死人が出てるし、公文書改竄もあったし、もっと不祥事として評価するべきなんだろか? >>709
2・26事件って天皇が言う事聞かなかったから殺そうとしたんじゃないの >死人が出てるし、公文書改竄もあったし、もっと不祥事として評価するべきなんだろか?
ワクチンは国産しか認めないとか、子供は重体化しないから小学校を休校にするなとか、
自民党を陥れることしかしか興味のない野党とそのお友達マスゴミが、
民主党政権時代のことをスルーして、自民党を糾弾する材料のみを用意しろとさんざんゴネたあげくに
官僚を死に追いやったのに、全てを自民党の責任にすげ替えた顛末の何を評価するんだろう…
>2・26事件って天皇が言う事聞かなかったから殺そうとしたんじゃないの
統制派が皇道派を利用したテロ 伊藤博文や朴烈、李奉昌と違って天皇制を廃止しようとした訳ではあるまいし
ロッキード事件やリクルート事件では死人が出なかったかのような書き振り
だが、自民党の責任にすげ替えた顛末が枝野総理爆誕なら、前2件のバリューを超えるといえる 日本語が上手な外国人が頑張ってるのは読み取れるけど
日本史と現代史の区別もできない外国人が妄執で演説を垂れ流すスレではないよ >>713
君はオツムにオシメをかぶせるべきだね
便所に行きたければ、政治板でもニュー速板でも幾らでも選択肢があるよw
誰も言っていない言葉が読み取れる程病状が深刻化していることを指摘されても
君の病んだオツムにはどうせ聞こえないだろうし… 困ったものだ >>708
俺は結構新選組は好きだが、それでも当時からならず者扱いされて、
治安維持にかこつけて相当アコギなこともやっていたと知ってる
それに、青年将校、連合赤軍、オウム真理教もそれぞれの人間には
そいつなりの正義や使命があったともいえるだろう
ある程度の時間が経過したときに、その時代にそいつらがどういう風に
受け止められるのかっていうことに興味はある
また、2・26事件やあさま山荘事件、地下鉄サリン事件などが今後も映画化、
舞台化、小説化などされて、のちの人間がそれをどのように解釈したりするのか >俺は結構新選組は好きだが、それでも当時からならず者扱いされて、
>治安維持にかこつけて相当アコギなこともやっていたと知ってる
だから何?絶対善と絶対悪の対立で世界を語っちゃうディズニーアニメファンのオコチャマ脳?
>連合赤軍、オウム真理教もそれぞれの人間には
>そいつなりの正義や使命があったともいえるだろう
無差別に女や子供や老人を殺しても、正当化できる理屈を後付けすればいいなんていうのは犯罪者の理屈 ↑意図的に青年将校は外したの?
青年将校にはまだ理解や同情の余地があるっていうこと? 右翼テロ→財界・政治家等の個人を標的
左翼テロ→一つだけの例外を除いて社会的弱者を無分別に標的 かつて皇族の別荘は離宮と呼ばれてましたが、現在では御用邸と呼ばれています
なぜ呼び方が変わったのでしょうか?それとも離宮と御用邸は別物ですか? 坂本龍馬がもし長生きしていたとしても結局、岩崎弥太郎のような政商になっていた可能性が高いと思いますか >>701,708,709,715,716
つ 東アジア反日武装戦線を追った映画にこもる意味
なぜ彼ら彼女らは虹をかけようとしたのか
https://toyokeizai.net/articles/-/458719 京都の渡月橋の名前の由来が、亀山上皇の詩だとかあらゆる場所でみかけるものの、
どこもソースを記載していないんだが、どこ出典なのだろうか。 wikipedia
鎌倉時代に亀山上皇が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べ「渡月橋」と命名された。 天皇は征夷大将軍を組織して
日本の原住民を狩る以外に
何か実績はありますか 太政大臣、摂政、関白、征夷大将軍などをして人民を統治せしめた >>725
返答くださりありがとうございます。しかしそのwikipediaの記載も含んだ出典なのです。wikipediaは何を根拠にしているのでしょうか。 wikipediaの当該記事は2011年に参照した「嵐山ガイド」による、とあるのみ 飛鳥、奈良時代
鎮東将軍、征東代将軍‥
奈良末期
征夷大将軍 大伴弟麻呂、坂上田村麻呂
平安初期
征夷大将軍 文室綿麻呂
征東将軍 木曽義仲 今の日本って9条あるし、北朝鮮に国民は拉致されるわ、ミサイル飛ばされるわ、領海侵犯とやられ放題だけど、遺憾砲しか発射できないし、多くの国民は政治に無関心で気に留めてない人達も多いが、
もし戦前の大日本帝国時代に同じことやられてたら今よりも大問題になって下手すりゃ戦争してるレベルなのかな? 後、もしミッドウェー海戦で日本が圧勝してたらハワイも制圧できてその後の結果は変わったと思いますか?
それとも結局最終的にはジリ貧になって同じ末路(原爆投下、大空襲受けて無条件降伏)になってたと思いますか?
アメリカってドイツとも戦ってて日本に対しては戦力の3割くらいしか注いでなかったと聞いたけど、それでここまでボロ負けしてるのだから結局勝ち筋は無かったということでしょうか? >>732
戦前の大日本帝国時代には、朝鮮は日本と合併してた
>>733
ミッドウェー海戦も偶然が偶然を呼んであの結果が出た
もしもこうだったらと考えると、当然その後の展開は史実とは違ってくる
簡単に答えられるものでは決してない
どうか、頑張って考えてください >>732
ノモンハン事件で国境侵犯を犯されているが、親ソ派の東郷が相手の言い分を丸呑みしたよ
今も昔も変わらんというところ パールハーバー、ミッドウェー、そもそもやる必要のない戦だった。南方と西方だけに集中してれば良かった説ありますよね。山本五十六のスタンドプレイだとか言われてたり。少なくともミッドウェーの敗戦の事実を隠してたなど言語道断、そら負けるわと思いますよ。山本五十六は戦前のアメリカ洋行の船上で逆立ちして歩き回って乗客の喝采を浴びたとかどうもお調子者っぽいエピソードもあり、信用ならない気がします。笑っちゃうけど皆さんどうでしょう。 >>733
仮にミッドウェー海戦で日本が勝利して島も占領できたとしても
米軍にしてみればウエーク島と作戦上の価値はかわらないから放置されるだけ、米軍が目障りだと思えば
開戦当初の欠陥魚雷の改修がすんでいるから、日本の補給船は潜水艦で沈められ容易に無力化できる。
日本にはミッドウェーを常時維持できるだけの艦艇の余裕もなければ燃料もタンカーもない。
アッツ島やキスカ島よりは優先的にとりかえされるかもしれないが、ミッドウェー作戦は日本にとって戦略上無意味。
ハワイの占領が仮にできたとしても、日本とハワイは距離が遠すぎて十分な補給船を手当てできない。
無理に拘れば戦前の企画院が設定した国力維持のために必要な300万トンの民間船を史実より早くにわりこむことになる。
米が日本を正当に評価して独を脅威と見做したのは間違いではないけれど、それでも沖縄戦に米軍が用意した戦力は
ノルマンディー上陸戦より多く、WW2時の「史上最大の作戦」は沖縄上陸戦。
>>736
>少なくともミッドウェーの敗戦の事実を隠してたなど言語道断、そら負けるわと思いますよ。
その理屈だとパールハーバー以降、劣勢だった頃の米軍による一貫した「(いわゆる)大本営発表」で米は日本に負けていたことになるな。 大本営発表のことではなくて政権内における情報伝達の話でしょう >>738
そういう話になると、海軍と陸軍が好き勝手やって、ルーズベルトですら抑えられなかった米は日本を笑えないね。 ルーズベルトはキンメル大将に真珠湾攻撃を知らせなかったんだから、現地の判断で動くしかないでしょうに。
下に情報を伝えなかった米とは違う。上に情報を上げなかった… というより海軍と政府が同格で横の連携と主張される 741が何を主張したいのかさっぱり分からんけど
よくある「だから日本は駄目論」、日本の人事制度は硬直しているが米は柔軟。
キンメルの抜擢人事が米の優れた人事制度の証左だ!などとのたまうバカ。
ハワイに戦艦を並べたら日本海軍が先制攻撃してくることは米海軍も分かってた。
だからルーズベルトが新設した太平洋艦隊の司令官のなり手がいなかった。
序列を数十人も飛び越えて任命されたキンメルも日本の攻撃は予想していた。
「日本が卑怯な攻撃をしていた時、真珠湾は眠っていた」というのは、
ハルゼーが厭きれるほどの猛訓練をキンメルが課したから、皆疲れて眠ってただけなのに… 上段、キンメルの抜擢人事はルーズベルトのお友達人事だったし
中段、キンメルも「分かってた」「予想していた」が、下段になると優秀なキンメルは予想せず眠っていた
まずはレスの中で自己完結して欲しいな バカが来て
無人になって
ほくそ笑む
妄想人は
最強でつ >>733
ミッドウェイで敵の空母を壊滅させて戦意を喪失させて有利な状況で講和をする予定でありハワイ島の攻略は目的ではなかった >>745
司令官がどうやって講和交渉の立場に立てるんですか? バカが来て 最強でつ >>700
国司はそれなりに統治できている土地に派遣するものだろ。 過去に読んだ歴史系の本何冊かで「岸(元)首相が、皇室は明治時代に入れ替わったと話した」
みたいなことが書かれていました
いわゆる明治天皇すり替え説のことだと思いますが、岸信介は本当にそんなことを言ったんでしょうか?
時の総理大臣がそんなことを言ったらすごい問題化したはずだし、右翼からの抗議とかも
すごいことになると思うのですがどうなんでしょう? 明治天皇すり替え説って陰謀論って言われるけど、
岸首相がその話をしたっていうのも陰謀論かも 岸が言ったのは昭和天皇の時代で、二代前の明治天皇がすり替えだったと言ってる
これを現在に当て嵌めたら、岸田首相が昭和天皇はすり替えだったと言ってることになる
こんなこと言ったら一発で首相の首が飛んでるはず
今は眞子さん騒動で皇室の求心力がやや低下した感があるけど、岸の在職中の頃なんて
もっと皇室の威厳が高かっただろうし は? 宮中某重大事件のときでも結婚に反対した山縣・松方は形式的な辞表を提出しただけだぞ
安倍首相の首も飛ばせなかったんだから、今も昔も >>752
結婚に反対するのと天皇のすり替え(正統性の否定)を主張するのは全然重みが違うだろう
しかも、前者は一応色覚障害という反対する理由もあったわけだし 血統第一という点で同じだろう。田布施であれ色覚障害であれ借金問題であれ出自を差別するレイシスト君 織田信長と豊臣秀吉と徳川家康が素手のタイマン勝負した場合、誰が一番強いですか >>754
ことの軽重が判断できないんだねボンクラ君 障礙者差別は瑣事であるが、朝鮮人差別は重大事であるという判断ですね?
御身の上を考えれば至極当然です 初期の大和朝廷にとって吉備氏との提携は
不可欠だったと思いますが、
ヤマト王権と並び立つほどの吉備氏が
どういう理由と過程で大和朝廷の臣、
つまり天皇に臣従したと思いますか。
結局奈良の方が地政学的に有利で強かったと
思っているのですが。 農耕・神権国家であった吉備を含む旧王朝の聖地でもあった奈良県南部が
中国大陸方面からの外圧を上手く利用した新興勢力に取って代わられた感じではないのでしょうかね。 それ以前との変化が小さいので、新興勢力の支配かに入ったとは考えにくい 旧王族の出の官僚と新興金融勢力が結託して宮廷革命みたいのを起こしたと思ったら別の宮様を担いだ勢力が内乱のループじゃないの あの〜来年4月28日で日米講和条約(サンフランシスコ条約)の密約なるものが
終了するという話を聞いたんですけど、ホントなんですか?ということは当時の
密約書が一般公開されるということなんdしょうか?黒塗りになっていなければ
いいんですけど・・・・ 個人的には、大阪東部、つまり河内に勢力を持ってた物部氏の祖神の饒速日がなんであんなに特別な扱いを受けてるのか?気になる。
神武の軍を散々打ち破るわ。
神武と同じように、天孫降臨してきたストーリーになってるわ。
記紀が編纂された時は、物部氏はとっくに滅んでいるから、そんなに気を使う必要はないのに。 >>766
蘇我氏も物部氏も壬申の乱で大幅に弱体化したとはいえ、奈良時代にも存在してはいるぞ
飛鳥時代の様々な政変で勢力を弱めたとはいえ、壬申の乱までは両者とも大勢力として存続してて、壬申の乱のときにすりつぶされてるんだよな、それでも消滅まではされてない >>767
でも、ニギハヤヒは、他の豪族と比較しても、特別扱いされ過ぎてない?
なんでニギハヤヒだけが、天皇と同じ扱いなの? 中古〜封建時代、戦争で敵方将兵の首を取って自陣に持ち帰ってるけど、
論考恩賞の証拠として検分した後は、人の頭、どうやって処分してたの?
多分、戦場に放置してきて打あろう、胴体以下はどうなってたの? >>766
大連を世襲するような家としては滅亡しているけど、分枝の石上氏が残ってる。
古事記の上梓されたとき、石上朝臣麻呂が正二位左大臣で、公卿の最上位。
同時期、藤原不比等が正二位右大臣だったから、それよりも上座。
死去に際して、元正天皇が廃朝、即日勅使として長屋王(当時正三位大納言)を差し向け、従一位を贈位。
殆ど国葬級の扱い。 >>772
返すって、戦争終わったときに、ダレガシの首級って木簡とかつけて届けるの?
それとも、何月何日に討死者の首を返すから受取に来いとかいう知らせを出すの? 菅原氏の子孫も残って明治以降貴族になってる。
上級貴族としてはいなくなっただけだろう。 墾田永年私財法の田んぼの取得制限で
庶民は10町までになってるけど、
10町って100石だから中級武士でかなり裕福。
上級貴族じゃなくなったからって元貴族がそうそうは落ちぶれない。 >>766
古代
国譲で、出雲国造から大和朝廷に広域支配の宗主権が移ったけれども、代償として大きな社を建てると機器に記したように、
皇祖神の社も出雲の社よりも大きくは造らないことにした
中古
儲君は一品親王に叙されない
封建時代
足利裔喜連川氏を大名待遇
明治時代
徳川本家を公爵、そのほか大名を貴族として優遇
という具合に、旧支配層を結構厚遇するのは、伝統みたいなものだな。 >>773
戦後交渉の時に議題のひとつにするだけでは?
戦ったあと、交渉なく痛み分けとか、あり得ないよ 江戸時代当時藩という言葉は使われていなかったということですが
現在藩校と呼ばれているものは総称として当時はなんと呼ばれていたのでしょうか? >>778
国名と家名、土地名と家名じゃないかな
一国支配クラスなら国名だけでも通じるだろうし小大名なら拠点名を付けないと分からんよな
尾張殿→あぁ徳川の事か
薩摩→島津か
わいは島津のもんでごわす→どこの?→薩州でごわす、佐土原でごわす
伊達家→どこの?→奥州伊達家または仙台伊達家、宇和島伊達家または予州伊達家
みたいな すまん藩校はなんて呼ばれてるかか
学問所とか郷学かな >>778
逆に質問。現代と違って当時は全国調査や歴史探求は存在しなかったと思われますが
何故“総称”なるものが存在したと思ったのですか? 公認藩校も各藩に… (ry. >>778
使われていた。
藩主、藩札、藩士 …… 等々普通に言ったり書いたりしていたし、
加賀藩の藩祖が誰かとか問うと、ちゃんと金沢城の前田利家って答えが返ってくるレベルで通じるし、
明国の削藩って何?って聞かれて、お取り潰しに反発した皇帝の叔父が反乱簒奪を起こした元になったアレだ、ある程度の知識のある人には解る。
漢籍の知識があれば、世襲の封建領主に安堵された領地、その領地での統治機構、幕府や大名の言う、領国、家中、領分と同義だってぱっと解し、
大名の領地という意味でも普通に使われていた。
ただ、幕府の出す安堵状や、大名が作成する検地帳や誓詞には出てくることが無かったから、正式な用語ではなかったという三段論法での「使われていない」
そもそも、江戸時代の幕藩体制というものが、家産国家の連合体のようなものだし、統治原理も徳治(人治)であって法治ではない、いうたら上位者の胸先三寸の
統治が行われていたものだから、統治に於いての正式用語なんて無いといえば無いんだよ。 >>778
普通に藩校で通用した。
個別には、向学館とか講文堂とか育英舎とか文武所とか修徳院とかとその個別名称で言うけど、
大名がスポンサーの(藩)、学校(校)で、総称として藩校と言って誰でもすぐわかるレベル。 教えて下さい。中学受験の勉強をしてる子どもに質問されました。
魏志倭人伝に卑弥呼のことや邪馬台国のことが書いてあるそうなんですが、
誰が著者(中国人)にそんな情報教えたんでしょうか?
日本人が中国に行ってべらべらしゃべったのか、それとも
中国人が日本にやって来て、いろいろ見聞きしたあとで帰国してしゃべったのか、
どっちなんでしょうか? ご意見ありがとうございます
個対個の話であれば学問所の固有名詞であれば問題なさそうですね
>>781
総称というか所属の違う複数人が自分の領地の学問所などを話題にする際、
公認の学問所のことを藩校以外にいい言い回しがあるか気になりました 後漢書東夷伝に卑弥呼以前の漢委奴国王の話も出てくる
これは朝賀とあるので元旦の儀式に参加したと思われる >>784
このころになると、それなりに官僚システムや文書管理システムが機能しているから
(袁紹や劉表や公孫氏レベルの地方政権でも)記録そのものは結構残っている。
まして当時は分裂抗争期だから、お互いに自分たちの政権の正統性を
いろいろと述べている。その中に外国の使者が自分たちを正当な政権と
認めたと言った趣旨の宣伝文書もあちこちに配っていたかもしれない。 >>784
古今東西、常識として、近場の国、特に栄えてる国や軍事的に強い国や特別な産品のある国には、使者を出して挨拶をするものだよ。
挨拶に行ったら手土産を渡して、どこのなんという国から来た、王様は誰がし、使者の自分はなにがし、って言うわな。
挨拶に来られたらまずは歓待して、話を聞く。地形気候人の数に特産品に統治機構のような国情、国の興りから今の王様に至るまでの歴史とか
当然話題にするし、国同士どういう付き合いを求めているかとの話になるわな。で、記録にも残す、 >>784
邪馬台国の使者が貢物を持って行って「卑弥呼の使いで来ました」と名乗る。
それに対する返礼としての使者(返礼使)が鏡や金印などの返礼品を持って邪馬台国の使者と共に
卑弥呼のもとへ向かう。卑弥呼に対して皇帝の使者として「親魏倭王に任ずる」と言って金印などを下賜する。
返礼使は皇帝の元に帰って役目を無事果たしたことを報告する。 使節団が偽者ではないことを、どうやって確認してたの?
後漢代の使節団が百済国の仕立てた偽使節で実は日本人じゃない、という異論をどうやって否定できてるの? >>785
>>787-790
ありがとうございました!!
とてもよくわかりました。 地方の農民などに対しての税はどのように納得させていたのですか?
昔は今と違って通信手段がなかったのに、都とか天皇とかそんなこと言われても見たことないだろうし、それに対して厳しい税を払わなきゃならないなんて納得できるとは思えません。
日本史では地方に役人を送ったみたいな話ですが、役人を送られたところでそんなやつなんか知らん!って思うのが普通ではないでしょうか?
それを簡単にその土地を統治して税を徴収したような話がされるのが納得できません。
防人とか租庸調とかの話もそうです、地方の農民たちが払わされるのが当然のような流れになっています。
力で抑えたのもさすがに戦国時代とかになればある程度わかるのですが、それ以前に都から地方へ行くなど手段も人員も絶対無理だと思うのです、一人で行ったところで誰も信じないだろうしそれなりの人数で行かなければ力を示せないだろうし、だからといってそれなりの人数を地方に送るなんてそれこそ無理だと思います。
そのへん詳しい方いませんでしょうか?
長くなりましたがよろしくお願いします。 >>793
村をまとめるために村長(むらおさ)がいるのはわかるよね
村長同士が争いが起きないように更に村長の上役を立てる
そんな感じで国ごとのトップに対して朝廷が介という役職を与えた
その介の上司として朝廷から守を派遣
天皇の使者がいきなり行って税を納めろじゃなくて
村長の上司→上司…とたどっていくと天皇になるって話 一番メインの税目は雑徭といって領主(郡司と国司)への労役
次に調と庸があって、最後に租というのがある
租は災害時の保険みたいな名目で集められたから、国府の倉庫群(正倉という)におさめて封印されてた
んで、たまに中央から連絡があると臨時に倉を開いて都まで運んだ
それらとは別に出挙(すいこ)という種籾貸出の利息米も税みたいなもんだった、なんせ全員に強制貸出だしな >>793
>それなりの人数を地方に送るなんてそれこそ無理だと思います。
逆に都に行く
貢納のため都に運ぶ必要がある(運脚)、そいつらから噂をきく
多分、運脚のついでに大仏とか見て腰を抜かすハッタリ効果ばつぐん
都を直接知らない蝦夷・隼人は、郡衙、国衙、多賀城ぐらいしか見ないので反乱を起こす
衛士として宮城で勤務していた人から噂も聞いたはず >>793
郡司、県主、国造……というような、地域のボスがいるいるわけ。
そういう連中が実際には地域を掌握しているものだけれど、地域の番長どうしにも強弱とか同盟とか不仲とかあるのよ。
その中で一番強いところが朝廷となって、倭の機内に拠点を置いてたわけ。
郡司、県主、国造の、或る者は拠点を畿内に移して中央の貴族に、或る者は土着のまま名より実を取る受領や武士に
変質してく。 >>791
百済がそんなことをして何の意味があるの?
しかしこういう例はある。後漢書に「大秦王安敦の使者が来た」という記事があってこれはローマ帝国の
五賢帝の一人マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことであろうとされている。しかしこの使者というのは
嘘で中国との交易を求めるインド方面の商人ではないかと考えられている。 根拠もなくいっているから異論でもなく妄想っていうね >>793
元、村主・郡司・国造みたいな土着の勢力が実質統治。
或いは、土着化した国司や、国司の連れてきた家司のようなのが居ついて地方豪族化。
所謂「受領」
そこにまずは納める。
国司がその上前を撥ねる。
基本、統治にかかる費用は地元負担の採算独立性で、国司が上前撥ねて私するんだけれど、
それができる国司というのは凄く人気のある職種だから、貴族間で取り合い。
ここで政治力を発揮……いわゆる贈り物攻撃で、国司の采配に影響力ある上級貴族に賄賂。
10世紀半ばくらいまでには受領にまかせっきり、国司本人が任地に出向かず、貢物だけかっさらっていく
やり方が通用していたけれど、段々と、在郷勢力をてなづけておく統治ノウハウが中央貴族に失われ、
地方が反抗的になってくる。
12世紀にはいると、もう殆ど統治不能になってきていて、武家政権時代につながっていくのよ。 >>798
その半分くらい昔のモンゴル帝国時代、グユク皇帝がローマ教皇に対してペルシャ語で書いた国書を送り付けている。
この国書の存在は、20世紀に入ってバチカンで再発見されるまで、長らく忘却されていた。
明・清の編纂した史書にも、グユク皇帝がローマ教皇に対して国書を送り付けたなんて記録が残ってなかったよ。
モンゴル帝国の倍くらい昔の漢やローマの時代の外交文書なんて、保存されているのに忘れられているとか以前に、
散逸して完全に忘れ去れているものも多いだろ。
漢もローマもそれぞれに大国だが、直接の往来や軍事的脅威があったわけでもない、関心が低くても仕方ない。
そもそも、モンゴル帝国が黒海や地中海に至るまで支配するまで長らく、ヨーロッパでは、陸路で行く草原と砂漠の向こうカタイと、
海路で行くインドの向こうシナが別の国と思われていたくらいだぞ。で >>800
郡司の多くは旧国造、一部は国造の領地を分けさせたか旧国造を滅ぼしたかして確保した領地に中央から新任郡司(または評司)派遣した新興の郡司
平安期に地方土着する貴族らの多くは、空白地を開墾して領地を作るのではなくて、在来の豪族との婚姻をメインにして土着したのではないかと思う
ところで、受領は地方豪族じゃなくて中央の貴族なのに、分かりにくくなってないか >>802
中央貴族が地方へ土着するのは荘園だよ
上皇や女院、大貴族に家司として仕えその荘官を任されて赴任する
荘園は国司の権限が行き届かないので自分で荘園を守る必要があり武装する
中央から来た荘官は富裕なので在来土豪が娘を献上することもあったが
在来土豪の娘を奪ってその領地を乗っ取ったわけではない 味方になる手っ取り早い方法は身内になってしまうことで、ハニートラップとの合わせ技で、
在郷勢力のボスの娘とか妹とか姪とか差し入れて、くっつけてしまう。
生まれた子供はボスの元で養育。
建前的には源平藤橘の血を引く中央貴族の親族で、人の性質は土着在郷勢力の一員
というような人が育つ。 >>798
そもそも、古代中国では朝鮮半島の南部とか東南アジアも、倭って言ってたような。 >>805
任那はガッツリ日本が支配してたし三韓は属国だったし 梁職貢図は、中立な中国の信用出来る同時代資料としては一級資料だけどな、天皇の日本支配を正当化する為の、ずっと後世に編纂された日本書紀とかと比較したら、比較出来るレベルではない。
その梁職貢図に描かれている倭人の姿は、明らかに東南アジアぽい姿で、少なくとも、現代日本の弥生人とか古墳時代の日本人とは全く異なる。
したがって、倭は現代における日本限定の事ではなく、日本も当然含むけど、朝鮮半島とか東南アジアも含んでたと思われる。 >>807
それは神功の三韓征伐の事?
少なくとも新羅がヤマト王権に属した史実はないが。
白村江の戦いで新羅にズタボロにやられたので、その敗北を誤魔化す為に記紀編纂時に、三韓征伐、神功皇后の話を造作して編入したのが史実だろ。
神功も、旦那の仲哀も実在した形跡はない。 >>808
現代日本の弥生人とか古墳時代の日本人とは全く異なる。
→
現代の日本人がイメージ図化してる弥生人とか古墳時代の日本人とは全く異なる。 >>809
新羅から倭に人質を出し貢を献じていたと隋書に出てるけど? 白村江で負けて、三韓・任那の支配権も唐に奪われたこと、
本土決戦を危惧して水城を築いて太宰府を博多湾の海っペリから内陸の御笠郡に移したこと、
ちゃんと記紀に書いてあるよ。
敗戦隠してないよな? 雅子が頭に乗せている宝石をちりばめたティアラはどこの文化ですか
あの夫婦が和服や畳を嫌うのは、やはり李氏朝鮮人だからでしょうか 日本の皇族でティアラを初めて被ったのは明治天皇の皇后
明治天皇と皇后から皇室の正装に洋装が取り入れられた
イギリス王室の正装を参考にした 明治維新後の方針で政府が天皇に洋装を強制したのが始まりだな 明治の頃って、それって意味あるの?のレベルで欧化模倣しまくったからな。
でも、サンテグジュペリのLe Petit Princeに出てくるトルコ人の学者の話のように、
回教徒服にトルコ帽のままでは話も聞いてもらえなかったものが、バシッと洋装
キメて演壇にたったらアッサリ認められた、というようなことは実際あったんじゃないの? 岩倉使節団の時に和装にこだわった岩倉具視が笑い者になっていて、それを留学中の
岩倉の息子から指摘されて洋装に改めたというのが原体験となっている。帰国した岩倉は
明治天皇に臣民に先んじて洋装して範を示すべし、と上奏した。
鹿鳴館は要らなかったけどね。 恥ずかしながら、つい最近閔妃暗殺事件を知った
中学の頃から一貫して歴史は好きだったし、成績も良かったけれど、
こんな事件は知らなかった
内容からするともっと有名な歴史的事件になってもおかしくない
まして、自分が中高の頃は左翼、自虐史観全盛の80年代、
もっとこの事件が強調されてもおかしくない時代背景だったのに、
なぜかこの事件は有名じゃないよね
なぜなんでしょう? 右翼はもちろんのこと、左翼も触れたがらないよね。なぜか >>821
右翼左翼抜きにしても、内容からするとかなり大きな事件だよね >>820
想像でごめんね
・左翼にとって王権の打倒は最も快感。たとえバックに日本がいても、
それを否定するのはツラい
・閔妃およびその周辺の連中は、決して褒められた人たちじゃない。
韓国は歴史ねじ曲げて、閔妃を悲劇の王妃いたいにしてるが無理がある。
なんてところかねえ? 李家の内ゲバっていえども王朝家であり、加害者が日本の軍人や外交官っていうのはかなり大きな要素 加害者は朝鮮人であり、韓国政府が処刑したよう。日本公使の関与はあくまで不明・不起訴 古事記では、イザナギとイザナミの神様が4つの島を作って日本を作りました。
なぜ、日本は大きな4つの島からなっていると、知っていたのでしょうか?
出来損ないの子、蛭子とはいったい何を表していたのでしょうか?
ご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください。 >>828
100人くらいの人に一年くらいの期間で調べさせれば徒歩でもそのくらいはわかるのではないでしょうか。 >>829
レスありがとうございます。
北海道や、樺太が島だというのは、間宮林蔵や、近藤重蔵などが探検して、江戸時代後期に公式に証明されたことなのです。
古事記の成立は、712年ですので、1000年以上も前になぜそのことを知っていたのでしょうか?
大和朝廷の支配地域も、初期のころは(勿来の関、福島か仙台の辺り)くらいまでですし、そこから先は蝦夷からの情報で知っていたとしても、他勢力の支配地域を自分たちの神話に読み込むというのも考えづらいことです。
>>829さんの調査隊の話ですが、探検隊の補給の問題を考えると、物々交換用の物資の運搬なども大変ですし、敵や味方の混在する蝦夷の支配地域を100人なんて大人数で移動なんて、させてもらえないのではないでしょうか? >>828
どこで読んだのか知らないが、記紀神話の日本列島は「おおやしま(大八洲)」で、四島でなく八島だよ
そのなかには北海道が含まれてないし 国生み神話で最初に生まれたのは淡路島だからそこで一枠使っている 殿様=大名 で合ってる?
殿様だけれど大名ではないとか
大名だけれど殿様ではないとかも、あったりした? >>833
身分の高い武家全般だよ。
旗本も殿様と呼ばれることはあった。
細かいことを知りたければ辞書を引こう。 >>832
一番最初に作られた「オノコロ島」だけは、産まれたのではなくて、別枠
で、これを大八洲に含まない別の島(所在不明)とする説をメインに紹介しつつ、いくつかの異伝を乗せてるなかのひとつに淡路島をオノコロ島のこととしてる説が紹介されてる
日本書紀の「1書に曰く」が特にたくさん紹介されてるのが国産み神話なんだよな
たいていの説で淡路島は大八洲のひとつに含まれてるけど、オノコロ島と淡路島が同一かどうかは不明だよ >>836
多少マジレスすると、
伊予小松藩殿様の妾の母親がない職に励んでいたと記録にはある。 赤坂に引っ越してきた李王は確か暗殺されてたが
その裏を読まないといけない
つまり、李王家は日本の皇族(昌徳宮)になって皇室を乗っ取ったが
(昌徳宮李王垠で検索)
表向きは殺されて消滅したことにした
李家の家紋は梅
T田B布S施放送局が美化する水戸黄門は梅里を名乗っていた
梅里は李氏朝鮮を指していたのだ
つまり水戸は倒幕の中核の長州朝鮮族と同族だった
水戸は徳川を内部から崩壊させていた >>831-835
レスありがとうございます。
4つの島を作ったというのが、私の思い違いだったみたいです。
大八州で調べてきます
皆さんありがとうございます。 古事記に北海道が含まれてる訳無いだろ。
北方領土が含まれてるって思ってる奴が居たらアタオカなのと同じで。 >>833
志村のバカ殿さまは戦国大名というより江戸時代の藩主のイメージ どっちも、バカ殿っぽい面があるとはいえ、全体的には並外れて有能な殿様なんだがな 戦国時代に乞食化していた天皇を維持させてしまった徳川が悪い >どっちも、バカ殿っぽい面があるとはいえ
どういうところがですか? 最期が阿呆に討ち取られただけでしょう 織田信長は、同時代の人が親兄弟含めて「ウツケ者」って言ってるし、最後は部下に裏切られて殺されてるし。 天皇をすり替えて神格化した長州閥がこの世の悪。今に続く。 天皇すり替えはデマだが、長州は御所を襲撃した謀反・大逆の輩なのは事実だな 大政奉還〜廃藩置県の時期に、河内国・摂津国の幕府領・旗本領だったところの行政管轄が
「大坂裁判所」になってたけども、なんで裁判所が統治してたの? 裁判所という名前だけど、現在の裁判所の原型とかではなく、大阪府庁の源流だよ
あと、大阪の幕府直轄地全部じゃなくて中心地域だけだよ、他の直轄地は府内諸藩ともども堺県に算入された >>853
田舎地帯を管轄する司農局も、和泉国・大和川以南の河内国の幕府領・旗本領から接収した地域を管轄する堺役所も、
大坂裁判所の下部組織だったようだが >>851
天皇がすり替わっていないなら
なんで天皇の宗教が仏教から神道に変わったんだ 明治政府による天皇への強制だよ
当時の政府は天皇にいろんなことを強制した >>855
一人の人の信ずる宗教画一つだけってそんな野蛮な発想している人が21世紀の子の世の中まだ居るのか?
そういうやつらはテロリストにしかなれなよ で、倭国大乱の前を統治していた男性の代々の王って
いったい誰なんですか?
(´・ω・`) >>855
江戸時代の天皇家の信仰は神仏習合で、純粋な仏教でもなく純粋な神道でもないぞ 奈良時代後半から平安時代を通して日本仏教は変容し神仏習合の混合宗教へと変わってるでしょ >>863
もともと、日本に伝来した時点での仏教がすでに、道教要素を多く含み、儒教の影響も少なくなかったわけだしな
一方、神道の方も早くから、道教の要素を多く含んでいるし 要素も何も、四書五経に老子は教養として必読だしな。
聖徳太子は、寺も建てれば社も建てる。 寺で珍しい写真を見たんだけど
これって昭和天皇だよね?
住職が大正天皇じゃないか?って
言ってたけどどう見ても
違う気がするんだけど
https://i.imgur.com/Xc0gUAZ.jpg >>868
これで天皇に戦争責任無いって主張は通らんわな。
ヒトラーが議会に操られていた。ユダヤに騙されたってトンデモ論と同じだな。 この写真自体は有名なの?
初めてここまでの人数で
写る陛下見たから驚きだったんだけど >>870
天皇に戦争責任があるかないかを決めたのはアメリカで、そこにはアメリカの都合がある
天皇に戦争責任があることにするとアメリカにとって不利益と判断されたから、昭和天皇には戦争責任がない
それ以上でも、それ以下でもないよ ノリノリかどうかはわからんやん
イヤイヤ写真に写ってただけかもしれんし 仏教やキリスト教が伝来した年はおおよそわかっていますが、
共産主義思想が伝来した年はなぜわからないのでしょうか? 「史観」に関して、後世においては80年代は「自虐史観」、2000年〜2020年くらいは
「歴史修正主義」とか「反知性主義」みたいな言われ方をするんでしょうか? >>875
それ言ったら、ヒトラーもイヤイヤだったとか
ホロコーストは捏造とか
なんでと言えるよね >>880
これってユダヤ人の少女だっけ?
ヒトラーは、ユダヤ人を迫害してけど、自分の親しいユダヤ人は迫害から守ってたらしいね。
まあ、ユダヤ人にも良いやつと悪いやつが居るからな。 ドイツの敵の武器メーカーはユダヤ資本だからな民族的に敵対関係になるのは当然の成り行きなんだよ ユダヤ人排斥を公約にして勢力伸ばして総統になったんだし、ホロコースト反対だったとは思えんよな 富裕層と庶民層を分けて考えないとね。白/黒系も同じく…
朝鮮系も親日的の良い奴と反日の悪い奴の2種居る。比重が偏って一緒くたにするから 反知性主義という単語の使い方間違っている人多すぎだろ >>868
すげー有名人ばっかやん!
よく見たら栗林忠道っぽい人も写ってるな >>874
アメリカを中心とする連合国は
意図的に昭和天皇を極東軍事裁判の被告人から外した
アメリカは天皇に戦争責任があるともないとも言ってないよ
戦争責任のあるなしを判断する極東軍事裁判を
昭和天皇は免除されたというだけ
逆に言えば昭和天皇には戦争責任があるが
かつての国家元首を外国人の手で処刑すると日本統治が困難になると判断したため
政治的に裁判から外したと言える 宮城「秋だな、芋煮会しようぜ」
山形「あ、ちょうど実家から牛肉送られてきたから提供するよ」
宮城・秋田・福島・岩手「ちょwwwww牛肉ってwwww」
山形「なんだよ、わかったよ。じゃあ里芋買ってくる」
三陸「なに里芋って。じゃがいもだろ」
秋田「とりあえず比内地鶏入れるよ」
宮城・山形・福島・岩手「ねーよwww」
三陸「魚は何入れる?貝は?」
宮城・山形・福島・岩手・秋田「寄せ鍋かよw」
朝日町「魚介は棒鱈だけでいいよ」
宮城「三陸とか朝日町とか、マイノリティーは口を出すなよ」
岩手「・・・おい山形!何しょうゆ入れてんだよ!」
宮城・秋田「うわぁぁぁ・・・最悪だこいつ」 福島「まぁいいじゃん、味噌もブレンドしようぜ」
秋田「とりあえず、きりたんぽ入れるね」
宮城・山形・福島・岩手「ねーよwww」
青森「お前ら何やってんの?」
宮城・山形・福島・岩手・秋田「芋煮しないヤツは黙ってろ」 >>888
そか
あるともないとも言ってないか
間違いなく言えるのは、天皇の戦争責任を追及しないことにした
ぐらいか
その分の皺寄せを周辺にかぶせる方針でA級戦犯判決だしてたと思うけど よく、「豊臣秀吉は晩節を汚した」と言われますが、その主な理由はどちらになるのでしょうかね
・甥の秀次に謀反の罪を着せて一族郎党をほぼ皆殺しにしたこと
・勝てる見込みのない朝鮮出兵を強行して諸大名に大きな負担を強いたこと 唐入りは、諸大名の力を削いで政権を安定化させるという意図があったとされているから、大名に無理をさせるのは目的の通りで問題ない
一番危険な家康の力を削いでなかったことだけは大問題だったが
主に秀次関係のことじゃないかな 死後家を存続させられず、徳川家に歴史修正を許したことでしょうね
一族郎党を皆殺しにした頼朝や勝てる見込みのないロシア遠征を強行したナポレオンと比較して、そう思う >>894
「晩節を汚す」てのは生前の行為について言うことで、死後どうなったかの問題ではないような。 武士のチョンマゲはどこら辺から持ってくるんですか?
両サイドから持ってきたらダメなの?
(´・ω・`) >>895
生前当時に言われたことは別に、徳川時代になって再評価された問題… >>895
秀吉は生きているうちに自分の死後何百年も続くような
盤石な豊臣家の政治機構を作らなかったことじゃないか
信長も秀吉もカリスマによる独裁に近いところがあり
カリスマが生きているうちはいいが死ぬと家臣がバラバラになり
新しいカリスマを求めて後継者の下に集まらなかった
家康は将軍を名誉職にして幼児が将軍になろうが障碍者が将軍になろうが
譜代が政治を行うので将軍は政治を行わなくてよい機構を作り上げた
将軍の政治的実権は大きく制限されるが政治から遠ざかった天皇家が長続きしたように
名誉職となって政治責任を一切負わないのが一番長続きする
大老や老中を政治責任者にして失政があれば交代させればいいだけだから >>898
信長の場合は、後継者である信忠が同日のうちに死んでるので体制の引き継ぎがご破算ってのも大きい
信忠が本能寺の変を生き延びてたら秀吉が天下人として台頭する余地はなかっただろう >>899
信長は東海と畿内を抑えたにすぎず天下統一は果たせていない
信忠が生きていても天下統一の器があったとは思えず家臣は離れる せんせい質問∩(´・ω・`)
「将軍後継問題」なんてのが歴史小説、時代小説のネタになったりしますが。
実際のところ、誰がどんな感じで決めていたのでしょうか。
例えば、吉宗が将軍に決まるまで「紆余曲折があった」らしいですが、
誰、あるいはどんな組織が決定できたんですか? >>901
当時政権を担っていた間部詮房や新井白石は尾張の継友を支持していた。
真鍋や白石に反対する勢力と大奥の天英院や月光院が吉宗を支持したことで吉宗に決まったとされる。
間部詮房や新井白石は6代将軍家宣の側近として政権を担っていた。天英院は家宣の正室、月光院は
7代家継の生母でこの二人が大奥のトップだった。 >>898
>>秀吉は生きているうちに自分の死後何百年も続くような
>>盤石な豊臣家の政治機構を作らなかったことじゃないか
もちろん盤石な政治機構を作るのは理想だが、それをしなかったからといって
しなかったこと=晩節を汚す、にはならないんじゃないか
そんなの秀吉以外にいくらでもいるでしょう >>887
この頃はまだ中佐なので居ても大分後ろでわからんのじゃ無いの?
他に有名人って誰がいる? >>904
老中だろう。側用人に力はない
>>905
清盛、頼家ね。頼朝、実朝は成功 晩節を汚したと言われるのは合理性の問題ではなく人道的な問題だろう
唐入りが諸大名の力を削ぐ目的通りだったとしても、一応味方なのにその力を削ぐ為に無謀な戦いを仕掛けたのならばやはり批難されることだろう
尤も豊臣家の求心力自体危うくなるのだから合理性の点でも疑わしいが、それは置いておく >>904,907
レスありがとうございます。
この「支持する」ってのが、わからないんです。
例えば新井白石は、誰に向かって、あるいはどんな場所で「継友支持!」って
表明したんでしょう? 発言なのか、意見書を出したのか。
老中が合議したんですか? >>908
現代の価値観で物事を判断しないで下さい。万暦帝や宣祖の悪政を糺すことのどこに人道的な問題があったのでしょうか?
豊臣家の力を衰えさせてもやったことなのですよ。尤も秀吉の内心は不明ですので、それは置いておく 猜疑心の塊である秀吉が、いつ謀反を起こすかもしれない潜在的な敵と疑って部下たちの力を削ごうとした、つまり心身の病気
まあ、よくあることではある 宇喜多、小西、毛利、小早川、加藤、福島…
どっちが潜在的な敵ですか >>905
摂家の家格勅許に藤氏長者に、盤石じゃん。
関白左大臣の秀次をぬっ殺したとこでチャラになってしまう。 当時の社会や世相を反映させたり、風刺した流行歌や言い回しが複数残っています
たとえば、
幕末の動乱を反映した「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった4杯で夜も眠れず」
明治の西洋文化流入を反映した「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」
戦争下の抑圧された社会を反映(風刺?)した「欲しがりません、勝つまでは」など
しかし、戦後の高度経済成長や公害、学生運動、校内暴力、バブル景気、バブル崩壊、
失われた30年、IT革命、少子高齢化、自殺増大、人口減少などの現代社会やその世相を
反映、風刺した後世に残りそうな流行歌や言い回しが何かないかなと思っております
みなさん、何か良いものはないでしょうか?
一応、バブル景気を反映した言い回しとして「24時間働けますか?ジャパニーズビジネスマン!」
を思いつきました
後世において、歴史資料集とかに掲載される可能性ってどんなもんでしょうかね くだらない質問かもしれません。
江戸時代、船に「荷積み」するときは腕力のみですか?
船に板を渡して、米俵を担いで……みたいな。
何かこう、滑車的なモノとかはなかったのでしょうか?
浮世絵を見ても、それらしきものがないので、やっぱり担ぎオンリーかなあ。 >>917
戦後復興期の終わり→もはや戦後ではない
学生運動→就職が決まって髪を切ってきた時、「もう若くないさ」と君に言い訳したね
言い回しじゃないけど、格差社会や格差拡大を象徴した言葉→年越し派遣村 >>920
確か大坂城の普請の際に瀬戸内海方面の石材を運んだ時の絵図でそんなのあったような。 石みたいな重いものは下に丸太とか引いたとはおもうけど滑車かー >>920
意外と常識と言うのは資料に残らないものだからな。
例えば家電量販店の配送の人が冷蔵庫を室内に運ぶときは布団を使用しているけど、
何百年かのちに人間の代わりになるロボットが実用化されて、すべてロボットがやってくれる
ようになったときに、室内で冷蔵庫を運ぶときに布団を使用していたなんて忘れ去られて
いるかもしれない。 >>922-924
なるほど、石垣。盲点でした。調べてみます。
港から船に乗せるとき、かなり大量の荷物だったと思うのですが
何か道具使わなかったのかな? というのが疑問で。 >>917
失われた30年自体がその時代の世相を反映した言い回しじゃないのかい 天皇の近しい親族が仏門に入ったり、門跡寺院を継いだりしたケースはままありますが、
神社の神職になったケースって内親王が伊勢神宮の斎王になったケース以外にあるのでしょうか? >>923
船に石を載せると船が沈んでしまうので、船から石を海中に吊り下げて運んだそうな・
石の体積分×海水の比重 分、船の浮力が少なくて済むからね。 単に浮力だけが問題なら、船の喫水以下を石の体積だけ大きく作るのも石を水に沈めて引っ張るのも変わらないよ
船に積む場合、積むときも下ろすときも石を持ち上げて船縁より上にする必要があって、重い石を高く持ち上げる無茶をしなきゃいけないのを、沈めることで持ち上げる必要をなくせるってことではないかと? 慶長14年〜寛永15年 船舶を500石積以下に制限
慶長19年〜20年 大坂戦役
元和6年〜寛永6年 大坂城天下普請
蛸石 備前国犬島産 推定重量 130トン (870石)
肥後石 備前国小豆島産 推定重量 120トン (800石)
振袖石 備前国犬島産 推定重量 120トン
船に載せられないよ!
海中に吊るすやり方なら、複数の船の浮力が利用できるよ! 江戸城築城の折には、綱の巻き上げ器(ウィンチ)を備える『石綱船』を使った
大石を大船に積み込むためには、水深のある埠頭をつくり、柱を打ち込んで陸から船まで平地のように道をつくり、石を台に乗せ、船に捲車をつけて綱を引き、陸では梃子で石を押し、船に載せた
船底を開けて石をほとんど水面下に吊る運搬船は江戸後期に工夫された
筏に吊るものはもっと早くあったかもしれないが、筏では本格的な航海が難しいのではないか
普通は船の甲板に無理やり積み込む
それでバランスが悪くなって転覆、沈没する船は多かった
大規模な築城となると百隻以上が失われた 江戸時代以前、崩し字の誤読率はどれくらいでしたか? >>931
木曽や熊野の木材を江戸に運んだの筏なのに。 木曽の木材は筏で流して熱田の木場で集積
そこから先は大型船に積み込んで輸送した
荒波の太平洋を筏でゆくのはムリ 沿岸部を筏に組んだ材木を牽引して運べば輸送可能と言うことですか 沿岸部だったら太平洋の風波も穏やかというのもワケわからん >>927
強いて言えば白川王家が該当するかもしれません 仏門は基本妻帯を禁止しているが神職じゃそーいうわけでもないのがあるんじゃ
内親王は別だろうが >>934
20世紀21世紀もフィリピンやボルネオからラワンの原木を東京湾の木場まで運ぶときは、筏にして貨物船で引っ張ってきてたよ。 >>943
昔はそういう外洋へっちゃらの立派な貨物船がなかった >>944
500石くらいから外洋ヘッチャラになりそうだから徳川秀忠が禁止したんでしょう?
マニラ〜アカプルコ間で、奪った財宝やら奴隷やら農産物やら運ぶ定期便があったくらいやで。 強力なエンジンでスクリュー回して進む進退自由自在の力持ち貨物船はなかったから
風に帆を張って進むだけの船が重たい石を積んだ筏なんか曳航してたらアブナイんちゃうか 終戦時、昭和天皇が退位して京都の仁和寺に入るっていう案があったらしいですが、
なぜ神社ではなく寺院だったのでしょう?
また、他の有名寺院ではなく、なぜ仁和寺だったのでしょう?
(仁和寺が有名寺院ではないという意味ではありません)
仁和寺はもともと過去の天皇が発願した寺院ですが、そのような寺院は他にもありますし >>946
だから、さ、家康とか秀忠とかの活躍した16世紀17世紀に、マニラとアカプルコを帆走で往来する定期船があったんだってばよ。
フィリピンはメキシコ副王の配下だったでよ。
伊達政宗の使節もスペイン人の助力で陸奥からアカプルコへ帆掛船で行ってるでよ。
残ってた資料から復元したら55メートル500トン積とかいう大きな船だったというでよ。500トンったら3300石だよ。 で、江戸城や名古屋城の築城にその船で巨石を載せた筏を引っ張った事実はあるの? 大坂城はあるよ。
大阪城公園の復元天守閣のすぐ向かいが博物館になってるからそこに見に行ってみ あると思い ないと思うも迷いなり 迷いなければ悟りなへなし >>947
そんな案があったというのは事実なんでしょうか?
仁和寺って真言宗御室派の総本山なので格式はかなり高いですが、
それでも日本にいくつかある宗派の一つの真言宗の中のいくつかある
総本山の一つなので、そこに昭和天皇が入るというのは違和感がありますね
敗戦したとはいえ、あの当時の昭和天皇が仁和寺に入る(入った)となれば、
日本で一番格式の高い寺院ってことになるような気がします >>947
そういう話は私は聞いたことがない。
昭和天皇が一時期キリスト教に興味を持ったという話は聞いたことが有るが。
出家して仏門に入ると言うならば
白河法皇などの例に習ったということだろう 俺も聞いたことはなかったが、Wikipediaの仁和寺の記事にはそういう記載があるね(もちろん真偽の程は知らん)。 >>947
天皇対米助命案のひとつとして近衛文麿が検討したんじゃないの
国家神道の神社なんぞに入るのは火に油をそそぐようなもんだし、
明治維新まで仁和寺は世々皇族が門跡として入るところだったから 便乗質問なんですが、譲位した天皇がどこか具体的な寺院に僧侶として入ったという
記録はあるのでしょうか?
変な表現ですが、「ゲスト」として入ったのじゃなく正式な僧侶(住職とか座主とか管長とか
和尚など)として入ったという記録です わざわざ寺院に入らなくても出家して仏門に入り、法皇となれば済むこと >>わざわざ寺院に入らなくても出家して仏門に入り、法皇となれば済むこと
というのは具体的にどういう行為行動を指すのでしょうか?
どこで修行やお祈りをするのか、どこで生活をするのか、
何をもって仏門に入ることとするのか、
何をもって上皇から法皇に変わるのか
この辺を教えてください 上皇様となれば特別な道があるのよ
後白河法皇とかググってください 時代劇を観ていて、盲目の人の名前が何々の市が多いですが、市というのは何か区別するための名前ですか? なぜ武士は勝手に大和守とか名乗るんでしょうか、大将とか大納言はいないし
守ならいいってルールや風潮があったんですか 社会的地位の高い有力な武士は勝手にではなく朝廷から正式に官位をもらってるよ
官職に相応の仕事や給与がないだけでな(つまり、名目だけの官職)
勝手に名乗ってるのは地位が低い武士(以下)だけ 親・先祖がもらった、名乗った官位を引き継いで名乗るケースも 正式に任官される場合でも、親や先祖が実際に任官されたことのある官職だと任官されやすく、それ以外だと、特に上位の官位だと、拒否されたり礼金額が上がったりする もともとこの国はヤマトであって「日本」ではない。「日本」を作ったのは渡来人で天皇制とか記紀を編さんして日本を支配して今に至る。と私は考えます。
ちゃう? ヤマトを作ったのもたぶん渡来系だろ。
天孫降臨とかモロに、大陸から上陸してって話の方がしっくりくるわ。 ここは質問スレであって根拠のない妄想を垂れ流す場所ではない 一応、天孫降臨の話が、大陸からの上陸した渡来系氏族の話っていうのは
メジャーな説だよ。
騎馬民族征服王朝説とかモロにそう。
質問じゃないから、これで終わるけど >騎馬民族征服王朝説
発表直後からフルボッコされ、突っ込まれる度にコロコロと要旨が変わる珍説なのに、
何故か朝日新聞系脳内御花畑が絶賛するという、
ある意味、戦後の昭和社会がどれだけ歪であったのかを知ることのできる例証ですねw >>931
>巻き上げ器
920ですが。そんなものが戦国末期にあったんですか! 江戸城以前にも使われたとか?
そんな便利なモノがあるなら、荷積みに使う方法を考える人はいなかったのか。
ますます興味が湧いてきたので、当たってみます。 山本元帥って今で言うと
どのくらいの地位なんですか?
まさか総理大臣より上? 日本の陸軍は規模的に最上位の階級は大将で、その上の元帥は階級でなく名誉職と思った方がいい
実態としては、大将に名誉称号を追加しただけのはず。権限そのものは大将と同じだよ 天皇、公卿、大名、将軍、総理大臣で
日本史上最も絵がうまい人って誰? >>978
あの学説は間違えているのかもしれないがww
学問の発展には貢献したと思うぞ。 >>973の書き込みを見れば、とても学問は発展していない 騎馬民族征服王朝説は、間違ってるかも知れないが
古代天皇についての研究には役立ったと思う。
万世一系は嘘だと判明したしな。 >>987
万世一系ではないとの説は騎馬民族王朝説より少し早く学会を震撼させてたのでは? 津田左右吉だっけ?
戦前の学者だよな
逮捕されるのに、よく言ったわな。
これは凄いわ。
今では万世一系は、歴史学者からは否定されているけど、津田の功績だわな。
騎馬民族征服説は戦後だっけかな? 王朝交替説は、かなり正しいと思うぞ。
記紀って、ほぼ神話で作り話だから
継体天皇より前は作り話だろ。 >>992
もちろんのことですが、王倹やガウタマ・シッダールタ、イエスも作り話だとお考えですよね? >>993
その当時、文字とかで記録してた国と
実在が疑われる古代天皇みたいに文字で記録が無く、仕方なくストーリーを考えたのと一緒にするのはおかしい。
継体は実在したろうが、行跡は作り話とか入ってるだろう。
実際は、継体は武力で侵攻したのだろう。 >>973
枕詞が本体の表記を乗っ取ってしまった。
こういう地名は、他に、飛鳥、日下、長谷 ……等々
もともと訓読だったものが音読みに取って代わった
他に、京都、摂津、相楽郡 等々
この併せ技で
ひのもとの やまと (日本倭) → にっぽん >>976
あちこちの氏族の族祖が古くから繋がってますよーってプロパガンダだろ。
記紀の編纂された時分はようやっとこ九州南端にまで支配が及んだ時期。あんたら国の始めから従ってたでしょう、
12代のときに逆らって再征服に出張った皇子があんたらの族長と名を呼び交わした仲になったでしょう、って、熊襲や
隼人の慰撫のための神話じゃないのか? 遠方に領地貰ってた分家から本家の跡継ぎに呼び戻すなんてしょっちゅうあるじゃん。
それで王朝交代になるのか?
徳川幕府は吉宗から別幕府なのか >>994
つまり神武は実在していたのね。
で、王倹は朝鮮半島を武力で侵攻した? 仏陀は巨大なウルトラマン? イエスは罪人に石を投げ続けた? イエスは言った、罪無き者のみ石を投げよ
そう言われて群衆はひとり、またひとりと去って行った
そうして、石を投げ続けるのはイエスひとりになってしまった このスレッドは1000を超えました。
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