邪馬台国畿内説 Part804
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1660648448/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>746
素直に魏志倭人伝を読んだら九州北部の話をにしかならないから、魏志倭人伝から目を背けているようにしか見えませんけどね。 >>748
サッパリ、わからん
無視はしない。
あらゆる史書
一致しない所は、どう考えるの? まあ九州説は放射行程説をこじつけないと成立しないわけですが >>751
どこが一致しないの?
九州説なら大部分は問題ない。
おかしいのは陸行一月くらいかな。 >>719
それもその前のやつも読んだけど、却下だね >>752
てっか、説明がないとわからんし
伝わらない。まして昭和に入ってから
出てきた読み方。 >>755
里程と日程は別の資料というだけだから、難しくないですよ。 >>747
公孫氏も称号貰ってたけど滅ぼされました、称号なんて一時期のものであって、激動期にはなんの保証もない、備えとして畿内に政治機能を移したなら邪馬台国は危機管理能力があるということです。額面通りに受け取るやつの方がおかしい。 >>756
里程と日程は別の資料という
説明しているだろー
注釈もないのにわからん >>758
自分には君の文章がさっぱりわからん
説明してくれ 九州説は「邪馬台国までの行程記述は連続していない」とこじつけないと成立しません。連続していた場合、北九州から「水行二十日」する時点で明らかに九州を出てしまうからです。
そのため、九州説は「水行二十日」は帯方からの距離だというようなこじつけを行う必要があります。起点が順次移動する自然な連続行程の読みを離れて、起点が行ったり来たりする何らかの形の放射行程説を取らなければならなくなるのです。 >>674
>サッパリ、わからん
>無視はしない。
>あらゆる史書
>一致しない所は、どう考えるの?
>てっか、説明がないとわからんし
>伝わらない。まして昭和に入ってから
>出てきた読み方。
>説明しているだろー
>注釈もないのにわからん
この書き方で他人に伝わると本気で思ってるのか? >>767
頓珍漢だな。わからんから聞いている
まず、どこの箇所だ。 >>757
それはあなたの勝手な判断であり、魏志倭人伝にそのようなこたは書いてない。
魏志倭人伝からは、魏と邪馬台国は友好国であり、対馬海峡の交易は倭人が独占し、事実上の制海権を持っていたというこたがわかります。
ほもそも古代史において、倭は対馬海峡を越えて攻めていく側であり続けるのですから、友好国となったばかりの魏が怖いから、豊穣の地を捨てて避難するなんて、あり得ません。
じだ、奴国は東夷で最大の国有として発展しています。 >>758
わからん、というのは、あなたが勝手に認めたくないだけ。 >>765
起点が移動するのは、里程の部分だけです。
日程は全て帯方郡が起点です。
あなたが勝手な読み方を、これが九州説だとでっち上げて批判してあるのです。
詐欺師の論法です。
卑怯です。
畿内説はそのような馬鹿げた批判しかできないから、信用されなくなる。 >>770
意味不明?
そう決めつけたいだけじゃの? >>772
意味不明とは?
レスを間違えています? >>753
後漢書
其大倭王居邪馬臺國
魏志倭人伝
邪馬壹国
壹の違い? >>774
どちらが誤りかはわかりません。
他の書ではもっと表記が変わるので、大した問題ではありません。
仮にそれらがヤマトという発音だったとしても、九州北部の山門という地名に過ぎないでしょう。
海に出るところをミナト、山に入るところをヤマトという、一般名詞に由来するのでしょう。 >>773
何が言いたいのか?
あなたが勝手に認めたくないだけ。
わからん、なぜ?そうなる >>775
そこがおかしなところで、日本列島のどこにもそんな陸行が必要な土地はありません。
ということは、そこだけが1日の間違いなのでしょう。
水行10日は、水行一万里に対応します。
対馬海峡を3区間に分けて毎日航行したでさょうから、そこが3日で三千里です。
水行一万里が水行10日です。 >>777
あなたが何を言いたいのか、私にはわかりません。 >>771
行程を説明するとき、連続的に説明することはごく自然です。
投馬から書き方が変わるのは情報源が異なるためだと思われますが、畿内説では距離の記法だけが変わるという最小の仮定をしています。一方、九州説はそのタイミングで起点もリセットされると考えており、より多くの仮定を設けています。
勿論、畿内説も方角が取り違えられているという追加の仮定を立てていますが、それについては古日本語という独立の根拠に基づく仮説による説明を提示しています。これに対して、九州説は距離がリセットされる理由を説明できるような独立の根拠を提示していません。
従って現状、九州説の方が妥当性が低い仮説だと言わざるを得ません。九州説は距離がリセットされる理由を説明できる独立の根拠を提示するべきです。その部分は別の資料に基づくからというのは根拠になりません。近畿説は同じ想定のもとでより少ない仮定しか設けていませんので。 >>778
陸行一月を陸行一日に書き換え詐欺をすればどこに着く? >>779
俺もあなたが何を言いいたいのか
わかりません。 >>765
畿内説では水行の出発点は連続している不弥国ってことでいいんだな?
では奴国の東に百里行った所にある不弥国はどこで、そこから水行する理由は? >>780
別の情報を直列に繋げる方がおかしいです。
里程に相当する区間を日程で表現し直しただけなので、合理的です。 >>780
伊都国奴国不弥国までだ終わっているのですから、リセットはしていません。
日程についての別資料が付記されているだけです。 これが真実だ!
*****
◆1 魏が認識していた倭の位置
魏志倭人伝
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
「大海の中に在る」「山島に依り国邑を為す」との記述から、魏は倭を「島」と認識していたことは明らかである。
この当時、本州と大陸がつながっているかどうかは未解明であり、本州を島と認識していた可能性は低く、倭の位置は九州か四国に絞られる。
したがって、畿内説はあり得ない。
また古くから通交のあった九州を経由せずに四国に行くことは想定できないことから、四国を単独で倭と認識していたこともあり得ない。
よって、魏が認識していた倭の位置は必然的に「九州」または「九州と四国」に決まる。 ◆2 戸数についての議論
晋書倭人伝
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
魏は倭の三十国と通交していた、戸数は七万戸
魏志倭人伝
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
邪馬台国の戸数は七万戸
上記二書の七万戸という戸数が一致していることから、邪馬台国とは「魏と通交していた三十国からなる国家連合」のことであり、その合計戸数が七万戸とわかる。
「邪馬台国」が三十国からなる国家連合全体を指す呼称であることから、これまで一般的に認識されていた伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国という行程は誤りである。
「水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬台国(あるいは魏使が駐在した伊都国)への日数を示すものである。
「水行十日陸行一月」とはこの文脈では「船で行くなら十日かかる距離、陸で行くなら一月かかる距離」という意味であろう。
邪馬台国までの道里が万二千里であるため、陸行の場合は一日に四百里進むことになるが、
戦果報告を十倍にして報告する「露布の慣習」を考慮に入れると一日四十里(一里=434mとして約17km)となり、移動可能な距離である。
同様に考えれば、水行では一日百二十里(約52km)となり、やはり移動可能な距離におさまる。 ◆3 投馬国とは
魏志倭人伝
南至投馬國水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
同様に考えると「水行二十日」とは帯方郡→投馬国への距離を日数で表記したものである。
つまり「船で行くなら二十日かかる距離」という意味と解釈できる。
投馬国の場所を倭人伝から読み解くことは不可能だが、戸数五万戸は邪馬台国の戸数に匹敵する数字であり、かなりの人口を擁する国である。
おそらくは別の国家連合であろうが、水行に要するとされる日数が邪馬台国より多いので、北部九州よりもさらに南下する必要がある。
狗奴国が現在の熊本周辺だとすれば九州西部は考えにくく、日向の都万周辺の諸国連合または四国西部の諸国連合と推定される。
なお、投馬国については里数が記載されていないが、
隋書倭国伝
夷人不知里數 但計以日
夷人は里数を知らず。ただ日を以って計る
とあることから、魏の使者は投馬国には立ち寄っておらず、邪馬台国の役人からの伝聞の数字と見なしてよい。
狗奴国のように敵対する国であるとは書かれていないので、おそらくは邪馬台国の友好国であろう。
つまり当時の倭には邪馬台国、狗奴国、投馬国、以上三つの国家連合が存在していたことになる。
なお、南に進んでも対馬海流により東に流され出雲にたどり着く可能性は考えうるが、
◆1により魏が本州を倭と見なしていないことは明らかであり、この可能性は考慮しない。 ◆4 邪馬台国への行程
帯方郡
↓7000余里
狗邪韓国
↓1000余里
対馬国(方400余里)
対馬国沿岸を北→南に400余里、西→東に400余里移動する。
↓1000余里
一大国(方300里)
一大国沿岸を北→南に300里、西→東に300里移動する。
↓1000余里
末盧国
↓500里
伊都国
↓100里
奴国
合計12000余里。つまり、女王国とは奴国のことである。 ◆5 女王所都
魏志倭人伝では奴国は伊都国の東南とされているので、
後漢書
建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也
奴国が倭の極南界であるとの後漢書の記述とも一致する。
奴国は通常は那の津周辺と比定されるが、一般民衆の居住地域とは切り離し、別の場所に宮室、桜観、城柵を築いた可能性がある。
768年に朝廷が伊都国の東南に怡土城を設けるが、おそらくはこの怡土城と同じ場所であろう。
怡土城と同じ場所(=高祖山)に桜観を設けることにより海上から来襲する敵を早期に発見することが可能となる。
敵が陥落した後同じ場所に城郭を築くことは新たな統治者の威厳を示すために古来から行われてきたことであり、
例えば豊臣秀吉は石山本願寺制圧後、同じ場所に大坂城を建てている。 ◆6 邪馬台国連合の衰退
316年西晋が滅亡。翌317年に東晋が成立するが、江南の地に再建されたため、邪馬台国連合は朝鮮半島における鉄器調達の既得権益を失い、衰退へむかう。
これに対して、畿内王朝は越前を経由して朝鮮半島、大陸から鉄器を入手する交易ルートを確立し相対的に軍事力を向上させ、
越前出身の継体天皇の即位(507年頃)により確固たる地位を築いたものと考えられる。
なお、後漢書東夷伝には
女王国自り東のかた海を度ること千余里にして狗奴国に至る。皆倭種なりと雖も女王に属せず
との記載があるが、この記述は魏志倭人伝にある
其の南には狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智水卑狗有り、女王に属せず
の記述と方角が一致しない。
方角の不一致については三国志の成立が後漢書よりも百年以上早いと考えられていることから、三国志成立後の日本列島内での政治状況の変化を反映したものであり、
畿内王朝が邪馬台国連合を征服する前に狗奴国を征服していたことによるものであろう。
なお、邪馬台国連合の滅亡後も旧連合諸国の中には朝廷に従おうとしない者が一定数存在し、その者たちによって起こされた反乱の一つが日本書紀にある磐井の乱(527年)である。 >>784
太平御覧に魏略を引用した著者は明らかに直列の行程を想定しています。御覧と魏志のどちらが原文に近いかという議論には立ち入りませんが、少なくとも御覧の著者は直列で読むのが自然だと考えていたことが分かります。
あなたはどのような根拠で「別の情報を直列に繋げる方がおかしい」と考えるのでしょうか。 ◆7 邪馬台国連合と畿内王朝の関係
宋史日本国によれば、初めの王は天御中主で彦瀲まで筑紫に都をおき、その第四子の神武天皇が大和州橿原に入居したとある。同様の記述は新唐書にも見られる。
宋史日本国
其の年代紀の記す所に云う、初めの王は天御中主と号す
とある通り、これは日本が提出した年代紀をもとにした記述であり、新唐書についても同様と考えられる。
また旧唐書には
旧唐書倭国
倭国は古の倭の奴国也
旧唐書日本
日本国は倭国の別種也
倭国自ら其の名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す
日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり
との記述がある。
(本項 続く) (承前)
◆7-2
両者を総合して考えると、
(1)当初は筑紫が倭の中心で、その後大和が倭の中心になった。
(2)畿内王朝は筑紫王朝とは別政権(だが同じ倭種)であって、元は小国で新興国だった畿内王朝が筑紫王朝を征服し、その後日本国を名乗った。
ことがわかる。神武東遷が史実ではないとすれば、邪馬台国連合は筑紫にあって、大和橿原の畿内王朝は別政権であったと考えるのが自然であろう。
このことは
魏志倭人伝
女王国の東、海を渡りて千余里、復た国有り、皆倭の種なり
の記述ににも符合する。
畿内王朝は歴史の浅い政権であったが、倭奴国、邪馬台国から連続して存在した歴史の長い政権であるかのように偽装するために、神武東遷を捏造した上で虚偽の年代紀を作成し、唐、宋に提出したのであろう。
畿内王朝は663年の白村江の戦いに敗北したことにより唐との関係が悪化したが、関係改善のために古来より支那の友好国であったことを偽装する目的があった可能性も考えられる。 品川駅から新横浜駅まで何キロ、新横浜駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から京都駅まで何キロ、京都駅から新大阪駅まで何キロ
東京から大阪まではおよそ何時間です
普通の文章ですよ。
畿内説は、新大阪からさらに大阪まで何時間、みたいなおかしな読み方をしています。 >>741
九州北部を示しているのは否定しないけど万二千里がその距離かと言えばそれは違う >>785
日程についての別資料なら、なぜ里程と同様の官や人口についての記述が繰り返されているのでしょうか。これらを一連の記述と見ないのは恣意的と言わざるを得ないのではないでしょうか。 >>791
磐井は邪馬台国ではないと思いますよ。
墓が立派な前方後円墳なので。
しかも日本書紀によると、先に兵を起こしたのは継体天皇の側らしいで、これを反乱と呼ぶこと自体が政治的に中立ではない。 >>784
それ以前に肝心の邪馬壹国までの里数がない。 >>797
複雑な政治構造を反映しているのでしょう。
伊都国ですら、官と大率の二重構造になっていますし。 >>799
だから後漢書はわぞわざ邪馬台国まで一万二千里と明記したのでしょう。
そのうち一万里を九州北部上陸までで費やしています。
残り二千里は、対馬海峡三千里より短い。 >>795
>品川駅から新横浜駅まで何キロ、新横浜駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から京都駅まで何キロ、京都駅から新大阪駅まで何キロ
>東京から大阪まではおよそ何時間です
>普通の文章ですよ。
品川駅から新横浜駅まで何キロ、新横浜駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から京都駅まで何キロ
大阪まではおよそ何時間です
こう書いてあるのを、上みたいに勝手に直したら
異常な読み方ですよ九州説さん >>802
だよな。伊都国?奴国?不彌国?
さてどこの方向と里数で邪馬壹国につくの? >>805
続き 邪馬壹国は、目的地ではないのか? 不弥国までしか書いてないのにこの場所を邪馬台国にしようとか都合よく解釈し過ぎだって 畿内説は不弥国がどこで何故水行の出発点にしたのか説明できないの? >>808
別の資料だし倭国の調査の為に来たんだよ
そうじゃないなら直接伊都国に行けば良いじゃん 邪馬台国に行くにはあの行程じゃなきゃダメだと思ってるのか? >>803
宋)范曄の解釈ではないのか?
范曄が出るまで女王国で、
宗の時代でハッキリしたのか? >>804
大阪まで行くのなら、京都駅から新大阪駅までのキロ数もなければおかしいですよ。 >>809
邪馬台国が奴国を含まないのなら、なぜわざわざ上陸するのか、意味不明です。
直接邪馬台国に行けばいいのに。 >>810
少なくとも里程は郡使が実際に通過したルートです。
それ以外のルートもあり得ても、郡使はそこを通過していません。 >>814
伊都国は入管でしょ
ここは寄らなきゃマズい 伊都国の最寄り駅から奴国の博多駅までの営業距離を計測したら短里などと言う愚かな説は消滅する。 >>816
だな。
伊都国から邪馬壹国に行くには
どの方向で何里なんだろう? >>811
魏志倭人伝の時は、行程の資料をただ書き写したので、全体の里数かが抜け落ちたのでしょう。
後漢書は、魏の時代の郡使による細かい里程情報を省きながら、王都までのおよその距離は後漢の時代もおよそ変わらないということで情報をまとめて簡略化したのでしょう。
後漢書はあくまでも後漢の時代の歴史を書くのが目的ですからね。 畿内説の読み方だと、全体の里数も、全体の日数もわからなくなります。
九州説なら、全体の里数も日数もそれぞれ明記してあることになります。 >>821
おまえが勝手に言ってるだけじゃん
不弥国までしか書いてねえじゃん
てか俺も近畿説だけど九州を指してると思ってるんだよ
理由はお前みたいな無理やりな解釈じゃなくあの書き方で大きく飛ぶわけねえじゃんて話し >>821
伊都国からどこの方向で何里行けばいいのか? >>803
>残り二千里は、対馬海峡三千里より短い。
その海峡三千里が間違いなら、そんなことは言えない
そして海峡は三千里なんて無いから、間違い >>822
いろんな解釈がある
俺は里数と日数で資料が変わってると思ってるから >>821
邪馬台国に行くには
伊都国からどの方向で何里でつくの? >>821
>畿内説の読み方だと、全体の里数も、全体の日数もわからなくなります。
何でそんな嘘つくの?
誰がそんな読み方したと?
証拠だしなよ
上記がアンタの捏造でないんなら 五百里百里百里で次が水行二十日なんて書き方普通しないから >>808
>畿内説は不弥国がどこで何故水行の出発点にしたのか説明できないの?
説明されてるじゃないかテンプレで
比定する理由は出港地ってことだろう >>813
>大阪まで行くのなら、京都駅から新大阪駅までのキロ数もなければおかしいですよ。
おかしくないだろ
そういう書き方は実例がある
バラバラの元資料を組みあわせた場合によくあることだ >>812
>相も変わらず水掛け論の応酬だねw
いや、理由ある畿内説の言い分に
理由もなく噛み付く九州説
これ、水掛け論と言わない
九州説の無駄な抵抗というべき 里程と日程では資料も違うし、時期が全然違うんだよ
里程は卑弥呼女王、日程はトヨ女王 サッパリわからん。
伊都国から邪馬壹国
方位と里数 >>834
元々が方角も里程も間違いだらけと分かっているのに、なんでこだわる必要がある >>836
聞かなくてもわかるよ
「俺様の新しい読み方」しか頼るものがないからだ >>835
畿内説に都合が悪いから目を背けているだけだよね。 >>834
俺でよければ
伊都国の出雲から東に陸行一月で王宮の伊勢遺跡へ
邪馬台はヤマトで方向の違いはわかんないな >>830
フミ国から出港したの?
どこに書いてある? なに?
ビシッと本質をついたから反論のしようも無い? >>839
卑弥呼は王宮ね。
九州寄らないルートの解釈でいいか?
伊都国が二つかな? >>843
勿論出雲だけ
対馬から海流に流されて出雲に漂着 不弥国が港町だとすると該当する地域が東に百里には無いため方向と里数を間違いとしなくてはならない。
また郡使の駐在した伊都でもなく大きな港町である奴国でもなく、わざわざ小国に移動し出発した理由も想像に頼るしかない。
畿内説では不弥国について仮定の少ない整合性のある説明はできないんだね
はい畿内説敗北。 >>845
妄想の多い人だなあ
畿内説はもともと方角や里程なんて当てにならんという説だと公言している
そう言う理由も明らかにしている
だから「該当する地域が東に百里には無いため方向と里数を間違いとしなくてはならない」と言うのは妄想
「伊都でもなく大きな港町である奴国でもなく、わざわざ小国に移動し出発した理由も想像に頼るしかない
」と言うのも妄想
通過した(とちゃんと認識できた)国を漏らさず列挙しているという主張だから
妄想はダメよ
相手の言ってる事を批判しないと、反論にはならない >>848
だってマジで伊都国が糸島とか思ってんの?
墓に住んでたの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています