【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾肆
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
ただし異説を唱えたい人は必ず根拠を明示すること。
根拠がなければただの妄想やけんね。
議論百出は大いに歓迎。
レッテル貼りで議論から逃げ出すごたる奴は九州男児じゃなかばい!
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾参
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1650579345/
過去スレは荒らしや叩きなど醜いレスバに邪魔され続けて住人たちがまともに議論し合えなかったという経緯があります。
同じ轍を踏まないためにも、このスレでは罵倒のみの駄レスを禁じます。
それは声闘という朝鮮人の文化です。
反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg ◆邪馬台国の場所
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 考古学的には糸島から遺跡が全く切れ目なく分布している様を見れば早良周辺も伊都国なのは明白
倭国大乱で争ったばかりの隣国とそんなに隙間なく繋がるわけがない
http://wi12000.starfree.jp/map/itoshima_suido.gif.html
伊都国の主体が海人族の安曇なのだから、伊都国の領域は糸島から博多沿岸部にかけてで、
内陸の農耕国家の奴国(春日市一帯)と分かれていたと考えるべきだろう
では切れ目はどこに?と思うだろう
これを見てほしい
http://inoues.net/iron_nakoku.gif
博多湾周辺の製鉄遺跡の分布だが、今宿から早良一帯にかけて多数あるのに対し、
樋井川を境に分布がぷっつりと切れている
そこから東にある奴国の都とされる春日丘陵一帯には全く存在せず、東区あたりからまたまばらに存在する
樋井川は細く国境としてはいささか心もとないが、樋井川のすぐ東には鴻巣山など中央区~南区の丘陵地帯があり、これが国境を分けたのだろう
ここから読み解けば、樋井川以西は内陸まで伊都国であり、奴国は丘陵を挟んだ東側一帯という分かれ方だったと分かる
また東区に少数とはいえ分布があるということは、やはり博多湾沿岸は伊都国の勢力圏だったということだろう
春日丘陵には多くの青銅器加工遺跡が見つかっているにも関わらず、製鉄遺跡は全然無いというのは特筆するべきことだろう
伊都国は奴国に鉄加工の技術を渡さなかったことになる
鉄は銅より融点が高いため、加工にはより高温の炉が必要となる
海人族の航海術を生かして海外に直接進出していた伊都国のほうが技術力は上だったということだな
青銅の奴国と鉄の伊都国、そんな分かれ方が見て取れる
奴国からも鉄鏃等の鉄器は多数発掘されているので交易により製品は渡っていたが、肝心の加工技術は伊都国が独占していたようだ
これは倭国大乱で争ってからそう時間が経っておらず、大国である奴国を警戒した結果だと考えるのが自然だろう 考古学的にはどう見ても伊都国は当時の先進国
それは紀元前からの流れ
298 :日本@名無史さん :2020/11/24(火) 22:51:33.01
>>234
>伊都王家なんて幻想。独立した存在ではない
そうやって考古学的事実から逃げるから君は事実に辿り着けない
古代史を考えるときに文献から出発するのは間違いの元
まず考古学的事実を確かめ、それを文献から解釈するようにしないと文献の嘘や誤りに流されるだけ
https://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
> 現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、
> 福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。
> 鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。
分かるかい?
日本で一番古い鉄器は伊都国から出土してるんだよ
紀元前から鉄を手に入れ、その後も半島航路を牛耳っていた伊都国が畿内の田舎に仕えるなどあり得ないことだ 考古学的に見ても文献的に見ても安曇が伊都王家なのは明白なんだな
キナイコシ君には残念だろうがw
https://i.imgur.com/qQUIcdb.jpg
> 417 :日本@名無史さん :2020/10/14(水) 00:33:35.04
> https://i.imgur.com/Ah5Akjy.jpg
> この図を見れば、航海術を活かして海外と交易していた海人族の国がどこだったか一目瞭然だなw
> 奴国の王都だった須玖には中国銭や楽浪系土器はほとんど無い
> 博多湾の沿岸部にはあるのに奴国の王都にほとんど無いのは何故か
> それは博多湾沿岸部の集落が伊都国に属していたから以外に説明はつかない 220 :日本@名無史さん :2020/10/01(木) 00:05:02.26
>>218
事実を述べられるのがよほど都合が悪いようだねキナイコシ君w
まあそれはそうだろう
3世紀までには安曇は既に近江まで進出して畿内を包囲しつつあったのだから
その安曇が卑弥呼の腹心である伊都国の民ならば畿内説は絶望だもんな
でも君の都合で歴史の真実を曲げることはできないんだよ
諦めて現実と向き合いなさい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82
> 高島市(たかしまし)は、滋賀県の西部、琵琶湖北西に位置する市。市の面積は県下一である。
>
> 古代の弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。
> 高島の一級河川の安曇川の名称は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(滋賀郡の郡名の由来を参照)
包囲される奈良盆地の図
https://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg 九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその時期はいつか、となると考古学でみるしかない
九州から本州西部への民族大移動の形跡は破鏡の分布の変遷で見ることが出来る
破鏡とは銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に加工したものや紐を通して首から下げるために穿孔したものだが、
弥生後期から古墳時代にかけて出土する
その分布を見ると、卑弥呼のいた弥生後期~終末期とそのすぐ後の古墳時代前期で劇的に変化していることがわかる
図は「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎 より
弥生時代後期~終末期
https://i.imgur.com/r08Lrgf.jpg
古墳時代前期
https://i.imgur.com/AeBKKnz.jpg
弥生時代には破鏡の分布はほぼ九州の北半分に偏っていて、本州では九州から海人族が進出していた沿岸部に限られているのに対して
古墳時代になると本州西部全域に分布が広がり、逆に九州からは減少している
九州内でも、弥生時代には熊本平野、大分大野川流域に分布していた破鏡が古墳時代になるときれいに消滅している
破鏡は鏡の破片なので支配者層の持ち物ではなく、それよりやや下級の武人等が身につけたと考えられる
弥生時代に熊本平野に破鏡があるのは狗奴国と戦闘していた邪馬台国の兵が身につけていたものだろう
それが古墳時代に無くなり本州西部に移るのは、弥生末に狗奴国が滅びて九州北部を統一した邪馬台国が本州へ東征を行ったことを示している
このことは、3世紀まで鉄器のなかった奈良盆地が4世紀に入った途端に大量の鉄器が出土するようになることとも符合する
考古学的に見て、神武東征の時期は3世紀末~4世紀初頭頃 > 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ 淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡
弥生時代の海の勢力図
http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
瀬戸内海は北部九州を本拠地とする海人族の支配下
弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初
https://www.infokkkna.com/ironroad/2018htm/2018iron/18iron03.pdf
> エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。
> ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。
>
> 弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。
> 愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は
> 「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。
> 今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。
https://sun-tv.co.jp/suntvnews/news/2020/11/23/31436/
> 調査の結果、4棟の工房や20棟の竪穴建物跡が発見され、釣り針などの漁具や小刀を含め、およそ170もの鉄器が出土。
> また、九州産のヤリガンナや山陰地方の土器などが見つかったほか、中国から来たとされる青銅鏡の一部が出てきました。
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ
> 九州産のヤリガンナ 136 :日本@名無史さん :2021/01/11(月) 01:47:53.36
>>70
そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
絹の話になるが、絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると北部九州は400年ほど養蚕技術を独占して他に渡さなかったという
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。
つまり弥生期の北部九州には重要技術を独占して自らの優位性を保つという発想が既に存在していたわけで、
まして兵器に使用できて絹より軍事的に重要な鉄加工の技術を他国においそれと渡したと考えるのは難しい
海人族自身が現地に行って鉄加工していた痕跡と見るのが正当だろう http://hero1945.livedoor.biz/archives/50514719.html
> (曽根崎神社の概要)
> ・ 住所:上対馬町五根緒(ゴニョウ)字平山188番地
> ・ 社号:「対州神社誌」では「氏神曾根山房」。「大帳」に古くは曽根崎神社とある。
> ・ 祭神:五十猛命(イソタケルノミコト)(大小神社帳)→阿曇磯武良→阿曇磯良
> ・ 五十猛(イソタケル)は磯良の別称、磯武良(イソタケラ)と云われる。
> 同じ五根緒村にある「大明神」の祭神が、「磯良」となっており、浜久須村の霹靂神社(熊野三所権現)の由緒で「明細帳」に、
> 「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。
> 新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。
> 各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」
>
> と、あることから、当社の祭神、五十猛はやはり磯武良と同一とするのが妥当である。
安曇磯武良が上陸した五根緒村に彼を祀る神社を作ったと記録があり
そこには現在イソタケルを祀る神社が現存しています
ここに至ってまだ安曇磯武良とイソタケルが同一人物だと理解できないのは知恵遅れだけです 対馬の霹靂神社には磯武良も祀られている
式内社なので言うまでもなく江戸時代どころの話ではなく、はるか昔から磯武良の呼称は存在する
キナイコシ君がどんなに捏造しても無駄
https://genbu.net/data/tusima/ikaduti3_title.htm
> 霹靂神社
> いかづちじんじゃ
> 長崎県対馬市上対馬町大増1073
>
> 式内社 對馬嶋上縣郡 能理刀神社
>
> 御祭神
> 雷大臣 日本大臣 磯武良
> 伊弉諾尊 事解男 速玉男 『大小神社帳』 鹿島のタケミカヅチは安曇磯良だから九州系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
> 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
> (磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
> 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)
http://www.genbu.net/saijin/isora.htm
> 袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
> 一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
古代にも要職にある人物等は事実を知っていたらしく、宮城の磯良神社では坂上田村麻呂が筑前志賀島ではなく常陸国鹿島郡から磯良を勧請している
つまり茨城の鹿島神宮に祀られるタケミカヅチが安曇磯良だと坂上田村麻呂は知っていたわけだ
http://miyagitabi.com/sikama/isorajinja/index.html
<磯良神社の由来>
> 延暦23年(804)、坂上田村麻呂が常陸国鹿島郡から磯良明神を勧請して祀ったもので、阿度目神・河童明神ともいい、「おかっぱ様」という名前で広く知られています。
> 古くはここから南方にある真山三十郎(大崎氏の家臣)の屋敷の氏神として祀られていましたが、後に現在地に移されたといわれています。 576 :日本@名無史さん :2021/01/23(土) 19:31:56.74
さて、どうやらこれに対する反論は無いようだな
では皆納得したようなのでテンプレに入れるとしよう
https://i.imgur.com/hLZdESM.jpeg >>4のデータについて
184 :日本@名無史さん :2021/03/16(火) 23:57:12.76
>>159
>>114で何ら問題無いし、やはり>>4の考古学事実に照らすと筑後山門が妥当だろう
>此れだけ広範囲の調査には、30年100億円規模の調査費が必要だが、どこの公的機関が調査を行ったのか教えてくれないか??
広範囲の調査とか言い出すのはちょっと常識が無さすぎないか?
普通に考えれば各地の発掘状況をまとめた結果だと分かるだろうに
ソースはもう>>4で提示されているのだから、ソースのソースがほしければ自分で番組に問い合わせればいいだろう
と言いたいところだがググったら割とすぐそれっぽいのが見つかったから出してやろう
孫引きだが川越哲志氏の「弥生時代の鉄分化」が出所のようだ
https://pds.exblog.jp/pds/1/201802/21/45/a0237545_16344442.png >>11補足
923 :日本@名無史さん :2022/03/16(水) 12:54:07.02
>>10
大中遺跡発見60周年記念春季特別展「弥生集落転生-大中遺跡とその時代-」(兵庫県立考古博物館)
https://web.pref.hyogo.lg.jp/kh01/yayoisyuurakutennsei.html
> 竪穴住居が数多く見つかり国の史跡に指定されている大中遺跡は、弥生時代から古墳時代へ社会が移りゆく時期に突如として大きな集落に成長します。
> この頃になると、東播磨ではそれまでの集落から様相が変化し、弥生のムラが生まれ変わります。
> 【おすすめの展示品】
> 1.大中遺跡出土鏡(播磨町郷土資料館蔵・画像提供)
> 大中遺跡で発見された中国からもたらされた鏡の破片です。5センチメートル程度の小さな破片ですが、孔があけられていて割れ面が擦り減っていることから、
> 割れた後もペンダントのようにして大切に使われていたことがことがわかります。
> 3.大中遺跡出土鉄製品(当館・播磨町郷土資料館蔵)
> 大中遺跡の調査研究を進めるなかで、新たに短剣や鋤(すき)、ヤリガンナ、板状の鉄製品などが発見されました。
> 弥生時代の集落から多様な鉄製品が見つかる例は多くなく、大中遺跡が大きなムラであったことがうかがえます。
> また、出土した全長10センチメートルの短剣は、墓以外で発見された貴重な例です。
確かに弥生時代から古墳時代へ移り変わった頃に集落の巨大化と破鏡の伝来があったようだな
多様な鉄器と共に出土しているのは鉄原料の輸入を独占していた北部九州との関係抜きにはあり得ないから
東征の結果と見ることには妥当性があるな >>7
>>1より
>反論は論理的に、それが出来ないのはただの負け犬です。
まさにお前のことだな負け犬 ご覧のように九州説は論理的に語れず罵倒するだけの珍説です >>22
日本語がおかしいとまで言われてるのにまだ病気が治っていませんよね >>23
テンプレに対して何一つ反論できない雑魚が言うとみっともいいなオイw >>20
これは見覚えないやつだわ
また新たな証拠か
九州説はいよいよ揺るぎないな >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ >>32
>>2-3で完全論破されてる糞コピペ貼って何がしたいのやらw
やはり畿内説は負け犬だな 1帯方郡
2
3
4567狗邪
8
9
10末盧
10.5伊都
10.6奴
10.7不弥
残り1300里で合計60日
1300里÷60日=21.6里(1日当たり)
12000里÷21.6里=555.5日(総日数)
帯方郡から
1年半以上かかって邪馬台国へ
日数を里数に置き換えれば、破綻してる行程(笑) 帯方郡から狗邪韓国までの7千里は
魏の時代の里で3000kmに相当するが
現在でも使われている古道をたどると
実質は600km程度で、1/5するとちょうどよくなる。
日数は、皇帝の巡幸する帥行30里で計算し
これも1/5すると良い。
これで矛盾なく熊本に移動する。 むしろ、魏の里を使うと
狗邪韓国さえ、釜山どころか日本を飛び越えてしまう。
魏の里をそのまま使うほうが間違いである。 >>29
あれだけ叩かれて嘘がバレても善人面とは笑えるw 古墳時代の雷大臣(中臣家)を、海部や紀伊家の超昔の先祖イソタケルと同一人物とか抜かすアホだからな、ここのスレ主は
レベル的にはその程度だと思って相手した方が良い >>42
自分で作った画像を貼り付けて、根拠もなく、同一性はほぼ確実と言えるとか言ってたアレか
正に負け犬の自己紹介だな >>28
漂う自演臭
まだこいつ他人のフリして書き込みしてやがる >>11
>九州邪馬台国が東遷して大和朝廷になったのは状況的にほぼ確か
ではその東遷先はどこか、となると考古学でみるしかないが、どこにもその痕跡が無い。 @阿波 >>13
>淡路島の遺跡は瀬戸内海を支配した北部九州の海人族の遺跡
ほぼ、陸続きの「阿波」だ。 @阿波 >>14
>そうではなくて、北部九州の海人族が本州の沿岸部や淡路島にも進出してたってことだよ
北部九州に海人族などいない。 「倭人(阿波勢力)」の」海人族だ。 @阿波 魏志倭人伝にト骨の記載あり
九州で弥生後期以降のもんは
有明海沿のみ、ここを通過する経路出せるかな? 鉄、絹が豊富が邪馬台国の証拠とか
ノータリン九州説爺の鵜呑み。
どこにもそういう記載はない。
取引のみの記載でどこが多いとかの記載がない。
むしろ30日もかかるから少ない方が
邪馬台国の証拠。
まあ、弥生後期から古墳期に増え出す所が
邪馬台国の候補だよ >>57
なら、近畿より関東が宗教地だな、byよ。 わははははは @阿波 >>61
その古い資料はもう見飽きた。 アホの一つ覚えか? わははははは @阿波 >>63
だったら、新しいの出してよ。
何故か更新しないんだよな。
九州説が作ったのか?
そのデータ集計の後に
近畿から鉄の出土あるのに。 >>65
鉄器なんてどこへでも持っていける。 鉄器の多寡なんて無意味。 @阿波 「卑彌呼」の墓は、山の上。 これ、常識。
畿内や九州の御用学者や郷土史家、みんな揃って非常識。 @阿波 >>67
九州説に言ってくれ。
バカげた定義だから
工場と流通経路の阿波
ト骨の出土はない >>69
ト骨なんて、どうでもよい。 お前ひとり、有難がっとけ。 わははははは @阿波 >>70
知らないな。
意味より魏志倭人伝の記述にある >>69
卜骨器なんてどこへでも持っていける。 卜骨の多寡なんて無意味。 @阿波 >>69
卜骨なんてどこへでも持っていける。 卜骨の多寡なんて無意味。 @阿波 >>75
卜骨なんてどこへでも持っていける。 卜骨の多寡なんて無意味。 @阿波 >>76
山に丹ありのみになりました。
近畿にもある。無論 阿波にもある >>77
>橘もだな。
さすがに「橘」の自生地は持っていけんぞ、byよ。 わははははは @阿波 >>78
>近畿にもある。
辰砂鉱脈だけなら日本中にあるぞ、byよ。 わははははは @阿波 >>79
自生など書いていたけ?
三重に自生あるけど?
絹もあるけど 「卑彌呼」の墓は、山の上。 これ、常識。
byや日本書紀バカ、板野の裏切り者、みんな揃って非常識。 @阿波 阿波だけはないと言うのは安定の事柄
九州、近畿、おそらくだが関東鹿島には記紀の偽装のため同じ地名が存在する
都万は九州にも山城にもある
しかし阿波だけは法則から外れる >>81
>三重に自生あるけど?
近畿より、関東が宗教地だな、byよ。 わははははは @阿波 >>85
宗教地の地域だよ。
でも伊勢神宮がない
古墳じたいの大きさは言ったけど
大阪や奈良より大きいのあるのか?
もっとも多い所とかは書いていない 天神系譜から見れば明らかだが、コヤネの系譜の忌部は中臣家より後の分家に過ぎない
大陸渡来なのに、海部や出雲の祖とかホラを吹くのが阿波 >>86
>大阪や奈良より大きいのあるのか?
一番大きいのとかは書いていないぞ。 わははははは @阿波 >>87
「卑彌呼」の墓は、山の上。 これ、常識。
byや日本書紀バカ、板野の裏切り者、みんな揃って非常識。 @阿波 >>88
奈良、大阪より大きいのあるのか?
なんだけど? >>89
8世紀以降ではな。 わははははは @阿波 >>86
>大阪や奈良より大きいのあるのか?
「魏志倭人伝」に大阪や奈良より大きいのなんて書いていないぞ。 わははははは @阿波 >>94
畿内は8世紀以降だからな。 わははははは @阿波 >>95
じゃあ、どこも宗教地じゃないわけだ。 めでたしめでたし。 わははははは @阿波 >>97
もっとも、宗教地などという表現、by相手にお遊びで使っているだけなんだがな。 わははははは @阿波 >>99
8世紀以降ではな。 わははははは @阿波 クスノキ自生林の北限は福岡市だそうな。
全国の神社にあるクスノキは
人工的に植えたものらしい。 楠木は船の材料にもなったからな
普通に北限まで植えられている
和歌山から林業がもたらされた木曽には楠木は存在しない
育たないから 九州説には朗報だな
薑、橘、椒、襄荷ある
自生などの記載はない
自生確認できたのは五島列島
そこから中国人が運んできたもんと思う
邪馬壹国近畿説。
橘の自生はなんら条件ではない。
阿波爺 使えなくなる。 九州説には朗報だな
薑、橘、椒、襄荷ある
自生などの記載はない
自生確認できたのは五島列島
そこから中国人が運んできたもんと思う
邪馬壹国近畿説。
橘の自生はなんら条件ではない。
阿波爺 使えなくなる。 >>107
福岡や奈良は、「魏志倭人伝」に言う自然自生地じゃないからな。 @阿波 根拠に漢字で書いた人名や地名を挙げると信憑性が無くなる 九州説と楠木は無関係
丸木舟の材料で遥かに昔から台湾か中国から持ち込まれたことが言われている クスノキは大きくなる。
柔らかく加工しやすい。
木脂が殺菌効果を持つ
ため、丸木舟や準構造船の材料に最適だった。
その頃の船舶資源として大きいクスノキは
国力を示すものでもあった。 構造船と楠木の関係と言うのなら渡来に関係すると考えられるが九州とヤマトには時代差はほとんど無い
発掘例がある >>115
自生とは関係ない話と思う。
丸木舟とか魏志倭人伝に記載あったけ? >>116
まさに「楠」は、温暖地「倭人(阿波勢力)」海人族の航海術の源泉だな。 @阿波 >>116
まぁ、福岡や奈良は蚊帳の外ってわけだ。 わははははは @阿波 木造の船は、木を組む継ぎ目から
水が漏れないようにするのが難しい。
そこで、水と接するところを
一つの大木で作って、継ぎ目は
水がかかることはあっても
常時濡れることがないのが丸木舟。
最下層は舟型の大木でも
常時沈む継ぎ目があるのが准構造船。
最下層が柱上のキールで作られているのが構造船。 自生あればいいんだよ。
魏志倭人伝では丸木舟についての記載はない。
脱線している >>126
お前やっぱり伊都チョンだろ
日本語がまたおかしい
まともな人間の言語のキャッチボールが成立してない
そもそもの前置きで楠木と九州説、阿波説は無関係と前置きしてる >>127
>お前やっぱり伊都チョンだろ
byは、伊都チョンだったのかww @阿波 >>129
阿波にはお船祭りや、ホーライエンヤの様な神事もない
縄文遺跡と忌部の連続性も証明されてない >>128
自分の差別は良い差別のトボけた小僧だからな、アイツは >>133
で?
八幡のお祭りの様だが?
宇佐は物部と習合してるから別段おかしくはない
九州宇佐が八幡の総本社たが?ww 自生すら記載がない
あればいいんだよ。
魏志倭人伝では丸木舟についての記載はない。
脱線している >>136
お前はアホなのか?
倭人伝より前からある楠木を持ち出しても意味がないって話だろ
意味のない話をして脱線してたのは君ら
楠木が育たないところでは杉が代用された程度の話 >>138
自生すら記載がない
あればいいんだよ。
魏志倭人伝では丸木舟についての記載はない。
脱線している >>139
存在するだけの話なら東海の三島社にもご神木がある。
意味のない地域の話をして脱線してたのは君ら
正に加害者と被害者が入れ替わるクリンチトークww >>129
阿波爺チョン 伊都チョンてなんだ?
これからかわいいからチョンつけるね
九州チョン、畿内チョン、近畿チョン
阿波チョン >>141
意味わからん
自生すら記載がない
あればいいんだよ。
魏志倭人伝では丸木舟についての記載はない。
脱線している >>143
さらに意味わからない
自生すら記載がない
あればいいんだよ。
魏志倭人伝では丸木舟についての記載はない。
脱線している >>135
>九州宇佐が八幡の総本社たが?ww
神事において九州は皇室と縁がない。
そんな所に、神社の大本など興る訳もなし。 @阿波 この手の話 さっぱりだな
阿波チョン、九州チョン やり取り見るしかない >>146
え?じゃあ徳島では勝手に八幡名乗ってるんだ?
昔から今みたいな事やってたんだねww >>148
阿波国 国府町井戸 「八幡神社」の開基は、白鳳二年(674年)。
御祭神は、誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神)。
大分の宇佐八幡宮の開基は725年。
宇佐八幡宮は、「阿波」から勧請されたものと言わざるを得ない。 @阿波 だから後から作ったかもしれない物を根拠にするのやめろ
ちゃんと調査してその場所に宮殿クラスがなきゃだめだぞ
神様が祠に居るんじゃないんだから >>149
でさ、お前の言うさっきの八幡だが
正平六年(1351年)の創祀だよな?
記紀成立後にできた八幡神社で、阿波や忌部が海人一族の定義になるのか?
お前さ、ここまで阿波や忌部を軽く扱う奴にはであった事がねぇよ
こんな出鱈目やるくらいなら黙ってた方がよほど阿波や忌部の役に立ってると言わざるを得んわ 宇佐八幡は所謂景初動乱で魏国から貰った8本の黄色の属国旗が収められた場所
はちまんじゃなく、ヤハタが本質
物部と宇佐は記紀に隠されてしまった関係でトヨクニは国名までいじられている。
豊後(豊後)など、トヨクニは地域名までいじられて隠されている
稲荷もそうだが、普通は勧請して筋を通す
それを勝手に八幡祀ってますなんてよくそんな事言えるよな
流石に頭おかしい さらにその神社だけどかなりキチンとした形で勧請されていると考えられる
それが祭神の祀り方
wikiより
誉田別命を主祭神とし、息長足姫命を母神、玉依姫命(神武天皇の母)を妻神として祀る。
この形式は宇佐古伝で隠されてきた内容と合致する
倭国大乱期から景初動乱までの役150年間が消された歴史になると言えるのだが、宇佐古伝では、イニエ(崇神)を神武とする記紀服属の系譜を公開している
宇佐古伝は、イニエがニニギに変えられている事
その子供の奥方が越知族の娘で、それが玉依姫になっている事を中ば言及しちやってる訳だ
この三柱の組み合わせの場合はリスクを省みてないキチンとした覚悟の様な物を感じる
もしかしたら宇佐に近い一族の勧請なのかもしれない
普通は少しいい加減に自称674年とやらの様に
誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神
とするのが普通
かなり後年のものだな。この組み合わせは >>151
>正平六年(1351年)の創祀だよな?
違う。 「井上八幡神社」白鳳二年(674年)だ。 @阿波 >>154
違わねえよ
お前が海人系の祭りだと紹介した方の神社だよ
ホラを吹くにしても中身くらい把握して引用しろ工作員 >>155
この「井上八幡神社(674年)」を勧請した元社が、「宇狭の宮」こと、神山町「宇佐八幡神社」である。 @阿波 >>157
お前が最初に出した神社は日和佐八幡神社だろ?
マジでお前の認知力は病気を疑うレベルだぞ >>158
>お前が最初に出した神社は日和佐八幡神社だろ?
それは神輿を海に入れ込む日和佐神社の祭りの話な。 @阿波 >>159
でさ、お前ホント馬鹿だし嘘つきだよな?
あの祭りの何処が忌部や徳島が海人という根拠になるんだ?
俺はそう書いたよな?
さらに記紀成立後の創建でそれより後にできた祭りだよな?
そういう質問を既にしたよな?
祭神の話は俺が自分でwikiして調べて分析しただけ。
創建の話はキチンと6百ナニガシ年のやつとくべつできる様に前コメントで書いてあるよな?
なあ、マジで言ってるのか?フリではなく?
だったらモノホンの病気持ちじゃんw自分で気づいてないだけでさ。 阿波に邪馬台国が有ったのは、本当に地理的要因だけですか?
重ねて、何か神霊的要因が有ったのではないですか? 海辺に住んでたらそれだけで海人族って事なんだろうなww阿波に言わせると
そんなんだったら縄文人だってそうなるわw >>164
クスノキ科ですよ。
詳細な事は魏志倭人伝には書いていないし。
タブノキて三世紀になんて言っていたの? >>166
魏の使者が見ていれば
自生でなくていい。たんにクスノキ
船の話で脱線しただけだから。 阿波のアホは
自分で「橘」「丹」を決め手として使えない
もんにしちゃいました。笑 畿内説スレで居場所なくした@阿波がこっちなら構って貰えるとw >>168
ほんと、阿保 杉
ボケツを掘る を久々に見ました。 >>168
倭国(阿波)の動かぬ決定的証拠:「橘」・「丹」。 @阿波 >>175
倭国(阿波)の動かぬ決定的証拠:「橘」・「丹」。 @阿波 単純に魏書に記載されただけという話なら、伊都で足止め食らった魏国の役人や記録係は伝聞でヤマトの場所を把握してたとしてもあの書き方は成り立つ
伊都は太宰府の前身で我が国の首都がそこにある様に見せかける為の出先機関
そこからは平時は奥に入れない
それが崩れたのが景初動乱ではなかろうか
我が国の説明の部分が終わった後に少し別の話題が入り卑弥呼の朝貢になる
つまり別の時代の話であっても記述としては問題がない
元々、景初卑弥呼とトヨの年齢、そして中国では35才から年長大になる事からも、卑弥呼の生まれが早くて208年なので倭国大乱期には存在は不可能
景初の卑弥呼は死んだ卑弥呼であり、戦乱を納めていない。
それでもあの書き方になっても記載としては問題ない
距離や船の日数も足止めされた場所からの伝聞で方角は嘘をつかれていたとしてもあの書き方になる
まともに船を走らせたら沖縄まで行ける日数なのだから伝聞の可能性はある 阿波の主要な遺跡や神社の地籍は賀茂やミワなどの出雲系や尾張の関連ばかり
どう考えてもヤマトに支配されていた地域
銅鐸の埋納がある時点で銅鏡や銅矛の宗教戦争の範囲内
独自性や源流を示すものは存在しない
田舎の被支配地域がヤマトだったって言えるのと程度は変わらない 当時の情勢
・朝鮮半島北部の高句麗(紀元前37年から7世紀) 首都は卒本城→丸都城(-427年)→平壌城(427年-668年)
・朝鮮半島南部の三韓(紀元前2世紀末から4世紀)
言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
朝鮮半島南西部の馬韓52カ国〔後の百済〕、朝鮮半島南部の弁韓12カ国〔後の任那・加羅〕、朝鮮半島南東部の辰韓12カ国〔後の新羅〕
(346年):百済は国際舞台に初めて登場する。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。蘇我氏の出自は半島南西部の全羅道とされている。
『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。
歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。
またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。
(369年):百済から倭国へ七支刀を献上している。
4世紀後半以降、倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されており、
史実として立証されている。〔広開土王碑・七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。〕
(413年から478年):倭国(ヤマト王権)の倭の五王〔允恭天皇、安康天皇、雄略天皇など〕は、
東晋→宋〔中国南北朝時代の南朝〕に断続的に朝貢を続け、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた。
南朝は朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権は倭国(ヤマト王権)にあると認めた。
(7世紀中葉):倭国が白村江の戦の敗北により大陸での影響力を完全に喪失する。国号を「日本」と改める。 神功皇后の三韓征伐(4世紀後半)について
・中国側の視点
宋書(479年)等の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、
南朝梁の梁職貢図(469年〜530年)には、新羅が或るときは韓の属国であり、或るときは倭の属国であったと記載されている。
・朝鮮側の視点
朝鮮側の史書三国史記(1145年)からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。
また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。
・高句麗側の視点
広開土王碑文(414年)には、4世紀末に倭国が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが記録されている。
・日本側の視点
日本書紀(720年)等の史書では、百済が倭国に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されている。
391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする。393年には倭が新羅の王都を包囲する。397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。
いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる。400年には倭が新羅の王都を占領していた。
高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。
402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる。 卑弥呼の時代(3世紀中頃)
狗邪韓国(3世紀中頃)朝鮮半島南部〔後の任那・加羅〕にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。『後漢書』では「倭の西北端の国」とする。
・『三国志』「魏書」東夷伝韓条には、 韓は南方では陸続きに倭と接すると述べている。倭国(または倭人居住地)の領域内とする説、領域外で対岸とする説、倭の海と岸が接する意味とする説の3説が挙げられている。
・『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は三韓の位置関係をより具体的に、「韓」の西岸に馬韓が、東岸の北部に辰韓、東岸の南部に弁辰(辰韓)があり、馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも朝鮮半島の南海岸部から「倭」の領域であるとしている。
・『後漢書』東夷伝倭人条では、邪馬台国は楽浪郡から「一万二千里」、倭の西北端である狗邪韓国は楽浪郡から「七千里」と記されている。 そして九州説の伊都で金印を貰った卑弥呼は、自分の国をヤマトと嘘をついて誤魔化した
魏書にある様に既に他の国も朝貢してたからその国の名にする訳には行かなかった
それこそ阿波がやってる様な事と同じことをやったのではないか
こうすると、三角縁神獣鏡以外の鏡が出土分布で奈良に東征して居る事と矛盾しない
明らかに四世紀の神功皇后まで150年を消しとばしたとしても何とか誤魔化せそうである
記紀の編纂者は明らかに魏書に目を通して、その書かれ方からじだいの圧縮期間を決めているとしか思えない >>178
>阿波の主要な遺跡や神社の地籍は賀茂やミワなどの出雲系や尾張の関連ばかり
葛城氏も物部氏も中臣氏も蘇我氏もあるぞ。 わははははは @阿波 >>183
で?
海人の話は何処に行った?
お前が嘘をつくのは本当は忌部や徳島が嫌いだからなんだろ?w >>184
>海人の話は何処に行った?
「阿波」の海人はどこにもいかんぞ。 わははははは @阿波 >>185
じゃ、海人は存在しなかったという事で決まり >>177~>>181はスレ主か?
無理のない解釈だから参考にする >>165
クスノキ科とクスノキそのものには天地の差がある
同じネコ科でもネコとライオンじゃ全く違うだろ
>タブノキて三世紀になんて言っていたの?
其木有?杼豫樟?櫪投橿烏號楓香と魏志倭人伝に書いてある
?=楠がタブノキで樟がクスノキ
両方書いてある >>166
樹齢千年じゃかすりもしない
九州外に樹齢二千年を超えるクスノキはない
例えばこのことから樹齢700年のクスノキで作られた井戸枠が出土した池上曽根遺跡が
九州の海人族の遺跡だと分かる
227 :名無しさん@1周年 :2019/06/01(土) 08:22:56.40 ID:l+G41n4N0
>>223
クスノキ林の自生北限は福岡県とされているね
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/163881
>天然紀念物調査報告(植物之部)第八輯 六六頁 参照
>樟 Cinnamomum Camphora Nees. et Ebrm. ハ立花山麓ヨリ山腹ニ亘リ大ナル純林ヲ成シ巨樹多シ、
>樟原始林トシテ代表的ナルノミナラズ同樹林ノ北限地帶トシテ最モ著シキモノナリ
>立花山々麓から山腹に亘るクスノキの純林でその原始林として代表的であるばかりでなく、自生北限に属するものとして最も価値の高いものである。
254 :日本@名無史さん :2022/02/03(木) 00:22:04.57
クスノキ樹林の自生北限が福岡ということは本州のクスノキは人が持ち込んだものということになる
そして九州には樹齢3000年のクスノキがあるのに対して本州には2000年より古いクスノキは無い
http://www.kyoboku.com/jurei/
1世紀の池上曽根遺跡の時点で樹齢700年ということは約2700年前に芽吹いた木ということになるから
そのようなクスノキは本州には無い
間違いなく九州から持ってきたものである >>190
邪馬壹国は近畿にある
卑弥呼は九州 吉野ヶ里周辺にいる
佐賀県武雄市に古いのがあったな
邪馬壹国近畿説 >>190
>間違いなく九州から持ってきたものである
「阿波」だ。 @阿波 九州にガチンコ勝負では絶対勝てない
混ぜなければ力が発揮できない混ぜ御飯パワーの畿内君でわね
これマジ >>190
>>190
クスノキが九州からもたらされた事に関しては異論はないが、そもそもの自生限界という認識が誤っている
史前帰化植物なんだから全てにおいて自生は成立しない
前3世紀の渡来人が来た時期より前から我が国に来ている
楠木も稲作も渡来とは前3世紀とは無関係になってきている >>190
〉九州外に樹齢二千年を超えるクスノキはない
魏志倭人伝近辺の話と楠木は無関係
三島大社の楠木はそれより古いとされる
まあ、何処でも神社は盛る傾向にあるから当てにはならんだろうが
大陸でも把握している樹木が倭人伝の際に既にあった、存在していた以外の状況判断はない >>187
自分のやったことすら他人事とはね
忌部でもない人間が散々今までしてきた事を振り返ったら普通なら精神の平衡は保てない
明らかに異常者だね 我が国の楠木に関しては、氷河期の気候がボトルネックになっており、台湾や中国とは多様性に違いが出ている事が分かっている
現在では固有種としての再評価が開始されようとしている
それが確定したら自生という概念が適用されるかもね
ま、氷河期以前の帰化植物という事で、倭人伝の関係でベンチマークになる様な何らかの指標があるかと言えば、全くの無関係 >>197
気温の話は重要で、 魏志倭人伝の卑弥子の時代は、小氷河期の底に当たる時期
故に、温暖であった九州に邪馬台国があったのではないかとされているのだが
しかし、その気候で野菜が一年中採れたとは思えないので、やはり魏志倭人伝の最初の倭国の紹介文は景初の時代を書いているとは思えない、という事になる。 >>181
辰韓は面白いことに製鉄技術が直接製鉄から間接製鉄に変わっている
後漢が滅んだことにより間接製鉄である炒 炒鋼法(ショウコウ)という。
この技術により武器化可能な鉄が景初前に急速に我が国に入る様になる
馬韓の鉄と炒鋼法(ショウコウ)がキーワードになるが、実は辰韓は、出雲と同じくらいの低温還元可能な砂鉄が取れた場所で、和国の人間が鉄の権益を獲得したのは時代を遡るべきという話がある
後漢の本流としては魏国になるのでそれで我が国は呉ではなく魏を優先したと考えられる
景初動乱の辺りでは民間道教は弾圧され、基本は国家管理の銅鏡に置き換えられていた
それで威信材としての鏡は鉄鏡になっていたそうだ
故に、後に鬼道として書かれた卑弥呼の宗教は魏国に少なからの動揺を呼んだはずである。
しかし、遠くの国という事で思い直したのか、好物というのならそれをやろうという話になったと考えられる
つまり、卑弥呼がもらった鏡は、民間道教から巻き上げた種類も雑多の鏡という推測が成り立つ
形が揃わなかったから破鏡にされたと考えられる
数万が動員された可能性のある戦いに100枚程度の数では到底足りないのではなかろうか
鬼道という大陸視点は道教が既に弾圧されていた事を窺える表現である >>205
>実は辰韓は、出雲と同じくらいの低温還元可能な砂鉄が取れた場所で
すでに「阿波」では、砂鉄が入っていた壺が出土している。 @阿波 我が国の古刀は、北部朝鮮のエリアで採掘できた鉄鉱石と後漢が滅んだことにより流出した炒鋼法による鋳鉄でありながら鍛造可能な鉄によるものであると言う話がある
我が国において古い直接製鉄は紀元前の縄文土器レベルでも還元できる褐鉄鉱を使っていたと考えられているが、その後の間接製鉄の炉がない事からも、鋼の入手は、輸入の鉄の品位で十分だった事による技術の停滞という話なら筋が通る気がする
欧州では後年に開発された転換炉が中国では紀元前2世紀には開発されていた事になる >>208
高温鍛造成形などの高温鍛冶の痕跡
確認できる? >>210
>高温鍛造成形などの高温鍛冶の痕跡
か、どうかは知らんが、「卑彌呼」時代の最新鍛冶炉「Ⅰ類鍛冶炉」だ。 @阿波 >>206
製鉄と精錬の区別もつかない法螺吹きは黙ってろ
単なる還元剤だろ、そんなもの
我が国の鉄の歴史は直接製鉄から発展してない
舶載鉄の鍛治から始まっている 平成24年、福岡市博多区・比恵遺跡群の125次発掘調査で、メタル成分をほぼ完璧に残した鉄塊(インゴット)が発掘された。
随伴出土品の編年から、紀元前1世紀〜紀元後1世紀(弥生中期末〜後期前葉)の金属遺物と推定された。
今から約2,000年前、卑弥呼の邪馬台国が成立する以前の金属遺物である。
土中から発掘される古代の鉄系遺物は、ほとんどが錆び化していてメタル成分が残るのは希であった。
この鉄素材の重量から、内部にメタルが残存していると確信されたので、金属成分を分析する為に勇断をもって切断された。
予想通り、この鉄塊は表面の錆びを除けば完璧なメタルを残し、2,000年前の鋼の輝きを今に現した。
こうした事例は珍しく、将に奇跡的な発見であった。
紀元前後、鉄素材が渡来して国内鍛冶が始まったことを裏付ける有力な証拠となった。
製品としては炒鋼
我が国の製鉄は、要約すると不純物を除去する工程が人力であり続けた事により刀を作る前に折り返し鍛錬が必要となった
まともな鉄が作れたら、丸鍛えや張り合わせで日本刀は作れる 魏志倭人伝の時代の製鉄は、大規模戦闘が可能な、舶載鉄の急速な輸入による側面が大きく影響していると考えられ、対馬ルートで大量に運ばれる
吉野ヶ里遺跡は、景初以降の3世紀に衰亡に向かう。
その次に鉄の産出が最大になるのは丹後。
ヒボコの時代。隠岐島ルートと考えられる。
つまり、朝鮮語を話せるルートと大陸語が必要なルートに分かれていたという様に考えられる事になる >>211
鍛治と製鉄を区別できてない気がする
砂鉄の入った壺って事なら銑鉄が関係してそうだが、この男一体何が言いたいんだ?w
高温という点には何の着目もせず適当に答えていると思う >>215
弥生時代中期末には、砂鉄が鉄器王国「阿波」に到達していたって事実を言ったまでだ。
その砂鉄をどう利用したのかは、知らん。 @阿波 >>217
邪馬壹国は、後年の誤字か、草書体の板木の写間違いでは?
ヤマトだよ >>216
どうせその程度だろうと思った
阿波が王国と言えるほどの産出量になったことは一度もない >>219
>阿波が王国と言えるほどの産出量になったことは一度もない
そりゃ、まともに最新調査してないからさ。 わははははは @阿波 >>220
じゃやっぱり思い込みのデマじゃん
調べてないんだろ?
やっぱりクソだよなw 漢の時代は鉄は厳しく管理されており簡単に外に出せなかったらしい
ただ、素材としての鉄は、半島の北部に宜しい産出地があったため、それで半島が属国化されたらしい
国力としての鉄に関しては、大陸視点から見れば炒鋼の事であり、我が国のそれは記載するに値しないか、少なくとも同レベルで語れるほどの品位や生産量ではなかったと考えられる
つまり、魏書で我が国に関して製鉄のことが書かれていないのは、弁韓だか馬韓の説明で事足りるからであって、零細な直接製鉄の存在を否定するものではないと考えれば、あの書き方になっても筋は通る様に思う
大陸の学者から見たら、鉄とは炒鋼であり、重要な産地に言及して短くまとめたのではないか?
景初動乱の前後の急速な鉄の輸入は魏国の知る中での話だったのだろう
平時なら許されない量の鉄を九州は手に入れている。 >>218
まあ、現存する三国志
が邪馬壹国なんで使っているだけ。 >>222
成る程 なかなか、水行30日の邪馬壹国には
まわってこない。
鉄の出土が少ないわけだ。 >>221
>じゃやっぱり思い込みのデマじゃん
お前がな。 わははははは @阿波 >>222
>平時なら許されない量の鉄を九州は手に入れている。
鉄器王国「阿波」からの下賜品だ。 @阿波 >>224
褐鉄鉱は700くらいで還元できたけど、出来るのは軟鋼で、鋼は作れなかった
槍ガンナや鏃の先端くらいのものしか作れなかった
すぐに摩耗するし、まず残るレベルの鉄は作れていないはず
激戦地となった妻木晩田遺跡は、現在の神社の様な柱跡が確認されているが、木材加工用の道具程度のもので、農具の刃先には到底使えない物であったと考えられる
近接武装としての鉄は確実にヤマトは持っていなかった様に感じます ヤマトはほぼ確実に九州勢にやられてると考えられる
ではどうやったら魏書の通りになるのか?
九州勢が自国の国名をヤマトと自国の前で嘘をつかない限りあり得ないと考えられる。
これなら数万の軍勢がいた国がヤマトではなくとも、魏書に別の国の国名ばかり出ていても問題はなくなる
明らかに銅鐸の宗教が存在した畿内ヤマト
まるで魏書と合わせるとヤマトがヤマトを攻撃した様な記紀の書かれ方
整合性を摂るのであれば、一つの案として、九州勢のペテンが考えられるw
これなら魏書の通りになっても問題は無さそうではある。
流石に既に前漢の時代から付き合いのあるヤマトを攻撃しますとは言えないわな
それだったら魏国は九州に鉄を出すはずがない かなり強引な想像だけど、魏書の様に現存するものから、記載に影響しないという前提で過去を推測すると、相当のブレが発生しますなw 朝鮮半島に鉄を取りに行くというニュアンスなので
自分で鉄鉱脈のある場所まで行って
自分で製鉄までやって持って帰って来てる感じがする。
赤い酸化鉄の鉱脈と黒い磁鉄鉱の鉱脈があって
黒い磁鉄鉱のほうが若干ながら
製鉄がしやすい。
磁鉄鉱は砂鉄の原料なので
後には砂鉄から製鉄されるようになる。
赤い酸化鉄の製鉄は現代に近くなってから。 製鉄は、一酸化炭素を作って
酸化鉄から酸素を奪って鉄にするので
高温で酸素が少ない一酸化炭素ガスで
製鉄する。
精錬は炭素鉄から、炭素を奪って鉄にするので
高温で酸素の多い炭酸ガスで精錬する。
酸素を多くして炭素を燃やしてしまうわけだ。
だが、鉄の多くは酸化鉄になってしまい、
鉄滓という酸化鉄のゴミがたくさん出る。
近代では酸素の調整をするため、
転炉、反射炉という精錬専用の炉が作られた。 >>227
だよな。
邪馬壹国は水行30日
妻木晩田遺跡にしろ
青谷上寺地遺跡は中継地点
さらに物資は入らない
必要なもんは、土木工事や開墾
開拓の道具。
卑弥呼共立で安定し、
やっと鉄器が入ってくる >>232
私たちの認識する鉄器は舶載の鉄であり、昔からある零細な鉄は議論の的ではないという事が魏書との擦り合わせではなかろうかと
元々炉ならありましたしね、青銅器作れましたから
我が国では燃料の問題でリンや硫黄の対策が取れなかったのかもしれません
畿内ヤマトに鉄が入ったのは、正に攻め込まれる時だったかと
鉄と同じで、整理すると、魏国から見たヤマトとは昔から朝貢していたヤマトであり、私たちが知りたがっているヤマトは、畿内に正に攻め込もうとする軍隊な訳です。
だから分からなくなってしまった >>233
すると、妻木晩田遺跡・青谷上寺地遺跡
が戦争の跡なのでしょうか?
畿内周辺は青谷上寺地遺跡並みの戦いの跡が
見つかりません。小さな高地性集落はありますが
それより水害の跡が多いのです。 >>234
島根で言えば田和山の遺跡も先頭の跡とされます
また、記紀でも言及がありますが紀伊の国や、瀬戸内海でも戦いはありました
話は少しずれますが、真正武内文書では、記紀の記載には複数の嘘が書かれているとあります。
その一つが空間の嘘と呼ばれるもので、要点としては
九州と近畿で行われた戦闘が、まるで近畿だけ、もしくは九州だけで起きた様に誤魔化されているとあります。
もし仮にそれがある程度の真実とするのであれば、既存の九州説、既存の畿内説は意味がなくなることになりますが、あくまで魏書の書かれ方からすれば、九州勢が自分の国をヤマトと言ってれば、武内文書の内容が反映されたとしてもさほどの矛盾が生じない事になります。 >>235
記紀に記載はあるが
跡が見つかりません。
記紀は参照程度で実際にあったかは定かではない
と思います。文字もない時代、伝承だけで
どこまで伝わるか疑問に思っています。 権力者側が書いた記紀
にも疑問もあります。
チクシという地名、或いは地域
魏書にも後漢書にも記述がないので
後からできたと推測しています。
神武が東征する前に、チクシの城にいて
代々住んだいたとか地名・地域の照合性がとれません。 武内文書なるものも
原本がいつのものか定かないし(消失?)
紙よりもできれば木簡一部でも
出土が欲しいところです。 >>237
チクシは隋書や北史で記録がありますね。 >>239
あります
魏書、後漢書の時代にはなく
北史の時代との間にできた国と推測できます チクシが発展したのは
5世紀あたりと言われていますね。
古水城遺構が5世紀
鴻臚館が7世紀
糸島の製鉄遺跡群が6~7世紀
その時代ならチクシは色々残っていますね。 >>241
和銅6年(713年)の「好字二字令」によって、後世に多大な誤解を招いた。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 「阿波」の数ある鉄器製作国は、それぞれで朝貢をしていたことだろう。 @阿波 作り上げた記紀道理の
進言したんだろうなが、唐には資料があり
唐が「そんな国はない、うそコケ」
だったんだろうな。
自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世
眉唾もんだ。 >>236
うっそ〜\(^o^)/
田和山なら三重の壕が作られてるバリバリの要塞ですよー
そこには出雲国庁跡地と同じで赤い柱が九本埋められており、今の神社建築の源流かと言われている場所です
妻木晩田遺跡は、吉備津彦たちが攻め込んできた場所で今でも近くの山は孝霊山になっていますし、笹副神社にはその際の戦闘に関する古文書が残ってるそうです
共に倭国大乱家から景初の辺りの戦闘だったかと 田和山は、九州ほど古くはないかもしれませんが紀元前後のすずりが出ていますので割合面白い遺跡ですよ >>236
ただ、真正武内文書ではもっと仰天な事が書かれてまして
第4代大君スキトモの代で一時的に政権はヤマトから追い出され、九州に移転していたというのがあります
ワオ
しかし、なぜ本来ならヤマトにいるはずの八井耳系の多氏や中臣が九州に大きな拠点が出来ていたのか?
なぜ九州では彼らがいた領域でのみほぼ特異的に三角縁神獣鏡が出るのか
空想ですが、そんな事がもしあったのだとすれば一つの案としては面白そうです
言葉があり、口伝があり、文字は一番最後になりますから、最後は結局伝承にしか行きつかないのではないでしょうか?
元々記紀の古い部分も稗田阿礼の語り部の口伝でしたっけ? >>238
確か、記紀編纂の前に集めた風土記は内容がバラバラで、それで廃棄され、残欠や逸文が殆どなんでしたっけ?
文章は書かない事による隠し事や時系列の改変などは容易に出来てしまうので、インチキ臭いとは思っても一部は真実が書いてあると考えるのもよろしいのでは?
どのみち全員、利害があるところは盛りまくるでしょうから
魏書も立場的に書けない歴史はあったでしょうし 魏書の書かれ方で気になるのは倭国大乱期なんですよ
景初はあれだけ詳しく書いてるのになぜ大乱期は短く纏められたのか?
もしかしたら大陸視点では攻め込んだ人たちが同じ系統の一族だったからかもしれませんね。
少なくとも、我が国の人間と話している内容は嘘をついても大陸側が信じればあの書き方は成立しますが、絶対誤魔化せないのが、事件が起きた年号。これは絶対的大陸視点で我が国側が何を言おうが知られてしまったらおしまいです
それを記紀、とりわけ日本書紀は神功皇后の処にわざわざ魏書の引用をしていますが意図は明白です。
倭国大乱期から景初を消し飛ばして、あの内容を神功皇后に見せかける事です
ただ消すとバレてしまうので、魏書の内容はきちんと書いて、最後の判断を誤らせる仕掛けを記紀ではしているはずです
つまり、時代を遡ったりして、いなかった人物をいた様に見せかけたりしているわけです
特に九州は大陸に一番近いのでバレるリスクが一番ある所です。
本来なら書かずに逃げる方が良かったのでしょうが当時の左大臣は石上
つまり、彼のせいで天孫降臨が「物部氏を隠した上で」九州になったとしか考えられません
藤原と仲良かった一族が細工されて大盤振る舞いされているはずです >>245
畿内近辺の事だよ。
乱の跡が見つかりません >>247
最後は結局伝承にしか行きつかないのではないでしょうか?
正確とは別なオヒレはひれ、誇張
権力者側だとご都合出すな >>250
基本的には相当に探すのは難しいのでは?
戦闘後に見捨てられた土地ならわかりますが、田んぼで戦っても田んぼの遺跡にしかならない
逆に当時のまま保存される方が圧倒的に少ないと思いますが >>252
茨城系武内文書だって古文書から書き起こされていますので文字化されていますが?
たまたま藤原と中臣、物部などが書いた本と変わりませんよ?記紀なんて。
人が作ったものですからね。
ほかにメジャー手段がないというだけの話に過ぎない >>253
当然だな。だからおいそれと
文献は鵜呑みにできないんだが?
参考程度でふ〜ん、それで?なるだけ。
ですな。 >>238
出雲から中臣家に伝わったとされる神代文字は、豊後湯布だかに書かれていて、コウゾが使われ始める前に紙の代用品があったとされます
木簡とは時代が違うので、難しいのではないですかね >>255
決定的なもんではない事は
確かだしな。これ持って証拠だ!
という訳にはいかないですな >>256
のちによほど忌避されるかしない限り、人の生活の痕跡で上書きされるので、田和山や妻木晩田遺跡の様なケースはごく少数ではないですかね >>258
その中でも魏書は我が国に忖度一切なしの書物ですから、妄想一つ取ってみても楽しいですよね >>259
少ないな。後は鉄武器の出土の多さぐらいで
紛争や緊張状態地域と推測するくらい。
近畿、東海はどちらかという
水害の痕跡が多い。 日本書紀のミマキイリヒコは、もしかしたら本当に半島にいた事があるから、大陸にも知られている可能性を見越してわざわざ書かれた可能性がありますね
我が国が大陸と地続きの半島において権益を持っていたことを大陸も知っていたと編纂者が仮定していたら、あの書き方にはなるでしょうが
例えば、今では言えば、韓国比古とかww
昔はそんな変なニュアンスであったかもしれませんが、大陸は騙せると考えた可能性はある >>261
鉄は貴重品であったとするのなら、絶対に拾われてしまうと思います >>767
結果的に呉が滅んだ280年以降に、三国志も成立することになりました
しかし当然、魏の人々はそのことを知りません
三国志の時代の記録としては、当時の人々がどういう意図で動いていたのかを記録することも重要だと思います >>263
卑弥呼の時代では
近畿で必要なもんは武器でなく
開拓、農業等で使う道具
再利用する。
当然、宗教地でもあるから
野ざらしにはできない >>191
池上曽根遺跡は1世紀の遺跡だが樹齢700年の大クスをくり抜いて作った井戸枠が出土している
1世紀の時点で樹齢700年に達するクスノキは本州には無いというのが>>190 >史前帰化植物なんだから全てにおいて自生は成立しない
その通説は遺伝子調査の結果誤りだと判明している
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-24710276/24710276seika.pdf
>有用樹木として身近なクスノキを対象として、遺伝分析と野外調査を実施した。その結果、
>(1)日本のクスノキは固有の遺伝的地域性と更新能力を有しており、いわゆる外来種や史前帰化植物とは考えにくい
>前3世紀の渡来人が来た時期より前から我が国に来ている
2000年以上前のクスノキは本州には無いのだからそれより前に来ていたのは九州だけ
「我が国」と一絡げにして誤魔化しても駄目 >>199
三島のクスノキは皇紀を真に受けただけの水増し数値に過ぎない
乎知命御手植の楠を記紀伝承にあわせて2600年前としたからそれより古い木を3000年としただけできちんと測定した数字ではない
実際には乎知命御手植の楠は幹周11mしかなくとても樹齢2600年などとはいえない
本州最古のクスノキは熱海の阿豆佐和気神社の大クスで幹周/23. 9mだが樹齢は2000年にすぎない
そんな小さな木が3000年級とは片腹痛い
http://www.tree-flower.jp/22/kinomiya_jinja/kinomiya_jinja_kusu.htm
>魏志倭人伝近辺の話と楠木は無関係
1世紀の池上曽根遺跡が九州の海人族の遺跡であるとハッキリしたのは大きい
その頃からもう沿岸部は九州の天下だったと判明したわけだからな
東征はあり得ても畿内が北部九州を支配するとかあり得ない 植樹の進んだ現在でさえ日本国内のクスノキの8割は九州に生えている
短期間滞在しただけの魏使が目撃したのならそれは九州である可能性が高いわけだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%82%AD
> 日本では、主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。
> 生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に8%、12%、80%である。人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。
>人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。
これも人為的に本州に持ち込まれたことを示唆しているな
九州では内陸部の森の奥にも分布しているが本州では沿岸部の人里近くばかりというのは本州に植樹したのが海人族だったことを物語っている
スサノオが五十猛すなわち海人族の王である安曇磯武良に植樹を命じたという記紀神話とも完全に整合している 阿波が倭国であると言い張るのなら中国側の歴史書と照らし合わせて成立するかどうか魏書だけでなく旧唐書だったり隋書だったりの倭国日本の詳細な記述と合致するか 合致するのは「阿波」しかない。 「阿波」について書いているんだから当たり前の話だ。 @阿波 本州にクスノキが無かったとか根拠がいまいちはっきりしないな >>274
本州の黒潮沿岸ならば自生するだろ? @阿波 そもそも帰化植物ではないのであれば2000年より古いものがないという話なはならない
それこそ一万年でも五千年でも成り立つ
バカはすぐに馬脚を現すww 阿曇磯良は記紀には出てこない
それそこ神社の古伝でしかないので富士王朝の宮下文書とレベルは一緒
古文書があれは良いという事なら宮下文書も武内文書も同レベル >>270
> 生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に8%、12%、80%である。
現在の事。
縄文時代は気温が高く、弥生時代に下がっていった。
縄文時代は東海が北限だったのかも、現在とは違うと考えられる。 ■卑弥呼の時代から存在しているクスノキ(樹齢1800年以上)
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・未確認 >>270
別に邪馬壹国近畿説には影響なし
邪馬壹国は近畿
卑弥呼が九州だからね。
塚崎の大楠、武雄の大楠、川古の大楠
とあるからね
邪馬壹国近畿説 >>281
>邪馬壹国は近畿
>卑弥呼が九州だからね。
倭種の国はどこだ? @阿波 >>281
>邪馬壹国は近畿
>卑弥呼が九州だからね。
倭種の国はどこだ?
女王国はどこだ? @阿波 >>288
命を懸けて海を渡る理由が無い。 完全に陸行だ。 アウト! @阿波 >>289
関東まで鉄出土ある。
また陸続きだと認識していたのか定かではない
船が妥当だよ。 >>290
>また陸続きだと認識していたのか定かではない
渡海こそどこに着くやら定かでない。
命を懸けて海を渡る理由が無い。 完全に陸行だ。 アウト! @阿波 >>294
いくら嘘ぶいても、渡海こそ、どこに着くやら定かでない。
命を懸けて海を渡る理由が無い。 完全に陸行だ。 アウト! @阿波 安曇磯武良は、宇佐八幡の分社の石清水八幡に特異的にある伝承で文書化は鎌倉時代ww
神事は宇佐八幡が作ったもので、その原典は全くの不明である
記紀の神功皇后にぶら下がっただけの後年のサイドストーリーに過ぎないのだ
八幡関連の神事成立は古いものでも応神期以降と宇佐氏は言い切ってる。
安曇磯武良の舞の内容は記紀服属になっているので、とても応神期には見えない
4世紀の神功皇后時代で楠木と合わせたらもうインチキはバレバレw
仕上げに、史前帰化植物を否定したら固有種になり自生も成立するからもっと前からのものになりここでも植樹しましたはインチキとなる
また、緯度が上がれば幹は成長が遅くなり細くなるので胴回りの太さで樹齢を出しているわけではない
阿波と同レベルで笑ったw >>296
>阿波と同レベルで笑ったw
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い、お前ごときが? わははははは @阿波 601Nanashi_et_al.2020/06/28(日) 00:56:07.42
寒い邪気は好んで東に偏るので扱いには要注意!
明け方 鬼門 西洋と極東の地球緯度気温比較 積雪量! >>284
あり得なくはない話なんだよね
東海は阿部の領域
阿部は尾張氏そのものだもん。負けちゃった方の本来の王族の家系だから、ヒコイマスの息子が亀岡に遷都したってのと同じ解釈が成り立つ。
だから息子に別の字が入る。
亀岡の尾張家は御門別を名乗っていた。
正統な血筋を追うのであれば当然に物部宇佐に倒された方が本来のヤマトになる。
しかし、阿波には遷都した話は存在しない
別と名のつく人物も存在しない そして、楠の話の時点で既に脱線と指摘してる私
フラグ回収完了 >>299
>しかし、阿波には遷都した話は存在しない
「阿波で千年、京で千年」 @阿波 >>301
百歩譲っても、「渡海」じゃなく、「水行」だな。 よって、アウト! @阿波 >>297
阿波は海人のいた所なんですって?ww
御神輿海に落とすのか海人の証ですって?ww >>305
海人族の郷「狗奴国(長国)」=徳島県旧海部郡旧海部町 @阿波 >>306
お前はアホなのか?
海部郡だろ?ww
思いっきり村雲の系譜の一族がいたわけだろ
忌部氏どこ行ったしwww
律令時代には中央構造線に沿って那珂郡と海部が置かれた
そんなことも知らないくせにドヤ顔ww >>303
譲らなくてもいいんだよ
「渡海」なんだから
邪馬壹国近畿説 安曇磯良は、後年に宇佐氏と中臣氏が習合した事による伝承の産物と言っても良い
下手すると単なる中臣家の人間
安曇磯良は、筑前国では志賀大明神。常陸国では鹿島大明神。大和国では春日大明神とも称され、 志賀島(シカノシマ)を鹿島と考える伝承がある。
中央構造線沿いの那珂郡、海部の両端には、鹿島が置かれている。
つまり、この同一視点は律令時代前後に形成されされ始めている可能性がある
袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
どう考えてもコヤネ系の中臣家の神様ww
それも後年の創作に近い
五十猛とは由緒が異なるwww 物部氏という説もある
磯(イソ)の武良(タケル)は、 『古事記』に波限(ナギサ)建(タケ)、『日本書紀』に波瀲(ナギサ)武(タケ)とされる 鵜葺草葺不合尊(彦火火出見尊と海神族の子)に対応する。
ともに海神族の長という意味だろう。
つまり彦ナギサタケウガヤフキアエズであれば物部氏で、海人になるわけだ。
実際に物部氏は遅れて半島征伐に参加しているという伝承がある。
ただ、4世紀に、紀元前のナギサタケは参戦できないから象徴的な書き方か、記紀の圧縮による近接表記かと。
ちなみに、中臣家の外戚は藤原を名乗る事ができたので、尾張氏と物部氏は一部は藤原姓を名乗っている
中臣家とは非常に仲が良かった >>307
>思いっきり村雲の系譜の一族がいたわけだろ
>忌部氏どこ行ったしwww
村雲も忌部氏も宇佐氏も中臣氏も物部氏も
みんな、「倭人(阿波勢力)」が律令時代に分別された一派だ。
お前はアホなのか? そんなことも知らないくせにドヤ顔ww わははははは @阿波 >>311
他人の家の先祖を自説のためにこうまで軽く扱えるものなのか?
本当にクズだよな。人を人と思ってない 物部氏は東征の前の系譜が徹底的に隠され、ホホデミからナギサタケまでの間が欠史となっている
つまり、一番遅くなると、五瀬や佐野命の父親がナギサタケである可能性を考慮しなければならない。
謎すぎる。 >>313
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、
残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>312
倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、
全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。
お前はアホなのか? そんなことも知らないくせにドヤ顔ww わははははは @阿波 >>314
お前な、物部氏と一緒に乱を起こしたのは中臣家だろ
そんときは既に卜部と忌部は地方に飛ばされてるだろ
だから鹿島や信濃と岐阜の境の阿房とかがあるんだよ
政治の藤原、祭祀の中臣
こう言う棲み分けらしいな
今でも神道の親玉は中臣のまま。 藤原の役割は、武家社会の時も続いている認識らしく、秀吉は豊臣をもらう前は藤原を名乗り、臣家も藤原に改名とかしてた。 >>316
>そんときは既に卜部と忌部は地方に飛ばされてるだろ
お前の妄想か? わははははは @阿波 物部氏が本当に藤原を名乗ったケースがあるのか調べてみたら、物部守屋の直径の先祖である島根の神魂神社の社家である秋上氏は藤原姓を名乗ってた時期があった。
これは最近吉備卜部の方から教わったが本当にそうなってた >>319
みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。 @阿波 あと、中臣家は古くは中津臣家と言い、卜部氏から分家したという説があり確認をとった所、逆だと教えられた
卜部氏の方が分家との事。
この認識は現在の春日社の中臣系の人でも共通して引き継がれている。
その忌部氏本人が確認し、その事を私が教わった 安曇磯良は、後年に中臣家公認で、安曇氏と宇佐氏を顕彰する為に作られた神事ではないかと私は思う。
記紀で言えば物部、宇佐、安曇はかなり隠されているし、割を食ってる。
故に後で中臣家と協力関係の一族の地位向上のために、記紀神話に加えられた話が作られたと考えられる。
高良玉垂宮神秘書が参考になるかと思う。
阿度部の磯良が、安曇磯良になった経緯は全く伝わっておらず、慣例的に同一視されているだけである。
しかし、九州の人たちは磯良が誰なのか知ってたから安曇磯良と呼び続けたのではなかろうか? >>274
本州に2000年以上前のクスノキが存在しない
九州には樹齢3000年のクスノキが存在する
>>278
そういう根拠の無い想像は反論とは言わない
ただのイチャモンである
クスノキ自体は北関東の内陸部でさえ育つ
https://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/1010700/kenshitei/1001980.html
気候を理由として本州の内陸部に存在しない根拠にはできない >>280
古いクスノキは大半が九州で
本州だと海人族の進出地にあるわけだな
熱海の語源は安曇とされているのも示唆的だ >>281
>邪馬壹国は近畿
>卑弥呼が九州だからね。
して、その根拠は? >>296
>安曇磯武良は、宇佐八幡の分社の石清水八幡に特異的にある伝承で文書化は鎌倉時代ww
太平記にも出てくるし京都の祇園祭にも出てくるわけだが
特異的でもなんでもない
>安曇磯武良の舞の内容は記紀服属になっているので、とても応神期には見えない
お前の見えないなんていう個人的感想はどうでもいい
>仕上げに、史前帰化植物を否定したら固有種になり自生も成立するからもっと前からのものになりここでも植樹しましたはインチキとなる
九州に自生していたクスノキを海人族が本州に植樹した、で何の矛盾も無いわけだが?
むしろ固有で自生していたのなら本州に2000年以上前のクスノキが存在しない理由や
本州では人の手の入らない森林では見かけることが少なく人里近くに多い理由が説明できないから植樹確定
>また、緯度が上がれば幹は成長が遅くなり細くなるので胴回りの太さで樹齢を出しているわけではない
じゃあ何で出しているのか言ってみろよ
知りもしないくせにw
http://www.hitozato-kyoboku.com/ochinomikoto-kusu.htm
>参道を進んだ正面に立つこのクスノキは、乎知命の手植え、つまり神武天皇の時代に植えられたとされている。それが樹齢2600年の推定根拠だと思われる。
皇紀を真に受けただけの水増し数値w
ちなみに三島よりずっと緯度の高い埼玉でももっと成長は早い
http://www.town.ogose.saitama.jp/kankonavi/meguri/1450770458032.html
>上谷(かみやつ)の山入(やまいり)集落に根を張る大クス(大楠)は、幹周り15m、高さ30m、樹齢は1000年以上にもなる巨木です。 >>328
井戸作るために九州のクスノキを大阪まで運んできたって無理ありすぎ
舟にも使ってるから 帰化植物を否定して、自生説を取るのであれば別段、三島大社の楠木が古くても全く問題にならないわけだが、伊都チョンにはそれがわからないらしい
昔から我が国にある木であり丸木舟に使われたと言う事であれば植樹がどうのと言う話は意味がない
何でもかんでも阿波みたいにやってるからそうなる
そう言う説明が分からないらしい >>328
〉>安曇磯武良は、宇佐八幡の分社の石清水八幡に特異的にある伝承で文書化は鎌倉時代ww
太平記にも出てくるし京都の祇園祭にも出てくるわけだが
特異的でもなんでもない
お前やっぱり阿波と同じレベルだよなw
他にあるからなんだっての?w
祀られているかではなく、お前の好きな八幡愚鈍だかの話だろ
単純に祭神という事ならなら全国の海部で祀られてるわww宮城にもあるしな
で?記紀に出てこないのに出てきてますみたいな嘘をついたことはすっとぼけか?お?w 穂高神社は、楠木が育たない気候と思われる所にある
それどころか長野県全体で楠木がある神社は確認できなかった
年輪で樹齢をだす化学的見地が理解できないスレ主が一部にいる様だが 安曇磯武良は、伝承の類の存在で、中臣家なのか物部氏なのかすら曖昧な存在。
伝承の文書化も鎌倉時代で中臣家の体制が確立した後のもので既に遅い。 伝承
で ん し ょ う
誤魔化そうとしても無駄ww 琉球神道記を採用するのであれば、奈良の事代主系のクシヒカタの子孫のミカヅチ(本来は出雲系の祭神)が、古くは出雲族により常州で祀られ、後年にハ井耳系のタテカシマ(鎌足の先祖)が入り、鎌足が養子入りした事が契機で中臣家や卜部氏に祭祀を任せた。
そこの鹿の祭祀を春日に持って行った。
同じように、九州の鹿島を通じて志賀島神社に鹿がもたらされた。
つまり東から西に移動している祭祀という事になるわけだ。
元々安曇と関係しているわけではなく、安曇氏に祭祀が任された事による安曇磯良への転訛にしか見えないわけである。
信州の安曇も6世紀以前には遡れないとされており、そんなに古い伝承ではないとしか思えないのである。
記紀服属の祭祀形態は、政治の藤原と祭祀の中臣によって推し進められたのであろう。
卜部氏も忌部氏も地方に飛ばされたので、安曇も同じだろうね。
それを時系列を無視して安曇氏の支配があっただなんて、阿波と同レベルww >>326
邪馬壹国 近畿にト骨、丹、絹、橘 あり
卑弥呼が居たのは伊都国、不彌国、奴国の
いずれか。邪馬壹国には行っていない
九州有明海沿いにト骨、絹、丹、
持衰から、外の海流に乗るのに
最適 >>339
続き、さらに佐賀には
古い楠が武雄とかにある。
邪馬壹国近畿説 楠木が九州中心に生えており、有用性が見込まれ、一族の移転と同じくして大事にされ、それに伴い拡がりを見せたというのは大いに支持する所であるが、アホの言うような、磯良とは無関係な話ですよ、構造船がもたらされる前からありましたよというだけの話
楠木に関しては古い時代に紀伊に移住した名草の一族が植林の技術を珍彦達に伝えたと伝承している
海人なんだから育てるのは元からいた人達だろ
名草の一族は楠木を神木にしてる
後年に、木曽に植林の技術を伝えたとするイタキソ社が作られた
紀伊家の影響でイソタケルのイメージがあとからついたとしか思えない
育てるのと活用し、加工するのは別の話 丸木舟程度の需要であれば問題はないが、構造船ともなると要求する規模が違う
つまり、男系相続の渡来人が来ても習合相手、女系文化の土着の一族との合意形成がなければ木材資源の利用ができない
需要に応じて相談し、その結果の増産、植林であろう。
それを記紀に書いてあるからと誰が植林しましたとか、簡単にそんな事言えるもんなのか?w
元々の山は誰が持ってたのよw
背振山縦走してみて分かったけど、海人があれだけの内陸部に住むんだからよほど山の資源を重要視してたとしか思えんよ
吉野ヶ里は背振山系の麓だよな? 本来なら既に脱線してるはずの楠の話が出た時に、私が構造船の話をしたのはこういう理由
こういう背景か踏まえられた上での魏書の記載ではないのか?
楠木には二つの説があることは把握しいた。
・史前帰化植物であるという話
・遺伝子的には氷河期時代を経て、別系統と判断できるという話
私は前者を選んでここで書き込んだ。
必ずアホ主が食らいついてブーメランが額に刺さったまま、矛盾を解消しないままのホラを吹くと思っていたから
あいつ、日本語がホントおかしいからすぐに分かる >>331
どうなんでしょうかね?
イカダで運んで加工って江戸あたりまではやってましたので、運んだ説も全くないわけではないと思いますが
普通に考えて、遠すぎますよねw 穂高神社のご神木はスギだったかな。
楠木は育たないし
だがアホ主の主張だと、何がなんでも安曇族は楠木で井戸を作るんだかどうだかの異常な話しかしないんですわ
無いなら無いで、普通は代用品で済ますだろ 池上曽根遺跡は紀元前2世紀からの遺跡で、鉄の工房跡が発見されている
ヒノキの年輪からは、紀元前57年に切り倒されたことまで判明
ヤマトに鉄器が無かったわけでは無い方がわかる貴重な遺跡であるが、同じく環濠を備える吉野ヶ里の方が有名になってしまい、知名度はイマイチである。
歴史用語としての渡来時期は紀元後3世紀から7世紀と言われているが、青銅器の国産化時期からすると紀元前三世紀、大陸で言えば徐福の時代まで遡れる。
数千人の人間が船で旅立っているので、渡来が可能な技術はその頃にまで焦点を当てるべきであろう。
で、紀元前2世紀の遺跡に樹齢700年の楠木が井戸枠に使われていたと
じゃあ、紀元前9世紀に安曇族が植林したわけか?www
伊都チョンの考えの浅さと言葉の軽さは阿波と同じレベルだよなww
すげ〜、出雲の国ができる前から安曇族はいたのか?
安曇族は海部の分家だが、伊都チョンは、本家とか抜かしてたが、流石に紀元前9世紀はねぇだろwww ちょっと考えれば誰がみてもおかしな事を平気で言うんだよなw ちなみに、青銅器国産が始まる紀元前3世紀前後の時期だが、吉野ヶ里は紀元前5世紀からの遺跡で、環濠を備えることから、渡来人を受け入れた女系が元から住んでいた所
いやー、楠木すげ〜な、畿内の遺跡が九州など比べ物にならない凄い遺跡という事ななってしまうから、大胆すぎる思い込みですなぁww >>328
ちなみに、緯度っていったら、緯度だけか?
標高は?気温は?ww
井戸が好きすぎな病気なんしゃないの?w 井戸って伊都に似てるな
良かったな、日本全国の井戸は安曇族が掘ったのかもしれんぞ?ww >>351
争った痕跡があまり無いから武器はそれ程必要なかったんでしょう
土木建築では役に立つけど巨大な建築物作ってんじゃん
遺物はたくさんあるしそれは事実だから 鉄は貴重品だから次代に引き継がれるからねえ
戦争が起きない限り遺棄したりってことは基本なかったと見るのが
正解かもねえ 鉄がないから作れないんじゃないからな
どこよりも豊富に遺物はあるから >>331
現実に樹齢2000年を越すクスノキが本州に無いのだから仕方ない
丸太は船で曳航すればそんなに大変じゃない >>333
実際に古くないのだから仕方ない
お前は現実と神話の区別がついていないだけの大馬鹿 >>334
>他にあるからなんだっての?w
他にあるなら特異的ではないな
お前が嘘つきだということが証明されたわけだ
お前は阿波以下だな
>で?記紀に出てこないのに出てきてますみたいな嘘をついたことはすっとぼけか?お?w
俺がいつそんなことを言ったんだ?
また息を吐くように嘘をついたな >>335
>年輪で樹齢をだす化学的見地が理解できないスレ主が一部にいる様だが
三島のクスノキの年輪をいつ誰が数えたんだよw
口からでまかせしか言えんのか >>338
そうやってソースゼロの妄想を並べても反論とは言えないぞ低能
お前は現実と空想の区別がついていないだけの大馬鹿 >>356
樹齢2000年の見事なクスノキがありました
普通切るだろ >>341
>磯良とは無関係な話ですよ、構造船がもたらされる前からありましたよというだけの話
その証拠を出してみろよ嘘つき
名草のすぐ近くに和歌山県伊都郡があるのは示唆的だ
>紀伊家の影響でイソタケルのイメージがあとからついたとしか思えない
お前はその思えないとか何の根拠もなく個人的感想でストーリーを創作するのをやめたほうがいい >>343
>私は前者を選んでここで書き込んだ。
出た、苦し紛れの「じ、実は知ってました」w
遺伝子調査の結果のほうが正しいに決まっているだろう
そういう科学的常識が無いからお前はいつまでたっても進歩しないんだよ >>345
>だがアホ主の主張だと、何がなんでも安曇族は楠木で井戸を作るんだかどうだかの異常な話しかしないんですわ
何が何でもクスノキで作るなんて誰が言ったんだ?
相手がまったく主張していないことを「アイツはこう言ってるニダ!」とやるのは実に朝鮮人のお前らしいな
>無いなら無いで、普通は代用品で済ますだろ
済まさずに樹齢700年の大木を使用してるのが分かっているから言っているんだよアホ
日本語が不自由なのはお前だ >>346
>ヒノキの年輪からは、紀元前57年に切り倒されたことまで判明
それは100年ずれていることが指摘されている
実際には1世紀半ばで元々の推定年代にほぼ合致している
この100年のズレが畿内説という虚構を支えている
>で、紀元前2世紀の遺跡に樹齢700年の楠木が井戸枠に使われていたと
>じゃあ、紀元前9世紀に安曇族が植林したわけか?www
>>190を読んでいるのならどうしてそんな愚かな勘違いができるんだ?
本州には2000年より古いクスノキは無いと言っているのだから九州に生えていた木を伐って持ってきたに決まっているだろう
本当にお前は日本語がダメだな >>349
>標高は?気温は?ww
上谷の大クスが生えているのは海な試験埼玉の山間部なんだがw
瀬戸内海沿岸の今治のほうが標高は低いし気候は温暖だぞ
そんなの常識だろ無知w >>353
つまりこの大量の鉄鏃は戦争の痕跡であると
これほどの規模の戦争は邪馬台国と狗奴国の戦争としか考えられないな
4 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:41.00
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg
熊本も菊池川より北側あたりは女王国に属していたようだ
これは免田式土器の分布とも一致する
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg >>362
お前のオツムはモンキーかい
普通切らないから九州には現存してるんだよ 222 :名無しさん@1周年 :2020/01/11(土) 00:38:26.96 ID:h8y9RzJ30
>>202
日本語でおk
池上曽根遺跡は遺物から見て1世紀だ
年輪年代法による紀元前説は疑義が呈されているし、そもそも基礎データが公開されていない
「私のブラックボックスによれば紀元前です」などというのは科学の世界では通用しない
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/keisaironbun.pdf
> 日本では、奈良文化財研究所(奈文研)の光谷拓実が 1980 年から研究を開始し、ヒノキ、スギ、コウヤマキ、ヒバの標準パターンが作成されている
> (図 2。奈良文化財研究所『埋蔵文化財ニュース』99 号 2000 年。および
> 光谷拓実「年輪年代法と文化財」―『日本の美術』421 号 2001 年に鷲﨑加筆)。ただし、基礎データは非公開でブラックボックス化している。
> なお、スギの標準パターンはヒノキに連動し作成されており、ヒノキが 100 年狂えばスギも 100 年狂う。この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が
> 通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
> しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。基本となる標準パターンの作成時、飛鳥時代で年輪パターンの接続に失敗し、奈良時代~現代は正しいが、
> 640 年以前(弥生中後期~古墳~飛鳥時代)の測定値は全て 100 年古くズレている(表1、表 2 参照。ほとんどがヒノキで、一部はスギ)。
925 :日本@名無史さん :2021/11/29(月) 01:10:26.76
池上曽根遺跡の年輪年代が100年ずれているのは
昨年更新されたIntcal20を用いた炭素14年代でも確認できる
https://www.youtube.com/watch?v=h7zsSM7rcKk >>369
「見事なクスノキですな」「そうだ、井戸作ろう」
と、なったんだからしようがねえじゃん 下総と上総
むかし楠の巨木を斬り南方に倒れた。その上の枝が上総で、下の枝が下総だそうで。 ちょっと一息
難波高津宮天皇(仁徳天皇)の御世、井戸の上に楠が生えた。この楠は朝日が上れば淡路島を隠し、夕日が沈む頃には大倭嶋根(やまとしまね)を隠した。よって、その楠を伐採して舟を造らせた。その舟は飛ぶように速く、一漕ぎで7浪を越え去ることができる。よって速鳥と名付けられた。 >>363
起きてみたら早速に笑った
〉お前はその思えないとか何の根拠もなく個人的感想でストーリーを創作するのをやめたほうがいい
だそうたwwww >>366
〉本州には2000年より古いクスノキは無いと言っているのだから九州に生えていた木を伐って持ってきたに決まっているだろう
お前はww
植えたのは誰だって?何処かの嘘つきがホラ吹いてなかったか?w >>365
〉>無いなら無いで、普通は代用品で済ますだろ
済まさずに樹齢700年の大木を使用してるのが分かっているから言っているんだよアホ
日本語が不自由なのはお前だ
穂高神社には楠木は杉とケヤキしかないから安曇族とは無関係だなww
井戸を見たら安曇族病のホラ吹きww >>356
〉丸太は船で曳航すればそんなに大変じゃない
三島から穂高までは待ってこれないのに九州から畿内には持ってこれるんだ?ww
ほーう?w >>365
だいたい、このくだらないクソスレであの遺跡を初出したのは俺だ
それまで鉄器はなかったと主張してたホラ吹きがお前
そしたら、井戸が楠木だから安曇族だって吠え始めたのは過去スレで見ればわかる事だぞ?ww >>372
房総あたりはビワも栽培してるからね
楠木も育つ気がする >>360
〉三島のクスノキの年輪をいつ誰が数えたんだよw
口からでまかせしか言えんのか
wwww
お前の吠えてる楠木の話のことを言ってるのか?w
縄文杉は成長が遅いから年輪が密になり丈夫になるんだがなw
三島には他にサンプルとなる楠木が一本も生えてないと思い込みたいらしいww
さすが伊都チョンは日本語がお上手だなww >>370
100年ずれてるからって伊都チョンの嘘が消えるわけでもなしw 八幡愚鈍は伝承ですww
記憶から文書化されるまでは口伝や想像だったので、伊都チョンの言う通りなら既に劣化しています。当てになるようなものではありません
鎌倉時代www
どう考えても出自は中臣とかの方が他の資料で判断しても妥当ww
伊都チョンの言う通りなら安曇族もコヤネの子孫になり、阿波ともおなじになるww
まさに本当に阿波と同じレベルww サッパリわからん
広葉樹と針葉樹を比べるのか?
邪馬壹国近畿説 >>364
苦し紛れのクリンチですか?
その時の話の本質は、魏書からずれた話がどうかだろ?頭おかしいのか?ww
遺伝子の話は一切その時までは私は持ち出してないわけでww あと、伊都郡ってのはヒボコに因んだ地名でな
安曇とは関係ない
2世紀と三世紀でやられる側になったヒボコが逃げ込んだ先が伊都の地名になった
つまり、景初の前の動乱期にもヒボコ族は敗れて淡路島方面に逃げ込んでる
だから他にも伊都の地名はあるだろう まあ、遺伝子の云々が出た時点で
楠木が、誰でも伐採できるし、誰でも植林できる木にすぎないと言う事になるわけでw
記紀に登場しない磯良がなんたら噛んだらという伊都チョンの嘘が、自分自身の主張で壊れた
こう言うことだよw
日本語が不自由って恥ずかしいですねw
俺ナーンにもしてないのに嘘つきに嘘つき呼ばわりされてるってわけだww 2000年より古いか
九州にも屋久島にしかないんじゃない? >>389
愛媛県今治市 大山祇神社も古いよ
邪馬壹国近畿説 三島の楠木は嘘だが九州のそれは正しいはずニダ。
by伊都チョン >>359
おまえ、270でこう書いてるよな?
〉スサノオが五十猛すなわち海人族の王である安曇磯武良に植樹を命じたという記紀神話とも完全に整合している
記紀神話に一切出てこないよな?磯良は
お前は雷大臣も何もかもぜーんぶ同一人物とか言う時系列も無視の意味不明な自作の画像を作って根拠とか言って貼り付けてたよな?w
息を吐くように嘘をつくとはこの事だなww 琉球ナニガシのはなしと、『八幡宮御縁起』の話を総合すると、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとなっているので
外戚である藤原を名乗ることが出来た尾張氏(安曇はこの中に入る)と、中臣家の厳格な区別があった事を総合すると、矛盾が生じる事になる
つまり、安曇は記紀の方針で隠されているか、中臣家が安曇と集合して、男系中臣が安曇氏を名乗っている可能性が否定できない
宇佐神宮から分かれた石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とある。
当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。
同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。
この事からも、中臣の系統が安曇を名乗ったとしか思えないわけだ
一般に我々が把握する安曇氏と、磯良系を奉じる安曇氏は、厳密に言うと時系列や認識上のずれがある。
中臣、大中臣のNGは、藤原を名乗ること、中臣の臣の字をトミと呼ぶことの二つ。
他の名前はあまり制限がなかったようである 要は、いくつかある磯良の話は後年のネタバレな訳だ。
本質はコヤネだよと言っているわけだから、あ?仕組みが作られた後に、ネタバレしても安全と判断されて書かれたものだろう
高良大社は物部が隠された典型的な例で、かつては饒速日を祀る神社だったそうだ
高良大社の文書『高良記』には、玉垂命が物部であることは「秘すべし」とされ、もしそのことが洩れたら「全山滅亡」とまで記されている
久留米市だからまあ、吉野ヶ里に近いといえば近いのか?ビミョーな気もするが そら今の時代なら太いクスノキなんて必要ないし貴重だから残すよ
でも二千年前に残して朽ちるのを待って何が嬉しいんだ?
普通切って使うだろ >>396
確かに
ご神木以外は有効活用を考えるよな >>371
それはただの妄想
本州には2000年より古いクスノキが見つからないというのが客観的事実
そこから2000年前に植樹が行われたと推定するのが論理的思考
味噌と糞を一緒にするなカス >>374
全くの図星で反論できないから笑ってごまかすしかないんだな
負け犬は辛いねぇw >>375
本州に2000年より古いクスノキが無いのだから植樹は2000年前に決まってるだろうが
それより古いクスノキは九州から切り出して持ってくるよりないわな
こんなごく当然の論理的帰結にも辿り着けないとは頭が悪すぎる
やっぱりオツムがモンキーだなお前は >>376
安曇野に安曇が移住したのは7世紀とされている
その頃には海人族の元締めとしての地位はとうに失った後だ
九州から長野まで好きに荷運びができるような地位ではもうない
時系列で物を考えることすらできないとはやはりオツムがモンキーだな >>377
>>401だけで十分に説明はつくが加えて言えば
当時海辺にあった池上曽根遺跡に船で丸太を曳航するのは容易だが、海なし県の長野まで運ぶのは困難だ
こんな当たり前の事も分からないとはやはりオツムがモンキーだな >>378
ほうお得意の口からデマカセか
だったらその過去ログを出してみろよ嘘つきw >>379
気候的にはもちろん育つことは可能だ
だがそれでも現実に本州に2000年以上古いクスノキは見つからない
2000年前に安曇が九州から持ち込むまで本州には無かったと判断するのが論理的思考だ >>380
>三島には他にサンプルとなる楠木が一本も生えてないと思い込みたいらしいww
まーた口からデマカセか
どのクスノキをサンプルにしてそれはどんな結果だったのか言ってみろw
気候的には愛媛のほうが温暖で埼玉よりクスノキの生育にはずっと適しているぞ >>381
どこに嘘があるんだ?
全く指摘できていないじゃないか
お前の口からデマカセしか無いぞ >>382
伝承は劣化するから単独では信頼性に欠けるのは事実
だから複数の証拠を比較検討する必要がある
その結果導き出された事を言ってるのが俺
ソースの無い妄想を並べ立てているのがお前
>どう考えても出自は中臣とかの方が他の資料で判断しても妥当ww
具体的な資料名をどうぞ
今まで何度もソースを要求したが一度も出せてないぞお前w >>383
伊都チョン連呼はただの狂人荒らしだから気にしない方がいい
本州のクスノキは約2000年前に安曇が九州から持ち込んで植えたものだということだけ覚えておけばいい >>384
クリンチしてるのは「じ、実は知ってました」とかモロバレの嘘をついたお前だよw
魏書には倭にクスノキがあると書かれているんだから関係あるに決まってる
頭おかしいのはお前だから安心していいぞ
>遺伝子の話は一切その時までは私は持ち出してないわけでww
そりゃ俺が教えてやるまでお前は知らなかったんだから持ち出せるわけないわなw
つくづく恥ずかしい負け犬だよお前は >>385
だからそう>>269に書いてるよ
本州で一番古いクスノキが安曇由来地名の熱海にあるのも安曇族が植えて回ったからだと知れば納得だろ >>386
また根拠の全く存在しない口からデマカセを
お前はその何の根拠もなく個人的妄想でストーリーを創作するのをやめたほうがいい >>388
>まあ、遺伝子の云々が出た時点で
>楠木が、誰でも伐採できるし、誰でも植林できる木にすぎないと言う事になるわけでw
これほど1行目と2行目で論理が繋がらない駄文も珍しいw
彼の狂った脳内ではこれが普通らしいが常人には理解不能だろw
日本中にクスノキを植えて回ったのがイソタケルであることは日本書紀に記されているし
イソタケル=磯武良なのは>>15等から明白
嘘つきは伊都チョン連呼だけでしたとさ >>390
それが>>269で言ってる三島のクスノキの事なんだよ
で、その愛媛のクスノキが気候的理由でもっと寒い埼玉山間部のクスノキより成長が遅いニダ!
って喚いてるのが伊都チョン連呼くんなわけだ
彼が狂人であることがよく分かるだろ? >>392
そりゃ三島のクスノキは小さいからなw
論理的に反論できず印象操作に逃げるだけとは情けない負け犬だよお前は >>393
その文章を読んで磯良が記紀に出てくると誤解するようなバカはお前だけだぞw
普通の人は記紀Iに出てくるのは五十猛の方だと誰でも分かる
日本語の不自由なお前しかそんな勘違いはしないから安心していい
時系列も何も雷大臣も神功皇后も何年頃の人物か確定した根拠は無いんだが
神功皇后なんて未だに非実在説まであるのにw >>394
中臣は雷大臣の子孫なんだから安曇と同系統で全くおかしくないわけだが
>この事からも、中臣の系統が安曇を名乗ったとしか思えないわけだ
全く中臣と関連性の無い文章を見て「としか思えない」とか頭おかしい >>396-397
ふつう伐って使ってたら九州に樹齢3000年のクスノキなんて残るわけがない
海人族の本拠地により近いぶんより伐られやすい環境だからな
だが現実に残っているわけだ
自分の妄想よりも現実を根拠にしなさい 幹周り23.90m
来宮神社/静岡県熱海市
幹周り24.22m
蒲生八幡神社/鹿児島県姶良市
樹齢は100年も違わないと思うが >>418
何言ってんの?
残していい事なんてあるのか? 西暦250年に魏軍が攻めてきて韓王を殺したわけな
その140年後に当たる西暦390年に倭軍が半島に攻め入ったとある
このときの記録に出てくるのが総大将、神功皇后と武官、葛木襲津彦
新羅、百済、加羅諸国などを下して倭の占領下に置いたとされとる
その神功皇后の息子に当たるのが応神天皇なわけで
系図的には韓王一一一神功皇后一応神天皇一仁徳天皇となるわけだが >>409
〉>遺伝子の話は一切その時までは私は持ち出してないわけでww
そりゃ俺が教えてやるまでお前は知らなかったんだから持ち出せるわけないわなw
つくづく恥ずかしい負け犬だよお前は
また願望を押し付けるww
流石の朝鮮トークww
話する前に裏くらい取るわ
お前みたいに完全一致検索とかインチキはやらねーんだよww
あれは傑作だったな伊都チョンww >>417
〉中臣は雷大臣の子孫なんだから安曇と同系統で全くおかしくないわけだが
wwwいつのまにか海部の分家の安曇がコヤネの子孫になったのだ?www
阿波並みだわww 応神天皇以前の天皇ははっきり言って分からない
そもそも物部も竹内の子孫とされとるが遺伝子研究ではまったくの別物 >>411
伊都が安曇由来だなんて根拠、お前だしてないだろww
それを言うのなら既にお前が創作してる >>412
〉日本中にクスノキを植えて回ったのがイソタケルであることは日本書紀に記されているし
イソタケル=磯武良なのは>>15等から明白
つまり、記紀にかかれてないじゃん
自分で自分の嘘を自己紹介してらww
他の資料では中臣としか理解できないような伝承ばかり >>416
〉その文章を読んで磯良が記紀に出てくると誤解するようなバカはお前だけだぞw
普通の人は記紀Iに出てくるのは五十猛の方だと誰でも分かる
wwwwじゃあ、お前の言うイソタケルが命じた相手ってのは記紀には出てきてないわけだから嘘を確定でいいよな?
そもそもお前、磯武良と、イソタケルが同一人物とか抜かしてなかったか?
同一人物が自分に命じたりとかしたのか?ww
凄い日本語だなw
ここで押して逃げるあたりすげ〜わww
息を吐くように嘘をつくとはこの事だ
虚言癖のやつは自分の嘘を嘘と認識しないwww >>427
ですよねえw
伊都チョンの大好きな八幡愚鈍と、琉球何某見たら、普通は中臣家でも植樹は可能くらいのことを思いますよね?w いやーしかし、中臣家の外戚の尾張家(吉備津彦、大彦、海部、安曇など)が、いつのまにかコヤネの子孫だってwww
レベルがここまで低かったとはww あ、それと五十迹手だったかな?
ヒボコの子孫まで同一人物とか言ってたよなww
まるまる阿波と同じ性質ww >>424
物部と武内って遺伝子研究されてたの?
よくわからん 但馬の 出石は、伊都志 ( いずし )と書いたんだよね〜
半島の鉄輸入はヒボコルート。
伊都地名と安曇は基本無関係 『筑前国風土記』逸文
「五十迹手(いとで)奏ししく、高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり。」「天皇、即ち五十迹手を美めたまいて伊蘇志(いそし)と曰う。故れ、時の人五十迹手が本土を号けて伊蘇(いそ)国と曰う。伊覩(いと)と謂うは訛れるなり」
とまあ、紹介されているように、天日槍の子孫が伊蘇国と名づけ、それが訛って、伊都国になったというのであれば、「伊都」の本家は但馬の伊都志(糸井)で、伊都国は外国貿易のための出先機関だったのかも知れんわなww
基本的に古い時代にやってきたヒボコの関係の土地
景初の前の大乱で負けたヒボコ族が逃げ込んだ一部が糸島に流れた。
安曇地名ではない段階で少しは頭を働かせるべきだったなww 魏志倭人伝においては伊都国の副官は泄謨弧とされるが、シボコ〜ヒボコ?と読むと言う説があるくらい。 泄の字は沘の草書体の写し間違えの可能性が否定できない
載斯・烏越というのは昔から武内宿祢と言う話が出ていた。
載は戴の写し間違いという話をいう人たちがいる。
タケシウチ⇨タイシウェツ。 日本書紀の神功皇后紀の実年代は卑弥呼より120年ほど後だと聞いたがね。
たどすると「天皇、即ち五十迹手を美めたまいて伊蘇志(いそし)と曰う」という話自体が日本書紀の創作だろ。
まあ泄(沘)謨弧がヒボコだというのは面白い説だけどな。 >430
横からですまないが、中臣がコヤネの末裔というのは公式見解じゃなかったかな?
何がおかしいのか教えてくれ。 筑紫君=阿倍、奈良桜井市磐余=阿倍、平時の国葬=天皇か安倍
九州説近畿説で争うのは間抜け
国葬、国歌、国旗にすべて、答えが載ってる。灯台下暗し。 >>438
ご質問有難う御座います。
説明が悪くてすみません。
中臣家はもちろんコヤネの系譜ということですが、あの嘘つきの話だと、中臣家の外戚の家までコヤネになる矛盾をそのままにしているということです。
尾張家は、村雲からヒコイマスまでの欠史八代を含む、景初動乱でやられちゃった前政権の系譜です。
吉備津彦も、大彦も尾張家です。要は最初の大王家の系譜です。
のちに婚姻関係はあったでしょうが、男系で言えば中臣家とは当然違います。
男系、女系の考察もないんですよ。
尾張家は男系カゴヤマの系譜。八井耳や海部、安曇、阿部などがそれに該当します。
中臣家は、男系コヤネの家系です。
海幸彦であったため、記紀では隠す必要のあった一族です。 志賀島神社のすぐ東側には相島がありますがかつては阿閉島といい、阿部の領域でした。
磐井も阿部臣ですね。
宮地嶽古墳の神社もかつては阿部家が宮司でした。
安曇は昔から居たとは考えずらいですね。伊都という地名からも明らかなように 中臣家から卜部氏が別れたようですが、吉備の藤原(外戚)と習合した人たちは、吉備卜部と名乗り、記紀服属で、現在でも隼人を名乗ることがありますが、元々の隼人族は九州土着の先住民でした。
海幸彦、山幸彦は腹違いの兄弟の家系。
それが尾張氏と物部氏です。
物部氏もクニクルの代で大王家と習合した結果、外戚として藤原姓を名乗れる家系になっています 紀ノ川に伊都郡や那珂郡がある。安倍(阿度部)磯良(射盾神)か、孫の大鷦鷯尊あたりが、やれっとかいって、つれてったんだろう。 で。このクソスレの主は
安曇磯良、磯武良、五十迹手、五十猛が同一人物とか(爆笑)言うんですわ。
母系の親戚の出雲のミカヅチを奉じる中臣家が、雷大臣と呼ばれた人物を出しますが、母系と父系を混ぜて同一化ww
雷大臣(出雲とコヤネ)
そして、風土記にも出てくるのに、ヒボコの子孫五十迹手を更に同一視ww
極め付けは、紀伊国造家の先祖の五十猛を同一視ww
そして記紀には出てこないのに、イソタケルが命じて植林とかww
おいおい同一人物論どこに行ったしww←今ココ 帝記編纂委員会には、上位に6名の皇室、下位に6名の豪族が呼ばれています。
海部の名代で安曇連稲敷が呼ばれています
次に、大彦の子孫、難波連大形
次は、忌部首子人(物部時代に祭祀を独占)出雲の分家
次が応神朝の子孫として、上毛野君三千
次に平群臣小首(仁徳から武烈まで)武内宿禰の子孫
最後に中臣連大鳩。
物部氏は一見パブられているように見えますが、諡号の関連とおそらく旧事本紀からも、招いた側、黒幕でしたね。
記紀編纂時の左大臣は石上でしたから。
わざわざ末席で呼ぶ必要は無かった。 クソスレの主の通りに解釈すると
安曇、安曇、安曇(忌部氏はコヤネの子孫と系図を弄った時期があります)、上毛野君、安曇(イソタケル)、安曇(雷大臣)となります
帝記メチャクチャww 不比等は八井耳の一族でしたから、海部尾張の代表として安曇氏を豪族筆頭として呼んだのでしょう。
そして、多臣家の太安万侶と不比等は親戚筋
多氏系中臣家があるとも言われるように、中臣家は、尾張氏との習合が強い家系だったと言えるでしょう。
布陣としては完璧ですな。
帝記は現在のような記紀の内容ではなく、村雲からの系譜を本当は纏めるつもりでメンバーが集められたとしか思えません >>437
魏書ですと、
八井耳に近い、ビビ(ミミ?)
物部に近い、ニギが出てきますから、紀元後100年代に辰韓から渡来したヒボコ族が、伊都辺りに名を残したとしてもありうるかもと
ただ、ヒボコの当て字の件は、書き込む前にググりましたが、かなりマニアックな推論だと自分でも思います。
ヒボコは150年ほど設定的に圧縮された記紀では垂仁3年に渡来となっており、後年のタジマノモリとダブる様な年代に変えられています。 楠木より、重要なのは竹。
あれは本当に持ち込まれたものだと伝わる
故に、孟の字がつく。
逆読みすると、「彼」の父親の名になる。
ちなみに記紀で作られた架空の神(比定される人物はある)である須佐男も逆読みなんだそうだ。
男蘇州。
渡来人のきた場所はいくつかあるが蘇州からのが結構いたらしい。
須佐男の父親の名が、竹の名前を逆にした名前になる。 ただし。実際には、真竹の事かと思われます。
真竹は、一斉に花を咲かせて枯れますので。
孟宗竹では確か、籠は編めません。 >>443
安曇、安倍、阿度部、阿部、・・・。これらはすべてアメの事ではないかと言う説がある。
ただ、阿部は阿武山の名をとっていると言う伝承があるのでわからない。
長野県には阿智祝の一族があり、そちらとの関連もあるのかもしれない 記紀による日本王の万世一系を否定できる資料が倭人伝であって
記紀の、神代、中和期、有史期という3重制は認知されるべきである。
記紀は、663年の白村江以降、日本の歴史的固有領土が対馬まで
になった時、に作られた歴史書である。
聖徳太子の歴史書、国記天皇記には九州同様、朝鮮国境はなかったのではないかな?
倭人伝の倭王卑弥呼は、筑紫の君や百済王同等の、外様大名みたいな地域王だろ?
安曇族は、250年当時の奴国王難升米の可能性が高いが、民は後に安曇野に左遷されて、
九州や出雲系領民が、古代半や日本僻地の開拓で663年以降衰退するのと同様、
白村江で壊滅、安曇野の消えた安曇族と言うのは、冷や飯組なんじゃないかな?
難升米が半島進出の応神以降の物部なら、九州が勝ち組だなw >>420
現代人であるお前の感覚は重要ではないんだよ
当時の人たちは伐らなかった、ゆえに九州には古い木が残っている
これが現実
そもそも伐採が理由でクスノキが無くなるとしたら人里に近い場所からクスノキが消えていかなければおかしい
だが実際には>>270のとおり「人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。」
ゆえにお前の言い訳は成立しない >>421
>このときの記録に出てくるのが総大将、神功皇后と武官、葛木襲津彦
そうやって堂々と嘘を言わない
そんな記録はどこにも無い >>422
>話する前に裏くらい取るわ
お前の話に裏付けがあったためしが無いのに?
見え見えの言い訳は恥ずかしいだけだぞw
>お前みたいに完全一致検索とかインチキはやらねーんだよww
口からでまかせが完全に証明されてお前が惨敗したアレなw
確かに傑作だったわw >>423
安曇が海部の分家とか根拠の無い妄想だな
阿波以下だわww >>425
安曇が伊都国の王族なのは>>9の通り複数の史料から見て間違いない
創作はお前だけ >>426
日本中にクスノキを植えて回ったのがイソタケルであることは日本書紀に記されていると言っているのに
「記紀に書かれてないじゃん」とか日本語が読めないんだなw
>他の資料では中臣としか理解できないような伝承ばかり
その資料を引用してみなw
お前が資料なんて読んでもいなけりゃ読み解くだけの日本語能力も無いのは明々白々 >>427
事実に対して仮定を持ち出すのは詭弁の特徴だぞ
本州で一番古いクスノキは安曇由来地名の熱海にある
これが事実 >>428
>お前の言うイソタケルが命じた相手ってのは記紀には出てきてないわけだから嘘を確定でいいよな?
お前は「スサノオが五十猛すなわち海人族の王である安曇磯武良に植樹を命じた」という文章を見て
五十猛が誰かに命じたように見えるのか
お前の国語力は小学生以下だぞそれ
まともな日本人はこの文を見たら命じたのはスサノオで命じられたのは五十猛=磯武良だと誰でも分かるはずだが
やはり朝鮮人なんだな
>そもそもお前、磯武良と、イソタケルが同一人物とか抜かしてなかったか?
だからそう書いてある文章なんだが
朝鮮人には読めなかったようだ
>虚言癖のやつは自分の嘘を嘘と認識しないwww
見事な自己紹介だ
お前のことを正しく表現しているw
もっとまともに日本語学校に行け >>430
お前の妄想はもういいよ
論理的に反論できないのはよくわかったから >>433
丹後半島は北部九州の海人の勢力圏だが
高位の海人が身につけた有鉤銅釧が丹後半島からも出土している
https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png
また由良川水系の宝蔵山古墳からは甕棺墓が見つかっていて九州の影響がはっきり見て取れる >>434
イソシと言われて名付けた地名がイヅシなわけが無いだろアホ
お前のその妄想解釈は>>464の通り考古学的にも否定される
伊都の本家は糸島で但馬の方が出先機関だ
天下るとは海(アマ)下るであり海人族の本拠伊都から船で遠方へ下向すること
だから神話でも神が天下る際に船が使われているだろう
こう読み解けばヒボコは渡来人などではなく朝鮮半島に行って戻ってきた倭人だ
この時代でそれをやった高貴な身分の人間といえばご存知雷大臣だな
イトテ=射楯大神=イソタケルなので実際には子孫ではなく息子と名乗ったのだろう >>437
>日本書紀の神功皇后紀の実年代は卑弥呼より120年ほど後だと聞いたがね。
それは一つの説でしかない
それを裏付けるような史料は見つかっていない >>441
>志賀島神社のすぐ東側には相島がありますがかつては阿閉島といい、阿部の領域でした。
相島の古名が阿閉島なのはいいとして、それが阿部の領域だったという根拠は? >>444
タケミカヅチが出雲というのがそもそも根拠ゼロ
笑ってごまかすばかりで論理的に反論できないお前の負けなのは明白
>そして記紀には出てこないのに、イソタケルが命じて植林とかww
その小学生でもやらないような誤読を連呼してもお前の恥が上塗りされるだけだぞw
バカが何を言おうが、>>9の通り同一人物なのは疑いようがない
特に射楯兵主神社の社伝で射楯大神=五十猛が神功皇后の水先案内を務めたとされているのは決定的
神功の水先案内なんて何人もいるわけがない
同一人物でしかあり得ない >>454
神代が人代とは別に存在したように書いてあるのは記紀の嘘もしくは誤認
神代の存在である五十猛が人代の五十迹手と同一人物なのをみれば分かるように
同じ時期の出来事を片方は神話調にして少なくとも2回繰り返し書いてある
ここに気づくと色々と見えてくる >>456
「阿波」以上はない。 わははははは @阿波 >>468
>タケミカヅチが出雲というのがそもそも根拠ゼロ
もちろん、タケミカヅチは「阿波」だけで、大事に祀られている。 @阿波 まつ・る
1 儀式をととのえて神霊をなぐさめ、また、祈願する。
2 神としてあがめ、一定の場所に安置する。
3 上位にすえて尊ぶ。
1仏教的
2国津神的
3天津神的 >>421
横からですが、襲津彦重要人物ですよねー
襲津彦との子が亡くなって、上州から呼び寄せたのが竹葉瀬君
後の上毛野君。帝記編纂委員会に呼ばれた理由はすり替えられたからですよねー
豊彦の直系の子孫だから後に宇佐神宮に祀られました
それまでは本殿は今の2の壇だったんです。なので真ん中が2の壇になったままなんですよね >>460
また根拠のない願望を押し付けですか?記紀にはイソタケルだけ
それ以外の名は無い
お前の話には何の根拠もないし
根拠として出してるやつは中臣との関係しか伺えない >>468
ミカヅチは、先代旧事本紀の事代主系譜に出てるだろ
お前がものを知らないだけ
レベル低すぎw 式内社 阿波國阿波郡 「建布都神社」
御祭神 建布都神(武甕槌神) 経津主神 大山祇神 事代主神
神紋は、『全国神社名鑑』によると剣菱。
祭神の「建布都神」は、奈良の石上神宮祭神と同じく、武甕槌神の帯びていた霊剣で、当社は物部氏ゆかりの神社。
物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」(斎部)を名乗ったのであろう。
吉野川南岸には忌部氏の勢力があり、川を挟んで対峙している形は、興味深い。 @阿波
https://genbu.net/data/awa2/takefutu_title.htm >>465
〉お前のその妄想解釈は>>464の通り考古学的にも否定される
伊都の本家は糸島で但馬の方が出先機関だ
出たよお前の妄想考古学ww
風土記に出てるって言ってやってるのにコレだよ
風土記の話がなぜ俺の思い込みに変換されるのだ?
俺様おいくつのジーさんになるんだろw >>469
五十迹手が同一人物とかは、お前の独自論
そもそもお前の大好きな完全検索ではココのクソスレしかヒットしないことは過去スレで証明済み。
完全一致検索で出てこなければ根拠なしの嘘と言ったのはお前だ
だから最低限のきちんとした根拠を出す様に。ww >>463
琉球ナニガシの内容をそのままここで出してみたが単にお前が日本語を読めないだけだろ?z >>461
事実は現在の地名が安曇と言うことだけ
他はお前の妄想
根拠なし
後年に上書きされた地名にすぎない
現在残ってる地名が一番最後を表してるだけ >>457
〉確かに傑作だったわw
だよなあw傑作だったよな?泳がしておいて正解だったわww
自分の妄言が自分の嘘を証明するんだから傑作だったろ?w 自分で作った嘘発見器(完全一致検索)で、自分が引っかかると言う醜態を見せて置いて精神の平衡が保てるのが伊都チョンww >>469
〉神代の存在である五十猛が人代の五十迹手と同一人物なのをみれば分かるように
そんな事実も根拠も無い。思い込みだけ。
言い訳(爆笑)しても無駄
誤魔化そうとしても(爆笑)無駄
日本語がおかしいやつが説明しても何も伝わらない >>459
楽浪土器なんて出雲でも出てるわ
根拠なし タカラ姫と石川臣武蔵野の間の子である大海人皇子は、その前は漢皇子といった。
幼少の頃は海部家に預けられていたと言う話があるが実はちょっと違う。
実際には分家の安曇家に預けられていた
それが同じ海家扱いだったから海部の預かりと言う様に周辺から認識されていただけ
安曇が本家だったら違う名前になっとるわww >>485
すべて「阿波」と観念すれば、即決となるものを、ぐちゃぐちゃとww わははははは @阿波 >>476
物部は衰退していない
記紀編纂事の左大臣は石上
九州物部は衰退したのはあってるが、話の中心はそこの物部では無い >>487
>記紀編纂事の左大臣は石上
「石上」 すでに物部の衰退の証拠。 @阿波 >>486
スレ主とは仲良くなれそうだねw
同じレベルだから >>488
石上はその後留守役を命じられ、表舞台から消えたとされるが、実際には藤原に名を変えていただけ
石上の直系の先祖の物部十千根も藤原姓になってるしね >>490
いずれにせよ、物部の衰退の証拠。 @阿波 >>491
日本語が通じてないところまでソックリねw >>494
藤原に名前を変えたのは、石上じゃなく中臣じゃないのか と聞いている。 @阿波 日本の黒幕は、恐らく、中臣氏でしょうね。
其の重要ポジションから言っても。 八井耳系の多臣家や、タテカシマの系統の鎌足や不比等が尾張氏系統の分家
尾張氏の分家が海部
この時点で五十猛が山幸彦ではなく海幸彦の系統になるわけで、本家か分家に関わらず安曇の立ち位置が大和側になる事には変わりがない
クソスレの主の説は九州説ではなく畿内説って事になる訳だwww
面白くてしかたがないww
そして、中臣家が、何故、敵である蘇我臣家と同じ臣姓かといえば、昔は出雲王族との婚姻を示すのが臣姓だったから
人間には母系と父系があるわけだが、自分達の神社で母系を祀るのがおかしいと言うのがスレ主の主張www
中臣家は、臣姓なんだから別に先代旧事本紀の地神の所に出てくる事代主系統のミカヅチを祀っても何の問題もない訳だが、全くその辺が理解できないらしいw 物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」(斎部)を名乗ったのであろう。 @阿波 >>495
既出でしょそれ。
中臣家の外戚が藤原を名乗ったんだよ みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。
「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、
残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 朝臣とかのカバネができて形骸化するまでは、臣、連制度だった。 >>500
>中臣家の外戚が藤原を名乗ったんだよ
中臣家の本家は滅んだのか? @阿波 >>494
藤原に名前を変えたのは、石上じゃなく中臣じゃないのか と聞いている。 @阿波 >>504
藤原を勝手に名乗る中臣家が出てきたから、それ以降は名乗れなくなったってのが書かれている事だろ
政治の藤原と祭祀の中臣に棲み分けるスキームはそれ以降にできたらしい 忌部氏は、物部衰退と共に力を失い、中臣家にとって変わられていくだろ 要は、藤原は、後の源氏とかと同じような寄り合い世帯のイメージになっていく訳だ >>505
藤原を勝手に名乗る中臣家が出てきたから、それ以降は名乗れなくなったってのが書かれている事だろ >>503
中臣家は滅んでないだろ
鎌足は養子で、奥さんも日本人。
中臣家の奥さん貰ってない。
不比等も中臣家の血は引いてない。
だから分ける分けないの話になっていったのだろう >>505
>石上はその後留守役を命じられ、表舞台から消えたとされるが、実際には藤原に名を変えていただけ
>石上の直系の先祖の物部十千根も藤原姓になってるしね
>藤原を勝手に名乗る中臣家が出てきたから、それ以降は名乗れなくなったってのが書かれている事だろ
石上の話は嘘なんだな? わははははは @阿波 >>509
>中臣家は滅んでないだろ
なんで中臣と藤原が同時に >>509
>中臣家は滅んでないだろ
なんで中臣と藤原が同時にいないんだ? @阿波 >>513
中臣と藤原が同時にいないから、中臣氏は藤原に名前を変えた。 @阿波 >>490
物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」(斎部)を名乗ったのであろう。 @阿波 >>514
中臣家が藤原を名乗らぬよう。鎌足の死後に決められた
つまり同時から始まってる >>515
昔は負けちゃった側が名前を変えて遠くに行くと許す習慣があったから、可能性はなくはないんだよな
ただ、その時は中臣家も物部と同じで動いてるから逃げ回る側。
不比等も子供の頃は関東鹿島に隠れていた時期がある
その後の中臣家の復権は、宮中祭祀に近づきたい鎌足と、政治のサポートが欲しかった中臣家のミケコたったか?の、思惑が一致したと考えられる
その後、忌部や、中臣の分家の卜部氏も地方に飛ばされていく
アチメワザは、後に鎮魂歌としてまとまるが、そこに出てるのはみんな抑え込まれた側の一族が出てきてる気がする >>518
>本当だ。中臣氏と藤原氏が同時に居ない
同じように、物部氏と忌部氏も同時に居ない。 @阿波 >>421
250年に滅びた韓王は箕氏朝鮮王。
記紀はこの時代に触れることはできないし
245年以前に九州筑紫は本州政権との軍事同盟が無い。
倭人伝には、これが記録されている。
390年と言うか実際には七支刀で370年台には
百済が倭王の軍門に降っていたことは明らか。
銘文の聖帝は370年諡号仁徳の在位当時での称号である。 俺は、其の人数から言って、物部氏が藤原氏になったのかなあと憶測していたんだけど、
間違っていましたね。 >>521
間違いを認められるのは、立派。 @阿波 >>521
実在がアヤシイ応神以降、倭の五王は物部系。
継体から聖徳太子で蘇我系。
663年の白村江で日本固有の領土から半島を分離して
記紀の作成で、中臣以降の藤原で記紀の万世一系捏造って、事だろ?
そもそも倭王後宮は、諸国の豪族が資材人材投入したのがはじまり。
豪族の勢力争いで万世一系と言う、神代からの繋がりなんて関係ないだろ?
ソフトバンクと楽天でドコモ、AUに勝つみたいなw
百済新羅が九州四国同様、日本だったというのは仕方ないけど、
現在の半島に何で遺伝子的継続が無いんだろうか? >>523
現在の半島に何で遺伝子的継続が無いんだろうか? >>523
>現在の半島に何で遺伝子的継続が無いんだろうか?
それは、白村江の戦を期に半島から「倭人(阿波勢力)」が引き揚げたからだろう。 @阿波 525 日本@名無史さん ▼ New! 2022/09/26(月) 19:02:20.24 [0回目]
>>523
>現在の半島に何で遺伝子的継続が無いんだろうか?
それは、白村江の戦を期に半島から「倭人(阿波勢力)」が引き揚げたからだろう。
逆に、半島人の遺伝子が急増する。 @阿波 >>527
倭国(阿波)を中心とする東四国と、
倭国(阿波)王権による畿内への半島人保護移住がよく表れている。 @阿波 >>510
その前に、石上は物部の分家だからね?
物部総本家は橋本姓になったいて、もう別系統
石上そのものが一度、物部から改姓。
その石上も全員が藤原姓を名乗った訳じゃないと思うのだが? >>529
>その前に、石上は物部の分家だからね?
物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「石上氏」を名乗ったのであろう。 @阿波 >>530
物部氏が石上を名乗り始めた時期すら知らないとはw
物部氏による石上姓名は、記紀の編纂時、左大臣、石上麻呂からだよ。 >>533
>物部氏による石上姓名は、記紀の編纂時、左大臣、石上麻呂からだよ。
だから、物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「石上氏」を名乗ったのであろう。 @阿波 >>531
>物部→藤原
だから、中臣→藤原 だと何度言えばw @阿波 >>531
「意富(おお)」と言えば、阿波国延喜式内社「意富門麻比売神社」(「宅宮神社」)
「伊豆毛(いづも)の国の伯母御の宗女、御年十三ならせます、こくちは壱字とおたしなむ」(神代踊り)
延喜式内社です。神代文字も残されており、なんだかすごい神社です??
「イザナギノ命・イザナミノ命が生まれる前に生まれた神(大苫邊尊)を祀る阿波国」
延喜式内社で「大苫邊尊」を祀っているのは、全国でただ1社、阿波国の延喜式内社「意富門麻比売神社」(「宅宮神社」)だけ。
祭神の「大苫邊尊(おおとまべのみこと)」は、「古事記」にイザナギノ命・イザナミノ命が生まれる前に生まれた神。
「古事記」の舞台はまさに「阿波」だった凄い事実。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9761762/
http://engishiki.org/awa2/bun/awh560509-01.html 「意富(おお)」と言えば、第7代天皇「孝霊天皇」第三夫人「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」
式内社 阿波國名方郡 「天佐自能和氣神社(あまさしのわけじんじゃ)」
御祭神 「日子刺肩別尊」・「意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命」・「神皇産霊尊」・「高皇産霊尊」 @阿波 >>534
石上麻呂が初代。
時代が違うでしょ。左大臣で衰退ってww >>527
これは、現代半島人遺伝子の事だろ?
古代韓王となる箕氏朝鮮、衛氏朝鮮も遼西中国人だが
大陸から陸封されてた半島人が固有の遺伝子を持つ為には
突然沸いたのではない以上、日本人固有の縄文遺伝子同様に
石器人や古代韓からの連続性が無ければならなくないか?
分布では、漢四郡以降の百済新羅で穢百が繁栄したっぽいけど?
現代半島人と古代韓(馬韓~百済、辰韓~新羅)
の遺伝子に接続性が無い、と言う情報が間違ってるのか?
白村江以降の渡来人の話なら
666年 百済人2000人を東国に移す
716年 高麗人1799人を武蔵國に移す
758年 新羅人74人を武蔵国に移す
760年 新羅人131人を武蔵国に移す
etc、朝廷による渡来人分離管理の史料は存在している。 >>535
中臣から藤原が出たわけではないでしょ。
養子入りした人物がピンポイントで苗字を貰っただけの話 魏志倭人伝は、
1、伊都国基点の放射読みが正しい。
2、陸行一月は陸行一日の単なる写本時における写し間違い。
----------
1. について
■魏志倭人伝では伊都国の紹介のあと、そのすぐ直後に「全ての郡の使いがここに駐留する」と明確に書いてある。
駐留したと明確に断ってるんだから、それ以降を伊都国を基点として放射読みするのは
あったりまえ。
■ 翰苑が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されているが、伊都国から南に行くと邪馬台国だと言っている。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国、又南、至る邪馬嘉(臺)国。
(嘉と臺とは非常にしばしば誤記される文字であるので、邪馬臺国のことだと考えられる。)
2. について
■十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。
■また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。
そのような長距離は必ず水行するのであり、これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり、陸行一月は誤り。
■百済伝で「其南海行三月有耽牟羅國」と書かれているものがあり、
耽牟羅國は済州島のことなので百済から三ヶ月も掛かる訳がなく、三日の誤植とされている。
このようなケースも実際ある。
■梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには「陸行一月日」とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。現在残っているのは陸行一月の間違ったほうだったわけな。
陸行一月は陸行一日の単なる写し間違いである。
>>538
こいつ、「丁未の乱」をいつのことと思ってるんだろう?
記紀編纂より後と勘違いしてるのか? わははははは @阿波 伊弉諾と伊弉冉の正体はだれなんだろうか?
ソロモン・シバより前の人達なんだろうな・・・ >>538
こいつ、「丁未の乱」をいつのことと思ってるんだろう?
記紀編纂より後と勘違いしてるのか? わははははは @阿波 >>545
イザナギは奴国王だね
イザナギとその上は全部奴国王と嫁 >>549
穴があったら入りたい心境か? 一から出直してこい! アンポンタン わははははは @阿波 アメノミナカヌシからイザナミまでは全部奴国王
この後卑弥呼から邪馬台国へ王統がツギ木されるわけな
アメノミナカヌシが始祖のはずなのに卑弥呼ばかりが
強調されるのはそれが理由
他人の王統を自国の神話にしてるわけだよ
近畿日本が九州倭国の神話を自分たちの歴史としてツギ木して
使ってるのと同じ >>540
こいつ、まじでヤバい奴?
中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、
子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。
鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく天児屋命と伝える。
こんな常識も知らんのか? @阿波 イザナギが黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)」で禊を行なうと様々な神が生まれた。
これは以前ニュー速+でオレが解説したのだが、実際に禊ぎをやったのは福岡のおそらく須崎のあたり
福岡の奴国と宮崎の奴国の集合で、実際はイザナギは福岡で禊ぎをやっている
宮崎の奴国でも以前なんらかの王が大淀川で禊ぎをやったのだろう。
その二つの神話を集合させたもの。
それは神武が妻国出身だから、神武を飾り立てるための創作。
左眼からアマテラス(邪馬台国)、右眼からツクヨミ(奴国)、鼻からスサノオ(出雲)の三貴子が生まれた。
これは邪馬台国(筑紫平野の御井)、奴国、出雲の地理的関係を表しているのと盤古神話とから創作された。
伊邪那岐命は三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。
高天原とはもちろん筑紫平野のことであり、夜を統治するとは
夜の食国=奴国のことで、実際の政務を司ったと言うことであり
海原を統治するとは大陸との貿易を司ると言う意味。
隋書にあるアメタラシヒコとは天垂らし彦の意味であり
天とは当然邪馬台国のこと
垂らすとは政務を司るものとして邪馬台国が任命し地上に降ろしたと言う意味
彦は当然王のこと
実に、恐らく世界最初の大統領制のこと
あまかしの丘見つける旅さ~
石垣や燃えかすが出てたね >>523
〉実在がアヤシイ応神以降、倭の五王は物部系。
継体から聖徳太子で蘇我系。
仁徳から武烈までは平群でしょ
平群臣ツクだかから始まる
武内宿禰の子孫だったから、評判の悪いお方が出て、臣下が見限り、物部やヒボコ族まで出て、北陸蘇我氏に大王就任をしてもらった
同じ武内宿禰の子孫だったから
物部の男系はここで途切れた 天つ罪と国つ罪との二つがあるわけだが古来より
天つ罪のほうが田んぼの畦を壊すと罰せられだとかのしょーもない罪で
国つ罪のほうが現実の政治を動かすための法律なのはなぜなのか
という疑問があったわけだが
種明かしは簡単
天つ罪は大統領=邪馬台国の法律で、象徴的なものでしかないから
国つ罪が奴国の法律で、これは現実の政治を動かすためのものだから
こういうこと
>>523
>現在の半島に何で遺伝子的継続が無いんだろうか?
それは、白村江の戦を期に半島から「倭人(阿波勢力)」が引き揚げたからだろう。
逆に、東四国や畿内に半島人の遺伝子が急増する。 @阿波 天孫降臨もまた神武を飾り立てるための創作
なぜ霧島連山なんかに天孫が降臨するのかと言うと
霧島連山は妻国のシンボルだから
神武は筑紫平野の邪馬台国と濃い血縁関係にあったが所詮傍系でしかない
だから近畿日本に呼ばれて頭に据えてもらった神武の血を飾る必要があった
恐らく神武自身の創作ではない
神武はただのバカだから
側近の誰かが創作して神武に土産話しとして持たせたのだろう
もしかしたら「土産話し」と言う言葉自体がこれが由来かも知れない
>>552
鎌足は次男だったから中臣家に養子入りしてる
菩提寺にも文書残ってる
マジで知らんのかw
春日大社に行ってこい
祭神の第一段はミカヅチ
コヤネのランクは明らかに下に祀られてるぞ? >>559
こういう記紀バカは、裏付ける遺跡が無いから、記紀を自分勝手にいじくって喜んでいる。
かわいそうな記紀バカ。 わははははは @阿波 >>561
お前とスレ主とソックリじゃん
仲良くしときなよw 因みに国産み神話は欽明以降の誰かによる創作
狗邪韓国が無い ■九州倭国と近畿日本の二つの国があった
■神武は東征したのではなく、近畿日本に呼ばれて頭に据えて貰った雇われ店長
■魏志倭人伝は伊都国基点の放射読みが正しく、陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い
■邪馬台国は卑弥呼の時代は御井で、祇園山古墳が卑弥呼の墓であり、背後の巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の遺構
これが正しい日本古代史
>>563-564
こういう記紀バカは、裏付ける遺跡が無いから、記紀を自分勝手にいじくって喜んでいる。
かわいそうな記紀バカ。 わははははは @阿波 隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文
癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟
意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。
本居宣長のような記紀信仰の学者が倭人伝等を読んでも正しい解釈はできない。
この金石で503年は倭の五王雄略の後であり、継体は蘇我系台頭のきっかけとなるが
物部系雄略の後宮をも継承し、百済王の朝貢を受けた正規の直系であると考えられる。
継体は倭の五王外交を終わらせ、傀儡百済による中華文明吸収に転換する。
百済建国時より、百済人はその地を日本の前線の中、つまり辟中と言った。
百済王は、王子を日本に委託派遣し養育する習わしで、
百済宮廷には日本の進駐軍から辟中の費直が侍官として付いていた。
百済では日本本土のことは、ひのもと日下と言い、大王に対する卑字を避け、日十と記した。
日本国名の語源は百済人によるこの百済名の日下だが
日本列島から見たのでは日のもとは太平洋なので当然の話なのである。 ■九州倭国と近畿日本の二つの国があった
■神武は東征したのではなく、近畿日本に呼ばれて頭に据えて貰った雇われ店長
■神武は王族でありながら自分の故郷と敵対する可能性のある国に寝返ったカスで、バカだった。
しかしこのバカの存在こそが九州倭国と近畿日本とで日本を分断せずに済んでいるカスガイになっている。
■しかし仲哀暗殺という重大な副作用も産んでいる
■魏志倭人伝は伊都国基点の放射読みが正しく、陸行一月は陸行一日の単なる写し間違い
■邪馬台国は卑弥呼の時代は御井で、祇園山古墳が卑弥呼の墓であり、背後の巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の遺構
これが正しい日本古代史
魏志倭人伝は放射読み、一月は一日のただの写本ミス
神武は東征したのではなく近畿日本に呼ばれて頭に据えて貰った雇われ店長で、志村のバカ殿みたいな存在だった
これが正しい古代日本史
天皇の事績は捏造しないくせに(欠史八代)
天皇以外の事績は好き放題捏造する(武内宿禰、神功皇后、ヤマトタケル)
これがなぜか自然な説明が出来る人間がオレ以外に一人でも居たか?
倭人伝を正しく読むんじゃないのかな?
01 倭人 在 帶方 東南 大海之中 依山? 為國邑 舊百餘國 漢時 有 朝見者
02 今 使 譯 所通 三十國 從 郡至倭
倭人の国は2国ではなく百余国ある。
魏時の使によって、30国が報告された。
この内、列記される21国は女王卑弥呼に属する。
56 参問 倭地 絶在 海中 洲?之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
この調査された地域は、九州北部2千里ほどの範疇にある。
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
使の通過地や見聞以外の九州南部や海を隔てた東国は調査されてはいない。 >>570
正しく読みなさい
参問とは「比較し調べて問うてみると」の意味
参問の参は比べ合わせて調べると言う意味であり、
参考、参照、参看の参と同じ。
参問倭地とはその前の黒歯国と倭地を比べるとの意味。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
倭国が絶海の孤島なわけがないだろ。
ハワイのことだよそれは
周旋も良く間違えるが、グルリと周ると言う意味じゃない
周旋屋は別に何かの周りをクルクル回っているわけじゃないだろ
端から端をめぐると言う意味
実にカウアイ島からハワイ島までがザックリ五千里なんだよね んで東日本大震災の震災瓦礫がちょうど一年でハワイに漂着している
魏志倭人伝は実に、時代を考えれば驚異的な正確さだ
陳寿の天才ぶりよな 因みににハワイは五大陸から世界で最も離れているところ
絶海の孤島にふさわしい
また扶桑伝説の出どころなのもムベなるかなだな 裸国はいいだろうが黒歯国とはどう言う意味か?
黒歯は黒い歯ではなく、暗い歯の意味
ハワイの先住民には前歯を折る奇習があった 湯谷とは溶岩が噴き出して水が温められているような場所があったのだろう
今でもお湯が沸きだしているビーチとかがハワイ島には普通にある
扶桑は流石に何かは分からないがオレはハラフルーツのことだと思う
扶桑を「大きな桑の木みたいな木」の意味ではなく「大きな桑の実みたいな実がなる木」の意味だと考えると
ハラフルーツはドンピシャになる 孽搖頵羝山はキラウエアとかだろう
また山海経では湯谷は温源谷とも書かれている
ハワイでドンピシャだな 裸国黒歯国がもしあるとすれば東南アジアの辺りでしょう
中国と交易もあっただろうし この当時、ハワイなんて神話か現実か分からないような土地だった
それをここまで正確に記している陳寿は天才そのものだ 物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」(斎部)を名乗ったのであろう。 @阿波 >>571
倭人伝の千里は対馬-壱岐間が基準。
ついでだが、京畿湾から済州島が3月行
隋唐使による、日本の国土南北が3月行は、
関東東北行きはまだ知らないのでほぼ九州の南北
陸行1月行は九州の3分の1
これは、主に漢魏が派遣した軍
による僻地行軍等での単位かと思われる。
倭人伝の2回の使とは
最初239年は軍船による女王に合う目的の韓西岸初洋行で
寄港地の倭人名や里程などは、記していない。
筑紫の国名の邪馬台国7万戸は、この初探検時の命名である。
投馬国も弁辰韓5万戸の仮称国名であって、他の史料には出ない。
魏軍が伊都で駐留させられたら、魏国外交の面目は無いので戦争になる。
参問は、この外交始め時の女王国の地勢、所属国の聞き取り調査である。
247年の帳政は、245~6の韓制圧戦での
魏の檄が有りながら参戦しなかった難升米などの調査であって
倭人船便乗で来て、伊都迄で駐留させられている。
倭人の寄港地の名、距離を里程で記し、人工を記録している。 後、魏志倭人伝ではないが
後漢書の倭国之極南界也光武賜以印綬
は「倭国の南界を極めるや、光武印綬を以って賜う」と読む。
極南界なりでは意味を成さない。極南界って何それ?
「也」は「なり」ではなくこの場合は「や」で、文語の語気詞であり語気の停頓を表わす。
礼記
大道之行也,天下為公。
大道の行わるるや、天下を公と為す。
(大道が行われると、天下を公のものとし私物化しない。)
この「也」と同じ。
侏儒国とは四国の高知西部の幡多のこと
ワダツミとは「幡多つ宇美」のこと
またこういう図を見ても北部九州と高知西部が同じ文化圏だったことが分かるだろう
https://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/images/kouki-symbol.jpg
侏儒とはもちろんスクナビコナのことで彼は
太平洋の亜熱帯環流
https://www.data.jma.go.jp/gmd/kaiyou/data/db/obs/knowledge/current.gif
に乗って四国の足摺岬に漂着したポリネシア人(恐らくハワイ人)
ハワイにはメネフネと言う有能な小人伝説がある
単なる神話では無く実在した民族らしい
足摺岬は西日本では黒潮と本土とが最も近づく地点
唐人駄馬遺跡とは彼の漂着を記念して作られたもので
巨石群はまた漂流者が来た時の目印として置かれたもの
スクナビコナが奴国王の庇護のもと足摺岬からハワイへ行って戻って来る大航海をやってのけた
これが奴国王が金印を受けた理由
またスクナビコナが海神とされる理由でもある
(まさしく海神そのものだから)
この当時ハワイへ行って戻って来るなんてのは月旅行に匹敵する大偉業だった >>547
いや?前であってるぜ?w
お前こそしっかりしろw
藤原は朝鮮系の渡来人ではないぞ?w
あと。細かな話だが鎌足はギリギリ死ぬ前に藤原姓を貰ってる
669年、中臣鎌足(鎌子)が亡くなる前日に彼を内大臣に任じ、藤原の姓を与えている。
鎌足は記紀では隠されたけど蘇我蝦夷(石川臣正雄)を殺した犯人
記紀のタブーの一つは、鎌足、中臣家、息長家の暗闘。
クーデターに近いものを英雄譚にして誤魔化した。 >>587
>倭人伝の千里は対馬-壱岐間が基準。
全く間違い
海路での計測は不正確極まるもので基準になる可能性はゼロ
分かり易いのが対馬と壱岐
4対3になんかなるわけがない
対馬と壱岐では大きさがまるで違う
せいぜい5対2くらい >>585
お前らはとにかくイミフ
そんなだからお前らは猿呼ばわりされるんだよ >>589
>いや?前であってるぜ?w
なにが前だ? わははははは @阿波 >>589
>藤原は朝鮮系の渡来人ではないぞ?w
だれがそんなことを言ったんだ? ひとりで相撲取ってるのか? わははははは @阿波 >>587
あと陸行一月は陸行一日の写本時の写し間違い
>>542参照のこと >>593
中臣御食子は鎌足の養子先
お前マジで情報足りんのな
鎌足の両親はタテカシマ系の、国造家の出身だぞ?ww
八井耳系の人間。 >>589
>いや?前であってるぜ?w
なにが前だ? わははははは @阿波 >>593
一人相撲は阿波説そのものだろw
お前しか言ってない説だろww >>589
>藤原は朝鮮系の渡来人ではないぞ?w
だれがそんなことを言ったんだ? ひとりで相撲取ってるのか? わははははは @阿波 基本的には、鎌足の出自に関するものは、大鏡と、後年の藤原家伝の二つのみとされるが、実際にはあと二つくらいは存在する。
その片方を拾ったから貼り付けとくよ
『君津郷史』によると、鎌足の実父母の各家は、各々の地方の国造の子孫だと言う。
そして両家とも太臣家の血を引いている。
『旧事本紀』によると、両国造家の祖は建許呂(たけころ)命で、建許呂命の元祖は神八井耳(やいみみ)命だと言われる。
意富臣〔太家〕の祖は彦八井耳命だ、と古事記に書いている。
彦八井耳は2代目の大和国大王・沼川耳の息子で、3代目の大和国大王・玉手看とは兄弟だ。
斉明期には、内臣の鎌足が政府の実力者となった。
人質として日本に在住していた百済王子・余豊(よほう)〔後の百済王〕は、日本人の妻を迎えることになった。
そのとき政府の代表だった鎌足は、自分の親族である太臣将敷(こもしき)の妹を重要人物の余豊と結婚させた。
太臣将敷は、太臣安万侶の祖父だと、多神社の注進状〔久安5年〕に書かれていた。 >>590
あれ不可解ななんだよな
下島のほうには人が住んでないから無視されたのかね 「健瓮槌」は、先代旧事本紀より、クシヒカタの孫になる。
タマテミと同時期の登美家の人間が「健瓮槌」
ちなみに中臣家のタブーは、藤原を名乗る事以外に「発音で」トミを名乗る事の二つがある。
中臣は、中臣であって、ナカトミではないという事。
多臣家は、後年に当て字で意冨となるが、字はokだったらしい
故に、鎌足の名乗ったナカトミは、NGだった。
出雲の、事代主系の家系が富家であり明治まで出雲大社上官家筆頭を務めていた。
奈良の分家はトビ家を名乗った。
つまり、「健瓮槌」は厳密に言うとトビ家の人物
母系尊重で大彦が最初に祀った雷の神を親戚筋の八井耳の子孫が祀り、鹿島になった。
そんだけのはなし。
元々、鹿島と春日は中臣家の神社ではない。
故に、コヤネが真ん中に来ない。 秀吉は臣の最上位トヨトミになったが、それまでは藤原を名乗ってた。
名前を変えるまでは臣下に藤原姓を贈るなどしていた。 >>586
守屋の子孫とかは、守屋の名を苗字に変えた、
そもそも、その頃には石上も藤原もない訳だがw
守屋の長男は田原本町で出雲神を祀ってる。
今でも物部姓ではなく守屋姓。
次男は諏訪の母系の先祖の諏訪族のところに行き、守矢から守屋姓に。
桓武記以降に諏訪では物部氏は再興され、江戸時代中期までは次先の大祝色は物部姓を名乗ってた。
今は途絶えてしまったけどね。 >>590
九州海人は対馬の西岸しか利用していなかったことが想定できる。
さらに釜山にも入っていない。 釜山港は日本海海人地域だ。
釜山から、対馬経由で壱岐だと、対馬は千里近い巡海岸船行になる。
博多湾に入らない宗像からの日本海ルート国では壱岐は利用しないで
沖ノ島を目印として宗像以東に漂着すればよい。
対馬方可400里、壱岐方可300里と言うのは、
九州船利用の張政の目視による里程だったことを意味する。
240年の校尉梯儁の魏の新鋭軍船は、
黄海を往復して公孫氏奇襲に成功してるわけで
半島南岸を東行する必要も無く、遣唐使船時代のように
済州島方面経由で九州~卑弥呼領域の博多湾に直接入ったと考える。 >>577
54 女王國 東渡海 千餘里 復有國 皆倭種
・州島の上で周旋可5千里範囲の女王国から、東に渡海で本州が有り皆和種。 川のような関門海峡を知らない。
55 又有 侏儒國 在 其南 人長三四尺 去女王 四千餘里 又有 裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
・女王国から南4千里は九州南端、侏儒國は小人の国伝説の種子島。
裸國 黒齒國 在 其東南 船行一年可至
で、船行1年は2千里×12か月なら種子島の南東24000里には、小笠原が有る。
これを世界観が中華の中国人が、知っていたことが、眉唾だが?
この巨大な、倭地に対して、女王国の大きさと言えば・・・
56 参問 倭地 絶在 海中 洲?之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
・しか、ないのである。 と陳寿は語っている。
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
意訳= 漢、後漢書で西域は紹介された。
本書魏時においては、匈奴遂衰、烏丸鮮卑から、東夷南韓、倭に及んだ。
皇帝による、使者が世界の見聞を広め随時記録される。
なんと素晴らしいことか。
ハッキリ言って、筑紫の邪馬台国は本州と結託し、247年以降は
BC200以前からの青銅、鉄資材の輸入元である対半島防衛に転換し、魏を裏切っている。
陳寿は、三国志に記録したが記述の曖昧さの理由は、この日本の造反にある。
238年に始まる魏と筑紫邪馬台国の瞬間的蜜月国交は、倭人伝の247年で終る。
これが万世一系ではない、日本の古代史、倭人伝である。
漢文が読めても、日本の正史を否定できないという学者はもういないのではないかな? >>604
>釜山から、対馬経由で壱岐だと
釜山から、対馬へは絶対に着けない。 @阿波 >>606
レス、ありがとね。 実はもう基本無視なんだが・・・
知ってた。 阿波先生の対馬航海知識は幼稚園。
海流はどこでも潮流の要因高低差により両方向であって、
荒天時の風も読めればカヌーはもちろん
普通の小型漁船で余裕で渡れる。 これ古代鬼術占いの基本な。
難民ゴムボートは、お勧めしないw
てか、200年に瀬戸内海諸国、九州平定出来てないと
阿波から寄港地で海賊の上関下関どころか、関門海峡行けなくて、
乗り継ぎ無い船じゃ、潮待ちが出来なくて、阿波は直結で半島渡れないだろ。
歴史では淡路島が、日本海からの朝廷の奥座敷、阿波への経路だぞ?
阿波が、筑紫が統一してもいない九州南部含む、
薩摩や熊本、長崎、五島経路も牛耳ってたのか?
高知も? 内海の阿波のくせに、太平洋海神じゃんw
ふ~んw、凄いねwww もう、草生えてるしwww >>607
釜山から、対馬へは絶対に着けない。 @阿波 >>607
また、
壱岐から、対馬へも絶対に着けない。 @阿波 >>607
平戸辺りから、対馬へは着ける。 @阿波 >>605
魏志倭人伝に筑紫はない。
後でできた国
参問 倭地 周旋可 五千餘里
は使者が実際に行った距離
女王国の一部
投馬「ヅマ」国は出雲(ズモ)国で結論出ただろ
未だに九州説とかやってんのか >>613
それどころかかなスレ主の安曇説は、本人は九州説のつもりだけど、畿内説という矛盾が香ばしい理論ww
海家=アマ家=海部家なんだけど、薩摩隼人が、本当に隼人=海幸彦だと思ってるアホ >>613
都万国は九州にも亀岡にもある
高天原が関連一族によって地域伝承になる過程を考慮するべき >>612
いや、吉野ヶ里を考慮にするのなら物部と、宇佐の連合の全盛期。結果的に東征は成功するからね >>615
可5万戸ありそうか?
奴国で2万戸、県でなく州レベル >>616
魏志倭人伝、後漢書にも
物部は出てこない。 >>612
まあ、読めてるんだろうけど?
参問の主語は 240年の建中校尉梯儁。
卑弥呼に金印を届けに来た郡の軍人であって
新規同盟女王国の国勢調査で所属国21国名を参問し漢字名にしたんだよ。
そして、この筑紫地域の21国の女王国に、
邪馬台国と言う仮称を付けた。
九州が、本州政権に参加してなかったなら
自国を、筑紫と言う地名で、外部から区分する意味すらない。
女王国は、筑紫より小さいはずで、ほぼ、
糸島、福岡平野、大宰府、佐賀平野、筑後平野までであって、
北岸、東岸も日本海ルートなんで、宗像や遠賀川流域から宇佐方面は含まない。
当然西岸の、呼子唐津や長崎、五島は熊本など西岸国のシンパだろ?
往復四千里なのに、女王領が南北千里有っても
周旋可 五千餘里、ってのは、そんなもん。
247年の張政は、伊都常駐で以南には入れなかった。
尉梯も馬無しで、陸路でお宝運ぶのは、ご苦労だったのではないかな?
邪馬台国の小ささが、三国志での日本史の居場所なんだよ。 筑紫地域の21国の女王国?
其餘旁國遠絶 不可得詳だよ。聞いたのみ。
不彌国まで5千余里。7千里と合わせて万2千余里
不彌国から南へ水行20日で投馬国、さらに10日
1月で邪馬台国へ。
狭い範囲ではないよ。 >>617
目の付け所が良いね。
韓伝、馬韓10万戸、弁辰韓5万戸。
で、邪馬台国は7万戸。 奴国は邪馬台国内で2万戸。
九州筑紫で、収まってんじゃないかね?
まあ、飛鳥のような特定地域の人口が7万だとして、
その、倭国王の軍事力の全体像、何十万だよ?
を 記さない記録は、中国史に在り得ない。
戦史である三国志では、倭王の国民は7万戸なのか?
陳寿先生は、そんな馬鹿じゃ、無いだろwww >>619
物部は後年の部民姓名ですからね。
実際に出てるのは個人名になります。
イサチは物部イクメだし、ヤシャクは矢坂入彦たし、ヌカダイは額田宿禰(ウマシウチ宿禰) >>618
景初の話は東征ですよ。二度目の東征ですがね。
一度目は倭国大乱期の東征。
150年の出来事を圧縮しただけでは誤魔化しきれないので、大王系譜はそのままにして、出来事を圧縮したり、大王の名前を変えて前に持ってきたりしてるのが記紀。
日本書紀では神功皇后の処に魏書の引用をしてるので、記紀製作者はその描かれ方を逆手にとって記紀を纏めている。 >>623
みんな元を辿れば全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、
平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「仮称忌部一族(阿波勢力)」。
「仮称忌部一族(阿波勢力)」の一派、忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、
残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>619
まだ、領主の地名が所属であって氏姓ないから。
原始神道の諏訪の話題でも有ったけど
朝廷の原初形態に有った、物部や大伴の名前入れちゃえば
自然信仰の宗教も伊勢神道に取り込めちゃうみたいのが有って、
古事記、日本書記は作られたわけです。
焚書もしてます。
で、宗像や宇佐は
間違い無く250年までの、邪馬台国地域ではない
日本海ルート諸国や瀬戸内海諸国の範疇です。 安倍大君 → 誉田 →仁徳
↓
↓すり替わり
↓
物部(後から背乗り=アラカヒ以降) 安倍壺氏の日本をトリモロスの意味は海より深いよ。そして真実が開示されている最上級民にとって常に正しかった。
日本から倭国を取り戻す、朝鮮半島を取り戻す、統帥権を取り戻す、物部藤原に盗まれた倭国を取り戻す。 壺氏は神倭磐余彦を輩出した倭王権の一族だからこそ、遺伝子レベルで特亜に憎しみを抱き、再軍備と三韓成敗を切望した、と言われる。 もう良いから、涙拭けよw
伊都は九州上陸から徒歩500里にある。
奴国は伊都から徒歩100里で行けて、人口は2万戸。
邪馬台国は奴国を含み、州島の上で周旋可5千里内にある人口7万戸。
倭人伝の記述の、どこをどうしたら、九州北部から出れるんだよ? >>624
東征はない。
東征した痕跡も遺跡も
ない。 周旋可5千里の国が、どれだけ小さいか?
九州上陸から伊都が500里であって、女王宮迄で片道2000里あるのに、
その中の21国を辿っても、九州北岸から港もある伊都までの10倍が5千里だぞ?
邪馬台国が倭国王で7万戸?
魏は三国志やってんのに、そんな倭国王は要らんだろw
当時の倭王である、機内政権と邪馬台国では次元が違う。 投馬国で5万
奴国で2万
対馬、壱岐、伊都国、不彌国
他の国々合わせると戸数は? だいたい、唐津松浦に上陸して
熊本行って、帰ってきたら5千里。
周旋といっても、行って帰って来る途中で
近所を訪ねた程度でしょう。 >>636
>だいたい、唐津松浦に上陸して
壱岐から唐津松浦には、絶対に着けない。 @阿波 投馬国で5万
奴国で2万
対馬(千余戸)壱岐(3千家)、末盧国(4千余戸)、伊都国(千戸)、不彌国 (千家)
次有斯馬国 次有巳百支国 次有伊邪国 次有都支国 次有弥奴国 次有好古都国 次有不呼国 次有姐奴国 次有對蘇国 次有蘇奴国 次有呼邑国 次有華奴蘇奴国 次有鬼国 次有為吾国 次有鬼奴国 次有邪馬国 次有躬臣国 次有巴利国次有支惟国 次有烏奴国
で総戸数は? >>636
周旋可5千里 の主語は無い。
実際に周旋したのではなく
陳寿か梯儁の仮定としての5千里でしょ?
陳寿の文は、主語を見極められないと
永遠にご都合主義での倭人伝論争は続くしかないと思うぞw 九州説
女王国=邪馬壹国=7万戸だそうだ
奴国で2万戸
投馬国で5万戸
他の国々の戸数加えていない。
女王国=邪馬台国ではない。
女王国>邪馬台国である >>638
次有列記21国は梯儁の参問の結果であるから
邪馬台国7万戸の内訳である。 奴国2万戸は含む。
対馬(千)壱岐(3千)は、非女王国。
てか、日本海ルートも含む、進駐とか駐留民では?
邪馬台国=列記21国で7万戸が
238年に初めて魏と国交を持った以降での
梯儁の来日によって、参問された調査での公称でしょ。 天皇家の故郷は、ウミガメが身近にいて、亀卜が出来る所だったのだろう。
ここでも、博多湾や奈良盆地は除外される。 @阿波 >>640
なんだそれ? 斬新なのかw
奴国は邪馬台国の7万に含まれる。
投馬国5万戸は、半島南岸の
倭人域と区別がつかなかった弁辰韓の5万戸だよ。
246年の韓制圧による官制以降でも、弁韓、加羅、任那? は
魏による直接統治はされず、倭人域の王権は継続したし、
日本は、四郡廃止の313年以降の百済新羅建国に向かう。 資料をつなぎ合わせてるだけでバラバラってのがまだわからんか?
五万戸とか七万戸とかそんな小さくないから
卑弥呼は倭王であり倭国の事だから >>646
女王国より北なんだから当然そうでしょう >>646
投馬国=弁辰韓5万戸は
邪馬台国7万戸の隣の国
ってのが、三国志の東夷伝だろ? >>648
5万(投馬国)2万(奴国)
その他列記21国の総戸数は? >>650
たくさんで日本にはそのくらい住んでたんでしょう >>649
どっちなんだよ九州説
648は含むと書いているけど? >>651
邪馬台国は7万戸だろ?
投馬国と奴国で7万戸
列記21国は邪馬台国ではないのでいいのか? 馬韓を過ぎた倭人国、投馬国を報告したのは
240年の梯儁なんで多分珍島辺りを経由してる。
この航路では対馬や壱岐に寄る意味はないんで
済州島を見て、九州沿岸見てから博多湾に入る。
航路的に畿内説なんて有り得ないんだが? >>656
どんな資料を引っ張ってきたのか見当もつかん
翰苑には伊都国の後奴国の事なんて書いてない >>658
魏志倭人伝に梯儁が投馬国報告の記述なし
済州島の記述もない。
あたり前だ参問倭地(不彌国まで)
奴国、投馬国、邪馬台国、列記21国の女王国の国々には行っていない。 >>667
>>668
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国が七万戸
渡平海北九十五国が五万戸 >>669
なんで後の時代のもん
持ってくるの?
魏志倭人伝を正しく読む
魏志倭人伝に沿ってくれ >>670
倭王武の上表文だから200年くらい後だけど目安としてはこんな感じ >>675
東征毛人なんだから九州には居ないだろ
西服衆夷側だな >>675
九州に毛人の痕跡がでるまで
九州説は没だな。 >>474
五十猛=磯武良なのは明白
バカが何を言おうが、>>9の通り同一人物なのは疑いようがない
特に射楯兵主神社の社伝で射楯大神=五十猛が神功皇后の水先案内を務めたとされているのは決定的
神功の水先案内なんて何人もいるわけがない
同一人物でしかあり得ない
中臣との関係は雷大臣の息子というだけ >>678
勿論含まれてるよ
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国は日本の事だろ >>475
国譲りで事代主を追い出したのがタケミカヅチなんだが
その系譜の間違いということだな >>679
マジですか?
神功皇后なんて居ないと思ってますが >>477
>風土記に出てるって言ってやってるのにコレだよ
風土記にはイヅシとイトの間に関連性があるという記載はない
お前が妄想しているだけだ
何も変換などしていない
お前がバカなだけ >>680
7万戸の内、九州以外があるとみなしていい? >>684
九州説に問いている。
ワリこむのやめてくれるか? >>686
だから東征毛人五十五国西服衆夷六十六国で日本の事だって
でもそこに青森県は含まれてるかとかそんな事まで知らんけど >>691
ワリこまないでくれ
九州説に問いている >>478
>五十迹手が同一人物とかは、お前の独自論
>>9に何ら反論できない以上、お前もそれを認めているということだ
>完全一致検索で出てこなければ根拠なしの嘘と言ったのはお前だ
それはお前が「ヒボコは辰韓のヒボコと呼ばれている」という嘘をついたから
辰韓のヒボコで完全一致検索してお前のレスしかヒットしないことを指摘してやったんだろ
世間でこう言われている、という事が嘘かどうかは検索してみりゃすぐ分かること
五十迹手と五十猛の関係性は史料に基づいての推定だから全く異なる
こんな事も分からないとは本物のバカだなお前は
まあ知っていたが
ちなみに「"五十迹手" "五十猛"」で検索すると関係を疑っている人は案外いるようだぞw >>479
琉球ナニガシなんて言ってるお前が読んでないのは明白
いつものただの口からデマカセ えらい突っかかって来るなと思ったら九州説論者に聞いてたのね >>481
お前の嘘が俺に完璧に暴かれてお前が泣きながら逃げていったのが傑作だったよ
相変わらず記憶力がダメな奴だな >>482
生憎引っかかったのはお前だけ
ベソかきながら逃げていくお前の姿は本当に傑作だったよw >>483
バカが何を言おうが、>>9の通り同一人物なのは疑いようがない
特に射楯兵主神社の社伝で射楯大神=五十猛が神功皇后の水先案内を務めたとされているのは決定的
神功の水先案内なんて何人もいるわけがない
同一人物でしかあり得ない >>484
お前の頭はモンキーかいw
出土量が重要なんだよ猿
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/c590c6848c50ce5bca48b39b55bf5fd6
>楽浪土器は北部九州では比較的多く見つかっているが、関門海峡以東では極めて稀で、現状では山持遺跡と松江市鹿島町海揚がり土器しか知られていない。 >>701
伊勢神宮は5世紀後半の創建だって
その泡沫神社はいつ頃できたんだ? >>485
>安曇が本家だったら違う名前になっとるわww
安曇は海人の宰なんだから大海人でまったく問題ないが?
本物のバカの言うことは意味不明だ >>498
中臣氏のカバネは連だが
本物のバカだなお前は >>696
先に「当方はxxx説」かいてくれ。
わけがわからなくなる 天皇家の故郷は、ウミガメが身近にいて、亀卜が出来る所だったのだろう。
ここでも、博多湾や奈良盆地は除外される。 @阿波 >>680
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国
は、倭の五王500年雄略時代の奏上であって、
250年の邪馬台国当時には、日本は統一途上にあって
筑紫辺りの卑弥呼国は、魏と独自外交をしていた。
と言うのが、倭人伝にある古代史の事実。
つまり、200BC以前から、
万世一系九州起源の日本正史という記紀を持ちだしても
後付けのファンタジーに言いがかりをつけてるだけで
まともな日本の古代史の話にはならない。 「倭王武の宋に遣使した上表文」
「東征毛人五十國西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」
これはずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述である。
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸・朝鮮半島南部
これは、倭国(阿波)から進出した「倭人(阿波勢力)」の開拓地域と符合する。 @阿波 >>212
>分からん
のなら、
>>210は虚論 >>708
お前みたいのに説明するのは難しいね
東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国を全部倭の五王の武がやったんじゃないし
おまえの言うように途上の話しだから目安であって倭の範囲が何処までかわからない 雄略天皇の代では、日本の王権が
倭王武の奏上の範囲に及んでいたと言える。
参考になる史料として、稲荷山古墳の鉄剣銘文が有る。
8代にわたり朝廷に使えたという武人、と言っても多分皇族なんだけど。
一代30年としてたどってみる。
誰に仕えたのかで、応神以前については
皇統史料としての実在が怪しいんで判らないんだけどw
上祖 意富比? オホヒコ 260年
=ヒコ 皇族 九州平定期
其児 多加利 タカリ 足尼 290年
=スクネ 物部大伴系姫の子? 杖刀人首
其児 弖已加利 テミカリ 獲居 320年
応神天皇 牛馬移入 半島進出期
其児 多加披次 タカヒシ 獲居 350年
仁徳天皇 高句麗戦 百済新羅建国
其児 多沙鬼 タサキ 獲居 380年
=多沙 任那地名 仁徳天皇
其児 半弖比 ハテヒ 祖父 410年
倭王 讃 珍
其児 加差披余 カサヒヨ 父 440年
倭王 済 興
其児 乎 獲居 ヲ ワケ 470年~
倭王 武
で、邪馬台国時代以降でなら
日本王権は成立していた可能性は高い。
これ以前の本州は、富国強兵政策以前の
銅鐸時代なわけで・・・ >>693
www
嘘をついたから?ww
だから普通の検索結果を見ようともせずに、くろうして完全一致検索したらたまたま出なかったから嬉しそうにここに書いたんだったな?ww
で、お前の一致論は完全一致検索したら出なかったんだからお前も嘘つきだよな?
それどころか、お前のスレッドしかでなかったから、お前独自の嘘だって事が証明されたよな?
検索結果のリンクも過去スレで貼ってやってよな?w
自他共に認める嘘つきがお前じゃんww 新羅は後年の国。
統一神羅の元になる国が初めてできたのが神功皇后時代の四世紀
その頃に三韓征伐(実際には高句麗は従わなかったからニ韓征伐)
新羅の国名になったのが503年
それでヒボコが新羅から来てるなんて話自体が無理があるのにwww
三韓時代は、三韓に加え、高句麗と斯盧(後の新羅)の頃
子孫の神功皇后の時代ですらそれなのに、新羅から来ましたなんて話が成り立つと思ってるホラふきが伊都チョンww >>685
〉よ
風土記にはイヅシとイトの間に関連性があるという記載はない
いや、ソース付きで抜粋を俺ここで書いたよな?
やっぱり見たくないだけ?www
いつもの虚言癖?ww
それでも載ってないって言い切っちゃう?ww 明伯って言い切ってるだけで考古学的裏付けになってしまう謎論
それが伊都チョンの安曇説ww
しかし安曇は海幸彦なのでそもそもが九州説にはならないww
安曇の全国展開は壬申の乱以降ww 三国史記の新羅本紀は「辰韓の斯盧」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは四世紀以降
それ以前のものは史実性が低いとされている
これはその辺で拾える文章w
伊都チョンの根拠は個人の願望意義外に存在するものはない ググれカスしろと言っても見ないから、モロになんの風土記かまで書いてやったのに根拠なしとか抜かす嘘つきww
涙を拭け伊都チョンww
お前、何年もまえからその名で呼ばれてるのに、理由とか考えた事一度もなかったの?ww >>698
〉お前の嘘が俺に完璧に暴かれてお前が泣きながら逃げていったのが傑作だったよ
いや?お前の自己紹介した完全一致検索で逃げて他人のふりしてしばらく書いてたのはお前だよな?
逃げたのもお前だよな伊都チョンww ということで、新羅は後年の時代の国で、辰韓の一部に過ぎない辰韓の斯盧という領域があり、新羅のヒボコが史実性が無いのは明らかなんだがなw ヒボコの奥さんの実家の神床家の伝承でもヒボコは神代に渡来したとある
余計に新羅はあり得ないww
ま、伊都チョンの完全一致検索では、伊都チョン以外の人は、辰韓のヒボコでキチンと見れてるから、伊都チョンの朝はその時にバレてるんだけどねwww >>681
記紀編纂時には、既にミカヅチは中臣家のものになっていたから、国譲りの際に中臣家が功績があったかのように偽装されてるだけ
先代旧事本紀にあるように出雲系である事には変わらない
そもそもが出雲の親族の臣姓貰ってるんだからわざわざ説明する必要すら本来はない
臣姓が重要視されたのはカバネにもあるように、渡来系の最上位の大連の上が大臣だったから。
臣連制度って、臣の方が先に来てるだろ? >>702
〉お前の頭はモンキーかいw
出土量が重要なんだよ猿
また負け犬と言い訳ですか?w
独占などしていないという事が重要なのにww 自分で和歌山には那珂郡に、安曇地籍があるとかドヤ顔してたが
那珂氏が出雲と集合して中津臣家になり、後年に中臣になったんだが知らないらしいw
ちなみに現在の皇室は蘇我系とも言えるが、蘇我のカバネも臣。
蘇我臣家なんだよね。
現在の皇室は臣系の王家。 イソタケルは、九州には行ってない。
島根のイソタケル海岸に上陸した渡来人は、出雲から嫁さん貰ってイソタケルが生まれた。
そこで国譲り事件が起き、父親は大陸に逃げ、再度渡来した際に九州に行って出雲の分家の宗方から嫁さん貰って饒速日を名乗った
饒速日の前の和名はホアカリ。
先代旧事本紀の通り、同一人物アメノホアカリ饒速日が、イソタケルの父親。
イソタケルは、出雲に取り残され、名を変えて守られた。
大年彦がそれ。
今でも五十猛神社から山奥に行くと大年神社がある。さらにその近くに大屋姫神社。
大年彦は丹後に移住し、カゴヤマと名を変えた。
故に、籠神社の奥社の磐座のあるあたりの山が今でもカゴヤマになってる。
この神社ではなく、カゴ神社である事を隠している。
カゴヤマの名に変えてから、尾張一族はヤマト入りし、奈良湖の開拓を行い、トビ家と婚姻して大王家になった。
後の海部の分家が安曇氏
伊都チョンの言うように、仮に本家だとしても尾張氏の分家である事には変わりはないとすると
そもそも伊都チョンの安曇論は畿内説であって九州説にはならないww
饒速日の子孫が物部氏
系統が違うww しっかし、斯路が辰韓にあったことすら知らない程度の馬鹿だったとはなw
斯盧は、辰韓に支配されていた小領域に過ぎない。
それが辰韓の王家が断絶して今の新羅の元の国が王朝になった際に、大国の我が国を無視して税金逃れしようとしたから三韓征伐に繋がったわけだ。 伊都チョンのドヤ顔嘘発見器、完全一致検索ww
その嘘発見器に自分が引っかかった伊都チョンww
その過程まで自己紹介しちゃうんだから笑える
自分が強弁したやり方で自分の嘘が全く同じ結果でこのスレしか出なかったと言うお笑いの結果にはホント笑わせてもらったわww 「橘」「丹」「楠」「亀卜」
博多湾や奈良盆地は、どれをとっても、除外される。
それでも言い張るのが不思議。 @阿波 >>723
まあ、どの国が多いとか記載はない
水行30日で
邪馬台国は少ないという見方もできるのである。
又、都も宗教的な都とも取れる。
政治の中心で
立派な建物が立ち並び、人の往来が多く
物資が溢れるという固定観念は自由だけどね
邪馬壹国近畿説 >>642
次有列記21国 ― 此 女王 境界 所盡
つまり、21国で構成されるのが、女王国であり邪馬台国。
この書き方は東夷伝、馬韓54国、辰韓12国、弁辰韓24国で
ともに国の地勢を示す場合に一貫した陳寿の記述法。
小は数千、大は数万で、
行程内の伊都や不彌國は小国。 奴国は大国。
邪馬台国または女王国は、これらを含んで7万戸であって、
寄港地やその間を里程で示せる町村単位の地名ではない。
邪馬台国所属国を含む行程中の地名を里程で示した後の
この二つの国名が、里程で示した行程と直列する文章になるわけがない
のは、誰でも判るのではないかな?
投馬国は行程ではなく邪馬台国の北に位置する隣国であって
これは、馬韓の西岸を過ぎた位置にある弁辰韓5万戸の他には無い。
郡が馬韓辰韓を制圧する前の探検時の仮称である。 金剛山系南部には、一番古い鴨族の神社がある。
高鴨神社(タキツヒコ系・神戸家)
鴨津波神社(トビ系・富家)
そして、大年彦(五十猛)系の神社であるのが
御年神社。
五十猛系なのに、出雲で変えた名前の大年彦が、出雲系として同じエリアで扱われているのは母系尊重。
尾張家は、五十猛の代で二人の姫をもらい、片方がホホデミの妹のホヤ姫。もう片方が出雲の大屋姫だった。
故に、尾張家の五十猛の子孫は、カゴヤマを祀るようになったので、大彦の弥彦神社は、祭神がカゴヤマになる。社家も大彦系の高橋家
同格の分家である紀伊国造家では五十猛を祀るようになった。
崇神にされたイニエは圧縮された記紀の内容としてはニニギに変更された関係で、紀伊家系の珍彦(紀伊家系図では宇治比古)が、東征軍側に書かれるように変更されたが、珍彦は実際には尾張氏系として物部氏と戦っている。 >>730
>>この二つの国名が、里程で示した行程と直列す>>る文章になるわけがない
>>のは、誰でも判るのではないかな?
直列に水行に続くものだよ。
又郡に戻る文字や記述がない
投馬国、邪馬壹国に行って
いないので、行程に詳細な方向、停泊場所等がなく日数、官名、戸数の倭人から聞いたのみになる。可5万戸、可7万戸
可は投馬国と邪馬壹国。実際にあるのでなく
見積もり
四国(投馬国)、近畿(邪馬壹国)の開拓と見ている
邪馬壹国近畿説 海幸彦、山幸彦は、海家(アマ=天)と、物部氏の事。
海幸彦=隼人族では無い。
東征が九州と奈良ではなく局地的な戦いであった様に隠すために九州の土着の隼人族を海幸彦にして隠した。
故に、仕上げとして神功皇后記で、魏書の引用と山門の挿入がなされた。 >>732
横からですが、水行と実際の船の速さから見たら沖縄あたりでも到達可能と書いてた人が記述してましたが、魏書の前半部は、メモ書きから書き起こされたものであり、内容は伝聞が入ってると言う事でした。
さらに、人口を表す戸数も計算すると多すぎるって書いてましたね。
景初の下りが始まる前の部分は昔からある情報の下書きを元に書いてあるとされます。
故に、後年の倭国大乱期の記述も皇帝の治世になったりするのだと 鎌足が中臣家に養子入りしたのは、多臣家と違って臣を名乗らない八井耳系の分家だった可能性がある。祖神がタテカシマだった事も考慮するとたが。
そのままでは自分か子供が大臣である右大臣になれなかったからなのかもしれない。 >>705
連の左大臣は既に石上になってたから、この残りの席は臣家の右大臣しか空いてなかった。
本家筋の尾張家は尾張連とか、笛吹連だってので、中氏に養子入りする必要が出たと考えられる >>734
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
ですから女王国の一部である
不彌国(郡より万ニ千余里)までで見たり、聞いたりしたことを記載した。と判断している >>737
陳寿さんはトヨとほぼ同年代の人なので、それ以前のものに関してはやっぱり下書きの様なものがある気がいたします。
故に、読み方としたらそのまま読んだら間違ってしまう点を考慮すべきと >>737
判断しちゃったなら、仕方ないのかも知らんけど
正しく読んでない、のではないかな?
刺青の下り、其使 詣中國 皆自稱 大夫
は漢時から在った倭人の使者の話だし
永遠の5歳児阿波ちゃんの言うような、九州北部に無いようなものは
実際にそこへ行って見聞きした、というレベルでは調査できない。
皇帝が、おみやを持たせるときに、
無いもの、貴重なものを、使者に聞いて持たせている。
木材や丹のような邪馬台国には無いものであっても
周辺国との交易で手に入るものについては、倭には有る、となる。
倭人船に乗ったことが有る、あるいは卑弥呼のような者の墓を見た、のは、
おそらく張政だけなので、持衰や葬儀の様子は魏使の見聞きしたもの。
老婆心で言うのだが、
漢文は、略された主語や指示代名詞の行く先の判断が難しい。
意図的な訳が出来る翻訳文ではなく、原文の素読を繰り返すべきである。 >>738
考慮した結果で判断したのだよ。
まあ、郡に戻ってまでの曲解はないけどね。 >>739
九州説?畿内?近畿?etc?説なし
皆、自分こそ正しいと読んでいると
思っているのでは?
邪馬壹国近畿説 丹に関しては、鉛丹だったと言う説がありますね。
確か貰った物なにも、献上したものにも水銀があった様な気がします。
ただ、この鉛丹が曲者でなかなか合致する時代に出土しないとか言う話がありました >>739
張政が見たんなら報告が行くだろう
伝聞と言ってる連中は誰も王都には行ってないと言ってるんだぞ >>741
このスレって、さんざん書き込んでも
アンカで差し込むと、どれが自分のレスだったか判んないのな?
阿波ちゃんみたいに本文記名するか、コテじゃ無いと
オマエもな~、みたいのに応えてたら重複になっちゃうだろ?
みたいな。
ジェーンだと、アンカじゃない場合、自分、返信が色分けで判るけど、
差し込みだと全然誰か判んなくて、馬鹿が何いつまでもダダこねてんだ?
みたいのばっかしになっちゃうんだな。
コテハンなんて最近見ないけど、どうしたもんか? >>745
じゃ、お手本をどうぞ宜しく
邪馬壹国近畿説 >>744
伝聞と言ってる連中 って、誰の事?
塞曹掾史帳政は、郡からの檄に応えていない
倭人、難升米の調査出来た使者であって、
皇帝の命で新鋭軍船で来た
魏の正規軍将校の校尉梯儁とは、
全く別の、田舎役人だよ?
卑弥呼と合ったのは、金印持って来た梯儁。
帳政は伊都で拘留されて、伊都常駐。 >>747
田舎役人であろうが報告しないんだったら何しに来てるんだって話しだ >>744
レスの根拠が、自分だった?
匿名であることで議論の可能性は
詐欺と言う行為が成立するなら絶対に一致しない。
てか、744へのレスが、自分になる?
あ、744が、自分へのレスなのか?
歴史板も話は出来て非常に良いと思うんだけど
めんどくさいんで、もう、要らなくネ? >>748
何しに来てる?
どころか、魏と邪馬台国の国交は
これによって、終わっている。
魏は以降も存続するが、帳政送還で郡に送った
247年の朝貢への返礼は記録されていない。
最後
73 壹與 遣倭大夫 率善中郎將 掖邪拘 等二十人 送政等還 因詣臺
74 獻上 男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
普通なら10倍返しで自慢する皇帝の朝貢の返礼自慢は、三国志には無い。 「皇室行事の秘儀、亀の甲羅焼く占い」
天皇の代替わりの皇室行事「大嘗祭」で神々に供える米を作る「斎田」を決める方法は、
亀の甲羅を焼く「亀卜」という占い。
だが、宮内庁は詳細を明かさず、実態はベールに包まれたままだ。
天皇家の故郷は、ウミガメが身近にいて、亀卜が出来る所だったのだろう。
ここでも、博多湾や奈良盆地は除外される。 @阿波 >>751
まず、なんで亀の甲羅によって占いなのか?
諏訪のような降霊信仰以前に、亀に意味がない、と思うが?
海洋航海において、出航のタイミングは大事。
関門海峡や対馬横断は、潮流と海流の見定めが占いの結果である。
アタシが、阿波は取り合う価値が無い、
と、思うのはつまり、そういう事である。
瀬戸内、関門海峡海航行が可能になるのは何時?
邪馬台国は247年まで、での話なんだよ? >>745
それはここのスレ主の自作自演が出来なくなるから永久に実現することはない カヌーですら1日 60キロは進む。
帆船になるとどの程度かの検証は大事だと思うが >>751
倭人伝を正しく読むことと、
当時の倭王の所在地が、阿波である
という信仰は、関係ないとは思うけれど?
倭人伝の
41 其俗 擧事 行來有所 云 為輒灼骨 而卜以占吉凶 先告所 卜其辭 如 令龜法 視火? 占兆
は、意訳すると、令龜法のように先になにを占うのかを告げてから、何か知らん骨の灼骨を行う、
と 言う話であって、邪馬台国には、亀が居る、という話ではない。
ウミガメなんて、占いしたいときに、為輒=即刻で 取れるのか?
保存しとくなら、用意しとくだけで世界中のどこでも良い訳だけど。 >>755
>ウミガメなんて、占いしたいときに、為輒=即刻で 取れるのか?
甲羅を焼くんじゃないのか?
宮内庁は詳細を明かさず、実態はベールに包まれたままらしいが。 @阿波 >>755
>用意しとくだけで世界中のどこでも良い訳だけど。
ウミガメが身近にいる所だからこその亀卜の起こり。
今は、東京の皇居でできるようだがな。 わははははは @阿波 魏書には七国の名が出てきており、その合計は15万戸ほど。
実に驚くべき数字である。
当時の我が国の3倍の確度を持つクシャン国ですら戸数10万、人口約40万に過ぎない
百余国がかつてあったとしたと言う話は別にして、30あまりの国が朝貢
では、その国数で平均から人口を割り出す。
一戸あたり少なめにして四人家族とする
15万÷7国×30余国×4人家族で既に250万人
超大国の魏国と同じになってしまう
もうこの時点で、伝聞。我が国が大したものであると見せかけているわけだ
魏書は、我が国側の人間が紹介したものはフカしを疑う余地がある 邪馬台国の伊都からの距離など全く当てにならない。
竹イカダ式のヤム号は1日60キロを進んだと言う。
水行20日で1200キロ。
さらに10日を費やせば台湾あたり
放射説をとっても邪馬台国は種子島か屋久島まで伸張する
せいぜい正しく読むんだな 九州卑弥呼の軍勢は魏国に対し、自ら邪馬台国を名乗ったが、それすら嘘の可能性がある
既に朝貢していた国を名乗り、逆にそこと敵対している国などとは絶対に言えない
魏書で完全に正確なのは年号。起きた出来事。
数値的なものはかなりの確率で伝聞と思われ、当てにはならない それと、倭国大乱期の記述から、魏国はヤマトが畿内であった事は把握していたと考えられる >>758
「有三千許家」があるから
家と戸 が同じでは無いかもしれない 魏書の記述のされ方に伝聞の要素が考えられる以上、伊都の機能も太宰府の様な、首都がそこにあるかのような偽装の出先機関であり、その実態に従って魏書の記述になった虎考えるべき
そして、倭国大乱期と、景初動乱は、同じ一族による同じ目的地への攻撃と考えられる。
自らの国をヤマトと嘘をつき、畿内のヤマトをオウキへの報告通り、狗奴国と伝えた。
つまり、大陸から見た邪馬台国は、畿内ヤマトであり、魏書の大陸から見た邪馬台国は、九州勢の軍隊のこと。
局地的な戦闘ではなく、広範囲の大乱であった可能性を捨てきれないことになる 我々が知りたがってる邪馬台国は、国名を偽った卑弥呼のいた国の事で、当然にヤマトとは名がついていない。
魏書の中に出てくる残りの国のどれかが、我々が知りたがってる邪馬台国 感覚的には、ヤマトの位置が変わった格好になってるから、後年に分からなくなってしまった
・・とかw >>763
写本の際の草書体の写し間違えに関しては考慮するべき
一番良い字を当てるなど普通は考えないものだ 魏国から見たら、畿内ヤマトから戦闘のために九州に後退し、戦線を整えてこれから畿内の狗奴国を倒しに行くところです、黄色の8本の御旗を掲げて進軍します、と言う事なら、九州に実態のない軍隊の集まりでも疑うことはない
魏書の卑弥呼は戦闘の前の朝貢から始まっている
そして、大陸の名代の部下は、戦闘に背後からついていき、奈良入りしていると考えられる
最後まで魏の使いは、朝貢した集団がヤマトであり、最後まで狗奴国と戦ってると思い込んだまま、大陸に帰国している
魏書の書かれ方を見ると
魏の使いは敵方の情報は一切見聞していない。
あくまで卑弥呼サイドの情報しか受け取っていない。 >>767
中国の史書にヤマト等の位置が変わったなんて書いてない >>770
認識上のヤマトの事だよ。
どれを持ってヤマトとするのか
魏書は九州勢の人間に対して、相手の自己紹介を丸呑みしてるに過ぎないんだよ
物理的に移動していると言う話はこっちもしてない 要は、我が国側の特殊事情があってもあの書き方が成り立つかどうかですよ 魏書に書かれているところは、メモ書きから書き起こされているところが否定できず、前置きとして我が国の紹介があり、一旦切られて景初の下りになると考えるのは自然な事かもしれない。
ただ、新しい情報が前置きのメモ書きのところに挿入されている可能性も勿論ある。
そうすると、一番最初の
旧百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国なり。」
は、ヘタをすると、倭国大乱期以前の話で既に実情が異なっていた可能性がある
少なくとも後漢の頃に作られたメモ書きがあると考えるべきである
大乱は景初を含めると少なくとも2回起きている。
しかし、記紀では一度のみ。
意図的に消されている部分が記紀の欺瞞のところになろう
この辺りの話は、二度の出来事を一度にされているので注意しなければ分からなくなると思われる >>773
九州勢が嘘をついて認識上のヤマトが移動してたとしても魏書の書き方が成り立つと言うだけの話
日本語は落ち着いて読むべし 狗古智卑狗は、その後の我が国の資料だと大彦系とされるので、少なくとも大和にいた人物の子孫が存在していた
クナト国→クヌヶ国→狗奴国→日高見国 魏書に目を通していた記紀の編纂者は、魏書に書かれている内容を逆手にとって記紀をまとめたとしか思えない
とってつけた様な神功皇后記紀と、魏書の引用、そして山門の呼称など、あざとすぎる
大彦は神代ではなく、倭国大乱期の人物ではないのか?
そうすると大彦のさほど離れていない子孫のクコチヒコが、魏書に出れる >>777
根拠遺跡もないのに、文献バカが妄想を楽しんでいる模様だな。 わははははは @阿波 >>778
偽装してるのにその証拠の遺跡があるはずだと吠える間抜けがいるようだがw >>779
偽装などする必要がないので、証拠の遺跡がある。 @阿波 要はこう言う事だ。
四国にいる@阿波がいる。昔からホラで有名な人物がいたとする。
九州で全く関係のない奴が、私の名前は@阿波ですと自己紹介する。
それを聞いた九州の人は別段疑う必要性も感じないわけで、普通に目の前にいる人物を@阿波さんなんですねと認識して
その日の日記に@阿波という人物に会いましたと書いただけ。
この瞬間に認識上の@阿波が、四国から九州にワープする。
後年の人間が、日記を見て@阿波が九州に居たと思い込む。
こんだけのことが起きてても日記の内容に影響しない。そういう程度の話 >>778
そもそもが、遺跡の話など無関係な話を書き込んでるのに、遺跡遺跡と唾を飛ばす無意味な行動をと立てるだけ。
実に意味不明 >>781
文献バカが妄想を楽しんでいる模様だな。 わははははは @阿波 >>782
>そもそもが、遺跡の話など無関係な話を書き込んでるのに
根拠遺跡もないのに、文献バカが文献をいじくりまわして、妄想を楽しんでいる模様だな。 わははははは @阿波 青銅器は、合金の鋳物の技術であり、銅は古くから出雲でも露天鉱床があり手に入ったが、鉛と錫は輸入に頼っていた。
鉛は途中から半島産に切り替わった様だが、錫は確か相変わらず大陸産だったんじゃないかと
つまり、少なくとも青銅器を作れる国は朝貢していたと考えられ、理論上の金印の数は30余個になる。
九州、出雲、ヤマトは少なくとも朝貢し、国家承認を受けていたと考えられる
果たして、九州卑弥呼たちは、戦う相手の国を正直にヤマトと言えたであろうか?
普通なら大陸の承認に泥を塗るわけで、朝貢国を攻撃するとは言いにくいと私は思う 大陸の意向に逆らうと大事件になることは卑弥呼が証明済みである。
国家承認の金印を授け、大陸版錦の御旗である黄色の属国旗を授けてるに留まらず、役人張政を派遣し、あまつさえ、その後の揉め事に介入し、トヨを後継者としている
畿内までヤマトが大陸に泣き付いたら、どうなるのかは九州勢も理解していたと考えられる 魏書は我が国の政治センスが思っていた以上に発達していたことを示す資料なのかもしれない こう言う頭の中で考えていることが遺跡に残ると思ってるのが@阿波
いい面の皮である >>788
>こう言う頭の中で考えていることが
それを、文献バカが文献をいじくりまわして、妄想を楽しんでいる、と言う。 わははははは @阿波 >>789
で?遺跡の話は?
大丈夫ですか?w
日本語の返しになっていませんよ?ww >>790
>で?遺跡の話は?
遺跡の話って? @阿波 >>791
馬鹿なの?日本語が読めないの?
君の人生、過去未来2秒ずつしかないの?w そんでもって採取的に魏国と断交している
政治手腕としては大国を手球に取ってるわけで、凄いことをやってのけていると私は思う 其國 本亦 以男子 為王 住七八十年 倭國 亂相 攻 歴年 乃 共立 一女子 為王 名日 卑弥呼
であって、
倭国大乱は卑弥呼の王位就任で解決終了したなら
つまり、九州論においては、筑紫地域21国の内乱であって
卑弥呼の死後にも継承権抗争での同様な内乱は起きている。
で、120年~200年までの大乱で女王就任で解決なんてもんは
記紀の万世一系の日本には無いのではないかな?
朝廷の奥座敷阿波にはあったりしてなw
190~250年位までが、引きこもりの女王なんだぜw
戦国大名のような阿波の王であって倭王でない、なら良いけど、
この間に建ちあげた、奈良の日本王権が建たないよ。
九州説でも、正しく読んだら九州、では無く
考古学的に、当時の九州に倭王が居た。
と言うなら、論外の頓珍漢。 >>793
逆に漢や魏は倭王に値すると把握してたから金印を与えたんだと思うけどな
地方豪族に与えたとは思えない 何を言ってるのか、判るか?
250年に日本の畿内王朝は有った と言う史実。
九州は、参加していない。 かも? で、
本州では、銅鐸時代の終わりまでの、300年に、
神話の出雲、瀬戸内海、吉備、摂津、近江、日本海ルートの丹後、越
内陸で尾張、美濃、が集合して、
奈良に朝廷の後宮が確立した。 考古学は嘘をつかないw
246年の魏は韓を征服でも、日本は友好国にはナラない。
つまり、九州と日本は競合して富国強兵方針になったのが、
九州+日本海ルートの対魏防衛の始まりなんだろ?
軍事史ではない、源氏物語でも判る、
日本の歴史はここまでで
日本の軍事統一の始まり、
信長以降の軍事政権の皇室と武家の関係は、
信仰なのかな? >>713
>だから普通の検索結果を見ようともせずに、くろうして完全一致検索したらたまたま出なかったから嬉しそうにここに書いたんだったな?ww
完全一致で検索しなきゃ関係無いサイトがアホほど引っかかって何も確認にならないわけだが
完全一致で検索したらヒットしないのはそんな呼ばれ方はしていないから
つまりお前の嘘
>で、お前の一致論は完全一致検索したら出なかったんだからお前も嘘つきだよな?
お前の頭はモンキーかい
完全一致検索は「世間一般でそう言われているかどうか」の確認だ
五十迹手と五十猛の関係性は史料に基づいての推定だから全く異なる
こんな事も分からないとは本物のバカだなお前は >>714
また一切根拠のないデマカセを並べるだけか
惨めな負け犬だなw >>715
>いや、ソース付きで抜粋を俺ここで書いたよな?
その抜粋にイヅシとイトの間に関連性があるとは書かれていないんだが?
虚言癖はお前だけだよ猿 >>716
>明伯って言い切ってるだけで考古学的裏付けになってしまう謎論
考古学的資料に基づいて考察した結果が明白という結論だからな
お前は頭が悪過ぎて理解できないようだが
>しかし安曇は海幸彦なのでそもそもが九州説にはならないww
根拠ゼロ
いつもの口からデマカセ >>718
その風土記にお前の主張する内容が書かれていないのだから根拠無しだわな
お前は頭が悪過ぎて理解できないようだが
伊都チョン連呼してるのなんてお前一人だ
理由はお前の頭がモンキーだからに他ならないw >>719
いや全然
お前の嘘が俺に完璧に暴かれてお前が泣きながら逃げていったのが傑作だったよ >>720
新羅のヒボコに史実性があるなんて誰が言ったんだ?
俺のヒボコに対する考えは>>465だが
相手の主張も理解できないモンキーが議論に参加しようとするな
まず日本語学校に通えチョンw >>721
そうやって怪しい伝承だけを心の支えにしても考古学と一致しなきゃ無意味
お前の嘘はみんな知ってるよ >>722
>そもそもが出雲の親族の臣姓貰ってるんだからわざわざ説明する必要すら本来はない
だから中臣氏のカバネは連だよアホw
>臣姓が重要視されたのはカバネにもあるように、渡来系の最上位の大連の上が大臣だったから。
連が渡来系なんて妄想を並べられても
臣と連の関係は前にも教えてやっただろう
臣が外様で連が譜代だアホ
> 989 :日本@名無史さん :2020/11/21(土) 23:18:49.29
> >>987
> それは県主が畿内系という解釈が間違っているだけ
> 連(ムラジ)の姓を持っているということは神武以前からの皇室の家臣の家系
>
> のちの氏姓制度には古代氏族の関係性が現れている
> 姓(カバネ)の中で特に有力だったのは臣(オミ)と連(ムラジ)の2つだが、この両者には外様と譜代の違いがある
>
> https://kotobank.jp/word/%E6%B0%8F-34455
> > 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
> > 臣姓豪族は皇別すなわち天皇の後裔(こうえい)と称するのが一般であり、連姓豪族は神別すなわち神代の昔から皇祖の神々に奉仕した
> > 神の後裔と称しているが、これは江戸時代における外様(とざま)大名と譜代(ふだい)大名との違いにも比せられる。
> > すなわち、臣姓豪族は天皇家と連合して大和政権を構成した有力豪族、連姓豪族は大和政権の盟主としての天皇家の地位、
> > 実力の向上に伴って頭角を現した家政機関のおもだった役人あがりであり、その家政機関が拡大改組されて大和政権の中枢機関となったのである。
>
> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征以前から皇室に付き従っていた元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となる
> 逆に畿内の土着勢力の王家は臣姓となった豪族の中にいると考えられる
>
> 筑後山門の物部氏は大連となった連の中の連なので、当然東征前からの重臣ということになる
> 筑後山門の邪馬台国に仕えていたと見るのが自然だろう >>723
>また負け犬と言い訳ですか?w
日本語がとっ散らかってるぞチョンw
負け犬も言い訳してるのもお前だけ
>独占などしていないという事が重要なのにww
祭器以外の土器はただの器に過ぎないんだが
独り占めしたくなるほどの宝じゃないぞアホ
樂浪土器の出土の多寡はその中に入っていた大陸系の文物が集まる
当時の文化的中心地がどこであったかを示しているだけ
そしてそれは北部九州であり出雲はごく僅かの出土しか無いので中心地ではない
これが考古学的結論 >>726
>>361
なんだか>>361だけで全て対応できそうな気がしてきたw >>727
お前の頭はモンキーかい
完全一致検索は「世間一般でそう言われているかどうか」の確認だ
五十迹手と五十猛の関係性は史料に基づいての推定だから全く異なる
こんな事も分からないとは本物のバカだなお前は >>799
〉また一切根拠のないデマカセを並べるだけか
惨めな負け犬だなw
お前マジか?ww
その辺で拾えるソースを書き写したのにそんな程度のこともしらないのか?w
やっぱり思い込みのデマじゃねーか負け犬w >>805
〉自分の思い込みは考古学の伊都チョンww
見たくないものは検索結果ですら歪めて見えませんと強弁してた異常な姿は過去スレに出てるからここでお前が口から阿波を飛ばしてももはや無意味ww
完全一致検索を見つけた時、両手を上げて喜んだんだろ?
こっちは普通の一般検索結果を貼り付けているぞ?
それすら見えないとか抜かしてたよな?ww
あの異常さは笑えたわw
完全一致検索の定義まで嘘を書き込んでるわw >>798
〉完全一致で検索しなきゃ関係無いサイトがアホほど引っかかって何も確認にならないわけだが
完全一致で検索したらヒットしないのはそんな呼ばれ方はしていないから
つまりお前の嘘
イヤイヤ、完全一致検索したら辰韓ヒボコはこのスレッドしか出ないから嘘って言ってたよな?自分で
そんなことまでしないと精神の平衡保てないわけ?w
自分のしたことすら証拠付きで過去スレに出てるのに逃げちゃうわけ?w
ま、あの時も逃げ出してたけどさw
こっちが書き込みを休んだのは返しのついたヤスの出土の時の話だわ >>806
〉だから中臣氏のカバネは連だよアホ
中臣の臣の意味がまるでわかってないらしい
中臣家は中氏。だから各地の拠点が那珂郡になるのに。
臣、連が形骸化する前の後年の話をしてもなw
その程度のレベルなら何の役にも立たない >>805
怪しい伝承ww
涙を拭け伊都チョン
伝承にはお前の好きな完全一致検索フィルターかけれないもんなww
播磨国風土記に「天日槍は伊都志に在しき。」とあり「伊都志」は「いつし(出石)」とされている。
伊都は後年のナマリ。
天日槍の子孫とされる糸井造ゆかりの地、糸井郷に天日槍の岳父(奥さんのお父さん)を祭る佐伎都比古阿流知命神社がある
神床家の話を知らないのは単にお前が見たくないからだろ?ww
いつも通りの平壌運転じゃねえかw
自説の為に人の頭の中身にまで願望を押し付ける異常者ww >>804
ヒボコが日本人だったなんて話ww
傑作だなw独自すぎるw
ミマキイリヒコと間違えてないか?
彼は元々九州物部だから任那から来たわけではない
で?今回はもう少し詳しい話を書いたわけだが
ヒボコって「辰韓か、新羅」の渡来者の話しかフツーはでねぇわww
そうかそうか、それが神床家の話から逃げてる理由かww
神社まで存在し、公式の存在の神床家の話はお前の都合で知りたくはないんだなw
倭国のヒボコで検索しちゃおうかしらw >>465
"ヒボコは渡来人などではなく朝鮮半島に行って戻ってきた倭人"
で完全一致検索検索したら、ここのスレッドすら出てこなかった
はいデマ確定ww
自己紹介乙ww 海部の本家は尾張氏だよ。
安曇が本家だなんて話、一切出てこないw
"安曇氏は海部の本家"で完全一致検索出ないからデマ乙w 中臣家が連を帯びたのは物部とも集合したからだろ
八井耳の多氏の昔の読み方には冨が入る。
本来、なかおみだが、一部の派閥がなかとみを名乗った。本来はトミ読みはNG
卜部氏でもこの辺は厳しい習慣との事
このトミが臣の語源ではねーの?
しっかし出雲系の臣が、外様ww
確かにwikiにも出てはいるが、お前、wikiはインチキとか抜かしてなかったか?w
俺様のwikiは良いwikiで、他のやつのwikiはインチキって笑える事言ってたなw >>806
〉> 神代の昔から皇祖に仕えた、つまり神武東征以前から皇室に付き従っていた元々の皇室の臣下が連の姓を与えられている
> たとえば北部九州が本拠地の安曇氏が連姓、これは皇室が九州起源であることの根拠となる
> 逆に畿内の土着勢力の王家は臣姓となった豪族の中にいると考えられる
ww思い込みの羅列ww
神武は、出雲から三代に渡り嫁さんもらってる
臣と連はその後の制度
神武の前の皇室wwの頃から臣家だったのかww
安曇はお前に言わせると伊都王家じゃなかったのか?ww それと、当の志賀島神社の安曇姓の女性宮司は、伊都チョンの様な話を一切していない
今度は宮司さんもおかしいとか言い始めるんじゃね?w 武内宿禰の子孫が臣姓になったのは、彼が最終的に出雲に逃れたから。
元々は男系が尾張氏であり、開化の孫であったので本来は連
それが尾張氏と敵対する側、要は景初動乱で物の場側についたので宿禰姓に変わった。
色々あって物部の追跡をかわすために出雲に流れてそこで嫁さんもらったので、宿禰姓を名乗らない事と引き換えに臣姓を貰い
武内臣太田根(たけしのうちおおたね)になった。
故に、平群や巨瀬、蘇我、石川などには臣姓がつくことになった。出雲とは良好な関係だったそうだ。
中臣家は、中氏が先に臣を貰い、その後に連をつけて、右大臣、左大臣のどちらにも就任できる様に曖昧にしたのかもしれんな。
しっかし、中臣家連って確かに一般に言われてるけど、臣の字が読めないらしいな
さすが伊都チョン補正ww >>823
>武内宿禰の子孫が臣姓になったのは
その武内宿禰の伝承が今に残っているのは「阿波」だけ。 @阿波 ヒボコと伊都に関する一般論はこんな感じ
ちょっと引っ張ってきた
谷川健一氏『日本の神々』の「天日槍とその妻」の中で、朝鮮からの渡来人の中で、記紀に最も取り上げられているのは天日槍(天日矛)であろう。(以下アメノヒボコ)は『日本書紀』の記述によって、ツヌガアラシトと同一人物と目される。
『筑前国風土記』逸文に「高麗の国の意呂山(オロサン)に、天より降りしヒボコの苗裔(すえ)、五十跡手(イトテ)是なり」とある。意呂山は朝鮮の蔚山(ウルサン)にある。意呂とは泉のこと意味するという。五十跡手は、『日本書紀』によれば、「伊都県主の祖」となっている。このようにアメノヒボコの苗裔と称するものが、伊都国にいたという伝承は、アメノヒボコの上陸地が糸島半島であったことを物語る。
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基本的には伊都と安曇は全く関係がない
伊都と関係があるのは基本的にヒボコ
それは動かない。
その上に、神床家、富家の伝承があるだけの話で独自論なのは伊都チョンだけ。
それもここに来て五十猛と五十迹手は、他の人も言ってるに後退
五十猛(尾張氏家)、五十迹手(ヒボコ族)、雷大臣(中臣家)、安曇磯良(海部の分家)、磯武良(不明)が同一人物とか言ってた癖にww
伊都に関しては元々ヒボコ族の領域
ヒボコ族にちなんだ名前が伊都。これが一般論 ま、伊都チョンには分からんだろうが、連から臣になる事もあるし、逆もあるし、曖昧にすることもある
のちに形骸化していくが基本は大陸の渡来者が連、半島からそれが、造(ミヤッコ)
故に、ヒボコの関係は天孫でありながら、造になっている。
大陸渡来人のホヒ族の千家は、天孫でありながら、富家の許可で臣姓名を後年に名乗っている
それ故に、出雲臣は、二つの系統がある。 >>828
阿波は、すべての臣姓の本家本元。 @阿波 >>826
古くから阿波国は流刑地に選定されていません。
神亀元年(724)三月に制定された流刑地は、佐渡・伊豆・安房・常陸・隠岐・土佐で、
流罪人は身分・男女・大人子供を問わず、日に米一升と塩一勺が与えられ、翌年の春には田と籾を与え、
以後、自給自足の生活をさせたそうです。流罪人は牢獄に入れられた囚人と違って、家族と生活することもできました。
佐渡が流刑地と決する2年前の養老六年(722)、式部大輔の穂積朝臣老(ほづみのあそみおい)が流罪人第一号として流されています。
江戸時代の流罪人は、江戸からは大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御蔵島・利島の7島のうちに、
京都・大坂・西国筋からは薩南諸島・肥前国五島列島・隠岐・肥後国天草諸島に送られていました(幕府の公事方御定書による)
だとさ。 「阿波」は常世の国。 天皇の故郷が流刑地になる訳がない。 @阿波 >>830
ホラを吹くにしても後出しジャンケンは辞めなよみっともない
ちなみに忌部氏は大陸渡来の勢力が強くなった際に系図をいじって大陸出自を名乗ったので、名残で天神系譜でコヤネの下に忌部氏が出てくる
忌部とある様に、その関係で臣では無くなっている。
物部政権下で勢力が強くなったので部民になっている。 そもそもが五十猛=カゴヤマは九州に行ってはいなく、ヤマトの系譜の先祖になったのに、五十猛マンセーで自説が、九州説のつもり、なのが伊都チョンww とあるところの丸コピー
アメノヒボコの苗裔と称するものが、伊都国にいたという伝承は、アメノヒボコの上陸地が糸島半島であったことを物語る。
つまり、伊都=日矛という方が圧倒的に多く言われている事であって、安曇論の考古学的裏付けなど伊都チョン説でしかないことは明らか
風土記からもヒボコの渡来は神代と書かれており、景初の前からそこに居たという話は旧家の複数の伝承とも一致
中氏が、那珂郡になるように、ヒボコが伊都=系になるのは普通の話
出雲が富の地名になったり、上毛野の血筋が豊の字になるのと同じ さらに丸コピ
ツヌガアラシトはそれから日本海へ出て出雲から敦賀へと移動している。アメノヒボコは瀬戸内海を東遷したように思えるが、日本海から播磨の南部へ移動したという説もあって、その足跡を明瞭に辿ることは難しいが、天にヒボコの妻の足取りは、ややはっきりしている。
『古事記』にはアメノヒボコの妻が夫といさかいしたあと日本に逃げてきて、のちには難波に留まり、比売碁曾(ヒメコソ)神社の阿加流比売神(アカルヒメ)になったことを伝えている。『日本書紀』には、ツヌガアラシトの妻となっており、同じように日本にやってきてからは、難波の比売碁曾神社の神となり、また豊前国国前郡(大分県国東郡)の比売語曾神社の神ともなって二か所に祀られている、と記されている。
福岡県糸島郡の前原町高祖(タカス)に高祖神社がある。もとは高磯(タカソ)神社と呼ばれ、ヒボコの妻を祀るとされていた。また大分県の姫島に比売語曾神祠(神のやしろ、ほこら)がある。先の『日本書紀』の記述に見える神社である。(中略)
この妻の実家が神床家であり、祀られる神社もあり、出石神社の、旧社家である。
記紀に出た家からの伝承が伊都チョンの思い込みの話と同レベルで語られる事自体が笑える現象なのだ。
さらに高祖神社のところで、磯の字が出てくるわけでwww
磯良は尾張氏(連姓)ではなさそうな話もあるのだがww さらにコピペ
一方、アメノヒボコは『播磨国風土記』には、葦原志挙乎命(葦原志許乎命・アシワラシコヲノミコト)または伊和大神との間に激烈な闘争を繰り広げる。そのあと『日本書紀』によれば、アメノヒボコは宇治川をさかのぼって、北の方の近江国の吾名邑(アナムラ)に入って、しばらく留まった。また近江から若狭国を経由して但馬国に至り、住居を定めた。近江国の鏡村の谷の陶器作りは、アメノヒボコの従者である、となっている。
実はこの辺だけ複数の旧家が違ったことを言っていて、景初動乱の前の倭国大乱期に、ヒボコが出雲の播磨に侵攻し、砂鉄を獲得したとある。
その後、尾張氏と、海部の連合に敗れ、淡路島と今の糸島に逃げ込んだとある。
伊都の方が後になる様だね。
実際には、ヒボコは出雲に先に来て土地の交渉をしている。
二度目の時のヒボコの子孫はタジマノモリ
この時も物部イクメと出雲に奈良から追い出され、淡路島と琵琶湖方面に逃げたとの事。
故に記紀服属で、新羅を思わせる白木神社が琵琶湖方面に点在する
明治の際の神改めにおいて朝鮮系の神は圧迫され、ヒボコはウズメや猿田彦に代えられた。
今ではほぼ、出石神社でしか表立ってヒボコを祀ってない 糸島近辺で確実に言えるのは、阿部氏(尾張氏系統)と、ヒボコのみ。
安曇は影が薄いね。お気の毒だけどw 息長氏との関係
さらにコピペ
ヒボコが近江国でしばらく住んだという吾名邑に比定される阿那郷は、のちに息長(おきなが)村と呼ばれ、息長一族の本拠であった。ヒボコの従者たちが住んだという鏡谷の近くの御上神社は、天之御影命を祀るが、それは天目一箇命と同神であるとし、日本の鍛冶の祖神と称せられる。この天之御影命の娘は、息長水依比売
(おきながみずよりひめ)であるから、息長氏とも関係があることは疑えない、(中略)
この天御影が、大和宿禰に名を変えられた海部の先祖。
ヒボコはスサ族との習合で、力をつけていた様である。
そきて分家の息長氏が、中氏と結びついて政治を大きく揺らすことになる
それが田村王
尾張氏の一番古い神社は、二上山のふもとの笛吹神社。
紀元前に奈良入りした尾張氏は、葛城坐火雷神社を建てた。現在では笛吹神社とも言われている。
つまり尾張氏のほうが、出雲とは別に雷を帯びる神を奉じていた。
ヒボコ族なら、ヒボコの磯、尾張氏の雷を九州に引っ張ってこれる。 とこよ‐の‐くに【常世の国】
1 死者の行く永遠の世界。黄泉 (よみ) の国。
2 古代、海のかなたにあると考えられた不老不死の国。
だそうな >>831
阿波は銅鐸が埋められた所なんだから尾張氏や、加茂族が居たところだろ
宗教戦争に負けて青銅器を奪われる前に埋めただけ
邪馬台国の、一部ではあったんだろ
首都はないが 淡路島のごっさかいと遺跡だが、あそこは鍛治遺跡であり、のダタラなどの製鉄製鉄は見つかっていない
景初動乱の前の遺跡で、九州の鉄を持ってこれるのはあの時代はヒボコ族くらいのもの
もう一度ヤマトに攻撃したかったんだろうな
安曇は、どう考えても神功皇后の時代に力が増したとしか思えない
本当に最初から九州に居たのかすら怪しい 日矛のお宝に出石の刀だか何たらがあって、確か淡路島に飛んで行ってなかったか?
記紀でもヒボコの時代か、タジマノモリの時代かは分からないけど土地との関連性は仄めかされている
ヒボコはニギハヤヒが高天原から持ってきたとされる「沖津鏡」と「辺津鏡」を何故か持ってきてたりするぜ
この鏡は籠神社の社宝でもある
そして籠神社の祭神は天火明で、先代旧事本紀ではなんとニギハヤヒと同一神だと見做されているんだ
ニギハヤヒ、ヒボコ、天火明って似てるんだよ
天日槍(アメノヒボコ)だしね
名前に尊称(アメノ)が付いてる。高貴な人だったのだろう。
あと記紀はヒボコの記述に関して嘘付いてるよね。矮小化しようとしてる。
播磨国風土記では【神代】にヒボコが渡来してきて伊和大神と相争ったと書かれているんだぜ
記紀は垂仁期に来たとかあからさまにおかしな記述にしちゃった
もし神代以降、それも欠史八代以降にアメノヒボコが渡来したって記述信じるとおかしくなる
だって二代天皇の綏靖天皇から奈良時代末期まで、名前に「天(アマ、アメ)」冠する人物はこいつ一人しかいないんだから
こいつ一人だけだぞ
あとは天皇の天のみ >>846
記紀の崇神以前、応神以前は、神代と重複してるのではないかな?
実際の日本の古代史の話で参考になるのは応神以降。
応神の270年なら、奈良の王権は、出雲、吉備、近江、尾張を含み
瀬戸内海航路~関門海峡、下関が通り、ある程度成立してきている。
仁徳以降は記紀ではなくとも、倭の五王の中国系で成文化の有史記録がある。
この古代史にもっとも重要な期間であるところの
190~200年で、邪馬台国成立以降の、238年から247年について、
倭人伝は魏と筑紫地域21国の卑弥呼王権との外交の様子を記録している。
万世一系信仰の記紀が、古代外交記録に疎いのは、663年の敗戦で対馬国境を
日本の歴史的固有の領土と定めた、九州の国土編入への修正が有るから。
ちなみに、薩摩琉球なんて、幕末のパリ万博でも独立しちゃってるからねw
九州内に国境作れよw
何で、米国は沖縄返してくれたんだろう?
太平洋軍事の負担金の問題か?
米国に、先見性、あったわw
古代史に戻って、安曇族の話なら、倭人伝でも
朝鮮半島南部の、馬韓、辰韓が魏の直轄領になった以降も
安曇族が250年以降で、信州安曇野等、後進地域を開拓した訳だが
この、博多湾海神族は、663年の白村江出兵で失敗していて
信州安曇野の安曇族は、消えた安曇族として居なくなり、謎なのである。
九州は、物部や蘇我のような古参の古代氏族ではない、
百済や新羅王族同等の冷や飯組で左遷されるだけで
安曇野の事例も、倭人伝が正しく読めるなら謎じゃないんだけどね? >>843
ヒボコは元々大陸の秦国系の韓の国である辰韓の人間。
つまり大陸出身の系譜の韓国人なんだ。
もしかしたら、秦国が滅んだ後に半島に逃れたホアカリ饒速日の親族だったのかもしれない
ヒボコはコヤネとも関連があるらしいんだ。
コヤネは特に隠された神で、今でも卜部や中臣家には、コヤネの前の系図があるらしいが、一般には全く情報が出ていない 結局、我が国で土着の民族を蹴散らして居座ることのできる一族は、基本的に大陸出身の一族でしかないのかもしれないな。
朝鮮半島そのものも大陸に依存して存在し、我が国に朝貢し、人質まで出していたからな。
ヒボコがコヤネと関係があっても何ら不思議には感じない
逆に、大陸の出身者の拠点が本当にもあったからこそ、スサノオが朝鮮半島に寄り道した事が記紀に書かれたのかもしれない 先代旧事本紀では、ホアカリと饒速日が同一人物である事が書かれているが、もう一つ同一人物が隠されている。
まずおさらいだが、尾張氏や海部(海家)と、物部氏は腹違いの兄弟の同格の家という事。
海幸彦の正体も海家とベタな誰でも分かる隠し方をして隼人族を持ち出している事。
ホアカリと饒速日が二つの和名を持っていたという事だが、もう一つ作られた名前で彼に相当する人物が存在する。それがスサノオ。
スサノオは我が国の記紀から見たら保険の様な存在で、もし我が国の神武の系譜の先祖が大陸系とバレても問題がない様に「出雲の母系の先祖」として誤魔化して描かれている。
男系の社会の大陸から見たら我が国が渡来人に乗っ取られたという事なら当然に我が国を軽く扱うだろうからね。
当然に記紀には書かなかった。
それと、武内宿禰に関係する紀伊家を隠す目的にも使われた。
同一人物ホアカリの息子のカゴヤマの系譜を、村雲や海部などの尾張系と同系統である事を隠すことができたので重宝な役割だった。
大家姫はイソタケルの兄弟ではなく、出雲の石見の国出身の大年教の巫女だった。
イソタケルの代で、異母兄妹の物部の姫であるホヤ姫の系統が村雲や海部の系統になった。
それと同格の分家が紀伊家。大家姫系の系統になった。
これは景初動乱で武内宿禰が魏書に載ってしまったからやむなく同一人物を別人にして描く必要が出たのであろう。
幸いなことに、卑弥呼に見せかけたい神功皇后の代では武内宿禰の子孫である襲津彦が水軍のトップだったから、全員武内宿禰にして誤魔化せた。 @ホアカリ→Aカゴヤマ(尾張家)→B村雲(神武朝、ヒコイマスまで)
@饒速日→A彦ホホデミ→物部氏
@須佐男→A五十猛→タカクラジ→珍彦→初代武内宿禰
@とAは同一人物
大和宿禰に変えられたアマノ御影が海部の先祖
空白の150年間の圧縮は、単に人をけしたのではなく、複数の和名を別人だったことにするなどして、我が国側から見てどんな細工がしてあるのかは分かる様に書かれている
誤魔化す相手はあくまで大陸であったので、ある程度の裁量は記紀のの編纂者に認められていた それ故に、神武東征に関しても攻め込むその前から居た一族が書かれている訳だ。
二世紀の大彦は長髄彦と名を変えられてニニギに切られる話に変えられている。
本来の名は、中曽大根彦。これが長髄彦と大彦に分けられた
イニエこと崇神は、名を変えてニニギにされ、神代に持っていかれた事で、物部や尾張氏の先祖にされ、解釈の循環が発生し、矛盾が解消できなくなる効果があった。
イニエの後妻である宇佐豊玉姫はそのまま神代に同じく持っていかれ、物部と、宇佐家の別人の息子をウガヤフキアエズ彦ナギサタケにして、日向三代のあの系図に隠した。
神代のヒボコは明らかに辰韓時代の人物だがイニエの子供が垂仁であったため四代ほどの系譜が消され、魏書に載ってしまったタジマノモリに近い渡来時期にされた
複数の旧家の伝承には、共通してニニギは一切登場しないのはこのためである。
倭国大乱期の出来事は単に起きた事を隠す様な稚拙なことではなく、大王系譜はそのままに、出来事だけ圧縮している事に特徴がある 筑紫は昔は築秦国と言い、国名にも秦韓(辰韓)とも共通点がある
そして、神功皇后が、朝鮮半島から牛頭を持ち帰ったことにより、大陸系の秦国と、半島の秦国が曖昧になり、混同が始まった
未だに蘇我氏が朝鮮渡来とか思ってる人がいるのはその混同が主なものであるが、後天的に本来は出雲臣家の親戚を表す臣のカバネを渡来系の外様にしないと辻褄が合わなくなってしまった。
さらには鎌足が中臣家に養子縁組したことにより、我が国が朝鮮渡来の藤原に乗っ取られたと思い込む人も出始めた
昔の我が国は生まれで全てが決まる国で氏素性は厳格に管理されてきた
新撰姓氏録や、尊卑分脈があるのもそれが原因
物部氏の政治的センスの話もあるが、生まれが全てと言っても過言ではないほど血筋は重んじられた 倭国大乱期にヤマトに嵌め込んだのはウマシマジ
景初動乱でヤマトにをボコボコにしたのは物部イクメ(垂仁)
そして、ニニギより前に居た事が書かれているのが欠史八代の初代の村雲
この三人の人物に、架空の人物が当てがわれた事により、認識の循環と矛盾が解消できない構図が生まれた
たった150年間の歴史を消しただけなのにとんでもない混乱をきたしているのが我が国の現状なのである
この矛盾と認識の循環により、神武は居た、神武は居なかったの二つの理論が同時に成立する事態になった。
しかし、系図状の架空の神武である村雲は東征していないので、矛盾が発生し、答えに行きつかない
ウマシマジは、二度あった東征のうち倭国大乱期の架空の神武であるが、神代のニニギと400年も離れており、大彦(長髄彦)と戦えるはずかないと矛盾を抱えたまま答えが出ない存在に
最後が崇神であるが、どう考えても後年の人物なのに、諡号の事もあり目眩しに会い、消された150年の人物なので実在の把握が一番困難である 村雲、ウマシマジ、崇神(ニニギ)の3人に架空の神武が当てがわれている
まずは、ニニギを開花の後ろ。ヒコイマスの代に持ってくることから始めると、欠史がかなり無くなる 尾張家のイソタケル(カゴヤマ)が、自称九州説の伊都チョンのコア人物と言うのだから毎回笑わせてもらってるw
尾張の親戚である安曇を持ち出すのならその理論はヤマトの尾張家の話であって、九州説にはなり得ない
あの嘘つきの最大のミスは、安曇が海部の本家だと抜かした段階で決まっていた事になる
分家だろうが本家だろうがそれは尾張家のな話であるという事に変わりはないのだ そして、中臣(雷大臣)も、ヒボコ族(五十迹手)も同一人物と、阿波と全く同じ事をして何か戯言を吠えてるわけだ
これが笑わずにいられようかww >>845
シカさんね、もしコヤネが尾張やヒボコ、千家のホヒと同じ先祖なら。図らずもあなたの言ってることはかなりあってる事になるww
ま、朝鮮半島ではなく、大陸の子孫て事にはなるけど、かなり正鵠を得た視点だったという事になる
しかしコヤネだけは卜部さんの関係者も教えてくれない 魏書は倭国大乱期から景初動乱までの話だから、神功皇后奈良時代の何とか磯良とは全く無関係の時代の話
そして伊都は、風土記にもある様にヒボコゆかりの土地
安曇など要素として掠ってもいない歴史書な訳だ そもそも尾張氏の安曇が鉄を単独で半島から輸入できてたつーなら、畿内ヤマトはボコボコにされとらんわww >>859
誤字訂正
携帯だと予測変換で変なのが入るよな
神功皇后奈良時代
→神功皇后時代 >>825
武内襲津彦は九州の西都原にいた水軍の長。
何言ってんだかw 倭人伝時代以前に、辰韓から日本に渡海できる奴なんて居たのか?
縄文人てか倭人でも200BCで青銅移入の為のルートが必要で半島にも足を付けてたけど?
渡海が可能だった可能性のある、中国内陸系の公孫氏も帯方郡以南には、
進出できてないし、ヒボコが辰韓の渡来王なら、倭人伝以降なのでは?
そもそも、辰韓王は倭人だったりもする訳で・・・
313年の韓四郡撤退以降なんじゃなのかな?
でも、記紀の歴史は500以前まで、ファンタジーの神代で議論も無意味かも知らんけどw
それって、牛馬移入や鉄の国内生産化で
日本の富国強兵政策、最前線の半島進出期なんだけど?
人質じゃなくて渡来王なの? 馬韓や辰韓系の百済新羅王とか
博多湾の卑弥呼系安曇属が纏向に昇殿なんて出来たのか?
考古学的に纏向王権には半島九州が、まだ混ざってないのでは? >>863
〉倭人伝時代以前に、辰韓から日本に渡海できる奴なんて居たのか?
魏書には朝貢レベルの船はあった事が書かれてるから半島にあったとしてもおかしくはないと思うが 壱岐対馬では時々穀物を買いに行くくらい
船通行は容易だったから、
チャーターできそうではある。 >>865
>壱岐対馬では時々穀物を買いに行くくらい
>船通行は容易だったから
壱岐対馬それぞれの島内を沿岸航行な。 わははははは @阿波 >>864
239年までの公孫氏3代での独立状態と高句麗の台頭で
漢代の倭人朝貢者有り、以降、馬韓や辰韓も朝貢は無かった。
ってのが、東夷伝ではないのかな?
公孫氏は魏ではなく呉と通じた懸念で滅ぼされているわけで。
序文より抜粋↓
而公孫淵 仍父祖三世 有遼東
天子 爲其?域 委以海外之事 遂隔斷 東夷 不得通
其後 高句麗背叛 又 遣偏師 致討窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭 東臨大海
長老? 有異面之人 近日之所出 遂周觀 諸國
采其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀
雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
大意=魏時の2回の遣使の説明によって
いまだ知られざる、東夷、韓、倭人国について
わずかながらでも知ることができ、この東夷伝において
未来に向けて記録できたことは素晴らしい。
これが三国志における倭人伝の意義である。
この歴史背景を基に、倭人伝が正しく読まれるべきなのである。 >>863
〉ヒボコが辰韓の渡来王なら、倭人伝以降なのでは?
そもそも、辰韓王は倭人だったりもする訳で・・・
辰韓は秦国の万里の長城の賦役に対して投げ出したりとかの話が出る様で、秦国に滅ぼされたり、その後のどさくさで逃げ込む地域だったのではないでしょうか?
それと、半島の青銅器の普及年数は我が国よりとても古く、紀元前三世紀の徐福時代より古い
彼らが倭人なら、それより早くに我が国の青銅器の国産化が始まっていなければならない
つまり、我が国側の権力とはちょくせつかんけいはなく、後年の渡来者という方が正しい様な気がする
まあ、出土してないだけだという話もあるが、我が国の青銅器は徐福時代のあと、程なくして国産化が始まっていると言うのが通説
また、ヒボコは当時の王の情けで、未子相続のために半島から追い出されたお兄さんだったらしいよ >>868
漢四郡や高句麗の入らなかった半島南部に関してだけど、
辰韓も馬韓もなんだけど、日本の縄文人に当たる? で、あろう
新石器人以降の原住民ってのが居ないんだよね。
秦の逃避遺民、箕氏や衛氏の遺民。
四郡でも満洲側には、土着で馬賊ではない
農耕系の穢狛族がいたらしいけど?
半島に遺跡は有る新石器人、原住民に関するなんの記録も無く
秦漢の中華戦乱期遺民が、一から開拓した国ということなのである。
まあ、倭人も青銅移入の200BC程度から
寄港地など港湾やその必要環境に関しては
ゼロから開拓していたようだが?
辰韓側から日本に渡航するなら、開拓投資が必要で
港湾に遺跡や記録が残らないなんて可能性は少ないんじゃないのかな?
記紀のファンタジー記録には、この現実味が一切ない。
秦、箕氏、衛氏の半島移民には、アメリカ大陸の開拓移民時代に、
インディアンの抵抗が、全くなかったのと同じ状況みたいなのだが、
良いのかそれで? 神話じゃなくて、安重根とか山崎だっけ?
ヒボコって渡来人が居た、って記紀信仰ファンタジーだけじゃ、
日本の古代史がつまんないだろw
ご都合主義の歴史じゃなくて
ホントに死んだ人が作ったのが歴史なんだけど? >>869
〉まあ、倭人も青銅移入の200BC程度から
寄港地など港湾やその必要環境に関しては
ゼロから開拓していたようだが?
何でしたっけ、九州の日本で一番古い鉄器(鉄オノ)って、青銅器渡来時期より前ではありませんでしたっけ?
あれは運ばれてきた鉄でしたよね
あと、水稲の菜畑遺跡の関係で、昔習った時期より、弥生時代の区分は昔に遡っていたと記憶しています。
構造船が我が国にもたらさせる前、BC200より前から輸入みたいのはあったと言うのが定説かと思います >>845
〉播磨国風土記では【神代】にヒボコが渡来してきて伊和大神と相争ったと書かれているんだぜ
伊和大神は、ヒボコが播磨侵攻をした際に元からいた出雲族の事を表してる様ですね。
その後、領土欲に刺激された尾張家の(大王家)のフトニが播磨から出雲まで進行
大彦はクニオシヒトの別の奥さんの子供でフトニと同じ頃の人物だったらしい
大彦の勢力によりフトニはヤマトに帰れなくなり、さらに出雲領を侵食し吉備国を建国
妻木晩田遺跡は、出雲と吉備勢の戦闘のあった場所らしいです。
故に未だに陣を張った山は孝霊山になっています
戦後処理として出雲西部の王家の青銅器を差し出し、手打ちになりましたが、その銅を鋳溶かして作り直されたのが平型銅剣
瀬戸内海と、四国の中央構造線北部のエリアだったそうです。
大彦は160年代のウマシマジの熊野ルートの東征により敗北し、183年には琵琶湖方面に後退。
その頃に突如、巻向に特徴的な土器が出現します。巻向一類は180年代の炭素分析になっていたと記憶しています。
その際に、大王家に対抗心を、持っていた賀茂氏の分家の太田太根彦は、熊野勢を自ら引き入れ、記紀では隠されましたが二代に渡り実質のヤマトの王になったそうです。
記紀で隠された事により、奈良から追い出された賀茂氏の本家筋、タテツノミが八咫烏に変えられましたが、山代の場所に明らかに追いやられているのに誰しもがタテツノミが八咫烏にされた事に疑いを持ちません。
あの神社の位置は明らかに追いやられている場所です 太田太根彦のお姉さんがモモソヒメだったそうです。
当時の三輪山の巫女さんは世襲で、出雲の血が入った叢雲の系譜か、加茂氏の姫巫女しか斎王になれなかったそうです。
やまとトビももそひめは、二人の人物が合わさった名前で、二度の物部の東征が記紀により圧縮され一度にされた事により作られた名前で、トビ家のモモソヒメと、二回目の東征の垂仁の娘、ヤマト姫が一つになった名前です。
戦乱の収束にモモソヒメが活躍した事により、姫巫女の権威は上昇
女性の斎王を持たなかった物部勢は、前政権に物部の姫を輿入れさせるにとどまり、東征は事実上の失敗に追い込まれたそうです。
約半数の物部勢が九州に戻り、その多くは西都原に住んだそうです。
数十年ののち、ここから九州宇佐の卑弥呼と、イニエとの間の子であるイクメが軍隊を出します。
宇佐氏古伝では、神武の息子が自分の所の出身と書いていますが、これは二度目の東征、所謂景初動乱の際のイクメの異母兄弟が、豊彦であったからです。
後に宇佐豊玉姫とイニエの息子である豊彦の子孫は神功皇后により上州の上毛野家から密かに呼び寄せられ、応神として即位します。
故に、応神の父の系図、イニエの事崇神を架空の神武とする記紀に服属する型式を逆手に取り、神武の息子の系図が応神だよと書いているわけです
宇佐氏から見れば、イクメは奈良で同盟軍を裏切り、豊彦を奈良から追い出し、政権を独り占めした裏切り者でした。 豊彦の妹に豊姫が居ましたが、彼女がトヨになります。
彼女は最終的にイクメの放った刺客により椿大社で暗殺されます
きっと卑弥呼の金印が目当てだったのでしょう。
豊彦は、豊来入彦、豊鋤入彦
豊姫は、豊来入姫、豊鋤入姫
椿大社で亡くなった事により、記紀では最終的にウズメにされ隠されました。
入彦、入姫とつく人物たちが景初動乱での主役の人たちです。
魏書のヤシャクは、矢坂入彦
魏書のツシギュウリは、十千根入彦
延喜式には、本来の高天原と、口伝を残す9の旧家について書かれていますが、その一つが稗田流
つまり、ウズメの子孫を名乗る一族の口伝でした。
その口伝が和邇氏の一部の小野家で管理されており、綾部人麿の母親が大海人皇子の乳母の仕事が亡くなって失職してから紹介されたのが、稗田流の語り部の仕事でした
古事記のベースは、稗田流なんだそうです。
綾部家から小野家の親戚、柿本家に養子入りして柿本人麻呂になったそうです
その際には海部家が石見の実家まで迎えにきたそうですよ
日本を代表する瑞穂の国の名称ですが、元々は人麿の石見の実家の近くの地籍名だったそうです。
豊葦原中国。これが本来の高天原で、今でも延喜式の大祓に残っています 記紀編纂に関しては、高天原は二つの候補があった様です。
最初は三諸山。今でも福井の阿部氏の疎開先である土御門史跡には三諸の意味が看板にかかれています。神々の住む森という意味だそうです。
次は、高尾張邑の、現在の高天彦神社の上のあたり。今では教育委員会の石塔が建てられ、高天原参考地と刻まれています
それが最終的に九州高千穂に代えられ、神武が物部なのかもという書き方に変えられました
これは記紀編纂時の大連、左大臣が石上であったからと思われます。
中臣と、息長に配慮する必要のあった記紀なので、同じ神道派の石上は、味方にしておかねばならなかったのでしょう
当時の政敵は仏教と、北陸蘇我氏、つまり三国国造家や継体の勢力でした 安曇は男系が尾張氏なので、どう考えても古くからは九州には存在できませんし、そもそもが同一人物である五十猛(カゴヤマ)のうち、紀伊家とは違い、カゴヤマの方を祀る一族です
五十猛と、安曇は、宗教的に違います。
これは同じ男系尾張氏の、大彦系の神社の新潟弥彦神社でカゴヤマを祀ることからも分かります。
弥彦は、物部系の神社という説もありますが、大彦は倭国大乱期に物部と争った人物なので本来あり得ないのです
弥彦神社の社家は高橋家で、大彦系です 一度目の物部氏による東征が失敗した事は記紀に書かれています。
それがクニクル。
クニクルは物部氏から嫁さんを突然もらっています。
つまり物部氏は三輪山の斎王の職を賀茂氏(太田氏)から奪えなかった事が伺えます。
ま、引き入れてもらったから、借りができた事により奪えなかったと考えるべきかと
二度目の東征は、開化の息子のヒコイマスの代。
ここで垂仁に取って代わられました。
故に九州から出たことがないはずのイニエの諡号が入彦になっています。
大王で入彦なってる最初の人物が彼ではなかったでしょうか? 垂仁は入彦になって居ながら同時代の日矛系のタジマノモリが入彦になって居ないのはやはり後年の渡来系だったからかもしれませんね。
出雲と吉備国を滅ぼして暫定ながら同一を成し遂げたのは、物部、豊国(宇佐氏)、タジマノモリの連合でした スペインの古文書で分かった戦国日本の真の姿。
1942年に出版された『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』。GHQが焚書にした書籍が復刻。
世界制覇を目指した中世スペイン王国は、南北アメリカ大陸の侵略、植民地化に続いて、
アジア覇権の足がかりとしてフィリピンを侵略し植民地化に成功。
スペインはそのフィリピンから東南アジア、支那大陸、日本列島への侵略、植民地化を目指していた。
そこに立ちはだかったのが、戦国の世を制した豊臣秀吉、徳川家康の両雄であった。
戦国日本の真の姿がスペイン古文書と、それを分析した本書によって明らかにされる!
https://japanhistory.jp/kjburn07/adw/lp01/?gclid=EAIaIQobChMIzuutqq6G-gIVk4bpBR0qFwCkEAEYASAAEgIc9PD_BwE 431 キキドキちゃん(奈良県) [ヌコ] 2022/10/06(木) 07:46:58.20 ID:YS7MwXOJ0
もともと九州説は変わり者の学者5%ぐらいしか付いてない
それも民間の議論の盛り上がりのために、無理やり九州説に有利な情報を集めただけ
学会でもプロレスをやってるだけなんだよね
まあ忘れ去られたら自分たちの研究の予算も降りてこない訳で誰かが九州説に付かなければならない 邪馬台国ってジャワ島にあったんじゃないの?
倭人伝に書かれてる植生とかジャワ島とそっくりよ
生野菜喰ってたとか、あそこ野菜いっぱい採れるじゃん >>880
野菜の部分も年齢の部分も伝聞という話もありますね あと、吉備とか出雲とか既に存在してるはずの勢力について
一切触れられてないのも不自然な話だよ 大体、邪馬台国論争の始まりは新井白石とか本居宣長とか江戸時代の学者たちだろ?
あいつらが東南アジアの国とか地域とかどの程度理解してたのか謎だろ
認識すらしてない可能性もあるよな >>882
>あと、吉備とか出雲とか既に存在してるはずの勢力について
「卑彌呼」の時代ではまだ、倭国の範疇でないから。
吉備とか出雲とかは、倭王武の時代まで待て。 @阿波 現代の畿内説学者なんか中文も読めないし方角の認識も無い >>882
平型銅剣は弥生後期、2〜3世紀。
倭国大乱期には、吉備の領域ができて居て畿内ヤマトは朝貢ルートが無かった時代。
日本海側は出雲と戦ったことにより同じくルートなし
倭国大乱期の熊野勢は吉備のエリアを避けて四国南を進軍。紀伊から上陸しようとしたら名草や珍彦なら軍庭やられて熊野からの山岳ルートで奈良入りしたらしい
景初動乱で、吉備国は8年に及ぶ戦いののち破れる。
その時に卑弥呼(宇佐津姫)死亡 船に関しては、我々が思う以上に技術は発達してたのかもしれない
〉2013年に滋賀県高島市の上御殿遺跡で出土した双環柄頭短剣は、中国華北や内モンゴルに分布するオルドス式銅剣に似ており、朝鮮半島での出土例は無いことから、中国から日本海ルートで流入した可能性がある[2]。 >>890
蔑称で祀るわけはないよな
普通はあり得ない >>890
卑弥呼は250年以前の筑紫21国が共立していた領主。
なんだから、伊勢神道に集積されて豪族の氏姓や祖神としてファンタジーで
指定される500年以前に、卑弥呼が神格化されることはは有り得ない。
卑弥呼の鬼道、諏訪神のような、古代神道や自然神信仰では、
地域における山や石の座等、自然神の拠り所は有っても、
卑弥呼自身のような憑依体や司祭、宮司である大祝り
が、神格化されることは無い。 >>889
考古学的に畿内説当然、
ってのは、卑弥呼ではなく、倭王がどこに居たか?
なのでは?
この証拠になる物証は、金印、所属遣使王の、銀印なわけだけど、
銀印を与えられた、という事は所領を持つ奴国王みたいな王なんでしょ?
卑弥呼は女王で、軍事主導権がアヤシイ。
だから既に魏の将軍である難升米に檄で、魏の正規軍としての黄幢を与えた。
筑紫王だった卑弥呼ってのは、
戦国王で言うと、諏訪氏にも及ばないんじゃないのかな?
まあ、諏訪氏も倭王? 武田と戦えた戦国王ではある。 徳川以前の日本の王
と言うのが、どの程度のものか?
ってのが、倭人伝における倭王または後の天皇とは何か?
であって、新井白石や本居宣長は、漢文は読めたけど
記紀に異を唱えるとか、彼らの信仰上不可能だったんじゃないのかね?
信仰に支配されない現代学者が
何故、記紀が成立しない倭人伝九州説を否定する?
記紀は修正されねばならない。 と言うか、日本の古代史は、
畿内説の文盲低脳学者じゃなきゃ、正しく全面改訂できるんだよ? 卑弥呼の朝貢は、吉備国で畿内ヤマトの朝貢ルートが寸断されて居た時期に、不自然にヤマトと名乗る連中によって行われている。
それは平型銅剣、つまり物部とも畿内ヤマトとも違う勢力によって説明が為されると考えられる。
九州勢が朝貢し、畿内ヤマトを狗奴国と偽って始まったのが景初の動乱
九州から大和への攻撃なので、既存の九州説、既存の畿内説は全く意味がない
局地的に終わった戦闘ではない 我々が知りたがっている邪馬台国は、国としての実態がない東征軍の事。
都万から筑紫に住んでた物部と宇佐、伊都のヒボコ族が始めた戦争の九州側勢力の事
それを大陸の魏国はヤマトと名乗られた為に昔から朝貢している畿内ヤマトと思い込んだだけの話
景初時代は、吉備国の存在で本物のヤマトが朝貢できなかった時代 流石にポッと出の氏素性もはっきりしない国を承認して王とするのは不自然
過去に何らかの実績があり、支配を過去に大陸に示している国でなければいきなり倭王の金印など渡さんだろう
金印が早い者勝ちなどというのなら話は別だが >>899
>流石にポッと出の氏素性もはっきりしない国を承認して王とするのは不自然
と思うのは、トンデモだから。
倭国(阿波)王権は、大陸と頻繁に交流している。
倭国(阿波)を承認して王とするのは、至って自然なこと。 @阿波 >>894 〉卑弥呼は女王で、軍事主導権がアヤシイ。 だから既に魏の将軍である難升米に檄で、魏の正規軍としての黄幢を与えた。 二度目の東征は、前回の失敗を教訓に、斎王として、月の女神を奉じる宇佐の姫巫女を一緒に畿内ヤマトに持ち込む予定で開始されたらしい それで三輪山の太陽の女神に対抗しようと。 つまり、この時点で宗教的に違いがあり、局地的戦闘ではない事にも繋がるわけだ。 >>882
存在していないからじゃないの?
遺跡も現出雲より東側や松江に分布する。 >>882
魏の役人が跡をついて行ったたけなのと、戦ってる相手が吉備なのかどうか、外国人にはそもそも分からないのでは?
狗奴国と交戦中とオウキに報告したのは、たいしゅうえつさんだけだし。 >>894
築秦国の王はイニエ(崇神)。連合相手の豊国の斎王が宇佐の豊玉姫(宇佐津姫)だったそうな
どっちみち本名じゃないだろうけど >>892
諏訪の大祝は、現人神ではなかったっけ? 尾張氏が九州に移転したとかいう話が伺えるものは存在しないが、尾張氏系統の多臣家は確かに九州に存在する。
その際に安曇が来て居たという設定が必要なわけだが
今のところ真正武内文書以外には拠点を移動した形跡が窺えるものはない
第4代のスキトモは、ヤマトから九州に拠点を移したとある(勢力的に負けた)
そうすると、九州にいる時に九州ヤマトが朝貢している事になるし、スイショウの朝貢も、ヤマト王としての承認を求めてという事にもなるし、八井耳以外の一族がいてもおかしくないし、「我は忘れじスメラミコト」の歌にもなるし、亀岡と日向に都万地籍があってもおかしくなくなる
東征は失地回復の戦いにもなる
しかし、そうなると銅鐸はどうなったのか、銅剣の多様性や、鏡などの宗教の話がまったく辻褄が合わなくなる
大王家系の尾張氏である大彦は銅鐸祭祀であり、銅鏡の物部とは仲が悪かったからね いずれにせよ尾張市の安曇氏が九州に古くから移転して居たという事で、神功皇后より前に根を張るには何らかの大きな動きが前提となると考えられる 魏から卑弥呼への物証になるはずの
100枚の漢魏の銅鏡ってのが、物証として全く役に立たない
ってのは面白い現象だけど
九州では、銅鏡なんて作れなくて、卑弥呼が、
銅が取れてない時代の魏の皇帝におねだりしたモンが、
240年以降に本州に持ち込んだら
銅鐸製造文化のあった、本州は複製できた、ってことだろ?
そもそも、原料も本州は釜山方面から輸送してたわけで
魏が、馬韓辰韓制圧してたら、都合悪かったはずなんだけど?
ほかに、将軍たちの銀印位、初期の九州古墳から出そうなもんだけど・・・
一応、五尺刀は出てるし、曹家の鉄鏡も日田から出てるよね。 >>905
記紀以降、神代で現人神ってなんだ? 天皇なのか?
世襲だけど諏訪神が憑依する人間の家系だったのでは?
諏訪神ってのは、記紀で伊勢神道に取り込まれてるけど
諏訪は、弥生とか平安以降でも、米は作れない高冷地なので
採集、狩猟文化の為の、縄文信仰が遅くまで残っていた。
諏訪縄文人に弥生遺伝子が融合したなら
水稲耕作や国家統一的通商は関係ない。
縄文の原始共産制と言うのは、
近隣地域の領主や豪族、家族が土地、資産を所有するのではなく、
採集物の共有によって成立するし、地域部落で、
子供をも共有育成していたのではないのかな?
古代史を語る上で、今、縄文から弥生のような
民族遺伝子の話は非常に重要なわけだが
縄文人部落の発展の基本では、近親相姦が永遠に続くわけがない。
ってことだろ。
結果は、現代日本人なんだから
逆算できんじゃないのかね? >>909
〉諏訪神ってのは、記紀で伊勢神道に取り込まれてるけど
諏訪は、弥生とか平安以降でも、米は作れない高冷地なので
採集、狩猟文化の為の、縄文信仰が遅くまで残っていた。
稲は出来たらしいがですよ
元々、伊那谷って言われてるくらいですから
確か蘇我稲目も領地持ってたりとか、物部の関連も長野に縁が強いんですよ
水稲かオカボかは今は分かりませんが、ミナカタが持ってきたという伝承があります >>812
神功皇后が四世紀であるという考古学的根拠は無い
デマを書き写してもデマでしかないぞ負け犬w >>813
>こっちは普通の一般検索結果を貼り付けているぞ?
完全一致で検索しなきゃ関係無いサイトがアホほど引っかかって何も確認にならないわけだが
実際お前が貼った検索結果に辰韓のヒボコなんて言ってるサイトは無かったしな
お前のバカさ加減が笑いの種になっただけだぞw >>814
>イヤイヤ、完全一致検索したら辰韓ヒボコはこのスレッドしか出ないから嘘って言ってたよな?
実際その通りだったわけだが
お前は現実逃避して泣きわめくだけだったよな
実に惨めで笑えたぞ >>815
>中臣家は中氏。だから各地の拠点が那珂郡になるのに。
また根拠の無いデマだな
お前はいつもそうやって現実から逃げ続けるだけ
典型的な負け犬だ >>816
>播磨国風土記に「天日槍は伊都志に在しき。」とあり「伊都志」は「いつし(出石)」とされている。
と
>伊都は後年のナマリ。
の間にはなんの関連性も根拠も存在しないわけだが
やっぱりいつもの口からデマカセだったことを自白してるぞお前 >>817
>ヒボコが日本人だったなんて話ww 傑作だなw独自すぎるw
それはお前の頭が悪いからそう思うだけ
新羅王子を自称していたと記録されているのにその時代にはまだ新羅が存在しないのだから
ヒボコのプロフィールは虚偽だということ
その時点でヒボコが半島出身者であると信じる理由は最早存在しない
伊都国のあった糸島の出土品を見ると明らかに海洋民の文化であり半島系でないのは明白だ
ヒボコが来たのが糸島だというなら考古学的にはヒボコは倭人であったと考えるしか無い
結局物証には敵わないんだよ猿 >>818
>>811でとっくに論破されてるぞモンキーくん >>819
> 342 :名無しさん@1周年 :2019/09/10(火) 18:29:00.83 ID:yjDSp0sY0
> >>321
> >>300のとおり、オオミワはもともと筑後山門にあった地名
>
> 大倭氏の祖である宇豆毘古は尾張氏と同族で、安曇氏と同祖氏族になる
> だから尾張氏も連姓だし、倭氏で出世した人も連姓になった
> http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png
>
> https://ja.wikipedia.org/wiki/倭国造
> >倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
> >天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
> >一般に綿積豊玉彦の孫とされ、神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる、海人族の一族。 >>820
相変わらず根拠のない口からデマカセを並べるだけか
芸のないモンキーだな >>821
>神武の前の皇室wwの頃から臣家だったのかww
意味不明過ぎる
日本語で書け
>安曇はお前に言わせると伊都王家じゃなかったのか?ww
伊都国には王がいるが女王に従属していると魏志倭人伝に書いてあるだろう
そんな基本の基本まで忘れたのかこの痴呆はw >>822
自分の1700年前の先祖がどんな人だったかなんて分からないのが普通だぞ負け犬w
伝わっていなければおかしいと思うお前の感性が狂っているだけ >>823
例によって根拠の無い口からデマカセを並べて逃げるだけかw
いつもの負け犬だな
>しっかし、中臣家連って確かに一般に言われてるけど、臣の字が読めないらしいな
臣の字が氏族名に入っているから臣姓に違いないニダ!
と自信満々で臣姓だと言い張っていたら連姓であることを指摘され
今頃確認したら俺の言う通りだったんで大慌てかw
惨めな負け犬よのうw >>827
谷川健一氏は民俗学者であって歴史研究家じゃないんだが
そもそもツヌガアラシトと同一人物なら神代ではあり得ないぞw
自分で書いた>>834と矛盾してるなモンキーくんw >>827
>基本的には伊都と安曇は全く関係がない
>伊都と関係があるのは基本的にヒボコ
だから俺はヒボコの正体が五十迹手の先代の伊都国王(=イソタケル)だと言ってるわけだが
いつになったらこのモンキーは日本語を理解できるようになるのだろうか? >>829
またいつもの口からデマカセかよ
>大陸渡来人のホヒ族の千家は、天孫でありながら、富家の許可で臣姓名を後年に名乗っている
カバネは天皇から貰うものであって富家の許可なんぞで名乗れるもんじゃねえよアホ
もう本当に基礎の基礎からダメだなこいつは >>833
そもそもがカゴヤマは五十猛の父親であってお前の認識は間違い
五十猛=射楯の大神として記録されているのは息子のムラクモ=アメノイタテ
行くも何も元々九州人
スサノオの神話に記されている通り生国九州を追放されたあとで日本海から上陸して紀伊方面に移動しただけ
途中で経由する近江にイカトミを祖とする伊香氏がいたりするのはスサノオの正体が雷大臣であることを裏付けている >>911
よっ伊都チョン
お前の考古学は単なる思い込みの事をそう言うのだろう?w >>912
〉完全一致で検索しなきゃ関係無いサイトがアホほど引っかかって何も確認にならないわけだが
だから俺もお前が吠えたように完全一致検索しただけの話だろ?
お前の嘘ついという基準にお前自身が引っかかってるから面白いんじゃないかww
負け犬乙ww >>915
何の関連もないのは五十迹手と雷大臣のことだろww
肝心の根拠が思い込みしかねぇだろw >>916
〉新羅王子を自称していたと記録されているのにその時代にはまだ新羅が存在しないのだから
ヒボコのプロフィールは虚偽だということ
その時点でヒボコが半島出身者であると信じる理由は最早存在しない
www神功皇后を卑弥呼に見せかけ、倭国大乱期から景初までの神功皇后の直前までをかくすんだから、女系の先祖のヒボコを設定としていじくるのは当然だろw
嘘をつくにしても過去の編纂者はお前よりまともな嘘のつき方をしただけの話 >>835
上でも書いたが垂仁期のツヌガアラシトと神代のヒボコが同一人物なら
俺がいつも言っているように神代は人代の出来事を神話調にしてもう一度書いているだけということになるんだが
寄せてくるんじゃねえよ気持ち悪いw >>921
〉自分の1700年前の先祖がどんな人だったかなんて分からないのが普通だぞ負け犬w
だよなあ、お前のような嘘つきがいるくらいだもんなぁw
今度宮司さんに聴きに行ってくるわw
お前の大好きな安曇氏を嘘つき呼ばわりしてろやw
この時点で予告ホールムランだもんなww >>838
>この天御影が、大和宿禰に名を変えられた海部の先祖。
>>15をよく読んでみろ
雷大臣の息子がヤマト大臣だと書いてあるだろw
やっぱり海部は安曇の分家だな
自爆おつw
>つまり尾張氏のほうが、出雲とは別に雷を帯びる神を奉じていた。
そりゃ雷大臣の影響だなw
なにせ雷大臣ことスサノオが五十猛と共に上陸した島根の五十猛町にはかつて霹靂神社があって別雷命が祀られていたからな
なんだお前、俺の説を補強するために頑張ってコピペしてるのかw >>924
五十迹手は、記紀によれば仲哀天皇8年筑紫に行幸した天皇をでむかえ,伊蘇志(いそし)の名をあたえられた。それがなまって伊覩(いと)(伊都)になったとつた、となっているよな?
仲哀だぜ?www
嘘つくにしてももっと古い時代の話をしろよww
神功皇后期ww傑作だわww
これで伊都王家にどう繋がるのかw順番があべこべww >>841
>安曇は、どう考えても神功皇后の時代に力が増したとしか思えない
どう考えても、ではなく何も考えてないんだよお前はw
少しは物を考える癖をつけろよモンキーくん >>925
〉またいつもの口からデマカセかよ
天孫であるアメノホヒが臣家なってる理由すらお前には分からないらしいw
お前に言わせると天孫なのに後で外様の臣姓になってるわけだから自分でついた嘘の伏線すら破綻してるw
さすがは伊都チョンww >>917
完全一致検索で出ない事には変わりませんので負け犬乙ですなww >>918
宇豆毘古は五十猛を奉じる紀伊家の人間だから男系尾張氏なんだから親戚になるのは当然だろ
お前反論になってねぇぞ?ww >>925
〉カバネは天皇から貰うものであって富家の許可なんぞで名乗れるもんじゃねえよアホ
wwww
思い込みでホラを吹く証拠乙ww
天皇なんて昔はいねぇよw
千家が勝手に出雲臣家を名乗った事は普通にその辺でコトバンクにも出てる
記紀成立後に臣姓を名乗り始めている
千家が勝手に作った出雲風土記(本物は処分されている)に、神門臣家が出てくる。
千家の前に別系統の臣家があった事は明らか
天皇陛下に貰っちゃったんでちゅか?w
しゅごいでちゅねーww
ま、神戸家と、富家が本来の臣家だから、後年に名乗った千家を入れれば本当は3系等なんだがな
コトバンクには千家が勝手に名乗り始めたように書いてあるが少なくとも記紀成立以降とは書いてあるな
平気で嘘をつくのはやめた方がいいぞ?伊都チョンw >>916
〉ヒボコが来たのが糸島だというなら考古学的にはヒボコは倭人であったと考えるしか無い
お前のその安直な積み上げが考古学なんだろ?
それこそ自称考古学だわなww
お前の言い方が成り立つのなら、日本語がうまく使えないお前はやっぱり伊都チョンであり考古学的に明らか、となるだけの話ww >>926
〉そもそもがカゴヤマは五十猛の父親であってお前の認識は間違い
ww五十猛の父親はスサノオではなかったのか?
伊都チョンに阿波せると、カゴヤマがスサノオなのか?ww 大体、ヒボコが五十猛であるのなら、神床家は連になるはずだ
それが造姓になってる段階でもうおかしいだろww
ヒボコまで尾張氏になっとるwww馬鹿すぎるww >>933
〉スサノオが五十猛と共に上陸した島根の五十猛町にはかつて霹靂神社があって別雷命が祀られていたからな
なんだお前、俺の説を補強するために頑張ってコピペしてるのかw
五十猛町なんてものは存在しねえよw
お前参拝すらしてねぇだろ
霹靂神社は加茂系の神社
だから後年の神社。富家の分家が奈良に行き、トビから加茂族に変わってから里帰りしてできた神社で、三輪氏がヤマトから政変で流れてきたからできた神社
だからあそこら辺は太田市になってる。
太田太根彦の子孫が立てた神社
お前の吠えるヒボコも安曇も無関係
それも後年には五十猛神社に合祀されてる
宮司家やらその親戚はあそこら辺じゃ地元の名士でな、漁協のお偉いさんやら議員やら出してるよ
馬丸出しだな伊都チョンw しっかし、ヒボコが倭人で五十猛ってww
ヒボコは半島の辰韓の王族
五十猛は、大陸の出身だが王族でも何でもない人物
系図を見ても紀伊家や、海部、尾張氏とも比較しても代数が明らかに足りない後年の渡来人なのにww
息長家は月の信仰の家系だったけどいつのまにかアマテラス側にされとるww
まるで阿波ww そういや、五十猛が島根に上陸したとか言ってるが伊都チョンに言わせると伊都に上陸のはずではなかったのか?ww
そもそも同一論というのはそこの神社が後年に女系か男系かは分からんが結婚でもしたら同一視というのは出てくるわけで、後年の後付けだろ
単なる神社の由緒を考古学とか言っちゃうわけか?ww
八幡愚鈍だかもそうだが、何の根拠もない鎌倉時代の創作物だよな?
昔のことなんて覚えてられないんじゃなかったのか?お?ww 村雲を祀る神社は阿波にしかないから、邪馬台国は阿波のはずニダってのと、まるっきり同じ考え方だな伊都チョンww
阿波を大事にしてやれよ?自称考古学的にはお前とまったく同じ手法を使ってるからなw 紀元前に二上山のあの辺りに落ち着いた尾張氏
後年に呼ばれるようになった高尾張邑から取られて尾張氏と呼ばれるようなにったのに、いつのまにか九州に人にされとるw
そもそも後年の中臣家の雷大臣が、その前から雷神社を、やってたのに強引に結びつけるとはw
そもそもがフリで書いただけなのにこの食いつきっぷりが笑える
火雷神はカグツチなんだけどww
さらには尾張氏らしくカゴヤマを祀る
笛吹連の祖がカゴヤマ
だから笛吹神社と呼ばれている
これは渡来する前に、大陸でトウケンという石笛を吹いていた習慣から来ている。
五十猛居ないww典型的な尾張氏系統の神社
みっともないから後付けで背乗りするにしても神様を確認してウラとってからにしろよ伊都チョンw
お前はすぐにフェイクにひっかよなww
雷という字しか共通点ねぇだろww 厳密にいうと笛吹神社=火雷神社ではない
火雷神社は、笛吹神社の末社
火雷神社は後年の近くの集合相手と見られる神社で、葛木坐火雷神社になったのは明治以降ww
伊都チョンて、平気で嘘をつくよねーw 魏志倭人伝のスレで古事記・日本書紀の話ばかりアホなのか? >>949
記紀には魏書の引用があるだろ
アホなのか? 日本書紀巻九の神功皇后紀には、魏志倭人伝を割注として引用しているだろ 火雷神は後年に雷の神とも言われるようになったが、笛吹神社は、火の神として祀られているのが特徴
その辺で参照できる範囲の情報
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/葛木坐火雷神社
嘘つき対策にコピペ
火雷大神は、雷神とも言われるが、ここでは火の神として信仰されている。火雷神と同神である 霹靂神社
別雷=賀茂別雷命
https://genbu.net/saijin/kamowake.htm
つまり先代旧事本紀による地神本紀のところの尾張氏の習合相手、つまり事代主系の分家であるトビ家の第4代ミカヅチを子孫の加茂氏が奉斎している神社な訳だ
あの神社が海人系で分類されるのは相手の神である玉依姫。つまり母系で区別される場合くらいのもの
伊都チョンは、出雲もヒボコと五十猛の子孫と言いたいらしいww
益々阿波化が進んできたな、伊都チョンw >>953
神武東征も壬申の乱も大化の改新も、ぜ~んぶ倭国(阿波)での出来事。
7世紀末まで「阿波」の鮎喰川下流域に王都があった。
「阿波」北部には、鮎喰川下流域集落群の「矢野遺跡」や「庄・蔵本遺跡」
「阿波」南部には、那賀川下流域集落群の「加茂宮ノ前遺跡」「深瀬遺跡」 など、
「阿波」には、縄文時代から7世紀末までずっと続く、複合集落遺跡群が存在するが、
畿内や九州には、「阿波」のようにずっと続く王都たる複合集落遺跡群が存在しない。
勇気のある人は、異論が有ればいつでもどうぞ。 わははははは @阿波 >>954
よし、ヒボコは阿波の王とか言え。
そうすれば伊都チョンと君はマブダチだ ヤベww
五十猛町あったしwwこれは私がヤラかしてたわ
https://genbu.net/data/iwami/itakeru_title.htm
五十猛神社
霹靂神社が合祀された事が書いてある。 倭人伝を正しく読む為に最も重要な事。
倭王とされた筑紫王の卑弥呼の邪馬台国
と魏の国交は、247年で終っているのである。
魏はその後も継続して、三国志を制した。
しかし、東夷伝は
倭が245~6年の韓制圧の檄に参加しなかったので
和との国交は途絶えた。
卑弥呼の筑紫は、対魏防衛での
本州勢力との軍事同盟に参加したので
伊都の一大卒が成立している。
三国志と大和朝廷の成立は無関係。
大和朝廷の成立はこの三国志の250年時と言っても良く
以降、纏向の首都の成立や、古墳時代の富国強兵政策への転換が有る。
桃太郎と金太郎が同一人物で、かぐや姫を嫁にしたのはどっちか?
みたいな、どうでも良いことは歴史ではない。
そもそも宣伝しても、ソフトバンクは高天原に電波が届かない。
ファンタジーをいじるだけの記紀厨には無理なのだが、
日本の古代史での歴史の転換点が、倭人伝時代なのである。
スレ主が、記紀や伝承の真実、みたいな
梅のアラシのおまえら向けの派生スレは用意してなかったか?
アッチ池w >>957
その前にスレ主が自らルールを破ってんだからそっちにまず突っ込めよw
この自己矛盾が香ばしいんだろうがw >>957
スレ主の八幡愚鈍だかも後年の伝承を文字に書き起こしただけのものだろ 阿波の神社と同じで一番インチキ臭い神社の由緒を根拠としているのが五十迹手、五十猛、雷大臣、安曇磯良同一論
ポクチンの伝承は良い伝承ニダw
ルールは破ってないニダw 大陸と「阿波」が常態的に交流していたんだから、どうでもよい話。 わははははは @阿波 明治期に朝鮮の神は圧迫され、猿田彦やウズメに変えられるケースが多かったヒボコ
兵頭神社は西日本に多いけど基本的に朝鮮の神ではなく、大陸の蚩尤を祀る神社
アホ主に言わせると、朝鮮半島の倭国領域で大陸の蚩尤を祀って居たヒボコがスサノオだって主張になるのだがこの時点で頭がおかしいと思う
どう考えても倭人の神ではない ま、霹靂神社 と笛吹神社の関係、南の出雲の領域である鴨系三社の位置からも、カグツチ=火の神が雷を浴びるのは出雲系の加茂氏との集合の影響と考えるのが普通だよな
どの家でも母系と父系の両方の祖人を祀るだろ 白村江海戦で朝鮮半島投資利権の放棄、による国境の策定、
日本の古代からの歴史的領土主張の基本である国作り神話から、
万世一系の天皇制。
それ以前の古代神道と、氏姓や地名、領主の認定、制定による
伊勢神道創作以前の地神、自然神、氏神を統合する目的で
記紀が後付けの地名、氏姓でのファンタジーを日本の正史としたわけで
記紀のファンタジーや神社伝承が、こうだからああだこうだという議論は
桃太郎がかぐや姫と結婚したか否か、程度の話であって歴史じゃない。
記紀が、日本の古代史、歴史として機能するのは
倭の五王との同定可能な4~500年、雄略以降なのだが、
現実的には、隅田八幡神社 人物画像鏡 銘文
癸未年八月 日十大王年 男弟王 在 意柴沙加 宮 時
斯麻 念 長寿 遣 辟中 費直 穢人 今州利 二人等 取白上同 二百旱 作 此竟
意訳
503年8月 日本の大王位をヲホド(継体)が継承し押坂宮に在った時に、
百済候王、斯麻は、大王の時世の長寿を念じ、辟中の費直と穢人今州利を使いで送り
上質の銅二百旱で作った鏡を朝貢す。
によって、
雄略の後は、普通に継体天皇が即位しているわけで
記紀は、日本の古代史ではない。
もちろん600年アマタリシヒコ当時の推古天皇も記紀の創作である。
記紀基準でも、金石文などによる否定によってだが、
日本の古代史は語れると思うのだが?
てか、もう、考古学が付いて来ちゃってて見えてるだろ? >>961
阿波は日本海とも直接交流できないだろ?
200年以前から、開いていない瀬戸内海航路?
太平洋航路で、土佐、薩摩、熊本、長崎、五島が、阿波傘下だったのか?
ファンタジーだろ?
日本海ルートからの畿内経由。 世界大戦始まっても
安全な畿内からの最奥が阿波だろ?
邪馬台国は、筑紫地域21国の話だが
阿波がいつ大和朝廷の奥座敷として機能しだしたのか?
には、興味がある。 >>966
銅鐸が埋められた土地だから破られちゃった側の土地であることは間違いないが、地名からすれば鴨族や三輪、阿部くらいしか出てこない気がする >>965
〉記紀のファンタジーや神社伝承が、こうだからああだこうだという議論は
桃太郎がかぐや姫と結婚したか否か、程度の話であって歴史じゃない。
旧家の伝承は系図があり、欠史が存在しないという特徴はあるよ >>968
発掘された豪族等、旧家の系図が記紀の事実
の証明になるのかで、具体的な論拠が判らないけど
一般に記紀以前の文字の残って無い時代か?
系図に関する時代考証として、
焚書、記紀成立の為の改竄の可能性
に対する考証は重用だと思うよ。
氏姓自体の発生は、漢字であって成文化以降なのに
記紀はこれを、先送りや逆走して、後付けで改竄している。
万世一系で、文字が来たから口伝の歴史を記述と言うのは
記紀では、銅鐸時代や、卑弥呼、倭の五王を語れない?
つまり、嘘八百なのである。 >>966
>阿波は日本海とも直接交流できないだろ?
なに言ってるんだ? 出雲忌部や北陸忌部を知らないのか? @阿波 >>969
〉一般に記紀以前の文字の残って無い時代か?
系図に関する時代考証として、
焚書、記紀成立の為の改竄の可能性
に対する考証は重用だと思うよ。
まず、口伝に関しては、文字と違って頭の中身までは書き換えができない事で重要視されてきた経緯があるので、出雲口伝者、諏訪の神長官家に代表されるように役目者を決めて継承されてきた経緯があり、他の家でも同じように運用されてきていると考えられる
武内家は長老界の合議制で秘匿、公開の判断がされているので現在は複数の本家筋の公認の文書化されたものは存在すると思われる
文字に関しては魏書にあるように30余国の国は朝貢してるわけで、漢字そのものは昔から扱えたり、通訳は雇える状態にあった事は明らか
記紀のために風土記は基本的に廃棄されたので公式なものとしての文字化された物の現存が記紀であるという現状に過ぎない
各旧家の系図は記紀のように順番が入れ替わったりしないので時系列としては影響を受けない
記紀と系図は互いに事実関係のベンチマークになる
具体例としては記紀に依存しない系図を保持する富家
記紀に依存して本来の系図を隠し、注釈により本来の系図が復元できるように細工をしてある海部氏系図
独自の系図を、記紀の系図の解釈を利用して神武の正統を表現する宇佐家、和歌山の小野田家などである
海部氏は記紀に服属して村雲とカゴヤマを隠し、系図上の神武が村雲である事を隠している
カゴヤマは山としてのカゴヤマが繰り返し記紀で登場
村雲は剣の象徴としての側面が描かれる
これは磐余彦の記紀に反しない形で書かれている
村雲は東征していないため表立って系図には書けないためである 海部氏系図
丹後国庁提出の海部氏本系図は、記紀に服属しており、ホアカリの子と孫を飛ばして三世孫を書いている。
つまり、カゴヤマと村雲を消している。
カゴヤマは記紀には登場せず、霊山としての香具山だけが書かれ、村雲は剣の名前として八岐大蛇の中から出てくるから当然に丹後国庁提出の本系図には書けない
それを補うのが勘注系図
籠神社は記紀の細工を利用して本来の系図が復元できる様勘注系図を残したと推測できる部分がある
勘注系図を記紀と擦り合わせる
「豊玉姫は火明命に妹の玉依姫をつかわし助け、武位起命が生まれた」
擦り合わせると、武位起は、彦ナギサタケウガヤフキアエズになる。その子が磐余彦(神武)になる。
海部氏系図では村雲だわな。
海部氏系図は神武を村雲と暗示している。
記紀と旧家の系図は補完しあう構図が作られている
記紀に服属してお上に逆らってませんよとしているわけだ 記紀はカゴヤマと村雲を隠して万世一系を書く方針になったと思われ、煽りを喰らって海部氏の分家の安曇氏まで系図が曖昧にされ、どの段階で分家したか分からなくなってしまっている
現在では穂高神社の系図でかろうじて武位起が出てきて、本家なのか分家なのかすら分からない
カゴヤマが隠されたことと、物部の彦火火出見が書かれたことにより、紀伊家の系図もいじられ、珍彦が変な所に出てきている。
カゴヤマと大屋姫の間の子供がタカクラジ。その子が珍彦になるので、本来は東征側ではなく、村雲側になるのが逆転している。
珍彦が物部側と戦った事は、戦った当事者の物部五瀬の子孫、旧釜山神社の社家であった現在の橋本家が証言している。
敵は珍彦であったと
紀伊国造家の系譜には武内宿禰の母親の山下影姫の兄弟に宇遅比古命がきちんと出ている。
その一代前は大名草比古命で既に名草地方には展開していた様である
その前になると、大屋姫の名からとったと思われる大屋比古命がいる。
隠されたことにより、敵味方がごっちゃになった
4大将軍も全てやられちゃった側の人物だが、仕方なく部下にされた
でなければ新潟のカゴヤマを祀る弥彦神社の社家が、大彦系の高橋氏になる様な不思議な現象は起きない
カモタテツノミ(霹靂神社の神様)も同じ
彼は八咫烏ではない。大和に引き入れたはずなのに山代国に追い出されて神社に収まるなど普通ならおかしいわな。
奈良から離れているのに誰も疑問に思わない 釜山神社の、橋本家、物部の本来の総本家の橋本家の伝承は以下の通り
・五瀬は負傷して竈山神社の地で亡くなり、神社の奥に葬られた。
・その息子たちが墓を守るためにその地に残った。
・残った人数が少なかったので、敵は攻撃してこなかった。
・敵は高倉下(たかくらじ)の子孫・珍彦(うずひこ)であった。
・高倉下は、丹波から葛城に来た尾張家〔海部家〕の人間で、母君・大屋姫とともに紀伊国に来た。
・日本書紀には、珍彦が速吸(はやすい)之門〔豊後水道〕から来たことになっているが、物部東征は、瀬戸内海を通ったのではない。海部家の伝承もそうなっている。
・高倉下の子孫は紀伊の国造・紀伊家になり、日前(ひのくま)神宮〔和歌山市秋月〕を建てた。
・紀伊家と五瀬家は、近くに住む豪族同士として姻戚関係を結び、密接に付きあうようになった。
・五瀬家は日前神宮の横に国懸(くにかかす)神宮を建て、物部氏の象徴・日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御霊代にして、五瀬命を祀った。
物部東征は複数回起きている。
記紀は目的があって、村雲の時代から、ある時代までを圧縮して一つの出来事にする必要があった。
それは魏書との整合性である。
朝貢して属国旗までもらい、大陸の役人の干渉を受けて卑弥呼の後継者の指名まで行われている事は、これから大陸にわが国の独自性を主張し、大陸に見せる物としてはふさわしくなかったと推測される。
この時代に起きた大乱が大きく分けて2つあったので、圧縮して誤魔化した結果、敵と味方を入れ替えて書く必要に迫られた。
それが道案内役であったり、本来の神武であったりする訳だ
当時の左大臣は石上であったため、まとまらなかった帝記の二の舞を防ぐため、物部を味方にする必要があったと仮定することができる
それが途中までヤマトであった高天原が、九州への変更に繋がったと考えられる 一子相伝の口伝だが継承には繰り返しの反復練習をし、10年ほどかけられたとの事
ただ、単純に敵味方などの話はさほどの難易度を感じない
学生のやる記憶の詰め込み程度の話
それが容易に劣化するなどありうるのか?
伊都チョンなら自説のためにそう言うしかないんだろうがw 一例を上げるなら、大屋姫の話は、橋本家と出雲の富家の伝承は一致してる
口伝の話は比較的我々が思うより保存性は高い 記紀の中でも一番インチキが多いのが日本書紀
一番少ないのが先代旧事本紀
しかし、公式に大陸に提出された我が国の歴史書が日本書紀になってしまった為、神社の祭神は日本書紀風に書き換えられる事になってしまった
例えばタテミナカタ(タケミナカタと、タテミナカタは厳密には扱いの違いがあるらしい)の妹であるミホススミは✖ミホツヒメは◯
神社の由緒なんて一番当てにならない
その典型が、傾向が一番強い阿波
母系、父系もあいまいで同一視など日常茶飯事
伊都チョンみたいに中臣家も、加茂氏もヒボコも同一視するようなアホ視点が好転的に生まれる事になるわけだw
そういう点においては、文字化された物は容易に改変され、それが真実のように思い込まれるようになると言う特徴がある事は分かるだろう
だからあえて口伝にして来たんだそうだ 因みに、出雲と但馬という離れた地域に住んでる富家と神床家のヒボコの口伝の話は一致している
ヒボコは半島の辰韓の王家の人間
渡来時期は紀元後100年代
村雲の家系で言えば、第4代からクニオシヒトまでの間に渡来したんだそうだ
最初に来たのは海部の先祖のホアカリと同じで出雲だったそうだ。
伊都はヒボコの渡来にはまったく関係していない
こんな程度の概略が容易に劣化していくと思うのか?w
学校の勉強程度の簡単な分野の口伝がそうなら、伊都チョンの独自の頭の中の思い込みなんてよほど当てにはならんよな
現在でも文書化すらないもんなw
伊都チョンの思い込みが入り込む余地はない 霹靂神社の賀茂タテツノミ=八咫烏だが
「豊玉姫は火明命に妹の玉依姫をつかわし助け、武位起命が生まれた」
とあるが、ホアカリの時代の玉依姫と、クニクルの時代のタテツノミが同じ時代に存在できるわけがないが、それを同一視するのが伊都チョンww
記紀すらまともに頭に入れてないアホw
それどころか習合相手の出雲の神を雷大臣とか抜かしてるw
そのうち賀茂氏もヒボコ=スサノオの子孫とか言い始めるんじゃね?ww さらに一例を上げるなら、大屋姫や珍彦の話は、橋本家と出雲の富家以外に和歌山の名草の頭部を守るオコベ神社の社家である小野田家(ルパング島の小野田さんで有名)も同じ伝承。
複数の離れた地域の家の伝承が一致するのを見て、改ざんが容易なのは文字とどちらかなのはもう分かるのでは?w
結果論だけど、文字化される前に中身が嘘ならまったく意味がない。 旧家の伝承が公式として作られた改ざん歴史記紀と補完関係にあるように、魏書に目を通した上で書かれた記紀は、魏書と補完関係にある 信用力が無い出雲伝々は秋田
日本書記で出雲ヲタ話は相手にされてないし
余所者が一時的に居留してだけにしか思えない >>983
別段、出雲伝承だけに限った話ではない
そもそもが、日本書紀の前後の、段階で出雲の話が作られてるだろ
また異常な認知があるな
〉日本書記で出雲ヲタ話は相手にされてないし
伊都チョン確定ww
スレッドで伝統的に昔から相手にされてこなかったお前の妄言だ、伊都チョンww
霹靂神社が鴨系の神社である事は出雲伝承とは無関係。お前の妄言は、何ら魏書とも記紀はとも補完関係にはない。一番レベルの低い一顧だに値しない妄言。
それどころか富家の出した大元出版の初版版は異常な高値になってるわ。
その人大学の日本史の先生だったんだがなw
お前とはレベルが違う 要は、魏書や記紀に乗ってる人たちの家は全てではないが現在でも存続しているし、連絡も取り合ったりしてるし、親戚になったりもしてる
自説のために自分の願望を押し付けるしか脳がないのか?w 比較するものがなくてどう検証するというのか?w
八幡愚鈍は良い伝承。俺様の推論は考古学のテンプレに何のツッコミもない段階で異常な視点である事は明白
過去スレで何度も他の方にも言われてるのにな。
もはや議論ではなくメンタルだろww 占領軍アメリカGHQと現在のアメリカ(ディープステート。以後アメリカ)が属国である日本に対してやってきた都合の悪い歴史の真実や言動に対してやっている言論弾圧。
アメリカは大東亜戦争だけでなく戦国時代の歴史に関しても、スペインやポルトガルからやってきたキリスト教宣教師は日本侵略の先兵だったことや、
スペインが南北アメリカ大陸の侵略、植民地化に続いて、東南アジア、支那大陸、朝鮮半島、日本列島への侵略、植民地化を目指していたこと、
豊臣秀吉や徳川幕府がキリスト教を弾圧した本当の理由など、占領軍GHQ、アメリカは戦後の日本の歴史から抹殺しようとした。 そのアメリカが言論弾圧している歴史の真実と言論の内容。
①アメリカが戦中戦後から押し付けてきた嘘である戦前日本悪玉論を覆すことに繋がる
中世から大東亜戦争(太平洋戦争)までの歴史の真実。
特に大東亜戦争の日本は軍国主義に陥り他国を侵略したという嘘を覆す歴史の真実。
②憲法9条改正や核武装など、日本が自主防衛し主権を取り戻すことにつながる言論
③アメリカが日本や隣国の韓国や世界中に軍隊を置いていることは誰もが知っているが、
それによって世界各国の政治経済体制をアメリカ(DS)に都合のいいように改悪していること。
(アメリカに都合がいい政治経済体制とは、アメリカの代理人である政党、政治家が
その国の実権を握り新自由主義グローバリズム政策を実行していること)
④日本や世界中の政治政党や政治家に資金援助し、世界各国をアメリカに都合がいい政治経済体制に変えようとしていること。 ⑤トランプやプーチンなどのディープステートに都合の悪い人物を叩き潰すためにあらゆる政治経済工作をやっており、
また世界中の配下のマスゴミに対して、その都合の悪い人物に否定的なプロパガンダをさせていること。
⑥ロシアがウクライナに侵攻した理由は、ロシアの権益をディープステートから守るプーチン、ロシアを叩き潰すために、
ウクライナをNATOに加盟させアメリカの核兵器をロシアの隣国ウクライナに配備させようとしたからであり、
プーチンはロシアの国防安全保障を守るためにウクライナに侵攻したこと。
⑦ウクライナのNATO加盟によるウクライナへのアメリカの核兵器配備というロシアにとっての国防安全保障の脅威を与えることによって
ロシアをウクライナに侵攻させること自体がアメリカの狙いだったこと。
それを口実にロシアに対して自らが支配する「国際社会」にロシアに対してより強力な経済制裁させ、
プーチン、ロシアを崩壊させることがアメリカの狙いだったこと。
⑧反グローバリズム、反新自由主義の言論。
⑨ナショナリズム、保守主義の言論。
(逆にDSは民族や家族崩壊につながり保守主義、ナショナリズムを破壊する
ジェンダーフリー、移民推進、反差別、グローバリズム新自由主義賛美のプロパガンダを推し進めている)
以上がアメリカが言論弾圧している歴史の真実と言論の主な内容である。
要するにアメリカ、ディープステートの世界支配に都合が悪い歴史の真実と言論はあらゆる手段を講じて叩き潰そうとしているということである。 >>989
そういえば、GHQって日ユ同祖論の本を発禁にするとか意味不明なことやってたよな
記紀はシュメールで読めるとかいう本も発禁にしてて意味不明な事やってた気がする 最近のトレンドは古史古伝
串刺しにして比較して大陸の歴史と比較する視点ではないかな
魏書単体での話なんてそれこそもう飽きられた話
https://m.youtube.com/watch?v=kA2KZ3DvtV0
邪馬台国ももちろんそうだが、筑紫の隣の秦国なんてあからさまにガン無視で消されている
何の捻りも誤魔化しもなく消している
記紀の編纂者のやる気が全く感じられない >>965
〉もちろん600年アマタリシヒコ当時の推古天皇も記紀の創作である。
まともに読むと女帝の持統期にあたっちゃうらしいから、確かに意図的に操作されて書かれてるらしいね
先の古本屋えりな氏の動画でもそうなってた >>965
〉記紀が、日本の古代史、歴史として機能するのは
倭の五王との同定可能な4〜500年、雄略以降なのだが、
ぐぬぬ、どういうわけか出雲口伝でも、ワカタケルから正しい暦が適用され、その前までの大王系譜は、春秋歴、つまり倍暦が使用されているとピンポイントで書いてある
なぜワカタケルの頃と思ったのか興味が湧く 倭の五王と記紀のすり合わせは失敗に終わっているじゃん。 >>994
そうでもないぞ
どのみち一字だから、九州にはそんな風習ないもん。
結論など出ているという話は逆に聞いたことがない >>995
大陸と「阿波」が常態的に交流していたんだから、どうでもよい話。 わははははは @阿波 >>996
これからは伊都チョンと交流を深めれば良い
きっと阿波も須佐男の子孫さw しっかしヒボコが倭国人でスサノオとかwww
出石神社に雷の神様なんていねぇしwww
僕の考えたさいきょうの安曇族ワロタww このスレッドは1000を超えました。
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