会津松平家を語るスレ
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徳川秀忠の庶子である保科正之に始まり戊辰戦争の悲劇後も明治から現在まで生き抜いた会津松平家について語るスレです。
時代を問わず松平家について関する話題であるならば何でもOK。 保科正之は家綱の時代に幕府の財政を建て直したんだっけ? >>1
そもそも幕府二代将軍・徳川秀忠の直系子孫と会津松平家は標榜してるけど
家祖となる徳川家康の後を継いで宗家を継承した秀忠は
会津松平家の祖となる正之を実子と認めるどころか頑に拒否しつずけ
血縁関係がない保科家に養子に出してる事実があるよな。 >>5
陰謀家の天海が家光に細工を施して
徳川家康から始まる正統な徳川家に細工する為
正之祖とする会津松平家と称する家を興したと言われてるぞ 蝦夷地警備は庄内藩酒井家、会津藩松平家、盛岡藩南部家、弘前藩津軽家に命じられた、松平の持ち分は宗谷海峡付近。軽輩から公用役に抜擢された秋月悌次郎は嫉妬を買い、失脚。蝦夷にいかされた。あんな寒いところにいくなら、私なら脱藩します。 恐れ多くも現在の徳川宗家は会津松平家の御血筋なるぞ!
控えおろう! 薩摩、長州と並んで会津。
これで幕末三大藩スレが完成。 >>10
その三藩は良くも悪くも三大横綱。
他は仙台藩でも加賀藩でも石高だけは高くても三藩に追いつけない。 >>1で時代を問わず松平家について関する話題であるならば何でもOK。
ってなってるけど会津以外の松平家の話題でも良いの? 会津松平家は松平容保の七男保男が継いでるけど
六男で兄の恒雄(秩父宮妃の父)が家督を継がなかったのは何故? 会津松平家は本家より分家の方が栄えている
特に松平一郎の家系
祖父:松平容保(会津藩主)
父:松平恆雄(宮内大臣、参議院議長)
母:松平信子(佐賀藩主鍋島直大四女)
妹:雍仁親王妃勢津子(秩父宮雍仁親王夫人)
妹:徳川正子(尾張徳川家第20代当主徳川義知夫人)
弟:松平次郎(早世)
妻:徳川豊子(徳川宗家第17代当主徳川家正長女)
長男:松平恒忠(日本航空ロンドン支店長[6]、日本フィンランド文化友好協会会長[7])
次男:徳川恒孝(徳川宗家第18代当主、日本郵船副社長)
孫:徳川家広
三男:松平恒和(KDDI常務) >>21
妹は尾張徳川家に嫁いで
自分は徳川宗家から嫁取り
一族内結婚が凄いな 一族と言っても殆ど他人レベルで離れてるから近親婚とは言えないだろう >>27
そもそも徳川家康や松平家とは元々会津という土地は縁がないどころか
家康による東北の会津征伐が関ヶ原の戦いの火ぶた切られた歴史が控え
邪智を持つ言われる天海が>>6さんが言ってるような経緯で会津松平が作られた 徳川宗家20代は会津松平家のいずれかの系統から迎えるんだろうか? いつから会津松平家が徳川宗家の当主を輩出できる家柄になったんだ
徳川御三家や御三卿から後継を取るのが順当だろう >>30
〈御三家〉
尾張徳川家→分家の男子が後継(徳川慶勝の血統)
紀州徳川家→断絶
水戸徳川家→当主に男子が1人 〈御三卿〉
田安徳川家→当主は娘1人
一橋徳川家→当主に息子2人
清水徳川家→不明
徳川宗家だけでなく分家も後継者不足
本来の血統のスペアの役割はもはや果たせそうにない 伊達家、細川家、鍋島家、山内家、相良家、伊東家辺りは現代に至るまで男系継承。
探せば他にもっとある。 保科正之は将軍家綱の政治を補佐していたがそのときに特に役職はなかったよね
将軍の叔父というだけで政治を仕切れる状態が曖昧過ぎる 水戸家の繁栄ぶりは異常
吉宗は紀州系の御三卿まで創設したが水戸家の種馬っぷりに見事に駆逐されて行った >>33
御三卿の中で水戸系じゃないのは田安家だけか 家康「だから水戸家に将軍やらせるなって、あれほど…」 スレタイ読め
お前が知ってることを何でも書くスレじゃねーだろ そもそも会津松平家をスレ立てて語るほど内容ないだろ
保科正之と松平容保の2人で修了 >>43
他人に言う前にまず自分が話題を出したまえ。 >>44
そうだな
マジで会津家ではその2人しか知らん
正之は有能だったが容保は頑迷固陋で黎庶を苦しめた暗君
悲劇の貴公子にされてるのが納得出来ない >>44
徳川家の開祖徳川家康や後を継いだ二代将軍徳川秀忠は
一切会津松平家とは関わっていない事実 容保の息子たちの名前が長男以外は適当というか平民感が凄い
容大、健雄、山田英夫、恆雄、保男
容大以外は現代でも違和感のない名前 長州の山田顕義の婿養子に松平容保の息子を迎えるとは… 会津藩の大失政は西郷頼母の悪行で松平容保は上手く乗せられてただけじゃないか? しかし会津藩の連中は身分意識が超強すぎるだろw
薩摩や長州みたいに能力主義を否定するのは世襲原理の悪影響だな 八重の桜からもう10年くらい経つけど最近まで綾瀬はるか現地の祭りに毎年駆り出されてたぞ 何も語ることないんだが…
なんか最近〇〇家を語るスレが乱立しているが
立てるなら昔あった「大名家を語るスレ」みたいなので良かっただろ
毛利スレなんて完全に終わってるし
立てたやつは反省しろ >>21
長男より次男が格上の家継いでるな
細川家もそうか >>61
細川が近衞を継ぐって変な感じ
そもそも公家を大名家が継ぐのが変な感じ なんで福島県の大名が京都の防衛をやらされたの?
紀伊徳川とか尾張徳川とか近くにいるのに 武家が公家を継ぐと貴種性が失われる気がするな
それはともかく会津藩が最後まで新政府に抵抗したのはなぜだ?
主君の慶喜が恭順したのだから一緒に刀下ろせばよかったのに 保科正之が幕政で重きをなしていたのだから子孫も何かやればよかったのに何もしていない
家綱の叔父というだけで正之に役職名が無かった影響か 保科正之が松平姓を固辞したことになっているが
徳川姓も辞退したというのは本当だろうか
家光に高く評価されていればあり得ない話ではない 【黎庶】れいしよ
民衆。〔韓詩外伝、八〕國に佚士無く、皆世に用ひられ、黎庶樂して、方外に衍盈(えんえい)す。
れい‐みん【黎民】
〘名〙 一般の人民。庶民。あおひとぐさ。黎庶。
※続日本紀‐天平一〇年(738)一〇月己丑「遣二巡察使於七道諸国一、採二訪国宰政迹黎民労逸一」 〔書経‐堯典〕 幕末会津藩の大失政の責任は西郷頼母にあり松平容保は乗せられてただけ 磯田道史は坂本龍馬暗殺は松平容保の命令だと推測してるが
華奢な世襲貴族の松平容保にはそんな凶行を命令できる器じゃないよ 同じ世襲大名でも薩長土肥の藩主には徳川幕府への反骨心からか武家らしい荒々しさや胆力を感じるが
会津松平家は世襲ボンボンそのもので武家よりも公家という感じがする
まさに公家の頂点に君臨する孝明天皇と松平容保が意気投合したのもそれだったかもしれない >>174
400年に続いた封権時代最後の天皇になった孝明天皇のお顔は
眉毛は太く濃く、唇も厚く、凛々しい高貴な日本男児の顔そのもの
https://i.imgur.com/M8zzYmT.jpg 明治天皇ちゃうか?
孝明天皇の写真も残されてたんか 日本の至宝を追い出した会津松平家に天罰が下りました。 清和源氏の一族だから神武天皇のY染色体は受け継がれているの? 前ほどに批判されることは少なくなったが松平定信の評価は完全に二分化してる >>1
戊辰戦争の悲劇ってオマエ会津プロパガンダ洗脳者かよwwwwww 高須4兄弟のうち慶勝が会津へ
容保が尾張へ行ってたら歴史は変わっただろうな 会津松平家から宮内大臣や参議院議長、宮妃、東銀会長、徳川宗家の当主等を輩出してるの凄い
なんだかんだで徳川・松平一門でも勝ち組の方になってる もっと突っ込めばその源流は水戸家、頼房の血統ですよっと >>95
全員恒雄の系統だな
それ以外はパッとしない 幕末会津藩の大失政の責任は西郷頼母にあり松平容保は乗せられただけ >>98
板垣は会津藩の農民が会津藩士を見捨てて官軍を大歓迎したことについて四民平等の必要性を痛感したらしい。 >>100
会津新選組なんて呼ばれるぐらい新選組を保護して利用したのも松平容保。 >>100
既に2回同じ書き込みしてるが何故だ?
いくらネタがないとはいえ自演は痛いぞ >>99
どうせ立ててもここや長州スレみたいに
同じやつがひたすら連投するだけの何の生産性もないスレになる
だから要らない 松平容保って何故無駄に人気あるんだろう?
当時領民からボロクソだったのに 薩摩島津スレも自演だらけで速攻埋まったなw
邪馬台国スレなみの速さw >>108
でも会津藩領民からの減刑請願書が出されたらしいんだが? >>108
新選組と同様に最後まで薩長と戦い抜いたと反薩長主義者にとって象徴と化して神格化されてる面もある。 綾野剛の松平容保は似てたな
あれ絶対顔が似てるからキャスティングされたわ 維新後の会津松平家は斗南藩へ転封されて子爵止まりだったけど
本来の会津藩の石高だったら伯爵になってたのかね? 会津は農民どうしも仲が悪かった様子なんで一概にお上に反旗という訳ではなかった様子 >>1
容保以外のネタを語れもしないくせに
なぜこういうスレを立てたんだ? しかし本当に5ちゃん過疎ったな
特に日本史板なんて寂しいものだ >>118
だったら冷かしてねえで盛り上げろよ屑が! >>115
つまり内紛を繰り返していた会津及び佐幕派は戊辰に負けるべきして負けたようなもんだな。 内紛といえば家康以前の松平家の抗争もなかなか
無駄に分家が多い松平一族 >>1で「時代を問わず松平家について関する話題であるならば何でもOK。」
って書いてあるから別にいいよな 当然ながら徳川王朝の治世では松平家は公卿の五摂家を超える名門中の名門だったんだろう。
まさか天皇家より格上扱いされてたなんてことはないと思いたいが。 まあ釣りだろうが松平なんて家臣が名乗る名字で超名門でもなんでもない
別格なのは「徳川」で御三家や御三卿しか名乗ることを許されない
松平は一門以外の大名(伊達、島津、毛利等)にも下賜されてる >>124
明治維新後に一旦は松平姓の廃棄命令を出されたんだよな。 >>129
ベトナム人妻との間に実子はいないみたいですが
どうなるんでしょうか? 最近ボンボンはボクちゃん19代目ですって
あちこちで先祖の自慢に躍起になっているが
直接の先祖容保ゆかりの会津に行って
会津藩の犠牲者の追悼はしないのか 16代目徳川家達は徳川慶喜の実子ではない
おそらく徳川家康の直系子孫なんて消えていなくなってるんだろう それは何をもって「直系子孫」と定義するかにもよるが
徳川家綱の死で徳川将軍家の直系が絶えたと見ることも出来る >>119
そんな書き込みしかできない自分が恥ずかしくないってさ
犬みたいだな、お前 もう昔のように一族の男子から婿養子を迎えて跡を継がせるなんて時世的に出来ないんだろうな
名家が絶えてしまうのは寂寥の感… 名家とは時代によって変容して次にって感じでしょ、後に様々な氏族の中から次代の名家が誕生する >>132
日本史の一大奇跡ともいえよう。
家康が藤原氏とか超名家の出自ならともかく遊行僧の出自だからなw >>139
世襲ゴミのスレでも語られてるが。
意地でも世襲支配に拘るのは日本人の非常に悪い癖で徳川時代の負の遺産。 7代目で絶えてるよ
て言うか「会津松平」で検索したら容保と現当主のご尊顔が並んで表示された・・・・
・・・酷だろ いうほど容保ってイケメンか?
顔面でいえば慶喜の方がイケメンだろ 少なくとも高須四兄弟の中ではいいほうかとおもうけれど 尾張徳川家の後継者は慶勝の子孫
鍋島系から徳川家へ血統回帰 資産保全の意味で尾張徳川家は旧大名家で一番の勝ち組と言っていい。
徳川義親侯の先見の明は素晴らしい。 >>154
細川家、毛利家、伊達家、立花家も上手く立ち回ってる
徳川一門では徳川宗家や水戸家も財団作ってるが所蔵品は大したことない >>156
ごめん、その弟で大給家を継いだ義龍さんとその系統がという話 >>157
そういや松平家の財団って聞いたことないな。 >>152
徳川慶勝を幕末最高の名君だと讃える識者もいる。 そういや松平容保の六男が昭和天皇の弟君である秩父宮親王の妻なんだよな。 >>165
ただ暴れたかった頭の悪すぎるヤンキー集団だったちゃうかと。
それに比べると薩摩や長州は頭のいい賢いヤンキー集団。 >>167
まさか徳川御三家より会津松平家は超名門なのか? >>168
すまん血統の話です
初代頼房も子沢山だった訳だが次男光圀系は絶えて長男頼重の系統が今日までと
本家・連枝・分家筋と意外と子沢山の多い系統、当然ながら後の高須系や慶喜系も然りと >>172
>>175
冷やかしでスレ汚すなよボケ! どのスレにもスレを盛り下げようとする邪魔者がいるもんだな。 >>173
もっと天下の副将軍家のことを詳しく書いてくれ。
何故かは知らんが水戸家からは将軍を迎え入れるなとは天海の御遺言だったはず。 >>176=>.177=>>179
ミジメな犬だな >>179
なんだ風水的な問題だったのか
だが結局は天海の警告通りになってしまった。
会津藩も最強の外様大名である伊達家への鬼門封じの意味合いもあるんだろうか? そう考えると幕末の天狗党の乱なんかが起きる下地みたいなものはあったという訳だ
ちなみに言えば確か山手線も最後まで残っていた区間は上野方面、やはり鬼門という話 >>181
いまどきそんなレスする化石はそうそういない
図星で焦ってるゴミっぷり その最強外様大名の伊達家が徳川幕府死守の奥羽越列藩同盟筆頭格だったのも皮肉すぎる話だ。
幕府から同様に最大級に警戒されてた薩長と伊達の違いはなんなんだと。 その最強外様大名の伊達家が徳川幕府死守の奥羽越列藩同盟筆頭格だったのも皮肉すぎる話だ。
幕府から同様に最大級に警戒されてた薩長と伊達の違いはなんなんだと。 >>184
頭悪いのは分かったからスレ荒れるから黙っててくれるか? 水戸藩も会津藩も尾張藩も最後は醜い内紛が絶えなかったなあ。
自滅したともいえる >>187
お前はゴミだから犬臭いのか?
バカ丸出しの連投犬バカくん、異臭がすごいぞ
しばらくお前が黙ってろ >>191
ほらなムキになってやがんのw
オウム返ししかできなくなってきたおまえw頭が弱すぎんだから黙ってろよw >>190
百姓たちが官軍を諸手を挙げて迎え入れたらしいです。 >>189
薩長の内部抗争が比較的に少なかったのは源氏の血統ではないからか?
たしかにあれだけ僻地に押し込められても生き抜いてきた団結力は見事しか言いようがない。 いや薩摩は思いっきり内部抗争してただろ
島津重豪から斉彬まで4代にわたって蘭学派と国学派で対立してた
お由羅騒動って有名なお家騒動まで起きてる 会津戦争では血まみれの殺し合いしてんだからスレ違いどころか
幕末三大藩は関係ありまくりになってくるぞ そういや会津藩士を斗南に追いやったのは木戸孝允だとか・・ >>198
松平家スレだぞここ
藩主一族と直接の絡みの話題ならまだしも薩摩内部抗争とか完全にスレチだろ 松平の言葉の響きだけはよい
それだけは毛利や島津よりもいい
なんか日本国の大大名という感じが松平の響きにはする しかし徳川慶勝さんのヘアスタイル最高すぎるww
まあ尾張藩は徳川慶勝さんという名藩主が存在したおかげで窮地を脱したともいえる。 猪苗代を断って斗南行った訳だからな
つくづく会津は見通しが甘い 現在の徳川宗家は会津中将家の子孫な訳だが
会津に対する思い入れというかアイデンティティはないのだろうか? >>206
城山三郎「冬の派閥」の主人公になってから徳川慶勝は地味に人気が根強いんだよな >>194
その百姓を更に他の百姓が虐めていたというね >>208
やたら19代目は政治活動に熱心だな。
あれほど勝海舟が徳川家は政治の世界に戻ってはいけないと警告してたのに。
勝海舟の遺言を忘れたのか 政治活動しててもマトモなこと言ってるんのならまだ良いが
彼の主張はもうめちゃくちゃだからな
「消費税は毎年1%ずつ上げて16%にすべき」とか日本経済殺す気ですかって思ったわ
こんな経済音痴でよく評論家名乗ってたと思う 家広さん
この前BSの番組で松潤と対談してたぞ
あと本郷もいた 家光をして生まれながらの将軍と言うのであれば家広は生まれながらの宗家次代ですからね 深夜にアスペ
未明にアスペ
早朝にアスペ
ずっとageバカ無職アスペの連投ばかりじゃん 大河ドラマ家康で19代目も大忙しですね。
そして松平家全体も 松平家はラフスタイル毛利家と違い格式や権威が大好き。 >>220
これからの時代に合わんだろ
家広さんの思想もだ >>220
お前がサボってるから毛利スレ止まってるぞ
ちゃんと毛利家マンセーしてこい しかし水戸藩の内部抗争だけは笑えねえよ本当に
会津藩も有望な若手藩士を左遷したり切腹させたからな
これが源氏の悪性遺伝子かと
薩長も内部抗争してるのは事実だが最後は上手く収まるのはさすがか 平民松平恒孝は徳川を名乗れる血筋ではなかったのに
婿養子で18代目を名乗ったんだよな >>216
来年の大河ドラマ「どうする家康」の主演 徳川斉彬は色情狂いやったな
薩長土肥の藩主はそっちの話はきかない 19代目のアホ面を見ていたら
徳川は滅んだほうがいいと本気で思う 江戸四谷生まれの松平容保が会津藩主とは上手くまとまるわけがない。
薩長土肥の藩主は皆が地元生まれでしょ? 会津も尾張も水戸も徳川慶喜一人に翻弄されたといえる 殺すべき対象が身内だと
あのバカげた基地外エネルギーは日本史上でも水戸藩だけw >>234
会津藩主の松平容保にとって主君は徳川将軍のはずだが
孝明天皇との関係が深かったわけだ その根源は水戸学やど?更にいえば尾張家初代・義直は尊皇派だったの有名 >>238
外道茨城水戸人は江戸時代から変わってないよ
善良な第一発見者を装いマスコミや警察を見事に欺き茨城水戸人は
住み込みで働かせてもらっていた中華料理店の子供を含む店主家族を
金目的だけで狂気の家族惨殺を行い得意げに新聞取材を受けるという図太さ
劇場型犯罪の元祖!昭和重大事件史「築地八宝亭一家皆殺し惨殺事件」
《ふすま一面の血しぶき》一家4人の頭を薪割りで…中華料理店で起こった惨殺事件
https://www.youtube.com/watch?v=sFsZVIn2fvw
奇跡体験!アンビリバボー 築地中華店 一家殺害事件!日本を揺るがす伝説の怪事件の驚くべき真相!
http://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/tukiji.htm
築地八宝亭一家惨殺事件 - DTI
https://bunshun.jp/articles/-/43437
文春オンライン >>230
正室腹なら漏れなく江戸生まれ
常識だろ >>244
江戸時代、薩摩島津家のお膝元というべき東京都港区三田だね正確に言うと どいつもこいつも江戸生まれ
島津の久光は薩摩生まれだよな 水戸藩と会津藩は距離が近い
ここら辺の冗談が通じない気持ち悪い性格の人種は似通ってるのはそれなんだな。
同じ御三家でも紀伊と尾張はそうでもないだろ。 >>248
江戸生まれ江戸生まれ!って馬鹿の一つ覚えみたいに言うけど
現在の東京でも23区によって生活レベルの格差が大きいのが現実だし
江戸時代ならなおさら身分や家格、貧富の落差が大きかったと思われ
江戸生まれって一言で片付けもあ色々な土地があるわけで >>249
東北土人の性質はみな似たようなもんじゃないか? >>250
単に生誕の地を提示しただけなのにそこに生活レベルとか関係ないでしょうに >>250
大名の子なら隠し子でもない限りどこかの藩邸で生まれている
わざとでないならアレ過ぎだろ 当初は重臣の家族も誰か1人江戸にという話だったのが会津初代の提言でそれは回避された模様
最終的に緩くなった・つまり妻子を帰省可させたのは文久・つまり幕末になってから >>207
見通しが悪いんじゃなくて、百姓が怖かっただけだったりして… 実はみんな国許より江戸で暮らしたかったんじゃないの?
辺境のど田舎藩だったら尚更 藩主含め下々な家臣団も暇を持て余していたけれど自由に外出出来た訳でもなし
ほぼ月数回・且つ時間制限もあって悲喜こもごもだったとか 実は更に上を行ったのが佐賀藩だったりする>二重鎖国 >>266
二重鎖国が出てきたんで俺もそう思った。
個人的には会津藩と水戸藩と佐賀藩は堅物が多すぎる教育藩という共通点が多いと思うわ。 >>245
天真爛漫な水戸人山口常雄級だな
無邪気な10才の女の子の頭を大型のマサカリでカチ割れるとわ・・
おそらく東京世田谷一家惨殺事件の犯人も 徳川斉昭は名君ではないな
阿部正弘が名君なのはわかるんだがな 細川護貞(護熙の父)に「なぜ日本がこのような馬鹿な負け方をしたのでしょう」と問われた狩野直喜は「水戸学のせいだ」と答えた 水戸のことしか関心がなくて
連投してる犬のようなバカ >>160
尾張家や水戸家、島津家なんかは今でも山林所有してて林業やってたりする。 日本狙ってるプロイセンに売国持ちかけ
プロイセン人将軍にして日本名や屋敷とか与えてたバカ殿
それが松平容保だぞ
間違いなく幕末ナンバー1バカ殿 >>1
悲劇っつーか無能な
ヒロインみたいに言うなよ >>292
宗家は?
あと紀州家は没落してるけど水戸家も財団持っててなかなか裕福そう。 財団と資産管理会社?は持っているようだね、尾張と同じく森林関連 藩政時代から尾張家や水戸家が持ってたところを
そのまま移管したの賢いな 桜田門外の変
坂下門外の変
天狗党の乱
1860年代前半だけという非常に短い期間だが日本は水戸藩が中心に動いていた。 >>303
確かに アジアの福島県会津若松市!韓国!とすべきか >>306
そこは長岡の人間もわりと反薩長意識が強い 御薬園はなんと平成初期まで会津松平家の個人所有だった 愛知の犬山城は2004年度まで個人所有だったのだぜ?じゃ~手放したのか?と言えば
個人から法人に変えて一族代表が城主という話 旧大名家でも島津家は遺産スカスカじゃない?
とても薩摩77万石の大大名だったとは思えない
今でも家族経営の会社で鹿児島の庭園や博物館を管理してたりしてそんなに没落してる印象ないけど
国法や重文に指定されるような先祖伝来の家宝といったものは全く残ってない >>304
水戸藩が中心と言うか、水戸藩が引っ掻き回してただけじゃね? 職場がホワイトすぎてブラック企業に行きたがるフロンティア精神とやらの若者が増えてるらしいが。
それを聞いたときに徳川幕府の恩恵を絶大に授かってながら反旗を覆し向こう見ず無鉄砲で自滅した頭が悪すぎる水戸藩の若手志士を思い浮かべてしまった。 >>313
島津家文書が国宝 鎌倉始まって以来の由緒正しい白眉の武家文書
平安時代末期から明治時代までの全二百三十八巻、手鑑七帖
格が違う それもう東大に売っぱらってるし
尾張家、毛利家、前田家、鍋島家が自分で財団作って伝来の家宝を維持してるのとはえらい違いだ >>313
借金500万両という天文学的借金で年も越せない状況では売れるものは全て売ったんじゃ
文書とか金にならんのは残っただろうけど >>318
薩摩島津氏のいきさつは驚き、桃の木、山椒の木
鎌倉時代から江戸時代に遡る栄華と華麗な血脈を極めた
薩摩島津家を語るスレに詳しく語られてた
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1664499630/
島津江戸御殿に島津京都屋敷など各地に複数の薩摩島津家御殿を所有するなど
日本の大名家随一の権勢と富や栄華を誇っていたのがわかるよ >>319
なんか突っ込みどころが満載の文章で 国主クラスの大名だと江戸に上中下の三屋敷とか伏見と御所と大阪に屋敷とか当たり前にあるのだが
鎌倉から江戸に遡るで吹いたし 上の各屋敷は其々江戸城 御所から遠いし江戸の屋敷は基本幕府からの拝領だし
島津が大嫌いで貶したいのか? 島津っていうか鹿児島自体が文化財過疎地だよな
廃仏毀釈や西南戦争での戦火や略奪で散逸してしまったんだろうな
勿体ない 薩摩関係はここで続けるしかねえなw
大山巌が会津人の嫁を貰って意外に薩摩と会津は関係が深い 東日本というか3流寒冷北土人はハリボテ伊達政宗を拝んでいればいいんじゃね? >>323
そういえば島津斉彬の婆さんが伊達の姫だね >>322
会津人「薩摩が攻めてきたぞ〜!城に籠もれ〜!」 悲しいかな、今の日本に、鹿児島がなくても誰も困らないのが現実 會津「何か長州が調子こいてるから手組もうぜ」
薩摩「おっけ〜」 奥羽越列藩同盟の藩にも色々あるが領民への態度、為政の点で見ると最低は会津、南部が双璧
この2藩は農民などものの数とは思っていなかった 南部の一揆の多さ、会津戦争事の農民離反にそれが現れている
一方まず善政と言っていいのが庄内、米沢の2藩で、三方領知替えの際の殿様引き留めと上杉鷹山のエピソードにそれが伺える
久保田、仙台、長岡などはその中間だろう 会津藩は親藩御家門であり、台所のきつい薩摩や米沢、長州のように武士がやたら多いということはなく人口に占める武士階級は標準で1割程度である
でありながら農民から搾る事は薩摩とどっこいでぶっちゃけ会津松平家は領民からめっちゃ嫌われており、官軍は農民たちからさながら解放軍の如く迎えられたという
実際維新後の地租改正で会津の領民はマシな生活になった
戊辰戦争でどん底に落ち込み斗南藩で苦労したのは会津人の1割に過ぎずかつその武家の末裔は食えないので東京に出たりで会津に残るものじゃ少なかった
農民は地に付き大名は鉢植えの如し
というわけで現在の会津市民に会津藩の武家の子孫がそれほどいるとは思えず大半は解放された領民なのだがいつも間にかその辺が忘却され領民一同反薩長みたいになっているのである
これがいわゆる会津観光史観である >>336
それって半島の被害者ビジネスそのものでは
毛利の家臣が多いのは 秀吉との和睦 関が原で財政規模が小さくなったのに
人を切れなかったから 萩藩閥閲録なんて見ると元就と両川の時に従った武将がゴロゴロとついてきてるもの >>336
会津藩が領民を搾取したのは、海が無かったからではないかな?
海が有れば、長州や薩摩のように交易で利益を出せるから、領民を搾取しなくても藩の財政を支えられるし。
会津は山に囲まれている為、物流も陸路しか無く物も大量に運べないからね。 藩財政の問題は大抵の場合歳入ではなく歳出にある
薩摩藩が8公2民などと言われる超苛政を敷いたのは藩士が多すぎる、参勤交代の費用、大藩ゆえの江戸での掛、時々出現する蘭癖殿様の冗費、幕府から命ぜられる巨額の手伝い費用など、これだけ揃えば薩摩藩の財政は真っ赤っか
密貿易でもカバーしきれないから調所は借金踏み倒しに出た
一方の会津は親藩が故に島津より財政環境はずっと良いはずなのだが幕末に至り京都守護職で莫大な持ち出しが生じてこれが苛性に繋がったと思われる また農民の事など歯牙にも欠けない傲慢もあった
海はあった方がいいのは確かで庄内の豊かさに海港酒田の貢献は大きい でもそれだけではない
海なし藩の米沢は貧乏では諸侯随一、金気を抜くには上杉と書いておけと庶民にまで言われる貧乏だったが、貧乏を民と共にするだけの仁はあった
会津には米沢のような民を守ろうという意識はほとんどなかった
それが戊辰後の領民の藩主への冷淡な態度に繋がったのだろう >>339
京都守護職を受けなければ少しはマシだったのだろうか? 「明治二年正月に至り、殿様方御戻りになるよう致したいとて、旧冬中より『郷村の肝煎、御蔵入の者、寺社院、検断、名主等』が東京に登り、嘆願している」
松﨑平右衛門覚書というのがあるようだが? 一揆の主体は小作人や貧農で、地主の村役人とか肝煎りは藩サイドの人間で排斥される側
周りの元小作人達から恨まれてるんだからそりゃあ殿様に戻って貰い元の立場に戻りたいだろう >>339
薩摩藩は無駄に多い藩士を削減しなかったのか?
こういう場合普通の藩だとまず家臣の禄を削ってそれでもダメならリストラがパターンだったけど 薩摩は特殊としか言いようがない
上杉毛利は関ヶ原で大減封を喰らっても家臣一同貧乏上等、給与減で頑張ろうという事で石高以上の武士がいた
薩摩は別に減封されたわけじゃない 九州征伐で減ったと言っても元々急に膨張しただけの話 国民皆兵みたいな戦闘国家体制を元和偃武後も続けたのが不思議といえば不思議 薩摩は国境に検問所を設けて人の出入りを監視・制限してたし
かなり閉鎖的というかほぼ二重鎖国の半独立国状態 いくら貿易立国薩摩sageしても最後はバレるのに
雑魚が印象操作しても無駄な徒労と終わるのが歴史というもの >>349
なんか消費税は15パーだか25パーまで上げなくてはいけません!とか言ってた気がするぞ
マジだったらマジで経済音痴 >>338
海ながないから搾取したとかオマエの妄想 会津松平は朝鮮朱子学だから下を圧迫したんだよ あのアホ丸だしな家訓も圧迫だろ >>340
最初は断ったけど徳川と越前松平が圧をかけた
会津松平の秋月が毛利の桂に京都の情勢を聞いてバカ殿に報告していた 搾取の会津
会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 金を貪る会津
既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた
(小千谷市史下・越後歴史考) 恫喝の会津
会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し
四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編) 搾取と略奪の会津
越後に侵攻した会津藩兵の目的は
会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治
そしてやがて訪れる新政府軍との対決に
備える事にあった。その為にも越後での
継戦能力を得る為に、越後の民衆の
支持を得るのが不可欠だった筈である。
しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の
敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した
会津藩は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で
民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
旧幕領を接収した会津藩兵が
まず行ったのは、戦費調達の為に
各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津藩の御用金の割当は旧幕領の
各地に及び、旧水原代官領での
千唐仁村十八両、浮村一五七両、
野田新田十八両を始め
前述の小千谷陣屋領での割り当てや
後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻) 町民に捕まる会津
個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた
会津藩士数人が町民によって
捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3) 会津一味は強盗
越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけが行った訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)
新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。 初めから信用がなく信用回復もできない会津
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)
また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。 笑われる嫌われ者の会津
会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までが喜んだ。」
(新津市史通史編下巻) 脅しの会津
会津藩は新潟奉行所に約束違反と抗議し
五千両もの大金を脅し取ったが
とにかく新潟町は会津藩の蛮行略奪から
解放されたのである「新潟港は外国貿易の
場となり、同盟軍が武器弾薬を
購入補給する基地となった。
乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって回復した。
(新潟市史通史編3) 米沢の参謀から嫌われる会津
「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。 庄内からも嫌われる会津
「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)
甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。 米沢の総督もブチギレる会津
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)
会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に
達していたと思われる。 味方から嫌われまくりの会津
新潟奉行所の役人から
米沢藩に送られたと思われる書状にも
会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿) 津軽、南部、会津は農民を人とも思わぬ苛政で有名だからな
庄内、米沢と言った善政で有名な藩とは民に対する姿勢は天地と言える 藩祖保科正之が信州高遠から羽州山形に移封になった時、正之の善政をしたい高遠の農民が山形についてきてしまったという
これが幕末にはこの有り様 おぼっちゃまくんがニヤニヤしてテレビに出るのがキモイ だが徳川家康の肖像画に父親より似すぎてるんだよなw >>372
会津は自分達が清貧で素晴らしい人達みたいに発信しすぎたよなw
めくれたらとんでもない野蛮なヤカラどもだった会津人wwwwww
日本の韓国会津w 外国人が見た悲惨な会津領民
英国公使館員の維新戦争見聞記
■民衆の貧困
残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が
人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく
農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。
この国で生産のされる米はみな年貢として収められねばならなかった。
戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には
三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて
あらゆるものがこの特権階級の生活を
維持するために充当されたり税金をかけられたりした。 外国人が見た残虐な会津
英国公使館員の維新戦争見聞記
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。
そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党の残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。 斗南強制連行は嘘だった
会津再興が認められて、新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと聞かれた時
偽金の不満から一揆が多発する会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった領民達の
一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時、新領地は斗南にしようと
言い出したのは山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が会津藩を流罪にすべく斗南の土地に
追いやったという事は無い。会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い
猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら斗南を選んで移住したのだ。 京でも会津は嫌われ者
禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』 長州人捕虜を虐殺して笑う残虐な会津
寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。 会津は売国奴
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。 白河似北一山百文と差別されてたのは嘘
白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889) 会津は放火魔
会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史 嫌われる放火魔会津
会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。
彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落(郡山市熱海町石筵)の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は
敵が隠れる所をなくすために
放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすため
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流
新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という
集落を焼き払った。その翌日の八月一日
会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を
守っていた二十四人のうち、二十三人が
戦死したのだが、六野瀬集落の人々は
「会津のやつらは……」と言いながら
遺体を阿賀野川に投げ捨てた。 会津藩より格上の徳川御三家は新政府側に帰順したのに、会津藩はなんであんなに最後まで抵抗したのだろう。松平容保の異母兄の徳川慶勝は尾張なのにね。 慶喜も謹慎し、江戸城も開城しているのにそれでもなお抗戦しているところが意味不明 んでも会津が発起しなければ倒幕のエネルギーがどこへ向かったかしれないのも確か
振り上げた拳を下ろす作業は必要だった 振り上げた拳って元ネタは司馬だっけ?
イメージで歴史を語る人が好きなフレーズ その前に会津新選組が京都で土佐、長州の浪士をむやみやたらに殺しすぎたのも事実
それで新政権に恭順すれば帳消しにしてあげますなんて免罪符を与えれるかよ
やはり会津に対する血の復讐はどこかで必要だったかもしれない 新選組のドラマやアニメに影響されて
不逞浪士がぜんぶ長州・土佐の人間だと思ってる人いるよね 実際に会津は京都で土佐、長州人を殺しすぎたよ
禁門の変も含めてだ ここまで来て「一会桑」という単語が一度も書かれてないw 攘夷派は攘夷派で殺すは焼くは押し込み強盗
当時の京都はベイルート、ベルファスト、エルサレムといった名だたるテロシティ同様のテロ対テロの大舞台 将軍家御輔佐の保科正之以来、幕末まで出番がないからなのだ。保科正之は将軍家元御庭番服部半蔵と提携して悪を懲らしめていたのだ。 親藩だから幕閣に入ることがないし事件もない
近所の松平定信や上杉鷹山のような名君もなし
家老の田中玄宰くらいだろうが、野中兼山や恩田杢、調所笑左衛門ほどの知名度はない
同じ親藩の越前藩、高田藩も幕末までパッとしないのは似たようなもんじゃないかな 司馬遼太郎も指摘してたが幕末まで特権階級である会津藩は藩内無風で来てしまったことが仇と化してる
薩摩や長州の藩士は熾烈な競争を生き抜いてきてる
お由良騒動や攻山寺挙兵などでだ >>408
他の佐幕藩もたいして変わらないが特に会津藩は農本絶対主義で商業というのを理解できずに19世紀末を迎えてしまった。 桑名も会津と並ぶ朝的だがなんとかかんとか凌いだ感がある
会津との差は立地だけだと思う
桑名松平が移封せず白河のままだったら会津と同じ運命を辿ったのではないだろうか 会津松平を頑なに徳川の守護神たらしめたのは風土よりも徳川秀忠の直系自尊心だろ それ徳川家康の直系子孫じゃないか
まあ裏切れなかったわけだ >>414
なぜか桑名藩の立見尚史は東北弁を話してたそうで 弘前第八師団長か。
八甲田山の遭難事件があった所だね。
徳島大尉のモデルになった人は
日露戦争の黒溝台開戦で戦死している。 桑名松平はいわば転勤族だからな 元を辿れば終わりだが泰平になってからあっち行ったりこっち行ったりで藩士もどこの出身という意識があったかどうか >>413
商業が理解出来ないと言うより、立地的な理由だと思う。
山国で海も無く、商人も余り寄り付かないし、輸送は陸路山越えなので大量に運べない。 秀吉により蒲生氏郷が会津に封じられたがその任は伊達政宗への押さえだった
上杉、蒲生、加藤と変わったがその任は変わらず政宗への押さえで最後に保科正之が入った時伊達も代替わりはしていたが相変わらず幕府が伊達を警戒していた
これが幕末になると会津を米沢上杉と仙台伊達が庇うという家康時代からは驚くような状況に
幕末になお関ヶ原がとかいう薩長と、戦国時代の行きがかりはどっかに行って地域のまとまりに特化した奥州 その差はなんだったのだろう >>415
そうです松平家だけは立地的な条件より精神的問題にかかわってる。
一種の宗教的な信仰の問題。 >>424
薩長の方は、江戸から遠く経済的にも自立してたから自分達の好きなように出来たってのはありそう、一方で東北は立地的、気候的な理由で相互互助でもしてたのかな? >>410
>>420
越前は慶永が来る前まで一揆だらけでボロボロだった、よく改易されなかったと思う。
尾張も江戸中期以降は度々幕府と対立してたからな、家臣団が優秀だったのも大きいかと。 尾張に大根ありとまで言われたが後期は家臣も頑張ったんだな 幕末は関ヶ原〜大坂の陣時代家康寄りの態度だった佐賀(鍋島)や宇和島(伊達分家)も最終的には薩長に加勢してるからな、関ヶ原は関係無いかと。
西国大名は上手くいってるとことボロボロのとこの格差が凄まじかったイメージが強い。福岡(黒田)や広島(浅野)なんて目も当てられないくらい酷かったしな。一方東北は上手く行ってたのが酒田くらいで、他は基本財政がカツカツ。あとは地理的に長崎からの情報(国外情勢)が入りにくかったのも大きいかと。 >>429
旧今川、武田、後北条遺臣は有能なイメージがある、
関ヶ原で豊臣方に付いてその後仕えた武将も多い。
紀州と尾張の重臣はその辺出身の家が多いよ。 >>424
>幕末になお関ヶ原がとかいう薩長
フィクションを鵜呑みにしすぎ 廃藩置県により大名は東京へ移住した
その際領民が旧主を慕い見送りに出た という話は各地に伝わっている 黒田藩の如きは藩主一行の船が出航時に万の群衆から号泣が起こったという
会津とはエラい違いだ いわゆる最後まで戦い抜いてたのは武士だけで百姓は無視 明治維新で、双方とも百姓の出番ほぼない
最下級でも郷士や豪農、名字帯刀の身分
文字も読めれば書も書ける
奇兵隊にしても戦国の農民兵のようなもの 維新は農民が圧政に立ち上がってという話じゃないからね >>437
維新は武士が圧政に立ち上がったという話でもないよね
新政府軍に動員された農民が鉄砲の玉や大砲の玉や兵糧運んでる最中に殺されたのは
名字帯刀していたわけでも文字の読み書きできたわけでもない
確かに天皇領だった京都の山国隊は一部大名並みの官位を持ち名字帯刀していたが
普通の鉄砲撃ちや農民も参加していた 戦国時代の農民兵と同じだろうな
彼ら官軍に参加した農民たちでその後の維新政府に登用され出世したものはほとんどいないだろう 学もないから無理もないかもだが 価値観の違いだな 出世がすべてかな
京都時代まつりで 維新志士列よりも前の先頭歩く山国隊に対する敬意が
京都人の誇りなんだが 学もないで一蹴りして屈辱されるとは 幕末は中上士の陪臣や豪農豪商上がりのインテリ層vs幕府と藩主の構図だと思ってる。
実際重臣に運営の主導権握られて藩主が置物になってた藩も多いしな 松平容保公の玄孫であらせられる徳川家広公が御宗家第19代当主の座に就かれた
下賤の身ながら会津人として寿詞を奉る ごめんなさい。ちょっとマジレスさせてください。(といってもいつもマジレスなんですが)
このスレを継続的に荒らしてる人がいますよね。
僕はとても悲しいです。
でもね。うん。確かに荒らしたくなる気持ちはよくわかるんだ。
何かに情熱をもって取り組むことは、かっこ悪いことだと思う風潮。
それが僕たちの生きている時代には、根強くある。
そんな中で、このスレの雰囲気はやはり異常に見えちゃうんだろうね。
実際にこのスレを知った当初の僕だって、このスレを読んでるとなんだか何とも言えない恥ずかしさ、みたいなものを感じて、ついつい荒らしたく
なったりもしたもんだよ。
わかる、わかる。その気持ち。
でもね。こんなこと本当は言いたくなかったんだけどね、いや、だってなんか良いことしてる自分に酔ってるだけじゃないか、とか、偽善者だって思われたりすることもあるだろうからさ。
でも、やっぱり、はっきりさせときたいから言うよ。
このスレに常駐してる人は全員、骨髄バンクにドナー登録してます。
だからなんなんだっていうレベルの議論じゃなくてね、現実問題として、多くの患者さんが、自分にあった骨髄液を闘病生活を続けながら待っているんです。
もしかしたら、自分の骨髄液がそんな患者さんを救うことになるかもしれない。
確かに、自分の国の歴史に思いをはせることも大切なことだ、しかし、目の前の現実問題に目を背けたままでは何にもならないじゃないか、
歴史を研究するとともに、それによって得たもの(それは人それぞれいろいろあるでしょう。)
を胸に、現代の社会問題に目をむけ、そして実際に行動に移そう。
それが、冷め切ったこの時代に、このスレから始まるささかやな、しかし熱いムーブメントです。
ところで、江戸時代って、庶民でも、源氏物語とか伊勢物語とか読んでた?
読んでたとしたら、洒落本とか黄表紙とかが取り締まり受けたとき、古典はおとがめなしだったのかな。内容的には、道ならぬ恋みたいなのが結構でてくるけど、これはOKだったのか? いわば自藩の百姓に見捨てられた形になったのが松平容保 土佐の板垣退助も会津藩の惨状を目のあたりにして四民平等の必要性を痛感したらしい 会津松平家の素晴らしさを後世に伝える「会津松平家信奉会」を設立しよう!
会費は月5万円という破格の安さに設定しよう
どう入る? 赤穂言えば討ち入り時の山鹿流太鼓等々だけれど流派本家は赤穂よりも寧ろ吉良に同情し
浪士も浪士で事後津軽藩の追っ手を警戒する始末 山鹿素行の孫(山鹿校尉)は大石氏(大石無人の子孫)と敵対していた
『大石家系図正纂』には、弘前藩の山鹿流門下の悪口が書かれている
一方、『山鹿語録』には
「仇討ちは、天下の大道にて皆がみている場で正々堂々やるべし」とあり
山鹿素水(弘前藩士)が赤穂事件を「火事と偽って討ち入るは野盗に等しい」
と完全否定する論拠としている 會津藩校 日新館
什の掟(ならぬことはならぬものです)
米沢藩
なせばなるよ 会津は素行の生誕地だけど
山鹿流は禁止
藩校では朱子学メイン まあ保科正之だから当たり前なんだが 松平容保=喜徳=頼平−秋雄=圀弘−弘孝(現当主、1946〜) 徳川19代目は今でも世襲将軍様の気分なのか?あほすぎ >>468
徳川家は?島津家は?毛利家は?伊達家は?鍋島家は?山内家は? >>452
神社とかで人を集めて代替わりの儀式だとかアホ丸出しだよな
いい歳して将軍ごっこかよおぼっちゃまくん
そんなのに参加するのも取材するのも相当なアホ連中だ なにも本家が必ずしも栄えなければならぬ法は無いからね
廃れて分家筋の1つでも生き残れば御の字なんだわ >>471
大袈裟も大袈裟すぎたなあれ
持ち上げてる周囲も幼稚すぎてバカすぎたが
なんか中韓の孔子の子孫があとか李氏朝鮮王朝の子孫があとか全然笑えんよ
このバカ国家も ここは会津松平家のスレ
徳川家だの家広だのは完全にスレチ しかし久能山東照宮で19代目の継承式なんか馬鹿げてるよな 松平恒雄は何で華族に昇進しなかったの?
庶民的だから? 世界王族家系サイトだとどうやら本家筋になっているみたいだが恒雄は分家だよねと
且つ貰うものであってそっちの判断だろうから如何ともという話 松平家はどこも世襲臭が強烈すぎて嫌い
毛利家にはそれが弱い >>484
じゃあ毛利家は華族に昇進しなかったの? それなら半分は納得だが
バカバカしさが消えることはない
実はこの国の世襲独裁も北朝鮮と対して変わらん 毛利は幕末まで裏で色々暗躍していた様子やから、何って本家・本流の血統の話
つまりは元就本妻vs妾腹の血統争い 毛利は杉並の一軒家、会津は港区の賃貸マンションだからな >>490
徳川宗家次期当主 家広さんが代替わり奉告 静岡・久能山東照宮
asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1669427208/
↑に6カ所でやるとある
バカボン親子には呆れるわ 日本の19代目将軍様か?
持ち上げてる周りもバカすぎる >>492
そんな高級マンションに住んでるのは大金持ちや >>491
え?売国計画してた大名が素朴?
領民から嫌われまくってた大名が素朴?
家臣に責任押しつけて生きてた大名が素朴?
神保や萱野が可哀想だわ 今の会津市民は1953年開始の会津祭りに完全に洗脳されてるからのう。
そもそも官軍を諸手を挙げて迎え入れたのはおまえらだろうと。 二重鎖国という意味では薩摩より厳しかった佐賀藩
領内は珍しく武家・商家・その他と区割せず殆どが混在して暮らしていた
大大名家には違いないが殆どが身内・重臣らの内分知で鍋島の手取りは中規模大名クラス
ご多分にもれず代々内情は苦しかったけれど幕末の閑叟登場により大阪の商人に金を貸し付けるまでに至る
実は京都守護職を打診していたが何故か断られる
江藤・大隈・大木・佐野等を排出
13・14代目共に日本のゴルフ界に貢献
15代目の奥さんは外人
素朴だな 日本よりも会津藩よりも松平家こそが全てなんです >三重鎖国
そりゃ最後は自藩の百姓から見捨てられたよね 会津藩士の抹殺を主張した木戸孝允には先見の明がありすぎる 会津の話題なのにチョンファン家の話題が出てこないのは何で? 建前上妾は本妻の許可が必要とどこぞのものに養父になってもらってからというのがあって
それらを踏まえないでお手つき~出産の流れになったためが一因 他の時代祭りもだが芸能人を呼ぶより地元民だけで盛り上げたほうが盛り上がるんじゃないか? >>521
ジャニーズ時代劇が失敗してるように
それもそうともいえる 昭和の武将まつりは芸能人よばんでも盛り上がってたからのう 徳川19代目ぽっくんはまつりに出るぶぁいと言いそう はいはい毛利は庶民的で慎ましいから凄いね
さすが松平や徳川とは違うわ
これでOK? あらためて幕末の会津藩と水戸藩だけはキチガイすぎて自滅した 手代木って福島から仙台に多いけど手代木直右衛門の家系は現地採用? 司馬遼太郎談ではないが手代木勝任の弟である佐々木只三郎は世襲利権にしがみ付く人間の悪さ厭らしさが出てるようで好きになれんねえ
小泉八雲に生き神のごとくと評された秋月貞次郎には武士道の美学を感じさせられるが つまり手代木氏は保科正之会津入部以降の現地採用の家臣ってことだね 松平容保の孫娘が秩父宮親王に嫁いだのはいいが子ができずに皇族に会津松平家の血を投入することには失敗 親父さんが吉宗若しくは家斉であれば家重であり家慶であるって感じじゃね?若しくは家定とは思わないが家治かな? 真夜中にそんな書き込みしてる方が気持ち悪いわ
お前は毛利スレで毛利マンセーしてれば良いんだよ ↑
真夜中に延々と毛利と会津スレで自演を繰り返す基地外 徳川は政治に関わるなと勝海舟の戒めを忘れてしまったらしい たしかにブタの将軍様にも血が流れてるが
会津松平家の正当なる直径子孫は誰なんですか? コンドミニアム当主は森林伐採で消滅して一部否認する。
外観は漏電する零下三十度なら当然と言える。 >>543
たしかベトナム人が嫁だったはず・・
あれだけ知名度だけはある大資産家なら簡単に日本人の令嬢とも見合い結婚でもできたはずなんだけど謎すぎる >>560
両親はやっぱり猛反対したらしいが
家広氏は結婚を認めてくれなければ
徳川家から出るとまで言ったらしいよ
国連ベトナム支部勤務時代に嫁と知り合い
ベトナム嫁の無垢な優しい心配りに惚れたらしい >>560
昔装花系雑誌の潮というやつと大名家子孫扱った特別誌に家族ごと掲載されていたが今のを若くしたまんまだったよ
まだ学生だったかな家広さんは、それでも家柄を鑑みて言い寄る♀は居たとは思うがね
それより悲惨だったのが妹さんだったがね失礼ながら 妹さんいんのか?独身なのか?
家広はベトナム人妻とは上手くいってんのか? なんか一応継承式とが大々的にやる反面その実そういう古来からのシステムを嫌う性格なのかもね
故に奥さんが外人とかさ 伝統文化を継承とか愛国心を強調しときながら民主系から出馬?
親に甘えてる何ちゃってヤンキーみたいだな
どこまで甘ったれてんだよ世襲ゲス野郎のくせに! 本気で改革を目指すならば世襲利権も何もかも捨てて出馬しろ 選挙出たりしたのも国のためとか考えてのことではないと思う
選挙に出たのは徳川の子孫の自慢と先祖の自慢がしたいから
継承式とかしたのは徳川の血筋の自慢と先祖の自慢がしたいから
最近もニタニタ笑いながらテレビで先祖の自慢をしていた 多分若いころからそうしてたんじゃないかな?とか、よく言う家光がオレは生まれながらの~じゃないが親父は養子だけど自分は~とか
容姿に難ありでも謙虚さがあればモテたとは思うがアレでそういう性格であればよりつかない https://i.imgur.com/gLrR4T1.jpg
ベトナム嫁と幸せ満開で
ニヤけが止まらない
十九代徳川宗家を継承した徳川家広氏 >>567
徳川を象徴する葵の御紋も徳川一族や親族の松平家のみなが
葵紋を使ってるんでって理由で
十九代徳川宗家・家広氏専用のマークも作ってるぐらい みずから世襲利権を全て捨てた徳川慶喜こそ本物の改革者であろう >>578
みんなじゃなくて1人が連投してるだけだぞ >>577
そうでもなければ増上寺や久能山を借りてまで継承式をやらんでしょ 自分を19代将軍様だと思い込んでいるんだろ
下々の者よ余を敬えと 徳川家を強調しすぎて本拠地の静岡でも落選したともいえる
徳川家とは無縁の地で立候補しとけば有権者から本気度が認められて当選したかもしれんのに 住民票まで札幌に移し何故か北海道知事選に出馬しようとしてた摩訶不思議なる人
この人は謎のベトナム人と結婚したり奇怪なる行動が多すぎる
こういう突発的な場当たり的行動を何より嫌ってたのが初代の家康君なのに
逆に織田信長なんか大好きだったけどな
この人、本当は御先祖より織田信長に情景してんじゃないか? >>584
何かと三河の人間は忠義には厚いけど田舎者の集まりだったとか言ったりしてるね 徳川的な風習は嫌いだけど徳川ブランドの世襲利権だけは意地でも守りたいんですw >>587
結局そういうことやね
選挙で落選してくれて本当によかったわ 前近代的な利権政治家の悪臭が徳川家広から漂いすぎる 徳川の世は1867年の大政奉還で終わったんですよ家広さん そういう人は居ても構わないと思う、いわば人畜無害な訳だからね
問題はきちんと血統として次代を残すか否かという話、自分だけが頑張っても次が居なければ元も後もない 存在してもいいけど政治権力を握らせたら無害から有害物質そのものに成り下がる
まあ落選して政治運動から身を引いたみたいだから良いがな 日本民族を矮小化させた徳川世襲王朝にだけは回帰してはならない 当選してたらどうなってたか興味深いところではあるがw 15代で終了したのに
家達が16代目名乗ったのがそもそも間違い
足利将軍家は16代目とか名乗っていないぞ 将軍家としての其れであって家としては残す許可を与えた訳だから次代を名乗っても可怪しくないよ
しかも元来からして稚すぎる故に慶喜が挙がっただけの話でもある、元からそういう流れがあったという話 ちょっとした拍子に大惨事起こすくらい日本史が杜撰だから
上がってるスレで多分唯一の江戸時代。Xファイルな江戸時代のスレ。 南京の主要日本軍
6師団 熊本 中国兵が最も恐れた泣く子も黙る精鋭赤鬼部隊
9師団 石川 物欲の強さでは16師団のライバル
13師団 福島 捕虜大量虐殺で有名、京都16Dに次いで悪名を残す
16師団 京都 姑娘大好きゴーカン部隊、南京市民からもっとも憎まれた弱兵部隊
114師団 栃木 平均年齢37の老兵部隊だが風紀は他部隊よりまとも 久々に会津プロパガンダ洗脳者を見た
ふわっちで
まだいるんだな会津プロパガンダ洗脳者 政財界を見ても歌舞伎を見ても世襲はゴミだな糞しか産まない そりゃ競争原理を否定する世襲原理は幕末の徳川幕府のごとく自滅するよ 玄孫だかを名乗る男が会津若松に復帰を称していてますが、領内に入れてはならぬ。遠く府外に立ち去らせしめよ。 会津の本当の闇は戊辰戦争でなく明治以降の近代史だと思う、そしてそれには松平家も絡んでいると踏んでいる
薩摩藩士、鬼県令三島通庸と結託して帝政党を作り自由民権運動を弾圧する側にまわりその後喜多方事件と福島事件を武力で鎮圧、その後福島の県政は薩摩と旧会津藩士に牛耳られる事となった
この辺り自由民権運動の先導者が会津を攻めた板垣退助含む土佐閥や政府に寝返った三春藩などが絡んでくるため非常にややこしいのだが…一番かわいそうなのはやっぱり庶民だな…
http://kumando.no.coocan.jp/mj/mj070110.html
その時帝政党の立ち上げ人になり地元の名士になった町野主水と容保は息子を含め家族ぐるみの付き合いだった
この息子の町野武馬は張作霖の軍事顧問となり戦後は吉田茂の相談役で佐藤栄作に90°のお辞儀をさせ笹川良一と懇意だったとか
容保の息子も軍人をやってたし若松には稚松会なんて会津ゆかりの軍人の集まりもあった
ここを掘れば何かとんでもない事がわかるんじゃないかと思うんだが誰か詳しい方はいないか?
会津と言えば戊辰戦争ばかりで中々書籍も見つからないんだ 会津藩はかわいそうな立場ではあるし戦後処理で餓死者が出るほど酷い待遇をしてその反面自分達に靡けば会津の汚名返上や地位金で釣り藩士を走狗とした政府は本当に悪い
だから実態を知っても完全には憎みきれていないし同情もしてる
だがそれはそれとして会津の軍閥や地位にしがみついた者などが起こした非道は地元の者として糾弾しなければならない
元会津藩士は藩を引きずっていつまでもいたが、その裏で三島通庸のせいで家財を売り子を売り反抗して逮捕された領民や対外戦争で奴隷のように最前線に駆り出された会津65連隊や29連隊の若者がどれだけ苦しんだか…
武士としての沽券もわかるが自分たちの犠牲になる弱い人達の事を見れてなかったのが2度の敗戦ではないのかね
松平家含む彼らにはちゃんと反省してほしい、歴史修正主義のようにトリミングしてる若松市もだ 支城というより山砦に等しい猪苗代にすら入封を峻拒され、下北に挙藩移転したが、 >>620
斗南藩に行った者もいれば地元に残った藩士もたくさんいる
家が焼け落ちなかったり親戚を頼れたり死体処理をしたり、理由は色々だ >>522
世界的不祥事を契機にジャニーズが時代劇から消えてくれるとありがたいわ >>570-571
市川猿之助かよw
どこもかしこも日本社会の全分野で世襲支配が限界に来てるんだろうね。 >>531
世襲を全否定しようとは思わないがそれには全面同盟 しかし松平家広さんは増税推進の自民党議員でも主張しないような消費税16%を真顔で主張してたのを聞いて
やっぱりこの人は庶民感覚が皆無だと失望させられたわ
昔の殿様はこういう感覚なんであろう たいてい大増税を平気で主張できるような奴は庶民感覚ゼロ 徳川家広には近寄りがたい自尊心の気持ち悪い高さが垣間見られる 若松スレから転載するわ
この間ニュースになってた松平家子孫がアクセンチュアに入社した件だがアクセンチュアという会社は創価学会のコンサルをやっていた会社だ
そしてアクセンチュア若松の代表の中村彰二朗という人物が若松のデジタル田園都市計画が公明党案件であると公明党機関誌でゲロしてた
Twitterを見ると他の自治体の公明党議員がアクセンチュアと会津大を視察してるのもよく見るし隣の創価学会支部がある喜多方もそうだけどガッツリ食い込まれてる
松平家子孫が入社したのはたまたまかもしれないがこの件が後押しになり次もデジタル田園都市計画・福島イノベーション・コースト構想を推し進めてる現市長がおそらく当選するだろう
今年の会津まつりのポスターにデカデカと写真が載ってたけど今までの歴史的経緯から言ってとても担ぐような一族じゃない、危険な兆候だわ ビッグモーターも世襲副社長が完全に壊したな
世襲は癌 >>637
ビッグモーターは山口だし
世襲とコネで牛耳るような奴はどこだってダメだ
会津の人たちはそういうものを反面教師にしてほしい 反面教師も何も本拠地の選挙ですらも負けた松平19代目を有難く拝んでるようじゃ同類だろw >>641
拝んでねーよ
会津祭りとかそういうイベントで出しゃばってくるけど観光局が勝手にやってくるだけで地元民はしらけてる、っていうか関心がない 徳川家広は静岡では選挙で負けてるようだが
未だに松平家の世襲信仰が根強い会津若松の選挙区なら当選してたかもな もはやどいつこいつも世襲一族はゴミしか生まない
崩壊寸前のジャニーズも一族経営だ 朱子学により世襲支配文化を作り上げた徳川幕府の罪は重すぎる >>645
それを打破した薩長土肥が世襲政治や一族経営を結局してるんだから日本人の本質を問わなきゃならんだろ
改善できる機会は山ほどあったはずなのに こんなところで恨みつらみを書き殴ってないで自分も世襲させる側になれ >>646
え?その時代の人達は世襲や一族経営してないぞw 幕末きってのダメ大名会津松平
支那朝鮮会津による東アジアのプロパガンダ恨文化圏
でもネットの時代になって嘘がバレるどころか
逆に加害行為が明るみになるというお粗末な奴ら >>619
会津の何が可哀想なんだよ?自分達から戦争ふっかけたら負けて被害者気取って160年会津プロパガンダしてるパーじゃねぇか しかし会津藩ほど世襲で完全に自滅したバカ殿も珍しいよ。 >>648
安倍晋三、麻生太郎、三菱住友などの旧財閥系、森永から何から皆そうじゃんw
日本に住んでて何でそこだけ見えなくなるのよw >>650
御所に発砲したり偽旗作って恭順を願い出ていた会津を攻めたのは看破できんだろ
孝明天皇だって暗殺された可能性がかなり濃厚なのは歴史齧ってりゃ知ってるだろ
それに戊辰戦争以降も会津は酷い扱いをされて実害を被っていたのにプロパガンダ扱いとはあんまりだな
こうやって明治維新を教科書通りに読んでるようなものが日本史板のボリューム層とは聞いて呆れるね 官軍が領内に進攻してきたときに領民は万歳で迎えたらしいが
どんだけ旧会津藩士は嫌われてたんだよw >>655
蝦夷地警護も京都守護職も黒船が来た時の警護も全部藩の実費精算で幕府から金が出されなかったから領民からの取り立てが厳しくなったせいで飢えていた
昔から幕府の汚れ役というか先陣を切らなければいけないポジションにあったからな
その後の明治から終戦にかけて会津の一般人が苛烈な運命を辿る事を考えると一番可哀想なのは領民だが何度も守護職を断る藩に対し譜代が汚れ役を押し付けた上に戦況が悪くなったら切り離したりする腹芸や孝明天皇が会津を離してくれなかった経緯を見るに全てを非難できるほどの悪といえるだろうか >>656
最大のアンタッチャブルな点である所の孝明天皇暗殺はアーネストサトウの手記と中山忠能日記で証言されてるがそれに関してどう思うのか
それも勝てば官軍なのか?勝てば何をしてもいいと?とんでもないなぁ 会津藩は家老と領主が無能すぎた
わりと中堅には明治後も活躍した人多し >>652
外様系統には優秀な一族もいたことはいたんでしたが会津藩および譜代諸藩は醜かったねえ。 >>663
えぇ…本気で言ってるの?ここID見えんから661と同一人物か分からんけど
どういう層がこのスレ書き込んでるのか見え見えすぎるでしょ…そいつらが優秀だったなんて話も全然聞かんし明治維新で置いてけぼりで実質置物だったじゃん… >>665
はぁ?薩英戦争なんてことしでかした島津久光はどう考えても暗愚だろ
勝てば官軍で有耶無耶になっただけでとんでもねぇよ賠償金いくらかかったと思ってんだ
幕府に建て替えてもらったりした上にその後米英とグルになって討幕とか目に余るわ あんた島津斉彬を悪くいう学者、評論家、小説家などが皆無なのを知らんだね
久光が島津にめずらしく無能なのは事実だが無能であるがゆえに当代から外されてるから無門 >>668
そんなノーカンみたいなこと言って何がバカ殿なしだよシラけるな
一歩間違えば日本という国そのものが滅ぶかも知れない重大事件だろ、あの時代のイギリスなんて暴漢そのものだった
当主だった以上その責任からは逃れられんわ 統一教会、ジャニーズ、ビッグモーター。
すべて一族支配で滅びていく 薩摩は島津久光を当主にさせなかった西郷、大久保、小松の連携が見事に上回ったが
会津の西郷は無能すぎる家老だから滅びてしまったんだろう
やはり2.3の実力こそ巨大組織の命運を支配するもんだ 会津や庄内みたいな中間管理職藩は幕府に対して強く出れないからどのみち逃れられなかったろう
水戸がちゃんと機能してたらスケープゴートは水戸になってたかもな いかにせよ会津松平家は世襲は癌細胞しか産まない見本 >>674
現在進行形で台湾で戦争煽ってる大久保利通子孫のボンボンより遥かにマシだわw やはり生まれた時からチヤホヤされすぎてるとおかしくなるんでしょう。
生物は環境に左右されますから。 >>671
バッシングされても結局生き残ってるじゃん
3個中2個は山口絡み、またはアメリカ絡みだしその両方に絡んでるのが統一教会だし…
自浄作用が無さすぎる 解散してないし全然守られてるじゃん
日本人って喉元過ぎれば全部忘れるから 幕末会津藩は優秀な人材が揃ってたよね
さすが日新館の存在は大きい >>686
願望乙
柴五郎が九九すら教えてないと貶してたぞw >>686
会津プロパガンダで美化する癖は未だに受け継がれてるのか
だから朝鮮レベルなんだよ
会津は戦局や時世が分からず売国計画までして負けたんだよ
そして会津プロパガンダで美化して観光展開
助けてくれた長州を敵視してな >>690
おっ会津プロパガンダおじさん久しぶりじゃんか
長州スレ最近盛り上がってないけどちゃんと頑張って書き込めよ〜 大量の譜代大名が溜間に詰めるようになり、本来の意義が損なわれることを危惧した井伊直弼は、松平頼胤、松平容敬に書簡を送り、溜間本格の三家が結束して、行くことを、確認しました >>689
それは驚いたわ
なんだか負けるべきして時代遅れの会津は負けたかもしれんね 会津信者の気持ち悪さは統一信者やアレフ信者に匹敵する https://i.imgur.com/A0FH1Ir.jpg
更に家族等などにも紹介して更に\4000×人数を入手可能!
tk..tk [あぼーん用] 保科正之は保科で通した
その後に後継が松平を名乗ったということだが保科姓は完全に捨てたっていうことになるのだろうか
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TikTokから見れば4000円は小銭か >>699
飯野系初代が元々な後継扱いだったのを廃嫡してまで正之に継がせた経緯があるんでね
血統としてもそっちで繋いでいるから遠慮したという感じかもしれん 保科正之メインで家光〜家綱期の大河要望は根強く続いてるね
由井の乱とか大火からの復興でエピソードもあるし、知恵伊豆とか水戸光圀みたいなキャラもいるから
シナリオ構成しやすそうなんだけどな 最近YouTubeでまた会津プロパガンダが活発化してるみたいだね
5ちゃんや会津若松の爆サイでは会津松平の蛮行が明るみになって会津プロパガンダ洗脳者も沈静したけどさ
本当反日系の奴らってしつこいよね 最近YouTubeでまた会津プロパガンダが活発化してるみたいだね
5ちゃんや会津若松の爆サイでは会津松平の蛮行が明るみになって会津プロパガンダ洗脳者も沈静したけどさ
本当反日系の奴らってしつこいよね >>691
会津プロパガンダおじさんって日本語的には会津プロパガンダに洗脳されてるおじさんの事だけどな
で、お前は未だに洗脳されてんのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています