邪馬台国畿内説 Part831
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4~6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1669484143/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>949
日本は遣唐使船でかろうじて追いついたが、赤壁から約700年後のことである >>952
外洋帆船の発明はそんなもんだろう。
本格的な外洋帆船時代は15世紀から。 @阿波 纒向古墳造営基地局が毎日毎日古墳建造に追われていた頃、九州の邪馬台国は狗奴国と戦争をしていた >>953
魏書には、 237年 青・エン・キ・幽の四州に命じ、大いに海船を建造させた。とあり
又、当時の船の記録では、呉の船が4本マストで700-800人の人員を乗せ、ベトナムまで外洋を航行していたとの事だ。 >>956
>又、当時の船の記録では、呉の船が4本マストで700-800人の人員を乗せ、ベトナムまで
呉からベトナムまでなら、沿岸航行だな。 大海原の大航海ではない。 @阿波 intcal20により箸墓の年代が大きく修正される可能性が出てきたのは確実
>>1の主張は仮説の一つに過ぎないと訂正すべき
持論を撤回するのは恥ずかしいことではないのだから、>>1は誠実に対応すべき
https://agora-web.jp/archives/220907081125.html >>961
そんなこと、どうでもよろしいがな。
intcal20がどうあれ、たびたび大陸・半島と往来し、
鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してのは、
倭国(阿波)以外に無いんだから。 わははははは @阿波 >>965
魏の使節は平戸でどのような船を作ったのじゃ
?近い画像を探して貼ってみな >>966
>魏の使節は平戸でどのような船を作ったのじゃ
魏の使節ではない。 「倭人(阿波勢力)」の海人族だ。
舟形埴輪程度だろう。 @阿波 >>968
帆船でやってきた魏の使者がそんなポンコツで魏に帰ると思うか? >>969
>帆船でやってきた
弥生時代に、外洋の荒波に耐えうる外洋帆船は存在しない。 @阿波 >>952
それは内陸海なし県の日本国だろ。
九州倭国は対馬海峡を自由自在に行き来しした海人。 >>662
で、南方から入植したという中卒ギャグ論文は?
早く出せよ視界に入るだけでトラウマになる醜悪すぎる南支那ブタチック黒人形質ボルネオロピテクス >>967
景初元年(237)
明帝 曹叡は青州、幽州等四州に海船の建造を命じている、公孫淵を討つ目的の為に、公孫氏を討伐の後に魏の使者もこの海船で倭国にやってきた事だろう >>973
弥生時代に、外洋の荒波に耐えうる外洋帆船は存在しない。 @阿波 魏志倭人伝の持衰の記述を読むに、対馬海峡を渡海する能力は倭人の船だけにしかなかったのだろう。
少なくとも帯方郡が保有していた船舶は沿岸航行用であり、渡海には持ちいなかったと思われる。
性能的には可能だった可能性もあるが、魏志倭人伝からはそもそも玄界灘の制海権は伊都の大率が掌握していたから実際には帯方郡の船が対馬海峡を渡海したことはなく、乗組員に必要な操船スキルはなかったのだろう。 >>947
赤壁の戦いは無かったとされているけどね
海で壁じゃおかしいでしょ? >>977
魏は三国時代で赤兎馬が活躍する時代、弥生時代とは違う 間違えたかな?赤壁の戦いは有ったのかな?
とあるサイトで、陸地戦だったと見た覚え有るんだけどな・・・
赤壁という名前は何を指すのだろう?
普通、山とかじゃない? 実質的には伊都が玄界灘すなわち狗邪韓国から倭奴国までの海面、倭国そのものを支配していた。
内政および外交を担い、制海権を掌握していた伊都こそ倭国の王都。
大率は伊都において女王卑弥呼の代理として諸国を検察した。
政治的中心である伊都と商業的中心である奴国を合わせて女王の直轄地、すなわち邪馬台国。
奴国二万戸を含めた邪馬台国七万戸は九州北部。 それとも、湾岸沿いに赤壁という地名が有ったのかな? 開戦を決意した孫権(そんけん)は208年、劉備(りゅうび)とともに曹操(そうそう)の数十万の軍勢と長江沿岸の赤壁で激突します。
どうやら、俺の勘違いのようだ。すみませんでした。 公孫淵が呉の建業まで使者を派遣しているから遼東半島から長江河口まで行ける大型船舶を保有していた。 ありゃ、こんなサイトが出てきたぞ・・・
映画でも有名! 赤壁の戦いの「赤壁」は何処にある?
https://3kingdoms.info/cao-wei/cao-cao/210/
本当は、〇〇にあると書かれているな・・・ >>978
>赤壁の戦いは無かったとされているけどね
そういうレアな情報を知っていながら、赤壁を知らないとは、驚きだ。 @阿波 >>989
>遼東半島から長江河口まで
遼東半島から長江河口までなら、沿岸航行だな。 大海原の大航海ではない。 @阿波 スレチですが、阿波さん、どう思いますか?
あんな大戦があったとは、信じられないと言えば信じられないですが
それに、大船団って、そう簡単に火で燃えますかね?
それから、船団同士繋げたら、火計されることぐらい、曹操なら気づきませんかね?
敵は、あの周瑜ですよ? >>979
>魏は三国時代で赤兎馬が活躍する時代、弥生時代とは違う
これにも驚いた。 @阿波 赤壁が、魏と呉の境付近にあるとは容易に想像つきますが、
ダイレクトに赤壁の位置がわかる人は、マニアしかわからないんじゃないかな?
しかし、荊州ねえ・・・ 公孫氏の国と呉の国との間に敵国の魏の国があることを知らない人がいることに驚いた。 史書に登場する倭人は中国の呉・越の末裔とのこと。
呉越から直接渡ってきた倭人は北部九州に倭奴国そして卑弥呼女王の邪馬台国をつくった。
同じ倭人でも一旦半島を経由し山陰から入植したのが東の倭種の国=のちのヤマト政権だ。
参考:ハプログループ
https://i.imgur.com/xQ4QPNd.png
O1b2(L682) 半島系固有の遺伝子
https://i.imgur.com/RBOQhB6.png >>997
魏の兵は、沖を航行する船団を呆然と眺めていたことだろう。 わははははは @阿波 このスレッドは1000を超えました。
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