幕末の南部藩・米沢藩・仙台藩・会津藩
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会津と庄内藩は戊辰戦争の時期にドイツに北海道と新潟の一部を売るやりとりしてたんだよね。あくまで幕府から管理をまかされてるだけなのに。日本の国土を売る事は日本人としてありえないことだけど、会津藩だけは被害者ぶってるクズ国民。 殺戮集団相手の会津!
薩摩主体部隊相手の庄内!
庄内つえー和議
西郷→黒田に託す
長州激おこ金出せや
庄内藩庶民ホイ30万両 会津藩は薩長に虐殺されたとかいうアホな事言う、馬鹿な歴史家がいる事からして会津には馬鹿しかいないのはわかるでしょ。本当に虐殺なんてしてたら会津の人間全員を敵にまわすしそもそも会津戦争に長州藩は参加してないからな。 会津は薩長に敗けて無駄な血を流して、農民にも恨まれ、惨めでやるせないから責任転換したいだけでしょ。北海道民の俺からしたら北海道の領地を外国に売ろうとしてた事が日本人として許せない。 なーにが、「ならぬものはならぬ」「義」だよ。ふざけるな会津。西南戦争で会津藩の将軍が西郷隆盛は死んで満足、復讐を果たせたとか書いてた日記あるし会津はクズ。 幕府から信頼されてたから京都守護職をまかされたとか言われてるけど、福井の藩が京都守護職を拒否したから、会津に話がきて会津は引き受けただけみたいだしさ。徳川慶喜も会津がお金ないのはわかってたらしいし、無理やり押し付けられただけ。 言いたい事を纏められずに4連投するようなバカが言っても説得力皆無だな
ババアの井戸端会議じゃあるまいし、少しは推敲しろ
思いついた事を即書かないと気が済まないのか?
そういう病気なのか? RAPTさんが安倍晋三と小泉純一郎が朝鮮王室李家の血統であることを暴いた直後
RAPTさんの奥さんのナナさんとレビ人のカワタさんが殺されかけました。
李家のルーツは、元々はイスラエル民族で神に仕えていた祭司の一族レビ族である事が発覚しています。彼らは悪魔を拝み、神様に反逆したために裁かれて、彼らの国(北イスラエル王国とユダ王国)を滅ぼされて、世界に散らばる羽目になりましたが、逃れ居座った国においても、今日まで悪魔を拝み続け神様に反逆しつづけています。
彼らの悪魔崇拝組織であるイルミナティ、フリーメイソンは片目、一つ目をシンボルにしています
ナナさんとカワタさんの命を狙った加害者女性をよく注意して見てみてください。
髪の毛で片方の目を隠して、フリーメイソンであることを何気にアッピールしています。
こちらが、事件の動画です。
http://kawata2018.com/2019-05-13/
加害者女性の乗っていた車にも、秘密が隠されていました。
黄色は李家のシンボルカラー、そして車種はN-ONE
https://twitter.com/aniki0714/status/1128939663656275968
フリーメイソンの日本グランドロッジは、東京タワーの真下にあります。
こちらは、東京タワーが何を意味しているのかを暴いたツイートになります。
https://twitter.com/aniki0714/status/1031882117980909568
東京タワーの近くの芝公園には、増上寺があります。
増上寺の本当の意味は、増→憎 上→神 寺 で
神を憎む寺という意味ですが、人々にばれないように当て字を使っています。
増上寺は江戸三十三か所の1つで
フリーメーソンは33階層の位があります。
イエスキリストは、33歳のときに十字架に磔にされて、亡くなりました。
https://twitter.com/aniki0714/status/1167996991999111168
フリーメーソンのトップは天皇であることを、
フリーメイソンのメンバー(メイソンリー)が告白しています。
https://www.youtube.com/watch?v=yA3nC_PDsX4
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 江戸時代もわりと西廻り航路で京大坂へ移動してたからなあ >>679
蒸気船が来る前は、西周りがメインルート ttps://www.youtube.com/watch?v=fhQdezweBsg
↑韓国人が酒井玄蕃を紹介している動画だが、翻訳がないからわからんw 庄内藩の鬼玄葉が新徴組を率いて
縦横無尽に戦った
って事かな メッセージを翻訳してみたが…
本間氏の話が出てて、本間氏が佐渡本間と酒田本間に別れていて、本間ゴルフクラブってのが、今は中国資本になっているけど
酒田本間氏の流れだ…っていうWikipediaにもないディープな会話がw
「花の慶次」には佐渡本間を攻撃するって話が出ているってことも書き込まれていたなあ。 >>683
嘘話しやんか
酒田36人衆でググれ
佐渡本間の分家の1部が酒田本間
本間ゴルフは分家で会社存続の危機に何も支援して無い、初めてはゴルフクラブの修理から起業 >>684
俺が書いているんじゃなくて、韓国人が噂しているだけだw ケツ穴小さいなw
向こうは向こうで「敗者にも一定の理屈を認めるのは凄い」「俺たちがそうなるには100年かかるのでは」と書いているのにね。 >>683
>佐渡本間を攻撃
そういう計画は実際にあったのか? 1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、
会津若松市側は『まだ120年しか経っていない』と、これを拒絶した。
【戊辰戦争】会津って150年以上たってるのにまだ長州を恨んでるの?まるであの国みたいだね(笑)
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1610022414/ 飯盛山で切腹したのは6人で5人が死亡。
勘違い切腹も嘘。話し合いで切腹する組と下山する組に別れたんだよ。
でも会津プロパガンダで城が落ちてると勘違いして
20人切腹して19人が死んだことになってるんだよな。 斗南への強制連行も嘘で会津の家臣団で話し合い家老の山川が斗南行きを決めてる
斗南は今も昔も人が住んでる土地なのにとんでもない土地に飛ばされたように宣伝するのは失礼だろ 萩には謝るべきだろ
市長まで会津プロパガンダに乗っかって
死体埋葬禁止を公言したりしてるし
こんな韓国臭い地域他にないぞ 会津のまともな歴史家である野口氏が
会津プロパガンダによる嘘を指摘。
>野口さんによると昭和30年代
>郷土史を研究する地元団体の冊子に
>遺体の埋葬を禁じたことが記された。
>昭和50年代になると『戊辰殉難追悼録』に
>会津若松市長が寄せたあいさつ文で
>「埋葬を長期間許さずして
>その屍を辱めた」と書いた。
>埋葬禁止説は半世紀も伝えられ
>「周知の事実」として知られるようになった。
死体は会津降伏後直ぐに埋葬が開始されたのに
会津若松は町ぐるみで嘘をついてるじゃないか!
そもそも埋葬を禁止した命令なんか出てない。
埋葬中に会津の民が一揆起こしたり
雪が降ったりして埋葬作業が中断してる間
死体に何かしたら厳罰なって命令が出ただけ。
一揆が終息し天候が回復してから埋葬作業が再開されてる。
会津若松の資料に記されてるのに町ぐるみで
歴史を捏造して被害者ぶって市長までも挨拶文にするとか韓国かお前らは!! 会津人には史実を見る勇気を持って欲しい。
儲かるからと創作や捏造の世界に生きて洗脳されないで欲しい。
脱会津プロパガンダして山口に謝るべきだよ。 飯盛山で死んだのは長瀬雄次、石田和助、篠田儀三郎
野村駒四郎、林八十治なのに何で19人が死んだ事になってるの? 信用がない会津
会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 金を貪る会津
既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた
(小千谷市史下・越後歴史考) 脅しの会津
会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し
四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編)
遂に代官領の領民達も恫喝に屈して
会津藩の支配を受け入れる事になるのである。
他の旧幕領も同じような経緯で
四月には会津藩による旧幕領の制圧は終わった模様である。 蛮行の会津
越後に侵攻した会津藩兵の目的は
会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治
そしてやがて訪れる新政府軍との対決に
備える事にあった。その為にも越後での
継戦能力を得る為に、越後の民衆の
支持を得るのが不可欠だった筈である。
しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の
敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した
会津藩は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で
民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
旧幕領を接収した会津藩兵が
まず行ったのは、戦費調達の為に
各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津藩の御用金の割当は旧幕領の
各地に及び、旧水原代官領での
千唐仁村十八両、浮村一五七両、
野田新田十八両を始め
前述の小千谷陣屋領での割り当てや
後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻) 町民に捕まる会津兵
組織だった徴発だけではなく
個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた
会津藩士数人が町民によって
捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3) 民衆に乱暴する会津
武器を持ち民衆を恫喝する
会津藩士や衝鋒隊の兵士達に
民衆は次第に手も足も出せなくなる
「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、
度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、
或いは乱暴等いたし候。」
(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿) 蛮行三昧の会津一味
越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけが行った訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)
新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。 信用がない会津
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)
また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。 笑われる会津
会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までがよろこんだ。」
(新津市史通史編下巻) 大金を脅し取る会津
会津藩は新潟奉行所に約束違反と抗議し
五千両もの大金を脅し取ったが
とにかく新潟町は会津藩の蛮行略奪から
解放されたのである「新潟港は外国貿易の
場となり、同盟軍が武器弾薬を
購入補給する基地となった。
乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって回復した。
(新潟市史通史編3) 米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。 信濃川西岸の戦況が芳しくないのを受けて
督戦に訪れた際に、この方面の庄内藩兵を
率いる石原多門から次のように語られている。
「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)
甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。 離別を求められるほど酷い会津
新潟奉行所の役人から
米沢藩に送られたと思われる書状にも
会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿) 味方に迷惑かける会津
米沢藩総督である
千坂高雅が国許に送った書状にも
次のようなものがある
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)
会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に達していたと思われる。 こんなに酷いことしておきなが被害者ぶってる会津は韓国と同じレベル 世良の手紙は会津が作った偽物だと仙台が認めている
慶応4年8月29日(1868年10月14日)
仙台藩主伊達慶邦は新政府への謝罪降伏の件を
歎願しようと正使氏家兵庫と副使堀省治を
熊本藩陣中へ遣わし、熊本藩は津田山三郎と
米田虎之助が応対した。
この仙台藩の降伏交渉の際、仙台藩側は
「会津藩が手を尽くして本物のように
見せ掛けた世良修蔵の偽手紙に
仙台藩を滅ぼすと書いてあったので
会津藩に味方すると決めて世良修蔵を
殺害してしまったが、仙台藩には
朝廷に背く意思はない」という趣旨の弁明。
世良修蔵の名で書かれた慶応4年閏4月19日
(1868年6月9日)付けの大山格之助下参謀宛て密書は
会津藩が作成した偽手紙であったと述べている。
会津はマジで糞だな わろたwwwwww
白虎隊の伊東悌次郎の遺体は占いで見つけたんだそうだwwwwww
『戦後、悌次郎の親友・井深茂太郎の遺族が
占いで茂太郎の死地を探し当てた際
茂太郎の遺骸とともに悌次郎の遺骸も見つかった。
遺族は、遺骸をそのまま飯盛山の自刃の地に留め置き
遺髪のみを持ち帰って菩提所に葬ったという。』
遺骸をそのまま飯盛山の自刃の地に留め置きって
飯盛山で自害したのは
長瀬雄次、石田和助、篠田儀三郎
野村駒四郎、林八十治、飯沼貞吉だろうがwwwwww
会津人って朝鮮人だろwwwwwwwwwwwwwwwwww 福島県の内堀雅雄知事は23日
新型コロナウイルスを国内外の政治家らが
「中国ウイルス」「武漢ウイルス」などと
呼んだことについて、「誤解や偏見を生むような
対応はできる限り控えることが重要」と
苦言を呈した。定例記者会見で質問に答えた。
福島県姉妹都市
会津若松市 中国湖北省荊州市
いわき市 中国遼寧省撫順市
須賀川市 中国河南省洛陽市
二本松市 中国湖北省京山県
西郷村 中国天津市薊県
泉崎村 中国北京市房山区竇店鎮竇店村
楢葉町 中国黒龍江省五常市
富岡町 中国浙江省海塩県 暴かれた白虎隊士中二番隊の嘘!
隊長は1人で食料調達に行ったのは嘘。
隊長は隊士17名と城に戻っている。
隊長達とはぐれた飯沼達20人が勇敢に戦ったのは嘘。
飯沼の回顧には逃げ回ってた話しか出てこない。
飯沼達と対峙した薩摩軍の足取りを考えても勇敢に戦ってないと分かる。
飯沼達20人が飯盛山で勘違いして切腹したのは嘘。
飯沼達は飯盛山まで逃げて話し合いをし、切腹する者と下山して城を目指す者に分かれた。
切腹したのは飯沼を含む6人で飯沼以外の5人死亡し遺体は妙国寺に埋葬された。
下山した14人は敵に見つかり8人が死亡。6人は城に戻れた。
8人の遺体がどこに埋葬されたかは不明。
戦後何故か妙国寺にある5人の遺体を掘り返し飯盛山に墓を「16」建てる。
その後墓を3つ増やして19にしている。
飯盛山で自決し死んだのは5人で妙国寺に埋葬された。
下山して死んだのは8人でどこに埋葬されたのか不明。6人は生き残っている。
妙国寺に埋葬された遺体以外の遺体はどこから持ってきたのか?
何故6名生きてるのに生きてる人の墓まで作るのか?
何故墓の数を増やしているのか?
白虎隊士中二番隊の話は会津プロパガンダで嘘にまみれている! 遺体埋葬の開始:10月3日
世直し一揆の開始:10月3日ww
新政府が埋葬作業やってる時に、
会津の皆さんの御先祖である農民は、一揆に夢中。
埋葬作業の邪魔しちゃダメでしょうw 被支配農民層は、会津藩の武士共が大嫌いだったんだよ。
ちょっと郷土史を調べれば、そんな記述証拠はボロボロ出て参ります。 新島八重
>生い立ち、生涯より
>「幕末のジャンヌ・ダルク」
>「会津の巴御前」
>「元祖ハンサム・ウーマン」
>「日本のナイチンゲール」などと称されている。
どこでだよwwwwwwwwwwwwww
会津プロパガンダで勝手に言ってるだけだろwwwwww
>当時同志社の学生だった徳富蘇峰は彼女に
>鵺というあだ名をつけ世間からは「悪妻」と評された。
会津プロパガンダで美化されただけで実質は悪妻wwww
新島八重は明治政府から勲七等宝冠章と
勲六等宝冠章を受賞してるんだが
会津プロパガンダ洗脳者はそこスルーすんの?w
会津プロパガンダ洗脳者が嫌いな明治政府からですよ?wwww
しかも民間人の女で初めて勲章を貰っている。
会津プロパガンダ洗脳者によると会津人は差別されてるんだよね?wwww
おかしいねぇwwww差別されてるはずなのに会津人の女がが民間人初の勲章授与ねぇwww
八重が勲章貰った明治29年12月に総理大臣だったのは
鹿児島出身の松方正義。
八重が2回目の勲章貰った明治39年4月の総理大臣は山陰道鎮撫総督の西園寺公望で官軍だった人物。
しかもフランス留学後に伊藤博文の腹心となってる。
おかしいなぁwwwwww会津プロパガンダだと差別されてるはずなのに
旧官軍の総理の時に2回も勲章貰ってるんですかぁ?wwwwww 勲章っていつあげるの決めるか知らないけど松方の前は山口の伊藤博文
西園寺の前は桂太郎で二人とも山口出身だね。
前年度に決まるものなのかな?
まあ何にせよ会津人の新島八重は官軍から勲章貰ってます。 会津地方幼稚園の学芸会。園児に剣舞の真似をさせ、
最後に全員切腹するのには驚いたね。基地外沙汰。 東北地方には「部落はない」といわれてきたが
藩政一覧などで東北各地に部落は存在していた。
しかし、部落を歴史的にも
存在しなかったことにする意識が
部落民に離散を強制して解体させたところもある。
しかし、沈黙のなかにおかれ
劣悪な環境がそのままにされているところもある。
会津坂下町では、部落側だけが側溝が
細くなるという現実がいまだに残されている。
部落の側が低地にあるため、呑みきれない雨水や
雪解け時の水が側溝にあふれて
部落の側に流れ込む現実を見た。
和田委員長が地域の人と地道な
行政交渉を続けた結果、一般対策ではあるが
少しずつ環境改善がすすんでいるようすが見られた。かつて町は、同和対策事業を住民に黙って実施した。
住民側は「同和地区実態調査除外申請」を出すまでの事態になり
それ以降、政府の問い合わせに町は応答していない。
会津若松市でも同様に、同和対策事業の
実績がありながら、真剣にやろうとはしなかった。
部落の隣接する地域の土地整備事業を優先させた。
部落への差別感情に乗っかることで
推進した事業はきわめて不自然な区画を現出させた。
高低差を無視した下水路など実態を放置し続けた行政の姿が見てとれる。
「会津魂」がすばらしく藩主の領民を思う名君がいたのなら
なぜに今日も部落の人たちのみが不当な現実のなかに置かれなければならないのか考えさせられる研修となった。 白虎隊士中二番隊の勘違い切腹話は嘘ですよ。
切腹した人数は6人です。
飯沼貞吉が残した回顧録には勘違い切腹で
20人が切腹したとは記されてません。
飯沼達は隊長達17名とはぐれてしまい
飯盛山まで逃げてこれからどうするか話し合い
飯沼を含む6名が山中で切腹し5名死亡。
残りの隊士は下山してます。
城に戻る途中で戦死したり自害してますが
6名は生きて城に辿り着いてますよ。 『会津人が書けなかった会津戦争』(著)牧野登
(引用)
山川浩・健次郎兄弟の思想を論理的骨格とする会津士族たちの主張は“会津は
朝敵にあらず”の一点に徹底集中した雪冤論であり、その論調は「会津会会報」に
拠る荘田三平や史学者花見朔巳などの論客によって踏襲・展開されたが、昭和3
年の松平勢津子の皇室輿入れによってその目的は実質的に達成され、さらに昭和
12年5月に若松で行われた徳富蘇峰の講演「維新史に於ける会津」によって集約・
完成されたといえよう。
しかしこの気運は、天皇を神格化する軍国主義の風潮と政治構造の力によって結
果的には利用され、会津は沖縄に似た皇民家教育の道を突っ走ることになった。
“会津武士道”が国是として賞揚賛美される昭和前期から戦中にかけての時代風潮
の中で、かつては武士階級や士族の倫理であった会津士魂なるものが、郷土意識
の顕彰気運と合流して一般会津市民の意識をも併呑し、今日の姿を生み出したので
はあるまいか。
(引用終わり)
戊辰戦争後新政府から手厚いフォロー受けといてその恩は知らぬふりw
維新後の弾圧差別話は根拠なしw
美化・虚言・責任転嫁が大好きな今の会津は
『什の掟』
三、虚言をいふ事はなりませぬ
四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
についてはどう考えているのかな? かな? 会津が郡山で放火や略奪をした史料です
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号
これ以前ネットでも見れましたが今も見れるのかな 英国公使館員の維新戦争見聞記
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。
そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党の残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。
これが会津武士道なのか?(´д`|||) 斗南強制連行は会津プロパガンダによる嘘
会津再興が認められて
新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと
聞かれた時、偽金の不満から一揆が多発する
会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。
もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった
領民達の一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時
新領地は斗南にしようと言い出したのは
山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの
怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が
会津藩を流罪にすべく斗南の土地に
追いやったという事は無い。
会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い
猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら
斗南を選んで移住したのだ。 1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
どっかの国にそっくりだな 禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』
当時の会津は嫌われていた。
会津の活躍は会津プロパガンダによる美化。 寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ。
会津ろくでもねえな
まるでベトナム戦争の韓国だ! 会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?
唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。
奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。
子孫も会津プロパガンダの嘘を指摘か。 会津は「今に会津が江戸になる」と謳い…
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。 家永三郎《日本の歴史4・明治維新》
>若松城が落城すると、200余年の長いあいだ役人の圧制に苦しんでいた会津の人民が、
>いっせいに『世直し』一揆に蜂起した。10月3日、大沼郡ではじまった一揆は、
>11月下旬の南会津郡の一気におよぶまで、2か月近く、全領内で、しかも、まだ、
>政府軍の砲火のおよばないところでもおこった。かれらは、『徳政』あるいは、
>『肝煎(庄屋)征伐』と書いたむしろ旗をかかげ、『村役人の農民による選挙、土地を
>平均に所有する、高利貸から借りた金は、徳政としてかえさない、3か年の無年貢』などを
>要求した。農民は、役場・肝煎・高利貸などをおそって打ちこわし、土地台帳や借金証文を焼き、
>村役人を新しく選挙した。」
会津農民や領民は会津藩を見放したのである。領民たちは会津武士の死骸から衣服や金目のものを
剥ぎ取って売り、藩士の死体収容すら拒否したのである。 会津は売国計画を進めていた
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。 白河似北一山百文と差別されたのは嘘
白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889) 会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史 斗南藩史の作者である葛西冨夫は
「飼い犬に足を噛まれるとはこのこと……
会津戦争に追いうちをかけられたようなこの一揆は
敗戦にうちひしがれた会津藩士にとって
大きなショックであったろう」と記している。
何なの?会津系の奴って。領民を犬くらいにしか見てないのか!
会津が最終的に領民から見放されたのがよく解るわ! 会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。
彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落(郡山市熱海町石筵)の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は
敵が隠れる所をなくすために
放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすため
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流
新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という
集落を焼き払った。その翌日の八月一日
会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を
守っていた二十四人のうち、二十三人が
戦死したのだが、六野瀬集落の人々は
「会津のやつらは……」と言いながら
遺体を阿賀野川に投げ捨てた。 駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書
・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送さかな態度で見送った 福島原発が作られた当時の東電社長も福島人
東電関係者の解説
渡部氏は東電の“中興の祖”といわれる
故・木川田一隆元会長と駝懇の仲だったのです。
渡部氏が一年生議員のころ、当時社長だった
木川田氏が福島出身だったので
後援会長就任を打診したほどです。
また、福島第一原発を作ったのは
木川田氏が社長の時代でもありました。
正確には原発を福島に誘致したのは
福島が木村王国と呼ばれていた頃
当時県知事の「木村守江」が福島第一
第二の原発を誘致した。
当時の東電社長 木川田一隆と
親交が深く雇用対策として誘致した。 会津世直し一揆
かねてからの重税や物産の専売制度による
搾取に加え、藩主松平容保が
京都守護職として上洛して以来
その経費を賄うために行われてきた
増税に対する不満に一気に火を
つけることになった。
9月22日(1868年11月6日)
会津藩が明治政府に降伏すると
たちまち藩政崩壊による権力の
空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
会津藩降伏後、明治政府は
民政局を設置して暫定的に行政を行わせ
村々の支配は従来の村役人に
当面任せることとした。
だが、これまで会津藩当局の支配の
末端を担った郷頭・肝煎ら村役人
(彼らは地主として小作料を徴収し
また債務により農民を従属的地位に
追いやる者も多かった)を排斥するように
求める農民たちの動きが領内各地で高まり
会津藩降伏のわずか10日後の
10月3日に会津若松から遠い大沼郡で
まず一揆が勃発し以後、領内各地に波及していった。 会津プロパガンダとは
会津を独善的に正義、薩長を絶対悪に仕立てた
日本史改ざん、WGIP、地域分断工作です。
会津プロパガンダ創作者とは
歴史学者でも郷土家でもない創作作家です。
団塊の世代、それに近い年配者が多いのが特徴。
脳内解決で執筆してるので、史料の提示を
求められるとキレるか、はぐらかして逃げます。
会津プロパガンダ洗脳者とは
会津プロパガンダを鵜呑みにしてる人達です。
ソースは史料ではなく、作家の作品、
会津プロパガンダを指摘する者は長州人
長州ヲタと断定して挑発、罵倒、ループ
相手の文章を改ざん等を行います。
作家の作品がソースなので史料の提示はできません、
会津プロパガンダを肯定できないのに
いつまでも会津プロパガンダを信じてる奇特な人達です。 会津は放火魔
・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村、
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より 明治2年5月11日
旧幕軍(会津含む)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある 孝明天皇から直で守護職任命されたのは
会津プロパガンダによる嘘
孝明天皇が直で朕を守ってと勅を出したのは
萩の毛利家と水戸の徳川家 会津藩郷医江川元逸『旧記集録』
官軍方密偵(高田藩)が捕えられ
斬首された時、肝臓を切り出して
酒の肴に醤油をつけて
食べたことを書き残している。
日光口でもあったと記録にある。
この様な、内戦における憎悪の
激しい狂気が記述されている。
会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。
会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。 会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。 見せしめの為に会津人の死体を野晒しにしたのは嘘だった!
>幕末の戊辰戦争(1868年)で
>戦死した会津藩士が
>埋葬されたとする史料が
>福島県会津若松市で見つかった。
>同市在住の歴史研究家
>野口信一さん(68)が
>2日、市役所で記者会見し発表した。
>これまでは新政府軍が遺体の埋葬を
>許さなかったとされてきたものの
>史料には埋葬の場所や経費などが
>詳細に記されており、野口さんは
>「埋葬を裏付ける貴重な史料だ」
>と話している。
嘘をついたのは誰なのか?
>太平洋戦争の終戦後に書かれた
>『会津史談会誌第33号』の
>『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には
>新政府軍の命令によって遺体の埋葬が
>禁じられたという記述がある。
終戦直後… 白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
会津歴史研究会会長の井上昌威氏の研究により
20人切腹19名死亡の嘘が覆りました。
勘違い切腹も嘘です。飯沼貞吉の回顧録に
勘違い切腹は出てきません。
そうなると疑問視されるのは飯盛山にある
隊士19人の墓ですよねw
皆さん、会津プロパガンダによる嘘
もういい加減気づいてください。
会津プロパガンダに乗っかってるのは
パヨクであることもいい加減気づいてください。
パヨクは反日です。 まともな福島県民のコメント
>私は福島県民ですが
>恨文化反対さんと同様、若松の歴史観は
>どうにかならないものかと思っている者です。
>若松の方に訊きたいのですが
>一部(と信じたいです)の若松人が
>主張する「おのれ薩長」的感覚は
>どうしたら解けるのか?
>薩長が若松人の許しを得るのは
>何が必要なのか? まともな回答を
>聞いた試しがありません。
>むしろ「いくら謝ったって許さね〜!
>とにかく俺たちは正義なんだ!」
>という考え方に凝り固まっている
>ようにすら感じます。そんなことでは
>「反若松」の論調もなかなか
>収まらないのではないでしょうか?
>同じ福島県民としては
>若松の方が一刻も早く未来に希望の持てる
>歴史観、地域感を抱けるようになることを
>希望したいものです。 >明治8年生まれの祖母に
>薩長を許してはならないと
>常に言われて育った。
>この会津人の誇りが
>私の信念に結びついている。
>薩長の中心地に幸楽苑の看板を立ててみせる。
みやぎ會津会での公演で
幸楽苑の社長が言った言葉だよ。
みやぎ會津会のHPからの抜粋です。
ただしこの内容が某掲示板に
晒されるようになると記事は消されました(笑)
ねっ、こうやって恨み節を
子々孫々伝えてるのが会津という地域なわけだよ。 >突いた刀を力づくで抜くと
>まだ突然の突きに放心状態で立ち尽くす
>長州人の背中をやおら左足で蹴り飛ばす!
>「馬鹿め薩長!wwwww」
会津新撰組まつりに参加した
阿吽記というブログから抜粋しました。
この記事は2007年のもののようですが
会津若松市では毎年やってる祭りみたいですね。
ブログは削除したようですw >会津という神話―二つの戦後をめぐる死者の政治学
>田中悟[著]
>神戸大学助教(政治学)
>[掲載]2010年4月25日
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
政治学者である田中教授が
会津で調査した事をまとめた調査書です。
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
会津では会津プロパガンダが蔓延し
会津恨人を生み続けています! 会津プロパガンダQ&A
Q:会津が京都守護職に就く際に天皇直々の指名があったのは本当ですか?
A:嘘です。そのような史料文献はありません。天皇が直々に朕を守って欲しいと指名したのは水戸の徳川家と萩の毛利家です。
Q:会津は天皇を守っていたんですか?
A:会津は京都市中の警備の元締めであり天皇の身兵ではありません。誇大解釈してるだけです。
Q:会津の武士は真面目、勤勉、実直ですか?
A:北越、北関東、東北、道南で蛮行三昧でした。長州の捕虜を虐殺した記録もありますし国土を外国に売却しようと企てた証文もあります。密貿易もしてましたし偽金も造っていました。
Q:会津戦争は恭順を示している会津に薩摩・長州が雪崩れ込んだのですか?
A:まず会津は恭順をしていません。戦争に躍起でした。政府の交渉人を拉致して会津から攻め行ってます。政府の主力軍は薩摩・長州ではなく薩摩・土佐です。長州の木戸や大村は会津攻めに反対していました。
Q:白虎隊は勇敢に戦いましたか?
A:薩摩兵に蹴散らされて逃げました。
Q:白虎隊は少年ですか?
A:元服を終えてるので青年です。
Q:白虎隊は城が落城してると勘違いして自刃したのですか?
A:飯沼貞吉の回顧録にそのような話は出てきません。自刃した人数も20名ではなく6名です。
Q:会津兵の死体を見せしめの為に野晒しにしたのは本当ですか?
A:嘘です。政府の命令はどの死体にも触るなというものです。死体は会津降伏後に埋葬されました。
Q:戦後会津人は差別されましたか?
A:されてません。むしろ政府は会津復興に尽力してます。長州の木戸や伊藤も個人的に義援金を出したりしてます。長州の前原を中心に会津人の救済も行われました。特にこの前原は会津人と仲が良かったようです。白虎隊の飯沼も長州で暮らしていました。 Q:会津の武士は領民から尊敬されてましたか?
A:会津は朱子学の影響が強く上が下を圧迫させるので領民からは嫌われてました。元来会津の武士は会津人ではありません。会津戦争中は農民が政府に協力したり一揆を起こしたりしました。
Q:会津の武士は斗南に強制送還されたのですか?
A:政府からは猪苗代でも良いとされてましたが会津は嫌われていたので猪苗代には住めず会津の山川の判断で斗南行きが決まりました。
会津に残ることや斗南以外の地に行くのも認められてましたので
斗南に行かなかった家もあります。
Q:会津の掟は素晴らしい掟ですか?
A:上が下を圧迫し思考停止にさせる戒めです。
Q:会津の武士は斗南で鳩侍と恐れられてましたか?
A:拾い食いをしてたので鳩侍とバカにされてました。そもそも鳩が恐怖の対象でしょうか?
Q:会津の武士は永久に斗南から出れなかったんですか?
A:2年で解除されました。 松前を襲う会津達旧幕軍
旧幕府軍(会津・新撰組含む)は箱館を攻め
十月二十五日に五稜郭を占領
二十七日には松前攻撃に移ります。
海から十一月一日に軍艦蟠龍が
松前湾から松前城を砲撃しています。
陸からは土方歳三率いる陸戦隊七百名が
知内、福島と占領し
十一月五日松前に入り激戦の末
松前城東方の馬形(まがど)台地にある
法華寺を占領しました。 本当は謎がない「幕末維新史」
幕末から明治にかけての戊辰戦争の影響で
福島県人(会津)と山口県人(長州)の
仲が悪いといわれるが
それは後の創作が影響している。
会津戦争のとき会津の庶民が
あまりにも官軍に協力的だったことは
司令官の板垣退助が驚くほどであった。
新撰組は京都の治安を守って
住民から感謝されていたというのはウソで
警察に雇われたヤクザようなものだった。
池田屋事件はヤクザの出入り同然で
京都市民から大反感をくらっていた。
このように一般的に語られている
幕末維新史には、のちにつくられた
創作が非常に多い。
歴史小説の影響も大きい。
そんな中、歴史分野で私の師匠にあたる
八幡和郎先生が
『本当は謎がない「幕末維新史』という
本を出版された。
小説や大河ドラマで語られるような
つくられた歴史と、本当の歴史を
整理した内容となっており
意外な幕末史の姿が明らかとなり
非常に勉強になる。 会津のまともな歴史家である野口氏が
会津プロパガンダによる嘘を指摘。
>野口さんによると昭和30年代
>郷土史を研究する地元団体の冊子に
>遺体の埋葬を禁じたことが記された。
>昭和50年代になると『戊辰殉難追悼録』に
>会津若松市長が寄せたあいさつ文で
>「埋葬を長期間許さずして
>その屍を辱めた」と書いた。
>埋葬禁止説は半世紀も伝えられ
>「周知の事実」として知られるようになった。
町ぐるみで嘘ついてんじゃねえ!! 会津プロパガンダなどない!
↓
じゃあ何でオマエのような会津プロパガンダ洗脳者がいるんだ?
↓
それは長州の責任だ!
これを日本と韓国に置き換えてみると…
反日プロパガンダなんかない!
↓
じゃあ何でオマエみたいな反日コリアンがいるんだよ?
↓
それは日本の責任だ!
どう?シックリくるだろ?w
会津プロパガンダは反日プロパガンダだから
シックリくるんだよ。 >0853 名無しさん@お腹いっぱい。
>2018/10/24 16:19:04
>南京大虐殺も慰安婦強制連行も
>731も否定する歴史修正主義者が
>会津大虐殺を否定している。
>その背後にいるのが安倍晋三と日本会議。
この書き込み内容からパヨク、チョンが
アンチ長州、明治維新の否定をしてると気づかないか?
会津プロパガンダは反日プロパガンダなんだよ。 ワロタwwwwwwwwwwwwwww
白虎隊の墓は数を増やしていたwwwwww
>飯盛山に墓がある19人の氏名
>明治17年に16人の墓が造られ
>のち23年に19人の墓となる
本当ウケるわwwwwwwwwwwww
んで、飯盛山で自刃した本当の人数は6人なわけだろ?wwwwww
>白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
>会津歴史研究会会長の井上昌威氏の
>研究により20人切腹19名死亡の
>嘘が覆りました。
>勘違い切腹も嘘です。
>飯沼貞吉の回顧録に
>勘違い切腹は出てきません。
>そうなると疑問視されるのは
>飯盛山にある 隊士19人の墓ですよねw
悲劇をでっち上げ観光化に繋げたいの
バレバレじゃんwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 白虎隊の墓は当初妙国寺に埋葬。
明治2年に改葬。
その時作られた墓は拡張され
大正15年に今の形となった。
>その時作られた墓は拡張され
>大正15年に今の形となった。
ここポイントですねw
完全に観光を視野に入れてますよねw 白虎隊の遺体は当初滝沢妙国寺に埋葬された。
『明治7年、滝沢妙国寺から改装。遺骸会葬をする。』
何故?
『明治17年8月25日、容保も参列し飯盛山にて、16士で墓を整備。』
自刃は6人なのに何で16も墓があるの?
『明治23年、23回忌で墓が19士となる。』
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