平成生まれは知らない日本の戦後史
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世界史板にある同趣旨のスレッド
平成生まれは知らない世界の現代史
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1312065011/
に触発されて日本史バージョンを立ててみました。
昭和中期から平成初期にかけての日本の世相や大事件を
当時をリアルタイムに体験した世代が語り継ぐスレッドです。
小泉改革の頃からの歴史は、当面は対象外ということにしておきます。 1970年頃まで日本中どこへ行ってもハエだらけ
畑には肥だめ家には汲取り便所があるからハエやウジは身近な存在
料理にハエがたからないように卓上蚊帳がどこの家にもあった
一般的にはキッチンパラソルと呼んでいた
どこの家でも商店にも、臭いハエ取り紙が天井から吊ってあった
子供は髪の毛を絡ませてひどい目にあう、男はともかく女の子は悲惨
ハエが多いから近所で赤痢の発生が時々あった
保健所から白い服着た人が大勢来て、家や近所にも薬剤を撒いた
赤痢と日本脳炎を出した家は肩身が狭かった。
70年代に水洗トイレが一気に普及してハエは激減
ハエが撲滅された割に、蚊はそれほどは減らないな 蛆虫は地上にいて目につくから駆除するが
ボーフラは水中だからわざわざ駆除しない 蛆虫も肥だめとか水中だよ
確かに蚊とゴキブリは減らないな
昔はスズメがやたら多かったけど激減した
カラスは減らないな 子供の頃はセミ=アブラゼミのジージーとやかましい音で
ミンミンゼミとかクマゼミなんて滅多にいなかった
アブラゼミは夏の午後の特に熱い時間に鳴くので、日本の夏の音の代名詞だった
皇居の周囲がクマゼミだらけなのが信じられない、もちろん昔は
すべてアブラゼミだった。クマゼミは午前中にシャカシャカ鳴く、
子供の頃、朝の通学時間に鳴いているセミなんていなかったと思う
夏の夕方に遠くからカナカナカナというヒグラシの情緒ある声が
聞こえるのだけは、昔から変わらない 70年代後半から80年代初めにかけて
毎年のように悲惨な炭鉱事故があって、大勢の炭坑夫が亡くなり
「災いは忘れた頃にやって来るが、炭鉱事故だけは
前の事故の悲惨な記憶が鮮明なうちに次の事故が起きる」と言われ
深刻な社会問題だった。
日本の炭坑では60年代までに浅い炭層は掘り尽くしてしまって
採炭現場がどんどん深くなり、すると地圧でガス噴出や大量漏水・落盤
などの事故が次々に発生した為、大勢の炭坑夫が亡くなった
相次ぐ大事故と85年の円高を気に、炭坑会社は次々と採炭を取りやめ、
次は炭坑夫の失職という深刻な問題が表面化した 27歳なんで平成生まれでは無いんだが、歴史好きなのにも拘わらず、戦後史は苦手だった。
昨年の秋あたりから経済を勉強したり、現下の経済情勢について自分なりに考えたりする中で、
取り分け、終戦〜バブル崩壊までの日本の歩みにやっと興味が出てきた。
今は鬱々とした時代だけど、右肩上がりで経済成長を続けていた時代の人々はどんな感じで毎日を過ごしていたんだろう?と。
山口二矢が浅沼稲次郎を刺殺した事件とかもあるし、戦後の左右両陣営の対立の歴史にも関心がある。
時間が有り余っている大学の時に、もっとアンテナを張っておくべきだったわ。 >>116
関西の鉄鋼会社の城下町出身だが
九州の元炭鉱労働者の息子が同級生に多かった
炭鉱が閉鎖後関連の深い鉄鋼会社に大量に就職したんだと思う >>117
>右肩上がりで経済成長を続けていた時代の人々はどんな感じで
当時は色々な意味で過当競争だったから大変だったよ
受験は文字通り戦争だったし、国内企業同志の闘いが凄まじくて
ホワイトカラーは残業手当ナシで深夜まで働くのが当たり前だった
受験の延長みたいなものかな。だから海外の企業に負ける事なんて
全く考えられなかった。
バブル時代に、サラリーマンやOLも遊ぶのが当たり前になり、
サービス残業もできなくなったら、あっという間に韓国や中国に追いつかれた。
94年に「残業原則禁止」が言い渡された時は「ふざけるな!どうやって
この仕事量をこなしたらいいんだ!残業代なんかいらないから残業させろ!」
だったよ。マジで頭を抱えた
>>118
80年代中頃、先輩に連れられて福原・雄琴・松島・飛田に通い始めた頃、
嬢の出身地の九州比率の高さに驚いたなあ、飯塚・大牟田とか産炭地から来てた。
九州の女の子はみんな可愛くて肌もキレイだったけど、
当時は九州弁がかなりキツく感じられて「歯を磨いて」とか言われると
叱られているみたいで小さくなっていた >>119
へぇ〜。意外と大変な(且つやりがいのある)毎日だったんだな。
何か「今日よりも素晴らしい明日が待っている」と希望に溢れていたり、
「サラリーマンは気楽な家業〜♪」とか言ってるのを想像してた。 >>120
受験さえ通れば、今みたいに圧迫面接みたいなのもなく就職できたし、一生安泰で、年金も貰えた
ホワイトカラーが残業すれば売上が伸びた。
総合的に見れば今よりずっと恵まれてるわな。ただ、生活環境は今より悪かった。特に空気と水質 阪大のかなり上の大先輩の話だが、
就職してくれと企業側が頼み込んで囲い込みのため、
いろんなとこに連れて行ってもらったり
いろんなもの食わせてもらった話聞いたな
人手不足だったんだなぁ >>120
17才ぐらいの高校生には当時の受験戦争が、精神的に余りにも辛くて
進学校の優秀な生徒でも受験から脱落して高校中退する奴が続出した。
クラスの男の6割が浪人する時代だからなあ。2浪3浪も多かった。
うちの担任が「土方やる体力もないのに、受験から逃げるなよ!
毎年逃げる奴がいる!」と、いつも怒鳴っていたのを覚えている。
今みたいに大学全入で浪人が珍しくて、推薦・AO・小論文・一芸で大学に
行ける時代では、あの受験戦争のプレッシャーは判らないだろうな
国立大学なんて文字通りの一発勝負だった。
45年ぐらい前までは、一期校、二期校と2回チャンスあったのに
俺たちの時は一発勝負だもんなあ、、酷い話だ
>>122
人手不足は関係ない。当時の就職慣行に沿った企業行動。
昔は灰色の就職協定で、公的には8月20日会社訪問解禁だったが
実際は8月1-5日頃に1社が解禁すると一斉に解禁になり、
それから5日間ぐらいが学生も企業も真剣勝負だったから
内定出した学生をその場で沖縄旅行に連れて行ったり
軽井沢のホテルに監禁したり、客船に乗せてクルーズさせる会社が続出した。
そういう状態なので就職慣行の維持に不安を感じたリクルートが
政治家にワイロをバラ巻いてリクルート疑獄事件が起きて
江副や国会議員が一杯逮捕されて、以後は本音より建前が優先した結果、
むしろアングラな就職勧誘が横行し、今は優秀な学生は3年生の冬休みには
内定という無茶苦茶な状況になっている。どっちが良かったのかな? 日本は、グレーゾーンの社会と思っていたのが、マスコミにより
談合を糾弾され、差別語とやらが禁止になったり、一部の企業の
不正のせいで法律的に呪縛をかけられたり、労働法が厳しく
なることで労働者の働く環境が逆に厳しくなったり、
コンプライアンスという言葉に企業が敏感になったり、
何だか、戦前の状況に似てきたと感じるのは自分だけだろうか。 1970年代くらいまで、夏休みとかで川で水遊びする小学生は素っ裸もわりといた。
今じゃ考えられんが高学年の女の子も膨らみ始めたオッパイとワレメを丸出しにしてる事もあった。 1970年頃は、45才以上のオッサンはほぼ「元帝国軍人」だからなあ
ガキが悪さをしていると、通り掛かりのオッサンに普通にシバかれた。
近所の神社でトカゲを発見して捕まえようとすると尻尾を切って逃げて
尻尾のないトカゲをひっくり返して頭を押さえて、紫色の腹がのたうち回る
グロい光景を皆でギャーギャー笑いながら見ていると、神社の修理の大工の
オッサンに「神社で殺生するな!」と全員シバかれた。
今なら大人が子供を殴る時は躊躇があると思うんだが、元軍人って躊躇がなくて
何の迷いもなく信念を持って殴るから、全く抵抗できない凄い迫力があった。
あれは怖かったなあ、、今の大人しい日本人とは全然違う異人種だった 靖国にはコスプレの変なやつもいるが
本物もいてそいつらは迫力あるな
今と違うのは教師がバンバン殴ること
1980年代はまだいた
軍隊式の厳しい教育も残ってた
で俺が教育実習で母校に行くと殴るの完全に禁止状態
たった十年でもかなり変わる >>117
>右肩上がりで経済成長を続けていた時代の人々はどんな感じで
21世紀になると、1950年から1989年まで40年間、
日本経済は右肩上がりで経済成長していたように思われがちだが、
俺が知っているだけでも1965年の証券不況、1971年のドルショック、
1973-1975年の第一次オイルショック、1979年の第二次オイルショック、
1983年の世界同時不況、1986年の円高不況と、4-5年周期で不況がやって来た
特に第一次オイルショックは衝撃的だった。エネルギー不足でTVの深夜放送はなくなり
TVは12時で終わり、街のネオンやイルミネーションも消されて夜は銀座や新宿も
真っ暗になり、インフレでモノの値段が狂ったように上がった。タクシー初乗りが
それまでの150円から390円に一気に上がり、さらにすぐに450円に上がったのを
覚えている。若い人は狂乱インフレは全く知らないだろうな 今では数も減って珍しくなったが
戦後、教師には反体制の活動家が多く就労していて、
間違った思想教育などを子供たちにこっそりと熱心にしていたりしていた。
酷いものになると親が自衛隊や警察官などの子弟だと目をつけられ
待遇や成績などで不当な扱いを受けることもあり、社会的な事件も発生していた。
公務員などというものは、所属部署が文部省か、防衛庁か警察庁か
というぐらいの違いがある程度で、
事実上、同じ国家の官職に就いている官徒なので
仲間意識があってもおかしくないはずであるが
今から考えると不思議なくらいの対立が当時はあった。 GHQ指導下2〜3年続いたNHK洗脳放送
GHQ指導下で成された米国正義と日本軍悪教育
GHQ指導下でマスコミに強制された同上の検閲
追い打ちをかけたGHQによる事後検閲
事後検閲では経営が成り立たない
本を出した後に検閲により全て回収となれば破綻である
故に、マスコミは自分が生き残る為だけに自己検閲に乗り出したのだ
それが今のマスコミの無残な姿である
己で報道の自由を捨てた醜い姿を今も晒している
もっと悲惨なのは、マスコミがその事にすら気付いていない事態なのだ 1945年の米軍による占領直後
米軍による日本女性の強姦事件が
神奈川県下だけで2900件発生した(泣き寝入りを除く)。 1970年頃というと、都会と田舎の格差が大きかったな
婆ちゃんの田舎にはスーパーなんてなくて、小汚い「よろず屋」しかない
「よろず屋」は対面販売だから、地元の人と他所者では価格が違っていて
露骨によそ者を差別したりする。孫がジュースを買いに行くと値段を
上げられれるので、婆ちゃんがブチキレて抗議に行ったりしたなあ。
都会はスーパーで価格表示が当たり前だったから「田舎はひでえ所だな」と
思ったよ。 高度成長期は町中で土木工事や建築工事をやってたが
今と大きく違うのはコンクリートの作り方
今ならミキサー車を持ってきてジャブジャブ入れるだけだが、
昔は畳一畳ぐらいの鉄のプールに、セメントと砂と砂利と水を
キッチリ計って入れ、その場で混ぜて作っていた。
いつも陽気な土建屋の兄ちゃん達が、水を入れる時は真剣な顔を
していたのを思い出す。よーく混ぜると、コテ板に大盛りに乗せ
運んでいた。そうやって造ると水分が適正だから、コンクリートは
100年でも持つらしい。今のようにミキサー車で流し込むと
水分が多いから鉄筋が錆び、コンクリはひび割れ、
20年しかコンクリが持たないそうだ。 私は日本国憲法にノーベル賞を与える事には反対だ
戦後日本では帝国憲法を平和憲法と呼ぶ日本国憲法に変え、日本軍を自衛隊、
空軍を空自、海軍を海自、陸軍を陸自、帝国党を自由民主党と呼び変える事で
戦後70年に日本列島と自衛隊内で起きた事、安全保障、国際貢献の意味が
分からなくなってしまう 第三次世界大戦想定研究は50年以上も前にされている
60年前既に憲法改正がされたと仮定して戦後史を見返しすべき
いや、いくらそう言っても一触即発が自衛隊のみで一般人に爆弾が落ちなければ戦争は感じないか
自衛隊とは戦後日本の平行世界であった 憲法改正が彼岸化される事で
現在進行形の軍事衝突も未来化されてきたのだ 自衛隊派遣がされた全地域を見て、
自衛隊と商社から見た戦後日本史を見れば世界観は一変するだろう 日本は国際的巨大総合商社だったのだ
通常、幕末なら攘夷志士、近代なら政治家と軍人だけで財閥は取り上げない だから戦後認識まで列島四畳半限定になるのだ
倭人ってただの大人しい農耕民族じゃなくて古墳時代から何度も朝鮮に攻め込む海賊系民族だったんだよ?
新羅の第二王朝は倭人系と言われる 恐らく韓国の教科書の方が倭人の活動を詳細に記述していると思う
多分、多くの日本人は中国人に比べ日本は爆撃する側の時代の方が長い事を知らず、空襲=米軍のイメージだろ
そこをふまえた上で反日派に反論すべき事は反論するのがいい あちらさんは日本人と全然違う日本のイメージ持ってんだから >>133
生コンは現場で混ぜるよりも工場で混ぜた方が品質は安定してるよ。
加水が問題になったのは、どちらかというと生コンポンプ車の登場がきっかけ。
それまで、一輪車に乗せて運んで手で打設してたから少々固くても問題なかったが、ポンプ車はある程度柔らかさがないと圧送できない。ここで何も考えてない連中が集まってたら、安易に「水を足そう」ということになってた。
あと、コンクリ中の水が多ければ鉄筋が錆びる訳ではない。コンクリは強アルカリなので普通の状態では鉄筋は錆びない。打設前に錆びていても還元されるくらい。錆びるとすれば、コンクリにクラックが入ってそこから水が浸入した場合
水が多いと、乾燥収縮でクラックが入りやすくなるので、まあ間違いではないが 現代のコンクリ建築が20年しか持たないのは
ポンプ使う事によって水分が多い事も要因だが
骨材(砂利・砂)の品質が悪い事も大きい
昔は骨材に川砂や川砂利を使っていたから、
水やセメント中でも品質が安定していて
「コンクリート建造物は永久に持つ」と言われた。
実際に明治の鉄道橋の橋脚などは今も現役が多い
今は山砂だからなあ、、有機物が入っているし、
学校のグラウンドで使う真砂(まさご)を使ってる場合も多い。
あれで水をジャブジャブ入れたら、20年しか持たない >>133
そうやって作るひと
昔みたことあるが今から15年くらい前だな アメリカの内通組織、日本海軍! 親米ポチの、八百長艦隊!
「1532」
明治10年(1877年、西南の役で、西郷隆盛たちが新政府に嵌められて、
不満分子として殺された)には全ての仏(フランス)技術者が帰され、それからの帝国海軍は、一気に英国式になりました。
米英は、日本海軍にどういう内通者を置いたか?海軍のフリーメーソン人脈は?
米内、山本、井上の“海軍反戦トリオ”は、戦争開始前からのアメリカへの内通者で、
日本を負けるように仕組んで、今の日米安保体制に持って行った私もと思います。
「今日は出撃はないだろう」と艦上の攻撃隊だった飛行士たちが証言している、
ということは、その後の海軍が言い続けた大嘘の「運命の5分 」はなかったと言うことです(沢地久枝さんが暴露しました)。
山本五十六(やまもといそろく)聯合艦隊司令長官、は、
始めから負けるように仕組まれて、そえでミッドウエーで4隻の主力空母を失わせられたのだ、と推測されます。
海軍の“海軍反戦トリオ(米内、井上、山本)”は、戦後の創作(でっちあげ、虚構)であり、
彼らは始めから敵と内通していた英米派だった。
海軍は、陸軍とは断固協調しないで、日本を始めから戦争に負けるように仕向けたのだ。
あの“海軍善玉、陸軍悪玉(陸軍が戦争の元凶を作った)“論を書き続けた言論人、評論家たちは、
どう反論するのかと、私はずっと疑問に思っています。
彼らは、これから、真実の炎で、焼き殺されなければいけない。
今からでも大きな真実を語ろうとする者たちの声を、集めなければいけない。
そしてどんどん表に出さなければいけない。
米内(光政、よないみつまさ。開戦時もずっと海軍大臣だった。副島隆彦注記。こいつが軍人では最大のアメリカの手先。
極東軍事裁判でも、絞首刑になったのは、東條英機以下6人陸軍ばかりで、あと一人は外交官の広田弘毅=ひろたこうき=だ。
海軍は、ひとりも死刑になっていない。起訴さえされていない。
このことのおかしさを、日本国民は、真剣に考えなければいけない。 戦後作られた「海軍善玉論」神話(海軍は、ずっと平和主義者だった。
悪いのは陸軍だった、という歴史の捏造。文藝春秋と新潮社から、戦後、沢山の本が出た)。
ミッドウエー海戦という決定的な敗北を喫した。これで日本の太平洋戦争での敗北は、早くも決まった。
山本は、ずっと呉(広島)の戦艦大和の艦橋に居て、無線で指令を出していた。
無線封止(むせんふうし)さえしていなかった。これらはすべて露見している。
本当は、ミッドウエーには、戦艦大和 が先導して、空母艦隊を守りながら、戦闘(海戦)をするべきだったのだ。
今もなおアメリカの手先を自認している者ども、おのれらの恥多き人生を深く、真の英霊たちに向かって恥ぢよ。
この時の、「飛龍」艦長、山口多聞(やまぐちたもん)少将(第2航空戦隊司令官)の戦い方と死に方こそは、
帝国海軍の軍人の鑑(かがみ)である。
敗戦後も、おめおめと生き延びて、「私たち海軍は、平和主義だった」などと、
よくも、あの恥知らずの、アメリカの奴隷になった軍人どもは、言えるものだ。
文藝春秋、新潮社よ、産経バカ右翼は論外)お前たちの歴史の偽造を、私、副島隆彦は絶対に許さないからな。
山口多聞は、艦長として残り、飛龍沈没と運命を共にした。
南雲忠一(まぐもちゅういち)、栗田健男(くりたたけお)(聯合艦隊司令長官)ども!!!許さん。
それから、航空隊の司令官の、源田実(げんだみのる。戦後もずっと自衛隊代表で、参議院議員をやっていた)。
お前たちも、心底、怪しいのだ。始めからアメリカとつながっていた、スパイ軍人どもだ。
お前たちを、これから、日本国の真実の歴史の法廷に、引き釣り出す。
ミットウエー海戦で敗退したあとも、山本を連合艦隊長官から罷免せず、単に海軍内の庇(かば)い合いだけをした。
私が言いたいのは、海軍首脳は始めから負けるように作戦を立て、
陸軍を太平洋に引きずり込んで、海軍も陸戦隊(りくせんたい)や基地の設営部隊は見捨てられました。
メディアも“海軍反戦トリオ”“海軍3提督”とかの虚構は作るものの、真の敗戦責任を問うた事がありません。 学校給食が戦後、米が大量に余る時代が来てもずっと長い間パン食だった理由。
戦後GHQ支配の時代に米国産小麦を売りつけるために
「日本人は米を食うからバカなのです。パンを食べましょう」という
驚くべき洗脳キャンペーンを続け、子供に無理やりにでもパンを食わせて
習慣化させようとしていた事実。その映像は今でも残っている。
日本の恥ずべき黒歴史の一部だ。 戦後日本は敗戦と戦前への
反動、そしてソビエトをはじめ
とする海外の左翼国家の工作に
より、左系化していた。
若者の左翼運動は社会から
半公認されていたが、
連合赤軍が起こした話を
聞くのも胸くそ悪い内部リンチ
による14名もの仲間に対する
虐殺で社会の同情は一気に
冷めた。
この戦後日本に起きた大量
虐殺事件は「左翼」という
人種の本質をあきらかにし、
またオウム真理教とならぶ
戦後昭和の大テロ事件として
歴史に記憶されるだろう。 渋谷事件での殺人左翼人は
1971年の事件当時から
今年逮捕されるまで、40年
近くも社会を欺き、自己の
罪から逃げ回りながら、
反社会活動を継続した。
そしてそれを助ける
左翼反社会組織は今でも
現存していることを
あきらかにした。
彼らの今の手口は
一般大衆のふりをして
天皇の悪口を書くなど
より姑息で巧妙になって
いるので騙されてはいけない。 当時誰でも知ってた+大きな影響があったにもかかわらず、
現代の若い人があんまりイメージできないもののひとつが
「自民党の派閥」だと思う
小選挙区導入後は空気 北海道限定かなと思うけど、ソ連の脅威が実感としてあった
今の北朝鮮や中国の脅威どころじゃなかったな
実際、ソ連軍機が低空で侵入してきて空港に強行着陸し亡命したとか事件あったし
ミサイルで撃墜された韓国の旅客機の残骸や死体の一部が北海道の海岸に漂着していた
本州の大学に進学して全国から集まってきた同年代と接する機会に恵まれたが
ソ連の脅威がとか言っても、さすが北海道ってネタみたいに笑われてたんだよな なんとなく北方領土のほうから侵攻してきそうなイメージあるけど
じっさいはウラジオやサハリン方面のほうがあぶないんだよな サハリンから上陸することを日本は想定してたみたいね
そのための旭川師団 どっちにしても舟でくるわけだしね。ロジスティクからかんがえて
ウラジオが拠点になるのは必然というか、あそこくらいしか湊らしい
湊がないからね そういえば、幕末のペリーもハワイやグアムではなくてフィリピンから来てるんだよな 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ZVVUY 皇室は皇統が変わったと言っていた。韓国人の天皇アキヒトとミチコの部下が。
少数の韓国人で日本人を支配するという野望を持っている皇族ども。
皇統が変わったじゃねえだろ。皇族どもめ
日本人は韓国人の天皇など認めない
日本から消えろ! 韓国人 皇族どもめ
平成になってから帰化人ばかりの総理になったのは韓国人天皇のせいだ
日本人の敵 皇族 いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
MAE 「歩兵の歌」はよほど日本人の感覚に合うらしく、戦後は左翼が「万朶の桜か襟の色〜」って歌を「立て万国の労働者〜」と替え歌にまでしていた
さらに、小中学校の運動会の応援歌用の替え歌まで作られていた 昭和生まれだって何も知らないよ
この政府は国民に真実を教えないからな
みーんな嘘の世界に住まわされている このスレの趣旨は良い
他のスレ一覧を見よ、どうでもいいスレだらけだ
ここに来る人は、教科書に載っていない隠された真実を知りたいのだから
「教科書に載せられない真実の歴史」とかさ
「日本政府がひた隠しにする歴史」とかさ
「日本がやってきた戦争の本当の目的」とかさ
「日米戦争が八百長であるこれだけの証拠」とかさ
食いつきたくなるスレを立てて欲しいのだよ
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