【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助

1名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/08(土) 13:18:56.48ID:LsHI7NvX0
最後の武士。

23名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 08:09:30.02ID:zCtA3cff0
お前結局、史実をまったく踏まえてないね。
何度も繰り返すが、岩倉は薩長と敵対する同盟を作れなどとは言ってない
>>3で言われてるのは妄想。
ただし、新政府が会津(追加的に庄内)攻撃方針を貫く限り、
天保飢饉で極度の財政貧窮にある「会津以外の」奥羽諸藩は迷惑この上ない。
なぜなら…のちに久保田藩が現実にそうなったが…最前線に立つのは奥羽諸藩だから
鳥羽伏見で公然と新政府に敵対状態に入った徳川宗家に比べて、
この時期の「会津以外の」奥羽諸藩は長州征伐の先例に倣い、首謀者差出での処分に希望を繋ぐ人士が多かった
岩倉は対幕強硬派に分類されるが、そういう雰囲気を読むのもまた巧かったんだよ
江戸攻撃の段階で出兵に消極的な奥羽諸藩の藩士が、西郷に代表される主戦派に必ずしも同意していなければ
とりあえず新政府の方針は別物だと示唆して宥める必要性は極めて高かった

新政府も大坂を占拠し当座の軍資金を確保したとは言っても、
江戸を制圧するまでは奥羽諸藩を少なくとも友好的中立の状態に置いておく必要があった
(広沢に見るように、会津藩の責任論を棚上げにしても、江戸進駐後も奥羽諸藩の準同盟国化に気を配った人間もいる)
同じことは対会津藩方針に言えることで、この時期仙台藩の遠藤は会津藩の梶原に
「首謀者なしとと言う回答は何事か」と極めて厳しい叱責を飛ばし、撤回させたりしている。

そんな状況で岩倉と西郷が完全に同一歩調を取り、南部藩が仙台藩への義理立てから話を全てねつ造する
と言うストーリーのほうが不自然なんだよ

24名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 08:17:41.21ID:zCtA3cff0
しかも岩倉の場合、慶喜を新政府人事から外すクーデタに同意しながら、
その後、尾越両藩の周旋による巻き返しが始まると上洛工作に協力した前歴がある
岩倉は慶応3年段階では討幕派ですらない。常にベストでなくベターを模索するリアリストであるわけ
官軍の勝利とともにこの種の戦争回避論は次第に退潮していくけどね

楢山は、岩倉と西郷を秤にかけて前者を重視したことももちろんだが
その点は新政府穏健派は幕軍の激しい抵抗を予想していたから、どっちもどっち。
それよりも「なぜ避戦が出発点でありながら、慶喜が恭順した新政府軍と戦闘状態に突入する政策を選んだのか」
と言う所に根本的な矛盾があるわけだよ。
これが奥羽越列藩同盟をリードした指導者たちが等しく抱える問題点だった

25名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 08:22:56.17ID:zgQvg81Y0
>>23
>何度も繰り返すが、岩倉は薩長と敵対する同盟を作れなどとは言ってない
楢山は、岩倉が「薩長の唱える勤皇が必ずしも真の朝命ではない。奥羽が薩長の専横を抑えるのも、また勤皇の道だ」と言ったと主張し、
いわゆる幕末東北正義論を掲げる地域史家や小説家は、これを元に楢山は被害者だったとまくし立てております。

しかし、これを岩倉の真実の発言と考えることは、不合理しか生みません。
何故なら岩倉は西郷隆盛と共に、一日も早い薩長新政府軍の江戸への進軍を主張した人間なのですから。


>そんな状況で岩倉と西郷が完全に同一歩調を取り、南部藩が仙台藩への義理立てから話を全てねつ造する
>と言うストーリーのほうが不自然なんだよ
また、>>23の考察からも、岩倉が薩長と敵対する同盟を作れといったことは考えられず、あなたの考えの方が不自然です。

26名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 08:30:49.29ID:zCtA3cff0
最低限の結論として、楢山が岩倉との会談で何らかの新政府内の温度差を感じとり、
岩倉の意見から何らかのサジェスチョンを得た可能性は高いと思われる
この時期に目時、中嶋らの出奔、自刃事件が勃発しているが、
彼らが死を賭けて抵抗したのは、上洛中に楢山が最終的な決断を固めたからだと考えないと辻褄が合わない

それと南部藩の場合、出動の時期が同盟主力の諸藩に比べて非常に遅いんだよな。
ギリギリまで迷っていたと考えないとこれも辻褄が合わない。
楢山が主戦論者ならもっと早く仙台藩に呼応しないと不自然。

27名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 08:34:08.89ID:zCtA3cff0
>>25
まず「東北正義史観」なんて非学術的用語を使ってる時点でお前は頭がおかしいわけだが
>岩倉が薩長と敵対する同盟を作れ
なんてことを言うわけがないとちゃんと言ってるじゃないか。

しかし、少なくとも新政府内に温度差があることを楢山に示唆した可能性は高く、
それは西郷との不和と言うより、江戸攻略がまだ完了していない時点で奥羽諸藩を敵に回す必然性がないから
に他ならない。別に岩倉でなくたって、出兵は嫌なんですよねって顔をしてる中立藩にはフォローするだろうよ

28名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 08:51:07.78ID:zgQvg81Y0
>>27
>まず「東北正義史観」なんて非学術的用語を使ってる時点でお前は頭がおかしいわけだが
あなたの方が変です。この時期を扱う一部小説家や郷土史家の偏執は度を越しています。

>>6
>いや、その岩倉発言は一概に否定できないよ
あなたは>>3は否定できないといっています。言を挿げ替えて自己正当化を図っても旧悪はすぐ上にあります。

29名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 09:02:22.61ID:zgQvg81Y0
岩倉のこの時期の発言は、
・会津(初期には徳川慶喜も含む)討伐軍への参加勧誘
・新政府への参加(による新政府内の薩長独走の抑止)
程度のものでしょう。

間違っても、楢山が帰国後主張したような、新政府への全面敵対同盟の形成ではない。
それでは当時の岩倉の政論と逆行する。

30名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 10:32:42.08ID:zCtA3cff0
ああ>>3はバカバカしいからよく読んでなかった。
その岩倉発言はと言うのは言葉足らずだったな。
そこで元ネタに当てられてる岩倉発言はと言うほどの意味だったんだが。
いま否定するよ。それでいいんだろ。

>間違っても、楢山が帰国後主張したような、新政府への全面敵対同盟の形成ではない。

楢山の帰国時にはとっくに奥羽列藩同盟は出来てるよ。

31名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 10:42:52.69ID:zCtA3cff0
>岩倉のこの時期の発言は、
>・会津(初期には徳川慶喜も含む)討伐軍への参加勧誘
>・新政府への参加(による新政府内の薩長独走の抑止)
>程度のものでしょう。

1月に会津藩追討は発令されてるし、九条総督が3月に仙台入りして
3月下旬には会津藩境を仙台藩が出兵、その後恭順を仲介する運びになっている。
楢山はこのような状況を横目に上洛しているわけで、その推測はタイミングが遅れすぎ。

この段階で南部藩を新政府側に引き込む目的なら、それ以上のことを言わないといけないはずだよ。

32名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 12:09:37.19ID:zgQvg81Y0
>>31
全く納得できる発言ではありません。

楢山の京都滞在期には仙台藩は初期は新政府側、
のち離反、九条総督を拉致監禁の上で列藩同盟を標榜し、
九条総督の名の下に新政府の下に組織をつくり新政府に敵対するという、変則的な行動に出ています。
そのため、新政府の派遣した軍に「薩長じゃないから天子様の軍だ」などといいながら監禁していた九条総督を委ねてしまう訳ですが。

滞在の初期に面会があったのなら、岩倉の発言は上記の通り、
滞在の後期に面会があったのなら、岩倉の発言は更に具体的な、
南部は仙台を後ろから襲え、賊たる仙台から東北を取り戻せ、というものとなったでしょう。

33名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/14(金) 14:04:20.59ID:X07wKszS0
滞在の初期だろうが後期だろうが岩倉は一貫して主戦派と言うわけねw

まあ最初から無根拠にそう決めつけられてもソースなしなわけだが、
少なくとも楢山上洛後に会見が開かれたとすれば、江戸無血開城交渉は既に成立したわけなので
「岩倉が江戸進撃派」だったことをもって楢山への態度は説明できないよ。
西郷のように江戸進撃派ではあっても彰義隊処分では微温的な態度に終始した者もいるのだし

34名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/15(土) 14:50:31.85ID:sEHXYzxb0
前に河井スレで何度も論じられてたけど、河井の中立は本当に偽装中立だったのか
佐々木克が唱えてから通説になった感があるが、疑問が残る

35名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/15(土) 17:03:48.76ID:1NAlFnFQ0
反新政府の方針を決議した酒屋陣屋の会談に思いっきり参加してるから、
中立交渉は米沢藩が到着するまでの時間稼ぎでしょ。
会津藩も、最初から全力で疑われてた新発田藩には会津藩士を監視人として入れろよとか
中々無体なこと言ってるが、長岡藩に対してはそんなことないし。
つか、既に同盟軍と新政府軍が長岡藩周辺に展開してた状態で武装中立しますとか、
そんな両方の軍から敵認定されてもおかしくないメルヘンなことを河井ほどの男が
本気で考えていたとは思えない。

36名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/15(土) 18:35:57.53ID:egeLm0jb0
奥羽列藩同盟も久保田藩は当初参加したけど離脱したよ
河井の偽装中立が本心なら、朝日山・榎峠のような要地の占拠まで待つ必要はない
白石盟約書は閏4月23日には出来てるし、越後への米沢藩出兵も決まっている
この段階で「偽装」を隠す必要はなくなっただろう

河井の中立の主因は藩内事情じゃないかな
米沢も越後出兵は色部、甘粕の対立があって必ずしも積極的ではなかった

37名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/16(日) 01:44:59.07ID:SApfssfw0
>>36
米沢出兵が決まっても、兵力が長岡周辺に到着しないと役に立たない訳で。
朝日山などの要衝を敢えて空けたのは、それをしないと新政府軍がそんな話に
引っかかるとは思えなかった。つまり餌。という解釈も出来ると思うんだがどうだろう。

38名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/16(日) 09:55:53.01ID:X6th3pvp0
餌にしては小千谷、さらに朝日山・榎峠の占拠は戦略的にでかすぎると思う
これあくまでも個人的推測なんだけどね
米沢は越後出兵に対してあまり積極的でなかったのは周知の事実で、
しかも千坂不在の席で決定されてるから、河井も薄々察する所があったはず

39名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/16(日) 10:02:12.77ID:X6th3pvp0
河井の場合、楢山と異なり明確に佐幕だったんだが(柏崎藩も長岡を当てにしている)
藩論統一に手間取って対外的でなく対内的に「偽装中立」していたと言うのが正確なんじゃないかな

40名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/17(月) 12:01:32.92ID:zfKxoZFy0
>5月18日に仙台を出た九条総督一行は「伊達の敵といえば」と6月3日に盛岡に入ったが

ネタだとは思うがいったい現地で何を調査してたんだよw

41名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/17(月) 13:59:42.85ID:98jgK/2T0
wikiの奥羽越列藩同盟の記述だな

42名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/17(月) 14:15:58.49ID:98jgK/2T0
雲井って江戸の三計塾で桂、広沢(真臣)、品川と同門だし、京でも時山、広沢と仲が良かった
長州系に知己が多かったんだな。だから討薩の激では長州を外してるし、集議院寄宿生にも推薦された
集議院を辞めてからも帰順部曲点検所からの嘆願では広沢が便宜を図ってくれたようだね

奥羽諸藩で長州とこれだけ人脈がある人間は、わりと珍しいのか?

43名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/17(月) 18:18:17.95ID:iGKWe6F30
>>40
盛岡藩に奥羽列藩同盟脱退を勧めていただけ。
九条総督もそれを一番期待していたのが、盛岡藩。

まだ楢山佐渡が盛岡に帰ってきていないし、勤王思想がある家老や家臣、支藩など多数あったからな。

44名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/17(月) 18:50:41.36ID:0yBa3M8A0
いくつかの支藩は出兵拒否したんだっけ?

>>38-39
うーん、藩内問題か

45名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/17(月) 20:36:58.81ID:jMLIVI/T0
楢山の帰国って異常に遅いね。仙台藩が早く秋田に出兵しろと圧力かける有様じゃん

46名無しさん@お腹いっぱい。2011/10/17(月) 21:24:11.22ID:jMLIVI/T0
河井自身は慶応3年、4年と越後諸藩を佐幕側から纏めて圧力をかけてるんだけどさ。
ただ藩内の分裂を恐れて小千谷会談まで方針を明示しなかったと思われる
現に稲垣家ら上士の一部は参戦せず。
安田鉚蔵の蟄居処分の後は暗殺計画が出て藩校崇徳館が監視対象になっている
新政府軍が目前に迫って戦うしかなくなるまで引き延ばしたとも言えなくもない

47名無しさん@お腹いっぱい。2011/11/05(土) 01:16:53.51ID:2/+H1bGP0
但木土佐って肖像無いの?

48名無しさん@お腹いっぱい。2011/11/26(土) 09:47:04.00ID:GBAJGLoo0
(3)仙台藩と米沢藩の会津嘆願運動について
 慶応4(1868)年4月29日、現在の宮城県刈田郡の関宿という場所において、仙台藩の代表として、家老の坂英力(さかえいりき)、
但木土佐、真田喜平太、米沢藩の代表として、家老の木滑要人、片山仁一郎、大瀧新蔵が、会津藩家老の梶原平馬と会談を行ない、そこで会津藩の嘆願についての協議を行なっています。
 この時の様子は、会津藩側の史料である『会津戊辰戦史』にも、仙台藩側の史料である『仙臺戊辰史』にも記載がありますが、
『仙臺戊辰史』の方がよりリアルに詳しく書かれていますので、その当時のやり取りを『仙臺戊辰史』を参考にして、少し分かりやすく再現してみましょう。


 この関宿会談で、仙台藩の重臣であった但木土佐は、会津藩の梶原に対して、まず次のように言いました。

「今回、会津藩が謝罪降伏を申し入れる際には、城を明け渡すことはもちろんのこと、首謀者の首級を差し出すべきではないかと思うがいかがでござる?」
(首謀者とは、鳥羽・伏見の戦いの首謀者を指しています)

それに対し、梶原は次のように反論しました。

「藩主公の城外謹慎については応じるが、首謀者の首級を差し出すことは出来ない。なぜならば、鳥羽・伏見の戦いに関係のある者は、そのほとんどが戦死しており、
生き残っているのは一両名だけである。これらの者は皆、我が藩のために忠義を尽くした者であるので、もし彼らの首を斬れば、藩内は動揺してどんな変事が起きるかもしれない。
鳥羽・伏見の件については、徳川慶喜公が一身に責任を負い、その謝罪嘆願状にも「私一身の罪であって、その他の将の誤りではない」と記載して、朝廷もこれを受理しているではないか。
それ故に、もし我が藩に罪があったとしても、その罪は既に消滅しており、さらに罪に問われて討伐を受ける理由はない」

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13c.htm

49名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/17(土) 01:15:51.34ID:dJqQ6sLz0
結局河井も悪かったのかな

50名無しさん@お腹いっぱい。2011/12/28(水) 22:04:49.47ID:L1HtRdJB0

51名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/08(日) 16:08:20.09ID:yVirHhh+0
>>48
首謀者問題は米沢でも庄内でも非常に揉めたからな。
米沢は実質的な首謀の千坂だけは庇うことで一致したが衆議紛々。
後で宮島が戦犯指名された色部の子孫に相当気を配ってる
庄内は最初は戦犯指名そのものに困惑して会津と同じ回答、結局戦死した石原を届出。

ただし会津に関しては梶原のこの回答は無責任と言わざるを得ない
自分らが京における政治行動を引っ張ったのだから、明らかに藩公の寵を頼んでのゼロ回答
この後、真田に怒られてさすがに首謀差出に同意したものの、上洛反対派だった西郷頼母を首謀指名する可能性がない以上、
藩内で首謀取りまとめなんてできっこなかっただろう

52名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/09(月) 09:29:18.76ID:DQYPqxJU0
Jules Brunet

53名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/09(月) 10:17:17.27ID:e4QLmnD20
佐渡って無能すぎるな。東にまかせておけば。

54名無しさん@お腹いっぱい。2012/01/29(日) 22:31:13.81ID:CJ7SMDJB0
東には武士道が無い。

55名無しさん@お腹いっぱい。2012/02/21(火) 23:35:17.56ID:b2dn+gfz0
戦乱の時代には武士道なんて不要。
武士道が必要なのは平安の時代。

56名無しさん@お腹いっぱい。2012/02/22(水) 08:09:46.49ID:mztpN5uK0
>>34 49
会津にまきこまれた・・・・・。

57名無しさん@お腹いっぱい。2012/03/07(水) 01:08:14.57ID:GrUXZ58pP
ワタミの会長が心の師にしてるそうです

https://twitter.com/#!/watanabe_miki/status/177046779781586944

わたなべ美樹 @watanabe_miki

河井継之助 私の心の師です。ありがとうございます。
RT @toshiki_matsui: 「世の中になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人となれ」。
河井継之助の言葉です。信念を貫くことには批判はつきものだと思いますが、めげずにがんばってください。

58名無しさん@お腹いっぱい。2012/03/10(土) 02:07:52.50ID:bfKQO/WI0
>57
過労死ブラックで有名なあの

59名無しさん@お腹いっぱい。2012/10/30(火) 17:47:01.48ID:d7Plw+F/0
戦後の志士

60 忍法帖【Lv=12,xxxPT】(1+0:8) 2012/11/23(金) 22:09:17.14ID:wlorVxMb0
test

61名無しさん@お腹いっぱい。2013/06/11(火) 15:18:24.04ID:/eD1cGCx0
>>57
河井の立身が藩侯の引き立てによるもので藩侯の意思に忠実だったこと、
慈眼寺会談の決裂を伝えたあと、和平派の三島に「俺の首と三万両を持って行け」と言ったり、
長岡で負けた後はここに置いていけと言ったあたりはキレイに忘れてるんだろうな

62名無しさん@お腹いっぱい。2013/06/11(火) 15:31:04.36ID:/eD1cGCx0
会津と仙台に巻き込まれた他藩が気の毒だな。庄内は斟酌すべき事情があるけど
長岡も会津問題がなければ河井と言えども恭順を選んだだろうに

63 忍法帖【Lv=2,xxxP】(1+0:8) 2013/10/23(水) 14:40:04.70ID:3czCe0MJO
岩井みたいな小僧を出したから交渉決裂したそうです

64 忍法帖【Lv=2,xxxP】(2+0:8) 2013/10/23(水) 14:42:46.22ID:3czCe0MJO
間違えた岩村だw

65名無しさん@お腹いっぱい。2014/01/14(火) 12:48:35.60ID:XW5xPevHP
河井はアホ

66名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/05(木) 18:25:00.40ID:M02iuN1j0
司馬の作品"峠"下巻終盤に司馬が小千谷会談の場所になった寺を詣でる件りで
地元の老人が"継之助は寂しかったと思いますよ"って洩らす場面

キョロマの岩村の小僧ごときに陽明の徒河井の志が分かってたまるかよ

67名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/10(火) 20:57:13.55ID:7r8KGfVB0
四海波でも切れる時は切れる
三味線枕にチョイトコリャ
二世三世

68名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/14(土) 13:25:31.99ID:Mtapza2g0
小千谷に西郷隆盛がいればおもしろかった
せめて黒田でもよかったけど

69名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/15(日) 23:39:08.68ID:5Xnx3w9L0
周りに迎合しないってのはさ
強い信念があっての事だよな

無私、無欲なんてのは最低限の素養で
西郷や大久保は維新の英傑って評価されてるし幕府を倒した革命の推進派の側に属した人物なだけに
死後も崇められてる(西郷は反乱を起こしたから賊軍の扱いだが)

河井のような美意識に殉じた侍が死後に正当に評価されないってのは歴史の宿命かな?

70名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/16(月) 21:39:35.52ID:syOuPX1V0
>>68
同意です

71名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/26(土) 03:55:36.84ID:9InH2f9h0
最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり

722016/01/25(月) 18:05:39.92ID:I9Kh5wH80
明日、無料イケメン祭り開催。
URL貼れないから
メーンズガーデン ってググってみて
※正しいサイト名は英語。

73名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/31(水) 14:59:32.53ID:I/Y5AjPQ0
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