永田鉄山

1名無しさん@お腹いっぱい。2014/10/20(月) 21:40:31.15ID:Bj+MMska0
語れや

389名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/18(日) 18:26:08.00ID:dH9gYQMf0
>>368

390名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/18(日) 20:25:28.21ID:WDFHZKP60
畑英太郎が生きていたら、宇垣の後は畑が陸軍大臣になって、
昭和陸軍の歴史が変わっていたかもね。
軍政畑ではない南次郎は、本来なら大臣になる人間ではなかったから。

391名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/18(日) 20:39:05.59ID:dH9gYQMf0
>>390
畑違いとは言え、南の陸相と朝鮮総督の手腕を見れば行政官も勤まる人材だったよね。
南は首相も勤まったのでは?こうしてみると、宇垣、阿部、小磯、南と目を摘み取られた人材が。

392名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/18(日) 20:52:02.47ID:WDFHZKP60
>>391
朝鮮総督時代の南は、耳が遠くてまともに執務できず、首相など論外の状態だったとも言うけど。
まあ、遺族が日記を非公開にしてしまったからね。

393名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/20(火) 20:52:29.05ID:d0KWEoZE0
>>387

支那(華北)の資源確保に関しては、第二部長時代に武藤を使って、色々と調査していたようだが、戦争容認はしていないのでは?(その根拠は?)

394名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/21(水) 06:59:02.65ID:0mYExYph0
>>393
無理にでも手に入れると永田がグループ会合で判決しているからね。
総力戦のための支那資源の確保は外交的に無理なんだよ。

395名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/22(木) 15:39:25.88ID:TgkCj7FC0
>>394

それはどの資料に書いてあるの?

396名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/22(木) 16:13:11.63ID:WpD9wdiS0
>>395
木曜会記事

397名無しさん@お腹いっぱい。2016/09/22(木) 18:28:13.29ID:Et2/KYPR0
>>396

これのことかな?

Wikiから 日本近代史料研究会の『鈴木貞一氏談話速記録』(1974年)の下巻に「木曜会記事」が収載されており、本会に関する重要な史料となっている。

398名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/02(日) 14:42:50.62ID:4WKR0XWH0
更新

399名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 01:58:25.44ID:oKkReEvB0
>>373
>東条の時代に陸軍で下克上がなくなったというのは、
>省部を自分の子分、イエスマンで固めたせいもあるんじゃない?

そういう面はあったろうね。

上官に反抗し、命令に従わない人間を抑制できなくなった状態を
「下剋上が横行する」と形容するので、統制を乱す人間を排除して
言うことを聞く人間で周囲を固めることは、組織統治上ある程度までは
必要な施策でもある。

東條の場合は、イエスマンで固めた際の周囲の人材そのものの能力が
足りていなかったために批判されていたという側面もある。


だが、それだけならば荒木貞夫が陸相時代に行った皇道派人事でも周囲を
イエスマンで固めてもいるし、人材の能力が低かったという意味では
似たり寄ったりだった。

だが、荒木時代には隊付将校の間で下剋上が蔓延してテロやクーデター
未遂事件が何度も起こる状態になったけれども、東条が陸相に就いて
いた期間中はそうした動きは抑え込まれていた。
それを指して「下剋上がなくなった」と評されているのだろう。


>「東条幕府」と言われたのも、そのせいでは?

これは違う。

幕府と呼ばれた理由は、参謀総長を兼任して統帥部を制御下に置こう
とした行為を指しての話だから。組織内部での人事配置の話ではなく、
組織の制度そのものをいじろうとしたから批判された。

陸軍省内でどれだけ人事を壟断して権勢を振るおうとも、それだけでは
幕府と呼ぶには値しない。現に田中義一や宇垣一成や荒木貞夫らは
周囲をイエスマンで固めたけど、そんな呼ばれ方はしなかった。

400名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:03:27.07ID:oKkReEvB0
>>374
>こと旧日本陸軍において「出世する=有能である」ってのは違うだろ

客観的評価での「有能さ」と、主観的評価での「俺は有能だ」というのは
おのずから別のモノでしょう。

陸軍という組織においては、戦場で軍事的功績を上げることを有能さの
指標とするモノサシがある一方で、軍政を切り盛りして予算を分捕って
くる手際の良さを指標とするモノサシもあった。

そして戦時ではない平時では、後者のモノサシの方が組織にとっての
有用性が高いわけだから、「戦場での勇猛果敢さ」なんてのはオミット
されても仕方がない。

401名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:04:24.29ID:oKkReEvB0
>>375
>板垣が東條を次官に呼んだって本もあるし、軍内強硬論の代弁者として
>杉山陸相と梅津次官が呼び寄せたという話もある。

その後者の説を否定したのが筒井清忠の『昭和十年代の陸軍と政治』。

現状、この問題について筒井の説を否定できるだけの強度を持った論証は
出てきていない。

402名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:07:00.40ID:oKkReEvB0
>>377
>永田グループの専横と内紛で人事が乱れたからね。

おやおや、荒木の行った皇道派優先の派閥専横人事の責任逃れを
永田におっかぶせようってか。

なんともみっともないことで。

403名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:08:57.78ID:oKkReEvB0
>>378
>東条内閣崩壊の際、東条の陸相留任をやめさせて予備役に追い込んだのは
>梅津参謀総長だとする本もある。

実際そうだったと思いますよ。

何か勘違いしている人は、この二人を「統制派」として一緒くたにしていますけど、
両者の間にはほとんど交流は有りませんでした。

梅津の性格からしても、東條の自分の好き嫌いのみで重要な人事を差配する
ヒステリックな態度には強い不満を持っていたでしょうから、東條をかばい
立てしなけりゃならない要素なんてこれっぽっちもありませんし。

404名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:20:07.52ID:mCo16Lb+0
>>401
保坂さんの「東條英機と天皇」の時代は間違い?

405名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:27:54.47ID:oKkReEvB0
>>379
>永田の出世の邪魔にならなければ評価を上げてもOKだから。
>藩閥とかデッチ上げてでも宇垣を排除したから。

宇垣派の排除は荒木が行っているんだけど。

長州閥批判にしても、上原勇作-武藤信義のラインを継承していた
皇道派の方が中心になっていたろうに。

北岡伸一『官僚制としての日本陸軍』より

「ここまで検討してきたように、南の軍制改革および満州政策の展開過程に
おいて、いくつかの反対派が浮上してきた。それは、荒木を中心とする軍制
改革派反対論者であり、急進的満州政策を主張する関東軍幕僚であり、これに
連なる国内改造を要求し、やがて十月事件を引き起こす、桜会を中心とする
勢力であった。」(p184)

「以上検討してきたように、南軍政は、主としてソ連に対抗しうる軍備の
強化をめざす軍制改革と漸進的満州政策という、相互に関連しあった二つの
政策を中心として展開されていった。その過程で軍の伝統的体制に変革を
加えることに反対する荒木以下の勢力、急進的満州政策の展開を目指す関東軍、
あわせて急激な国内改造を志向する桜会を中心とする一部中堅軍官僚、などの
反対派が浮上してきた。

 南は建川、小磯等宇垣系将官と、永田・今村等中堅軍官僚を結束し、大将級
将官については軍事参議官会議の強化によって陸軍内の統制を進めていった。
南軍政はこのような体系性を持っていたがゆえに、満州事変と十月事件によって
その中心部に打撃を受け、没落することとなった。しかもそれを促したのは、
年代的にも宇垣と南・金谷の間にあって要職から遠ざけられており、それゆえに
反宇垣的傾向の強い軍事参議官たちであった。」(p188)

406名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:38:15.60ID:oKkReEvB0
>>382
>いったい、誰が支那一激論を提唱したのか?

石原莞爾らの一派を除くほとんど全ての陸軍軍人たちだよ。

>統制派じゃないのか?

自分を「統制派だった」と自称する数少ない軍人の一人である池田純久は
現地で不拡大を主張しているんだが。
これをどう説明するんだい?

407名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:40:58.43ID:oKkReEvB0
>>383
>そもそも満州事変を石原莞爾が起こさなければ
>支那一撃論とかいうものもでなかったのにね

その通り。
満州事変の成功によって、多くの軍人が「出世するには、軍事的紛争を
起こしてドンパチやって手柄を立てるのが一番」という、ろくでもない
思考を植えつけられてしまった。

山梨軍縮や宇垣軍縮で、同僚や部下のクビが飛ばされるのを間近で見て、
「次にクビを切られるのは自分か?」と心配して夜も寝られないような
状態に置かれていた軍人たちにとっては「手柄を立てれば勲章が貰えて、
上手くすれば華族になれる(本庄や荒木は男爵になれた)」という甘い
誘惑はとてつもなく魅力的だったんだろうね。

408名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:50:55.13ID:oKkReEvB0
>>384
>皇道派の荒木に言わせると、永田が支那一撃論を言いだしたと日記に書いている
ようですが。

後付のいいわけでしょうね。

戦後になって、東條に悪役を全ておっかぶせる形にして自分は逃げ切れたという
気持ちでいた荒木が、自分の責任を誰かに転嫁できる屁理屈をこねたというのが
実態でしょう。

少なくとも、荒木の主張内容と『西園寺公と政局』の記述のどちらを信じるか
という話なら、信憑性の面で後者を採るのが一般的でしょう。


筒井清忠は「近衛内閣での板垣陸相就任に際して、東條を次官に就任させたのは
杉山と梅津だった」とする通説を、その根拠を近衛の手記に依拠しているために、
近衛が自己の責任から逃れようとする意志によってミスリードされたものであると
指摘していますが、それとよく似ています。

409名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 02:57:59.82ID:oKkReEvB0
>>385
>石原が満州事変を起こさなくても、誰かが起こしたでしょうね。
>(何らかの形で事変を起こすということが前提で、一夕会全員が
>一致していたでしょうから)

大半が佐官で、課長とか主任レベルの地位にしか付いていなかった
一夕会の連中ががどう考えていたかなんて小さな話しではなくて、
満州事変前には張学良政権に対して軍事行動を起こすという方向性で
陸軍大臣・参謀総長などの省部のトップレベルでも合意形成がなされて
いました。

ただ、それはあくまで合法的な手続きを取った上で、内閣を説得して
予算の裏付けを得て、国民にきちんと説明を行い、なおかつ欧米列強に
対しても事前に外交交渉の場で同意を取り付けてから堂々と軍を動かす
というのが前提の話でした。

石原たちはこうした「手続き」を全てすっ飛ばして、自作自演で
謀略を行って軍事行動を始めた点に問題があったんですよ。

410名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 03:14:16.54ID:oKkReEvB0
>>387
>永田の支那資源占有論(しかも戦争容認)がワシントン体制を破壊して

木曜会記事には「戦争は必ずしも必要ない」という永田の発言が
残っているんだが?

また、木曜会自体にも永田は2回しか参加していないよ。

411名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 03:18:03.48ID:oKkReEvB0
>>390
>畑英太郎が生きていたら、宇垣の後は畑が陸軍大臣になって、
>昭和陸軍の歴史が変わっていたかもね。

その可能性は有りましょうね。

三月事件のときに宇垣が計画の実行と中止の間で軸がブレたのも、
畑英太郎や津野一輔といった信頼できる軍政家を失っていたことによる
手駒の少なさ(後継者不足)への不安感があったからともいえます。

自分が陸相を退いたのちに政界に転じても、後継者が後を引き継いで
陸軍部内をしっかりまとめてくれるだろうという安心感があれば、
変な色気を出さずにすんだかもしれません。

412名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 03:20:54.22ID:oKkReEvB0
>>391
>南の陸相と朝鮮総督の手腕を見れば行政官も勤まる人材だったよね。

ただ、南は戦後の東京裁判の進行中にこんな発言も残していますしね。

はたして首相という重責が務まったかどうか、疑問符がつきます。


南次郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AC%A1%E9%83%8E

「外交に関しては、重光葵が認めた『巣鴨日記』(『文藝春秋』昭和27年
8月号掲載)によると、巣鴨プリズン内での重光との会話の中で
「外交とは軍の行動のしり拭いをすることであったと思っていたが、
今度初めて外交の重要性を了解した」と語ったことがあるという。」

413名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 03:36:12.92ID:oKkReEvB0
>>394
>無理にでも手に入れると永田がグループ会合で判決しているからね。

それは確か永田が出席していないときの東條の発言だと思ったが。

永田が中国に対してどう考えていたのかについては、井上寿一が
『危機のなかの協調外交』の中で外務省側の立場の人間の発言を
引用しながら論じているよ。

――――――――――――――――――――――――――――――――
「統制派主流の陸軍中央が、少なくとも一時的には対ソ戦のための資源
供給地、戦略的軍事拠点としての満州国支配の確立を最優先させて、
対外関係については現状維持を旨としていたことは、対ソ以外の対外
政策の形成においても、外務省の陸軍中央への政治的接近を一層促進した。

 特に重要なのは中国政策に関してであるが、この点について守島伍郎
アジア局第一課長は、後年「当時の陸軍々務局……辺りは、満州国建国一本、
これに全力をそそぎ、支那本土では出来得る限り事を起さぬという考方で
あったように私は見る。従って広田外相の対支政策には、必ずしも反対は
なかったと思ふ」と述べている。

 要するに外務省は、統制派=陸軍中央の軍事戦略構想を、暫定的なもの
であれ「北守南守」論として認識し、その限りにおいて中国政策に関しても
提携可能と考えるようになつたのである。」
(p180)
――――――――――――――――――――――――――――――――

414名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 03:36:48.02ID:oKkReEvB0
続き。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「華北分離工作のインパクトは、広田外交の国内的基盤に大きなダメージを
与えたものの、それによって直ちに崩壊したわけではなかった"広田外交は
形勢を立て直して、広田三原則による日中関係改善に進もうとした。
その広田三原則の原型である八月五日の守島試案は、その後、陸海軍からの
最終的なチェックを受けて、正式な政府決定となるのを待つばかりになっていた。
ところが、守島が「ホッとした矢先に」、外務省にとって重大なアクシデントが
起こってしまった。八月一二日、いわゆる相沢事件によって、永田が皇道派の
陸軍中佐相沢三郎に斬殺されたのである。相沢事件は、外交政策の形成に、
深刻な影響を及ぼすことになった。事件直後の状況を、守島は次のように
回想している。「私はがっかりした。鈴木貞一に電話をかけて『陸軍の不統一
も甚だしい。駄目ではないか』とナジッたことを、今でもオボエて居る。
それから暫くは陸軍との交通中断のような形であったし、永田局長の後任も
なかなか決まらなかった……私は永田の死で広田三原則は駄目になったのでは
あるまいかとまで考えた」。

守島がこれほどまでに思い詰めたのも、広田三原則の形成に当たって、陸軍
中央における永田の果した役割を高く評価していたからであった。守島は
「外務省でもいろいろ問題があったが、陸軍省ではヨリ以上の困難があった
らしい。それを何とかクグリ抜けて妥決したのは、陸軍では永田の力であった」と、
その政治的リーダーシップを称えて、永田の不慮の早逝を惜しんでいる。

 このような永田に対する評価は、外務省内で一人守島だけのものではなかった。
この点に関連して、東郷が、事件前の永田との折衝の様子をめぐって、興味深い
回想を記している。「対『ソ』温和派であった永田軍務局長と一部対『ソ』強硬
論者との対立は激甚を加へ、直接には別の原因であったが同軍務局長は一九三五年夏
陸軍将校の為め暗殺せらるる惨事を見るに至った。因に右事件の発生前同少将は
自分を来訪し、国際局面の安静化を希望する旨を述べ予に努力方を求むると共に
陸軍部内は自身意見の取纏めに尽力する旨を切言したので、右の方針を以て進む
ことに約束し、自分は一週間の休暇を得て軽井沢に赴いたが、忽ちにして同地で
暗殺の悲報を耳にし悲嘆の念に堪えなかった」。この劇的な内容の回想によれば、
永田は対外緊張緩和のための政策協調を外務省側に求め、華北分離工作後も従来の
方針に立ち返って、現地軍を抑制しようとしていた。この方向で永田と東郷との
間で合意がみられた直後に、相沢事件が起こった。その結果、外務省にとっての
提携相手が失われ、広田三原則に対する陸軍中央の最も有力な支持勢力に致命的
打フが加えられたのである。」
(p208-209)
――――――――――――――――――――――――――――――――

415名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 04:11:59.42ID:oKkReEvB0
>>404
>保坂さんの「東條英機と天皇」の時代は間違い?

少なくとも、筒井の著書を読んだ限りでは保阪正康の記述内容よりは
筒井説の方に説得力を感じます。

詳しくは『昭和十年代の陸軍と政治』中の「第五章 第一次近衛内閣に
おける首相指名制陸相の実現−杉山陸相から板垣陸相へ−」の部分を
お読みいただきたい。

以下に筒井の主張の結論部分を引用します。
――――――――――――――――――――――――――――――――
近衛の弁明説流布と陸相交代の意味

 しかし、こうまでして実現した板垣陸相であったが、近衛はその実現直後に
本領を見せることになる。六月三日、原田が近衛に会った時、近衛は「昨夜板垣が
東京に着いたので、今日これから食事をしながら話すつもりだ」と言ったのだが、
その結果を原田は二日後に知ることになる。六月五日松平康昌内大臣秘書官長は、
天皇が内大臣に言ったという次のような発言を原田に伝えたのである。
「近衛は板垣のことを、会ってみましたけれども、ぼんくらな男だ、と言って
おったよ」「近衛はすぐ変るね」。
天皇はこう言って「笑っておられ」たという。

 さらに近衛は梅津次官をひどく嫌っていたのだが離任の際長時間会談した後
「梅津という人はなかなかしっかりした人で、もっと早く会っておけばよかったと
思った」と言ったのだった。
 矢次一夫はこうした近衛の態度について、「人物を識るのに人の噂話や、評判
やらちょっとみただけの印象で判断し、自らの識見で人物を鑑識しようとしない
長袖貴族の政治的浮気性というか、その政治的多情さをみるべきであろう」と
著している(「長袖貴族」とは、公卿らのことをいう)。

 そして、こうして見てくると近衛が後に、東条次官就任要因としての梅津説を
流した謎もとけてくるのである。
 すなわち、風見章は「板垣氏は、どうして近衛氏の期侍に、そいえなかった
ものか」と自問して、一九四三年初秋に近衛が次のように語ったとしている。
「せっかく、おおきな期待を、板垣氏の力にかけたものであったのを、ついに、
その期待がうらぎられるにいたったのは、杉山、梅津が、そのおき土産に、
東条(英機)を次官にすえておいたせいだ。あのばあいは、気がつかなかったが、
東条は、梅津と同心一体の存在だったのだ」。
 元来、板垣陸相・東條次宮のコンビを考えたのは近衛自身だったのだが、板垣
陸相には会うなり失望した。そして、この後、板垣は期侍したような日中戦争を
和平に導くような活動を何もすることができなかった。その意味で無能な板垣を
なぜ無理をして陸相に就けたのかという近衛への批判は高まる。板垣を自分が
起用した事実は否定できない。そこで、板垣起用は間違っていなかったのだが、
同時に着任した東条次官が悪かったのだということにする。

 本当は、この東条次官も自分の発案による人事なのだが、この真実は極秘工作の
中にあったことなのでほとんど知る人はいない。杉山陸相のやったことだとしても
よいのだが、杉山は梅津次官によって動かされていたと誰もが見ているのだから
梅津の貴任ということにすればよい。

 あくまでも推論だが、近衛がこの弁明を思いつくに至った思考の流れはこのよう
なものではないだろうか。

 これまで誰もこの件についての事実関係についての詳細な検討を行わなかったので、
いわば近衛にだまされた歴史叙述が繰り返されてきたわけである。
これがいわゆる「長袖者流」ということなのだろうか。(p172-174)
――――――――――――――――――――――――――――――――

416名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 10:36:43.93ID:mCo16Lb+0
>>415
ということは、近衛文麿は東條英機を次官起用前から知っていたということ?

417名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 13:29:28.73ID:oKkReEvB0
>>416
>近衛文麿は東條英機を次官起用前から知っていたということ?

そういうことです。

もともとは、陸相としての杉山に対して「あいつは戦争を解決に向かわせよう
という意志を持っていないんじゃないのか?」と不満を抱いた近衛の側が、
トラウトマン工作の時に不拡大を主張していた多田駿参謀次長が杉山陸相を
排斥しようとしているので、それを利用して杉山を更迭しようと考えたのが
この陸相交代劇のスタートです。

そもそも、多田が杉山と対立するようになったのも、参謀本部側の意見を
受け入れずにトラウトマン工作を打ち切って「国民政府を対手とせず」の
政府声明を発表することになったのが原因であり、その責は近衛にも
あるのですが、都合よくその時の自分の失点を「無かったこと」にしたい
近衛が、最初に不拡大を主張していた石原のことを思い出して、石原と
近いと感じられた板垣の起用を考えるに至ったわけです。

参謀総長である皇族の閑院宮が杉山に詰め腹を切らせることになりますが、
閑院宮が杉山に辞職を勧めたのは、天皇周辺の宮中勢力がその後押しを
したからです。


近衛はそうやって板垣の引き出し工作を行いつつも、板垣との間にそれほど
深い面識があるわけではなく、「不拡大派だった石原と板垣は満州事変時に
一緒に動いていたから、板垣も不拡大なのだろう」くらいの観察でした。

徐州作戦の指揮を執っていた第五師団長の板垣を、現地から引っ張ってくる
ために同盟通信の古野伊之助が近衛の使者として山東省に派遣されます。
近衛内閣の書記官長(今でいう官房長官)だった風見章が、新聞記者を
だった時代に同じ会社で同僚として働いていたことがこの人選の理由です。

そして板垣に会った古野が近衛からの要望を伝えます。

「古野は出発時に、陸相受諾の三条件を聞かされていたのでこれを含めて
板垣に近衛の意向を説明・説得した。三条件とは「日本軍の華北撤兵」
「日中戦争の収拾」「東條次官任命」であった。」
(筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治』p159)

これは古野の伝記からの記述ですが、ほぼ同時期の『西園寺公と政局』にも
近衛の意向が残されています。


「政府は板垣と東條のコンビネーションで行くことが一番良いと思っている。
〔中略〕参謀本部の石原案ではあまりにも石原色が濃くなる。で、我儘を
させても困るから、まず板垣のような西郷隆盛式の男に東條のような緻密な
人をつけたらいいと思う。〔四月二七日〕

 それから陸軍の方は結局杉山が辞めたら、板垣、東条というコンビネー
ションで纏めたい。〔五月十二日〕」
(筒井清忠『昭和十年代の陸軍と政治』p171)

418名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 15:50:36.13ID:JRvKnSGs0
>>417
そう考えると、近衛は従来の陸軍に振り回された男というイメージより、かなり積極的に陸軍に関わった男って感じだね。

419名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 17:33:44.31ID:oKkReEvB0
>>418
筒井の著書が覆そうとした通説のうち、いくつかはこの「宮中グループは被害者であり、あまり責任は無い」
というものへの異議申し立てですね。

陸軍にしても、絶対的な万能の力を振り回したわけではなく、政党政治家や他省の官僚や宮中グループなどとの
綱引きを繰り返していて、ある局面では陸軍の方が振り回された部分もあったということを、さまざまな資料や
回想録・談話などから立体的に掘り起こしています。

ここで私などが長々と説明するより、一度この本をざっとで良いから読んでみると良いです。
「軍部大臣現役武官制があったから、文民には何もできなかった」というのは、かなりの部分で文民側を
免罪するために生み出された、戦後になってから流布した主張であり、実際には現役武官制があってもなくても
陸軍は自己の意思を通すために同じように強引に政治を動かそうとしていたろうし、現役武官制がなくても
歴史の大きな流れは現実の歴史とそう大きくは変わらなかったろうとしています。

「歴史のIF」を立てるとするならば、「現役武官制が無かったならば」という点に拠るのではなく
「政治家側がもっと強い勇気や意思をもって行動していたならば」という部分に拠った方が妥当で
あったろうというのがこの本の主張であったように感じています。

420名無しさん@お腹いっぱい。2016/10/30(日) 19:46:51.30ID:JRvKnSGs0
>>419
すごい読みたくなったので買います。川田さんの昭和陸軍全史も面白かったです。

421名無しさん@お腹いっぱい。2016/11/13(日) 18:29:30.07ID:s4RckiZb0?2BP(0)

「昭和陸軍の軌跡」1冊読んだだけなんだが
陸パン発行より前は
平時の経済体制は自由競争でいい
だったのが
陸パンでは
戦時・平時を問わず経済統制で安定って感じで
国家社会主義に近づいたのかと感じたがどうなんだべ

422名無しさん@お腹いっぱい。2016/12/30(金) 08:31:07.17ID:TKfbhN/b0
更新

423名無しさん@お腹いっぱい。2017/01/18(水) 10:02:09.35ID:Cn7AydNw0
>>421
東條の愚行を陸軍という組織の欠陥が生み出したものではないとしたい連中の永田上げの甚だしいことよ。
合理的で穏健思想の人物を代表にすることで陸軍の罪を減じたい連中の意図を浮き彫りにするな。

424名無しさん@お腹いっぱい。2017/02/09(木) 06:35:55.07ID:gVL6WJS10
更新

425名無しさん@お腹いっぱい。2017/02/11(土) 09:11:51.35ID:QgiwLZCr0
新統制派ってのは結局のところ
保身を図る連中が擦り寄ってきた寄り合い所帯なので
東條英機自身も突き上げに苦慮して流されてしまい、文字通り「統制」できていない部分があった
東條の下にいた連中が独断で好き勝手やりつつ戦後東條に責任転嫁しているのだから酷い話

426名無しさん@お腹いっぱい。2017/02/11(土) 15:55:58.02ID:Qv82yfCT0
>>425

武藤章は新統制派に入るの?

427名無しさん@お腹いっぱい。2017/02/11(土) 21:58:36.14ID:DDMsH9On0
武藤章は永田鉄山直系の子分じゃないか。

428名無しさん@お腹いっぱい。2017/02/12(日) 07:40:44.29ID:MKUn8PjX0
統制派も皇道派も、元はアンチ長州閥が集まっただけのグループで
主義主張も利害も最初からバラバラだから、政権取っても上手く運営できるわけが無いんだよな
要するに鳩山政権とか、細川政権と同じようなもん

そんな連中が指導グループになって戦争やったんだから、そら負けますわ

429名無しさん@お腹いっぱい。2017/02/26(日) 09:06:40.38ID:MUmJyVit0

430名無しさん@お腹いっぱい。2017/03/02(木) 08:22:35.05ID:ThUq8bE00
更新

431名無しさん@お腹いっぱい。2017/07/10(月) 21:26:41.03ID:q4oqoleq0
>>428
海軍独断の暴走によって日本は大敗したんだが?
戦争に負けた責任は海軍にある。
陸軍の責任ではない。

432名無しさん@お腹いっぱい。2017/07/10(月) 21:35:17.43ID:q4oqoleq0
>>428
そもそも日中戦争を勃発させたのは
海軍の米内と山本五十六じゃないか。
こいつらの言いなりが近衛だな。

太平洋戦争も同じ。

433名無しさん@お腹いっぱい。2017/07/26(水) 12:04:55.23ID:9e7bg3PN0
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆

434名無しさん@お腹いっぱい。2017/08/02(水) 11:50:18.17ID:OEY0GA3H0
>>431
日本を国際的に孤立させたのは熱河作戦
これにどう海軍が暴走する余地があったのか?

435名無しさん@お腹いっぱい。2017/08/21(月) 06:57:39.49ID:czsRYJTy0
更新

436名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/11(木) 01:02:57.43ID:F5zUkE3r0
>>432
阿世曲学の極みなり
よりにもよって日本の破滅を止めようとしていた人達に、破滅の責任を押し付けるつもりとは呆れ果てた

437名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/31(水) 13:48:00.79ID:I/Y5AjPQ0
近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

QMDUM

438名無しさん@お腹いっぱい。2018/04/01(日) 15:58:23.63ID:urADs81Y0
更新

439名無しさん@お腹いっぱい。2018/04/06(金) 08:47:19.56ID:XL7f8lVJ0
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
https://youtu.be/Q5Ifb-UXVic

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