【前畑がんばれ】近代日本スポーツ史【花の早慶戦】

1名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/22(月) 14:00:40.76ID:QYlPBqR10
大和球士 『野球五十年』 時事通信社、昭和30年
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN11689916

六大学野球リーグ戦の初放送は10月15日おこなわれた早明2回戦であった。
初期において活躍したスポーツアナウンサーには松内則三、河西三省、山本照などがあり、
その流れをくんで島浦精二、和田信賢、飯田次男、志村正順などの俊才が輩出した。
中継放送により、野球はとみに大衆化した。

野球中継といえば松内を思い出すほど、松内の名調子は大衆にしたしまれた。
神宮球場に薄暮せまり、カラスが2羽3羽舞っています・・・カラスが舞っていないと
野球試合の中継でないように思われたことさえあった。河西は忠実な描写に別種の人気があり、
ベルリン・オリンピック大会に派遣されて、前畑がんばれ、前畑がんばれ、とやって人気白熱、
山本はのちに相撲の実況放送に新境地をひらいた。

島浦は東大一塁手だった経験を活かし、和田は野球に相撲に司会者に朗読に、
行くとして可ならずはない天才ぶりを発揮したが、ヘルシンキ・オリンピック大会に派遣され、
パリの宿舎に病をえて長逝した。飯田は落ちついた話術に味を持ち、
のちに競馬実況放送に独自の世界を築き、志村はNHK開設以来の快弁をもって鳴り、
舌の回転のスピードにおいてはまさに空前にして絶後ではあるまいか。

2名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/26(金) 23:03:29.06ID:p11rPn8q0
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8

3名無しさん@お腹いっぱい。2018/01/27(土) 11:07:56.01ID:YIBss3cn0
日米開戦後、景気のいいのは、山本長官の言葉通り最初の半年だけで
あとは後退に次ぐ後退、時局がひっ迫する中、スポーツどころではない、といわれながらも
各競技は頑張った

六大学野球は学徒出陣を前に1943年10月16日、いわゆる最後の早慶戦を最後によりはやばやと中止
一方、職業野球は粘りに粘った
アメリカ生まれの競技という十字架を背負いつつ、ストライクをヨシなどと用語をいいかえ
イーグルスが黒鷲軍等と横文字のチーム名も改名され、その過程であるオーナーがライオンの改名を迫られ
ライオンは日本語だ!!と言い放つ小事件を挟みつつ戦局いよいよ押しつまった1945年1月まで続け、ついに
力尽きた
戦後、岸信介は、安保闘争の際、後楽園球場はいつも通りでとせりふを吐いたが
1945年の1月に野球を見に行く日本人が安保闘争ごときで観戦に行かないなどありえないのである

しかし、さらに上には上がいて、さすが国技、大相撲はさらにがんばった
力士の多くを徴兵されたものの本場所を開催し続ける
両国国技館は陸軍に接収され風船爆弾の製造工場となり、その後東京大空襲で破損
しかたがないので1944年の5月場所は後楽園で開催したが、その観衆たるや8万
もう空前絶後の観客動員を記録した
ちなみに戦局はというとビルマでインパール作戦をやってる真っ最中である

さらに場所を開催し続け1945年6月に両国国技館で最後の本場所が開催された
その時すでに東京は焼け野原である
今の相撲協会の理事連中は、先人の御苦労を思い浮かべるべきである
開催されたのである

戦争中とはいえ、みんなスポーツが好きだったのだ

4名無しさん@お腹いっぱい。2018/02/01(木) 21:06:41.07ID:RHaafMYb0
文字通り国中が興奮と歓喜に沸いたスポーツイベントとしては、スレタイにもあるベルリンで前畑金メダル、
東京五輪の東洋の魔女最強ソ連を破る、ジョホールバルでの岡野のGGでWC初出場、
この辺は心臓マヒで死人が出たとしてもおかしくはない。

逆に、国中がお通夜になったのは、東京五輪柔道無差別級で神永がアントン・ヘーシンクに敗れるの一戦、
ドーハの悲劇か。

うれしいのか悲しいのか何だかわからないが、国中が沸いたというのでは、双葉山70連勝ならずの一番、
星陵箕島延長18回サヨナラだろうか

5名無しさん@お腹いっぱい。2018/02/03(土) 10:30:36.78ID:6tv1b5iq0
>>3
野球の復活は早かったよ。


記録によれば、戦後最初のスポーツイベントは、終戦からわずか1ヵ月余りが経過したばかりの9月23日、
京都の京大グラウンドで行われた三高対関西ラグビー倶楽部によるラグビー試合である。
そして野球の戦後第一戦は、それから1ヵ月後の10月28日に神宮球場で行われた東京六大学OB紅白試合だった。

東京六大学各校が、復員したOBや現役部員をかき集めて実現にこぎつけたものだが、
午後2時試合開始にもかかわらず、早朝から野球に飢えた大観衆が詰めかけたため、
試合開始を午前11時半に繰り上げるほどの熱狂ぶり。バックネット裏には進駐軍の将兵が陣取り、
日本の野球を興味深げに観戦し、野次を飛ばしたり、スタンドにカメラを向けたりするなど、
およそ戦前には考えることもできなかった光景のもとで試合は行われた。

(富永俊治 『早慶戦百年 激闘と熱狂の記憶』 講談社、2003年)

6名無しさん@お腹いっぱい。2018/02/03(土) 10:31:40.01ID:6tv1b5iq0
観衆だけは本格的 お祭騒ぎの早慶野球  慶6 - 早3

昭和17年秋以来初の早慶戦はOB選手を混へた全早大全慶大の陣容で
18日午後2時から神宮球場で挙行された、内容はなんであらうと早慶戦ともなれば
大騒ぎで、朝から内野は忽ち満員、外野も七分通り埋めて4万5千という観衆

早大は一塁、慶大は三塁側にそれぞれ応援団が陣取つて昔通りの
早慶戦気分を横溢させてフアンを喜ばせる、試合は現役選手6名の
早大に対し慶大は僅か2名で他は全部OB選手であつたが、
投手白木の好投で却つて優勢を示して2回と4回に1点づつ入れる

6回には早大も奮起して二塁打単打敵失で一挙に3点を獲得したが、
慶大また8回裏に1点入れて同点となり復活第1戦から延長戦に入るといふ
道具立だけは何処までも早慶戦であつたが、結局11回裏に
慶大3本の安打と相手のエラー2つで3点をあげて6対3で慶大が勝つた

急のチーム編成でエラーも多く、ゲームの内容は昔とは
似ても似つかぬものではあつたが、その昔の名選手が多く出場し、
わがスポーツ祭ともいふべき雰囲気に観衆は大満足の態であつた

(『東京朝日新聞』 昭和20年11月19日付)




全早稲田対全慶應(昭和20年11月18日、神宮、4万5千)

  全早大 0 0 0 0 0 3 0 0 0 0 0│3
  全慶大 0 1 0 1 0 0 0 1 0 0 3│6

    全慶    全早
    -------------
    白木 投 若原
            岡本
    松永 捕 桝形
    岩本 一 笠原
            呉
    勝川 二 松井
    灰山
    宇野 三 片山
    大館 遊 蔭山
    大島 左 岡崎
    土井 中 西浦
    別当 右 高野

7名無しさん@お腹いっぱい。2018/02/04(日) 18:40:46.33ID:XlUZ/vm/0
>>5
相撲も11月には本場所を開いたそうだから遅くはないが、GHQに受けのいい野球やラグビーと異なり
相撲は開催許可を取り付けるのにだいぶ苦労したらしい
剣道や柔道に至っては開催禁止、協会解散、関係者は公職追放だからな
我が世の春の野球と好対照だ

>>6
「観衆だけは本格的 お祭騒ぎの」
「内容はなんであらうと」
「道具立だけは何処までも早慶戦であつたが」
「ゲームの内容は昔とは 似ても似つかぬものではあつたが」
「観衆は大満足の態であつた 」

この短い記事にこれだけの皮肉といやみを詰め込んだものだ
まさに朝日の真骨頂といえる記事だが、野球害毒論張ってた記者が書いたんじゃないのかこれ

8名無しさん@お腹いっぱい。2018/02/08(木) 11:36:16.46ID:Hi3L0O4I0
>>7
野球害毒論は明治末期だから、当時の記者はもういないのでは?

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