ガリの転進ごろから、人間は狂いだした。時間にして言えば、上陸後一年を経過したころである。異常な神経が
支配してきた。軍で刊行されたパンフレット、『熱地帯の栞』というのが手渡されていた。その中に、「温帯に
生存するわれわれは、この熱地に一年も住めば相当優秀な頭脳も破壊される」とあった。学的にどこまで信を
おけるものかは知らないが、われわれは漠然と一年くらいで還されるだろうという、そこはかとない期待があった。
「相当優秀な頭脳」が、一年でばかになるとすれば、三年もおれば「超」の字もつこうというものである。常夏
の国の気候・風土が、人間の脳におよぼす直接の影響については、そう自覚されるものではなかったが、飢餓と
栄養失調は、記憶力を奪い、思考力を弱めた。さらに激しい熱病が脳を蝕んだ。正常な神経も、これだけは免れ
えなかった。

連日連夜の砲爆撃は、いやおうなしに脳の組織をゆさぶった。条件は、異常な神経をつくるのに十分過ぎた。生きた
とかげやいなごを、そのまま口に入れるのも、豚の肉を生のまま噛りつくのも、食欲からくる異常さである。そんな
ことが、平然とできるようになってしまったものを、正常な神経でもってははかりえない部分があったのだ。そこに、
「人間」のぎりぎりの闘いがあった。人間として生きようとする願いと、生きようとする動物的本能との熾烈な闘い
があったのだ。自然と人為との、途方もないローラーに押しひしがれたものの、惨憺たる闘いである。

ガリの転進を、おそらく史上稀にみる凄惨な行軍だったといったが、ここで恐ろしい事実を見たのである。行き倒れた
兵隊の腿が、さっくりと抉り取られていたのである。キャプテン・クックの手記に、食人種のことが記されており、
いまだにこんなことをするやつがいるのか、と思って見た。ところが、原住民の仕業ではなかったのだ。慄然とする
ような風評が流れてきた。この転進はそこまで人間を追いつめていたのである。

Yと二人、山道を急いでいたら、見知らぬ部隊の四、五名に呼びとめられた。食事を終えたところらしく、飯盒が散乱
している。「大きな蛇の肉があるんだが、食っていかないか」というのである。そのにやにやした面が、気に入らな
かった。何かがある、と直感した。共犯者を強いる───そんな空気を感じたのは、思い過ごしであったろうか。その
連中が、一斉に何かを待ち受けるような姿勢を見せたのは、ただごととは思えなかった。Yも同じものを感じたか、
「おおきに、またごちそうになるわ」と言った。道々、妙な不安が追いかけてくるようだった。Yの表情にもそれがあっ
た。それとなく警戒しながら、急いだ。小銃弾を浴びせられるかも知れぬという不安がひらめく。大分来てから、Yは、
「やつら何をしていたんだろう。おかしい。蛇ならばくれるはずがない。良心にとがめるところがあって、おれたちも
仲間に引き入れることによって、少しでも呵責からのがれようとしたのではないだろうか」などと憶測した。もちろん、
何の根拠もないが、とっさに期せずして符合した感じは、何であったか。腿の肉を切り取られた死体の数は、一つや二つ
ではなかったのだ。ついに全く光は消えた。ただ眩暈のうちに拠点を見失って、地底に転落していった。