戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか?
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慶喜
(せっかく大政奉還したってのに会津も桑名も薩長討つべしってうるせ〜。一度派手に負けねぇとこいつら状況分かんネェのか…?) そもそも10万以上の兵がいて3千の長州征伐に負けるってどういうことだよ >>184
近代的軍隊(長州軍)と封建的軍隊(幕府軍)との戦いだったから。
長州軍には近代的軍隊を編成し、作戦を立案する軍略家・司令官とそれを実行する指揮官たち
がいた。
[>>98再掲]
村医者・村田蔵六改め、大村益次郎(日本の近代兵制の創始者)が第二次長州征伐の時、長州藩の
奇兵隊に授けた戦略・戦術が「散兵線」作戦だ。
ミニエ銃などの飛距離が長く、命中精度が高く、殺傷能力が大きい新式銃の実戦配備によって従来の
密集隊形型突撃では膨大な死傷者が出るようになったので、全軍を各々独立して戦える少人数の班
を基本単位として編成し、各班が目前の戦況を独自に判断しながら全体的作戦に則って全軍司令官
の指揮の下に秩序を保って戦うというものだ。
「散兵線」は各兵士の自立性と協調性が求められる戦術なので、近代文明の根底にある「個の自立」
の考えを体得した人でないと全軍にそれを納得させ、戦場で実行させるのは難しかったはずだ。
大村が大阪・適塾で福沢諭吉や橋本左内らと共に必死に学んだ蘭学を通して身に着けた近代的知識
と思想が生きたのではないか。
これらは旧幕府側の儒教に縛られた事大主義では理解できないことだった。
<参照>大日本帝国陸軍の軍歌「歩兵の本領」
https://www.youtube.com/watch?v=FJreugfgJUw 幕府側にも大村益次郎に匹敵するような人物はいたのだろうけれども
前線や軍令部には居なかったというのも大きいね 大村一人居ても大して変わらんよ
幕府で言えば大鳥みたいなもの
軍制家として優れてたけど実戦家としてそんな活躍したわけでないしね
大鳥も結局一度も板垣に勝てなかったし
机上の論でなく実戦で戦える指揮官が多くいたのが薩長土 徳川幕府は二代秀忠以来、武士の棟梁にあるまじき最弱の武家政権
だということがあきらかにされたのが戊辰戦争。
薩長以外でも大きめの武闘派の藩が二つ連合すれば、徳川なぞ
あっという間に倒せた可能性が高い。
最弱の武家政権・徳川幕府の260年間を支えたのは神君徳川家康の
幻影だったのだ。 幕府軍の有能な人材は大鳥以外にもいたよ
幕府陸軍初陣の対天狗党戦で天狗党軍の奇襲攻撃に幕府軍総崩れの中、唯一陣形を保って応戦した北条新太郎
ペリー来航時の浦賀奉行所与力で西洋事情に精通し歩兵組の創設から関わり続けた中島三郎助
神奈川奉行所幹部で横浜警備兵を組織し英仏駐屯軍とも交流、これを洋式軍隊へ育て上げた窪田鎮章
その窪田の下にいた古屋佐久左衛門、鳥羽伏見の戦いで善戦した佐久間信久も有能といって良さそう
んでダメなのが慶喜はもちろんだが実質的司令官だった陸軍奉行竹中重固、これがとにかくダメ
当時若干28〜9歳ながら松平乗謨に交代してた方がずっと良かった 竹中ってあの半兵衛の子孫なのにな
戦いも戦術も軍略もなっちゃいない
中島と古屋はホント有能
生きてれば明治政府か軍の要職に就くか教育の第一人者として必ず名を残しただろう
とくに中島の親子しての自決のような玉砕はもったいなさすぎ
あの蝦夷での戦闘はホント貴重な人材がこの世から消えてしまった戦いだった
中島生きて竹中が玉砕したらよかったんだわホント 天保の改革の失敗 大塩平八郎の乱が起きた
時点で幕末が始まり 徳川幕府の命運は尽きたも
当然だった 大塩は志あつくして知足らず、知あつくして行わざるところあり、狂狷ってやつだな
あれほど上手くいかなかったのならば、何か決定的に欠けていたのだろう。
吉田松陰にも通じる痛切な印象があるな 小笠原長行があのまま率兵上京し討幕派を一掃していれば。 長行なんて長州征伐であのザマだから期待できないけど >>190
> 幕府陸軍初陣の対天狗党戦で天狗党軍の奇襲攻撃に幕府軍総崩れの中、唯一陣形を保って応戦した北条新太郎
>鳥羽伏見の戦いで善戦した佐久間信久
現場の戦闘指揮官として有能なのはこのふたりぐらいか? >>196
桑名藩のとか庄内藩のとか河井継之助とかいるだろ >>197
桑名の立見さんはのちの日露戦争でも強かったな。 >>1
旧幕府軍が薩長土肥の官軍と組んで、賊軍会津を討伐する >>200
前線で陣頭指揮しまくってたから流れ弾にやられた >>199
鳥羽伏見後(容保の登城禁止&江戸追放令)はある意味それに近い感じがする
慶喜ってちょっとサイコパス入ってるよね >>196
大鳥圭介は脱走後、新政府側についた北関東の諸藩軍を次々と撃破し、一時宇都宮を奪還
その後撤退を強いられるも日光方面では遅滞戦闘を継続し戦線を支える
母成峠の戦いは敗戦だが3倍の兵力差と砲兵火力でも負けてたので仕方ない感がある
窪田鎮章は神奈川奉行所での洋式兵調練で合同訓練した英国軍から指揮の上手さを賞賛されている
鳥羽伏見の戦い後、近代戦を急速にマスターして北海道で幾度も新政府軍を撃退した土方歳三も強い
河井継之助、佐川官兵衛、山川大蔵、立見尚文等はそれぞれ長岡藩、会津藩、桑名藩と幕府軍とは別ではある 飲み過ぎ寝坊さえ抜けば佐川官兵衛はだいぶ評価されていいだろ 多くの若者が実践で最高の教訓を得たのに多くが死んでしまうというのが
戦争の悲劇的なところやな。それでもこうやってみれば、まだ新政府は幕府側の
才能を抜擢したほうなんだな。戦争は納め方がほんと大事やね。 おまえら庄内藩二番大隊を指揮し
秋田方面の戦いで連戦連勝をして
新政府から鬼玄蕃と恐れられた酒井了恒を忘れてますよ 立見みたく新政府軍ぶっ殺しまくった人間でも帰順させて
軍人として有能なら陸軍大将にまで昇進させるとかって素晴らしいと思うわ >>207
秋田相手だから無双できたんでしょ。
お前らが秋田にかまけてる間に肝心の会津がボッコボコにされてて笑える。
王手飛車取りかけられてる時に、歩を取りに行くバカだ。
戦後はせごどんのワンコに成り下がるし、情けない庄内人。 >>208
ただし日露戦争の時点で中将で師団長だから(能力の割には)やっぱり出世は遅かったんだなあ。 >>210
薩長閥の軍人に「お前ら俺の隊と戦ってた時はクソ雑魚だった癖に威張るな」みたいな事しょっちゅう言ってたらしいからそら疎まれる
てかそれでも陸軍大将まで出世出来たのが謎w >>211
藩閥外でも奥保鞏(小倉)は地味な人柄だったから
日露戦争の時点で大将で軍司令官だった。 南北戦争では戦後南部連合の閣僚が上院議員になったりと復権しており南部連合大統領ジェファーソンデイビスも政治活動を許された
戊辰も南北戦争も地域対立の面があり しかもその対立は短期間に急に発生した根の浅いものであるから戦後の勝者は過度な処罰はせず融和を図ることとなった
これがイデオロギーによる革命となると対立は絶対的で敗軍の将は皆首チョンパか亡命となる >>206>>208 >>214
四境戦争の直後に幕府が長州藩と融和して、
幕府軍ぶっ殺しまくった大村益次郎とか有能な人物を幕府陸軍奉行に抜擢する 戦争なんてせずに大阪で朝廷の決定待ってれば良かったんだよ
岩倉も薩摩も慶喜を議定にで妥協してたし
その他の雄藩は慶喜同情派だったし 結局、慶喜の討薩の表も
西郷の政府に尋問の筋ありも本質的には一緒
結末も一緒 幕府側は銃に弾込めずに京都へ進軍してたらしいし
「大軍勢で薩摩を脅せばビビって各地での嫌がらせも止めるように命令出すだろ」
ぐらいの気持ちだったんじゃあなかろうか 長州の禁門の変も同じだな
進発した軍隊は止めれなくなる >>209
長州も薩摩兵もいたぞ。角間川では長崎振遠隊がスペンサー銃で参戦しているのに、ボロ負け。
おまけに、後半戦からは佐賀藩がアームストロング砲で参戦して、やっと一進一退の互角。
桂太郎なんか、逃げて逃げて逃げまくっているはずなのに、戦後褒賞を得て、首相の座に。 会津を見殺しにした庄内はもうどうでもいいよ。
長岡藩に比べて戦局には影響ゼロ。
ローカル板ででもオナニーしててよ。 >>221
秋田戦線で手一杯なのに会津まで助けられるかw 会津信者ってどうしてこう自己中でひとりよがりな考え方もったやつばっかなんだろなw 会津、仙台又は米沢のいずれかがやられた段階で詰みなのに秋田の侵略するとかバカの極み。
藩境固めて玉を守りに行く脳はなかったのかね。
官軍の主力に徹底抗戦で時間稼ぎした長岡藩より貢献度低いのは明らか。 >>218-219
薩摩軍はすんなり入京できて王政復古を遂行したのにね
大政奉還を申し出たのに新政府を作らなかった徳川慶喜がマヌケだったのかもしれんが >>224
秋田に官軍が多数集結して、金山の仙台軍は壊滅状態になり、新庄藩は新政府側についたのに、そんなことできるかよw
これでも、新庄に集まった薩長軍は兵隊数は庄内側の方が少ないのに、やっつけているんだよ。後は敗走する「官軍」を追って秋田領へ攻めこむ訳だ 玉である会津仙台を放っておいて秋田に歩を取りに行った時点で、庄内は戦略的に惨敗してる。
戦術的に弱兵蹴散らして多少勝った程度で西郷どんに褒められてホルホルしてるけど、西郷どんが褒めたのって、別の意味でじゃないのw
こんな大勢に影響の無い藩なんて無視した方がいい。 >>227
壊れたレコードか。同じ事を繰り返すのみw >>228
スレタイ「戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか? 」
庄内藩は結局負けたんだから、今更戦術的に局地的に勝ったのを誇っても無駄。
そのご立派な実力をもって会津を守りに行けば勝てたのかもしれないが、その選択肢すら自画自賛で凝り固まった筋肉脳で頭ごなしに放棄するのなら、もう庄内など語る価値はない。
ちなみに庄内藩の、勅許もなく蝦夷地をプロイセンに売ろうとした逆賊的行為は弁護の余地なし。
戊辰戦争なんて、そもそも庄内藩が西郷どんの挑発に乗って薩摩藩邸焼き討ちにしなければ起こらなかった。
つくづく脳筋でバカな奴らだと思うよ。
西郷どんに可愛がられた理由がよくわかる。 >>229
会津守っても勝てねーよ。
会津は住民に愛想つかされていて、新政府軍の道案内を住民がしてたんだろw 列藩同盟って仲悪いな
幕長戦争の時の長州みたいに同盟軍をあてにせず、会津単独で戦った方が良かったんちゃう? なりすましが、対立を演出しているだけだから気にするなw 会津もプロイセンに国土売り飛ばそうとした売国奴やんけwww 奥羽戦争みたいな局地戦は専用スレとかお国自慢板で語ってほしい
江戸城無血開城後の旧幕府軍なんか既に解体して、残党が暴れてるだけだし >>220
> おまけに、後半戦からは佐賀藩がアームストロング砲で参戦して、やっと一進一退の互角。
アームストロング砲の破壊力に兵がびびった記録は残っている? >>234
レイテ湾に栗田艦隊が突入して日本が局地的に大勝利したとしても
戦争そのものに勝てた可能性はないのと同じことだよな。 江戸開城後 新政府軍は前装式エンフィールド銃
をスナイドル銃やアルビニー銃に改造して
長岡 会津の戦いに投入しているので
勝ち目はなかったすよ
スナイドル銃
https://m.youtube.com/watch?v=oJp2q_HWPF8
アルビニー銃
https://m.youtube.com/watch?v=0CEQSJcB4Vs >>234
そうは思わないな
東北戦争はガチで日本の歴史を大きく左右した戦争で最初から新政府軍の勝ちが決まってるとはとても言い難い
例えば戊辰戦争に薩摩藩が投入した兵力は6600人で諸藩中これが最大
長州は3〜4000で長岡戦線で思わぬ苦戦をしたことから前線から本国に増援要請が来るも
資金枯渇、兵力にも余裕はなく要請は拒否された
それに対する会津藩は7000を動員、洋式化も急速に進めて徹底抗戦の構え
桑名藩は本国は新政府に下るも江戸の藩主や藩邸側は飛び地領地の柏崎を制圧し1000人以上動員
旧幕府脱走軍も各隊を総計すれば5000は行く、さらに上野寛永寺には最大4000の彰義隊が展開
品川沖には新政府軍を圧倒する幕府海軍もある
奥羽越列藩同盟を加えないでも兵力はほぼ互角か海軍力がある分、会津・旧幕府側の方が上とも言える >>238
>さらに上野寛永寺には最大4000の彰義隊が展開
ここが潰されてからは新政府が明らかに優勢だろ。 戊辰戦争に限らず幕末の戦いって兵数は勝敗にあんまり影響なかったみたいだけど 兵力が拮抗してた長岡、白河戦線で大きく影響したのはやっぱり中下級指揮官の質の差かな
あと砲兵使用の積極性、狙撃の活用も
また仙台藩は大藩ではあるが多くの部隊は装備が旧式、もう一つの東北同盟主力を張った米沢藩も
軍洋式化の切り札になる洋式兵器を新政府軍の新潟港急襲で失ったのは痛い 当時の会津は京都守護職と不作の影響で
財政状況は悪化 ミニエー銃も一部にしか
配備されておらず 基本的にゲベール ヤーゲル銃
が主流で組織体質も18世紀水準
白虎隊も新政府軍が金属薬莢かつ後装式の
スナイドル銃で粉砕している >>238
旧幕府軍と奥羽戦争は関係ないので、庄内のお国自慢や彰義隊の残党の件なら他でやれということ。
理解できる? 庄内藩は、「本間様には及びはせぬが、せめてなりたや殿様に」の本間家の財力で、スペンサー銃
をそろえていたからな。
角間川では長崎兵との戦いでスペンサー銃対スペンサー銃になったが、仙台藩が意図せずも
囮の役割を演じて庄内藩のボロ勝ち。
いくら装備が旧式でも囮作戦は、あたれば大成功!釣り野伏の本場である薩摩藩がいるのに、
これを見破れなかったのは、やろうと思ってやったのではないからか?それとも油断していたからか? >>243
幕府側が勝ったから、都合が悪いってか?w
まあ、東北以北が皇族を立てて、新たな国を作っていたかもね。 その場合東武帝握ってる仙台が音頭取りたがるだろうけど、戦闘面ではドンゴリだからなぁ
新政府軍撃退したとしてもその後の主導権争いでまた一悶着ありそう >>245
徳川宗家はもう恭順しているので、奥羽戦争の段階で旧幕府軍など存在しない。
ただの酒井家の私闘。
スレ違い。
本当に意地があるなら仙台米沢降伏後も官軍と戦えよ。
弱小秋田を叩きまくって自己満足したからさっさと逃げ帰ったんだろ?
庄内に義などない、ら >> 幕府側が勝ったから、
ちなみに庄内藩は降伏してるから。 >>241
>新政府軍の新潟港急襲
これは意外と大局に影響したようだが。 薩長をロスチャイルドが支援し
水戸をロックフェラーが支援し
ロスチャは日本の金融を支配し、ロックは日本の政治(戦争)を支配した
これは勿論、全力で隠されているが
何で日本は国債なんか発行してるんだ?
なんで正恩は、ロックに資本注入された三菱ミサイルを飛ばしてたんだ?
と考えれば疑いようもない
つまり、薩長のような朝鮮部落民を徳川が生かしておいたから
外国勢力に使われてしまったというのが敗因だ 終始アホな会津信者が庄内に嫉妬してるだけにしかみえない 奥羽越列藩同盟の勝利に貢献しない役立たずで、かつ速攻で西郷に寝返っ裏切り者の庄内がウザいだけ
お国自慢なら他でやれ 尾張、紀伊、金沢、東海諸藩が抵抗したらどうなってたかね
この辺りは薩長と戦えるだけの軍力が備わってたのか ますますアホな会津信者が庄内に嫉妬してるだけにしかみえなくなった >>254
なりすまし会津が擁護してもw
本格的に会津アゲしてから言えよw
大体降伏の時期なら庄内は後だ。 西郷に泣きついて金払って許してもらったんでしょ庄内
志が低い裏切り者 鳥羽伏見は正規戦だからなあ
庄内の戦い方は基本ゲリラ戦術だろ? 正規戦から逃げて、ひたすら薩摩藩邸やら、天童・新庄や秋田の村々を焼き払ったのが庄内。 正規戦の定義によるが鳥羽伏見の経過を追えば行軍中の軍隊と守備兵による不正規戦
だったから朝廷側が圧倒したという感じがあるな。結果論としては幕府側を心理的・時間的・
地理的にうまく分断したから圧勝したというか。 >庄内の戦い方は基本ゲリラ戦術だろ?
ゲリラ戦術だけで、大軍が相手領地の半分まで進攻できないよw 薩長をロスチャイルドが支援し
水戸をロックフェラーが支援し
ロスチャは日本の金融を支配し、ロックは日本の政治(戦争)を支配した
これは勿論、全力で隠されているが
何で日本は国債なんか発行してるんだ?
なんで正恩は、ロックに資本注入された三菱ミサイルを飛ばしてたんだ?
と考えれば疑いようもない
つまり、薩長のような朝鮮部落民を徳川が生かしておいたから
外国勢力に使われてしまったというのが敗因にゃ なぜ同じ関ヶ原で減封されながら
秋田と米沢ここまで立場が別れたのか >>264
会津方面に侵攻してくる官軍の主力を無視し、天童や秋田の弱兵を新兵器でボコボコにしてただけだね
庄内のお国自慢はいつ聴いても素晴らしいね >>266
勇猛な上杉軍と
そうでもなかった佐竹軍の違いもある。 >>268
当時のロックフェラーは、創業間もない時期で石油もランプや機械の摩減剤の
用途しかないから、経済力は限られてる。アメリカ各地に自社の油田、製油所を広げようと
ようやく緒に就いたばかりの時期だ
そんな時期のロックフェラーがなんで極東日本の水戸藩を支援するのか、理解できないんだが。 >>268
米沢が本当に勇猛だったら戦況変わってたのにな
臆病風に吹かれて中途半端なことしくさって 佐竹藩の秋田は平田神道の本拠地だったから、勤王思想が強いけど、国学の要素が強すぎるんだよな。
もうちょい、外国の兵学を学ぶ柔軟性があれば…ってトンデモが入った平田神道じゃ無理か。
トンデモ入っていると人気あるんだよな。
島崎藤村の『夜明け前』も主人公が平田国学にはまって、子供が英学校に入るのすら抵抗感ありまくりだし。 庄内が会津方面に援軍に行ってたら
もっとまともにやれてたかな 奥羽越列藩同盟は戦略的に勝つための思想が無かった。
結局、会津や庄内が蝦夷地を売り渡して、プロイセンの支援を受けて新しい国家を作るって方向性だったのかな?
肝心のプロイセンの支援を受ける前に同盟の中核仙台米沢が負けて敗戦したというのはお粗末。 まあ、これの相手がロシアでなくよかったな
しかしこの切羽詰まった状況でプロイセンをチョイスするあたり海外のことなんも理解把握してなかったのが伺える
列国の末席に位置し、国内もまだまだガタガタで世界の一番はじっこを支援できるほどの海軍力もないとこを選ぶとか
普通ロシア選ぶだろうよ
ま、先にも言ったが、ロシアを選ばなくて大正解ではあるのだがなw >>274
なりすましの会津だから、本格的な会津のよいしょは出来ないってか。 奥羽越列藩同盟は明らかに戦争をするための同盟じゃなかったのが敗因
そもそも会津、庄内は新政府へ恭順方針を示していたが認めず、藩主の首を要求し
両藩の態度硬化で東北が戦乱の危機となりこれを回避する目的の連合体だったから
しかも特に東北諸藩の収入は米が主で現金化するには江戸・京都・大阪で売る以外になく
この三大都市が新政府の占領下のままなら、どんなに東北で善戦しても1年以上は持たないだろう
東北独立なんてますますあり得ない、開戦と同時に江戸へ全軍で雪崩れ込むくらいしないと持久戦すら不可能 >>278
恭順示すんだったらじっくり講和条件交渉なり、時間稼ぎなりするしかなかった。
会津庄内は、プロイセンに売国土下座して、伊達を将軍にして、東北王国でも作ろうなどという下心があったのでは?
ともかく、
感情的に世良の首をはねて自ら戦争仕掛けた仙台がバカ。
便乗して白河侵略した会津もバカ。 東北諸藩も鳥羽伏見に参戦してれば勝ったな
関東奥州と各個に戦って敗れた 敵側に情勢判断と決意をさせないように、つねに状況を支配していくという
ドクトリンで朝廷側が上手くやったともいえるわけだ。そしてその手法は明治
以降も有効でありつづけ、アメリカによって強力に阻止されるまで友好だった
(´・ω・`) 幕末で尚武の精神がない凡百の藩の軍事能力は形骸化していただろう。
長期軍事行動に必要な糧秣を補給するにも事欠いたのではないか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています