>>561
鳥羽街道に向かった幕軍は発砲を禁じられ弾込めしていなかった
理由は京に内応者がおり、入京までは与党勢力を刺激したくなかったから
内応者の存在は平山図書が福地源一郎に語ったり、
あるいは鳥羽伏見の戦いの最中に土佐藩から進軍予定を問い合わせられた逸話が見えるなど
いくつかの傍証がある

慶喜は基本的に政治的解決を考えていて、軍事行動はその補助線だったと思われる
既に政治的勝利が内定して上洛命令が出ているのに幕軍の進路を妨害したら直ちに朝議で叩かれるから
相手の反撃を心配する必要はないと見て発砲禁止という非常識な命令を下してしまったのだろう

家近良樹は、この慶喜の行動と西南戦争当時の西郷の行動がよく似ていると言っている
どちらも軍事的優勢を確信し、相手の反撃はないから本格的な戦闘になるまいと見て進軍を容認した点