戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか?
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>>679
何でってそのままわざわざ交戦せずに待ってれば勝てるから
このとき慶喜自身は戦はやりたがってないの知ってるよね? >>673
淀を失った時点で幕軍が京に攻め上がるのが難しくなったというのは同意。
ただ、幕陸海軍が大坂を抑えてる限りは短期に敗北に追い込まれることはないので
淀の失陥が幕軍敗北に直結するというわけではない。
(西郷吉之助も大坂進撃はまだずっと先のことと考えていた)
諸藩兵は上洛中だし、幕軍はこの時も増援を上洛させることを検討してるから、
決め手を欠く状態で京方と大坂方が並立して調停を待つ感じになるだろう。
1年前の暮れに保谷徹らが議論してたけど、やっぱり同じ感じだったね。 >>680
いや、慶喜は請書を出してるんだから、上洛しないわけにいかないでしょ。
なぜ大坂で待つの???
大坂にいたら議定につけないし、朝議にも出れないでしょうが。
遅かれ早かれ上洛するんだよ慶喜は。 >>680は大きな勘違いをしてるようだけど、
慶喜が京の封鎖を続けてたら、誰かがクーデタを起こしてくれて
薩摩藩強硬派が失脚するというわけじゃないよ。
曲がりなりにも島津忠義は議定に付いてるのだから。
ただ、慶喜の議定就任・新政府参加が実現した場合、
彼の排除にこだわってきた西郷・大久保は政治的失権が免れないというだけで、
慶喜が上洛して議定に就かない限り不利な立場は変わらない。
問題は慶喜が徹底して武力衝突を回避すべく文字通り「軽装」で上洛するのか、
それともしかるべき護衛を連れて上洛し、
阻まれたら一戦交えても押し通る覚悟で行くのかという選択にある。
ただ「軽装」と言ったってふさわしい供回りは連れてかないといけないから、
それすらも薩藩兵に妨害されたら平和的上洛なんてできないよ。 >>602
山川も大鳥も官軍に捕われた敗北者だろ
戊辰戦争の勝者にはなってないよな >>683
2日には幕府海軍が薩摩藩海軍と抗戦してるから、
実際問題止めようがなかったと思う。
ただねえ、肝心の慶喜自身もその前から
>>508>>552みたいな感じなんだよね
薩摩藩だけはぶっ叩きたかったんじゃないの >>684
戊辰戦争の帰趨と関係ないけど、
会津領に入った大鳥山川の部隊は白河と二分され
残りは半ば遊兵化してもったいなかった。
関東再進出もにらんで日光に置いたんだろうけど
大鳥を白河方面に回してたらもっと有効活用できた
小池周吾の純義隊だけは白河に行ったんだよな >>686
戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか?
と質問してるスレタイなのに、
戊辰戦争で勝てなかった連中の記録をレスしてるのってアホなのかなあと思うよ >>682
>>683
勘違いしてる?
待てば良かったのにとは開戦することを待てば良かったという意味で言ってる
具体的に言うと薩摩討伐の表の話 >>594
>パニック状況でもこれだけ計算ができるのはさすが慶喜と言わざるを得ない。
でも錦旗にビビッて大阪城を捨ててトンズラしちゃったんだから
お前の褒め言葉なんて負け犬の慶喜には何の慰めにもならんわ >>688
小御所会議後の会津桑名らが激化で、慶喜は彼らを連れて二条城から大阪城へ移った
この行動はプラスとマイナスがあった
マイナスは天皇を手放した事、戦国時代などはあまり効果なかった朝敵カードだが
この時代は幾万もの兵を味方に付けるほど大きなカード
プラスは大阪を完全に抑える事で、京にいる薩長が本土と孤立してしまった
薩長本土と京を結びには、瀬戸内海から大阪そして淀川経由で京へ
この状態が長引けば京の薩長軍は日干し状態に
京を一旦明け渡し再び攻める、楠木正成作戦を慶喜は取ったとも言える
自分から攻めると朝敵カードがいつやられるかもしれない
だからこのままの状態を長く続ける事こそが最良の作戦
しかし会津桑名らの暴走で潰えてしまった
慶喜の心中は複雑であったと思う、部下の暴走でこれを止める力さえない自分
下手すれば殺されるんじゃないか?また今なら勝てるという考えもあったろう
なので当時の慶喜の心境は色んな意見に分かれてしまう
結論として貴方の言うように「待てば良かった」と自分も思う
しかしそれが出来なかったんよね、最大の理由が部下の暴走 待てば待つほど有利になる
賤ヶ岳の柴田勝家など、そういう戦は幾度もあったと思う
柴田には味方の滝川や信孝を個別に攻撃されたら、という多少の不安要素はあったけど
鳥羽伏見の旧幕府側ほど、待てば待つほど有利な戦いはないだろう
長州本土での戦いであったアウェイでの戦いに負けたが、今度はホームでの戦い
自分の城や領土を持った土地で、命令できる譜代親藩が周りにたくさんある地域
ベトナム戦争に負けたアメリカが、今度はハワイでベトナムと再戦
こんな図式の戦いに近い
当時の徳川と薩長の力の差以上に、戦う場所の有利さが大いにあったはずの戦いであったと思う
しかしここでも負けてしまい、徳川どんだけ弱いの???
呆れるほど弱い徳川が、いかに張子の虎であったと全国民が認識した戦いであったと思う >>690
慶喜は勝手にしろと言って許可したんだよね?
それを慶喜自身が後悔してるので慶喜本人もしまったと認めてる >>688
いや勘違いしてない。
慶喜は請書を出してるから上洛せざるを得ないわけ。
そして慶喜が上洛するときに「軽装」にて上洛することは認められてるわけ。
だけど「軽装」と言っても前将軍だから、全くの丸腰なんてあり得ないわけ。
当然、護衛の兵を相当数連れて行くことになるわけ。
ところが、薩摩藩兵は上洛を阻止したいわけ。
とくに大久保一蔵はこの頃対幕開戦を念頭に置いてたとみられるから。
開戦することを待てばというけど、
慶喜さえ我慢すれば開戦が回避できるという性格のものではないわけ。
そこが難しい。
しかも慶喜自身が、大坂の薩摩藩邸攻撃や摂海での薩摩藩海軍との交戦は容認してるように、
あるいは前述のように関東での薩賊討伐を示唆したとみられるから、
薩摩藩に対する武力行使そのものを必ずしも忌避してるわけではない。
確かに、戦争は人が起こすものだけれど、残念ながらそれを阻止するには相当強い決意がいる
それこそ江戸で恭順した時のように。だけどこの時の慶喜にそこまでの覚悟は到底ない。 >>565
時間稼ぎできなかった旧幕府がマヌケだったんだな この時代、海外の欧米列強の動向を気にしない指導者はいませんよ。
それほど海外の驚異が差し迫った時代背景だったのです。
慶喜はいくら改革したところで旧態依然の官僚体質の幕府では
欧米列強に対抗できないと見抜いていたから本気で
全面戦争する気はなかったのでしょう。 >>690
前半はいいけど、
後半の「慶喜は恭順意図があったが家臣が暴走した」というのは単純すぎる図式。
もっと言えば、徳川慶喜公伝の公式見解の鵜呑み。
理由は>>508以降で記した通り。慶喜に少なくとも討薩の意図があったのは明らか。
・京都退去時に尾越両候が斡旋した「会桑両藩主帰国」を行わなかった。
・下坂後に挙正退奸表をだし、合わせて諸藩兵に上洛を呼びかけていること。>>553
この諸藩兵および幕兵が上洛し次第、軍事的アクションが始まらざるを得ない。
・慶喜が大坂退去の時、その意図を説明していないため、幕臣は大坂で準備を整え、
京に反攻するものと考えている(「上様より奏聞有之、薩州と戦争なさられ候思召し」杉田家文書)
・12月16日に永井尚志が討薩の決定を伝達するため入京していること。
・慶喜は江戸に対しても「薩賊」を討伐するよう命じたとみられること >>508
・大坂の薩摩藩邸攻撃、および大阪湾の幕府海軍の行動に対してとくだん掣肘を加えていないこと
・3日に列国公使に対して、薩摩藩と交戦状態に至ったことを通告していること
・3日の上洛行動の後に薩摩藩兵との交戦をも黙認していたとみられること >>552
などから、慶喜は薩摩藩に対しては戦闘を仕掛ける意図があったと言わざるを得ない。
京の朝廷に対しては畏れ多いから銃を向けたくないが、薩摩藩に対しては一戦を辞さず、
というのは慶喜に限らず、板倉勝静、小笠原長行、永井尚志ら、
穏健派とされる上層部もある程度似たような感じだったのではないかと思われる。 >>696
慶喜は下坂後にその公使たちと会って薩摩はけしからんと怒ってんだよ。
そして1月3日には薩摩藩と交戦状態に至ったことを通告してる。 >>688
>>694に付け加えて言うと、
慶喜が大坂に退いたこと自体が、松平春嶽・徳川慶勝・山内容堂らにとっては
議定職就任の斡旋ができなくなるという意味で痛手なんだよ。
不測の事態を避けるためとはいえ、京と大坂に離れたことによって意思疎通が難しくなった。
だから24日の朝議で議定推任・「急速、小隊、軽装をもって上洛」が決せられ、
26日に春嶽自ら下坂して慶喜や老中と近々上洛で合意したんだから(春嶽は29日に戻る)
「大坂に居座る」なんてあり得ないの。
約束したのに上洛しなきゃせっかくの斡旋が白紙になっちゃうんだから。 >>691
既にスレでも論じられてるけど、幕府軍の最大の敗因は
1、初日に鳥羽街道で発砲を禁じるなど戦闘態勢を取らずに戦闘に突入したこと、
2、その後に慶喜が全く戦争指導しないから、指揮命令系統が混乱したこと
だよ。
装備は幕軍のほうが勝っていたとみられるし、個々の戦闘でも、特に会津藩兵の奮戦が目立ち、
挽回のチャンスは何度もあった。また将官や兵員の質もかつて言われていたほど悪いものではない。 幕府歩兵については、最も優秀な士官・部隊はまだ江戸にいるから、
鳥羽街道の伝習隊以外は若干質が落ちる感じはするけど、
それでも2日目に戦死した窪田鎮章は元治元年から洋式調練を受けて、
外国軍人からも評価されていた士官。
つまり長州藩兵より調練歴が古い。 慶喜って側近や家臣団がいないからな
自分の考えを代わりに説明する人間がいない >>681
> 決め手を欠く状態で京方と大坂方が並立して調停を待つ感じになるだろう。
薩長の思考法だと、にらみ合いの膠着状態をずーっと続けることはせずに夜襲で決着をつけようとしたかもしれない。 >>703
側近でマキャベリストの原なんとかが暗殺されたのも痛い。 >>703
慶喜は側近何人も暗殺され、大政奉還前には原市之進
特に原の損失が、慶喜の考えを処理してくれる人がいなくなって
大政奉還後のグダグダに繋がったんじゃないかな?
村医者を軍事大臣に抜擢したり、西郷や大久保らは下級武士
倒幕派は実力ある人間を適材適所に抜擢する実力主義
しかし徳川はというと、血統主義を重んじる
小笠原や滝川のような出世エリートコースを歩んでた人が
いざ現場に立ったら、見事なぐらいアホ采配
こういう人が重んじられる組織だったんだろう
薩長と徳川の戦いは、組織の違いが勝敗を分けたと思う
慶喜という優秀な諸侯がようやく最後に将軍になれ、鳥羽伏見以降ようやく実力ある人らが台頭し
東北戊辰戦争では以前みたいな間抜けな采配は少なくなり、結構善戦するようになった
最後にようやく実力主義の組織へと芽生えたが、時すでに遅し
徳川のような組織が滅んでくれたおかげで、実力ある徳川の人らも明治になり拾ってもらって活躍できた
徳川のトップにいた人らは、話をややこしくする人が多かったんやろな
間違ってない事を難しい単語を並べ言い返し、何言ってるのか?話の筋が見えない(当人だけ分かってるつもり)
話を簡単に処理する事ができない、頭デッカチの丸暗記人間が多かったと思う >>705
鳥羽伏見最終日の男山橋本開戦前は
朝廷側は今まで自重してた藩が次々と参陣し
徳川側は連戦連敗で淀の裏切りもあり意気消沈
時の勢いは明らかで
地の利を活かし最初は徳川優勢だったが、長州の世羅が迂回し男山攻撃したぐらいから逆転し始め
このタイミングで津が砲撃し勝敗決した
> 決め手を欠く状態で京方と大坂方が並立して調停を待つ感じになるだろう。
鳥羽伏見の戦いは最終日前日の、淀城の裏切りで勝敗は決まったと言っていい
最終日は徳川最後の抵抗みたいな戦いで、何でこんな考えになる人がいるんだろうか? >>707
幕府も姫路の村医者を歩兵奉行にしてんだけど。
村医者と言っても洋学者は出世コースには乗りやすい。
幕臣て福沢諭吉もそうだけど、洋学者スカウトが多いから専門家は大勢いる
諸藩の有名人を幕臣に引っこ抜いてくるから
ただ負けた側だから幕臣興味ないと名前あんまり知らない人が多いだけ
>>708
大坂が残ってるから並立して調停を期待できるというのは自分が言ってるわけじゃない。
西郷吉之助も早期の大坂攻略は無理だと考えてるし、保谷徹とか軍事史の人も一様に言ってる。
大坂にはまだ奥詰銃隊5000が手つかずで残ってる上に、
薩摩藩邸焼き討ち後に江戸からさらに増援部隊(伝習隊を含む最精鋭)が向けられ、
奉行クラスも上坂してくる。
また挙正退奸表に応えて上洛中の諸藩がいる上に、京の尾越土の諸侯は周旋を続けている
京への足掛かりを失っただけで軍事バランスは徳川方が依然有利と言わざるを得ない 幕府軍が有利なのは、とにかく金があって、海軍があって、
動員規模が圧倒的にでかいこと
新政府は幕府御領を貰わないと財政基盤ができない
財政基盤ができない限り諸藩の合議体の域を出ない
豪商に献金させようにも大坂は幕軍が抑えてる
薩摩から補給しようにも海軍が薩摩海軍を駆逐したので大坂経由では無理
一方、幕軍は伝習隊が江戸から上坂するうえに
挙正退奸表にこたえた東国・北国諸藩が上洛することを予定している
彼らはほぼ確実に停戦を求めると思って間違いない
(慶喜のプランのほうが政権参加のすそ野が広く、有利なので)
さらに長州藩が慶喜を追い込むのに必ずしも乗り気でなかった点も挙げられる
長州藩は「慶喜に領地を返上させる儀は、免職のうえ召し上げる形は
よくないと思われる」との決議を行い、薩摩藩と事実上一線を画している
(柏村数馬日記・12月22日条)
長州藩は薩摩藩の孤立を知ってるので、自藩が突出して白眼視されることを
かなり警戒してたと思われる。 >>708はまるで大坂の陣みたいに考えてるんだよ。
もちろん、幕軍が大坂のみに存在し他に援軍がないなら淀の失陥は痛いよ。
だけど幕軍は大坂以外に後背地持ってるうえに、
江戸と大坂の航路を確保していてほぼ無限に補給が受けられるし、
1〜4日目の戦いに参加した幕軍は前線兵力に限られてる。
慶喜や老中が増援の手配しないから、多くの兵は城内にいたわけだからね。
だから4日目になっても幕軍幹部の士気が衰えず、
慶喜に出撃を求める声が上がってるわけ。 >>708
>朝廷側は今まで自重してた藩が次々と参陣し
>徳川側は連戦連敗で淀の裏切りもあり意気消沈
参戦した藩って津・淀以外どこ?彦根?
申し訳ないけど彦根って関東で伝習隊にボコボコにされるくらいの練度だよ。
「徳川方が意気消沈」した史料なんて寡聞にして知らない。
前線部隊は慶喜出馬の報を聞いて防塁を築いてるし、
最終的に大坂に引き上げたのだって「大坂城の慶喜が考えがあるから引き揚げろと言ってる」
という命令が来たから。多くの将士は、これを慶喜自身が出馬して配置を直して再攻勢に出るものと信じて
枚方から引き上げている。
城内が慶喜の出撃を促したというならたくさん史料があるけど。 ID:VmUsqP2v0
昨日の書き込みも含め、アンタの書いてる文章は
当時の会津の人らを代弁してる内容やわ
徳川の都合の良いデータばかりを取り上げ、薩長有利や徳川不利のデータは削除
こんな脳内再生されとる
当時の会津人がこんな考えに陥るのは仕方ない、立場もあるし諦めきれないものもあったろう
しかし150年後の未来人である我々は第三者であり、色んな人の言い分を聞ける立場
アンタは徳川に雇われた弁護士か?
普通に考えてこんな結論に陥ったのなら、よほど見る目はない人だわ
歴史を学ぶ事は片方の言い分だけを取り入れ弁護するでなく、裁判官のような立場で見るべきだろう >>707
>小笠原や滝川のような出世エリートコースを歩んでた人が
>いざ現場に立ったら、見事なぐらいアホ采配
これも不思議な文章だね。
小笠原長行は老中だから「現場で采配」を振るう立場ではないし、
彼は庶子で、頭の良さを買われて世子格のまま老中になった人。
また滝川具挙も当時は大目付なので、「現場で采配」を振るう立場とは言いがたい
軍議には参加してるが、彼の命令で部隊が動いたわけではない。
たとえば2日目の冨の森陣地攻防で彼が大坂に送った報告を見ると、
おそらく滝川は追撃を主張したものの、陸軍奉行の竹中重固の反対にあったと思われる
竹中は確かに追撃に消極的で、会津藩の佐川官兵衛などとも衝突しているが。 >>712
鳥羽伏見開戦当初は、薩長だけだけど
二日目から土佐さらに鳥取や広島も参戦したが
それぐらいはアンタの知識なら知ってるだろう
都合の悪いデータは削除されるんやろな >>713
いや弁護士っていうか、
わりとスタンダードな軍事史の教科書とかから引っ張ってきてるだけだけど?
挙げられる所は史料も挙げてる。
大坂を保持してれば調停を待てたというのは保谷徹も言ってるし、
かなり多くの人が言ってることだと思うよ。 >>716
徳川の弁護士であり会津観光史学信者やな
オーム真理教の青山弁護士を見てるみたいやわ >>714
何度読み返しても、何を言い返したいのか分からん
オームや創価の信者と会話してるみたやわ >>715
無断で参戦した土佐藩兵はその後参加を差し止められてるし、
土佐藩全体でみると、1日目に会津藩兵の通過を黙認したり、
6日深夜になって会津藩本営を土佐藩の使者が訪ねて
「京は空っぽだから今全力で京を衝けば勝てる、前将軍東下のうわさがあるが、
そんなことをしたらダメだから止めてくれ」と薦めている
(既に慶喜は城を抜けていたため会津藩がそれを知らせると、
「では江戸で再挙する意思があるかどうか容堂公に伝えるから教えてくれ」と粘った)
どうも土佐藩全体でみると、旧幕軍にかなり加担していたとの印象が否めない
あと広島藩兵って4日目に仁和寺宮が前線行くときに護衛した人たちでしょ?
そりゃ親王が前線行くんだから護衛につくでしょうさ。でも戦闘には参加してない。
鳥取藩は山国隊のことなら鳥羽伏見の後だよ。
両藩が何日目のどの戦場に出てきたか具体的にちょっと教えて?
手元の概説書には広島も鳥取も出てこない。 >>709
>軍事バランスは徳川方が依然有利と言わざるを得ない
その有利な状態でも徳川方が負けたんだからかなり無能だったんだね >>713
>>717
おい待て待てID:sB6bAiZN0
何だって…?
会津人?
会津観光史学?
何の話だ?
お前トンビ?
なんかおかしいと思ったんだよ
幕府軍の話してるのに会津って何のことだ?って思ったら
やっぱりお前か >>720
>>709が言ってる軍事バランスが依然有利って、
津藩が寝返った後の話だぞ?1月6日の夕刻時点での話。
「有利な状態でも負けた」じゃなくて
「負けた状態でも有利」と言ってんだけど。 >>719
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/main.html
「一月六日の戦い」
「新政府軍は今まで戦闘に参加していた薩摩藩・長州藩・土佐藩・鳥取藩の四藩兵に加え、
この日から芸州藩兵も戦列に加わった大連合軍となって攻撃を開始します。」
これ書いてる人はアンタみたいな弁護士じゃなく、裁判官の立場に立った内容だと思う >>715
で、広島と鳥取が参戦したというのは何日のどこの戦場?
広島なら4日目に仁和寺宮のお供をして前線を回って帰ってきてるけど
まさかお供のことを参戦とか言ってるの? >>722
寝返られたほうが間抜け
有利な状況を持続できなかったってことだろ >>721
オウムや創価の信者は、自分が狂ってるという自覚ないもんな
会津観光史学も狂った信者製造するカルトだわ ID:VmUsqP2v0
当時の会津人はこの人みたいな考えに陥ってたと思う
「徳川は強い!今なら勝てる、我々の方が有利だ」
しかし結果は?
結果を直面しても、また
「徳川は強い!今なら勝てる、我々の方が有利だ」
の繰り返し
反省や反対意見を聞き入れる度量がなく、我が意見を押し通す >>723
ああ、やっぱりお前トンビか。
そのホムペ、前に史料の恣意的な取捨選択があるって注意したのに馬鹿なやつだね。
まず土佐藩は1月4日に「藩主容堂の指示に逆らい」と書いてる通り独断で参加してるが、
その後参加を差し止められてるのは>>719の通り。
同様に、5日に鳥取藩も半隊程度を出したものの、同じく翌日の戦闘は不参加。
広島藩は5日に仁和寺宮のお供をしたのと、最終日に申し訳程度に小隊を出したが、
あくまで私戦とみる辻将曹の指示で銃弾を撃たせていない。
だから広島藩の評判が悪く、その後の東征に神機隊が名誉挽回のために出征してるんだよ。
要するに薩長以外の藩は隊長の判断もしくはおつきあいで兵を出してるが、
日和見色が強く「諸藩が雪崩を打って…」などという状況には程遠い。 >>728
トンビって何のこと?ワシ滅多に近代板来ないし、言ってる意味がサッパリ分からん
「恣意的な取捨選択」これお前が言うなやわ
鳥羽伏見開戦初日、鳥羽伏見街道に出陣した薩長と、大津口に出陣した大村藩兵数十人
これぐらいしか徳川と戦う決意した人はいなかった
他は中立で戦いたくない連中ばかり
しかし二日目三日目と中立だった人らが重い腰を上げ、薩長側への行動を起こして行った
大津口も岡山や徳島や彦根らも参陣し、最初の数十人から数百人規模に
わずか3日ほどで大いに情勢が変化した、これが時の勢いというか
その事を書いたのに、役に立ってないとか活躍してないとか論点ずらす事しか反論してない トンビはだいたいネットのコピペ引っ張ってくるだけだから、
ペーパーでチェックすればすぐ間違いが分かって楽でいいわ。
あと6日の藤堂藩の寝返りで言えば、これも慶喜というか本営のミスが大きい。
以下史談会速記録より
津藩は3日の早い段階では中立の立場を取っていたが、
3日夜になって幕軍に加勢することを決め、淀を藩重役が訪れて塚原昌義と面会して
「徳川家が進軍の際は味方するけど、自ら主導者となることはできないから
兵を回してくれ」と頼んだ。
塚原はこれを承諾したが、4日朝からいくら待っても幕兵が来ない
4日夕刻になって少数の部隊が逃げ込んできたので「援軍が来たか」と思って聞いてみると
鳥羽の敗残兵であり、さらに大坂に向かって退いた
4日夜には長州藩が官軍に加わるよう迫ったが「私闘だから参加できない」と断る
「なら勅命が出たらどうか」と迫られ「勅命が出たらお受けする」と回答
5日になっても幕府と新政府との綱引きが続き、津藩は依然として新政府軍への参戦をしない
だが幕軍から援兵が来ないまま勅使が現れたので奉戴した
要するに津藩は幕軍参加条件として援軍増強を約束させていたが、
大本営が機能してないので、援軍の件が忘れ去られ、待ってたけど裏切ったというのが実情
大坂に縦隊や歩兵大隊腐るほどいるんだから適当に1個やっておけばよかったのに、
おそらく津藩の持ち場が戦場になることもないと思ってたんだろう >>729
いやいや、だから>>728で指摘した通り、
土佐藩は4隊長が独断参戦したものの容堂の指示で即日参戦が差し止められ、
鳥取藩もわずか半隊が参加したもののやはり差し止められる
広島藩は辻将曹の指示で銃を撃たせない方針が徹底される
これのどこが雪崩現象?みんな日和見じゃん。
しかも>>730で挙げたように、
津藩は開戦当時中立だったのに3日夜に至って幕軍参加を決めている
こちらのほうがよほど地理的重要性が大きい。
大津口はwikipediaから引っ張ってきたんだね
だけどそこに書いてある通り、大津口は幕軍の迂回京都侵攻を警戒してのもので
主戦場の鳥羽伏見方面に対する積極的な意味は見出しがたいし、
岡山、徳島の両藩も日和見という点では鳥取、広島両藩と似たような立場なんだけど。
雪崩現象が起きてたというのはさすがに無理がある。 >>728
長州征伐もそうだけど、鳥羽伏見は徳川がいかにダメ組織だったかを証明した戦いで
それを弁護するのは辛かろう
とにかく単語並べて長文にするを繰り返すも、意味不明な文章になっとる
弁護士じゃなく裁判官になるよう、薩長側弁護士の自分も作り上げ
徳川側弁護士と薩長側弁護士を争う、そんな脳内に変えたらなら
もっと視野の広い人間になれるはず >>731
アンタの書いてる事鵜呑みにしたら、徳川大勝利と思ってしまうが
なんで負けたの?
徳川有利な点ばかり抜粋してるけど、それ以上に不利になる点が多々あったはずだが >>729
>その事を書いたのに、役に立ってないとか活躍してないとか論点ずらす事しか反論してない
誰が「役に立ってないとか活躍してないとか論点をずらした」の?
自分は、そもそもそこに挙がってる藩は積極的な戦意がなく、
たまたま京に駐屯してたら勅命に従っただけで
最後まで戦闘にろくすっぽ参加してないじゃないかと言っただけだけど。
戦争が拡大するにつれて中立藩から参戦する藩が増えるのは当然のことでしょ?
そんなこと言ったら幕府軍だって開戦後に津藩が参戦を決め、米沢藩は上洛中、
長岡藩も上洛、伝習隊も上洛予定、加賀藩兵は近江小松まで進出と参戦藩増えてるけど?
12月中旬の挙正退奸表を受けて上洛行動起こしてるから。 >>710
そんな不利な状況でも薩摩が勝ってしまったんだよな >>733
>>701でとっくに書いてるじゃん。
・初日に発砲禁止など戦闘態勢を取らずに進撃させたこと
・戦争開始後に慶喜や老中が戦争指導をしないため指揮命令系統が混乱したこと
あともう1つあげるなら
・鳥羽伏見街道のほかに西国街道、竹田街道など諸街道に兵を配さなかったため
二列縦隊で押し上げるような形になり兵力の利を生かせなかったこと
自分が納得できないからって、一応真面目に史料出してる人間に怒り出すのやめなよ…
あんたが紙の史料や専門書読んで自信持ってるならともかく、
ソースはウィキペディアと個人ブログなんでしょ?何をそんなに偉そうにしてるんだか。 >>735
原因の9割までは幕府軍の緒戦対応にあるけどね。
薩摩藩がどうこう以前に、戦争する態勢が全くなかった。 >>737
あれ?おまえ幕府軍が有利って散々言ってたよね というか、>>1のスレタイ見てみ?
「戊辰戦争はどうすれば旧幕府軍が勝てたか」のスレだろ。
単にこうすれば旧幕府軍が勝てたと言ってるだけだが。
敗因の多くは旧幕府軍の自滅なので、自滅部分を取り除けば
「どうすれば勝てたか」の答えになる。
自滅したと言ってるんだから旧幕府軍をかばってるわけでもない。
むしろ叩いてるじゃん。
薩摩藩が強すぎて旧幕府軍には手に負えませんでしたってんなら
旧幕府軍を弁護してると言えるかもしれないが、
9割方まで旧幕府軍のミスだと言ってるんだからこれ以上ないほど叩いてる。 >>730
資料読んだり、そんなに歴史のめり込んでる人じゃないし
誰かが抜粋してくれた資料の内容や意見を、右左両方の意見を聞き
つまり裁判官立場に立つよう配慮し判断していく、そんなやり方
意見が白黒はっきりしたものでなく、答えはどんなグレーか?変化しながら考察していくというか
天王山にいた津藩は開戦前から、京防衛のためこの場にいた
同じような立場で、男山と樟葉にも若狭や丹後の諸大名がいた
大阪城から出発した徳川軍は、現在の国道1号並びに京阪本線沿いを進軍
男山と樟葉はこのルート沿いだったので吸収されたが、淀川反対側の天王山はルートから外れてたので
津藩は開戦当初は、伏見方面とは5kmぐらい離れてたので中立を守れた
しかし戦場が京阪の駅でいうと、伏見桃山から中書島で開戦(鳥羽方面はもっと北西)
それが淀駅付近になり、最終日は八幡から橋本
(京都三条←)伏見桃山ー中書島ー淀ー八幡ー橋本(→大阪京橋)
八幡橋本から淀川を超えて、阪急JR方面が津藩のいる天王山 >>741
いや、だから山崎の津藩兵1000余名は3日夜に評議のすえ中立を放棄して
幕府軍に味方するって塚原昌義に伝達してるの。
ただし自分たちは助攻の位置にあるから援軍をくださいと言うのが条件。
「中立を守ろう」とは思ってない。 >>740
なら
幕府軍は有利だったのに敗北した間抜け
薩摩軍は不利だったのに勝利できた有能
という図式がはっきり理解できるだろう >>741はさあ、少しは人の出した史実をちゃんと読めばいいのに。
個人ブログとウィキペディアだって元は史料から引いてるんだよ
しかも個人ブログなんてその人の立ち位置でいくらでもニュアンス変えられるよ?
現に>>723の個人ブログをあんたは「裁判官みたいな立場」と言ってるけど、
自分がざっと読んだ限りでもかなりムラがある。
たとえば初日に竹田街道を会津藩兵が進撃したのが惜しかったというのは、
大山柏の「戊辰役戦史」をはじめ多くの戦史で取り上げられてる有名な史実だが、
そのブログは一行も触れてない。
同様に、2日目の富の森の奪還や宇治方面の迂回作戦にも触れてない。
また4日目に「広島藩も参加して」と言ってるが、薩長以外の在京諸藩が事実上日和見だったことも
触れてない。
以上のことはまあ良心的な概説書なら大体触れるでしょ。
参考文献に「戊辰役戦史」が挙がってるから、当然その人はそれらの事実を知ってるはずだが、
自分の考えたストーリーに従って切り取ってるんだろう。
それを「裁判官」と言っちゃうこと自体どうかしてる。 >>742
もしも開戦始めから津藩が戦闘に加わっていたら?
徳川に付いてたら西国街道沿いを通り、薩長を横から攻撃でき
薩長に付いてたら徳川は後ろから攻撃される事となる
戦争はもっと早期に決着していた可能性が高まり、かなり重要な立場に立ってたはず
しかし自分の陣近くが戦場になるまで何もしなかった
津藩の意思は、戦いたくない中立を守ろうだったと思う >>743
幕軍の緒戦でのミスが大きすぎて、
薩摩藩が有能とかそんなのを判断できるレベルまで行ってないのが現状。
まず西国街道や竹田街道に兵を配してれば、
兵数に劣る薩摩藩はカバーできなかった可能性が高いし、
弾込めすらしてないというのはそもそも戦争にならないレベルの話。
しかも、戦闘になったらなったで何で慶喜が軍議に参加して
大坂城に何千もいる援兵を前線に出さないのか
まあこれで緒戦を勝てというほうが難しい。 >>744
アンタみたいな偏った考えの人には「裁判官」という表現が分かりやすいと思う
書いたのだがまるで無視し、お前こそ裁判官立場に立ってないと反論
マインドコントロールされたカルトに染まった人の典型だわ >>745
いやいや、だから津藩兵は塚原昌義に
「お味方しますから援軍を差し向けてください」
と頼んで、4日は朝からずっと待ってるんだっつの(史談会速記録)
なぜ「津藩が中立から幕軍方に付いた」という、
史料的に明確に確定できる史実を認めないの?
あなたそれじゃ「裁判官」もくそもないじゃん。
単に自分の考えたお話に合うように史実を曲げてるだけでしょ? >>747
なら反論してごらん。
史実でしっかりと。
ちなみにあんたが挙げた「雪崩現象」については
・土佐藩 → 即日参戦差し止め、以後はむしろ幕軍の手引きのほうが目立つ
・鳥取藩 → 半隊の砲隊のみ参加、やはり途中で離脱
・広島藩 → 最終日参戦、しかし戦意なし
・岡山・徳島両藩 → 広島藩とほぼ同様
であるから、とても雪崩現象などとは言えないと指摘した。
さらに参戦藩の増加だけを取って「雪崩現象」が成立するなら
幕府方にも加賀、米沢をはじめ参戦藩・参戦予定藩が多くあることを指摘した。>>734
現に津藩は3日の戦闘開始の時点では中立、夜になって幕軍への参戦を決めている。 >>736
そんな細かい点が敗因というより、徳川の組織がダメだった
それは自分が書いた>>707、これに尽きる
東北戊辰戦争になって、ようやく徳川も適材適所の指導者が上に立ち善戦したが
鳥羽伏見や長州征伐の徳川なんて、どれだけ兵数増やしても結果は同じだったろうと思ってしまう >>750
>そんな細かい点が敗因というより
は?この分野で必読の「戊辰戦役史」とか読んだことある?
まさに>>736で挙げたようなことが敗因としてだいたい挙げられるんだけど。
むしろ>>736以外の要素が付け加わることのほうが珍しいくらい。
「鳥羽伏見の戦いで負けたのは徳川方の組織がだめだったせいである」
なんてのはもっと大雑把な議論してた40年か50年くらい前の話だよ? >>750
>鳥羽伏見や長州征伐の徳川なんて、どれだけ兵数増やしても結果は同じだったろうと思ってしまう
暴論にすぎる。精神論にすぎる。
兵力量が大きいこと、装備が優れていることは疑いなく有利な要素。
それじゃこのスレにいる意味ないね。 >>746
それだけミスをおかして
取り返しのつかない敗北を喫したわけだから旧幕府軍は無能なんだろ >>741
>資料読んだり、そんなに歴史のめり込んでる人じゃないし
>誰かが抜粋してくれた資料の内容や意見を、右左両方の意見を聞き
>つまり裁判官立場に立つよう配慮し判断していく、そんなやり方
史料も見ず、歴史も知らず、自分で調べる気もなく、ただ見てるだけで
なぜ他人の意見が客観的に正しいとか分かるの?
一生懸命史料引っ張って考えてる人より、ただ眺めてる自分のほうが何で客観的と言い切れるの?
それじゃ自分が訊いたこともないけど正しい意見にぶつかったときは一瞬でアウトだね。
さっきからあんたの反応を見てると
「なじみがないこと、知らないことを拒絶しようとする」みたいな感じだけど。 >>749
自分のレスを遡ったが「雪崩」という言葉は一度も書いてないわ
しかし初日の薩長の孤立状態から、日を追うごとに薩長有利になったとは書いた
雪崩という表現がどうのこうのはともかく
情勢が変化したのは事実だろう
徳川へ加勢しようと進軍してたのは、他にも赤穂藩があり
紀州は再三の慶喜からの催促にも関わらず、家臣内で揉めて戦争終わりぐらいに徳川に付く事が決まった
結局進軍したかどうか知らないが、大阪から逃げる徳川軍は船が足りず
それで紀州まで逃げてきて、それらの人らに船を貸した
伊勢方面から大津へ進軍予定だったのもあり(多分関東から遅れてきた軍)
それらは大村藩の数十人を大軍を思い込み、なぜか大阪へ
こういった間に合わなかった徳川に参陣予定だった軍もあるが
山陽進軍し福山藩と交戦した長州本軍や土佐の板垣軍など
間に合わなかった薩長軍もあった >>754
史料を読み込むのは良いが、偏った史料ばかりを抜粋し
カルトみたいな人間にはなりたくないわ
自分は大学で歴史専攻した訳でないし、歴史の史料読む時間あるなら
もっと仕事に関係する事に費やすわ 鳥羽方面では弾込め無しとか油断してたけど
伏見方面では普通に戦って負けてるからね >>755
だから何?
紀州藩や赤穂藩の動向は、薩長方への雪崩れ現象なんて起きてないことを証明するものでしょ?
だって戦争が始まってから徳川方に付いてんだから。津藩兵も同じだけど。
しかも板垣退助を挙げるけど、山内容堂は差し止めさせてるし、
初日の竹田街道や6日の会津藩本営への密使で分かるように、
全体としては旧幕軍よりだったと評価せざるを得ないよ?
また長州藩についても12月22日の柏村日記に明らかなように
慶喜への辞官納地はしかるべからずと決議してるから、薩摩藩と決して同一歩調ではない。
さらに福山藩への攻撃は、史料的には1月7日(慶喜の大坂退去後)に、
桂太郎が京における戦勝を報じて準備させてるから、鳥羽伏見の戦いの最中になされたとは言いがたい。
長州藩本国の態度としては、鳥羽伏見まではむしろ慎重で、
鳥羽伏見後に京からの戦勝が伝えられる過程で追討戦に参加していったが、
それでも薩摩藩と完全に同一歩調だったわけではない
(米沢藩の宮島誠一郎が在京活動した所によると、長州藩内部にも反薩的な動きが見られたらしい) >>751
>>736のような行動をしてしまった徳川が、いかにダメ組織だったという事を言ってるのよ
それ以前に進軍する事が間違ってる
待てば待つほど有利になってたのに、今ここで進軍するか?
大阪の陣の豊臣は、加藤清正や浅野長政など助けてくれる人ら死んで
死にそうな家康がまだ生きてる、こんな最悪なタイミングで開戦した
これを思い出してしまう >>756
そう、じゃあ自分の主張が正しいなんて思わないことだね。
散々史料を引っ張った人間に個人ブログとウィキペディア程度で対抗して、
反論されると逆切れなんてほんとに迷惑。 >>759
それは戦闘になるまいと思ってた慶喜の個性が大きいんじゃない?
一般的にはそう言われてるけどね。
というか、鳥羽伏見の分析において「旧体制たる徳川方」とかいう組織論で通用したのは
今から半世紀くらい前までの話で、今はもっと緻密な分析をやってる。
自分も軍事史の本とか色々見てるけど、さすがに組織論を敗因に持ってくる分析なんて最近は見ない。
もうね、真面目に議論する気がないなら何でこのスレにいるんだかね
こっちがいくらそれは違うよと言って史料を引っ張っても
「それは信じられない」だの「俺は史料を読むのに興味はない」とか
こっちもいやになる。 >>758
当初の戦場からドンドン徳川は押し戻された事実はどう思ってるの?
(京都三条←)伏見桃山ー中書島ー淀ー八幡ー橋本(→大阪京橋)
徳川寄りだった土佐が、なぜ二日目には薩長側として参陣したのよ?
アンタの脳内では土佐は徳川軍に参陣してなきゃおかしいのだが
アンタの脳内では長州も決して戦闘意欲が高い訳でないという結論なんやな
アンタの考えまとめたら、徳川凄い有利なはずなのに >>757
伏見方面は会津藩・新撰組だから戦闘準備はしてたけど、
迎え撃つ薩摩藩兵が御香宮・桃山台に大砲9門を配置して
奉行所周辺を狙い打てるような態勢を取っている
激戦の中で薩摩藩側の砲撃が敵弾薬庫を直撃し幕府歩兵が崩れたこと、
あと会津藩兵の突撃戦法が恰好の標的になり死傷者が増えたことから撤退するが、
この方面、実は竹田街道に白井隊を進出させ、幕府歩兵が後続する予定
という戦果をあげかけていた
ところがこの時、責任者の竹中重固は戦況報告のため後方に走っており、
竹田街道進撃の命令が下されないまま、後続部隊が来ないというもったいないことをしている。 幕府軍には軍を任せる将帥が居なかった
薩長土には西郷、大村、板垣みたいになぜかそういう人材が居た
幕軍きっての西洋軍事に通じてる大鳥も板垣に勝てなかったし低く評価されている >>762
だから大坂を保持してる限り依然徳川方は軍事バランス的に有利だって。
あんたの言う雪崩現象なんて起きてないんだから。
これ自分の結論じゃないからね。保谷徹とか軍事史の人も、
大坂握ってる限りは徳川方は依然有利な立場にあったと言ってる。
あと、あんた板垣の参戦を馬鹿の一つ覚えみたいに言うけど、
土佐藩全体としては前述したとおりむしろ旧幕寄りで行動してんだよ?
・開戦前に平山図書が京の内応者の存在を語ってるが、それが土佐藩らしいと考えられてること
・初日の竹田街道進出に際して、土佐藩兵が会津藩兵の通過を黙認してること
・独断での参加を容堂が差し止めたこと
・慶喜の大坂退去直後、土佐藩の使者が会津藩本営を訪れ「今なら京は空っぽだから、
慶喜が押し出せば勝てる、絶対に東帰などしないように」と薦めてきたこと
などを考えると、土佐藩が参戦したとはどう見ても言えない。 >>761
豊臣の例を出したのは、秀吉死ぬ前から前兆が多々あったが
間抜けな事連発し、豊臣という組織がダメになっており、そりゃ滅びるわと思ってしまうが
徳川の終わりにも同じ事がいえる
いくら個人が良策を講じても、それ以上に他のダメな人が悪策を繰り返してたら結果は同じ
豊臣の組織がダメになって滅んだように、徳川も同じく
これは全体像を見たら、これに尽きるはず
>>763の下に書いた内容も、組織がダメだから空回りしたんだろう >>765
>などを考えると、土佐藩が参戦したとはどう見ても言えない。
土佐藩は鳥羽伏見で参戦しなかったんですか? >>765
アンタの話を聞いてたら
長州でさえ決して協力的でなく、他藩も徳川にばかり味方し
こんな情勢で勝った薩摩、そして西郷大久保は超スーパー偉人ですやん >>764
西郷は軍事に通じていたとはどう見ても言えないね
そもそも実戦経験あんまりないからね。
大村と板垣については定評があるところだけど、
大村については過大評価ではないかという指摘もあったりする。
というのは石州口の戦いは旧式の小藩が多く相手として比較的戦いやすかったこと、
彰義隊戦争は実は前日までに立てこもっていた部隊のうち精鋭が関東の戦いに身を投じて
数が相当減っていたこと、また未熟練の部隊を相手にした割に官軍の損害が大きいことなど
奥羽戦争についてもいわゆる「枝葉」戦略が実行されていたら戦争が長期化していたわけだから。
前はよく幕府士官の未熟が挙げられたりしたけど、その後幕府陸軍の研究が進むと、
英仏軍人に評価されてた少壮軍人が多くいたことが明らかになって(窪田鎮章などがそう)
現場指揮官のレベルではそれほど差がなかったと思われる 土佐藩は板垣に言い含められた山地らが勝手に参戦しただけだからな >>754
どんな史料を見たとしても、
慶喜と小栗と容保と河井が戊辰戦争の敗北者である事実は揺るがないと思うけどな >>766
だから何度も言ってるように、
「組織が腐ってたから負けた」みたいな漠然とした議論は今の戊辰戦争についてはもう主流ではない。
少なくとも鳥羽伏見については、1、他の街道を放置したこと、2、弾込めを禁じていたこと、
3、戦争が始まってからの戦争指導がなかったこと などから説明するのが通説的。
>>767
山地ら4隊長が独断で参加したけど、容堂によってすぐ参戦が禁じられたから、
とてものこと藩としての参戦とは言えないでしょ。しかも旧幕側に通敵行動取ってるんだから。
>>768
敗因の多くは幕軍の戦略にあったことはもう説明したと思うけど。
たとえば野球の試合で中堅くらいのチームが準備して待ってたら、
超強豪校が寝ぼけて駆けつけてきて、ピッチャーがウォームアップせず投げてボコスカ序盤に討たれて負けた、
という試合ではどう見ても戦争の主要因は負けた側にあるでしょ。
別に幕府びいきというわけではないが、戦闘局面で幕府歩兵と薩摩藩兵がかなり対等に戦ってる所から、
また装備の貧弱な会津藩兵の健闘を薩摩藩側が記録にとどめてる所から見て、
そこまで大きな違いはあったとは思えない
としたら、やはり開戦当初の戦略レベルの話が大きいと言わざるを得ない。 西郷は将帥として優れてるよ
人心をまとめられるし人の意見聞くから軍略も長けた人間に任せる
実戦の指揮官としても優秀だった ID:sB6bAiZN0の言ってることが同じことの繰り返しになって飽きてきたから、
いったん切り上げるけど、
幕府軍は何と言っても予備兵力が多く、中核となる幕府歩兵は装備がよく、
また圧倒的に優位な海軍を持ってるので大坂の保持は十分に可能な情勢だった
鳥羽伏見は、やはり朝廷に弓を引くことを禁忌事項と考える慶喜が
積極的に戦争に関与しようとしなかったため、幕軍の行動に不統一が起き、
チャンスが何度もありながら生かせなかった戦争というのが妥当。
権威付けをすると、たとえば家近良樹は
「慶喜の最大の失敗は戦闘態勢を取らないまま軍を進めたこと」と言ってるし、
保谷徹は、街道に兵を配さなかったことや、戦闘準備をしていなかったこと、
あるいは竹田街道に進出する会津藩兵に支援がなかったことなど、
4つほど戦闘局面での転換点を挙げたうえで、
「大坂を捨てたことが幕軍の敗北を決定づけた」と言ってる(家近も同じ)
また、保谷は「大坂を保持してれば調停を待つことも可能だった」ともいう。
要するに、戦争指導の問題が原因だと見るのが現在の通説的立場。 >>773
西郷は戦地で指揮を執った経験があまり多くない
禁門の変、鳥羽伏見、上野戦争
鳥羽伏見も前線に出ることを大久保に止められてたので
自軍が比較的有利で、1日から数日で終わる戦闘は知ってるけど
戦術家・戦略家であったかと言えばかなり疑問。
西南戦争の指揮ぶりを見ても分かるが >>769
「軍事に通じていたとはどう見ても言えない」西郷らと
対戦して敗北したのが窪田なんだけどw このスレ、つくづく思うけど、レベルの高い書き込みと、下らないレスの差が極端だよなw >>774
幕府軍は装備や兵力で優位であったが、それを戦争で活かしきれなかった
つまりは組織に問題あった
幕軍の行動に不統一が起き、チャンスが何度もありながら生かせなかった戦争
つまりこれも組織に問題あった
アホな戦略を取った事も
組織に問題あった
全部繋がるのよ、アンタは当時の徳川の組織は正常だったと思ってるの? >>774
鳥羽伏見敗戦後、大阪城に慶喜らが逃げなかったら
しばらくは膠着状態になってたと思う
朝敵となった徳川に参陣するような兵は少なく、逃亡兵も増える
今まで中立だった西国諸藩が参陣し、数は日増しに膨れ上がる
普通に考えてこう思うが、アンタは逆に考えるの?
大阪冬の陣みたいな合戦となるか、和平となるかは状況しだいだが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています