幕府滅亡はどこで食い止めれたか
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>>1
応仁の乱を起こさせちゃいけなかった。
元寇は不可抗力か、それとも・・・。 >>1
分岐点は徳川斉昭の出現かな?幕政に口出すようになってから徐々におかしくなり始めた。 明智光秀の謀反が成功し足利義昭を奉戴すれば幕府の再興は成ったはず。秀吉がわるい。 長州征伐で惨敗したのがターニングポイントになったからあのとき中止していれば延命は出来たかも
まあそのうち国力回復した長州が東進始めるかも知れないけどね >>5
もうあの時点では延命にしかならんかったと思うわ
ターニングポイントは南紀一橋に別れてた将軍後継問題の頃かなと、この頃から東軍(紀州譜代)vs西軍(水戸尾張越前島津etc...)で既に亀裂出来てたから。 >>6
この頃に関ヶ原の戦いパート2でもやって決着付けてれば展開は変わったかもな。諸問題を避けよう避けようと先延ばししたのがダメだった。 田沼意次だろ
あれが最後の砦だった
それを失脚させて反動主義でもって田沼政治をすべて否定した松平定信と寛政の改革と後ろ楯の徳川家斉によって幕府滅亡はスタートした >>3
全ての原因は阿部正弘です
【結論】阿部が幕府の改革をして賢人を探さなかったのが失敗、そして名藩主(四賢侯)を呼んで楽に良策を得ようとした(水戸侯を呼んだのは形式)のが終わりの始まり
【概略】新しく老中になった阿部が老中首席の水野の不正を叩き、水野を追い払ったまでは良かったが、その後の西洋対策を外の藩主(斉昭、斉彬、春獄、容堂、宗城)に頼ったために幕府本来の主導権が無くなった
この六人(阿部、水戸侯、四賢侯)で協議して決めるシステムになったことによって、それまでの幕府の若年寄·大目付·各奉行へと連なる幕府(旗本八千騎)が軽くなり、各藩を抑える魔法が解けた
これは鎌倉幕府も同じで、北条貞時が内管領の2家に実権を与えたために本来の北条家の力が無くなり、幼少で得宗になった高時の代からは内管領2家の暴政を止められず、豪族の忠義心は北条家から離れた 《六侯による会議》
老中の阿部正弘 :開国
副将軍の徳川斉昭:攘夷
薩摩の島津斉彬 :開国
越前の松平春獄 :開国
伊予の伊達宗城 :開国
土佐の山内容堂 :開国
副将軍の斉昭の激しい攘夷思想に対して阿部や四賢侯は押し返せずに水戸の攘夷思想が広まる
攘夷( 斉昭 > 正弘 + 四賢侯 )
しばらくして阿部正弘が亡くなり将軍の跡目を巡って紀州派(徳川家茂)と水戸派(一橋慶喜)が争い、紀州派の徳川家茂が将軍になり政治の実権は新しく大老になった井伊直弼が握る
井伊直弼は水戸派(攘夷派)と四賢侯の藩士(藩内の攘夷派)を弾圧する
開国( 井伊直弼 > 徳川斉昭 ) 井伊直弼が水戸派に暗殺され、将軍家茂の幕府直属の力が弱まる
雄藩の発言力が強くなる(一橋慶喜、松平春獄)
公武合体(譜代雄藩 ≧ 幕府直属)
譜代雄藩(慶喜、春獄)により会津藩(松平容保)を京都守護職に任命、京都の過激派(攘夷急進派)の取締をさせる
京都に元からある禁裏守護職(長州藩)と、新しくできた京都守護職(会津藩)が両立することになる
そのころの過激派は長州(吉田松蔭門下)と土佐(武市門下)や薩摩、水戸などかつての阿部正弘の盟友である四賢侯の近隣から排出されるが幕府や藩主からの取締りにより徐々に弱体化する
会津藩(容保)が京都守護職になり一橋慶喜と松平春獄が後ろで見守る体制ができるが、慶喜(譜代主体)と春獄(雄藩主体)で噛み合わず春獄は離脱、桑名藩(松平定敬)が加わり一会桑の体制が主導権を握る
公武合体(慶喜 > 幕府直属 >雄藩) 穂積陳重せんせいの法窓夜話・続法窓夜話を読みましょう。すでに多くの読者に支持されている古典的名著だ。
法窓夜話 穂積陳重
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