会津観光史学
そもそも日本に東西対立なんて構図はなかった
奥羽がまとまって対抗するほど奥羽諸藩が仲がいいわけでもないと思うが しかし世良修三を不要に処刑したのは仙台藩の致命的なミス。
やはり徳川幕府下で奥州の覇王である特権意識が仙台藩には存在して
それが結局は会津との同盟と薩長との抗争を選んだんであろう 仙台藩は一部がやる気があっただけで、それが全体でないのがなんとも。
ドンと大砲が鳴れば5里逃げる状態だったから。
秋田戦争ではあまりにやる気がないので、支藩の一関藩なんかは庄内藩の指揮下に入っていた。 小藩ながら無駄に気力を出して結果も出したのが庄内藩だが
こういう無能な働き者が無駄に戦線を拡大せてしまったんだろうな 庄内藩なんか、長州の桂太郎と薩摩の大山格之助がいても、最後まで負けなかったからなw
お陰で、桂太郎も自費で欧米に留学しなきゃならなかった。
大局を見るなら、最初からあきらめて降伏ってのが筋だけど、奥羽鎮撫隊の要求が敵視そのもので、あまりにもひどいから
ちょっと考えて欲しいってのが最初の列藩同盟の目的だった。あくまで平和的な同盟。 庄内藩から出現した反薩長の石原莞爾を救世主のごとく崇拝するのが会津観光史学 庄内藩が最新式武器を持ってたのって、主に北前船の豪商たちが自腹で買って寄付したものなんだな
しかも本間家は、薩摩と商会を開こうとしてた親戚を殺してまでいる
最大の功労者は武器調達した人らだと思うのに、ネットでは武器を使って戦った武士の話しかされてないのが謎だった
会津びいきあるあるの身分差別か >>170-172
会津藩や仙台藩よりも庄内藩こそ反薩長の親玉だったんではないか?? 松平容保は明治も早々に許され官位も戻った
長州の奥平謙輔は会津士族に山川健次郎の面倒を見たし、薩摩の大山巌は、会津家老の娘を後妻とした
容保の孫娘の1人は、直宮である秩父宮の妃となり、もう1人は、徳川慶喜の孫の徳川慶光公爵に嫁ぐ
新政府は会津武士とその子弟たちを軍人として採用し陸軍大将にまで登るもの多数 元帥まで出した
また山川健次郎は東京帝国大学総長になる
昭和初期までに新政府と会津、徳川と会津はとっくに和解しているようにしか見えん >>174
んなわけあるかよw
鳥羽伏見が終わって新政府は奥羽鎮撫隊を仙台に派遣、一方的に会津と庄内の討伐を東北諸藩に言い渡した。
庄内が討伐される理由は、「江戸薩摩藩邸の焼討事件」だと理由言う。ところが、これは江戸にいて現状を知っていた者には
理由がわかっていて、薩摩藩が煽った結果だとわかっており、士気は全く上がらない。
4月2日、山形県寒河江市柴橋にあった陣屋には年貢米が集積していた。これを事前に庄内藩に持ち帰ったことで
陣屋を攻撃した新政府軍は年貢米を接収できなくなる。
4月24日に清川口で庄内藩と新政府側の戦闘がおき、庄内藩が圧勝する。新政府側には桂太郎や大山格之助がいた。
4月19日には新政府側の指揮官の元、海岸線に集結した東北諸藩の軍が庄内藩を攻撃した。ところが士気は上がらずさらに稚拙な士気で負ける。
そうこうしているうちに、こりゃ話が違うぞということで、仙台藩から会津藩と庄内藩の助命嘆願を願う奥羽列藩同盟の締結になり、戦闘は中途半端で
尻すぼみになる。
ようするに、鎧袖一触でやっつけてやると言っていたのに、ちっとも敵わなく、しかも戦闘の名目も結構怪しいので列藩同盟の締結になるんだよ。
奥羽鎮撫隊の自業自得とも言える。まあ、世良修蔵の暗殺はその後。 庄内戊辰戦争春の陣は結構新政府側に稚拙な指揮があったり、黒歴史なんであまり語られないけどね。 >>172
無駄に頑張りすぎる無能な働きアリが内から組織を自滅させていく証拠。
下手に勝利して東北戦線を拡大させた庄内藩 = 満州事変で日中戦争を拡大させた石原莞爾
そして清河八郎も庄内藩 >>172
無駄に頑張りすぎる無能な働きアリが内から組織を自滅させていく証拠。
下手に勝利して東北戦線を拡大させた庄内藩 = 満州事変で日中戦争を拡大させた石原莞爾
そして清河八郎も庄内藩 >>175
昭和初期に長州閥を追放したのは南部藩やからな。 そうです会津でも仙台でも庄内でもない反薩長の総本山は原敬、東條英機の南部藩なのです。 仙台藩士の家系である星亮一なら分かるんだが
京都人の原田伊織が反薩長史観を撒き散らしてるのは個人的体験から来るものか? 楢山佐渡なんて薩長が遊んでるというだけで同盟側へ。
東北の限界だな。 敵よりも同僚の活躍に嫉妬して内紛が絶えず自爆したバカが東北諸藩 まあ司馬が西日本を美化しただけ
平家とか豊臣とか明治維新とか西日本政権はすぐ滅ぶからね
司馬が会津藩を美化してれば逆の現象が起きた しかし会津を美化してる大物歴史小説家は早乙女貢ぐらいしか浮かばない。
新選組の美化ならいるんだが会津藩となると早乙女貢ぐらいだろ。 会津藩なんか美化のしようがないだろ
美化してる奴は思想的に偏りすぎて気持ち悪いやつらばかりだ >>191
早乙女貢は会津士族の子孫だから私情が相当入ってると思われる
自分が不思議に思うのは西村寿行で、蒼茫の大地、滅ぶでめっちゃ東北贔屓の話を書いていたから東北出身かと思ったら、香川県生まれで何があって、あんな東北贔屓の小説を書いたのか いくら反薩長の作家が会津の女性がーとかいっても山本八重は
屈指の木戸孝允崇拝者の新島襄の嫁。 戊辰で會津熊本同盟が成功してればなあ
薩長を挟み撃ちできて、戊辰は幕府側が勝てたかも それは早々に崩れておる
會熊同盟が成立してたら、薩長など挟み撃ちに出来たのになあ
山本覚馬あたりが失明してなければ、進んでたかも知れぬな 人数だけ揃えても外交3流の会津藩の無能ぶりが露呈したのさ
それを受け継いだのが昭和の旧日本陸軍だが。。 >>180
まあ、庄内藩は無駄な働き者と言えばそうなのだが、結局がんばったことが西郷隆盛の寛大な処分につながったからなんとも
すぐにあきらめたら、多分ひどい処分で終わってしまっただろう。戦争目的が薩摩藩邸の焼き討ちの報復だから、それを指示した西郷の
負い目があったのかもな。 意志力が弱すぎた松平容保は昭和天皇の如く利用されてただけにすぎないか
西郷頼母の重臣達が会津を自滅させた戦犯だろ 会津藩・庄内藩は警備した蝦夷の領地をプロイセンに租借契約(99年間貸付)を進め未遂におわった。もし、会津藩、奥羽越列藩同盟が勝利すれば、北海道は昭和40年代まで植民地になる可能性もあった。 頼母が薩摩・長州とパイプを持つ神保修理を自害に追いやったことなどが会津藩敗北の遠因 >>205
会津藩と庄内藩が蝦夷をプロイセンに貸し出していたら、北海道の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。明治維新後の日本の発展に大きな影響を与えた北海道が植民地になっていたら、日本の近代史は全く異なるものになっていたでしょう。
しかし、歴史は「たられば」では語れません。もし彼らが勝利していたら、という仮定はあくまでも机上の空論です。
むしろ、重要なのは、なぜ彼らの計画が実現しなかったのかを考えることだと思います。当時の政治情勢や国際関係、そして彼らの思想や行動力など、様々な要因が絡み合って、北海道は日本の領土として保たれたのでしょう。 >>207
西郷頼母と東條英機に似てるところ全くないんだけど 会津藩は薩摩・土佐の強兵に攻められたのが運が悪かった 薩長とパイプと人望のあった神保修理を殺したのが運の尽き >>213
神保修理の死は会津藩にとって大きな痛手だったよね。でも、歴史は単純じゃない。薩長側の思惑や、会津藩内部の複雑な事情も絡み合って、彼の命は奪われたんだよ。
神保修理は、薩長との融和を主張する開明派の中心人物だった。もし彼が生きていれば、会津藩の運命は大きく変わっていたかもしれない。 修理が存命ならよもや會熊同盟が成立して、薩長挟み撃ちにできたかもしれない
ただし、北海道はプロイセンの植民地になってたが