木戸幸一
木戸幸一を仲介にしなくて昭和天皇と会見できなかったみたいだな 原田熊夫から、華族でなければ局長止まりの人とか評されていたと何かで読んだがむしろ過大評価にも思える 侯爵の看板がなければ、中間管理職が良いところではないか 木戸幸一は木戸孝允の妹の息子の子供
孝允から見れば幸一は又甥 幸一から見れば孝允は大伯父
血筋で見れば四親等 家系で見ればニ親等と言う事になるかな 内大臣が存在感を出し出したのは昭和に入ってからと思われる
昭和の最初から10年の間牧野伸晃が内府を務め、親英米派の牧野は永らく君側の奸筆頭扱いだった
牧野の後に内相になった斎藤は就任後わずか2月で226事件で殺される 牧野にババを押し付けられたと言ってもいいだろう いかに斎藤が親英米派と目されていても無役の元首相のままなら殺される事はなかった
その後内務官僚上がりの湯浅倉平が緊急で内府になる 湯浅は斎藤に近かったし優秀な官僚でもあったから適任だったのだろう
問題は湯浅が健康を害して内府を辞任、その後任が木戸幸一になった事である
他に人がいないからくらいの選び方で有賀、就任早々やらかしたのが米内内閣崩壊後の首相に近衛文麿を推挙した事である
存命の元老西園寺は第一次近衛内閣に懲りて、近衛の再登板は反対だった それを知って木戸は西園寺の意見を聞きたいと言う天皇の要望を健康がどうとか言い訳し黙殺した
第二次近衛内閣の政策は日本を戦争へ一直線に導くものばかりだったが、最初で最大の日独伊三国同盟も木戸はこれに賛成であったがため、反対するであろう西園寺をすっ飛ばした
で近衛が政権を投げ出すと後継を強引に東條英機にする
木戸はなんでも1人決め そしてその決めた事は尽く天下国家のためにならない
とんだキングメーカーで木戸を内府にした人々は見る目がなかったとしか思えん 木戸幸一
「東條英機は華族に成りたくて必死だったんですよ」 近衛文麿や木戸幸一の貴族意識が甚だしい
軍人なんて平民で成り上がりたい下賤の連中くらいのイメージだろう
近衛は、近衛上奏文で「職業軍人の大部分は中以下の家庭出身者にて 云々」と天皇に述べた
職業軍人の多くは陸軍士官学校もしくは海軍兵学校出身である 陸士海兵は中学から入るのがほとんどだが、この時代の中学進学率は10パー程度であり、子供を中学にやれる家庭はアッパーミドル以上である だが近衛から見ればそんな中ブル程度は中以下で、華族とそれに連なる諸家以外が全て下民
木戸も生まれついての侯爵家で、学習院、京都帝大とお付き合いしてる友人連中が近衛をはじめほぼ華族
木戸も近衛もベルサイユのバラで、宮殿でホホホホって言ってる貴族連中と意識はほぼ同じと言っていい 東條が華族になりたかったかというとちょっと違うと思う
東條はむしろ華族が嫌い 陸士同期の前田侯爵とは折り合いが悪い 殿様呼ばわり 旧主の盛岡藩南部侯爵とも疎遠 旧主を囲む会にまめに出ていた板垣征四郎や米内光政とはずいぶん違う
仮に敗戦がなく東條が華族になれても男爵で、せいぜい子爵止まり 児玉源太郎でさえ子爵なんだから 先は見えている
東條のコンプレックスは、親任官である師団長になっていないことと思う 東條は野戦軍では旅団長が最高位で師団長になっていない 陸軍軍人たるもの師団長、軍司令官、方面軍司令官、総軍総司令官とこれが花形
寺内寿一は南方軍総司令官として、畑俊六は支那派遣軍総司令官として、梅津美治郎は関東軍総司令官として100万将兵に号令した
東條は、旅団長時代の数千の兵の指揮が最大で陸相でも参謀総長でも兵権はない
軍人が欲しいのは武勲であり日本なら金鵄勲章
ドイツ軍人ならプールルメリート、イギリスならヴィクトリアクロス、アメリカならメダルオブオナー 東條は軍人たるべしの意識が極めて強いし木戸の東條が華族になりたいというのは穿ち過ぎだろう 木戸の人物評に関しては
藤田尚徳が述べたのが的を得ていると思う 昭和初期の軍人は明治の元勲みたいに華族になりたくて戦功をあげようと必死で暴走した。
木戸幸一 それは木戸の保身からくる言い訳だな。
軍人のせいにして俺たちに責任はないと。 東條は中央向きじゃなくて現場向き。
首相に選ばれてなかったら本来は南方の司令官あたりに飛ばされていた。
寺内や牟田口なんかよりも勇敢に戦っただろう。 今の一般企業にも言えるけど昭和の陸海軍に適材適所なんて存在しない。
海軍なら山本五十六は中央、嶋田は連合艦隊、井上は中央。 一般企業は柔軟だろう
年功序列の硬直人事は、官公庁、財団、銀行、インフラなど対外競争が緩いところ
メーカーや流通などそんな人事してたら他社との競争に生き残っていけない 海軍に適材適所の人事がないのはその通り
日本軍の人事は、陸士何期海兵何期、陸軍ならこれに陸大何期、同期ならどちらが先任か、卒業成績恩賜かクラスヘッドがとかコチコチの学歴年功序列を敷いていた
平時はこれはこれで安定しているから、それほど問題でもないが、日本軍の凄いところは戦争やっててもこの人事システムを貫いた点にある
規模が小さく人員の余裕のない海軍でこの弊害がモロに出た
真珠湾攻撃の際水雷屋の南雲を機動部隊の指揮官にしたのは、向いているとされていた小沢が南雲の1期下という人事上の問題だった
国運をかけた大作戦でこんな事やってたのは日本海軍ぐらい
連合艦隊司令長官の古賀峯一が遭難死した後、開戦以来鎮守府ドサ周りで戦争の外にいた豊田副武を後任に持ってきたのも序列のせい
レイテ海戦で消極的との評価だった栗田が第一遊撃部隊の指揮官だったのも序列が大事
若かろうが有能ならあっという間に大佐が上級大将にというドイツやソ連とは全く違う じゃあそんな奴を首相にするなと。
国運がかかっているのに皇族に責任が及ぶからと東久邇宮にしなかった小役人気質の男。
戦後になんていくらでも好き勝手言える。井上成美もそう。 >>30
東久邇宮で開戦を防げたかどうか
東久邇宮は昭和天皇以上に和平派で昭和天皇が仏印進駐について愚痴を言うと陛下は大元帥なのだからいけないと思うなら許さなければいい、とまで言った それを首相時に発揮出来れば和平の道はあっただろう
有利な点として第一に皇族首相なら英米に和平のシグナルが送れる 東條ではどう見ても開戦内閣にしか見えん
第二に現役陸軍大将だから陸相兼任すれば陸軍はある程度抑えられる
第三に皇族軍人は軍人である前に皇族なので思考が柔軟である 日中戦争の英霊がどうのとか三国同盟離脱で国際信義がどうとか東條の頭花崗岩的コチコチとは無縁である
こうした下地の上で支那駐兵を諦め、三国同盟死文化でいけば、日米交渉妥結の見込みはあっただろう そもそも東條に陸軍内での人望はなかったから陸軍を抑えられると思っていた木戸は盆暗としか言い様がない。
一つ、二つの事務的な事をさせたら超一流だったが大局的に見て行動していく能力に欠けていた。
梅津や畑には何もかも劣る。
東條に関しては陸軍次官になった時点で気の毒だったようにも思う。
そのまま大陸に残って予備役で全うしていたら本人にとっても周りにとっても幸せだっただろう。 木戸幸一は、官僚として辣腕を振るい、内大臣として太平洋戦争の開戦に深く関与した人物です。戦後はA級戦犯として裁かれましたが、その生涯は波乱万丈で、様々な評価が今もなお分かれている複雑な人物と言えるでしょう。
内閣総理大臣としての功績だけでなく、戦争への関与やA級戦犯としての側面もバランス良く記述する。
木戸さんは、すごい人だったよね。戦争には関与したけど、和平工作にも尽力したんだって。複雑な人物だけど、興味深いよね。 東久邇宮は昭和天皇よりもずっと和平派だったんだ。
昭和天皇が仏印進駐について愚痴をこぼすと、「陛下は大元帥なんだから、ダメなら止めればいいじゃないですか!」ってまで言ってたんだよ。
もし彼が首相としてその力を発揮できていたら、和平への道はあったかもしれない。 言うは易し、行うは難し
この時期、東久邇宮は特段の職責になかった
言うだけなら簡単だが自身が重職にあってそれが出来たかどうか
東久邇宮は確かに現役陸軍大将だが、そもそも皇族軍人はお飾り的で、皇族としては敬っても思想的に付いてきてくれる陸軍軍人はほとんどいない
戦争を回避するなら首相兼陸軍大臣となり、陸相の人事権を持って陸軍部内の大粛清を行い、内固めた上で対米交渉に臨む 当然天皇の絶対的支持のもとにである
木戸はそんな事は到底無理で、やれば内乱になると思ってただろう
だが、内乱で国は滅びないが、対外戦争では国は滅ぶと誰かが言っていたように内乱の方がまだマシだった 維新の功臣達の子孫はほとんどがパッとせんからな 大久保利通の倅の牧野伸晃がそれなりくらいか
木戸幸一もまだマシな部類だが、逆に中途半端に小才があったのがかえって日本の害悪になった
岩倉具視や後藤象二郎の子孫のように本当にダメダメだったら、本人の周辺は迷惑だろうが少なくとも日本に影響はなかった
その点で木戸幸一と寺内寿一は日本の為に全くならなかった功臣子孫の双璧だろう 土佐の岩村兄弟は本人達はよくいる県令クラスなのに
何故か子孫が各界でそこそこ名を残してて不思議
勲功華族の2代目3代目大抵は空気なのに 維新の元勲の子弟でいちばんの問題児は大西郷の孫でヤクザになってしまった “極道侯爵” 第三代西郷隆盛家侯爵西郷吉之助 維新の元勲の子孫の中で、波乱万丈な人生を送った人物として有名なのが、西郷隆盛の孫である3代目西郷隆盛家当主の西郷吉之助です。幼い頃からやんちゃで知られ、侯爵という身分でありながら大学進学を断念し、右翼団体に加入するなど、周囲を驚かせ続けました。その後、政治家秘書を経て、1965年に暴力団の組長に就任。侠気あふれる人物像で人気を集め、"極道侯爵"の異名をとりました。しかし、その波乱万丈な人生は43歳という若さで突然の終わりを迎えました。