【検証】坂路の鬼 戸山貞夫ミホノブルボン【ノーザン天栄】
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ミホノブルボンの調教師である戸山為夫は「鍛えて強い馬を作る」という信念を持った調教師でした
ミホノブルボンは血統的には地味な馬で最初の評価が低かっただけにここまで活躍できたのは、このスパルタ坂路調教があったからこそだと言われています
1991年には、JRA賞最優秀3歳牡馬、1992年にはJRA賞年度代表馬そして最優秀4歳牡馬に選ばれ、そして1992年には皐月賞、日本ダービーの無敗二冠馬を達成という様々な偉業を成し遂げました
ミホノブルボンといえば坂路調教というくらい、ハードな坂路調教を行われていました
ミホノブルボンは元々はスピード型で、短距離に向いたスプリンターと言われていましたが、戸山調教師は「鍛えて強い馬を作る」という信念のもと、ミホノブルボンの距離の限界を超える為、厳しい調教トレーニングを課しました
ミホノブルボンは、入厩当初から1日4本の坂路調教をしていたと言われており、3歳の時点で1日4本もの坂路をこなしたのはミホノブルボンが初めてだそうです
ちなみに、一旦1日5本の坂路調教を課したことで、ミホノブルボンの体調が崩れたことから、4本に戻したとまで言われています
https://youtu.be/c85aN2koGAs
新馬戦ラップ
12.4 - 11.0 - 11.4 - 11.7 - 11.6
ダービーラップタイム
12.8 - 11.7 - 12.3 - 12.2 - 12.2 - 12.2 - 12.5 - 12.5 - 12.3 - 12.6 - 12.0 - 12.5
ライスシャワーに破れる菊花3000
13.1 - 11.4 - 11.5 - 11.8 - 11.9 - 12.3 - 13.1 - 13.1 - 13.2 - 13.3 - 13.0 - 12.3 - 11.6 - 11.8 - 11.6
坂路調教は無意味ではない
故戸山氏の教えに今一番色濃く受け継いでいるのは
ノーザン信楽の坂路 全長800m 高低差39.7m
ノーザン天栄の坂路 全長900m 高低差36m
栗東トレセンの坂路 全長1,085m 高低差32m
美浦トレセンの坂路 全長1200m 高低差18m
皆さまどう考えますか? ちなみにスピード指数で言えばブルボンの皐月ダービーは今でも3本の指に入る 《シンデレラと魔法使い》
戸山調教師は進取的な思想で知られ、
当時導入されたばかりの坂路コース(脚部に少ない負担で多くの運動量をこなせる)をいち早く調教に取り入れたパイオニアであった。
戸山師はブルボンが生まれながらに備えた傑出したスピードを見抜いたが、
ただその長所を伸ばして育てるのではなく一つの持論を実行に移す。
「全てのサラブレッドは本質的にスプリンターであり、短距離レースと長距離レースの違いは陸上で例えれば100mとマラソンではなく100mと300m程度の違いに過ぎない。
ブルボンのスピードに調教でスタミナを補強すればカール・ルイスのような万能ランナーになりうる……」
それは単に強い馬を作るというのではなく、究極理想のサラブレッド像への挑戦であった。
《デビュー》
一日四本の過酷な坂路調教で鍛え込まれたブルボンは戸山師の愛弟子・小島貞博騎手を背に中京芝1000mでデビュー。
古馬でも31秒台で上等と言われた栗東トレセンの坂路500mをデビュー前にして29.9秒で走破していたことなどから2番人気6.3倍に対し1.4倍という圧倒的支持を受けたこのレースは、
スタートで1000m戦では致命的な出遅れを喫してしまうが、直線一気で当時の2歳レコード58.1秒で見事勝利、持ち前のスピードを証明した。
次走の1600mの条件戦を先行策で6馬身差で大勝すると、次の朝日杯3歳ステークス(G1)では抑える競馬を試みたのが裏目に出てハナ差まで追い込まれたがこれもキッチリ勝って連勝。
3戦3勝で世代の主役に躍り出た。 《常識は、敵だ》
ブルボンの父マグニテュードは先述したようにすでに快速の桜花賞馬エルプスを出すなど成功していたが、産駒は1600mが限界と考えられており、ブルボン自身も胴が詰まった筋肉質の典型的スプリンター体型だった。
しかし戸山師は「2000mまでは誰にも負けない」との自信を持っていた。
前哨戦スプリングステークスでは「ノーザンテーストの大物」と呼ばれたノーザンコンダクトに1番人気を奪われたが、ミホノブルボンは悠々と7馬身差で圧勝。
「納得の行かないレースをするなら短距離路線に転換する」とも考えていた戸山師はこれで腹を決め、ブルボンを皐月賞戦線へと送り出す。
……結果は2と1/2馬身差の勝利。
スピードの絶対値の違いで先頭に立ちただ自分のペースで走り、一度も前を譲らずゴールへ辿り着く。
「逃げ」ではなく勝利への進撃というべき走りはまさに最強馬のそれだった。
そして鞍上の小島貞博騎手はデビュー22年目、40歳で嬉しいクラシック初制覇であり、インタビューでは涙を見せた。
さらには未知の距離となる日本ダービー(2400m)をも4馬身差で制し、前年のトウカイテイオーに次ぐ無敗の二冠達成。
「限界」という言葉など、もはやブルボンに無縁なものと見えた。 >>33
すでに来てんだよね…
牝馬三冠
ダービー、菊花賞全て天栄の馬なんですわ 《そして夢の終わりへ…》
夏を北海道でのリフレッシュにあて、トライアル京都新聞杯を快勝したブルボンに菊花賞へ向けて死角はないかに思われたが、戸山師は
「3000mであろうと力で押し切れ。ブルボンはそれだけ鍛えてきたのだから」と指示する一方
「本当は使いたくない、菊花賞に出すのは人間の欲目だよ…」とも漏らしている。
そして迎えた菊花賞。
スタートすると、ブルボンが勝った前走京都新聞杯で出遅れたために早い段階で「何が何でもハナを切る」と宣言していた同型の逃げ馬キョウエイボーガンの松永幹夫騎手が玉砕的な大逃げを打つ展開。
これに対し小島騎手は前を譲り戸山師が指示した1ハロン(200m)12秒ペースではなく13秒代の「普通の」ペースを選択した。
しかし先頭を奪われて行きたがるブルボンは無理に抑えられたことで消耗。
直線突き放しきれずライスシャワーの強襲に遭い、内から伸びてきたマチカネタンホイザこそ差し返したもののついに屈し、無敗三冠は1馬身半の差の前に散った。
長距離種牡馬リアルシャダイを父に持ち、小柄で胴の長いステイヤー体型のライスシャワーは戸山師が戦前最も恐れていた相手だったのだ。
「血統が名馬をつくるのではない」
確かな血の力の前に、ブルボンと戸山師の挑戦は終わりを告げた。 もう厩舎で西か東が見る時代じゃないもんな
しがらきか天栄かだよ 鍛えるだけ鍛えて調教後のケアは一切しなかったそうだよな 坂路にもデメリットがある
アホな馬は折り合いつかなくなり距離が短くなる
坂路猛時計出して本番かかる馬の多いこと
タイムフライヤーも完全にそれだったが
菊花賞がまさかの2ハロン戦になり短い距離行くべき状態がプラスになり6着に来た >>45
矛盾してね?
かかる馬がなんでラスト400まで我慢できてんだよ 《それぞれのそれから》
三冠を逃したとはいえ前年の二冠馬トウカイテイオーや海外の強豪との対決も含めさらなる活躍が期待されたブルボンだったが、筋肉痛ともいわれる詳細不明の故障で年末の諸戦を回避。
さらに放牧先で骨折してしまう。
患っていたガンの再発で闘病生活に入った戸山師は93年5月29日、その年のダービー前日にブルボンの状態を案じながら肝不全で他界。
戸山厩舎の調教助手だった森秀行調教師が新たに開業して主な管理馬を引き継いだが、森師は「走るか分からない馬を引き取るわけにはいかない」としてブルボンを引き取らなかった。
「俺の悪いところを真似することはない。いいところだけ取って俺を越えなあかんよ」
森師は戸山師の遺言を自分なりに実行した。
戸山師が息子のように愛した小島騎手を全ての馬から降ろし、河内洋や武豊らフリーのトップジョッキーに乗せ換えた。
馬は馬主のもので調教師は馬主を喜ばせるのが仕事。大馬主と喧嘩してわずかな理解者から安馬を預かって鍛えるより
効率的に賞金を稼いで馬主に利益をもたらし高馬を預けてもらうのが勝ちに繋がる……
競馬に徹底したビジネス感覚を持ち込んだ森師にとって、ブルボン・小島的なものは捨てるべき非合理に他ならなかったのだ。
追われるようにフリーになった小島騎手は騎乗機会の減少に苦しみながらもタヤスツヨシで95年のダービーを勝ち、01年に引退。
調教師に転じ中山大障害優勝馬テイエムドラゴンを出したりしたが、12年1月、厩舎の一室で経済状態を苦にしたとみられる自殺という形で生涯を終えた。
一方鶴留明雄厩舎を経て松元茂樹厩舎に移籍したブルボンは再起を目指したが、初黒星となった菊花賞以来のターフへの帰還はついに叶わず、1994年に引退。生まれ故郷で2012年まで種牡馬として繋養された。
種牡馬引退後もブルボンは穏やかな余生を送っていたが、さすがに老衰には勝てず、2017年2月22日、28歳でこの世を去った。 現在の競馬界では調整のほとんどを外部の育成施設で行うのが当たり前になり、馬作りに調教師の個性が反映される余地は失われたと言っても過言ではない。
距離適性の分化も進み、この先第二第三のシンボリルドルフやディープインパクトは現れても第二のミホノブルボンが現れることはないだろう。
だからこそ、彼らの戦いの記憶は尊くかけがえのないものとして語り継がれるのである。
92年、皐月賞。
そのモンスターの名はミホノブルボン。
常識は、敵だ。
――2011年皐月賞CMより >>23
まあ今の時代だとドゥラメンテくらいだから悪くないと思うよ >>50
かわりに海外遠征に関しての功労者になったわな 今だと血統はいいけど競走成績のよくない種牡馬なんて
そもそも輸入されないから >>51
昭和の価値観はドン引きするくらい生臭すぎる
小島はなんも悪くねーだろ… その森先生が騎手を預かる日が来たとはなぁ。
川又は2年目で一気にモノになって来たしね。 >>53
そりゃおまえが平成の価値観に毒されているからだよ
いまの餌やり調教師と違う
えぐいほどの勝利に対する意識、価値観がテキにあった
だからこそ尊敬できる人が多くいた >>53
森も悪いことしたわけじゃないしな
なんだかんだでその後も成功したわけだし
プライベートのほうはわからんがな ただのドーピングだと思う
体つきからして筋肉増強剤の投与を疑うべき 俺はブルボン史上最強説を唱えることもあるが
贔屓目なしで見ると、少なくとも春の天皇賞と宝塚記念は
苦戦するシーンが浮かぶな
3000から3200になっただけで、ライスシャワーと
マチカネタンホイザの着差が10馬身近くまで
広がったからな
おまけにパーマーに絡まれてマックイーンに来られたらキツいだろう
まあ、秋はいくつかG1取れたと思うが 今で言うと父ダイワメジャーのダノンプレミアムがあのまま皐月勝ってダービーでワグネリアンに4馬身差圧勝。菊花賞でフィエールマンに差された感じか。
そう考えると虚しいな >>53
そんな昭和の勝負の世界をみていたオッサン達が
コネ永とかってぬるま湯に浸かった今の人間を叩いているのかもなw >>53
いやさ、俺もちょっと人間メロドラマすぎだと思うよ
昭和価値観は
ススズの予後とかさ、
平成になっても引きずっている
けど起こるのが競馬なんだよな >>55
現代の調教師のスタイルを確立したのは森調教師と言っても過言ではないはず。
どっちのほうが良かったかは難しいけどね。 >>61
逆だろ
昭和のコネが全てな時代のオッさんだから福永はコネで活躍してると思ってる 「鍛えて育てる」
今ならパワハラ案件で人は育たない
そう考えると競馬は育てる、ちゃんと叱ることができる分だけまだまともに見えて仕方ない 00年代の牝馬の福永だった時期と
10年代の急に担ぎ上げられた福永騎手で大差があるとも思えないもの
本人の問題ではない なんだろうな…このスレ開いてクサしてやろうと
思ってたけど
なんか目から汗が止まらないんだけど…
熱すぎるだろ…オッさんたち… >>69
この熱い感情、感動を分かるなら
おまえも充分にオッさんの仲間入りだw
https://youtu.be/QawOLkL-FFE >>47
ダービーのレース後、ブルボンの馬上にいる小島貞と森が握手してる写真あったけど
森はそのとき何を思っていたんだろうな おまえら的に森のじいさんが育ててる
川又ってどうよ?
デビュー年 2017年
(2年目)
通算勝利数 44勝
本年勝利数 35勝(27位)
※2018/10/22時点。
JRAのみ。
二年目のあんちゃんとしては良くやってる方か? >>58
昔は禁止じゃなかったんだから
昔の名牝が繁殖成績が良くなかったのは現役時代にクスリをやりすぎていたからなんて言われていたし 森のおかげで新人なのにドバイで乗ったり地方にも積極的に遠征してどうしようもない成績だったのが乗れる減量騎手になってきたもんな 新馬と二戦目のクリトライを千切ったレースを見るに
マイル以下でぶっぱなしていけば無敵くせえ
バクシンオー、ノースの上を行っただろうな
まあオグリぐらいの距離適正だろう >>74
35勝上げてる時点で凄い良くやってる方だと思う
去年、森が川又を乗せまくってたときは天変地異でも起きるんじゃないかと思った >>60
> 父ダイワメジャーのダノンプレミアムが
? 森も年を取ったってことだよ
若いころの野望だけの調教師人生が変化したんだな ミホノブルボン、レガシーワールド、フジヤマケンザン、ドージマムテキみたいな血統的には真正のゴミクズ馬で重賞どころかG1勝ってんだから天才としか言いようがない 人間だとトレーニングで
長距離は走れるようになったりするけど、馬だと距離の壁をどうにもできない
馬って多いな 凡馬を鍛えていた戸山の教えは
森に受け継がれているな
川又くんはいい騎手になるな… 坂路導入前から故障した馬も多い厩舎だったし、スパルタ式は元々
当時はフジヤマケンザンもハードなローテだと言われた
関西馬は関東の重賞に出てくる馬の付け馬でさえ勝ってたし、筋骨隆々でパワーがあった
関西馬が関東の平場のダート戦に出てくると、ほとんど勝ってたと思う 結果論だが、ダンスインザダークなんかは坂路調教のやり過ぎだっだのだろうか
ダービー前は行きたがるようになってたみたいだし ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています