李氏朝鮮VS琉球王国
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うおおおおおお論点ずらし来たああああああ
棚上げすげぇぇぇぇぇぇぇ!!!!! とうふです☺
さあ、あなたはいよいよ、とうふ真理教へ入会なさいました👏
あなたがとうふ真理教へ入信した動機、つまり、なぜ真理を実践しようと考えたのか😟これを、心にまず三度、思い浮かべましょう☝
思い浮かべることができましたか?🙆
次に、あなたの入信目的を達成するための教えの実践、この教えの実践が伝授されたならば、速やかにそれを、「すこるぞ!✊すこるぞ!✊すこるぞ!✊」と三度決意しましょう🙋 まあ荒らしが常駐してくれるようだから以後のスレ落ちだけは免れるか・・w 73マンセー名無しさん2018/07/01(日) 17:06:11.97ID:WNKs+u84
水谷知生
南西諸島の地域名称の歴史的および政治的背景
地理学評論 82–4 300–322 2009
https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj/82/4/82_4_300/_pdf/-char/ja
話題が変わるけど、これ、事実関係の整理としては面白い。
まあ、しかし、この手の論文を書く人は「地域名称の政治性ガー」って言わないと気が済まないんだろうか。
庶民には見渡すこともできない広域を命名対象として認識する必要性が全然ないわけで
海軍あたりが必要に迫られて名前をつけるのに何の不思議もない。 南西諸島の測量は1873(明治6)年2月から7月に海軍水路寮によって行われ
6),南西諸島地域の最初の水路誌である『南島水路誌』(柳1873)は,測量
指揮にあたった柳 楢悦によって同年11月にまとめられた.この『南島水路誌』
で初めて南西諸島の地域名称が体系的に記述された.南西諸島全域は「南島」
とされ,島嶼群を「先島」,「琉球群島」,「奄美群島」,「土噶喇群島」,
「大隅群島」の五つに区分している7).
(中略)
柳(1873)はまた序文で,「南島の地名は,中国名,西洋名,日本名が錯綜
しているが,島々は我が国の版図に入ったのであるから,名称は土俗の呼称に
従って記載する」と述べ,英国海軍水路誌の名称をそのままはとらず,名称を
自ら整理した形跡がある.Meiaco-sima groupは「先島」,The Linschoten
Islandsは「土噶喇群島」とした.「土噶喇群島」は,それまで「七島」ある
いは「薩摩七島」とされていた島嶼群に新たに名称を付し,「奄美群島」も,
それまで「大島」と総称されることはあったが,柳がここで名称を付したと考
えられる.そのほか,「八重山諸島」と「宮古諸島」で「先島」が構成され,
「沖縄諸島」,「慶良間諸島」,「伊平屋諸島」で「琉球群島」が構成される
と整理した.この水路誌での島嶼群の区分と名称が,その後,行政が用いる地
域名称の基礎として長く使用されていくこととなった.その意味で柳の整理の
果たした役割は大きい. 17マンセー名無しさん2018/06/13(水) 00:15:57.47ID:xXAzafUA
室町からかなり下って明治の頃の事情となると、国会図書館デジタルコレクションが役に立つ。
『分邦詳密日本地図』(1890=明治23)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937062
奄美群島には名前が与えられておらず、単に「大隅之内」と書かれている。奄美大島は単に「大島」。
明治23年はちょうど都道府県が今の形に落ち着いた年で、この頃は旧国名が引き続き使われていた。
8コマ目を見ると、琉球国が西海道の中に入っていて、薩摩、壱岐、対馬に続いている。
『日本地理教科書附図及附録』(1902=明治35)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762727
ざっと見たかぎりでは地図に「奄美」が出現するのはこの年から。
14コマ目に「奄美群島」が登場する。奄美大島は「大島」のまま。
明治31年には那覇区が日本で29番目に人口が多い市区町村だったとのこと。 大島、徳之島、喜界島、沖永良部島、与論島とその他の小島からなるグループを
「奄美群島」と命名したのは水谷の言う通り柳楢悦だろう。
柳は「土俗の呼称」というが、当時奄美で「奄美」という呼称は使われていなかったのではないか。
群島のような抽象的な概念はもちろんのこと、大島を指す用法もなかったはず。
水谷は列島、諸島、群島といったグループレベルの地域名称しか取り上げておらず、
奄美大島を「奄美大島」と命名したのがどこの誰かはわからない。 国会図書館デジタルコレクションで「奄美」の古い使用例を探してみると、
箕作住吉『奄美大嶋及沖縄採集旅行記』が引っかかった。
1901年の調査旅行の報告を1903年になってから『動物学雑誌』で4回に分けて掲載したもの。
中身は本当に単なる旅行記で、とても学術雑誌に載せるものとは思えないが、時代が違うのだろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10826794
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10826820
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10826896
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10826917
「奄美大島(嶋)」はタイトルと図だけに出てきて、ルビが振ってある。
本文では単に「大島」とよんでいるし、一度も「奄美」は出てこない。
1901年の時点で箕作は「奄美」という呼称を知らなかったのではないか。
1903年に全国向けの雑誌に載せる段になって伊豆大島等と区別する必要が生じて
どこかから「奄美大島」を見つけてきたのだろう。 海軍水路部の『日本水路誌』第二巻(1894)には「奄美大島」が登場する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847180
ただし奄美群島が鳥島を含む一方で輿論島が沖縄群島に入れられてしまっている。
行政区画は無視して緯度経度でグループ化しているみたい。
大隅群島から先島群島までを南西諸島と総称している。 沖縄島の公式な命名は琉球処分の沖縄県設置からだっけ? 13マンセー名無しさん2018/06/10(日) 18:47:38.47ID:zsW4PNZd
「奄美」という語は近代になって急に復活したように見えるんだけど、経緯わかる?
「奄美」の初出は「アマミキヨ」なんかよりずっと古い。
日本書紀の657年の記事に「海見嶋」が出てくる。682年の記事には「阿麻彌人」が出てくる。
平安時代は小右記997年に「奄美嶋」の海賊の記事がある。
鎌倉時代の金沢文庫所蔵日本図の「雨見島私領郡」が俺の知る限り最後。
奄美大島を「大島」とよぶのは「奄美」よりも新しいけど現代まで続いている。
1306年の千竈時家処分状は「大しま」はおそらく奄美大島だし、
李朝実録1462年の記事に「吾時麻嶋」もそうだろう。
奄美群島全体を大島とよぶのは明治になって大島郡ができてからだと思う。 なぜ「奄美」の近代の用法を調べているかは前のスレの↑に書いた通り。
ここまでの調査からを見るかぎり、「奄美」は明治になってから付けられた名前だ。
この古い呼称を日本書紀や続日本紀から採ったのは明治の復古主義の影響で、
南島と朝廷との関わりを強調したかったのだと推測する。
もちろん海軍が記紀のたぐいに直接あたったのではなく、
江戸時代からの研究を引いたのだろうが、具体的に何を参照したのかはまだわからない。
柳楢悦は安濃津藩出身だし、薩摩藩の資料ではないかもしれない。 古事類苑データベースのコピペを貼ってみるか
http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/
〔日本國郡沿革考 四屬島〕塚本明毅(明治13)
琉球○中略 沖繩島{管二十七村 方言呼村爲間切、而私稱郡、日本史云、沖繩即阿兒奈波之訛、
中山傳信?、國人至今自呼流球曰屋其惹、中山世譜云、中頭中山府、五州十一郡、原八郡、康煕年間分爲十一郡、
島尻山南府、原十四郡、康煕年間分爲十五郡、國頭山北府、原十四郡、康煕年間分爲九郡、}
計羅摩島{管一村 或作慶良間 琉球史略云、東馬齒山大小五島、俗溪頼米、以下圈外注、皆採琉球史略、}
戸無(トナキ)島{管一村 或度名喜、度那寄、} 久米島{管二村 續紀作球美、姑米、}
粟島{管一村 或粟國島、 安根?、或阿姑尼、又安護仁、} 伊惠島{管一村 椅山、或椅世麻、亦伊江島、}
伊是那(イセナ)島{管一村 琉球史略不載} 惠平屋島{管一村 或伊比屋、又伊平屋、葉壁山、俗呼禹臣馬、}
宮古島{管六村 南七島國人皆曰太平山、始爲宮、古復爲迷姑、今麻姑、} 八重山島{管十一村 南北九島、國人皆曰八重山、一名北木山、
土名彜師加紀按續紀云謂信覺、與彜師加紀音相近、疑是島、中山世譜以此島爲太平山、可疑、} 鬼界島{管五村 古作貴賀、或貴賀、或貴?、奇界、}
大島{管七村 鳥父世麻、自稱小琉球、} コ之島、{管三村 續紀作度感、度姑、} 永樂部島{管三村 或永良部、伊良保、或惠良部、}
與論島{管一村、由論、} 右島津氏所上幕府之圖籍所載如斯、而中山世鑑云、庇カ喇、{俗呼平良}姑李麻、{俗呼來間、譯曰古裏間、一作來麻、土名來曰姑李、}
烏喝彌、{俗呼大~、一作宇間味、}伊奇麻、{俗呼池間、譯曰伊喜間、}面那、{俗呼水納、一作水名、}伊良保、{俗呼惠良部}達喇麻、{俗呼多良間、一作太良末、} 七島總稱之曰宮古島、又曰麻姑山、伊世佳奇、{俗呼石垣}姑彌、{俗呼一作西表}烏巴麻、{俗呼小濱、二島譯曰宇波間、}
阿喇斯姑{俗呼新城、阿喇姑斯古、}達奇度奴、{俗呼武富、譯爲富武、一作武富、}巴梯呂麻、{俗呼波照間}
姑呂世麻、{俗呼K島、譯爲久里島作K島、}巴度間、{俗呼鳩間、麻巴度麻譯曰波渡間、一作鳩間、}
由那姑尼、{俗呼與那國}以上九島、總稱之曰八重山、又曰太平山、姑達佳、{俗呼久高、夏?作孔達佳、}
津奇奴、{俗呼津輕}巴麻、{俗呼濱比嘉、譯爲濱島、}伊奇、{俗呼伊計、譯爲池島、以上東四島、}姑米、{俗呼久米、}
東馬齒、{俗呼前慶良間}西馬齒{俗呼西慶良間、大小四島、以上西三島、}度那喜、{俗呼度名喜}阿姑尼、{俗呼粟國}
猗世麻、{一曰猗山、俗呼伊江、}葉壁山、{俗呼伊比屋}硫?島、{俗呼鳥島、硫?山一名K島、多鳥、又名烏島、以上西北五島、}
度姑、{俗呼コ島、}烏世麻、{俗呼大島}由論、{俗呼與論}永良部、{俗同}由呂、{俗呼與路、一作由路、}
烏奴奇{俗呼冲野、又曰浮野、}佳奇呂麻{俗呼垣路間呂一作路、又作加喜呂麻}奇界、{俗呼鬼界、以上東北八島、國人皆曰烏父世麻、
過此爲土?喇七島、亦作度加喇、臣按汪揖?七島?、口島、中島、諏訪瀬島惡石、臥?島、平島、寶島也、人不滿萬、惟寶島較大、
國人統呼之曰土?喇、或曰即倭也、}是爲琉球三十六島、 えーと長いけどつまり、明治13年くらいの時点では、大島(烏父世麻、うふしま)と呼ばれてたってことね。 >>24
公式な命名はよくわからないけど、沖縄は本体沖縄島のことで、
沖縄諸島とか沖縄群島とかいって沖縄の範囲を拡大したのは明治のことだろう。 翁長が意識混濁で辞職させられる見込みって、また混迷しそうだねえ もう長くはないだろうと思っていたが、はやいな。
翁長沖縄知事が死去 67歳 辺野古新基地反対を貫く
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/295992
沖縄県知事の翁長雄志氏が8日午後7時までに、膵臓(すいぞう)が
んのため入院中の浦添総合病院で死去したことが分かった。67歳だっ
た。米軍普天間飛行場の返還に伴う名護市辺野古への新基地建設への反
対を訴え、2014年の県知事選で初当選。新基地建設反対を最後まで
貫いた。 田中優子の江戸から見ると 琉球国その文化の高さ
https://mainichi.jp/articles/20180808/dde/012/070/038000c
東京は六本木にある「東京ミッドタウン」。そのなかにサントリー美術館がある。今年は9月2日まで、「琉球 美の宝庫」を開催している。
今までにも、沖縄県を含めさまざまな博物館で、私は琉球の工芸品を見てきた。その代表は螺鈿(らでん)をほどこした漆器で、それも
見慣れていた。しかし今回は照明の当て方に工夫があって、螺鈿をほどこした漆器が実に美しかった。夜の琉球の月明かり星明かり、
あるいはろうそくの光で見たらこうではないかと思え、まるで琉球にいるような心地になった。 江戸時代の南島研究を調べるなら新井白石の『南島志』から始めるのが良いんだろうけど、
名越左源太『南島雑話』と、『奄美史料集成』に収録されている薩摩の代官記の類を見てみた。
アクセスしやすかったから。
どっちもはずれで、薩摩藩が奄美を支配するようになってからの話と、
その前史としての琉球の支配にしか言及していなかった。 27マンセー名無しさん2018/06/15(金) 20:18:52.26ID:mLymcWdH
日本列島ほぼ全域描く、最古級の地図発見 広島の博物館
https://www.asahi.com/articles/ASL6H36LKL6HPTFC009.html
14世紀中ごろの室町時代(南北朝時代)に描かれたとみられる、本
州から九州のほぼ全域が記された日本地図がみつかった。広島県福山市
の県立歴史博物館が15日発表した。現存する最古の日本地図は京都・
仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるが、西日
本が欠けており、全体が残った地図では最古級。日本地図の変遷をたど
るうえで重要な発見と注目される。
博物館によれば、確認されたのは「日本扶桑(ふそう)国之図」(縦
122センチ、横57センチ)。広島出身の収集家から博物館に寄託さ
れた。国内68カ国が描かれ、地図の欄外には国名と郡名、人口や田畑
の面積、寺の数なども記された。近畿を中心に九州を上に描き、京都か
ら各地へ街道が伸びている。当時は「琉球(りゅうきゅう)」と呼ばれ、
日本と中国などとの中継ぎ貿易で栄えた沖縄も記されている。沖縄を
「龍及(りゅうきゅう)国」と表現する鎌倉時代の地図の特徴と、港町
の地名が多く記されるなど室町時代の特徴を備え、さらに文字の書体の
古さなどから14世紀中ごろの作と判断した。
博物館の久下(くげ)実(みのる)・主任学芸員は「鎌倉時代と室町
時代の特徴がある地図は知られていなかった。空白の期間を埋める資料
という点でも重要だ」と話す。
28マンセー名無しさん2018/06/15(金) 20:37:41.11ID:mLymcWdH
下から順に龍及國、種子嶋、鬼界嶋、黒嶋とならんでいる。
この並びだと鬼界嶋は奄美群島の喜界島ではなく硫黄島のことだろう。
鎌倉時代と推定される金沢文庫の日本図には「龍及國宇嶋身人頭鳥雨見嶋私領郡」とあった。
今回の地図は「龍及國頭□□」と読める。 前のスレの↑の地図を見てきた。
問題の部分は「龍及國頭(鳥 )験嶋」とあった。
最後の2文字の解釈はちょっと思いつかない。
新聞記事を読んだときには見落としていたが、
「龍及國」とは別に、対馬の下(つまり東)に「流毬嶋」が載っていた。 来る沖縄県知事選のオール沖縄鳩山待望論ってマジすか >>37
ケンで終わる地名としては奄美大島の宇検と田検、沖縄本島の具志堅が思い浮かぶが
関係あるかな。
谷川健一はケンがキナに通じて焼畑に関連するかもしれないと言うが、これは怪しい。
https://books.google.co.jp/books?id=X6ADZTG-d6oC&pg=PA140&lpg=PA140&dq=&source=bl&hl=en&sa=X#v=onepage&q&f=false チナとキナとケンが同語源だとすると、古形はケナだろう。 http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/d-archive/s/viewer?&cd=00030120
伊地知季安『南聘紀考』上巻の7コマ目、日本書紀斉明帝三年の条の「海見島」に割注で「即今大島、詳下」とある。
下というのは11コマ目だろう。
所謂海見島、或作阿麻彌、或作菴美、皆一島名、而語轉耳、諬南島志、並謂今大島、阿麻彌者、上世神人名也、
[琉球始祖、(以下略)]其東北有山、乃神人所降、因名曰阿麻彌嶽、因亦名島、地形因大故後稱大島云。
おとなしくはじめから『南島志』を見ておけよという展開だ。
しかし幕末に至っても「奄美」表記が確立されていない。 超入門! お城セミナー
第27回【構造】沖縄のグスクが「城じゃない」って本当!?
https://shirobito.jp/article/432 南島志 上巻 地理第一
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8D%97%E5%B3%B6%E5%BF%97/%E5%9C%B0%E7%90%86%E7%AC%AC%E4%B8%80
大島。島在コ島東北十八里,琉球北界也。【續文獻通考所謂琉球北山是也。】
國史所謂阿麻彌島,或作菴美,或作奄美,並皆謂此。阿麻彌者,上世神人名也。
其東北有山,乃神人所降,因名曰阿麻美嶽。島亦因得此名。地形稍大,
後稱以爲大島。 新井白石は沖縄群島が中山、奄美群島が山北、宮古・八重山が山南だと勘違いしていた模様。 東恩納寛惇『南島風土記』によると、『中山世譜』尚金福王の景泰二年の条に「亜間美」が出てくるという。
調べてみると、実際には「亜間美」は先代の尚思達の代にも登場する。
尚思達:(正統)十四年己巳,王遣亞間美等奉表貢方物。宴賚如例。
尚金福:(景泰)二年辛未,遣亞間美等貢方物。
https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%B8%96%E8%AD%9C/%E5%8D%B705
この「亜間美」は人を指しているが、東恩納はそれが地頭名に由来すると解釈している。
もしそうなら沖縄から奄美と呼んだ事例が15世紀にあったことになるけど、そんな広域支配者がいただろうか? 沖縄から貧困がなくならない本当の理由(7)貧困の合理性
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/300288
あれ、前に読んだかなと思って日付を確認したら数日前だった
この人、いつも同じこと書いている
閉鎖的な村社会 (::::::::::/彡彡彡彡彡 ミミミミミミミ :::::::::::)
( :::::::// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ===/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ |:::::::::)
| =ロ -=・=- ‖ ‖ -=・=- ロ===
|:/ ‖ / /ノ ヽ \ ‖ ヽ|ヽ
|/ ヽ`======/ .⌒ ` ========ノ. ..| | サヨク老人
.( .(● ●) )ノ
( ・ / :::::l l::: ::: \ .)
( // ̄ ̄ ̄ ̄\:\. .)
.\ : )::::|.  ̄ ̄ ̄ ̄ |::: ::::(: /.. ブツブツブツブツ…
\ ::: :::::::::\____/ :::::::::: /
ヽ ヽ:::: _- ::::: ⌒:: :::::::: -_ ノ アマミという名称と「奄美」という表記の歴史についての現時点でのまとめ
・アマミは『日本書紀』が初出の由緒ある地名だが、鎌倉時代の日本地図を最後に登場しなくなる(?)
・「奄美」表記は『続日本紀』に登場するが他の表記との混在状態が続く
・アマミを大島に比定するのに異論があるわけではないけど、一方で決定的な証拠もないように見える
・アマミが本土からの呼称だったが、自称でもあったかはわからない
・『中山世譜』に人名として「亜間美」が登場するが、奄美に由来するのかわからない
・アマミキヨ関係はあとで調べる
・新井白石の『南島志』以来の南島研究はアマミを大島に比定してきたが、この段階でも「奄美」表記は確立していない
・「奄美群島」の命名は海軍の『南島水路誌』(1873)によるものと思われる
・大島に「奄美」を足したのは「奄美群島」の命名よりもあとかもしれない
・奄美大島を伊豆大島や周防大島と区別するのは海軍など全国規模の組織の都合であって
地元の人間には関係なかったはず レキオ島唄アッチャー 琉球弧の歴史と喜界島(その7)、奄美の歴史から
奄美の歴史から
これまで喜界島の城久(ぐすく)遺跡群が南方交易の拠点であり、琉球弧の島々にも様々な影響を与えてきたことを見てきた。
ここで、改めて古代から中世にかけて奄美諸島の歴史を簡略にみておきたい。
奄美群島は、早くから日本に知られていたようで、7世紀に『日本書紀』には「海見嶋」、「阿麻弥人」として登場。『続日本紀』には
「菴美」、「奄美」とあり、奄美群島のことだと考えられるそうだ。
<733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため
碑を南島に建てた。『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込まれ、奄美群島の各島々に
この牌が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。997年(長徳3年)に
大宰府管内へ「奄美島」の者が武装して乱入、放火や掠奪をしたという(『小右記』)。翌年、大宰府からの追捕命令が貴駕島に
発せられている(『日本紀略』)。この貴駕島は現在の喜界島と考えられ、城久遺跡(喜界島)が発見されたことにより、ここが命令を
受領した大宰府の出先機関と推定されている(「ウィキペディア」の「奄美群島の歴史」から)。>
大宰府管内襲撃事件というのは、997年、大宰府は「南蛮(奄美人)」が大宰府管内の薩摩、肥前、肥後、筑前、壱岐、対馬を襲い、
300人以上が略奪された事件である。
<奄美島人(南蛮)の大宰府管内への襲撃事件が繰り返し起きている頃に喜界島の変質が起きていることは明らかである。さらに、
注目すべきことは997年の大宰府管内襲撃事件を含めて、断続的に続いた奄美島人の襲撃事件の対象につねに含まれているのが
大隅あるいは薩摩だということである。(吉成直樹著『琉球の成立―移住と交易の歴史』)> なぜ、奄美人が海を渡って九州まで襲撃したのか。
<これらの事実が示しているのは、ヤコウガイをはじめとする南方物産の交易に、南九州を中心とする有力者が強く関与しようとした結果、
奄美島人側の反発を招き、大宰府管内への襲撃事件が引き起こされたのではないかということである。(同書)>
興味深いのは、大宰府が「貴駕島」に南蛮の追捕を命じいていることだ。「貴駕島」は、喜界島の可能性が高い。
同じ奄美群島のなかで、喜界島に「奄美人」追補を命じたことは、喜界島は他の奄美諸島とは異なる立場にあることを示している。
大宰府の管轄下にあったようだ。
奄美群島のふたつの世界
当時、奄美群島は二分されて認識されていたらしい。鈴木靖民氏は次のように指摘している。
「10世紀最末、11世紀初において奄美諸島が一括できる政治的、社会的状況にはなく、古代国家、九州諸国の人たちから喜界島とそれ
以外とに二分されて認識されている。喜界島の大宰府ないし古代国家側に立つ位置付け、特性に注目しなければならない。つまり奄美大島と
喜界島との並存ないし対抗が認められるのである。(『日本古代の周縁史』)」
同じ奄美諸島の中で、古代国家側に立つ喜界島と、奄美大島は対抗する立場にあったという。それぞれ異なる役割を担っていたという。
<奄美諸島の古代、中世成立期において、喜界島と奄美大島は日本古代国家の「南島」政策ともかかわって二つの中心地であり、
それぞれ異なる役割を担わされたと思われる。(同書)> その部分を東京大学史料編纂所データベース検索他から抜き出してみた。
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
日本紀略 長徳四年
「九月十五日庚午。太宰府言上下知貴駕島。捕進南蛮由。」
小右記 長徳三年 十月一日
「大宰飛駅到来云、高麗国人虜掠対馬・壱岐嶋、又着肥前国欲虜領云ゝ、上下驚駭、三丞相失度」
「丞相復座云、菴(奄)美嶋者焼亡海夫等宅、奪取財物、又執載男女於舟将去来」
「良久之後復座、下給大宰符(府)言上解文等、令諸卿定申、奄美島者乗船帯兵具、掠奪国島海夫等、筑前・筑後・薩摩・壱岐・対馬、
或致害或放火、奪取人物、多浮海上、又為当国人於處ゝ合戦之間、奄美人中矢亦有其数、但当国人多被奪取、已及三百人、符(府)解文云、
先年奄美島人来、奪取大隅国人民四百人」 方言辞典のたぐいを見ても「奄美」は出てこない
「琉球」が収録されているのも珍しいけど 日本史板に行ってもガイジばっかりや世界史板やと板違いやからハングル板に流れて来たんか?
大変やな 10年近くは続いているスレだったはずだから、最初はどうだっただろうね?
歴史板でまともな反応がないというのはその通りだと思う 歴史板の多くもハン板も過疎だったからなあ
そりゃ占領もされるわ 俺はもう5年以上このスレにいるが
元々ハン板住人で、琉球に関心を持ったのは結構最近だからなあ
李朝や朝鮮全般との比較ネタはたまにはあるけど豊富ではないので
普段のスレ進行は見ての通りになる 時々湧く明らかに差別意識と偏見を持って沖縄を貶してる奴みてどう思う? 沖縄史研究者の上里という人はこのスレでは評判悪いんだけれども、それは資料の読み間違えや理解がおかしいんじゃないの、
でも平然と自説を開陳してるねっていう、あくまでも学問上の上からの話
仮に本人が人当たりのいい人格者でも、まあ同じ反応になるだろう
で、この上里さんは、琉球すごい!世界に輝く海洋国家!支配されてるのではなくこっちが日本人でいてやるんだ、というような
沖縄ナショナリズムを表明してるところがあって、師匠の高良(元)副知事も反天皇制を公言してたりして、まあそういうとこは
スレ的にも揶揄されがちかも
それでその沖縄ナショナリズムは沖縄独立を煽ってる左翼活動家と通ずるかというと、左翼活動家からは実に評判が悪い
琉球すごいの延長で、かつての琉球王国は独自の軍事力を持って薩摩にも無抵抗ではやられなかったと主張しているがために、
琉球が理想の非武装平和国家でないと困る左翼の皆さんには総スカン 成程、いかにもなバイアスがかかってますねぇ
ここの方達 >>62
荒らしは放置が2ちゃんの基本だったはずなんだけど
もはや忘れられているのかな
>>63
アホなこと言っていたら誰でも叩くよ。
大先生がどうしようもなくスロッピーなのはブログ主が散々指摘してきたこと。
史料の読解はおかしいし、細部の整合性もとれないし、物事の本質を捉えるのも苦手で、
まあ何というか、地頭力が低いんだよね。見ていてかわいそうになるくらい 荒らしは放置というか、荒らしの団体が大挙して乗り込んできてんだから
無理筋 その大先生とやら個人に粘着して「統合性が無い」「地頭力が低い」って...可哀想なのはお前らやろ😅
こんなネットの片隅で陰口叩いててさぁ...恥ずかしくないの? そういや首里城正殿の前の通路敷が斜めになってるのは何か説明あったっけ?
武家屋敷だと門と玄関が直線にならないのは基本だけど、それだけのこと? 大先生がやらかした個別の事例について知りたければブログ主の旧ブログをInternet Archiveで漁ればよいし
頭が混乱していない人が琉球について書いているのを読みたければ渡辺美季の論文をすすめる
まあどっちでもなさそうだがな 「奄美・琉球」がウィキペディアに立項されてるんだが、>>16の水谷論文でも少し言及がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E3%83%BB%E7%90%89%E7%90%83
筆者が鹿児島県職員として奄美諸島の世界自然遺産登
録作業を担当していた当時(2005年),奄美大島の一首
長から世界自然遺産候補地の「琉球諸島」の名称に対す
る意見を受けた.第二次世界大戦終結時に奄美諸島と
吐喇列島の武装解除のために,「北部琉球」の兵器の受
領命令を受け徳之島に来た米軍司令官に対し,日本側の
司令官は,奄美諸島は「北部琉球」ではないとして「奄
美群島並びにトカラ列島」と命令を修正させてそれに応
じた(高田1956).その経緯も踏まえ,「琉球諸島」に奄
美群島を含めることは適当でないとの主張であった. パヨキチ「リベラルです」
バカウヨ「ふつうの日本人です」
こいつら同じやん。ベクトルの向きが逆なだけ
どっちもどっちでキチガイバカであることには変わりが無い >>71
皆自分はまともだと思ってる
>どっちもどっちでキチガイバカであることには変わりが無い
こんなこと言ってるお前も自分のことを
そう考えてるんだろうな嗤 >>73
嗤 とかわざわざ使うあたりが自分だけ特別でいたい的な厨二感 「奄美・琉球」という並びには違和感がある。
人文系ならまだしも、世界自然遺産のように自然科学系の文脈だとことさら変だ。
>>70にあるように、奄美側が「琉球」と呼ばれるのを拒否しているのだと思われるが
もう少し裏付けがほしい。水谷のエピソードは2005年だが、
環境庁(省)の環境白書を見ると1995年には「奄美・琉球諸島」が出現する。
https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h07/9649.html
https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h06/8727.html
この呼称の成り立ちはネットではたどれないかもしれない。 要するに歴史上の奄美島=現在の奄美大島とする根拠が薄いってことだよね。
新井白石あたりから主張された比較的新しい説だから https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Mori-Motonari.jpg
日本刀の柄の拵の鮫皮は、桃山時代までは実戦的で防水効果のある黒漆を塗った黒鮫
大坂の陣以降、江戸時代全般から現代までは見栄え優先で防水加工しない素のままの鮫皮で白鮫と呼ばれる
それ以外に金箔押しや金彩漆を施した金鮫というのが桃山時代まであって、大名級だと黄金板を鮫皮状に加工していたという
この毛利元就の有名な肖像画も、腰刀の柄は金板の金鮫と見られている(現存はしていない)
https://pbs.twimg.com/media/DhkTtmVUEAA-rbR.jpg
ということで琉球独特と説明されがちな北谷菜切の拵の、金無垢を鮫皮状に加工した柄も、本土の流行にのっとったものに
過ぎないようだ
可能性としてはやっぱり拵も本土製ということもありうるか 拵えを作る力はないとみるべきだろう。
何といっても主力武器は棍棒なんだからwww
ただ(ソースはみたことないが)拵えを琉球でつけて
中国に輸出してたみたいな話も聞いたことはあるが
本当なのかな? 差別する事しか能の無い害児共にそんな知能あるわけないだろ!いい加減にしろ! 差別意識で固められた脳みそで歴史を語るなんて無理だって、はっきり分かんだね 夏子陽は琉球人はバカで腰抜けばかりと
断言してて差別意識全開だが、
どんな平等クンよりも
琉球史の解明に貢献してるな。
つまりは琉球人はバカで腰抜けばかりという
事実をwww
で、平等クンは使琉球録はちゃんと読んでるのかな?
あ、ゴメンゴメン、漢文読めないかwww 五十嵐氏の以下の指摘は当たり前すぎて見過ごしがちだけど、言葉にしておくのは大事かもしれない。
https://researchmap.jp/mu90vd43k-1856949/#_1856949
本稿の「琉球列島」とは、奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島を指す。この地域は、琉球王国
(1429-1879)がその歴史上最も広範な領域を有した時代(1522-1609)の支配領域と一致する。琉球祖語
に遡る諸言語、すなわち琉球語が用いられる地域が、琉球王国の支配領域と一致する事実はしばしば、琉
球王国がこの地域を政治的に統一した時期と、琉語語が同地域へ拡散した時期が一致するとの誤解を招
いてきたように思われる。琉球語と畿内の言語とが分岐した年代は7世紀以前であると推定されるが(服
部 1979)、琉球祖語の話者が琉球列島への移住を開始した年代は、それよりはるかあとの、グスク時代の
開始時期(10〜11世紀)であると推定される(Pellard 2015)。グスク文化を特徴づける長崎県産の石鍋は
11世紀から琉球列島へ流通し始め、徳之島産のカムィ焼きは11世紀から12世紀にかけて奄美群島から八
重山諸島にいたる琉球列島全域に広まったという(安里 2002 )。琉球語話者が奄美大島・喜界島から与那
国島に至る琉球列島全域への拡散を完了した時代も12世紀と見てよいだろう。したがって「琉球語圏」
の成立は、琉球王国の成立より200年以上早く、琉球王国による八重山諸島の征服より300年以上早い。 >>83
それってつまり差別しかしないここの池沼おじさん達は能無しってこと?
まさか自分から認めるとは思わんかったわ...流石に無駄に長く生きてるだけあるね ウン、まあお前がそう思うんならそうなんじゃないか?
中山世譜や琉球国由来記や明史や朝鮮王朝実録をもとに
ソース付きで琉球人をバカにしている俺たちと、
何一つ根拠を出せない負け犬リベラル君
www
アイゴー差別ニダーwww >>84
12世紀から与那覇勢頭の入貢(1390年)まで200年だが
1390年の時点で全く通じなかったという。
200年でそこまで訛るかな?微妙じゃない?
少なくとも100年前の日本語は
現代でも問題なく通じる。
逆に1000年前の平安時代の言葉は
現代だと全然通じないだろう。
発音が全然違うから。 ああ、例のブログ更新してたのか。
そういや崔茂宣の火砲ってどういうのだったんだろうね?
宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』の受け売りだと、朝鮮に明朝から弾丸式の火砲が導入されたのは16世紀半ばだそうで、
倭寇船団を壊滅させた崔茂宣の火砲は、『高麗史』の描写だと撃破撃沈じゃなくて炎上させたみたいだし。 非常に鋭い指摘だ。確かにその通りだ。
火桶(実際には火へん)については、
韓国のwikiによると
朝鮮における火器の総称と解釈されているらしい。
ただしこれは碗口と火桶が区別されている事実とは
あまり合致しない。
あなたの指摘するところを考えると、
火矢だったと考えるのが良いと思う。
矢みたいなのに、火薬がくくりつけられていて
火を撒き散らしながら飛んでいく。
これじゃないと敵は燃えない。
少なくとも火桶には火矢も含まれていたと
考えるべきだ。
16世紀になると紀校新書に
火桶というのが出てくるが、
これは桶の中に火薬をつめて
点火した石炭をいれた陶器をくくりつけたもので
船の上で使う。
こちらの甲板が高いのが前提で
敵の船に投げ落として使うもので
朝鮮のものとは明らかに違う。
放射するものではないからね。
漢字も違うし。 >>86
あっ、やっぱり自分が低脳だって自覚はあるんだな
ソースつってもよぉ...それ自分の見たいもの見てるだけじゃね?かつその中から差別的なものだけ抜き出して、自分から「差別してる」って認めるとかさぁ...道徳観とか倫理観とか諸々終わってないかアンタ なあ、お前だけこのスレで浮いてる事に気付かないか?バカ過ぎてwww
このスレで唯一重視されるのは史実。根拠。
倫理とか道徳が好きなら小学校に行けwww
お前の哀れな知能にはその程度がお似合いww >>87
言語の変化の速さがどういう社会条件で決まるかはあまりわかっていない。
変化が少ない方で有名な例だど、アイスランド人は1000年前の古代ノルド語のテキストを難なく読めるという。
古代ノルド語の複雑な屈折体系をよく保存しているから。
ただし母音の体系は変化しているので、しゃべっているのを理解するには多少の慣れが必要かもしれない。
たぶん話者が多いほど変化が全体に広がりにくくて変化が遅いのだと思う。
ただし単純な話者の総数ではなく、通婚圏といった社会の流動性が効いてくる。
沖縄みたいに結婚まで集落内で閉じていると、わりとすぐに変化するんじゃないかな。 なるほど。
沖縄はこの人の言うとおり戦後しばらくまで
集落内で生活が閉じていた。今、60代くらいの人は
部落ごとの顔つきや方言を判別することができる。
部落ごとも非常に仲が悪かった。
沖縄人は基本的に心が狭いからというのが一つ。
もう一つは部落毎に重税が課せられるので
他部落のやつと結婚すると
人手が減るので不利になるのが一つ。
これは決して最近の傾向ではなく、
金志川豊見親のあやぐにも、
平良の近くを通った金志川豊見親が、
俺たちの部落の女を奪ったとして
平良の若者たちに待ち伏せされて
攻撃を受ける情景が描写されている。 その戦闘経過の個所は高麗史でも羅世伝にあるんだよね
倭寇延安府. 世與金海君金?以戰艦五十餘 往?之. 又與??倭于龍岡縣木串浦獲二 盡殺之.
又與コ符崔茂宣等領戰艦百 追捕倭賊. 時賊五百 入鎭浦口維舶分兵守之登岸散入州郡恣行焚掠.
屍蔽山野轉穀于其舶米 地厚尺. 世等至鎭浦用茂宣所製火 焚其船.
烟?漲天賊守船者燒死殆盡赴海死者亦衆.
https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%8F%B2/%E5%8D%B7%E4%B8%80%E7%99%BE%E5%8D%81%E5%9B%9B
高麗史の全文も中文版ウィキソースにあるとは、連中の力の入れようは馬鹿にできん 宋代から明初にかけての火器は
突火槍といういわゆる手銃の類と、
火矢という上記の殺人ロケット花火に
大別される。
朝鮮が新発明した可能性は無きに等しいので
火桶は上記の二種のいずれかになる。
そのうち放火できるのは火矢だけだ。 朝鮮遣唐使は、江戸幕府の朝鮮出兵を恐れ、朝貢使として派遣していました。
金仁謙の著書『日東壮遊歌』より抜粋
●1764年1月22日 大阪
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、
銅の屋根で、黄金の内装である。 この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」
と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。
●1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。 「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。 チャンコロはマジで凄い。
中山世譜も使琉球録もどっちも
全文挙げてるからな。
ハナクソみたいな妄想論文ばかり公開して
悦にいってる我が国のバカ学者より
役に立つわ。
うちらのはまともに就職もできないクズのくせに
エリート気取りで納税者を見下してるからな。
ちゃんと就職してる時点で
掃除のオバチャンの方があれらより
ウムクトゥがあるわwww 根本的に社会不適合を正当化して憚らない連中が
現実の人間社会について
まともな研究ができると考えること自体
頭がおかしいと思うね。
知り合いの弟が史学科卒で
学生時代は喜界島掘ったりしてたが
今はニートしてるらしい
家族からしたらたまらんよ。 火矢はプリミティブな火器だが
日本からの鳥銃によって
銅手銃=火槍が陳腐化しつつあった
16世紀でも価値を認められている。
戚継光の練兵実記では、
鳥銃、大砲に火矢が併記されている 沖縄タイムス[読書]沖縄考古学会編「南島考古入門」 奄美含め琉球全体を概観
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/279869
来年創立50周年を迎える沖縄考古学会が、普及書を目指して編集した本書は、
現時点での沖縄での考古学調査・研究の成果のすべてが盛り込まれており、
文字通りこの1冊で沖縄考古学の全貌を知ることができる内容である。 当初思っていたのとは違う方向で議論が進んだけど、もともと>>84で五十嵐論文を引いたのは
「琉球」という言葉に問題が多いと言いたかったからだった。
琉球といえば第一には琉球王国のことで、首里周辺の狭い範囲にしかあてはまらない話が多い。
一方の琉球列島は、陸地の面積はともかくとして、とにかく細長い。
奄美、沖縄、宮古、八重山という大きなくくりの間でも言葉も通じないくらい違うし、
それぞれの内部の多様性も無視できない。
言語研究の場合ははっきりしていて、他の文化研究についてもある程度はそうなんだけど、
琉球という一枚岩のエンティティは現実世界には存在しない。
実体を持つのは名瀬だとか与那国島祖納といった小さな単位。
琉球列島全体を対象とするということは、そうした小さな単位同士を比較するということだし、
その結果得られるのは、琉球祖語という琉球王国以前の時代のエンティティだ。
一つの言葉がまったく違う2つの意味を持っていると不便なので、別の名前をつけてみる。
小琉球・大琉球というと台湾・沖縄を指すから、代わりにL琉球、G琉球ということにする。
漠然と琉球について語る人を見たら、それはL琉球のことか、G琉球のことかと問いただすと良い。
L琉球のことを語りながら、それがあたかもG琉球のことように見せかける
悪質な言説があることに気付くと思う。 >>106
>琉球といえば第一には琉球王国のことで、首里周辺の狭い範囲にしかあてはまらない話が多い。
それを言うときには「沖縄」を使えばいいだけであって八重山諸島宮古諸島を含まない沖縄諸島を「琉球」と呼ぶのは違うとおもうぞ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています