【植民地支配を受けたことのない国】圧倒的な強国の襲来を退けた日本、「神風か、ただの運か」=中国★4 [6/13] [昆虫図鑑★]
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日本はアジアでも数少ない「植民地支配を受けたことのない国」だが、その歴史を紐解けば、何度か危機が存在した。たとえば、鎌倉時代には2度にわたって元(モンゴル)の襲来を受けている。もし元の打ち払いに失敗していたなら、今の日本はなかったかもしれない。中国メディアの快資訊は7日、圧倒的な強国だったモンゴル帝国が、日本を征服できなかったのはなぜかと問いかける記事を掲載した。
蒙古襲来の失敗は、日本では一般的に「神風に助けられた」と言われているが、記事はこれを否定し、「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張した。元軍は、準備を万全にして大軍で攻めたので、2度とも成功しておかしくなかったと記事は伝えている。
1度目の文永の役では、総勢3万2000人の兵を率いて壱岐を難なく攻略し、博多湾へ上陸するところまでは「元のシナリオどおり」だったと主張した。戦争に熟練していて火薬兵器もあり、戦闘力・士気ともに日本より高かった元が破れるはずはなかったが、暴風雨に遭いやむなく撤退したと伝えた。
2度目の弘安の役では、雪辱を晴らすべく元はじっくり戦略を練って臨んだという。記事は、「九州には大型台風が多い」ことを学んだ元は、弘安の役では台風の時期を避けて攻めたと紹介した。しかし、日本に到着するまで思いがけず時間がかかり、やはり暴風雨に襲われて成功しなかったと伝えた。
日本人が暴風雨を「神風」とありがたがったのも無理はないが、記事はやはり「神風などというものは子虚烏有(しきょうゆう)だ」と主張した。「子虚」は事実とは異なること、「烏有」は何も存在しないという意味で、でたらめという意味になる。実際、文永の役では台風が直接の撤退理由ではないとの説もあるが、弘安の役では確かに台風で大損害を被っている。記事は「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張しているが、その気象条件をもたらした「運」まで含めて、日本人は「神風」と呼んでいるのではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
http://news.searchina.net/id/1699867?page=1
★1 2021/06/12(土) 11:44:56.76
前スレ
【植民地支配を受けたことのない国】圧倒的な強国の襲来を退けた日本、「神風か、ただの運か」=中国★3 [6/12] [首都圏の虎★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1623502866/ 親書を読むことなく使者を切り捨てた土人
それがジャップ ベトナムから撤退したのと同じ理由だよ
支配できないものは占領できない 1週間で核兵器2発食らってるからなあ
あとタイも植民地経験のない独立王国 日本と韓国だけが大国支配を受けていない
だからこの二国が組めば中国も手が出せないはずだ 鎌倉武士は強いだろ
やあやあ我こそはがまずかっただけ >>10
日本はチョンの元飼い主
アメリカは今のチョンの飼い主
もうすくわアメリカはチョンを捨てるけど
元祖飼い主の中国に拾ったもらわなくていいの?
下等生物は飼い主が居ないと生きていけないぞ チンギスハンが大東征を開始した理由は、隣接するイスラム国家に友好目的の使者を送ったところ
それが惨殺されたのがきっかけ。日本はよく元寇を撃退出来たわw こんなもの書いたって
武漢コロナは消えない
ごまかせない 今じゃ中国どころから韓国にまで実効支配されてる国が日本 結局日本は海や風などの自然の力で独立国を守ってきました。自国の努力などではありません。
韓国は大陸にいながら独立国単一民族を守ってきました。
これはいかに韓国の国力が高かったかを物語っています。 >>16
そもそも元や清は異民族王朝
清なんてシナ人の男全員に弁髪を強制してたんだぜw >>6
タイはクメールの支配下から独立した国じゃない? 13世紀くらいに ついでに言うと今日の国家で世界最古ね
加えて天皇は世界トップの称号 >>11
鎌倉武士「やあやあ我こそは」
元軍「アホがおるwやったれw」
↓
鎌倉武士「あ、そういう連中なんだ、じゃあ下手な気遣いはいらんな」
↓
バーサーカーに >>2
切ったのは文永の役以降、それまでは帰してる
戦争が始まったらスパイを処罰するのは至極当然 >>1
日本人は小柄だし舐めていた外道達だったが
余りにも優れた知能の持ち主に恐れをなして逃げ帰った外道達 ボコボコにされて撤退しようとしてるところに台風が来ただけ
撃退に台風は一切関係無い 実力が無ければ運なんて起こらずにあっという間に負けてるよ >>10
超汚染は、2000年以上中国の属国だ
ボケ >>2
国書を読まなかったってのはデマ(おそらくなんJの捏造打線コピペ由来)
文永の役までの国書がちゃんと京都でまで読まれてるのはもちろん
使者が切られた文永の役後だって国書の内容は確認してる
なお過去スレでも使者を打ち首にしなければ戦争はなかったとかデマ飛ばしてる人いたけど
使者切ったのは文永の役後だから元の侵略の方が先な >>2
モンゴルの使いっぱしりだった朝鮮と大朝鮮。 運+実力でしょ。
元寇も、武士たちが必死に戦って
上陸阻止してたからこそ、神風(台風)まで
船上に押し留める事に成功したのだし。 いやいや、現在進行形で米国・米軍の植民地ですが?
日本国内に米軍基地(カリフォルニア州)いくつあるか知ってる? ミジメな歴史しか無い チョンw
■結婚を禁止してまで処女の朝鮮女を宗主国に貢いだ朝鮮の歴史 ■
※黄文雄著・韓国は日本人がつくった(徳間書店)(P40〜44)
特に元の時代、モンゴル人の百数十年にわたる長期支配化では、
貢女・女(むすめ)の供出の催促が厳しかった。…
朝鮮女性における早婚の習俗は、このようなモンゴル人支配のもとで生まれた
ものだとも分析されている。…
この「貢女」の歴史は、中国の歴史書だけではなく『韓国通史』(学生社刊)
などの韓国人学者による「通史」にも散見できる。…
元時代、モンゴル人統監下での貢女献上は、高麗朝の貴族社会にとっては苦痛な ほどであった。
なにしろ「処女」を献上しなければならないのだ。…
これが慣例となってしまった朝鮮では、元が抱える南宋の降人部隊「蛮子軍」
(南宋漢人部隊)に女を献上したことから、明や清へと朝鮮の貢女献上の悲喜劇が続いた。
その記録は「高麗史」「稼亭集」や墓誌に多く残っている… 暴風雨なんだから全員上陸すればいいだけの話。
それができないんだから運だけじゃないわな。 >>33
植民地の意味を理解すら出来てない下等生物がいるなw 大軍で来たものの、船を近づけて上陸できる部分が少なく(鎌倉武士が壊したりもした)
船上で長期になり疫病が流行って、撤退したとか。 元寇が不発に終わったのは
朝鮮と組んだからに決まってるだろ 農機具と工夫も大量に連れてきてたんだから死ぬ気で上陸して来いよな 日本侵攻の軍と予算をベトナム侵攻に回していたら・・・
日本はベトナムの恩人でもあるな >>11
今はやあやあわれこそは〜と、それに一騎討ちも本当にあったのか疑問なんだよね ■「在日朝鮮人は白丁、差別されて当然だ」と韓国政府の高官が発言■
★韓国では、在日朝鮮人の多くが、韓国の被差別地域の出身者だと認識されている
★韓国では全羅道(光州)や済州島出身者に対する差別が激しくい
韓国のネットには今も「在日には愛国心がない」「軍隊に行かないゴミども」「在日は朝鮮戦争やベトナムで血を一滴も流さなかった」
という書き込みが散見される。
もうひとつ、根深い問題がある。評論家の室谷克実氏が語る。
「韓国では全羅道や済州島出身者に対する差別が激しく、『在日の多くがこれら被差別地域の出身者』という認識があるのです。
★⇒かつて、全斗煥大統領の秘書官は、私に『全羅道、済州島出身の在日は差別されて当然だ』と話していました。
これが彼らの本音なのです」
この先、韓国社会のフラストレーションの捌け口として在日への風当たりがますます強まるのではないか。
※SAPIO 2016年11月号 属国である朝鮮の口車に乗ったのが運の尽き。
元と戦わずして属国になり、元寇の先兵として軍船を作り
参戦したが壊滅。 >>40
元とベトナムの戦端が開いたのは2回目の元寇が終わって3回目の元寇の準備中で、
日本侵攻の軍と予算をベトナム侵攻に回したのが3回目は中止になった理由のひとつ
他にも要因はあったみたいだけどそういう意味ではどっちかというと
日本の方がベトナム侵攻で得をした方 >>43
高麗は元に従属する前に戦ってるから戦わず従属したわけじゃないよ
まあ元寇に積極的に協力し忠烈王は戦ってないし王どころか王子時代からフビライに従順だけど 単純に戦闘力が勝っていた。
文永の役の3万2千程度の兵力では水城も抜けない。
博多に上陸したところで殲滅される危険が増しただけだろう。
で実際に退却したわけだし。
弘安の役は元軍も反省して編成してきたようだが、
仮に上陸に成功していたところで九州軍と一進一退で兵力を擦り減らしているうちに本体到着で全滅だっただろうね。 じっくり戦略を練って臨んだというけどそもそもの戦力が足りない
攻める方が守るより難しくしかも渡海してとなればもっと攻める方が困難なのに
江南軍含めても14万人じゃ足りないよ >>4
旧日本陸軍の残党の精神が生き残ってる。何で、金正恩が列車で行けたと思う? >>47
当時としては史上最大の海軍派兵だろ
まぁ米軍が沖縄落とすのに投入した兵力は、艦隊2000隻、総員55万人の、それこそ史上最大の海軍派兵だったけどなw 世界最強のモンゴル軍でもセウォル号に乗ったらオワリ >2度目の弘安の役では、雪辱を晴らすべく元はじっくり戦略を練って臨んだという。
戦略を練るには相手の正確な情報が必要
日本は文永の役前の4回の使者は九州に居させて(切り捨ててない)
文永の役後、弘安の役の前の2回の使者は切ってるから
元は使者に調査させたとはいえ九州だけで、
おそらく日本の正確な国土面積や人口を知らなかった
日本を落とすにはとても足りない戦力で攻めてきたのも戦略不足
戦略を練るためもそもそもの情報不足 >>49
当時として最大であろうと不足は不足でしょ。
どう考えても統一された日本を攻める戦力としては不足している。
磐井の乱みたいに日本国内に協力者がいれば違う結果になったかもしれないけどね。 >>42
そもそも在日が反日になるって意味不明なんだよな
日系人が現地の国を恨んで生活してるようなもんだし
現地の国からしたら不満があるならさっさと祖国に帰れとしか言えないわ >>52
まあそうなんだけど日本を落とすのに足りるかどうかでいうと不足
>>52
元の得意だからね裏切者や不満分子の調略
高麗もそれで元について高麗人がいて元寇の頃には
元に仕官した高麗人や、将軍にまでなってる人もいた
元寇の時の洪茶丘がそれ
使者を自由にさせなかったのはそれを防ぐためもあったのかも >>11
名乗るのは味方に対して手柄上げたのは俺だぞとアピールするため
敵に対して名乗る訳ではない
そもそも源平合戦時代から集団vs集団の戦闘が主であり本当に一騎打ちしようとしたのかはかなり疑問 >>53
全ては「恨」の為せる業w
日本人みたいに賞賛されたい、でも自分は朝鮮人
理想と現実の乖離が「恨」を産むw おい、日清戦争に負けたのは雨風だけのただの運か、くそ中国人 >>13
日本は友好の使者を惨殺したわけじゃないけどね
文永の役までの使者が友好かどうかはともかくその使者は生きて帰してた
けど結局文永の役が起きてるわけだから、日本に関しては
使者を殺す前から元は遠征してきてる
文永の役後の使者は斬ったけどもう一度侵略した以上友好とは言えないだろうし >>44
どっちが後か先かの話だが
どっちにしろベトナム進攻だけならベトナムは落ちてた
ハノイまで占領されてたのだから
モンゴル帝国は初期だけはたしかに史上最強に強かった。
しかし、途中で弱体化しているのだ。
けっして日本だけでなく、モンゴル帝国はやがては
インドで敗れ、ベトナムでも敗退、ジャワ島でさえも敗退した。
蒙古軍は騎馬戦メインなのに馬もほとんど積めず、更に海すら見たこともない兵が大半で
船や海に恐怖心があり船酔い等も重なり戦闘意欲は半減、歩兵で連れてった朝鮮人は元々弱いので
役に立たなかった、
また蒙古軍はノウハウがないので朝鮮人に船を作らせたんだが朝鮮人の造船技術は沿岸漁業に使える程度の
船しか作れなかったため小規模の台風程度であっという間に壊れて沈んだということだ。 千人計画の罠にハマっていた学府や会議はどこの誰?w 戦前の方がよっぽど欧米の植民地だったからな。
無理矢理に開国させられ、不平等条約にずっと苦しんでたし、
日清戦争に勝っても三国干渉を受けるし、
大国ロシアにつけ狙われもう一歩で死ぬとこだったし、
欧米ユダヤに借金まみれにされて軍事費でヒイヒイ言いながら番犬させられてたし、
人種差別は良くないと言うとアメリカイギリスに目をつけられ、資源食料を止められて移民も排斥されて飢え死にさせられそうだった
比較的、公平な競争が許されて経済大国になった今の方がずっといい。
先祖が正義を貫いて闘ってくれて良かった。
日本人が大国の不当な人種差別や奴隷支配と闘わなければ、全アジアがいまだに貧しく遅れた地域で白人の奴隷だった。
この闘いをリードした誇り高い日本には中国人朝鮮人みたいな事大主義者の嘘や泣きごとは要らん 九州の武士達だけで食い止めて撃退してる事実こそ、重要であり真実
主力の部隊が到着するまでに2回とも撤退とかさ。。。元さん、もっと頑張ろうよw >>40
昭和帝が戦後ベトナム訪日団に晩餐の席で「いやー、あの時は助かりましたー!」と謝意を示されたのは有名な話
モンゴル帝国は初期だけはたしかに史上最強に強かった。
しかし、途中で弱体化しているのだ。
けっして日本だけでなく、モンゴル帝国はやがては
インドで敗れ、ベトナムでも敗退、ジャワ島でさえも敗退した。
どうしてかと一考してみる。
やっぱり、欧州へ攻め入ったときに、
欧州からのウイルス攻撃でモンゴルの帝王まで死に、
欧州もその逆効果の黒死病で欧州の人口自体も半減、
この戦いで弱体化してしまったのだろう。
モンゴル帝国は初期だけはたしかに史上最強に強かった。
しかし、途中で弱体化しているのだ。
けっして日本だけでなく、モンゴル帝国はやがては
インドで敗れ、ベトナムでも敗退、ジャワ島でさえも敗退した。
どうしてかと一考してみる。
やっぱり、欧州へ攻め入ったときに、
欧州からのウイルス攻撃でモンゴルの帝王まで死に、
欧州もその逆効果の黒死病で欧州の人口自体も半減、
この戦いで弱体化してしまったのだろう。
黒死病が原因で、欧州の科学が発展して
産業革命に至る。モンゴル帝国なんかに
攻め入られたら、どこも大変だな。
>>60
だってインドとかって、それなりに農耕してる最強の国だからな。
ベトナムは、小さくても肥沃だし、強固な王国もあって、馬が使いにくいジャングルもある。
伝染病とかマラリアだって怖いぞ。
ただ、地続きの対南宋では、百万人単位の兵力のぶつかり合いで、将軍や地域勢力の懐柔や投降を繰り返しながら、じわじわと時間をかけての侵攻には成功した。
対高麗も、60年かけて一応征服はできた。
しかしベトナムは、同様に隣接地の宋人のそれなりの大軍をぶつけたけど、侵攻失敗。
もしも、日本を攻めるなら、日本側の内乱時が狙い目。
鎌倉幕府の最盛期だった、時宗の時代だった事が日本側には有利な条件だった。
源平戦の最中に、平家側に元軍が加勢。
兄頼朝に追われて、東北に逃げた義経を
元軍が保護して鎌倉方に反撃。
奥州戦争の最中に、東北側から侵攻して、元軍が奥州藤原一族に加勢。
承久の乱の時、後鳥羽上皇側に元軍が加勢。
建武の新政の時、やはり元軍が後醍醐天皇を支持して加勢。
例えばこんな感じで、日本の国内事情を考慮しながらの政治戦が必須となる。
この場合、太平洋周りで海側から鎌倉を直接攻撃、鹿島灘から馬の機動力を使える関東平野に直接侵攻する方法もあるけど、距離が長すぎるし、防備は堅いだろう。
東北側から攻める場合は、とりあえず新潟辺りに上陸、広い越後平野に橋頭堡を確保して、殖民持久体制を作ることができるかもしれないが、
一帯の占拠と統治に手間取り、戦闘が長引いて一進一退の膠着状態となると、やはり「冬の豪雪」が神風となってしまいそう。 >>54
十数万では北九州制圧も厳しいだろうね。
福岡周辺を占領して水城を抜いて大宰府まで進出できたとしても、
佐賀、熊本、鹿児島あたりからくる増援部隊と戦わないといけないし、
そこで手間取っていると橋頭保たる博多周辺を唐津方面からの援軍に攻撃される。
で時間をかけてると長門方面から無傷の援軍が続々とやってくる。
正直、近代兵器や動力船がない時代に日本占領は造反者無しではどうにもならないと思う。
もし弘安の役で博多占領とかに成功してたら、
最終的には歴史上稀なほどの大虐殺になっていただろうね。
モンゴル帝国は初期だけはたしかに史上最強に強かった。
しかし、途中で弱体化しているのだ。
けっして日本だけでなく、モンゴル帝国はやがては
インドで敗れ、ベトナムでも敗退、ジャワ島でさえも敗退した。
どうしてかと一考してみる。
やっぱり、欧州へ攻め入ったときに、
欧州からのウイルス攻撃でモンゴルの帝王まで死に、
欧州もその逆効果の黒死病で欧州の人口自体も半減、
この戦いで弱体化してしまったのだろう。
黒死病が原因で、欧州の科学が発展して
産業革命に至る。モンゴル帝国なんかに
攻め入られたら、どこも大変だな。
モンゴルが来ることは知っていたよ。
モンゴル来襲に合わせて、
鎌倉幕府が出来て
終わると鎌倉幕府は消滅した。
まあ弱体化した後の
モンゴル帝国だったからよかったね。
>>66
フビライの馬鹿が朝鮮人なんかに唆されて二度も日本に攻め入って悪虐非道の限りを尽くしたからだw
結果、二度も全滅と言っていい大敗を喫して、元寇の復讐戦である倭寇の執拗なゲリラ攻撃で徐々に国力を削られて行き、元の権威も地に落ち弱体化して滅びた笑笑 3世紀(邪馬台国の時代)から7世紀(白村江敗戦)にかけて
九州北部(唐津から博多近辺)に中国軍が駐留して倭国に指示命令を出している >>42
朝鮮人の差別問題とこのスレに何の関係が…といいたいところだけれど、
白丁の起源にモンゴル起源説があったはず。
モンゴル軍の残党がモンゴル衰退後に差別されるようになって白丁になったというものだったはず。 >>68
ウイルス攻撃に対しては、日本は古代から度々中国大陸の南部由来のウイルスや細菌の逐次的侵入を受けていたので、
免疫耐性はそれなりにあった。
結核とか天然痘とかに対する耐性ね。
南米みたいに、全く別大陸からの侵入がなかった地域では、ウイルス侵入時に免疫がないから、あっという間に大量死して大変な惨事となってしまう。
モンゴル帝国は初期だけはたしかに史上最強に強かった。
しかし、途中で弱体化しているのだ。
けっして日本だけでなく、モンゴル帝国はやがては
インドで敗れ、ベトナムでも敗退、ジャワ島でさえも敗退した。
どうしてかと一考してみる。
やっぱり、欧州へ攻め入ったときに、
欧州からのウイルス攻撃でモンゴルの帝王まで死に、
欧州もその逆効果の黒死病で欧州の人口自体も半減、
この戦いで弱体化してしまったのだろう。
黒死病が原因で、欧州の科学が発展して
産業革命に至る。モンゴル帝国なんかに
攻め入られたら、どこも大変だな。
けっして、黒死病の研究が原因で欧州の科学が
発展したのでなくて、モンゴル帝国の恐怖から
欧州の科学が発展することになった。
モンゴルが来ることは知っていたよ。
モンゴル来襲に合わせて、
鎌倉幕府が出来て
終わると鎌倉幕府は消滅した。
まあ弱体化した後の
モンゴル帝国だったからよかったね。
なんだネトウヨまたホルホルか!😂wwwwwwwwwwww 最近、櫛田神社周辺で「袖の湊」らしき遺跡が出てきたらしいけど
都合悪かったから今まで隠してたのかもね >>68
そういう意味では元と正式な国交を結んだり史実以上に広く貿易しなかったことは正解だったんだろうな
一応鎌倉時代も日元貿易あったけど双方警戒しつつの限定的なもので
元の方は日本船の入港は許可しても日本人の上陸は禁止なんてこともしてたみたいだし 戦後から現代まで、ずっとアメリカの属国やってるアホジャップ!😂wwwwwwwwwwww >>76
正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。
魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)
//www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm >>69
「対高麗も、60年かけて」って最初の侵攻から全面降伏まで40年ちょっとだし、
初っ端から首都を陥落されてるし一方的なタコ殴り状態の結果だぞ。 クビライが、チョンの忠烈王の諫言を受け入れたのが運の尽きw
軍船を用意するので日本に侵攻するようにと言っているねw
結果、総動員数55万の第2次元寇が開始されたが、日本軍の防御態勢も
整っており、蒙古軍は日本の防塁を突破できずに停滞。疫病も流行り
久留米湾の鷹島で結集していたところに台風が直撃。
その後、鷹島における地上戦と海戦でも大敗北をきして壊滅。
疫病神たるチョンと組んだのが敗因だろう。
元寇の後、李氏朝鮮になっても「応永の外寇」で朝鮮軍は2万人を動員して
対馬を侵攻しようとしたが、対馬軍660人に大敗北。
朝鮮の英雄になっている世宗は、糞を漏らして遁走したとされるw
先に日本を侵略しようとしたのだから、秀吉の朝鮮出兵で負けるのは当然。 朝鮮人を兵に加えた時点で兵は弱兵化した。これが敗因だ。 臭いエラ張りグックを奴隷として連れてきてたでしょ
あれ疫病神だから 琉球王国は銀印もらってたらしいし
蝦夷地は勝手に樺太と交易してたらしいけども
まぁ 属国時代の倭の五王は全国に散らばってたし 要するに「悔しいです!」って事ねwww支那畜www >>83
でどう読んだら中国軍が駐留になるの?
張政が武官だから?まあ武官とその部下が来たわけだから魏軍であることは間違いないなw >>85
>総動員数55万の第2次元寇が開始されたが
水夫含めても14、5万では… 相変わらず「なせ日本はー」って下らない嫉妬研究やってるのか >>82
有史以来支那の属国で、戦後はアメリカ、支那、北の兄さんの属国の南朝鮮人、生きてるかーwww >>70
船団に壊滅をもたらす台風が来ないと仮定して、
輸送船団が残っているなら、釜山ー対馬ー博多経由で、次々とピストン輸送されてくる大陸兵と、
鎌倉方面から増強されてくる幕府軍の壮大な消耗戦となるだろうな。最終的には。
当時は、10代の前半でどんどん子供が生まれていたが、幕府側の兵士の再生産能力が試される事になる。
なお、元軍は大船団を作る為に、当時の朝鮮半島の木々を大量に切りまくっていたらしいので、
持続可能な船の補給など、出来るわけがない。
輸送船は本当に虎の子だ。
赤壁の戦いとかの例をみるまでもなく、船を喪失すれば、それを回復させる事はまず不可能。
何せ元軍は、アルマダ海戦のスペイン軍の10倍もの大兵力だぞ。 >>92
実際は55万人を動員しているね。当時としては世界最大の侵攻軍。 >蒙古襲来の失敗は、日本では一般的に「神風に助けられた」と言われているが、記事はこれを否定し、「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張した。
俺はずっと気象条件と運=神風だとおもってたんだが
なにか違ったのか >>1
未だに、こういう認識なんだな、負けたことから、何も学んでいないw
俺様最強、中華最高という認識で、他者を見下すのが基本だから仕方ないかw >>69
そういう意味では、日本人が半島民族の様に、国内の権力闘争に外国軍を引き込む愚かな民族じゃなくて、日本とアジアは本当に幸いだった。
もし江戸末期に大政奉還も江戸城無血開城もなく、幕府と薩長が互いに英国軍やロシア軍を巻き込んで国内で焦土作戦や権力抗争を繰り返していたら、今頃日本は荒廃して中国朝鮮の様に歴史的遺産も文化も何も残ってなかっただろう。
朝鮮同様の分断国家になって全アジアがいまだに貧しく遅れた地域で白人の奴隷だった可能性が高い。 マルコさんが黄金(硫黄)の国ジパングを攻め滅ぼせ!
なんてことをクビライに進言してたらしいよねー(笑) じゃぱんのぼくしゅりゅう
ぼくのとめるじしょにふかのうはない
というごうりしゅぎにぼくはほろびのびがく
ちずをよむくのはなのふじ まあ、運が良かっただけと思っていてくれた方が、後々楽だな。 >>99
wikiに第2次元寇の際の動員数が記されている。 マイナスノチカラ
れいしこうぶつちじょうはんのう
どうしょくぶつでんしれんどう 説明
富士の噴火の掲示板の変化
僕の芸術コンニュウからの変化
他の芸術も同じ ホモサピエンスの汚物である漢民族は
さっさと絶滅させられてろ >>98
数ヶ月粘ってれば、異常気象でもない限り、九州には毎年夏になると恒例の台風が来る事くらい、当時の人は知っていたでしょ。
そういう天の利も味方につけて戦うんだよ。
当時の人でも、風向きの変化とかで、台風が日本の南海上を通過するのか、東シナ海を北上して、玄界灘に入ってくるのか、
観望天気予報で、ある程度読める可能性もある。 >>91
白村江戦(古代)と日米戦(近代)
この二つの敗戦は日本のエポック
外国による占領・駐留・改革という結果は事実に沿って素直に受け入れるしかない
それでも日本人はめげずによくやってると思う
(開戦責任と戦没者の問題は別論として) >>16
植民地とは違うが中国内に日・仏・独の租借地があってそこでは裁判権が当該国だった
租界地も外国が好きな事を出来たという意味では国を奪われていたようなもんだな 「IOC」 縦にして見ると「五輪塔」に似てるよねー
塔は「”串”おでん」みたいに串刺しになっているけどねw 750年ほども前のことを今になって何を言ったところで覆らねえわ。
結果として島国の日本は独自の文化を形成したし、その歴史も語り継がれてきた。
他所の国の歴史を検証する暇があったら、支配者が変わる度に過去を斬捨てている
自国の歴史そのものの愚かさを学べと言いたいね。 >>11
まだそんな古い説を信じてるのかい、お爺ちゃんw レベルの低い分析だなぁw
日本の分析もかなり進んで昔の説とはかなり様変わりしてるんだけどね
4-50代のお爺さん達には分からないかもだけどw 逆に人口15億人でかつては紙幣や火薬を発明し世界文明をリードしてたのに
イギリスの植民地になって小日本に戦争で負けてつい最近やっと経済大国に
のし上がった中国は何なの? さてと 日本固有の文物である「三種の神器」を用意するとしよう。
槍、布、杯などにやられてたまるか。 海を渡って侵略支配する作戦はものすごい労力がいる
きちんと抵抗する勢力があればなおさら
現代でも難しいのに900年前にムリムリ >>10
朝鮮は長年シナの属国
一瞬大日本帝国に保護されていた
今でも乞食国家 >>1
佐世保の相神浦(相浦)氏や、松浦党が強かったから。 10万と言っても戦闘員は半分の5万くらいだろう。
半分は船を動かしたり食事の世話をしていたのでは?
台風以前に元軍は陸上に陣地を作れないほど苦戦している。 しかし朝鮮には日本は昔2回も攻め込んで
2回とも平壌の方まで行ってる
抵抗勢力がほとんどいなかったんだろうな >>109
ソースの元史確認したけどどうも「阿剌罕」という日本行省(日本征服のための省)右丞相が率いる予定だった人数っぽいね
阿剌罕は弘安の役直前に死亡していて、実際には阿剌罕は軍を率いてないから
その人数は実際に弘安の役に参戦した人数ではないと思われる
同じ元史で阿剌罕の名前がまだある記述でも別の所では
「日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本」とか書いてたりするから単純に誤字かも >>129は>>107へ
>>114
てか記事だと「、「九州には大型台風が多い」ことを学んだ元は、弘安の役では台風の時期を避けて攻めた」なのに
「2か月経って台風の時期になって上陸もできずとも未練がましく撤退せず台風にあった」という間滑なことになるね… >>114
しかしそこまで読んでいたとしても、天の運に見放されて負けてしまう事もあるんだよな。
「もし、本当に異常気象で台風が来なかったとしたら?」
例えば、諸葛亮の計略にまんまとハマった司馬懿が、火攻めを食らって袋の鼠となり、全員焼け死ぬ事が確実と思われた時、
途端に黒雲が沸き起こり、雷が鳴って大雨が降り出して、火を全て消してしまった。
司馬懿は、九死に一生を得た。
天は諸葛亮を見放した。
「負けに不思議の負けなし。
だが、勝ちに不思議の勝ちあり。」
この有難い野村克也さんの言葉は、
江戸時代の肥前国平戸藩 藩主・松浦静山の剣術書『剣談』の言葉が元ネタ。
彼が元寇時の松浦党の末裔に当たるのも、何とも奇妙な縁を感じます。 >単に気象条件と運が良かったことが勝因だ
それが神風というものだ >>98
神とか神意とかそういうものは単なる出鱈目だという事でしょ 日本が朝鮮半島に攻め込んだときは特に白村江の戦いの時代とか
もしかしたら抵抗勢力がいなかったというよりは
人口が少なかったのかもな
日本は温暖で米が取れるが半島は寒くてコーリャンなんかが主食
人口差で圧倒したのかも >>115
で白村江のあと唐の占領軍なんてきたっけ?
妄想史観もほどほどにしないと危険だよ。 >>134
白村江は日本負けてるよ
あと半島全体じゃなく、半島国家の百済と新羅に日本と唐がついての
日本&百済VS唐&新羅の戦いだった モンゴル軍が日本に攻め込んでも
支配は無理だったろうな日本は半島より豊かで
人口が多く専門の戦闘員もいた >>1
>日本では一般的に「神風に助けられた」と言われているが、
>記事はこれを否定し、「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」と主張した。
いや最初から、たまたま台風で運よく助かったことを「神風が吹いた」と言ってるんだが >>10
日本は強制占領したニダ!心からの謝罪と賠償を要求するニダ! >>114
日本軍が必死の抵抗で元軍本隊の上陸を阻止して、とうとう台風の時期まで陸上拠点を作らせなかったのが最大の勝因だな。
結果、元・高麗連合軍は日本軍の夜間の船上切り込みを恐れ主力軍船を密集させたため、暴風雨で衝突しあって沈み呆気なく壊滅した。 元は準備したといいつつ日本の方の準備は書いてないし
日本に到着するまで思いがけず時間がかかり台風にあったと
来てすぐ台風にあったと誤読するような描き方してるし
(遅れたのは江南軍、東路軍は来て戦って2か月後江南軍と合流するも台風)
なんか書き方がフェアじゃないね >>95
防腐剤もないから数年で腐るし、何もなくても壊れていくし、
そもそも将兵の補給能力にも疑問がある。
近代兵器なくして日本上陸戦は無謀なだけじゃなかな。
猛烈な殲滅戦が展開されるだけだったと思うよ。 >>139
たまたま台風、というか台風が吹いたのは真夏だから台風シーズンのその最中 まあ台風が来なければたまたまだが、
来るのはたまたまじゃないだろうな。 ヨーロッパ戦線に有効だったペストばらまきができなかったから
海が要塞だった >>1
戦国武将と北条氏の有能さは世界一。
カミカゼじゃねえよw武力の差だよ。そもそもモンゴルじゃ
ねえだろ、半島の新羅、百済の乞食半島人だろw
こいつらが日本侵略しようと来襲してきた事実。
歴史を教えられてないシナに真実を言えば、発狂するだけw
正視できない、それがシナチョソ人どもw 日本の武士団が強かったとも神風という日本の神がかり的な力のおかげとも認めたくないから
運が良かっただけということにしたいだけだろ
この記事書いたやつは >>90
要するに負け惜しみなんだよなw
我々は強かった。でも小日本に負けた。何故だだろう?きっと運が良かったからに違いない。絶対そうだ!日本はマグレで勝っただけで弱いんだ。我々は強かったが、運が悪くて負けただけだ!!!
記事を要約するとこんな感じだもんな >>2
(=゚ω゚=) ちょっとだけ野田首相に同情
(=゚ω゚=) やっぱやめた >>139
?
1度目は対馬や九州西部に上陸されるもこれを叩き出し、元軍は撤退中に大風(11月なので台風ではないと思われる)に遭って遭難。
2度目は上陸さえ許さず完勝。
これでなぜ「運良く助かった」になるんだ?
神風云々は戦功が無かった貴族や寺社が「祈祷で風を呼んだから恩賞よこせ」と言ったのが元だぞ。 >>134
いやそもそも、古代日本人(倭人)集団は、朝鮮半島の南部と北部九州という跨った地域を根拠地としていたんでないの?
神武東征も、東への民族移動拡大の歴史だな。
ちなみに、春秋戦国時代の呉越の争いの頃、長江デルタ周辺→韓半島南部・北部九州と移住してきていたのが、大陸系の倭人集団で、原始日本語を話していたとの説がある。
大陸にいた時に、隣地の民族集団の言語と相互接触をしていたので、朝鮮語と日本語には、とかく文法構造とか単語とかに多くの共通点があるとの話。
その後、北方系民族の南下に伴って、朝鮮半島の民族は、玉突きで南に押し出された。古代日本語の話者は、朝鮮半島を突き出されて日本列島に限定されるようになった。
自分達は熊から生まれたとする檀君神話は、北方系民族の神話だと思われる。 そもそもそんなに日本と朝鮮半島の距離って開いてないんだが
ちょっとの大風で侵攻不可能になるってどんだけ小舟だったんだよってなるわな
日本人からしたら想像するのは家屋くらいの結構大きめの船なんだが
現実は手漕ぎボートみたいな小舟だったんだろうな >>137
半島民同士のくだらない小競り合いに隣国の大国唐と日本が担ぎ出されて巻き込まれたんだよ。いい迷惑だ。
古代から巻き込み上手な半島民はトラブルメーカーだった。
まあお陰で負けた日本は唐の進んだ文明に学ぶきっかけになったからよしとするが、周辺国を必ず自分達の権力争いに巻き込んで悲惨な戦争を誘発する半島民族には要注意だ。 まあ陸つながりだったらモンゴルに蹂躙されて今頃吊り目エラ張りの半島みたいな民族になってるはず >>152
これが正解なんだよね。
所が今もなぜか日本を低く評価したい人たちがいて、
使者切り捨ての件を重大視したり、武士の戦闘力を低く評価したりして話をややこしくする。
当時の使者なんて死を覚悟していくものだろうに。 >>55
> 名乗るのは味方に対して手柄上げたのは俺だぞとアピールするため
> 敵に対して名乗る訳ではない
こんなデタラメ誰に聞いたんだwまさか自分で考えたんじゃないだろうなw
名乗るようなのは元々、それなりの地位にある武士で、味方なら当然知ってるような立場の奴なんだよ?
しかも手柄は首級で明らかだしw
手柄のアピールが目的なら首をとった後で名乗っても効果は同じだから先に名乗る意味がないだろうがw
ちょっと考えりゃわかるだろ
名乗るのは一騎打ちを仕掛ける為で
一騎打ちを仕掛けるのは自軍の士気を上げ、敵軍の士気を下げる為
敵も名乗り出れば討ち取って、両軍の士気を変動させる
敵が名乗り出なければ、それだけで両軍の士気が変動する
身分の低い奴や無名の奴が名乗っても黙殺されて当然なんだから何も起こらんわ >>156
その前に神功皇后あたりで朝鮮半島を占領してるかもよ。 植民地化の先兵である宣教師を一農民が理詰めで瞬殺する日本民族w
そらハゲるワwザビエル >>121
麻薬を世界で最初に外科手術に使った日本人と快楽に使った中国人との違いだね
昔の日本人は運勢も日頃の行いで良くなると信じるオカルト気質なところがあり
誰も見てなくてもお天道様が見てると真面目に生きる国民性だったから発展した
日本人から真面目さが無くなったら落ちぶれるのは自然の成り行き >>157
というか最近は使者切り捨ての件は、昔から批判はあったものの妙に変化してて、
前に立ってたスレの記事のように文永の役後だとわかっててその上で批判する人と、
文永の役前から使者切ってたと誤解してありもしないことを批判してる人と、二種類いるんだよね
流石に後者は学者でしてる人はいないとは思うけど
何の影響なのか元寇に関しては他にもネット上で作られた、史料にない話が急速に広まってしまってる >>135
十一月丁巳朔乙丑に(671年11月)、百濟鎭將劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。(中略)
唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人が船四十七隻に乗りて倶に比知嶋に泊りて(中略)合計2千人の唐兵や百済人が上陸した。(日本書紀天智十年の項)
あなたの根拠史料は?
なければそちらが妄想史観ということに 日本は白江村の戦いの後、中国に占領されたって話なかったっけ 台風の時期は日本人なら誰でも知ってるから奇跡でもなんでもないわな
そんな時期に船で攻めてくる相手が間抜けってだけで
ただその時期に攻めてくるように日本側が仕向けたって可能性はあるかもな
鎌倉幕府は日本史上でも屈指の戦闘国家でしかも滅亡の危機となれば
その程度の盤外戦術くらいは仕込んで置いたやろ >>150
いや、元は異民族王朝だから。
自分達は負けて支配されたけど、日本は撃退出来た。それが悔しいって事だよw >>161
華岡青洲が麻酔として使ったのは阿片じゃなくチョウセンアサガオやトリカブトだから
元々快楽に仕えるような代物じゃない(たまに同種の植物でトリップしようとして悲惨なことになる事件起きてるけど)
阿片のような快楽にも使えるものをどう使ったのかで分かれてるわけじゃないよ 朝鮮兵が1枚岩じゃなかったからだろ
モンゴル人より漢民族に味方した方が得と見たんだろう
それでわざわざ台風を選んで誘導したんだよ >>164
「上陸した」だけで「外国による占領・駐留・改革」まであったというのは流石に無理がないかなあ
元寇の前の趙良弼も高麗に軍を待機させてるし、戦後すぐの使者が殺されないように護衛だったかもしれないし >>55
いや、源平合戦の末期に義経が奇襲や兵士を疲労させたり、輸送を断つ合理的な合戦方法で従来の作法による人気投票的な風流な合戦をぶち壊した。
代表的なのが那須与一の腕前を称賛して舞を舞った翁を射殺させたり、それまではタブーとなっていた船の漕ぎ手を射殺させたことで、従来の士気を挫く戦いと併用しているところに恐ろしさがあり、味方をドン引きさせたことが後々悲劇となる。 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」 野村監督 対馬で島民が元(ほとんど朝鮮人)から受けた屈辱は忘れちゃダメ 船縁に人質を数珠繋ぎにしてら、ビビるだろっておもったら、そんなのお構いなしに猛攻撃受けたらしいね。 >>170
>>1の記事にもあるけど台風が吹いた弘安の役は
来た時には台風来てないし台風の季節でもないよ
2か月間武士と、高麗軍を含む東路軍が戦って台風の季節になった
わざわざ台風を選んで誘導したんだったら2か月後にくるはずだしそれは間違い
第一、高麗軍を率いる金将軍は文永の役で撤退に反対して進軍を主張したと高麗史の伝に記されるような人物
一兵士がどうしようと決定権を持ってる高麗軍の将軍がそんなこと許さなかっただろうし軍議でそんなこと言いそうにもない >>166
台風の時期くらい向こうも知ってるから、ちゃんと時期を避けてる。
一度目は台風シーズン後。
二度目は三ヶ月前。
上陸するも叩き出されて帰り道に大風食らったのが一度目。
上陸できずに三ヶ月も海上でウロウロしていて台風食らったのが二度目。
当初の戦略通り陸上に橋頭堡を築けていれば風でやられるなんて事は無かった。
それを防いだ鎌倉武士がとにかく強かった。これに尽きる。 >>58
そりゃそうだw
散々、博多を荒らしといて今さら友好とか寝ぼけんな
叩き斬れって感じだろ まぁ白江村の敗戦後占領されたというのはそうした方が考古学上辻褄が合うという想像でしかないけど、古代のどこかで韓国、中国系の人が流入してないとおかしいのは確実。 >>180
移民は古代から普通にちょくちょく出てくるし移民が全くなかったって言ってる人はいないんじゃないかな 古代に国家意識なんかないでしょ
食い物ありそうだからちょと行ってみようの感覚へ >>180
それと白村江はあくまで遠征の失敗であって、それで日本が占領や国政への介入を許すってのはそれはそれで辻褄が合わない
日本の地で戦って負けたわけじゃないからね >>180
考古学的にいえば、白村江の戦いの後に「中国から大和への侵攻ルートに対抗するための城」が建築されているので、それはない >>184
軍が駐留したり日本改革できるような権限があったらそういうのは邪魔するはずだよね
防人もあったし日本は唐が攻めてくる可能性を考えて防衛してたってことになる ま、新羅も阿呆ではないので、
白村江の戦いの後、渤海が朝鮮半島北部を占領して唐との国境線がなくなるまでは
日本に朝貢するなどしてバランスを取っていたという歴史学的な記録もある 662年白村江で敗戦したのは九州倭国でありその後カクムソウが進駐してきた 奈良の天智」は唐と内通
し倭国の領土領民財宝を公地公民と称し略奪を行った 弥生時代に国を奪われているだろ?
今の日本人の85%は大陸からの侵略者の子孫。
オリジナルは薩摩隼人と熊襲とアイヌだけ。
奪われて正解だったな。 >>190
それは「世界全ての国はエチオピアからの侵略者の子孫」といってるよーなもの(w >>190 二重瞼は九州と沖縄 のっぺり顔の吊り目の一重瞼が朝鮮半島人 >>183
>>184
白江村の戦い以降、唐からの使節団は10倍になってるみたいよ。これはもはや使節団ではなく駐留軍の派遣らしい。 >>171
あなたの感想だけだと妄想です
それを支える史料の提示が必要
使者だけの護衛に「二千人が船四十七隻に乗りて」メッセージを届けたら帰国してお終いですか^^;
唐はオメデタイ人たちの集まりみたいですね
GHQ(マッカーサー)もすぐ帰国しちゃいましたか
魏の時代一大率を伊都国に常駐させて倭諸国を検察し震え上がらせていますが(魏志倭人伝) >>193
遣唐使出してたから相互交流がすすんだとは考えられないの? >>193
根拠は?
貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(旧唐書倭国日本伝)とあるように
唐からは日本に「遠いから毎年来なくていーよ」とか言われているが >>195
趙良弼も百余名の従者を連れて高麗に軍を駐屯させて一年も留まってたように、
使者は長期間滞在しての交渉や調査もすることがあるからメッセージ届けて終わりじゃなかったかもしれないし、
少なくとも「占領・駐留・改革」までを読み取るのは上の引用文では足りないよ >>11
これ30年以上前に先生言ってたわ
学習指導要領にあったんかな >>194
アメリカからどのくらいの人間が植民されたのだね?
アメリカのポチなら喜んでその称号を受け入れるよ >>134
米の人口維持能力は高いからね。
ま、反収が違うせいだけど。
麦と比べておよそ3倍程度。
大平原が続く国なら麦でも挽回できるけどね。
山地が多く、冷涼で、降水量が少ないから水が足りない。
こんな国で米の品種改良が進んでいない三世紀の
人口維持能力はそれほど多くない。
半島南端だけ米がとれて、それなりにいるけど、倭人の土地だしな。
白村江の時代の日本が700万人だとしたら、
百済と新羅であわせて100〜150万じゃないかな。
いや、100万もいないか。
高句麗は満州部分があるから比較は難しいが。
南の、稲作にいいところは任那であり倭人がいたわけで。
まあ、圧倒的な差があったろうな。 まあ地理的要素が大きいだろね
近代になり清がアヘン戦争でやられたが
その教訓もあり
明治維新で強国化することが出来た
運もあったが先人の努力あってこそ乗り切れた 言葉が通じないのに名乗っても意味がないでしょ
少数での先駆けを勘違いしてると思うけど >>17
韓国人はエベンキ・ツングースの末裔ですが何か? 金づちの朝鮮人を先兵にした元の失策
セウォル号の悲劇 >>193
おぉ!それってまさにもう日本にいるから唐になんて行く必要ないよ!って言われてるってことじゃないですか! 元の船を作ったのが、半島人だったのがデカい
何もなくても沈む 犬猫を食べる、中国・韓国・北朝鮮=連帯
ジャップには永遠に勝てない >>17
一発書き逃げに言うのもなんだが、朝鮮人っていつ頃に半島に来たのよw 数は多いけど旧南宋、高麗、モンゴルの三国の混成軍でバラバラだったろ >>154
ちょっとの大風じゃなくて、台風だろうな。
強さはいろいろあるけどさ
上陸できずに長逗留してたら、台風のひとつや2つに出くわしてもおかしくない。 >>1
元寇を成功する前提で語ってるから
おかしいんじゃないの? >>17
国力が高かった国が20世紀まで王宮前の道すらウンコだらけだったとかあるはずがないだろ。
妄想はオナニーのときだけにしとけ。 こういうホルホル記事に喜ぶネトウヨにはウンザリする >>41
お手紙で前日の宴会と開戦の日時決めておいた時はやったっていうのが一般的じゃね 簡単なことだよ
日本が戦闘国家で滅茶苦茶強かったからだよ
幕末の薩英戦争だって
英国はたった一つの藩との戦いで大被害を受けたんだからな
イギリス艦隊の損害
大破1隻・中破2隻
死傷者は63人
(旗艦ユーライアラスの艦長や副長の戦死を含む死者13人
負傷者は50人後に7人死亡) >>194
朝鮮人は実に馬鹿だな
植民地の意味をわかってない
日本がアメリカを利用してるんだろ
アメリカの市場を利用して
アメリカの軍事力を利用している 暴風雨が来るまで元軍の進撃が止まってしまったのは何でですかね? >>128
歴史上、日本は朝鮮出兵と日中戦争の2回、敵国の首都落としてる
(南京戦後に遷都した武漢も含めていいなら3回か)
どっちもあっけなく落ちた >>215
世界各地がスペイン、ポルトガルに植民地化されてた頃、日本の軍事力が半端なく強かった。 >>215
各国便利な港をもう持ってたのと
港以外の利用価値があったから
一国支配狙うと欧州勢で戦争しなきゃならないから分割統治狙い
西日本と九州はだいたい決まってた所に
アメリカが来て全部よこせってやりだした
焦って革命誘って新政権と契約したら
何故か徳川のトップ挿げ替えるだけで粛清が無く
結局国政は徳川官僚がそのままスライド就任して欧州はハシゴ外された
徳川は最初も最後も狸の政権なんだよ >>219
ジャップと違いウリナラは歴史で絶対ホルホルできないから癇癪起きる!
までは読めた。 >>173
いつも思うのだが、この格言って負けるのはキチンとした原因が有るって意味だよな
その敗因って裏を返せば勝った側の勝因になるから、不思議の勝ちも無し、と言わないと矛盾しないか? >>143
戦略面でも戦術面でも、日本の順当勝ち
〔攻者3倍の法則〕〔上陸作戦5倍則〕のとおり、そもそも日本が圧倒的有利
◎ノルマンディー:入念な空撮、詳細な地図など徹底的に作戦を練って成功
●元寇:ろくな海図も地図もなく、GPSも無線も無く、季節も進軍路も予想でき
さらに、道案内に使えそうな松浦党を虐殺して怒らせる、の下策により
必要な戦力は5倍どころじゃない
【元が渡海作戦のみで勝てた相手】
A)・アイヌ(他民族を侵略)への防衛出動
新参のアイヌ(北方オホーツク系との交雑で、13世紀に新登場)が他先住民を駆逐して拡大
アイヌ(侵略者)に対し、元軍がソリ(犬・トナカイなど)・船で排除・懲罰を重ね、アイヌは服従
https://www.city.asahikawa.hokkaido.jp/hakubutukan/education/d061522_d/fil/tatakai.pdf
●> アイヌはサハリンに侵入するだけでなく、
●> 大陸に渡って村々を襲い、略奪をおこなって. 元軍の手を焼かせていました
B)・シンガサリ朝?(?勝ったのち追い出された、しかし戦利品は持ち帰った)
C)・三別抄 政治家の私兵団であり、「抗モンゴル派」を粛清して役目を終えると解体命令出され
失業対策で反乱
(A・B・Cどれも日本よりはるかに格下)
鎧武者が万単位でお出迎え、の軍事国家が待ち構えたところに上陸作戦なんて普通に無理 あの蒙古軍勢の10倍は日本占領のきっかけのきっかけに必要だろう。
上陸後10年以上は軍や物資を補給し、戦争継続する力が在っただろうか? >>190 アイヌ人は鎌倉時代初期に蒙古兵に追われ
大挙して北海道に渡来し、現地住民を殺害した。
その後何食わぬ顔をして日本国原住民に成り済ましている 江戸時代は天下泰平だったけど、拾った鉄砲から学習して大量生産して儲けてた話しは知らんのかな 人的要因、自然環境要因を活用して、日本が戦略的に勝利した、合理的説明終了
これを運と評さなければならない中共の追い詰められ様こそ、中共の現状を示してる >>10
>>17
文禄、慶長の役でも日本が和睦したのは、朝鮮じゃなく明だし。
既に朝鮮は明の属国だった。して丁卯胡乱、丙子の役で今度は清の冊封国に。
1895年下関条約で朝鮮は清の冊封国は解けたが、今度は1910年朝鮮は日本に併合された。
朝鮮は15年間のみ独立国だったね。 白村江のころと、元寇のころと、日本軍の武装も戦闘方法も軍規も180度変わったらしいな。
中国北宋欧陽脩の「日本刀歌」の評論文とかにそんなの書いてあったような。
白村江の頃と日本のつもりで戦ったらえらい目にあった、と。
この間に、国内でエミシとの征夷戦とそれに続く東北民との戦闘が激しく行われ、当初エミシに大敗した朝廷軍はエミシの武器と戦術を大きく取り入れて、
農民を大量に徴用した人海戦術から、エミシの馬、弓、湾刀の活用技術で戦闘能力が格段に向上した。 文永の役の時に落とした壱岐対馬を
占拠、軍事拠点化しようとかはなかったんかね。 >>236
まぁ白村江の戦いの敗因は、日本で人質になってた百済の皇太子がアホすぎて
百済の臣下が裏切ったのが原因だからな
兵力は唐 新羅連合軍より圧倒的に兵数は日本軍が上でした >>229
負けた側は、敗因をきっちり分析していれば、どうすれば勝つ為の活路が開けたのかが見えてくる。
運が悪くて負けた?
いや、だとしても例えば、
外野フライが追い風に流されてホームランになってしまったのなら、
その場面で大きな外野フライを打たれるような配球をしてはいけなかった。
勝った側も勝ったのは当たり前ではなく、相手側の戦略次第によっては負けていたかもしれないし、運の要素が多々あって攻撃が成功したのかもしれない。
想定外の運の悪さの影響は最小限に抑えたり、想定外の運の良さをうまく利用したりする事も大事なんだろうな。
その辺を勝った負けたに関わらず、しっかりと分析しておく事が必要だって事だな。 >>237
チュジュ島は、前線基地というか、蒙古馬の牧草地に当時はされていた。 >>237
モンゴルがそれまで取っていた兵站戦略に合致する地理環境じゃないか無理だろうね、
そもそも兵員や物資輸送するための、船および係留施設の数だって全く足りてないだろうし >>229
野球は偶然の要素が大きいから、不思議な勝ちがあるのは当たり前になる
最下位の球団でも、勝率が3割を下回る事はなく、一位のチームに全敗することもない
初先発で勝利して、その後は先発では一度も勝てずに引退や、現役一度だけのホームランが決勝点などもある
同じスポーツでも、ラグビーで最下位と一位が戦ったら100回戦っても、最下位が勝てるどころか得点すらできることは無いし、
テニスやバスケットボール、サッカーでも偶然の勝ちは数百回対戦して1回ぐらいも期待できない >>243
サッカーも、ゴール前固めた日本に、雨あられと30本ものシュートを浴びせたブラジルが、
クロスバーに当たったり、キーパーが神セーブ連発、1本ものシュートをゴールを割ることができずに、
逆にロングパス放り込んだ、たった1回のカウンター攻撃が決まってしまい、たった1本のシュートで日本が勝ったのが、マイアミの奇跡だね。
天皇杯とかでも、高校生チームに横浜マリノスがあわや負けそうになってたり。
狭いゴールをこじ開けなきゃいけないサッカーは、そういう事がある。
ラグビーとかは、フィールドを縦横無尽に走って、どこにトライしても良いわけだから、戦力差がそのまま出る。 あ、なんでチョンが発狂してんのかと思ったら高麗がボコられたからか
まあ高麗王の孫なんかイキって戦闘に参加してるのにあっさり殺されたりしてるからな >>246
元寇のネームド死者に高麗王の孫なんかいたっけ?
当時の忠烈王は弘安の役の時でもまだ孫がいるような年齢じゃないし >>224
2ヶ月間も船の上で立ち往生させられてたんだから地獄だよな
しかも船内では疫病が発生していたという >>247
>将校の中には実際に溺死した者もいた。大元朝に人質に出されていた高麗国王・高宗の子息・王綧の子で東路軍の左副都元帥・アラテムル(阿剌帖木児)は台風を受けて溺死している
ウィキより >>250
ありがと
高宗の孫か
父親は人質になった後はそのまま元に仕えてるんだな >>250
アラテムル、って。 朝鮮人は、元にも創始改名させられたのか?
朝鮮人は、いつも宗主国の名前を勝手に名乗って擬態すんだね。キモイ。 >>252
創始改名っていうか完全に混血
朝鮮半島は属国になったのじゃなく完全に併合された
結果、あいつらの血には数パーセントモンゴルの血が流れている
しかし、あいつらなぜか
我々は世界を支配したモンゴル帝国の末裔ニダとは言わない不思議w >>245
マイアミの奇跡だって、日本は五輪本戦に出場できるだけの実力はあり、
ハンガリー代表にも勝って、2勝1敗の得失点差での敗退だった
中田や城など、将来の代表選手が出ていた試合でもある
最下位のチームが、いつも通りの戦術で勝ったわけではない チョンに先導されて乗せられた元が法則の適用を受けるのは、既定ラインよ。😂 >>225
釜山上陸から半月でソウル陥落だからな
湾岸戦争のときの米軍の
イラク侵攻から20日でバグダッド陥落よりも早い >その気象条件をもたらした「運」まで含めて、日本人は「神風」と
そんなに運が良かったら太平洋戦争でも勝っている。
明が参戦後に滅亡したのも、日本が太平洋戦争で敗戦したのも、ベトナム戦争で常勝アメリカが負けたのも
元の船が沈没した気象条件をもたらした時と同じ朝鮮の「不運」が全て >>252
そもそも、現状の名前だって中国系じゃん モンゴルの総大将スブタイが西に行ってたのが日本には幸いだったよね? 九州の北側の海岸は実はあまり上陸拠点はないんだよね
唯一大型船が大挙できそうな博多湾の中に来ようものなら四方からゲリラ攻撃受けて火の海よ 神風言い出したのは祈祷で貢献アピールを狙った寺社勢力じゃなかったか
恩賞欲しさで >>261
九州の軍勢と鎌倉幕府が集めた本隊が合計で約10万騎とされている時点で、スブタイがいた所でどうにもならない
一番単純な「攻撃側の兵数は防御側の三倍は必要」という考えでも、総数約15万の元軍ではさらに30万人の兵士が必要になる
船員や農民などの非戦闘員も考えれば、総数だと約75万人が必要で、食料や燃料も入れたら、沖縄戦のアメリカ軍並みの輸送能力が必須
雑に言えば、釜山から毎週、1000隻ぐらいの帆船が食料満載で出港し続けるぐらいの膨大な準備が必要になる >>264
船上で2ヶ月も足止めくらってたからな
そら台風のひとつも来るわな ベトナムは元寇を3回も撃退したんだろう?
アメリカ軍も追い出したし、そっちのほうが凄いだろう 鎌倉武士が元軍の首を刈りすぎたせいで報奨金が払えなく不満が爆発したせいで鎌倉幕府が終わったと習ったが? 鎌倉幕府以来日本は世界有数の軍事国家
戦国時代の鉄砲保有数は世界最大
鎌倉〜江戸まで約700年も軍事政権が牛耳ってた国
日本は兵隊さんのお国なのです >>265
なるほどね。
陸伝いの戦いだと、それでも100万人以上の大軍がダイレクトで隣接地に侵入できるから、そういう力技も可能なんだろうな。
ただし、長江を渡る程度でも、船を使う水域があるとかなりキツイよな。 やる気のない南宋兵は斬首を免れて金次第で即時帰国できたらしいな >>268
それがメインの滅亡理由なら
自分の領地を大量に抱え込んでいた北条家が阿呆すぎる気がする
北条家そのものが肥大化してそれ以外に不満が溜まっていたのがメインの理由っぽい気がする >>270
しかも九州北部は基本的にリアス式海岸線で海賊ゲリラが跋扈する地域 >>270
いや、スブタイ及びボンゴル軍は多くの戦いを数的不利で大軍を打ち破った
そして皆殺しにする事で強さと恐怖を煽った
数的不利を策略で覆した訳だな
元寇の場合、文永の役では武士の集散が間に合わず
弘安の役では本州から6万の本隊が到着する前に数に劣る日本が元に完勝している
兵の数というよりも大陸で有効だった戦法をそのまま日本で使うのが難しいし、使えなかった
だから弱かったという捉え方もできるのでは >>267
大昔は、北ベトナム迄は漢が統治してなかったかな?
しかし、この時期に文化を吸収して、中華式の王朝を建てることや、独自の元号制度などもベトナムは取り入れた。
他の東南アジアの王国とは、ちょっと違った王朝国家となったんだな。 元軍はモンゴル軍本体というよりは強制徴用された平民が大多数でしょ
一方で日本軍は職業軍人の鎌倉武士
モチベが全然違う上に、元軍は船旅で疲れていたところ
鎌倉武士を倒して上陸するか撤退するかの二択で
「あいつらとはもうやりたくない」って思わせたら勝ち 当時の輸送力じゃあ、海を渡って日本を占領するほどの兵力を送り込むのが無理だっただけだろ。
弘安の役ですら鎌倉や京都の兵が前線に到達する前に九州の武士団のみで2ヶ月も元軍の侵攻を防いで撤退に追い込んだんだし。 何が凄いって元寇追い払ったあとすぐに鎌倉幕府が高麗への出兵を計画していたってとこだよな
今もってよくわからん理由で取りやめになったらしいが >>274
そもそも元寇の主力は高麗軍と南宋軍だしなぁ。
モンゴル軍がヨーロッパを蹂躙した時の戦い方を見ると、
「ほぼ全軍が騎馬隊である事による機動力の高さ」
「別働部隊との綿密な連携」
が肝になっている戦いが多いのだが、元寇ではどちらもうまくいってない。
文永の役では対馬、壱岐島、松浦、博多に上陸したところまでは良かったものの、赤坂で敗走して以来良いとこなし。
正直「なんでここまで?」と思うくらいモロく、あっさり本土から叩き出されてる。
弘安の役ではそもそも高麗軍と南宋軍が合流に失敗して高麗軍だけ先に対馬、壱岐島を経て博多に現れて撃退され、
壱岐島まで撤退して合流を図るも島津や比志島、竜造寺なんかに夜討朝駆けで散々に叩かれ…と哀れなくらいに上手くいってない。
やっと鷹島で南宋軍と合流するも海戦で敗れて鷹島に押し込められ、面積が足りないので港に船を縛って砦を構築したところで台風を食らって壊滅。とまぁ、グダグダ。 >>279
当時の船じゃ馬そんなに運べないし、騎馬兵がそもそも装備面で日本側は鎧つけて弓や槍の一方モンゴルは正規軍も鎧無しの軽装兵で大陸を荒らし回っていたから戦場があまり広くない博多湾みたいなところで防御装備のある相手をするのはすごく不利だよ… >>279
ヨーロッパっても、ポーランド迄でしょ?
そのまま進んで、ウィーンを包囲したりしても落とせるのか?
進撃の巨人のモデルとなった、ドイツのネルトリンゲンとか、ドイツの人口数万人規模の城塞都市とか、イタリアの都市国家はどうだろうね? 鎌倉武士の想定外の強さもあったのだけど
元からの進行軍も本来は本隊?と合流して攻める予定だったと聞いた。
済州島あたりで合流してって事だったけど本隊来ないので寄せ集めで来たと。
まあ上でも書かれてるけど水食糧確保して海を渡って大規模てのは
そもそも論として無理あったんでしょうね。 >>1
コロナでお漏らしして世界から殴られてるウリらは不幸アルって思ってるんか?あんたら途中からコロナお漏らし利用するアルってしてただろ?全部失敗してるけど 元軍はこれくらいで攻めれば向こうは恐れをなして
簡単に九州くらい占領できるだろうって思ってたら
逆にボコボコにされて、逃げても二十四時間攻め立てられて
士気が低下し、疫病も蔓延して、あげく悪天候で壊滅
日本のことをよく知らなかったのが悪い 神風が理由じゃねーよ
そもそもモンゴル人も中国人も苦手な海を越えての戦闘という時点で無理があったんだよ 自ら戦うこと無く、有史以来万年属国前提で、強国どうし争わせて勝った側にすり寄ってきただけ民国。 >>286
文永の役で軍船一隻に5頭くらい乗っけていたってはなしなかったけ? >>288
陸伝いで樺太・北海道は無理かなあ。
北から攻めるプランだとどうだったろう。
けど人口少なすぎると、むしろ食糧補給がアウトになるんだろうな。 >>287
大規模な内戦が終了して間もないから兵力も戦法も整ってる最悪な時期選んでしまったな
平家の残党追って九州にはそこそこの兵力あったしなまた水軍の連中もエグいからな は?神風は後付け。
そもそも圧倒的戦闘力で追い払ったんだが?
あと名乗りをあげ馬鹿みたいに打ち取られるのもデマ。 >>286
竹崎季長の蒙古襲来絵詞には騎馬兵が元の陣営に描かれてるし
副司令官は騎馬から少弐景資に射落とされてるし、
弘安の役では台風後に逃げ帰った将軍のひとりは
馬を捨てることでより多くの兵士を連れ帰る努力してる
陸の戦ほど大量ではなかったにしろ1頭もってことはない 陸戦もあっただろうに、元軍の武器や戦闘方法などは
結局日本人に継承されなかったのかね
大陸の馬くらい? 渡る時期が決まっているからね。
元側は、不利。
白村江で唐が失敗して居る。 >>297
日本の地理的環境では有用性が無かったんでしょう >>296
博多湾とその周辺を固めたら、
本格的に得意の騎馬隊を投入するつもりだったんだろう
実際、耽羅国(現代の済州島)を攻略して
モンゴル馬の牧場を開いてるし
初動の上陸と橋頭堡確保には、余り有効では無いから
ごく少数しか用いなかっただけかと >>281
兵力さえあれば落とせるでしょそりゃ。
まぁ大抵野戦に持ち込んで勝ってるし、攻城戦はそんなに得意じゃなかったかもな。
飢えるまで包囲したり、アレやコレやを投石器で投げ込んで嫌がらせしたりして野戦に引き摺り出すんじゃないかね。 >>297
武具、具足の類は殆ど御家人の自弁だったし
弩とか火薬を使った武器の様な
当時としては高度で高価な武器の調達は
手に負えんかったのかも
あと元寇以降は鎌倉幕府の衰退もあって
そういった物に手を出す余裕が無かったのかも 拠点を築いて騎馬隊さえ運用できれば後は楽勝モードみたいなつもりだったんだろうが
上陸の時点で徹底的にボコられて失敗してるんだよなあ >>302
そう言えば、朝鮮半島から北九州を攻めるより
遥かに容易なはずの
江華島の攻略にも随分と手こずってたな
元は野戦、それも機動戦意外は不得手なんだろう 元の使者を斬ったのは英断だな。
使者を斬れば和睦はない。即、戦争だ。国論をまとめるとき、和平派をどう抑えるか、
北条政権としては内政の問題があったはず。
「戦う」と決めた以上、死者を斬って、「和睦の道はない」と全国の御家人にアナウンス
したわけだ。 >>297
大陸の馬は元寇より前から日本に輸入されてる 台風なくても勝ってたよな
・海岸線の地形を熟知しているので適材適所ができる
・地形ならではの作戦や戦い方を熟知している
・忍者みたいなのが高速で情報伝達やゲリラ的に援護
・当時の武士は俺が俺がで死を恐れない。やる気まんまんw
・水軍が職人技で援護。当時の水軍はおそろしい職人集団
・当時の武将は将棋のごとく知的に戦えるようになってきた >>158
無知は黙ってようや
少しは調べてから発言したらどうなん?
まるで半島人みたいやで そもそも
戦略的に日本軍が圧倒的に有利>>230
さらに地形においても、江戸時代より前の日本は、国中が沼・葦原・河川(整備不十分)に、で
騎馬軍団・歩兵の大軍が展開しての集団戦には非常に不向き
その手の地形だと
小ユニットで柔軟に動き回る武士団(結束の固い一族郎党)の方が有利
>>297 船上ではなく陸では、当時の武士のナギナタvs「元の槍衾戦法」で
「槍衾」が日本側に印象を強く残した
集団運用に向き、刃筋を気にせず素人を戦力化しやすい「槍」の普及につき
元軍の槍衾から「あんな使い方が」と触発された説もあるし
元寇で奮戦した菊池一族が、後世で「菊池千本槍」の槍衾やったのは何か関係あるか ?
※もちろん、武士の主要武器は弓↓ 「三井資長、蒙古兵を撃退する 」
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e03.htm 元軍が船に乗せてきたのが鎌倉武士だったら日本は滅んでた 当時のモンゴルは、海を隔てたら圧倒的強国というわけでもない。 >>313
比較的海が得意な人達に、代理戦争させられればな。
北欧攻めたら、投降したヴァイキングに英国攻めてもらうとかさ。 1度目の文永の役=高麗王にそそのかされて出兵。高麗に無理矢理船を造らせたおかげで台風であっさり全滅。ほとんどチョンが犠牲になったので問題なし
2度目の弘安の役=南宋攻略後の余った人員の移植が主目的。日本も前回の文永の役できっちり防備を固めていた。元軍の士気が最低なうえに鎌倉武士の基地外じみた船上攻撃にに悩まされ、最後に台風が来て終了。これを機に元南宋地域で反乱が勃発する >>315
元に追い出された南宋の遺民には、台湾に逃げたり、フィリピン、東南アジアに逃げた人もいる。
フィリピンにはトンド王国が築かれた。 >>315
恐ろしい事にこれも嘘というか誤認なんだせ。
一回目は流れ矢に当たった副司令が戦死したのが原因。
二回目は南宋軍が遅れたのが原因なんだぜ。 >>317
副指令の劉復亨は負傷して落馬したけど戦死はしてない
射たのは少弐景資らしいね >>318
元の船の中で死んだそうな。
これは中国の史書に書かれてる。 >>315
1回目は台風じゃないし今は言われてるし撤退中に暴風雨にあった程度
けど全滅はしてないし元から派遣された蒙漢軍の方が多い
その蒙漢軍にも高麗系が多い説もあるけど >>319
元史の伝だと劉復亨は副将として出陣して負傷した文永の役後も生きてるし
享年は弘安の役よりさらに後の至元二十年(1283年)とあるけど
https://ctext.org/wiki.pl?if=en&chapter=867910 >>323
ごめんなのだが中国のWikipediaソースに持ち出されても半分くらいしか読めない。 >>326
これWikipediaじゃなくて元史です
13の復亨の伝の最後に「(至元)二十年,加奉國上將軍。三月,卒(死亡)。」とあるようですが >>306
その通りで、使者を斬るってのは野蛮な行為と思われがちだけど戦略的な理由があるだよな
当時、日本以外でも元の使者は切られまくってるしw >>308
実は台風が来る前から撤退準備をしていた >>327
Wikipediaの記事やで。
中身字体は丸写しだからソースにならないって話じゃなくて読めないって話。 「神風」も「運」も似たような意味だろこの場合。
つまり「実力」だと考えるという選択肢は、端から入ってないわけだなw >>332
九州の武士にボコられて、上陸出来ずに船に引き籠もってたのが現実 平原の覇者が海で強い理由は無いわな
おまけに朝鮮人の作った舟なんだろw まぁ、過程も結果もどうでもいいけど
調子こいて従えって使者送って無下にされて
二回も侵略したあげく失敗でプギャーされるとか情けないよw NHKの歴史検証番組でよく調べると台風はあまり関係無かったような事やってたな >>223
日本は憲法9条を質草にして核の傘を手中にした 二回目は博多湾で2ヶ月も足止めされてんだから、単純に力不足だわな >>2
オメエらモンゴルのケツの穴舐めてただけだよな?
いちいちうるせーぞ? 鎌倉武士って全員が前田慶次って感じだろ。
負け戦をひっくり返すのって楽しいよね。 鎌倉武士ってあのロストテクノロジーの日本刀をぶん回していたんだろ
そりゃ接近戦では勝てないわな >>156
元寇ではその一騎討ち自体が実際に行われたのか疑問視されてる
竹崎季長の蒙古襲来絵詞にも一騎討ちのことは書かれてないし
竹崎季長自身もよく見かける切り抜きのあの時には
一騎じゃなく手勢を連れての突撃で、敵に対しての名乗りも挙げず突っ込んでるし
そもそも敵に名乗りもそれ以外の声かけしてない
言葉が通じない相手にする意味もないし >>342
確か吾妻鏡に緒戦で一騎討ち申し込んだ奴が囲まれて殺されちゃうから生きて帰った者は一人も居なかったって書いてあった。
それで無駄だと分かって次からやらなくなったそうな。 >>343
吾妻鏡は元寇のことは書かれてない
それ以前でエタってるから >>344
そうか、じゃあ読んだのが別の本なのかも知れん。
また読み漁ってみよう。 >>339
ケツの穴舐めてただけならまだしも
日本を攻めるようにそそのかした連中で
元寇の元凶だからな >>2
そりゃ使者を切り捨てる前に一度元寇があって
対馬壱岐では虐殺までされてるしキレもするだろう
使者の偵察を防ぐための冷徹な戦略という説もあるが 大軍つっても、陸続きの戦とは勝手が違う。
大半が高麗と南宋の兵だし、士気も低いはず。
仮に日本が征服・蹂躙されて、その後弁髪に
お前らこれから船作ってフィリピン攻めてこいって
…行くか? >>348
鄭成功は、台湾侵攻に成功した。
しかし、清軍もまた澎湖海戦で鄭氏を破り、降伏させることには成功した。
元に追われた南宋の移民は、フィリピンに東都王国を建国した。
補給や兵站の貧弱な前近代で、渡海侵攻が成功する要件とは何だろう。 第二次世界大戦中、米軍が何度爆撃しに行っても損害を与えられなかった伊勢神宮
投下した爆弾が不自然にカーブして落下していったり境内に落ちても尽く不発弾となった
明らかに神威に寄るものだ >>348
一応将軍たちは事前に日本遠征に賛成だったり
賛成した王に忠実なので構成されてはいる
一般兵は知らんけど >>63 ロシア相手には負けてた時期の方が多い ※帝政ロシアは、毛皮輸出が重要財源※
*「毛皮商人が援助する近代装備コサック兵」での領土拡張が蝦夷地にも到達、各地のアイヌを制圧し
毛皮や女性を取立て
※1770〜72年にはアイヌがウルップ島で反乱起こし、ロシア人を多数殺害
コサック百人長:イワン・ チョールヌイ
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppounenpyou.htm
≫ 1766〜69年 イワン・チョールヌイ、ウルップ島・択捉島に到達。
≫ 周辺のアイヌから毛皮を取り立て、さらに、過酷な労働を強いた。
≫ さらに、ウルップ島で多数の女性を集めてハーレムを作った。
*1806〜1807 「文化露寇(北の黒船)」
レザノフ(露米会社)がロシア海軍の艦で択捉島・樺太などを襲い、焼き討ち・略奪
(露米会社が、幕府側警備兵を火力で圧倒)
*1807 「津軽藩士殉難事件」 北方防備で斜里に布陣した津軽藩兵100名のうち、72名が酷寒で大量死
https://www.akkeshi-town.jp/syoukai/rekishi_bunka/history/rekishi/
> 18世紀に入って千島列島に沿って南下し始めた。
> ロシア人が千島のアイヌに課した毛皮税は過酷で、同地のアイヌは南に逃れ始め、
> ロシア人もそれを追って南下した。
蝦夷地は、「ナポレオン戦争によってロシアの注意が極東から離れ」たことで救われたし
北海道が、無理やり露米会社に補給基地化される寸前だった >>352
うひー、全然知らんかった…
ありがとうね
いやしかし、さすが白人だわ…… >>352
ほぼ地続きのロシアは、何気に産業革命前から、勢力圏広げてるのね。
アラスカからアメリカの西海岸伝いに、ロサンゼルス辺りまでロシアだったんだよね。
けど、清朝が本格的に領土略奪の憂き目に遭うのは、1858年のアイグン条約以降のこと。
それまでは八旗兵とか清王朝の家臣にもなったりしていたのが、東進してきたロシア人。 >355
は? 3種類の化学薬品の輸出規制を強化しただけで発狂して喚き散らしているのは、
どこの国ですかねー。 >>355
イギリスでどんな目にあったのか知らんの?韓国大統領ww 中華帝国、モンゴル帝国、大日本帝国が韓国人に名前を授けたお父さんの国
儒教国なら親に逆らってはいけない >>354
ネルチンスク条約の国境が、本来の清露国境だな。
アイグン条約以前のロシア勢力圏は樺太最北端以北だった。
https://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/kou_chirekikouminn/sekaishichizu/Russia/russia5s.html
オホーツク海をなるべくロシアの内海化させること、冬季に凍らない日本海を日本の内海にさせない事が、近代ロシアの基本戦略。 >>348
降ったら従属した将軍たちにはこれから出世するために
忠誠を証明するいい機会ってのもあったんじゃね >>235
琉球・アイヌは中国王朝に朝貢していた(アイヌのサンタン交易は、中国大陸への朝貢交易)
特にアイヌは好戦的で、ロシアに征服される>>352以前から、アイヌの方から中国を侵略して怒らせ
懲罰されて大陸に服従、というパターンを繰り返していた
【北海道】樺太アイヌと清に朝貢関係、「カラフトナヨロ惣乙名文書」が国重文へ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1553003772/
> 当時の樺太アイヌは清に朝貢して、見返りに妻を得ていたが、
> 冬に都へ来ると
> 天然痘にかかるので、7〜9月に到着するよう諭す内容になっている。 >>1
文永の役で元軍は副将を射殺されてる。
完全に狙撃だよね。
指揮官を狙撃してくる鎌倉武士に恐れをなして、橋頭堡も確保できず船に撤退してそのまま逃げた。 サイレントインベージョンはもうされてるけどな
交通機関に中文とハングル テレビラジオはパヨクばかり >>1
>「単に気象条件と運が良かったことが勝因だ」
そんなんだから征服されるんだぞ、としか >>362
弓馬の道だからね
長弓の攻撃なんて食らったことなかったのかもな
モンゴルのは馬上で使う短いやつだし >>362
327、323にもあるけど副将の劉復亨は少弐景資に射落とされて落馬負傷したけど
命は助かって文永の役後も生きてる 神元皇帝の元と神武天皇の日本か。どちらも北魏の古代ハーン、古代天王を継承した国。 >>349
鄭成功でも、オランダの支配地を標的にしただけで、台湾の沿岸のごく一部を支配しただけ
澎湖海戦なんて中途半端な場所で戦ったのも、台湾本土に有力な拠点を作れていなかったから
バイキングのように、まずは略奪を中心にして土地勘を養い、さらに地元の有力者を味方にして、上陸後の拠点と補給を確保することだろうね
あと、ほぼ全員を訓練を受けた戦士にして、少なくとも同数の相手に勝てるようにしておくこと
個人の戦力を上げておくことで、少数の船で攻撃でき、その分だけ必要な物資が減り、補給も楽になる 千島列島方面)
オホーツク文化人が先住していたが、
アイヌ(12-13世紀に北方民との交雑で新成立)がオホーツク人を漸次同化・征服し、千島アイヌ成立(15世紀〜)
→18世紀からロシアのコサックに征服される
要するに、まずアイヌが周辺を侵略→ロシアから侵略される
琉球方面)
まず琉球王国が1264年 徳之島侵略、1466年 喜界島侵略、1500年 八重山侵略、、と周辺を侵略し
一方で明には朝貢、という状態で薩摩の進出を受ける >>370
琉球王国は、台湾やフィリピン攻めようとはしなかったのかな?
より大陸に近い八重山の方が、明に朝貢して、琉球王国の東からの攻撃から守ってもらう事もできそうな気がするが。 >>371
ついでに、スペインもこの時期フィリピンに入ってくるな。
1521年ラプラプの戦い。 日本と中国の間には他国支配を受け入れた時期しか存在しない国があるからバランス取れてるでしょ。
モンゴルから滅亡されないよう、嫁受け入れて平身低頭した国とか、
国王の指示が気に喰わなくてクーデター後に明の後ろ盾を乞うた長寿王権とか >>373
自分達だけがモンゴルの支配下に入るのを良しとせず
日本侵略を何度も上申した趙彝とかいう鮮人がいなければ
誰も苦労せずに済んだのに…… >>374
趙彝は日本に使者を送るよう勧めはしたけど侵略までは勧めてなかったような どっちかというと高麗の忠烈王のような他人の勧め以前に
クビライがまず日本を攻めたがってたし臣下に反対する者がいてもそうしたから
高麗の誰々、積極的な臣下の誰々がいなければ元寇がなかったかどうかは疑問
皇帝が攻めたがってた以上、他人がどうだろうと元寇は起きたんじゃないかな
もちろんだからって積極的に協力姿勢をとった忠烈王を擁護する気はないが
言い出しっぺじゃないってだけでクビライの侵略願望に賛成や協したのは事実だし この世に偶然というものはないのじゃよ。
そこの若い方、より深く広く考えて見てはいかがかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています