無から有は生じないので
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この世はいくら遡っても先に進んでも完全な無はないと言う結論に至った
変化はしてるが生じてはない ,; ⌒ ⌒ ⌒ ヽ
( _____ )
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( ヽ , ―― 、 , ―‐‐、
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l _____) < ひえっ、こりゃまたとんだ糞スレですな〜
l ( ___ヾ' \_________
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 ̄ \ λヽ / .| >>1
論点先取ですよ。
「無から有は生じない」をまず論証しないと。 時間は物事の変化に過ぎないので時間が逆でもエネルギー保存の法則は成立する エネルギー保存の法則は時間が過去にも先にも永遠であることを
証明してると言える
真空って概念自体には価値が無いが
真空における特性を利用することで
多くの価値を生み出すことが出来る
みたないな物理的定義で妥協してるみたいですね
Wiki ったら そーなってたけど なんとなく
掃除機とか バキュームカー 連想しちゃいました
ご存知のとおり、有をいくら分割しても無にはならない。
両者は別世界なんだよ。何も見えないところから何物かが生まれたとしても、
それは見えなかっただけで、何かがあったわけだ。
物理の先生たちは違うこと言ってるようだけど、認識できていないだけなんだ。 存在し得ると考えられるものはせいぜい、存在が確認されているものから
導かれる確率分布によって推測される。確認されていないものについては、
何も語ることができない。ところが実際には、全く推測されていなかった
ようなことでも生じるのだから、事後的に潜在性があったと認めざるを得ない。
だが、事前にはやはり、潜在性について何も語ることができない。 世界の自己表現として存在するのが1(ひと)である。 >>13
自身の結果を否定できてこと哲学者、満足するのは哲学者ではなく
哲学科の学生にすぎない。 どの様な前提(命題、定義)も限られた定立であり、“前提”を解体し再構築するのが
哲学者の姿である。 この世は、「1」のフォーマットを区切って物質化してるだけ。
0から物質が生まれる訳ではない。 存在論からすれば無というものは論理矛盾である。
色即是空。空即是色。有即無。
その矛盾の解明。
宗教は存在論ではないからである。そんならば何。
それは自覚の論理である。
有即無と自覚するのである。
以下は秘伝。と言って理解していないからかも。 無は無い。無いから無なのだ。無が在ると言ってはならないのだ。
無として語られるものの意味は、存在の絶対無分節という意味においての無。 アインシュタインはエネルギーと質量は交換可能だと証明した。
ドブロイはこの世の物質は全て波なのではないかと考えた。
ビッグバンでは無から爆発的エネルギーが生じた。
物質やエネルギーが波ならば、無から正弦波とその180度位相をずらした波が同時に発生すると考えれば、エネルギー保存則は守られる。
しかし発生する場所が違えばそれぞれは突然エネルギー(物質)が湧いてでたように見える
エネルギー保存則は1点ではなく空間に広がって成立している
この宇宙を1点に集約すればそこには差し引きゼロのエネルギー、つまり無が出来上がる
そういうことでしょ 言い残したけど
つまり無から有は生まれるのです
視野を極大化すればこの世は無です
部分を見れば豊かなエネルギーに満ちた世界なのです >>23
の形でいうならば
無=有
なのであります 古色蒼然たる説
空即是色 → 「無」から「有」
最新の量子論で、もっか証明を考えている。 哲学は言葉の学問です
単語遊びではないはずですが?
どうとでも解釈できる発言はポエムです ヘーゲルの極限まで抽象化された有/無や、仏教の絶対無を超える観念は未だ
人類の文明に現れていない
「無から有は生じない」なんて、簡単にいうけど
その前提を説明するのにどれだけ骨が折れることか >>39
もっいぶったり、小難しく難解に喋ったりすることが哲学だと勘違いしてる奴に哲学の素養はないね >>40
お前は多分ヘーゲルを読んだことすらないドシロウトなんだろう
素養なんて生易しい言葉で済ませるのは馬鹿。
それなりに年月費やしている人間には戯言だと見なされるから注意しとけよ。 素養素養と連呼してる馬鹿は、丁寧に説明さえすれば
相手に何かが伝わると勘違いしている。
本物の思想に触れたことがないんだろうね。 15
無がフィクションに過ぎないのだとしたら、「無我」とか「無私」というのもありえないことになる。
それらを追い求めることは無駄な努力なのだろうか。それとも「近づく」だけでも有益なのだろうか?
いずれにせよ、無我の「境地」というのは不可能の世界なのだろう。 ランダム性とは、論理学でいうところの「矛盾した前提からはどのような結論でも導くことができる」ことに相当します。
例えば、楽譜に音符や音楽記号がランダムに無限に並べられていたとします。
すると、その無限の音符や音楽記号の無限の並びには、実在するすべての曲が
バッハの曲であれ、宇多田ヒカルの曲であれ、含まれるのです。なぜなら、
それらの曲の並びが含まれないとするなら、ランダム性に反するからです。
したがって、そのランダムな無限の並びには任意の曲が含まれていると恣意的に
主張することができます。つまり、「原初」は、ゼロではなく、絶対無の
隠喩としてのランダム性なのです。 >>44がいいことを言った
これは自己言及であって、自己矛盾ではありません ちなみに
>>45は、自分を称賛する他人のツイートにリツイートしてツイッターで
自画自賛をしている最近の人々の自己言及の慣習のパロディですw >>44
では、そのランダムとやらには無限に続く休符も含まれるのですね?
矛盾しますねぇ。 >>47
そうですね!
絶対無が表現しているのは、まさに「矛盾そのもの」ですからw >>47>>48
と思ったら、ちょっと勘違いしてました。スミマセン。
無限のランダムな列には、「任意の有限な記号の列」が含まれると主張することができますが、
「任意の記号の無限の列」が含まれると主張することには根拠がありません、というより
その「任意の記号」が無限に続くことが分っているなら、その無限の列はランダムではない
ことになります。 数学の人たちはゼロという数をどういう風に理解しているのかな? >>49
この問題は、無限を考えるうえで興味深いですね。
普通、無限は、漠然と際限がないことと思われていますが、
無限のランダムな記号の列を想定した場合、どんなに長く続く休符でも、
その休符の列が有限である限り出現し、その列が出現した限りで、
その後にもやはりより長い休符の列が確実に出現することになるので、
休符の連続には「際限がない」わけですが、それをもって休符の
無限の列が現れると言うことができない。なぜなら、現れるのが
確実なのは、その都度、「有限な列」でしかないのだから。
同じ符号の無限の列が現れる言える時点で、その列はランダムでは
なくなってしまう。 無が理解できないと宗教は失格となる。
科学でもって無を論ずるのは素人でありイモ筋であることになる。
それを科学バカ、オンリーと言う。 数学の「無」或いは、「無限」の概念と、哲学・宗教の「無」の概念は
本質的に異なっている。その大きな違いは、数学、科学は“数字”に固定した形式論理を基底として
論理展開をするのに対して、哲学・宗教は“数字”に固定せず、存在の本質を対象として論理展開をする。 宗教の「無」は議論する必要がない。
だって、宗教は帰依するだけなのだから、議論するだけ無駄だ。 >数学、科学は“数字”に固定した形式論理を基底として
無理だね。現代の科学は確率・統計なしには成立しないが、
確率・統計は、「“数字”に固定した形式論理」では定義できない。
それで、確率・統計は、技法に専念しても「応用」数学という変な地位が与えられている。 >>51
宇宙には法則があるけど、ランダムっていうのは規則性が全くないことだよね?
全てがこの宇宙に含まれる現状でこの宇宙以外の何を想定してランダムと言っているの 昔の人は空気があることをしらなかった
そこを飛び回る電磁波があることもしらなかった
真空にエネルギーがあることもしらなかった
人類の知識が増えるにつれ、無がだんだん無くなってゆく
無は有がないと考えられないけど、有は有だけでもありえそうだ。 >ランダムっていうのは規則性が全くないことだよね?
この考えが根本的に間違ってるんですよ?!
ランダムとは規則性が全くないことではなく、
どのような規則性でも「恣意的に」あるとすることができる状態です。 どのような規則性でも存在し得る状態(絶対有)=いずれの規則性も存在するとはいえない状態(絶対無)
これが、絶対無の隠喩としてのランダム性です。 >>59
0〜9の数字を使って10列のランダムな数列を作った時に、
極めて低い確率で0123456789のような数列が出来ることもある
その部分だけを取り出してみてもランダムな数列かどうかは判断できないが
全体と比較すれば「そういうこともある」程度の確率に過ぎない
0123456789が出来ようが、1111111111が出来ようが、確率を裏切らない限り、規則性は全くない、と言える
全体が無限であった時には、例えどのような有限の規則性が存在したとしても、
無限に達しない限り、それは限りなくゼロに近いので、規則性は全くない、と言える ところで楽譜の話は>>44さんが考えたの?
無限って頭痛くなってくるけど面白いねえ >>61
>規則性は全くない、と言える
その表現が間違ってるんですよ?
規則性が全くないのではなく、規則性があるとは全く言えないのです。
微妙な言い回しの違いの思えるかもしれませんが、これが混乱の根源です。 >>62
オリジナルのアイディアと言いたいところですが、実はネタ元があって
George Spencer-Brownという変な人が「Probability and Scientific Inference」
という本で、ランダム性について似たような興味深い議論を展開しています。
入手性が低いので読んでいる人はほとんど見当たらないですね。
出版してから50年以上過ぎているのだから、インターネットで公開してしまえばいいのに。 無は、存在しないこと、つまり、存在の否定ですが、
絶対無とは、存在するとは言えないことであり、存在しないとも言えないことです。 ん?>>63はどちらに対しての突っ込み?
有限の長さをもったランダムな配列の話か、無限の長さをもったランダムな配列の話か、両方か。
共通認識という意味では辞書ひいて出てくるようなランダムの意味で語るしかないんだけど。
有限無限に関わらず辞書に載っているような一般的なランダムの意味は正しくない、と言っている? 絶対無でぐぐったらかなり意味わからんのが出てきた
簡単に理解できるようなものではないと思うから、絶対無=絶対有さんは見当外れと思うような質問にも耐えてくれ
話の本筋のもっと手前の段階で混乱している部分がある >一般的なランダムの意味は正しくない、と言っている?
一般的なランダムの理解は、表裏を間違えているような錯誤があることを主題として、
その錯誤から生じる数々のパラドックスを論じてるのがGeorge Spencer-Brownの
「Probability and Scientific Inference」 だから、それを読んでもらうのが
一番手っ取り早いんだけどね。 無が存在すると言ってはならない。なにしろ存在するのであればそれは無ではないのだから。
従って我々存在者は差し当たり存在について語るわけだが、存在者が存在の全体を語る言明は
最終的に自己言及のパラドックスに陥り、その真偽は合理的には決定し得ない。
無とはそのようにして、存在を語る行為において、否定的に存在の内に現れる何かではないか。
また存在とは無という否定の現れにおいて、その全体を初めて現すのではないか。
無は存在すると言っては誤りだが、無は存在しないと言うのもまた誤りなのではないか。
とまあ、疑問だらけでこんな風に考えているんだけど、ランダムというのはこの
自己言及のパラドックスに関係しているものなのですかね。未整理でもあり、見当外れならごめんなさい。
(生と死の関係についても併せて考えてしまいます。) 絶対無というのは西田幾多郎が用いた概念として有名になったわけですが、
西田幾多郎の説明は分りにくだけでなく、混乱を生じていると思いますね。
個人的には、無は存在の否定として存在し(或る桁の単位の存在の否定として
その不在の場所を示す0が存在することを例にとると分りやすいでしょう)、
存在とその否定である無の背景が、存在でも、存在の否定でもない絶対無
であるというのが、私の個人的見解です。 >>69-70でなんとな〜くわかった
ところで、有るは存在するとは言ってもいい?
有るは元々「無い」状態と比較して発生した言葉だよね?
「無い」という状態がなければ、有るという状態もうまれない?
この場合、有るの否定として無いがあるのか、無いの否定として有るがあるのか、
主従関係はどのようになる
「無い」というと今そこに無い、とかここには空気(のような特定のものが)が無いとか、限定された使い方をするが
「無」は「全てが無い」のように「無い」を無限に拡大した状態を示すということで合ってる?
そうでないと単に「無い」の規模が有限に拡大したものが「無」ということになって、
「さっきまで私の手の上にあったりんごは今私の手の上で無である」とか
「無い」と同じように限定された使い方しかできないことになる(宇宙規模に変えてもサイズの違いしかない)
「無」が「全てが無い」という風に「無い」を無限に拡大した状態を示すなら、
「今私が有る」ということは、「全てが無い」状態に反するので、無は存在しないという風に言える?
言えるなら「宇宙の始まり以前は無であった」という主張に対しても、
無限に拡大した「全て無い」は時間も含んでいるだろうから「今私が有るので、それは無ではない」という風にいえる 無というものは、存在がないということである。
そこが理解できないと問題とならない。
だからそれは科学ではないことになる。 >無というものは、存在がないということである
「無」という言葉で「不在」と「非在」という別々の2つのことを混同してるんだよね。
「○○は無い」という場合、○○の不在は証明できるが、○○の非在は証明できない。
「無いことは証明できない」とよく言われるが、不在の意味での無いことは、
容易に証明できる。例えば、10リットルのタンク内に水が無いという場合、
10リットルの水をタンクに注いで全部入れば、実際にタンク内に水が一切なかった
ことが証明できる。でも、「STAP細胞は無い」という場合、STAP細胞がこの世
に存在する証拠が皆無であることを指摘できても、無いことの証拠は無い。
なぜなら、この場合の無いは、「非在」を意味していて、何であれ非在は
証明不可能だからだ。 「無い」ことが「ある」ことは、誰でも日常的によく経験していることだ。 無いことがあっても、必ずしも存在しないとは言えない。
存在しないと言えないことは、無いとは言えないことであるが、
無いと言えないことが、存在することにはならない。 無は有ると言えば論理則に反するし、
無は無いと言えば経験的事実に反することになるか。
さあどうしよう? そんなことないよ。
「無という状態が有る」というのは全然おかしくない。
「無という状態は有り得ない」というのもおかしくない。物理学は真空にもエネルギーが存在しているとしている。 >>78
それは無じゃなく空だよ。
有がなければ無という対象を示す状態にはなりえない。
完全なる無と完全なる有はこの世には無いってことだ。
計算できないものを計算できると思い込むタイプか? 完全なる無も完全なる有も、この世の他者としてのあの世の話だろうね。
それをこの世に見出そうとすることは、一種の宗教的な領域に足を踏み入れることを
意味するのかもしれない。 絶対無そのものを見出すことはできない。
見出されるのは絶対無の隠喩としてのランダム性。 結局のところ「〜である」と直接的には語りえず、「〜でない」といったように否定形で語られるか、
隠喩として語られるか、人間の振る舞いの内に暗黙的に示されるしかないもの。 無を存在論として語ることはできる。
だが無を宗教問題として論じるときは、存在論から切断することができる。
宗教は自覚の論理であるからして、存在の有無とは別個に考える。
例。ないところから宇宙が発生したと仮定する。それは科学にならない。
それは宗教論理の手段であることになる。 もともと、宇宙の大元は意識なんだろうな。
意識が有るから、創造を起こせざるおえない。
意識が意識のまんまじゃ、あじけないからだ。
無から有が生まれるって、ありえないんだよ。
無から有が生まれるには、その裏に土台がある。
別次元に有があって、それが無から有を生み出す元になってる。
幻覚はもともと無だが、幻覚を見る人がいないと生まれない。
それと同じように、この世界がもともと無で、幻覚なら、必ずその幻覚を見てるものがいるはず。
生み出された 無 → 有 は、もともと無だが、それを生み出した有はある。 スペンサーブラウン読者の人、俺、関連図書を借りてきたよ。
頑張って読むけど、どうしてもわからないことがあったら聞きに来るので、
共有できそうな疑問だったらお知恵を拝借願います。 二千十四年にこの世界を破壊し尽くすもの という条件の存在が主張され〇〇となずけられたら にせんじゅうご年以降のわたしは〇〇の存在のひざいを証明できない? 始まり(最初の宇宙)など無く
この宇宙も
永遠に連続する上塗りの一つと考えれば、
無も必要ない 「始まりなど無く」と言っているところで、既に「無」を必要としている。 >>70
ただ単に、無限+無限と無限はどっちが大きいのか考えてるうちに頭おかしくなっただけに見えます 無いというのは否定でしょ。むしろ、無いというからには存在を前提としているというべきで、
その無いが絶対無の否定なら非在の否定だから、存在を主張していることになるんじゃない? >>92
…に過ぎないと断定するなら、まずその手続きの指定とやらを厳密に
記述してもらおうかい。 >手続きの指定とやらを厳密に記述してもらおうかい。
それはまずあなたが手続きの指定でない無限をきちんと記述できてからですねw
反駁したいのはあなたであって、私ではありませんから。不特定の人に向けて
書いただけであって、あなたが理解できるかどうかなんて私にはどうでもいいんですよ? 無限は思想に論理の限界を指し示す。つまり容易にこれ、と割り切り、同定しうるものではないのだ。
このスレで語られているのは、そういう趣旨の話題だ。
にもかかわらず、あなたはそれをいきなり同定した。しかも客観性に乏しい恣意的な表現で。
その表現がこの場に適切なものかどうか、どのような事態を指し示しているのか考えてみてくれ。
そして一般的な表現で説明できるものなら説明してみてくれ。 >無限は思想に論理の限界を指し示す。
はい、却下。無根拠な断定ですね。 >>91
sous ratureとratureの違いか で?ここのランダム屋さんは、無から有が商汁といってんの?障子ないといってるの? 無の隠喩は打ち消しであり、絶対無の隠喩はランダム性です。
したがって、無に帰することが、ブラックアウト(黒くなって見えなくなること)に
喩えられるとすると、絶対無に帰することは、ホワイトアウト(白くなって見えなく
なること)に喩えられます。つまり、原初にブラックアウト状態が存在して、その
状態から存在が生じるのではなく、何かが存在する限りで、その存在はホワイトアウト
状態の相対的打ち消しによって、つまり、限定によって生じていることになります。
すると、不在も穴として現れることになり、特定の存在の打ち消しは穴として存在
することになるのです。 ブラックアウト・ホワイトアウトの喩えは自分もしばしばイメージしますので、よくわかります。
有と無、絶対無(=絶対有?)の話は、いずれにせよ言語と言語脱落に関わる問題なのでは
ないかと思います。
で、絶対無から生じる有と無とは、ある主体による言語的な指し示し、区別する行為の秩序性に
関わって分節的に発生するものだと思うのですが、言語という秩序体系(恣意的で無根拠とされている)は、
その絶対無からどのように生じた(あるいは生じている)ものとお考えでしょうか。
また発語する主体は、言語以前に発生した(あるいは発生している)ものでしょうか。
(秩序と主体はやりながらでっち上げられるという話もありますが、ランダムの話からズレて
きますので、このカキコはめんどくさければスルーしてくださって結構です) >その絶対無からどのように生じた(あるいは生じている)ものとお考えでしょうか。
時間がないので手短に応えると、絶対無から生じたという順序で考えるのが誤りなのです。
存在からの退行により、絶対無に至るのです。存在とその否定とその両者の背景である
絶対無は、本来的に不可分です。 原初を考えることが、それが何らかの原初である以上、必然的に現在からの退行でしかあり得ない。 >>103
(´・∀・)bなるほど。ありがとうございます。その辺を踏まえ考えてみます。 相互関係的に既にあるということですね。ちょっと神話的に考えてしまう
癖があるので、最初に始原を考えちゃう…。 >>100
コミュニケーション能力を磨きなさい。
おたくゼロ点ですわ。 >>100
外人の書いた哲学書を、哲学の分らない日本人が意味を理解せずに訳して無茶苦茶になってる訳本が、日本の哲学のベースでね。
それが日本の哲学がダメダメな原因になってる、こいつその典型な。
謎かけ遊びから早く卒業しなさい。 >>109
そう、その位平易な言葉で語ってこそ中身のある議論が実現するのだ。 >>110
こういう連中の文章って自動翻訳の結果にそっくりだろ?
お偉い先生方のバイブルが自動翻訳的な代物だからな、そう言う風に喋ることが偉いって文化ができてしまって、まぁそれはそれは滑稽なこと。 哲学板はIDが付かないから、誰の発言かわかりにくくて困るや。 「有」「無」「有無合一体」つまり「c点」=「第三の存在」
S、イマムラの「c点による時空論 改訂版」
「本質論」「科学」21世紀のパラダイムシフト。
「華厳経」世界の新解釈。「c点」と「量子力学」との関係?
哲学、仏教、新時代に。
西洋の有の哲学、東洋の無の哲学。 終焉の時。 因果関係が現れることの背景が絶対無であることを理解したならば、
わざわざ量子力学のようなテクニカルな議論を持ち出さなくても、
宇宙の始原を因果関係で説明し尽くすのが到底無理なことは明白なのですよ? 諸法無我を理解すれば良いのだが。
それは存在論の否定である。宗教であるからである。 てゆうか、捨てるべき我は存在論にはないのよね。
我を捨てることに固執するのは、むしろ我に拘り続ける我執の一種でしょう。 もう、おれも結婚無理だな。今では誰も振り向かん。ただのデブキモ中年だ。
金もねえし、心の隙間埋めるのに金遣っちまうし、一体おれはこれから何をすれば
いいんだろう。仕事にだって誇りはもっちゃない。
僅かな金を稼ぐためにやってるだけ。もう何もかも馬鹿らしい。
死ぬ勇気もない。 >>113
必死だな。笑える。
この辺りの言葉は、言葉そのものに意味はなく、それを多用するコミュニティーの合言葉であり、小ギャルのそれと同じものなのですね。
群れる猿がキーキーやってるあれです。
小ギャルやサルのメンタリティから有用な哲学的見解が得られるとは到底思えません。
難しい言葉や言い回しを垂れ流すのもおなじ、協調性がないようにみえて、実はそのコミュニティーで優位に立とうとする、やはり群れに対する原始的欲求によるものです(浅はかですが)。
もう少し孤独や無常を理解して、少なくとも群れる本能から開放されてから、この世の仕組みについて探求するようにしたらどうですか? 糞の山の上で得意になって胸を張っているコッケイな鶏ですね。 118
我執から解放されることが宗教であることになる。
その方法が多様であることになる。 Si l'roi des cons perdait son trone
Y'aurait 50 millions de pretendants 「科学」と「本質論」(この我らの生きている現象世界の奥ーーここに我らは生きては
いないが、−−そこに、我らの知られざる真理、本質がある、とする立場)と
について、「c点による時空論 改訂版」で論じている。
「西洋の有の哲学」「東洋の無の哲学」とは新たに「第三の哲学」(S、イマムラの
オリジナル)つまり、「有無合一体」=「c点」により21世紀の哲学は、新たな
時代を開くべき時。文献学、権威ある学聖に頼るのは、「安全」でこれこそが
「分別ある大人」ではあるが、若い学徒に期待したい。「世渡り上手な」常識人
であるばかりが、「人生の生き甲斐」とする人で無く、「馬鹿」もいてよい。 「科学」と「本質論」との差異については、「c点による時空論 改訂版」
に詳しく論じている。
なを、「華厳経」世界の「一即一切」「一即多」などの理解解釈と「般若
心経」の「色即是空」「空即是色」などの理解解釈は、「c点論」と「いわゆる
仏教哲学(釈迦、竜樹による思索制限の縛りあり、単なる哲学とは異なり
論理性を欠く)」とは、立場を異にする。
論理のみでは、c点論は「無は感覚器官で認識されない」ので
「有無合一体」 → 「有」
とこの世(現象世界)では考えられる。もちろん、
「無」→ 「無」
「仏教哲学」では
「色」(現象,有)は即(直ちに)「空」(非現象、無)
つまり 「あるもの」は「ない」
「空」(非現象、無)は即(直ちに)「色」(現象、有)
つまり 「ないもの」は「ある」
だが、この矛盾は「本質論」の為に容認される。ただし、これを
信ずる事は、必須条件である。「本質論」は「科学」デハナイ。 「c点」は「有から無」「無から有」に瞬時に変わります。
それが「c点」です。これについては
「c点による仏教的宇宙論 改訂版」およびサイト「命ある限りーーー」
にも、書いてあります。私は物理学も数学もワカリマセンが、宇宙の有り様
につき、「華厳経」宇宙(科学ではナイ)を参考に思索し、「量子力学」の
宇宙?に類似したもの?を考えたりしております。
「c点」は「本質論」で「科学」ではアリマセン。
文系の思索と理系のそれとのギャップは、どうする事も出来ないようです。 私自身は、完全な「無は無い」と考えています。
この世(宇宙)は「c点で埋めつくされている」と、考えていますが
現実は
c点の「無」が優位なら 「無」
c点の「無」が認識されぬなら 「有」
となり、有無合一体と言った矛盾した了解不能のナンセンスはアリマセン。 「c点による時空論」は「本質論」であり、科学ではナク、
「0秒(有無合一)」の為、そこに我らは「生きていない」ので、
明らかな時間の中にこそ現実の我らは、生きています。
「本質論」の難解さです。
出来ましたらc点論のサイト(10数本)を、「気持ちと時間」に
「ゆとり」が有ったら、お読みください。お忙しいでしょうが。 >>131
科学が実証主義のもと発展をとげてきたのは事実だが、この世の成り立ちを解明しようとする物理の分野には思考実験と言うものが存在する。
また昨今の物理理論は数学を駆使して最早三次元世界の我々には理解も検証も出来ない世界観を導きだす。
前者は実証の足掛かりとしての役割を持っていたが後者に至っては確認する手段も存在しない。
四次元以上の世界観は三次元の構成物質とその相互作用の結果である我々の意識は理解出来るものではない。
しかし科学は立ち止まらない、この様子は哲学のそれと酷似していると思いませんか? >>52
そうだうか?おれは
>>27 >>28
で無に関する科学的アプローチをしてみた訳だが、そんなにいも筋だろうか? 子供の頃、百科事典を読んだら
哲学とはなにを考えてもよいとか言った意味のことが書いてあった
言い換えると、どんな視点からみても真実であることを考えるのが哲学だと思う
科学的アプローチを、拒否するのはもはや信仰の一種。 ↑、 137氏へ
お説の正しさは認めざるを得ません。現象世界(我らの生きている
3次元空間、感覚器官で認識される物質世界、ここでは時間は実在
)を超えた、貴方の言う4次元以上の世界は、私の「本質論」もその
一つです。ここでは、私たちは「生きては居ません」(感覚器官外
の世界)。
私の「c点論」は、時空論と素粒子論の「乱暴な試論」から始まりました。 ↑、 138につづく
私の「c点論」では、現象世界(素粒子)から「矛盾(有無合一体)と
無限(てつがくの一般論とは別)の視座(S、イマムラのオリジナル)
の導入ナシでは成立せず、この「視座」(認める者のみーー必須条件)
により、「乱暴にも」素粒子を、無限に「分割し」て「空間に位置のみ
占める粒子でナイ純粋な点ーーc点」としました。論理もなく、観念
のみの存在です。この時点で3次元空間とは離れました。こうして成立
したのが「有無合一体」で、これは、この世は「物質のみ実在」ですが
「物質の同時同位置における変化、非変化の存在の概念ーー時間」を導入
すると現在(瞬間)は「有無合一で、実在は物質ノミの為ーー時間と空間
の合一とも言える」が、ここでも、「本質論」の世界でしかなく、少なく
とも4次元世界と言うべきかもしれません。その意味で、「c点論」は
西洋の「有の哲学」「東洋の無の哲学」を超えた「第三の哲学」と言える。
しかし、前述の「矛盾と無限の視座」の承認が必須条件です。この条件が
アル限り、「科学」(素粒子)と「本質論」(c点)は超えられぬギャップ
を有します。いろいろ哲学的にも問題を含みます。物理学の参考になる
とは思いませんが、一つの試論、思索です。 ↑、 139につづく
「もうこれ以上分割出来ない」素粒子を、「思考のみ」で論理も無く
もちろん、技術的方法論も無く、乱暴にも、思索した事は、私が
「科学」でなく、「仏教哲学の矛盾」を長年検討していて、「華厳経」
の解釈としての、思いつきからです。
なを、「華厳経」宇宙にも「時間はナク、単純に、量子力学と結びつ
ける事はアヤマリ」です。私個人の意見ですが。
以上、なにかの参考になりますでしょうか。 物理の世界では、イマムラさんのc点のことを素粒子の正体という命題で研究しています。
たとえは光はある観測方法では波として振る舞い、ある観測方法では粒子として振る舞います。
今のところこの二面性を同時に合理的に説明できるモデルは存在せず、試行錯誤が続いています。
しかし同時に説明出来なくても、あるところでは波としての性質を利用して実利を得て、またあるところでは粒子としての性質を利用して実利を得ています、これが科学の科学たる所以です。
しかし一方で今の科学がパラダイムシフトするための準備、つまり本質的な真実を探究する基礎研究も続いています。
光の正体もしかり、また量子の世界には観測問題というのがあって、粒子のエネルギーを正確に観測するためには位置が分からない、位置を特定するとエネルギー(要するに速さ)が分からないのですが、
それは観測技術の問題ではなく、この世の原理なのだと証明されています。そのことが示唆するこの世の正体(モデル)は発明されていません。
ドブロイはこの世のモデルとして全ての物質は波なのだと考えました、粒子も観測される波と観測する波の何らかの相互作用の結果だろうと考えたのではないでしょうか?
c点とは違って今の物理学では粒子の大きさをゼロにしてしまうとたちまち物理を支えているあらゆる式が崩壊してしまうので、無限に小さい、ということにせざるを得ないのが現状ですが、
例えば粒子とは波と波の接点のことであり、それはまさに数学的点であって大きさはないというような取っ掛かりとしてのモデルはすぐ思いつきますよね?
物理もc点のことを考えているのです、ただし誰にでも正確に理解できる共通言語としての数学を使います。これは国際的共通言語ということよりも、
自然言語が本質的にもつ曖昧さを排除する意味が大きいですね。そして数学を使うもう一つの利点は論理矛盾に自ら気づく(矛盾があれば成り立たない)点です。 無から有は生じます。
この世の中では、何もなくても、思いの力は異界に通じ他力として
協力していただけるので、主なる神の御心に適えば、無から有は生
じて顕現してまいります。
それを人は奇蹟と呼ぶのであります。 蛇足ですが、私がc点に至ったのは、「いわゆる仏教哲学(釈迦、竜樹
による思索禁止があり、スコラ哲学に似て、自由な論理的観念連合のない
、ヒィロソヒィーと言え無い哲学)における矛盾」を長年、師もなくて
検討して、「c点」に辿りつきました。そして、
「c点」=「大日如来」が私の「仏教観であり華厳経解釈」です。空海と
同意見と私自身は考えていますが、「古代インド思想」で、「空」思想
とは別に、有無合一体(S、イマムラのオリジナル)、つまり、「c点」
を、西洋の有の哲学、東洋の無の哲学に対して、「第三の哲学」として
考えています。しかし、宗教としての「空の思想」を否定はしません。
これも「本質論」で信仰とは矛盾しません。他の宗教での「神の存在」
を否定しないのと、同様です。私自身は内科医であり
「いのち」アル限り、この世(宇宙)はある。
「いのち」ナキ所に、この世(宇宙)もない。
と考えて、現在も田舎のクリニックで診療に当たっております。 >>145
仏教に於ける、無と有の概念と「空」概念の論理的な違いはどこにあるのでしょうか。
又、“有無合一体”が「大日如来(=C点)」と述べていますが、その論理を具体的に述べてほしい。 有無合一体とは。
有を否定したも
のが無である。
その両者の主語は有であり無であることになる。それはその両者を独立させて分離したものである。
だからその分離以前が有無合一であることになる。
そしてその分離の順序が問題となる。有が先なのか、それとも無が先なのかの問題である。 ↑、 146−147様へ
ご面倒でも、私のサイト(合計16本)を熟読願います。
単なる「議論の為の議論」としか、考えられません。
その上で、私に「誤りーー論理の矛盾。観念連合の破たん。など。」
あれば、私も「訂正」致します。一部の「言葉尻」をとらえての質問
には、「縁なき衆生」と思い、お答え出来ません。
なを、「見解の相違」は参考に致したく存じますので、明確に教えを
お願い致します。よろしく、ご理解の程を。 イマムラさんの第三の哲学には興味をそそられます。
ペンローズやホーキングなどに代表される現代宇宙論は
極力、髪の一撃と言う始原を回避して宇宙論を展開しようとしています。
西洋の知性がそのような理性的なアプローチをしてるのに
東洋の知性が、自然科学的な知識の不足から来る、無の概念にとらわれているのは
情けないと思います。
始原も無く、無も無いという出発点こそ現代人には必要なのではないでしょうか。 >>148
哲学するんじゃなかったの?
結論がでたならそれはやっぱ宗教だわ。 ↑、 150様へ
「哲学」は形而上も形而下も含めて、本来のフィロソフィー{知を
愛する)と言う意味で西周先生も「哲学」と言う日本語訳を創ったと
思われます。「哲学」は、「論理的観念」の「整然とした観念連合」
により、本来の「自己意見」を述べて「自己の思想」を語るもの、つまり
その意味で日本に齎された「学問」と、私は理解して居ります。この世(宇宙)
の真理(本質)を、論理に矛盾する事なく求めるもので、もちろん、反論も
自由であります。訂正不能なものでは無く、自由に思索すべきものです。
「宗教」(私個人は本質論の一種と考えますが)、それは、論理の矛盾は許され
ます。これが、この世(宇宙)の真理、本質とされた事を「御条件に信じ、行う」
事を強要されます。それが、信仰です。また、自らの思索、修業により
「さとりえた」真理、本質は、当然の事ながら、「自ら疑う筈はない」ので
そこに、論理に矛盾があっても、それは、「科学」や「哲学」でないので
許されます。
「哲学」と「宗教」は明確に、異なります。
なを、私の「本質論」については、「c点による時空論 改訂版」など
サイトを検索、検討してみてください。 哲学は宗教でしょうね。
宗教は哲学でしょうね。
あるときの哲学は宗教でしょうね。
あるときの宗教は哲学でしょうね。
ずっと無は無いのでしょうね。 ↑、 149様へ
「c点」について、お目に留まりうれしく存じます。「本質論」と言う
私の論法は、「矛盾と無限の視座」と言う問題があり、「科学」(素粒子)
とは、ギャップがあり、量子力学とはつながりません。数学も物理学も、
ワカリマセンが、「c点」より発展させた空想を、最後のサイト「いのち」
に書きましたので、時間が有りましたら、「ななめ読み」して下さい。 ↑、 152様へ
自由な思索に制限、禁止を付けたものは、「いわゆる」哲学でしょう。
例えば、「仏教哲学」「スコラ哲学」など、他にもあるかも知れませんが
私は、不勉強の為に、他の例は知りません。 もう少し書かせて下さい。
私は、内科医の為に専門的なことは、ワカリマセン。もちろん、
サンスクリット語など、それどころか、長い事田舎の開業医でした
ので、英語(学生の頃はドイツ語)も縁うすく、医学雑誌も日本語
それにネット検索で何とかしてしている毎日です。
釈迦は、「既成観念なしに、生まれたままの、純粋な心(無我)」
から思索をはじめ、「人は成長と共に執着を持つ」とさとり「執着が
総ての苦悩」を生む。本来の「無心,無我」(本来この世は無で、実態なし)
に戻るべきで、「本来無いもの‐‐無の世界」に拘るべきではない。
この無の思想から、人々の「済度」に至り、後に、竜樹により「空」思想
として完成した。この間に「唯識派」とする同思想のグループも生まれた。
この思想は現在も「東洋の無の哲学」として、世界に知られている。
認識主体も「ない」。認識対象も「ない」。よって、もともと、総てが
「ない」。しかし、宗教の為に、論理を問う必要はない。日本仏教の中心
の思想である。修業から「空の境地」にまで至る者も多い。日本の
歴史の中で、文明、文化、政治、など影響は大きなものがある。
「無」の世界。芸術でも、思考でも、神秘的な、不思議な魅力がある。 矛盾への誤解について
私のサイトに詳しく書きましたが、上、155のつづきとして書いて
置きます。まず般若心経ですが、
「色即是空」「空即是色」→「色」=「空」(矛盾)
と考えていました。また、西田哲学ですが、
「絶対矛盾的自己同一」→絶対矛盾(有と無)があり、それが
自己同一(有=無)→矛盾
のように考えて、両者とも「矛盾」がこの世(宇宙)である。との
「訓え」「思索」と考えておりました。
しかし、皆様には当然これは、私の「誤解」である。
と、お分かりの事。
若いころは、この世は「建て前」と「本音」があり、これが矛盾と
考え、この両者を「使い分ける」ことが、「大人の男」と考えて
居りました。参考までに。
「空」の信奉者には、上に書いた様な「誤解」もある事をご理解下さい。 155
無の世界か。本来この世は無で、実態なし、か。
その論が存在論になっているからして問題となる。
認識主体もない、認識対象もない、か。否。
それは存在論であることになる。
存在論でもって無を確定することは誤りである。
だがここは秘伝となるのかも。 >>151
貴方のc点が前段で立てるあらゆる仮定が検証不能であり、その結論も検証不能です。
仮定と結果の両方が検証不能な場合、これは論理として意味を成さず、最早矛盾の有無の話しではなくなっています。
意味深な言葉を投げかけて相手の器に応じた解釈に委ねるコミュニケーションは芸術と呼ばれるし、検証不可能な要素で組み立てられたこれまた検証不能な結論に身を委ねることを信仰と言うのだと思います。
共通点は決して反論される事がないという点でしょう。
学問なら反証可能な主張をすべきかと思います。 1の立てた命題を論証してみよう。
無とは一切、何も無い、という事である。
という事は、時間もない。つまり変化がない。
何かを生み出す為の材料も無い。
聖書でさえ、神を先に想定している。
つまり、全くの無ではなかった。
神というものが在った。
ギリシャ神話でも、
最初に混沌があった。
これは、まだ輪郭がはっきりしていないモノであり、
素材のスープのようなものだが、
存在者である。
一切、時間も材料もないのに、
何かが生じたりする事は不可能だ。
皆無は無限に皆無である。材料と変化に欠くから。 ↑、157−159さまへ
「科学」では我らの感覚器官(科学技術による補助装置)により認識
される現象世界(空間における物質、物質の変化の持続から認識される
流動する時間ーープランク時間として科学はその実在を共通認識)が研究
の対象である。この世には、同じものはナイ。よって、観測、統計処理
を経て、出来れば再現実験を経て、%を以て「この世(宇宙)の真理」と
する。時には、貴重例は後の為に「一例報告」と記録されもする。
「哲学」では、形而上であれ形而下であれ、「矛盾のない論理的観念から
論証すべき真理に、破たんのない観念連合を以て、結論に至る。」
以上は、万人に一応の「共通理解」が得られる。
その他は、総て「本質論」で、もちろん、c点論も含まれる。これを拒否
するのは、各人の自由意思です。宗教も「本質論」です。多少の論理の
矛盾は許されます。文献、各界の権威、などなどを「根拠」に自己主張
するのは、自由で有ります。それが「安全で、いわゆる、大人の思索」で
あります。しかし、「真理を語る」には、科学や哲学程の「信頼性」は
ありません。
c点論も「本質論」で「矛盾と無限の視座」(私のオリジナル)を認めない
者は、「縁なき衆生」であり、c点論を拒否し、お立ち去り下さい。
「科学」「哲学」「本質論」については、「c点によるジクウ論 改訂版」
以下に合計16本のサイトが有りますので、検索、熟読、検討をお願い
致します。なを、「見解の相違」は私にとり「貴重です」ので、私の様な
唯物論者にも理解可能な様に、「明快な要点」でお教え下さい。
以上の説明で了解は無理とは存じますが、私のサイトも熟読願います。
お時間と皆様の心が、許すならで結構です。 159.
それはたんなる存在論であるだけである。
その範囲から脱出しないのであれば、それは正解であることになる。
存在者をいかに否定するかの問題であることになる。
それが宗教であることになる。 160.
本質論とはなにか。
本質論一般ではなくして個別の本質論がもんだいとなる。
例。宗教の本質論とはなにか。
有無合一体がそれか。大日如来がそれか。 ↑、 123様へ
失礼ですが、ご質問の総ては、私のサイト(16本)に詳しく書いて
有ります。検索、熟読、ご自身で思索の上、改めてご質問ください。
文献、各界の権威、などより、自己主張するのは、「安全で、世なれた
大人の、思索」ですが、やはり、フィロソフィー(西周先生の日本語訳
の気持ちを重んじて)−−知を愛する原点に戻り、お互いに、勉強しま
しょう。
私の「c点論」を検討せずに、「言葉尻を捉えて、議論の為の議論」の様
に感じられます。123様の「議論の論点も、ご自身の立場からの見解も
なく」お答えは、出来ません。
ご理解はご無理と思われますが、「接点なき空論」は避けさせて頂きます。 123様へ
「病識のナイ精神障碍者の騒ぎと、責任能力に欠ける妄想(自分では
訂正可能な心が残っていると)と、礼儀知らずとお許し下さい。
後期高齢の田舎医者で、先もなく、若さもなく、恍惚で多弁で、先生
の様なお方の前も、弁えなく、ただただ、お見逃しを。 私は先生ではないのでご安心を。
空論が好きなだけである。 「学問というのは、ある人にとっては神々しい女神であり、ある人にとってはバターをくれる牝牛である。」
空論も楽しいですよね。 >>130
大乗仏教(般若心経)の「色即是空」・「空即是色」は、S、イマムラ氏が述べているように
色(物質=有)は即(直ちに)「空(精神領野=非現象=無)」であり、「あるもの」は「ない」そして、
「ないもの」は「ある」という論理ですが、この論理は一般常識(三次元構成による物質観)から捉えた場合に
矛盾した論理に見える。
この論理を量子力学の世界に、そのまま当てはめて考察すると、この論理の仕組みが明確になってくる。
つまり、>>141さんも述べている様に、光子・量子は粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を「一つのもの」の中に
併せ持っている。 この「波動」は物質ではなく、四次元構成以上による「状態(物質以外の存在)」と定義されている。
従って、量子力学の世界では、「一つのもの(量子・光子)」が有(三次元構成の物質=粒子性)と、無(四次元構成以上の精神性=状態)が、
「有無合一体」の世界として捉えられており、ここに於いて存在論と本質論との融合がなされている。 170.
仏教か。
有無合一体か。
弁証法では有を否定して無となり、無を否定して有となる。
そこで問題となるのは存在論か、否か。
それは存在論ではないのである。断定か。
以下秘伝。逃げであるかもよ。 量子力学の世界が、粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を「一つのもの」の中に
併せ持っているのは非常に興味深い。
科学の最先端の理論が、物質(粒子性)を基底とするだけではなく、波動性(状態の性質=精神性)を
併せ持っていると言うことは、二元論的な粒子性と波動性が、“同一化”していることを現している。 >>174
「量子(光子・原子)」が、粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)を
「一つのもの(量子)」の中に併せ持っているということは、デカルトの“心身二元論”として捉えると、
心(精神)と物質は、二元論のように独立した存在ではあるが、同時に“心身合一(一つのもの)”という
存在の仕方をしていることとして捉えられる。
我々、一般常識から見れば、一見、矛盾したように見えるが、これが現実の量子の姿なのであり、不思議なものである。 物理学は物を扱うが精神は物ではない。有益なデータがいっぱい詰まったデスクの
重量は空のデスクと同じ重量である。
我らは配列、物質界とは違う次元、違う宇宙に属している。
生命は何兆というコピーを僅かなものより作り出すが物理的には元の物質と等価で
ある。配列は(精神は)物理現象を超越しているが故に何でも可能なのだ。
死者の復活もタイムマシンも瞬間移動も不老不死も、大借金の返済も可能なのだ。
つまり、法然上人が言うごとく。
弥陀仏の誓願によりすべての衆生はもう既に救われている。
安心いたせ、量子力学などどうでも良い。
南無阿弥陀仏。 大学院に通いながら精神科にも行くヤツw
新奇的なのかな?w 無とはつながりがないことを言う、
つながりがなければ有は無になる、
繋がれば無は有になる、それだけのこと 無から有を生じさせる方法は次のとおりです。
変換1 無⇒MU
演算1 MU−M=U
変換2 U⇒有
以上、変換1と演算1と変換2により無から有が生じることが実証されました。 「c点」論は、科学的(有無のプラス、マイナスの2元思考)以外に人間感覚
では「思索は不可能」であり、c点、つまり、有無合一体は実在しても「思考限界」を超えてしまいます。また、
無限も同じです。「有無合一体と無限」を「実在と信ずる」事により、c点は成立する故に、これは
当然「本質論」です。「c点」を信じても、ご存じの様に、感覚器官は「無を認識出来無い」ので
我らの「日常性には変化は無い」ゆえに、これは「地動説」後の「パラダイム」としか言えない。つまり、「21世紀のパラダイム」である。 変換1 無⇒MU
演算1 MU−M=U
変換2 U⇒有
演算2は、MならばM*U
(not M) or (M and U)
M U (not M) (M and U) ((not M) or (M and U))
0 0 1 0 1
0 1 1 1 1
1 0 0 1 1
1 1 0 1 1
MU-M=Uはなりたたないか。面白そうだったが、残念だ。 ↑ 198
念の為ですが、感覚器官(有と無を正しく分けるもの)と無関係には
脳とその神経回路(思索)は働きません。蛇足でした。 無が間違いか存が間違いか。
存は間違いないから、無というものは無い。 日本の女子の低就業率を無職の俺がもつ理由がないのだよ
ニコ生で毎晩絡んでもらってるところ本当にゴメン、、、 非在も絶対無も言語じゃん。「言語化できないもの」ていう「言語」でしょ。
「この文は偽である」ていう有名なパラドクスと同じ構造に見える。
意味を考えないで表層で捉えた方が簡単じゃないか。例えば、
定義1.存在とは言語や記号(情報)
定義2.情報の原理は追加。同じものは2度と現れない。
定義3.複数の情報に同一性を設定するのは任意にどうぞ。
とする。
Aは記号なので存在(定義1)
A=Aの、=と2個目のAは単なる情報の追加(定義2)
だけど同一性=を定義するのは自由(定義3)
これで同一律が発生。以後、論理の構築が可能になる。
「言語化できないもの」は言語なのでちゃんと定義1を満たす。
無も非在も絶対無も同じ。つまり立派な「存在」。
で、自然や世界は、定義3とは無関係で論理が発生しないと仮定する。
すると論理がないので矛盾もパラドクスも発生せず、コンピュータの
ように突然ハングもしない。
これは実際の世界と整合性がありそうだ。なのでとりあえず採用。
マルチユニバースとかで突然消えちゃう宇宙とかが観測できたら
「あれ、自然も定義3を採用してたんだ。てへ」て感じ。 >非在も絶対無も言語じゃん。
セックスが好きならする、子供が欲しいならやる
それだけじゃないか。 一言言わせて下さい。「c点論の世界(21世紀のパラダイム)」と言っても、
過去の「歴史の変化は無い」し、これまでの「科学的真理は変わる事は無い」
そして、地動説により「日常性に何らの変化が無かった」ように、c点論により
「我らの日常性は変わるものでは無い」。だが、地動説以後には「地球は球体」
である事は、疑われず、一例として、「コロンブスのアメリカ大陸発見」が有った。
「c点論」でも、「科学的と信じられていた社会主義理論にも疑問」が生まれ
かも知れ無い。他の分野も関係して、現実社会では利害も、新しく発生するかも
知れ無い。現状では「c点論を認めるメリット」はすぐには現れ無い。以上、蛇足
だったか。 繰り返しに成りますが、
「いのち」ある所に、この世(宇宙)は有り、
「いのち」無き所には、この世(宇宙)も無い。
これは、総てのものの「大前提」であり、科学も、宗教(無の哲学、仏教の)
例外では無い。勿論、「c点論」も例外では無い。
蛇足ですが、これは仏教の「唯識論」とは全く無関係であることは、何方
にも、お判りでしょう。 コロンブスの大陸発見というけど
そもそも海の果てなんて誰も信じていなかったのでは?
事実ヴァイキングはコロンブスよりはるか数百年前にアメリカに植民地を築いていたのだし
c点論などなくとも人の好奇心は壁を打破する さらに言えばコロンブスが大陸を発見しただけで人類はその遥か前に大陸を発見し既に済んでいた
人類という目で見ればコロンブスはなんの役割も果たしていないただのゴロツキだというのが事実だ 最後に
安易にも「21世紀のパラダイム」と書き入れましたが、これは、内科医
S、イマムラの「扱える問題では無い」のは、自他共に認める者である。今後。
世界の「歴史(時間)になると信じて居ります。
2016年5月30日 内科医 S、イマムラ 記す この世のすべてが有で満たされているなら無は生じないだろう
しかし無が認識できないだけならあるのかもしれない
むろんその無が認識されたとたんに有に変わるような性質だったとしてもだ
まあ要するに3次元の生物である人間にとっては妄想するだけしかできないって事 無から有は生じない
これがそもそも間違い
無は文字通り一切が無いのであるから、そこには法則すらないのである
因果関係がなければ何かが起きないとか、時間軸がなければ何も生じないなどの法則もない、
つまり無から何事も起こりえるのである 死から生は生じないので、この世はいくら遡っても完全な死はない? これまでの繰り返しに成るが、@有の哲学(自然および人文科学)ではこの世(宇宙)には
「有と無」しか無く、「有はその示す変化も含め、同じものは無く、時空に唯
一絶対の存在」であり、「類似の有」の観測、計測、統計処理により「確率%を持って
「真理」とする。確率の高い「真理」ほど「一般に、人類を含めた、自然にとり
「有用」である。が、「一部が多数」を支配する「悪用」もある。A無の哲学(有を除く
総て)では、神仏、道徳、美学など「有は無い」が、それらを「信じ、感ずる」者に
とって「のみ」の真理であるが、「一定の基準を創れば」そこには統計処理も有りうるが
その信頼度(確率)を「評価」は低い。だが、それ故に「低価値とは断定出来
無い」が、その「真理」を第三者に「伝えるには」、「有の哲学」によらねば
ならず、「有と無」の2要素による「2進法」にはならずに、「難解」「断定」
が中心と成らざるをえ無い。B「有の哲学」は「有と無」(+、−)の2進法で「情報」
を「脳」の思考回路(2進法)に伝える。電算機と同じだが、「無の哲学」には
この様な、「論理性」に欠ける。だが、人類が、「無の哲学」を無視は出来無い。
C「第三の哲学(c点論)」はこの世(宇宙)は、「有でも無く、無でも無く、全く
異質な「c点」(有無合一体)より成るとする認識。これについて、諸賢の
ご検討をいただきたい。(2016年8月21日 記録する) ↑ 216 に補足。
「異次元や多次元」で、この世(宇宙)を解明する試みも有るが、「c点論」
と同じ「本質論」と考える。この場合も、科学的(2進法)論理性は必要で
有る。「c点論」がオリジナルな「視座」を要するように、「本質論」は得意な
「視座」無しには、成立しません。「c点」は「2進法に成りません」のですが
「科学的思考」の「障害にはなりません」。 蛇足でした。 世の中は基地外ばっかりだと思っていると
体が自然と基地外に引き寄せられていくそういうことだ ↑ 217につづく
この世(宇宙とそこに起こる現象)について「真理を求めるなど生き方」など
は、すべての行為は、「哲学」が必要ではない。とにかく、「いきる」という
「現実」が、重要で、「原理、原則」があって、人は生きるのではない。たとえ
それが、原理、原則に「反する」としても。(2016年8月23日 記録する) 侵されない領域としての可能性の深淵が、
無限大に飽和して矛盾を形成する。
その矛盾形成プロセスが極にいたり矛盾が形成されたとき、
その世界に存在できなくなった理が外部世界に放出される。
これが、矛盾による理の出産である(無性生殖)。
理は、その内部を内部分割する1本の可能性をもつ。
他方、母たる矛盾は無限大へと向かう動的なプロセスである、
完全性を獲得するには、あと1本の可能性が欠けている。
そこで、理は、自らの内部を内部分割する1本の可能性を、
母たる矛盾へと挿入する。
S−EX、つまり、母たる矛盾と息子たる理の交合(SEX)である
(有性生殖)。
この交合により、
息子たる理は1本の可能性をうしない、
母たる矛盾は1本の可能性を得て、いずれも1を獲得する。
1は生の数であり、
生命に雌雄の2系統が存在するのは、
矛盾をもとにして1を獲得した生と、
理をもとにして1を獲得した生の2系統が存在する理による。 参考までに
生物学(生殖、生命など)」、他の人文科学などを考える時、脳と神経回路(論理的思考)
は感覚器官(有と無 +と− の分別)からの「2進法、2元的」情報でしか
処理できない。(2016年8月30日 記録すする) ↑ につづく
「認識対象が不明瞭」な「感性、悟り、など」は言語で「2進法で表現
出来無い」が、それを他者に言語で伝える為には「2進法に、論理に」依る
為、「南海」「独断」は避けられ無い。(同上) ↑ ていせいの(南海→難解)
「感性、悟り」等は、認識者の独自の表現(絵画、建築など}は有る。
だが、他者は「再現」は出来無いが、「有用」でも有る。(同上) 参考まで
人類の文化文明に「飛躍的激変」を生ずるのは、「2進法を超える」天才的
な数学者の出現を待つしか無い ?「Ⅽ点」からはそれは生まれ無いがが、
「パラダイム」では有る。(同上)
[ 参考までに
「パラダイム」とは、「文化、文明の本質的社会的基盤の変化」では無い。
それは、「文化、文明の哲学的本質的基盤の内容の変化、質的変化」で
有る。「日常性の変化」を意味し無い。(同上) 参考までに
@「有無と区別不能な状態」は感覚器官により「その状態」のまま「脳と関連回路に伝えられて
「その状態」より運動期間に命令されて、「特異な作品」となる。
「理性」は論理的で電算機(+と−、としての処理)的処理。「再現性アリ」。
「感性」は非論理的で、「再現性ナシ」だが有意義である。 228につづく
「理性」と「感性」とを兼ね備えたものが、「いのち」である。
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