[教行信証]親鸞の哲学[歎異鈔を読む] [転載禁止]©2ch.net
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どうでしょう親鸞。吉本隆明・梅原猛・五木寛之などの著書の話も可。
歎異鈔面白いので読んでみませんか? >>203さんありがとうございます。
私は創価学会員でありながらも親鸞の宗教的天才性を感じ浄土真宗を今知ろうとしている訳ですが
(と言っても元々創価学会家系なので退会はしません)
お念仏の事に言及されてましたが、「意識の流れ」というワードは素晴らしい物だと思います。
以前高田派の方書かれた書籍か何かでこんな話を読みました
人が死ねば阿弥陀如来が現れ手に五色の紐を結び、そのまま西方にある浄土へ連れて行く。
どんんどんどん連れて行く。時間は流れてもどんどん連れて行く。
100年前に死んだうちのご先祖はもう西方の浄土にたどり着いたでしょうか?と尋ねられた
「否」と答える。100年前に亡くなった人も200年前に亡くなった人も
今も阿弥陀如来が西方浄土へ向けて移動している最中なのだから。
という事を読みました。「意識の流れ」と「時間の流れ」と相通ずる何かが在るように思えて仕方がありません。
留まることなく流れゆく事象の中で、そこに留まる念仏というのは、私達の生きる人生の流れを更に意識的してくれる物では無いでしょうか?
創価学会員の私がこんな生意気な事を言って申し訳ない。
今後とも意見を聞かさせて頂けるなら、私にはとって心の慰め、心の喜びとなりましょう。 >>204
日蓮(私達は日蓮大聖人と呼びますけれども)が関わる宗派仏教、新興宗教は実にたくさん存在しています。
ハッキリ言って混沌です。日蓮を釈尊以上の存在と主張するものから、一番下の階層において下座行を行う菩薩という主張もあります。
私が関わる創価学会は第一に日蓮大聖人、2番目に御書根本(日蓮の遺文)3番目に法華経という教学(指導)があります。
混沌の主な原因は私の主観ではありますが、日蓮自体いや法華経自体を原理主義的に捉えるか?メタファーやレトリックとして捉えるか?
の違いに思えてなりません。ご存知かも知れませが私達創価学会員はしつこく折伏(勧誘)やF獲り(公明党投票のお願い)をしています。
つまり活動的な学会員も、勧誘する現地言明も俗世の御利益をアピールし、また学会員の多くが来るか来ないか分からない御利益にコミットしています。
だからこそ熱心なんです。喩えは悪いですが目の前にニンジンをぶら下げられた馬のようにガムシャラに走ります。
だからこそ、そういう知性の持ち主、そういう切羽詰まった人達で創価学会は溢れています。
バイブルベルトのキリスト教原理主義者のような感じでしょう。またそれ故創価学会員は世間から嫌われてしまうのですが。
そんな中(創価学会員で無いと知らない人が多いでしょうが)ほとんど毎年と言っていいほど創価学会は「教義変更」をします。続きます。 「観念してください。お陀仏ですよ。」と言ったら、脅迫になるのだろうか。 続き
それらの教義変更、会則変更の中で遂に創価学会はエクスポーズ、パブリッシングしました。
「これからは創価学会という組織を仏とする。名ずけて創価学会仏である」と公示しました。
「これから数十年後、数百年後の全てのお経に創価学会仏の名がしるされるであろう」と
これには今まで熱心だった学会員も驚きました。池田大作(私達は先生と呼びますけれども)が長い事、学会員の前に姿を現さない中でですから。
今、私は様々な宗教や哲学に触れようとしているのもコレがキッカケですし
お笑い芸人の長井秀和が一番有名ですが、学会員の多くがTwitterにて創価学会の機能不全を指摘し始めました。
しかし考えてみれば、それ以前に不全は生じていたような気がします。
釈尊の教え(原始仏教)は末法には必要ないと釈尊を否定したかと思えば、聖教新聞にスッタニパータからの引用が載ったり、、
荒っぽい言い方ですが創価学会員の殆どが裕福になりたい!病気を治して欲しい!という低いレベルでの現世利益を求めているのが多数派です。
もちろん、それらの欲求は人間として当然在っても良い物だし、善い・悪いと二元論で語れる物では無いのですが。
ただ誤解して欲しくは無いのは、ごく少数派だとしても知性的というかメタ的というか
形而上と形而下の乖離、言語と言語の間に生ずるスリット、連続性と断続性がごちゃ混ぜになっている
創価学会全体としての問題を冷徹な眼差しで見ている人達もいます。
それはごく少数派であり、学会員組織では何の発言力も無い人達ではありますが。 しかし、創価学会のリベラルだとしても学会員が親鸞を認めるということは俄かには信じがたいな 創価学会も変化していっている昔は右傾化された暴徒もいたと聞いた事があるが、いまは少し軟化しているように見受けられるが、2代目の会長の戸田城聖批判とその頃の学会の悪弊を学会員から聞いたことがある。
いまは公的には世界平和を唱い、政界には公明党もあって、日本最大の宗教になった。
創価学会について好意的とはいかないまでも公明党のスタンスからだいぶ方向性については一定の評価をしている。
しかし一つだけ、他宗派に対する寛容性は、ほぼない学会員は多い。やはり他宗派は真言亡国律国賊念仏無間に近い見方をしている人は多い。
他宗派は地獄に堕ちるというのは学会員の誰もが口にするところだ。
日蓮は優れた宗教家ではあるが熱血漢で妥協を許さないところがあって、南無妙法蓮華に対する並々ならぬ信心があって凄く強い人であったとは思うが、
四か格言は流石にのちの禍を齎したと言わざるを得ない。ともあれ、創価学会は排他的な宗教だということと、では何故他宗派の哲学は駄目なのか、という根本的な問いに曖昧であるように思う。
つまりは日蓮と創価学会哲学と他宗派の哲学の止揚が遅れているのは事実だし、世界平和を謳うのなら、それ相応に他宗派に対して向き合ってくれてもいいのではないか? 一つだけ付け加えておくと、自分は脱宗教のスタンスで生きているので、日蓮も親鸞も釈尊も栄西や道元も全部、同列として考えている。
宗教自体限界があると俺は思う。というのも信心は結局、超越論的な誤謬を含んだものである。
念仏を信じるのも、法華経を最高位の経典とするのも同じことである。
どこにその根拠があるのか、ということである。最後に身を明け渡すのは結局、論理ではなく信心になる。
それが宗教の限界だ。最後に根拠がない。では、それを信心して我々を幸福に導くことの保証はなにもないのである。 昭和の頃からかなり激しく他宗派を攻撃してきた事は学会員の壮年部の方々から聞いております。
ただ2008年に最高幹部の一人が学会組織に外資系経営コンサルタント(?)のアクセンチュアを入れていくつかの政策変更をしてきました。
例の念仏無限やら禅天魔など汚い言葉で他宗派を批判するテクスト、人呼んで「折伏教典」を切り捨てる方向へシフトしました。
ただ、ある一部の宗派仏教(日蓮大聖人系)への誹謗中傷は聖教新聞上で掲載されてますが(1面の寸鉄というコーナーです)
全体的に他宗教、他宗派を敵に廻す事は少なくなってきたのですが、まだ昭和時代に活動された方々も現役メンバーで
その方々のお話は時代錯誤も甚だしいのですが、若い学会員は「ああ、そうなんですか」と軽く受け流して誰も他宗派攻撃する行動原理は持ってないです。現在は。
過去に様々な問題が存在した事はご承知でしょう。
ただ今後は激しく社会に対して嫌悪の情を与える行為は学会本部が禁じていきます。し
今の学会員も昭和時代の情報貧困者ではありませんので、これkら益々自浄作用が働くのではと期待しています。
私が退会しないのは、宗教的信条というよりも代々家系が創価学会文化圏、創価学会経済圏でお世話になっている事実があり
自分の親族が受けた恩義を無視できないという、経済的互助会的な道義からです。 続き
私も宗教が実存の最終的なソリューションになるとはおもっていませんし、ましてや
何らかの現世利益を求める気持ちもありません。
ただ、これは宗教的というよりも哲学的な話なのですが
原始仏教の「無常」「無我(非我)」「空」「縁起」
の思想が大好きなんです。
本来なら創価学会では無く臨済宗やテーラワーダの方が合っているのかもしれませんが
帰属する宗教団体には、何のこだわりもありません。というか全然興味がありません。
哲学と呼んで良いのか分かりませんが
共感ゲームや、みんな一緒主義に対するコミットメントを先ず否定してからでないと
私は何も考察出来ないのだと思います。
ありがとう御座いました。 創価学会はれっきとした日興上人の枝葉なのだからしっかり守っていってください。
ぼかあ親鸞の人間性や考え方大好きなので、浄土真宗の門徒でよかったと思っています^ ^ 創価は日蓮宗の中では完全に邪教だよ。
池田三代目は朝鮮人。本名はソン・テジャク。
日蓮宗名乗ってるけど、実態は池田独裁朝鮮教だよ。 創価学会の初代会長は朝鮮人ではない。
牧口常三郎も戸田城聖も日蓮正宗の門徒であり、日興から分派した日蓮正宗の枝葉であることには間違いない。
が、池田大作は釈迦牟尼佛も日蓮をも凌駕していると豪語したらしい。創価学会の歴史は一通り「日本宗教事典」(講談社学術文庫)で読んだが、わかることはそのくらい。
三代目会長から朝鮮系の宗教支部にシフトしたのかもしれないが、元を正せば日蓮正宗の法華経研究の一派だろう。
創価学会に関しては、規模が規模だけにほって置くわけにはいかない。事に公明党という創価学会の支持母体があり、
政治の面で日本の社会に強く浸透していることは否めない。 ちなみに、日蓮宗は法華経を信奉した日蓮の法華経聖典を基盤としたことは日蓮宗の全枝葉に共通している。
日本仏教には他に日蓮の親に当たる最澄が開祖の天台宗が法華経を信奉している。
それから浄土宗でありながら元は天台宗の修行僧であった良忍が開祖である融通念仏宗も法華経を信奉している。
『華厳経』・『法華経』を正依とし、
『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」を傍依として、
「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という立場から、口称の念仏で浄土に生まれると説く
Wikiより
融通念仏宗は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を踏襲した形の宗教になる。
大まかには、日蓮は天台宗からの一派であり、同時に法然と親鸞も天台宗から出ているというところが共通している。 俺は仏教哲理や哲学を特に親鸞に見出している。
何故なら親鸞の考え方(他力、自然、廻向、浄土門、悪人正機)は弁証法的によく練られているからだ。
特に自力ではなく他力、聖道門ではなく浄土門(清廉潔白な聖人になるのではなく、悪や心の闇をも踏襲した浄土の道)などは止揚のある考え方だと思う。
昔の僧侶がアウフヘーベンである「善人なおもて往生をとぐ 況や悪人をや」なんて弁証法的な言葉を思いつくだろうか?
ただ、霊性的宗教的な力を実際に持っているのは密教だと思っている。
弘法大師の考え方はより霊性を帯びている。護摩業や宇宙の摂理である曼荼羅、真言(マントラ)など。
仏教哲理の浄土宗
より実践的な真言宗
綜合仏教の天台宗ー日蓮宗
より実際的、内面と向き合った禅宗
これかより先に日本に入ってきたのが奈良仏教、南都六宗 >>223
創価というか、日蓮正宗から邪教だけどな。
久遠本仏が日蓮上人の迹仏になってる理論だからさ。話にならない。
創価は池田大作が本仏であり、日蓮さんはその迹仏にしてるからさ。
仏教でも日蓮宗でもないわけよ。
多くの創価信者が騙されて入ってるってだけのことだな。 ,念佛は唱えるものではなく称えるものと思われる。この字の称と唱の違いは大きい。
親鸞さんは字にやかましいお方のようだ。称えるとは、ハカリしるということらしい。聞名号ということらしい。
簡単に言えば名号を聞くということだろう。
真理の門は開かれた。耳有るものは聞けと語った仏陀に通じているように感じる。 釈迦仏教の教えは中道とも言うらしい。右を否定し左を否定したところに本当のもののあり方があるという。
例えば有を否定し無を否定する。両方否定したところに本当の真理があるという。なぜなら本質は空だからという。
空であるからこそ縁次第で有というかたちをとり、また無という形を表す。私が驚いたことの一つにこの考え方が
親鸞さんに正確に伝わっていると言うことです。
。。。佛の悟りはきわがない。この教えを受けたものは有という考えと無という考えの両方を離れることが出来る。
普遍的な真理である空を心にたもて。。。とある。いやービックリした。どうして2500年前の教えが天竺から日本に
このような考えが正確に伝わってきたのか。驚くばかりだよ。 ナムアミダブツ
ナムアミダブ
ナモアミダブ
ナモアミダンブ
どれも回数重ねると言いづらい。
かといってナンマンダブ
だと俗っぽくていいのかわからん。 >>230
わかる!ナマンダブとかナンマンダブは抵抗ある 冒頭にNAM…がありさえすればいい
これは発話時に鼻が開く魔法の音韻 親鸞さん在世はキミョウジンジッポウムゲコウニョライ、なもふかしぎこう如来、南無阿弥陀仏と
となえていたらしい。
しかし口に唱えるだけではいけませんよ。蓮如様も御文章の中で「口にだだ称名ばかりをとなえたらば
極楽に往生すべきようにおもえり、それはおおきにおぼつかなきしだいなり」とある。
親鸞さんは口に念佛を唱えてすくわれたのではない。法然様から念仏の教えを聞いて救われたのです。 >>233
自分で唱えたことはないですなあ すべては阿弥陀さま ナムアミダブ 9回
ナムアミダブツ 1回
で10回単位で唱えてみたけど、結構千回って大変ですね。
暇な時にとなえるとそんな感じ。
二千以上だと、朝起きてから気合いれてとなえつづけないと
できないかもね。 つーかお前ら南無阿弥陀仏と1回称えるだけで死んだときに行き成り訳の分からん
宇宙人の集団に拉致されほぼ永遠の間とも思える時間の中で意識が滅するまで修行するんだぞ?
修行って響きは良いが謂わば拷問を自分に科す訳だろう?
そりゃ色々な菩薩たちが沢山いて色々と手助けをしてくれるだろう
無限に再生される指や手を切って下さり「これ(指や手)は私ではなかった」と再認識させてくれたり
仕舞いに火のかまどの中で「これ(一切の苦痛)も私ではなかった」と認識させてくれることだと思う
俺はあまあ遠慮しておきたい 143 その名前は774人います (JPWW 0Hd3-kSAM) 2018/11/14(水) 04:49:00.91 ID:v2hchzdiH
勇者(皇太子)とその盟友の物語、ドラゴンクエストのストーリーはデファクトスタンダードそのもの!
また、聖徳太子を讃える『皇太子聖徳奉讃』75首(83歳頃)、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首
(85歳頃) があり、如何に親鸞聖人が聖徳太子を尊んでおられたかが偲ばれます。
http://www.joukyouji.com/houwa1610.html 自力本願でもない、他力本願でもない、皆力本願だ!!! 自分のどうしようもない救いようのなさを受け入れて始めて、人は他人にも優しくなれるのだ。 どうだろう。「ブラス・クーバス...」は読むべきだろう。 「裁いてはいけない。」は、阿弥陀仏信仰とは言えない。阿弥陀仏の愛は無償のものであり、「裁くから極楽往生取り消し」とはならない。 法然・親鸞の思想自体はヤスパースが『歴史の起源と目標』の中で言っているように
思想史的にはキリスト教の宗教改革に300年も先駆けた刮目すべきものだと言える
>十六世紀においてジェスイット派の宣教師たちは、
>日本において仏教の一宗派を見いだした(それは十三世紀以来存在していた)。
>この宗派はプロテスタントに驚くほど類似していると思われたが、
>事実そうであったのである。〔中略〕
>ルター派の根本教義と同一といってよいほどのこの実例は全く驚きに値する。
(『世界の大思想32 ヤスパース』 P25) 私は、極楽往生を信じる。南無阿弥陀仏!!!阿弥陀仏に感謝!!!!! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!!!!!! 源平の争いの後にその血なまぐさい争いから宗教家が現れるながれをとらえてみて。 いま話題の映画「歎異抄をひらく」を観て来たけど、とても分かりやすくて勉強になったよ。
現在、公開中だから、歎異抄に少しでも関心がある人はぜひ観に行ってみるといいよ。
もちろん、歎異抄や仏教に関心の無い人が観てもとても楽しめる内容だから、連れて行ってあげると、喜んでもらえると思うよ。 偽悪家=善人
善人=偽善者
偽善者=悪人
偽悪家=善人=偽善者=悪人 進撃の巨人で、エレン・イェーガーが巨人が人間を食うから復讐をすると言う話がある。一方で、巨人に怯えて壁の中で暮らす人間を家畜と呼んで蔑んでいる。
エレンは、罪を自覚していない。善悪の判断ができていない。それは、巨人が悪なら人間も悪、人間が善なら巨人も善という、いわゆる客観視ができていないのだ。 親鸞の"悪人正機説"とは、わざわざ好き好んで悪を行う人間が悟れると言っているのではない。罪の自覚のない"善人"ですら悟れるのだから、罪の自覚のある"悪人"はなおさら早く悟れるという意味だ。 エレンは、人間が家畜を食べることは当然視し、巨人が人間を食べることだけを罪とみなした。このような人ですら悟れる。まして、前者が罪でないなら後者も罪でなく後者が罪なら前者も罪だとわかる人は、なおさら早く悟れる。
これが、親鸞の悪人正機。決して悪人が悟りやすいと言っているのではない、罪の自覚ができる人の方が罪の自覚ができない人よりも悟りやすいと言っているのだ。
よくよく考えれば極めて当たり前の話で、悪人が悟れるという意味不明な解釈をした本願誇りの人たちはとても変なのである。 自尊心が高すぎたり低すぎたりするのは、本質的倫理観が欠けている証拠。 >>254
なぜ 悪人=罪の自覚ができる になるのか
大きな罪を犯しても罪悪感に囚われず人生という限られた時間を走り抜け、逃げ切ってる人はいっぱいいる
逆に小さな罪で罪悪感に囚われ自覚に至る人もいる
前者と後者どっちが大きな悪人だ?
どっちも同じか?
ふざけんな 悪人正機を都合よく解釈しすぎ
『歎異抄』第3章 を素直に読めば「善いことをしようとするな」ってはっきり言ってるんだから
本願ぼこりは変でもなんでもなく自然な事
悪人正機は破綻してる
「いわんや」が破綻の元 間違いがあっても都合よく解釈するよな
そうやって権威って守られていくんだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています