吉本隆明 1924-2012 その3 [転載禁止]©2ch.net
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吉本 隆明(よしもと たかあき)
1924年(大正13年)11月25日 - 2012年(平成24年)3月16日
前スレ 吉本隆明 1924-2012 その2
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1384145331/ >>568
対幻想というのは、人間が個人と個人として相対する場合の、その場合の
二人の相互的な幻想ですよね。牽引されたり、反発したり。だから当然、
〈私〉はAさんにたいする幻想と、Bさんにたいする幻想と違う幻想を持って
しまう。
なんでそういうことを問題にするかといえば、一人の人間が生きている
精神や心の場所というのは、共同的な、三人以上の次元、そしてそれとは
異次元の、二人の対で構成される次元、そして個人の(自分と自分が対話し
相対する)次元、の三つがある。
それらを考えなければ一人の人間の精神や心については総体的に掴まえ
きれない、という問題意識が吉本にはあったから。
あと看護婦さんに恋する、という場合。「『優しい』とか『尽くして
くれそう』とか、 そういうイメージ抜きにして、看護婦さんという職業す
抜きにして」とありますが、「看護婦さんは優しい」というイメージは
看護婦さんA子さんにたいする対幻想を形成する要因にはなります。
職業も含めて対幻想を形成する、ということですね。
よく病院に入院した患者さんが、看護婦さんに恋してしまって、退院した
後でも用もないのに病院にきて、待ち伏せしたり、それが問題になる
場合もあります。患者さんのストーカー化として今の大病院では問題に
なってます。
で、A子さんの側の対幻想もあります。しかしその場合、元入院患者B君
への対幻想は、「恐い」になったり、またもしかしたら「嬉しい。私も
会いたかった」になるかもしれない。 補足すると。なぜ対幻想という次元を考える必要があるかというと。
あの人の学説は到底認められない。あり得ない。宜しくない。否定するしか
ない。しかし、会って話したら、あの人の人柄は好きである。
という場合があります。学説というのはいわばアカデミズムという共同体での
業績ですが、それと、人柄、を別個に捉える場面が人間にはある。
思想は好き。でも会ってみたら人間は嫌いになった。とかですね。
共同的な次元とも個人的で完結する次元とも違う心の次元を設定するしかない
ということがある。それが、〈私〉の心や精神の総体ということである、
ということですね。 丁寧にありがたいです。
>精神や心の場所というのは、共同的な、三人以上の次元、そしてそれとは
>異次元の、二人の対で構成される次元、そして個人の(自分と自分が対話し相対する)次元、の三つがある。
これは、
三人以上の次元→例えば演説
二人の対で構成される次元→ダイアローグ
個人の次元→モノローグ
みたいな捉え方にも似てますね。
>対幻想というのは、人間が個人と個人として相対する場合の、
>その場合の二人の相互的な幻想ですよね。牽引されたり、反発したり。
『対になる』って言葉に惑わされて、
例えば『尽くしたい看護婦A』と『尽くされたい元患者B』
みたいな相補的、転移的な関係【のみ】を特に対幻想って呼びたくなるけど、
物凄く単純化すると、誰か対した時に抱く幻想自体を言ってる訳ですね? >>570
ああ、分かりやすいです。
公の場での考えや人格と、二人の時の考えや人格って別問題ですもんね。 >>571
>>572
また興味深いのは。対幻想をひいてくるしかない事例として、吉本は学校でのイジメ自殺問題
をあげていることがあります。
母親との関係で、傷ついた、失敗した人間同士が引き寄せ合い、起こってくる関係性である。
としていました。ここでの対幻想を、すなわち母親との失敗した対幻想を、反復する、と
いう意味があったと思います。
したがって、他人から見て、不思議なくらいに関係性に固着されてしまう、ということが
起きる。あんなくらいで自殺なんてひ弱だ、やり返せばいいのに、とか言われてしまう。
しかし、無意識の根本、原意識の部分で引き寄せ合って起こることなので、他人からみて
理解しがたい固着が起こっている。よって大人から見て不思議なほどに抜けられないまま
自殺に至ってしまう。あるいは加害者は自殺に追い込んでしまう。
したがって、イジメ自殺には、母子関係まで考えなければ理解できない面がある、という。
母子関係が基礎になってつくられる対幻想ですね。
イジメ自殺について最も根本的に視ていたのは吉本だったろうと今でも思っています。 >>573
吉本の母子論議には強い疑問を持っている。
なにより、満足の行く子育てができた母親など、存在しないだろうということだ。
いじめのような日常風景の根拠に、母子関係を限定して持ってくるのは、到底無理だという気がする。
吉本は自身の姉について何回も語っているが、母親については語ったことがないようだ。
原初の国家における姉弟の関係を重視する吉本は、また、個人としての人間関係(対幻想)の躓きのすべてを母親に求めている。
母型論ではなく、母原論だ。
吉本自身が母親との関係に大きな欠落を持っていたんだろうか? >>573
とても興味深いし、僕は対幻想の定義を効くくらいのレベルですが、僕も何となく>>574さんよりの意見です。
実は僕はイジメられやすく、大人になった今でさえ、たまに似たような関係を反復しています。
やっとそれに囚われなくなって来ましたが。
一番最初のものとして、保育園で皆の仲間に入れず、ガキ大将みたいな奴にイジメられていたのを記憶してます。
が、それが母子関係の歪みから来たようには思えない。
もちろん無理にそう解釈することも可能だが、どうも腑に落ちない感じですね。
僕としては、集団ないで蔑まれ貶められる自己イメージ(自己幻想?)があって、それがイジメを誘発してる気はしています。
そういうのはヴァルネラビリティーって言うんでしたっけ? 僕としては、集団内で蔑まれ貶められる自己イメージ(自己幻想?)があって、それが相手の対幻想を刺激してイジメを誘発してる気はしています。
そういうのはヴァルネラビリティーって言うんでしたっけ? 消費資本主義は挫折したのかなあ。
日本では微妙なところで維持されつつも行き詰まっている。
プレカリアートの出現を吉本さんは予期できなかった。 >>574
>>575
吉本に依る先のイジメ自殺論がよく語られているのは『ひきこもれ』ですが。あれを再読してて
再発見したのは、母子関係の失敗、として、必ずしも子供が生まれて生長してからの
やり取りのことを言っているのではない、ということですね。そこが再読して分かったこと
ですが。
「いじめの問題で忘れてはならないのは、いじめる子供と、いじめられる子供の両方が
問題児だということです。問題児とは何か。それは、心が傷ついているということです。
たとえば、元気で乱暴な子供が、おとなしい子供をいじめていたとする。両者は正反対
のタイプのようにみえるかもしれませんが、心に傷をもっているという一点において共通
しています。」
「ただしぼくは、ここでいう「傷ついた子供」が、親が子供に対して行なった言動によって
傷ついたというふうにはとらえていません。」
「なぜなら赤ん坊というのは、胎児期はまさに母親と一体ですし、乳児期も、お乳をもらったり
オムツを替えてもらったりと身近な人に世話をしてもらわないと生きていけません。
親が世界のすべてであり、親と自分はほぼイコールであるこの時期は、親の心の傷を
、無意識のうちに自分の心の傷にしてしまう時期なのです。」
「ただし、すべてを母親のせいにするわけではありません。原因は母親が不幸であること
なのですが、不幸のもとを作っているのは夫だったり家族だったり社会だったりするはずです。」
「ひどいいじめを受けたとしても、死なない子は死にません。
自殺する子供は、育ってきた過程の中で、傷つけられてきた無意識の記憶があるのだと
思います。子供が受ける無意識の傷とは、前に述べたように、子供を育てる親自身が
傷ついていたということです。傷ついた親に育てられた人は、死を選びやすいのです。」 今回再読して、改めて目についた箇所はこういう箇所でした。親の傷の転移が子供の
自殺願望の起源だという箇所は、自己という世界の起源がどこから来るのか、という
問いからも、参考になった箇所です。
『ひきこもれ』大和書房は今でもamazonでは入手しやすいですから覗いてみたら
良いんじゃないかと思います。 >>578-579
吉本の胎児論は、「心的現象論本論」に詳しい。
ただ、「本論」は『試行』掲載時のままなので、メモ的な引用が多く退屈する。
そこで語られているのは、いわゆる胎教となにも変わらない。
母体が穏やかな気持ちで胎児に勉強を教えるのが一番、といったたぐいの戯言にも見える。
仮にそれが効果がないこともないとしても、そんな気持ちを、胎児がある程度成長してから出産までの数か月間保ち続けていられる母親がどれほどいるというのだろう?
もちろん、出産後の数年もまた、吉本の母子論にとってはとても重要な期間だ。
かつて吉本は、フロイトの精神分析を時間軸としての構造が欠けていると批判したことがある。
ところが、吉本自身の母型論も本論も、まさにフロイトそのままの、それを胎児にまで延長しただけの、母原論に過ぎなくなってしまった。
それなら、遺伝がすべてだと言うのと大して変わらない。
目が悪くなってからの後期の吉本は、豊富な読書に裏付けられた直感の鋭さが失われて、ただの断言居士になってしまったように思う。 ヘーゲルに対応させた吉本思想体系:
/非知へ
/親鸞\関係の絶対性
共同幻想 \マルクス
アフリカ\/アジア
ヘーゲル/\共同幻想論 /\古事記
/__\ /__\
/個人幻想\ /\対幻想\
/自然\/__遠野物語\/__\
/\ /\
/__\ 吉本隆明体系 /__\
/\ 詩/\ /マスイメージ
/__\/__\ /__\/__\
/\言語にとって/\ /\心的現象論 /\
/__美とはなにか__\ /__\ /__ライプニッツ
/自己表出\ /指示表出\『胎児の世界』\現代 /ハイイメージ
/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
芸術言語論
3分割法は主体性はあるが神秘主義になる、4は主体性は劣るが神秘主義は回避できる
吉本は3、最近の柄谷は4
ラカンのように両者を横断することが神秘主義を回避しつつ
主体性を持つために必要になる
論理学の代わりに詩がある。心的現象論は自然哲学と解釈する。
親鸞を共同幻想論の結論部に恣意的に置いた。
《…念仏だけでいいという価値観をウソだという人はたくさんいるでしょう。他の宗派のお坊さん
もそう言うでしょう。しかし、親鸞の考え方からいえば、とにかく自分は価値観としては最終的な
ところまで到達したという自負があったのだと思います。》(吉本隆明『今に生きる親鸞』) >>581
あまりに杜撰な図式化だ。
そもそも単純な図式化は、吉本の指向から離れていくだけだと思う。
思考の断片を整理するためには、図式化も有効だが、それ以上は見当違いになるだけ。 吉本の共同幻想、対幻想、個人の幻想という概念はとても有効な分類だ。
元がヘーゲルなどにあるとしても、明確に定義づけ分析したのは吉本だけといってもいいようだ。
どの専門分野からも異端である吉本は、専門家から無視されたままだ。
文芸批評の分野でさえ、『言語にとって美とはなにか』の偉業は無視されている。
それぞれの専門家からの反論はないに等しい。
吉本の不幸と日本の知識人の不幸はそこにある。 子供を幸福にする最良の方法がある。
それはその母親を、または育ての親を幸福にすることだ。
幸福な親の下で育った子は心が傷つかない。
世間は勘違いをしている。子供時代に苦労をした子ほど強くなると。
これほど大きな勘違いはない。
この勘違いによっていまでも不幸の連鎖が繰り返されている。 >>584
いいね。
そのとおりだと思う。
問題は、人間関係(配偶者)を選ぶのが難しく、幸福は人間関係に大きく左右されるということかな。 諸々の思想家の思考を「使って」考えるタイプで、必ずしも思想家の思想に即した解釈をするわけではなかったから
或るひとりの思想家を調べ上げることに人生を費やすタイプの研究者からしたらそもそも検討に値しないのだろう
よくて嫌われるか、多くの場合は嘲笑とともに黙殺された >>586
さらに残念なのは、吉本の影響を受けたりファンだったりした人たちが、吉本の提出した問題を深化させようとしないこと。
膨大な思索のどれか一つでも、自分の課題として深化に取り組む吉本ファンの専門家がいてもいいと思うが、多くは自分が吉本になった気で、吉本を矮小化した思索を披露しているだけに見える。 まず外国人ではないということがデカイ
アカデミズムは相変わらず、というか今日においてはより一層、外国からの知識の輸入の傾向が強くなっている
それで学者の吉本ファンの人もその世界で食っていくために吉本を研究テーマに選ばない、というか選べない
そうするとアカデミズムからちょっとはみ出している批評家の出番になるんだけど
やっぱりまだ死んでから日が浅い
吉本の思想咀嚼するには時間が必要じゃないかな
恥ずかしながら私もまだまだ読めてないし 全集も最近出たばっかり(というか今も配本中)だしこれからだね Morgan Frazier - Hey Bully
https://www.youtube.com/watch?v=vAgPvqzboUQ
苛められっ子の視点から苛めっ子へ向けて歌ったような歌詞。
「あなたは私によく似ているのよ」って歌っている。
歌詞バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=7Bv38Nb1tNw >>578
>「ただしぼくは、ここでいう「傷ついた子供」が、親が子供に対して行なった言動によって
傷ついたというふうにはとらえていません。」
>「なぜなら赤ん坊というのは、胎児期はまさに母親と一体ですし、乳児期も、お乳をもらったり
オムツを替えてもらったりと身近な人に世話をしてもらわないと生きていけません。
> 親が世界のすべてであり、親と自分はほぼイコールであるこの時期は、親の心の傷を
、無意識のうちに自分の心の傷にしてしまう時期なのです。」
これは吉本の言葉?
物凄く本質的で恐いくらいだが、これってさ、つまりは証明しようもないし、また、どうしようもないよね?
運命論、もしくは『生まれつきそうだったし、どうしようもない』って言ってるのと等しくない? 多分フロイトの思想を彼流に解釈して
彼自身の子育ての経験にそれを適用して思考してみた結果がこの記述
だから吉本の言葉でもありフロイトの言葉でもある 「生まれつき」というのはちょっと微妙
例えば味の好みにしても(吉本が例に挙げてる時期の後の話になるが)
ごく幼い時期に、親の好みが反映されている味付けの料理を食べることで、その後の人生の味の好みのかなりの部分が規定される
何でもかんでも醤油をかけるようになる、とかね
この好みは生涯に渡って固着する
要するに生まれた後、世界との関わり方を学ぶ一定の時期があり、その「世界の関わり方」のかなりの部分を両親、とりわけ母親から借用するということ
こういう意味ではほとんど運命づけられている、と言ってもいい >>593
好みが生涯に渡って固着してる、とか、運命づけられているとかいうのは、非常に疑問だな。
子供のころ嫌いなものが大人になってから好きになったりその逆だったりすることは全然珍しくない。
なにより、親の好みがどうであれ、子供は親の与えるものを食べたがるわけでもない。
他の性質もそうだが、生育環境やその後の社会環境に大きく左右される。
遺伝や胎児期や乳児期の状況が個性の形成に影響があるのは間違いないが、それは環境との構造的な(ゲシュタルト的な)相互性より大きい影響というわけではない。
ほかならぬ吉本自身、かつてはフロイト批判としてそれを強く主張していた。 >>594
おっしゃる通りです
ある個人の好みに関してその「一切が」幼少期のある時期に決定する、
そしてまた親の趣向の「一切が」子供に転移するというのは言い過ぎです
まさしく貴方が例に挙げたように大人になってから食べられるようになるものはあります
私の記述が言い過ぎかつ曖昧であったことを認めます
ただ、チョムスキーによれば、幼少期に習得する第一言語はその後に習得する第二、第三言語に決定的な影響を与えるそうです
私はそれと同様に、幼少期に食する食べ物によって、
ある個人の味の好みの「型」のようなものは「だいたい」において決まってしまうのではないかと思っています
この段落は貴方のレスを受けて考えたものですが、両親もまたひとつの環境(ないし環境の部分)であり、
そしてまた、赤子の身体というものもひとつの環境(とないし環境の部分)であると捉えた場合、
貴方のおっしゃる環境との相互作用によるゲシュタルトの形成として親子関係を捉えることも出来るように思います
おそらくここには絶え間なき相互作用があり、ゲシュタルトも刻々とかたちを変えていくのでしょうが、
さきに私が述べた好みの「型」というものは、この絶え間なき相互作用の流れにおいて頑固に存続するものもあるのではないでしょうか(ただし貴方がご指摘されたようにすべてが存続するわけではない) そしてまた、「運命づけられる」という言い回しについてですが、幼少期はじめての経験というものは、ある個人の一生において影のように付きまとうものです
子供の時にピーマンが食べられなかったが、大人になってピーマンが食べられるようになったというときも、「子供の頃にはピーマンが食べられなかった」という部分が因果的に絶えずくっついてしまうのです
つまり、すべては幼少期の諸々の経験「からの」移行になってしまうのです
私はこの事実を思い浮かべながら「運命づけられる」と述べました
こうして幼少期の親から影響を受けた好みというものは、
1.存続する型として
2.そういう食べものを与えられたという事実として
形式的に、そして因果的事実としてある個人を「運命づけ」てしまうのではないでしょうか
こういう意味で私は「運命づけられる」という言葉を使いました
前々レスで私が上述の「型」と「事実」を混同して語っていたことも認めます
また私の以上の考えが吉本の主張に即していないことも認めます >>593
> 親が世界のすべてであり、親と自分はほぼイコールであるこの時期は、親の心の傷を
、無意識のうちに自分の心の傷にしてしまう時期なのです。」
これを実証するのは、ほぼ不可能な訳じゃん?
しかも避けようもないと。
とすると、親の影響について語ることは、生まれつきだと言ってるのとほとんど変わらない。 上記の吉本の言葉の鋭さ、恐ろしさは良く分かるんだけど、
最近その、深層心理学の実証性及び実用性にかなり疑問を持ってしまっている。
深層心理学は、抜けられない運命論に終わることが多いような。
上記が事実だとしたら、どうしようもないじゃん? どうしようもないから受け入れなければならないと認識させるのに役立つんじゃない?
だから過去との関わり方や自分の性格との付き合い方を変えましょうとか
自分が変えられないなら外部に目を向けていきましょうとか
実証性についてはわからんけど実用性については使う人間がどうとでも出来る気がする >>599
もう宗教だなw
吉本がハイデガーや麻原をある程度高く評価したことにもつながる、後期吉本の右翼帰りの一端だね。 なるほど実用性を極端に重視すると科学だろうが宗教だろうが何でもアリになるな このスレ読んでってようやく気付いたんだが
哲学談義で無敵の人って語学できない人なんだね
こんな簡単なこと見逃してたよ
世界の謎がひとつ解けたわ 日本人は思想したか読んで、思想の試走で死相になったのか。 東京工業大学芝キャンパス模型見たらお互いたどり着かない場所に
出版物を出していそうな文体だったよなあ。 明治グループとか付属高とかそんな縁はあるけど。日
吉は薄そうだし、 本は好きだけど、
隆は苦手で、一人の人間を過信しないことだよ。 生まれる前のことが言語だから、幼児期以降には文法なり、語法なり、高度で、大型化する
教育が大事なのでは。 変なのが来ないように暗黙のうちに皆sage進行してたのに… >>599
言葉だけでは判るけど、昨今は深層心理学の実用性について、
問題視されて来ているし、つまり全く治療効果はないよね?
トラウマ論は運命論でしかないみたいな。
実際に治療効果無いわけだし。 >>606
吉本の英語は翻訳家レベル、ドイツ語は原書を読めるレベル、フランス語は、まあ、辞書を片手レベルw
普通の語学力はあると思うよ。 吉本氏のいちばんの右傾化は反エコロジーじゃないか?
まあ、エコロジーのほうが右傾化だという説もあるが、
世界的に左派はエコロジーに好意的だ。 俺もアホですまんのだけど、天皇や国家その他を論じる以外では、右左は良く分からんな
この考えは右だが、この考えは左みたいにならんの? 左右の指標にはいくつかある。
国家支配を個人の権利より優先するのが右翼。
企業の利益を個人の利益より優先するのが右翼。
富裕層の利益を弱者の利益より優先するのが右翼。
もちろん、この反対が左翼。
これ以外は、政治的な左右とは無関係じゃないかな? ありがと。
凄くおおざっぱに言うと、
体制迎合が右翼、
それに対する抵抗及び個人を大切にすることが左翼、
みたいな感じ?
つまり、レジスタンスやロックは左かな(´・ω・`)? >>622
日本の場合は、集団性を優先するのが右翼、個人を優先するのが左翼、と言い換えることができる。
他国の場合でも、あてはまるだろう。
レジスタンスにしても、闘争形態が組織重視という場合もある。
日本でいえば昔の赤軍派にしろオウムにしろ、戦前の日本軍とまったく同じ、完全な右翼組織だ。
ロックもまた、思考停止がその音楽の本質だから、見かけの言葉にかかわらず右翼そのものということになる。
だからこそ、ロック歌手などが多くのファンを集めて、一大経済産業となることができる。 >>624
もし集団性が強いなら、それはスターリニズムという右翼組織ということになる。
吉本は、そのために共産党を毛嫌いした。 右翼や左翼と言われる集団、個人の細部を検討してみると
必ずしも右翼的·左翼的でない部分が見つかって
話がややこしくなっていくんだよね >>623
ありがと。
>ロックもまた、思考停止がその音楽の本質だから、見かけの言葉にかかわらず右翼そのものということになる。
が、しかし、君は本当のロックを知らない(´・ω・`) お爺ちゃんは思考停止していない
音楽聴いているのかな
反戦フォークとかか 売れることとか、商業性に飲み込まれた時点で思考停止及び大衆迎合(=右翼)だとして、そうではないロックもあるだろ? まあ彼ご自慢の暴論では
ロックは全て右翼なんじゃないかな 反安倍ロックで人が集まって
愛国批判で盛り上がっても右翼認定かと
ライブ中に一体感が強くなったらねw >>627
本当のロックねえ・・・
ま、他人の好みにケチをつける気はないよ。
ただ、音楽というのは根源的に人間の思考を停止させるものだということは知っておかないといけない。
その中で、思考を完全に停止させるための音楽が、リズムを中心とする民族音楽やジャズやロック。
いわゆるクラシック音楽はいくらか、思考停止を停止させる働きを持つ。
詩は音楽から発して音楽を拒否するところで自立した。 >>633
>ただ、音楽というのは根源的に人間の思考を停止させるものだということは知っておかないといけない。
『思考を停止』ってこの場合どういう意味合いで言ってるの?
君の捉える詩と、音楽との違いを詳しくお聞きしたい。
>詩は音楽から発して音楽を拒否するところで自立した。
また、詩を朗読する場合は上記に当てはまる? >>634
思考の停止というのは文字通り考えることをしないという意味。
ジャズやロックを聴きながら、なにごとかを集中して考えることができるかどうか自問してみればわかる。
BGMですら、他の雑念(思考)を排除するという目的以上の効果はない。
集中して勉強しているときには、音楽に限らず音自体が聞こえないという経験のある人も多いだろう。
詩は言葉をリズムや旋律に乗せることから発生したが、それは人間の思考を停止させる宗教的な行為だった。
しかし、その言葉が文字として書かれてくると、音楽を排除していくから思考を取り戻すことができてくる。
だから、鮎川信夫(だっけ?)は吉本の詩に衝撃を受けた。
詩に思想を込めることができるのか、と。
転位のための十篇はまだしも、固有時との対話がはたして詩といえるのだろうか? ひとつだけ確認しておきたいんだが
>>621と>>623は同一人物でオッケー? >>635
>思考の停止というのは文字通り考えることをしないという意味。
ジャズやロックを聴きながら、なにごとかを集中して考えることができるかどうか自問してみればわかる。
メッセージ性の強い歌もあるが、それはどう?
また、詩も同様に読みながら、『なにごとかを集中して考えることが出来ない』のでは?
ある世界観に入った時に、他の世界観が見えないみたいなことを言ってる?
音楽は一定の速度で流れて、考えながら読めないから。
>詩は言葉をリズムや旋律に乗せることから発生したが、それは人間の思考を停止させる宗教的な行為だった。
>しかし、その言葉が文字として書かれてくると、音楽を排除していくから思考を取り戻すことができてくる。
『音』に象徴される身体性を排除した、純粋な言葉みたいなものを『思考』『言葉』『思想』って呼んでる? >>637 (1)
本当にメッセージ性が強いのなら、音楽に没頭することはできない。
ジャズやロックの陶酔は、飲酒やある種の麻薬と同じで、思考停止から生まれる。
後刻歌詞を吟味するときは、詩を読むのと同じこと。
詩に限らず、文章を読むということはそれ自体が思考ということになる。
自分と作者の対話でもある。
視角としての情報が、受容と了解という2段階によって成立するという吉本の分析がここでも有効だ。
音楽に集中することで思考が停止すれば、世界観も価値観も停止する。
それが宗教音楽や国歌の目的でもある。 >>637 (2)
音としての言葉には意味がある。
意味を持たせた音というべきだ。
普通の言葉(会話)は、視角による情報と同じように、音の受容、意味の了解という段階を経ることになる
音楽は、いわゆるジャンルによっても少し異なるが、音のリズムや旋律は言葉の意味を消失させる方向に働く。
音楽が感情の芸術といわれることがあるのはそのためだ。
感情を高ぶらせる、あるいは落ち着かせる効果は、人間の指向を停止させることによって生ずる。 怖い思想書読んで没入して神経高ぶって
テロリストになったら思考停止 美味しい料理を食べて感激しているときは
物を考えないから、そういう料理を追求する
有名シェフは右翼 >>638
ありがとう
音楽が思考停止だ、ということに関してはひとつの意見、学説として尊重するんだけど
ただロックや音楽についてもはや右翼左翼で分ける問題だろうかという疑問が議論を見てたら生じてきたもので >>643
音楽そのものが左右に分かれるということではないね。
ただ、音楽は思考停止をもたらすもの、ということ。
左翼(的言動?)のひとつとしてロックを持ち出したのは、僕ではなく、>>622。
その人に対する説明として、音楽について触れた。 そもそも思考停止の使用文脈はほぼ非難だからね
そこにウヨサヨ話を持ち込むとおかしくなってくる
知性的なのが左翼、という定義と一緒で
真に受けてもしょうがない >>639
>本当にメッセージ性が強いのなら、音楽に没頭することはできない。
ジャズやロックの陶酔は、飲酒やある種の麻薬と同じで、思考停止から生まれる。
君は詩には没頭したり陶酔したりしないの?
視覚的、冷静な思考みたいなものと、聴覚的、感覚的なものを分けてるのかな?
>>640
>普通の言葉(会話)は、視角による情報と同じように、音の受容、意味の了解という段階を経ることになる
>音楽は、いわゆるジャンルによっても少し異なるが、音のリズムや旋律は言葉の意味を消失させる方向に働く。
ここは具体的に分からないんだけど、
例えば
詩を目で読む時と、それを朗読、もしくはそれをラップにした時に、どう変化するの?
これは、別の問題かもだけど、音楽や声はその人の感覚、もしくは世界観に触れる気がするんだけど、そういうのは思考停止って感じなの?
音楽に触れることで世界観がある方向に深まったりとかさ。 >>646
僕には音楽に乗った詩(歌詞)に感心するものはまずない。
ロックでも歌謡曲でも、詩として見ればレベルも低いし内容もつまらない。
音やリズムに乗せられているから聴くことができる、つまり思考停止(歌詞の意味の排除)を前提として、音楽を楽しむことはできる。
意味の排除、というのは言い過ぎといえば言い過ぎだが、一定の雰囲気にまで意味を曖昧にさせるということだ。
これは音楽に乗せた歌詞だけではなく、程度の差は大きいが、本質的には定型詩についても当てはまる。
詩というものが、叙事詩であっても、思考ではなく感情を表現する面が強いのはそのためだ。
音声としての言葉は、受容と了解=理解という段階を経る。
ラップを含めて音楽に乗せれば、了解=理解の作用が希薄になる。
書かれた文章は、受容、了解のあとに理解という段階が必要になる。
あなたの音楽などが、感覚はともかく、その人の世界観に触れるという見かたは、僕にはまったく理解できないので、答えようがない。 >僕には音楽に乗った詩(歌詞)に感心するものはまずない。
ロックでも歌謡曲でも、詩として見ればレベルも低いし内容もつまらない。
音やリズムに乗せられているから聴くことができる、つまり思考停止(歌詞の意味の排除)を前提として、音楽を楽しむことはできる。
個人の経験にはある特定の他者と共有出来ない部分があって、それに沿うように>>647は理論を構築しているように思われる
>あなたの音楽などが、感覚はともかく、その人の世界観に触れるという見かたは、僕にはまったく理解できないので、答えようがない。
お互いに理論を提出し合っても、それを適用するにふさわしい経験を両者ともに持ちあわせていないようにみえる
これ以上続けても平行線かと >>648
僕は、根拠となる考え方を提出したのはしたつもりだけど、あなたは、音楽には思想があると言ってるだけではないんだろうか?
音楽のどこに思想があるのか、具体例でもいいから提示してみて欲しい。
そうしないと、平行線にすらならないと思うんだが? >>649
私は>>646じゃないよ
外から見てて思ったことを書いたまで >>650
それなら、その感想が少し不適切だということだね。 >>651
わかってはいたけどやっぱり無理みたいですね
どうぞ続けてください >>652
相手を貶めるために曲解しかしないあなたにはわからないかもしれないが、僕は質問に答えているだけ。
僕が続けているわけではないw >>647
>僕には音楽に乗った詩(歌詞)に感心するものはまずない。
ロックでも歌謡曲でも、詩として見ればレベルも低いし内容もつまらない
音楽以外では感動したり伝わってくる気がしたりすることはないの?
例えば泣き声から、相手の哀しみが伝わってきたり、音楽はそういうものに近いと思うんだよ。
例えば『兄が死んで哀しい』だと、字面だと悲しみや痛みが伝わらない。
それが歌になった時に、相手の哀しみが伝わってきたりする。
例えばそういうものかと。
https://youtu.be/xSExM4pSzHg
で、君はおそらく思考と感情を全く相容れないものとして捉えているんだよね?
僕は違うんだけど、そこを説明する自信はない。どうしたものか。 >>654
>例えば泣き声から、相手の哀しみが伝わってきたり、音楽はそういうものに近い
僕も、音楽は思考ではなく感情を表現する面が強い、と書いたつもりなんだが。
>君はおそらく思考と感情を全く相容れないものとして捉えている
正確にいえば、感情は思考を停止させる、と言ってる。
感情の伝達はかなり単純だ。
極端に言えば、自分が泣いている顔を見せるだけで相手も泣くことすらある。
リズムや音の強弱、高低で成り立つ、音楽も、詩も、演説も、この単純な共感作用を利用したものだということができる。
思考を伝達には、思考の過程の追体験が必要だ。
当然、かなり煩瑣で複雑な脳、神経の活動が必要になる。
それは感情の奔流の中では不可能だ。
念のために補足しておくが、僕は音楽が良いとか悪いとか言っているわけではなく、音楽と思考の特徴を説明している。 物凄く噛み砕いて言うと、
例えば厚い一冊の本の思想を読んで理解するには1〜2時間掛かるが、音楽なら一瞬で感覚が伝わる
みたいなこと?
理解するには一時間掛かる思想は複雑だが、一瞬で伝わる感覚が複雑ではない訳でもないと。 アドルノの理屈が有名だがエリート主義に
毛が生えただけだからな
型にハマったイデオロギー批判 >>657
アドルノってのはどんな事を言ってるの? >>656
「厚い一冊の本の思想を読んで理解するには1〜2時間」では済まないよw
読むだけで数週間、数カ月間かかることも珍しくない。
読むという行為は考えることでもある。
単純か複雑かは、過程の問題。 >>658
すごい厳しい調子で他の人の思想を批判するお仕事
ほとんど悪口にすらみえるかもしれない >>659
複雑な音楽は何度聞いても深まってくようなことはあるよ。
もちろん感覚の問題だが。
全く別の話になるかもだが、
例えば震災や原発事故に衝撃を受けたとする。
それは家族や親友を失ったことかも知れないし、故郷を失ったことかも知れない。
衝撃を受けて政治活動等に参加する訳だが、具体的な行為や思想になった瞬間に、
最初の衝撃は矮小化されて、どうも嘘臭いものに感じてしまう。
思想は確かに感覚を内包しないのかも知れない。
なんかさ、小説家あがりの政治家ほど胡散臭いものはないじゃん?
なんか魂を何物かに売り渡して、磨り減った感じが。 >>661
>小説家あがりの政治家ほど胡散臭いものはない
政治家というのは、自らを共同幻想の体現者とする行為を業とする人間のことだ。
共同幻想の対角となるべき個人の幻想はもとより、相反する精神である対幻想すら共同幻想としてへの歪曲を余儀なくされる。
政治家というのは、感性を共同幻想という、いわば自己否定を自らに課す人のことだ。
日本では、個人を共同幻想に同化する行為が高く評価される。
国家、共同体などに同化しようとする人間は、政治家であれ特攻隊員であれ、青年時代の吉本であれ、本質は変わらない。
醜いものだ。
ちなみに、吉本自身はその強い自省から思想の巨人となったが、その醜さには生涯気がつくことがなかった。
小説家であれ、音楽家であれ、芸人であれ、一度公的な場面に遭遇して共同幻想の洗礼を受けた人間が、さらに共同幻想の深みに入りたくなってしまう心の動きは理解できないことではない。
共同幻想を正義としてふるまうことが仕事である官僚は、さらにその傾向が強い。
戯言として言えば、政治家の顔は醜い。
自分を偽ることが自分となってしまえば、その無意識の軋轢が顔を変えていくのだろう。 物凄く単純化すると、イデオロギーや政治活動はそれ自体が共同幻想なんだろうか?
だとすると、最初に感じた衝撃(対幻想、個人幻想)が、イデオロギーや政治活動に参加した時点で変質すると。
最初に感じた衝撃を取り込んだようなイデオロギーや政治活動等は構造的にあり得ない?
もしくは教祖様になるしかない(´・ω・`)? それを乗り越えようとより大きな
幻想を人はこしらえるからね
マルクス教とかw >>663>>664>>665
まあ、吉本の共同幻想という概念を知らないと、話がかみ合わないな。
あらためて、共同幻想とはなに、というところからレスしていかないといけない。
共同幻想論の源流であるマルクスの『ドイツ・イデオロギー』の説明から始めるから、少し待ってね。 それよりもあの程度の思いつきが
当時なんでウケたのか説明してみろよw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています