補足すると。なぜ対幻想という次元を考える必要があるかというと。
  
 あの人の学説は到底認められない。あり得ない。宜しくない。否定するしか
ない。しかし、会って話したら、あの人の人柄は好きである。

 という場合があります。学説というのはいわばアカデミズムという共同体での
業績ですが、それと、人柄、を別個に捉える場面が人間にはある。

 思想は好き。でも会ってみたら人間は嫌いになった。とかですね。

 共同的な次元とも個人的で完結する次元とも違う心の次元を設定するしかない
ということがある。それが、〈私〉の心や精神の総体ということである、
ということですね。