◆ 決定論との向き合い方を考える ◆ [無断転載禁止]©2ch.net
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<<スレの目的>>
・物理法則の完全な支配下にある人生の虚しさとどう向き合っていったらいいかを考えるスレです。
<<スレのルール>>
・決定論を前提とします。決定論否定の立場の人は余所でやってください。
・量子論的な確率論の話は問題ありません。ただし意識の行動選択権は認めません。
・心の哲学の領域に言及するのは構いません。 >>37
ふざけて言ってんの?なんでyが結果になった?
それただの等式だぞ >>36
当然そうだろ
おまえは4という結果だけがあったとき、それが1+3によって生じた結果なのか
2+2によって生じた結果なのか可逆的に求められるとでも主張したいのか? 算数持ち出してるのは、ものすごく頓珍漢なんだがわかってるか?
原因結果の何たるかがわかってるか? さー>>42さんが「原因結果の何たるか」を説明してくれるぞ と思ったけど、自分なりに考えてみると、
物理の専門家じゃないので正確かどうかは分からんが、
同じ速度Vで移動している質量Mの物体があるとして、
その物体だけに注目すると、
・最初からその速度だった
・物体Aと衝突してその速度になった
・物体Bと衝突してその速度になった
のどれだか分からないんだけど、
周辺の情報全部かき集めれば(つまりそもそも物体AやBなんてものがあったのかとか)、
どういう経緯で速度Vで運動するようになったのかは、
逆関数とは違って、理屈の上では逆算が可能なのかも知れない
ただ現実宇宙では情報伝達速度に限りがあるので(同時自体も速度で変わるので)、
たぶん不可能だけど スレの趣旨に戻ると、
こういうのが話題になってるってことは、
まー宇宙は物理法則に従順で計算可能なものだってのが
やっぱみんなの本音なんだろうね >>44
(a)「t-1の状態からtの状態を計算できる世界」
(b)「t-1の状態からtの状態を計算でき、かつtの状態からt-1の状態を計算できる世界」
まず、この(a)と(b)はそれぞれあり得る。1次元セルオートマトンにおけるWolframルールの大半は(a)だし、前のセル状態をそのまま次のセル状態にするルールは(b)に該当する。
で、決定論の定義は何かって話だけど私は(a)だけでいいと思うんだよね。
これは定義話なので「正解」があるわけじゃなく、俺はこう思うという話なんだけど。 簡単だろ。その数式は原因と結果なんか表してない
1+2=3はシンプルな表現に計算しただけだ
3=1+2でなにも間違えていない
すると一つの原因から多数の結果がでると主張するのと同じだ
いかにナンセンスかわかったか? 紙が燃えてしまって何が書いてあったか分からなくなったとしても
実際は分かりにくくなっただけで情報は失われてはいないのかな。 >>50
過去は情報状態が未来より少なく、
未来は過去より情報状態が多い、
この原理と前提があるかぎり未来と過去は違い、未来から過去へという説明は
原理を無視した妄想と同じである。
未来をもって過去になりえるというベクトルを考えるならば、未来の情報量が
過去に追加される、もしそういう世界があるならば
過去は過去ではなく、過去にしか見えない未来であると説明するべきだ。
どんなに計算しようと計算した事実を含めて時間を扱うなら、それは
計算事態が時間の外という場所に存在しなければならない、
時間とたとえる時間は計算者を含まない時間であるかぎり妄想と何の違いもない。 >おまえは4という結果だけがあったとき、それが1+3によって生じた結果なのか
>2+2によって生じた結果なのか可逆的に求められるとでも主張したいのか?
4という結果をだしたやつに2+2だったのか1+3だったのか聞けばいいだけw 理論でも満点レベルでないと、理系は。数式は言わずもがな。 いつものやつだな
「わからない」と「決定してない」を混同>>40
非決定だと虚しくないのはなぜ?
「非決定」と「自由意思」を混同してるからだ
お前らは混同さんか
どちらも決定論に反するがイコールではないからよく考えてみろ
必要条件・十分条件をマスターできてないから間違える >>54
証明されたものには間違いなどまったくありえない、
間違いがあるというのは数学が前提条件として完全定義したそれが
現実と一致しないだけである。
定義した要素が嘘であれば、完全な正しさの方程式は現実に対して嘘を
解とするだけ。
数学が現実を決めるような評価をする似非物理学者が数学を用いた
解を現実のように語るからこそ嘘と評価されるだけである。
数学は現実を評価などしない、ただ非現実の方程式を評価するだけである。 実際は一から証明しないからどこに間違いが潜んでるかわからんけどな 「意識は高次元空間と繋がっている」ロンドン大教授が主張! 幽霊やテレパシーなど“非物質的な次元”の実在を語る
http://tocana.jp/2017/02/post_12416.html
【ガチ】意識の発生源が特定される! 脳にグルッと絡み付く「いばらの王冠」とは?(最新研究)
http://tocana.jp/2017/03/post_12512_entry_2.html >幽体離脱、臨死体験、超能力、幽霊現象は、物理的空間とは違う“共有スペース”を持っていると予想される。
>なぜなら、完全に個人的な現象ならば精神疾患とみられてしまうが、たとえばテレパシーなどは物理的世界や他人に影響を与えることができる。
>これは何らかの共通の基盤がなければ不可能だというわけだ。
おい!w 今「クオリア」と呼ばれているモノは
今後ともおそらく観測不可能ではあるが
存在は認められるだろう
霊魂みたいなものだが
物理法則に従っているには変わりなく
当然物理学に取り込まれることになる
このとき大事なのは
クオリアを自由という概念や超自然的な力と混同させないことだ
自由意志から決定論の話に入り、量子論の確率依存を持ち出し決定論を否定し
さりげなく自由意志を肯定してアホな奴らを納得させてしまう論法にはしばしば出くわす A:超能力信じる?
B:俺が「動け!」と念じるだけで物体が動けば、それは超能力?
A:うん
B:「動け!」(グーパーグーパー)
A:「・・・」
果たしてその後、A君は気づくことができきただろうか? 決定論がもたらす虚しさが酷くて
物理至上主義の自分が
最近はなんだかオカルトチックなことを考えるようになった
死して尚、自分のクオリアは原型を保ち
肉体を失っても同じように振る舞える、
そんな方法があり、生きている間にそれを発見したいとか、、、
危険な方向に発展することはないとは思うが
なぜ理科系の秀才たちがオウムに走ったのか
病んでいたんだろうとは思っていたが
年取ってくると実感を伴って理解できるようになる、、、 順列都市を読め。一度「発進」した意識は死んでも不滅だ。 例えば記憶のように
クオリアが物質に依存するものなのは間違いないんだけど、
物質が変化しても人格が連続する
それならば死んで骨になっても、つまり物質的には崩壊しても、
もしかしたらクオリアは存続するのかも知れない
そうだとしたらけっこう辛いかもね
肉体を失うとできることは相当制限されるはず
静寂と真っ暗闇の中で意識だけがある
植物人間の人の中にはそういう状態になっている人もいるという可能性も言われている
クオリアはエネルギーのようにまた別の物質に捉えられ
それが生物であったら輪廻転生のようなことになるのかも知れない
記憶は残ってないんだろうけど
次は虫とかだったら嫌だなぁ、、、
無と下等生物を延々と繰り返すのかも知れないと思うと本当に恐ろしい やばい、、、
これまでも5年周期くらいで来ていた「決定論鬱」が今までで一番深刻だ、、、
人生があまりに虚しい、、、 決定論的な世界観とは高1の秋から26年の付き合いだが、
今回は健康状態がよくないところで下手に色々情報を仕入れてしまい
自分のクオリアが消失しない可能性に対する恐怖で頭の中がいっぱいだ、、、 >>78
意識(クオリア)を物質界の変化の随伴現象とする考え方があるけど、
それだけだと身体を構成する物質が入れ替わっても人格が継続する理由としては弱いので、
クオリアは不変のものと考えてみた
イメージとしては、ピンボールみたいにしてクオリアが物質間をひたすら反射しているんだけど、
クオリアを跳ね返す物質の方は時間とともに入れ替わっているような感じ 現代の物理学のように数式化して考えることはできなかったけど、
大昔の人も物質の状態の変化には法則性があることは気づいていただろうし、
意識が発生する不思議さについて考えていたとは思う
自分は輪廻転生なんていうのは馬鹿げた話だと考えていたけど
もしクオリアが>>79に書いたような不変のものだとしたら、
それを跳ね返す物質側の状態の影響は受けるにしても(例えば記憶のように)、
人格のようなものはどこかに残るのではないか、と思えてきた
次に俺のクオリアが捕まる物質はゴキブリなのかも知れないが、、、 2017年の目標は無事達成することができた
決定論に感謝 決定論に真面目に向き合おうとすると
余りに虚しくなり
人生に息抜き・娯楽が必要なように
まじめた考察とは別に、
たまには宗教・信仰的な救済という脇道に逸れたくなる とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
FN55U 心の哲学や科学哲学と呼ばれる分野の哲学者が現在、注目されている気がするけど、
「自由意志」があるのかないのか、という問題はこの分野の大きな論点であり争点だと言えますね。
ライフゲームに見えてくるあの、簡単な計算の受け渡しによって誕生したり死んだりするセルオート
マトンが自由に振舞っている様に見えるのにも、「自由意志」と呼ばれるものはあるのでしょうか。
セルオートマトンは、ただその様に見えるだけ、でしょうか。それでは人間はどうなのでしょうか、
複雑な計算式を受け渡しているだけの存在なのかもしれませんよね。 ライフゲームの世界で六面サイコロのようなものを作ったとしてそれには6分の1の確率で各面を出す能力は存在しないのか?
これがそのまま決定論の世界で人に自由意志は存在しないのか?と同じような質問になっていると思う ライフゲームに見えてくるパターン(セルオートマトン)もまた振舞いとして自由意志を
持っているかのように見えるけど、人間もそれと同じになるのではないか、つまり人間を
細胞や原子や素粒子の集まりとして見たときには、その細かな粒子が互いに計算(運動エ
ネルギーなど)を受け渡して顕われてくる全体が人間なのかもしれない、となりそれはち
ょうど次元を超えてさらに遥かに複雑なライフゲームのパターンのようなもの、と言いえ
る、とかそういうことになりそう・・機械論的で還元主義的な見方からすれば、当然、心
や精神はないようなものとしてあつかわれてしまうでしょうね。 確率を能力といってみたり居心地のいい迷路から出たくないようだ
出たら死ぬのか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています