アリストテレスから世界はおかしくなった [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
アリストテレスも貢献してるよ。大事な下地です。(☆∀☆)
何処からおかしくなったかって言えば
人間が産まれた時に意識を持った時に
真実の世界を知ることができないの。
人間の意識から世界を間違ってしか見えないの。(;_;)
仕方ないの。 私の意識の欠点は
客観性を承諾してしまうこと。
それと、
生きること全体像を存在ではなく所有してしまうところです。
( ̄▽ ̄;)、
皆さんのアリストテレスの話を邪魔しましたね
気を付けます。
それでは。(☆∀☆) アリストテレスが体系化したのは、学問ではない。
われわれの住む、この世界を体系化して再編成したのだ。 そうだ、細分化だ
アリストテレスは、世界を細分化して再構成した プラトンは、この世は仮の世界であり、イデアが実在界にあるというニ世界論を唱えた。
アリストテレスはそれを否定し、形相がこの世の事物に内在しているという一世界論に改めた。 アリストテレスといえば、質料と形相だ。
たとえば、鉄筋コンクリートが質料で、貸ビルが形相。
木材が質料で、貸家が形相。
このように、この世の事物は、この2つから構成されている。 形而上学と中庸という概念がアリストテレスの半端さを物語ってる
イデアとか難しく考えないで着想としてのアイデアでいい
それは我々の当たり前 石造りの家なら、石が質料で、家が形相。
木造の家なら、木が質料で、家が形相。
RC造の家なら、鉄筋コンクリートが質料で、家が形相。
ここで、石や木や鉄筋コンクリートは、そのままでも存在する。
家は、それだけでは存在できない。
つまり、質料がなければ、形相は単独で存在できない。 狼と犬の違いは、人間がつけた名前の違いでしかない。
もしも、狼も「犬」と呼ばれていたならば、狼という存在はない。
シベリアンハスキーは、犬よりも狼に似ている。
でも、それは犬であって、狼ではない。
人間が、そう呼んでいるから。 このように、アリストテレスのいう「形相」ってのは、結局のところ、
「人間がつけた名前なのである」という解釈がスタンダードになっていった。 形相の中でも、最も重要な形相。
それは、「存在」。
机が存在する。
イスが存在する。
「存在」も存在する。 こうして、「アリストテレスのいう形相ってのは、人がつけた名前なんである」という説と、
「いや、そんなものではない。形相は、この世の事物に内在する実在なのである」
という説が対立して、大論争になった。 まあ、そんなこんなで、たぶん、アリストテレス本人には、そのつもりはなかったと思う。
でも、結果的に彼は、唯名論の祖となった。 形相は、いつの間にか、「人がつけた名前」ってことになってしまった。
困るのは、「存在」が名前にすぎないということだった。
キリスト教において、「存在」は神。
「存在」が存在しないと仮定する。
それは、「存在」であるということと矛盾する。
ゆえに、神は存在する。
・・・この話の前提が崩れるんだから、困ったものだ。 ブタとイノシシは、いったい何が違うのか。
質料は、ほとんど同じだ。
だが、形相が異なる。
ていうか、名前が違うだけ。
名前が同じだったら、区別がつかない。 というより、ほとんどの四つ足動物は、日本初が名前をつけて区別しているだけなのかもしれない。
人間は、名前をつけることによって、世界を細分化している。
中世の普遍論争において、唯名論は勝利した。
20世紀の哲学は、唯名論の圧勝。
ソシュールは、究極の唯名論者。 日本初じゃない、人間だ。
スマホのせいで、奇妙な変換が多い。 つまり、世界を細分化したのは、全知全能の神ではない。
細分化したのは、アリストテレス。 アリストテレスは1.5流の哲学者
プラトンとヘーゲルは1流
ソクラテスは超1流
ヘラクレイトスは神というか極み アリストテレスは、プラトンの崇高な思想を、地ベタに引きずり下ろしたな。 アリストテレス哲学みたいな、見るからにつまらない思想が、なぜ一世を風靡したか? しかし、プラトンが実在論で、アリストテレスが唯名論かといったら、そう単純ではない 実在論者にとっては、プラトンとアリストテレスは両方とも実在論の祖。
唯名論者にとっては、両方とも唯名論の祖なのである。 中学生の頃アリストテレスとアルキメデスの混合をよくしていた 中世ヨーロッパでは、新プラトン主義が主流で、アリストテレスは忘れられていた。
イスラム諸国との交流が盛んになった12世紀ルネサンスのおかげで、
アリストテレスは急に復活した。
後には、アリストテレスに逆らう者は火あぶりになるってくらいの権威になった。 アルキメデスと比べて、アリストテレスは中途半端に科学的だから、現代人にはバカバカしく見えてしまう。 プラトンやアルキメデスは数学者、アリストテレスは生物学者という違いがある。
近現代でも、唯物論を唱えた人には、生物学の関係者が多い。
無神論の教祖・ドーキンスとか。
生物学をやっていると、生命が「機械」に見えてくる。
物理学者と比べて、無神論者が多い。 もっとも、アリストテレス自身は、無神論者ではなかった。
あの世を否定し、この世しか見ていない。
それが、アリストテレスの特徴。 近代に入って、デカルトは、アリストテレスに由来するスコラ哲学の、
稚拙な科学的思考にガマンできなくなった。
デカルトは、新たな哲学体系を創ることを決意した。 プラトンやデカルトは、数学理論から世界を解明する合理論。
アリストテレスは、生物をひたすら調べる経験論。
これは結局のところ、数学者・物理学者と、生物学者の気質というか、
研究スタイルの違いによるものが大きい。 中世における実在論と唯名論の論争も、近代における合理論と経験論の論争も、
結局は古代における、プラトンvsアリストテレスの対立が続いたものと言ってよい。 「万学の祖」とされるアリストテレスだが、人間だから、自ずと得意分野というものがある。
なんといっても、生物学。
とくに、動物の系統分類が最も得意な分野だった。 プラトンは、幾何学者だった。
プラトンのいうイデアとは、「完全なる三課角形」とか、基本的に幾何学の発想。
結局のところ、これは人間の心の中にある観念。
それに対してアリストテレスは、基本的に生物学者だ。
彼のいう「エイドス、形相」というのは、「犬や昆虫の分類」に代表される、生物学の発想。
チョウという形相もあれば、ガという形相もある。
それはいったい、何に由来するのか。
これは結局のところ、人間がつけた名前。 嫌がらせをして徹底的に追い詰めたうえで、余裕がないことを本人の資質のせいにして非難するんですよ。 >>55
はじめから本人に資質無かったやん
はじめから見ててわかってたでしょう つるつるぴかぴかに洗濯されたきれいな脳をしているようですね。 https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2RCD04RBbVYTSsAJ0SHrPN7?p=brand+new+heavies+album&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 広報される事実に対する反応としての民意(リアクション民主主義)への信頼が失われているという感じはする。 知識人(?)がいくら反応を煽っても扇動効果が薄い。 サヨク知識人が、世間の一般人から相手にされなくなってしまった。
高卒からも「あいつらはバカ」と思われている。 アリストテレスから、オッカムのウィリアムへ、そして、ソシュールへ。
それが、唯名論の系譜。 唯名論
真に存在するのは個々のもの、例えば個人のようなものだけであって、人間一般とか人類とかのようなものは(便宜上の)名前や記号に過ぎないと考える立場。 「普遍は実在しない。真に存在するのは個物」
この考え方は、アリストテレスに由来する 最大のアリストテレス注釈者 アヴェロエス
アブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュドは、スペインのコルドバ生まれの哲学者。 アヴェロエス の名でよく知られている。アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。また、医学百科事典を著した。 アリストテレスは、「普遍は実在しない」とまでは言ってない。
「真に存在するのは個物」というのが、アリストテレスの主張。
普遍は、イデア界にあるわけではない。
それは、形相として、ひとつひとつの個物に内在している。 アリストテレス自身は、唯名論者とは言えない。
アリストテレスの理論では、普遍は「形相」として、個物に内在しているからだ。
でも、その形相とは何なのかを突き詰めれば、それは「人がつけた名前」ということになる。
こうして、アリストテレスは唯名論の祖となった。 中世ヨーロッパでは、プラトンの「イデア」が、キリスト教の「神」とほぼ同一視されていた。
神学・哲学界は、「実在論」一色だった。
そこに風穴を空けたのが、アヴェロエスのアリストテレス注解書。
それは、12世紀ルネサンスがもたらしたイスラムの先進文化だった。
ここで、「唯名論」が台頭する。
実在論vs唯名論。
中世ヨーロッパの哲学界を二分する「普遍論争」の火蓋が切って落とされた。 孔子や孟子の注釈書を書いて、自説を展開する。
いかにして、孔孟の古典を自説に強引に当てはめ、
「孔子や孟子もこう言っていた」ということにするか。
そこが、腕の見せどころ。
そういうのが、東洋思想の伝統だ。
朱子も王陽明も、みんなそうだ。
西洋哲学も、それに似たところがある。
結局のところ、プラトンやアリストテレスを、どう解釈するかで決まる。 普遍存在vs個別存在
本質存在vs事実存在
中世ヨーロッパでは、どちらを重視するかで、その人の哲学的スタンスが決まった。
前者を重視するのがプラトン的な立場で、後者を重視するのがアリストテレス的な立場。
20世紀の哲学界においては、アリストテレス的な立場が圧勝して完全に勝負がついた。 ソシュールにおいては、言語によって世界が分節化されている。
アリストテレスの「形相」を、「言語」によって置き換えれば、そのままソシュールの思想になる。 キリスト教にとって、「普遍が実在しない」は大きな衝撃だった。
「イエス・キリストは、全人類の罪をあがなって死んだ」というのが、キリスト教の教義。
「人類」という普遍存在がなく、存在するのは各々の個人だけであり、
個人の寄せ集めが「人類」なのだとすれば、この教義は崩壊しかねない。 プラトン的なものを厳しく排撃したのは、ニーチェだった。
ニーチェのおかげで、神は死んだ。
ついでに、「イデア」も死んだ。 儒教が孔子様の教えであるように、ギリシャ哲学もやはり、根本的にはプラトンの教えなのだ。
アリストテレスは、それに対するアンチテーゼにすぎない。 「アリストテレスは、私を蹴飛ばして出ていってしまった。
まるで、子馬が産みの母馬にそうするように」byプラトン 学生の頃、かの高名なる今道友信教授に、
「ボクには、プラトンのイデアというのが、実にシックリ来ます。
それに比べて、アリストテレスの形相、これは分かりません。
いや、言ってることは分かるんだけど、こんな考え方をすることによって、
何の意味があるのか、そこが分からない」という質問、というより悩み相談をしたことがある。
だが、「まあ、そりゃなかなか分からないだろうね」と一蹴されてしまった。 これは、現代の分析哲学の人たちがやっている言語分析を見て、
多くの人が抱く感想と同根と言える。
「やってることは分かるんだけど、それをやることによって何の意味があるのか。
そこが分からない」という感想だ。
分析哲学こそは、アリストテレス的な発想の成れの果て。
変身を重ねたあげくの最終形と言っていいだろう。 何事も到達地点がくだらないということは往々にしてある。
自分の家が到達地点なら、到達地点だけ見るなら何も変わらない。
でも、いろいろ旅をして回れば思わぬ発見があるだろう。
くだらない到達地点に至ることがもう分っているなら、
別の道をたどってみることもできる。 アリストテレスを読むことに意義はあるが、分哲を読む価値はゼロ。
読む価値がゼロであることを発見するために読む価値はあるかもな。 妖乳とか 魔乳とか と神乳とかと、普通の生活で・・・
交配?そりゃ月夜の魔物は恐ろしいだろ。禅僧にとっては。
文哲より禅フィロソフィーのほうが。 クワインとががいいとおもうよ。イスラム特に女子兵には。 アリストテレスがおかしいからついつい思い出し笑いしちゃうんでしょ。
二千年も前の事なのにね。それってすごい事じゃない。 E99 EQは何点の偏差値系ナンバーにしようかな。 たまに、ソクラテスを、ソークラテースと呼ぶ人がいる
違和感があるのでヤメテほしい。その方が正確なのかもしれんが アリストテレスは、死後2000年以上たった今も、こんなに人々を楽しませている 哲学もさることながら、生物学での業績が極めて大きい。
イスラム圏では、知識人はたいてい医者だったので、アリストテレスが彼らによって強く支持された。
このため、本来は相容れないイスラム教の教義と、アリストテレス哲学という
2つの異質な思想をいかにして統合するかということが、人類にとって最大の
思想的課題になってしまった。 タマゴには、ニワトリの形相が潜在している。
タマゴはやがてヒヨコになり、ニワトリになる。
それは、「完全なるニワトリ」という形相に向かって生成する。
このような、可能態から現実態への絶えざる移行。
アリストテレスにとって、自然界とはそういうものだった。
アリストテレスの「形而上学」は、一見、単調で長ったらしくて無味乾燥な書物だが、
実はダイナミックな生成の思想なのだ。 キリスト教が普及した頃のヨーロッパは野蛮な辺境だったが、
イスラム教が普及した頃のペルシャやエジプトは、すでに高度な文明国で、
アリストテレス哲学で知的武装した論理的な知識人が多かった。
彼らが、非論理的なコーランの内容に、盛んにツッコミを入れてきた。
このため、イスラム教とギリシャ哲学を統合する、新たな思想体系が必要になった。
それが、やがて中世ヨーロッパにも受け継がれる。 キリスト教やイスラム教が、世界にどれほどの影響を及ぼしてきたかは、小学生でも知っている。
それに比べて、プラトンやアリストテレスの影響は、なかなか意識されることがない。
でも、自覚症状がないだけで、実際には人類の多くが、その深い影響下にある。
自覚されないほど、それは人類社会に深く浸潤している。 日本では、日本古来の神社信仰と、仏教信仰たな加えて、孔子や孟子の東洋哲学の考え方などがフクザツに混ざり合っている。
西方でもそれは同じで、キリスト教やイスラム教と、ギリシャ哲学が混ざりあい、分けるのが難しいほど習合している。
プラトンやアリストテレスの影響は、あまりにも大きい。
少なくとも、日本における孔子や孟子くらいのことは十分にある。 ソクラテス以降の哲学者達にとってソクラテス以前の哲学者達はあまりに大きい存在だった
アリストテレス以降の哲学者達にとってはプラトン・アリストテレスが大きい存在でソクラテス以前などは雲の上の存在になった
やっとこさヘーゲルがソクラテス以前を雲の上から大きい存在に戻した
しかしプラトン・アリストテレスを重視し過ぎた紀元後の長い歴史により
プラトン派は人権左派へアリストテレス派は資本右派へと別れこじれにこじれた近現代ではアウシュビッツ・核戦争・天安門・スターリンによる大虐殺など夥しい犠牲者が出て
今もなおテロや虐待の問題が尽きない
我々は偉大な史上の哲学者達を自分達と対等の存在としてあくまで尊敬や愛着として研究し実践しなければならない責務がある >>122
どっちかっていったら、アリストテレス派が左翼じゃないか? philo s ophy か sクラテスはスペルすら誰も知らない速さか。
どこかでお会いしたような。 >>123
それは無いよ
プラトン派は弁証法が基礎だもん
ただ弁証法は半端だと徒党を組むだけのお花畑になるし平気で嘘吐く小物になるけどね
真の意味で平和を志すのはこっち
アリストテレス派は物・金・本能が基礎だから即物的・唯物的で独善的になるか機械の様な冷血人間になる
戦争を引き起こすのは常にこっち
本来プラトンは政治家肌でアリストテレスはジプシー肌だったが
二人とも秀才・努力の人だったから学府開設や学問体系を作ったのさ アリストテレスの戦争は確かに体系的な。プラトンは短絡的な
戦争を好むだろうな。 プラトンは、プロレスラーから哲学者に転向した変わり種 あがっちゃってから夜のプロレスはやってないわねぇ
ワタシもオンナから転職しようかしら 美魔女は、あがっちゃって夜のプロレスラーから哲学者に転向した変わり種 >>131
殿を勤めた筈
>>132
レスリングチャンピオンだった筈 友愛思想の鳩山由紀夫こそ、哲人政治家と呼ばれるのにふさわしい アリストテレスといえば、四元素。
これは外せない。
(ウィキペディア)
四元素(よんげんそ ギリシア語: Τέσσερα στοιχεία)説は、この世界の物質は、火・空気(もしくは風)・水・土の4つの元素から構成されるとする思想である。
四元素は、日本語では四大元素、四大、四元、四原質ともよばれる。
古代ギリシア・ローマ、イスラーム世界、および18〜19世紀頃までのヨーロッパで支持された。
古代インドにも同様の考え方が見られる。中国の五行説と類比されることも多い。 エンペドクレスの説がよく知られるが、アラビア・ヨーロッパの西洋文化圏で広く支持されたのはアリストテレスの説であり、四元素を成さしめる「熱・冷・湿・乾」の4つの性質を重視するため、四性質説ともいわれる。
4つの元素は、土や水など、実際にその名でよばれている具体物を指すわけではなく、物質の状態であり、様相であり[4]、それぞれの物質を支える基盤のようなものだとされた[5]。 アリストテレスは火、空気、水、土の4つを「単純物体」と呼び、ほかの物体はこれらで構成されていると考えた。
単純物体を構成する要素として、「熱・冷」「湿・乾」という二対の相反する性質を挙げ、これらの組み合わせによって成り立ちを説明した。
すなわち、形相(エイドス)も性質も持たない純粋な質料(ヒュレー)「プリマ・マテリア(第一質料)[1]」に「熱・冷」「湿・乾」のうち2つの性質が加わることで、各元素が現れる。
火は熱・乾、空気は熱・湿、水は冷・湿、土は冷・乾という性質から構成されており、性質のひとつが反対の性質に置き換えられることで、相互に転嫁すると考えた。
・・・むしろ四性質説と呼ぶのが適当であり[14]、プリマ・マテリア(第一質料)を究極の質とする一元論である。 アリストテレスの四元素説は、ギリシャ・ローマ医学の基礎となる体液病理説「四体液説」と関連付けられ、医学・薬学においても重要な理論であった。
四元素説は、アリストテレス哲学の強い影響力と相まって、哲学、神学、錬金術(実質的にアラビアに始まるといわれる[4])、科学(アラビア科学)、医学(ユナニ医学)等に影響を与え、ビザンツ・アラビア、中世ラテン世界といった西洋世界で主流を占める物質観になった。 アリストテレスの四元素説は、哲学もさることながら、医学と錬金術に絶大な影響を及ぼした。 アラビア・ペルシャの知識人の多くが医者だったため、
医学の祖としてもアリストテレスは支持された。
唯物論っぽいイメージとは裏腹に、アリストテレスは錬金術師の祖としても重要だ。 現代人から見ると、トンデモ似非科学だけど、古代人としては驚くほど科学的。
東洋には、これと比べるものがない。 「アリストテレスの質料とは何か」と聞かれたら、「地水火空の四元素です」と答える。
「四元素とは何か」と聞かれたら、「第一質料に熱冷湿乾の四性質が加わると、四元素になります」と答える。 中国人は、抽象的な思考が不得手
よく言えば、現実主義のカタマリ リアライズされたメタ現実ってとこか。ゲーム世代は。 じみに商売たたんで移民していく医師看護師も多い。
それでこそ日本も受け入れてがあるが、ここまで男多しだと。
体調不良多い。ので規制が必要だ
男の行動が遅れたためだろう餓死や微過食で。女性も被害をこうむる
べきじゃない。 医術のほうが各上だと思う。若いから。
屋台の恋替えでみんなやってるよ。町かぎから
丁稚奉公マイスターまで。商店街復興もよし。
建築や施設、聖堂に患者のように職員も
しばられているようではね 質料とは、地水火風の四元素のこと。
こうしてみると、アリストテレスの「質料-形相」理論というのは、
物質の成り立ちを古代人なりに説明したものなんだな。 「第一質料」に熱冷湿乾の四性質が加わると、地水火風の四元素になる。
四元素に形相が加わると、個物になる。
そういうことか。 科学とオカルトでは「質料」、哲学と神学では「形相」に注目が集まった。 それにしても、プラトンの「イデア」は、世間の一般人でも物知りな人なら知ってるが、
アリストテレスの「形相」は、哲学ヲタでもない限り、まず知らない。
この差は、どこから生じたか? 聖トマス・アクィナスの「神学大全」を読んでみたら、質料と形相のことばかり書いてあった。
なぜ、聖トマスはこれほど質料と形相にこだわっていたのか。
ひとつには、中世ヨーロッパの科学レベルでは、まだアリストテレスが新しい科学であった。
「地水火風」の四元素説が、まだ生きていた。 イデアも形相も「倫理」を高校時代に採ってたら常識の範囲内のような気もするが。 その常識の形相だが、古来から2つの解釈に分かれる。
ひとつは、「個物に内在して実在する」という実在論。
もうひとつは、「実在せず、名前でしかない」という唯名論だ。 実在論者にとっては、アリストテレスは実在論の祖。
唯名論者にとっては、アリストテレスは唯名論の祖だったのだ。 質料には、解釈の余地があんまりない。
形相には、2つのほとんど正反対な解釈がある。 アリストテレス本人がどうだったかといえば、素直に読めば実在論だ。
しかし、「普遍が存在するという実在界」を否定し、
「普遍は個物に内在する」ということは、どういうことか。 犬には、犬の形相。
柴犬には、柴犬の形相。
ポメラニアンには、ポメラニアンの形相。
シベリアンハスキーには、シベリアンハスキーの形相。
それぞれの形相が、それぞれの犬という個体に内在する。
このように考えてくると、「それって、要するに人が分類した名前でしょ?」ということになる。 唯名論の系譜。
古代のアリストテレス、中世のオッカムのウィリアム、近代のソシュール。 ベストアンサーに選ばれた回答
唯名論が区分したのは「類の概念(例:ウマ)」と「具体的な個物(例:ディープインパクト)」です。実在するのは後者であり、前者は「ただ、名前としてのみ存在する(=唯名論という翻訳名の由来)」と考えました。
ソシュールが区分したラングとパロール、あるいはシニフィアンとシニフィエは、このいずれにもあてはまりません。
従ってソシュールは唯名論者ではありません。 ディープインパクトやハーツクライ、キングカメハメハといった個物は存在する。
しかし、「種牡馬」という普遍は存在しない。
それは、人が分類するためにつけた名前にすぎない。 分類と系統の大家アリストテレスこそ、唯名論の祖とするにふさわしい。 安倍晋三やレンホーや安室奈美恵は存在する。
だが、「人間」は存在しない。
それは、分類するためにつけた名前。
普遍は存在しない。
ただ、個物あるのみ。 ポチは存在する。
ラッシーは存在する。
パトラッシュは存在する。
でも、「犬」は存在しない。
「犬」は、人がつけた名前。
人間による意味付けにすぎない。 パトラッシュとは、何であるのか。
それは、「四つ足動物」なのか。
それとも、「犬」なのか。
それとも、「フランダースの犬」であるのか。
どれも、人間による意味付けでしかない。
存在するのは、「パトラッシュ」という個物だけだ。 倫理の教科書を見れば、「実在界にイデアが存在する」というのは、とても奇妙な古代思想に見える。
でも、実際のところ、世間の一般人は実在論だ。
「犬」という存在があると信じている。 ここに、アリストテレスが思想革命を起こした。
存在するのは、ポチであり、ラッシーであり、パトラッシュである。
「犬」は存在しない。
アリストテレス以後はそうなった。 このように、「存在するのは個物だけである」という、
徹底した現実主義こそが、アリストテレスの特徴。
アリストテレスは、唯名論の祖であり、経験論の祖であり、科学万能主義の祖でもある。 地球は存在する。
火星は存在する。
ガミラス星は存在する。
でも、「星」は存在しない。
これは当たり前のようでいて、実はかなりの発想の転換を必要とする。
人間の日常思考は、自覚するしないにかかわらず、プラトン主義に浸されている。 じゃあ、個別の熱とか、個別の光とか、個別の臭いとか存在するんですか? プラトンは、理性から真理を導き出す、合理論の演繹法。
アリストテレスは、個物をひたすら観察することによって真理を得ようとする、経験論の帰納法。
カントが止揚したといわれる、イギリスの経験論とフランスの合理論の対立も、
元をたどれば、やっぱりアリストテレスとプラトン。 机は存在する。
安倍晋三は存在する。
ガミラス星は存在する。
だが、「存在」は存在しない。 ここで、中世のキリスト教世界としては困ったことになった。
世間の一般人ならともかく、知識人はみんなプラトン主義者。
「存在」こそが神である。
誰も疑っていない。
でも、「存在」が存在しないとは、どういうことか。
知識人にとって、それは無神論を意味する。 もしも、「存在」が存在しないと仮定したら、どうなるか。
それは、「存在」であることと矛盾する。
ゆえに、「存在」は存在する。
「存在」とは、イコール「神」
ざっくりと言えば、それが「神の存在証明」だ。
これが、最大の危機に陥った。 ソクラテス以前を読んでるとプラトンもアリストテレスもつまらん >>201
そんなことは無い
昔も今もかわらんよ
真理なんて無いよ、ひとそれぞれ
→いや、真理を探そうよ
→真理なんて役に立たない、役に立つことを考えよう
→真理が無いなら俺たちは何のために生きてるの?
→ひとそれぞれが真理を追い続けることが大事
ずっと繰り返してる >>203
ソクラテス以前の哲学は断片しか残っていないし
どうにでも解釈できるネタを拾いたい人には都合がいいんだろう >>201
確かに、「イデア」だろうが「形相」だろうが、現代人には無意味な考えに見える。
でも、一歩ふみこめば、そこには深い意味がある。 プラトンのイデアとは何だったかを思い出そう。
たとえば、完全なる理想の三角形。
これを現実に描くのは不可能だ。
現実世界の三角形は、どこかが歪んでいる。
コンピュータが精密な図形を描けるようになった現代でも、完全な三角形は描けない。
完全な三角形。
それはイデアである。 こうしてみると、結局のところ、イデアとは、「人間の意識の中にある観念」だということがわかる。
実際に、デカルトはそのような解釈のもと、近代哲学を創始した。 一方、アリストテレスの形相とは何だったか。
たとえば、昆虫の分類。
カブトムシには、カブトムシの形相。
クワガタには、クワガタの形相。
クモには、クモの形相。
チョウとガは、同じ生物種なのか、違うのか。
チョウにはチョウの形相、ガにはガの形相があるのか? こうしてみると、結局のところ、形相とは、「人間がつけた名前」だということがわかる。
名前というか、「人間が事物に付与した意味づけ」と言ってもいいかもしれない。
実際に、中世後期の唯名論者たちはそのように解釈し、近代思想への道を開いた。
これは、現代の言語哲学にまでつながっている。 >>203
百聞は一見に如かずじゃ
読んでみい素晴らしいぞ ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず
これはヘラクレイトスの思想 ソクラテス以前といえば、ヘラクレイトスとパルメニデスが双璧 ギリシャ哲学といっても、ヘラクレイトスは今でいうトルコの人だし、パルメニデスはイタリアの人 ないものは無いし、あるものは在る。
人が実際に在るものを無視して、実際には無いものにしがみつくのは何故だろう。
すでにある「これ」を無視して、ありもしない「あれ」を求めるのは何故だろう。
いくら時間が経っても、ないものは無いし、あるものは在る。
それなのに
実際に在るものを無視して、実際には無いものにしがみつくのは何故なのか。
違う言い方をすれば
すでにある安楽を無視して、実際にはないのに自分でこしらえた苦悩にしがみついているのは何故なのか。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 「あるものはある」とは。
リンゴを半分に切れば小さくなる。
さらに半分に切れば、ますます小さくなる。
でも、どんなに小さくなっても、なくなるわけではない。
あるものはある。
なくなることはない。 自明なことを格好つけて言うと、感心する奴がいる。
By パルメニデス >>217
それじゃダメだね。リンゴがあるといっても、虫食いがあれば、
それだけでもう商品のリンゴとして扱うことができない。だから、
そのリンゴはもう「ない」ものとして扱われる。これが真の哲学。 でもさ、人様には商品として提供できない虫食いのリンゴでも、
豚なら気にしないわけさ。すると、豚の餌としてならそのリンゴ
も再び「ある」ことになる。そうして世界は多様で豊かなもの
となるのです。「あるものはある」、「ないものはない」なんて
幼稚なことを言ってるうちはお子様ですよ。 >あるものはある。
>なくなることはない。
この場合の「ある」というのは、エネルギー保存の法則において
「エネルギーが消えてなくなることはない」というのと同じことなの。
「存在しないエネルギー」については何も語ることができないのだから、
エネルギーの在り方について、どのようにあるのか、どのようにあり
得るのかについて語ることがすべてなのですよ。 大昔に、質量保存の法則を見抜いていたとは。
さすがは、パルメニデス。
ただ者ではない。 霧をどんどん小さくしていけば、小さい霧になるわけではなく、霧が
なくなって水になる。もっと小さくしていけば、水すらなくなって、
水素と酸素になる。霧は跡形もなく消えてなくなるのだから、霧は
なくなったと言える。 「これがパルメニデスの新解釈だ」と称して、おのれの持論を展開する
これぞ哲学の醍醐味 では、量子力学の数式は、いろいろな解釈がされるから、ナンセンスな言説なのですね?
物理現象に適用された数式は物理の言説でしょ? >あるものはある。
>なくなることはない。
でも、たしかにこれはナンセンスだろうね。 パルメニデスの哲学詩は、どうも文学界では評判がよくない。
「哲学者としては超一流、政治家としては一流、詩人としては二流」という位置づけになっている。 変化はない。
永遠あるのみ。
それが、パルメニデスの哲学 パルメニデスが後世にまで有名なのは、アリストテレスのおかげ
アリストテレスによる高い評価が、後世にまで伝わった パルメニデス(ウィキペディアより)
感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが、そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである。
理性で考えれば「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である。パルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて真に在るものは不変だと考えた。
このことから感覚より理性を信じる合理主義の祖であると考えられている。 アリストテレスの解釈
以上は、古代から存在し、現在でも最も「古典的な」パルメニデス解釈である。
しかしながら、例えば、アリストテレスの『形而上学』第一巻において、
上記のような学説を概ね弟子のメリッソスのものとし、「素朴で検討に値しない」とした。
一方、パルメニデスについては「より深い洞察を持って語っている」とし、
「一者」は、存在の定義についての概念であるとした。
また、パルメニデスは『自然について』の第三部において、
「死すべき人の子らのまことの証なき思わく」として、
自然現象の「火」と「土」を原理に置く詳細な説明を展開している。
これも、アリストテレスの解釈では、経験事実をふまえ、それを説明するための積極的な試みとされている。 プラトン哲学への影響
古代のプラトン主義者たちは、パルメニデスの思想の中にイデア説の原型を見出している。
つまり、理性でのみ把握される不生不滅の「有」の世界と、
感覚で把握される生成流転する世界の二層構造を初めて見出したのが
パルメニデスだ、というのである。
この解釈においても、パルメニデスは、感覚的経験を理性の下位においているのではあるが、決して無視しているわけではない。 哲学とはハムスターホイールの中で走り続けることである。 哲学するという現象を先人たちの行為から読み解くとすれば、
活動への欲求、探検の代償行為、常同行動であろう。
ハムスターと同じである。 しかし、
>つまり、理性でのみ把握される不生不滅の「有」の世界と、
感覚で把握される生成流転する世界の二層構造を初めて見出したのが
パルメニデスだ
・・・というのを見ると、両方ともパルメニデスだ。
ヘラクレイトスは要らない。 プラトンによって確立される、二世界論の創始者として位置づけるべきなんだろう 一方、もう一人の巨頭、ヘラクレイトスは
>万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。
>しかし一方で、その背後に変化しないもの、ロゴスを見ている。
>ヘラクレイトスはまたロゴスは火であるといった。
変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。 ヘラクレイトスは、生成流転する現象世界の背後に、永遠に変わらないもの、ロゴスを見ていた。
こうしてみると、本質的にはパルメニデスが言ってることとあまり変わらない。
どちらも現象界と実在界の二世界論者だが、どちらに力点を置いて語ったかが異なるにすぎない。 >>235
そう考えていることとその人間性が貴方個人の哲学です。 >>244
昔のことだからどうにでも解釈できる。
だとしたら、
「結局、二人は同じような主張だった」
と言っとけば丸く納まる。 存在はかつてソクラテス以前のギリシャ哲学者には、あらわになっていましたがプラトン以来
長い間覆われていましたけど
ヘルダーリンによってまたあらわになっているのでそこへ帰るべきだって〜🙌 >>203
ギリシャ最初のイオニアの自然哲学の解釈は強引で断片しか残って無い。
アナクシマンドロスの文章をハイデガーは勝手に切り捨てたりつぎはぎして自分の都合の良いように解釈しそこに存在があらわになっていると言ってたの。
それに対してヘルダーリンやリルケの解釈は
私にとってまだ理解しやすいんだけどね😃 ま、ニーチェもハイデガーも深くこのような古典研究をしました。
ヘレニズム、ヘブライの伝統にとらわれ過ぎてた。
ヨーロッパにとってもギリシャとは何であったかが
今こそ問われています。
それは経済的問題だけでなく文化、哲学の問題
ギリシャの伝統を克服しない限り
21世紀以後の人類の哲学になるべき
新しい思想の展望は開けませんよね😊 それにしても国語学や言語学では「わたくし」の語源すら判明していない
というのはとても奇妙だ。単純に論理的に考えれば、「私事(わたくしごと)」
=「わ+たく(託)し+ごと」の「わ+たく(託)し」に思えるのだが、
そう考えるべきではない何らかの理由があるのだろうか。「わ」≒「minor」
で一人称を表し、それに託すのだから「confidential/private」という意味
になって、うまく合うような気がするのだが。 さっきギリシャ哲学の話が出てたから強引にメジャーなもの出して最後はまとめて短時間でギヤラリーからしたら此方がすべて知ってるかのような心理学的な技術 相手を負けた気にさせるだけの心理学を使って遊んだんですけど…
まさか…😫 まさか…😫憧れの秀才様が居ませんでした?💦
秀才様が素人にも解るようにゆっくり段階を踏んで素人と一緒に考える形を取ってたのに私また関係無い所に持っていって邪魔しましたよね
秀才様は私の書いたのはハズレってしてるし
私も知ってる。
ハズレで遊ぶ私。秀才様から見たらハズレ見抜いてるけど黙ってくれてる。😅
秀才様ごめんなさい。コテハンつけて下さい〜。
本当にごめんなさい。嫌いにならないでね
(*ノ▽ノ) 「存在」が存在しないと仮定する。
それは、「存在」であることと矛盾する。
ゆえに、「存在」は存在する。
それと同様に、「無」があると仮定する。
それは、「無」であることと矛盾する。
よって、「無」はない。 無はない。
無がない以上、真空もあり得ない。
このように考えたパルメニデスは、真空を否定した。 ニーチェとハイデッガーは、哲学者というより哲学史家 きさくなあの子 目を閉じ閉じ
↑逆さに読んだらどうなるか? 穴臭ゴラスという名前を、哲学史から消してしまいたい アナクサゴラース(Αναξαγορας、Anaxagoras、紀元前500年頃 - 紀元前428年頃)は、古代ギリシアの自然哲学者。
イオニア学派の系譜をひくとされる。
小アジア・イオニアのクラゾメナイ出身。紀元前480年、アテナイに移り住む。
アナクサゴラスはイオニアからアテナイに哲学を持ち込んだ最初の哲学者である。
彼は、物体は限りなく分割されうるとし、この無限に小さく、無限に多く、
最も微小な構成要素を、「スペルマタ」(spermata、種子の意味)と呼んだ。
さらに、宇宙(世界)やあらゆる物質は、多種多様な無数のスペルマタの混合によって生じるとし、
宇宙の生成において、はじめはただごちゃまぜに混合していたスペルマタが、
「ヌース」(nous、理性の意味、ヌゥスとも)の働きによって次第に分別整理され、
現在の秩序ある世界ができあがった、というのが彼の根本思想である。 哲学史上でのアナクサゴラスの重要性は、3つある。
ひとつは、後に哲学の中心地となるアテナイに哲学を持ち込んだこと。
もうひとつは、スペルマタの概念を唱えることにより、原子論への流れを作った。
最後に、「ヌース」という新たなる世界観の提唱者。
これが一番有名だ。
アナクサゴラスという名前より、「ヌース」のほうが遥かに有名。 >>258
プラトン以後の西洋哲学をバッサリと切り捨てたおかげで、
ソクラテス以前の古典しかネタがなくなった キリスト教世界といっても、知識人と民衆では、信じる神が違っていた。
知識人にとっての神は、アナクサゴラスの「ヌース」とか、
パルメニデスの「永遠不滅の丸い球」とか、プラトンの「イデア」とか、
そういうもの。
キリスト教が普及してからも、知識人たちはそちらを支持し続けた。
スピノザは、それが露骨だったので破門された。 かつて、聖トマス・アクィナスの「神学大全」を読んだときは、
「この人、なんでキリスト教とギリシャ哲学を統合しようと、
無理してガンバってたんだろうな?」と不思議で仕方なかった。
キリスト教の信者なんだから、ギリシャ哲学は要らないだろうと。
でも、本人たちにとっては、そういうわけにいかなかったのだ。 なぜ、そういうわけにいかなかったか。
それは、「両方とも信じていたから」の一言に尽きる。
摩訶不思議な話なのだが、そうとしか言いようがない。 考えてみれば、日本人も、神道と仏教を習合しようと、さんざん努力してきた。
ついでに、儒教や道教もかなり混ざりこんできた。
後世から見れば奇妙なのだが、当人たちにとっては、別におかしくなかったのだろう。 アリストテレスからではなく、ルシファー墜落からだろな ヌースは、知性、理性、精神、魂等々を意味するギリシャ語。
アナクサゴラスは世界はヌースが支配しており、人間はヌースを把握することができると考えた。
また、プロティノスは万物は一者から流出したヌースの働きによるとした。
ストア派においてはロゴスとほぼ同義で用いられる。
イマヌエル・カントの哲学においては、この語から派生した「ヌーメノン」(noumenon, 考えられたもの)という語が、「物自体」と同義で用いられる。 一から多が流出するのではない。
一からヌースが流出し、ヌースから多が流出するのである。 >>280
違うよ
ヌースからも生じるのは多ではなく、一つ。
その生じた一つも、一つのものしか生じない。
その連鎖が流出論ね。 フランス語の一人称複数のNousとは関係あるのかな 秀才様の一番要の真理はどのようなことですか?😊
私のは計画できないものです😋 型だけ真似ようとしてもダメです。
あしはらでしこを踏んでいるうちに、
地が固まり、足腰も鍛えられるのです。 >>284
関係ない。
フランス語nousはラテン語nosterから つまり、雨を降らせるのもヌースなら、地を固めるのもヌース 秀才様は先生になれる人みたいー
ねぇねぇ秀才様はどのような真理を信じていますか?😊幅が広いので。
ヌース 私はカントの物自体と神を区別します。
だからヌースが支配とか雨降らせるとかは
ちょっとね😃 >>301
偶像崇拝は、思考放棄であり、貴方が哲学者ではないことを実証します。 >>305
大丈夫ですよ♪
私に油断はありません😉 >>305
秀才様ですか
誰?⤴
もっとお話がしたいです😍 >>308
ベンサムの監視刑務所と
神様のことね。 お天道様が見ている?いや、雨風に吹き曝されてずぶ濡れになりながら
でもちゃんと見ているんです。だって、「そほと」ですから。 まさかな
いくらなんでも、古代人がそんなこと考えるわけがない 天之蘿摩船(あまのかがみのふね=ガガイモの実を2つに割った小さな舟のこと?
いや、「あまのかがみのふね」なのだから「あま(far space)のかがみ(light casting
device)のふね(vehicle)」でしょう。その船に乗ったスクナビコナが導いてくれるのです。
崩彦(くえびこ)はちゃんと見ています。 いわゆるパノプティコンですよ。
所謂 久延毘古者 於今者 山田之曾富騰者也
此~者 足雖不行 盡知天下之事~也 「稲羽の素兎」はどこからどこに渡ろうとしたのでしょうね? >>322
くえびこは、古代の防犯/監視ダミー・カメラだな ところがだ、久延毘古(くえびこ)は、民草を見ているだけではなく、葦原の
神々の誰も知らないスクナビコナの身元さえ知っているのである。 >>327
ということは
やはり私の意図は見抜かれたのね
大変だー😆 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F
>物部氏(もののべうじ)は、「物部」を氏の名とする氏族。姓(かばね)は、始め物部連、後に物部朝臣。
表現から考えるとどうも疑わしいね。私には「物部」≒「Geheimdienst(独語)」
であるように思える。 この場合、「物(もの)」とは、「大物主(おおものぬし)」の場合と同じく、
「得体が知れない」というニュアンスでしょう。その後、仏教が「アマテラス」
のように「きよ(清)ら」であることを独占することによって、「物(もの)の気(け)」
は単に降伏させられるべきものとなったが、「けが(穢)れ」の「け」が本来、
それがつくことによって五穀豊穣がもたらすものであり、同時に火山の噴火の
ような「神の気(け)」として死と荒廃をもたらすものであったように、どちらに
でも反転しうる両義的性質のものであったと考えるべきなのではないのか。 五穀豊穣がもたらすものであり(誤)
五穀豊穣をもたらすものであり(正) >>333
誰かさんがまた偶像崇拝って言うので
辞めとき😏 ヌースという言葉を初めてお聞きになる方もこの中にはたくさんいらっしゃると思います。
ヌースというのは、もともと古代ギリシアの哲学者たちがよく使っていた言葉です。
ギリシアではノウス(nous/ノウス)と発音されていたようですが、
ヌースについて最初に語った人物は前ソクラテス期の哲学者でアナクサゴラスという人です。
アナクサゴラスは人間の理性には二つの種類があると考えました。
一つはいわゆるロゴス。これは、皆さんもご存じでしょう。
日本語では、理性や言葉と訳されます。
そして、もう一つの方がこのヌースです。
アナクサゴラスは、このヌースのことを別名「旋回的な知性」と呼びます。
つまり、風車のようぐるぐると回る知性がある、と言うんですね。
そして、これがやがて、グノーシス的な思想の中で霊的知性や叡智と呼ばれるようになっていきます。
ロゴスは現象世界の秩序を論理的に把握する理性の力のことですが、
この旋回的知性としてのヌースの方は生成の力を司る知性と言われています。 つまり、知性には二種類ある。
ロゴスとヌース。
そういうことか? 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。
今日のテーマは、プロティノスの「ヌース」について、です。
プロティノスは、古代の西洋で活躍した人物です。
プロティノスの三位一体説で、一番上の位にあるのは「一なるもの」です。
それは、世界の全存在の根拠であると考えられるものです。
そして、二番目の位が、「ヌース」です。
「ヌース」は、「一なるもの」の、景色です。
「一なるもの」の映像が「ヌース」であるということです。
そして、三番目の位にあるものが、「霊魂」です。「霊魂」は、三位一体説の中では一番低い層にあるものと考えられています。
プロティノスの主張では、下位の存在である「霊魂」が、
その上位の存在の「ヌース」や、「一なるもの」と、
関わり合いを持つことは可能であると考えられます。
そして、その、下位の「霊魂」が、上位の「ヌース」と、交流することが、
プロティノスは価値のあることであると考えるのです。 なんか、「ヌース」が好きな人って、宗教とかスピリチュアル関係の人が多いみたいだな ウィキペディアによると、後世には同じ意味で使われるようになったとある 「はじめにロゴスありき。ロゴスは神なりき」とまで聖書に書かれたおかげで、
キリスト教にとって「ロゴス」は特別なものとなった。
ギリシャ哲学の根本原理がキリスト教にガッチリと組み込まれた。 それに比べて、「ヌース」は新プラトン主義の、秘教的な方面に伸びていった。 ロゴスの言い出しっぺがヘラクレイトスだと言っても、
ヘラクレイトスは断片的な言葉しか残してない人。
ロゴスの概念を発展させたのは、やはり論理の大家・アリストテレスであった。 ヌースも同じで、言い出したのはアナクサゴラスだけど、
後世に残ったのはプロティノスのおかげ。
新プラトン主義の根本原理となった。 論理的なロゴスに比べて、ヌースには神秘性がある。
というより、ヌースは普通に考えれば「神」に相当する。
哲学者にとって神は、神話や聖書に出てくるように
怒ったり喜んだりするような、具体的な存在ではない。
哲学的なワンネス思想の世界観に、抽象化した神の存在を埋め込むために、
「ヌース」が必要だったのだと思われる。 もしも、アリストテレスの頭が悪かったなら、世界の全表面が変わっていただろう 「世界史で、最も影響が大きかった人」といえばマホメットだが、
実はアリストテレスのほうが影響が大きいんでないか? ロゴス(logos)
概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味。
キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
言語、論理、真理の意味。転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。 一見、直接の関係は無さそうに見えるキリスト教とギリシャ哲学だが、
実は「ロゴス」を通じて結びついている。
聖書に「ロゴスは神なり」と明記されているのだがら、後世の人々がこじつけたものではない。
中世において、キリスト教とギリシャ哲学を統合する「スコラ哲学」が樹立されたのは、必然であった。 キリスト教では、ロゴスは「神の言葉」とされている。
このため、「はじめに言葉あり。言葉は神なりき」と訳されることも多い。 日本語だと「ある」より「なる」の方が先だろうな。古事記は、
「天地初めて発(ひら)けし時、高天の原に成れる神の名は...」
から始まる。「この後に生(あ)れし五柱...」という表現が
出てくるが、「生(あ)れし」は、「離(あ)れし」でもあり、
「在(あ)れし」でもあると考えられるが、「離(あ)れ」が
本来のニュアンスだろう。 ガリレオやデカルトの時代には、アリストテレスの科学が重くのしかかる巨大な桎梏だった。
ニュートンの時代には、すでに嘲笑のネタでしかなかった。 しかし、ニュートンは力学研究のかたわら、錬金術に凝っていた。
錬金術の祖は、アリストテレスの四元素説。
結局は、ニュートンといえども、アリストテレスという巨大な仏の掌上で踊る孫悟空にすぎなかったのだ。 アリストテレスは数学ができないタイプ。
ピュタゴラス、プラトン、エウクレイデス、アルキメデスといった人たちに比べると、オツムがとろいとこるがあるね。 >>364
アリストテレスというより、長い中世期を通じてああいうのが権威であり続けたというのが、人間の知性の弱さをあらわしてるね。 >権威であり続けたというのが、人間の知性の弱さをあらわしてるね。
違うよ。何でも権威に変えてしまうところが、知性の抑圧を表している。
なにしろ、キリストや仏陀まで権威に変えてしまうんだからね。 権威とかけて横殴りの雨ととく
その心は?
古いバターシチュー!!!! >>368
その中で、アリストテレスだけは本業が生物学者。
他の人たちは全員、数学者や物理学者なので、比べるべきではない。 実際のところ、近代になるまでもなく、古代や中世においても、
数学のスベシャリストから見れば、アリストテレスの科学体系は
物足りなかったであろう。
アリストテレスの科学を支持していたのは、主に医者だった。 ギリシャ哲学において、ロゴスを明確に定義づけたのはアリストテレスである。
紀元前4世紀マケドニアのアリストテレスは、ロゴスを説得術の三様式のうちの一つと定義づけた。
すなわち感情に訴えるパトス、道徳心に訴えるエトスに対し、理性に訴えるのがロゴスである。 また、アリストテレスは、ロゴス=論理を対象とする論理学を創始した。
論理学とはロゴスを使ってロゴスを説明するものであるが、
彼がここで用いた三段論法は、前提が間違っていなければ
結論も間違っていないというものであり、
A=Bという大前提、C=Aという小前提を認める限り、
B=Cであるというように、西洋哲学の数学的な側面も垣間見ることが出来る。 アリストテレスのもう1つの側面として、「論理学の創始者」というのも忘れてはいけない。
ギリシャ哲学の根本原理であるロゴスを確立したのもアリストテレス。 もちろん、アリストテレスの場合は論理学といっても、
単純な三段論法が中心で、現代のそれとはまるきり異なる。
とはいっても、西洋哲学の重要な柱を確立したのは事実。
近代になるまで、論理学といえばアリストテレス。 三段論法は、論理学における論理的推論の型式のひとつ。
典型的には、大前提、小前提および結論という3個の命題を取り扱う。
これを用いた結論が真であるためには、前提が真であること、
および論理の法則(同一律、無矛盾律、排中律、および充足理由律)
が守られることが必要とされる。
アリストテレスの『オルガノン』(『分析論前書』『分析論後書』)によって整備された。 こうしてみると、唯名論の祖であり、論理学の創始者でもあるアリストテレスこそ、
現代の言語哲学・論理哲学の先駆けであることが分かる。
20世紀の哲学界では、プラトン的なものが衰退して、アリストテレス的なものが全盛期を迎えた。 >>380
哲学では、なんで三段論法みたいな当たり前のことを物々しい言葉(大前提、小前提および結論,
同一律、無矛盾律、排中律 等)を使って説明するんだろうね。 バカは難しい言葉で浅いことを語る
聖書やクルアーンは簡単な言葉で深いことを語る >>381
「西洋哲学はプラトンの脚注」だったよねぇ 20世紀の論理学は、アリストテレス的な言語の分析の基づいた論理学から、数学モデルによる新しい論理学へ切り替ったでしょ。
その3世紀前には、ニュートンによって、宇宙観、物理観を完全否定されたし。
アリストテレスなんて有難がってるのは、文献講読好きな連中だけじゃないの。 >>386
哲学は文系の中で一番数学に近いらしいね✨ 自然化学ではニュートンよりも今の化学者のが
よく知ってるけど
哲学では現代の哲学者達よりもアリストテレス
のがよく知ってるところあるよね✨(^^) 宗教は麻薬だ
かつて若い娘のむちぷりおまんこや ぷりぷりおっぱいに夢中になったように
今はただただ神秘に夢中である
祈りましょう おーぷん=糞!クソ!
おーぷん運営=糞!クソ!
おーぷん削除人=死ね! 人間は、言語によって世界を分節化し、体系化している。
世界に意味を付与しているのは人間、というより言語。
世界を分節化したのは、アリストテレスの業績。 >>395
初心者です。分節化って何ですか?
具体的にお願いします。 実体とは、アリストテレスによれば、「主語に述語として付け加え得ないものであり、また述語の中には存在しないもの」である。
たとえば、バラは赤かったり、薫り高かったり、棘で人を刺したりするものである。
また或る時には愛情の徴となったり、初夏の清々しさを喚起させたりするものでもある。
このさまざまな場合を通じて、一つのバラというものが主語として実在しており、
それは諸々の性質からは自立した存在である。
このことをアリストテレスは「実体」という言葉で表したのだ。
要するに諸々の述語にとって共通の主語となるもの、
それがアリストテレスのいう実体というわけであろう。 実体をめぐる議論はその後、実在論と唯名論の対立として、中世哲学の最大のテーマになった。
実在論者は、神をはじめさまざまなものの実体が存在すると主張し、
唯名論者は実体とは主語と述語の間に成立する関係を表す操作的な概念にすぎないと主張した。
実体とはさまざまな性質や出来事を束にしてまとめるための、便宜的な説明手段といえる。
言語学的には、さまざまな述語を束ねる共通の主語といってよい。
人間は、この共通の主語を、いついかなる場面においても同一のものとして意識するからこそ、
出来事の連続性や存在の恒常性について確信がもてるのである。 このように、アリストテレスは、「主語と述語の関係」に着目した最初の言語学者、つまり言語哲学の祖でもある。
「述語に主語が含まれている」というような話は、カントの哲学書にもしょっちゅう出てくる。 ●ソシュール以前のコトバに対する考え方
唯名論
個物が存在し特殊名辞はラベル・普遍名辞は個物の集合でしかない。
過去現在未来に渡り個物は同一性が維持されているようにみえる理由を説明できないので×。
アリストテレス的。まず第一に個物が存在する。
実念論
まず不変のイデアという本質が実在しそれが個物に取り付いている。
イデアの存在は確認できない。
プラトン的。
●ソシュールの思想は何処が違うか
コトバは人間とは別に存在する何かを言い当てるモノではない。
何らかの実体の存在がコトバの違いを根拠付けしているのではない。
コトバによって世界は分節され(別けられ)認知される。
コトバが指し示す実体は個物も含めて存在する必要はない。
イデアが実在する必要もない。 >>396
言葉によって、世界をバラバラに区切ること。
たとえば、同じ四足動物のイヌとネコを分けているのは、「イヌ」と「ネコ」という言葉。
この場合、イヌという言葉そのもの、ネコという言葉そのものには、特に意味がない。
単に、対象を区別するために人間が付けた名前。 「山」と「丘」は、どう違うのか。
高さ何メートル以上が山で、何メートル以下が丘なのか。
”mountain"と”hill”は、どう違うのか。
同じ地面の凸部分にこのような区別をつけているのは人間の言語であり、
しかも、言語によって分け方が異なる。 それによって、世界がまったく違って見えてくる。
現代人には、人間によって分類され体系化された世界像が
完全に刷り込まれているので、そうでない世界をイメージすることすら不可能だ。
つまり、現代人の住む世界は、アリストテレスによって細かく区切られた世界。
そうなる前の世界に戻ろうたって、もう無理。 >>369 です。
ありがとうございました。
初心者なので、「そうならば、分節化は当たり前のこと」のような気がしてしまい有難さがわかりません。
もうすこし勉強してからまた質問します。 >「山」と「丘」は、どう違うのか。
高さで区別するようになるのは、地図作成とかの都合だよ。
本来は、高さによる区別ではない。リンゴ一山いくらって言うだろ。
高さ何メートルにも積み上げられたリンゴの山を買うか? お(起)きが「rise」だから、おか(丘/岡/陸)は、「raised ground」じゃないかな。
高くなっていてもその場所が平らなら、普通は「やま(山)」とは呼ばないだろ。
特に「陸(おか)」の場合は、水面より高いが、別に山になっているわけではない。 >>401
凄く古い、20世紀的な言語哲学だね。
例えば、犬という概念が、猫や狼のような他の四足動物と異なって分節化されるのは、決して、言葉が先行して、概念を形成してるわけではないよ。
前世紀にはそういう考えや、あるいはサピアウォーフ理論みたいな言語相対性仮説が流行ったけど、今はそんな素朴な考えを信じてる人はいない、
例に挙げた、犬という概念(分節カテゴリー)の形成が、言葉抜きの簡単なアルゴリズムによって実現される例など、谷口忠大の 『記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門』(講談社選書メチエ)で実にクリアに説明されてるから、一度読んでみたら。 谷口忠大の 『記号創発ロボティクス』では、広松渉の「言語がないと分節できないんだぞ」というドヤ顔での主張を例に挙げて、実に見事に、且つ完膚なきまでに 論駁してる。
それはもう、ほれぼれとする。
「自然言語でしか考えられない理論の限界」というのをまざまざと示している。 >>401
言語なんて一アイテムにすぎないことがよくわかるよな
姿形がそっくりだけど、生物系統的には別の種だという〜モドキみたいなのは、言語ではなく、生物学の発展がなければ理解されることはなかった >>410
ゲシュタルト識別能力は言語などより遥かに先行してる。
で、そこで働く機序が、実はかなり単純な一種の「計算」で遂行されてるとういうことが、脳神経科学、認知科学、人工知能研究で段々明らかになってきてる。
ちょっと前にベストセラーになった、「簡単な脳、複雑な私」なんだな。あの高校向けの公開授業でも、谷口が示したようなアルゴリズムと似たような例を挙げてるね。
一言でいうと、複雑と感じられるものは、実は複雑でなかったということだが、しかし、この意識のパラドクスは大変面白い。 アリストテレスと比べたら、ソシュールは新しい。
でも、現代人にとってはソシュールも古い(笑) 哲学とは、よく生きることの探求であり、そお限りにおいて知を愛することだよ。
少なくとも、ソクラテス、プラトンによれば。 ところが、極めて幼稚なレベルの単純労働すらAIにまかせられず、人間に常時監視させて、簡単なミスの尻拭いをさせなきゃならない
ってのが本当のパラドックスだよな >>404
これは、「言葉が世界を構成している」という、言霊信仰に近い考え方。
自覚するしないにかかわらず、自分に見えている世界においては、
人間がつけた名前によって事物が細かく分類され、
それぞれに意味を付与された上で再構成されている。
もしも、これがなかったら、世界がまったく違ったものに見えてくるのは確実だ。
現代人の意識には、こういう分類された世界像が深く刷り込まれているので、
もはや、そこから抜け出すのは無理。 よく言われる例としては、空にかかる虹が挙げられる。
日本語では「虹は七色」だけど、他の言語では5色だったり、とある未開人の言語では2色だったりする。
つまり、虹がいくつの色に分かれて見えるかは、使っている言語に大きく左右される。
自覚するしないによらず、自分に見えている世界というのは、しょせん、こんなもの。
同じように、目の前にいる四足動物が何に見えるかも、使っている言語によって変わってくる。 シベリアンハスキーが、犬に見えるか、狼に見えるかは、使っている言語に依存する シベリアンハスキーは、「犬」と呼ばれれば犬になり、「狼」と呼ばれれば狼になる
人間が何と呼ぶかによって、存在すら変わる >>423
そんなことないでしょ
虹は七色のように言葉による思い込みはあっても、よく見たら違うな、みたいに気付くのはいくらでもある
七色だと言う文化圏に生まれたからって、死ぬまでそれ以外を認識できないわけじゃない >>423
そういう、とっくに否定されてる素朴なサピアウォーフ仮説をいまだにドヤ顔で語ってるとは w >>426
「ある文化で恣意的に色彩をカテゴライズしてる」までは問題ないんだけど、だから「その文化の属する人はカテゴライズされた色しか見分けられない」という結論に、いきなり飛躍するアホがいるんだよ。
実際には、「すべての文化圏の言葉をかき集めても所詮は有限な言語体系では、人間が知覚できる微妙な色彩差は表現できない」というのが正解。 感覚は無限で、意味体系は有限というのは常識なんだけどね。
そもそも、言葉で色彩のようなクオリアを伝えることは不可能。
生まれつき赤色を見たことない人に、実物の赤色のサンプルを示さずに、言語だけでそのクオリアを伝えることは完く不可能。 言語というのは、その意味で二次分節であって、身体による一次分節がないとそもそも成立しない。 >>428
恣意的というのもは問題あって、実際は。その文化圏(生活圏)で生存上、生活上に意味のある区切りをしてる。 >>420
「知的な行為」ほどAIは得意で、身体運動みたいなアドリブ的な行為はAIは苦手なんだよ。
将棋やチェスは得意だけど、ダンスは不得意みたいな感じ。
だから、人間の会話やコミュケーションというのは、ダンスに近い。
水商売の女性の方が、本ばかり読んでる学者より、会話が上手なのはこのため。 なんだかわけの分らない議論してるけど、話は単純で、日常言語の表現を用いる
より、プログラミング的なアルゴリズムを用いた方が、日常の現実をよりうまく
効率的に記述できるというのなら、実際にやってみせればいいだけの話。
その現実には当然、人間が言語を用いているという事実も含まれているわけ
だから、とりあえず、人の用いる言語の語彙集や意味の定義、用いられてる
文法を自動的に記述して辞書を作成するアルゴリズムでも発明してみせて
ください。 サークルでもフットワークのいい、軽いノリの奴の方が持てて、人間関係でいつも優位にたってるのと同じか w メディア上でいくらでも自動的に映像、音声、書き込みをすべて取り込んで
利用することができるのだから、実証してみせるのは容易でしょう。 >>433
数式を用いた方が効率よく表現できる領域もあれば、日常言語を用いた方が効率よく表現できる領域もあるんじゃね。 >将棋やチェスは得意だけど、ダンスは不得意みたいな感じ。
踊れない水商売の女性は沢山いるだろうけど、ロボットなら
プログラミングすればみんな同じように踊れるでしょ。 決まったパターンの踊りじゃなくて、掛け合いのあるダンスみたいなもんじゃないかな。 >>433
日常言語だけでは、惑星の軌道を正確に予測したり、人間を宇宙空間へ届けたり、大規模な産業システムを構築したり、色んな分野で統計学を使って事象を予測したり、
インターネットで映像や音楽を楽しんだり、世界中の膨大な情報から必要な文献情報を検索したり、病気を診断治療したり etc と言うことは出来なかったろうね。日常言語だけではね。
これらも日常の現実だけど。 それは、手書きより定規を使った方が真っ直ぐに線が引けたり、
コンパスを使った方が歪みの小さい円を描くことができるのと
どう違うの? 目的のために何かを合意によって固定することができ、そのことに
よって力を合わせたり、組み合わせたりすることが容易になるって
だけの話でわ? 解釈なんてのはオナニーみたいなもので、それはAIには無理 w >>418
少なくとも、ソクラテス、プラトン
の頃はそれが精一杯だったろう >>439
日常言語ってなぁに? ということになるよね。
統計学もニュートン力学も日常言語の一部分だよね。 アリストテレスみたいな数学のできないバカには理解不能な世界。 >>448
でもそうすると、433は何と戦っているのだろうか w 機械化の世の中、it化の世の中と戦っているんでしょ。 >>448
日常言語の定義は未定だとしても、人間が発したり書き記したりするすべては日常言語と考える立場もある。
これに従えば、日常言語の部分言語としては数学とか俳句とか量子力学なんかはかなり小さい。
しかし、日常言語の定義は他にもあるかもしれない。 >>455
拡張した考えを進めれば、言語自体が記号の一部になってしまうし。 アリストテレスは「万学の祖」、「万能の天才」と言われるけど、少なくとも
数学に関しては、アルキメデスには確実に負けてる。
ていうか、そもそも勝負にならない。 しかし、論理学者としては、アリストテレスに比肩すべき人物など、フレーゲくらいしか見当たらない 重量挙げの選手がいくら体を鍛えても、パワーショベルには絶対にかなわない。
それと同じように、遠からず、AIのほうが人間より賢いのは当たり前となり、
誰もなんとも思わなくなるだろう。 すでに、記憶力と計算力では、人間は機械に完全に負けている。
もっとも、コンピュータの記憶ってのは、紙に書き込んで記録するのと同じようなものだが。 >>458
それでは、
女なんて原子の集まりと言っているのと同じ。
重要なことはいい女を見つけること。 >>382
「完全に論理的な言語を作りさえすれば、語りうることをすべて明晰に語ることができる。
そうすれば、哲学上の問題はすべて解決する」というのが、20世紀の哲学の基本発想。
アリストテレスも、古代人としての限界はあったが、それなりに論理言語の実現を意図していた。 >>461
フレーゲがどんな仕事をしたか知らないが、
そもそも論理学は哲学においては重要ではない。 >>465
「完全に論理的な言語」って数学以外にないでしょう >>465
2ちゃんねる初心者🔰ですけど
こういう漫画見たいな方法をアチコチのスレで見受けられますが自演をしまくっているのでしょうか?
本当だったら世も末ですねー😃 そうなんですね。哲学は哲学のための言語として論理を整理した。
しかし、数理論理学が成功してしまって哲学は太刀打ちできなくなった。 自演なのですね。
哲学の帰結が論理の中にはありませんよ♪ >>476
だって〜😭
ギャグ書いてたら
つっこみたくもなるもーーーーーーーーーん ちなみに今日もお仕事しながら書いてるの。😉
お店を一人で任されていて年中無休です。
貯金が趣味です。😉
店内のフロントに座ってるのでテレビも何も無いの。
雑誌や漫画本見て暇潰してます✨
ここ書く暇が有るので商品はボチボチしか売れてません。
だって社会が投資費宣伝費はケチルもん
売れてないのは私のせいじゃないもん😡 >>476
そう。
貴方様の書いてることはギャグなの😃 >>474
こんなこと おそらく
世界でもトップクラスしか書けませんよ♪(^^) 日本語の、「ナントカはカントカである」という文と違って、
西洋語の「ナントカ is カントカ」という文は、
もともと数式のイコールと構造が似てるからねえ。
「完全に論理的な言語を作ることにより、哲学の問題を解消する」
という発想は、日本人からは絶対に出てこないな。 アリストテレスも、「哲学上の難問が発生するのは、
主語と述語の関係が狂ってるからなのだ」と考えたからかどうかは
知らないが、論理的な言語を構築しようとした。
そのせいか、アリストテレスの著作は、とにかく記述が単調で、面白みに欠けるのが難点。
ブラトンの著作が文学的で楽しいのに比べて、あまりにも差が大きい。 つまり、論理的でない文を排除すれば、問題は起きないということか? そう、その通り。
語り得ないものについては、沈黙する。
語り得るものについては、明晰に語る。
それが、疑問のない人生を送る秘訣なのだ。 >>483
哲学上の難問なんてあるの?
そんなのあるんだったら教えてくれないか? すぐ解いてあげるよ。 人類の精神史において、アリストテレスという巨人が踏み出した最も大きな一歩。
それは、「世界をキメ細かく分類し、体系化する」ってのを始めたところにある。
これこそ、西洋的な科学 『範疇論』とは、アリストテレスの著作であり、『オルガノン』の中の一冊。『カテゴリー論』とも。
文字通り、様々な概念・言葉の「分類」について述べられている。 演繹的推論としての三段論法に関する議論と並んで、
アリストテレスの論理学が後世に及ぼした影響の中で重要なものは、
カテゴリーに関する議論である。
カテゴリーとは、存在のもっとも普遍的な規定であるような諸概念をさす。
それは論理的に整理された存在の諸様相の一覧表であり、
体系的な存在論の試みとして、後世の学者たちに受け取られてきた。 アリストテレスはカテゴリーとして、実体、分量、性質、関係、場所、時間、位置、状態、能動、所動の10個をあげている。
彼がカテゴリーの定義としていっていることは、
「いかなる点からみても複雑ではない表現の意味するもの」ということだが、
要するに存在のもっとも単純で、他の性質に依存しないような
究極のありかたということらしい。 >>486
それは、いろいろある。
たとえば、かの有名な「心身問題」とか。
なぜ、異質な存在であるはずの精神が、物質である身体を動かすことができるのか?
これは未だに、解決したようで解決していない。
むしろ、現代の脳科学で蒸し返されている。 「心身問題」というのが意味ある問題になっているかどうかはわからないけど、
すくなくとも哲学の問題ではないだろう。
実験をしないで解けるわけがない。 >>491
一時間後には、諸君は文字通り世界中のパイロットとともに、人類史上空前の規模の空中戦を戦うことになる。
人類といったが、この言葉は今日以降、新しい意味を持つ。
民族などの些細な違いには、構っていられなくなる。
我々は共通の目的のために結ばれる。奇しくも、今日が7月4日であるのも、何かの運命だ。
我々は再び、自由のために戦う。
圧政や弾圧から逃れるためではなく、生存をかけてだ。
人類がこの地球に生きる権利を守るためにだ。
今日の戦いに勝利すれば、7月4日は単にアメリカの祝日ではなく、地球人類が確固たる決意を示した日として記憶される一日となるであろう。
我々は戦わずして、滅びはしない。我々は勝利し、生存し続ける。
今日独立記念日を祝おう ソクラテスは、ペロポンネソス戦争で活躍した。
かなりの猛者として名を馳せていたらしい。
プラトンは、プロレスから哲学に転向したという変わり種。
両方とも、マッチョなタイプだ。
その点、学者っぽい学者なのはただ一人、「万学の祖」こと、アリストテレス。
師のプラトンも、彼の圧倒的な学識を頼りにしていたようだ。 >>492
どんな実験をすべきか、まで含めての心身問題だろう そういえば、「単純な脳、複雑な私」という本に、こんな話が出ていた。
たとえば、人が灰皿を取ろうと思って、手を伸ばす。
普通に考えれば、人が心の中で「タバコを吸いたいな」と思い、
「よし、灰皿を取ろう」と思って、それから手を動かしていると思う。
ところが、脳科学の実験によると、なんと、脳は「タバコを吸いたいな」
と思うより少し前から、手に信号を送るべく、スタンバイ開始するのだという。
脳は、心の動きを先読みして、先に行動を起こす。
でなきゃ、とても間に合わないらしい。
脳にこのような機能がなければ、人間は、心に思うと
同時に手足を動かすことなど、とてもできないんだそうな。
この実験結果によって、「心とは何なのか?」という議論が再燃した。 アリストテレスの業績で今も価値があるのは、倫理学くらいだろ。 それはともかく、哲学上の難問は、他にも沢山ある。
たとえば、「ボクに見えているリンゴは赤い。キミに見えているリンゴも、
たぶん赤いだろう。でも、ボクが見ているリンゴの赤と、キミが見ているリンゴの赤は、同じなのか、違うのか?」
とか、そういうの。
なんか、これに限らず、哲学の認識論の難問は、
現代では哲学というより、脳科学のテーマになっちゃってるのが多い・・・。 >>497
脳科学の奴らはカントも読めない馬鹿だから。 >>501
それは、言葉ではクオリアを表現するのは不可能という、429で指摘されてる問題と同じだな。 そう、つまり、クオリア問題は「語り得ないもの」に該当する。
この問題が発生したのは、語り得ないものを語ろうとしたのが原因。
つまり、「言語を誤って使用したから」ということになる。 >>465
完全な論理的な言語を作ってすべて明晰に語る事が
例えば人知を越えるような素晴らしいものが出来た クオリア問題が「語り得ないもの」とであることは、人間が「孤独」であることと深いつながりがあるような気がする。
人間だけが言葉を持つが、同時に言葉で表現できないものの方が実は無限に多い、これが孤独ということの本当の意味なんじゃないか。
なんちゃって >>507
としても
哲学上の問題は本質が全然違うよ♪(^^) 問題になっていない「問題」を解こうとすれば哲学になる 唯物論は最終的に狂気に行き着くしかない
俺は唯物論は誤りだと知ってそれを放棄した 語れないものだからと言って、示すことができないわけでも、伝えられないわけでもないよね?
犬に臭いをかがせて、これと同じ臭いのするものを探せと命令するとき、指示を与える
人間には、その臭いが感じられないわけだけど、ちゃんと犬に命令を理解させること
ができるじゃん。 >>514
そりゃ、言葉以外で伝わるものは多いよ。
微妙な会話なんか、言葉以外で伝わるものの方が多い w
まさに、言葉ではクオリアを伝えられないといういこと。 言葉で語られたことしか理解できない人間がいるとしたら(現実にはそんな人間がいないと思うが)、それは狂人か、ロボットかのどちらかだ。 >>512
犬は群れで行動するので、孤独に弱い。
猫は孤独に強い。 ウィトの言ったことは、
哲学上の難問とは、問題になっていない問題
ということだよ >>518
「よし、語り得ることだけを明晰に語れるようにしようぜ」と
張り切って言語分析をやり始めた連中を見て、
ウィトゲンシュタインは、
自分の言いたかったことが完全に誤解されていると愕然とした。 じゃあ、語り得るか、語り得ないかどうやって区別できるんですか? >>520
例えば、ピアノの音。
生まれてから一度もピアノの音(それに似た音も)を聞いたことのない人に、言葉でその音を説明することは不可能。
言葉でできることは、せいぜい、実際のピアノの音を聞かせて、「あの音だよ」示すというくらい。
でも、そのピアノの音がなければ、言葉だけで説明することは不可能。 だからさ、語り得るか、語り得ないかはどうやって区別できるの? あるいは、人の顔。
特徴を似顔絵風に表現することはできても、実際に目で見るその人の顔そのものを、言葉だけで表現することは全く不可能。 とろろが、既に「ピアノの音」とか「人の顔」として語ってしまっているわけだ? >>527
じゃあ、私の顔とか、○○さんの顔という言葉を聞いて、あなたは私の顔を視覚的にイメージできるの?
イメージできない。
つまりイメージは言葉で表現でないということ。 「人の顔」という概念は伝えられるけど、感覚やイメージは伝えられないね。 例えば女性の裸体だ
まったく言語の違う縄文人と俺が二人で女性の裸体を見てるとしよう
語りえないではない 語りえる
お互いのちんこが勃起してるからだ
ジェスチャーでちんこを指し 「カタルカッタッタ?」とでも言えば「イエス、オフコース」とでもなるだろう
お互いの心境をシェアするのは簡単なことだ
よってその推論は当てはまらない >>533
言葉はなくても、勃起はするよ。
勃起に言葉は必ずしも必要ない。
言葉以前に理解が成立してる。 >>533
>>まったく言語の違う縄文人と俺が二人で女性の裸体を見てるとしよう
すでに 「見てる」 でしょ w >>533
何も見ないで、以心伝心で勃起するようにならなければ、達人とはいえない。 何も見てない第三者に
手に残った女性器の残り香を嗅がせれば
まず男性器の匂いか女性器の匂いか判断は難しくなるだろう 要するに太古からマラという言葉は残ったが
マラそのものが届いてるわけではない
ただし皆同じものを持ってるので 伝える必要もない
言葉がなくても世界は成立する Don't Think. Feel!
と、ブルース・リーも言った。 仏教の悟りの世界とか、キリスト教の至福直観なんかも、語りえない世界なんだろうね。 語らなくても肉体で体現出来る
存在がショックを与えるようにできている 今 この目の前の空間
実はこれいかなる性質も持っていない
つまり 場であると
一人一人がクリエイティブしている」
何時たりとも休まずに
そこに悟った人が入って来れば
言葉に発せなくても この場ごと 変質する
ということじゃよ 語り得るのか、語り得ないのか分らないということだけは分ったw ウィトゲンシュタインとかどうでもいいだろ
自分の言葉で考えるべき
常に先人を参照し続ければ決してそれを超えることはできない
むしろ先人の権威を借りようとしているだけだ 要するに原発のエネルギー借りて語るのと
水力発言のエネルギー借りて語るのとは違うということだよ
科学はこの主体を無きにするが
ここにイデアがある
イデアが純粋なら言葉も純粋だろう イデア以前の自意識に皆いるから語ることがあまりないのだろう
文節された自己 末節だ
主体性を叫ぶ枝だ
俺は Treeだ >>543
アリストテレスと比べたら、かなり新しいぞ カテゴリ
アリストテレスによって哲学用語として採用された。
アリストテレスにおいてカテゴリは存在のもつ10の基本的性質をあらわし、
存在論における基本概念のひとつであったが、
イマヌエル・カントは人間認識を基礎付ける超越論的制約のひとつ、
純粋悟性概念をカテゴリと呼び、その意味を認識論的意味へと転換した。 哲学的なカテゴリの本当の創設者はアリストテレスである。彼は最初にカテゴリを体系的に研究した。
彼は、論理学を研究をするための基礎であり、道具であるとして、
まず、述語(命題「PはQである」というときの「Qである」にあたる)
の種類を以下のように10に区分する。
彼は、次いで、形而上学において、存在者を多義的なものであるとして、
存在をカテゴリに従って10に分類した。
実体
量
質
関係
場所
時間
位置
所有
能動
受動 カントは、その著書『純粋理性批判』において、カテゴリを客観的実在の反映とはみなさず、純粋悟性の真の主要概念とみなした。
カントに従えば、カテゴリはすべての経験の前提条件であり自然法則をアプリオリに定める。
カントはカテゴリを以下の四つのグループに分けた。
量(単一性、多数性、全体性)
質(実在性、否定性、限界性)
関係(実体性、因果性、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性) カントは、純粋理性批判で、「形而上学は風前のトモシビだ」、
「神の存在証明は無理。ていうか不可能」といった話を
延々と並べたあげく、カテゴリー論を展開した。
カントにとって、古い形而上学はもう終わり。
でも、なぜか、アリストテレス流の三段論法やカテゴリー論はまだ生きていた。
新しい哲学が、ここから始まった・・・。 アリストテレスがつき、カントがこねたカテゴリ餅
座ったままで食ったヘーゲル カントは、「数学の論理体系は、なんだかすごいな。
ボクも、数学に負けないような哲学を作りたい」と燃えていた。
哲学が、数学や物理学に負けてしまう。
カントにとって、それはゆゆしき事態だった。
なぜかというと、数学は、人間の倫理を高めない。
哲学の危機は、すなわち、人倫の危機だったのである。
そのためには、何よりもまず、スキのない論理体系を作る必要があった。
アリストテレスという、原点に帰る。
基本はアリストテレスの論理学、つまり、三段論法とカテゴリーであった。 でだ、山と陸の区別はどうなったの?
アルゴリズムを使うとどう区別されるんですか? >>558
どこからが山で、どこまでが平地かは、言語によって決まる。
しかも、どの言語を使用するかによって微妙に異なる。 だからさ、アルゴリズムの方がうまく認識できるんでしょ。
山と丘の話をしてるんだから、言語はもう特定できてるじゃん。 アルゴリズムの話をしてたのは、自分じゃない。
他の人だな。 言われてみれば確かに、「ひと山いくらのリンゴ」とはいうけど、
「ひと丘いくら」というのは、聞いたことがないな。 アリストテレスやカントも、古代人や近代人なりに、論理言語を作ろうと努力していた。
数学では数式を使うけど、哲学では言語を使う。
それが、数学に比べて哲学がアイマイな分野になってしまう、根本的な原因。
哲学を、数学に負けない論理体系にするためには、まず論理言語を開発しなければならない。
彼らが論理にこだわった理由はそこにあった。 カントのカテゴリについて質問です。
量、質、関係、様相に4大別され、それぞれが3つに細分されて全体で12個あると説明があるのですが、具体的なイメージがよく分かりません。
簡単でいいのでどなたか教えてください。
よろしくお願いします。 簡単に説明します。
そもそも「カテゴリー」という語は、主語と述語の「述語」から来ています。
主語と述語というと文法みたいですが、アリストテレスはこの「主語と述語」の構造が、
存在の構造を探る手がかりになると考えたのです。
カントのカテゴリーはアリストテレスのカテゴリーがふまえられています。
ですから、ここでもカテゴリーは「主語と述語」の関係です。 「量のカテゴリー」
全称的:「すべての」SはPである。
(例)すべてのクジラは水棲動物である。
特称的:「ある」SはPである。
(例)あるカメは水棲である。
単称的:「この」SはPである。
(例)このネコは水の中に入るのを好む。
「質のカテゴリー」
肯定的:SはPで「ある」
(例)信号は青である。
否定的:SはPで「ない」
(例)信号は赤ではない。
無限的:Sは「非Pである」
(例):青信号は赤ではないほうの信号である。
「関係のカテゴリー」
定言的:SはP「である」
(例)本日は晴天である。
仮言的:「Xならば」、SはPである
(例)日が照っていれば、本日は晴天である。
選言的:Sは「PかQかのいずれかである」
(例)降水量ゼロというのは晴れているか曇っているかのどちらかだ。
「様相のカテゴリー」
蓋然的:SはP「であろう」
(例)明日の天気は晴れでしょう。
実然的:SはP「である」
(例)現在の気象状態は晴れである。
確然的:Sは「必ずPでなければならない」
(例)晴天は降水量が1ミリ未満でなければならない。 人間はまず外部からの刺激をまず感覚器官で受けとります。
それは「空間と時間の形式」(ものの大きさや形状、前かあとか、など)
にあてはめて受けとられるのですが、それだけでは認識にはいたりません。
そこから直観として得られた対象を、悟性が上記の形式において判断する、
それによって認識が成立する、とカントは考えたわけです。 「主語と述語の関係」という言語論が、
アリストテレスにおいては存在論となり、
カントにおいては認識論となる。
ここが、西洋哲学史を理解するキモだろう。
結局のところ、哲学といえば、言語。
それは20世紀に限った話ではなく、昔からそうなのだ。 上巻だけで終わったハイデッガーの「存在と時間」だが、
構想では、下巻はこうなるはずだった。
第2部 存在論の歴史の現象学的解体
第1編 カントの時間論について
第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
第3編 アリストテレスの時間論について どっちかっていったら、哲学者というより哲学史家だったハイデッガー。
そんなハイデッガーにとって、西洋哲学史の核心となる3人。
それが、アリストテレス・デカルト・カント。
大正時代の旧制高校では、「デカルト・カント・ショーペンハウアー」の
デカンショ節が流行したそうだが、ハイデッガーは、ショーペンハウアーを入れない。
代わりに、アリストテレスを入れる。 どうあがいたところで、行為/作用論(プラグマティズム)と再帰性の問題に帰着するんだけどね
https://en.wiktionary.org/wiki/cogitare
Latin
Etymology
From con- + agitō.
From preposition cum (“with”).
From agō (“do, act, make”) + -itō. >行為/作用論(プラグマティズム)と再帰性の問題
何それ? 「間違(まちが)ふ」ことにおいてさえ、確かであるのは、どのようなことか >>499
カントの業績についても、誰かがそう言ってた 現代人がアリストテレスの存在論を勉強することに、何の意味を見出だせるか。
そこが問題だ。 >>579
アリストテレスの存在論を勉強しないと意味を見出せない問題はどうするつもりだw >>581
そう存在とは何かは自らに問いかけるもんだいだということだ 相対性理論や量子力学によって、時間や空間、物質の実在がかなり怪しくなってきた今、
アリストテレスの存在論が再び脚光を浴びてもおかしくない。 まずは、存在を10種のカテゴリーに分類することから始めなければならない。
”P is Q”という文の、Qに相当するものが、アリストテレスによれば10種類ある。 ”P is Q”という文における主語と述語の関係によって、世界の存在すべてを分類できる。
そうすれば、量子力学どころか、最先端の理論すら恐れるに足りない。 アリストテレスは、様々な研究領域で業績を残しており、
倫理学に関しても多くの草案や講義ノートなどを残した。
後にニコマコスがそれらを編纂したものが『ニコマコス倫理学』である。
総じて10巻から成り立ち、倫理学の基本的な問題である「正しい生き方」を検討している。
倫理学の研究史において、古典的価値が認められ、注釈や研究も加えられている。 ひとことでまとめてみると
本書の主張をシンプルにまとめると、大体次のような感じだ。
最高善は幸福であり、最高善に達するためには「中庸の徳」を身につけなければならない。
中庸の徳には色々なバリエーションがあるが、最も優れた徳は知性の活動による観照にある。
知性の活動はそれ自身が目的であり、それ自身の快楽があるので、知性の活動が究極の幸福。 正しい生き方しか頭にないアリストテレスとかニコマコスはおわっとる アリストテレスなんて、もう、ほとんど何の役にも立たないと思うよ。 「中庸の徳」なんて、なんだか儒教っぽい。
「知性による観照が最高の喜び」ってのも、朱子が聞いたら泣いて喜びそうな話だな。
ひょっとして、アリストテレスの倫理観は、朱子学と似ている?? 性即理とか、理気二元論なども、形相と質量の考えと同じだよね。 >正しい生き方しか頭にないアリストテレスとかニコマコスはおわっとる
とはいえ、階層社会というのは、恒久的かつ日常的に征服のための操作が
組み込まれた人間関係のことだからね。そこでよく生きようとするなら、
正しい生き方の模索は、生きている限り終わらないでしょう。 武力制圧でハイ終わり、これからは平和で平等な社会です、みたいなわけには行かない。 「経済の無限成長」という神話は、恒久的かつ日常的に征服のための操作が
繰り返されながらも、社会は、長期的にはより平等な状態に向かっていると
人々に信じ込ませるためのイデオロギーなわけで、その神話を捨てると、
人々に自発的に服従させる名目が消えてしまう。みんなそんなイデオロギーを
もはや信じているわけではないけれども、恒久的な服従状態を積極的に
受け入れる動機付けは働かない。フィクションがフィクションであることに
気づきながらも、それを人々が理想として受け入れて、よりよく生きるように
動機付けが働くようになるには、代替の神話が必要とされているが、それを
見出せずにいるのが現状でしょう。 経済成長というのは現実には、経済の問題ではなくて、まずなによりも政治
イデオロギーであって、そのイデオロギーがうまく機能しなくなっている。 儒教の基本が孔子なのと同じく、西洋哲学の基本はアリストテレス。
プラトンを読んだだけじゃ、西洋哲学史はわからない。
やっぱり、アリストテレスが重要。
プラトンとアリストテレスは、2人で1人。 キリスト教がイエス・キリストの教えを学ぶことであるのと同じく、
西洋哲学も、基本的にはプラトンとアリストテレスの教えを学ぶことであると言ってよい。 と山内得立の『ロゴスとレンマ』をちらっと読んでそう思った。 当然とされていることから導かれる帰結を言語化しようとするのは重要なことでしょう。 不特定の人にとって正しいことを追求されると誰にとって都合が悪いのか、
それを考えてみることが必要でしょう。 西洋と東洋には、どうしてこれほどの差がついてしまったのか。
いろいろ理由はあるけど、「西洋にはアリストテレスがいたが、東洋にはいなかった」
というのが、かなり大きな要因に思える。 そう思うと、1人の人間の持ちうる影響力というのは、意外と大きい。 いや、よく考えたら、そんなことないな。
アリストテレス哲学は、イスラム圏で知識人に普及し、それが欧州にも伝わったものだ。
そのイスラム圏がいまどうなってるかを考えると、文明はアリストテレスで決まる
ものではない。 「ウリナラは日本に仏教と朱子学を伝えたニダ」とかいう、どこかの半島ミンジョクが
いるくらいなんだから、「われわれはヨーロッパにキリスト教とアリストテレス哲学を
伝えた」と中東人が言ってもおかしくない。 しかし、中東イスラム圏の場合は、単なる通り道ではない。
アリストテレス哲学の膨大な注釈書を生み出したのは、ペルシャ人やアラビア人、
そしてユダヤ人たちだ。
それなしに、欧州が難解な哲学を受容することは、たぶんムリだったと思われる。 極端に宗教がかってた中世ヨーロッパの思想界に、合理的で現実的な考え方を
もたらしたのは、イスラム圏から流入したアリストテレス哲学。 人間は、放っておけば迷信にとりつかれてしまう存在だ。
合理的で現実的な考え方というのは、当たり前に備わっているものではない。
現代人を見て、人間は昔からこんな風だったと思っちゃいけない。
人類が進化したのは、アリストテレスのおかげ。 人類は、アリストテレスの頃から進化していないし、クロマニヨンからも進化していないだろ。 >>615
これはな、ものすごく変化してんだよ。
みえないだけで、肌の色も今と昔とは違うし、意識も古代人と現代人のそれとでは違っている。 『137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史』より
アリストテレスは、師であるプラトンや、タレスなどの哲学者から学んだこのとと、自分が自然界で観察したことを結びつけ、ひとつの結論に至ったー
あらゆる事象の根底には、普遍的な自然法則が存在し、それが、人間の政治活動から気象まで、地球上の生物と宇宙の性質に関するすべてをつかさどっている。
そのような自然法則を理解してはじめて、この世界を理解することができる。
感覚を研ぎ澄まして宇宙とそのシステムをじっくり観察し、そうやって得た結果から、知性と理性によって真理を見つけ出すのである。
アリストテレスは、宇宙は巨大な機械のように動いていると信じていた。したがって、じっくりと時間をかけて、
注意深く観察していけば、いずれ、その仕組みを解明できると考えた。近代科学の元祖とよぶに値するギリシアの哲学者は他にもいるが、
アリストテレスは、その中で最もよく知られた人物であり、その著作は、後世の人々に比類ないほどの影響を与えてきた >>601
本当だろうか
フッサール辺りを見ると長々と続いてるように見えるけど、その他ではそうでもない気が
むしろ一般意思だとかも聖書の影響が強いんだと思うな。宗教ってどこも同じような事を言うものだし >>620
世間の一般人はともかく、知識人は、神とプラトンのイデアをほぼ同一視していた >>621
てか
鼎先生のσ原理の出番が何処にも無いなぁ☀ >>614
だな
アリストテレスがいなけりゃ、いまでも地球が中心で太陽が回ってる世界観だったかもしれん アリストテレスがいてもいなくてもわれわれは天動説で活動しているわけで。
学問的には地動説が多いでしょうけど、地動説で人として生活しているようなひとは入院していると思います。 ま、太陽は東のほうからのぼって西のほうに沈むと。
わたしのほうが動いているなんて考えながら生活しているとくらくらしてたまったもんじゃないw アリストテレスがいようといまいと、人は自分を基準して活動しており、それはいまもむかしもかわらない。 >>83
普遍が個物に内在ってそれ普遍じゃないやん >>20
存在しているのは構造と呼ばれる輪郭により象られる存在だけじゃないの?
構造なくして全ての存在は存在しないように思うのですが >>627
なんで?
完全静止系なんて無くない?
僕らは常に流れの中にあって、力学的な平衡が時間に対して成っているだけでしょ? >>631
確かに、現代人にとっては、「家」は形相というより構造 >>630
個物が普遍を分け合って共有してるというイメージ? >>630
実際のところ、アリストテレス本人はともかく、後世の人々は「普遍じゃない」と解釈した。 結局のところ、「個物に内在する普遍」とは、人間がつけた名前。
犬や猫に内在する普遍とは、人間がつけた「イヌ、ネコ」という名称なのである。 >>591
本質存在と事実存在。
普遍存在と個別存在。
哲学に共通するテーマ。 >>637
ハイデガー☆普遍=時間性
サルトル 普遍=集団 >>641
ねぇねぇ✨欽ドン賞ちょうだーい☆
集めてるの。🍒 >>643
それってヘラクレイトスで一度経たやつじゃない? kissの意味🎉
手の甲=尊敬
掌=御願い
頬=親愛、満足感、好意的
額=挨拶、祝福、友情
唇=愛情💗 01CATEGORIES 『範疇論』
02DE INTERPRETATIONE 『命題論』
03PRIOR ANALYTICS 『分析論前書』
04POSTERIOR ANALYTICS 『分析論後書』
05TOPICS 『トピカ』
06SOPHISTICAL REFUTATIONS 『詭弁論駁論』
07PHYSICS 『自然学』
08ON THE HEAVENS 『天体論』
09ON GENERATION AND CORRUPTION 『生成消滅論』
10METEOROLOGY 『気象論』
11ON THE UNIVERSE** 『宇宙論』
12ON THE SOUL 『霊魂論』
13SENSE AND SENSIBILIA 『感覚と感覚されるものについて』
14ON MEMORY 『記憶と想起について』
15ON SLEEP 『睡眠と覚醒について』
16ON DREAMS 『夢について』
17ON DIVINATION IN SLEEP 『夢占いについて』
18ON LENGTH AND SHORTNESS OF LIFE 『長命と短命について』
19ON YOUTH, OLD AGE, LIFE AND DEATH, AND RESPIRATION 『青年と老年について、生と死について、呼吸について』
20ON BREATH** 『気息について』 21HISTORY OF ANIMALS 『動物誌』
22PARTS OF ANIMALS 『動物部分論』
23MOVEMENT OF ANIMALS 『動物運動論』
24PROGRESSION OF ANIMALS 『動物進行論』
25GENERATION OF ANIMALS 『動物発生論』
26ON COLOURS** 『色について』
27ON THINGS HEARD** 『聞こえるものについて』
28PHYSIOGNOMONICS**『人相学』
※
29ON PLANTS** 『植物について』
30ON MARVELLOUS THINGS HEARD** 『異聞集』
31MECHANICS** 『機械学』
32PROBLEMS* 『問題集』
33ON INDIVISIBLE LINES** 『不可分の線について』
34THE SITUATIONS AND NAMES OF WINDS** 『風の方位と名称について』
35ON MELISSUS, XENOPHANES, AND GORGIAS** 『メリッソス、クセノパネス、ゴルギアスについて』
36METAPHYSICS 『形而上学』
37NICOMACHEAN ETHICS 『ニコマコス倫理学』
38MAGNA MORALIA* 『大道徳学』
39EUDEMIAN ETHICS 『エウデモス倫理学』
40ON VIRTUES AND VICES** 『徳と悪徳について』
41POLITICS 『政治学』
42ECONOMICS* 『経済学』
43RHETORIC 『弁論術』
44RHETORIC TO ALEXANDER** 『アレクサンドロスに贈る弁論術』
45POETICS 『詩学』
46CONSTITUTION OF ATHENS 『アテナイ人の国制』
47FRAGMENTS 『断片集』 日々の生活での返済、お支払いでお悩みの方。
急な出費などで、今月の生活費が足りない方。
総量規制オーバーや、過去のトラブル等で借入れが難しい方。
多重債務でお困りの方。
誰にもバレずに借りたい方。
お金に関するお困り事や法的トラブル等HPに記載以外の事でも、お気軽にご相談下さい。
東京、神奈川、千葉、埼玉にお住まいの方は優遇です。
詳しくはHPをご覧下さい。
npo法人 sta 二元論ってさ、ぶっちゃけ単に言語の性質だよね
言葉ってかっちりしてるから、黒とか白とかは表せるんだけどその間の曖昧な色は表せないんだよ
「黒より白い」とか「白より黒い」とか「黒と白の間の色」とか二つのものを比較しての表現しかできないわけ
もちろんそれを灰色と名付けることはできるんだけど、名付けた途端に元々表そうとしていた曖昧さは消えて
「じゃあどのくらいの灰色か」って定義争いが始まる
つまり言語を使う限りは二つの要素の比較か対比でしか思考できない、
というより恐らく、他者と思考を共有するには基準点を定めてそこからの距離で表すしかなくて
これがコミュニケーションに基づく人間の知の限界
だから二分論や二元論で注目するべきなのはどちらが真理に近いかということよりもその二つの比較や関係の方だと思う 具体と抽象もそうですな。
犬もシベリアンハスキーも
どちらも純粋に抽象的、或いは具体的なものではなく
どちらがより抽象的か、より具体的か、ということがは言える。 言い変えれば
どのような具体的な事物にも抽象性は宿る
どのような抽象的な事物にも具体性は宿る >>652
馬鹿かお前
そもそも白が何を指し示しているかわからない
アリストテレスが昨日のアリストテレスと今日のアリストテレスで
同じではない
アリストテレスが同一だという根拠はないから
白が何のことかアリストテレスが何なのか
一人一人その言葉を発した時で違い次に話す時は違うし
また聞いている相手にとっての白やアリストテレスは違うことは
折り込みずみ
そもそも何かを指し示しているが妄想
そこからやり直せよ >>656
喋る度に意味が変わってちゃ言葉として使えねえだろうが。随分つまんない落とし穴にはまってんな
お前と俺が白について話せる時点でものか概念かは不明でも何物かを指し示してるっての 一般的観念など存在しないというのは
、事実我々が抽象的概念を形成し、駆使しとる現実からかけ離れている。
問題は一般的観念の根拠がどこにあるのかというところにある(プラトンであれば一般的観念こそがむしろ事物の根拠であるわけですが)
アリストテレスであれば、個別の事物から抽象され一般的観念に至る。が、実際どのようなプロセスで個別の事物が一般的観念へと至るかという問題がある。
この問題は経験論者と呼ばれる哲学者に引き継がれていったわけですな。 >>657
変わってんだろう
白はあれを指すと幼児から体験してても繰り返し人が白を示すことを
繰り返し目撃してても本当は何を指すか確信なんかない
他人が指しているものと自分が指しているものは常に違う
それどころの話じゃない
自分のなかでさえどこまでが白でどこまでが灰色がかった白か
青みや赤みやどこまで許容するかなんかわからない
問題は生の全体のなかで互いに確定していない白を使うことで
それでも有意義な物をもたらしうるからだ
その有効性除いて白とかアリストテレスはない
どんなに正しくともそれが世界や自分に不幸をもたらすなら
その定義は間違いで役に立たない
役に立つ物だけが正しい白だ
何が白か予めわからない何が有効が事前に確定していない
それでも使うし自分で思ってない物が導きだされるから
人は言葉を使う
やり直し >>659
寝て覚めたら俺は別人と同じ理論だな
下らん独断論、読む価値なし 帰納の逆説
人は物から、そこから抽出して一般原理を導きだすためには
予めそれがなんであるかわかっていないといけない
犬とは何かがわからないとミケは猫でポチは犬だと弁別できない
先に弁別できないと犬から犬とは何かはわからない
何が白か物からはわからない
じゃアプリオリに一般的な白がわかっているかというと
それが事物に適合するかは個別の物や経験からでないとわからない
正解は人は犬や白が何かはわかってないが勝手に決断し弁別し区別する
帰納も抽出もしてはいない
各人、各時で白も犬も違う
一般も普遍もない
互いの犬や白は違うし確定していないがそれでも犬や白を取り扱い
うまく行った場合役に立つ形でしか犬や白は存在しない
生の全体の有効性離れてどこからが白でこれは青みがかりすぎているから
白ではないなどとは言えない
勝手に言いはっても間違っている
白は犬は前以て確定していない
あらゆる言葉がそうでだからこそ言葉は有効で役に立つ
確定した言葉なんかない じゃ聞くが白や犬やアリストテレスが何か万人の共通な範囲、
確定した了解事項なんかあるか
ないだろ
白はどこまでの範囲か
アリストテレスについての各人の知識は全て違う
人は一人一人思い思い違った了解事項で言葉を使い
その中で有効な物を導いていく
それが真実で現実
それに反論できないんだから何を言っても無意味 アリストテレスについてその思想はどういうものか、
そこから何を導きだせるか全く一致していない
哲学者毎に違う
だから議論し自分でも思っていなかった結論が導きだされるから
言葉は役に立つ
その現実離れて何を言っても無意味
笑止 >>665
ごめん、単語と文章を区別してから出直してきて コモンセンスって概念もアリストテレスから始まり現代まで非常に重要な哲学のテーマになっている。
ただしアリストテレスにおいては現代的な意味(人々が共通にもつ常識)とは異なり、五感をリンクさせ統合させるようなものをコモンセンスと呼ぶ。
個々の感覚がバラバラであれば香りや色といった感覚が一つの「花」という一まとまりの表象には結びつかない。
コモンセンスによって個別の感覚からまとまりを持つ一つの対象についての認識を持つに至るとされる。 普遍、つまり類の概念の何が問題なのかというと人間、人類という概念が最大の問題だった。
プラトンはにとって人間とは肉体ではない魂だった。アリストテレスではポリス的動物で、キリストは人類の罪を背負った。
現代における人類は、部分的には近代以前は人間では無かった。個別な人々がないがしろにされ続けられていれば
今でもそうだったかもしれない。だからと言って人類という普遍概念がもし無かった場合も私達は人間ではない。 要は白と書いた時にそれが白色を意味するのか潔白を意味するのかわからないっていう言葉の多義性みたいな話がしたいのだろ
概念から言葉が生まれたのかそれとも言葉から抽象を抽出して概念になったのかってのは面白い議論になりそうだが
お前は人は白を知らないと概念を否定しながら言葉が意味を作ると抽象からの流出を唱えるというゴミみたいなことをやってるわけ カントでは他者の感覚とのリンクと統合の可能性を司る能力としてコモンセンスと呼ばれる。
他者の立場に身を置きかえて思慮する
能力、つまり、かの普遍化可能性の根拠となるようなかなり壮大な能力。
アリストテレスとカントで全く違うように見えるけど、どちらも個別から普遍へと至る架け橋としての役割を持つ機能としてコモンセンスと呼ぶ。
そんなものが自明に存在すると言えれば万事解決だけど、さすがに飛躍しすぎて突っ込みどころ結構ありそう オッカムでは唯名論は還元主義に陥ってしまう。普遍とは名ばかりで 、世界には個物しか存在しない。全体はそれを構成する部分によってのみ規定される。
しかし唯名論の祖であるはずのアリストテレスにとっては全体とは部分の総和以上のものであり、普遍は個物の内に存在した。
オッカム的還元主義は論理実証主義まで引き継がれる。全称命題は疑似命題であり、分析のみが有意味とされる。
アリストテレスは現代でいえばホーリズムに接近している。 私らが感覚し、経験できる対象は確かに具体的で固有なものだが、その認識において抽象概念から独立した純粋な対象自体とは言えない。
一方である経験が特定の概念を変えてしまうこともあることを認めるなら、普遍論争的パラダイムではこれらの事態を説明出来なくなる。
普遍と個物どちらが先でどちらがその付随なのか、というより往復的に連続するものと認識したほうが良い。 知性を通じて得らえた抽象概念こそが存在そのものであるが 10のカテゴリーの実体以外を同語反復に過ぎないとして、スフラワルディーはアリストテレスのお家芸である論理学を逆手にとって4つに再構成したけど、アリストテレス主義一辺倒だった時代にプラトン主義者からアリストテレスに逆襲した例は珍しくて面白い。 今にして思えば、プラトンに対する最初にして最大の註解者がアリストテレスであった >>672
唯名論の祖といっても、アリストテレス自身が唯名論者だったわけではない
アリストテレスの考えを、後世の人が突き詰めたら唯名論になっただけ ウィトゲンシュタインの影響を受けて、言語分析が哲学の主流になったようなものか
ウィトゲンシュタイン本人は、そんなつもりじゃなかった可能性が高い 三代前から日本にいて、日本語しかしゃべれなくても、
「朝鮮人」という普遍が内在している 「朝鮮人」とは、単なる一人一人の人間の集合体ではない。
それ以上の意味が含まれている。 実質的には日本人とほとんど同じになっていても、朝鮮人という観念は存続している 「朝鮮人」という観念には、いつも辛いものを食べている、よく火病を起こす
といったイメージが含まれているが、すべての朝鮮人にそれが該当するわけではない。 >>685
歴史的には、唯名論が勝利して論争に終止符が打たれた 結局のところ、哲学者の個性とは、プラトンとアリストテレスをどう解釈するかにかかっている。
儒教の場合はもっと露骨で、いかに都合よく孔孟の古典を引用し、
自分の主張を展開するかが後世の人々のテーマだった。 有名なところでは、デカルトは、プラトンのイデアを「観念」と勝手に読み替えてしまった。
でも、違和感がない。
もともと、ほんとはプラトンもそういう意味で言ってたんでないの?
と思えるほど、自然になじんでいる。 観念の例としてよく挙げられるのは、「三角形」。
紙に鉛筆で正確な三角形を描こうとしても、どこかが必ず歪む。
たとえコンピューターで描いても、ドット数に制限がある以上、完全ではない。
ましてや、三角屋根とか、三角帽子とかは、完全な三角形にほどとおい。
それでも、人間は、それらを「三角形」と認識している。
結局のところ、完全無欠の理想的な三角形というのは、人間の心の中にしか存在しない。
人間の心の中にある、完全無欠の存在としての観念。
それが、イデア。 >>688
俺はヘラクレイトスとパルメニデスだと思ってる しかし、ヘラクレイトスは今でいうトルコの人。
パルメニデスは南イタリアの人。
哲学的にも地理的にも、ギリシャ文明圏の両端にいた。 ちょうどソクラテス以前断片を読んでるけど
面白い・凄いで正に神書だわ
ソクラテス以降なんてどうでもよくなる ニーチェやハイデッガーも、それにヤラレた
それで、あんなふうになってしまった 植物的霊魂と動物的霊魂と人間霊魂の三つに分けたのが納得いかない
植物と他二種を分けるのは分かるが、動物も人間も知性の量が違うだけで質は同じだわ
キリスト教徒が動物虐待する理論的下地を用意したと考えていい
偉大な動物学者だったアリストテレスの痛恨のエラーだろ あと形而上学がアリストテレスの主著のような扱いになってるのが気になるな
アリストテレスの著作自体が未編集の講義録っていうけど、その中でも形而上学はかなり乱雑な作りになってるし
内容も割と迷走してるしアリストテレス自身もこの分野に関してはまだまだ研究途上だったはず >>703
>>704
分かるわあ
かなり鋭い洞察だありがとう 同意。
結果的には、アリスの功績は形而上学とは真逆 師匠が戦争経験者で政治に殺され
憤懣やるかたない想いを抱えつつ大学を作りつつ大著を残したプラトン
その弟子のアリストテレスは平時は子弟で素晴らしい研究をしていたが
まさかのマケドニア戦線でアテネから離れざるを得ず
そこからの学説は正直哲学ではない
天才は政治・戦争に悩まされそして現代は経済やテロに悩まされる
アリストテレスの功罪はアテネ時代の研究と後期の学問の細分体系化 >>703
それはアリストテレスのせいではない。
根本的な原因は、欧州に猿がいないこと。
「人間も動物も同じだ」という考えは、日本やインドのような
猿が住んでいる国でしか起こらない。 >>704
キリスト教の神学に及ぼした影響があまりに大きいので、
キリスト教圏としては、そうならざるを得ない キリスト教と関係ない者から見れば、確かに動物誌こそがアリストテレスの最高傑作
ウィキペディアにもそう書いてある >>708
それを考えると人類の起源が猿のいた所とも推測出来るな
インドかも知れないし日本かも知れないしまあ分からんがな おーぷん2ちゃんねるのオカルト板に行って
意味不明って検索してから260番のレス見てみ。
きっと必要なことが書いてある。 >>712
>>259 いい文章だね。
もしまだ思いついた言葉を掲示板に書いているだけだったら、残念だな。あなたの文章を読んで救われる気持ちになる人がいるはず。
プリントオンデマンドというのが今はあるから利用してみるといいよ。
あなたが作った本、自分は読んでみたいね。<br><br>http://www.dreamgate.gr.jp/news/995 おまとめサポート
(平成29年7月よりスタート)
他社のおまとめローンの審査が通らなかった方、ご相談下さい。
・勤続年数2年以上の方
・金融事故のない方
・来店可能な方
保証人、担保は不要です。
まずは、お電話でお問い合わせ下さい。
特定非営利活動法人 STA ニコマコス倫理学の1巻6章でアリストテレスは善のイデア批判をしてるけど、批判が当たってるとは思えない
むしろアリストテレスのイデア理解そのものが間違ってる感があるな
「長期にわたって白いものが、一日だけ白いものよりもいっそう白いということはない以上、永続的であるという点で善のイデアがよりが善いといことはないだろう」とあるが、
永続のものにも、一瞬のものにも白や善を与えるのがイデアというもので、イデア=長期的、永続的という時間の範疇で考えてるアリストテレスは間違っていると思う
善のイデアは善といっても個別的な善でなく、「実在を超えるもの」であるところの善なんだから、「カテゴリーが違うものでも善と呼ばれるので、善は共通的なものではない」というアリストテレスの批判は当たらない
実在のカテゴリーを超えてそれぞれ個別のものに善と言うものを与えるのが善のイデアなんだから イデア論は時期によって概念が変わる
おそらくアカデメイアではひとによって言ってることがばらばらだっただろう
アリストテレスはその無数のプラトンの影、悪魔と戦い偉大な哲学をつくりあげヨーロッパの知そのものになった
そこから科学は生まれた
プラトン厨はバカ 悪魔なのはアリストテレスだろ
誤謬さえも超絶論理力で正しく見せてきた化け物 四原因説のなか目的因っていらなくね?
目的因って、何を目的にするかって言えば形相しかないわけで、形相因あれば目的因いらないよな。
目的因が単に行為者の意欲だとするならば、それは動かされた結果だから動因に含まれることになる。
家建てるっていう目的は、家という形相の為と、家によって快適に暮らしたいという欲望によって動かされたわけなんだか目的因って無用。
あるいは目的因を立てるっていうなら、むしろ形相因がいらないことになる。
何らかの目的を果たした結果が何らかの形として現れることなんだから。むしろこっちの方が正しいかも。 >>721
第一の動因なる者が措定されて、それは(第一の動因は自身は決して動かされない不動なるものであるので、愛される者の美が愛する者を動かすように間接的にであるが)他者を動かす。
そうすると、第一の動因なる者は、自らは他者の動因であるが、動かされる者にとっては第一の動因なるものは目的因となる。
このように動因と目的因は同じ軸にあるものとされる。
四原因説は動因―目的因の軸と、形相因―素材因の軸の二つが組み合わさって出来てる。
なので、この四つの中から一つを任意になくすことはできない。 もしかして人種差別があるのもアリストテレスのせい? まあ戦争の時代なんであんまり悪くは言えんがそれが故浅くなった事が残念
アリストテレスほどの天才は歴史上そうは出てこんし諸葛孔明に匹敵するわ 「西洋哲学歴史はプラトンの膨大な注釈なのです。」
⭐🌺 イデオロギーが解釈を歪める。このことは古代から変わらない。
古事記に出てくる人物に「あしはらのしこを」というのがいる。その名前を
素直に解釈すれば、辺り一円の平定者、つまり、「der Eroberer」(独語)と
いうことになる。だが、イデオロギー的にそのように解釈されてしまうと
都合が悪いので、「あしはら」は特定の地理的な場所の名称であるとされ、
「しこを」は醜い男であるとされる。これは、既に古代に始まった解釈の
歪曲だろう。しかし、言語の用法は、イデオロギーを無視して自然な
連想からの解釈を保持してしまう。 相撲で「しこ」を踏む。「しこ」の語源は、不明であるとされ「四股」など
と表記されるが、土俵を踏み固める動作であるので、「平定する」ことが
容易に連想される。「しこを踏む」が意味しているのは、「面一になる
ように踏む」ことである。「しく」という動詞の本来の用法は今では忘れ
られているものの、「〜に如(し)くはなし」という慣用表現が残っている。
なぜ「しく」というのか尋ねても、答えられる日本語の話者は一般には
ほとんどいないだろう。だが、この場合も、「しく」は「面一になる」こと
を意味しており、英語の「even」や独語の「gleich」に言い換えてみれば、
その意味するところは一目瞭然となる。「〜にしくはなし」とは、「〜と
面一になるものはない」、つまり、「〜には及ばない」という意味となる。
「如(し)くはなし」と「カーペットを敷(し)く」は、イントネーションも
異なり、別々の表現となっているが、それでも、語源的には「面一にする」
という意味合いを共通にしていると考えられる。 さらに、「しっかりと」つかむという表現があり、現代語の「しっかり」と
より古い「しかと」承るの間のように、「しっかり」と「しか」の間の関係
は、今でもある程度、保たれているものの、「如(し)く」や「敷(し)く」との
関係や、ましてや、相撲の「しこ」や「あしはらのしこを」の「しこ」との
関係については、想起する人すらわずかだろう。だが、「確(たし)かに」と
いう表現について考えてみると、「手(た)しか」にという語源的解釈がすぐに
思い浮かぶ。つまり、「たしかに」とは、「手に面一に」、「ぴったりと」
という意味となる。もちろん、この解釈が絶対的に「たしか」であるという
ことはできないが、それでも、イデオロギー的な解釈が、いかに自然な解釈
を妨げているかは、この事例だけからも容易に推察することができるはず
である。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
J38W7 政治学 家政論 (新版 アリストテレス全集 第17巻)
アリストテレス (著), 内山 勝利 (編集), 神崎 繁 (編集, 翻訳), 中畑 正志 (編集), 相澤 康隆 (翻訳), 瀬口 昌久 (翻訳)
出版社: 岩波書店 (2018/3/29) 『形而上学』『二コマコス倫理学』をトマス・アクィナスが
注釈したものはかつて全集に収められていたようだが、
単一で新書などで出版してほしい。 知性は単一だからもれももまえらも本当は同一なんだぞ
アリストテレス先生が言っているから間違いないんだぞ
肉体を構成している素材の結合が解かれたら本来一に戻って永遠に生きるんだぞ
でもそん時はもれとかもまえらとか個に関する意識はもうないから今の状態とは全然違うんだぞ アリストテレスから世界はまともになった。
ただアリストテレス自身は田舎者だ。 日大より加計の方が100倍悪いのに、
ワイドショウは日大のことばかり。
マスコミは偏向している。 新版の形而上学は期待できる?
新版全集の一般的評価ってどうなん? 講談社学術文庫のほうが気になる。
先祖帰りして選書で復刊ってことはないのかな。 訳は精確なのかもしれんが、カタカナ多すぎて鬱陶しくなってくる
読みやすいのは中公版しかし抄訳 今更だけどラファエロのアテネの学堂ほんと凄いね
あの掌の感じとかアリストテレスの存在が最も格好良い 仏教徒だからなのか、我々日本人のセンスからすると普遍も個物も存在しないのだが。
実際、犬(普遍)もパトラッシュ(個物)も「人間が付けた呼び名」でしょう。
細胞とか髪の毛とか骨と内蔵の集まりを「パトラッシュ」と呼んでいるだけだし、骨や内蔵も人間が骨や内蔵と呼んでいるだけで分析していけばカルシウムやたんぱく質の塊・・
となると、世界の本質は無(存在)となり存在=神なので、神だけが実在するが、神は単なる名前である。 神や天使より悪魔の軍勢の方が数は圧倒的だ。だから神はともすれば無なんだよ。 倫理学の観点からすると、カント以降よりアリストテレスの方が優れている。
と言うか、現代でも実際に使える。 むしろアリストテレスから学べば世界はもっと良くなる。
アリストテレスの倫理学は「神が死んだ」世界でも通用する。 デジモン(デジタルモンスター)シリーズのアニメの最新作を放送してね
デジモン(デジタルモンスター)シリーズのアニメの完全新作を放送してね
デジモン(デジタルモンスター)シリーズのアニメの新作を放送してね
デジモン(デジタルモンスター)シリーズのアニメの次期作を放送してね
デジモン(デジタルモンスター)シリーズのアニメの次回作を放送してね
デジモン(デジタルモンスター)シリーズのアニメの続編を放送してね
デジモン(デジタルモンスター)シリーズのアニメの続きを放送してね
デジモンチャンピオンシップは傑作だよ
デジモンチャンピオンシップは秀作だよ
デジモンチャンピオンシップは名作だよ
デジモンチャンピオンシップは良作だよ
デジモンチャンピオンシップは佳作だよ
デジモンチャンピオンシップは上作だよ
デジモンチャンピオンシップは意欲作だよ
デジモンチャンピオンシップは話題作だよ
デジモンチャンピオンシップは超大作だよ
デジモンチャンピオンシップはネ申アニメだよ
デジモンチャンピオンシップは神アニメだよ
セーブモンの勝ち
セーブモンの勝利
セーブモンの大勝利
セーブモンの完全勝利
セーブモンの圧勝
セーブモンの楽勝
セーブモンの戦勝
セーブモンの制勝
セーブモンの連勝
セーブモンの優勝
セーブモンの奇勝
セーブモンの全勝
セーブモンの完勝
セーブモンの必勝 ワイのこの肉体は質料であって、形相としてはヒキニート ソクラテス以後のギリシア哲学者はポエジーがなくてなあ。
ポエ爺じゃよ、すべてはな。 イマドキ神託じゃないけど、ソクラテスはそっちの方さ。
プラトンの少女世界は詩的では? ソクラテス・プラトンの少女性はともかく、ポエジーからは少女性は唾棄されねばならない。 ふしょう
【不肖】
(親や師に似ず)おろかなこと。
「―の子」
. \\ ,土ヽ l 十 ├ ゝ‐、ヽ ll 尸 //
\\ (ノ ) | Cト、.Cト、 ノ l_ノ よ  ̄ ̄ ̄ (⌒/ //
..... .:_ -― ─- 、:. ......
..::⌒>.、:: ...::/::.::/::.:: ヽ::.::.\::....::x<⌒::.
::x-=≦.::.-=`ミO.:/:/:/|:./.:ハ::ヽ::`O::-=ミて`く⌒ヽ::
::, イ::ノ⌒'Z _⌒ Y彡::./V j/ヽ::ハ.::.V::Y⌒/;^)- 入 \:
::/ :/八 '(:::::':,\ トV::./⌒ ⌒ヽ.::∨/,.::'::/ /:::∧ '\::
::/ `V::/ヽ\ \ :':, 八W __ __ jハ:::l, :':::::, ′ /:::/  ̄ ノ\::
::〈 ,.:'::/ ヽ \ \:l:ハ| 〃⌒ ⌒ヾ ハ:|::::/ ,.イ:::/ ∠.::勹::
::/ ! :.'::::∧ | ヽ \ム .::::: r ┐ ::::.,'ノ/ / /::/ |__:/::
::∠._jハ_ん:ヘ/}ノ /ヘ ヽゝ_ ヽ ノ イ/ /⌒ん'⌒)_>::
 ̄  ̄`ヽ `=≧r ‐i彡''´ /::  ̄
::\ヽ ` ´ / /::
:: ,′
::i :; :; i::
::| |::
::l |::
::j ::
::,′ l::
::/ |::
::/ !::
::/ 〉┸r ::
::,′ /:: ::| |::
現代のインターネットや火星の写真を観たらアリストテレスは何を思うだろう >>764
貪るように情報を漁るだろう
よほどの知識中毒でなければ、あんなに博学になるはずもない それに比べて東洋思想の仏教哲学の経典は、詩が多いですからね。 「存在」や「一」さえも実体ではない。
けだし一般に共通的なものはなにものも決して実体ではないからである。
なぜなら、実体は、
ただその実体それ自らに属するかまたはそれをその実体とするところのそのものを含有するものに属するかであるより以外には、
他のなにものにも属さないものであるから。
『形而上学』アリストテレス いくら博学といっても、しょせんインターネットどころか、紙すらなかった時代の人だ
現代人から見れば限界がある だが、当時としては知るべきことを全て知っていた
その意味では史上最高の知識人 お前ら哲学読んでも揚げ足取られやすいテンプレの文しか理解できないんだな
哲学で重要なのはその結論に到達した過程であって結論ではないぞ
別に哲学読んでなくたってたとえば大企業に勤めるエリート連中と出会して直感的にまともに会話できねえって思っちゃうレベルならそもそも頭悪いわけで前提として無理して読むものでもないからな
天才ってのは天性のものだから目指そうとしても無理だよ 実は、「アリス」と「テレス」という2人の哲学者がコンビを組んでいた 【あずま】東浩紀601【システム】やばぁ
25考える名無しさん2021/04/20(火) 01:29:29.760
キモくて金のないオバサンは救われてキモくて金のないオジサンは救われない世界なんてあるの
26考える名無しさん2021/04/20(火) 02:30:44.500
オバサンは実際には救われないけど(何か変わりそうな)雰囲気で救われてる
オジサンは雰囲気で守られる事もなく、生のまま捨て置かれている
27考える名無しさん2021/04/20(火) 02:39:53.120
東浩紀と村上隆のせいで五輪めちゃくちゃだな
28考える名無しさん2021/04/20(火) 03:00:36.170
キモくて金のないオバサンは雰囲気で守られるどころか視界から消されそう
29考える名無しさん2021/04/20(火) 03:50:36.960
女ならブサイクで貧乏でも精神疾患なければなんとかなってるイメージだけど
30考える名無しさん2021/04/20(火) 04:17:51.440
話題にもならず存在しない事になってる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています