【スレッド立てるまでもない質問】 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>155
想定する結果が、近過ぎるのかも。
過程で身に付く事が、あなたを役立てる。 プロセスというものは辛く苦しいものだ。でも経験するとなんて事もないとも言える。 ■悟りをえる簡単な方法教えます。
苦しみは我にこだわるところに生まれます。
だから無我を目指す。それを空といいます。
では、いかに空に達するか。
慈悲によってです。
慈悲とは、より知らない人へ、より多くを与える、
そして与えることに感謝することです。
より、というのは相対的なもので、いままでより、だから誰にでもすぐに始められます。
大切なことは、慈悲と弱者救済は全く違います。
与えるものは貨幣価値があるものだけに限りません。
笑顔であり、挨拶であり、思いやりでもよい。
与えたからと威張ったり、
相手に返礼を求めるのは、我への固執になり、慈悲ではありません。
だから与えたときこそ感謝することが大切です。
このような慈悲の実践を積み重ねることで、やがて少しずつ我から離れて空に近ずき、最後には悟りを得ることができます。 空だとか悟りだとかはよくわからん。概念規定は一体どうなっているのだろうか? >>168
概念があれば空ではない。
空は概念の向こうですね。 維魔教
維摩は答えました。
「世の中の全てのものごとは、「空」に等しいからじゃよ。」
文殊:「いやいや・・・なんでまた、全て「空」だということになるのでしょう?」
維摩:「「空」だから「空」なんじゃよ!ものわかりの悪いヤツめ!」
文殊:「・・・それでは説明になっていませんよ!」
維摩:「全ての対立や区別を超越したもの、それこそが真理であり、「空」と呼ばれるものなのじゃ。」
文殊:「では、その「空」はどうやって区別するのでしょうか?」
維摩:「「区別する」というハタラキ、それもまた「空」なのじゃ。」
文殊:「うーん・・・では、その「空」を知るためにはどうしたらよいのでしょうか?」
維摩:「世間で行なわれている62種類の間違った見解の奥底にこそ、それはひそんでいる。」
文殊:「62種類の間違った見解は、どうやって知るのでしょう?」
維摩:「大勢の解脱した仏たちの真っ只中で、それは見つけることができるのじゃ。」
文殊:「・・・その「大勢の解脱した仏たち」は、どこにいるのですか?」
維摩:「世界中の人々の心の動きの中をよく探してみるがいい! >>172
確かに。
あまりに静寂過ぎる為、
何かがあるのか、それともないのか、
判然としない。 空と無は仏教関係でよく出てくるけれども、
一般的には、前者が抽象的な意味で使われ、後者が物理的な意味で使われると言えるのだろうか? 空と無は全く別物だ。
無とは有の対立項
空は有と無の向こう側にある。 空とは無でもなく、有でもない。
知りたければ、
>>166をやるしかない。 あるとはないことであり、
ないことはあることである。
禅問答だから
これで空にそう簡単には達しない。
座禅なんてやっても無駄だ。
>>166しがないよ。 西洋的には、
有と無の向こうとは、精神分裂でしかない。
だから我と他我の違いが重要だ。
でも不思議なことに仏教では、
有と無の向こうに空があり、
そこから慈悲という愛が湧き上がってくると言う。
なんとも不思議なことだ。
いや、慈悲により、有と無の向こうに向かうから、
精神分裂しない空に達するのか。
ボクも言ったことはないのでわからん。 実践哲学を提唱した哲学者といえば、代表的なのはアリストテレスとカントだろうか。 >>180
「悟りを得る方法」とか貴方が教えるようなことではない
ってことですよ 一方的な恋愛感情でずっこけてる波平くんに
悟りがどうとか言われても、屁も出ませんわ >>185
宗教体験の類は実践したくないなあ。正直言って。
実践してみたい人ってやっぱりそれなりにいるものなのか? >>186
「人に言われてやるものではないよ」
↑
話をごまかすというのは、こういうことでしょ まあ、人に何かを言われてそれがきっかけとなって実践するのも
ありといえばありだわな。 足の遅い奴でも「オリンピック100mで金メダルを取る方法」を語る自由はあるでしょうね
聞く方は困ってしまうけれど 波平はどうにもならんだろw
>>176
で、典型的な自己言及をやらかしてるw
うっかりとかいうレベルじゃないよw
初学者レベル以下から抜け出せてないじゃんw いや空を無我とか言うけど西洋的な言葉で不正確な言い方をすると主観の消失みたいなものだよ
感覚が純化されるとかむき出しの肉体とかそういうようなもので
純粋受動とか、或いは純粋理性と対比して純粋感性とか表現できるかもしれない
自我は寂滅して世界だけが残る、とか
慈悲はあまり直接的な関係はないが
我とか能動とか主観性を相対化するのには有用な修行という程度には意味があると考えるのが正しそう
ただし主観が消失するといっても客観になるわけではない
理想自己や現実自我といったものを前提しない生の現在野のこと、というと多少正確さが改善するかもしれない >>193
空とかいうと、なんで主観の消失とか閉塞しちゃうんだろうね
オリエンタリズムかな
仏教であれだけ他者の重要性が解かれているのに >>193
だとすると、そんなものは「ない」でしょう。
よくわからんが、それらのもの(概念)は、境界線があやふやで、
分離することもできない者であって、あくまで、思考するため、
理論的な便宜上、想定しているものにすぎないのであって、現実に
そのようなものがあるわけではないでしょう。 >>196
ヒントを出すと、
日本人はある程度の空観を持っている たとえば
ないことであり、あることでない
西洋人には矛盾、言葉遊びにしか思えないが、
日本人は感じ取るものがある 西洋人は日本人をあいまいではっきりしないと非難するが、
そこには日本人の高度な空観がある 現代の悟りのとらえ方が他者からの逃避、社会からの開放に向かうのは、
現代人の日常の他者との関係から開放されたい願望なんだろう。
それは仏教より老荘思想に近くて、
儒教の社会の規律へのカウンターとして現れて
確かに日本に伝わった中国仏教は、仏教と老荘思想が混同された面は強いわけで
特に禅は
それが1960年代に西洋のカウンターカルチャーでの東洋思想ブームで、逆輸入されたこともある。
日本人は禅的であるという西洋人の目が、
日本人自身が影響を受ける、
いわゆるオリエンタリズム。
しかし日本人に特に江戸時代の総仏教徒自体からの流れは、
やはり慈悲にあって、いかに他者との向き合うか。
他者に開かれるか。
それこそが今も日本人的なものの本質で
むしろ日本人の中にある空観を知る
まあ、改めて知ることもないのかもしれないが、 波平さん
いちど進研ゼミで小論文の添削をしてもらってはどうでしょうか 心理学かここかで迷ったんだが
物事の経緯を考えられないのって病気ですか?
それとも思考学?
人の感情がわからないんですよね
なので、相手への反応が突発的ものになってしまう。
きのう嫌な態度を取られたとしても、今日普通なら普通に接せるし
嫌なことされても、特になかったように接せれる
別に許せるとは違うが
これは良い面だと思ってたけど
最近、他人に感情がない、とかロボみたいと言われて悩みになっている 感情が斟酌できないのは発達障害とかスペクトラム障害とかやで
気になるなら専門医に診てもらって診断もらうのもいいけど
治療法があるわけじゃないからリアクションのテンプレを自分の中で作って
相手の挙動ごとにうまいこと演じわける練習するしかないんじゃないか
ちなみに感情がわかってるように見えるいわゆる定型発達者も
別にわかってるわけじゃなくて反応学習に疑問を感じなかっただけだがな >>206
事が起きた後に、
「このシチュエーション」なら「自分はどう感じてたかな」…
と推察するといい。
一つの事でも、色んな感情が感じ得るし、
一つの事には、色んな側面がある。
繰り返して、実感をつかもう。 ついさっき迄、優雅に海中を泳いでたブリが
釣り上げた漁師に『お前はハマチだっ!』って、勝手に決め付けられるんですから
人間の価値観って一体何なんでしょうか? その場合のそれを価値観と呼ぶ妥当性には大いに疑問があるが
その命題は人間の認識機能に対して認識されるものに主観を投影しているだけなので
現象に対してなにものでもないよ おまとめサポート
(平成29年7月よりスタート)
他社のおまとめローンの審査が通らなかった方、ご相談下さい。
・勤続年数2年以上の方
・金融事故のない方
・来店可能な方
保証人、担保は不要です。
まずは、お電話でお問い合わせ下さい。
特定非営利活動法人 STA ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています