時間とは何か 22 [無断転載禁止]©2ch.net
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立てました
テンプレよくわかりません
間違いがあったらすみません アノ伝説のスレがやっと立ちましたね✨💚
おめでとうございます✨👰 地獄の獣達が入ってきて、また、あの日の魔の刻が繰り返されてしまうのでしょうか(>_<)⤵
たくさんの人が生け贄にされていました⭐ あの日、おぞましい獣が私の中に入ってきて、あ、暴れるぅ(@_@) >>7
びまたん、獣じゃないお。獣達だお(о´∀`о)
びまたんは気がついてないかもしれないけれど。 >>9
この前亡くなった小林麻央さんの旦那さんでさえ、
あの凄惨な事件の目撃者だったと僕は感じてるお。(о´∀`о) >>9
僕が感じ取ってるのはほぼ全員なんだ。
視聴率は90%だった。おそらく。
きっと録画で見た人もいるから正確には分からないけれど。
だから、何回かびまたんの部屋まで、
話にいったのに。。 あら、時間とは何か劇団が復活したのですね。
劇団員のみなさま頑張ってくだされ。
ケモナーが増えたねw おまとめサポート
(平成29年7月よりスタート)
他社のおまとめローンの審査が通らなかった方、ご相談下さい。
・勤続年数2年以上の方
・金融事故のない方
・来店可能な方
保証人、担保は不要です。
まずは、お電話でお問い合わせ下さい。
特定非営利活動法人 STA おまとめサポート
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特定非営利活動法人 STA >>13
窓辺のマーガレット
劇団員の美魔女でーす⭐ アリスさんと思い込みさんと自然過程説さんとその他の劇団員さん達⭐🍨
時間スレは永遠に不滅でーす😹 忘れちゃいけない好青年さんと月見さん⭐🍨
時間スレは永遠に不滅でーす😹 >そいつが朽ち果てる迄の変形過程
自然に於いては何も朽ち果てない
そして変形が常態 時間とは、人生や一日を区切った、架空のフィクションであって、
そんなものまずないけど、生成しうる何かの感覚という次元では、
(時間)意識の様なものはあると思う。 隔離スレを恐れてこっちにしがみついてる
人目ばかりが気になる >>25
在りもしない物を感覚的に区切っちゃうんだ。
不可能でしょ? その「時間」を屏風から出してくれれば誰かが説明してくれるだろう。 時間性についてカントの時間論の概念がアリストテレスと共通のカテゴリー論であることに言及しギリシャ的な限界を持っていますかもよ♪⭐💁 波平による独り芝居の軌跡
波平系■連発スレ上げの合間に「右翼になろうよ」スレでそれを非難(見え見え過ぎて┐(´д`)┌
4 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:38:54.08 0 わかったからマラ洗えよ純一
936 : 第三の波平 ◆kpxxLE2Sh. 2017/07/19(水) 22:39:15.93 0 <誤字改定> あれからだよな。風向きが変わったのは。
30 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:39:30.19 0 マラ洗えよ純一
249 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:39:53.56 0 わかったからマラ洗えよ純一
356 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:40:12.79 0 わかったからマラ洗えよ純一
14 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:40:30.97 0 わかったからマラ洗えよ純一
937 : 第三の波平 ◆kpxxLE2Sh. 2017/07/19(水) 22:41:33.80 0 底辺ちゃん、あげ荒らしやめろ、ぶす!
57 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:44:15.94 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
50 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:44:41.30 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
78 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:45:01.26 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
388 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:45:22.90 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
445 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:45:43.86 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
16 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:46:02.81 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
306 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:46:21.00 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
458 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:46:39.91 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
49 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:49:03.25 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
67 名前:考える名無しさん 2017/07/19(水) 22:49:27.84 0 (上げ荒らしやめましょうAA)
34 名前:草マラをしごいてこういうことを書くのが純一 2017/07/19(水) 22:51:55.98 0
939 : 第三の波平 ◆kpxxLE2Sh. 2017/07/19(水) 22:58:46.44 0 いまどき複数端末に突っ込むって、死んだ方がいいよ(笑) 時間の在り様は、ベルグソンの分析で合ってるかな?ただし、核心部は間違い。
純粋持続は意識ではなく、世界そのものだね。 波平とやらを相手にするからいけない
某板にはわけのわからないのがいて
頼まれもしないのに見当違いのアドバイスをしているバカコテがいるが
いろいろ言ってもダメなんで無視したらこれが一番効いたんだが
新参が相手にするんで元の木阿弥になってしまった >>36が波○だということはないのか?
かまってちゃんだったりして >>37
人間が意識する世界そのものと、純粋な世界そのものの違いは? >>38
むしろ波平を相手してるやつが邪魔なんだが
静かにしろと大声で叫んでるやつが一番うるさいと言う 久しぶりだなこのスレも。
>>40のレスしてる先は俺じゃないけど、どうせ他の奴が書いてる事は全部おっパズレてるから、
俺が変わりに答えてやろう。
ああ、上から目線と思うかもしれないが、これはキャラだと思ってあきらめてくれ。
人間が感じる時間ってのは、等間隔じゃなきゃいけないんだ。
実用的な時間、つまり人間が認識してる時間ってのは、良くも悪くも、そして不可避的に等間隔
になってしまう。
なぜかって言うと、この世界の変化ってのは足並みがそろってるからだ。
例えば、同じだけ充電した性能が同じバッテリーを同じ条件で放電し続けたら同じ時間に両方の
バッテリーはあがっちまう。これは、物理の公式が成り立つ絶対条件なんだな。
だから人間が感じる時間、認識する時間ってのは同じ間隔じゃなきゃいろいろ困った事になる。
じゃあ、厳密な時間というものがあると考えて、人間が考えてるそれ、つまり時間等概念と同じ
だとした場合はどうかっていうと、実は何の証明も保障もされていない。
わかりにくいだろ?物理やってる人間も、この話を初見では大体理解できないんだ。
そうだな。わかりやすく説明してみると、例えばこんな感じはどうだろう。
本当の時間は延びたり縮んだりしてるけど、人間の認識も世界の理、つまり変化も同じように
伸び縮みするから、誰にも認識できない範囲で時間は等間隔でない挙動をしていると。
つまり、世界が1秒おきに好き勝手の時間休憩をしながら変化し続けてるとしても、世界が
休憩してる間、人間の認識は完全にフリーズ、つまりデバッグ中のプログラム状態だったとしても、
当のプログラムは颯爽と処理をこなしてるとしか認識できないって感じだ。
この状態を考えると、時間なんて無いって事になって、人間都合で認識のされる時間を利用
しているって事になる。
そう、時間なんて無いんだよ。単に人間も化学変化も物理現象も、いつも足並みがそろってるって
だけでさ。何の保障もされてないって事。 ちょっと備忘録的に説明のための文章を書いてみる。特に意味は無い。
アニメーションを見ていて、別な十秒間という同じ時間分のシーンがあるとする。
流れるアニメーションは同じ十秒間だ。人も、アニメの登場人物もこれが十秒間であると
思って行動するし、認識する。
だけどこれ、製作の過程ではどうだろうか?
流されるアニメーションを見て居る人は、アニメーションで表現されているシーンと同じ時間
の認識を共有してしまう。だからそこに移ってるアニメーションの登場人物にとっても、見ている
アニオタにとっても、やっぱり10秒は10秒でしかない。(漢数字めんどいやめた)
だけど、製作段階では、Aというシーンの10秒より、Bというシーンの10秒の方に時間も労力
も多くかかったかもしれない。
流されたアニメーションにとって、つまりこの世界で同じ変化の足並みに沿って認識している
われわれ人間にとっても、その変化の狭間にある大人の事情や苦労(単なる表現)は認識でき
ない。
んーこんな感じで説明しても、理解できるのは3割くらいなんだよな。
過程ちんの考え方は、この世界は連続だから隙間や狭間なんてものは無いって言うだろうけど、
粗密についてはどう考えてんだろうな。
全体的に疎になり密になれば、全体として疎や密で在った事実は痕跡を失うんだけどな。
もちろんそれは、それを見るもの自体も粗密の波に含まれるからだけど。 あ、グラフが本当は無辺かないびつな部分を含むとしても、グラフを見る人間がその
歪な部分を認識できなければっていう説明はどうだろう?
y=x^2のわかりやすいグラフがあって、実は人間認識の時間軸x側にyがまったく変化せず
まっすぐxと平行に伸びていく区間があったとして、でもxのメモリとしてはその間何も変化してない
ようなグラフがあるとする。
もちろんグラフが示す値は連続だ。
んー。これも、わからん奴にはイメージ伝わんねーな。 >>46
人間が感じる時間も世界の理(変化)も伸び縮みするから誰にも認識できない(37のいう
世界そのもの)で時間は等間隔でない挙動をしているってことは、人間都合で時間を利用
してるだけで、時間はないって結論でしょ。
つまり純粋持続は世界そのものなどではなく、意識ってことでOK? 人間を理解したいだけだろう
自分の人間理解を否定されたくないという思いは在るかな
一人の馬鹿者が天を変えようとしている
ルターの言葉だけど、地動説は彼にとって根本を否定される考えということかもしれない
ビッグバン仮説論者もその否定は許せないというところにまでになっているんだろうとその反論を読んでいると思ってしまう 理系の人がトリトン波というのをもちだして、わたしの理解に合ったものを出してきたけど・・・
それはともかく、運動は否定されたことが無いから、それを前提にしたら自然は運動するエネルギーの濃淡の海としか導けないということでしかない
わたしのは単純そのものというか、無矛盾な自然が前提なんで 人間は存在を前提に理解する
その「存在」は運動の否定、つまり静止であることを飛ぶ矢の逆説は示している
論理が静止である所以
科学は自然の存在形態が運動であることを示している
つまり運動すること自体が常態、つまり変わらない、同一であることを示している
自然は運動変化することが変化しないということになる
このことを前提にすれば、哲学、科学、数学の基本で解決できていない問題が解けるというのがわたしの主張
個人的には、ゼノンから始まってカント、ヘーゲル、近代科学が示した???の問題が解きたいという思いが基本にある
それには無矛盾な自然観が前提ということが分かった 個人的に宗教ではなく、学問に基づいた生き方を模索したったかだけだと思う
自然との疎外感が解けて実と和解し、実に還れる気がした
自分なりの学問観、社会観、人間観とかもできたと思っている >>50
結論だけ先に言えば、殆どOKでいんじゃね?
で、ここから先は、わかる範囲で俺の中でなるべく解りやすいように書くけど、読み飛ばしてもいい。
例によって、解る人間だけが解ればいいし、解らないなら無理にレスする事は無いといういつものやつ。
だいたい、持続ってなによ持続って(笑い)という話から始めるか。
ベルクソンは俺としてもそれなりに認めるところがある。数を二つに分けたことだ。まあこれは、誰でも
しってるよな。いくつ目の鐘の音かを数えるのと、羊が何匹いるかを数えるのでは、同じ数でも違うものとして
考えろっていうアレな。
俺は、この数に対するベルクソンの発見というか主張にすげー感心した。べつにそれ自体は凄くない。
この主張がすごいのは、人間の限界を意図せず示したということだ。
ベルクソンなんて古い人間は当然、今の新しい技術も新しい数学も知らない。知ってる現代人に言わせれば、
その空間に羊が3匹だった状態のときと、7つ目の鐘が鳴った状態は同じものだ。
そりゃ、羊が未来永劫3匹という空間が在るなら、ベルクソンの言う事も4%くらい当たり扱いしてやってもいい。
だけどどうせ羊は毛を刈るためか、肉にされるためか、年とって死んじまってかなんかで羊飼いに連れられてって
3匹じゃない状態がやがて来るわけよ。
限定的な条件でしか世界を理解できない人間の限界がここに現れてる。だから、それをシャーシャーと
語って見せたベルクソンは良く出来ました賞なわけだ。そこが偉い。
あまり対比される事が無いけど、このベルクソンの人間的な思考の限界に真っ向から対立するのが
ラッセルの5分前仮説だよな。
ラッセルの思考実験は極めて強暴だ。なにしろ、鐘が三つ既に鳴らされた記憶を整えられてから、
一つ鐘が鳴れば、人はそれを四つ目と数えるわけだから。
ラッセルとベルクソン、どちらが世界の理解に届くかといわれれば、ラッセルの方がリードしてるわけだ。 現代社会が持ってる、巨大な記憶容量や技術は、継ぎ接ぎだらけのボレロを完璧な仕上がりの演奏に
編集する技術がある。100小節目の失敗だけを差し替える事だって可能なわけだから。
これは、五分前仮説どころか、世界好き勝手編集仮説だってなりたってしまう。
まあ、100年かもっと前の哲学者にそんな現代を予測した話を聞かせろったって無理な話だから、
今を知ってる俺らがベルクソンを笑ったり出来ないし、そんないじめみたいな事をしても意味も無い。
ただいえるのは、当時から人間って言うのは人間の枠でしか物を考えられないものであって、ベルクソンは
そういう意味でその当時の人間の知の限界を良く示してくれたという事だ。
そこから考えると、空間的時間だとか直感だとかも全部、その当時の人間が考えられる限界で一生懸命
考えた通過地点という位置づけに成る。
逆に言えば、ラッセルは悪魔的な発想をしてたともいえるけど。
ちょっとだけ付け加えると、今の数学は世界を表すという意味ではまだ届かない。
上の流れを引き継いで話をするなら、この数字というか、この値は、何の途中の値なのかが表せないからな。
もちろん、グラフとか、数式とか何通りかの手法はあるけど、それではやっぱり届かない。
決定論の話までいくと時間が掛かるからこの辺にしよ。つか、今日はもういいや。 トリトン波。初めて聞いた。人魚とかイルカもいるのかな。 >>57
「誰にも認識できない範囲で時間は等間隔でない挙動をしている」
の仮定に基づいた想定範囲に>>56の時間認識があることは理解した。 ジャムは姉が毎年自家製を送ってくれる
自家製食べていると市販の安いのは食えなくなるのが難点だな
この十年以上買って食おうとは思わなくなった 数学は有限で無限を理解する 有限でできているというのは必要な仮定
言語もまた不同一を同一で理解する 同一というのは必要な仮定
数言語という指摘があったな
本が出てきたら調べたい 意識存在としての自己言及では、あるにしてもないにしても、どこまでいっても時間とはなにかいう認識論に収束されるだけなんですよ AをBで理解するケースの
Bはどこからきたのか問題だね
過程さんはミュンヒハウゼントリレンマでいうと
言い切りパターンかな
疎外した自己がゾンビとして纏わり付く 距離、長さの無い時間など存在しえない、
三次元いう判断が時間をそこに加えられない原因だ >>66
時間はないとなると生の事実との関連もなく
ないことにどこからなど根拠も不要で
循環論法で無効となっても
そもそも無関連だから問題ないんだろう ポスト・ポスト・カント哲学的ですね
wikiの思弁的唯物論に近い問題意識の記述がありますね 根本的に時間に何を期待してるか何を求めてるかで時間とは何かの方向性って色々だな >>73
アウグスティヌスは「煙に巻く」とかだろう 時間を求めず、時間とは何かを純粋に知ろうとしても見えない何かだから、自由意志の方向性で結論づけるしかないのかもしれない 時間ってなんでしょうね。もし因果律がなければ、時間があっても
意味が無いのでは。因果律がない無秩序なら、未来か過去に向
かっているのかもわからない。因果律があり未来が予測可能に
なってはじめて、時間の存在意義があるのではないだろうか。 それは時間を知りたいのではなく、時間の存在意義を必要としているんでしょうね 万物は時間(変化)の外には逃れられない。万物に全く何の変化も無ければ時間など存在しない 万物は成分(変化)の外には逃れられない
万物に変化があっても時間が存在する証拠などない >>76
思い込みさんも戻ってきたね♪⭐
嬉しいよ♪⭐。👰 >>79
「事物が変化すること と
時間が流れていること とは
同一の事態を別の言葉で表しているのだ」と私は感じる
…多分初心者が飛びつきがちな、定番の単純化なんだと思うけど、
この言説にはどんなツッコミどころがあるだろう?
諸賢のレスに期待 変化には観測者が必要だ。
対象と観測者の間には粒子の交換が必要である。
自分自身が観測者である場合、変化による変化が必要であり、それは変化^2である。
ベイトソンの学習Uにならってこれを変化Uとしよう。
この、変化の二乗(変化U)こそが「時間」の「もと」と呼べるものになる。これが「時(空)間の正体」であるといってもよい。
この変化UをAIに基本機能として与えるか、できれば自発的に獲得できるように構築するか、ミニマムな状況から自然発生できるか、この場合の(普遍的な?)ミニマムな状況とはなにか、それが問題だ。
ここでいう「粒子」をどのようにTensorFlowで構築するか。粒子はNodeではないのだとすれば何なのか。
無定義用語としての「粒子」にどのような形を与えるのか。これは「意味論」なのだろうか。 運動変化することが事物の存在形態
わたしは同一として存在しないし、自然そのものも
時間は同一として理解することで必要となる次元 運動する自然を静止で理解することを指摘しているのが飛ぶ矢の逆説
観測者は自然の一部であり、自然存在としては対象に一部に解消される
自然を理解するとは運動を静止、つまり必要ではあるが自然には無い、つまり観念的な存在で理解する
自然という対象は運動し、それを静止という頭の中にしか無いもので理解する
Aという対象をAの否定で理解するということになる
運動は自然の存在形態。 人間も自然の一部であり、観念というものも自然のものである。
なにゆえに二元論に陥ってしまうのか。人間はどこで間違いはじめたのか。
その間違いはじめが「哲学」なのか。あるいは「宗教」なのか。
これから図書館にいって調べ物をしようと考えていたが、テーマが見つからなかった。
「二元論」をとっついてみよう。 二元論のそれはつながっており、
ひとつのものの極性の違いかもしれない。
つまり、スピンの向きの違いだ。
この世界とはすべてがつながっており、それでいて変化している。
おおざっぱにいえばそれが「スピン」である。
よけいなものを考えず、「スピン」を無定義用語として扱えば、
つながっているもの自体も「スピン」である。
つながるということも「スピン」によるものであるとすれば、
「スピン」こそが「粒子」であり、交換しているのが「スピン」であろう。
「スピン」は「振動」である。そこで問題となるのは何が振動するのか、それは「ひも」なのかということだ。
「ひも」のようなものを持ち込みたくないとすれば...「ひも」は「スピン」そのものであって...
「振動」の「振動」が「スピン」なのだろう。
これが、「自然」というものが持つ、根源的な「矛盾」=二乗性、なのかもしれない。
「一回性」と「繰り込み」。このへんがキーワードなのか。
この宇宙が発生するきっかけとなったのは「結び目」?「もつれ」?
あ! 「量子もつれ」 >>83
ボケ 「事物が変化することは時間が流れていることだ」
突っ込み 「時間は何で事物を変化させているんだよ」
ボケ 「流れだよ」
突っ込み 「どうやって流してんだよ」
ボケ 「なんとなく感じるんだよ」
突っ込み 「感想文かよ!」 いつもAをAの否定で理解するとか
自然には理由はないとか
同じようなことあっちこっちの哲学スレで
見かけるけど
その理解でいくと時間とは結局なんなの?
必要性って結論? すっかりというか、ここまで何なのか説明書き込めた人いないから続いてるんでしょうw いつものこの流れは>>95がアリスだって言う自演行為で失笑されるパターンもう秋田 まぁアリナシ理解しようとしたところで時間とは「何か」の正体を決定付けないことはいい加減わかったんでは?w 日経サイエンスの9月号「マルチバースと多世界」の特集
http://www.nikkei-science.com/201709_030.html
野村教授は「時間」についてのある可能性を示唆する。
マルチバースの量子状態は静的な可能性がある。
つまり、ある宇宙でインフレーションが続いていてもマルチバース全体の量子状態は変わらないのだ。
ある宇宙の観測者が変化を知覚していても、宇宙の外側の観測者からすればそれは幻想である、つまり時間は「創発的なもの」で存在しないことになる。 >>86
ある宇宙にいる観測者は自然の一部であり常に変化しているかもしれないが、その宇宙も含めたマルチバースの量子状態は常に一定(静的)で変化しないという仮説。 物理学の理論ってどうしてこうも焼き回し遣っ付け再構築系ばっかなんだろうなぁ・・・ >>102
この宇宙の時刻は、この宇宙以外には意味を持たない。当然だね。
>>104
物理学は理論の積み上げだから、必然的にそうなっちゃうよ。 まあ、着地点作るのが物理の物理たる所以だし逃げ切るだろうな >>108
中から見ればそうだが、不思議なことに外から観測すると静止している。
空間も、例えば中の宇宙から観測するとその宇宙は無限に見えるが、外から観測すれば有限である。
これが最新の量子力学を応用したマルチバースのとらえ方。 美魔女もわたしもストーカーに纏わりつかれているな w 自然過程説、マジレス、学術は許さない。
清見、しのさんはおっけー。 >>117
過程説サンはもうすぐ死んじゃうのよ💢😠 >>118
やっぱり自然過程説、マジレス、学術も許す(о´∀`о)
考える名無しさんは許さない。。゚(゚´ω`゚)゚。 >>111
外とは宇宙の地平面の外側のこと。
宇宙の地平面とは、膨張する宇宙で光速を超えて遠ざかる領域。われわれが観測することが不可能な領域。 宇宙の地平面の外側から観測すれば、過去・現在・未来は同時に存在している。
つまり「時間」は根源的なものではない。 >>123
びまたんも底辺なんだ(о´∀`о)
ぷぴぴ(о´∀`о) >>128
僕の真似するひとがいる。゚(゚´ω`゚)゚。
なんなの。 外側って言ってもいろいろあるよな。
内側に居るからこそ外側がって話になるんだろうけど、内側の時間を認識する外側の存在と
されるものが、内側と同じ原理でしか変化できなかったとしたら、内側と同じようにしか時間に
関しては認識できないだろう。
どこから見ていようが、1秒間に1アンペア流れる電流で運ばれる電荷が1クーロンに見えたら、
内だろうが外だろうが、この世界と同じ物理公式が成り立つ世界でしかない。
逆に、内側に居てもまるで違う原理の存在があって、それが等間隔であるはずの各一秒
に差異を見出すとするなら、変化の足並みという意味で外になる。
この世界と同じ足並みで変化しないだったり、時々1秒なのに10秒分の変化や運動を
する安定的な変なものが居れば、時間的にはそいつは外側という事になる。
そいつはかなり特異で限定的なものでなければこの世界の物理公式は全部無意味になるけど。 問題は境界じゃないか?
境界概念の発生に「光」を用いた時点で
光という条件から逃れられない
もはや内側も外側もなく境界条件のみが存在する
あぁ…「光あれ」、か 教会は燃えているなんて歌思い出した
それはともかく境界はどこにある?というのは考えられて良い 境界なんてないんだけどね
じゃお盆過ぎたらまた来るかもしれない
纏めたのを某氏に送る予定
それがわたしの残せるものだし、ある程度完成しないと死に切れない 一貫した認識で運動する自然を前に死に切れないまま滅亡乙 ブラボー!! >>102
マルチバースは良いとして、多世界はコジ付けっぽいな。 多世界とは解釈の問題である。
これを分岐であるとするなら、エネルギー論的には、
分岐するたびに世界のスケールが小さくなっているとも考えられるw
最後にはプランク定数のスケールに落ち込み、世界は反転を始める。
プランク定数が(相対的に)「大きく」なっていることを証明できればよい。
しかし、決定論的で静的な世界を考えるなら、「動」であるのは観測者の観測行為だけだろう。
これが時間を生む。
多世界解釈は静的であり、分岐をたどることが時間となる。
解釈されるものと解釈するものの二極にわかれる。二元論的だ。
多世界解釈とは二元論的ピタゴラ装置なのである。了 この考えをもとに、無限のテープではないチューリングマシンを考えている。
有限テープともちょっと違うが、十分な長さのある世界。
その中で「振り子」あるいは「(自動反転)砂時計」として、
この世界をモデル化できるのではないだろうか。
小難しいことは考えずに単純に、輪ゴム状?/上?の世界におけるピタゴラ装置から考えてみたい。 とか、くだらないことを書いていたら、アイデアをひとつ思いついた。
ああー。そういう形状にすればよいのかと。輪ゴムだ。
輪ゴム型AI。外見が、ではない。思考が輪ゴム。
輪ゴム型コネクショニズム。 対象である運動しているものの大きさをメジャー、つまり運動しているものでその縦横高さ、つまり大きさを計る。
対象も計るものも、ここからここまでという大きさがあるかというと座標原点が無いし、絶対座標も無いし、つまりそれらは量子力学的には未確定のものでしかない。
縦も横も高さも、つまり次元は独立して存在しているわけではないし運動も伴っているし、また厳密にはそのものの大きさというのは無いので計れるわけではない。
現象としては大きさは認識されるが、対象にはここからここまでというのは存在しない。
目の前にあるのは厳密には運動するエネルギーの濃淡の海でしかない。
時間もまたある非常に安定した運動をする物理的存在でその運動量を測る。
ボルトは百メートル9秒5台とか、この車は、地球はと運動量で運動量を測るけど、測られる対象も測るものも常にこの自然と一体の対象であり、切り離して存在しない。
時計は大きさを計るメジャーと本質としては変わらないし、それらは厳密には運動を伴った自然と一体になったそれでしかない。
三次元というかその出発点であるゼロ次元そのものが科学によって否定されているのだし、四次元である時間が自然に存在するというのはどうなんだろう。
現在には幅が無いし、その幅を無限に集めても時間にはならない。
時間はやはり次元という理解からの延長からきた必然だし、他次元同様にたんなる自然理解のために必要な座標原点と同じそれだろう。 大きさというのは実は存在しないから厳密もクソも無いわけ
ある意味ドンブリ勘定的でしかない
目の前にあるのは一体化して切り離せない対象としての自然が存在しているだけ
次元はそのどんぶり勘定するために必要なだけ
対象には始まりも終わりも存在しない、つまり次元は自然には存在しないということ
つまり時間も存在しない 自然には運動しないなにかは存在しない
どこもかしこも運動している
その広がりを三次元で、その運動を運動量にして時間という四次元で理解する
量にするのは、今と指示すると今は飛び去り直接には捉えられないからそうするしかない
つまり必要だから
しかし運動は自然の存在形態だし切り離せるものではない
ゼロ次元も一次元も二次元も三次元も自然という対象から抽象して観念の中でのみ存在している
時間もまた他次元同様に運動する自然の抽象として、つまり頭の中にのみ存在している
今とは運動の言い換えに過ぎないし、幅が無いのも対象をその否定で理解するから
つまり運動を静止、つまりゼロ次元で理解するから
ゼロ次元は運動の否定だが、同時に運動を静止で理解しているということ
自然という対象を自然に存在しないもので、つまり対象をその否定で理解しているということでは一貫している 印刷会社に勤めていた男が、選挙になると素人が印刷注文しにきて、そんなことはしない感じの課長が
凄いふっかけるので驚いたと笑いながら話していたな ビッグバン仮説の科学者の解説だと始りの少し前まで解明できたということだ
・・・さて、絶対座標が在るという主張に他ならないのだが w どこまでが薬として作用し、どこから毒として作用するのかというのは古代ギリシャの指摘
それは指摘できない
いつのまにか毒になり、人間となり・・・
すべては生成過程であり、宇宙はその過程としてある
何ものも生まれないし、何も無くならない
それは物理的状態の変化であり、またそれが宇宙の常態ということ それで理解できるからそれが自然に存在するわけではないというのは地動説の認識論的意味
科学者はその誤謬を未だに気がついていない人が多い
理解とは何かを理解していない 時間とは自然を直接に理解できないことによる必要とするメジャーということかな
それは他次元同様に村債しない
静止が実在しないのなら宇宙は無限ということになる
数はその理解のための道具で存在しない
次元などこの自然には無い この辺の説明をもう少しわかりやすくして書くしかないかな、現状では
時間は頭の中だけの存在 時間っていうのはただ人間が作った概念ですよ(*´∀`)
もともとこの物質世界には
物質と空間が存在してるだけですから
アインシュタインはそこに時間の概念を加えた
四次元世界ですね 結局、人間が存在しないと「個我意識」がない、って言ってるだけだと思われ 物理学者に「先生、大事な用事がある。
忙しいところ申し訳ないが時間作ってくれ」と頼んだ。
「はい、なんとかやりくりして作ってみます」と返事が返ってきたので、
その物理学者は俺の言う時間の意味が分かったのだろう。 >>158
このスレにも、基地外でない人がいるんだ。 サテイさんは本当に本当に過程さんのファンでしゅヨオ🙌 >>160
図星だw
くだらないレスするおまいと同じくらいにw 時間を過ごすのか、
時間が過ぎるのか、それが問題だw >>166
馬鹿にしすぎ(о´∀`о)
ぷぴぴ。゚(゚´ω`゚)゚。 チーズ味のカール関東でも出せよ明治製菓ふざけてんじゃねーよ 明治製菓の株はとっくの昔に売ってしまったな。上場来高値で売れたと思ったら、その後、まだ50万円分くらい上がった。かなりの儲けが出たから、別にいいんだけど、やっぱり売ると上がるという法則が発動するんだよな。 古本屋によったら、探していた『時間の正体』(郡司ペギオ-幸夫)を200円で入手できた。
この本にでているマルコポーロ時間のマルコポーロ氏はモーガン・フリーマンの時空を超えてのどれかの回にでていた
マルコポーロ氏(女性)なんだろうか。
時間を含めた「認識」という問題には、分配法則が満たされないということが主因なのではないかと思っている。
量子もつれも同じ問題なのだろう。
量子論的認識というものが「時間」のでどころである。
認識と、認識される対象は、別物なのか?
分配できない粒子を共有することが認識であるとするならば、認識とは「もつれ」である。
しかしそれは直接的なものであり、通常はそれを認識とは呼ばないであろう。
量子論的ネットワークでつながっているのが「認識」である。
量子論的つながりの階層の単位をホップと呼べば、直接的なものはホップ1となる。
通常の認識における量子論的ネットワークのホップ数は結構なものになるはずだ。
そしてその形状はカラビ・ヤウ多様体のような奇妙な形かもしれない。
もし単純なものでも認識と呼べるのであれば、ウイルスのような形状かもしれない。
暴力的にたとえるのならば、認識とはウイルス状のものであるw
生物の「種」というものが、もし「もつれ」によるものであったなら。。。いや。。。種とは「もつれ」なんじゃないかと。。。 読み返すとまとまっていないが、量子論的ネットワークとしての認識を考えているということだ。
『時間の正体』は、大正時代のベストセラー『おばけの正體』(井上円了)みたいなものだw
私が持っていたのは神保町で求めた昭和44年ごろの刷だったが、
昭和の最後のほうまでは出版されつづけたようだ。
時間とは「おばけ」である。 「量子化」できないと哲学すら不可能だぞ。
そもそも「言葉」とは量子化である。
「哲学」そのものの根本原理でもあるわけだ。 人間の「知覚」や「認識」そして「思考」などは「量子化」という手続きによって成り立っている。
そもそもの「哲学」は「量子化」を扱う学問であるとすらいえる。
量子哲学(論)だな。
量子力学ではなくて量子論だからな。力学とはメカニクス。メカニクスではなくセオリー。
カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを借りてこよう。 ヴァイツゼッカーのよい著作がみつからなかった。
ドイツ語で読むしかねーか。
未来が未知で過去が既知であったとしても、
未知の過去や既知の未来がある。
「既知の未来」は言葉としておかしいが、可能性の問題と考えればよいだろう。
過去と未来は対称形である。われわれは既知の線上しかたどることができないだけである。
この「既知外」である「未知」をいかに扱うか。それが問題だ。
それを量子論的ネットワーク上で扱えるのではないか。
G・ベイトソン的な既知外ネットワークの哲学モデルを考えてみようと思うw
哲学板にはサンプルがたくさんいるのでうれしい。
これは単なる冗談ではない。実際のAIでも(用語は異なるが)「既知外」という戦略がとられている。 気違いといってしまうと身もふたもない。
あくまでも「既知」の「外」である。
この、「既知」の「外」にある「未知」に対してもネットワークを張る。
因果ネットワークから可能性のネットワークへの拡大。
しかしこれは膨大になりすぎる。だから、「既知」のネットワーク「以外」の直接扱わないけどそこに存在するかのように扱うこともできる仮想的ネットワーク「既知外」。
いわゆるK程説氏がいうところの「否定による理解」である。
これを「既知外ネットワーク」としてAIに実装してしまおうというもくろみ。
カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー(の哲学)にたどりつけなければ、こういう発想は得られなかったかも。
ちなみにヴァイツゼッカーの弟さんが統一ドイツの初代大統領。 もし私に禁句を決めさせてもらえれば
45分以内に貴方に禁句を言わせると断言しますよ♪💞 AIにtrainデータを与える。訓練データである。
訓練データは期待する結果を返すように教育するものである。
正しい結果かどうかを判断してAIに教えてあげるのは「教師」と呼ばれ、
教師あり学習と教師なし学習がある。
trainデータを与えて結果を得るだけでは歯車でもできる。
未知のデータを与えて、その結果を出力させるのがAIである。
trainデータを与えていくと、だんだんと未知のデータに対しても期待される結果が出力される確率があがっていく。
しかし、ある時点から過学習となり確率がさがっていくのだ。
このような現象に対して、効果的だったのがDropoutという方法であり、
AI内の結合の一部を意図的に断線させるのである。
断線のかわりに既知に対して未知を与えてゆさぶる。これが既知外ネットワークだ。
既知に対して既知外で理解するということ。
はたしてうまくいくかどうか。 「外」とは「¬」のことであり、AはAとしか表せないのでAに対する¬Aである。
Aが既知であるとすれば、¬AがAに対する既知外になる。
ここで問題となるのはAが2回でてくるということ。2つのAの違いは時間や空間のようなものが必要だということを暗示している。
対象Aはひとつであり、写像・射影としてのもうひとつのAが扱われる。
その関係性によって統合されていればよいのだが、それが断ち切られたとき失調を起こす。
時空間とはひとつの「失調」である。統合失調なのだw
Dropoutを再考すれば、軽い「統合失調」を与えているのではないか。
想像や創造や概念などというものも「統合失調」のなせる技/業であって、悪い意味ではない。
インパクトがあったほうがよいので「既知外」とした。
バランスを崩すことで新たな「流れ・運動」が生じるのである。これがコントロールの範囲内にあればよい。 マルコポーロ時間における補集合が関係するのかもしれない。
そんなわけで
Fotini Markopoulou-Kalamara の The Internal Description of a Causal Set: What the Universe Looks Like from the Inside を入手したので読んでみよう。
Heyting algebraで計算すればよさそうだ。
「否定で理解する」ということの意味がわからなかったが、直観主義論理なのだと考えればなんとなく納得できる。
因果ネットワーク上での内部記述がその正体だったのかもしれない。おばけの正体がみえてきたw 何故に分配律が成り立たないのか、あるいは成り立つのか。
それは半順序集合だからでろう。
数学がでてくるのはもうしわけないが、「≳」という関係があるといいうことである。
比較ではなく、なんらかの順序関係(「=」の場合を含む)があるということだ。
a(b+c)=ab+acが成り立ったり成り立たなかったりするのを場合分けするのは面倒なので、
最初から区別するのがベターだろう。
これを半順序の関係で記述すればよいわけだが、
そこで問題となるのは「『=』ってなんだ?」ということである。
反対称律を考えれば、a≳b, b≳a のときa=bとなるはずだが。。。
「等しい」ということの哲学的考察はどーなっているのだろうか。
同一であるということ、identity。
対象に対して外部あるいは内部に観測者が必要なのか。
対象・外部・内部・観測者。外部と内部をひとつの隔壁とすれば対象・隔壁・観測者の三者なのか。
隔壁ではなく「射」であり、外部・内部とは(対象・観測者も同じ?)domain/codomainなのか。
哲学は日常言語で表現される圏論になりうるのか。最低でも圏論と同等のことが説明できなければ(日常言語派の)哲学に未来は無い。 未来が在るとか、無いとかどういうことですか?
過去なら等しく在るということ?
未来が在る場合と無い場合を分けて説明してください。 >>190
未来の思考は哲学ではありませんわよ♪👰🙋 日常言語派的には、今を生きていれば、それでよいのでわ? 定義されたことないから、聞いてもその人なりの説明でしかないよ やはり、みなさん、日常言語派哲学には「未来」が無いという認識なのですね。
日常言語派哲学には「今」しかない。過去も未来も「今」でしか語れない。
語っているのは「今」だから。
非常にすばらしいスタンスだと思います。感銘をうけました。
「一回性」の問題も、「今」で語ることにより解決されるのかもしれません。
「今」が「過去」や「未来」を「今」に召喚して多層化される。それが「存在」であり「概念」であり。。。
そう考えると「実在」や「本質」や、へたすると「真理」も「今」には無いのかもしれない。
「今」すらも「今」に召喚されないと「無い」。
これを暴力的に「意識」と呼んでしまえば、すべてもの「存在」には「意識」があるw む。
すべての「存在」。
「も」が召喚されてしまた。「もの」の「も」。
付喪神の「喪」(九十九)なのか。
ち、今日は月曜で図書館が開いてない。
日常言語派哲学の「今」とは「九十九」。百にひとつ足りない。
それが「今」か。 ひとつ足りない宇宙論。素粒子論との整合性。不完全性定理の吟味。いろいろやらねばならない。
その足りないものがどこにあるか。おそらく一番遠くて一番近いところにある。なぞなぞかよ。 「力」は「粒子の交換」でつたわるという。
これは粒子の共有であり、接合である。
独立して存在するよりエネルギー的に低く安定している。
このときに放出されたエネルギーはどこにあるのか?
宇宙のどこか、近くて遠いところにパンドラの壺(ルビン)と呼ぶべき構造があり、そこにあるのだろう。
放出されたすべてのエネルギーがそこに隔離されるわけではなく、隔離されるのは「ひとつ」でよい。
この「ひとつ」が重力の核となっている。
そのように考えてみた。
証明の方法も考えてはみたが、証明できるかどうかとは別問題だ。
普遍的ともいえるほどに、その証明となるものはいたるところに存在している。
それをパンドラ粒子として扱い、定式化すればよい。
いうなれば、これが「神」の正体であろう。「パンドラ粒子」である。 ゲーデルによる神の存在証明を再吟味してみよう。どこいったかなあの本。 すべての方程式には「パンドラ解」がある。それを開けてはならない。 自己が何であるかは永遠に問題です😹人間は自分を何であるかは知らないわ⭐「汝自身を知れ」は個的なものと一般的なものとの間での人間の過程、彼が生きてそこで自分の何たるかを経験するように >>203
なる過程、こうした過程という課題に対する表現でしゅ。👰 人が生きている限りあくまで二律背反が残っててそれと同時にそこでは一般的なものが個人的となり個人的なものがまさに一般的なものになろうとしますが >>206
決して最終的ではない過程が残っています♪ 人間は徹底的に一般的なものに逃げ切れるものではなく彼の個別的なものへと逃げ切れるのでもなく、そうだとすれば生ける精神を失っているわね。両方の場合に於いて二律背反は止まり同時に過程も止まりましゅ⭐ もう既に適切な答えは出されているのに、私がそれを理解できないだけかもしれませんよ? オシオが貴族の徴で、その否定のネゴシオが時は金なりで、商売人の徴 >>210
>>211とっくに答えは知っていますよ♪
答えを書くときはこの世で本を出すときだけでしゅ👰💗印税生活をしてバリ島で暮らしたいわあ💗💨 哲学は確かに主張はします♪でも何か特定のものをではなく哲学は自らの真なるものを何かの命題の形で表明しないわ⭐それは原則を持たないわ⭐ >>215
あるいはそれには命題の形式の形も与えられるから命題そのものに属するものは理念にとって重要ではないのでしゅ。⭐ >>216
それゆえ真理は思考の運動の中にあり個人の思想の中にあるのではないのでしゅ。👰。👰
ね、私は、日本一位くらい簡単に取れるでしょう👌 真なるものは全体でしゅ。👰しかも全体は自らの展開することによって自らを完成します実在に他ならないわね😃 意識が自らの経験はその概念からして経験の全体系または精神の真理の王国を自らのうちに含みましゅ。⭐ 意識の諸々の形態は精神の個別的な決起に過ぎないわね😃 真なるものの全体は1つの円であり円として無限です😹
円のイメージは繰り返されるわー😃⭐ 個別的な行為は空虚の中を自由に運動し妨げられることなく広がり狭まり自己のうちで自身と共に完全に満ち足りて演ずる運動をしています♪💞 根源的な統一が真なるものではなく真なるものは自己自身となることですし自らの終わりを目的として前提し始めにもちそれが果たされて終わりを達することにより現実的であるような円環。⭐。⭐ へーゲルは自己自身に於いて完結して、やすらい実体としては自らの諸々の決起を支えている円環。⭐。⭐ 精神の実体は自らの始まりを前提としてただ終わりに於いて始まりに到達します♪
自己へ帰還する円環ですね😃⭐。👰 「理解」とは何か、と考えてみると、そこには「関係」しかない。
理解の「対象」は、そこにない。
現象学的に考えれば、「対象」とは「現象」である。
「理解」のフィールドに「現象」そのものはない。
「現象」とは「現象そのもの」ではない。
とすれば何なのか。「現象」とは「理解のフィールド」に展開された(現象・事象の)因果ネットワークである。
NodeとなるObjectも「関係」である。これを量子化された「関係」だとするならば。。。
「量子化」の反対の動作と再量子化が必要となるかもしれない。
反量子化? 展開? あ! 量子化を粒子化とするなら「波動化」または「波動展開」。そんな用語があるのかどうか。
いちど量子化してしまったのだから「再生」かな?
「現象学とは量子化された現象を再生し再量子化するものである」
成り立つかな? 因果ネットワークがすっぽり抜けてるか。。。
ま、「再生」において「時間」(や空間が)必要となるだろう。「量子化」と「再生」のときに与えられるのが「時間」。
存在するかどうかと問われるのは、この「時間」であって、量子化以前のものはアクセス不能? この「時間」ではなく、この「2つの時間」かな。区別すべきかもしれない。
と、マルコポーロ時間からの発想。 @
> 288 :”削除”依頼:2017/07/19(水) 22:52:45.29
『HOST:KD106161130014.au-net.ne.jp』
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1259377534/288
A
> 289 :第三の波平 ◆kpxxLE2Sh. :2017/07/19(水) 22:53:27.72
『HOST:KD106161130014.au-net.ne.jp』
http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/saku/1259377534/289
@ 『KD106161130014.au-net.ne.jp』 = A 『KD106161130014.au-net.ne.jp』 せんべい/まんじゅう
と、ひらがなにすべきだったな。
(日本の)饅頭の起源である(中国の)饅頭は川の氾濫を鎮めるために沈められる人身御供の人間の頭のかわりにつくられたともいう。
近年では夏場でもコンビニのレジ近くのケースにたくさんの人の頭が並ぶ
ふっ(ロウソクを消す音) 哲学に於いても物理学に於いても
「未来を確定する事は出来ない」と考えている
オカルトなら可能であるだろうが
可能なら猫を鍵盤の上に乗せて偶然の音楽を
数式及び明晰な論理で説明して欲しい
未来は過去からの統計を使い予想は出来るが
存在者Aが明日生きている事を確証は出来ないと想う
つまり未来は分からない
圏論と言う言葉を使うのであれば
未来を確定したを示し英語を使わず
美しい整然とした分かりやすい日本語で
日常言語派の哲学に未来は無いを証明して欲しい
どうして日常言語派の哲学を結びにしたのか?
どうやって未来を確定したのか?
念の為書き足すと反論とかではない
ご高説を聴きたいのだ 存在することが相互的な再帰として反復しないとすれば、存在することと存在しないことはどのように区別がつくだろうか? >>234
人間の持つ能力や技術、技法といったもので答えを導く事が難しい事で答えが出ないと
するのは間違い。
問題内の、しかも単なる設定でデータを増やしたものを単純に不可知と言い切れない。
「巡回セールスマン問題」で検索してみるといい。
あと、<乱数>というものに対する考え方も足りてない。
猫ごときが気安く乱数を実現できるなら、自由意志なんて問題にもならない。 >>234
日常言語派に未来は無い、ということにどのような反応・答えが返ってくるのか期待していたのだが、
期待以上だった。
日常言語派には「今」しかない。すばらしい回答だ。さすが哲学だと思った。
まさしくその「今」、「一回性」というものをどのように考えるかに「今」がぐさっと突き刺さってきたのである。 nowといったとき、それはすでに過去のものかもしれないが、未来のものかもしれない、しかしそれは「今」である。
量子論的に考えれば、「今」には不確定性がある。
この「今」にある不確定性から「確定した未来」も引き出せてしまう。
(確定したといっても「ゆらぎ」込みだが、それは過去の確定でも同じ) うん。これだ。疲れるな。あんまり考えずに確信してる人間ってのは疲れるんだ。
この世界ではあらゆる存在が<今>しか認識できない。過去を記憶して未来を予測しても
認識できるのは<今>だけだ。
と、言った時、これをどこまで考える事が出来るのかは人によって違う。
まず、人間って奴は今を今だと思っていて、それが時間の最先端だと考えている。
とりあえずそういう奴は、過去を何度もやり直してたって認識できないことを知らない。
未来を一度経験していて、現在にある瞬間はそれを認識できない事を知らない。
なにしろ証明できないからな。
当然、世界が長いこと止まっていても、動き出す瞬間にズレが無ければそれも認識できない。
今しかないと思っている人間は、実にシンプルに自分が感じる状態だけを信じ込んでいる。
そういうタイプは五分前仮説の無敵さもあんまり理解できてないんだろな。
どうでもいいけど。
一ついえることは、このタイプの意見は疲れるって事だ。
自分の感覚だけをシンプルに信じ込んでるから、柔軟に純粋な可能性を考える力がない。
そうすると、周辺知識や、関連知識から話をすることになる。
普通にヤだろ?
だから、俺はちょいちょいそういう意見の持ち主を切り捨てるんだけどさ。
どこかでこの徒労感を説明したいと思ってたから、丁度よかったや。 >>242
「可能なら猫を鍵盤の上に乗せて偶然の音楽」
「ジョン・ケージの偶然性の音楽」と書けば良かったかな?
問うてあるのは、
「どうして日常言語派の哲学を結びにしたのか?」
「どうやって未来を確定したのか?」
自分の書き方が悪かったんでしょう
巡回セールスマンや乱数が関係する問いではないです
(234)
>>243 >>244
多分、>>190さん、ご本人だと想うので
こちらの想定した回答をして下さって嬉しかったです
どうして日常言語派に限られたのか分からなかったのです
あのままの終わり方だと、「無い」の断言が
どうやって「未来を確定したのか?」を想起させてしまい
知的好奇心からお尋ねしたくなりました
故「反論とかではない」ではないんです
ご返答として量子論の「ゆらぎ」まで組み込んで貰えて
量子論と論理学が融合する何かを感じました
他の人はそんなものは感じなかったでしょうが...
どうして日本語にこだわったかと言うと
英単語で書いてあると読んで貰えない事があるので
>>190さんが有意義な事を書かれているのに
読まれないと勿体ないと思ったからです
丁寧な言葉遣いで品よく
応えて下さっりありがとうございました
とても幸福な気持ちで拝読しました
また素敵なお話を (234) >>246
>うん。これだ。疲れるな。あんまり考えずに確信してる人間ってのは疲れるんだ。
そうだな
行動はしやすくなるかな? 高卒の年下が、時間は今しか無いんだよなと呑み会の席で話していたな
国立理系とかいろいろ同席していたが、誰も説得できなかった
考えてないで確信していても正しいこともあるかもな
思い出しただけ ない、ある、の使い方の話でもある
確かに今在るものしかない
ここでいう在るは厳密には時間の幅を意味しない
存在する、というような意味合い へぇで1へぇ獲得。
はぁ?はぁ?はぁ?はぁ?はぁ?で、5はぁ獲得。 仏教の表面を下地にした発言だろうけど仏教でも如来は在るんだよなー 上級者向けだとは思わないけどねw
時間論と存在論はきっても切り離せないよなー >>264
感じ方は関係性でしかなく、関係性がない振動には時間が無いというのが物理学だ、 宇宙を秩序付けるために数に従って進んでゆく永遠的似像でしかない
概念的にはプラトンがすでに到達してた
現代物理学はそれを定量的に定義づけるだけ スレチだったらすみません。
皆さん、こんな考えしたことはありませんか?
自分と他人ではもしかしたら流れてる時間が違うのかもしれない。
例えば自分の時間は、世間(つまり自分以外の皆)で流れている時間よりも30秒ほど遅れていて、自分の目には30秒前の皆の行動が映っている
だから、今ここで自分がトイレをしたら、実は皆の世界では皆の前で自分がいきなり排尿をして、でもそれを皆は笑いつつも何事もなかったかのようにやり過ごしている
みたいな。
いわば、時間のずれ、といいますか、自分以外の皆は裏で繋がっている、というか。 その場にある二人だけ(カップル)が周りと違う時間の過ごし方をしているような状況は
目撃した記憶があるぞ。
なんというか、その二人の間でだけ時間が止まっていた。 >>271
と、いいますのは271さんがそのカップルを見て、別の時間が流れていると思った、ということですか?
それとも、よくあるラブラブすぎて二人の時間に入り込んでしまっているだけってやつ? >>272
どちらかといえば前者。
ラブラブを通り越した感じの夫婦みたいなカップル。 【物理】量子力学から熱力学第二法則を導出することに成功
〜「時間の矢」の起源の解明へ大きな一歩〜/東京大©2ch.net
https://egg.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1504708393/l50 >>252
五分前に全世界の人間や生物や宇宙・地球・技術といった
存在する全てが生み出されたと仮定し、
それに誰も気づけなかったとした場合に今存在する自分達や
常に変わり続ける『5分前』の変動について考える思考実験・・・
であってたっけ? ,. -‐  ̄ ̄`  ̄ ´  ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ._,{ 、,i ! 諸行無常 諸法無我
__.. -/ ,.. / `ヽ、
, -‐ ,.´-─./ /:. . . / ..__ / ! `ヽ ヽ クゥクゥ クゥ 空
/,.-‐´ _r‐' _,ノ: : : : : : : . . . . . . . . . . .(_ `丶、ヽ、 、__,ス ,)
~~ ̄/(三,. -‐ ´ / ,.-‐ ´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`丶 l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
~ ̄i l゙´  ̄ ̄ / ,/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ し,j ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. l. ! / / 女のスカートの後ろに隠れ手を出す名無し、粘着コテ、妄想(もうぞう)は荒らし確定
. ! | (, ,,/
! ,j 2chの鉄則(おやくそく)とは 【荒らしはスルー(無視・放置)・あぼ〜ん・透明あぼ〜ん】 しましょう。
ゝ、ノ
● 荒らしは放置されるのが一番の苦手です。
→ ウザイと思ったらそのまま放置!
● 放置の荒らしは焦り、煽りや自作自演、PCスマホで多人数を装い、あなたのレスを誘います
→ 釣られてレスしたらその時点であなたの負け、あなたが荒らしです!!
● 反撃は荒らしの滋養にして栄養であり、ヨダレを垂らして最も喜ぶことです。
→ 荒らしにはエサを投げ与えないで下さい!
●荒らしは語尾に w をつけてあおる特徴があります。
→ 問いに問いで返す脳無しで、裏の小藪に捨てましょう。
●荒らし・粘着にはスルー・あぼ〜ん・透明あぼ〜ん・が推奨です。
→ 無駄レス連続のどたわけは放置。
●荒らしは自立できず、もたれかかり、ストーキングする
→ 放置プレーで共に楽しみましょう。
●無いものを有ると思い、有るものを無いと思う、これが顛倒(てんどう)、妄想(もうぞう)です
→ 公案の答えは無尽蔵、己だけの答えを出せ
●枯死するまで孤独に暴れさせておくのが一番です。
→ ミイラ化です、放置、風化させ、土に戻しましょう 毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで
詳しくはHPをご覧下さい。 時間って変化を測るために人間が作った概念じゃないの 5分前仮説って5分待ってもう一回言えば自分で自分を論破するじゃん
そもそも思考実験だってのは一旦置いとくとして 光も空気も重力も存在しない空間に、存在する物質の時は動いてるのだろうか止まっているのだろうか…
変化がない=時が止まってるなのだろうか…
それとも変化がない≠時が止まってるなのだろうか… 未来から過去がはじめて分かることがある。過去から未来を予測することができる。時間というのは概念でしかなく、現在過去未来は共存している。 現在しかわらない。情報は現在のものであり、未来も過去も現在から「予測」される。
すなわち「現在」とは「情報」のことである。
「現在」は「過去」にならないし、「未来」も「現在」や「過去」にはならない
「時間」は「流れない」。
科学が「抽象的」にものごとを考えるのであれば、哲学は「具体的」にものごとを考えるのではなく、
哲学は「超具体的」にものごとを考える。
「具体的」にものごとを考えることが自然的あるいは野性的であるとすれば、哲学は「超自然的」であり「超野性的」でもあるw
「超自然的」なものはオカルトが持って行ったので、哲学に残されているのは「超野性的」なものだけであるw 「わらない」⇒「わからない」
「か」が抜けた。
蚊ではなくて火なのか貨なのか、なにかが召喚される。
これは結構でかいものが召喚されそうだ。
か行。かきくけこ。「来」。 >>294
でっかいもの
か行
おそらくでっかい期待に過ぎない 「か」は「来」であろう。
未だ来ないのが未来であり、過ぎ去るのが過去である。
未然形の「か」。
未来はもちろん未然だが、過去も未然なのではないか。
波動方程式は過去へも向かう。
到達できる過去も光円錐で範囲を限定される。
時間という構造がパンドラの壺か。やっと発見できた。
「か」から釣れたものは大きかった。
パンドラの箱(壺)において、中身がなにかはわからないが、重要なのは箱自体であり、「時間」「空間」が生み出される話なのだろう。
なんらかのパンドラ構造あるいはパンドラ機構によって、この宇宙や他の宇宙?が形成される。 パンドラからすべて釣りあげねば、時間が足りない・・・ それが「タキオン」かどうかはさしおいて、とりあえず「パンドラ粒子」と呼んでみる。
パンドラ粒子が時空間をつくっているとしたら、どのような構造なのか。
ネットワーク構造なのだろうと予測するならば、マルコポーロ時間!
勝手にマルコポーロ構造体と名付けてしまうのなら、マルコポーロ構造体が変形することで未来や過去をもたらす。
時間とはパンドラ粒子によって形成されたネットワークであるマルコポーロ構造体の変形(振動)である。
マルコポーロ構造体はなぜ変形(振動)するのか。それはパンドラの壺があればよい。
現実的に存在するパンドラの壺は発見できたが、なぜそれがあるのか、そこが問題だ。 >>288
頭が鈍いのか?5分経った時点で最初の5分前仮説は新しい5分前仮説に否定されて反論もできないわけじゃん
ここで矛盾するから仮説は否定される、これじゃ逆に過去の実在証明だろ >>299
横レスだが、最初の5分前仮説も新しい5分前仮説も両方否定できない、ってだけで
別に新しい5分前仮説が最初の5分前仮説を否定できるわけじゃない
5分前仮説っていうのは現時点に至るまでの任意の時間で成立しちゃうから
複数の「5分前」仮説どうしが矛盾するからと言って、そのうちのどれかが反証されるわけじゃない
要は反証可能性を満たさない説っていうだけのこと 過去とは現在の前の状態であり、未来は今後の状態である。
記憶は過去に認識した現在だが、人間の認識はいい加減だから、結構間違っている。
つまり、記憶は過去の認識の結果でしかなく、過去であるとは言えない。 「現在」あるいは「今」というものが「ある」のかどうかはさておいて、
基準となり、とりあえず公理的あるいは原理的な存在として認めることが可能なのは「現在」しかない。
「過去」が因果ネットワークによって「現在」を作っているというのは「誤認」であって、
「現在」から(負の)時間発展したものが「過去」であり、
「現在」から離れられないのであるから、「未来」も「過去」も予想・予測でしかない。
「時間」だけでなく「空間」も同じであって、「観測者」が「ここ」なのであり、「ここ」からは離れられない。
これらは統合されるべきで、「時空間」は「現在(空間も含むように意味を拡張)」しかない。
哲学には「今ここ」がある。「今ここ」しかない。
「今ここ」こそ、萌えキャラ化して(日本の)哲学シンボルとすべきだろう。 いろいろと標的にしかされない萌えキャラ、日本しかないなw やっぱ、今ここ いたか。
萌え系哲学こそ日本の哲学。 「過去」は(「今ここ」に)存在しない。「今ここ」で、過去が存在した、と語れるだけであり、それは、「今ここ」で、未来が存在する、と語るのと同じことである。
では「過去」は「過去」に存在するのか、「未来」は「未来」に存在するのかといえば、「今ここ」にしか存在しえないものである。
「今ここ」にしか存在しえないのに存在しない。 訂正
「今ここ」にしか存在しえないのに、「今ここ」には存在しない。 科学技術が発達すればするほど
やることがない
何故か?
目的地に早く着きすぎてしまうからである
結果科学は全ての夢を奪う 仮説からも加害者になりうるし被害も受ける次元もあるのかな。 過去や未来は現在が時間発展したものであるが、それは予想や予測ではない。
現実の世界は物理的に時間発展しているんだけど、こんな事を見落としてしまう間抜けもいるよね。 どうやって物理的に時間発展しているのか書き落としている間抜けはどうするんだい? 書くまでも無いじゃん。
Anyone with eyes can see. 「今ここ」にない時(空)間発展ですから予測や予想ですよ。 「今ここ」がマルコポーロ構造体であるとすれば、マルコポーロ構造体は時空間的ひろがりの中にあるのではなく、
マルコポーロ構造体の変化(振動)が時空間というもの(虚像)を作り出す。
Fotini Markopoulou-Kalamaraの論文を、そのように「今ここ」解釈できないか、と考え中。
「今ここ」そのものが知性体なのではないのか? >>316
その時間が発展してるとかいうのが既に思い込みなんだが
時間は存在しなくて化学的変化物理的変化が起きてるだけと書いても何も変わらんわけでな 時空間的広がりをもたないマルコポーロ構造体(今ここ構造体)上で時間発展させることが過去や未来という虚像をつくりだす。
実際に時間が今ここの外に存在していたとしても、時間発展させて得られた過去と(存在すると仮定した場合の)実際?の過去との検証は不可能である。
同様に未来も検証不可能である。
5分前どころか5分後も「今ここ」にしか存在できない。そしてそれらは「今ここ」には存在しない。 時間発展も自分の運動量や質によるだろう。考えているだけではだめで
かなり複雑な行動経路や、脚のテク繰りが必要。
未来と思ったものに未来と過去と現在が混じっているというのはよくある話しで、
その言語の枠組みも疑ってみると、なぜか時間の様なものが見えることがある。
哲学は狂うことにも似ているね。 >>323
物理的だろうが科学的だろうが、変化には変化前(過去)と変化後(現在)があるね。
全く時間を否定できてないよ。 宇宙が虚数時間から誕生したらどうなるでしょうか。👰 昔みたいに当意即妙なアドリブ書きとかがなく最近はみんな
まじめだね。 正しく見届けられ正しく解釈された時間の現象の中にあらゆる存在の中心的な問題組織が根を下ろしてる。👰 過去の記憶と過去の時間は別々って考えも面白いですねぇ🎵 マグダカートの時間は実在しない。🌟も面白いですねぇ🎵 時間と空間は対象ではなくて人間側に備わった形式という考えも好きです。👰 観測できないだけで虚数時空間「iのフィールド」は存在する
そこを通って時空間は無限に循環している 情報量の計算もできないやつが時間とは過去と完全模倣だと言い張る
情報量が増えているそれは互換じゃないんだよ アインシュタインの相対性理論の若干の命題は
例えば空間はそれ自身無です。👰
絶対的空間は存在しない。🌟
空間はただ空間の中に含まれている物体または、エネルギーによって存在するに過ぎないわね。🌟
古いアリストテレス的命題の言うのと同様に
時間もまた自体無しで時間のうちに現れてる
様々な出来事によって成立し
絶対的な時間は存在しない。🌟
絶対的な同様性も存在しない。👰
それ故、先ず変異する存在するもののうちに出会うのでしゅ⭐😃⭐ 自然は流れる様に変化し続ける。時の流れと言う表現は人間の感性にマッチした表現だ。
量子論の確率的な変化と言うのは、ちょっと違うんじゃないかな?
きっと量子を点と仮定してるからなんだろうけど。 時間も空間も変化も無いし、同じものも無い。
情報しかない。
唯情報論にただひとつ必要なもの。
それはなにか。それが問題だ。 曜日を作ったのは空海
ゆえにとるに足らない事実
それを理解してるのはニートだけ
馬鹿は月の日とか火の日とか水の日とかに没入し過ぎ sunday monday thuesday horseday 中央競馬の日だな。
地方競馬だといつもどこかでやってるからほぼ毎日が馬曜日。 新しい曜日感覚制の導入
猫曜日 馬曜日 寿司曜日 唐揚日 泣き曜日 豚曜日 尻曜日
猫馬寿司唐揚泣き豚尻(ねこば〜すしからあげなきぶたしり) 猫曜日 馬曜日 寿司曜日 唐揚曜日
(にゃようび) (ばようび) (しゃようび) (ぎゃようび)
泣き曜日 豚曜日 尻曜日
(なきようび) (ぶたようび) (しりようび) まず馬曜日に出勤して猫曜日に仕事モード
唐揚曜日は大事な商談 週後半の寿司曜日においしいものを食べ
尻曜日は週末 豚曜日にまったり 泣き曜日にわけもわからず泣く
という一週間 例えばこんな時にご相談下さい。
借金の返済で困っている・・・。
(金融機関、住宅ローン、会社、個人など)
家賃や税金、公共料金、学費の支払いに悩んでいる・・・。
給料が減少し、生活が苦しい・・・。
数社から借入があり、どこからも借りられない・・・
お金の悩み、相談はエスティーエーで 関係が結ばれる、情報が伝達する、それによって形ができあがる、
この形生成は時間が逆行するそれを完全に否定している、
量子力学が時間の前後関係でどんなに同一性を主張しても
関係が結ばれる後の複雑性は同一ではないのだよ、 時間は存在するのか?
時間が存在するとはどういうことか?
時間が存在しないとはどういうことか?
時間はどこに存在するのか?
時間ではないものとは何か?
時間はモノか?
時間は性質か?
時間は関係か?
具体的に何が時間で何が時間ではないのか? すべては「辻褄」を合わせるための「調停」の産物である。
思弁的実在論は「調停」を探究すべきだろう。
思弁的調停論か? 物理の素養とセンスないと時間は分からんよ
存在とか理性とか的外れなこと言っても無駄 物理の素養とセンスがあって時間とは何か分っているけど
的当たりなことは言うことはできないということですか? 物理的に必要とする時間概念と哲学の時間は関連性が皆無 物理的時間の本質は物理的因果問題を解決するのに必要な概念なだけだからね 皆さんにヒントをあげましょう✨👸
時間性の謎解きは時間性がカギではありません。🌟 ∩_∩ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ・ш・) < お茶です
(つ旦と) \_______
と_)_) >>383
よーし、わかった!💡
犯人は、あなただ!!👮 時間は存在しないというのを二回フリーマンの番組でやっている
重力も存在しないんじゃないかという科学者があるというのが昨日の回
零の発見」読むと、ゼノンが巻き起こした数学の連続の問題は哲学の問題かもななんて締めくくっていたような記憶がある。
デデキントのそれで解決したわけじゃあないと明言している
時間もまた哲学の問題の可能性もアリだろう >時間は存在しないというのを二回フリーマンの番組でやっている
時間が存在しないと主張する科学者がいる ということだな 自然的通俗的な世界時間 Weltzeitに対する根源的時間を示す現象学的概念。
ハイデガーの場合,現存在の本来的存在としての先駆的決意性に依拠しつつ開示される現存在の存在の存在論的「意味」が「時間性」と呼ばれる。
こうして人間における究極的存在層が得られ,同時に人間の有限性が統一的な定式へともたらされる。
質的かつ有限的であることがこの根源的時間の本質である。 四次元は運動しない三次元の集合だな。
つまり「今」の正体が運動であることを示している。
運動変化する無限の自然を静止で、そして静止で理解することにより必然的に有限で理解しなければならない。
そのために次元が必要になるというだけだ。
光速度一定の原理は絶対座標の存在を否定する。
このことは次元の非在を意味する。
つまり四次元である時間は自然には存在しない。 二十年近く前に理系の方から、この時間理解は自然が今の連続だという指摘を受けた。
線は大きさの無い点の集合、二次元は幅の無い線の集合
三次元は厚みの無い面の集合、そして四次元は運動しない三次元の集合ということになる。
その前後に理解には対象とそれを認識するという二つが必要だという指摘も受けた。
それは運動に対して静止だと示していたのでそれ以上展開するつもりはなかった。
二つともそこで留めておかないで掘り下げていたらなあとつくづく思う。 0×∞=0
数には大きさが無い。
つまり数は自然には無い。 来週サイエンスゼロはタイムマシン
イグ・ノーベル賞は面白かったけどな
フリーマンの番組で重力とは何かをやっていた
非在説もあった
ちなみに時間非実在論は九十年代に新定常宇宙論者がその可能性を述べている
けっこう面白い科学者はいるなあ
ラーナーの方程式理解は面白いけど、混乱している印象がある 決定不能ということ
纏まってはないのですが、とりあえず、試論として。
クレタ人の逆説は、論理は対象をその否定で理解するため、決定不能であるということです。
運動を理解する場合も静止で理解するため、ヘーゲルが規定したよう、存在すると同時に存在しないこと、という決定不能であることになります。
不完全性定理もまた有限を無限で理解するからこそです。
無限を有限で理解する。
座標原点という静止で運動する無限が理解されますが、座標原点、つまり静止、有限で理解されますからこそのヘーゲルの決定不能の定義になります。
ある意味光速度一定の原理は決定不能ということかも知れません。
この原理は自然は無矛盾、つまり理解可能であることを示します。
しかし座標原点の否定によって論理そのものは自然に存在しないことに成ります。
理解が可能であることによって論理そのものが否定されるわけです。
論理とは有限ですし、有限は対象である自然には無い。
対象である自然をその否定で理解するわけです。
光速度一定の原理は座標原点で理解はするが、座標原点は無いことを示します。
この原理は論理の自己言及でもあるわけです。 隔靴掻痒の感を免れないけど
もう少しのような気がするけど、うーん 無限ー有限
無矛盾ー矛盾
有限は無限の点でできているという矛盾
無限は有限で理解されるが、有限は無い
対象である自然を無で理解する
基本はそういうことですが まだまだだけど、とりあえず
対象である自然は有限で理解されるが、光速度一定の原理によって有限が無いことが示される。
このことは運動が自然の存在形態であるということ、つまり自然は無矛盾ということになる。
有限、論理が対象である自然には無いこととなる。
無矛盾は論理の存在の否定で証明される。
この無矛盾と論理の関係がクレタ人の逆説ということになる。 決定不能
これ自体は決定されているからこその不完全性「定理」です。
自然は無矛盾、理解可能であることが光速度一定の原理で示
される。
自然が無矛盾であることはじつに、座標原点の否定、つまり静止
、有限が本質である論理の非在で証明される。
論理はもともと無の存在という矛盾が本質です。
自然は無矛盾、理解できるが、それをわたしたちは論理、つまり
矛盾で理解している。
自然ー論理の関係もまたクレタ人の逆説だということです。
つまり対象をその否定で理解しているということです。 分類していくことによって、分類がどういうことかということがわかる。
そして分類は自然が否定関係でなく、差異として在る、分類がその否定として在ることが理解される。
論理もまた自然を理解することによって、論理がどういうことかがわかる。
自然は無矛盾であることが、否定を本質とする論理そのものの非在、否定によって示される。
あー、ここまでにします。
疲れた。 理解できないことは理解できる。
理解できることは理解できない。 理解の否定で理解できることがわかる
理解できないことは理解が成立することでわかる > 理解の否定で理解できることがわかる
> 理解できないことは理解が成立することでわかる
前提の確定であり、出発点であり、また終点でもある。
わたしにとっては終点ですが。 >>401
過程説さんのいう否定はマルクス哲学の「否定」のようなアウフへーベンを目指した意味で使っているの?
それと過程説さんのいう「自然」の定義は何? > 理解の否定で理解できることがわかる
> 理解できないことは理解が成立することでわかる
>理解できないことは理解が成立することでわかる
ここは、
理解できないことが理解できるのは「理解が成立する」からです
に訂正したほうがいいかな まず運動する自然を静止という否定で理解する。
そしてその否定を否定する。
質問の意図がわかっていないのかも知れませんが、マルクスのそれも含んでいるかもしれません。
自然とは、繰り返し書いているように、運動するエネルギーの濃淡の海であることが科学によって示されたと考えています。
静止が自然に無いのなら、そういうことに成るのかと。
なんか疲れている感じですので、これまでにします。
また。 わたしのはとても単純なんですが。
単純なんで、無矛盾として一貫させるのはとても複雑になるのかな。
あー、やはり疲れているなあ。
休みます。 ∞って数字じゃないし、0×∞=0ではないよね?
不定形つまり、どんな値も取りうるということなので、0×∞は有限にもなりうるということじゃないかな? >>406
過程さん、ありがとう。でも自分の理解力が足りないのかもだけれど、「自然」=「運動するエネルギーの濃淡の海」という定義がわからない。
いわゆる相対論でのE=mc2で表現されるようなエネルギーのこと? それともいわゆる「自然界」や「宇宙」を指しているの?
>>392の次元の説明での「四次元は運動しない三次元の集合」というアイデアがとてもおもしろくて、追求してみたいので。 気になりましたので、不十分ですが、ざっとです。
自然認識史概観
自然は所与して人間に対して現前します。
クレタ人の逆説では、対象をその否定で理解すると決定不能なことが示されます。
ゼノンの逆説では、ピタゴラス学派が主張するように多、つまり数で世界ができているとするとこのようになりますよ、とその主張が破綻することを示す。
カントの二律背反は時空に終始があると同時に無いことを示す。
ヘーゲルは運動が静止で理解するために決定不能であることを示す。
地動説、進化論、光速度一定の原理は座標原点など、特別な何ものも存在しないことをしめし、自然は運動するエネルギーの濃淡の海であることになる。
不完全性定理は、論理は有限であり、その有限を無限、つまり否定で理解するので、決定不能な命題が在ることを示す。
自然は無矛盾であることを静止、座標原点、つまり論理の否定によって示す。
理解できることは論理の否定によって証明される。
そして理解できないことは理解できる。
自然は理由も無しにただ在る、ということです。 いや、無いものを無限に集めてもゼロでしょう。
出かけますので、また。 >>409 さんには後ほど。
説明には手が掛かりそうですので。 >いわゆる相対論でのE=mc2で表現されるようなエネルギーのこと
光速度一定の原理では、静止を否定していますよね。
自然の存在形態が運動なら、それを前提に否定関係はありえないでしょう。
ディラックの海でわかるように真空もやはり物理、ここではエネルギーの基底状態だと。
絶対座標の否定、つまり光速度を変えるような物理は存在しないというだけで何も無いことを意味しません。
この原理は自然が無矛盾であり、また運動が自然の存在形態であることを示したのだと理解します。 地動説でも座標原点を設定して天体の運動を理解します。
天動説は存在しない静止で天体の運動を理解するから、座標原点、つまり静止は存在すると主張します。
地球は不動だと。
科学は静止を一貫して否定しています。
このことは座標原点の存在の否定です。
つまりゼロ次元、いや次元そのものが自然には存在しないということになります。 ゼロ次元が集まって一次元
一次元が集まって二次元
二次元が集まって三次元
ならば当然の展開として
三次元の集まりが四次元であるわけです。
三次元自体は運動しません。
ですから三次元が集まって四次元となるのは当然の帰結だと思いますが。 わたしはやはり対象をその否定で理解するのだと考えています。 点は部分を持ちません
部分が無いものに部分を付け加えたら部分になるというのはいかいもおかしい主張ではあります
それが無限に成ったらどういうわけか・・・
魔法のような話に思えてなりません
無いものは無いとしか言いようが「無い」 >地動説でも座標原点を設定して天体の運動を理解します。
>天動説は存在しない静止で天体の運動を理解するから、座標原点、つまり静止は存在すると主張します。
訂正
地動説でも座標原点を設定して天体の運動を理解します。
天動説は静止で天体の運動を理解するから、座標原点、つまり静止は存在すると主張します。 >>417
訂正
部分が無い点にまた部分が無い点を付け加えたら部分になるというのはいかいもおかしい主張ではあります
休んだほうが良さそうです 運動しない三次元を無限に集めたのが時間、でわかるように
時間の正体は運動でしょう。
「今」には幅がありませんが、このことは運動という対象を無、つまり静止で捉えたの「今」であるということです。
つまり今、時間は運動であるわけです。
次元は存在はしませんが、次元で理解している。
では、また マルクスで思い出したけど、ヘーゲルの止揚、否定の否定は以前から主張しているようにニュートン力学の衝撃からカント哲学が生まれ、そこからの発展として出てきたような気がしてなりません、
ヘーゲルの精神の現象学序文ではそのことが、科学認識の在り方の理解として述べられている。
止揚とは天動説で理解されてきた天文観測を地動説に翻訳することから出た概念ではないかと。
否定の否定は、無限である自然を否定して有限で理解し、その有限で展開した理論はまた否定、つまり有限は自然には存在せず、論理もまた否定され無限が回復する。
三浦さんはさまざまな否定の否定の例を挙げて、原始社会から共産主義も否定の否定で必然だと述べていますが、どうやらこれは成立しないようではあります。 >>421
こういうのは個人の単なる感想なんだろうね。 >>410
難しいな・・・。過程説さん的な自然とは形而上的なものという意味ですか?
>>420
でもこちらの立場では、
●静止→次元を空間として仮定。1次元空間→0次元(点)の集合(線)。2次元空間→1次元(線)の集合(面)、3次元空間→2次元(面)の集合(立体or球)。
そして4次元空間→3次元(立体or球)の集合。
●運動→次元+時間として仮定。1次元時空→0次元(点)+時間=静止。2次元時空→1次元(線)+時間=線移動、3次元時空→2次元(面)+時間=面移動。
4次元時空→3次元(立体or球)+時間=われわれの認識している世界。
少なくとも上記から推論するなら、過程説さんのいう自然とは形而上的なものではなく「空間」という意味にあたると思います。 自然「認識」ですからねえ・・・
常に鳥もちは付き纏う
鳥もちを取り除いたら鳥は逃げていくわけで
どういう意味で空間と使ってるかは少し不明ですが
空間もまたエネルギーの一形態です。
一が多となるのですが、多は差異でしかありません
一が様々な物理的条件で様々な態様になるだけです
先日スーパーに行ってエスカレーターで一階に下りていった時に
空間も含めてこの色とりどりの野菜、魚、また建物自身も一から生成展開した差異しての存在だと思うと呆然としました。
回答になっているかな 学問でどう生きるかをわかりたかった
それだけかな
それなりに答えは出た いろいろわかりたかったけど、まあ良いな
オヤジは宗教に転じたけど、宗教は組織になると堕落しがちだからなあ
案の定幹部の堕落に絶望して棄教
晩年は抜け殻みたいだったけど、とりあえずは半世紀は生を全うする支えには成った気がするからそれで良いのかな 身の周り、いやわたしも含めて一が生成していく過程の差異としての多なのだと思うと不思議な気がしてきます。
・・・決定不能だという決定。
理解できないことは理解できる。
存在すると同時に存在しない・・・。
不思議な宇宙ではあります。
人生は不可解と投身自殺した明治時代の学生と違うのは、不可解さにまた面白さを感じる能天気さというところでしょうか。
転生を信じられないわたしなどは、この与えられた生を満喫しない手は無い、なんて思ったりします。 >>410
>地動説、進化論、光速度一定の原理は座標原点など、特別な何ものも存在しないことをしめし、自然は運動するエネルギーの濃淡の海であることになる。
次元、その一つである時間も重力も諸力も最小単位もすべては認識に必要だが自然には存在しないのだと。
つまり特別な何ものも無い、ウンドウスルエネルギーの濃淡の海だということです。 相対性理論により、時間と空間は本質的には同じものととらえられています。
以上のことと、光速度不変の原理から見えてくるのは、我々はこの4次元時空(3次元空間+時間)の中において、
光速のベクトルで常に運動してるということ。
空間で静止してる物体は常に、時間軸方向に光速で移動していると考えられます。 >>432
それは哲学や科学ではなく、もはや宗教では?
あなたのいう自然の定義でこれ以上議論や追求を重ねても、ここより前進することはかなわないでしょう。 ひかりよりはやいはしらんけど えいしんひかり よりはやいなんてむり のなら比分でやるしかないよ。 歴史的にはなくても個別的にはあるわけよ
だがここにはない 無い派は形而上にしかない、有る派は物的に内在しているという認識なのかな 自然認識には必要だが自然には存在しないということ。
座標原点がそうだし。
ゼロ次元が科学によってその存在を否定されているんだから諸次元も当然存在しない。 > 自然認識には必要だが自然には存在しないということ。
自然には存在しない事物(時間)を自然認識する必要によって
存在したりしなかったりすると解釈されてしまいます。
存在という言葉を使用すべきではないかと。 天使もゼウスも観念の中には存在しているからなあ
観念的存在で手を打ちましょうよ 観念的存在というより「時間は観念的想起だ」が的確ですかね 同一としての「わたし」も「自然」も存在しないしなあ
どうしてもわたしたちは不同を同一として理解するしかない >>440
天使もゼウスも自然も観念ですよね
時間は観念だ、又は観念的想起だというより
時間は自然に存在しないと
観念にあえて存在を付け加えて使うと
より合理的だなどの根拠が何かかあるんでしょうか? 座標原点は観念的存在と表現して良いんじゃないかなあ 対象ー認識ー表現という構造だからなあ
自然にしてもゼウスにしても共通点は空想にしても実在にしても
対象ー認識ー表現だし それはともかく座標原点、静止、数、次元は観念としてしか存在しない
この自然の何処にも無いし
だったら四次元である時間も存在しないというのは当然の帰結だろうな >>448
座標も数も次元も時間や時間もあなたのいうエネルギーとしての自然もすべて実在しない、となったら考える意味ないじゃん
何が残るの? 四次元とはまた了見が狭いな。それが基礎だろ。異界や境界とつながっているのに
時間論でも数理の論理を取りがちなのはどうか。時間においても。 ? どうしてそう理解するのかな
わたしの書き方が悪かったかな
また後で 座標や数が観念だから、時間も観念?
未だに自分の理解の間違いに気付いて無い様だね。
取敢えず、時間は数ではないな。
数で表されてるのは、時間そのものではなく、時間の経過という量だよ。
まぁ、こんな指摘をしても、きっと理解できないだろうけど。 今書いている纏めの要約です。
書き直しの最中ですが、とりあえず。
細部は訂正するかもしれませんが、論理自身が論理の問題を出来するということが根幹です。
光速度一定の原理は自然の存在形態が運動であることを示します。
それは絶対座標が自然に存在しないことによって示されます。
つまりわたしたちが自然の運動を理解する際に設定する、静止、有限、終始が存在しないことを示すことによって次元が存在しないことを示します。
このことは粒子が波が渦、つまり波の一形態という理解になり、不確実性原理が、運動を静止で、有を無で理解することが原因だとわかります。
量子力学のエネルギー保存則の破れが問題になっていますが、自然に次元などはありませんから、当然何も生まれませんし、何も無くなりません。
つまり保存則の破れは対象である自然ではなく、観測などによって理解すること自身の問題です。
もともと運動量も物理量も近似値としてしか理解されません。
そのまま理解することは不可能のであるわけです。
重力は、ライプニッツが批判したように遠くから魔術的に作用するのではなく、加速に必要なエネルギー量として、また諸力はある物理的状態からある物理的状態に生成するために必要なエネルギー量ということになります。
つまりは重力そのもの、諸力そのものは存在しません。
最小単位もまた渦である粒子をより小さい渦にする物理的条件が設定できれば、いくらでも小さく出来る、つまり存在しないということです。 試論で細部は訂正の余地がありそうですが。
ちとわかりにくいかな、と。
分類自身が分類しがたい対象を産み出す。
分類とは差異として在る対象を否定として理解することです。
男、女、人間、生物、非生物。
しかし物理という観点からはなんら差異関係ではない。
分類していくうちに、分類できないのだという地点に辿り着く。
論理も同様で、理解するから理解しがたい対象を産み出す。
科学の光速度一定の原理、観測問題、不確定性原理などです。
哲学ではゼノンの逆説、クレタ人の逆説、カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定などです。
数学では不完全性定理です。
これらは、わたしたちが対象を理解するからこその問題でしかない。
自然科学でわかるように、自然の存在形態は運動ですが、それを静止、座標原点、つまり自然には存在しない観念的存在で理解する。
クレタ人の逆説は、対象をその否定で理解すると決定不能の命題が出てくるということです。 存在という規定を考えてみます。
これは「飛ぶ矢の逆説」がその本質を示していて、論理の自己言及になっています。
「空間の一点に飛ぶ矢は必ず存在するが、静止もまた一点に存在することだから、飛ぶ矢は飛んでいない。」
この逆説は存在という規定が、運動の否定であることを示しています。
つまり運動を静止で理解していることを示しています。
わたし、は赤ん坊から現在に至るまで大きく変わっているのにもかかわらず同一の「わたし」として表現される。
つまり運動、不同である対象を同一、静止で理解、表現している。
対象は運動しているがそれを否定の静止で理解する。
飛ぶ矢は必ず空間の一点に「存在」すると理解するが、その存在という規定は静止である。
クレタ人の逆説もまた、クレタ人はうそつきであると規定するが、それをクレタ人が規定する。
つまり規定が規定自身を否定してしまう。
存在という規定も、飛ぶ矢は一点に「存在」すると規定するのだが、存在という規定自身がその規定を否定する。
つまり決定不能です。
自然という運動する対象をわたしたちは存在という静止で理解するからこその逆説です。 点には大きさが無いと数学は規定します。
点は座標原点、ゼロ次元です。
これは無限である自然を有限で理解することを意味します。
有限はあくまでも自然を理解するための観念的存在です。
つまり次元自体は自然には存在しません。
大きさの無いものをいくら集めたって大きさになるわけではありません。
四次元は運動しない三次元の集合ですが、運動しない三次元は自然にはありません。
今、現に在る、もまた無で理解されています。
四次元の正体は運動なのです。
それを静止という否定で理解している。
有を無で、と言い換えてもいいわけです。
自然を次元で理解することは、運動を静止で理解することです。
静止が自然に存在しないということは、次元も存在しないことを意味します。
不完全性定理は決定不能という決定だから「定理」なのです。
この定理は理解すること自身の問題、つまり論理の問題でしかない。
自然が無矛盾で無限ですから、有限という矛盾で理解されます。
有限は存在しない点の存在の集合として在る、つまり矛盾です。
ここでも、対象をその否定で理解していることがわかります。
ここから、決定不能、つまりクレタ人の逆説が出来することが当然予想されるわけです。
また自然は無矛盾であり、理解可能であるが、理解すること自体が矛盾だから、このことによって理解可能で無いことになる。
しかし理解可能で無いことは理解される、つまり規定自身が規定を否定している。
自然はわたしたちの前に現前するのですが、わたしたちは自然を理解できないことが理解される。
つまり決定不能であると決定しますが、それは自然が無矛盾で理解可能だからです。 ー不完全性定理は決定不能という決定だから「定理」なのです。
この定理は理解すること自身の問題、つまり論理の問題でしかない。
自然が無矛盾で無限ですから、有限という矛盾で理解されます。
有限は存在しない点の存在の集合として在る、つまり矛盾です。
ここでも、対象をその否定で理解していることがわかります。
ここから、決定不能、つまりクレタ人の逆説が出来することが当然予想されるわけです。
また自然は無矛盾であり、理解可能であるが、理解すること自体が矛盾だから、このことによって理解可能で無いことになる。
しかし理解可能で無いことは理解される、つまり規定自身が規定を否定している。
自然はわたしたちの前に現前するのですが、わたしたちは自然を理解できないことが理解される。
つまり決定不能であると決定しますが、それは自然が無矛盾で理解可能だからです。ー
ここがちと説明不足ですね。
書き直すことにします。 >>455
>しかし物理という観点からはなんら差異関係ではない。
しかし物理という観点からはなんら否定関係ではない。
に訂正
推敲が不十分でした さてと・・・
わたしのできる限界まで来たような気がします。
どうか次世代に繋がる内容であるようにと祈らざるを得ません。 もう少し減量、すっきりした表現ができそうだけど。
難しい。 時間非在説唱えていた科学者の主張がわたしのと似ていました。
モーガン・フリーマンの番組で紹介されて、面白かった。
やはり似たようなこと考えている人はいるわけです。 ニュートンとポーもまた有限から無限が成っていると理解している。
仮に宇宙が無限なら重力で潰れてしまうから無限宇宙は不可能であると。
いや、有限で理解されているだけです。
対象は矛盾してはならない。
有限だとその外、つまり否定関係を設定しなければならない。
無、運動の静止が存在するということになる。
自然は光速度一定の原理が語るように静止する何者も無い。
このことは無限宇宙であること示している。
運動という枠組みが前提ということになる。
有限で理解するが、その有限はこの原理によって自然に存在することを否定される。
有限宇宙論は天動説の誤謬の本質である、それで理解されるからそれは存在する間違いを引き継いでいる。 時間とは何か
自然の対象の一部としてある物理の運動量を定期的に運動する何かを持って量る観念的存在ということになる。
時間は自然には存在しない。 誕生してから今までが存在したら、いやプランク時間でもかまわない。
時間に対応する三次元のわたしが無限に存在する。
SF小説としては面白そうではあるが、現実であるとなると頭がどうにかなりそうな理論ではある。 アリストテレスはパルメニデスを批判して、論理としてはそうだが頭がおかしくなりそうな論理であると語った。
他の次元が無限の無で成立するように、時間もまた無限の三次元で成立する。
さてさて、困ったチャンの四次元、ひいては諸次元としか言えない。 わたしたちは対象をその否定で理解している。
対象の否定は無限に集めても対象にはならない。
無、部分の無いものをいくら集めても無にしかならない。 タイムマシンを図書館で予約したけど、粗筋読んでびっくり
こんな筋だったかなと思った
「高い城の男」はまだ半分
タイムマシンが中学生、高い城は二十代になるかならないか、くらいかな、手に入れたのは
しかしビッグバンのような天動説が引っくり返るのはまだまだ先なんだろうなあ 自然は運動するエネルギーの濃淡の海として在る。
運動を静止で理解するから、有限、次元の観念的存在が必要になる。
次元自体は無の集合として設定される。
時間は運動する三次元の集合、つまり無の集合として在る。
運動はヘーゲルが指摘するように量として理解しなければならない。
時間の正体は運動量で、今、現に在る、はゼロとして、つまり有は無という否定で理解される。
この否定とは静止ということになる。
時間は次元であり、他次元同様に理解するための観念的存在で自然には存在しない。 二十年以上前、理系の方から指摘されたことを掘り下げていればもっと早く進展していたんだなあとつくづく思う。
もうしょうがないけど。 この世界を4次元とすれば、1次元も2次元も3次元も実在しない。全ては4次元である。
この世界はフラクタル構造。
ユークリッド幾何学は現実的ではない。 運動している対象を無で理解するから無の無限の集合としなければならない。
対象を静止で理解するから次元が必要になる。
時間自体が存在しないから連続体としての時間は当然存在しない。 某掲示板で数学の大学院中退と話していて、相手が全然話を聴いていないので議論を放棄したことを覚えている。
後年「バカの壁」を読んでいたら、中々面白い指摘があって、なるほど話が通じないのはこういうことがあるからかと納得した。
かの大学院中退は自分の影でもあるんだなあとその時に感じた。 少し前進したという思いがある
板倉さんの指摘した限りなくゼロに近いがゼロではない、ということが何を意味するのかということが
二十年来の謎ではあったんだが、ここで某氏が指摘したことで氷解したのは大きな喜びだった
そこから理解について本質的なことがわかってきたのは大きい
クレタ人の逆説などもそうだが、対象とその理解という観点からも
自分の考えてきたことが成立するし、さらにすっきりした地点に立てた思いがある
理数系で数年間議論し、相手が指摘したことの重大性がここで思い起こされ参考になった
自分だけではとうていこの地点には至れなかったと思う
かの理数系の方々の一人の生物学者が、他人の頭を使うことの重要性を指摘していた
自分が気がつかずに見過ごしたことがけっこうあったことに今更気がついた
かの方々、とりわけいろいろとご教示してくれた中立派、論敵、また支持してくれた人たちには励まされた 自分なりの自然観を獲得できるとはさらさら思わなかったなあ
真偽はともかく w
わたしのは無いものは無い、有だけが有るという単純そのものの自然観 人は何を知りうるか。
電力はわかる。運動や重力もわかるだろう。明るさなんかも。
こういうのは連続が約束されてるから知りうるんだな。
本当にこの世界は連続だろうか?
人間の、少なくともこれまでの人間の理解の範囲では連続だろう。
それは保障されてるんだろうか?
連続って言うのは、状態が遷移する前提だけど、繊維の狭間には隙間は無いんだろうか。
隙間があるかどうかはわからんだろうけどさ、人間には隙間があっても理解できないって
ことはわかるだろう。
そして、理解できない人間にはその前提で存在する世界を考える事は出来ないだろう。
でも、人間ってのは「あるかも知れない」から理解まで達する事ができる、カモシレナイ。
世界五分前仮設って言うの、一面的には簡単な仮説だけど、ちゃんと理解するとこれ程
最強な反則技は無いというくらい無敵な仮説だ。
人間が理解しようとする、持続やら連続やらをあっさり無価値に出来るくらいだ。
まだまだ、人って言うのは理解できないものを信じようとはしないだろうが。
電算機の能力を駆使してシミュレーションをしてみたらわかるけど、シミュレーションという
のは、どこで中断しても、どこから再開しても、同じ結論に達してしまう。処理が完了する
までの時間が余計に掛かるけどさ。
そしてシミュレートされてる現象自体は、その制御を行っているコンピュータが一旦停止
しただの、一度も止まらなかっただのには影響されない。まあそうだろう。いちいち影響を
受けてちゃシミュレーションが失敗してるって事だからさ。
もっと簡単に言えば、一時停止を何度やっても映像の結果は変わらないってとこか。
別に俺は、この世界がシミュレーションだと言ってるわけじゃない。シミュレーションでさえ
5分前仮説が実現できて当然な運用がされているといってるわけだ。
どれだけこの世界が止まっていようと、値が編集されない限り人には認識できない。 科学はまだ始まってさえいない ブリゴジン
科学が発見した事実とその理解はまた別だからなあ。
文系でも理系でも、発見した事実はともかくその理解はかなり怪しいだろう。
重力の正体については先日も科学者たちがすったもんだしているのを紹介していた。
火星に何かがあるかを発見した天文学者は、ありゃ運河だと理解して発表した。
科学史はそのような話がけっこうある。
有名なのは天動説。
あれは天体の運動観測自体は間違ってはいなくて、その理解が間違えたというもの。
チェスタトンは十の証拠から十の理論ができるが、正しいのは一つだと語る。
それも怪しいけど。
その観測事実としては、自然のどこにも静止している場所は無い、つまり運動が自然の存在形態であるということ。 自然の存在形態が運動であるということから、一つの理解を提案したい。
座標原点はどこにも存在しない。
ゼロ次元はどこにも存在しないということでもある。
だとしたら、終始はどこにも存在しないということになる。
隙間もどこにも存在しないということにも成る。
数はどこにも無いということになるし。
隙間があるということは、此処から此処まで、というのが在るという理解だし。
五分前仮説は、五分も無いし、誕生も無くなることも「無い」から、無い無い尽くしのこの仮説は端から成立しない。 此処から此処までは無いのだが、此処から此処までで理解する。
そしてまた此処から此処まで、というのは否定される。
理解は人間の側であり、自然の側には無いこととなる。
運動ー静止ー静止の否定
無限ー有限ー有限の否定
対象、否定、そしてその否定の否定 科学革命は自然の在り方を示し、同時に認識理解の在り方の自己言及でもある 自然の存在形態は運動である
そしてその理解は運動の否定である静止である
対象をその否定で理解している
その否定はまた光速度一定の原理で否定される
否定の否定 科学革命は認識する側の存在を否定する
自然が対象であり、自然しか存在しないという当たり前のこととなる
そして意識は自然が生み出したもので、意識は自然の自己言及ということになる 認識する側が自然の一部であり、特別な存在ということを否定するということです
天体を認識する、静止は必要だが存在はしない
諸生物を認識する立場である人間もまた生物の一部で、特別ではない
絶対座標は認識には必要な静止の自然存在の否定の最終的ダメだしです 決定不能
決定不能と決定できるのは対象が無矛盾だから
決定不能なのは、対象をその否定で理解するから 自己言及
自然理解の場合は、対象が無矛盾であることが証明されている。
運動を静止で理解しているので、飛ぶ矢の逆説、ヘーゲルの運動規定のように決定不能となる。
不完全性定理もまた有限を無限で理解している。
数自体には大きさが無い、ということ自体は無矛盾。
それを無限という否定関係で理解しているので、決定不能となる。
不完全性定理の構造はわかったけど、もう少し何かが必要かな。
有限自体は大きさの無い数で出来ているという意味では無矛盾。
有限自体が無限であるという矛盾ということになるのかな。 対象が無矛盾ならば、それは決定されており、決定不能という決定は間違っている事が実証されている。
全然ダメ。 有限と無限は限りの有り無しであり、限りの解釈の問題である。
現実的な限りはカタストロフィー理論で解釈されると予想できる。 ここまで来れたから良いかなあと思いはいつも付き纏う
三浦さんと板倉さんのお陰でもあるとは思っている
後世の人が判断することではあるが、それなりに出来た気がする
ラフマニノフがFMで流れているけど、やはり東欧系はしっくり来ないなあ
先日チャイコフスキーのバイオリン協奏曲が苦手だと書いたら、俺もそうだと言ってきた人が居たこと思い出した
バイオリニストの川井という人が展覧会の絵を日本風にアレンジしてばっくり
以前から和を感じていたと話していたけど、人によって違うんだなあと当たり前のことをいまさらながら
芸術の面白さなのかな
理系は違う面白さということか 論理は愉しい
魅入られてしまい、囚われてしまう
面倒と思う人もいるのは、それそれで当たり前のことだろう 「ゼロの発見」は今更だが面白い。
借りてきたんだが、買おうかなと思うくらいだ。
神田の古本屋外にでもいかなきゃない感じだな
近所の古本屋とかブックオフ数件に行ったが無かった ・・・廉く手に入れたいだけ
できるなら百円
ベストは交換コーナーでタダで w プランク時間でも一秒でも自然に存在すると仮定する
たとえば0.1秒に対応する三次元が存在し、0.2秒に対応する三次元が存在することとなる
どんなに小さい時間を想定しても、数は無限だから無限の三次元が存在することとなる
実在説はわたしにとって理解不能 陶磁器は土を捏ねて焼かれることによって生成される
割れて粉々になりその形態は無くなる
だが物理としては何も無くならない
ただ他の何かに成る、つまり生成する過程としてすべてがある
人もまた
無くなるのは何が無くなるのか アインシュタインの手紙で先妻が亡くなった時に時間論展開したけど
過去も現在も未来も有る奇妙なこの世界とあった
奇妙なのはあなたの理解だとは思ったりした 時間非在論は歴史的にはそう珍しいものではなく、古今東西にあると理系の方が指摘されていたな
科学番組でいろいろ紹介されていたけど、一人だけ同じ視点で非在論主張していた人がいて、うんうんと頷いたりした 山川偉也さんは誤解しているけど、科学はパルメニデスの主張、つまり点非在論を支持している。 ベルクソンはパルメニデスを批判しているがベルクソンとは同陣営だと山川さんは語る
山川さんもまた、科学はピタゴラス学派だと誤解している
自然を数で理解していることは数が自然を構成してることにはならない 対象である客体と認識する客体というところでは他者という関係では有る
しかし現実は否定としては存在しない
多、他は観念でしか存在しない
・・・面倒だな、とりあえずここまで Amazonでも1円+送料から何冊かひっかかるけどね。
交通費とか送料を考えれば新品を書店に注文するのがベター。
神保町の古書データベースではヒットせず。
ま、おれは近所のでかい古書店で買っておくかな。
電子書籍版ならいますぐにでも買えて安いよw ┈┈██░░┈██░░┈┈
┈████░████░┈ 人と人との
███████████░
███████████░
┈█████████░┈ 信頼の不況である
┈┈███████░┈┈
┈┈┈█████░ ┈
┈┈┈┈┈█░ 絶版本であっても著者の家に山積みなんてこともあるから、面識ありそうな編集者のつてをたどればタダでgetできたりw >>505
本整理段階だけど、交換コーナーでまた増えたりする w
「゛セロの発見」は面白いし、著者の数学者への揶揄が納得できたりする
やはり書店に注文するかな
秋葉、御囲地町のブックオフに無かった
今日はソプラノの歌声が心地良い
糖分ばかりでバランスが摂れなくなるなあ 運動変化を測るために定期的な運動を尺度にするということか
比較対照にはそういうものが必要だということになる
あくまでも運動量で運動量を測っている
時間の正体は運動量
時間が存在するはずも無し 秋葉近辺であれば上野の図書館が年に1回盛大にいらない本を放出する。
神田和泉町の、ちよだパークサイドプラザ区民図書室なら今も入り口に放出本が並んでいるかもしれない。
そこは大きな病院も近くにあるため、病んだ本が多くてそっち系の穴場であるw
哲学するならなぜか日本堤のほうの図書館がよろしい。山谷の近くだ。
昔は泪橋のあやしげなビルであやしげな料理をよく食べた。 情報ありがとうございます。
こちらのメイン図書館が改築とやらで本を放出すること。
地元の図書館はチョコチョコやっています。
面白そうなのをもらってはとりあえずとっておいて、数年読まなかったら元に戻しています。
八割は読まないですが。
やはり地元の書店で注文したほうが良さそうではあります。 勉強とは、その分野の定説の前提を疑うことなく受け入れて学ぶこと。
学問とは、その前提をも疑うことで、対象の合理的理解を目指すことかなあ。
守ー破ー離は学問にも言えることということでしょう。 何が原因で古書が暴落したのかなあ。
滝村さんがそんなことを書いていて、たくさん買えたと喜んでいるような叙述だったけど。
それが切っ掛けで久しぶりに、旧友と逢う機会を捉えて神田に行ったら気のせいか廉かったような気がした。
ヘーゲル全集の原書が店頭に三十万?で飾ってあってそれを眺めた学生時代を思い出す。
例の装飾文字は遠い外国と学問への憧れの象徴だったのかもしれない。
学者さんは、翻訳を読んで?と疑問に思ったら原書に当たると言っていた。
科学者たちは自分たちの成功は自然理解が正しいからだと考えている。
しかし考えてみると重力の説明ですら怪しい。
科学ですら疑問だらけの分野だし、やはり筋が通っていたら異論も認めるべきでしょう。
現に英国ではそうだとあるが、日本だと文系はもちろん理系も主流でないと学界はもちろん、在野、マスコミも中々受け容れない。
三浦さんの学説は見事に黙殺されているが、パソコンソフトの翻訳の大手で技術者が注目して仲間と研究、活用しているとある本で紹介されていた。
それはともかく、やはりブリゴジンが語るように、科学は始まっていないということでしょう。 時枝誠記さんが、資料をたくさん集めて読めば学問が出来るなんてのは怠け者の発想で、学者は大胆に仮説を立てて考えるもので、最初の仮説が正しければ、事実は後からついてくるものだとも書いている。
わたしの関心は、ゼノン、カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定が納得できる論理を探すことで、三浦さんの説明でも理解できなかった。
考えてみると、三浦さんの学問は自然科学が要求するのとは違うもので、矛盾を許す分野だった。
彼のカントの二律背反とヘーゲルの運動規定の解決、理解とビッグバン批判は一貫していないことに後年気がついた。
三浦さんの弟子筋にあたる板倉さんは、三浦さんに大きく影響されながら、三浦さんに無いものを指摘している。
また論理が静的であることを述べているが、三浦さんも社会科学の論文では、法則が静的像とか、注目すべき理解を語っている。
板倉さんもまた、運動理解において古代ギリシャ哲学者のゼノン批判と似たような過ちを犯しているように思えるが、論理のこの指摘は、後年山川さんの本を読みながら、これはゼノン解決に役立てるかもしれないと興奮したことは今でも覚えている。
振り返ってみると、その時わたしは、現在に至る自然理解のとば口に立っていた気がする。 三浦さんの「情報化社会とマルクス主義」は社会科学の論文を集めたもので、面白かった。
六十年代に流行した学者の本を、それが如何にいい加減なものかを詳細に論じていたが、時々なるほどと思ったりした箇所はあるが、本当にわたしが理解しているかというとそれは怪しいと今では思ってる。
なるほどね、という指摘に満ちていて、それにとても興奮したということかもしれない。
ある女優さんがテレビで三浦さんが批判した本を称揚していたけど、具体的には語らないので、まあそんなものだし、また三浦さんの尻馬に乗ってあれこれあげつらってもと思ったりした。
女優さんが理解していないのと同様にわたしもそう代わらないのだと思えたりした。
マルクス主義批判をある著名な外国の著者が書いているが、それはかなり前に三浦さんがそれはマルクスの主張とは正反対の理解であることを
マルクスの論文の当該箇所を挙げて指摘いたのと同じもので
少し前にその著者の理解を振り回していた人がいたので、ああ、やはり、わたしたちはそうそう自分の頭で考えないし、
また批判が正しいかどうか、ここで言えばマルクスが本当にそう言っているかは確認しないんだなと痛感した。
ここでの議論も代理戦争みたいなところがあって、自分の頭で理解しない案山子たちの争いに毛が生えた程度みたいなところがあるんじゃないかと反省している。
そういや、三浦さんのこの本は、その弟子筋の政治学者がこの本の中で展開していた制度論によって、マルクスの思想が成立しないであろうと以降展開していくことになるのは皮肉だった。 田川さんは、若手学者が資料解釈とその批判で終わっていることを指摘して
学問はそこからだと叱咤している。
一般人であるわたしたちは、資料解釈とその批判にも到達していないことはたしかでしょう。
ただし、この点をわかっていれば、案山子というか指人形も操り手を意識できて、その代理戦争性が理解でき、冷静になれるかもしれません。
・・・自分が正しいと思ったことが過ちであるということが指摘されたときは面白くはないですが。
いずれにしても自分の知識と自分の主張の性格が意識されれば少しは冷静になれるかもしれません。
人は何が正当なのかを探求するために本などを読むのですが、正しいと思ったことは身に染み付いてしまい、それが批判されたりすると、
それが正当であったとしても受け容れがたくなってしまう。 時々その人が読んでいる本がわかって、その投稿内容が引き写しでしかないものを読むと、若い時の自分と同じだと気恥ずかしい思いをします。
ある年代になってもそれをやっていると、さすがに失笑しますが。
世間的にはそこそこの大学出ている方がそれをやっていることに少しも気がついていないのは、やはりわが国の学問の伝統をしっかり引き継いでいるのでしょう。
それだったら、この本にはこう書いてあったと述べるのが良いわけです。
まあ、たぶんに、ではないですね、自己批判、いや自己言及そのものでもあります。 音楽は好きなんですが、わかりたいと思ったりしましたが、それは諦めてまさに音を楽しむというか愉しんでいるのが現在です。
クラ板に行くと、わかった気になっているだけじゃないのかなとしか思えない投稿が多い。
佐村河内事件のときは、わたしなどは楽しめないという理由だけで一線を画したが、紛い物と思ったりはしませんでした。
その曲が楽しめるものだったら、作曲が誰がしたというのは関係はないのですが、熱狂した人たちは誰それがこういったからと尻馬に乗っただけかもしれません。
そうでなかったら、それで良いんじゃないかと。
わたしなどはわかるというのを諦めて、自分が楽しめる、楽しめないというのが基準ですから、批評家の推薦でも、今のわたしには楽しめないなあというのがけっこうあります。
いずれにしても、自分の基準をもつ困難さをこの分野でも感じたりします。 音楽を長年聴いていると、受け付けなかったものがある時になると受け付けられるようになり、とても心地よく感じられてきたりする。
それから堰を切ったようにその分野に没入できたりする。
本を長い間読んでいると理解できなかったものが理解できたりすることがある。
またはなぜ理解できなかったのかがわかったりする。
この何年間かで体験したことですが、優秀な人はそれを短期間で体験するということでしょうか。 芸術理論を展開している方が、古典はその時代を理解し、またその時代から抜け出て理解しなければならなければ、本当に理解したことにならないと語ります。
マルクスは十九世紀の時代の海の中の人であり、そこが美点でもあるのだと、マルクス主義とは距離を置いた思想家は語っています。
学問もまたその世界に入り、また抜け出なければならない気がします。 >>511
そうだね
1秒という単位は運動で定義されると思う ドラローシュのレディ・ジェーン・グレイの処刑が話題になっています。
テレビ東京で絵に仕組まれたものを解説していますが、画家たちはいろいろ考えて描いていることがわかり、驚きます。
ゴッホが日本でも人気ですが、こういうのは時代が影響するんでしょう。
歌でも今週のベスト・テンがあり、年間があり、またその時代のベスト・テンがあるわけで、淘汰されて、まったく忘れられたりする。
時々忘れられた作曲家、画家が甦る例もあります。
バッハは細々と伝えられ、モーツァルトやベートーヴェンに影響を与えますが、メンデルスゾーンで一般的に知られます。
また、なんでこんな曲が?と思える曲もあったりします。
学問もまた似たような展開があったりするようです。
そういうこともあるわけですから、その時代の主流が納得できるものならともかく、ある程度は自分なりのものを根拠があれば持ったとしてもそれはそれでいいわけでしょう。 言語学史を読んだことがありますが、ある傾向と、また違うある傾向の学説の繰り返しみたいな側面が有るという指摘がありました。
言語過程説ではポール・ロワイアル文法と江戸時代の鈴木アキラという学者に注目していました。
科学でもそうですが、最先端とやらをわたしたちは歴史のトップランナーと勘違いしたりする。
その路線の延長で全てが解決すると思ったりする。
いや、本当に未だいろいろわかっていないことだらけです。
だから面白いのではありますし、また何かがわかることに貢献できたらわたしのような性向があるものにはこれ以上の悦びはありません。 >>524
日曜のサイエンス・ゼロでは、タイム・マシンを作ろうとしている科学者が登場しています。
誰かが、未来の人がわたしたちの時代にいないことがその不可能であることを証明していると言っていたことを思い出したりしました。
今日その題名の小説を借りに行きます。w アルベーンのノーベル賞受賞研究は三十年近く主流から無視されたそうです。
衛星観測でそれが実証され主流派理論はただちに一掃されたと解説されていました。
ビッグバン仮説の場合は、それを裏付ける観測とやらが、異論があり、否定できなかったりします。
あるところでその異論とかを援用して述べたりしましたが、主流派は頑として証明されているのだと主張しています。
わたしなどが理系に進んでいたら、たぶん主流派みたいに言い張るんだろうなとわが姿をみているようではありました。
古い今では顧みられない音楽を聴いていますと、やはり身に沁みていて聴き入りますが、その沁みたものはなかなか抜くことは難しく
現在の音楽にはどうも馴染めないのですが、学問の新展開もまた似たようなことかもしれません。
これは主流派、批判派ともにいえることではありますが。 「仁」のタイム・パラドックス回避の場面は、周転円でもありますが
あれはあれで面白かったりします。
「タイム・トラベラー」に熱狂した世代としてはその不可能性がわかった時は残念でした。
主人公は島田洋子さんだったかな、飛鳥美人でファンでした。
後年浅野真弓と解明されまして、ググッたら同姓同名のAV女優が出てきたりしました。
有名な歌手と結婚して離婚したそうです。 板倉聖宣さんが三浦つとむさんと話していたら、三浦さんが真理というのは単純なんだなあとしみじみ語っていたそうです。
ビッグバン論者が理論に合わない観測結果を前にして次々と周転円を考え出して複雑にしていくのを目の当たりにして
ああ、この人たちは本当に頭が良いんだなあと感嘆したりしました
正しいとは全然思いませんが 時空に関してはビッグバン論者がいろいろ奇妙なことを言っていることをフリーマンの番組でやっていたな
思考形式としてキリスト教文化圏とかは、世界の終始はついて離れないと何人か述べていた。
日本人もそういうのがあるんだろう
意識問題、人工知能問題とかやはりその地域特有の思考形式が付き纏うということか
実生活では唯物論的に考え処理してもも、霊魂信じる人は居るし。 時空観がビッグバンとかに良く現われているというこだろう
またはビッグバン前提にすると時空観もそれに規定される
いろいろ聞いていると頭痛くなるような理解が出てきて、楽しいというかなんというか 「極めて単純、極めて豊穣」
タゴールの詩の一節だそうです。
物理学の光速度一定の原理のまとめの言葉に相応しい言葉でもあります。
上手く言えるか不安ではありますが、試論として述べることにします。
この原理は、座標原点の存在否定によって、自然が無矛盾であることを示します。
そしてそのことによって、論理で理解するが、論理は実在しないことを示します。
論理は静止ですから。
対象をその否定で理解しますから、決定不能の命題が出てきます。
これは、理解する場合には否定が付き纏うからです。
その否定の実在を否定することにより自然が無矛盾であることが証明されるということは、理解の否定そのものが自然が理解できることを示します。
これこそが決定不能ということを導くわけです。
つまり自然と論理の関係はクレタ人の逆説そのものなのだということです。 まとめ 試論 その2
わたし自身は、この原理によって論理の性格と自然の在り方が確定したと理解しています。
論理で言えば、ゼノンの逆説、カント、ヘーゲルが解決される。
(クレタ人の逆説は対象をその否定で理解すると決定不能の命題が出てくることを端的に示していて、数学、自然と論理の関係がそのようなものであるから、それぞれの分野が決定不能命題を抱えることを暗示するわけです。)
科学で言えば、観測問題、不確定性原理、宇宙論、量子力学が解決される。
重力、諸力がエネルギー量に還元できる、つまりそのものは存在しないし、次元も存在しない、つまりこの原理は量子力学の自然観を導き、無矛盾であることを示していると主張します。
そして運動を否定する自然理解は有りえないという枠を示しています。 少しずつだけど進んでいるけど、できたと思ったらまた問題が出て来るんだよなあ マルクスアウレリウス皇帝は
単純であるべく忠告しています♪🌟
それ自体何か。
組成の中に於いて
原因の性格は何か。👰 今更ビッグバン?10年古いね。
今注目はマルチバース論だな。
超弦理論と重力波天文学。
これ等に依ってビッグバンは大幅に修正される事だろう。 単純なことが忘れられているのは、複雑をもって尊いと思っている人が多いからだろうな
七十年代にある著名な科学者が現代科学は不健康だと記していることを思い出した 別スレに誤って書き込んでしまったので、こちらのスレに書き込み直し。
存在と不在の間を揺れ動く波に対する干渉として消えてゆくプロセスが円環として
の時間であり、その干渉が事物の存在として捉えられる作用である。 シャカか。ゴールドクロスより シルバーメタルぐらいか。この禅寺では。
仏の姿ねえ。確かにいいかも。 自然とその理解との関係の決定不能
理解の自己言及による決定不能
それは対象が無矛盾であることにより理解可能では在るが、理解との関係で理解不能になる
対象ー対象の否定で理解可能となる 事物が既に現れていることを前提とした表現になってしまったので修正します。
存在と不在の間を揺れ動く波に対する干渉として現れ、消えてゆくプロセスが円環として
の時間であり、その干渉が事物の存在として捉えられる作用である。 >>557
無論、ここで、「存在と不在の間を揺れ動く波」が、それに対する干渉として現れる「事物
の存在として現れ、消えてゆくプロセス」よりも先に「存在する」と言うことはできない。
そうではなく、事物の存在として捉えられる作用が現れ、消えてゆくことが、干渉が
円環としての時間において現れ、消えることであり、その背景として存在と不在が
波としての性質を示すことである。 視座を確定して、という思いがあるけどね
自然は矛盾したら理解できない、というのがわたしの視座
対象が矛盾しないので決定不能の命題が出来するというのがわたしの主張 >自然は矛盾したら理解できない、というのがわたしの視座
特定され得るものは、すべて同一性を有するということでは?
逆に同一性を有さないなら、特定され得ないということ。
同一性を有さないものについては何も主張することができない。 なんというか・・・
無限の否定である有限で理解するんだが、有限の実在は否定されることによって無限が回復する
否定の否定とはそういうことだと
そのことによって、
>同一性を有さないものについては何も主張することができない。
同一性を有さないものの自然存在が、つまり実在が否定されるのだと
そして何も主張することが出来ないのはそれが無いから 光速度一定の原理は最終理論である、というのがわたしの主張 以降の量子力学、宇宙論はこれを基にして展開すれば良いだけです。
そして認識論の問題もまた、この原理で解決できるということです。 この原理は自然という存在形態が運動である対象を論理はその否定で理解していることを示している
実にこのことが不完全性定理と古代ギリシャ哲学などが提出している逆説を解く鍵だということです >同一性を有さないものについては何も主張することができない。
?理解することは理解できない、ということに繋がるかな・・・
もしかすると発展可能性があるかな、この指摘は 零の発見 460円か
百円で他の買いたい本があったので買ったけど、売れなかったら百円になるから誰も買うなと祈っている
それまで図書館ので間に合わせるが、三つの図書館すべて貸し出し中だった
少し前までゼロ件でゆうゆう借りることが出来たのに、 「ゼノン4つの逆理」は文庫本になってるんだな。
もう二十年ですか。
山川氏はゼノンが解決できないと考えているみたいだけど。
いや、先生、世界が多では出来ていないことを論証はしていますが
だから多で理解しなければならないことになるんです。
一を多で、つまり否定関係で理解するということですし、だから決定不能なのだということなのです。 相変わらず、一とか多とか、否定関係でしか理解てきないのは仮定自身だな。
世界はフラクタル構造だ。部分は全体であり、全体は部分である。
矛盾?単なる気のせいだ。
あほくさ。 それより〜の国のアリスって名乗ってしまうのはどうだろう 山川さんいろいろ書いているんだな
アリストテレス、プラトンとか、とりわけパルメニデス、ゼノンの文献というか断片を考証するのはいかに先達たちの積み重ねがあるとは言え、大変なことなんだろうなと
翻訳書に当たってみても良くわかる
新約聖書学も似たようなことをやって、なおかつ様々な人の論考を参考にするのを読んで、こんなことできるかと諦めたことを覚えている
ちなみに阿部謹也さんは一作だけという評価のようで、少なからずがっかりした
他の人は阿部さんレベルを何本も書いているとある学者が述べていた
その人の名前を挙げて欲しかったが、その方は亡くなってしまったので知ることができなくて残念
いずれにしてもやはりこちらは趣味人なんだなと思い知らされることではある 先年、チョムスキー言語学の反証になりそうな言語を話していると思われる部族?を調べようとその国に許可を得ようと申請したら
チョムスキー言語学派が妨害工作をしたという番組があって、なんじゃそりゃと呆れたが、けっきょく調査出来なかったと報じていた。
科学でもビッグバン仮説に不利な天文現象を観測発表したアープという天文学者が
十分根拠があるにもかかわらず、観測の時間割り当てをしてもらえなくなり米国からドイツに行ったということがある。
チョムスキー学派の報道で、ふとそんなことを思い出してしまったが、日本では?外が似たようなことをしている。
?外の場合は、直接人命にかかわり、かなりの陸軍兵士が犠牲になった。
さほどかように、これらのことは人間が確証バイアスとやらに冒されて、メクラになってしまう好例でしょう。
まあ、誰でも多かれ少なかれそうであることは確かでしょうが。
次元の実在を科学は繰り返し否定していますし、目に見えるそのままが真実ではないことも示しています。
そして方程式はそれがなんであるかは示さないし、また終始は仮定です。
方程式は自然をそのままには示さない。
天動説的認識論はまだまだ無くならない。 熱力学から、宇宙の死を予言したりする学説があります。
数年前に、静止は存在する、ボールを投げ上げれば頂点で静止するじゃないかと語った人がいた。
・・・でも地球そのものが動いているし。
熱力学にしても、どんな場合でもそれ運動の均衡状態でしかない。
相変わらずの天動説、天地創造説なんだなあと思ったりした。
天を見上げながら歩くので崖から落ちた古代ギリシャ哲学者に、侍女が、天ばっかりではなく足許も見てくださいと言ったという逸話が在るが、現代科学も人間の認識の仕方を示している科学革命を振り返ったほうが、と思ったりします。
いつまでビッグバン仮説のような天動説が蔓延るのでしょうか。 時間についてもそうです。
地球が静止してると仮定することは理解には必要ではあるが、静止は存在しない。
時間もまたそうです。
時間実在論は天動説でしかない。 ニュートンは最後の錬金術師だというのが現在の評価だそうです。
科学でさえ天動説から全面的に脱却していないのですから、他の学問、そしてわたしたちの諸観念は天動説的理解が付き纏っていると考えたほうが良いのでしょう。
つまりヒトの現在はブリゴジンが科学はまだ始まってもいないと言う様に、全てにおいて始まってもいないのかもしれません。 もしかすると、宗教が人間が死から免れない限り不滅なように、天動説的理解もまたそのようなものであり、不滅なのかもしれません。 科学革命は、自然は運動するエネルギーの濃淡の海であり、その生成過程に在るのがわたしたちなのだということを示している。
エネルギー保存則は何も無くならないし、また何も生まれないことを示している。
科学がその基本に立ち返るのはいつのことなのでしょう。 なによりも自然が矛盾したらわたしたちは自然を理解できない、つまり科学は成立しないのです。
終始が存在するとしたら、終わりが始まりで始りが終わりということになります。
ある物理状態の始りは違うある物理状態の死です。
わたし、という物理状態は、じつはわたしであってわたしではありません。
同一としてのわたしという物理状態などないのです。
しかし同一で理解しなければならない。
この同一で理解することそのものが終始を必要とするだけです。
物理状態というのは自然の運動過程に伴うわけです。
その運動過程で濃淡という差異が恒常として、また差異状態は変化していき、わたしたちはそれを否定関係として理解します。
この理解の在り方が生死、終始を必要とするわけです。 科学史家の研究によると、ガリレオは落下の法則という些細な発見からアリストテレス自然学を崩壊させたということです。
クーンは、ある見方からはアリストテレスの自然理解はとても合理的なのだと記しています。
現代科学もまた、ある視点の提供により止揚されるのだとわたしは思っています。
それは方程式が本質的に何を示すのかという一点から始まる。
観測結果の天動説理解が展開されているとわたしなどは考えているわけです。 科学革命の認識論的側面は未踏で、天動説は未だに覆ってはいない。 アインシュタインの若干の命題、例えば空間はそれ自身「無」
絶対的空間は存在しない♪😃
空間はただ空間の中に含まれている物体、エネルギーによって存在するに過ぎない♪
古いアリストテレス的命題の言うところも同様に、時間もまたそれ自体無しでは時間のうちに現れてる様々な出来事によって成立し
絶対的な時間は存在しない♪
絶対的な同時もまた存在しない♪
それ故、先ず、変容する存在するもののうちに
時間は存在する♪😃😹 私は、外的対象を時間に於いて
規定することを通して、はじめて
私自身を時間に於いて規定できる♪🌟👸 相対性理論はともかく、アインシュタインの時間理解、ひいては方程式理解は天動説そのものだしいうのがわたしの理解 >>580
空間も時間もそれ自体では存在しえないのでしょうかね
だとしたら絶対とはなんでしょうか? >>589
私は思考しようとする時に語らなければなりませんね♪🌟👸
その結論は、思考は根底に於いて既に誤りでしゅということです。👰 正直美魔女のはイマイチ俺もわからん
真理は単純なんだなあ、とはわたしの尊敬する学者さんが板倉さんと話していたときに呟いた言葉
わたしには、やはり哲学板の人たちも秀才ばかりのような気がしてならないけどね
本質ー構造ー現象というのがわたしの理解
本質は極めて単純なのだと思うけどね
秀才のみなさん、グース、佐藤さんが典型だけど周転円描きすぎ 柔軟さとは原則を頑固に守るために必要なことである。
−板倉聖宣 しかし九十六年に、板倉さんの指摘がゼノンの逆説を解く鍵だとわかったのは山口さんの著書のお陰だと飛び上がるほど喜んだ
それから二十年間、さまざまな壁に突き当たったけど、いつも元に戻ることで解決してきた
クレタ人の逆説は中でも一番時間を費やしたけど、これは単純な問題というか理解の本質なのだと去年気がついて手ごたえがあった
より単純に捉える努力が足りなかったんだなあ
実に四十年かかったけど、三浦ー板倉を線で解けたんで、やはりこの人たちの学問を信じてきて良かった
さてと、自分なりの仕上げをしている最中だが、構造の展開が難しい
それでもやらなきゃやってきた甲斐が無い
今年中に仕上げるつもり .>>592
ある本の中でこのことを述べた板倉さんが、「新哲学入門」では頑固さを放棄した記述をしていたのが残念だけど
同時に板倉さんが柔軟さを放棄させたな問題を解決する鍵を提供しているのは皮肉な話ではある 音楽の捧げものを聴いているけど、なんなんだろうなあ、この曲は
不思議に耳を惹きつけてやまない
特に魅力的な旋律ではないのに
どういうわけか、最初からそうだった
音楽は面白い
からきし魅力がわからなかった名曲がある時突然わかって、とても惹きいれられるものとなったりすることが何回もあった
哲学もそういうところがあるのかも知れないが、哲学はその基本が懸命に理解しようとしてできなかったらその哲学がダメだと思っている パッヘルベルのカノン、久しぶりだなあ
しかし感性も時代のものなんだろうなあ
そして時代を貫く棒のごときものがあることも否定できない
江戸時代の農民は労働歌を歌って辛い仕事を楽しくやっていたなんて記述があったけど
嫁があまりにも歌好きなので、それで離縁したなんてこともあったそうだ
そういや母が歌好きだったなあ
カラス、なぜ泣くの、と子供たちを周りにおいて歌ったりしたのはみんなの思い出
子供が七人いたんで、七つの子があるからよ、というのはそういう意味かと思ったら
七歳という説のほうが有力だそうで、それを知ったときは少し落胆した >>589
時間と空間を別々と考えるからおかしな事になる。
時間と空間は一体。各々は時空の側面に過ぎない。 「零の発見」である数学者の1=0の証明があって吉田さんが呆れていたけど、あれは何だったかな
調べてみるか わたしたちがよく目にする1=0.699・・・の証明も危ういと
数学科大学院の男が似たようなことを書いていた
無限の扱いはかなり注意が必要だと記していた
ゼノンの無限についての言葉をその時に思い出した
数学もその基礎はけっこう怪しいようだ 西洋哲学だと、ある前提から全てを導き出す感じで、その前提の有効範囲を超えて展開すると
無茶苦茶なのが出てきて面白くなる
アホの画廊とある大哲学者が哲学史で述べているが、本人も中々とんでもない結果に成ったりしている
カントは自分の論理の敷衍であり、必然のフィヒテ哲学を拒否したそうだが、健康でもあったが、その意味では不徹底でもあったのかな
あと割合と科学から受けた衝撃が大きい気がする
日本の場合は西洋哲学を「戴く」ので、あまり科学との関係が薄いのかなと勝手に思ったりする 適当 w 「科学の終焉」のホーガンの科学の諸分野紹介はそこそこ面白かったが、ブリゴジンが語るように
その視点は最悪なんじゃないかな、題名もかなり疑問ではある >>597
時間と空間は質が同じらしいねぇ✨😃
だから、時空間というもんね。👰 大物サロメがキリスト教板に帰ってきた。
冷やかしてる美魔女と世紀の対決が始まると話題になってるぞ 不完全性定理
「無限論の教室」で野矢さんは、自然科学にも大きく関与する定理と語ります。
自然科学=自然ではないんですよね。
あくまでも論理を媒介にして捉えられた自然なんです。
その論理はほかならぬ科学によってその自然存在を否定されている。
つまり自然は一であり、運動がその存在形態であるわけです。
不完全性定理は、対象をその否定で理解するという論理の性格の問題であり、なんら自然の問題ではありません。
吉永さんの本でも、わたしたちは何も理解できないのだという無茶苦茶な結論を出す人に疑義を述べられているが、それだけに終わっている。
しかし、やはり「定理」なのですから、理解できているのであり、不完全性定理自身がそのような理解に反駁しているわけです。 自己言及自体が、他であり、また自己でもあるわけです。
客体化された自己、つまり他でもあるわけです。 >>611
「癒し主救い主パート199」と「命の輝き神の家66件目」スレに美魔女さんは、おるよ。 >>615
ありがとう、あまり興味ないけど、暇があったらいってみます 科学革命は、自然は多ではなく、差異であり、一、つまりパルメニデス哲学を裏付けていると言って良い
現代科学者の多くは天動説的理解、つまり多で理解できるから自然は多だというピタゴラス派である
多で理解するのだが、自然は一、つまり対象をわたしたちはその否定で理解している
どこまでもクレタ人の逆説はつきまとう
生物分類で分類しがたい対象が出てくるのは、分類するから
決定不能の問題もまた理解するからであり、分類同様なんら対象の問題ではなく、それを分類、理解するからということです 決定不能
対象をその否定、科学では運動を静止で理解する
つまり無限を有限で、このことは一を多で理解することとなります。
そのことをゼノンは「飛ぶ矢の逆説」で示している
この逆説は運動を静止で理解するということの自己言及です
一を多で理解する、このことの自己言及ですから、一をその否定で理解するのであり、クレタ人の逆説、つまり決定不能であるわけです
(一 多)←この関係の自己言及 つまり理解は多であることが本質、つまり、一、多の二つで、多なのです
だから決定不能ということです
運動 静止 この関係の自己言及 存在すると同時に存在しないこと つまり決定不能です 一番意見を聴きたい人が出てこないなあ
秩じゃなくて、読みを思い出せば
秩とかいうコテの人だったかな それは否定しているわけではない
それが理解されていないからなあ 違い言い方で繰り返し語っているのだが
そういう時は逃げたくなる w ヘーゲルの精神の現象学の序文にそれは述べられている
そんなに長くないから、中公の世界の名著シリーズ借りてきて読むことをお勧めする ヘーゲル哲学はやはりギリシャ哲学、なかんづくプラトン哲学が基礎らしい
それと唯物論的パルメニデスの折衷的なところがある
唯物論的なのはやはりニュートン力学の衝撃だろうと憶測している
ドイツ古典哲学がやはり科学の勃興で、それにどう対応していくかで生まれたんじゃないかと
プラトン的なところはマルクスが揶揄していたりする小論が新潮社の撰集に収められていて、面白かった記憶がある 時々、そんなことを言っているわけじゃあないという理解に出くわすことがある
その時はやはりけっこう失望したりする ヘーゲルの運動規定が、理解の本質をも示していることを知ったのは最近
三浦さんが言う、弁証法とは決定不能が大きく係わることだった
しかしやはりヘーゲルは大哲学者なんだなあ
否定の否定は、対象をその否定で理解し、そしてまたその理解を否定する
これは静止で理解し、その実在がまた否定され、地動説、つまり理解する立場の否定となる
止揚もまた天動説の観測を地動説に翻訳することから考えられた概念だろう
現代科学もまた天動説であるから、地動説的に翻訳されなければならない 映画のフィルムを考えてみる
一秒間八コマとか数千コマとかあるがそれに対応する画像が存在するということになる
時間が存在するとなると今には幅が無いことにる
どんな時間の単位でも無限でできているから、それに対応する三次元もまた無限に存在することとなる
つまりゼロ次元が存在せず理解の媒介であり、また諸次元どうように四次元、時間も単なる理解の媒介でしかない
ナイナイ尽くしの次元が自然に存在するという主張は正気の沙汰ではない 書き方間違えた
今には幅が無いし、時間が存在するとなると幅が無いものの集合になる 今には幅が無いし、時間が存在するとなると幅が無いものの集合になる・・・ですか
時間は今の集合だと考えているわけですね 金太郎飴を考えてみる
金太郎飴の全体は立体
断面は平面
断面は金太郎飴の属性ではあるけれど
金太郎飴が断面の集合として定義されるかといえば
違うように思う
何とも言えんけど 数学上の定義では一次元はゼロ次元の集合でしょう
二次元は一次元、三次元は二次元の集合
数学の定義と現実は違うと言っているだけ 今の集合=時間 とした場合のアナロジーとして
断面の集合=金太郎飴 を提示してみたのですが
そもそもこの場合、金太郎飴に対応するのは「時空間」であって
時間ではなかった
だから「今の集合=時間」という理解もおかしい・・と思います 座標原点はこの自然のどこにも存在しないけど
理解には必要なわけ
理解に必要な座標原点が存在すると言っているのが天動説
次元は理解に必要だが存在するわけでは無いというのが地動説の認識論としての側面 時間は四次元
論理的展開としたら、三次元の集合が四次元
座標原点に存在する三次元
一秒後に存在する三次元
0から1秒の間は無限、いやどんなに短くともその間は無限
時間があるとしたら、この世界には無限のわたしと自然が存在する
0秒に対応する今、1秒、そしてその間隔に対応する今
今というのは運動の異称ではあるが
現在まとめているので、とりあえずここまで 自然を理解するために必要な概念、その概念に呼応する「存在性」が
問題になるわけだけれど
たとえば、心霊の存在性に対する原子の存在性を考えてみる
その違いは問題とできて、それは普遍性とか、証拠の確かさとか
そういったところで議論することになる
むしろそれしかできない 次元で考えるなら
四次元に対応するのは時空間
時間はそのうちの一次元でしかない >>644
科学の結論は、自然は運動するエネルギーの濃淡の海
それでしかない
運動はその否定の静止で理解される
この理解の在り方が次元を必要とする
次元なんてのは自然に存在するわけでは無い
時間は運動を量で理解するしかないから必要な次元
皆さん秀才すぎて単純に考えられなくなっている w
理解の在り方が逆説、科学の難問を出来させるだけ
全ては運動する自然から説明されるべきというのがわたしの主張
いろいろ野暮用があるので、ここまで 過程ちんは絶対座標の否定が根拠だからね
それが崩せない限り撤回しないさ w 絶対座標を否定して相対座標とするなら
座標の存在をむしろ強化するようなものでしょう
いろいろな座標があることになるから 太陽が一つしかない世界
太陽と同じようなものがいくつもあると知られた世界
宇宙に太陽が存在する世界はどちら? >>650
あらあら
そりゃ相手にしたくはないだろうな
俺も裸足で逃げたくなる いけね、条件反射だから間違えた
考えないで良い程度だからね
>>651はもう出てこないほうが良いな
>>653
おかまのアリスだろうな アリスもたいがいやが過程の姑息さには失笑するしかない 説明してくれるかな
したくないだろうな
だって自分の言っていることがわからない奴らに何を言っても w
おいらも逃げることにする >>649
あらぁ・・・
面白いなあ、理数系スレにでも行ってみればいい
いやはやとしか言いようがない 883 名前:ご冗談でしょう?名無しさん[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 16:31:12.81 ID:???
絶対座標を否定して相対座標を考えるとき
これは座標の存在をむしろ強化すると思う
「さまざまな座標がある」ということになるから
884 名前:ご冗談でしょう?名無しさん[sage] 投稿日:2017/11/17(金) 16:31:55.10 ID:???
座標は明らかに存在しますよね(笑) まあ例えば、地球に赤道は存在するか、てな話をするとして、
それが存在すると思ってる人も、地面や海面に赤い線が引いてあるとは
思ってないでしょ、普通は
過程ちんの言っている「座標原点は存在しない」というのは、そのレベルのことでしょ
素朴なんですよ 赤道には線が引いてある。
黄色が多いように感じる。
赤もあるようだが、赤道というのは中国での表記である。
ただし、観光地限定。
その昔、日本にも赤線... 赤道が在るって事は、地球の公転軌道が安定してるって事でしかないな。
でも、座標の原点には別に大した意味は無い。便宜的な単なる基準点であり、他の点と何も変わらない。
科学的な次元は、三次元空間、四次元時空、10次元カラビヤウ構造体とか言われているのは、この世界の構造を理解する為の概念でしかない。
元々座標は人間が理解するための発明であり、実在しないのは当たり前。
だから科学は間違っているなんて批判はバカとしか言いようが無い。 >>668
まあそうだな
過程とアリスは仲良くゴミ箱へ行け 2ちゃんにはゴミしかいないということか
仲良くしようぜご同輩 石ころの座標も自然現象で存在しておりますみたいなこと?
認識する必要性によって自然現象が発生しているわけではありません。
つまり必要性の有無に関係なく時間運動は実在する? >>678 が理解しているようなことを言っている投稿はあるのかな? ___
/∵∴∵\
/≼☉≽∴≼ⓞ≽\
│. ,,ノ( ● )ヽ、 │
\ "ー=💩=-.'`./ がらがらがぼがらエズオ
/ ̄ヽ - `ー、 ドッコリ〜モナ〜ワラウム返し
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i ノ : i i
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( 〈 . / /.
\ `\ |ヽ |
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ヽ `´ ノ
/ ∪ /
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│ "ー=💩=-'` │ これが時間じゃよ
│-=☉=-∴-=ⓞ=-│
\______/ 南無阿弥陀仏×悪霊では勝負はついたな。聖書の方も苦戦してたのに。 >>684
>人でいる間=時間
理解がいろいろできる
こちらの方に引き寄せて、だけど
なかなかの定義のような気がしてきた 睡眠中の夢の中では
人でいる間=時間 は解体されるよね
意識や感覚や記憶、感情などはあるが
通常時の「人」ではなくなってて時間も解体される
そして起きれば通常時の感覚という「夢」が始まる 時間は物が変化するのを見て作り出された概念です
過去、未来は観念的であり移り変わる今があるだけです
過去を映した映像記録は過去を映した現在です
記憶に執着したり、その思い出を共有したり、裁判、映画など現実的な事柄において役に立つでしょう
執着は単なる心の働きでそれ自体は良いとも悪いとも言えませんが
自分と自分の周りに不和を起こすようなものであれば
その害は理解するべきでしょう
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1506755630/424 動物は人の通常時と睡眠時の間のような感覚で生きているのかもしれない。
空間認識はかなりしっかりありつつ、時間認識や人間のような自我認識はないような状態。
しかし人の夢の中のように、意識や感情や人(飼い主)との触れあいの記憶などはあるのだろう。 植物の場合は人のノンレム睡眠のような状態か。
意識はないが、栄養吸収とか光合成とかは滞りなく行われてる。
人で言えば深い眠りに落ちてて
意識がなくても
心臓は動き呼吸は維持され消化吸収も動いてる状態。 現に在るのは運動する自然
物が運動変化するのを直接捉えることはできず、運動を量で理解するのが時間
つまり時間は運動量という、理解するための観念の中にしか存在しないということ 少しだけ、わかりやすい時間の説明ができる・・・かも 私たちは人なので人を例えとして説明してもらえるのは分かりやすくて有り難い。だけど気をつけないと大事なことを見落としてしまう気がする。 「変化する今があるだけ」が実態なんだろう。
実態だからこそ「(過去や未来を思い患ってばかりいないで)今ここをしっかり生きる」ということには実践力がある。
もし人間が絶滅したら
「変化する今があるだけ」はよりはっかりとする世界になるだろうな。
(元々動物にとっては人間がいてもそれが当たり前) 「大事」という感覚、気持ちこそ人間の思いに過ぎないわけで 科学革命は認識主体を認識する対象の一部であることを示す
三浦つとむさんは、表現分野である絵画を例にとって表現の特徴を論じている。
風景画は描く対象とともに、描く主体である画家がどこから描いているかを示している。
印象派絵画は、画家であるわたしは対象である風景、人物をこのように感じたという、主体が出てきて、写実とは離れていく。
ついには描く画家自体の感覚、意識そのものを描くことになるし、抽象画もその展開となる。
音楽も文芸も、表現対象が自己自身になっていくのは同じです。
言語では、本、鉛筆と表現しますが、それらを認識し表現する主体は示されないが、表現には含まれています。
これとは逆に、間投詞である「あっ!」と驚いた場合、火事であれ、対象は表現には直接含まれませんが、表現には含まれます。
美しいという形容詞は対象に対して表現主体が感じたことを示したものです。
つまり表現には常に対象と認識主体がつきまといます。
自然認識の場合も認識主体はつきまといます。
わたしたちは天体観測をする場合に、地球が静止すると仮定します。
天動説はこの静止、座標原点が実在するという理解で展開しました。
地動説は、この座標原点の実在を否定しますが、それは天体観測には必要なことは否定しません。
進化論もまた生物の生成変化の過程を認識しますが、その主体である人間もまた人間の一部であることを示します。
つまり認識対象である動物なのだということを示します。
地動説もまた地球も認識対象である天体の一部であり、主体は進化論同様に対象に解消されます。
光速度一定の原理は、この自然のどこにも座標原点はが実在しないことを示しますが、対象である自然の運動を理解するために座標原点が必要であることは否定しません。
科学革命は、認識する側が認識する対象に解消されることを意味します。
自然は無矛盾で理解されるのだと科学革命は示します。 一行目訂正
科学革命は認識主体が認識する対象の一部であることを示す 根本からどうにかしないとね
せめてコテくらい名乗れよと言いたいが、それもできないくらいに自信がないんだろうなあ コテで主張するほどのことを書く必要がないとも言える 情報が
因果が
絡み合って複雑になってゆく複雑度の変化のありよう、
未来とは過去の情報の組み合わせであっても過去は未来の組み合わせではない、
こんな明らかなことすらわからないお前ら > 情報が
> 因果が
> 過去は
> 未来の
明らかに単なる観念 時間は原子時計で正確に出る。原子内電子が光子を受け取り、励起して軌道を上げ、
光子を出して、基底の軌道に落ちるまでの時間が、正確に一定だからである。
そこには量子的正確さから出る時間がある。
最近では、光速の光子を正確に観測できる様になったので、
光子を観測してより正確な時間がわかる。光速度は正確に一定なので、
進んだ距離が計測できれば、その時の時間が出るのである。
底には特殊相対論的正確さから出る時間がある。時間も光の神に従う。 横レスだが
正確に出る=数学的に辻褄が合う。
っていうだけのことじゃないの? 物理的な時間にも実態など無いよ対象の推移や経過を観察的に検証する為の概念にすぎない 970 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:10:06.64 0
今の借金いくらなん?
971 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:15:21.43 0
450万くらいだね。
親には、ほぼ頼ってない。
974 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:20:57.29 0
450万の借金て相当だよ
どうやって返すつもりなん?
もしかして奨学金なのか
975 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:23:23.73 0
>>974
消費者金融
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1509417474/960- 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) ズンドコベロンチョ(ずんどこべろんちょあるいはズンドコベロンチョ 英:ZundokoVeronCho)はシナジーによる熱伝導が作用したオポチュニティーともいえる。
すべてのフレームワークに適応可能なディストリビューションとナレッジマネジメントを最適なソリューションとしてデリバティブし、
そのエビデンスをβ崩壊させエスティメートと認識されるとする。ズンドコベロンチョ以外のズンドコベロンチョについては後述する節ズンドコベロンチョを参照のこと。
目次
1 概要
2 ズンドコベロンチョの構造と機能
2.1 ズンドコベロンチョと酸素・二酸化炭素輸送
2.1.1 ズンドコベロンチョの酸素親和性の調節
2.2 ズンドコベロンチョ細胞膜
2.2.1 ズンドコ二重層
2.2.1.1 ズンドコラフト(Liqid Raft)
ズンドコ骨格 年末ジャンボ宝くじを15000円分買って来ました❗当たったら皆さんに100万円配りますので私の味方になりなさい⭐😄 宝くじって寺銭が大きい
FXとかでランダムに賭けて勝負するほうがマシという
ゼロサムゲームも以下
何の予想する手立てもない
神頼みのみ >>730
自然自体にはなぜが無いということじゃね?
運動とは先験的というか、前提として在るだけで・・・
どういう意味で先験的としているのはレスした人が答えるべきだけど
横からだとそう理解できる 「なぜが無い」とか「先験的である」ということを納得させられるだけの説に哲学があるんだろうね 自然は外部を持たないことに起因するんじゃないかと 適当
いまは予想段階で断言できないからこれだけ 認識には対象とそれを理解する立場が必要になる
その場合対象を前提にして、その否定で理解するから、内部では決定不能になる
運動とは?というのも外部を持たないので決定不能になり、先験的というか前提ということになる
前提っていうのは、仮にこうしましょうね、ということでそのことに理由は無い
運動の場合は、科学が自然の存在形態であることを示していて、無矛盾で理解可能になるが、運動自体は決定不能、つまり理解できない
今のところは、こんな風に考えているが、うーん、これで良いのかなと思ったりする 弁証法の矛盾ってのは、けっきょく決定不能ということでしょう 存在そのものが対象の「規定」
つまり存在という規定は認識主体が張り付いている
存在が静止であること飛ぶ矢の逆説が示している 山川偉也氏は、科学が点存在論に基づいていると理解しているが、誤解としか言いようが無い
点で理解するが、点は実在しないことを地動説と光速度一定の原理は語る 鳥を鳥もちで捕らえるが、鳥もちを放したら鳥は飛び去る
鳥は対象、取り持ちは理解の在り方
表現には常に主体が張り付いている
運動理解もまた認識主体が張り付いている 科学革命は認識主体の実在を否定する
理論はあくまでも人間のものであり、自然には実在しない 認識主体は自然の一部であることとなる
科学革命は自己言及という側面を持つ >>736
その説だと仮定したとしても外部を持たないではなく外部が無いが適切では?
持つ持たないだと自然が外部意識を持たない意思を髣髴とさせる。 根本的に自然自体に外部が無い前提だと、人も自然自体に部分実在してる時点で
自然発生的にわざわざ自然を認識したことの辻褄合わせに
鳥と鳥餅のような原理だけでは矛盾が解けないから無理あるかもね 対象をその否定で理解する
運動ー静止
静止は自然に存在しない
ここでは静止は鳥もちになるのか
この場合の鳥もちは実在しないけど 光速度一定の原理は鳥もちである座標原点を否定することによって自然が無矛盾であることを証明した 対象である運動する自然 − 認識媒介である静止 自然には存在しない
運動というところでは無矛盾は保たれる 関係ないのだが
と学会のコンノ・ケンイチ氏批判で、例の宇宙論の風船の喩えをコンノ氏は理解できないと嘲笑していた
これを読んで、ニュートンの重力の説明に納得できなかったライプニッツの批判を思い出した
コンノ氏がライプニッツということではないのだが、今読むとニュートンのそれは魔術だというライプニッツの理解は正しいように思える
もっともらしい説明に絡め取られているのはと学会なんじゃないのかなと
学問はわからないことではあるが、とりあえず後回しにしてやっていくということにしないと進まないことはたしかだし
現状の科学をみていると、とりあえずこうしましょう、というところが今問われていて、それを等閑に付しているからこの状況なんじゃないかと
ある数学者は学問の大きな進展は最先端ではなく、引き戻ることから生まれることが多いと語っている コンノさんは実験事実否定している点でアウトなんだが、それでも面白い視点は提供している
ファイアアーベントは、科学は何でもありでいかないとと書いていた
だれもが全部間違えるわけでもないし、また正しいということも無いと思うけどね
問題意識を掬えないという点でと学会もまたアウトなんじゃないかな
茂木、竹内両氏はありゃ受験科学だと言っていたが、納得できる指摘 なるほど w
709 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 10:45:34.56 0
>>707
コペルニクス的転回とは古いな
710 名前:自然過程説 ◆/Pbzx9FKd2 [sage] 投稿日:2017/12/06(水) 11:59:43.49 0
古い新しいが基準とは、これまた古いなあ 理解できないと理解できるということは、理解できるということ 合理的に考えれば、無矛盾であればなにも変化する理由はない。
宇宙が存在する理由もない。 対象である自然に運動変化しないなにものもないのなら無矛盾 酒か
もう良いや
一回だけ飛び切り美味い日本酒呑んだことがある
惰性で呑んでいたけど、あれ以上のは望めないかなと思っている
体調とか、いろんなことがあるんだろうな
コーヒーはまだだけど、玉露でめちゃくちゃ美味しいのを母が淹れてくれて以来茶のみ
舌を転がっていくのが実感できて感動してしまった
味わうことなく飲んでいたんだが、最初の一口で驚いてその一杯をかみ締めるように大切に飲んだ
その母はコーヒーが大好きだった 合理的に考えれば、無矛盾であればなにも変化する理由はない。
自己同一性を持つ理由もない。
すなわちすべてのものが変化するのであれば変化しないということと等価である。
>>764
ありがとう。やっと解をみつけだせました。
この宇宙、自然は矛盾から成り立っており、その矛盾とは「自己同一性」である。
パンドラのルビン。パンドラ構造体(ルビン)とは自己同一性である。
最初、たったひとつか多くても数個の核からなるのではないかと考えていましたが、
無数の核でした。
つまり、宇宙は、自然は、矛盾に満ちている。矛盾から成り立っているということです。
圏論とつながったように思います。
パンドラのルビン、あるいはパンドラ構造体、あるいはパンドラの箱であり、
あるいはウロボロスです。それは「ループ」ですね。 それに、「無」というものの概念も更新できたと思います。
なにもない、とは自己同一性が無いということです。
しかも、うれしいことに「無」から「有」が生み出される原理も、消失する理由も、単純に説明できるわけです。
「矛盾」という概念も更新されたと思います。
フランク・ティプラーのオメガ点は、最初からオメガ点にあり、オメガ点しかないと考えることもでき、
この世界そのものが仮想世界であるということがすなおに説明できてしまいます。
仏教は、最初から、それを唱えていた。
そのルーツははたして印度哲学にあるのか? 仏教関係者なのか?
自己同一性=煩悩=矛盾 補足すれば、
フランク・ティプラーのオメガ点の元ネタはピエール・テイヤール・ド・シャルダンのオメガ点であり、
叡智の究極点であり、未来のキリストであり、キリスト教的救済ポイントである。
仏教は最初からオメガ点にいる!
ただ、日本に入ってきた仏教にはいろいろなものが取り込まれており、それがいつどこで取り込まれたものなのか、そこが問題だ。
東京堂書店にでもいって立ち読みしてきたいところだが、東京にいないので図書館に行くしかない。
でも寒いので酒のみながらネット検索か。 なるほど、そこが間違いのもとだったのですね。
「矛盾」の定義、そこが違っていた。
「矛盾」とは「存在」のことである。そのように考えています。
そもそもの哲学の基本的問題となるすべては「矛盾」であり、
哲学とは「煩悩の学問」である。
そのようなスタンスから始めています。
知り合いの、中村元の孫弟子が寺にこもっていなければ彼と議論したいところだ。
彼が卒業論文を書いているときに、自己同一性という問題に気づいていればそれを調査してもらえてたのに、残念。 RAID構成が確保されているようであれば運用中のシステムの一部がダウンし
たとしても は、宇宙はRAID構成なんですかー。
RAIDは故障したときに交換するところでデータを破壊してしまうことが多い。
ちゃんと交換手順のマニュアルつくっとけー。
RAID宇宙ってのは考えてもなかった。それはとてもとてもおもしろい。
ContradictionとParadoxを混同しているのはとても悲しい。 絶対矛盾的自己同一
定義はされていない。
わたしは「存在」としたが、西田は「現在」あるいは「現実」としているようだ。
ここは「存在」では幅広すぎるので「現在」または「いまここ」にすべきなのだろう。
自己同一性という矛盾を追いかけていたが、今日は西田にたどり着いたところで力尽きたw ガッツ石松さんは急いでる時は必ず電車の一番前に乗る。👰 スポーツ、芸能関係の大物はけっこう面白い存在だけどね
ガッツさんの物事に取り組む姿勢は参考にする
橋田スガコさんは褒めていたりする それはともかく
時間は自然を理解するための次元で、自然には実在しない
人間がいてもいなくても実在しない
ゼロ次元が実在するというのなら科学が示した事実に反する
そして数学の、0×∞=0という前提にも背反する
よって時間は実在しない >>777
おまえ馬鹿だろ、数学は自然説明などしない、方程式を証明するだけな、
おまえの低脳さが数学が現実を説明しているように錯覚しているだけ 数で自然の運動量を理解していると言っているのだが?
説明しているとどこに書いてあるのかな? .>>779 は良いこと言っている
そう、数学は自然を説明しない
よってホーキング、ワインバークがいうような最終方程式を手に入れたとしても何も説明しない
まあ最終方程式自体があやしいが
彼らはハイゼンベルクが語るように方程式で不確定性原理、観測問題を覆い隠そうとしているだけだ 科学は次元の実在を否定する
そのことは終始、つまり有限などどこにも無いということも示す
時間もまた次元であるから実在しないことは言をまたない ポーの「盗まれた手紙」でデュパンは数学者の数学理解において面白い批判を展開していたな
三浦つとむが言及していて、また「弁証法はどういう科学か」でも数の性格について述べていた
数は数言語とある著者の見解を支持していたが、デュパンの批判の意味を解説していた論文があったが
なんの論文か忘れてしまった
いずれにしても、わたしはハイゼンベルクのこの見解は支持できる ホーキングは観測問題を考えるとピストルに手が伸びると語っている
つまり説明できないということの告白 現代科学者はピタゴラス思想を片付けていない
わたしの今までのを読んでもらえばわかるが、時々不用意に書いていることがあるな
わたしはヒタゴラスの数で自然はできていることを否定する
この辺は今書いているものを点検して誤解されないように書き換えるつもりだ
その意味では批判に感謝したい 方程式は直接の形で自然を理解しない
現代物理学がそれで済まそうとしているのでハイゼンベルクは批判した
まあ下請けということになるのかな
本質ー構造ー現象というのは武谷さんの三段階理論
数式は本質でないことは確か 上にもあるが、矛盾の定義が違っていたんで話が噛み合わなかった
理数系と議論したときに、そのことを指摘され、理数系の定義に合わせたら議論がスムーズになっていったことがあったな
いろいろ違う定義でやっていることが大きな問題なんだろう
理数系では一人優れた行司役がいたんだが、ここには居ないということかも しかし、無を無限に集めても無にしかならないだろうよ
このことを否定した人を寡聞にしてわたしは知らない
ここで初めてお目にかかって、それが衝撃ではある 思い出した
どっかでハイゼンベルクの指摘を肯定的に紹介したことがあったな
むろんその自然理解は否定したけど
誤解されるような書きかたしていることは否定できないが 批判は傾聴するものだなあ
たしかに未分化ではあったんだろうな
本質は対象をその否定で理解する
その否定にも段階というか、それで直接対応関係に無いものを対応させていると言われてもしょうがない書き方をしている
ただ、そのことを否定しているのはある
少し深化できたのが嬉しい
そういや、板倉さんの微積分の説明をわたしの理解が明確にしていることに気がつかせてくれたのもここでのある人の指摘
ふと技術と技能の連関と区別をした南郷継正さんの業績を思い出した
南郷さんは板倉さんの画期的な授業方式が技能という観点が無いことを指摘したが
板倉さんがこの批判を受け容れなかった
この点は南郷さんが正しいと思ったが、板倉さんのそれが発展しなかったのはこのことにも原因があるような
いずれにしても、自分だけでは限界があり、批判にも根拠が有り、それを踏まえなきゃいけないということだな
言い方はともかく、少し前進させてくれた批判には感謝する アインシュタイン・ロマンをまた見ているんだが、前よりも理解が深まった気がしている
その中でアインシュタインの常識についての理解が面白かった
やはり今からみても秀逸というか、やはり違うんだなと思えた
相対性理論が出来る前の仲間たちの批判は今でもみんなやりそうなそれで
そういう意味では人間なかなか進展しないもんだなと痛感した 時間は確かにないと思うがそもそも数も無いぞ
数は便利で簡単だがただの概念でしかない
妄想と同じ 無を無限に集めても無にしかならない
ですか。
素朴でいいですねー。
でも哲学的にはoutです。 近日点の話が方程式の性格を語っていたな
これで行くかな
光と重力の関係の話だが ?理数系ではOUTと言われたことは無いけどな
おれのは理数系のが前提 そう、数は無いことはわたしの理解の前提
・・・なんか誤解の深淵が w 哲学だけではなく数学的にもoutですよ。
古典的ですらなく素朴であれば特に問題はありませんけどね。
無にも無限にも集めるにもいろいろあるんです。
そこをはっきりさせて厳密に扱わねばならない。
でなければ不完全定理におけるω矛盾のような議論はでてこない。
なんたって21世紀なんですから。
だからこそ「素朴」という問題も厳密に取り扱いたい。
せめて選択公理ぐらいは知っておくべき。
数学すらも、この世界の原理から逃れられないとすれば、「無」という概念もそう簡単にはとらえられるものではない。
ノイマンの定義では自然数も0の集まりですしw もちろん素朴な「無」とは違うものですけどね。 自然における「無」とは「無矛盾」のことであり、
「有」である限り「矛盾」がある。
その「矛盾」によって動的な自然が形成されている。
ここでいう「矛盾」は自然の体系の中にはない。
しかし、この「矛盾」がなければ自然は無矛盾を維持できない。
(参考:不完全性定理。あるいはクトゥルフ神話体系) うん、やはり他者との議論というか煽りは必要だな
昨日は二箇所、一つは未分化、一つはけっこう重要なブレークスルーができた
無は実在しないが、存在する
これで、重要な難所が上手く説明できそうだ >ノイマンの定義では自然数も0の集まりですし
うん、ですから自然数は実在しない ヘーゲルの鳥と鳥もちの関係でもあります
無、数は自然には実在しないが、観念には存在する ゼノンの逆説は、数は自然には実在しない、するとしたらこうなりますよ、ということを示した
飛ぶ矢の逆説では、点、大きさの無い数が実在すると運動は不可能であることを示している
徹頭徹尾ピタゴラス学派の数、点実在説を否定したのがこの逆説
科学もまた光速度一定の原理で、点の実在、つまり数の実在を否定する
数、無は頭の中にしか存在しないということ
というかやはり理解するつもり以前に読んでもいないような
まあそれでいろいろこちらも進展することもあるから、良い面も有ると言えばあったりする w 難所が乗り越えられたんで、昨夜はリラックスできる邦楽の女性歌手のアルバムを聴きながら安眠できた
長期間考えていたんで、小骨が取れた感じだ
今もその女性歌手のを聴きながら w そういや以前理系の人の基本的な指摘があって、それは書いているじゃんと無視したんだが
掘り下げたほうが良かったんだなと後年反省したことがあった
意外と理解していない人の指摘もブレークスルーになることがあり、今回もその一つということか 基本これで互いに深め合えれば良いんだけど、なかなかそういうわけには行かないみたいだな 先月の新渡戸稲造の教養とは何かの探求は参考になった
その一つに耳を傾け相手を理解することの重要性があった
新渡戸は納豆売りの女の平凡の中の非凡さに感銘を受けている
三浦つとむは科学史家板倉聖宣氏との対話で、真理は単純なんだなあとつくづく言っていたと伝えられている
単純素朴というのは実に重要であり、非凡は平凡から生まれるという指摘は重要だろう
これらのことが学問を実践し独創的な人たちから指摘されてれいるのも興味深く
単純を否定する人たちが批評家であったりする
そういやアインシュタインは自然は単純なんだということを指摘している って、まあ読んでくれないし、読んでも理解するつもりは無く粗捜しに終始するんだろうな w 今朝は気分が晴れやかです
ある人に読んでもらうために書いていたんですが、煽ってくれたお陰で上手く説明できる箇所が二つもできました
マジで感謝します 哲学は火で鍛えられる、とかいう言葉かありましたな
理系スレで三年くらい鍛えられ、基礎が固まりました
2ちゃんの理数系板でも、数年前重要な指摘を受けましたが、その人は生成説は肯定的でした
ここでは細部が固まりそうですし、なによりも某氏の指摘は目が覚めたというか啓蒙されました
これでやってみますか
上手く行かなくなったら、またどこかで煽られたら良いかもしれません w 理解するつもりの無い人たちを愚痴ってもしょうがないですね
それが人間であり、社会なのでしょう
それを前提にしなければならない
この前提は忘れちゃいけないけど、忘れるんだろうなあ w ビッグバン仮説支持者は点が実在しているとしているが、そのことにも気がついていないんだろうなあ
それは天動説の末裔なんだけどね
時間実在説支持者もまた
じゃ、小論を書きますので
たぶんまたどこでわたしが語っているかを理解していないレスになるんでしょうね
ブレークスルーになりそうなのがあるかもしれませんから、また覗きにきます
誤解による批判も無視できない
新渡戸さんは偉大だな わたしのところは良い天気です
わたしの気持ちも晴れやかです そうそう、ここで主張されていることを理数系スレでやってみることをお勧めします
理系のほうが話が通じるかな
とくにノイマンさん w
わたしは二十年近くやっていますし、専門科卒でも否定されたことがありませんし
数年前もわたしの論に反対の人も、それだけは否定しませんでした 時間の使い方によって、生き方の考え方によって、心の内なる悟徳の光灯生活の生き方
の時間となるか、天国の心の光明の無灯生活の生き方の時間となるか、穢れる暗闇の生
き方の時間となるかは、何を優先順位の一位にするかによって、それぞれの心の選択の
生活の生き方の時間の使い方の違いになると思います。
偽物の高いプライドのある方は、穢れる暗闇の生き方の人に、偽物の高いプライドへの実
の無いカラの時間の使い方をする人は、高貴なる精神の真実の観方を放棄し、自分に都合
のよい、肉の目の見え方で偽物の見え方を優先順位の一位に置く方は多いのであります。
この世の自分にとって都合のよい見え方を重視するあまり、真実に生きている崇高な精神の
悟徳の方を卑下して、いじめたりすることは、上記の偽物の高いプライドを満すべく実の無い
カラの時間の使い方をする方で、穢れることを恥じと思わない人あることを知覚して反省する
ことが大切となります。 「存在」とは対象になれるということであり、自己射を持つということである。
「実在」における「現実」というものは考えない。先送りする。
「存在」しないという「存在」は「無」であり、自己射を持つことで「存在」する。
そう考えたとき、はたして自己射を持たない「存在」のようなものは語れるのか。
語ってしまうと「存在」してしまい、それは「煩悩」になる。
真に語れないもの。気づくことすら不可能なもの。それが真の「無」であろうが、
そのように語ってしまうことで「存在」になってしまう。
語れないものを語らずに捕らえる。それが問題だ。 >>826
我は存在しますか? 数学は存在しますか? ここでいう「語る」とは人間が「語る」わけではない。
「関係」することであり、粒子の交換でもある。
「存在」とは自己射を持つことであるが、人間が介在してしまうと他力的な「存在」もできてしまう。
しかし、人間が考えることなのだからすべては他力であるともいえてしまう。
そこは棚上げせざるをえない。
人間をみえないことにして、自己射を持つ対象を主体として、そこに構築される宇宙を考える。
不完全性定理は、完全なる他力宇宙をあらわしているのかもしれない。そんな考えも浮かんだ。
絶対矛盾的宇宙(あるいは自然)。
無矛盾を保つために必要となる「矛盾」。宇宙という体系の中には組み入れることができないのに宇宙という体系の中に普遍に「*存在」する。(マークつきの存在はさらに考察が必要だ) 「科学的」が邪魔してないか?科学遊びがしたいならそれでもいいが真実を求めたいなら感じろ 自然に対し否定というトリモチを使用。で、急激に膨張する理解度。
って、否定をどうしても通過させざるを得ないプロセスという点が、
アナロジーとして、真空の揺らぎからのインフレーションで
ビッグバンというプロセスに似ているのではないか。 科学という自然認識は鳥もち、つまり否定としての静止、点が必要です
科学革命は、その鳥もちが実在しないことを指摘します
それはあくまでも否定としての鳥もち、媒介でしかないことを示したのです
ゼノン、ひいてはその師であるパルメニデスの世界観の支持、裏づけです
ピタゴラス学派の世界観は否定されますが、理解に必要であることは否定しません
座標原点としての点は有限、つまり終始が前提となります カントの二律背反は、自然は無限であり、それをわたしたちは終始、有限を前提に理解しなければならないということです
科学革命、なかんづく光速度一定の原理はパルメニデス哲学である数の実在の否定を裏づけ、証明したのです 点実在説は世界が粒子、つまり最小単位実在説でもあります
ここからここまで、つまり有限が実在するという主張でもあります
アインシュタイン・ロマンの第四回は始りについてのアポリアを語っています
「此処」としての点、静止は自然においては運動の均衡としてあると
ライプニッツは指摘します。
点は運動を否定としての静止ですが、自然においては運動の一形態です 運動という対象を静止、つまり言い換えれば対象である有を無としなければならないのです
ですから、限りなくゼロに近いがゼロではない、とする数学の捉え方が正当であることを示しています
クレタ人の逆説は、対象をその否定で理解するので決定不能であることを示します
生物学の福岡氏は、生物は生きつつ、かつ死につつあると指摘します
つまり同一として実在することは無いのですが、同一という静止である鳥もちとして理解しなければならないことの生物学からの裏づけです 誕生の瞬間は認識できるのでしょうか?
それは不可能です
古代ギリシャ哲学は、量質転化ということを指摘していますが
生物もまた自然の運動変化の過程で誕生死滅するのですが
ここから誕生、ここから死ということは指摘できないことを示すのです
(八十年代に人間の死の判定基準が論争になりましたが
物理としては誕生も死も物理的状態の変化であり実在しません)
中国の有名な医学の書物、「傷寒論?」では薬は偏性の毒だという指摘があります
ある程度薄めると薬になりますが、厳密にはここまでが毒ということは指摘できるわけではありません
科学においてもまた厳密な区別はできるはずもないのです 自然は運動変化の過程として実在します
その否定として静止、点、有限、終始で理解するわけです
太陽系の始りというのは認識には必要です
ただ誕生も物理状態の変化、死もまたそうです
そして常にであって、ではない、死につつかつ生きつつある
太陽系、銀河系、大構造、自然はそのように在る
鳥もちは必要ですが、鳥もちの実在は否定される
終始は鳥もちなのです なによりも光速度一定の原理が点、つまり静止、終始の実在を否定しているのです
始りは相対的な存在でしかなく実在しません
終わりもまた
それはあくまでも観念として存在するだけです そうそう、方程式は自然の運動と一致することによりその正当性を証明するが
対象の運動の在り方を示すだけで、対象についての理解は示さないな
ブラウン神父は、十の証拠から十の理論が生まれるが正しいのは一つだと語る
十の証拠とは方程式でもある、ということになるということか
一つ前進したかな w ライプニッツは重力方程式に敬意を表したが、重力理解には否定的だった
そういうことか この辺が曖昧に書いていたから、意識していなかったんだな
いやいや、批判は理解の前進をもたらす
哲学は火で鍛えられる、なんて言葉を想起する >科学においてもまた厳密な区別はできるはずもないのです
此処の観念性は不確定性原理の所以でもあります
運動を静止で、有を無で、ということです
0に限りなく近いが0ではない
それで認識しなければならないが、それは実在しない
このことはエネルギー保存則を示し、破れがあるとしたら認識するその在り方が問題であるだけでなんら自然の側の問題ではない 「現代」科学はピタゴラス学派の末裔であり、未だ天動説であるとわたしは理解します
大地が動いていないと仮定して天体の運動を観測する
観測できるのだから大地は静止しているという理解が正しいわけではない
この誤謬をまだ抜けきっていない 点非実在説を採ると、ゼノン、カント、ヘーゲル、量子力学、光速度一定の原理
クレタ人の逆説が氷解できるので主張しているだけ
重力も諸力も解消できるし、次元問題、なかんづく時間の非実在性が理解できる
そして不完全性定理の所以が導かれる
何よりも自然は無矛盾なのだということが導かれる
わたしの主張の根拠はそういうことです ここはシャドーボクシングというかトレーニングに良いな
ここからいろいろ思いついて、広がることが幾つかある
そういう意味で貴重だな
一人だったらとうていダメだった
以前の理系会議室でもそれは痛感した
新渡戸さんは篭城主義の在り方を批判したが、全面的にはどうかなとは思うが
他者の視点は必要であり、理解することは重要なんだな
人の言うことに耳を傾ける必要性を説いていた
それに従えということではないのだが 今年の収穫は、桜井章一、新渡戸稲造の両氏を知ったことかな
・・・身につくかどうかはこれから意識的に訓練するかどうかだけだが
アルヴェーンという科学者は主流学説がいかに異説をシャットアウトするかを身に沁みて知っていた
中には耳を傾けてくれる人もいないではないが、それは問題意識を共有している人かな
とりあえず、共有していない人の異論、批判もまた耳を傾ける内容がある場合がけっこうある
そういう人も含めて感謝します
なによりも進展すればこれに優ることはない 還元もわすれるなよ
そのサイクルでより遠くを目指そう 還元主義をどう始末するか、ということですか?
より遠くには行きたいですね
でなければなんの議論交流かと
もしかするとより近くということかも知れませんが わたしの自然観はすべては運動変化の過程にあるということです
還元主義も包摂する立場としてあるわけです スレタイは時間とは何か、です
ただ包括的に論じて、その一つとして時間非実在と結論できるわけです
むろん、ゼノンから量子力学、不完全性定理がより納得できる立場を
示してくれれば、わたしのそれは放棄しますし、それは当然でもあります
議論の目的は、より遠くにということですし、それ以外ではありません SNSへの書き込みは「運動」で
批判や異論は「否定」 還元主義とかそういうことじゃなくてみんなに発見を還元してくれよって意味 そういう意味ですか
次世代に繋がればとは思います
そういう類だったら幸いなんですが
踏み潰される程度のものなら踏み潰されればいいわけです
ただ論拠から否定してくれないと引っ込みがつかないわけです
少しでも人間を理解する学問の補助になればと思います
それが哲学の役目ではないかと
汝自身を知れ
ターレスでしたか?
今はそんな思いではあります 生涯をかけたきた研究を否定されたくはないというある学者の指摘はもっともです
探究心から出発したわけですが、根拠があっても自説を否定されると
面白くないのは当然で、だんだん頑なになっていくのは人間だからでしょう
わたしも立場が違えばそんなものでしょう
新約聖書学は自らの信仰をも根底から否定しまう結論になってしまいます
それを曲がりなりにも受け容れたブルトマンには敬意を表します
数学のヒルベルトもそんな感じでしょうか
まあこっちはゴミ系ですから、意地張っても素直に敗北を認めても関係ないのでしょうが
母は、わたしは恥じることをした覚えは無いと皆に語り亡くなりました
やはりそういう気概は大事でしょうね
はなはだ困難ではありますが 桜井章一氏は美しく負けたいと語ります
氏によれば、人間は必敗の運命だそうです
ある意味そうなんでしょうね、納得できたりします 新渡戸稲造の納豆売りの女の話は、ああ、そうなんだなあと思いました
具眼の士でないとわからないということでしょうか
母がやってきたことの意味を亡き後に、桜井さん、新渡戸さんに教えられたわけで
メクラだったんだなあと理解できなかった自分を恥じました
吉本隆明は、遠隔対象性という言葉で、遠くに居る人ほど素晴らしく思えるのだと語ります
ただ天才なんて、近くに居たら真っ先に否定されるような人が多いと、ドストエフスキー、ラディゲ、ポーなどを挙げていました
ドストエフスキーはメチャクチャみたいです w
吉本は、近親相姦の起こりにくい心的理由をそれで説明していました
スノップなんだなあ自分は、と、つくづく最近思ったりします
今でもそんなことをして、しょうがねえなと思ったりします w それはともかく、判定は後世に任せるしかありません
今のところは否定されるだけの批判は無いと思っています
聴く耳は持たなければ進展はないということは痛感しています
ただの煽りは別にして 「無」には「存在」ではなく「状態」という言葉がよいのだろう。
ただし、「無」を存在にもできる。
それには部分集合をとればよい。そこに∅として自己射を持ち「存在」する無があらわれる。
存在する無は、少なくとも2つの統計を持つ別のものがある。
数えられる無と、数えられない無がある。
矛盾は矛盾であるがゆえに自己射を持たず、存在ではない。
しかし、これも部分集合とすることで(少なくとも)2種類の存在する矛盾が考えられる。
無には、裸の無と存在としての2種類の無と、少なくとも3種類ある。 しかし、裸の無も、語られた時点で存在となっている。
絶対矛盾的自己同一とはそのようなことなのかもしれない。 時間が接続してるから、FOR TIME IS NO NAME. 後世の人たちは、二十世紀中葉から、いや初頭から科学は混迷期に入ったと振り返ると予想しておく
ワインバークは黄金期だと断言してはばからないが、まさに天動説末期の様々な恣意的な周転円を描く時代になったのだと思っている
平行宇宙とか、いろんな宇宙論が続出しているけど、半世紀前の筒井康隆のドタバタSF小説群を思い出した
あれは面白かったが、科学者たちが演じるとは思わなかった 守、破、離という武道の展開は学問にも適用されるかもしれません
人間の観念は基準が必要ですし
そうしないと邁進できない側面がある
それなりに確立した世界を破るのは勇気がいりますし、違う世界を作り上げるのはもっと大変でしょう
武谷三男さんは、戦後に人間の可能性を歌い上げたエピグラムみたいのを論文冒頭に掲げていたことを思い出します
彼の「科学入門」は七十年代にもかかわらず無限宇宙論です
というか私淑した学者たちは八十年代末でも無限宇宙論で、南郷系統の論客も現在に至るまでビッグバンを端から信じていないようです
板倉さんは言及している論文を寡聞にして知りません わたしなどは在野もクソもありませんから、言いたい放題です
その代わり野次飛ばしている程度としか見られませんが 天動説の本質を克服しきっていないのだと
時間実在説もまたその一つです
周転円を描いているのは当然ということでしょう 地動説は認識論の側面から言うと、自己言及であり相対化です
方程式の性格を理解していないのがビッグバン論者です
一般相対性理論の方程式もまた他の方程式どうように扱うべきでしょう
つまり座標原点は仮であり、実在しないのだと
始めを探求する試みはすべて挫折する
なぜなら無いのだから >>870
過程さんはプラズマ宇宙論支持者なの?
過程さんの時間非実在論はつきつめていくとシミュレーション仮説ではないか?
時間があるとき下記のサイト見て感想を聞かせて
https://newphilosophy.net/ そうか・・・
可知か不可知かも決定不能と言うことか そのサイトこっちの事情で開けないけど
時間が実在しているのは誰も証明していませんよね
わたしのは科学が示した事実から出発しています
無いものは無いという極めて単純ではありますが、事実に基づいています
それが否定されたらギブアップしますが 「ビッグバンはなかった」ラーナーではいろいろ面白いことが書いてあります
異論はもちろんあったりしますが
近藤陽次さんのブルーバックスもいろいろ面白い指摘があります
両方ともに図書館に在ると思いますので、一読をお勧めします
学研ムックも何冊か面白いのがありましたが、図書館にはないところが多いような
板倉聖宣さんの「新哲学入門」、山川偉也さんの「ゼノン4つの逆理」もお勧めします 三浦つとむさんの「日本語はどういう言語か」講談社学術文庫もお勧めです
認識論では王者と三浦さんの思想を一蹴している人も認めています
「弁証法はどういう科学か」はいろいろ問題があるような気がします
いろいろ混乱している箇所があるような
彼の学問範囲は観念と自然との関係は科学ほど考察しなくても良かったからかなと思います
特にカントの二律背反とビッグバン仮説批判の箇所はそれこそ背反しているような 年とると新しいもの吸収しないと呆けると、脳科学者が言っていた
いろいろやってみるかな
同年代辺りがボツボツ鬼籍に入り始めているが
最期までジタバタしてみたい 最低限、近藤陽次さんが語るように宇宙論は仮説段階で決定打はどの学説も放っていないことだけは確かでしょう 保毛尾田さんところの保毛尾田さんは実はホモなんじゃないかって言われてるんですけど…
あくまで噂でして… 空は集合(あるいはクラス)の要素ではなく、集合の集合、特に部分集合のような集合に空集合としてあらわれる。
空は裸では取り扱えず、空集合として自己射を持つものにならないと扱えない。
ある意味、空集合という「存在」は空より生み出される。
空と無は同一視してもよいだろう。
問題があるとすれば、「集合化」を誰がやったのか、ということだろう。
そこに「矛盾」がある。ブートストラップとしての矛盾。
それと、これこそ問題なのだが、「時間」をイメージしてしまってはいないか、ということ。
「時間」は、まだ、語られていない。
いまだ「時間」のようなものが立ち現れる以前wのことを考えているわけだ。 「時間」として語られているなにものかに対して、自己同一性をみいだせるなら、
それは「存在」である。
そうでなければ「存在」ではなく、それゆえに「実在」にもなれない。 個人的には自然理解は人間理解なんです
昔関根正雄?さんでしたか、旧約聖書で有名な方が砂漠と一神教の関係を論じたものがあったそうです
和辻哲郎のような直接対応論ではなく、ジャズとアフリカの関係のように、砂漠を流浪した民族が定住してから一神教を築きあげるということの観念の在り方としてでしたか
残念ながら直接あたっていないのですが、そのうちに読みたい論文の一つです
昨年でしたか、アルプスの少女ハイジの作者も都会に住んでから故郷を想い書いたというのをテレビで紹介していて、ふとこのことを連想しました
これは思想と言うか神観というか宗教の派生原因の探求というか人間の観念と自然の関係の理解でしょう わたしにすれば、自然と人間の関係を根本的に理解したいわけです
地球は特別でもなんでもなく天体の一部であり、人間は諸動物の一つであり、観念もまた自然から派生したものであり、すべては自然に収斂していく
自然環境に根本的に規定されて、その範囲の中で、或る前提、基準を設定して色々な観念を築き上げていく
それは自然との間接的とはいえ、密接な関係で展開されていく
ですから、それはその関係の中で自由でもあり、また根本的に規定される
ある意味地域の自然環境の差異で展開されているだけであり、等価であると言ってよい
日本などは多神教というかあらゆる神を包摂して、スピノザみたいに無神論に近くなってしまう
自然の全てが神である、という理解で展開されたそれは皮肉にも無神論に近づいていくのかもしれません 宗教はそれが絶対だとするから服従できる面があります
一神教思想は相対化を許さないんじゃないでしょうか
そういや呉智英さんは文化相対主義に対して、インドの宗教は夫が死んだときに妻も一緒に生きていた場合葬るが、相対主義はその価値観も受け容れるべきなのかと批判します
これなんかはある意味相対主義もまた相対化しなければならないということでしょうか わたしの場合、相対が絶対だと語る三浦つとむさんの理解を支持します
ただ、やはり決定不能の命題がつきまとうんだろうなあ、この場合も
それが人間の観念の在り方で、自然、学問理解と密接に関係しているということでしょう そういや三浦さんは、小説で人物設定、時代設定、環境設定をするのですが
能動的なこの設定に規定されて展開しなければならないという受動性の問題を論じていました
人間社会、個人の価値観とそれによる展開も能動的であり、かつ受動的ということになるということでしょうか 三浦さんのはこういう観念を扱った学問を展開しましたから、矛盾を強く意識せざるを得なかった
ただそれは科学という自然との関係の理解となると、観念の中の矛盾ということを持ち込むと解決できない問題が出てくるわけです
ですからカントの二律背反の解決の問題でも矛盾で済ましていて、ヘーゲルの運動規定もまたそのように始末しています
三浦さんが存命中にわたしの理解を示したかったと思ったりします
ただそのお弟子さん筋に当たる滝村さんのマルクス思想否定にはけっして肯うことはありませんでしたので
わたしの理解も受け付けなかったかもしれません そんなことはともかく、明日はクリスマスですか
無神論者で、こういうことに一切関与しない人が居たりします
神社にも手を合わせることもなく、宗教関係に対してはそのような対応をするそうです
まあ思想でもありますから、それもありといえばアリでしょう
わたしなどは、自分の自然理解が理数系、哲学と軋轢が大きいので、実生活でわざわざ軋轢を生むようなことは避けたいので、こういうときは社会集団になるべく合わせます
革命は鳩の歩みでやってくる、なんて言葉があるそうですが
それが何を意味するのかわからないのですが、なんとなく
一見危険に見えないものが、ゆっくりと歩み寄ってくると理解してよいのでしょうか
適当です
わたしもまた危険に見えない形でゆっくりと揺れながら歩めたらとは思います わたしのは諸学の示した証拠の無矛盾な理解を示そうというものですが
内実には触れない、いわば形式に終始しています
言っては悪いのですが、理数系の学問はそういう側面はほとんど意識されていない傾向が強い
光速度一定の原理で立ち竦み、観測問題でハイゼンベルクが語るように認識論的側面は避けたり、また玩具程度にしか扱えなくなっている
わたしにとってですが、科学なき哲学は大問題と言うか論外で哲学なき科学も問題だということです
それはあくまでも自然理解に規定されて展開しないと恣意的になり客観性をもたない
それは個人的には拒否したいところではあります
これもまた基準の一つなのですが、またこれも問題にすべき対象でしょう いえ、「アインシュタイン・ロマン」の最終回を観ていたら、
八十年代の風潮に彩られた科学の批判をエンデが展開していましたのでなんかなあと苦笑しました
こういうのも時代に規定された考え方で、わたしもまた六十年代という時代、ある意味「三丁目の夕日」的というか鉄腕アトムというか科学に対する楽観的、前途に対する希望というかそんな感情に裏付けられているのかなと思ったりします 「三丁目の夕日」は七十年代前半からでしたでしょうか
もっと前だったかな?
第一巻は職人さんの話が印象的で、それ以降から路線転換したような
今では古き良き六十年代前半への懐古の色合いが強くなっていますが、当初は少し違うというのがわたしの印象ですが、今はもっていないのでわかりません
まだ敗戦後の雰囲気を漂わせ、また再起に向かう力強さと希望が感じられますが、現在読むと自分の心境で違う風に読めるかもしれません
当時の野原の光景は五輪前から徐々に消え去った覚えがあります
経済成長路線を突き進んでいたから、こういう展開になるのはある意味当然だったのかもしれません 適当です
そういや六十年代当初は下手すると防空壕みたいなのが場所にあったような記憶がありますが、正確な記憶かというと怪しかったりします
書店がまだ健在であちこちにあり、駅前に在った今は亡き小さな店で可愛い店員さんから初期の「三丁目の夕日」を買い求め、カバーしてもらったことを鮮明に覚えています 高校生あたりで、勉強していけばすべてがわかるというような単純素朴な考えが打ち砕かれ、どうしてよいのか途方にくれました
すべては過程としてあるのですが、学問も勉強も現在に規定されたそれは絶対的なものでもなんでもないことを濫読していくうちにわからされました
苦い苦い思いに包まれた二十代でした
ヘーゲルの過程としての自然、人間、そして社会の捉え方は画期であったが、それをすべてに貫徹できなかったとエンゲルスは語ります
まあ大ヘーゲルでさえ、なんですから極東アジアの有象無象の一人の学生としては当然と言うか、仕方がなかったのかなと思います
有象無象でも納得できる批判は未だありませんので、頑張っています
納得できる代案があれば、今すぐにでも抛り去りますが、それもできない状態ではあります 世界も学問も再構築しなければならない段階なのかな、なんて思っています
社会もまたけっして健全では無くなっている
個人としてのわたしもまたそうなのですが
人口が増えすぎて、人間自身が無意識に調節しているのではないかという指摘があります
日本での少子化もそういう側面があるのではないかと
わたしなどは女性の社会参加も、時代に要請された側面が強い気がします
つまり女性も総力で社会形成と戦力というか戦いに狩り出されているところがあるのではないかと
昔は自分の生活を守る意味合いが強いのですが、今は社会参加による戦力化によって国際競争に参加しているような 適当です
権利の主張と拡大は社会的役割の負担割合に応じなければならないのと当然ということになります 母が亡くなったあとで、昭和初期の状況で母がかなり有能な職業女子であったことを姉の友人が母の履歴を知って指摘していました
母の場合は父が病気になったのでしかたなくという側面が強いようです
当時では習得が難しかった技能を当たり前のように駆使したようです
それは父が工場を経営し始めたときにも十分発揮されたことでも証明されています
大家族を切り盛りして、仕事を手伝ってで、わたしなどは家事をして初めてそれを何事でもないようにやっていくことがいかに困難なことかを思い知らされました
姉たちも、家庭を持ってから母の能力に感嘆したと葬式後語っていました
一人の人間として懸命に生き抜き、また賢明に生き遂げたんだなと思い知らされました
子供としては不甲斐ないのではありますが、少しでも受け継ぎたいところではあります
もっとも母が当たり前のようにやっていたのでその困難さはわかりようもありませんで、具眼の士ならともかくわたしのような凡夫にはそれがわからなかった
つくづくと残念で後悔しきりの現在です
わたしもまた、母のように、生きてきて恥ずかしいことをしてきたことは無いと最期に言えるかというと、すでにその資格はないのですが、これからは、なんて思ったりします 自分のできうる限り遠くに行って、また近くに生還したということなのでしょう
現実に役立たなくて何の学問なのか、というのがわたしの思いです
無論美のための美、芸術のための芸術、学問のための学問という姿勢もあるのでしょうが、それはわたしには受け容れがたいし、また無理でもあります ただ「アメリカン・パイ」のリュシエンヌではありませんが
人の想いはどこにいくのだろうという問いにグラン・パは
それは人に遺伝子のように受け継がれていくという場面に
そうなのだ、そうでなければ父と母の献身が浮かばれないと思ったりします
わたしの想いもまた後の世の人たちに受け継がれるだけのものに成りたいのですが テレビドラマの「仁」で洪庵が人間を解剖すると武士も農民もなんら変わらない
後の世は身分差別はないのでしょうかと尋ね、それが無いと聞き洪庵は安心してこの世を去ります
わたしもまた、本当は最初から頭の中身に差は無く、生まれた環境に大きく作用されるのではないかという気がします
ちょうど肥沃な土地に育てられた健康な種との関係のようなものではないかと
それは実に人の考えという環境、土壌に大きく左右されるのではないのでしょうか
一人一人が能力を十全に発揮しうる社会はそういう理解を前提にしなければ出来ないような気がします
ただそれがユートピアになるかというとそれはまた違う問題が出てきて、解決しなければならないような気がします
それに流行の言葉を使えば人はマウンティングによって力を発揮する側面がありますし
人間の向上心は必ずしも全面的には肯定できるわけではないということでもあるのでしょうか
救世主であることを理解しない人間の犠牲に成ったとされるイエスのクリスマスの前夜に思う一人の人間の独り言です
わたしもまた理解していない人間の一人のような気もするのではありますが 学問は決定不能に収斂するのかもしれません
それは理解できるからこその決定不能であるのですが 「アメリカン・パイ」という萩尾望都さんの短編漫画は少女漫画の通俗話で一番成功している気がします
好みだけということかもしれませんが、リュシエンヌ、グラン・パ、リュシエンヌの両親の役割設定が過不足ない気がします
心性として共感できるのは大島弓子さんのそれがあります
岡田史子さんの不安感、高野文子さんの叙情もまたそれに匹敵するような気がします
七十年代の少女漫画は小説文化に匹敵する作者たちを誕生させたんじゃないでしょうか
桜がそうであるように、現代少女漫画のようなそれは各国にある気もしますが、わたし自身は同時代に居る幸運を思います
くだらない小説があり、優れた小説が在るように漫画もまたそうだという当たり前のことなのでしょう
読み直す機会があればなあと思ったりしますが、時間は残されていないような気がします 正直この連投は、現在のわたしの不安の投影なんだなと思えます
読みたくない人は無視してください
まさにスレ汚しでしか無いのですが、感情をどこかにぶつけたいということでしょう 桜井章一さんは、済ますは澄ますことだと語ります
わたしもまた済まして、心を澄ましたいところではありのですが 駅前に三軒、下手すると五、六間あるような時代にけっして立派ではない構えの店に
五十代くらいの品のある女優さんに似たおかみさんがいました
旦那さんは平凡ですが、いかにも書店の主という雰囲気で、一番上にある漱石全集を売ってくれないかと尋ねると
あれは売り物ではないというわけのわからない理由で断られてしまいました
当時神田で三万近くで売られていると近所のサトーハチローさんみたいな古本や店主に言ったら
気色ばんで、どこだとと尋ねられました
今では全集はお荷物でしかなく、信じられないくらいに安い値段で売られています
北原白秋全集が一巻百円で売られていて寂しく手に取りましたが、買うことはありませんでした
時代についていくというか、生き抜いていくのは大変なことなんだということでしょうか 社会を、学問を、人間を変えていくだけの自然理解を後世に遺したいのですが
それがわたしの望です
わたしの想いの遺伝子が継がれれば本望ですし、父母に申し訳が立つというものです 本屋のおかみさん、高峰秀子さんに雰囲気も容貌も似ていました
その雰囲気が好きで、贔屓にさせてもらいました w
某駅の前に在った書店は太田裕美を美人にしてスラリとした感じで好きだったなあ
どうしているのかな
幸せになってくれればなあと思います
その子が辞めてから映画で有名な某駅で偶然見かけまして、向こうも気がついたようです いろんな人と係わりますと、来し方行く末が気になります
わたしなんかより幸せになっているんだろうなあと
そう思いたいです
時間とは何かを人の想いと一緒に語りたい 時間と距離が同じことの別の見方であるとするならば、時空間よりも
存在と不在の反復の方が論理的に先ではないのだろうか。それは、
存在と不在の反復そのものが先に現れるという意味ではなく、時空間
が認識されるなら、それは存在と不在の反復に対する干渉として
現れ、消えることであり、そのことなしに時空間的な位置すらも
あり得ないのではないかということである。 西洋哲学は二元論あるいは二項対立的であり、それゆえに哲学は智を求める煩悩の学問である。
人間は自然の一部であり、対立するものでもない。
西洋における(一神教の)「神」の正体は「死」であり、「死神」なのである。
「死神」と同時に、それの反転したものでもあるが、これを「生神」と表現してしまうと意味が違ってしまうので、よい言葉がみつからない。
ファインマン図から考察すると、「無」あるいは「点」からは3つの線が発生する。
われわれのセカイは分岐的であるから、このうち2つがわれわれの宇宙であり、
残りの1つが、われわれの思う「過去」に属するものであり、これをわれわれの側に投影した虚像が「神」である。
「神」の本体は、われわれの思う「過去」に属する。
そして、ファインマン図が閉じているとするならば、われわれの思う「未来」は「過去」に接続されており、「神」の本体は、われわれの思う「未来」にも属する。
αでありωである、という彼の正体は「(生)死神」であり、「神」とは、それの(現在における)虚像となる。 時間とは変化するということを誤認したものだ、とするならば、
いったい、変化とはなんなのか。
変化すらも誤認ではないのか?
(ながくなるので中略)
時間とは量子論的世界における不確定性によってもたらされる虚像である。 とすれば、自己同一性も量子論から得られるはずだ。
どのようなシナリオが考えられるか。そこが問題だ。 誤認じゃあない
大地を静止していると仮定すると天体の運動量が認識可能になる
天動説は、その仮定でしかない静止が実在、つまり地球は不動だとしたことが間違い
つまりそれで理解できるからといって、それは実在を意味しない
時間もまた、そういうものであるということ わたし、自然、というのも同一、静止で理解している
しかし自然自身も、その一部である諸物も同一であることは無い
同一、静止で理解できるし、理解しなければならない
認識である限り認識対象との否定関係が付き纏う
そのことを科学革命が指摘している
認識する立場は必要だが、実在しないということ
「自然」科学なのだから、自然の在り方を否定、つまり静止、諸動物と否定関係としての人間は実在しないのだと
科学革命は認識論の側面では自己言及という性格がある 不確定性原理は認識の性格、つまり運動を静止で、有を無で認識しなければならないから当然だろうし、それによって時間が必要になる 科学は自然を無矛盾に理解するということが目標だろう
その前提を守らなければ、なんの意味も無い 時間実在説は当然多宇宙説となる
一秒だろうがプランク時間だろうが、その実在は無限の三次元の実在を意味する
時間が実在してたまるか 変化を認識したものが時間?完全に誤解だ。
認識と無関係に時間は在る。
時間とは現在の持続である。
認識だ理解だ言ってる時点で間違い。
過程が批判しているのは単に自らの誤解でしかない。 時間は次元だ
出発点の実在が科学によって否定されている
単純に理解していい
実在しないものは実在しない
以上 次元と言うならユークリッド幾何学は正しいと思ってるのかな?
次元の定義こそ最も胡散臭いね。 過程ちんはアリスアポーンしているんだろうな
俺もテレビで見たことあるけど、時間の存在を疑っている科学者にも根拠はあるようだ
アリスのは視野が狭いよ
時間が存在するとしても、アリスのは説得力を感じない 時間を次元として認識できるのであれば自己同一性があり集合化可能であり、それゆえに「存在」である。
その場合、その時間は「誤認」であってもよい。
量子論的宇宙を根底にして考えるならば、量子論的な不確定性(原理ではない)からすべての、われわれが実在と考えているもの、そして存在と考えているものまでを生み出すことが可能である。
これは広義の誤認であり、非人間的な誤認である。誤関係のほうがマシだが、対象に主体性を与えるという意味でおもしろいので誤認を使う。 裸の無を集合化したものが空集合であり、それはなんらかの部分集合の集合における要素として必ず存在する。
集合論を拡張(縮小か?)できるのであれば、集合(あるいはクラス)の元(要素)は集合でなければならない。
裸の元は自己同一性を持たないので扱えないとする。
元はすべて「有」であり、「無の有」と「無ではない有」の2種類がある。
前者は数えられない有であり、後者は扱い方によって数えられない有と数えられる有にわけられる。
少なくとも3種類の「有」がある。
これらの「有」はそれぞれに主体性を持ち、粒子の交換が行われる。
このシナリオによって宇宙を構築できるわけだが、前提とした量子論的宇宙そのものを考えねばならない。 過程ちんのは停滞期と新展開期がある
アリスちんのはなあ
おれもアリスちんはもう少しいろいろ学んだほうがいいと思うの
どっちが正しいなんてのはおれにはわからないけどさ 先送りしていた「実在」に取り組まねばならないのだろう。
「存在」が自己同一性をを持ち、認識可能なものだとすれば、
「実在」は認識主体から独立して「客観的」に「存在」するものとなる。
「存在」は「存在」の側から主体としてその他のものにアクセス可能であるとするわたしの説であれば、
「実在」は(広義の)認識主体から独立できてはいないので「無意味」であるw
「運動」が自己同一性を持つものであれば「存在」であり、「実在」に関しては、「実在」という概念の再定義が必要になる。 自己同一性というものを(古典的な)認識主体に求めるのであれば、「存在」から「実在」を分離可能なはずである。
わたしはそれを好まない。それだけだ。 酒などは理解するほど酩酊する
それって理解なのか
麻酔は癒しか まあ「自」論だから天動説化しがちでしょう
ラジオ深夜便、明日は野矢茂樹さんか
遅すぎるな
山川偉也さんは七十代かな
山川さんは歴史学で言えば阿部謹也さんの史料検討の分野というところでしょうか
科学がパルメニデス哲学と対立しているような理解は疑問ですが、碩学という印象を素人のわたしはもっています
図書館で漁るとなかなか面白い著作群をものされています
まあチンピラのわたしの言うことなんか聞くことができるかというのは当たり前かもしれません 美しき五月のパリ
加藤登紀子の歌で延々と聴いています
クリスマスの日もそうでした
とても美しい歌に聴こえます
希望に満ちた進軍の歌だったんでしょうが
今は絶望の歌に聴こえたりします コンドルは飛んで行く、は大地に縛られている人間の憧憬の歌です
ただ可能性というか希望はどうなんでしょうか
佳曲ですが
美しき五月のパリは様々な歌い方が可能な気がします
曲頭は小さい声で、だんだん強く、ラストはまた弱くなっていく
何十年か経つと希望の歌であった曲が絶望の歌というか
過去の人たちの自由を求めての戦いの行く末を知っているわたしたちには
哀しい歌にしか聴こえなくなる 三浦さんは共産主義の実現を信じていました
板倉さんは、これだけあちこちで社会実験して成功した国は無いのだから
三浦さん、残念ながら結果は出ていますと断定しています
そして商売は楽しいのですと語る
板倉さんも楽観的に過ぎて、三浦さんの裏返しのような気がします
やはり自由と統制の繰り返しで、そのバランスを求めていくしかないような
これは戦後数年経ってから、歴史家林達夫さんが語ることです
論理が枠に縛られるように、人間もまた社会という枠の中で生きていかねばならない
人間の本能のもつ美しさと狡猾さの狭間で社会は形成されていく
刹那的になるのか、はたまた
ある意味等価ではありますが、社会の中では大きく違うのですが
善意は社会の中では何も価値を有しませんし、悪意もまたそうなのかもしれません
板倉さんは、戦争が善意がきっかけで引き起こされることが多いと語ります
社会の中で善意、悪意が化学反応を起こし展開していく感じでしょうか
それらはその人の意図の結果とは無関係に在る 「百億の昼千億の夜」萩尾さんので読みましたが、小一時間で三百頁ほどで
あと百数十頁で、実に面白い
イエスがあまり良いリ役割を演じていなくて、釈迦が主人公というところでしょうか
生物学の、創造説の変形みたいな感じで、インテリジェント設計説みたいな
あまり興味が無い妄説なので覚える気もしませんが、SFになるとなかな面白い
ただそうなると宇宙を作った人を作った人と無限に遡ってしまう
人は理由を知りたがる
ただそれは自然には実在しない
自然は理由とは関係なく、ただ在るということでしょう
無矛盾を追究すればそういうことになる
対象が無矛盾でなければ理解できない
理解そのものは矛盾である、つまり対象をその否定で理解しなければならないからこそ決定不能なのだということです
自然という対象自体にはなんら理由は存在しない 天動説の学者も観測結果自体が間違っているということではない
それをどう理解するかという問題でしょう
本質ー構造ー現象という感じでしょうか
構造理解で天動説は妥当ではないわけです
現代科学は自然の本質理解の段階で、未だ天動説的理解に留まっている
本質論では認識手段であるピタゴラス段階を相対化しなければならない
それによって科学の基礎は固める第一歩になるのだとわたしは理解しています わたしは自説を展開しているのですが、底辺 氏も美魔女さんもその他の人も
自論も教養背景もわからないで、みな謎の人たちです w
地動説と光速度一定の原理の、科学史的段階理解の糸口が掴めたかな
なんか同じ感じで、区別がつかなかった
差異も在れば同じようなところもあって戸惑っていた
グダグダ書いていると突然ヒントが掴めたりする
それを求めて投稿している感じでしょうか
いくつか拾えたので、なんか止められない >>937
なんで底辺が入ってるの!!!!!
ぱぴならー(о´∀`о) コーヒーは挽く前に炒ると香りが高くなる
2ちゃんで教えてもらった
亡くなる前に教えてもらったらと思いながら朝仏壇に供える
父もコーヒー好きだったんだよなあ
挽く手間がこんなに簡単だと知っていたらと思うと
あんなことしておけば、こんなことしておけば、なんて後悔だらけ
みなさんも愛する人たちに後悔の無いようにと
亡くなってから、こんなに愛されていたのかと思うと悔やんでも悔やみきれないことばかり
スピネット
バージナル、バージナリスト か チャンバロ系統
水巻マキコさん
FM放送聴いていて初めて知った
メモ代わりにするんじゃねえと言われそうだけど w ミズナガ?さんかな
バードの曲
埋もれた名作曲家は多いんだなあ
バッハもまた埋もれていたという話
バッハとか受難曲は幾つも無くなっているみたい
保存がいい加減に扱われたのかな
時々オルガン曲が発見されたという報道がある
そういやバッハの曲で無いとわかった名曲があり、みんな衝撃だったろうな
受難曲はわたしの年代だリヒターでしか意味が無い感じかな
オルガンはヴァルヒャだけど、これはわたしには聞き比べた事がないのでわからない チェンバロというか、興味の無い分野が騒音でしかないようで
数年前にも体験して驚いた
当たり前か
こういう投稿もスレ汚しにしかならないんだろうな w
関係ないし 個人的には学問の目的は自己自身というか人間を知ることです
その中でどう生きたら良いかの指標というか基準が知りたかった
科学も哲学も手段でしかないのですが、なんか自己目的化してしまいます
遠くに行って、けっきょく近くに真理があった思いがしています
奥義を求めて山を分け入って進んだら里に着いたという武道の話がわかったような気がします
新渡戸稲造さんの納豆売りの女性の話にとても共感できる現在の自分が居ます
父母、祖母もまたそのような人ではありました
特に女性には敵わなさを最近感じています
現実と格闘して身に付けた認識理解の方がどれほど力強く貴重なのか
主に本、時々現実だったわたしにはとうてい及ぶべくも無い境地のように思えます 現実で身に付けた認識理解のほうが強い気がします
観念でも同じ結論なのは皮肉ですが、ある意味伝承する形にしてほしいのですが
実務派はそれが苦手なのかもしれません
麻雀の名人が語る奥義は単純ですが、そこに至るまでの道程は長かったような気がしますが
母のしていたこと、言うことと一致していたりする
いろいろな勘違いに顔を赤らめたり、後悔することしきりです
吉本隆明さんも、時々声をあげたくなるくらいに恥ずかしい思い出があると書いていますが、とてもよくわかったりします 時間論はわたしの自然理解には必然です
それが崩されるとお終いですが、今のところはそういう批判はありません
研究者も何人か納得したりする人も出てきていますし、承認していない人もわたしの論拠が今のところ崩せていないことは認めています
頑固に無視していた方も居ました
概して頭から否定してけっして内容に立ち入らないのが特徴です
まあ殻は誰でもありますから、そこから出てきたくない気持ちはわかりすぎるくらいにわかったりします いずれにしても正否がわかるのはかなり後ということになりそうです
否定派から中立派に転じた人が、そんなもんだとわたしを窘めていました
そういや主流学説を転覆させた科学者も三十年かかったと語っていました
そんなものなんでしょう
理論にもまた感情が張り付いている マジで哲学板ではわたしの自論の何箇所かを補強進展させてもらいました
感謝します 良いって事よ
ただ無知や間違いを指摘されて逆切れして逃げる姿は滑稽で憐れだったねw
AIとかろくに知らない事を知ったかぶりするのはもう辞めなよ?
じゃあな! 武士道の英語って優れてるから、半端にしか読めなかった覚えがある。 アリスはさんざん恥掻いてきたしな
知ったかぶりしていると、他人も知ったかぶりしていると思い込む
鏡見て自分を罵っている図だな 優れているから、半端にしか読めないか
なんか不思議な感じ じゃ、人工知能蒸し返そうか?
将棋は対応できない、省略していたのをほかならぬ「人間」が対応させた
別にコンピューターがやったわけではない
ソロバンと同じで人間の認識を置き換えただけ
その他のも「人間」の認識の置き換えという意味では本質はなんら変わらない
さて、コンピューターは今まで自己自身をまったく違うものに変えてきたのか?
違う、いつも人間の認識を置き換えているだけだよ
機械は考えない ミリカン、光速度一定の法則云々、まだまだあるじゃん
俺も上にあるように、アリスたんはもう少し勉強したほうが良いと思うの 機械に知能指数があるとしたら、ソロバンにだってあるさ w >>915
これがわからない。
なぜ時間実在説=多宇宙説となるんだ?
マルチバース(多宇宙)論はもともと量子論がもとになっている。量子論からインフレーション理論が生まれ、インフレーション理論からマルチバース理論が生まれた。
もとになった量子論自体が時間の実在性など認めてないのに・・・。
もしかしてプランク時間のこといってる? 科学者としては、というか職人としては優秀だが、認識論としては脆弱な人の受け売りしたって恥掻くだけだよ
そういう意味ではアインシュタインだってホーキングだってそれほどのもんじゃあない
だからこそ量子力学でつまづくんだよ
そしてボーアみたいな二元論に陥る
一元論を放棄した科学なんてのは科学でもなんでもない >>955
わたしの言う多宇宙というのは、仮に一秒という時間が実在するとしたら
その間には無限の点に対応する無限の三次元、宇宙が実在することになるということ
この場合は静止、運動しない宇宙
こういう説を唱えている科学者がいることを教育テレビで紹介していたような
前にも書いたように
一次元は無限のゼロ次元・・・
四次元は無限の三次元・・・・ということ 科学は大前提である自然を無矛盾に理解することに立ち返るべきだ
自然が大きさの「無い」数でできているはずがない
無いもので有るものができているなんてのは矛盾そのもの
無で理解しているだけ
地動説はそのことの最初の科学の指摘だろう >>957
1秒の間の無限の点に対応する3次元って何だ?
1秒の間に無限の4次元時空(3次元+1次元)が存在するってこと?
プランク時間とはご存知かもしれないけど真空中のプランク長を光が通過するのに必要な時間。
ただの時間単位。重力が量子的にふるまってしまい、一般相対性理論が成り立たなくなる時間のこと。
不確定性原理という名前がよく出てくるけど、ハイゼンベルクのそれは小澤教授の「小澤の不等式」によって破られることが2012年に実証されている。
量子は位置と運動量が同時に測定できない以前に「ゆらぎ」をもっている。
電子は原子核のまわりを確率的な雲としてぼんやりと取り巻いている。そんなものが実在してたまるか! >>957
確率的な存在なのだから静止、運動しない宇宙なんてありえない。
マルチバース(多宇宙)論は時間非実在論で、過程さんの出張と一致するよ。 >>963
出張(笑)じゃなかった、主張。
どこへでかけるんだよ 時間はもともと自然には存在しない。あるのは時計の針がここにあるときボールはここにあるという2つの現象の相関関係だけ。
時間は自然にあるさまざまな現象の相関を取るための道具にすぎない。 でも自然を静止の否定、運動で理解するという過程さんの主張はなんとなくわかる。
つきつめていけばゆらぎなんだから。
ゆらぎから時間が創出されるのかもしれない。
でもけっして根源的なものではない。
時間が創出されるとしてもこの宇宙に限ってのこと。
宇宙の地平の外から見れば、時間など存在していない。 ・・・読んでないでしょう、というか理解が明後日というか
うーん、正月明けくらいにまではと思っているけど
義兄が読みたいと言っているので、纏めに専念するかな
二人の姉が入院になって、いろいろ混乱している
せっかく綺麗になりかけた部屋も散乱しはじめ、また少し綺麗になりつつある
新渡戸さんも読みなくなってきた
こういう優れた文化というか教養はどこかで途切れるのかな
読めるかなあ
吉本隆明氏が、年とったら悠々できるかと思ったら時間がなくなってきて
かえって忙しくなったと語っていたが、同感 良くも悪くも自論がある人は、それに引き寄せて理解するからなあ
それでいろいろ食い違ってくるような
凄い理解力だなと思っている人もかなり時間が掛かったからなあ、俺のは
その辺の相互理解ができないのは俺の責任でもあるけど
前にも言ったけど、優れた行司役がいないとダメなんだろうな まぁ、どうでもいいけど、色々と誤解してるみたいだな。
面倒くさいから敢えて指摘しないけど。
何でも都合良く解釈するのが哲学?単なる屁理屈だな。 「無」は無いわけだから自己同一性を持たず、存在もしない。
存在するのは無を集合論から捉えた「空」すなわち「空集合」である。
集合論は「関係」であり「認識」である。
宇宙(自然)が「関係」や「認識」や「自己同一性」や「存在」そして「変化」あるいは「運動」を自発的にうみだすためには、量子論的不確定性がなければならない。
うみだされる自己同一性に対してそれぞれに主体性を与えることで多世界解釈が可能になる。
ひとつの主体からみたものは投影仮説になる。
不確定性をうみだしているのは量子論的世界であり、計算上では明示的に展開される世界である。
そこには、とくになんの不思議もない。 物事に始まりがあったなら、それ以上の原因を遡及することができない
原因の存在しないところで何事かが結果するということはない
デカルトの言うように神の一撃のようなこともない
宇宙の起源は円環の理のように、一巡回って繋がっているとしか考えられない 始まりという概念のほうが間違っているのだと考えればよく。
流出点としての始まりは「ある」と考えています。
しかしそれは円環でよいわけです。閉じたひもとして始まったと。
それを「矛盾」と呼び、自然は「矛盾」から成り立っているのだと。
そしてそれは「矛盾」であると同時に「無矛盾」です。
「無矛盾」こそが「矛盾」によって成りっている。
不確定性原理を別の角度から見ているだけにすぎませんがね。 >「矛盾」であると同時に「無矛盾」です
端的に矛盾です 宇宙は、真空ゆらぎという状態から開始したとなってるが
真空は文字通りに何もないことを意味しない、エネルギーが満たされた状態であると
結論付けられているから教科書に書かれているような世界は「無」から始まった
などと言う論理は全くのナンセンス 不完全性定理と書こうとして不確定性原理と書いてしまった。
ま、たいして違いはない、どーせ違う角度からみているのだから。
どこに視点をもつかで、矛盾と無矛盾が同時にある構造を考えています。
それぞれの視点の側からはもう一つが隠れてみえなければよく、それが一体化している。
あるいは、どちらからみても無矛盾だが、その向こう側をみようとすると矛盾するような構造。 >>969
理解していない指摘も、それを掘り下げると得るものがあったりする
そういうことを体験するとやめられなかったりする いずれにしても切れ切れで全体像がわからないから賛成も反対もできないのかもね
それ以前に概念が違っていたりするし
理系で真逆の概念だったことがあり、なるほどそりゃすれ違うわけだということを体験した
ある意味理解しあえないのかもしれないけど、努力は必要という当たり前のことか >>973
>宇宙の起源は円環の理のように、一巡回って繋がっているとしか考えられない
サイクリック宇宙論?
>>974
>そしてそれは「矛盾」であると同時に「無矛盾」です。
「無矛盾」こそが「矛盾」によって成りっている
意味がわからない 量子の二重性のようなこと言ってるの?
もう少し具体化してくれないと、人に伝わるような文章じゃない 自然科学は自然が無矛盾、つまり理解しうることの証明を目指さなければ成らない
そう考えている そもそも「相反する」が「共存する」ことを伝えるのに、そのものずばり「矛盾」と「無矛盾」という言葉を使うからわかりにくい
別の言葉でpls 言葉足らずであることはすまない。
基本的に、無矛盾は矛盾によって維持されるということであり、不完全性定理を、そのように読めるだろうということである。
矛盾が無矛盾によって維持されることはない。
しかし無矛盾は矛盾を封印することができる。
ここで対称性をもたせると、維持と封印は同じ概念でなくてはならない。符号は逆かもしれないが。
エッシャーの絵のように内側と外側が入れ替わるイメージ。 矛盾と無矛盾は相反するというものとも違うようだし、共存はできない。
相反とか共存を可能にするためには、矛盾も無矛盾もそれぞれが自己同一性をもたねばならない。
無矛盾はともかく、矛盾が自己同一性を持てるのか? 閉じ込めるしかないだろう。
そこでいろいろ検索していたら、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一にぶちあたった。
まさしく、このスレの時間の問題なのである。 四次元は三次元の無限の集合
そういうことになるのかなあ
このあたり、誰か突っ込めよ 対応する三次元は無限ということになると、この世界はわけわからんことになる
想像つかん なにやら無限を再定義することでなにかがみいだせそうな気がしてきた。
ボーズ・アインシュタイン統計、フェルミ・ディラック統計。
そして空集合の統計?
3つの統計がある。たぶんw
それぞれの統計によってそれぞれの無限が再定義される。
ただし、そこに主体性を導入する必要がある。
無そのものは存在しない。無と語ることで空となり、空は存在する。
語れない無を語ってしまうことで空がうまれる。 >>994
元々「無」はパラドックスですので⭐。👰
はい😃✋ 自然世界の多くはフィボナッチ数列で読み取れます♪😃 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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