時間とは何か 22 [無断転載禁止]©2ch.net
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日経サイエンスの9月号「マルチバースと多世界」の特集
http://www.nikkei-science.com/201709_030.html
野村教授は「時間」についてのある可能性を示唆する。
マルチバースの量子状態は静的な可能性がある。
つまり、ある宇宙でインフレーションが続いていてもマルチバース全体の量子状態は変わらないのだ。
ある宇宙の観測者が変化を知覚していても、宇宙の外側の観測者からすればそれは幻想である、つまり時間は「創発的なもの」で存在しないことになる。 >>86
ある宇宙にいる観測者は自然の一部であり常に変化しているかもしれないが、その宇宙も含めたマルチバースの量子状態は常に一定(静的)で変化しないという仮説。 物理学の理論ってどうしてこうも焼き回し遣っ付け再構築系ばっかなんだろうなぁ・・・ >>102
この宇宙の時刻は、この宇宙以外には意味を持たない。当然だね。
>>104
物理学は理論の積み上げだから、必然的にそうなっちゃうよ。 まあ、着地点作るのが物理の物理たる所以だし逃げ切るだろうな >>108
中から見ればそうだが、不思議なことに外から観測すると静止している。
空間も、例えば中の宇宙から観測するとその宇宙は無限に見えるが、外から観測すれば有限である。
これが最新の量子力学を応用したマルチバースのとらえ方。 美魔女もわたしもストーカーに纏わりつかれているな w 自然過程説、マジレス、学術は許さない。
清見、しのさんはおっけー。 >>117
過程説サンはもうすぐ死んじゃうのよ💢😠 >>118
やっぱり自然過程説、マジレス、学術も許す(о´∀`о)
考える名無しさんは許さない。。゚(゚´ω`゚)゚。 >>111
外とは宇宙の地平面の外側のこと。
宇宙の地平面とは、膨張する宇宙で光速を超えて遠ざかる領域。われわれが観測することが不可能な領域。 宇宙の地平面の外側から観測すれば、過去・現在・未来は同時に存在している。
つまり「時間」は根源的なものではない。 >>123
びまたんも底辺なんだ(о´∀`о)
ぷぴぴ(о´∀`о) >>128
僕の真似するひとがいる。゚(゚´ω`゚)゚。
なんなの。 外側って言ってもいろいろあるよな。
内側に居るからこそ外側がって話になるんだろうけど、内側の時間を認識する外側の存在と
されるものが、内側と同じ原理でしか変化できなかったとしたら、内側と同じようにしか時間に
関しては認識できないだろう。
どこから見ていようが、1秒間に1アンペア流れる電流で運ばれる電荷が1クーロンに見えたら、
内だろうが外だろうが、この世界と同じ物理公式が成り立つ世界でしかない。
逆に、内側に居てもまるで違う原理の存在があって、それが等間隔であるはずの各一秒
に差異を見出すとするなら、変化の足並みという意味で外になる。
この世界と同じ足並みで変化しないだったり、時々1秒なのに10秒分の変化や運動を
する安定的な変なものが居れば、時間的にはそいつは外側という事になる。
そいつはかなり特異で限定的なものでなければこの世界の物理公式は全部無意味になるけど。 問題は境界じゃないか?
境界概念の発生に「光」を用いた時点で
光という条件から逃れられない
もはや内側も外側もなく境界条件のみが存在する
あぁ…「光あれ」、か 教会は燃えているなんて歌思い出した
それはともかく境界はどこにある?というのは考えられて良い 境界なんてないんだけどね
じゃお盆過ぎたらまた来るかもしれない
纏めたのを某氏に送る予定
それがわたしの残せるものだし、ある程度完成しないと死に切れない 一貫した認識で運動する自然を前に死に切れないまま滅亡乙 ブラボー!! >>102
マルチバースは良いとして、多世界はコジ付けっぽいな。 多世界とは解釈の問題である。
これを分岐であるとするなら、エネルギー論的には、
分岐するたびに世界のスケールが小さくなっているとも考えられるw
最後にはプランク定数のスケールに落ち込み、世界は反転を始める。
プランク定数が(相対的に)「大きく」なっていることを証明できればよい。
しかし、決定論的で静的な世界を考えるなら、「動」であるのは観測者の観測行為だけだろう。
これが時間を生む。
多世界解釈は静的であり、分岐をたどることが時間となる。
解釈されるものと解釈するものの二極にわかれる。二元論的だ。
多世界解釈とは二元論的ピタゴラ装置なのである。了 この考えをもとに、無限のテープではないチューリングマシンを考えている。
有限テープともちょっと違うが、十分な長さのある世界。
その中で「振り子」あるいは「(自動反転)砂時計」として、
この世界をモデル化できるのではないだろうか。
小難しいことは考えずに単純に、輪ゴム状?/上?の世界におけるピタゴラ装置から考えてみたい。 とか、くだらないことを書いていたら、アイデアをひとつ思いついた。
ああー。そういう形状にすればよいのかと。輪ゴムだ。
輪ゴム型AI。外見が、ではない。思考が輪ゴム。
輪ゴム型コネクショニズム。 対象である運動しているものの大きさをメジャー、つまり運動しているものでその縦横高さ、つまり大きさを計る。
対象も計るものも、ここからここまでという大きさがあるかというと座標原点が無いし、絶対座標も無いし、つまりそれらは量子力学的には未確定のものでしかない。
縦も横も高さも、つまり次元は独立して存在しているわけではないし運動も伴っているし、また厳密にはそのものの大きさというのは無いので計れるわけではない。
現象としては大きさは認識されるが、対象にはここからここまでというのは存在しない。
目の前にあるのは厳密には運動するエネルギーの濃淡の海でしかない。
時間もまたある非常に安定した運動をする物理的存在でその運動量を測る。
ボルトは百メートル9秒5台とか、この車は、地球はと運動量で運動量を測るけど、測られる対象も測るものも常にこの自然と一体の対象であり、切り離して存在しない。
時計は大きさを計るメジャーと本質としては変わらないし、それらは厳密には運動を伴った自然と一体になったそれでしかない。
三次元というかその出発点であるゼロ次元そのものが科学によって否定されているのだし、四次元である時間が自然に存在するというのはどうなんだろう。
現在には幅が無いし、その幅を無限に集めても時間にはならない。
時間はやはり次元という理解からの延長からきた必然だし、他次元同様にたんなる自然理解のために必要な座標原点と同じそれだろう。 大きさというのは実は存在しないから厳密もクソも無いわけ
ある意味ドンブリ勘定的でしかない
目の前にあるのは一体化して切り離せない対象としての自然が存在しているだけ
次元はそのどんぶり勘定するために必要なだけ
対象には始まりも終わりも存在しない、つまり次元は自然には存在しないということ
つまり時間も存在しない 自然には運動しないなにかは存在しない
どこもかしこも運動している
その広がりを三次元で、その運動を運動量にして時間という四次元で理解する
量にするのは、今と指示すると今は飛び去り直接には捉えられないからそうするしかない
つまり必要だから
しかし運動は自然の存在形態だし切り離せるものではない
ゼロ次元も一次元も二次元も三次元も自然という対象から抽象して観念の中でのみ存在している
時間もまた他次元同様に運動する自然の抽象として、つまり頭の中にのみ存在している
今とは運動の言い換えに過ぎないし、幅が無いのも対象をその否定で理解するから
つまり運動を静止、つまりゼロ次元で理解するから
ゼロ次元は運動の否定だが、同時に運動を静止で理解しているということ
自然という対象を自然に存在しないもので、つまり対象をその否定で理解しているということでは一貫している 印刷会社に勤めていた男が、選挙になると素人が印刷注文しにきて、そんなことはしない感じの課長が
凄いふっかけるので驚いたと笑いながら話していたな ビッグバン仮説の科学者の解説だと始りの少し前まで解明できたということだ
・・・さて、絶対座標が在るという主張に他ならないのだが w どこまでが薬として作用し、どこから毒として作用するのかというのは古代ギリシャの指摘
それは指摘できない
いつのまにか毒になり、人間となり・・・
すべては生成過程であり、宇宙はその過程としてある
何ものも生まれないし、何も無くならない
それは物理的状態の変化であり、またそれが宇宙の常態ということ それで理解できるからそれが自然に存在するわけではないというのは地動説の認識論的意味
科学者はその誤謬を未だに気がついていない人が多い
理解とは何かを理解していない 時間とは自然を直接に理解できないことによる必要とするメジャーということかな
それは他次元同様に村債しない
静止が実在しないのなら宇宙は無限ということになる
数はその理解のための道具で存在しない
次元などこの自然には無い この辺の説明をもう少しわかりやすくして書くしかないかな、現状では
時間は頭の中だけの存在 時間っていうのはただ人間が作った概念ですよ(*´∀`)
もともとこの物質世界には
物質と空間が存在してるだけですから
アインシュタインはそこに時間の概念を加えた
四次元世界ですね 結局、人間が存在しないと「個我意識」がない、って言ってるだけだと思われ 物理学者に「先生、大事な用事がある。
忙しいところ申し訳ないが時間作ってくれ」と頼んだ。
「はい、なんとかやりくりして作ってみます」と返事が返ってきたので、
その物理学者は俺の言う時間の意味が分かったのだろう。 >>158
このスレにも、基地外でない人がいるんだ。 サテイさんは本当に本当に過程さんのファンでしゅヨオ🙌 >>160
図星だw
くだらないレスするおまいと同じくらいにw 時間を過ごすのか、
時間が過ぎるのか、それが問題だw >>166
馬鹿にしすぎ(о´∀`о)
ぷぴぴ。゚(゚´ω`゚)゚。 チーズ味のカール関東でも出せよ明治製菓ふざけてんじゃねーよ 明治製菓の株はとっくの昔に売ってしまったな。上場来高値で売れたと思ったら、その後、まだ50万円分くらい上がった。かなりの儲けが出たから、別にいいんだけど、やっぱり売ると上がるという法則が発動するんだよな。 古本屋によったら、探していた『時間の正体』(郡司ペギオ-幸夫)を200円で入手できた。
この本にでているマルコポーロ時間のマルコポーロ氏はモーガン・フリーマンの時空を超えてのどれかの回にでていた
マルコポーロ氏(女性)なんだろうか。
時間を含めた「認識」という問題には、分配法則が満たされないということが主因なのではないかと思っている。
量子もつれも同じ問題なのだろう。
量子論的認識というものが「時間」のでどころである。
認識と、認識される対象は、別物なのか?
分配できない粒子を共有することが認識であるとするならば、認識とは「もつれ」である。
しかしそれは直接的なものであり、通常はそれを認識とは呼ばないであろう。
量子論的ネットワークでつながっているのが「認識」である。
量子論的つながりの階層の単位をホップと呼べば、直接的なものはホップ1となる。
通常の認識における量子論的ネットワークのホップ数は結構なものになるはずだ。
そしてその形状はカラビ・ヤウ多様体のような奇妙な形かもしれない。
もし単純なものでも認識と呼べるのであれば、ウイルスのような形状かもしれない。
暴力的にたとえるのならば、認識とはウイルス状のものであるw
生物の「種」というものが、もし「もつれ」によるものであったなら。。。いや。。。種とは「もつれ」なんじゃないかと。。。 読み返すとまとまっていないが、量子論的ネットワークとしての認識を考えているということだ。
『時間の正体』は、大正時代のベストセラー『おばけの正體』(井上円了)みたいなものだw
私が持っていたのは神保町で求めた昭和44年ごろの刷だったが、
昭和の最後のほうまでは出版されつづけたようだ。
時間とは「おばけ」である。 「量子化」できないと哲学すら不可能だぞ。
そもそも「言葉」とは量子化である。
「哲学」そのものの根本原理でもあるわけだ。 人間の「知覚」や「認識」そして「思考」などは「量子化」という手続きによって成り立っている。
そもそもの「哲学」は「量子化」を扱う学問であるとすらいえる。
量子哲学(論)だな。
量子力学ではなくて量子論だからな。力学とはメカニクス。メカニクスではなくセオリー。
カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーを借りてこよう。 ヴァイツゼッカーのよい著作がみつからなかった。
ドイツ語で読むしかねーか。
未来が未知で過去が既知であったとしても、
未知の過去や既知の未来がある。
「既知の未来」は言葉としておかしいが、可能性の問題と考えればよいだろう。
過去と未来は対称形である。われわれは既知の線上しかたどることができないだけである。
この「既知外」である「未知」をいかに扱うか。それが問題だ。
それを量子論的ネットワーク上で扱えるのではないか。
G・ベイトソン的な既知外ネットワークの哲学モデルを考えてみようと思うw
哲学板にはサンプルがたくさんいるのでうれしい。
これは単なる冗談ではない。実際のAIでも(用語は異なるが)「既知外」という戦略がとられている。 気違いといってしまうと身もふたもない。
あくまでも「既知」の「外」である。
この、「既知」の「外」にある「未知」に対してもネットワークを張る。
因果ネットワークから可能性のネットワークへの拡大。
しかしこれは膨大になりすぎる。だから、「既知」のネットワーク「以外」の直接扱わないけどそこに存在するかのように扱うこともできる仮想的ネットワーク「既知外」。
いわゆるK程説氏がいうところの「否定による理解」である。
これを「既知外ネットワーク」としてAIに実装してしまおうというもくろみ。
カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー(の哲学)にたどりつけなければ、こういう発想は得られなかったかも。
ちなみにヴァイツゼッカーの弟さんが統一ドイツの初代大統領。 もし私に禁句を決めさせてもらえれば
45分以内に貴方に禁句を言わせると断言しますよ♪💞 AIにtrainデータを与える。訓練データである。
訓練データは期待する結果を返すように教育するものである。
正しい結果かどうかを判断してAIに教えてあげるのは「教師」と呼ばれ、
教師あり学習と教師なし学習がある。
trainデータを与えて結果を得るだけでは歯車でもできる。
未知のデータを与えて、その結果を出力させるのがAIである。
trainデータを与えていくと、だんだんと未知のデータに対しても期待される結果が出力される確率があがっていく。
しかし、ある時点から過学習となり確率がさがっていくのだ。
このような現象に対して、効果的だったのがDropoutという方法であり、
AI内の結合の一部を意図的に断線させるのである。
断線のかわりに既知に対して未知を与えてゆさぶる。これが既知外ネットワークだ。
既知に対して既知外で理解するということ。
はたしてうまくいくかどうか。 「外」とは「¬」のことであり、AはAとしか表せないのでAに対する¬Aである。
Aが既知であるとすれば、¬AがAに対する既知外になる。
ここで問題となるのはAが2回でてくるということ。2つのAの違いは時間や空間のようなものが必要だということを暗示している。
対象Aはひとつであり、写像・射影としてのもうひとつのAが扱われる。
その関係性によって統合されていればよいのだが、それが断ち切られたとき失調を起こす。
時空間とはひとつの「失調」である。統合失調なのだw
Dropoutを再考すれば、軽い「統合失調」を与えているのではないか。
想像や創造や概念などというものも「統合失調」のなせる技/業であって、悪い意味ではない。
インパクトがあったほうがよいので「既知外」とした。
バランスを崩すことで新たな「流れ・運動」が生じるのである。これがコントロールの範囲内にあればよい。 マルコポーロ時間における補集合が関係するのかもしれない。
そんなわけで
Fotini Markopoulou-Kalamara の The Internal Description of a Causal Set: What the Universe Looks Like from the Inside を入手したので読んでみよう。
Heyting algebraで計算すればよさそうだ。
「否定で理解する」ということの意味がわからなかったが、直観主義論理なのだと考えればなんとなく納得できる。
因果ネットワーク上での内部記述がその正体だったのかもしれない。おばけの正体がみえてきたw 何故に分配律が成り立たないのか、あるいは成り立つのか。
それは半順序集合だからでろう。
数学がでてくるのはもうしわけないが、「≳」という関係があるといいうことである。
比較ではなく、なんらかの順序関係(「=」の場合を含む)があるということだ。
a(b+c)=ab+acが成り立ったり成り立たなかったりするのを場合分けするのは面倒なので、
最初から区別するのがベターだろう。
これを半順序の関係で記述すればよいわけだが、
そこで問題となるのは「『=』ってなんだ?」ということである。
反対称律を考えれば、a≳b, b≳a のときa=bとなるはずだが。。。
「等しい」ということの哲学的考察はどーなっているのだろうか。
同一であるということ、identity。
対象に対して外部あるいは内部に観測者が必要なのか。
対象・外部・内部・観測者。外部と内部をひとつの隔壁とすれば対象・隔壁・観測者の三者なのか。
隔壁ではなく「射」であり、外部・内部とは(対象・観測者も同じ?)domain/codomainなのか。
哲学は日常言語で表現される圏論になりうるのか。最低でも圏論と同等のことが説明できなければ(日常言語派の)哲学に未来は無い。 未来が在るとか、無いとかどういうことですか?
過去なら等しく在るということ?
未来が在る場合と無い場合を分けて説明してください。 >>190
未来の思考は哲学ではありませんわよ♪👰🙋 日常言語派的には、今を生きていれば、それでよいのでわ? 定義されたことないから、聞いてもその人なりの説明でしかないよ やはり、みなさん、日常言語派哲学には「未来」が無いという認識なのですね。
日常言語派哲学には「今」しかない。過去も未来も「今」でしか語れない。
語っているのは「今」だから。
非常にすばらしいスタンスだと思います。感銘をうけました。
「一回性」の問題も、「今」で語ることにより解決されるのかもしれません。
「今」が「過去」や「未来」を「今」に召喚して多層化される。それが「存在」であり「概念」であり。。。
そう考えると「実在」や「本質」や、へたすると「真理」も「今」には無いのかもしれない。
「今」すらも「今」に召喚されないと「無い」。
これを暴力的に「意識」と呼んでしまえば、すべてもの「存在」には「意識」があるw む。
すべての「存在」。
「も」が召喚されてしまた。「もの」の「も」。
付喪神の「喪」(九十九)なのか。
ち、今日は月曜で図書館が開いてない。
日常言語派哲学の「今」とは「九十九」。百にひとつ足りない。
それが「今」か。 ひとつ足りない宇宙論。素粒子論との整合性。不完全性定理の吟味。いろいろやらねばならない。
その足りないものがどこにあるか。おそらく一番遠くて一番近いところにある。なぞなぞかよ。 「力」は「粒子の交換」でつたわるという。
これは粒子の共有であり、接合である。
独立して存在するよりエネルギー的に低く安定している。
このときに放出されたエネルギーはどこにあるのか?
宇宙のどこか、近くて遠いところにパンドラの壺(ルビン)と呼ぶべき構造があり、そこにあるのだろう。
放出されたすべてのエネルギーがそこに隔離されるわけではなく、隔離されるのは「ひとつ」でよい。
この「ひとつ」が重力の核となっている。
そのように考えてみた。
証明の方法も考えてはみたが、証明できるかどうかとは別問題だ。
普遍的ともいえるほどに、その証明となるものはいたるところに存在している。
それをパンドラ粒子として扱い、定式化すればよい。
いうなれば、これが「神」の正体であろう。「パンドラ粒子」である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています