数学を初めとした理系の学問と哲学について 7
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言うまでもないが、ニューラルネットワークというのは、生物的神経ネットワークの理論モデル。
理論モデルの「手順」は人為的なものだが、実際の神経ネットワークの挙動には、人為も意思もない。 >>178
それ、文系コンプレックスに見えるけどw >>205
何の根拠もない悪口よりはマシ、じゃないかな? >>202
え?お前自由意志があるかないかってのがどういう議論かわかってんの?
実験やったから自由意志はないってそこが終わりじゃなくて出発点だぞ? 自由意志論争は人間の精神をマクロ的事象と見るかミクロ的事象と見るかの違いなんだよ
マクロ的に見れば当然決定論になり、自由意志は存在しないことになる
ミクロ的に見れば当然確率論になり、自由意志は存在することになる
自由意志は存在するんじゃないかな
ただし普遍的な性質が根底にあると思うよ、普遍文法から特殊文法が生成されるようにね 自由意志がなければ哲学する意味はない。
哲学しているのなら自由意志がある。
それでいいのだ。 >>209
決定論から自由意志が存在することを証明することもできるし確率論から自由意志が存在しないことを証明することもできるぞ
デタラメを言うんじゃない >>209
あとマクロ的確率論もあるしミクロ的決定論もある
もう言ってることメチャクチャすぎて腹が立ってくる オイラー : Leonhard Euler(1707 - 1783)
スイスのバーゼルに生まれた。1720年、14歳でバーゼル大学に入学。
1723年 哲学(理学を含む)修士課程修了。1738年と1740年にパリアカデミーの
グランプリを受賞。私たちが現在使用している数学的な表記法、たとえば
関数を表すf(x)(1734)や自然対数の底e(1728)、虚数単位i(1777)、総和記号Σ(1755)
などは、オイラーによって使われ始めた。
* やはり、これでも数学と哲学が近傍にある学問であるということが推測できる。
逆に言えば、数学も出来ないような人間には、哲学もたいして出来ないであろう
ことが想像される。一流の哲学者は、たいてい数学に習熟していて、なおかつ、
数学を哲学の基盤に据えているだろう。逆に言うと、数学も出来ない哲学者は、
その能力が疑わしいとも言えそうだ。 >>216
近世以降だと、デカルト、パスカル、ライプニッツ、コンディヤック、パース、フッサール、ホワイトヘッド、ラッセル、クワインは数学出身といっていいレベルだね。
そこまで行かなくても、数学の素養のない人間なんて、限られるだろう。
ヘーゲル、ニーチェあたりはその例外ケースかな。
ハイデッガーも若いころ数学やってたし。 で、宇宙際タイヒミューラー理論の「宇宙」って何のことですか? 読み方 10の-何乗か 単位
分 ぶ 10^-1 d (デシ)
厘 りん 10^-2 c (センチ)
毛 もう 10^-3 m (ミリ)
糸 し 10^-4 (0.0001)
忽 こつ 10^-5 (0.00001)
微 び 10^-6 μ (マイクロ)
繊 せん 10^-7
沙 しゃ 10^-8
塵 じん 10^-9 n (ナノ)
埃 あい 10^-10
渺 びょう 10^-11
漠 ばく 10^-12 p (ピコ)
模糊 もこ 10^-13
逡巡 しゅんじゅん 10^-14
須臾 しゅゆ(すゆ) 10^-15 f (フェムト)
瞬息 しゅんそく 10^-16
弾指 だんし 10^-17
刹那 せつな 10^-18 a (アト)
六徳 りっとく 10^-19
虚 きょ 10^-20
空 くう 10^-21 z (ゼプト)
清 せい 10^-22
浄 じょう 10^-23
阿頼耶 あらや 10^-24 y (ヨクト)
阿摩羅 あまら 10^-25
涅槃寂靜 ねはんじゃくじょう 読み方 10の何乗か 単位
十 じゅう 10^1
百 ひゃく 10^2
千 せん 10 ^3 K (キロ)
万 まん 10^4
百万 10^6 M (メガ)
億 おく 10^8
十億 10^9 G (ギガ)
兆 ちょう 10^12 T (テラ)
千兆 10^15 P (ペタ)
京 けい 10^16
百京 10^18 E (エクサ)
垓 がい 10^20
十垓 10^21 Z (ゼタ)
𥝱 じょ 10^24 Y (ヨタ)
穣 じょう 10^28
溝 こう 10^32
澗 かん 10^36
正 せい 10^40
載 さい 10^44
極 ごく 10^48
恒河沙 ごうがしゃ 10^52
阿僧祇 あそうぎ 10^56
那由他 なゆた 10^60
不可思議 ふかしぎ 10^64
無量大数 むりょうたいすう ガロア圏とファイバー関手がどうのとか圏論の話だと思ったが。 >数学を哲学の基盤に据えているだろう
数学を基盤に据えている現在の哲学的課題ってどういうものですか?
具体的に例を挙げて、それを考えるのにどのような数学が役に立つのか例示して
いただけますか。 少しは自分自身の頭を使って考えないと、頭が悪くなりますよ 偉大な数学者が哲学ができるわけじゃなくて、
頭のいい人間はなんでもかんでもできる印象だなぁ。
ダ・ヴィンチみたいな天才もいるわけだし。 数学と哲学を疎遠にしているのは、なによりも数学のイデオロギーとして
染みついた素朴存在論でしょう。それさえ取り除けば、数学がそのまま
哲学になるわけではないものの、数学と哲学の間の壁は解消される。 例えば、数を足す和の数列が数の間の差によって表現するのは、数学において
常識となっている技法でしょう。その技法を活用しようとすることは、数学の発展に
大きく貢献した。それでも、数の和が数の差として表現されることの意味は、
数学の説明において日常言語で十分に言語化されているとはいえない。
それを十分に行おうとするだけで、数学と哲学を分け隔てるものはなくなる
だろうと思うのです。ただし、そのためには、あらかじめ数が存在するという
イデオロギーは破棄する必要がある。 >>227
>>数学と哲学を疎遠にしているのは、なによりも数学のイデオロギーとして
染みついた素朴存在論でしょう。
その数学のイデオロギーってのは例えば誰の著作や発言に現れてるのかい?
まさか君の印象だけで言ってるわけじゃないよね? >>226
文系のくせに英語出来ない奴山ほどいるけど、理系は英語も出来るからねえ >>228
君の言う「日常言語」ってのはどういう意味だい? 哲学的に反省のない存在論は、素朴存在論になる。その意味では、いわゆる
分析哲学が論じる存在論も概ね素朴存在論に属する。分析哲学で許容されて
きたのは、せいぜい、素朴存在論に疑念を呈する立場にすぎない。 ダ・ヴィンチのものとして残っている重要な哲学的業績は知られていない。 >君の言う「日常言語」ってのはどういう意味だい?
あらかじめの意味の定義に基づかない言語の用法。 >>228
数を足す和の数列が ×
数を足す和の数列を ○ >>235
ふーん
じゃあ哲学は「あらかじめの意味の定義に基づかない言語の用法」で説明されていますか? >>233
>>哲学的に反省のない存在論は、素朴存在論になる。
それは誰の定義だい? >>237
そのような試みの繰り返しだけが哲学である。似非哲学については知らない。 「日常言語」という場合の「日常」は、多分、ドイツ語の「gewöhnlich」に相当する
のだろう。この場合の日常」を「慣習的」や「習慣的」などと言い換えると、
慣習/習慣→慣例→仕来り→決まり事という発想が働いてしまい、慣習/習慣が
固定的に捉えられてしまう恐れがある。 英語の「ordinary」を用いても、
http://www.etymonline.com/word/ordinary
early 15c., "belonging to the usual order or course,
という語源の連想から、「秩序」のイメージが先行してしまう。 こうやってメタ言語的に表現の意味を明らかにしようとすることは、定義しようとする行為とは
根本的に異なる。 哲学において重要なのは、自らが用いる表現を明確に定義することなどではなく、
有効な表現を用いることであり、用いられている表現が有効となるような解釈を
もたらすことである。 >>239
じゃあ日常言語で説明されている哲学って例えば誰のなんという著作だい? >日常言語で説明されている哲学
哲学が日常言語で説明されている?
そういうものを求めているのなら、人生哲学か、経営哲学の本でも読めば? >>247
日常言語で説明している(しようと試みている)もの以外は全部似非哲学なんだってさ >>247が私だが?
哲学を日常言語で説明するのではなく、まだ日常言語で表現することが
できていない、つまり、十分に共通の理解が実現されていない事象を日常言語
で説明しようとする試みが哲学であると言っている。哲学書をいくら
一般読者向けに俗流解釈したところで哲学にはならない。 >>249
>>つまり、十分に共通の理解が実現されていない事象を日常言語
で説明しようとする試みが哲学であると言っている。
だからその試みをしている哲学者とその著作を上げてみてよ このことは、数学の場合と考えてみれば分りやすい。
近年、「宇宙際タイヒミューラー理論」というのが話題になったが、数学を
専門としていても研究分野が異なれば、「宇宙際(うちゅうさい)」が何を
表しているのか、「遠アーベル」とはどのようなものか自分が明確に理解でき
ていると考える人間の方が少数派だろう。それでも、そのような表現自体が
一般に何の理解ももたらさないことは問題とされない。用語が明確に数学的
に矛盾なく定義されているかどうかだけが問題であるとされ、理解が
広まらないなら、必要なのはm理解されるような表現を模索することではなく、
定義をきちんと共有して、内容を理解できる専門家を育成することである
とされている。哲学において求められる理解とは、そのようなものではない。 場合と考えてみれば分りやすい ×
場合との対比で考えてみれば分りやすい ○ >>250
そのような疑問が浮かぶあなたにお似合いなのが、松下幸之助「実践経営哲学」あたりではないでしょうか。 哲学と数学は危険な事故だよな。昔はな。今も昔も変わりはないよ。 定理?スピノザも理論重視だし、晩成の数学屋さんもいるかもね。 ものごとには向き不向きがあるのだから、自分に向いていないのなら、
哲学も数学も無理をしてまでやる必要はないでしょう。 無理か。リハビリは哲学の方が相性がいいが、繁殖は数学の方が抜けているな。 あなたがはぐれてしまったのは私のせいではありません。 >>259
あなたが数学がわからないのも数学者のせいじゃありません >>253
>>つまり、十分に共通の理解が実現されていない事象を日常言語
で説明しようとする試みが哲学であると言っている。
上記の君の主張について、その論拠を求めているわけだが、何の論拠もありませんと言うことでいいのかな? あなたは対話をするつもりが一切ないのだから、相手にするだけ無駄ということです。 こんなところで相手を探すより、弁論クラブにでも入会して、ディベートの勝ち負けの勝負でもやっている方が合ってますよ。 それはあなたが何を十分な根拠とみなすかに依存しているので、自問自答するしかありませんね。 説明君はこれに関する論拠は何も出せないというとでした
239 考える名無しさん sage 2017/10/23(月) 11:10:28.83 0
>>237
そのような試みの繰り返しだけが哲学である。似非哲学については知らない。 これに対しても何の具体例も出せませんでした
>>227
>>数学と哲学を疎遠にしているのは、なによりも数学のイデオロギーとして
染みついた素朴存在論でしょう。
その数学のイデオロギーってのは例えば誰の著作や発言に現れてるのかい?
まさか君の印象だけで言ってるわけじゃないよね? ・ボクチンが数学がわからないのは学校のせい
・ボクチンが数学がわからないのは親のせい
・ボクチンが数学がわからないのは数学者のせい←イマココ 異論があるなら、自論を開陳すればいいだけですよ?
誰も止めませんよw 何でも日常言語であらわせるなんて、単なる信仰。
前世紀の一時期、そういう変な信仰が疫病のように拡がったけどね。
早いはなし、クオリアは言語だけでは表現できない。
暗黙知に属する広大な「知」は言語が及ばない。 公文式とかいくらやっても数学の本質は分からんのだよ >>228
つーか、なんで数学がそんなことをして哲学との分け隔てるものを無くしてやらにゃいかんの?
いつもの甘ったれ思考全開やね >>275
違うな。日常言語の表現は"Gewohnheit"によるものなのだから、反省によって
変化する。わずか200年ほど前の一般の日本人に「地球の自転」とか「降水確率」
とか言っても全く通じなかっただろう。しかし、今では、海外旅行に行くのに
太陽と地球の自転の関係により時差調整が必要になること、降水確率が10%か
80%かで雨具を用意していく必要があるかどうかなどを考えることは、当たり前
になっている。専門分野で研究を進めていくのに特殊な定義や概念を発達させ
ていくにしても、専門家も日常言語への依存を断ち切ることができるわけでは
なく、またそれが望ましいわけでもない。無反省に定義や概念を発達させると、
必要以上に場当たり的な表現が整理されずに生じるだけでなく、日常言語
が無反省に不適切に隠喩として用いられ、混乱と矛盾がもたらされる。
共通の理解を得ようとするなら、専門家も日常言語を手がかりにする他なく、
自らの意図がうまく伝わるように表現を模索する必要がある。専門的な
理解の方に無理やり日常言語の表現を合せようとすると、権威に依存した
オカルト神秘主義が生まれる。 上からの学究的圧力ではなく、
世俗の語に合わせた科学的仕事なんですな。 139 自分:考える名無しさん[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 07:22:11.24 0
>>138
911 名前:考える名無しさん[sage] 投稿日:2017/10/01(日) 11:35:18.87 0
数学の哲学というのはアメリカなんかであるし、レイコフみたいに数学を認知言語学的観点から理解しようとしする試みもある。
いずれも知的刺激に充ちていて面白いよ。
しかし、数学というのは、生物のタスクとしてはまた独特の由来があるんだよね。
数字は数詞として表現され、数詞は名詞だと理解されてる。
ところが面白いことに、数詞が処理される脳の領域は、普通の名詞が処理される領域とは異なるとかね。
明らかに日常言語的な理解の働きと重ならないんとこがあるんだなあ。
神経ネットワークだから、一部は重なり、一部は重ならないんだろうが、ネットワーク・モジュール群としては相対的に明らかに自立してる働きらしい。
こういうのって、生物学や神経学の知見もあわせて考るともっと面白いよ。
スタニスラス・ドゥアンヌ 「数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み」など参照ください。 違うよ。専門分野の研究者自身が日常言語に依存しているから、専門的な概念
と日常言語の乖離が大きくなると、辻褄を合せることができなくなって、オカルト的な
理解が生じる。ジェットエンジンを設計するようなエンジニアの卵(某軍事強国からの
大学院生だった)と話をしていて、その人が「相対性理論に基づいて」素朴にタイムマシン
が実現可能であると信じていたから、あっけにとられたことがあったな。 >>279
この人、クオリアや暗黙知の話してるのに、なにピントのずれたレスしてるの? たとえば、あなたは生まれつき盲目の人(あるいは赤い色を見たことがない)に、「赤い色」を言葉だけで説明することができない。
そういう質感のこと。 「あなたに私の気持ちは分らない」と言うときの「私の気持ち」は質感ですか?
それが質感だとすると、「私の気持ち」をあなたが感じること決してないのだから、
「私の気持ち」を説明することは決してできないということになるのでしょうか? >>286
脳の中だけど、どんな風に書き込まれているかはまだ分かってない 数学やアルゴリズムから汲み取っていくべき、意匠なり思想がそこにあると
すれば、それは平等ということだろう。数学やアルゴリズムには差別はなく、
権力におもねることもなく、一部の国家や地域、民族を優遇したり、排撃
することもない。人間だけでなく、生命系、自然、宇宙を含めたすべての
存在者を平等・等価に公平に扱うので、こういう点に実は数学の強みなり、
本来的な価値があるのではないかと思う。
だから、宇宙際 タイヒミューラー理論のように、数学に宇宙という呼称を
取り入れて、あえて数学を宇宙レベルで想像していくような発想は、数学
の本来性を考えれば、むしろ適切と言えるのではないかなと。 すべての存在者を抽象度の高い数学宇宙で表現・記述していけば、そこに
党派性は介在しないし、一過性の恣意的な優位・劣位性もなくなり、すべてに
差異や個性を有しながらも、本質的には等価なものと表現される。だからそういう
意味で、数学やアルゴリズムには、倫理的な要素が本来あるのではないかと
考えられる。それに、アルゴリズムや論理を無視すれば、人命も失われやす
い(例 : 神風特攻、イスラムの自爆テロ、自然破壊)。逆に言えば、
アルゴリズムや論理の手続きを遵守すれば、人々の命も守れるし、より多くの
人々、生命系、自然、宇宙、すべてにとって最適で良い状態というのも
本来、可能であるのだろう。 右傾化に象徴される現代の世界は、小さい退屈な人間が増えている。小さい人間とは
なにか。それは、目の前のものだけに固着・拘束される不自由で了見の狭い、
スケールの小さな人間のことである。要するに、単なるエゴイストのことである。
エゴのレベルがせいぜい、家族から地域、国家レベルに拡張したぐらいで、
地球規模、宇宙全体を考える思想・思考の射程はそれらの小さな人々にはないし、
小さな暗い井戸の中で溺れている状態、それがそれら小さな卑小な人間たちだと思う。
私たちはそういうエゴイスティックで卑小な人間を目指すでなく、数学的に
抽象度を上げていき、すべてを一切を包括できるような無限の思考の射程を
目指すべきだね。数学や統計などを学ぶ時には、こういう大きな視点もどこか
認識の片隅においてもらいたいもの。そうすれば、それらの人の使う数学や
アルゴリズムや社会や自然、宇宙。未来にもに役立つような素晴らしいものに
なるだろうから… なるほどね。しかしレベルが翻訳不可能なわけじゃないよ。 タイヒミュラー
ドイツの数学者(1913-1943)
ナチ党の信奉者で1931年に突撃隊へ入隊し、1933年にはユダヤ系教授
エトムント・ランダウの排斥運動にもかかわっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/オズヴァルト・タイヒミュラー http://users.math.yale.edu/~yhm3/research/limset/pictures.html ●1933年、ヒトラーが政権を取ったとき、意外にも国際的に高い評価が下されていた。
「ドイツ政府元首ヒトラーが共産主義ならびに虚無主義とあくまで戦う決意の人で
あることを認め、喜びにたえない」
(ローマ教皇ピウス11世)
「ヒトラーの成功はボルシェビズムに対する防衛の強化である」
(イギリス『デイリー・メール』)
「結局、ヒトラーの善意は保証できる」
(アメリカ『ニューヨーク・タイムズ』)
米誌『タイム』の表紙を飾った
アドルフ・ヒトラー
アメリカの雑誌『タイム』は、
1923年に創刊したアメリカの週刊誌であり、
世界初の「ニュース雑誌」としても知られている。
この雑誌が毎年決定する「パーソン・オブ・ザ・イヤー」の
第12回目の受賞者はヒトラーだった(1938年)。 ●こうした評価の裏には、当然理由があった。ヒトラー政権の誕生を国際的にも
認知し、陰から後押ししたのがバチカンであり、またヒトラー政権は米英仏の
世界体制の中で、「反共主義」でソ連を敵とすることが期待されていたからだ。
ローマ法王もナチス親衛隊(SS)にいたんじゃなかったかな。当時、それが
普通、という空気だったのだろう。今の物差しで見るから、変に映るだけで。
今の右傾化も、頭悪そうで相当に変だよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています