数学を初めとした理系の学問と哲学について 9
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特別な日取りだけ数式が出る血統の方が。
自動筆記なんてもう実現されてるし
、記号論でもまだ、数学って中学レベルだから、
記号も割合便利だけど、パソコンじゃ記号遣いに限界あるし、
ま、お遊びぐらいは付きあうけど。 >>951
いやむしろ
数学は主観で行っているのになぜか精密
客観という概念がおかしいのではないかと思うくらい 数学の精密思考は、基本的に哲学と相性が良い気がする 客観と主観の合一じゃないけれど、客観ていうと、客観テストとかあったと思うけど、
或るそのような認識形態も後発世代としてはなかなかのレベルに仕上がっていますけどねえ。 それゆえ、、私が与えられた多様を一つの意識に結合することができるということによってのみ、私はこれらの表象における意識の同一性を自ら表象することができるのであり、換言すれば、統覚の分析的統一は何らかの総合的統一を前提としてのみ可能なのである。 感性的直観に於いて与えられた多様は、必然的統覚の根源的、総合的統一のもとに属する。
なぜならば、この統一によってのみ、直観の統一は可能だからである。しかし、与えられた表象
(それが直観であろうが概念であろうが)の多様が、それによって統覚一般のもとにもたらされるような悟性の行為は
判断の論理的機能である。 したがって、あらゆる多様が、それが一つの経験的直観として与えられているかぎり、
判断の論理的機能の一つに関して、規定せられている。すなわち、この機能の一つによって
意識一般たらしめられるのである。ところで、しかし、カテゴリーとは、あたえられた
直観の多様が判断の機能に関して、規定される限り。まさにこの判断の機能に
ほかならない。したがって、また与えらえた直観における多様は、必然的に
カテゴリーに従うのである。 私は私の現実に存在しているということを、時間のうちに規定されたものとして
意識している。あらゆる時間的規定は、知覚におけるある持続するものを前提とする。
この持続するものはしかし私の内なるあるものであることはできない。なぜなら、時間における
私の現実的存在がこの持続するものによって、初めて規定されることができる
からである。したがって、この持続するものの知覚は私の外なる物によってのみ
可能なのであって、私の外なるものの単なる表象によって可能なのではない。 カント 純粋理性批判ですがね。年を取ればそれほど難しくありませんが。 つぶれてる意識って感じがするけど、後半はなおよいな。
こういう認識形態をしている人もいて、なかなかに複雑で勉強になる、
じぶんがというわけじゃないのだけれどね。 >>954
> いやむしろ
> 数学は主観で行っているのになぜか精密
数学者たちが主観で行ってきたのは何を公理と認める、つまり公理系の選択だ
実際には無数に互いに相矛盾するが無矛盾だと信じられる度合いは同等なレベルの公理系が無数に存在し得るが
実際に数学者が日々研究して数学の論文や教科書が書かれている現実の数学が展開されて基づいている公理系は1つだけと言っても過言じゃない
1つだけが暴論というならば両手で数えられる個数しかないと言えば間違いないだろう
> 客観という概念がおかしいのではないかと思うくらい
数学に客観性を与えているのは数学を展開する論証手続きを演繹的な論理、それも実際上は古典1階述語論理だけ、に限定していること
この古典論理で演繹的な論証だけしか認めないというストイックさによって、誰が論証したかに依らず論証における正しさの保存が保証される
この演繹だけに限定することで、数学は「公理群を正しいと認める限り、そこから得られた諸命題(定理や補題など)も全て正しい」と主観の介入なく全ての数学者が合意できる
これが数学の客観性の根源
数学は公理系の選定では極めて主観的だが、いったん、公理系の選定について合意した後は、論証という数学を展開して行く手続きとしては
主観の介入を許さず客観性を保証できる演繹というスタイルだけに厳しく限定しているという(ということを全数学者たちの間でコンセンサスが出来ているという)ことだ
数学者が色々とアイデアを考え試す際には演繹(deduction)以外の帰納(induction)…例えば具体例について計算してみることなど…や仮説設定(abduction)といった
思考プロセスも自在に活用するのは当たり前だ
だが数学者が仕事の成果つまり数学の論文を発表する場合には、論文の前書きや後書きは別にして、新たに発見した定理の証明や未解決問題の解決(これも証明)は
すべて演繹という客観性が担保された手段だけで行うということだよ
そういう客観性が担保された手段だけで作り上げられた論文の堆積が現実の数学だから、数学は客観的なのだ、少なくとも公理の選び方を別にすればね >>968
おいおい客観の成立可能性を前提としちゃうのかよ
客観の成立可能性ってのは未だに全くもって根拠が無いんだぞ 無根拠なアプリオリな一致が数学的手続きに存在するのではないか?
ということだが
それはもちろん客観という概念とは異なる イン ポスト ワ エリ オリ?
オリオンとサソリのはなしも懐かしいね。 どっかの辞書で
「ムタトノミネデテファブラナーラタ」
っていう言葉を見かけたことがあるんだけど、何の辞書か忘れちゃった ラーマーヤナに勝るものはないよ。牛飼いラーダー クリシュナ。 インドと数学で連想されるものと言えば、ラマヌジャンか。 >>975
無とかゼロとかがあらかじめ存在するというようなものか。 無とゼロは存在自体というか、定義というかまったき異質で非似なものだよ。 在る處に在り 在らぬところにはないということだけじゃないわけだな。
宇宙開闢の若さよね。 インドの辞書なんて持ってなかったんだ
ただ意味は当時のメモを見つけたから分かってて「その言葉はお前にも当てはまる」らしい >>968
この説が正しいのなら、極端な話、数学の客観性は将棋というゲームの客観性と
あまり変わらなくなるね。数学での公理系の選択が、将棋というゲームのルールを
どうするかという選択・同意に該当し、数学ならその選択された公理系に基づいて
演繹していき、将棋なら、その同意されたゲームのルールに従ってのみゲームが
展開される。歩を後ろに動かすとか、卓袱台返しとかのゲームルール外の動きは
ゲーム内で容認されないのと同じ。 >>987
難しい言葉の意味だな。サンスクリット語かヒンディー語か何かのように思えてならない。 サンスクリット ヒンディーは 語学や語圏ではないよ。将棋倒し
のような?念動眞空派とか。呪の世界だね。 数学は中学までで十分 確率や統計 微分 積分 とか 代数幾何とか
カリキュラムに応じて時間配分しないと、力学や物理にも言えるけど
電子回路も大事だし、天候気象なども大事でね地学もあったかな。
間違えると悲惨かもね。生物、化学もね。 将棋何て止まって休んでるだけの怠惰さだから謀られやすいよ。囲碁囲碁。 囲碁は陣取り合戦だよね。
まあ、将棋よりも大局観がないと出来なさそうな競技かな。 >>991
最近は物理基礎とか化学基礎とかで浅く広く文系の学生に勉強させてるみたいだよ。 あと、数学の指導要領の改定で、
文系の高校生向けには統計を入れてその代わりにベクトルを抜くらしい。 数学ができる人って、図描くのうまいよね。字の巧拙は別にして。 そういえば、絵も上手かったな、自分。
デッサンとかも前はやっていたし。 このスレッドは1000を超えました。
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