認識論 Part1
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認識論は神経科学・認知科学の進歩とともに発展するみらいある分野 単位と円周率は表裏一体でしょう。 それに対して、秩序とは、単位とは異なる数の何らかの特定の 累乗の組合せの対比ではないでしょうか。 直交する秩序が増えていけば次元も増えていきそうなものだが、 なぜか3+1次元止まりだ。 とりあえず情報を考えると、ブラックホールに情報が落ち込むと表面積が広がる。 蒸発を考えなければ、ブラックホールは記憶装置である。 1ビットのブラックホールを考えるなら、情報が落ち込むとは、テンソル積による拡大である。 これがなぜか、3+1次元で拡大のしかたが変わり、表面積になる。 たしかに素数は2,3の次は4ではなく5である。 4になると崩れる。 なんらかのジャンプまたはリープするような現象がないと5次元にはならない。 不変量がとれなくなるので4で2x2に戻されるのだw そのように考えると、4次元になると2次元にもどされ情報が2次元上に書き足される。 それが3次元になり、4次元になるとまた戻される。 2から3へそしてまた2へ、投影される3次元と、2次元に書き足される並進対称性としての時間と、 あわせて3+1次元。 とてもでたらめだが、それらしいホログラフィック理論のイメージになる。 とりあえず、哲学ではその程度でよいと思う。 (本格的にはブラックホール理論と超弦理論とそこからでてきたホログラフィック理論と、 おそらく4次元の微分トポロジーでこのへんがあるていど確からしく記述できるだろう) ただ、哲学では、そんなことまで考えるのはつまらない。 それが確からしいのであれば、「言語」も同じ構造を持っているはずだ。 方程式などつかわないでも言葉で語ることが不可能ではないはず。 言葉自身を言葉で語る。メタ言語などいわないでも、注意深く丁寧に語ればなんとかなるのではないだろうか。 でもめんどくさいし、視覚情報の豊穣さには負ける。 図示すべきなのだろうか。図示(図式)の哲学。(哲学における哲学の、哲学のための圏論(のようなもの)) 計算することについて考察した哲学にはどんな著作があるんだろう? 算術とか数学の哲学とかではなくて、数える行為や、物事を数量化して 捉える認識そのものから、それに基づく計算までの関連を総合的に 考察する哲学。例えば、檻に何匹動物がいるかと問う場合、トラが 2匹いて、蚤が27匹いて、蚊が6匹いたとしても、2+27+6=35匹 いるとは数えないし、そういう数え方に意味があるとは考えない。 関心に応じて数えるから、数えるものを限定するわけで、この場合、 普通、トラの数が問題にされると了解されるわけで、あまり問題が 生じないけれど、食べ物の栄養の計算とかになると、何がどう 数量化されるのかもっと曖昧になるし、総合的なリスク計算とかに なると、そもそも、何がリスクと見なされるのかがはっきりしなく なる。 何が誰にとってどのようなリスクと見なされるのか。「人類全体にとっての リスク」というのは、一見何か具体的なことを言い表しているようでいて、 旱魃で農作物が全滅するとか、ハリケーンの被害が増大するとか、低地が 水没するとか、単に自然災害の被害のイメージを寄せ集めた漠然とした印象 に依拠していて、複合的なリスクをどう評価するのかについて、何も判断 基準を示していない。例えば、発電所を増やすことは事故や環境への悪 影響のリスクを増大させるが、不安定な電力供給で停電が頻繁に発生 することは、病院の機能を麻痺させて、患者を偶発的に死なせるリスクを 増大させる。 一般的に、現実に人の命が失われる事態が生じることがリスクとみなされる わけだが、「人類全体にとってのリスク」という場合にリスクをどう評価 するのかが難しくなるのは、例えば、乳幼児の生存率が上がるというような リスクの低下そのものが、環境問題に関して言えば、そのまま「人類全体に とってのリスク」を増大させることが、他の生物種の場合と変わらないこと だろう。 犯罪的傾向をもった人間を排除するのはリスク軽減につながる 環境に関して言うとがん細胞である人間の現象が逆説的にはリスク軽減につながる さて、ここらあたりでSVOチューリングマシンを考えるとしよう。 SはSubject(主体・主観)である。 これに対するOはObject(客体・客観)とする。 これらは集合のようなものと考える。○で考えよう。 客観→主観 である。 客観は主観の部分集合だ。 しかし、主観はpassiveではなくactiveであるべき、と考える。 主観→客観 この→を「V」としてSVOとする。 そうすると、O→Sとはなんだったのか? OがSの内部に部分集合として写像してO’になると考えるなら、 O→SはSへの外部からの入力である。 S内部での、入力された情報がO'だ。 ただしO'は、一部を取りこぼしているかもしれないし、 よけいなノイズを含んでいるかもしれない。 入力時の帯域が狭ければ、O'はぼんやりしているだろう。 元はOなのに、O'から分離してまとわりつく眷属的なものが独立したo'のように現れるかもしれない。 S→Oに戻る。 Oを、入力されたものとするならS→O'である。 しかし、O'はぼんやりしている。 SはS内部にS'をつくり、そのS'の中にO'を取り込もうとする。 S→Oとは、ぼんやりとしたO'をS'で取り囲んで、より明確なO''をS内部に確定させる働きである。 これを実装しようとすると、Sをどのようにつくるか、である。 ここまで書いたことなど、ディープラーニングなどがやっていることと同じだw よりタイニーに、必要最小限のものだけを考えてみる。 O→Sは、OからのSへの入力である。Sの内部でO'となる。 これはぼんやりしている。(帯域が狭いからである) S→OはSによるアクションであり、入力されたO'をS'によって認識する。 S'は「意識あるいは無意識」。 S'はO'より小さいかもしれないし大きいかもしれないが、 S'とO'が同一になる、ということが望まれる。主体と客体の同一化である。 とりあえず、細かいことを考えずに思考を進めるために、 Sを1ビットとする。 究極の主体であるw 極端な状況でSはどのように振る舞えるのか考え中。 Sを1ビットとする。 Sは、その1ビットの0/1をコントロールできるとする。 O→S 入力も1ビットしかない。 入力されたO'がSを上書きしてしまうとすると、 SはOをそのまま認識するということになる。 しかし、この話はおかしい。 エネルギーで考えてみる。 Sの初期値が0で、入力が0のとき、1ビットしか許容できないのだから、 0がひとつ弾き飛ばされる。 同様に、S=0,O'=1ならば、S=1となり、もとあった0が弾き飛ばされる。 S=1,O'=0なら1が弾き飛ばされ、 S=1,O'=1でも1が弾き飛ばされる。 Sの初期値が弾き飛ばされる。これは熱になる。 Sが熱を受け取れなければ、Sの外部に放出されるだろう。 これはSの出力である。 Oが、実在するかどうはさておいて、Sと同様のものであるとすれば、 Oが入力を受け取るかもしれない。SとOしかいない世界であれば、そうならざるをえない。 SとO以外にもビットが必要だ。 SとOの間にVがあるとすれば、Vもビットである。 SVOの三者が揃った。 VはSと交換して新たなVとなり、新たなVはOと交換して、さらに新たなVになる。 Vが更新されるのではなく、そのまま入れ換わるのだとすれば SVO->VSO->VOS->OVS->OSV->SOV->SVO もとに戻る。 1ビット(2状態)x3=6状態 これが2-3チューリングマシンになるためには...また後日考えよう。 SVOを3つの粒子と考えても、2粒子分の情報しかない。 Vとは、いったいなにものなのか。 Sの主観として、これらに’(ダッシュ)をつける。 S'V'O'は、Sの内部にあるSの主観である。 Sという空間の中で、V'が作用することでS'=O'になろうとする。 S'とO'は曲率(をさらに抽象化したもの)が異なる。 これをつなぐV'はタイヒミュラー空間である。 V'は物理量を生み出す。 主観内部の客観であるS'=O'が外部に投影され、客観的物理量が、 複数のS間で共有される。(ただし、主観的共有である) S'=O'に至ろうとするのが「意識」であれば、 客観的物理量とは「意識」の投影だ、ということになる。 一番その側の○を()で表すと、 (○○) ()がSで、そのSの内側にVとしての○と、Oが反転したO'としての○がある。 だんだんわからりにくくなったのでダッシュをやめて¬を使う。 Sの内部にあるのがVと¬Oとする。(V,¬O) Sの内側からみているのでS自身は¬Sとして見える。 物理量がSの外部に投影されるなら、それは¬Vである。 まだ、ちょっとおかしいが、ま、そのうちなんとかしよう。 ¬S,V,¬O Sの内部にV,¬Oがあり、 かつ、Oの内部に¬S,Vがある。 これが2粒子のSVO宇宙である。図示すればわかりやすいのだろうが... 意識をSの内側に閉じめるとすれば、SにはOからの入力がなければなにも成立しない。 OそのものがSに入力されるなら、ビリヤードボール・コンピュータでもよい。 Oそのものでないとすれば、Oの出力がビリヤードボールwとしてSに衝突する。 しかし、それを光とすれば、Oが発光している、というわけではないのだから、 光源が別に必要となる。 ならば、最初から、外側の世界はビリヤードボールが飛び交う世界であると想定する。 SとOはビリヤードボールを交換する。 SとOだけ考えるなら、このビリヤードボールは、仮想粒子なのだが... 情報を持っているとすると保存則をみたさない。SとOしかないのだから。 しかし、そう考えると、SとOが情報を(最初から)持っているとするのも保存則を満たさない。 ¬Sと¬Oも「ある」としなければならない。そしてこれらの関係となるVもV,¬Vがある。 ここまでをうまくまとめるCDTが必要だ。 (S,¬S),(O,¬O) これのテンソル積をとると(S,O),(S,¬O),(¬S,O),(¬S,¬O)が得られる。 これらを頂点とした四面体をつくると、 (S,O),(S,¬O)の辺がS、 (¬S,O),(¬S,¬O)の辺が¬S、 (S,O),(¬S,O)の辺がO、 (S,¬O),(¬S,¬O)の辺が¬Oになる。 (S,O),(¬S,¬O)の辺をV、 (S,¬O),(¬S,O)の辺を¬Vとする。 Vと¬Vは、どちらを正/反にするか悩む。そのうち入れ替えるかもしれない。 外から見るとS,O,Vは対等であるが、 SとO由来の2ビット分の情報しかない。 これは2粒子限定の世界だが、 O→Sという入力に対する、クオリアと意識を四面体に組み立てたものだ。 どこがどのようにクオリアで意識であるか、それはこれから考えるw SとOだけではただの四角形であり、一粒子に還元されてしまう。 この還元メカニズムは正当性を検証中。 Sという主観のもとで、V/¬Vを意識とすれば、四面体としての立体的なクオリアが組み立てられる。 意識によってクオリアが維持される。 このクオリアをSの外部に投影したものが物理量となる。 「赤」の波長を、S内部に「赤」のクオリアとして捉えるのではなく、 「赤」のクオリアが、S外部に「赤」の波長として投影される。 他のSが、同じOと関わるのであれば、四面体ではなく五胞体になるだろう。 特に、SとOに区別をつける必要はない。 主観としてのSと、その他のSとでつくられる五胞体だ。 主観としてのSと、その他のSの意識は交わらないが、 外部に投影(出力)される。(外部といっても主観的な外部だが...) 二粒子限定だが、このように考えると、 Sの主観によるOのクオリアとは (S,O),(S,¬O)=S (¬S,O),(¬S,¬O)=¬S (S,O),(¬S,O)=O (S,¬O),(¬S,¬O)=¬O だけではなく、 (S,O),(¬S,¬O)=V (S,¬O),(¬S,O)=¬V も、V,¬Vという「意識」でつないだ立体である。 正確には、この立体を物理量として投影した残りの情報が「クオリア」。 物理量から取り残されたpropertiesである。 チェシャの猫のにやにや笑いだけが取り残されたようなもの。 量子ビットでいえば、古典ビットが観測されたあとに残ったもの。 S,Oだけ考えるなら、それは「位相」という情報。 量子の場合、観測された後の、量子自身の主観と、持っていただろうクオリアはどこへいったのか。 どこかに、なんらかの形で回収されている「はず」である。 これは「記憶」である。 とするならば古典ビットも「記憶」を持っている。 古典ビットの内側は無いのだとすれば、外側に??? とするならば、時空間あるいは宇宙とは、「記憶」である。 この「クオリア」は、1ビットのSによって1ビットのOを捉えた/捕らえた/囚えたものである。 Sの固定によって、1ビットのOをもつれた2粒子に分解される。 片方が物理量。片方が物理量を抜いた「クオリア」。 一般的に語られる「クオリア」は物理量を抜いたほうであり、 元の「クオリア」と紛らわしいので、元の「クオリア」を「クオリア体」として区別しよう。 Sの固定によってOは「物理量」と「クオリア」に分解される。 「物理量」と「クオリア」は「もつれ」ている。 物理量とクオリアが、ひとつのSの中で決定されるのであれば問題はないのだが、 物理量はSの外部で決定される。 Sが固定され、Oが外部で決定されると、「クオリア」には情報がない。 「クオリア」は情報を持たない、純粋な「位相」である。 Sが固定されずに、Oが固定されるとすれば、 Sと「クオリア」が「もつれ」ている。 そしてSと「クオリア」で1ビットの情報しかない。 かなり限定された状況ではあるが、とりあえず、「クオリア」の正体はわかった。 情報を持たない純粋な「位相」である。 この「クオリア」が異なるS間でやりとりできるのかどうか、というのは、 量子コンピュータで検証できるだろう。計算上では「可能」だ。 しかし、「転送」しかできない。クローンはつくれない。 しかも、悲しいことに、異なるSでは違うものになるだろう。情報を持たないのだから。 扱う帯域は狭い、ということになるが、統計力学的な手法でなら、 「クオリア」を数値化できる。 とりあえず、そっち方面はおいといて... 文学理論における認識論的「クオリア」。 こっちのほうがおもしろい。わざわざ文法的なSVOにしたのは、そのためだw (このスレから離れないように無理やり「認識論的」とつける) 四面体というのは、4x4の量子ゲートをCDT風に表しただけである。 そこにも物理量とクオリアがある、が、 現実的にはさらに、8x8の量子ゲートを複数つなげる必要がある。 これが手強い。四次元のイメージになってしまうから、なかなか進まない。 四面体で考えうるクオリアは「(量子)もつれ」である。 「もつれ」だけうまく分離できれば、それは(限定されてはいるが)「クオリア」といえるだろう。 0/1/xを頂点とした三角形で万能理論が構築できるのではないかと考え中。 0/0/0の三角形は0である。1/1/1やx/x/xも同様に1とx。 いやー、いろいろなスレで通りすがりにいろいろ考えた。 結局、すべてをマッピング関数とみなすことで万能理論がつくりだせる。 三角形を、とりあえず、マッピング素子として機能させされるかどうか検討。 それは認識素子でもある。 指導原理となるものは、対称性原理であろう。 そんなものあるのかどうかは知らないが、 0次元複素球面を考える。 純粋な虚数球面だ。 これが局所的にみいだせるものを0次元複素多様体とする。 純粋なクオリアである。 クオリアは実数部を持たない。 そのように考えてみる。 クオリアは「位相」である。そう決めてしまうw ただし、ここではtopologyとphaseを意図的に混同させる。 「点」が「点」自身を「認識」する場合、 「点」になんらかの内部空間があり、そこに「点」自身のコピーを置く。 このコピーの情報を「どこかに」射影することで「点」としての自分自身の象を「認識」する。 どこから手をつけるか、といえば、やはり、コピーを作るための「入力」であろう。 「点」には「入力インターフェース」が必要だ。 と、考えていたのだが、「入力インターフェース」を独立させてしまえば、 「点」自身を、「入力インターフェース」が作っているのかもしれない。 主体としての「点」が「入力インターフェース」によってつくられる。 「入力インターフェース」をさらに抽象的に考えると、「射」である。 そして主体はcodomainだ。domainの所在は不明である。 この「射」を、とりあえず「写像」とみなして考える。 どこにどのように「写像」するのか。そしてそれはなにものなのか。 morphism deviceを考える。 長いのでmorphと呼ぼう。 morphはobjectとobjectをつなぐ。 objectが同じものであればそれはひとつしかないのでid射となる。 しかし、objectはない。 morphの両端がつながるとそれ自身がid射となり、objectになる。 morphは新たなobjectになるか、そうでなければ他のobjectをつなぐ。 これだけで形式体系がつくれれば「世界/宇宙」になるだろう。 場合によってはobjectが開いてmorphに戻るかもしれない。 morphオートマトン。 なんらかの必然性のある(自発的な)ルールが必要だ。 スピンのようなものがあればよいのだが、 とりあえずは、対称性原理しか考えない。 morphは対称性素子でなければならない。 そして、同じものはひとつでなければならない。 objectとは閉じたmorphのことであるとし、 開いたmorphは、そのままmorphと呼ぶ。 同じものがひとつであれば、 objectとmorphの二つしかない。 それっぽいので、objectを0、morphを1にしてしまおう。 0/1しかない。 これに0/1の重ね合わせ状態としてのxを加えて、 0/1/xになる。 さて、そこからどのように発展させようか。 同じものはひとつなのである。 ひとつといっても空集合のようにいたるところに部分集合としてみいだせるのに、 ひとつしかないものもある。 同じものがひとつであって、いたるところにあらわれて、その中を通れるなら ワームホールかもしれない。 射自身も対象であるなら、最初から輪(ループ)とみなすのがよさそうだ。 射は輪っかである。 対象と対象をつなぐのであれば、対象2つも輪である。この輪を射としての輪でつなぐ。 ただ単に3つの輪があると両端の輪は同じなのでひとつになり2つの交差する輪も同じなので 最終的にひとつの輪しかない。 交差数だけではひとつになってしまう。 この輪に回転の向きを与える。 他の輪との交差交差数と回転の向きで区別がつけられる。 向き付可能な輪っかのおもちゃでも買ってこようと思う。 とりあえず、輪としての射と交差とスピンが必要だ。 これだけあれば世界を構築できる、かもしれない。 磁界と電界のような。 そして、同じものなのでひとつなのだが可能なすべての場所?にある。 それでもひとつだ。 輪っかを買ってきてイメージを固めよう。 ふふふ。 ともかく、細かい説明を省けば、 この世界/宇宙は輪っかとその交差(鎖)と輪っかの回転の向き付に還元できるということ。 スピンネットワークの変形だけどね。 現実世界にまで適用できるかどうかはわからんが、人工宇宙はつくれる。 「認識」を考えたとしても、なんらかの「射(圏論)」が必要である。 「射」なくして「認識」はない。 外的対象(現象)と内的対象(精神活動?意識?心?)をつなぐ「射」は、 直接的でなくともよい。間接的でもたどれるかぎりは問題ない。 量子もつれであってもよい。 同じものは離れていても「ひとつ」であって、もし、ワームホールとして機能するのであれば、それでもよいだろう。 伝達されるものが「情報」でないのならば、光速を超えていても問題はない。 人工意識、または、人工自由意志。 因果的動的三角分割理論(CDT)と量子ゲートを融合させればよい、と考える。 先に考えた「クオリア」が自由(free)であればよいのだろう。 「クオリア」と、「赤はなぜあのように見えるのか」という問題を切り離す。 「赤」については、単に自由クオリアが「赤」のスイッチを押すにすぎない。 qualiaを認識関数とすれば、 qualia(red入力)が赤のスイッチを押す。 押すべきスイッチパネルを引数に与えるなら、 qualia(色の入力, switchパネル)にようになるだろう。 入力と出力関数を引数に与えるようなもの。 同じqualiaであっても、出力関数を色ではなく味にすれば、 赤をみたとき赤い味を感じるだろうw 味を入力して色を出力させるなら、赤く見える味もあるw 認識あるいは意識を考えるためには、 まず、人間以前からスタートすべきだろう。 そして、さらに物質以前、宇宙の始まり。 時間以前にたどり着けば、始まりなどない、というところに落ち着く。 結局、認識論や哲学そのものは宇宙論以前において、 時空間ではない哲学領域で考えねばならない。 思考が、時空間的に発展させる必要があるのはしかたがない、 が、そのへんもそのつど見直す。 無定義用語としての「点」からスタートさせたいのだが、 数学的な「点」は意味を持ちすぎている。 哲学であれば、やはり、「無」であろう。 「無」は「無」である以上、「ない」のだから、なにも考えない。―終了― (つづく) 「無」とは何か。 哲学的に問うとしたら、そうなる。 哲学とは、「無」から「無」へ戻る「物語」である。 「行って戻ってくる」のが「物語」なわけだ。 どこへ行くのかは、とりあえず、問わない。 戻ってきたときに、並進対称性によって変化(成長?)する。 「物語論」とは「超対称性変換」と同じである。 「認識」には「物語」が伴う。 「物語」無き「認識」はありえない。 などと、ぐだぐだ書いているのは、今日思いついたアイデアを煮詰めているのである。 某所に「裏」などと書かれていたので、それを逆・裏・対偶と考えてみたら、 アイデアが浮かんできたので煮詰めている。 「誤読」により間違った「認識」を「現象」に貼り合わせる。 そこに新たな(認識論的)オブザーバブルがあらわれてくる。 実測できない概念的なオブザーバブルか? それを(広義の)「クオリア」と考える。(広義の)「タイヒミュラー空間」でもよいだろう。 認識論的タイヒミュラー空間は、認識論的クオリア関数の集合である。 脳科学のおかげで、脳のどこを刺激すれば、どういう表象が生じるのかが分かってきた ○を2つ、線でつなぐ。 ○ー○ つながる、ということは、「同じ」、ということ。 そして、つながる、ということは、「違う」、ということ。 「同じ」であって、かつ、「違う」から、つながっている、のである。 真に「同じ」であれば、ひとつになってしまう。 真に「違う」のであれば、つながらない。 「認識」あるいは「認知」という問題を考えると、 そこには、なんらかの「境界」がなければならない。 「境界」を越えて「つながる」ということ。 どうやって「つながる」のか。 ○ー○モデルでは、「共有結合」だったのかもしれないが、 「境界」を越えて「共有」できなければならないとしたら、 主観側からの一方的な、なんらかの「客観的共有」があるのかもしれない。 「同じ」ということを「引力」、 「違う」ということを「斥力」、と考える。 ○ー○は、引力と斥力で均衡を保っている。 さて、「認識」における「境界」をどのように考えよう。 人間であれば「肉体/身体」というインターフェースが「境界」である。 「境界」が認識主体の「仮想世界」をつくっている。 「仮想世界」そのものが「認識」あるいは「認識世界」だ、としてしまってもよいだろう。 人間を想定しない場合、 ○ー○の間にある「ー」がインターフェースである。 ○の片方を主体、もう一方を客体としたとしても、 変化がなければ、認識もなにもない。 それは、「ただ『ある』」。 「ただ『ある』」だけでも、「認識」かもしれない。 「変化」さえあれば...たとえレベル0であってもレベル0の認識を定義できるかもしれない。 ○は、もうひとつの○との間に、引力と斥力を持つ。 ○はpropertiesである。propertyの集合。 このpropertiesが、どのような力でまとまっているのか、それが問題だ。 propertyひとつを考える。 propertyがひとつの値しか持たないのであれば、そのpropertyに変化はない。 変化がないと困るので、2つの定数propertyをまとめてひとつのpropertyとする。 propertiesには階層がある、と、みなす。 最下位のpropertiesを0と1、あるいはFとTの定数propertyとする。 果たして、それより下位がないといえるのかどうか。それも問題だ。 S (set theory) S is an axiomatic set theory set out by George Boolos in his 1989 article, "Iteration Again". S, a first-order theory, is two-sorted because its ontology includes “stages” as well as sets. Boolos designed S to embody his understanding of the “iterative conception of set“ and the associated iterative hierarchy. S has the important property that all axioms of Zermelo set theory Z, except the axiom of extensionality and the axiom of choice, are theorems of S or a slight modification thereof. 非常におもしろい。 こういうものをみていると、公理的認識論というものも「あり」かな、と思う。 Universe間の貼り合わせが意識/認識であるという考えに至った。 Universeをclassとし、貼り合わせをcastとした型システムで、現物を考察してみる。 認識とは何か。 人間を想定しない。 認識するものと認識されるものをともに、議論領域としての宇宙とする。 議論領域間での変換あるいは対応を「認識」とする。 かなり無理はあるが、階層をつみかさねればそれらしくなるだろうw とはいえ、「認識」の必然性がなければ意味もなにもない。 どんな必然性があるのだろう。 「認識」のブートストラップ探しである。 wniの鈴木里奈の脇くっさ (6 lゝ、●.ノ ヽ、●_ノ |!/ | ,.' i、 |} ', ,`ー'゙、_ l \ 、'、v三ツ / |\ ´ ` , イト、 /ハ ` `二 二´ ´ / |:::ヽ /::::/ ', : . . : / |:::::::ハヽ https://twitter.com/ibuki_air https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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