時間とは何か、28
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https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1545687347/ これは、時間とは何か、26 27も有りますが。 この、馬鹿げた疑問、何故それが問題なのか そもそも、問題とは何か 過疎5ちゃんのこのメンヘル板で うんこ垂れ流し製造機が 浪費してるもんじゃないか? 今此処の獲得 此処、と、今とは連動する。今が分からない、つまり、時間が分からない、のは(時間が意味づけられない)己れの行き先、目的地(存在論的な目的地)が分からないからだ。 此処、今と言う。それが己れのいる(存在する)所だ。己れは、私は、此処今にある。また、此処今こそ、世界である。此処今とは、世界内存在としての己が、世界内存在する所である。 此処今は、いわゆる日常的なそれではない。存在論的に意味付けられた、此処今である。存在論的に意味づけられて、初めて現存在は今此処を獲得する。その獲得と同時に存在者は世界内存在となる。 存在者の時間 時間とは何か、と言うこの問いは、まず第一に時間の意味を問いたてています。時間の意味が存在論的に構築されなければ成りません。 そして、次にこの問いは、時間そのものの実存的な実態を求めています。 この事情を、車とは何かの問いで考察します。車がどんなものか、全く分からないとします。まず、車の意味を掴まなければなりません。さて、車の意味が把握出来たとして、次に、車は体験されなければ成りません。車に乗る、車を運転する。そして、初めて車が分かったのです。 存在論的に、実存論的に構築された意味の時間を、我々は体験するのです。そして、その体験こそ、時間、我々の、存在者の時間です。 >>3 ここは何処か?は、何故こうなのか?とおなじ問いかけ 一回こっきりの世界と、時刻地点は対応するはずだが、 その間の関係を一般化できないから、 何処であるかという問いはいたずらやでたらめに帰すだろう 具体的に説明すると、 赤のクオリアがどのように決まるのか、という話で、 物理的な時間と空間の条件とクオリアが一対一対応しても、 どんな条件のとき、どんなクオリアになるのかという法則は 見つからないだろうということ ここは何処か?は、一般性があって、相対化されて、 はじめてわかることで、 一般性がなくて、相対化されないものに対して問うと、 不定になるだろう 数日の間、夢に秩序と和がたくさんでてきて、ちょいとうなされていた。 令和の発表の予知夢だったようだw order and harmony というBBCの訳は秀逸ですな。 無秩序をシミュレートしながら、その中に秩序ができるのを眺めているが、 このうまれてくる秩序がどのようにして自発的に成長するのか。そこが問題だ。 harmonyとしてのもうひつの糸が必要なのだろう。 我も夢見た 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 17 23 15 とかいう数列の夢だった 秩序から無秩序になるウルフラムのクラスWのルール、カオスの淵的な話だ そこでなんだけど、 自然数は、ペアノの公理でつくられているわけだが、そこに必然性はなくて、 別のルールで定義できてもいいはずだ 秩序から無秩序になるルールで、かつ、カオスの淵を無限大に飛ばしたときに、 自然数を定義できないかと考えている いわゆる、自然数の別表示だ 秩序の裏には無秩序があり、必然の裏には偶然がある ペアノの公理は必然的だが、偶然に思えるような定義の仕方があっていいはずだ、 別の公理を打ち立てるとまではいかなくとも、無限大まで自然数と一致するような 関数を見つけてもよい これの何が有用かと言えば、ゼータ関数の別表示が得られるということで、 零点の情報が含まれている可能性があるということなんだな まあ、スレタイと結び付ければ、 自然数とはなにかということが分かれば、時間や空間の真の意味が明らかになるだろう ということだ 65537角形 無限角形 円 一角形 order and harmony 難解の理由 この、言わば新しい存在論を詳しく記述するとすると、恐ろしく複雑、難解になる。どうしてそうなるかと言うと、例えば、この存在論は彫刻作品の様なものです。その実態は言語での記述が困難です。それで詳しく表現するとすると、その彫刻作品の設計図を書くことになる。 設計図を書くこと自体が、恐ろしく複雑、困難です。新しい設計図表記の方法から開発する必要がある。さらにそれを読む者は、その設計図を読み解いて、自身で彫刻作品を組み立てる事になる。 記述する者にとっても困難で、読み解く者にとっても困難、難解なものとなる。 この解説は、比喩です。比喩でなく記述する必要がありますか、それも恐ろしく複雑、困難です。 現象学 その研究方法と、記述方法は現象学的になる。そこでまず、現象学について考察が必要である。 現象学的な研究の、正しさ、厳密には正当性と言った方が良い。この正当性は、なにか、悟りとか諦めに似ている様にも、思えるかも知れないが、そう言ったものではない。 それは、ある種のW見越しWである。 この見越しは、物事の行く所、行き先であるが、また、物事は実際には、それ以外の所へと行くWことW(事態)を、含んでいる。我々は物事の行く先を、確実には知り得ない(不確実性)。 しかし、それでも、その見越しは何らの諦めを含んではいないし、何かの悟りの様なものをも含んではいない。 一見、それらのものと似ている様に思えても。 学問的に確立された、またされ得る、見越しの重要な性質である。 「時間」を考えるために、いろいろ実装しながら探求している。 哲学的手法として圏論のようなものを使えるかどうかを、なぜか、圏論を実装しながら考えた。 「圏論」は、「自然」に理解するための言語である。 ビッグバンを考えるなら、「時間」には「始まり」がある。 「始まり」以前というものは無いのだが、われわれの時空間から、それを導き出すとすれば、 「虚時間」という扱いになる。(少なくとも「虚時間」には異なる2つのものがあるので混同しないように) 「虚時間」のほうが本当の時間wであり、われわれの「時間」のほうこそが「虚時間」であると 考えてもよい。考えるのは自由だ。 そう考えたほうがおもしろい。 われわれの時間が「虚時間」であるならば、その「虚時間」を組み立てるための「情報」が必要になる。 ホログラフィック理論によれば、この「情報」は2次元上に記述可能なものだ。 ここまでの考えで、見過ごされたものはなにか...というと「組み立てる」ということであり、 誰が何がどのように「組み立ててている」のか。そこが問題だ。 「組み立てている」もの、それが「主体」である。 「主体」とはなにか。 「主体」とは「主体自身」によって「自己同一性」が与えられたものである。 「主体」は他の「主体」を「客体」として取り込む。 そう考えて実験してみる。 空圏は対象も射も持たない。 空圏はid射を持たない。 それは空圏という圏の内部の話であって、空圏そのものを対象として扱う限りはid射を持つ。 空圏だけを対象とする終圏を考えると、これまた集圏自体は対象ではないのでid射を持たない。 とすれば、終圏を対象とする終圏はどーなるのか。 この外側の終圏と内側の対象としての終圏は同じものなのか。 終圏を世界とすれば、マルクス・ガブリエル的に「世界は存在しない」のか、 あるいは、そのような形で「世界が存在する」のか。 あるいは、バナナの皮が自分自身を踏んでコケることでバナナの皮が存在することになるのか。 とりあえず、自分で自分を踏むことで存在してしまうという可能生を検証してみようw そう、マルクス・ガブリエルを「世界存在仮説」として逆読みしてしまうのだ。 とすれば、そのようにして「意味場」がつくられるということに... そこから抽出されるのは「意味場」「現象」「存在」。 「意味場」において「現象」することが「存在」であり、 「意味場」に「存在」することが「現象」であり、 「存在」という「現象」が「意味場」をつくる。 公理的集合論が回避しているものの正体。やっとみえてきた。 「時間」との関係もみえてきた。 3すくみ的な関係にあるもの。それがもたらすもの。 そこに「時間」の犯人がいる。 しかも、推測するところではビッグバンの犯人でもある。 外延性公理と修正された内包性公理。 とりあえずこの範囲で考えていたのだが、 正則性公理というものがあった。こっちのほうが大きなヒントを与えてくれる。 こいつが射影や多世界となる根源であると考える。 V=WF いくつかの同値であるとされる定義があるけど、これが(わたしには)一番わかりやすい。 こいつがどこから生まれてくるのか。生まれてくるのならば「公理」ではない。 われわれの世界では「公理」であるわけだが、われわれの世界からはずれればいいのだw より大きな世界で考えねばならない。 わたしの理論wでは、みえているのは1/4で、がんばって推測しても1/2、残りの1/2にたどり着くことはできない。 どうすればよいのか。 ひとつの案として、R={x|x∉x}をみとめてしまえばよいのではないか、と考える。 ただし記号(符号)あるいは特殊な函数を付加する。 その定義を函数化するのであれば、圏論による自然変換でわれわれの世界にもってこれればよい。 単純な対称性ではなく、超対称性であろう。 超対称性であれば、われわれの世界にも痕跡がある。それが「公理」。 制限をつけない外延性の公理と制限をつけない内包性の公理は共存できない。 これが、「時間」が一方向であるという原因であるw (ただし、拡張されたフォン・ノイマン宇宙における時間ということに限定しておこう) 超対称性はフェルミオンとボソンの関係であり、スピンが1/2ずれている。 観測者(主体)を含めることで解釈できると考えているが、外延性と内包性の問題も 同じだろうとと思う。観測者(主体)の立ち位置の問題であると考えるなら、 フォン・ノイマン宇宙を拡張することができるだろう。 とか、4/1に書こうとしていてすっかりわすれてた。order and harmony, 秩序と調和。 超対称性変換を2度行って元にもどることが時空間や変化を生む。 問題は、それでエントロピーが増大するならば熱死しかないのか、ということ。 もうひとつメカニズムがあるのではないかと考えられる。自発的にひっくりかえる砂時計。 3つのパターンが3すくみというか三つ巴というか、たがいに変換されるのはパウリ行列で いいのかと思って計算してみたが、パウリ行列は冗長であり、3ビットのパターンで十分だということも判明した。 冗長さをとりはらったパウリ行列と超対称性で、ひとまず2-3チューリングマシンは形成できる。 しかし、熱死しないチューリングマシンがほしいw もうひとひねり必要だ。 あれだか、双対空間が時空間や変化を生むかというと、いまいち結びつかないな 双対性は時空間の要件で、変化は自己言及の所為なんじゃないか 宇宙が熱死したらいかんというより、むしろ熱死したほうが対称性があって必然的なように思えるが 自発的にひっくり返る砂時計、 そいつはあれだ、無限遠点で秩序から無秩序に変わるゲームのルールと、ウロボロスの蛇だ ようするに、2通りある @部分で無秩序、全体で秩序の熱死から、突然 全体で無秩序、部分で秩序にひっくり返る場合と A部分が全体に、全体が部分にひっくり返る、つまり、 部分の最初と、全体の最後、全体の最初と部分の最初が 一致する場合 砂時計がひっくり返るとき、@とAどちらがおきたかわからない、 砂時計がひっくり返らないということは、@とAが同時に起きているか、@とAがどちらも起きていないということだ これは妥当であるように思える、というのも、 病的な(カオスの淵で定義されるような)自然数も、 静的な(ペアノの公理で定義されるような)自然数も、 区別されるものではなく、 どちらの方がより必然的であるかとは問えないからだ 超対称性変換演算子を独自につくっていろいろためしているが、 どこを時間とみなすのか、いまひとつわからない。 あまりにもきれいにボソンとフェルミオンを変換してしまったのでどこにもズレがないw 変換したこと自体をなんらかの形で履歴として残すのか、多粒子系でスピンの組み換えを発生させるのか、 どれがよいのか実験中。おそらく両者は等価だ。 よーするにポアンカレ変換で並進対称性をひきだすらしいのだが? なにぶん物理ではなく計算機科学としての(量子)演算であり、空間が最初からあるようなものではなく、 存在するということが情報空間における位置を持つということであり、さらには基準となる 観測者(主体)がいないと決定できないなどという縛りでやっているからw ま、必要最小限のものしか持ち込まない/考えないというやりかたは正しいと確信している。 ともかく、スピン0とスピン1/2の超対称性変換はきれいにできている。きれいすぎるのが難点。 みおとしているのは、変換を2回適用する、ということ自体が痕跡を残さないということ。 過去の履歴を残さないといけない。 熱死することを認めるか、履歴を消化/昇華?させる方法を探し出すか。 あ!「未来」によって相殺できるかも。できねーかなー。(雪ふったので運転せずに酒のんでぐだぐだ) なんかキレイすぎて時間も空間も変化しないと思ったら、 「基準」もいっしょに変換してましたw 「過去」といっしょに「未来」も重ねていけばバランスはとれるが、どこかで清算しないかぎり永遠に... 圧縮されていって解像度が限界を下回ると消えていくとか。参照されなくなったら過去はガベコレされる。 やはりガベージコレクションモデルですね。 参照されなくなった過去は消滅する。そりゃそーだ。 考えてもない未来は存在しない。そりゃそーだ。 誰も見ていないとき月は存在しない、のではなく、誰も月という存在を思い出せなくなったとき月は消滅する。 その場合、月は新たに発見されるかもしれないし発見されないかもしれない。 参照されているものだけが存在する。 参照ネットワーク。 とするならば、ネットワークが「分断」されることもある。 主体のいない側の分断されたネットワークは主体からみて消失する。 再接続は不可能。 「超対称性」が並進対称性としての「時空間」をつくる。 超対称性変換を二回行うことでもとに戻ってきたとき少しだけ変位を持つ。 二度というのは昼から夜の世界を経てまた同じ時刻に戻るが翌日になっているということだw 12時間制の時計が2回。 これは「物語論」である。行って戻ってくるということが「物語」のもっとも基本的なものなのである。 「時間(空間)」とは「物語」なのである。それゆえに「実在しない」。 と、いうことは、「物語論(narratorogy)」も「超対称性論」なのであろう。 ここに、「(一般)超対称性論」と「物語論的宇宙論・物語論的認識論・物語論的存在論」の成立を宣言するw うう。 誤: narratorogy 正: narratology rrと打ったらlまでrになってしまった。これも「変位」なんだろうか。 こちらの世界では間違いだが、あちらの世界の物語を経て戻ってくると変化がある。 そこになんらかの「物語」がある。「論」から「理論」になるためには解析が必要だw 超対称性の関門をくぐって夜の世界に行き、また、関門をくぐって元の世界に戻る。 このとき時空間という物語がうまれる。 超対称性のペアとなる粒子はあちらの世界にあり、こちらの世界では見つけ出せない。 本を読むという行為が、本を読むという行為によってうみだされる時空間をつくる。 本を読むという行為の時空間とは別の時空間である。 この時空間を、「プルースト時空間」とでも呼んでおこう。 われわれの時空間は、量子時空からうみだされる『プルースト時空間」である。 量子が紅茶にマドレーヌを浸したのだw 佐野量子ではない。 過去も未来も因果関係も呼び起こされた量子の記憶を、さらにわれわれがわれわれの世界として構築した物語時空間である。 「わたし」と「われわれ」の間でも量子論的な超対称性変換が行われることで物語時空間を共有する。 量子時間(時空間)とわれわれの物語論的時間(時空間)との違い。 そこにも超対称性をみいだせる。 「超対称性」と書いて「プルースト(効果)」と読む。そんな気がしてきた。 だったら、こう言い切ってしまおう 「時間(時空間)とは量子論的プルースト効果によってうみだされる」 文学理論を超対称性理論であると考えたとき、文学からひきだされる時空間がある。 これをとりあえず「プルースト時空間」と呼ぶ。 読者が、読むという行為によって、読者の時空は超対称性変換を二度通って、少しだけ変質する。 読むのをやめた後でも、読者は読者の時空に残されたプルースト時空との間を行き来する。 これを振動とすれば、読書によって新たな振動を手に入れるということだろう。 Sir Roger Penrose、そして、Ernst Waldfried Josef Wenzel Mach。 ともかく、絶対的なものはみとめないw 「波」とは何か、ではなく、なぜ「波」があるのか。 それは「主体」との関係(直接・間接・それ以外を含むw)である。 では、「主体」とは何か、といえば、それも「波」である。 「客体・対象」も「波」であって、その関係も「波」である。 いったい何が「ある」のか。 「波」に形(形式)をあたえて「ひも」としてもよいのだが、 それは言い換えにすぎない。 「無」を「無秩序」とすれば、「波」とは「無秩序の海」における「秩序」であり、 そこに「調和」がある。 「秩序と調和」からうみだされるのが「不変性」。 絶対的なものをひとつだけ選ぶとすれば、それは「無秩序」。 これを、とりあえず、「無秩序の公理」とでも呼んでおこう。 これが「公理の公理」であるという証拠/痕跡を探し出さねばw おそらく、ネーターの公理(たくさんある)の中のひとつに「それ」がある/みいだせると思うのだが。 ここまで超対称性やらいろいろと考えてきたが、なにをやっているかということが わかりやすく説明されている本をみつけた。 SUPERSTRINGS AND THE SEARCH FOR THE THEORY OF EVERYTHING F.David Peat 1988 (超ひも理論入門(上・下)ブルーバックス 1990) なにぶん30年以上前の本なので、いまとなっては内容が古いんだけどね。 まぁがんばって頭をひねっているようだか、結局のところ、言葉の解釈も自己満足する創造論でしかないな>>39 超対称性変換は反交換する次元が追加された超空間上での(ねじれた)平行移動で説明される。 文学という「超空間」上で移動して、されがさらに変換されてこちら側に戻ってくるとき、 プルースト時空があらわれる。 レヴィ=ストロースの神話公式(Canonical Formula)に、似たようなねじれがみられる。 ま、めんどくさい計算はイヤなので、量子ゲートをつかって計算して、それらしい計算ができるか どうかを試しているが、マヨラナ粒子のようなのを供給しなければならない。 そう、フェルミオンとボソンをスピン1/2の集まりと考えたとき、数が合わないのだ。 そこを解決するために、「無秩序の海」の中での「秩序」という「波」を想定している。 「令和」が発表されるまでの数日にわたって夢の中で「秩序」と「和」にうなされていたのであるw 予知夢でうなされることはたまにある。 ...以下、超対称性変換と予知夢の関係をながながと書いたが、つまらないので削除w 自己言及の円環のうちにあらゆる場合が含まれている @行って帰ってくるまでが遠足 だという話だが、 A先生、今みんなと歩いているのは遠足じゃないんですか? と聞くジュニアがいたとして、 無論、それは遠足に他ならない それぞれの遠足はおなじ遠足なのか?ということが問題だ 遠足の自己同一性とはなんたるか?ということだ さて、 宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのかということと、 最小作用の原理を結びつけると 一瞬一瞬で宇宙は自己と最も近い状態を選ぶが、 最大となるような変遷を経て、宇宙は自己と一致する 言い換えれば、宇宙は自己であろうとして、自己ではいられず、最も遠い経路を辿って、自己に戻るような宇宙であるということだ 何度も書いたが、唯一無二の全能の神が、自己を作れるのかという話だ つまり、 遠足の自己同一性とはなんたるか?ではなく、 遠足とは自己同一性の獲得ことなのだ ❶遠足は自己同一性の獲得に必要であり、また ❷遠足は自己同一性の獲得に十分である、のだから そのような遠足は自己同一性の獲得と同値である もっといえば、宇宙とは自己同一のことである 唯自己同一論が爆誕したっちゃ ZEN no KOKORO、絶対矛盾的自己同一… 遠足の問題点はそこにあるのではなく、 バナナはおやつなのかどうかということである。 この哲学問題はいまだに解決されていない。 トリニクってなんのニクだというTV番組があって、憤慨した。 あの番組のスタッフはなにもわかっていない。トリニクとケイニクを混同している。 先生、バナナはおやつですか?(問題提起) バナナであるならば、おやつではない、かつ、バナナである。ならば、おやつではない。(トートロジー) わたしはバナナはおやつだと思います!(アンチテーゼ) 問題はバナナがおやつなのか朝食なのか食べ物であるかなどということではなく 宇宙のバナナな部位は経緯であるということだ。 経緯である事をバナナと想起することが宇宙には可能である。 ネアンデルタール人は共食いしてた 食糧難で餓死して絶滅したのです ネアンデルタール人の経過は当の昔に過ぎ去っているからすでに宇宙ではないということだ。 思想、宗教、信仰の自由により信じたい者が信じたいように信じればよろしい >>47 宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか(ロジャー・ペンローズ 新潮社) に共形サイクリック宇宙論の話が出てくる まあ、エルゴード仮説でのポアンカレ・サイクルは、 別の話だが、 宇宙が円環するというのは、わりと自然だ ようするに、因果関係を持たなくなることの果てとして、 宇宙の始まりと終わりは類い稀なる一致の目を見るのだ 超対称性変換を二度経て戻ってきたときの並進性は、 フェルミオンとボソンが、より大きな次元からの準結晶あるいはペンローズタイルのような写像であると考えられる。 それが物語空間や物語時間としてわれわれの時空になる。 イベントのつらなりとしてのストーリーである。 自発的なフォン・ノイマン宇宙の形成へ一歩近づいたと思う。 あくまでも物語時空以前の量子時空が最初からあるとは考えたりしない。 スピンそのものが自前で量子時空を持っているとする。 物語論におけるスピン。そして日常にある哲学的なスピン。いろいろ探ってみているのだが、 「言語/言葉」というスピンを考察するのが哲学にふさわしいような気がする。 素粒子論から考えれば、言葉はフェルミオンであり、言葉の間で交換されるものがボソンである。 これらの超対称性パートナーのスフェルミオンやボシーノはあるんだろうか? シニフィアンがフェルミオンでシニフィエががスフェルミオン? 逆? このパズルが成り立つかどうか、少し考えてみる。 登場人物が、フェルミオン・ボソン・スフェルミオン・ボシーノ。 スフェルミオンとボシーノはみえないが、シニフィアンとシニフィエだけでは足りない。 シニフィカシオンがボソンか? とりあえず、ソシュールからスピンをみいだすことができるかどうか。 直感的には言葉には二面性、すなわちスピンの向きがある。 破綻したかどうかはしらないけど、(破綻したのは構造主義ではなくポスト構造主義のほうだとおもうぞ)、古典的構造主義ではなく非古典的wにソシュールを扱う。というか量子論あるいは超弦理論的に扱えるかどうか検討中。 ちょいと時間があったのでCNN(ディープラーニングの)をいじってて、 ああ、超対称性変換使えるよなーとひらめいた。 そういう計算デバイスがあればという話だが。 超対称性変換を、ある対称性から別の対称性への変換と考えるとおもしろい。 直線的な運動を回転運動に変えるようなエンジンの逆である。 エンジンというかカムとかそっちのほうの機構か。 考えようによっては自然数も、より高い次元からの写像である。 「文学的変換」であると考えたい。 時空間とは「自然」により文学的に与えられたものである。 「対称性の変換」。それが文学なのかもしれない。 時間は文学である。 夢でみた。 スピン1/2の粒子はupかdownであり、自由度はもっているようにもみえるが、 基準がない(観測されていない)ためにupであろうとdownであろうと区別がなく、 量子論的はひとつの状態しかない。 重ね合わされている? スピン1/2の粒子が持ちうるスピンは±1/2の2つである。 スピン1の粒子が持ちうるスピンはスピン0,スピン±1の3つである。 これもまた、基準がなければupかdownかわからない。 わからない、というのは振動しているということだ。 そうすると、スピン0の粒子は振動していないのか、というと、おかしい。 寝ているのであるw スピン1/2のフェルミオンが超対称性変換で夜の世界のスピン0(スフェルミオン)となり、 もう一度超対称性変換で起こされてフェルミオンに戻り、朝になるのであるw 寝ているときに時間ができるw 映画のフィルムで考えると、コマとコマの間に超対称性変換のギャップがあり、 これを観測するとき、見えないギャップが時間という物語で補われる。 この「ギャップ」の異名が「公理」でもある。 公理的集合論にみられる回避された部分。それがギャップであり、夜の世界に通じている。 2つの世界をつなぐためには超空間が必要になる。 時間(時空間)が、超空間からより低い次元への写像(射影・投影)上での並進性を物語っている ものであるならば、超空間上での数学・物理学・文学・哲学などを構築すればよい。 これらの「〜学」などのようなものは、すべて、語られたもの/記述されたものであり、 それらをまとめて「言語」と語るのであれば、哲学がベストなのだが... 「超対称性」あるいは「超空間」を語れる「言語」。それが急務だ。 なんてね。 以下、思い当たるところをたくさんかいたが、つまらないので削除。 「否定」を超対称性演算子のようなものとするのであれば、「否定の否定」は肯定ではなく、 なんらかの並進対称性を含む。この場合の超対称性的な「否定」が超論理空間での... なにかグラスマン数のようなものがあればよいのだが。 反交換関係を「向き」と考えれば、たしかに向きはかわるわけだが。 と、おとととい考えていた。 「向き」と「方向」。数学と物理でいう向き・方向と、一般的な用語として向き・方向の意味は異なる。 数学と物理でも微妙に異なる。 一般的には「方向」も「向き」もほぼ同じ意味で使われるのだが、数学では異なるのだ。 なにを基準にして語られているか、が、異なる。 「真」を否定すると「偽」になり、その「偽」を否定すると「真」に戻る。 きれいな対称性をイメージしているならば「正しい」のかもしれないが、 「現実」にはさまざまな要因で、結果は「異なる」。 最初の「真」は2つ目の「真」と、「同じ」であり、かつ、「異なる」。 「同じ」であることと「異なる」ということが共存しているのが「対称性」なのだ。 そこに、「自然数」より、さらに基本的な「数学の基礎」がある。 それは「哲学の基礎」でもあるだろう。 「自然」の「基準」をどこに求めるか、それによってさまざまな「人工自然」がつくりだされる。 自然言語を考えるなら、文脈依存であり、固定された基準は「ない」。 同じ言葉でも文脈が異なれば意味が異なる。異なり方自体も異なったりする。 文脈も一部だけ切り出すならば、言葉の意味を変えてしまうことができる。 文脈をUniverseにおきかえてしまうならば、すべてものはUniverseとセットであり、単独で固定的・絶対的な意味を持つものなどない。 最初からUniverseをかかえていればよいのだ。 つーことは...いや...これは...一元論ではない。0元論かもしれない。 0元論(オーゲンロン)であって、零でもゼロでも無でも空でもない。 仏教的な解釈にひっぱれてしまわなければ「空元論」でもよいのだが。 知性ではなく、痴性あるいは恥性あるいは空性としてのブラフマンを想定する。 (ま、アザトースなんだけどね。空性ブラフマン/真性ブラフマン/非知性タイプのブラフマンw、 あるいはブラックホール) グラスマン数ではなく、(空性)ブラフマン数をでっちあげてしまおう。 空性ブラフマン数はゲーデル数概念を置き換えるものであり、ゲーデル数と同等でありながら、 つねに完全であることが求められる。 哲学的な数としてブラフマン数を考えてみる。もちろんそんなのもは存在しない。 ゲーデル数を超空間的に拡張するものになるはず。 ブラフマンはアートマンとセットだからなあ、 空性ブラフマンといったら、形容矛盾の観があるな 科学的実在論を空性ブラフマンと言ったら言いえて妙だが ところで、無我と梵我一如っぽい体験をしたことがあるから、紹介する 回転寿司の皿を眺めていた。皿を自分の人格に見立てた。皿の外に目をやると、底のない透明だった。どこまで覗き込んでも、透明だった。怖くなって辞めた。 梵我一如を想起して、微睡み、白昼夢を見た。見上げると、空が虹色のグラデーションをしていた。その色のスペクトルの中に、見たこともない色が混ざっていた。多幸感を感じて目を覚ました。 垣間見たという感じで、どっちも無我と梵我一如の境地に至っていないだろうが、 それらを極めたなら、カルマの状態は、ダルマが全か無かという点で真逆であり、また、一致するんだろうなと ブラフマンとは「力」であり、ボソンであると考えられるw そうするとアートマンはフェルミオンだ。 この2つの間に超対称性を考える。 アートマン側の世界にいるのはブラフマンではなく空性ブラフマン。 とすれば、空性ブラフマンはブラフミーノか?スアートマンか? そのへんはLHCでも、なにも発見されていないのでなんともいえない。 類似物wであるゲーデル数を考えてみる。 ゲーデル粒子はコンピュータのメモリ上にフェルミオンとして存在するが、 交換粒子としてゲーデル粒子はボソンでなければならない。 ええっと、ここまで考えて書いていたら、新しいイメージが着信してきたw このイメージを解明するために、ちょいと図書館いって素粒子論と数学基礎論を調べてくる。 そもそも「記述されたもの」と「作用する」ということの間に超対称性があって、 われわれは日常的に超対称性を利用しているのではないか? そのまえに昼飯。 超空間上でのねじれた移動なんてのは考えなくても、 超対称性変換を二度通って戻ってくる「履歴」を物語論的に解釈したものが時間や空間である。 文系哲学なんだから、そう考えてもよいw それを理系的に考えたのが超空間である。 そうすると、ゲーデル数という自然数との対応を、空性ブラフマン数という物語論的な自然数との対応に(超)拡張するならば、アートマンだけでなく、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァなども物語論的時空間にあらわれてくる、かもしれないw などと、ばかなことも考えてみた。 トリムールティとクォーク。クォーク神話?w 自然数をフェルミオンとすれば、スフェルミオンとしてのス自然数(素自然数)があってもよい。 自然数という並進性のある数の並びは、超空間によってつくられるひとつの物語である。 物語論的に解体して別の物語として再構築するのはユヴァル・ノア・ハラリのやり口ではないか? 再魔術化か。再魔術化とはreenchantmentであり、再魔術化・再魅力化・再魅了化。 これを、再・物語化であるとすれば、これこそがポスト・ポスト・モダーンである。 寝ていたのだが、思いついたので忘れないようにメモ。 車のエンジンは燃焼ガスのエネルギーをピストンの運動からクランクの回転にし、それがタイヤを駆動して並進的運動に変換する。 モーターを考えれば、リニアモーターは磁力の波によって並進運動し、これが円環となれば回転運動となる。 回転と並進の変換。対称性もこのように「物語的」に変換される。 「力学」とはメカニクスであり、これを力学(メカニクス)と書いて「物語」と読んでしまうのもおもしろい。 まあ、逆に考えよう。「物語というメカニクス」である。 さかんに「物語(論)(的)」といっていたが、ようするに理系で語られる「メカニクス」を文学的に表現しただけだ。 あとひとつ。「光子は歳をとらない」。それゆえに光は時間を持たない。 ならば、移動もしない。われわれの側が(客観的立場で)時空間を物語っている。 時間(空間も)は実在しない。 メモ終わり、ベッドに戻ろう。 あ、ひとつ忘れた。 BGM: vs.〜知覚と快楽の螺旋〜 実におもしろい。 超空間を調査するために数学基礎論などに手を出してゼータ函数をのぞきこんでくらくらしながらも、 1 + 1 + 1 + 1 + …=-1/2 にたどり着いた。 1 + 2 + 4 + 8 + …=-1 でもいい。 正規化(正則化)である。解析接続である。リーマン球面である。 イメージがやっとつながった。 12時間制の時計がリーマン面にあって2価関数であるとすればおもしろい。 2価であってもわれわれにはひとつしかみえないのだ。 >1 + 1 + 1 + 1 + …=-1/2 にたどり着いた。 >1 + 2 + 4 + 8 + …=-1 でもいい。 そのような計算結果になると考えることがどのように役立つのか? 「どのように役立つのか?」というのは、別に「金になるのか?」という意味ではない。その計算結果が妥当であると考えることが、波及効果として、一見無関係に 見えるどのような問いに対して妥当な答えを得ることを可能にするのか? パリのノートルダム大聖堂再建支援募金募集開始します。 無限級数がなにを表しているのかという問題に決定的な答えは「無い」。 なにしろ、「無限」を含んでいる以上、どのような「答え」でも可能なのだ。 このへんを勘違いしている人も多い。 「意味付け」がなければなにも引き出せない。 横レス失礼 自然数は、自然数に代替するようなほかの概念は考えられないわけじゃないですか 真理の説明可能性のある言語が複数あるのか一つしかないのか、 物理は、数学は、一通りのものなのかという問題に通じているけれども、 その意味で、自然数とは一義的なものなんだろうなあ まあ、それで、 無限級数と自然の対応、ゼータ関数の非自明零点の分布が原子核のエネルギー準位のモデルと同じランダム行列で表せるとか、 そういう答えもあったりするんだな 無限が出てくりゃなんでもありってことはなくて、 ε-δで定義されるような極限値が存在するんですわな、 そだねー。ここでいう「無限」とは素朴な無限。素無限w 極限値も意味付けですよね。 「意味付け」(特に人間が関与しないもの)とはなにか。考え中。 無限にも可能無限と実無限があるわな ε-δ論法って実無限から正当化されるっていうけれど、 感覚的には可能無限のような気がする 実無限は超準解析とか、その手の分野の話になりそう 超対称性変換を実装して試している。 スピンを持つ粒子の変換。 粒子のクラスに超対称性変換メソッドをつけてみたのだが、本当にここにつけてよかったのだろうか。 とりあえず人工時間の元はできたが、これをどのようにして物語時間(または空間)として誰が解釈するのか。そこが問題だ。 この、粒子クラスオブジェクトの外側にいて、それを観測しているのが主体である。 LHCによっても超対称性粒子は発見されていない。 たしかにこの計算モデルでも、主体の側からはパートナーとなる超対称性粒子はみえない。 そのかわり痕跡はみえる。その痕跡こそが物語論的時空間を作り出すものである。 時空間をスピン0のスカラー量として閉じ込めてしまったが、展開されたままにするのもおもしろい。 展開したままだと進行波になる。なんだかおもしろい。 現実的な物理世界と整合性がとれるかどうかなんてどーでもいいw このモデルでも過去に進めるのではないか? 負の時間を辿るとき、主体はどこにいるのか。時間をかけて考えてみたい。 書きたいことが山積してきた @意味の意味 ・ 自己言及 A1+1+1+1+・・・=-1/2 ・ 標数∞の自然数環 BFraconaro,Flaksl ・ フラクタルとカオス ・ 人工自然 順に書いていきたい @意味の意味 ・ 自己言及 意味の意味について考えていたのだが、「意味の意味」とはまあ、自己言及になっているわな この文を思いついたとき、不定形になるなという直観が働いた、 これは、循環論法になるな 説明のため、「意味@の意味A」とする、 意味@は意味Aによって担保される、意味Aは意味@によって担保される あるいは、無限後退するな 意味@は意味Aを要請する、意味Aは意味Bを要請する、・・・ こういうのにアプローチするならアナロジーを使うとよいだろう しかしながら、あらゆる言葉(words)は意味を持っているのだから、 意味とはあらゆる言葉(words)の中で特殊な位置にある、 そういうわけで意味とは、一義的であるのだから、 言葉(words)の中でアナロジーを見つけるのは不可能かもしれない 「定義の定義」もまた自己言及的だが、「意味の意味」の方が深刻だ 「意味の意味」のアナロジーとして、ラッセルのパラドクスの図書目録の話を思い出す 本の内容に対して、タイトルの載せるのが図書目録なら、意味はその逆をやっているだろう 以前 >意味がある >@名前がある >A価値がある >前者は関係性そのもの >後者は固有な関係の性質である >存在があるところ、意味がある >意味の否定は、存在性の否定である と書いた 意味がるとはどういうことかということだが、 意味を定義することは結果的に出来なかったように思える 「意味付け」。これを抽象化すると「射」である。 これより抽象化すると無くなってしまうw 少しだけ肉付けするならば「写像」なのだが、「射」はそれよりもっと抽象的である。 「射」は「対象」と「対象」の間にある。 対象とは「自己射」を持つものであり、これの究極形態は「自己射」のみとなるw 「射」すなわち「意味付け」しかないのである。 そのように極端な抽象世界を考える。 通常の「射」と「自己射」を同じ「射」としてカテゴライズしてよいのかどうか、 いろいろ実装して実験してみると、この世界の「因果」的ななにものかにじゃまされてしまう。 これを「超対称性」で克服できないものかと実験中。 われわれがいる世界を「昼」とするならば、「夜」の世界もある。 リーマン面を考えると、われわれが直接認識できない「夜」の世界は複数あるのかもしれない。 12時間制の時計で昼と夜の他にもうひとつ別の夜があって全部で36時間なんてことも考えうるw 映画のフィルムでいえば、フレームとフレームの間にあるギャップが「夜」である。 ギャップ部分には入り込めない。その最低サイズがプランクサイズなのであろう。 夜の部分を越えてフレームとフレームをつなぐとき、物語的時空間があらわれる。 それは、フレーム間での不変性と並進性への「意味付け」である。 実数は不確定性を持っている。 とてもおもしろい考えだ。わたしが考えたわけではない。 そう考えるなら、自然数だって不確定性を持っている。 それがどのような不確定性なのか、と考えるのは楽しい。 そもそも「確定」とはどういうことなのか。 仮説ではあるが、「確定」とは「情報空間における位置」であり、 それこそが「意味付け」である。 そう考えると、「数」は、われわれの世界において最大級の不確定性を持つものかもしれない。 ビッグバン級の不確定性だ。 この概念を説明するためには、非標準圏論をつくらねばなるまいw (圏論の統計性を考えると、圏論はボソン的である。パートナーとなるボシーノとしての 夜の圏論。はたして想像可能なものなのか) 逆に、圏論が夜の世界にあるのだとすれば、より小さなボシーノではなく、フェルミオン的統計性を 持つ、より大きなボソン、ボソーネ? いや、圏論をスフェルミオンとするならばパートナーは、われわれの世界にあるフェルミオン。 これでいいのだ。 実在とか存在とか、いりろな意味で同じ言葉が用いられている。 実在は先送りするとして、「存在」を考える。 大きく、 ボース-アインシュタイン統計に従うボソンと、 フェルミ-ディラック統計に従うフェルミオンにわけて「存在」を考える。 この意味では「時間」や「空間」も「存在」であり、ボソン的であると考えられる。 時空間粒子はフォトンかもしれないが、グラビトンも空間に関係している。 そう考えるなら、フォトン、ウィークボソンとその仲間、グルーオン、グラビトン、この4つが 総合的な時空間粒子かもしれない。当面は、ゲージ粒子=時空間粒子ということでよいだろう。 これらを抽象化するなら、これらが(こちらの昼の世界)「射」である。 (いくつの夜があるかわからないけど)夜の世界wでのゲージ粒子(のパートナー)はフェルミオンなのだと想定される。 この昼+夜+縮退した夜(余剰次元)のモデルでは、時間や空間も、昼の世界ではゲージ粒子だ。 とすれば、時間とはゲージ粒子である。組み換え可能であればゲージ粒子群から時間粒子をとりだせる。 時間は粒子化することができる! おもしろいけど、そのような計算モデルを確立できるかどうか。 組み換えられたゲージ粒子。 とすれば、物語論的であるということは、+夜の世界で組み換えて昼の世界に戻すことであろう。 ええっと、階層性問題に対する、超対称性モデルと余剰次元のモデルの統合。 つなげられるならば、おもしろい。とても興味深いパズルだ。実におもしろい。 「いろいろ」が「いりろ」になってしまったのはおもしろい。 iroiro->ir(o)iro いただきました。この変換ができる超空間。 連休中に乗ろうと思って、新しい自転車を買おうか、いまのやつを修理しようかと悩んでいたが、 初日から雨だったので気が乗らなくなった。 そして夕方には晴れたので、別の自転車で夕食を買い出しに行ったのだが、 ペダルを漕ぎながら(漕ぐということが回転になり並進運動になる)も、ひとつ思いついた。 ああ、この超対称性変換、そのまま対生成/対消滅のロジックに使える... というわけで酒飲みながら検討中。 時空間粒子の交換が「時間/空間」という物語をつくるのであれば、 対生成/対消滅はどのような物語なのか。 あああー、にんにく買い忘れた。 そのかわり思いついた。「不確定性」こそが「実在」。 「無」のみが実在であり、「無」は「無秩序(の海)」であり、「無秩序」は「不確定性」。 「無」「無秩序」「不確定性」。トリムルティ。ちょっとちがうな。 「無」の下にトリムルティがあるとすれば、「無秩序」「不確定性」とあとひとつ。 ブラフマー、ヴィシュヌだとすれば、シヴァが足りない。 あ、それが対生成/対消滅か。 >>90 「意味付け」が射であるというのはわかる よくわからんものを抽象して考えるというのも手続きとして有効だなあ 後だしになるが、意味を射、もっと具体的に写像、関数として考えようともしたのだが、 結局のところ、意味とは、射と同じだという着想にまでは至らなかった すべての対象が自己射を持つのは、ラッセルのパラドクスと同じ原理で、 自身に射を持たないすべての対象に射を持つ対象、は矛盾するからだ そのような対象が、自身に射を持つなら、自身に射をもたないことなり、 自身に射を持たないなら、自身に射をもつことになる 意味と射が同一視できるなら、ラッセルのパラドクスに陥るはずだ 意味の意味がどのようにラッセルのパラドクスに当てはめられるのか、 試行錯誤しているが、ぴったりといかない りんごの意味はりんご、というのは、なにも述べていないことに等しく、「意味がない」 そして、言葉は言葉であるからには意味を持つ ラッセルのパラドクスを逆さにしたパラドクスになるような気がする りんごの意味はりんごとは、恒真関数f(x)=xの事だろう、 ある関数とその逆関数の合成f?f^-1(x)=xは恒真関数になる 自己言及と双対性、部分と全体の関係が掴めsow(爽) 圏論のパラドックスについて長々と書いたが、つまらないので削除w とりあえず、意味の意味について。 射が(抽象化された)意味付けであるとすれば、 圏が(抽象化された)意味である。 意味の意味は圏の圏ということになり、意味としての圏(意味の圏ではない)が大きな圏である場合、意味の意味は圏論版ラッセルのパラドックスを引き起こす。 回避方法は集合論と同じw 圏の定義方法を制限(公理的圏論?)するか圏論版のクラスを導入するか。 ここで「圏」を「意味」にもどせば、 公理的意味論をつくるか、意味のクラスを導入するか。 あるいは...と、この「あるいは...」の可能性も模索中。 1.時間=永さの意味で使っている。 在り続ける長さ。現われ続ける長さ。 ある状態・ある状況が続き保たれる長さ。 作業を続ける長さ。行為を続ける長さ。営みが続けられる長さ。 世の中が存続する長さ。国が存続する長さ。歴史が続く長さ。 2.時間と呼ばれているものは、永さを概念化したものに過ぎない。 永さは、<始まって、続いて、終わる>という図式で捉えられるわけで <始まったら、終わりへと向かう><終わりへと向かうはやさを感じる> 時間の矢(不可逆性)とは、たったこれだけのことである。 3.時間を決めている。 どれだけ長く作業をするか、どれだけ滞在するかを予め決めている。 人類が考案した永さの物差しを使って <始まって、続いて、終わる>という図式に当てはめると <1時に始めて2時間続けて3時に終わる>というような表現となる。 4.命ある限り=生き続けられる限り=生きる時間が残されている限り。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる