時間とは何か 26
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
スレッド24が上手く入らない。誰か書き込むか。自分で探して貰うか。 存在の不思議
ミカンとは何か、を、紀州ミカンとは何か、にする。その問いがさほど熱気を帯びない理由は我々はそれが分かっている、分かったつもりでいるからである。
フェイクミカンと、ミカンのなかに仕掛けられた小型爆弾の話しをする、それはそのミカンが決して完全には分かってない事情を示す為である。
世界は、決して分からない。その中で絶えず新しい事件が勃発する。ガブリエルが世界は存在しないと言うのは一つにはその把握が困難であるからである。 >>4
> 平日ですよ
>
> 無職
>
> おじさんたち
自己紹介ですか? 意味の場
存在するものは、意味の場に存在する、ガブリエルです。世界はその存在する場がない、だから世界は存在しない。
世界が何であるのか、世界とは何か、その意味の場が明らかで無い事物者を、考察する時に有効であるのが現象学である。物理学的な知見も現象の研究からなっている。
事件が生起する場所が世界である。これは現象学的な言明です。その様な考察により世界とは何かに迫ろうとします。
物理学もまた現象を研究の対象としますから、現象学によって全ての学問を統一的に捉えられるのでは無いか。フッサールはそう考えていたのだと思われる。
時間現象
存在とは何かの問いも、その意味の場が明らかで無いからその研究は、現象学でしか出来ない。ハイデガーの洞察だったのです。
時間も明らかにその意味の場はありません。現象学によってしかその現象に、事態に迫り得ません。
時間とは何かは、つまり時間現象にどのようにして迫り得るかなのです。
(ジジェクが事件、EVENTと言う本を書いています) 物理学的な時間
また、時間の現象学的な説明は物理学における時間、それは実質的には時間の計測に他なりません。現象学による説明は、その物理学的な時間と言う事態をも説明するでしょう。
物理学的な時間の説明、言及は一つの事態です。我々の現存在の在り方とそれは深く関係しています。 物理学的に言えば、ハミルトニアンに対する推進演算子による
正準変換を考えるとき、そのテイラー展開表示に出てくる係数を
時間と解釈できる 正準変換と正準変換との合成は再び正準変換
になるということで、時々刻々と時は流れていくというわけだ
ハミルトニアンは状態を推進させるのだから時の流れは一方向 最後の一行とその前の行の間があまりにも飛躍しすぎじゃね? 問題は、そもそもハミルトニアンとは何か、
なぜそんなものが存在するのか、ということ 前4スレで、三次元が死体でうんぬんという理解があった。
三次元は運動しない、静止としてだし、四次元が三次元の無限集合ならばそうなる
運動する自然をその否定である静止で理解しなければならない
数はそのようなものとしてあり、自然に実在しない 月の裏側のトナカイ
月の裏側のトナカイは存在する、と言う言説を説明する理論、または月の裏側のトナカイの言説の存在理由を説明する理論、が物理学的な方法とその知を説明できるなら、それが認識論となるでしょう。
ところが、物理学的な知が何であるかを説明する理論が、月の裏側のトナカイの存在理由を説明できはしません。
そもそも、物理学は自身の説明がどの様な説明なのかについては言及しようとしません。
月のトナカイが存在するとは、何の話なのかを考究しなければならない理由です。 さっぱり意味が分からん
何で月の裏のトナカイを考えないといけないのか?
何故?そんなあり得そうもないことをかんがえるのか? サンタクロース
イギリスで、月の裏側のトナカイは存在するかどうかのアンケートを取る。どれほどかの人が存在すると答える。
さて月のトナカイが存在しないとすると、その結果を説明出来ない。さらにそのトナカイはサンタの橇を引くトナカイである。そのトナカイがいないなら何処にトナカイはいるのか。
さらにサンタはいるのか、いないとするとではたとえ偽物であるとしても何故、サンタの格好をした人物が現れるのか。
つまり、サンタの理念と言ったような存在が存在するのである。だからその橇を引く月のトナカイも存在する。
このサンタの理念は、毎年現れる偽のサンタを説明するのである。つまり現れるサンタの意味である。 >>20
イギリス人はユーモアのセンスがある、が答えだろ いや実際そうだね
「時間とはなんだろう」読んだか?
あれに書いてあるのは結局、
「時間の目盛りと方向はどうやって決めればよいのか」を巡る諸々であって
時制についてはスルーだからな >>23
理解に必要だから時間は実在するということですか? >>28
「理解に必要だから○○は実在する」などとは考えない
また、実在するものの全てが理解可能だとも思わない
そこでは単に、「物理学で時間を考える」ことの不完全さを言っただけ 物理現象としての時間であれば物理で考えてよい。
1ビット時空間だけを考えるならば、状態は2つあり、状態の変化は時間でもあり移動でもある。
過去と未来と移動は区別されない。そのうえに状態遷移すらも区別できない。
つまりなにも変わらないw 物理の世界で光速に近づくほど時間が縮むということを考えると大きさや長さが存在するように
時間も変数として存在しなきゃおかいしよな
ただ時間というのは不可逆運動だから時間を遡ったり飛び越えたりするタイムマシンは不可能だし
マンガみたいに時間を止めるってのはない >>31
縮むのではなく、伸びるのではなかったのでは?
ほぼ光速で進むものは時間がほぼ止まっているらしい。
外から見る者にとっては時間がほぼ止まっているように見えるが、
光速近くで進んでいるもの自身には普通に進んでいる。
同じ世界に別々の時間の流れが存在することになる。
それはおかしいと思うのだが… GPSの時間補正に相対性理論は使われてる
日常の感覚で言えば変かもしれないが、GPSの位置情報が正確なのも相対性理論のおかげ
認めるしかないだろう >>33
運動量大の系は伸びる→ゆっくり、かな?
俺は五十、双子のもう一人は四十とか? >>35
もう一人は光速度近くの系
俺は遅い系
でオーケー? そもそも完全さや証明を求めるのが誤りへの道
そんなのもともと無理なんだから
確からしいくらいで満足して進まないと進めない
物理学だって全部正しいか分からないよ
後から訂正されることもある GPSが正確になるという日常生活で恩恵を受けているのに? 完全性と暫定性
完全性の問題がある。我々は少なくてもある程の完全性を求めている。それによって行動しようとしているからである。
しかし、ある程の完全性と言う表現に既に、謎がある。完全性とは完全性であり、ある程のとは相容れない。
我々の在り方はむしろ常にある暫定性のなかにある。(我々の人間存在の)世界認識は常に暫定的である。 すくむ
未来的事件がある。これから起こるであろうと予想、予測される事件である。それらの事件に適切に、ある種、安心出来る用意が無ければ、我々、現存在はすくむ。これは、すくむと言う在り方の存在論的定義である。
我々は、現在、さまざまにすくんである。
未来的事件
未来的事件の予測は、科学的にやって来る。つまり科学が未来的事件を創り出したのである。 勇気
さまざまのすくみを超えて行く者が勇気である。当然、その勇気にはある程の危険が伴う。勇気の存在論的定義である。 無謀
無謀とは、十分な見通しが無く将来に入って行く行為である。十分な見通しや、用意なしに飛び込む者が無謀と呼ばれる。 パニック
襲って来る事件の姿が見えない時、現存在は不安にある。不安とすくみと、きれぎれの勇気のなかに個々の現存在はある。そして不安を紛らわせる為に集団の中に居ようとする、藁のような安心の為である。
皆が右に行くなら自身もその方向へ行く。皆が止まるなら自身も止まる。
集団が止まれ無くなって、乱れる時、パニックである。パニックは集団の体験である。パニックの実体は、個人的体験では無い。 >>44
この人の言ってることが理解できない
トンデモなく勘違いしてるとしか思えない
例えば時計の誤差が一定の場合、地球と衛星の距離によって、測定誤差が違うと書いてるが、それは誤解だろ
単純に時計の誤差分が測定距離の誤差になるだけ
そんなところを読んで信じるより
九州大学理学部の解説を読んだ方がよくないか?
http://maya.phys.kyushu-u.ac.jp/~knomura/museum/GPS/ イジメ
集団から疎外されると言う一見個人的なパニックがある。その実体は、つまり集団への安心の希望である。集団と言うなんとは無い安心が奪われたと思われてしまう危機であり、その唯々で集団的なものである。
この疎外がいわゆるイジメの実体である。、 >>51
一連の解説は時間とどういう関係があるのかな? 謀を予備にめぐらさない戦い方が無謀だよ。確かに無謀はきついぞ。 予備的分析
不安、すくみ、勇気などは現存在の在り方であり、つまり時間の意味なのである。フィロソファアによる時間の解説は、存在論的になる。それはそのまま現存在の在り方からの解説になる。
ハイデガーが言っていた現存在の予備的分析の予備の意味がこれである。現存在の分析の実行は困難を伴う。その困難は実存の困難であるので予備的な分析抜きには実行出来ない。 現存在の分析
現存在のあり方からのたとへば時間の説明は、現存在に関する予備的な解説抜きには実行困難であり、また伝達表現困難である。
現存在の分析は、多くの事実を連れて来る。むしろ多すぎる事実や、予見を連れて来る。よってそれらの予めの地ならしを必要とする。 解明とその効果
時間とは何かの説明、ないし何らかの回答があるとすると、その言説はその者の世界観を変えるだろう。人生観も変えるだろう。
その様な言説は、その他の現存在のさまざまの事柄、あり方と深く関係してあるのである。現存在のあり方と共にあるのである。 未来時間
未来、未来時間と言った概念は、物理学的には取り出せません。存在論的、実存論的に取り出せます。その取り出しには、現存在のそれに対する意味、つまり不安が出てくる。
ハイデガーは不安しか言及しませんでした。それは将来の事件として、現存在のすくみとなる。すくみは既に現存在の身構えを含んでいる。その身構えには、既にいくばくかの勇気がある。つまり将来とはきれぎれの勇気である。未来の認識には既にいくばくかの勇気がある。
(それを知る事が出来ないのはその勇気がないからだとは、言われていますが、これがその構造です。自身の未だ知らない物事を知る事には未来性が含まれている。未来性には未知が含まれている)
実存的、実存論的
こう言った現存在のあり方は、実存であり、実存的ですが、それはまた実存論的です。現存在の実存は、実存論的、実存的にあります。 冒険、退屈
きれぎれの勇気の間隙、そこの飛び越えが勇気ではありません。既に未来の認識に勇気があったからです。
勇気の間隙を杞憂と呼びます。この杞憂を飛び越える者が冒険です。冒険家とは杞憂を飛び越える者であり、その飛び越えの研究をしている者を指します。
冒険の匂いの無くなった状態が退屈です。 現存在の未来
こうして未来とは、勇気と冒険によって現存在にやって来ると(その構造は存在論的に実存論的に示されたのですが)示されました。または、その勇気と冒険心の整わないうちにやって来るものが未来です。 哲学で時間を語るとは
「オレのポエムを聞け」ということか 映画とか絵とかそう言った作品って、理解する事が面白さや良さを感じることと言われてる気がするけど
そもそも理解出来なきゃ本当に面白くないんだろうか??? >>62
理解できると面白いというのがあるが
理解できなくても面白い
歌の歌詞など意味のないものがかなりある
「歌詞に意味があったらカッコ悪い」という考えもあるみたい >>64
ポエムが嫌なら、プリンストンで超ひも理論をやることだな。 「時間」は「現象」なのか?
「時間」という「現象」はあるのか?
「概念」という「存在」として、「時間」はある/「自己同一性」を持つ。
しかし、「時間」は、「現象」としての「自己同一性」を持つのか?
「時間」は「現象」なのか? 「時間」を屏風から追い出して「現象」しなければどうしようもない。
しかし、「時間」を「現象」させても「今」しかない。
これでは屏風の中にある「時間」と変わらない。
「リアル」という意味場において「時間」は「存在」しないのだろうか?
公理的集合論で考えるならば、「時間」は「リアル」という集合の「元(要素)」なのか、ということになる。
(世代によって「元」か「要素」か、習ったときの用語は異なると思うので混乱しないことw) カテゴリ分けという動的運動
カテゴリ分けされた静的知識
直列処理(ノイマン型コンピュータ)と
並列処理(量子コンピュータ)
膨大なカテゴリ分けの各末端での行き詰まり感と努力
人類の知性の限界の拡張の閉塞感と希望
全くカテゴリ分けしていない何かへの回帰
全くカテゴリ分けしていない何かを全くカテゴリ分けせずに
理解する方法論とは 時間は極めて量的なもの、いわば数字なのであって、
数字から現在や過去という名前を関連付けようとするから混乱する思うの。
定義付けすらまともにしないから、議論が混乱する。 「カテゴリ」とは「秩序」であり、自発的な「破れ」によって、より小さな「対称性」に変化する。
まず、「理解」などというものは捨て去ってしまい、自然、すなわちここでは「秩序」あるいは「対称性」そのものと同化することが重要かもしれない。
(以前、メソッド哲学として提起したw) 時間現象
勇気とか冒険心とか用意と備えの整わないうちにやって来るものが明日であり、未来です。この現象がつまり時間現象です。
この世界で何故、時間現象が生起するかは説明可能でしょう。 時計を見れば分るのでは?
時間の経過した量を計ってるんだから、
何を計ってるのか定義してなければ時計が造れないでしょ 世界は持続している。どうやら、その様な性質がある。
更に世界は変化する。そして、変化には秩序がある。
だから、変化の量を計れば持続の量が割り出せる。
まぁ、そんな所かな?
何故、世界は持続し、変化するのか?
これはもう、元々その様な性質があると考えるしかないね。 時間経験
世界内で主体とは別にいわゆる時間が進むように思えるのは何故なのかは説明可能でしょう。
それが時間現象に他なりません。
つまり、問題は時間現象が規則的に進む事ではなくて、いわゆる客観的とされる時間現象と主体的な時間経験との関係なのであり、その違いなのです。 John McTaggart Ellis McTaggart の The Unreality of Time をベースに時間は現象なのかどうかを考えてみる。
eventは現象である。時間はeventの過去・現在・未来と前と後にみいだせる。
The first question which we must consider is whether it is essential to the reality of time that its events should form an A series as well as a B series.
このAシリーズとBシリーズは時間のリアリティに不可欠かどうかというと、その次の文に主観的なものかもしれない、とある。 eventという現象の連なりとしての時間を、主観的でない立場から得られるのならば、時間は現象かもしれないが、それはもはや「時間」と呼ぶべきものではないのかもしれない。
気になったのが、この論文は「特殊相対性理論」よりあとであり、「一般相対性理論」もマクタガートが生きているうちに発表されているということ。
マクタガートが相対性理論を理解できたとは思わないが、それなりにおもしろい議論があったのではないかと予想される。 超弦理論の一般向けの本を読んだ
それによると重力や空間とは幻想であるらしい
そして時間もあるいは幻想なのかも知れないということだ
例えば普段の日常で上下の方向があると思って暮らしてるけど、宇宙には上下という方向はない
私たちの認識では空間があるあるように思えるけど、それは錯覚に過ぎない...ようだよ うんうん。だからこそ、この正月は現象学を幻想学に書き直して遊ぼうと思ってたのに、
図書館いって資料集めてくるの忘れたw
マクタガートもTVみながら書いたらぐだぐだだったしw
そもそも、意味場としてリアルを使ってしまうと、それは時間を継承したクラスなので、
「時間」は「存在」しないことになってしまう。
そのような構成を考えたとき、「現象」ではなく「幻想」とはなんなのか。
自発性というものを「破れ」だけに求めるならば、「幻想」も「破れ」によって作られる対称性である。
「現象」と「幻想」の違いは、現象学のパロディとしての幻想学を考えることであらわになる、と考えたのだが。 自発性を始まりと考えるならば、
そこから過去と未来へ自発性が起こすWAVEが伝播する。
そして、どこかで消失するが、発生点と消失点は同じかもしれない。
というか理論的には同じというつまらない結論を出せるかもw
非時間的自発性しか考えてなかったので、「始まり」といわれてやっと気付いた。
とすると、その中にいるもの(粒子)にとって光速が「世界」の大きさである。
光速で閉じた世界。ちょいとなりたつかどうか考え中。 人間中心で時間を考えるやり方が分からん
人間が地球上に存在しない100万年前より前には時間は存在しないのか? 主観と客観
此処での議論も、主観と客観との問題です。主観から世界を説明し、時間も説明するか。もしくは、客観的な考えで世界をとらえ、時間を説明するか。
現象と言っても、現象学による現象は主体が捉えている現象であり、物理学などは客観的な現象を言っています。
主体が捉えている現象は、言葉で表現され、意味的なかたちをしています。物理学などは客観的に存在する存在の現象を言っていますから、捉えられていない現象をも現象としています。 とすると生物の進化は現象学では認めないということかな?
自分からは現象学は馬鹿馬鹿しい気がするけどなあ タイムマシン
相対性理論はタイムマシンが可能であるかの様な数式を持っているらしいですが。
それはあり得る話で、結論めいた話をするなら、その数式の解釈は全ての過去と未来が現在の事物からわかる、以外ではありえないでしょう。
つまり、数式上は、全ての過去と未来が現在から把握出来る。は、タイムマシンが出来る、と同じです。 相対性理論の効果は日常生活の中ではごく小さい
それを拡大解釈するのは問題あると思う われわれ、そしてすべての存在は、「自己同一性」という「タイムマシン」にのって時空を航行している。 時間について知りたいとすると、近道は今のところ超弦理論を勉強するしかないようだ とりあえず東大か京大に入学して理論物理のコースに進むのがいい
その後はアメリカの大学、カルテクとかバークレーとかで研究する
プリンストンとかハーバードもいいらしいよ それじゃ標準的な研究力学力しか身につかんよ。血統歴史的に見て、それを選ばざるを得ないならそうしろよ。 時間は空間で表現するものじゃない
時間を空間とか延長とか広がりとか図形とか物で表現する感覚を捨てよう
時間は先ず、で表現するようなものだ 確かにここに書き込んでるやつには暇な時間があるんだな 時間の謎を解く鍵はやはり、時間が始まったところ
すなわちこの宇宙が始まった時点だろ
今のマイクロ波の観測だと宇宙が腫れ上がった開始30万年後の宇宙しか観測できない
重力波やニュートリノの観測で宇宙の開始直後の様子が観測できるようになる
そうした情報が集まらないと時間の問題は解決しないだろう >>100
お前のハンドルネームは、糞を求めて
にしろ >>99
お前のハンドルネームは、糞を求めて
にしろ 宇宙の始まりを知ってもドンづまるだけだが、先輩に感謝が大事だということはある。
始まってしまったものは始まって良かったと思う。後悔する人もいるかもしれないが。 時間は先ず、だって言ってるだろ?ヒモとかじゃねえんだよ。 現象学、木田元
P132、
『こうして、知覚対象にせよ歴史的事件に
せよ思想上の学説にしろ、すべてはある全体を目ざす志向を有しており、そこにすでに発生しつつある意味があるのだ。我々もまた世界内に存在しているのであるから、『意味へと宿命づけ
られている』。この意味を捉えるのが、現象学的ーーハイデガー的ーーな意味での『了解』に他ならないのである。』 読み替え
『こうして、知覚対象にせよ歴史的事件に
せよ思想上の学説にしろ、これらのすべては現存在によって認識される時、ある全体を目ざさざるを得ないのである。現存在は世界内存在としてあるのであって、その形式でのみ現存在なのである。つまりそれらは意味となる。我々と言う世界内存在は、『意味へと宿命づけられ
ている』。この『全体である意味(全体を構成する意味)』はまた現存在により現象学的ーーハイデガー的ーーな意味での『了解』となるのである。現存在の了解とはその様な世界内存在の構造なのである。』 >>112
意味は人間が勝手に考えたもの
もともと存在しない
人間が理解するには意味は必要だが 実在とは異なるが、「意味」は「存在」であり、人間不要と考える。
「場」「意味」「存在」「現象」。それらの構成を考え中。
非人間的「幻想」。光円錐で区切られた事象がどのようにつながるのか。
マルコポーロ的な時間という幻想。Fotini Markopoulou-Kalamara的な時間。 マルコポーロ的な時間は実在である。ただし観測者にとっては、の話。
観測者が入り込んだ実在は、とりあえずだいたんに「幻想/幻想的実在」と考えたいw
やはり幻想学をでっちあげるべきなのだとおもう。幻想的実在論。
今年は「幻想」でつっぱしるかな。やっぱフッサールのパロディから始めるか。 未来時間
未来、未来時間と言った概念は、物理学的には取り出せません。存在論的、実存論的に取り出せます。その取り出しには、現存在のそれに対する意味、つまり不安が出てくる。
ハイデガーは不安しか言及しませんでした。それは将来の事件として、現存在のすくみとなる。すくみは既に現存在の身構えを含んでいる。その身構えには、既にいくばくかの勇気がある。つまり将来とはきれぎれの勇気である。未来の認識には既にいくばくかの勇気がある。
(それを知る事が出来ないのはその勇気がないからだとは、言われていますが、これがその構造です。自身の未だ知らない物事を知る事には未来性が含まれている。未来性には未知が含まれている)
実存的、実存論的
こう言った現存在のあり方は、実存であり、実存的ですが、それはまた実存論的です。現存在の実存は、実存論的、実存的にあります。 これは再掲です。
未来、現存在
いずれにしても、この構造が人が未来と言ったもの?、現象?、事態を捉えている事情です。
そしてその様な未来が、世界を作っているとしか言いようがないのである。 未来性
世界に未来が存在しないなら、それは世界では無い。世界は未来性を持つので世界である。 今、世界に未来はありません。
あるとするならば、それは未来ではなく「未来」のように括弧にでもいれるしかありません。
今に存在したらそれは未来ではないのです。
しかも、語られたものであるわけですから、今にある過去の中にしか未来はありませんw
「未来」(の括弧の中に)は、今現在ではアクセス不能なのです。 「未来」と同様に「過去」も「世界」においては括弧の中にあり、アクセス不能です。
つまり、「時間」は「存在」しない。
ジョン・マクタガート・エリス・マクタガート(なんつー名前やw)的な「過去・現在・未来」あるいは「前・後」の「時間」は「世界」に存在しない。
回避策として「世界」という場が「時間」という性質を持っていたとしても、マルクス・ガブリエル的に「時間」は「世界」に「存在」しないw
どうすればよいかというと、そこにマルコポーロ時間がでてくる。
もしかしたら、「それ」が「実存」なのかもしれない。なんてね。
causal setにおける存在が「実存」なのかも。 ヒモと言ってるのは物理とかの痕跡があるだけで哲学じゃないんじゃないか 財布のヒモを握っているのは誰で、財布にお金を入れるのは誰なのか マルコポーロ時間て何?
ググっても紅茶と飛行機の所要時間しか出てこないけど The internal description of a causal set: What the universe looks like from the inside
https://xxx.lanl.gov/abs/gr-qc/9811053
時間の正体 デジャブ・因果論・量子論
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195382
これの
第3章 マルコポーロ――時空の内的記述 ええっと、Fotiniは理論物理学者だしなー。論文のリンクもあげたので、それを理解してもらうのがいちばん正確w
でも、時空の量子モデルだからそれなりの知識が必要でっせ。
でもって、ペギオのほうは彼なりにFotiniの時空量子モデルを解説しているが、ペギオを好きな人がニヤニヤしながら読むものw
tamami氏?がペギオのほうをそれなりに解説していらっしゃる
http://math.artet.net/?cid=60283
それでもいろいろと数学の知識は必要だが、図があるのでハッセ図を読めればそれなりにわかるかも。 講談社選書メチエのサイトにある内容紹介を読めばそれなりにわかるかもしれない。
しかし、それはFotiniとあまり関係なく、ペギオ氏がマルコポーロ時間と呼ぶものを経由して得られた、
あくまでもペギオ氏の見解である。
一部抜粋すれば、「世界とその表象とを、絶えず調停することであり、両者の間に同期をとることである。」 あんがと
リンク先のを読んだ
その調停ってのは脳はでっち上げするってことですよね?
辻褄を合わせるために、集合の中に無い要素を創り上げる
そうしても矛盾にはならないから
むしろ矛盾にならないための規則を時間が担保にしている
あの作図がそのまんまだけど、時系列ありきがそれを構成させる
いや、だから過去も“更生”される
出来事を無矛盾に説明するための体系図みたいな手法を語ってるということかな
さて、集合の中にあった要素/なかった要素の“現在”とはなんだったのだろうか? 気付いてる要素だけが現在だろ当然
彼女にそんな魅力があったと気付くのはいつだって過去だ 主観と客観の間を調停するのは“事実”でなく“解釈”だ
要素は事実の最小単位じゃない 出来事の序列に従う時間の守護神は“意識”という結節束
意識というものがそもそもそのような統覚する“象徴”の別称なのだから 意識は解釈の対象ではなく解釈する対照なんだよだから理解は非対称になる 物理に非対称は認められない
だから時間はない
しかし理解することは非対称に避けられない
よって時間がある つづめていえば、純粋対照は光速に等しい
われわれは普通どれだけ頑張っても純粋になれない(脳が壊れちまう)ので、
たとえ超光速AIができたとしても問題一般を問題として認識はできないつまり、
限られなければ問題にならなかいからして、それはどこまでも光速以下の速度になる
おそらく神でさえ光速は超えられない
つまりそれより外景を見ることに叶わない 言ってしまえば、物事を理解するための手段には“限界”があるということだ
逆にいえば、限界なく物事を理解することなどできないという当然の帰結に気付くが そのハッセ図やらなんやらの図から電磁場のイメージの発想にアナロジーできないなら
いい直観力をもってるとはいえない
ペキオ氏はおもしろいからそれくらいやりそうだけど、てか既述かもね 彼女を完全に理解することなどできない
つまりはいつまでも対称性は破れている
彼女を知るまでは非対称でなかったそれだけだ マルコポーロ的とはつまり、
どれだけ離れていようとも、ひとつひとつ近接項を類で結びつけていけば
ジパングに辿り着くというものであって、
それはつまり、もっとも遠く離れた場所と比べて類似する点があるということを意味しない
いや、はたしてそうか? 平安時代のある出来事と現代のある出来事に直接の結びつきなどあってはならない
なぜならそんなリンクが近傍として集合されると時間の意味が崩壊してしまうから
でもそんな時間の意味のほうが間違っているとしたら?
“結びつき”があったとしたら?
どれだけ純粋速度で思考できるかどうかだ
あらゆる障害を捨象して速度を上げられれば見つけられる われわれは埋もれるくらいの情報の場に生きているから
思考がどうしてもそれによって障害されているだけなのだ、知らず識らず 時間を経験する速度は人によって異なる
油断するといつだって人の心はモノ化する
モノ化した時間は早い
質量を持つから 質量を持つ限り遅かれ早かれgrave(墓場)するわけだが、
それはgravity(重力)によるものであって、抵抗したいなら軽いほうがいい
せいぜい相対的な意味しか持たないけれども 彼女から借りた『バナナブレッドのプディング』という漫画を読んでただけ
その引用を遊びで拝借しただけで深い意味はない
悪かったな抄録 ペギオ氏の時間は、マクタガートとマルコポーロから時間を考察したものであり、マルコポーロ時間そのものではない。
時空間を、その内部から記述するのがマルコポーロである。
でもって、内部からの記述によってマルコポーロ時間は実在することになる。
人間とか認識などは不要だ。
必要なのは観測者としての主体(仮想粒子)であり、人間である必要はないw ああ、量子ゆらぎが伝えるってやつか
それにしたって情報が消えるってことにはならない
内部からの記述ってのはつまるところ微視的に観測すれば、と言ってるにすぎないのだから 絶対零度でなければ粒子は光子を放出して環界に情報を伝える
だkら人間のような観測者を必要としない
でもその場合の情報の伝達には因果関係がなくなる そもそも情報を伝えるためには例えば、
われわれが窓の外の景色を描写して伝える際のように
それは、窓の外の“すべて”を伝えることはできない
情報を伝えるためには情報を失わなければならない
粗略化のために抽象化している 対生成対消滅によってある情報が保存されある情報は保存されない
だとすれば、その保存されなかった情報は消失したのか
そんな訳が無い
ではどこに行った? 象徴はそれ自体で不足することがない
不足するのは常に伝える側と受け取る側の翻訳に帰因する
情報のある部分が伝わりある部分が伝わらない、そういう関係ではないのだ
そういう構図に見積もることに誤りの元がある 同じ景色を見ているからといって、同じように見ているとは限らない
いや、同じように見ることはできない
それは景色の情報に不足を読み取るのでなくて、景色の象徴に読み取りが異なるから 内部からの記述で時間の実在が認められるためには、
情報の保存が失われることを示さなければならない
それは失われたが最後、一切引き出すことができないように 情報は決して保存されない
よって失われることもない 時間の存在について考える時に、何故人間中心に考えるのかな?それが分からない
人間の存在は時間の存在に関係ある?
人間が存在しようが、しまいが、時間があるなら存在するだろう
別に人間が時間を作ったわけでもあるまい?
人間が時間を理解できようが、出来まいが、時間が存在するなら、存在するし、しないならしない、それだけなのではないか? 人間がいなければ時間は存在しない、と考える科学者、哲学者は
驚くほど多いのだよ 生物の進化はどうかんがえてるのかね?
人類が誕生したのは100万年、今の人類になって30万年
それより前には時間は存在しなかった?
恐竜なんていなかった? >>156
馬鹿!!
恐竜の時代は時間が無かったのかよ。 >>158
時間がなかったのに恐竜はどうやっていきていたの? あ、自分の誤読か
人間中心で時間を考える人は宇宙の歴史はどう考えてるのかな? >>158
だからその「恐竜の時代」というのが
人間が作り出したフィクションなんだよ 暑い砂漠で化石の骨を掘って、それに人生かけてる研究者は、フィクションでやってるというのか? じゃあハイデガーは存在したの?
存在しなかったかもしれないハイデガーの言葉を引用して時間があるとかないとか言ってるわけ? ハイデガーは存在した→歴史的出来事は存在した→化石は存在する→恐竜は存在した
となるよね 哲学は「話芸」という解釈でいいだろ
その言説が面白いかどうかが勝負であって、
本当かどうかなんて追求するのは野暮
お笑いに行ってネタが本当の話かどうかなんて誰も追求しないのと同じ
哲学が提案してくる世界が面白いかどうかが勝負
本当にありそうであっても面白くない平凡な考えは評価されない 昔、環境問題のパネルディスカッションにいったとき天野祐吉がそんなことを言っていたな
人々は楽しいと思われるものしか受け入れないし楽しいものしか習慣として根付かないとに
その時はそんなことで良いのかと思ったが
悪ガキ相手にいくら善悪を根拠に注意してもムダってのと同じことだ ある思考が、提示する世界が面白いか、或いは楽しいか。そこで示される世界にある時間とはどの様なものか。
その面白い時間の世界とは、この今の世界の面白い解釈とは別か。 世界、他者
この世界を面白くしようと言うのでは、誤解もされるし学問的では無いので、生きられる世界となる。生きられる世界とは、フッサールとか、メルロポンティとか、その辺がすでに言っている。生きられる世界、ひらたく言えば、楽しく面白い世界。生き甲斐も有る世界となる。
皆んなで生きられる世界だから、他者とは何かの話にもなる。 学問、フィロソファア
だから学問的とは、冷静な他者に、或いは話の出来る状態の異教徒への話しとしての物語、言説である。それは必然的にある論理性を持った理論になる。
生きられる世界、仲間うちでの砕けた言い方では、面白い世界。つまりフィロソファアとは、仲間内での、なんか面白いこと無いか、と言う発言の究極的なかつ創造的な、そして学問的な研究考察である。 無益な受難
サルトルが存在と無で、人間存在とは無益な受難である、と言うのは、この楽しい世界の考究の一つの結果のフランス的なエスプリ表現である。
うんやらくんやらと並べ立てて、希望の言説をつくるのは容易では無いし、格好も悪い。無益な受難である。
我々の希望はつねにうち砕かれる。困難に満ちた未来だけがやって来るのだ。 哲学的な時間の命題は数値化し、物理的に可視化可能なのは何故かですよね もともと時間は物理現象
それを哲学で問題として取り上げたから もともと時間は物理現象というか物理現象を理解するために時間の概念が
哲学的なベースにあるんだけどね。 もともととは歴史的な話か?
物理学がまだ成立していなかった時代は仕方ない
哲学で扱うしかなかった 歴史的なことでいうと、哲学は物質とは何か?何で出来ているのか?を追求していた時代もあった
しかしいつしか物質が何か?を追求するのをやめてしまった
しかし時間についてはまだテーマとしているのは何故だろう?
あるいは空間とは何か?というテーマだってありそうだが 物質が何か?という問題はその後、物理学や化学で研究が進展してもはや哲学の出る幕がない
しかし、時間や空間についてはあまり研究の進展がない、だからまだ哲学が扱う余地がある、そういうことかな
だから、今後、物理学で時間や空間の研究が進めば、哲学はこれらを扱うのをやめてしまうだろう 物理的現象としての時間。
哲学的現象としての時間。
心理学的現象としての時間。
文学的現象としての時間。
数学的現象としての時間。(数学にも時間はあるよw)
とまあ、いろいろな「時間」がある。
マクタガートの哲学的時間は実在しない。
フォーティー二・マルコポウロウの理論物理学的量子時間は実在する。
「過去・現在・未来」「以前・以降」という同じ枠組みから出発しても、
実在するかどうかの結論は異なる。
文系哲学で、これらの問題を解決するには、マルクス・ガブリエルの意味の場を使えばよいだろう。
公理的集合論の立場からは、「時間」を要素とする「時間」は構成できない。
構成できると矛盾するので、構成できないように仕組まれている。 公理的集合論とはKobayashi Maru testであり、誰も勝利できないシナリオであるw >>190
歴史的なことも含めて哲学的な
もともとは、 認識的にってこと >>195
全ての事柄は認識を通じて理解するしかないから、その意味では全ての事柄は哲学の範疇だという事もできるが
その一方で人間の認識は時間に対して何の影響も与えない
時間は純然たる物理現象だ
何で時間を哲学のテーマとして取り上げるのか?
それが私には不思議に思える
だったら物質や空間も哲学のテーマにしてもいい >>193
物理学で言う「時間」と哲学における「時間」が別ものだとすると、自分は哲学で何を時間と言ってるのか、日本語で普通に使う「時間」と違うものだとしたら、哲学的な時間についての研究もあり得るのかな?
哲学における「時間」については私はよく知らない >>193
ガブリエルは読んでないが意味の場に意味があるのかな?
人間が理解するには意味が必要だが、時間は人間が理解しようとしまいと、お構いなしに存在する、(あるいは存在しない)ものだろ?
別に「時間」が人間の思考を忖度してくれる訳じゃなかろう 質の高い感じとかがするといいよなあ。そんなことに秘密があるかも知れない。 時間が流れていることを意識しないでいることと意識する時間の流れの中にいることでは
なぜ切り替わっているんだろうなあ。 >>195
哲学のテーマとして取り上げる意味が
わからないのにスレにいるのが間違いなんじゃ? >>202
では意味がわかるなら、その意味を教えてくれないか? >>204
単純に時間を哲学的に取り扱える認識が
何故自分にはないのかを知りたいという
意味しかないんじゃない? >>205
「意味は分かるが、それがどういうことか答えられない」という意味か? >>206
まだ君が何で時間を哲学のテーマとして取り上げ
る意味があるのかが分ってない。 ガブリエルが書いているらしい意味の場って、意味する所という意味合いとは違うの? >>207
私の解釈は「まだ物理学が時間の解明に成功していないからだ」と思っている
それでもし、物理学的に時間を解明できるようになってくれば哲学はこの分野から手を引くと思う
というのは哲学がもはや「物質とは何か?」というテーマから手を引いているのを見てるからだ ドイツ国の教育制度を知ってる?
ドイツという国はね、大学受験チャンスが2回しかありません。
日本国で1浪して受験失敗すれば、ドイツではマイスター(ワーグナー ニュルンベルグのマイスタージンガー
)になるしか道がないお国。
日本国みたいな自由な世界はありませんよ。
私は60歳で東京大学印度哲学科に行きたいのですが、やはり学部3年編入しなければいけないようです。
再びドイツ語を学ぶ(再学習)日が来ましたよ。
ハイデッガー?法学部でも一般教で触ったくらいで読む気すら起きませんね。 大学院に行きたくとも、やはり学部3年編入するしかないようです。 学部を卒業していれば大学院を受けられると思うのですが、卒業していないのですか? 物理学的に言えば、ハミルトニアンに対する推進演算子による
正準変換を考えるとき、そのテイラー展開表示に出てくる係数を
時間と解釈できる 正準変換と正準変換との合成は再び正準変換
になるということで、時々刻々と時は流れていくというわけだ
ハミルトニアンによる推進の向きが時間の向きに対応している 今
なぜ、何時も今、なのか。
五千年経ったとして、やっぱり、その時は
今。
時間として現象するのは、今だけである。
この第一歩の事実さえ、もちろん物理学で分からない。フィロソファアでも説明出来ない。 >>216
少し改変した
>>217
そんなの簡単
常に今しか存在しないから 全ての学問から統合的な智恵を
出すのに適しているのは哲学だな 他の学問で「哲学が役に立ったよ」という話は聞かない 哲学が分かれ、他のそれぞれ
専門分野の智恵は知識になったから >>222
してないよ
今その知識を結集して統合的な
智恵を出すのに適しているのが哲学だと
いう話 >>223
じゃあ未来の話か?
現在は>220の状態と思うよ ずっと今なのは世界は何進数かわからないまま
加算(等、計算)しているからじゃないか?
桁が繰り上がって初めて何進数かわかるという 今と現存在
何時も今しかない、としたら、我々が過去とか未来とか言う時の、過去、未来とは何なのか。
つまり時間とは何なのか。
今しかないのは、当たり前、と言う意見は面白い。我々は、確かに時間の中に居る。間違い無い。しかし、未来も過去も良く分からない。 >>224
今、そうなって欲しいけどね。
時期の話というより、哲学が適していると
いうのが趣旨だったんだけど。 >>226
今考えたが、時間は確率的なものかもしれないな
時間が全く存在しない世界を考えよう
そこでは全く何も変化しない
それが永遠に続く
でもある時、低い確率で別の状態になったとする
それが時間だ
だから真実の時間は前の1秒との間に何百億年経過しているかもしれない
だけど時間の中を生きている自分たちはほんの1秒前のことにしか思えない
それが時間だ 時間軸や四次元時空などというものがあたかも
実際に存在してるかのように考えてしまうのは
アインシュタイン信奉の弊害ともいえるものだ 時間は手が出せんな
超弦理論からすると、どうも時間は幻想かもしれないといったところまでか... 繰り返しのない世界に繰り返しを“感じる”のが時間
“感じ”だからそれは存在とはいえないけど実在(幻想)はしている 時間に“単位(周期)”はないが、それを認知できなければ時間にもならない われわれが時間を“感じ”られるのはわれわれも“等しき”実在(幻想)であるから 哲学はいまだかつて“存在”を定義できたことはないし今後もそれを終えることはできない 人生には初めと終わりがあるから定義することができる
だからといってそこに“生きる”ことを定義することはない
できなくともわれわれは生きられる 意味は完結した時点で意味として無意義になるように
意味に意味をもたらせているのはそれが未完で有意義だから 意味の探求は“自然”と合致する、しなければならない
でなければわれわれは自然でさえないから 自分なりに哲学の世界観を追求してると、単には先に進めない。
時間とは何かも難所で、思想ならそれでもいいんだろうけど
妥協しないでいたら、ようやく認識世界と物理世界を同期する
知恵に到達できた気がする。
哲学の追求に費やしてきた時間で「なにか」がオマケに伴ってた
今思うとそんな感じ。 「317は、われわれが素数だと考えるから素数なのでなく、
われわれの精神の形成とは無関係に、素数だから素数なのだ。
数学的実在は、そのように作られているもの」(ハーディ)
時間も同じく >アインシュタインは重力の方程式を、
>時間や空間の測り方をどのように変えても
>重力の働き方は変わらないという条件から導いたのです。(「超弦理論入門」)
重力のほうが時間より本質 精神の形成自体思い込みだから、その中に実在するのが実際のところ数学的実在だと思う。 実在は幻想と区別できない
素数がそうであるように
時間について考えている間だけ存在しているように 特異点に基礎はもちろんない
あるともいえるけど、一般的な意味でのそれにはならない >>245
存在はアタマの外にあり、幻想はアタマの中にある。 アタマそのものが悠久の歴史の想像物であり不確かなものだよ >科学的な理解が発達するにつれて、われわれの世界は非人間化されてきた。
>人間はもはや自然のなかに包まれてはいず、
>自然現象とのあいだの情動的な“無意識的同一性”を失ってしまったので、
>宇宙のなかに孤立してしまっていると感じる。
>自然現象は徐々に、象徴としての隠れた意味を失っていった。
>雷はもはや怒れる神の声ではなく、稲光はその復讐の飛び道具ではない。
>河は河の精をもたず、樹は人間の生命の原理ではなく、
>蛇は知恵の具現者ではなく、山の洞穴は化け物の住み処ではなくなった。
>もはや石も植物も動物も人間には話しかけてこず、
>人間のほうも、聞くことができると信じてそれらに話しかけることをしなくなった。
>人間と自然との触れ合いはなくなってしまったのだ。
>それとともに、その象徴的な結合が生み出していた深い情動的なエネルギーも、消え去ったのである。(「無意識の接近」ユング) われわれは何者であるか知らないときのほうが何者であるか知っている われわれの世界は非人間化されてきた。
とはいうものの、自業自得だからな。
情動的なエネルギーがいつまでも持続
したら逆に不自然だな。 科学の営みは我々自身の目を輝かせ
科学の技術をせっせと磨くだろう
いろんな見方があるもんだな 「進化発展には二つの結果がある
一つは潜在的な考えの実現である。それはよい
他方はタイプの変動である。それは良くも悪くもない」(パース) >>241
重力と時間は同じものなのではないか?
とすれば、われわれは時間の未来にあるブラックホールに落ち込んでいるのかもしれない。 (ある個人の)生と死の間の時間が実在する。
公的時間は、時間現象として説明出来る。
私的時間は現象学的に存在する。 >>259
現象とはなにかも説明できないと
時間現象の説明にはならない。
そこも含めて説明してみてください。 無益な受難は各人のそれぞれの無益な受難なので、自身で考えてみるしかありません。
つまり無益な受難を体験するしかない。 >>260
何かを説明してると誤解してるのかもしれないけど
ここはただポエムを披露してるだけだから
特に意味は含んでないよ
意味のないものを説明できないだろ? 何とも無い日常
フィロソファア=ポエム論も面白い。フィロソファアと言ってもある言説にほかならない。すると何がポエムか。ポエムとは何であるか。
が、問題である。
日本語では、たとへば、存在と言い、実在と言う。少し指し示しが異なる。しかし、どの様に異なるのかは普段、問題にしない。また、取り上げる者も無い。
何となく生活している。何となく生きている。何となく生きている者は何となく死ぬ。
無益な受難である。 炎上現象
一本のローソク、径8ミリ、長さ100ミリ、の炎上現象を考えてみる。火を付けてだんだん燃えていき、やがて燃え尽きる。現象である。ところが、その現象はそれを観察する観察者の内部的な経験によって捉えられて存在する。
ここの時間に、実在した有様はそれぞれの炎であって燃焼と言う現象では無い。 >>262
無益な受難をポエムにして出版
すれば有益にならないか 哲学的ゾンビにポエムは書けるだろうか
中国語の部屋的になるか、ワードサラダ的になるか
クオリアとポエムの関係、
ワードサラダもポエムかという問題も 時間認識
それを観察している観察者、と言う捉え方がすでに誤りである。その者は存在者である。その者が何者であるかは直ちには言えない。取り敢えず存在者とする。
なぜ単なる観察者でないかは、その者がすでにある時間認識を持つものだからである。 時間-現象認識
時間-現象認識、としても良い。現象を現象として認識可能にする初源的な時間認識である。
この様に外部で起こる出来事の現象把握に、すでに内部的な時間-現象認識が関わっている。
すると、存在者の内部的な経験を一つの現象として研究するべきではないか、と言うのが現象学である。 内部現象と外部現象
現象学は、存在者の内部的な経験を一つの現象として研究し、その知見から新しいフィロソファアの知見を求めようとする。
これが、内部現象である。
それとは別に、存在者の外界に生起する出来事を世界内部的に捉えた内容が外部現象、すなわち従来からの現象である。
繰り返しになるが、外部現象は存在者の内部的な現象経験からのある世界内体験を基として捉えられる。 再びコギト
つまりコギトとは、すでにある世界内存在の内部的な体験表明であり、ある世界内存在者の外部的な宣言-事実化でもある。
外部現象の認識-把握が、その存在者の内部的な経験-認識に基づく、ある世界認識にるのであるから、まず、或いは改めて、存在者の内部的な現象の研究-認識を始めるべきである。現象学である。
外部現象の認識-把握は、内部的な現象-体験に基づいている。 そーゆーのは、存在者ではなくて現存在っつーんだよ
ハゲ 1人1人言葉の定義が違うのだろう
言葉の定義が違うもの同士は会話にならん
みんな自分の定義こそ正しいと思ってるのだから 無益な受難は何のために書き込みをしているのだろうか?
時間に関係することだけを書いて欲しい。 少なくとも、我々が観測できる範囲内に於いて宇宙は閉じている。だからエネルギー保存則が成り立つのかな?
他の可能性は、今の処、思い付かない。
我々が世界を理解できるのは、きっと世界が閉じている為だろうね。 77からの引用
『eventの連なりとしての時間を、主観的でない立場から得られるのならば、時間は現象かもしれないが、それはもはや「時間」と呼ぶべきものではないのかもしれない。 』
これを
時間現象とは、主観的な観点は省かれている。イベントの連続は時間現象になる。
時間現象が成立すれば、それは新しい時間である。
と、勝手に解釈する。 時間現象
しかし、この時間、体験する時間は何れにしてもある現象であり、時間現象には他ならない。それがそうで無いと我々-存在者が感じるのはなぜか。 哲学で時間を考えるとしたら
人間がどのように時間を認識しているか、という議論はありえる
時間そのものは物理学の問題で、哲学で扱っても無駄
何も解明出来ない
物理学的には時間はまだ解明されていないが、時間は人間が感じている幻想という答えになりそうだ 時間は物じゃないから、物理学というより
理論で解明しかないでしょう 物理-天文時間
公的時間と、物理時間とが全く同じではないだろうが、取り敢えず物理-天文時間が何か。 物理的な時間理論は速度や距離を理解するため
哲学的な時間理論は物理的な時間の原理を認識するのに必要な理論 じゃあさ、哲学的に時間が分かったとするでしょ
それが正しいことをどうやって証明するの?
出来ないでしょ
無矛盾ということは言えても、それが正しいこと分からない
物理学的に時間が解明された場合は、実験と結果と整合性があるなどの根拠が発生するので正しいことが分かる 正しさを証明するために哲学が
存在しているわけではないと思う
智恵を共有できればいいのでは。 フィロソファアの言明は、明証性を持つ。
我思う、故に我あり
この言明を疑いえるか。 >>285
哲学的に時間が解明された場合は、その理論が
客観的事実と原理的に一致すると認知され
必然的に共有されていきそう。 >>289
哲学で認める客観的事実とは何か?
そんなものあったっけ?
例えば何? >>290
じゃあさ、哲学的に時間が分かったとするでしょ
っていう前程の話 時間が哲学の邪魔をするなら 哲学は時間のもとを去り行くだろう。 >>287
その場合の「我」とは何か?という問題と
「我あり」の「ある」とはどういうことか?
とあう問題は残ってしまう
その事は後のカントとか、ハイデガーも問題にしていたはず >>295
じゃあ、特にコメントはない
客観的事実なんてもともと哲学には存在しないと思うけどね 客観的事実に照らした理論を
哲学者に提示できるか否かにかかってくるね。 >>297
素粒子崩壊実験の客観的事実と超弦理論の結果になってより、時間とはこういうものです、と説明された時に哲学者は実験物理学や理論物理学を勉強するのか? ムーンサイド パラレルワールド の二本立てで 逆魔術法陣とか マラリア四面楚歌
の一斉攻撃。現代囲碁と、RPGの反転。 >>298
説明された時間が、哲学者の哲学に必要
とされれば勉強されていくんじゃないの?
たられば過ぎる話だけど >>298
逆に考えてみれば?
素粒子崩壊実験の客観的事実と哲学理論の
結果から時間とはこういうものです、と説明さ
れた時に、量子力学や物理学者は哲学を
勉強するのか? >>302
実験物理や理論物理を理解するのに哲学は必要ないから、実験物理および理論物理の結果を説明された時には哲学も園芸学、経済学も関係のないものは勉強しない >>304
超弦理論や物理学が時間を哲学的に
理解するのに、必要なければ
同じく見向きされないだろうね >>306
時間を理解するには超弦理論は必要になってくると思うが、時間を哲学的に理解するのに必要かはわからん 時間を文学的にどう理解するか?あるいはSFファンとしてどう理解するか?は、その人の流儀だろ
だから哲学的な理解も、その人の流儀によるとしか言えない 物理的な次元で抽象的に時間を理解したい人には超弦理論が必要なのかもね >>308
文学的というくくりをするなら、超弦理論も
立派な理論だから文学に入るでしょう。
そうではなくて、理解しやすい理論が
人それぞれ異なるのかもしれない。 >>310
改めて問われると詰まるけど
理論は論理的文章だから普通に文学に
入れてもいいんじゃないかと思ってるよ。 >>312
理論は正しい理論、間違った理論があるけど、文学には正しい文学、間違った文学はないだろ
100人いれば100人なりの文学がある ムーンサイド パラレルワールド の二本立てで 逆魔術法陣とか マラリア四面楚歌
の一斉攻撃。現代囲碁と、RPGの反転。 ビックバン理論が正しいか正しくないかは
証明できない、どの理論を受け入れるかは
文学同様、その人の哲学によるんじゃない >>315
天文学者で過去にビッバンがあったことを否定する人はいないと思う。
宇宙背景放射の観測とかのデータがあるから、実験と合わない理論は捨てられていく
ビッバン理論といっても、どんどん改良されていくから、昔の理論とは違っているけど
今はビッバンの前にインフレーションがあったとされている
だからインフレーション理論と呼ばれることが多い >>316
誰がどの理論を受け入れるかは
立場によって異なると言う点で意見は一致かな >>318
立場に寄って受け入れる理論が違うなんて私は思ってない 哲学はグッドな質問を挙げられればそれで役目を果たしてる わたいの記憶が確かならば、古語において「生る」は「荒る」が語源だったはず
これは「生む」とは別の系統で、「荒る」は字義とおり混沌を意味するから
でもって「れる・られる」は自発の根源的な助詞
古代日本人は自然がそのまんまに生起すると見ていたからして
「あらせられる」は、秩序の顕現みたく解釈、、、浅いw 哲学というものは時間(時代)の流れと共に、もう時代遅れ論文だと見向きもされなくなる。
しかし哲学思想を含んだ文学作品は、不思議と文豪ともてはやされ読み続けられている。
現在ではカフカ「変身」を理解する若者世代が増加している。
それだけニート引きこもりが増加している証拠なのでしょう。
あの時代のカフカ自身が引きこもりとなった結果、「変身」という文学作品が生まれたのだと思いますよ。 「鳥かごが鳥を探しに行った」って結局どういう意味なの? 鳥かごって鳥しか合わないよね
この宇宙だって、われわれが合うようにしか理論を与えないはず さっき独りバッティングセンターで25球の4連ちゃんしてきたkら指が動かん
硬球は芯に当たらないと手が強烈にしびれるw メモ思い出した
日本語の動詞は語尾の「す」と「る」の対立であり、
人為的・作為的なものが「す」「さす」「しむ」
自然展開的・無作為的なものが「る」「らる」になる もう3Pは届かないや
あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろ 何が正しいかどうかそれが美しいかどうかで皆が自然と判るようになってる
だから美学は倫理学より上位に位置する 美しさは相対的?価値観なんて人それぞれ?
断固として拒否する!! カフカの文学作品を書いた人物が存在したことは確かだが、その人物であった
とされるカフカが存在したかどうかは不確か だいたい哲学はあらゆる学問に見出せる
逆にいえばあらゆる学問はその比喩に過ぎない
言っちゃったテヘw ピアノの演奏会とかにしても見世物だったわけでしょう
見世物の最大の目的は興業的な成功なのです
いろんな口上で世にも珍しいものや、不思議なものが出し物として登場する
神童もその出し物だと考えると、
モーツァルトの曲を作曲した人物は確実に存在したわけですが、
作曲した人物がとても若い年齢のモーツァルトであったのかどうか
そういう不確かさはいつの時代にもあるような気がします 伝えられているような人物としてカフカやモーツァルトが存在していたか
否かにかかわらず、カフカの作品、モーツァルトの作品は厳然として
存在している。重要なのは作品の方であって、作者ではないのです。 モーツァルトはいつの時代にも見い出せる
でなければモーツァルトを確認することもできない
われわれは繋がっていなければモーツァルトその人物さえ辿り着けない
つまり、モーツァルト以前にもモーツァルトは存在したはずである イベントに重要なのはいつだって人物だとスティーブンキングが言ってたw 作品が時代を超えることはない
しかし重力だけが次元を超えるように、その作品の本質は時代を超えて存在するはず カフカの変身って、今ではゴキブリのようにコソコソと生きる人だと解釈されているよ。
あの最終的な結末に驚愕する人って多いのでは?
ゴキブリは生命力が強く、死んだように見えて実は死んでいない。
最後にゴキブリが死んで、残された家族が嘆き悲しみながら、どこかホッとする感情から
残された家族で旅行に出かけるという作品。
夢と希望に満ちて社会に出て行った長男、その突然の変貌を『変身』としただけ。
これって、今現在の日本社会の闇でもありますよ。 >イベントに重要なのはいつだって人物だ
でも、それやってると人物が自分の劣化コピーを延々と繰り返し演じることを余儀なくされる 時間は劣化しない
それを演じるのは時代背景(文脈)が決める 繰り返さなければ比較もできない
比較もできなければそれを対象とすることもできない 時間が解決しないものごとは何もないが、
唯一時間だけが時間を裏切ることでその解決を導く 君たちに時間を与えることで、時間も君たちに与える
何を?
それが問題だ 感情を物理的に理解してもそれは何かしらの翻訳にすぎない
その“何かしら”は常に感情から滑り抜けてる 大きさを持たないベクトルというのはそれ自体矛盾している
心向きに重みを与える作用因子は星の数ほどある
その際に重要なのは星の重さではない
心が注意を引くのはその星の特徴である
その橋渡しの形式は定型的な望遠鏡にはならない
その部品もまた拾い集めて組み立てている >>357
別に矛盾してないだろ、ベクトルだって0はある ベクトル0ってそれ自体だとベクトルの意味をなさない気がしますけど 望遠鏡って近すぎる対象には役に立たないのよね
むしろわれわれが何を意思したか次の瞬間に忘れてしまうのは
それが近すぎるのでなくて本当は遠いからなのかもしれない 重力は時間を測る物差しでありながら、時間からその材料を与えられている
しかし重力は時間ではない >>316
背景放射には天文学者から異論あり
スムート博士は否定できないと語る
つまり背景放射は?状態 相対性理論では、時間が遅れるとか言っていますが。あれは物質の振動が遅れるのであって時間が遅れるのでは無い。
原子の周りを電子が回っていると言う状態も、その電子は回っていると言うより、振動している。円運動の振動をしている。ヒモ理論でもそう、ヒモは振動している。
その振動が遅れるので、原子時計?、が遅れる。時間が遅れるのではありません。
では、振り子式の時計ならどうなのか、多分それでも遅れるのだと思う。 不確かなときはいつだって時間とおりにはいかないのですよ
電子の振動とはつまり波であるときはなんら確定していないのです
観測すれば粒子になりますから時間も確定するのです
もちろんそこには光子のやりとりが介在(自由電子の列を整える)いたしますが 長さの縮みや時間の遅れや質量の増大のような論理的な矛盾が生じてみえるのは、
ローレンツ収縮の[ √1-(v/c)^2 ]という式が、速度vの関数である因子を持つからである。
速度というものは相対的なものであるから、絶対的な法則であるためには
速度などというものが入っていればまずいのである。(「観測力学」) 電子って大きさはないのに質量はあるのよ
でもってその質量とは、理論によって導かれたものでなくて
“観測”によって定式化されたものなのよね 振動してるかどうか知らない
振動してるというモデルで理解に役立つなら実際がどうであるかを問わない >>363
振動とは別に絶対的な時間の進行を仮定しているように聞こえますが
大丈夫ですか?
時間軸も相対的なものですよ 古典物理の数式は、距離、時間、質量といった数値が基本となっている。
これ等の数値はスカラー値である。
これ等の値を得る為に観測を行うが、これは現実をスカラー化しているのに等しい。
ここに数々のパラドックスの根本が有りそうな気がする。 古典物理の力、電界、速度、運動量はスカラーでなく、ベクトルだ 純粋現象学
現象学、木田元、P118
『自然的態度のうちにまったく根を持たない
超越論的動機からする超越論的還元の不可能であることに気づいていたようである。つまり、一切の世界的な拘束を脱した純粋意識の立場
に一挙に身を移して、すべての意味をア-プリオリに直観するような哲学的反省、ここでの
サルトルの用語で言い換えれば純粋現象学の
不可能であることに気づき始めていた』 ウィキペディアより
現象学、より
超越論的主観性とは、存在というものが、
前もって与えられている世界の内部で存在して、その内部から意味付けられるあり方に対する批判から、そのような世界内存在のあり方
では、一定の方向付けが成された個別科学的で歪んだ解釈しか行われず、真理性に欠いていると考え、存在の世界内在性を超越して、定式に囚われず、自己による経験によって経験的に
批判を行うことで得られる純粋意識である。
このような作業(現象学的還元)によって、世界内存在によって意味付けられた世界ではなく、新たに、超越論的主観性によって世界を解釈ないし哲学的反省をすることが現象学の方法
である。 『自己による経験によって経験的に
批判を行うことで得られる純粋意識である』
自己-経験に基づく(従って自己経験に違反しない)批判-思考によって、通して得られる-到達する自己-意識である。 中学の理科でで運動量の意味を教えてもらわなかったのか Aさんの存在と時間
A=非Aでは無い。
Aさんが5年経って帰ってくる。Aさんは昔のAさんでは無い。しかし、Aさんは依然としてAさんではないか。
時間が経過している。
しかも、Aさんが去って行った原因のA事件は未だに未解決である。 横レスだが
>>385
太陽、自転等変遷はあったが運動量じゃん 運動量っつーのは
速度に質量を乗じたものにつける概念なんだよ
義務教育レベルだぞ そーいや
何年も何年も運動量、運動量と念仏唱えてた馬鹿いたわ
いったいこの人は何が言いたいのかなと訝しく思っていたが
まさか義務教育レベルで齟齬があったとは
思いもよりませんでしたー 運動量の意味も知らなかったなんて唖然とする
運動量=m×v 一瞬のうち悉く永遠があり、永遠のうち、遍く一瞬がある 時刻はアイデンティファイされている
時間は脱個性化されている
今はどのように扱われるべきか
強迫性障害を持つ人は、時を止めているといわれる
特殊であること、一般であることが移り合うような
永遠に名前をつけて、一瞬をありふれたものにするようなアイロニーが成り立つか >>386
AさんはA"さんになっている。A≠A"である。
しかし、Aさんに関係しているA事件は未解決のままである。
AさんがA"さんになった事態は、時間の経過である。AさんがA"さんになってしまったと言う認識はA事件が依然としてA事件のままであるからである。
A事件も五年の時間の経過でA"事件になっているのではないか。
すると、A事件の要素の中で、発生時のままにとどまる要素と時間経過の中で変化して要素とがある。今やA事件は時間経過により変化して要素と変化していない要素とからなっている。 「哲学で新しく何かが分かることはない」
これは正しいよね 分るというよりは、理屈を捏ねることによって何かが納得できるようになる 理屈に従っているだけでは堂々巡り
納得するには、理屈を捏ねる必要がある 問ひを反芻することによって、理屈がこねられ、こなすことのできる考え方が現れる。
問ひにおける課題をこなすことができるようになり、問いが消化される。 例えば、小麦粉だってそのまま食べたら、旨くもないし、
うまく消化できないわけでしょ
水と卵を加えてよくこねて、麺にして茹でれば、
胃がこなすことができるおいしい食事になる
「分る」ことだけが理解することではない
納得できるようにすることが大切 その例え話は何か意味あるの?
例え話は、その例え話と、本当に語りたい事がイコールでなかったら意味ないでしょ?
その例え話と、本当に言いたいことが同じだと言うことをまず証明してよ
それから例え話をしてよ とすると、「それ関係ないでしょ」と言えばいいのかな? >>410
おまえの頭の中では
「関係ある」はイコールだってことか? そもそも例え話というのはアナロジーなんだよ
分かりにくい概念にアクセスするために個々によく行う作業
それを他者への説明のために使うとなったらそこそこセンスが要る そのアナロジーがどう繋がってるのか、余計分かりにくい 一対一対応することと、アナロジーが成り立つことは等しい と思ったが、奇数と偶数は一対一対応するが、異なる性質を持つ
アナロジーが成り立つかというのは、どうやって確かめればいいんだ
そもそもアナロジーを証明するというのは、形容矛盾のように思えるが 茹で卵を作るのだって、一個一個の卵はイコールではなくて、
毎回違うのだから、ゆで卵の作り方は成立しないことになるぞ なにを1とみなすかなんだろうな
逆に言えば、他の数との違いが1の自己同一性を確かにする
卵と電車は似ていない、卵とボールは少し似ているみたいな、
アナロジーとは、直接ではなく、くらべる対象が沢山あって、はじめてその差異から見出されるのではないのか
間接的に外堀から埋める感じで アナロジーとは科哲スレのほうで言及されている「帰納法」に広義的に分類されるひとつである。
ヘンペルのカラスの世界へようこそ。 例え話は教育だと有効かも
話を聞く方が話者を信頼していて、でも理解出来ない時に有効
しかし、議論をしていて真偽が分からない時に例え話を使っても、混乱するだけ >>401
その五年の間にAさんにあまり関係の無いC事件もC"事件となる。さてこの五年の経過は時間現象では無いのか。過去の時間経過ではある。
ローソクが燃え尽きる現象は、時間現象である。
ここで、何故Aさんの経過は時間現象では無く、ローソクの火は時間現象なのかを検討するべきである。 ファインマンの経路積分においては
時間が複素数で用いられたりもする 偏差値の高い文学部哲学科に合格したぞ!←天国
偏差値の高い一流Sランク大学なら就職も引く手あまたと安心←地獄(単位取得も文学部生は卒業も理系学部生と違い簡単)
ゼミで指導教授の著作と、それに記されている参考文献を使っての卒業論文制作で簡単に高得点。
今は文学部哲学科の偏差値ガタ落ちで、なんとか進学校の落ちこぼれを推薦入試で拾っている事実。
オッフェンバック「天国と地獄」は、小学生の頃に聞いて衝撃を受けました。 >>402
正しくない
気付かなかったことに気付かせる
疑わなかったことに疑わせる >>406
>カボチャのスープを作るといっても、
>カボチャじゃないものを入れることで
>お客さんにはカボチャ以上になるんです (「調理場という戦場」) >>420
>卵と電車は似ていない、卵とボールは少し似ているみたいな、
>自分が考えている問題のなかに、
>まったくデタラメに選んだ概念を導入して、
>それとの関連を探せ(「新物理の散歩道」) >>421
>ヘンペルのカラス
知らなんだありがとう
>パースの見解では、数学においては、
>事実についていかなる実証的な主張も行われない
>それは純粋に仮定的あるいは条件的な命題の研究である
(「パースの哲学について本当のことを知りたい人のために」)
論理学も同じく >時間が複素数で用いられたりもする
どのような経路を採っても時間が変わらないから >はじめに気持ちがあって、言葉と動きがある(「ガラスの仮面」2巻)
>はじめに心があって動きがある(同 15巻) 哲学だけが重力に抵抗できる唯一の方法なのに
といっても、ときどきでいいのよ
そもそも地に足が着いてなきゃ私たちは生きられないのですから 複素平面上は、コーシーの積分定理とか一致の定理とか、
便利で不思議なことが成り立ってるよな 他者をみるとき、自身はみえない
自身をみるとき、他者はみえない
他者のなかに自身をみている
自身のなかに他者をみている
この4通り
これらの関係
それぞれがある 自分と他人を、一瞬と永遠に置き換えることもできる
どっちに置いても構わない む。もしかしたら、「数学」こそが「事実」なのかもしれない。
ただし、数学という形式とか概念とかのことではない。
「存在」、「数学」という「存在」こそが「事実」。
「世界は数学でできている」という言葉をひっくりかえして、
「数学は世界できている」と考えてみたことがある。
「アクセス不能な、空の内側の無のみが実在である」などと考えたこともある。
「実在」や「概念」とも異なる、「事実」という存在。
うーん。factではなくtruthなのだろうか。
そうすると、「数学こそが真実である」と。正解のような気がする... >「ぼくたちみんな、まちがってるんだよ」(「ぬすまれた宝物」)
君たち宝物がどこか隠されて“ある”と思ってるでしょ? 「あなたの人生の物語」でフェルマーの原理について書かれてた引用がどっかいったw ゼータ函数の本をたまに読むことあるけど深入りされるとぜんぜんわからない 私たちの人生ってそれぞれ最短経路だよね
でもその“最短”ってどういう意味だろう? 私が大学に行かなかった場合と行った場合でも人生の歩んだ距離は変わらないと?
速度ってなんですか? >距離(distance)には、様々な類似概念と用語がある。
>ノムル(norm)、計量(metric)、位相(topology)、ダイヴァージェンス(divergence) といった具合だ。
>距離というのは「同一さ」の尺度である、というのがその最も深遠な答えだ。
“距離”のノート 暗黒通信団 そうか、「フェルマーの原理」こそが事実(真実)だとすればコンタクト可能なのか。
そうするとボイジャーは失敗だな。
コンタクトしようとやってくる宇宙人は全裸の男女になって地球に降り立ってしまう。 おもしろい
位相を学べとブラックボックス氏に注文されたことを思い出したw >>443
数学は正が証明できるなら
反対も証明できる❗👸 >人間が口にする言葉には「絶対」といえる言葉は皆無なのであって、
>人が口にする命題はすべて対立概念で把握できるし、
>把握しなければならないのである
>そうしないと、人は言葉を支配できず、逆に言葉に支配されて自由を失い
>そのためその言葉が把握できなくなってしまう(「空気の研究」) 投影から射影幾何学のウィキに飛んで射影複素空間に見たらこんなの翻訳するの無理ぽ
私がいま思いつくのは鏡にしろ関係にしろコンタクトにしろ
そりゃ引力だけじゃだめなのよ斥力も含めないと わかりみだなぁ
自分の外に世界を見る
世界の外に自分を見る
自分の内に世界を見る
世界の内に自分を見る
これで引力斥力そろったんやない
上2つは自己言及
下2つはフラクタルをなす わかりみじゃなかった
自然はエネルギーが最初になるように選んで運動するんだな 引力も、時間的に逆転させれば斥力。
ブラックホール状のものに落ち込むもの同士に引力があるとすれば、
ホワイトホール状のもから出てくるもの同士にあるのが斥力。 山がある、故に、山はない
即非の論理
色即是空
空即是色 わたし、生徒にも伝えたことがあるのですが
山があるor山はない、のどちらかではないのです
私たちが生きている意味の世界とは 中庸、中道、メソートス、
拮抗、調和、双対、相補、
それでも極端でありたいと願っていた 「金木犀の夜」を聴きながら眠ることにします
>あの頃のふたりは
>時が経っても消えやしないよね
>いつか他の誰かを
>好きになったとしても
即非の論理に当てはまらないでしょ
日常の生活から宇宙の構造にまで位相を見い出せないなら
まだその要素を見つけることができていないということです
おやすみ >>426
出来事と現象
ここで言っている現象は、フッサールの現象学の現象ではない。フッサールの現象を現象-現在とする。この現象-現在は厳密には再現出来ない。
ローソク現象は再現出来る。我々はローソクとは、燃えるとして捉えている。ローソクの意味は燃焼であり、その燃焼は現象として捉えられている。この現象を意味-現象とする。
Aさんの事件経過は、経過-出来事であり、現象ではない。 部分の内は全体の外と等しく、全体の内は部分の外と等しい。(部分の内に、全体を見る、全体の内に、部分を見る)
あるいは、
部分の外は全体の外と等しく、全体の内は部分の内と等しい。(部分の外に、全体を見る、全体の外に部分を見る)
自己言及と自己相似 具体と抽象、特殊と普遍、
規則と不規則、約束と可能性、
存在性の規定 >>382
超越論的主観性とは、純粋意識である。その様な純粋意識から得られる主観は、客観にたどり着くとの予想である。
逆に客観から主観へはたどり着けない。主観的な内面的経験は客観では説明出来ない、捉えられない(主体の主体性)。それで主観から客観への道筋として超越論的主観性を考えている。
この超越論的主観性から得られる意味(世界の意味解釈を)を、実存-意味とする。 >>471
ローソク現象を人は理解して把持する。その意味を現象-意味とする。現象-意味は世界理解の一つの形態である。
地動説も一つの天文物理的な説明であり、人はその理解-把持により自己の世界内存在をより確固とする。現象-意味は客観性を持つ。 活動の行き先としての他者
人の活動は、その行き先を持つ。ポエムは特定の個人をその行き先にもつ。ランボーの詩編はそのほとんどが妹に宛てられた。
ボードレールの詩は、友人達に宛てられた。
小説は読者としての他者を宛先に持つ。
フィロソファアとしての言説もある行き先を持つ、持っている。
広い範囲での、人の活動の行き先が他者である。人の活動は、いつもすでに誰かに、何者かに宛てられてある。主観と客観の問題は、他者問題である。 >>479
物語りとしての小説
小説は物語りであり、宛先は、それを聴くものとしての聴者である。フィロソファアは思考する者、存在者へ宛てられる。それが読者である、読者とは単に読む-聴くだけでなく自身で思考-吟味する者である。 色眼鏡、先入観として、世界に主体は投影されている
客体は主体性を規定する
主体は客体性を綜合する
我思うゆえに我あり
我を思う我を思う
我を思う我を思う我を思うとなって
無限後退
主体のみが存在するということはない
客体のみが存在するということはない
常に自己と世界は関係性として存在する
自己と世界は完全に一致する
自身と関係するすべてのものが存在する
自身と関係する可能性のあるすべてのものが存在するだろう
自身と関係した可能性のある、すべてのものが存在するだろう
自身は自身と関係するか
時間とは何か >>479
居場所
他者問題が言われている、居場所がないと言う状況を説明する。居場所が無いとは物理的な空間としての居場所では無い。更にそれはその者の居場所では無く、その者の周りとしての他者である。
その者の行為としての存在の宛先としての他者がいない、見えないと言う状況が、居場所が無いである。
つまり存在者の居場所は、他者の存在が作り出していると言える。 >>478
主観、客観問題
これに対して、実存-意味がある。例えば、楽しい時間は短い、は実存-意味である。
現象-意味は客観であり、実存-意味は主観である。現象-意味から実存-意味にはたどり着けない。実存-意味から、現象-意味がどの様にして成立するかを示せば、主観、客観問題は解決する。
(この様な、論説でも、解決すると断定するべきである。そうで無いと読者は、自身の判断が出来ない。判断に導かれないのだ。解決すると思われる、の表現は良くない) 意味がある
@名前がある
A価値がある
前者は関係性そのもの
後者は固有な関係の性質である
存在があるところ、意味がある
意味の否定は、存在性の否定である 因果関係は存在である
(ここに客観と主観の一致がある)
世界の不可分な要素は因果関係である
時間の不可分な要素は因果関係である
因果関係に介入する場合、
すでに変質した因果関係がある
仮に、他者である存在に自身が介入できた場合
(脳を電極で繋ぐなど)
あるのは、すでに変質した不可分な存在だろう
すべてのものは同じくなく、そのように同じくある
他者の存在は自己の存在の重ね合わせとして、
自己の存在のうちにあり、逆もまたある >>482
実存論
この様な、例えば、居場所の解析は実存-意味の解析である。実存-意味の解析は、未だ、甚だ不十分である。存在と時間の功績に実存-意味の解析、開発があった。
実存-意味の解析は、実存論として行われ、解析されただけそれだけ我々の実存は進歩する。この観点から、我々の実存は、実存論的である。 居場所は人間が社会的動物であることに由来する強い認知バイアスがある
そのような概念に拘泥することは、本質の解明を遠ざける
本質が複雑なのではなく、人間が複雑であるために、
本質の理解は複雑になる
人間としての自己の存在から本質への道のりは、
自己の存在のあり方と一致する 時間とは何か、論及の構図
序論、
この問いの解説
フィロソファアとは
人間存在と実存
実存と意味
現象と現象学
1、時間経過の記述に向けた実存-意味の開発
2、実存-意味による時間経過
3、実存-意味による時間経過の時間現象への転換
4、時間現象と物理的時間
5、改めて時間とは何かの問いの考察
6、実存における時間本来の意味 1、時間経過の記述に向けた実存-意味の開発
2、実存-意味による時間経過
3、実存-意味による時間経過の時間現象への転換
4、時間現象と物理的時間
5、改めて時間とは何かの問いの考察
6、実存における時間本来の意味
4と5の間に4、歴史を追加する。
4のなかに、主観、客観の問題を入れる。
1、時間経過の記述に向けた実存-意味の開発
2、実存-意味による時間経過
3、実存-意味による時間経過の時間現象への転換
4、時間現象と物理的時間
5、歴史
6、改めて時間とは何かの問いの考察
7、実存における時間本来の意味 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 人間の存在と時間は関係あるのかな?
人類が存在しない30万年前には時間は存在しなかった?
将来、人類が滅んだら、時間は存在しないのか? >>490
あなたが自分の人生で無駄にしているもの、それが時間
あなたが死んだら、もうあなたには時間はない 時間は平等に与えられていると言われるが、そもそも時間とはなにかがわかっていないのに、そのような言及ができるのだろうか
このような、誰にも定義不可能なものに言及するという手法は、主張をもっともらしく見せること、論を否定させないことが目的である場合が考えられる
ハイデガーの存在と時間の文脈で時間に言及するとかなら、この限りではない
俺は存在と時間を読んだことはない >>491
自分の時間は死んだらなくなる
それはそうだ
ここで議論してるのは自分の時間の話なのか?
あなたは私の時間に興味あるか? 時間に関する謎
ハイデガーの言い方と同じになりますが、我々は普通に、時間が無いとか、時間はあるとか言う。その他、普通に時間に言及して生活している。
ところが、時間とは何かと問われると途方にくれてしまう。謎が隠れているのである。 じゃあ、物資は何か?空間は何か答えられるの?
どれも答えられないでしょ 例えば、人生という言葉は、人生の外から人生全体を眺めることが出来ないということも相まって、人生とはなにかという普遍的な理解は得られていない(我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか)
人生は難しい、とか、時間は大切だ、という文について、その真偽は明らかにしようがなく、
そもそも明文ではないはずだ
X→難しい
ただしXは不明
こういう場合、
演繹的には論点先取り、帰納的には後件肯定となる 丸(善)ビル ラガー ル もよろしく。人文系だけが 明治 神宮 東京駆ける 生娘神童ってわけ
じゃないし。花園会館もいいよ。 >>496
どこから来たのかどこへ行くのか
ていうのが観念だからね。別に観念は実体
がないから、どこから来たとかどこへ行くと
いう前程が偽というか、真ではないな 人生が簡単なのは何故か
どうして時間は大切なのか、というとき、
人生は簡単だとか、時間が大切だということが、
真であることを前提にしている
巷の自己啓発の本のタイトルなど、
主張したい事柄や作り出したイデオロギーを、
問いの前提に持ってきて、
暗黙にそれが正しいことを認めさせようという意図がある場合が考えられる
そういう本の内容を見る気にはなれないのだが、
延々と持論が当てはまる事例を列挙して、(早まった一般化)
肝心の、例えば果たして人生が簡単なのとか、
果たして時間は大切かということの検証は、
行われないのだろうなと予想できる 真偽で言えば主観が感じた事が真だから
他人の人生や時間の価値は他人には
検証できないよね、信用するかしないかでしかない 主観を絶対視する人間と、客観を絶対視する人間が議論しても平行線なんだよな
お前がそう思うんだならそうなんだろ、お前ん中ではな論法と、
他人がどう感じるかなんて知り得ないんだから、俺がどう感じるかだけが正しい論法
は相容れず、決着の日の目を見ない 客観を絶対視する人間というのも
結局客観視している主観に違いないわけ
そういう意味で、主観も客観も観念だという
前程の人間でないといろいろ不自由だろうな 例えば、紙に書かれた数式や文章が自然法則と一致していれば、それは主観によらず正しい
自然を説明するものが、自分の観念である必要はない
極論、人間が居なくても、叙述と実際を結びつく限りにおいて、
正しいということがある 力学系において、運動の軌跡を媒介変数表示
したときのパラメータが時間になっているのだ >>508
主観的な観念が必要ないなら
そもそも正しいかどうか
責任をもてないだろう >>509
そんなことない
等速円運動のときは同じになるけど >>508
観念と自然の一致における、正しさの責任の所在は、
観念を述べた人間が負うものとしてもいいだろうが、
数式や叙述である場合、
検証を行う装置だったり、データとその信頼性に責任を求めることになるだろう
観測者がいなくても、自然はあるということを仮定しているが その理論が哲学の概念として
納得され、共有される観念であることが
大前提で、その責任はそれを共有する
全員ということになるな。 観念と、観念に対応する法則や自然がある
人が観念を理解しなければ、理論は存在しないか
なかなかナイーブな問題だ ある理論がプログラムされた機械が、
自然を観測し続けて、
理論に従っていれば真を
従っていなければ偽を出力する
我々は理論の内容を知らなくても、
機械を信用すること、機械に責任を負わせることで、
理論の真偽を認識できる
もっと言えば、人間が居なくても、
機械は理論の真偽を担保し続ける プログラムは人為的な理論だし
自然がそのプログラムに対応しない
状態に陥らないとは限らないし
機械を信用し、責任を負わせたところで
馬鹿を見るのは人間ということになるな。 そもそも、法則は存在なのか
時間は存在であるのか、数は存在であるのか
観念として存在するということではなく >>516
人為的であるかないかによらず、理論の真偽はある
仮にロボットが理論を作り出しても良いわけで、
将棋の手なんかは、ソフトの手が打たれることもある
プログラムされた理論と、自然の法則が一致しなくなる場合、
プログラムの間違いや機械の故障を疑わないとすれば、
その法則における斉一性が破綻したということになり
機械は偽を出力し続けるってことだろう >>519
なんらかの方法で間接的に機械自身を観測したとしても、
とりあえず機械の外装からプログラムを動かしてる電子回路までを間接的に観測出来たとして、
理論に従っていれば真を吐くし、
従っていなければ偽を吐くだろうな
特にパラドクスは起きない気がする
むしろパラドクスが起きるなら教えてほしい
機械が壊れているか、いないかを、その機械によって確かめることは出来ないというパラドクスはあるだろうが、 少女達の縄跳びの数え歌
1.2フレディがやって来る
3.4ドア🚪に鍵かけて
5.6十字架を握りしめて
7.8しっかり目を覚まして
9.10眠りに堕ちないように 理論も法則も条件がある
捨象しなければ役に立たないってことさ >>517
もともと「存在」自体が人間の概念でしょ
その対象に対して「存在」という概念をあてはめて、やっとそれが存在することが分かる
例えばリンゴが2個あったとする
もし人間が2個という概念を発想しなかった場合、それは2個とは認識されない
2個とは分からない
人間が自然数という概念を発想して、それ以来それは2個だと分かるようになった >>482
存在-行為の宛先
この居場所と言う意味-観念は存在論的な(存在論上の)それである。ここの宛先は必ずしも、人ではない。スポーツ、芸術、学問などもある。この問題は主観-客観の問題になる。 >>524
人間の存在を成り立たせる要件として、数があるだろう
自然数のように、数を足し合わせたり、1がなかったりしたら、人体を構成することができない
時間も同様
要するに、時間も数も、人間が存在する前から、あっただろうと、だが、時間も数も素朴に存在そのものもであるとは思えない チャーマーズ知らなくてウィキペディアで調べたけど、わかりみだった 数は事後的な知覚媒体なのだからそれがなくても人間が成立する区画もある。 足し算も掛け算も成り立たないような血液量だったら、
水飲んでも血圧は上がらず貧血になって人間生きていけん 細胞の数が曖昧だったら困る
確かに可算性のなりたつような世界が人体を
成り立たせているわけで 細胞は死滅と分裂を繰り返し、その数はいつでも変化している。
その厳密な数は曖昧だ。 >>531
人体の細胞数を数えようがないという意味での曖昧さではなく、
人体レベルの巨視的な対象であったら、
分裂、分化する細胞の数、生細胞数、死細胞数を
きっちりカウントすれば、可算性は成り立っているだろうということ
数がなければ、急増したり、急減したりすることだってあるだろうし
ある瞬間での、細胞数が決まっていないということは考えにくい
免疫細胞の数が減れば病気になるし
受容体が突然増えて、覚醒するなんてことはない
また、可算性が成り立たなかったら、シグナル伝達による調整が成り立たないだろう
単純に、数を足したら増えるということがなければ、人体はおかしなことになる 数を数えるから細胞があるわけじゃなく細胞があるから数を数えるんでしょう。 人間が自然数を発明する前には、数は存在しなかったか
カラスにも数の概念はあるらしいが
数とは観念であり、自然には実在しないのか 数があるという現象もある種の象徴やメタファーで数が存在するといっても事実なのに意味はない。 実在という言葉に誤謬があって、
自然の数というもののあり方と一致しないということもあるかもしれない 人間の発明が数なのではなくて世界を説明するために独立してあった潜在的な可能性をある種の記号を使うことと
考え出したに過ぎない。 意識としての現象としての数の存在ではなく、
数が自然の成り立ちに関わることを示すには、
その仕組みを説明しなくてはならないわけで、
非常にハードルが高い
少なくとも現状の理論は、数を使うことで成功しているが、その本質を問うても、答えられる人間はいないんじゃなかろうか 数は自然から独立しているのか、
切り離せない、もの、性質なのか 数か増えることはめでたいことで全き他者の一と結ばれることを。自己を打ち消して。
数は抽象概念だから自然のあとだろうな。 漸化式
Z_(n+1)=Z_(n)+1
Z_(0)=0
写像
t→t+1
関数等式
Z(s)=Z(s-1) 一階線形同次微分方程式
dx(t)/dt=x(t)
x(t)=e^t+C ここでそんな論争するくらいなら、大学院で「時間哲学論考」とか自身で博士論文を
作成して博士号取得しなさい!w
大学院は年齢関係なく普通に再入学できるよ。 哲学博士はまだだな。 文学 化学 民俗神話 心理学 いろいろある。 大学院なんて通う必要ないじゃん。博士号と大学なんか関係あるの?在籍するぐらいにしとくべき。 研究内容によっては、生活と研究天秤にかけなきゃなんなったり
研究室によっては毎日来いもあるわけだが
ゆるく博士号だけとっても、本質の解明には至らん 修士論文提出で修士号(博士前期)認められるのは簡単
だけどね博士号取得は厳しい
そもそも文学部大学院(特に哲学科)なんて、指導教授が学部ゼミ学生を必死に大学院に
行きなさいと進める
私は、もう学部ゼミ時代(学士論文)で精一杯ですと丁重にお断りした次第
もうそれだけ教授も自身の居場所確保に必死だっのでしょう >>526
人間の存在を成り立たせる要件として
数があるっていう数学観念に何故固執
するんだろうね?
数の概念がなくても動物が在ることには
変わりない。 >>557
>数の概念がなくても動物が在ることには変わりない。
これは実験検証できない形而上学的主張だよ。 >>526
まあ、人間に限る必要はない
チャーマーズの構造的コヒーレンスの原則のように、
数が存在性を規定すると考えて不自然なことはないというのがある 動物にしろ天体にしろ、巨視的な世界は数の可算性が成り立たないと、破綻するっていうのは、
わりと認めざるを得ない事柄だと思うんだけどなぁ 数とか可算性とかも人間が考えた概念だから、別に人間がいなくても、動物はそのまま生きてるだけ
別に人間が考えた概念など必要ない 数とは存在のことであり、数がなければなにも存在しない。
存在の属性ではなく、数とは存在そのものである。
なにも存在しないのだw
そもそものわれわれ、わたし(あなた)は存在しない。
物自体どころか「わたし」も存在しないのだ。
そう考えてしまうとみもふたもないw
存在とは秩序であり、秩序が数(数学的対象)である。 >>557
あえて言うなら、科学的実在論に対する稚拙な誤謬だよw
適当に言うなら、数学で理解できるような科学的な法則とか理論とかが、実在しているのだ
という科学的実在論について、この人は、なぜだか、科学的実在=数学なんだと稚拙かつ
短絡的に結びつけてしまってるんよw 数は人間が考えた概念だけら、存在とは直接関係ない
そもそも「存在」も人間が考えた概念だけど >>563
藁人形論法かつ煽りよる
さらに言えば、アンカー自分に飛ばしてないか
適当だけど >>564
いやいや、直接的にそういうことをやらかすというよりも、科学的実在論っていうのは、
科学的実在っていうもんがあるんやっていうスタンスで行う科学に対する哲学的なアプローチなわけよ。
そういうことやから、別に科学的実在なんてないんやっていう立場があってもいいし、
私も、どちらかというと、そういうスタンスに近い考えなんだけども、科学的実在を否定してしまうと、
科学って、一体なにをやってるんや、科学はなんぞや、と考えたときに、これが割と混沌としてしまうわけや。
そう言う話や。わけわからんなぁ。 >>565
ちゃうよw私が「この人」と言っているのは、「世界は数学や」みたいなことを
言ってる人のことやね。
数学は、正しく人が創り出した概念やね。問題なのは、数学で理解されるような科学的なもの
が、実在しているのであろうか?ということやね。 哲学のなにがおかしいかがあらわになってきたような気がする。
誤謬だと思ってしまう誤謬が哲学をダメにしている。
科学とはなにか、ということすら理解できていないからおかしなことになるんでしょうね。 >>568
哲学、ここで言うところの、科学哲学を否定してしまうと、科学を基礎づけることができんようになるからw
科学がその基礎を失って、崩れずにまだ残るっていうんやったら、中空を漂って変なことやってるだけになるでw
科学者は、ただの変人になるわけで、君は、それでえーの?
君、哲学をわかってないだけやで?
ていうか、君、多分、科学とか、数学について、わしよりもわかってなさそうなんやけどもw
君は、別のスレで、相対性理論を全く理解してなかった人やろw相対やって言うてんのに、絶対的な視点から相対性理論語ってたやんw 科学的実在あるいは数学的実在というものは、哲学においてもっとも偉大で、唯一wの発明であろう。 >>570
いやいや、君のそれは、素朴すぎるんよw
そんなところで、解決するんやったら、イエス様が生まれる前にそんな議論は終わっとるよw
実際のところ、この辺りの理屈も、到底理解不能なほど、わけがわからんことになっとるんよw なぜ科学的実在あるいは数学的実在を解決法だと思うのか、そのへんからおかしい。
素朴すぎるw >>572
君は、私のレスをきちんと読んどるか?
科学的実在論は、これを肯定するか、否定するか、というか、そういう単純な二択ですら
ないんやけども、これをめぐる議論は、未だ決着していない、無茶苦茶ややこしい問題なんやでw
そんなややこしい問題に、決着がつくんやったら、それは君の言う解決法やろうw
適当なオウム返しは、おもしろくないんやでw 存在の質は何で決まるか
同一性で決まる、情報で決まる、構造で決まる云々
数えるというのは、異なる対象を同一視することから始まるが、同一視された対象は、異なる数と対応されていく
一なる世界の質とはなにかとか、無数のうちの1つの存在の質とはなにかとか、そういったことに想いを巡らせて、ポエムを綴るのである ふ、科学的実在と科学的実在論を混同してますね。なさけない。 >>574
>異なる対象を同一視する
おうよ。矛盾しとるなぁ。
例えば、原始的な大昔の時代であっても、太陽は東から登ってたわけで、人は、それを理解しとったやろう。
なんで、人はそれを「同じ」だと捉え、また「異なる」と捉えたんやろうか? >>575
混同してるわけがないんやけどw
君、私の言いたいことわかってる? >>576
民族神話に詳しそうな学術さんに聞きたいところ
同一視しなければ数えられない
数えるためには同一視しなければならない
って循環した
観念としての数、
カラスは数を数えられるらしい
猫なは難しいかもしれない
習性よりかは、知性のなせる技だろうな >>575
あくまで、科学的実在論というのは、ある種のスタンスや。
そんなに固執するほどのものでもない、と思うんやけどwわかってもらえんかなぁw
科学的実在を認めんでも、同じような理屈を展開することは可能やと思うけど、わからんやろうなぁ。 哲学にもNoether's theoremが必要だと痛感。
このへんから哲学言語としての圏論をくみ上げることができるんじゃないかと。 同一視するためには数える必要がある
数えるためには同一視する必要がある
これなら循環するけど、
前者は帰納的な意味でのアナロジーだし、
(明るいものが東から登った
次の日も明るいものが東から登った
…
明るいものは、みな同じものである
これを太陽と名付ける)
後者は演繹的な意味でのアプローチの条件だ
(東から昇る明るいものは、同じものであるとする
これを太陽と名付ける
太陽が一回登った
太陽が二回登った
…) >>579
科学的実在論などに言及していないのに、かってに持ち出してくるからw
科学とはなにかというところで見解に相違があるようですね。
科学的実在を認める? 意味不明ですよ。わざわざ「発見」ではなくて「発明」と書いたのに。 >>578
私は、「学術さん」じゃないんで、適当に答えるけども、
どのみち、どっからアプローチしても哲学的な問いを突き詰めると、
循環するんやでー、と思うんよ。循環がどっから始まるのかっていうだけなんよ。
循環を完全にブレイクスルー出来たって話は、寡聞にして知らんw
>習性よりかは、知性のなせる技だろうな
それは、そうかもしれんが、我々とは全然違う体系でそこを理解してる知性を想定するとどうなるんやろうね?
いずれにせよ、極論そんなわけのわからんものを想定することは、今は出来んのやろうけどな。 >>581
「同じものであるとする」というのは、どっからやってきてるんや?
別に、自然は「僕らは同じものです」って宣言してるわけやないやろ?
いや、別にそこに究極的な答えがあるから、聞いてるわけではないんやけどもね? >>581
間違えたw「そこに究極的な」ではなく「それに究極的な」やなw >>580
君は、数学を含めて自然科学をもうちょい勉強した方がえーと思うよw
そっちの方が、君に合っとるような気もするし、哲学的なものは、後からついてくるっていうんでえーでw
基礎科学は、専攻するとしんどそうやでーw
なんにしても、私から見て数学にしろ、自然科学にしろ、青い感じやとどうしようもないぞーw
私は、法学専攻やからなぁw数学なんちゃ、下手の横好きにすらなっとらんのに、君のは、笑えるからなぁw >>584
後者のやつは、
もう、天下り的に、東から昇ってくる明るいものは、いつでも同じものだとすると決め込んで、
同一視することによって、数えることができているわけだが、
前者のやつは、1つ目、2つ目と経験を経ているわけで
堂々めぐりしている
これの解決のためにはA→B B→Aに対して、
X→AかつX→Bを満たすXを探せばいい >>587
なんで決め込めるんやろうか?っちゅうことを聞きたいんやけど?
後半に関しては、Xがなんで必要なんかもうちょい聞きたいなぁ?
中間のXをわざわざ想定する意味は何? いや、ちゅーても、すまんけどまず間違いなく「なんで決め込めるん?」ていう問いに対する
しっかりとした答えってないと思うんや。マジであったら、私は、昇天するんやでw >>588
まあ、生物には習性や本能があるからなあ
太陽なんかはもろに本能的に知ってそうではある
習性や本能をXとすれば
本能があるから、数えられる
かつ本能があるから、同一視できる
これで、円環に終止符を打てる
これでいいのかと思うが、よくないだろうな
ところで、同一視するためには数える必要がある
というのは、突っ込みがきそうではある
同一視するまでに、結果的に、1つ目、2つ目とものを識別し、
個として捉えるというステップを踏むのだから、あながち間違いではないと思うが、どうだろう うーん、トートロジーに陥ることを避けるためにXが必要なんやろうか?
夜中やから、頭が回らんなぁ。
いずれにせよ、ロジックを基底するためのややこしい問題からは、逃げられんなぁ。 >>590
なんやろうなぁ。夜中で頭回らんから、適当に言うんやでw
習性や本能ちゅうやつは、結局、君の言うところの「同一視」できる生物の行動や行為
(ここでいうのは、静も含む)があって初めてわかるもんやねんな。
要するにやな、こういうことがあったら、こういうこと(同一視できる行動等)をこの生物は
するんやなぁ、っていうことが分かって初めて習性や本能と言うもんがわかるわけやろ? >>592
本能は、遺伝のなかにプログラムされているわけだが、
それは生物の試行錯誤における経験の蓄積ともとれるわけだ、
極論、個体数の減少だとか、生存率の増加だとか、
そういうのが数として働いて、同一視が成り立つのかもな >>566
科学出来実在とは何だろう?
それはよく分からない
別に科学は科学で変なところはないと思う
科学的実在はよく分からないけどね
科学でそれが問題にされたという話も聞かない >>569
別に科学は科学て進んで行くから哲学はいらないし、こっちにケチつけないで、という感じだね
哲学は哲学で何だか分からんけど、やってればいいんじゃね?何の役に立つのか知らんけど >>573
科学実在論ねえ
聞かないなあ
それを悩んでいるのは哲学であって
別に科学側は気にしてないよ
勝手に悩んでれば?という感じ 自己溶失
木田さんの、現象学、p200
『サルトルの弟子とでも言った感じのフランシス、ジャンソンが、現象学のこうした努力を『主体化』と言う言葉で捉えている。彼の考えでは、我々は日常、自分自身をさえ客体化し、疎外して、主体としての自己の責任を免れんとする自己欺瞞のうちに生きている。』 >>567
乙、存在している世界を数字、数式で
割りきれる、解決できたと思い込める
万能感で得られる自由度に嵌ってしまう
感覚なのかもしれないな。
恐らく、「数学で理解されるような科学的な
もの」は、後付できる形式に最適
な識別方法で、マクロ世界故に、物質の
足し引きで、合理性が取れる確率が高い。
というか、そのために計算するんだから
当たり前の話なんだけど、っていう事じゃ
ないかね。 理系としてのわたしには哲学はとても役に立つ。
哲学で考えられることを徹底的に排除することが有用なのだ。
哲学に陥らないように哲学を利用する。これが科学の発展にどれだけ役立っているかということ。
そのように考えれば、哲学なくして科学の発展はありえないといえよう。
とするならば、哲学的圏論(のようなもの)とは、科学が排除すべきものを語るための哲学言語だろうというところにたどりつく。
True Approach [to] Before Of Ontology(TABOO) いい加減な英語w
哲学的圏論としてのTABOOを構築してみよう。TABOOな圏論w 科学がマクロ世界で有用な事実は理系に
限った事ではないんだけどね。
文系哲学が理系に役立つなら良い事だ。 ミクロには明示的に合理性を自ら追求することが要請され、
マクロには暗黙にその合理性の追求とは矛盾した状態を保つことが要請される。
この2つの要請を同時に受け入れさせることに失敗したなら、
統治権力を行使することはできない。 統治権力は、この2つの要請を同時に受け入れさせることを自らの合理性
として追求している。 互いに矛盾する2つの目的をそれぞれ明示的に合理的に追求するように
仕向ける。必然的に生じる矛盾した状態を暗黙に維持することが同時に
要請され、その矛盾を明示化しようとすることが最も厳しく罰せられる。
すると、各自は、明示された合理性を自発的に追求していることになるが、
自分がそれに違反している状況を自らの落ち度として意識する状態に
恒常的に保たれる。その違反を罰せられないことは、暗黙の容認に
よって成立していることになる。それが統治権力を維持するための合理性。 明示的にミクロな合理性を自ら追求するように仕向けるために、
統治権力が自らの足を銃つような「大失態」を演じてみせることは
日常茶飯事、というか、今では、そのような手法に訴えるくらいしか
宣伝効果のあるマスメディアの活用法がなくなっていると見た方がいい。 人は自らの行為が意図しない結果をもたらすことがないように合理性を追求する。
自らの行為が意図しない結果をもたらすような矛盾が容易に生じる状況では、
人は自発的な行為を控え、可能なら、そのような状況と自らが係り合う
ことを回避しようとする。 数は形而上的になんなのか
ミクロマクロ経済
統治の矛盾許容論理
巨視的微視的な自然のあり方 合理性を追求させなければ自発的に働かせることができない。
矛盾した状況に保たなければ、指示を仰がせる優位性を保つことができない。 この2つの要請をいかに合理的に追求するかが統治権力の課題である。
同じ手法を繰り返し用いていれば、人々の回避行動を拡大させるだけになる。
統治手法は常にイノベーションを必要としており、イノベーションが
できないなら手法のリサイクルに訴えるしかない。 構造はとても面白いけど、論理の飛躍がある気がするなあ 言い回しだけ複雑にしてるように見えるが、単純に雑念しか見えないw 哲学って必死で汗を流したやつが過去を振り返ってそう言えばと気づくものなんだよなw
それをなぞっただけのやつって結局そこにはたどり着けないw 哲学は万人向きなだけに、経済、数学と側面的に一々言及して
役立つ程の力はないから、その辺は専門家がやってくれればいいかな。 哲学書は一般人向けだから簡単。
科学・数学書は専門家向けだから難しい。 哲学も哲学にいるわけじゃないから経済にであれ数学にであれ引用は可なはずだけど。 >>603
統治するには階層化が、
権力の発生には集合化が、
これで矛盾なく行使される 組織化のアナロジーが物理法則に当てはまらないとでも? 哲学が終わるとき
問うことをやめたとき
哲学が終わるとき
最後の問いを解決したとき 哲学をするということは、問うことである
哲学的姿勢とは、疑うことである 哲学も学問としては目的ではなく手段なので
人生に何を求めるかによって
人それぞれの人生哲学が
あって良いよ。 哲学は紛らわしいな
哲学というと人生論という意味と学問としての哲学という2つの意味がある
自分は学問としての哲学だけ考えている 意味に終わりがあるかどうか考えてみたらいい
意味に終わりがあるならそれは有意味じゃない >>593
私の問いに対する答えには、全くなり得ないわけだが。
我々が、「本能」だの「習性」だのと言って理解しているものは、
いかように、そのように理解されているのであろうかと言うもんだなんやけどなぁw 学問的な思考とは
哲学は学問的な思考です。一応、フィロソフィアとします。そこで、学問的なとは、何か、です。これを何時からか気になってましたが。ハイデガーを読むと、しっかり考えを進めて行くと思考により新しい発見、知見にたどり着くのだ、と言っている気がする。
日本語で書かれたものでは、そう思わせるものを知りません。ドイツ語ではそうなのではないかと思うようになった。 >>634
ということはそういう本があるけど日本語には訳されてないということ? >>633
本能があるから数えられる、数えられるから同一視できる、同一視できるから、本能があるかどうか理解できる
X:本能がある
A:数えられる
B:同一視できる
Xの根拠をAに求めたから循環した
自身の存在をダイレクトに根拠にして本能を理解しない限り、循環はなくならないだろう Googleに「しぇんろん」と打ち込んだら「神龍」に変換された。 訂正 Xの根拠にBを求めたから循環した
>>632
すべてが同様であれば、ひとつの関係性は固有ではなく、意味はなくなる、それが意味の終わり
ただし、裏では、全体として、ひとつであることが、ひとつでない他の場合にくらべて固有であるから、
絶対的な意味が生じる 人間、同時、同一に生きてるわけじゃなく
順番に生まれて順番に違う体験する
人間が存続する限り意味の終わりはないな 意味とは
>>484
人間がいなくても意味はあるだろう
因果関係があり、相対化される限りにおいて >>642
人間が意味を考えてるだけだから、人間がなければ意味は存在しない 数も時間も意味も、人が存在するかによらず、
自然として、自然の性質としてある
形而上として、ひどく抽象的に想定したとして、
それが美しく必然的であることを重視する
という立場 この世界が存在する意味とは、と問うとき
意味とは人間が見出すものに過ぎないとすれば、
なにものも、意味など存在しないという
虚無主義的な帰結に至るだろう
あえて指摘するとすれば、このように問うとき、
暗に人の価値観によらない、普遍的な意味の存在を
仮定している
もう一度問いなおすなら、
はたして、この世界に意味はないのか 自然はエネルギーが流動することで形を変えるけど
エネルギーを感覚したものに性質を当てはめていくのが人間。
美しく必然的かどうかの性質も形容するのは、マクロ世界の
人間で、自然自体の性質なわけではないな。
立場と自分で言っているようにね、自然に立場はない。 数だって人間が数えるから「2個ある」と分かるわけで、数も人間の思考 なんだろうね。なぜ文系哲学は無知なのだろうと考える。
なんらかの思考を停止させるトラップに囚われている。
どうやればそれに気付いてくれるのだろうか。
とりあえず処方薬としてはカンタン・メイヤスーあたりでよいのではないかとも思う。 エネルギーとは何か
エネルギーは時間との相補性を持つ
また、エネルギーは全体で保存する
エネルギーとは何かという本質は、私は解ってない
知覚のとき、エネルギーの移動がある
光や音もエネルギーの形態のひとつであるからだ
しかしながら、エネルギーのみで自然を説明する理論は完成しない
それから、科学的実在としてエネルギーを捉えるとき、そこに誤謬がないかというのも気にはなる ミクロな世界には、対称性がある
マクロな世界にも、対称性がある
美しさとは
整然として、必然的であること
しかしながら、整然としたものの裏、即、乱雑なものがある
すべてが必然だとするなら、ただひとつ偶然の今がある 個体としてのエネルギーが尽き果てるまで
色々と意味づけ、考えているように感じられる
のが人生の醍醐味なんじゃない。 >>651
というか、考えたものが、それそのものになるわけではないんだから、
対応するか、一致するかだけが問題になるんだろう 意味という言葉は言語学にしてみれば使う言葉で会って問うものではないのでは。 例えば神がボールの中に人間を作ったとしたら、そいつはボールを内側からすべて触れても、すべてを理解することはできない。外からは見れないから。
たぶん根拠はと聞かれたらおれはわかんない、おれ自体が人間である以上人間という存在の限界があるから理解もできない
おれは分からないだろうし肉体が感じれる範疇内でしか人間は感じれない、だから心理は分からないことは分かった、ソクラテスすげぇな。
ちゃんと説明できない、なぜならおれも人間だから。全部わかるやつはそれそのものだから人間に分かるもんじゃあないだろうな。
たぶんおれも、おまいらも、ほこりも、草も、太陽も、宇宙も、概念も、すべてを合わせて、それ自体が心理の塊ではないか。 もうポエムを披露するのはやめてもらえないか
議論できる書き込みをしてほしい 理に従おうとするなら、心ならずもという事態がしばしば生じる。 そもそも神を出してくる議論は神を誰がどうやって作ったのか答えて欲しい
神のような存在は自然に発生しそうにないぞ
多分、神より高度な存在がないと神は作れない
じゃあ神を作った高度な神は誰が作ったのか?
それを答えて 例え話
唯一無二の全能の神が、自身を真似て像を作った
宇宙は次の瞬間に、自身と最も近い状態を選ぶ
宇宙は最も遠回りして、自身に還る
宇宙は常に自身になろうとして、自身ではいられず、
最も遠回りして、自身になる
自己言及の困難
能動と受動、みずからと、おのずから ようするに、
自己言及によって時刻が進むというのを、
何かしら定式化したとして、
それがよく自然を説明できるかということだから、
議論の対象になるかという要請には応えられていなさそうではある 時間とは何か、論及の構図
@我々、現存在の基本的な時間体験が、『つまらない』、であると捉える。Aこれとは別に、自然現象として、また人に利用されている物理時間を時間現象として記述する。B現存在の
実存を新しく解析してその世界内存在の様相を時間に関して明らかにする。これらの三つの
論及により、実存者の体験時間の意味が、つまらない、である必然性が示される。
ここまてが、前半 >>663
どうして、物理に進まなかったのかね。すぐに物理に戻り給え。 >>652
人の考えは知らんけど、一致するか対応するか?
を問題にするならしたらええんやないの? >>666
叙述が自然と対応、一致したとして、
そのとたん叙述が輝き出して魔法的な力が使えるようになるわけではないけど、
現象を制御したり、予想したり、発電したりできるようになる可能性を秘めている
というよりかは、本質を知りたいから探求するわけで、ただ単に知的好奇心と興奮がある 読み返したら支離滅裂でごめん
要するに人間が人間である以上感覚を使って理解しようとする
人間という「もの」はこの地球の中において肉体を維持して枯れる前に複製を作るための「もの」になっている
その時点で「意味」なんて分かりえない存在なのではないか
少なくとも、「ほんとうのことが分からないことは分かる」
でも、「感じれる」範囲で言うならば何もかもがあって、それを心理と言うのかな?
おれはこう思っている 感覚を使って理解したものが複製作るためのものなら、殆どの人達は
そういう意味をものとして実践して人間が存続してるし、それは少なくとも
本当のことなんじゃない、貴方自身にとっても多くの人類にとっても。 >>660
「神」って言ったけど、それも抽象的に表したもので、
神も物理学も等しい
っていうか、ほんとうの真理を断片的にしか表せていないのかなって思う
たぶんすべてを表すのだったら、人間が指を使って、目で見てるのだけでは分かることができない
宗教であったって、その当時の物理学という「常識」の中にない発想をもつ人間たちが、一生懸命この世を表したもの
そういう違う段階で得てったものたちを断片的に組み合わせていくことで、「推測」できるんじゃないか
あと「心理」って書いてた、ごめん >>671
さっぱり意味が分からん
神と物理学が等しい?
どういう意味?
物理学に神は出てこないよ 感覚的理解とは経験の商
直感的理解は経験の積
複素平面上に対応させれば、
反時計周りの回転が直感
時計周りの回転が感覚 商の本質は同値類に分けること
積の本質は組み合わせること 言い換えることで何を伝えたいのか、伝わるとなんか得られるのかもわからないし
個人の頭の中の理解は、各々で各々なりに理解して、想像し合っているだけになりがち
なのは、抽象的な表現を適当に使うから、どうしようもないな >>672
もし物理学で宇宙の成り立ちとか始まりとかすべてを解明したとするじゃん
ビックバンの仕組みは神の最初の一言「光あれ」とも読める
宇宙の成り立ちだって同じ
そのあと神に似せて人間を作ったって言ってるけど、そこはどうなんだろうなぁって思った
「でも後々「地球」という中で生きれるものだけが生き残ってて、人間が存在するんじゃないか?」という意見
「すべてを数式で表せないか?」って今は思われてる
そういう新たな考えが混ざって変わってすこしずつ分かってきている
でも人間という存在である以上制約がある
そういう違う価値観は、もっと原始的な、生き物ではないものこそが分かる断片的な真理がある
分かる範囲のものを並べていって、方程式のように推測できるのではないかな どう解釈するかは思想だからねぇ、そう解釈
することで納得できるならそれがベストなんだろうね 直感と感覚が相補的であるってのは、既存にある話
これには個人的に疑義もある
心理学板に、INTPとか色々スレ立ってるけど、
まあ、役立てようと思えば、役に立つものなのでは
ところで、じゃあ直感とはなんぞや、感覚とはなんぞやというのの答えが、経験の商と積だろういう
複素平面上に拡張すれば、回転という操作になる
虚軸と実軸をなにに取るかがミソだが、
負の経験、複素数の経験ってなんぞやってなる
そこはまた別の機会に
まあ、なんにせよ、応用すれば、なんかの役に立つかもな、そこは個人に任せるという方向で >>677
なんとも表現しがたいものだしね
言い方を変えていけばなんとなく分かってくるのかもしれないけど、
人間の考えてることを完璧に理解するのはできない
そういう点では、数式で表すのは「抽象的で完璧に理解できる」もの 結局のところはそれぞれがそれぞれの中に様々な形で真理を持っているで終わっちゃうからね
当人がいいと思うところこそが、その人にとっての真理 >>681
数式の真理は数量の法則性だから
思想ですらない >>683
その法則性を突き詰めれば、なにか思想と交わるところがあるんじゃないかっていう話 同一条件下においては成り立つかもしれないけど、条件が変われば思想も変わるけどな。
ここまでたどり着くのにどれだけかかった? やっぱり真理は自分が感じるそれそのものなんじゃないかな
時間も宇宙も数式に表わせるはずだけど設計図で終わる
宇宙が存在する意味は見つけるものじゃなくて作っていくものじゃない? 五感で感じて各々の真理を見つければええ
結局こんな話にしかならんw 一瞬のうち悉く永遠があり
永遠のうち遍く一瞬がある
此処あるゆえに彼方があり、
彼方はやがて此処になる 身の丈に見合う、その者に相応しい真理が哲学的に及べば機能し理解できる
理性の構造がそういうものだから、無理は禁物。 >>684
そう考えるなら数式の思想で世界を理解すれば。
数学で世界はできているが真の方にとって
それで理性は満たされるようにできているし。 このスレは目標も目的もないから砂を食ったようなレスしか出てこないぞw >>693
そういうのは実理であって、哲学じゃないから
リアルを充実させることに頭を使った方がいいんじゃない ない人には何も感じられないし、感じられないものを考えても砂を噛むような無駄な時間にしかならん、哲学向いてないよ この30分の時間で一人の詩人の気持ちが下がってしまったw
これは脳内を巡り続けていた快感物質が止まっただけなのか、不快感物質に変化したのか。 立場といったが、どんな立場からでも成り立つものが、
真理であるということで
自然に立場はないと言われたが、すべてがある以上、任意もあるはずだ
自然のどこを切り取っても成り立つものがあるとして
またどこを切り取っても、異なるようなものがあるのだろう
すべては同じくしてなく、同じくある >>698
それが君の任意である以上
その理論は真だし、そういう立場が
君の限界ということで。 >>699
立場を変え、見方を変え、方法を変えて
有限のあらゆる淵から覗くのだ
円周軌道のように
あるいは、双対する2つの視点で、
すべてを尽くすように見つめるのだ
合わせ鏡のように >>700
必要とあらばw
ごめん、ランチの約束あるからこの辺で。 数が自然としてあるのか
あるという立場、ないという立場
しかしながら、あるという立場からすれば、
あるのであるから、立場というと語弊がある
こういう風に、立場にはならないものがあるな
仮に1しか存在しない世界なら、
それは数えられないことと同じであるから、
そういう意味では数はないということもあるだろうが、
観念としてしか数がないというのは、いただけないなぁ
まあ、1しか認識できない世界の表象と、その世界の質にアナロジーがあるかもしれないし、ないかもしれない
同一視しないということは、すべてが異なるということなのだから 己の真理は他者からは妄想w
その妄想を超えるには他者への証明が必要。
そうやって他者との真理を固めないと議論すらできないw
まだ共通の話題によって板は仕切られているが、5chのスレでもそんなのばかりw 証明は演繹で
仮説を見つけるのはアブダクションだからな
仮説を否定する方法として、より妥当な仮説を見つけるというのがあるだろう
一方でアブダクションの際
> 「最良の」説明を表現する一要素を選択する基準には、単純性、より蓋然的であること、ないしはその説明の説明力が含まれる。 語弊だと気づいたら、語弊のまま進まず改めないと無駄だよね。
数は実在に付随させた想定される概念上に限り存在しえる。
それを
>仮に1しか存在しない世界なら、
>それは数えられないことと同じであるから、
>そういう意味では数はないということもあるだろうが、
とあくまで1という数字の観念を持ち出し
解釈し続けるなら、それはもうその人が
>観念としてしか数がないというのは、いただけないなぁ
となるのはお決まりのコース。
> まあ、1しか認識できない世界の表象と、
>その世界の質にアナロジーがあるかもしれないし、ないかもしれない
>同一視しないということは、すべてが異なるということなのだから
と自己言及の堂々巡りで、自論を理論上循環させるのが真で
そういう価値観の世界を真価として築いていくことが
その人にとっての本質。 >>706
数が自然にあるという立場に立ってるんじゃなくて、
数が自然にあるということは、実際である
数が自然にあるということは、妥当である
これでいいかな
>とあくまで1という数字の観念を持ち出し
>解釈し続けるなら、それはもうその人が
1しか存在しない世界とは
@すべてが完全に同じくある世界
A各々が完全に異なる世界
>と自己言及の堂々巡りで、自論を理論上循環させる
>のが真で
その世界というのは、1しかない世界のことを指している自己言及はしていない 原子番号と質量数がある
陽子(と基底状態の電子)の数が元素の性質を決めてる
逆にいえば、元素の性質に対応する原子番号がある
元素に性質があることを認めるなら、それに対応する原子数を定義できる
数とものの性質が密接に関わってる一例だ >>707
数が自然にあるという立場じゃないなら
数は自然にないから実際には数を使う。
数が自然にないから、妥当性を数式に求める。
で済むよね。
自己言及が足りないと言った方がわかりやすかったかな。 原子の性質が数の本質かというと、違うんだろうけど
もっと二義的でない本質があると思う
数と表象、数と世界 >>710
立場をものの見方とすると、
数が自然にあると考えているのに、
数が観念であるという見方は、妥当でないことになる
そういう立場、見方は間違っていて、どんな時も数があると考えるなら、
立場というと語弊がある
ってこと
その上で、数がないという特殊な場合もあるだろうと モンゴメリー・オドリズコ予想[注 1] (英語: Montgomery-Odlyzko law)とは、リーマンゼータ関数の自明でない零点の間隔の分布は、
ガウス型ユニタリ・アンサンブル(GUE)にしたがうランダム行列の固有値の間隔の分布と
統計的に同一であるとする予想。
ヒュー・モンゴメリーはプリンストン大学でのお茶の時間にフリーマン・ダイソンと出会い、
零点のペアに関する相関を表す式が原子核のエネルギー準位モデルであるランダム行列理論
(RMT)の式と酷似していると知ってランダム行列との関連を研究しはじめた。
ゼータ関数と原子核のエネルギー準位が関係してるって話 >>713
君の観念にとって数が自然にあるという
考えが妥当なんだろう
数がないという特殊な場合を想定しても
無駄なんじゃない 趣味が実益を兼ねる場合、働かなくても実質的な労働になるw 原子数と元素の性質が結びついているのは観念でなく事実だ
元素の性質を肌身で感じることができる以上
観念論者であろうが、数が自然にあるということを認めざるを得ないはずだが 山は大陸の移動によって形成されているので、山自体が動いており、
大陸の動きの表れそのものである。 山は水を貯えるし、日陰にもなり、風も遮る。
それより働くとはすばらすぃ。 >>719
どうして、物理で我慢できなかったのかね? 抽象度と自由度で言えば
哲学<数学<物理
現実に対応するかで言えば
物理<数学<哲学
だろうなぁ このように延々と結論の出ない哲学議論(論戦)をしながら【自身の時間】、時間消費
しているのでしょう。
しかし、これも自分の生き方なのですから否定はできません。
小生も5ちゃんねる哲学版スレッドを読むにも、正直疲れてきました。(もう飽きた) >>728
どうして、数や元素で我慢しなかったのかね?さあ、早く、物理の世界に帰り給え。哲学なんかに関わり合う事ない。 >>722
>>726
彼は、彼の中では、学ばなくとも稀代の天才たちをはるかに超える才能があるんだから、
もう、放っときなさいよw
普通は、客観的に考えて、自分自身がそんな天才であることはあり得ないんだから、
自分の方が間違ってるって思うもんだけど、逆にそこまで自分を天才だと思い込んでる人は、
何を言おうと、間違いを認めんよw いやいやいやいや、そもそも意味不明やからw
わしは、宇宙が生まれてから、いやさ、生まれる以前から、相殺されたことはないんやがw
わし、宇宙が存在する前から、存在してたんかいな?
哲学的な存在に対する理解がそもそも適当すぎるw >>742
わかりません!
いかに記述しようとも、それを表現しようとした時点で、誠実さに欠け、すべてが間違っているように思える。
かといって、それらしいことで、茶を濁そうとしても、いかにもしんどい。
その上、ここで書けるだけの文章量でどうにかしようとすることも厳しい。
そういうレベルの問題。どうにもならん!
そういうことが、わかってから、おいでw >>742
そうやなぁ、ややこしいなぁ、わかりやすいかどうかは別として。
例えば、君は何者や?社会的な意味合い(名前等)を捨てて、君は何者や?
それに対する答えを出せるか?
もちろん、物理的な問題も捨てるぞ!
仮に、君と全く同じ人間がいるとする、君はそいつとは、別人やなぁ。
君は、そいつとは別人として、君としておるはずや。そいつと君との違いはなんや?
物理的には、同時に二つ存在するはずやろ?違いはなんや?答えられるか? >>719
数というのが曖昧なんだよ
自然数か?有理数か?実数か?
どれなんだ? 数があると答えると、それはどういう数かという問いが続く
そして例えば虚数は存在するのか?という答えも考えて行かなければならない
数なんか元々存在しないとしておけばスッキリするのにね >>744
普通に考えると、その答えは人類という生物種の1個体になる
何か不思議なことがあるかな?
コピーがあったとしても別個体だ
不思議でも何でもない >>747
無益と思うよ
意味ないと思う
全く同じコピーがあったとしても空間上の占める位置が違うとかいう話か?
それを考えたとして何になる? >>748
で?コピーと君との違いは何なん?
不思議も何も、君からしたら別個体なんやんな?
違うけど、同じなんw。同じやけども違うん?
それは、おかしな話やなwそんなン数学でも、物理でもおかしいなぁ?
それは、解決できるのん?
解決する必要はないって?必要ないって、誰が決めたん?
数学的に解析したら、必要なって答え出んのん?
?=必要ないって数式なんてみたことないわぁ、怖いなぁw >>749
空間を持ち出すことで同じでないと認めることがわかる 無職シリーズ
次は
「 無 職 と 時 間 」にするわ >>750
素因数分解しても順序が異なればそれは同じと言えないかも 君と私は同じ人間だというとき
物理的に同じということとどう違いがあるのだろう 数というか周期性は物質にはあると思うけど
物質は宇宙空間の4〜5%しかない >>748
しょーもないけど、付き合ったるわぁw
君の好きな宇宙の数学的な話やわぁw
数学的に世界に終わりは、あるん?宇宙に終わりはあるん?
ないかもしれんのやったら、永遠に続くかもしれんなぁ?
で、ずぅーっと、同じようなことをやっとったら、確率的にも君の言うところの元素や、
それこそ、それよりも細かい、数学的に見ても同じことが起きるよなぁ?
全く、同じや、一瞬だけやけども、物理学的におんなじ瞬間や!
君は、それが、別物やというんかい?それは、無理やろう!
せやって、君の脳みその中もすべて同じやから、君は同じやと思うしかないやんw リンゴが6つあることとスプーンが6本あることは空間が異なる
この空間とはどういう意味ですか?
時間も同じではないでしょうか わからんかぁ。
俺らががんばってるんわなぁ、宇宙の最果てでもなく、世界の最果てでもなく、
すべての始まりでも、すべての終わりでもないんよw
それはな、どこまでがんばっても、「人」が行き着く最後のところでしかないんよ。
自然科学でもなぁ、わかってる人は、これをわかってるんよw
どうあがいてもなぁ、「人」は、人の延長線上にしか、おれんのやw >>757
永遠に、世界が試行を繰り返すのなら、余裕であり得る。 スプーンとフォークは同じ空間だけれども
それぞれに6本あることは同じ空間ではない >>761
君の信仰する、数学であり得るんやったら、問題ないけどなぁ。
ないやろうw >>744
インドの哲学者シャンカラも同じような問いを発しているな
>インドの哲学者シャンカラの門を叩くものに、シャンカラが最初に発する質問は、「君は誰ですか」である。
>シャンカラによれば、「私はこれこれしかじかの家
系のバラモンの息子でございます」ということは、
バラモンという階級や家系の持っている身体と、
そのようなものを全く持たない本来の自己である
アートマンを同一視していふ結果として生まれた誤っ
た表現に他ならない。
シャンカラ ウパディーシャ・シャハースリー
あと、物理学者のシュレディンガーもそうだな
ウィキペディア なぜ私は私なのか 繰り返すなら静止してると同じ
ランダムならそうでないが >>756
どういうこと?
何をどう考えているのか、分からないね
宇宙の終わりは物理学的に答えの出てない問題だ
それを私に尋ねてどうする? >>765
君は、なんにしても、もっと勉強すればよろしい。
「試行」を繰り返す、ということに静止が意味すると思える時点で
君の信仰する数学的にあり得なそうやからなw
その表現自体が、ないw >>760
何言ってるの?
そんなの当たり前じゃん
だから何なの?
人間として考えて分かることを調べましょうということで、これまで人類は努力してきたのだよ
「人間は限界があるから何もしません」という考えなのか? 永遠に試行を繰り返す、が同義矛盾だと気付いたほうがいい 繰り返しと静止とランダムは
ミュンヒハウゼンのトリレンマと同じですね 完璧じゃないと前に進まないという話か?
傲慢な考えだよなあ
そんなの無理だよ >>769
答えが出ていないのであれば、それでよろしい。
答えが出るかどうかも、わからないところで、哲学は悩んでおるんだよ。
「どうにもならん」という答えであったとしても、そこに一定の答えを出す
それが、哲学なんだよw
君は、どこまでも、がんばればいいよ。でも、我々も、君らががんばっても、
どうにもならんかもしれんけども、答えは出そうとしてる。それでいいだろうw 宇宙の終わりの1つの可能性としては宇宙が完全に一様になるというのがある
その場合、宇宙にいかなる変化も生じない
ということは時間を測定することが出来ない
したがって時間は存在しない
時間は存在しない以上、それは永遠ではない >>771
「人間が考えてわかること」
というのが、どういうことなのかを考えてるのが、哲学!
そういう理解でいいよw >>776
天文学的上の観察による証拠と理論物理学によって宇宙の終わりを考えることには意義を感じるけど
哲学で考えて何の意味があるのか私には分からない
単なる自己満足にしか思えない 宇宙が繰り返されるという
サイクリック宇宙論なるものもあるな
ようは、ニーチェの永劫回帰みたいに、
まったく同じ状態が再現されたときの存在と、
現存在は同じだと主張しているんだろう >>778
分析哲学の考えで「認識とは必ず誤りを含む」というのはなるほど、思ったよ 君たちは物理的な理解の空間や時間に囚われてるのよ
観念に翻訳してみせろ
そうすれば逆に、物理的という意味がわかるようになる 自分はモノでしか考えてない
観念もモノが生じさせているのだ モノなしには観念は生じない
だから私はモノを中心に考える
もし、モノなしに観念が生じるなら、観念を中心に考えてもいいだろう 世の中モノだけでなくコトでも成り立ってるでしょうに
円周率や虚数や複素数はモノだけに表現されてますか? コトとはモノに生じた何かでしょ?
だったらモノで考えればいい
別にコトで考える必要ないでしょ 熱力学的死の状態では、時刻が分からないだけ。
時間は依然として在るよ。 観念のみで捉えた世界は、所詮は観念的世界でしかなく、真の世界とは違うんじゃないかな? >>792
哲学的には意見があるのかも知れないが物理学的には時間は存在しない
物理学的には時間は測定によって定義されている
いかなる手段によっても時間が測定できないなら、時間は存在しない >>794
ダークマターは相変わらず観測できないけど、在ると信じられてるよ。
現在の人間の定義が完璧だなんてとても思えないな。 >>795
ダークマターは存在する根拠がある
別にあなたは日常的な感覚に反することが受け入れられないというだけだろ?
そんなことを言えば量子力学なんて成立しない
物理学を考えるときに日常的な感覚に拘るのはダメだ
それに完璧なものなんて元々ない
完璧じゃないは否定したことにならない
根拠を示さないとダメ >>794
>哲学的には意見があるのかも知れないが物理学的には時間は存在しない
>物理学的には時間は測定によって定義されている
>いかなる手段によっても時間が測定できないなら、時間は存在しない
つまり人類が生まれる100万年以上前には、時間は存在しなかったw >>794
>哲学的には意見があるのかも知れないが物理学的には時間は存在しない
>物理学的には時間は測定によって定義されている
>いかなる手段によっても時間が測定できないなら、時間は存在しない
つまり人類が生まれる100万年以上前には、時間は存在しなかったw
人類が生まれたのが100万年前とすると、100万年前が宇宙最古の時間ということになるな。
100何年前に宇宙は誕生した。キミの説によるとw 知覚するとき以外は存在しない
それをもって時間は実在しなけど存在させ得る現象
それ以上でも以下でもないね 小澤の不等式
観測による撹乱(認識論的)と量子力学に基づくゆらぎ(存在論的)
とか >>797
それは誰もいない森で木が倒れた時に音はするか?
という問題と同じだ
人間がいるか、いないかで音がしたり、しなかったりしないだろ
人間が存在しないのでその場の時間を測定できないのと、いかなる手段によっても(仮に人間がその場にいたとしても)測定できないのは違う 時間は、昔の人なら文学を、現代人であれば情報工学を楽しむためにある。 学問は仮説の一環で時間を止めることができる。
この状況をぼんやり知覚した人間が時間はないという。 >>801
>人間が存在しないのでその場の時間を測定できないのと、いかなる手段によっても(仮に人間がその場にいたとしても)測定できないのは違う
同じだ。人間がいなくてはいかなる手段も用いられないだろw >>801
物理的に知覚する存在がいない世界で
木が倒れると音はしないよね、パワーバランス
で振動が起きるだけ。
時間も同じ。 屋内でトラブルを起こした奴のリベンジの場が屋外ということになる。 心身が病んでるやつに知恵(哲学)を与えるとトラブルの元だからなw >>805
人間が聞いてなければ木が倒れても音はしないという考えなんだな >>806
じゃあ木が倒れる時に人間はいないけど、録音機は回っていたとしよう
後で、その録音を聞けば音がしていたことは分かる
それでも、その時は音がしてなかったの? >>816
>じゃあ木が倒れる時に人間はいないけど、録音機は回っていたとしよう
人間がいなくては、録音機はつくれないぞw どういうこと?音がしていたことを知覚できる存在の
聴覚が正常なら、録音機の音として聞こえるのは当たり前でしょ。
木が倒れる音は聴覚を認識できる存在に実在するだけで音は実在
していないよ。色とか臭いとかも五官と脳で生じた感覚で
で実在ではないし。 臭いおならって硫黄が入ってるらしいぞw
色も可視化領域の波長の電磁波らしいぞw >>818
人間は音そのものを聴くことはできない。
耳から入った音が電気信号に変換されて脳に伝わる。脳はその電気信号を音と感じるにすぎない。
光も同じ。
人間は光そのものを見ることはできない。
目から入った光が電気信号に変換されて脳に伝わる。脳はその電気信号を光と感じるにすぎない。 内装と内臓の匂い。日焼けフットメンヘルサロンいかがですか? >>745
原子番号は、自然数だな
周知の通り、陽子の数だから、有理数になったりはしない
>>746
有理数はあるのか、実数はあるのか、複素数はあるのか
あるとして、どのようにあるのかということが問題だな >>825
どうして、物理で我慢しないのかね。物理をしてれば済むんじゃないのかね。 まあ、今の専門は数学だけど、
なんだろうな、現実と理想はリンクしてるんだよ >>821
音を聴くことができないのは、耳から入るのが「音」じゃなくて振動だからだよw
振動が鼓膜を通して、脳が電気信号で聴覚に変換した感覚を、人間は音の存在
として知覚するだけ。
自然界に振動は実在するけど音は実在不可能、時間も時間として実在
しているわけではなく、自然界の周期から距離や数字に置き換えた尺度を
一定時間の存在として知覚する知識だからね。 いい音源を手にいれるのではなく心地よく鼓膜を振動させればいいのかね。 マイクとスピーカーの原理が同じであるように、
もし鼓膜に筋肉が付いていて、自力で振動させられるなら、そこから音が出るな 反響定位みたいな
コウモリとかクジラがやってる
コウモリとかは音的ではなく絵的に空間把握してるらしい 同じ構造、情報を持つものは、
同じクオリアを持つ
構造とは
何かと何かの間の関係に成り立つ同一視
情報とは
一対一対応する何かと何かの関係
時間のクオリアについて
構造、情報が失われたとき、時刻は進む
記憶は、構造であり情報である
人が忘れるとき、時間のクオリアがある
時間を忘れるって慣用句があるが、
因果関係が逆なのだろうか、
忘れたことは、気づくことが出来ないから
今気づいたけど、忘れると忙しいって、
同じように、心が亡くなるって書くんだな >>833
セミが同じ季節に同じ周期で地中から出てこれるのは
寒暖差を見てるからだろうな 振動する為には、空間と時間が必要だね。
よく考えてね。 >>806
じゃあ、木が倒れる時に空気が振動する、のはいいだろ?
それは人間がいようが、いまいが関係なく起きる
人間がいようが、いまいが時間はある >>836
いいんじゃないそれで
君が納得できれば誰にも実害ないしw 時間がないという人は何的に時間がないと言ってるの? >>841
その識別能力が機能していない脳の人wは
自然空間に自然振動で自然が時を刻んでw
いると信じきって、時間は実在している
と観念されている所存でござります。 ここでいう場とは空間は意味しない
なぜなら、時間が凍りついた空間、みたいなものは辛うじて表象可能だから それだと事物の変化の「認識」が時間になるから、時間とは認識になってしまう 時が自然に刻まれるのであれば、認識も自然の外にあるわけではないからね 認識がなければ「変化の認識」もない
従って「(認識される)時間」もない
しかし、変化はあるなら、変化に第1原因があることになる
従って、時間は変化だ、となる マクダカートの時間論を改変すると時間は
「存在」「変化」「出来事」の3つに解体できる
変化は生成消滅する世の法に従う事物の身振り
出来事は事物と事物の関係性によって生じる現象
存在は世界の流出である独我
これらが揃って初めて一般的に言われる時間が可能になる 時間か?
答え
@ 寿命
A お前らが365日浪費してるもの
そんな事も分からんのか? 無職はw 時間?
時計を見れば分るんじゃない?
こう考えてみたらどうだろう。
経過した時間の量に応じて半径を1とする円の円周上の時刻を指す
ように時計の針進み、時計の針が今6時を指している。
では、円の半径を基準にそれまでに進んだ時間を数値で表すと
時間はどれだけ進んだのか?0時から6時まで円の半周だから、
現在時刻の6時までの時間はπ?いや、それは無時間的な長さでしょう。
時計の針はちょうど時が進むにつれて進んでいるのだから、
時がπ進んで時計の針はπ進んだ。だから、半径1の円の
円筒を想像して、円筒の長さに沿って時がπ進むにつれて、
時計の針が示す位置が円筒の周囲を前に進みながらπ進むこと
を考えてみて、時計の針が描いた軌跡を時間とすると、
その軌跡の距離は6時の時点で√(π^2+π^2)、1時間で
進んだ距離は、その1/6だから√(π^2+π^2)/6=π/(3√2)
なのかな、と思ったんだけど、算数ぜんぜんダメなんで、
まったくデタラメかもしれないw >>860
どうして、物理や数学で我慢しなかったんですか? >>860
半径1、高さπの円柱を考えて
上面の0時の方向の円周上の点から、
下面の6時の方向の円周上の点を繋いだ
螺旋の長さの1/6を求めたんでしょ
計算はあってるが、
時がπ進む必然性がない気がする 私がにいやんの為にマンションを借り、にいやんは私の為に本を書く。 時間がどのようにか計られたものであるとすると、
計る行為によっていわば約分されて見えなくなっていることがあるのではないか? 時間とはお金のことだよw
Time is money. 過去は存在しない。
未来は存在しない。
存在するのは今だけだ。
ずーーっと今が続いているんだよ。
奈良時代も今。今も今。100年後も今というわけだ。 時間じゃなくて時計の針を知りたかったら時計の針を調べりゃいーじゃん >時間とはお金のことだよw
じゃあ、金にならないのは時間ではなくてなに? 今を感じたと思えばそれは過去、は時計の針が前提になっている
時計の針が時間である、という信仰の上に築かれている >>877
>今を感じたと思えばそれは過去、は時計の針が前提になっている
>時計の針が時間である、という信仰の上に築かれている
砂時計や日時計しかなかった時代では、その前提は崩れるが・・・? >>847
いつもくそもない
実在しない推定時間を
距離や数字に置き換えて
知的流用したとき、時間が
観念できるだけ。
時間が実在するとかw馬鹿なの? ようは時計の本質は「周期」にある
でも周期は時間ではない
ただし時計ではある >>880
とレス番打つ行為が時間の存在を認識しているw馬鹿なの? >観念できるだけ。
観念したら、もうそこでタイムアップだ いや、違わん
実在にしか時間の根拠はない
なぜなら、我々は認識する生き物だから
これは、我々のリアリティがそのように生じるのだからしょうがない ある対象の停止化や静止化と言語化には対称性がある
実在の内においての停止の実現は不可能
具体無き停止した時間のイメージ、
脳内モデルはなくないか
時間そのものの言語化不可能性、困難さ
の原因はこれではないか 時間の場合、形、色、味、感触、音といった特徴が一切判らないからね。
幽霊みたいな存在と思ってしまう人が多いんだろうね。
だから存在しないとかね。 内部的時間体験の実存論的考察
何となく一日が過ぎてしまう、も実存論的に分析する必要がある。
ある時間体験が、その内部的な経験が、つまらない、であり、この分析だけでもかなり厄介である。
ただ明らかになるのは、我々が現在この問題を如何に困っているかと言うことである。 幽霊とか時間とか存在に観念してしまうのは
未熟な精神観念に依存した無責任な主観存在の振る舞いだから仕方ないけど、不憫だね。
自然が時間を人間に観念に存在させているだけじゃなくて
物理学的に存在証明できる実在なら、言い訳も理解も説明もいらないんだよね
時間は存在するを実証するだけでいい。
時間を観念している主観存在者のあるある詐欺しか現実には存在しないのにね。 精神的弱者の時間信仰の自由
で哲学的にはいいんじゃない。 時間が実在しないなら、何なら実在するって言ってるのここのキチガイは?w >>899
時間が実在しないと言ってるだけだよ
何なら実在するって言い出したキチガイが
889w 時間というのは、タイミングを合わせるためには基準が必要だから、
それを都合のいいように暫定的に設定しましょうということ。 2: 時間とは何か 26 (903)
3: 千葉雅也36 (68)
4: 東浩紀466 (695)
安定のゴミ無職スレ おまいら無職なんだな…
まぁ、「未来」にいいことあるさ >>908
実在しない時間に定義は必要ないんだよ。
悪いねw自分で考えて勝手に定義にして
いいよ。 おまいら「何時」になったら時間とは何か?についての話を始めるんだよ 待ちぼうけだよ
スレタイを自宅警備員の暇な時間とかにしろよw ほらな、哲学なんて言ってるけど結局無職の屁理屈しか生んでないだろw
パチンコで確率計算してるやつと同じだw >>915
分相応のレスに甘んじるのが不服なら
どこの馬の骨かもわからない連中がいる
こんな5ちゃんで文句いってないで
相応の場所で対価を支払い学びなさいw >>918
それじゃおまえは学んだって言うのか?
それは嘘だな。なぞってるだけだw
学んだという事実に甘えてキーワード探しの言葉遊びをしているだけだな不憫だなw おい、お前ら、我は時間に関するすごい発見をしたので教えてやる!!
それはまだ写真が発明されていない時代の風景を再現する方法だよ。
いいか、お前ら黒い物体は光を吸収するだろ?つまり黒い物体の内部には、黒い物体が存在している間に浴びたすべての光が蓄積されているということだ。
その蓄積された光を分析すれば、1億年前の恐竜だって、クレオパトラの顔だって再現できるぞ!!!
いやはやお前ら、これはニュートンよりもアインシュタインよりもすごい人類最大の発見と思わないか?
嫉妬するなよ!!!! 遠く無くなった星の光が地球に届くまで2500年としたら
その情報媒体の光がその存在を伝達してるわけです
難しく考えなくていい >>923
光が黒いものに吸収されて、それが熱エネルギーになって黒いものの温度が上がって、やがて周囲に熱を放出して終わり >>860
時間とは、見方によって直線のようにも、波のようにも、円環のようにも、点のようにも見えるものかな >さすが目の付け所が鼻の上やねw
よく気が付いたね 目が鼻より上に付いていることに気づく。
当たり前のことに気づく。それが自省だろう。 >節穴やけどねw
深いね。目が節穴だとすると、目は付いていない。
「不在」ものが鼻の上に「存在」していることになる。 >>860は気付いていないということは自省できていないということになるw こういうアホみたいな会話でも哲学という括りで会話が成り立つからアホの無職が居つくんだろうなw 気付いていないと思うなら、何に気付いていないのか、そっとさりげなく
気付くようにしてあげるのが親切というものですよ? >こういうアホみたいな会話でも
どんなアホみたいな会話でも、いくら誤りを含んでいても、歩みを進めることが
できるのが哲学のよいところ。 「ただの揶揄w」とは、内実を伴わない単なる形式的なマウンティング行為 1: 無 職 の 哲 学 (147)
2: ■■ ネトウヨはなぜ無職しかいないのか?A ■■ (636)
3: 無 職 な 哲 学 (76)
4: ◆チンコは物質だから意識は必然に過ぎない851◆ (77)
5: 言葉は無力である (301)
6: 無 職 と 東 浩 紀 (97)
7: 時間とは何か 26 (939)
8: 東浩紀466 (755)
9: 千葉雅也36 (101)
10: 科学哲学; 哲学の王道 (566) >>937
そんな私に親切におっしゃってくださるなら見本をお願いします >>938
だから話題が跳びすぎて話が交わらないのは悪いところですね。 >>939
必ずそうとも言い切れない。
マウントにこだわるのはコンプレックスの塊。 コンプレックスの塊だから、マウンティングすることにだけこだわるのですね >>936
居ついてるからわかるんだろうなwお前がw Amazon.co.jpで詳細を見る
,. - ─── - 、
/ , `ヽ.
/〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ
ー'´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ', おじちゃんたち
YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l どうしてはたらかないの?
! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l |
|l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l
|l ilト、 n '' ,1l|ィ| |l l |
_ 二,ニ^tュ--ェ_t1」l.|l !リ|_lノ
r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´
Y ー个‐'t ハ-、_'ゝ、
ヽ ._・ rく ̄ヽト-'丿 ヽ l
/ (・__,)ゝi┬'´ハ` '`|
|ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 /
`´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1
ゝノ-‐^ー'一''丶 ヽ ヽ
ト、_ `ーァ'¨不ヽ
| | 「 ̄「 ̄l ̄ト、,イトヒi′
l l. l l ! !└' l |
└ L 」_,|__l_l.__L.l′
| | | |
l l ! !
l l. l l
ト--┤ !--‐1
f‐t央j. ト央ァヘ
| 甘l、 / 甘 |
l ,.-‐ヽ レ'⌒ヽ/
`く.__ ノ ゝ--‐′ お嬢ちゃん
おじちゃんじゃないんだよ
早期リタイアで悠々自適の
おじいちゃんなんじゃよw この板リロードしすぎて即レス返すやつ涙拭けよw
歯ーくいしばって寝とけw >>947
お嬢ちゃんのパパはね
就業時間ていう
見えない柵の中で
働かないとならない
社畜っていうんだよ。
社畜は土曜日と日曜日
しか自由時間がないパパ
みたい人が多いんだよ。
パパはいつまで社畜やらないと
いけないの?って聞いてごらん
きっと、一生現役って言うんだよ
とヒクヒクしながら答えてくれるよ。
お嬢ちゃんはパパに優しくして
あげないと駄目だよ。 やぶ(破)れによってそこ(損)なはれた連続性を回復しようとすることに
生命体が認められるとするならば、時間もそのような活動のタイミング
をはか(測/図)ることとして成立しているのだろう。 錆は、連続的に「成長する」が、錆には、連続性を回復しようとする
活動は認められない。 アリストテレスも、「教科書的に」読むことをやめたなら、現代でも検討に
値する多くの課題を提示しているのではないかな。 アリストテレスも現代に生まれていたら哲学はやらなかっただろう 時間が因果関係の側面で不可分ならば、
離散化してしかるべきだが、
そもそも、時間が因果関係の側面か、
不可分かどうかということがきっちりしない
超素朴に、因果関係とは1を足すことだとすると
時間は自然数をわたることになりそう
離散時間の誕生である 時間が因果関係の側面というのはどういうことかというと、
時間と空間があって、因果関係があると考えるのがまあ普通だけれど、
因果関係の側面として時間と空間があるのだと考えたほうが、より統一的だということなんだな
そもそも、空間と時間だけあって、なにも起こらないなら、
そこに時間や空間はあるのかと、素朴には考えられるわかめ 因果関係が不可分とはどういうことかというと、
粒子が飛び立ってから、ぶつかるまでの間、どうなってんのか知りるためには、
別の粒子を衝突させる必要があるってことで、
因果関係そのものは、他のものに分解できないということなんだよな
なにを1と見るのか(正規化)というのが、
他方の複雑さを決めるんだけれど、
絵を透かして、重ね合わせるときに基準を決めるように
それが妥当であれば、あとはなぞるだけでいいんだよな、 因果関係を原因と結果に分けるのは、ある種の悪手なのだ
主観と客観に分けるのもよろしくない
存在というものは、原因でも結果でもないし
主体でも客体でもない
存在とは、それらの関係性として常にある
スクリーンだけでも、光源だけでも像は出来ないだりお 15点分しか理解できない脳
単純にいうと哲学ができる
能力ではない 存在は、可分ではないようでいて、数えられるものなのだろうか
少年時、素朴に考えた
火は数えられるのか、
否、火はほどけてはまたむすぶ
さすれば、
人も火も現象であるなら、数えられない一なるものであるはずと
青年時、論理的に考えた
物質は個である
現象は物質ではない
現象は個ではない(全である)
しかし、現在、まさにやろうとしているのは、現象を数えることに他ならない
矛盾しているようだが、なにか納得した 分類によって何であるかを知ろうとするアプローチは間違っている
それを教えてくれるのがアリストテレスだろ 失敗からも学ぶことができる
というより、失敗から学ばなくて、何から学ぶんだ? >>962
内訳
>空間と時間だけあって、なにも起こらないなら、
>そこに時間や空間はあるのか (5点)
>存在とは、それらの関係性として常にある (10点) >>963
その話はあれやね
mLは実在するか、的な?
実在するのは水でありmLではない的な
その意味で時間って時計とよく誤認されるよね mLは定規でしかなく、時計も定規でしかない
では時計はなんの定規かと問われるならば、地球と太陽の位置関係と周期
それは時間ではない >>970
時間を人為的な発明の時計として観念するのは、
確かに誤謬があると察しがつくな
㎖は観念的な単位でしかなく、実在ではないというのもわかるが、
㎖と水を混同する人はいるんだろうか
これは、誤謬でないということはないな
だが、その話とは多分違う
>>963のクロニクルがなにを言いたいのかというと、
ある人の右脳と、ある人の左脳をくっつけたら
その人は誰なのかとか考えたんだな
あと、スワンプマンの話とか
>>963は存在するってことが、どういうことなのかってことについての一応の答えで、
後になって梵我一如という思想を知って、これじゃんと思ったな >>972
mlを水と誤解する人はいないけど、時間の場合はむしろ誤解してる人しかいない、というのが論点 違わないよ
時間は変化だ
だから時計が変化を意味する時は今日の1時と明日の一時は違うはずだ
なぜなら、一日変化して風化してるはずだから
昨日と1mlと明日の1mlは変わらない
でも水は変わる 意味としての存在
963からの話は面白い。
水の存在。この存在者は、いつも量として捉えられてしまう。コップ一杯の水。
話が飛躍してしまいますが、私見では、コップ一杯の水であってもそれぞれのシーンでの、つまり実際の、そしてそれが、それだけが、実在する水ですが、そのそれぞれのコップ一杯の水の意味はそれぞれに異なるのである。
なぜかと言えば、たとえその水がそれぞれ飲まれる水だったとしても、飲まれ方、喉の渇きの具合などの要因によって意味は異なる。
ただ、水と言う存在者の場合は、その固有性とでも言った性質が捉えにくく、それを量的に理解する見解に紛らわらされている。
それで、詰まるところ、すべての存在者は、その意味的に解釈されるべきだと言うところである。
この問題も、さらなる考察解析が求められる。
たとへばこう言う事実もある。コップ一杯の水は、何時もその目的をはっきりと前持つて与えられて持って出て来る。
さらに、渓流の流れる水は異なる存在者である、となるだろう。 存在現象、名乗る存在者
963から、
存在現象としての人、つまり人間存在、と存在現象としての火、炎存在。
(存在現象とは何か。現象として存在する存在者。現象としてしか存在しない存在者)
しかし、炎は自ら、名乗らない。人はたとへ社会的な名刺的な名乗りであっても自ら名乗る。
私は私であると言う。
この名乗る存在者が、フィロソフィア的には世界内存在者である。 時間は変化でいいだろう
あるいは変化に要するものが時間だ 変化を扱うことを含め、タイミングを調整するための基準設定 時間とは、見方によって直線のようにも、波のようにも、円環のようにも、点のようにも見えるものである 科学→可能性が高いのはどれか?根拠は何か?後で間違ってることが分かれば修正してやり直せばいい→発展していく
哲学→完璧でなければならない、違っていてる可能性があったらしいダメだ。それは違う可能性もあるだろう→グルグル同じところを回っているだけ。一歩も進まない 1: ★☆★ THE お ま ん こ ★☆★ (330)
2: 時間とは何か 26 (984)
3: 哲学板は絶対に死なない (132)
4: 無 職 と 東 浩 紀 (102)
5: ■■□ おら 働いたこと ねえだ〜 □■■ (283)
6: 無 職 は 哲 学 (67) 自然界時間実在論者→可能性が高い物理的根拠はなにか?
後で間違っていることが分れば修正してやり直せばいい
→発展していくと信じてグルグル観念し続けているだけで
自然に時間切れする観念論者w いま書き込んでいるここだって科学の成果なのに、それも否定するの?
「いや、5chなんて存在しない。pcもスマホも存在しないのだ」という訳? 縦はいい、横がない
横は、確率が収束することなんじゃないのか
存在の連続性を説明したいのならば >>987
今書き込んでいることを否定している人が存在
しないという訳w >>990
誤読だな
人の存在じゃなくて、科学の成果を否定するのか?という話 時間とは現在の持続である。
つまり変化は時間ではない。
この世界は常に変化しているから、変化から時間を知る事ができるだけだ。
多くの人が勘違いしているようだね。 1: 無 職 と 東 浩 紀 (103)
5: 時間とは何か27 (1)
8: 無 職 が 哲 学 (229)
9: 時間とは何か 26 (993)
10: 無 職 と 哲 学 (348)
11: 脳はなぜチンポを制御できないのか? (13)
12: 無 職 の 哲 学 (149)
13: 神の存在証明 [無断転載禁止]©2ch.net (64)
14: スピノザ [転載禁止]©2ch.net (529)
15: 無 職 な 哲 学 (78)
16: ★☆★ THE お ま ん こ ★☆★ (330)
17: 哲学板は絶対に死なない (132)
18: ■■□ おら 働いたこと ねえだ〜 □■■ (283)
19: 無 職 は 哲 学 (67) 現在とは何か
物理的にも今というのは定義できていない
変化とはなにか
なぜ変化するのか
変化するのとき変化しないものはなにか
変わるとはどういうことか
変わらないとはどういうことか
同一であるとはどういうことか >>993
>時間とは現在の持続である。
「時間」 1. とき。2. ある時刻と他の時刻との間(の長さ)。時のへだたりの量。
「現在」 時間の三区分の一つで、過去と未来との境。今。
「持続」 ある状態がそのまま続くこと。また、保ち続けること。継続。
とき、時刻と時刻の間の長さ、時のへだたりの量 (時間)とは
過去と未来との境 (現在) の状態がそのまま続く事 (持続)である。
うーむ、当人の努力によって長年このスレで持続させ続けている
想像上の架空理論は哲学的に不適切だ。
時間とは現在の持続であると頑なに主張する不思議の国のアリスという
存在者自身の固定観念上で、そう思い込み続けた時間が俺の言う時間だ!
と主張することに、君以外の人間に何の意義も価値も見出さない。
表現の自由という意味で間違いではないが、これを哲学だと信じ続ける
時間観念の主張で自己言及の至らなさから逃避するのは自己欺瞞である。
>変化は時間ではない。
>この世界は常に変化しているから、変化から時間を知る事ができるだけだ。
>多くの人が勘違いしているようだね。
これだけで、レスとして十分通用する、ヘタな自己主張はそろそろ自重しなさい。 では、変化は時間ではないことが理解できましたか?
長年このスレで持続させ続けている(日本語変w)想像上の架空理論が一歩進んでよかったですねw このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 32日 10時間 54分 42秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。