仏教を批判してみるスレ
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我々日本人にとっては仏教は文化と根本的に結び付いているので批判しずらい面がありますが、文明開化以来の西洋哲学の輸入も、もはや新しい伝統の領域に入って来ました。
空海の三教指帰ではないですが、善悪真偽を正す必要があるような気もします。
そしてそれは仏教も聖域化してはならない。 アリストテレスvs釈迦
と言う観点から論じてみたいと思います。
まさに西洋哲学の横綱と東洋哲学の横綱です。
アリストテレスは「本当に知ることは原因を知ることだ」と言います。
ここから《形而上学》の伝統が始まりますが、
釈迦は「毒矢の喩え」で応じます。矢がどこから飛んできたのか、成分は何かを分析するよりも、矢を抜いて毒を出して止血する方が先だと、
我々は釈迦の話を「もっともだ、さすが仏陀は違うな」と聞きますが、果たしてそうでしょうか?
一理はありますが、応急手当てが終わったら、毒の種類を分析して適切な薬を与えたり、矢がどこから飛んできたのか、誰が矢を放ったのか、
何故矢を放ったのかと言う多角的な原因追求が必要になるかと思います。
そして、何か誤解に基づいて命を狙われたなら、誤解を解くと言うような対処をしないと、二の矢三の矢が飛んでくるでしょう。
本当の智者は物事の根源を洞察すると言うアリストテレスの考えももっともだと思うわけです。 アリストテレスvs釈迦A
アリストテレスは現象を成立させる四つの原因を説きました。
「毒矢の喩え」の毒矢を例に取ると
(1)始動因
毒矢を射た人
(2)目的因
毒矢が放たれた理由
(3)素材因
毒矢の成文
(4)形相因
毒矢の形態
毒矢を抜いて治療するにも(3)と(4)の分析は欠かせません。素人が矢の形態を考えずに闇雲に矢を抜いては矢じりが肉に刺ささったままになって余計に怪我を悪化させるし、
毒の成文分析を行わず、検討違いの薬を飲ませても病人は回復しません。
つまり、毒矢を抜いて手当てをするにしても、反射的に原因分析はしている訳です。
実際、釈迦は、苦痛が存在するに到る十二因縁を論じている訳ですから、
原因分析を全くしていない訳ではなく、大いに原因分析もしてます。 成文→成分
【アリストテレスvs釈迦】
アリストテレスの『形而上学』によると、 最も重要な原因としてアルケー《始動因》がありますが、
社会的な事柄に関しては一応、人が始動因と設定して考え得る事ができますが、根本の根本の第一原因を探っていくと、《神々》にまでたどり着きます。
勿論、アリストテレスは神を擬人化する人々を「彼らは人を理想化したものを神と崇めている」と嘲笑しているような文章が見受けられるので、
アリストテレスの言う第一原因としての神々は人が空想するようなおとぎ話的な存在とはちょっと違うのでしょう。
この点に関して、釈迦は《無記》(無言)を貫きます。
アリストテレスがアルケー(始源)を知る事こそが哲学の究極目的としたのと大きな違いですが、《おとぎ話の神々》を究極原因としてしまえば、
一切が空虚な観念論になることを恐れて釈迦があえて形而上的な存在に言及しなかったとすれば、アリストテレスの立場と対立するとまでは言えないかも知れませんが、
形而上学を否定はしないまでも、積極的に語らなかったのも事実です。 余談)
アリストテレスの言う不動の動者は我々の根源とも言えるかと思います。
東洋思想で言う不滅のアートマンや世界創造者としてのブラフマンの考えにも似ている部分があります。
例えば、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中で、「知性は外部から我々に宿る」と言っています。つまり、知性は個人のものではなく神々が肉体に宿るときに深遠な知恵が生じると考えているのです。
ヘーゲルが言う世界理性、世界精神の思想も同様のものです。
我々の精神の根源にはアルケーとしての神々がおり、我々の行動に影響を及ぼしている。
肉体や記憶が消滅しても、この不滅の精神は普遍であると。
これを悟ることが仏教や東洋神秘思想の目的でありアリストテレスが形而上学の中で述べている事にも通じるとすると、両者は全く矛盾する考えとは言えず、どこかで合い通ずる部分があるとも言えると思います。 アルケー(始動因)に関しては、東洋神秘思想とアリストテレスの形而上学の見解はさほど矛盾は無いと思います。もし、イオニア自然哲学者の中に釈迦が居たら、アリストテレスは積極的に己の体系の中に組み入れたと思います。
ただ、大きな違いとしてはアリストテレスが《目的因》を重視するのに対して、東洋哲学には目的因を考察する伝統が殆んど見当たらないと言うことです。 釈迦も「お話」を使うからね
毒矢についても、もちろん話には欠点や穴があるだろうが、それは釈迦が言おうとしたことの本質から逸れている。
釈迦はその喩え話で「形而上学の禁止」を教えることを意図していたのだろうから。それが分かれば、批判の点はそこに限られるわけで、そこ以外の批判は余分じゃないかね。 形而上は既に存在して地位を人間界より築いているのにいるのにそれを禁止とはいかがなものか。 禁止していいものとしていけないモノ単語や文法など自由では。 仏教も男が余ってるからなあ。敷居を広げ過ぎてるわけ。 人生論みたいなお経がないかな。哲学はほぼ人生論じゃない。 〉〉11
おっしゃるように、この見解の相違が仏教と西洋哲学を分ける分水嶺な訳です。
実際は、「矢がどこから来たのか」を問うことは二の矢、三の矢を避けるためにも重要な事だからです。
アリストテレスは《知の喜び》を出発点にしたのに対して、釈迦は《生存の苦しみ》を出発点にした違いがあるかと思います。
悟りのアルケーが違うのでテロスも違って来るわけですねり アリストテレスと釈迦(仏教)や東洋哲学は相違点も有りますが似たような所もあります。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』の中でヘクシス(性状)の倫理学を説きます。
これは東洋哲学のカルマの思想に非常に似ております。
行為が性状(傾向性)を生み出し、性状が行為に影響を与えます。 背景を無視して一文を抜き出すようなとんちんかんな比較ばっかしてない?
この批判に意味があるようには思えないんだけど 仏教の根拠は根源を道理に求めよとする教義
西洋哲学のそれは抽象から得よとする教義
原理的にはその違いだな >>背景とは?
釈迦は「神は居るのか」「世界の始まりや終わりはあるのか」と言うような哲学を好む人間に「そんなことを考えても苦の滅却とは関係ない」と諭したと言います。
この青年は、まさにアリストテレスのような志向性の持ち主です。
このアリストテレスのような青年は車の修理をしにレストランに行ったようなもので、聞く人を間違えていたようなところもありますが、釈迦もあくまで、苦の滅却に役に立たないと言っただけで、形而上学それ自体を否定したわけではない。
冗談ですが、この青年はもしかすると《インドに居場所は無い》と思い詰めてギリシアに渡った初期哲学者の一人になるのかもしれませんね。 >>21
この青年西洋哲学の基準で言っても割と薄っぺらいと思うんだが >>19
抽象にこだわった結果観念論に神秘主義に引っかかった西洋哲学
仏教は何に引っかかったんだろう プロティノスの新プラトン派哲学と華厳や密教、ヴェーダンタとの共通性を中村元が指摘している。 仏教は棄てた。
今はアボリジニのドリームタイムとアメリカ先住民のエコロジカルな世界観にインスパイアされた自然崇拝。 俺は仏教に禅に救われてる
哲学とは真反対だけど
問う故に迷う
莫妄想 私も仏教は禅から密教までかなり追求した面もあるのですが、現代に生きている限り西洋哲学の知識も入ってくる訳です。
根源に遡っていくと、それぞれ東西の古代哲学の大成者であるアリストテレスと釈迦に行き着きます。
アリストテレスは知の探求を動機としさたが、釈迦は苦の滅却を動機とすると言う大きな違いがあります。
苦の滅却と言うテロス(目的)からすると、知の探求は余計な心配や苦痛をもたらす可能性があるので捨て去られます。
なので仏教と西洋哲学はどうしても相容れない部分がある。
しかしアリストテレスからすると釈迦の思想は第二哲学としての自然学の一部、精神科学としての価値が見いだされる可能性はあります。
つまり、アリストテレスが始めたオーソドックスな哲学体系は揺らがない。第一哲学としての神学《存在論》
ただ、自然学としての仏教も、ハイデガーが《存在と時間》で探求したように、現存在の分析から存在論に突き抜けていく可能性はあるわけです。
実際、仏教やインド哲学で言う《悟り》アートマン(実存)の自覚によってブラフマン(存在)と合致しようと言う試みとも捉え直す事も出来そうです。 >>23
道理にこだわった結果物理的な素朴主義に引っかかってる印象 宗教は科学でもなく学問でもない、なんでそれを
そういう風に論じるのか、きもちわるすぎる オーストラリアに留学してアボリジニの民族楽器ディジュリドゥに触れ興味を持ってアボリジニの宗教観であるドリームタイムを調べた。
それからアメリカ先住民の宗教を関連で調べた。
神道まで畏まってないプレ神道的なプリミティブな感性が良かった。
寺で生まれたし得度もしたが仏教よりそっちに心奪われた。
釈迦仏教よりシャンカラの方が哲学としても好きだし。 学問と宗教で別物である以上スタート地点や成果物が違うのは当然
思想史としての比較としては面白いんだけど学問としての哲学と宗教を1対1で比べるのは気に入らん気もするね
ただまあ、それは宗教が学問の役には立たないとわかっている現代ならではの感覚なのかもな 例えば、ハイデガーの思索は「学問」と言えるのかな。
ハイデガーが書き残したものを見ると、かなりの部分が近代学術批判だったりする。
特に科学知の批判である。
近代哲学は近代科学の基礎付けを主眼にしていたが、フッサール以降は近代科学批判であり、ハイデガー以降は存在論になっている。
学問の定義にもよるが レインボーサーパント(虹蛇)もアボリジニの崇拝信仰する対象だよ。
オーストラリアで夢の中で音楽が聞こえた。 >>32
西洋哲学は宗教の歴史
そして東洋哲学は西洋哲学に対抗して作られたもので
やはり西洋哲学の文脈に合わせて宗教をベースに哲学として語っている
それを仏教哲学の批判を宗教板でやれというのなら君こそこの板から出ていき玉枝
哲学のての字も知らないくずが書き込むな!
死ね!!! >>37>>38
仏教スレに引っ越す前に頭を冷やし玉枝w >>35
どんな哲学者の思索も、それを哲学する学習手引きにできなきゃ
哲学書として学問する教科書にはならないけど
哲学者の思索から体系的な知識を養う読書も学問にはなるんじゃない >>35
ここで主に比較してんのってアリストテレスじゃん そうだよ。
アリストテレスやヘーゲルは宗教的対象(神々や全体的なアルケー、テロス)を学問として理解しようとした。
一方で釈迦は、神々や形而上的問いについては無記とした。 哲学は神と人間の関係の間でうまれたが宗教とは違う。ギリシャは戦争国家。
目指すものは人である。神から下って人間になったということだ。 学問として理解し、哲学を知識にしたかったのでしょうね。
その前にお亡くなりになったけど
残された哲学書は文学の知恵になって生き残った。 >>43
だから学問的探求と精神的探求で比較しちゃってるじゃんって話
仏教的哲学とその限界って観点でのこの比較ならまあわかるけど 精神はクセノフォンが詳しい。精神の仕事もあるそうだぞ。健全な精神というダヴィンチのことばはいかに人間の精神が病気如何でなく苦悩して侵されていたかルネッサンスまでという証左になる。 京都の浄土真宗本願寺派の僧侶住職の後ぎ継が多く在籍している龍谷大学文学部真宗学科の偏差値は35(駿台基準)。
浄土真宗の坊主はスーパーバカ集団。 >>48
仏教学部や神学部の偏差値は当てにならないよ。
仏教学や神学目当てで入ってくる優秀なのが時々いるから。
跡取りとかもね。 そういう優秀な例外が偏差値を押し上げて平均が35だから、
殆どは超絶バカということだな そりゃまあそうだろ
跡取りでもないのに神学科だの仏教科に入ってくる奴がキチガイ以外の何なのかと 根無し草でも出家するつもりでいるなら入ってくるだろ 派生したそれを仏教言うなら、なんでも仏教よ、
おれが仏教だといいだせば、それは仏教なわけで、
カルト宗教のそれが仏教もどきで類似する部分があれば仏教だと言い出すお前らは
世間一般がそれに流されて言葉の意味が流行語になったら仏教であるという定義の
すり替えに気がついていない。
そもそも経典ができる前の仏教とはどういうものだったかすら勉強していないお前らじゃ
話にもならない、すべてのお前らの知識は、どこぞの弟子の弟子が勝手にに解釈して法話として
作りこんだ幻想仏教でしかない。
現代の仏教とは日本の法律で宗教法人で仏教関係と説明された法人であれば
それは893の資金隠しのそれであっても、それは正しい仏教である、 釈迦は既に死んでるので、直接釈迦に教えてもらう訳にはいかないのだから、経典に書いてある記録やら自分や他人の体験を総合して《仏教》を見いだすしかないでしょう。 釈迦は既に死んでるので、直接釈迦に教えてもらう訳にはいかないのだから、経典に書いてある記録やら自分や他人の体験を総合して《仏教》を見いだすしかないでしょう。 庶民が仏教について深く考える機会がほとんどないのが駄目だと思う
坊さんと一部の信心深い人しか勉強してない 54 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2019/11/03(日) 22:59:13.06 ID:qASQ29Na0
なんで日本に人権感覚が根付かないのか分かったわ
自己肯定感がなく自分に自信がなく、同調圧力で他人と比較してどうこうしてるやつばかりだからだわ
だから他人を貶めて相対的に少しでも自分が上になるように敢えて差別的な言動をするんだわ
子供から大人までいじめが多いのも納得なんだわ
こういう人たちは他人が傷つくとかは関係なく、それを分かった上でむしろ喜んでやってるから
いくら人権は大事なんだとか自分がされて嫌なことは他人にするなとか綺麗事言ったって無駄なんだわ
大事なのは教育で自分自身が納得して自信を持ち自分の人生を歩めるように導くことなんだわ むしろ教育に従ってれば反感買わないから自分を出さず右に倣えしてる反動があるんじゃない。
人生納得済みで生まれてきて納得して死んでいく奴なんてほとんどいないんだからw 絶対的な存在を認識しないと個人が屹立しないって批判はもっともだと思った
だから個人的な関係が成立しない 個が絶対的に自律し成熟してしまえば
逆に精神的に他者が不要になるからな。
物理的には別だが
それは金でなんとでもなるわけで。 一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。
二一 如来(ブッダ)は死後に存在するかどうか。世界は有限なものであるかどうか、など、世界は常恒なるものであるかどうか、などというもろもろの見解は、ニルヴァーナと【死後の】のちの世界と、【生まれる前の】未来の世界とに依存して述べられている。
二二 一切のものは空なのであるから、何ものが無限なのであろうか。何ものが有限なのであろうか。何ものが無限にして有限なのであろうか。何ものが無限でもなく有限でもないのであろうか。
二三 何が同一なのであるか。何ものが別異なのであろうか。何が常恒であるのか。何ものが無常なのであるか。また何ものが無常にしてしかも常恒なのであるか。また何がその両者(無常と常恒)ではないのか。
二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。
(「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察)
全ては空なので形而上学の議論は戯論でしかないのです。 肯定した後に批判が長続きするのがおかしい。否定からは入れない。肯定しかとれない。汚い言葉でののしるならいい。 『ミリンダ王の問い』(平凡社東洋文庫)という本には、仏教徒のナーガセーナが、「無我」や「輪廻」をたとえ話で説明しているところがあります。
ギリシャ人の王に理解させようとして、ナーガセーナは無我を「車のたとえ」で、輪廻を「ろうそくのたとえ」で説明しているのですが、私はこのたとえに満足することが出来ませんでした。
『ミリンダ王の問い』は、仏教学者が「ギリシャ的思惟とインド的思惟の対決」と喧伝しているくらい有名な本なので、結構期待して読んだのですが、
ミリンダ王がすぐに「もっともです、ナーガセーナよ」と納得してしまうのを読むと、「お前、それでも『ギリシャ的思惟』の代表か、もうちょっとしっかりしろよ」とツッコミをいれたくなります。
こうした説明にどうしても納得できない人はやはり他にもいるらしく、インド哲学者の宮元啓一氏は、
「このたとえはひどい。ろうそくの火を次のろうそくに移すのだったら、その前のろうそくの火には消えてもらわなければ、輪廻は説明できないはず」と述べておられます。
(宮元啓一・石飛道子『ビックリ!インド人の頭の中ー超論理思考を読む』(講談社 2003年)) ギリシアの先をいってましたから、古代インドは。
ギリシャの負けです。 前世としての蝋燭の灯がきえてしまったら、輪廻にならない。
輪廻の火は受け継がれていくから。 >>72
前の蝋燭の火が残っていたら輪廻にならない
前の蝋燭の火と後の蝋燭の火と二つの蝋燭の火が同時に燃えているのだから 同時に燃えるからこそ生死という輪廻は輪となるのじゃよ。
>>73 聖書は存在自体に意味がある古文書ではない記述された内容のほうに意味があるんだよ、ハゲ 昔だから若い血統の女性にたかるんじゃないの。掃討。 >>75
生と死は等価値なんですよ。
一般的な宗教哲学においては。 >>80
>>74の説明に全くなっていない
釈迦が12因縁を悟った経緯を勉強しなおせ 仏教における輪廻の解釈は俺には単純過ぎる。
そもそも俺は輪廻を、信じているけではない。 実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり
実相なり 法力がないのに、業力とかわかるはずもない。
自分で納得した解釈でオナニーしているだけでしょう。
なんであっても理解するという立場で捉える関係から抜け出せず
自分の愉悦を高めるとか、自尊心を高めたいという欲求で動く
おまえらの理屈ってそれじゃないか、
言葉を使うにしろ思考するにしろ、感謝をもって全てが祝福されるように
物事に関係しようとしないのは教育という過程で育ったからだろうか、
いまだに曼荼羅をみて共感できない時点で理屈に踊らされただけの
己の業の塊じゃないか、言葉を奪われてみないと気がつけないんだろうな。
永遠に。 856 :熾天使Metatron ◆HAJ/PJ43Rk :2020/06/09(火) 22:47:14.94 ID:OrelFZDs
その社会科のガブリエル女性教師は私に筆おろしを申し込んできましたね。
嫌いなのに筆おろしとはこれ如何に・・・・
ちなみにその女性教師は豚入ってるみたいです。
何なんですかあなたは・・・・ 仏教のお経もサンスクリット語で読ませてごまかしてるだけで中身を日本語に変えて読むとただあの世に神様がいてその神様の紹介してるだけの古事記と似たつまらん話なんだよな
内容がわかると神秘性が頽落して一気に白ける 大体浄土真宗とか最早完全に既得権益のくそだし
坊主と言っても修行も勉強もせず、一切の戒律なく親から子に税金なしで土地や資産が相続されるくそどもだぞ
単なる墓の管理人 お経だけ唱えれば死んだ後天国行けると言う意味不明の教義
そのお経唱える坊主も修行をしなくて良いという究極の手抜き教義w
肉食って女抱いて酒飲んで修行しなくて税金も払わないとかそれでいて日本で一番墓持ってるのが浄土真宗とか凄まじいわな
こんなん宗教でもなんでもねーよ
郵政民営化とか言う前に宗教団体をまず解体させろと言いたい 大体日本の仏教は呪術的な面による民衆向けのアホでも分かる念仏を広めることに特化してる
日本は古代から政治や統治は儒教が担ってきている
昔は儒教も仏教も道教も神道も一緒くたにされ区別されずに矛盾を抱えたまま信仰されてきた
大体日本仏教は宗派が乱立されてて全容が把握されてないしお互い歪みあってる
しかも仏教従事者は既得権益を親から継いでいるのが殆どで基本みんな頭が悪い
頭が良いのは素直に大学の教授職として坊主として生きていない訳でw
結局仏教をちゃんと理解し整理してるのもアカデミックなんだよね
もう葬式以外に坊主の役目ないんだから墓の管理も法で整理して税金や地所を寺から取り上げるべき 842 :晃 ◆HOKKEvxAGE :2020/09/15(火) 18:32:38.78 ID:OUN437NL
(^⊇^)…YouTubeに俺の全てをアップした
http://hebi.5ch.net/test/read.cgi/news4vip/1600162069/
844 :神も仏も名無しさん :2020/09/15(火) 19:48:28.09 ID:0VJ9QquX
>>842
おもしろくない。
お題目で始まり、お題目で終わる。
>俺の全て
お前は、お題目のかたまりか?
847 :神も仏も名無しさん :2020/09/15(火) 20:24:51.74 ID:0VJ9QquX
>>1
晃の法華論議
経歴に顕正会から除名された事が書かれていない。
849 :晃 ◆HOKKEvxAGE :2020/09/15(火) 20:57:01.02 ID:OUN437NL
(^⊇^)…除名された年、忘れた
851 :神も仏も名無しさん :2020/09/15(火) 21:09:34.84 ID:0VJ9QquX
>>849
>平成18年7月、日蓮正宗理境坊妙観講に入構
これ以前だろ。 思い出せ!
852 :晃 ◆HOKKEvxAGE :2020/09/15(火) 21:55:20.90 ID:OUN437NL
>>851
(^⊇^)…その年か次の年だな 「仏教は宗教ではなく思想である」ってよく聞くけど、それを悪用していつの間にか
入会させるような団体とかは無いかな?「宗教?とんでもない。思想だよ」なんて。 思想であるから
数多ある考え方の一つに過ぎない
そんなものを無税にしていいのだろうか 突き詰めればひたすら前に進めという精神論の極みだろw >>90
日本人が呪術に〜
紙切れ付きの木棒を振り回しただけで料をとれる安い仕事があるのな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています