【アクトゥアリテート】永井均 11【レアリテート】
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/1233582806296514560?s=19
まあ、個人的には、分かりやすく整理するなんてどうやればいいか全然考えつかないからね
ポイント(と思われるもの)を粗雑に抜き出すくらいはともかく
と、保守ついでに書いてみる
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) わかる人解説お願いです↓
永井均@hitoshinagai1 3月4日
私は古東氏の『現代思想としてのギリシア哲学』の文庫版の解説まで書いており、そこで自分は彼の仕事の
一部分を担当しているにすぎないとまで言っているが、彼と私は思想的には同志であっても哲学的には非常に
先鋭に対立している。彼の言いたいことが彼の言い方で「言えている」とは私は思っていない。
永井均@hitoshinagai1 3月4日
藤田一照氏と熊野宏昭氏との共著『マインドフルネスの背後にあるもの』の古東氏の「提題」についても、
私は思想的には全面的に賛同するがその議論が成功しているとは思わない。藤田氏も熊野氏もそこに触れて
おられないが、共感された読者は共感的賛同と議論の評価の区別に鋭敏になってほしいと思う。
永井均@hitoshinagai1 3月5日
逆に、私が思想的には少しも共感できないが哲学的には深く賛同しているのは、たとえば様相実在論
(これこそが存在驚愕の真逆の思想だ!)のデイヴィッド・ルイスの哲学的思索である。そして、
私は思想家というよりは哲学者なので、こちらの賛同の側こそを深く精確に理解してもらいたいと
願っている。
永井均@hitoshinagai1 3月10日
存在論的に真逆の思想は様相実在論だが、価値論的に真逆の思想は、『存在してしまうことの害悪』
という副題からもわかるように、D.ベネターの反出生主義だ。以前は訳者の「主要な」論文
(「美味しい武蔵野うどん」)にばかり注目したが、「夏物語」の「本筋」における対立は実はこの
「真逆」性である。 永井均@hitoshinagai1 3月10日
だが、存在することそれ自体に「驚く」というのは、ある存在論的事実を際立たせる
メタファーとして有効だと思うが、それを「喜ぶ」「歓喜する」と言い換えうるとみなすなら、
それはレトリックに溺れた誤謬推理か何らかのイデオロギー的誘導だといわざるをえない。
宗教はよくこれをやるから注意が必要。
永井均@hitoshinagai1 3月11日
在りえないはずのことが在ったことに心の底から驚歎しつつそれを深く悲嘆し強く憎悪することは
十分ありうることだろう。存在に対する驚歎にそれを止める力があるわけではない。驚歎を歓喜に
直結させるのは、むしろ存在の矮小化ではなかろうか?
永井均@hitoshinagai1 3月11日
同じ根拠から、快苦を感じる主体を存在させることは悪であるという主張も誤りだといえる。
苦を生じさせることの負の価値と快を生じさせること正の価値の非対称性の議論は、
すでに存在している主体に関しては成り立つとしても、主体そのものを存在させる
ことに当て嵌めるのはやはり存在の矮小化だろう。 永井均@hitoshinagai1 1月10日
「なぜ無ではなく何かが存在してはいるのか」という「存在驚愕」の場合もそうだが、
この種の「驚き」はメタファー(でもある点が興味深いのだが)というよりもむしろ「逆説」
と言ったほうがよいだろう。そんなことに驚く人は決していないという点にこそそれをあえて
「驚き」と捉える意味があるのだから
永井均@hitoshinagai1
この問題についてはもちろん、古東哲明『〈在る〉ことの不思議』こそが必読。
ハイデガーなんぞ一行も読まなくてもよいので、何はともあれこれを読んでください!
18:03 - 2019年1月12日 >>4
保守のため超適当に書くと、
(1) 思想的には、現に・端的に1つだけ存在していることの特別さを肯定したい。
しかし哲学的には、可能な範囲のものは全て同じように存在しているという議論(思想的には真逆の議論)を支持する。
(2) また、思想的には、存在すること自体を肯定的に捉えたい。
これの真逆の議論は、存在すること自体を否定的に捉える反出生主義。
(3) ただし改めて整理すると、存在すること自体の特別さは、肯定的評価とも否定的評価とも区別すべきで、
(2)の2つの議論はどちらも存在の矮小化ではないか。
というようなことじゃないかと
(挙がってる文献も読まずにほんとに超適当に書いたので、信用しないでねw) >>7について保守ついでに適当なことを追加すると、(2)で書いたことは『これがニーチェだ』
に通じる話ではないかと勝手に理解してる
そこでは「永遠回帰」を、起こったことを全てそのまま肯定するという考え方だと紹介して、
ただしそれは行き過ぎるとニーチェ自身が批判した価値の捏造に近づきかねない、とも
指摘している(と思う)
その、全てを肯定するという点を見ると(2)と共通するけど、ただし、改めて整理すれば、
単に起こったこと・存在することを、肯定するのも否定するのも「矮小化」ということに
なるのだろうか >>4
要するに永井氏の持論を古東氏の著書で展開されていて
思想(理想)的には同義であっても哲学(知識)的には
対立していて、古東氏の知識では永井氏の持論と同じ思想
であっても、論理的に記述できていないという事をいいたいのかね。
要するに、議論にはエビデンスが必要なわけで、共感的賛同でもって
納得するだけでは論理的に成立したことにならんよと。 989 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2020/03/03(火) 15:15:53.64 0
なんだろうこのゴミみたいな議論は
〈私〉は言葉の世界とは馴染まないものなんだよ
なんで?
そこに謎がある
それを謎のままにしておく必要なんかどこにもないだろう
こういう↑人って手品の種明かしをしたら手品師が食いっぱぐれる
みたいな発想がないのかな? 夢について(あるいは記憶の構成要件について)の問い:
夢の中で現実の自分とまったく違う人になっていても目覚めたときそういう夢を見たとわかる(のは何故)か?
まったく違う主体になる二本の夢を見ても二本見たとわかる(のは何故)か? 考えられない謎の可能性に満ちた夢のような人生なんだろうなあ 最近Twitterで「三性」について論及しているけれど、例えばC・S・パースと関係あるのか? 近年の永井さんについてあまりちゃんと追っていないので知らないのだけど
ひょっとして、ここ最近(10年ほど)は倫理学(道徳論)については書いてないのかな? 第一段階 赤ん坊は何も意図しないで身体表出して親がそれを一方的に解釈
第二段階 子供が親に意図して身体表出したり言葉にならない音を発し親に訴えかける
この第一段階から第二段階への飛躍が全ての問題の根本 独在論にオリジナリティなし。
よって哲学者にあらず。 入不二基義氏の新刊出ましたが・・。
永井氏が入不二氏の書いている「運命論」のようなもの
書いたらどんな感じになるんでしょうか? 無頼漢を装っても万引きすら経験無さそうな善人なのがバレバレな永井均 そう自分で書いてるし、その様に読まれるように書いてる 「哲おじさんと学くん」
易しめの本なのかと思ったら意外に難しくて苦戦。 永井均
@hitoshinagai1
·
9月30日
『哲おじさんと学くん』の新版は来年の1月15日に出る予定です。 哲おじさんと学くん: 世の中では隠されているいちばん大切なことについて (岩波現代文庫, 学術428)
予約受付中 この頃、父から『子どものための哲学対話』(永井均)を買い与えられる。
常識を疑い、世界の新たな見方を提示する、という趣旨で書かれた本で、
Kが「死刑になるための殺人」を実行するにあたって思想的なバックボーンになったとされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/土浦連続殺傷事件 手段としての殺人は止められないのは当然やで。
永井は一般的な殺人者より狂人や。
それを止めたいなら自身が世界を制圧して
独裁者にならんと。 独在性の問題というか、「なんで道徳的でないといけないのか」
っていう問題から「なんか影響されたのがいるんじゃないか」って
話ちゃうんか。 永井均、中学生の時にハマってたけど、最近またマイブームになってきた >>33
タイミング良かったね
哲おじさんと学くんの改訂版が出る >>31
https://www.amason.co.jp/hz/reviews-render/lighthouse/B071Y31438?filterByKeyword=事件を起こした&pageNumber=1
>しかし金川は哲学の世界には足を踏み入れず、殺人を実行した。言葉ではなく行為を選んだ。
>永井均がこの事件後、道徳論に関してほとんど口をつぐんでしまったのは、
>責任を感じたからではなく、行為を棚上げにして言葉を弄んでいる自分の姿を、
>金川によって逆照射されたからではなかったか。 永井の本読んだって人が実際に起こした事件に関してあんまり
関心が無いんじゃないの?きかれりゃ答える事もある様だけど。
持論(自論)を補完なりしてくれる討論相手を
望んでるのは感じるけれども。 拒否反応あるなら永井均なんかに近づかない方がええやろ。
人生の無駄になるでほんまに。 >>39
まあそれはそうだよね
一応わずかばかりは理解できたつもりの素人ファンとしてあえて言うけど、<私>や<今>の問題はある意味では世界全体に
関わる重要な問題ではないかと思うけど、しかし普通の生活で問題になるような具体的場面には多分何の役にも立たないからねw
全く関係ないけど、ジョンレノンが変なファンに絡まれて
「君はBoy,you're gonna carry that weightと歌ってたじゃないか」
と詰め寄られて
「それはポールの歌だ(呆」
と返事してたのを思い出すなw >>40
《私》という「なんでこんなところから世界が開けているのか」問題は、
それぞれの問題、ではありえない。んでそれをしつこく言ってるとしか
とらえられないわけで。つまり永井は独り言を言い続けてるわけですから。
それを書き込みしてる<この私>の為にわざわざ言及しているという形をとっていざるを
得ないのが根本の話なんだけど、言語にすると結局言いたいことがすり抜ける
わけで、って話になります。 「哲おじさんと学くん」の岩波学術文庫版の表紙
ヴィジュアル英文解釈のイラストみたいw 日本大学に入学したら永井先生の授業受けられるかな? 殺人事件加害者に対する言及に関しては
それは哲学者の仕事だろう。
被害者や被害者家族・遺族に言論的突撃を
かけたわけではないんだし。 一方で(永井さんはそうではないと断言できるが )
日頃犯罪や事故から身を守る意識をもって生きていくのと同じように、「道徳的なものを相対化・あるいは超越した哲学者等」からいかに身を守るかなんてこともたま〜に考えてしまう。
道を歩いてて遭遇する危険とは思わないけど。 仕事として答えたんだろうけど、そも関心が無いのではって事やで。
哲学者が答える必要はないとも思うけどね。
基本的に哲学者は身体への攻撃するか否かって点でなら
危険ではないとは思うで。なぜなら社会内で哲学的
思索しようとしてるのに、そこで犯罪行為をしたら損するから。
反社行為は思索を邪魔しようと外部が排除に動きがちって事。
じゃあ無人島で相対したならどうよってなら、わかるけどね。
ずれたレスなら申し訳ない。 永井さんの森田童子についての話をまとめて本にして出版して欲しいな。森田童子の話は芸術について深く考えさせられるから。
「賑やかな呟き」とか今度出版されるTwitterの本の中にも入るのかもしれないけど。 永井さんが日経新聞でおすすめしてた哲学の本ってラッセルの「哲学入門」となんですか??? 森岡正博・寺田にゃんこふ著『まんが 哲学入門』
野矢茂樹著『哲学の謎』
土屋賢二著『あたらしい哲学入門』
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』 哲学者なんてみんな口先のペテン師みたいなもんだよ
言いたい放題が可能でちっとも内容が伴わず権威を振りかざして
偉そうにするだけのプレイ、それが哲学
だからかつては暇を持て余したひとたちの遊興だった 資本主義の最大の問題は人間の新たな欲望を次々と開発しつづけ人間を完全な欲望の奴隷に仕立て上げることによってはじめて維持される制度であるという点。これによって人間精神は壊滅的な打撃を受けるが、もはやそれに気づくことさえもなくなり、そのことによって資本主義ははじめて維持される。
これについて言ってたのって誰? 「行為そのものの価値」/"merit"を「債権と負債」/"credit & debt"の関係に
変換するのが市場経済の一般化であり、通貨使用の全面化である。 >>53
欲望は良くないのですか?人にもよると思うんですが。 >>55
人間精神は動物的自然感性を超えて世界を表象する理性を持つが、その自由こそが資本の運動に逆用され、動物的段階を遥かに超えた高次の欲望の奴隷(自由な表象能力を介した理性的奴隷)という化け物を作り出し、それを認識しても統御できない狂った化け物となって、母体である自然自体をも破壊し尽くす。
永井均さんのTwitterより 要するに、正義や祖国のために死ねるという反自然的な能力そのものが逆用されるということです。これはもちろん私の意見ではなく、20世紀後半に飽きるほど語られてきたお話を、なんと今では知らない人がいるらしいので、私なりに要約してみたただけです。飽きても語り続けないと忘れられてしまうのね。
この語られてた資本主義批判って例えば誰が言ってたのかなって思って質問しました ネガティブな印象を与えようとする場合、「欲望」と呼ばれ、
ポジティブな印象を与えようとする場合、「意欲」と呼ばれる 通貨経済の倒錯というのは、「欲望/意欲」によって追求されるのが、
本来、メリット(それ自体、行うに価すること)であるはずなのに、
クレジット(債権=金を手にすること)にすり替えられることだ このすり替えによって「欲望/意欲」の信用創造、言い換えるなら、
「欲望/意欲」の仮想的な無限拡大が可能となる。 その一方で、「欲望/意欲」によって本来、追求されるはずの
メリット(それ自体、行うに価すること)が行為から消失する。
クレジット(債権=金を手にすること)の拡大につながらない
行為に打ち込むこと("be passionate about 〜")は、
「道楽」となり、「〜に現(うつつ)を抜かしている」ことになる。 そのすり替えの論理により、生物が存続することに不可欠である
はずの生殖行為や子育てさえも、金持ちの「道楽」となり、
「有意義な活動」をせずに、家庭生活に現を抜かしていることになる。
それでも労働力の再生産のためには子供が生まれ育つことが必要
であり、一般的な老後の生活を支えるのに必要、つまり、老後の
「債権」の確保のためとして、独身者にも税務上の負担が要求される。
しかし、その「債権」確保の名目は、あくまでも抽象的なものに
すぎず、税負担が重くなるだけで、「債権」としての保証はゼロである。
「道楽」となった子育てのために赤の他人が債権保証のない「債権」の
維持のために税負担を求められる。そのような仕組みが制度的に
うまく機能するはずがないだろう。 クレジット(債権=金を手にすること)の拡大につながらない行為に打ち込んで
いると、しばしば、「そんなことは自己満足に過ぎない」と批判される。
しかし、クレジットの拡大につながっても、それ自体にメリットの一切
認められない行為に専念することは、結局は、空虚な他己/蛸満足にしか
ならないだろう。 >>58
意欲が欲望になってしまったって話じゃないの? さて、勇敢なのか強欲なのか?
https://www.etymonline.com/search?q=freak
freak (n.2)
"brave man, warrior," Scottish freik, from Middle English freke
"a bold man, a warrior, a man," from Old English freca "bold man,
a warrior," from frec "greedy, eager, bold" (compare German frech
"bold, impudent"). 野生の動物は、「欲望/意欲」に応じて生きようとしているが、
そのことによって放縦/無規律(undisciplined)になるわけではない。
囚われて餌をもらうことによってしか生き延びることができない状態に
置かれてさえ、欠損を生じさせる意図に逆らって、結果として
より大きな欠損がもたらされないようにするダメージ・コントロールを
学習しないなら、手懐けられることなく(untamed)、囚われた空間の
範囲内でも「不埒」に振る舞うため、同じ空間内で暮らそうとする
なら「手に負えない」放縦な振舞いをするとされるだけである。 「不埒な(≒without fence)」振舞いをすることは、「身勝手」で放縦なことと
されるが、「身勝手」とは、自らに権限が与えられていないにもかかわらず、
権限が与えられているかのように振る舞う("presumptuous"である)こと
であって、あらかじめ確立された権限の相互認識を暗黙の前提としている。 ところで、「生きることを学ぶ」とは、本来、権限の相互認識を確立するように
ダメージ・コントロールを身につけることではない。そうではなく、
「できることをしよう」とする欲望/意欲に動機づけられて、しようとする
ことができない(例えば、親の後についていく、仲間より先に餌や生殖の
パートナーを確保する)場合、「できる様子」を観察して模倣すること
である。「できることをしよう」とする欲望/意欲を徹底的に潰そうと
すれば、「生きることを学ぶ」動機そのものが無効化される。 >>64
既に手に入れているクレジット(債権)に支えられて、一銭の金にもならず、
場合によっては、自らに危険を招くリスクしかない「道楽」に
「〜に現(うつつ)を抜かす」ことは、それをしようとすることが
「好(す)き("be passionate about 〜")」であることに他ならず、
その行為そのものに(他の誰もそうしないとしても)「メリット」を
認めていることである。 資本主義経済は、クレジット(債権)を消費する行為こそが大きなメリットの
ある振舞いであるという幻想を創造しつづけることによって、「欲望/意欲」
の信用創造を無限に膨らませようとする。 クレジット(債権)を先取りして消費することを、借金(債務)の拡大によって
駆動することこそが、成長しつづける正常な社会の経済の働きであるとされる。 永井均さんが解説を書いてた本って
「現代思想としてのギリシャ哲学」とかのほかにありますか? ツィートみた感じだと、永井先生がどういうつもりなのかがわからん。
ミュートだのブロックだの書いてるが、他人に期待しすぎやろ。
いや、贅沢な人間なのかもしれんな。なんとか自分の思索を一緒に
寄り添って紡いでくれる人がいて欲しいって言う。贅沢すぎやで… >82
「どういうつもり」と言っても、自分の議論を全然関係ない社会問題や流行思想?とかに勝手に結びつけるような人には
非常に厳しい言い方をするのは、昔の著作からそうだったと思うけどね つもりってのは、ツィッターに対して期待してどういうつもりなのかって事やで。
態度としての傾向の話というより、コンテンツへのアプローチの話や。 そうだよなあ。
ツイッターユーザの総体として、永井先生の望む方向で「賢く」なるってことはあり得ないので、
意味のあるレスポンスが欲しいのであれば、もう少し議論の方向性を示した方がいいんじゃないか、という気はしますな。
まあ、もう十分示しているじゃないか、ということなんだろうけどね。 永井さんがよく言う「議論に"ひたりつく"」って文意をしっかり読んで論理的に考えるってこと? 素人意見だが、ひたりつくってのは個々人の問題だと思う問題に対しての
自身が生み出す新たな思索対象の創出と、生み出した思索空間そのものに
ひっついて入り込んで考え、隅々まで味わい尽くすって事なんじゃあないかとは感じる。
論理も道具の一つでしかない感は感じる。良い包丁は絶対必要だが包丁眺めてたって
旨味は感じない、というか。 Twitterより
『哲学の賑やかな呟き』で何度か触れた、哲学とは「ひたりつく」ものだ、という話もこのことに関連している。人情家は決してひたりつかない。相手が何を言いたいのかにしか関心をもたないからだ。 哲学書を読む場合のひたりつきのコツは簡単で、よく理解できないところを飛ばして自分によく分かるところだけ繋げて勝手な解釈を作らずに、自分によく理解できない箇所をこそよく理解できるようになるような整合的解釈を構築すべく読み進む(あるいは読み戻る)ことです。 聞く場合のひたりつきのコツも結局は同じで、自分の解釈で相手に反論したり自説を述べたりせずに、相手の言ったことでよく理解できなかった点が理解できるようになるように、どこまでも質問することです。純粋な質問が自ずと反論や自説になる限りにおいて反論や自説も可。 >>84
ああ、そういう意味でなら、ツイッターなんぞ(失礼)に期待するのは無謀過ぎるというのは全く同感ですw
それでも続けてるのは、多少とも期待に合うツイートが来ることもゼロではないからなんだろうけど 「ひたりつく」は、単純に表現としてみれば、「ぴったり・つく」であって、
「ぴったり」の「ぴった」は、「匹(Middle Chinese: /pʰiɪt̚/)」の流用である。
>Wang (1982) considers it to be cognate with 比 (OC *piʔ, “to compare; to match”), 媲 (OC *pʰiːs, “to match; to pair”).
したがって、「ひたり/ぴったり」は、1対1対応の様態ということになるのだが、
「ひたり/ぴったり」が、平面的なイメージの想起を伴うように、元の「匹」にも
そのようなイメージの想起が伴う。
>(Sichuanese) Classifier for flat surfaces or objects (hillside, leaves, tiles, etc.).
結論として、「ひたりつく」は、「平面的に1対1対応するような密着」を表現している。 表現の解釈に限らず、何についてであれ、このような説明を聞かされると、
「ひたりつく」が「平面的に(1対1対応するような)密着する」ことを
表現しているのは、自明のことなのだから、そんなことはわざわざ
聞くまでもなく分かっている、という反応をする人々が、学者も含めて
大多数であり、忙しいのに時間を割いて話を聞いてやったのに、
損をさせられたと腹を立てる人も、やはり学者も含めて、少なくない。
ところが、そのような解釈から当然、導かれることを推論として
敷衍して提示すると、何をとんでもないことを突然、言い出すのだ、
根拠はどこにあるのか、誰がそんなことを主張しているのか、
と思考停止の拒絶反応を示すのである。要するに、そのような人々は、
自らの理解を反省して省みる習慣が最初から欠けており、
自分の理解を変更する必要がないように知識を増やすことには
関心があっても、その変更を余儀なくさせられてまで、何かを
分かるようになりたいなどとは感じていないのである。 そこで、説明されることも迷惑なら仕方がないと諦めて、
勝手にやっていると、今度は、説明する義務を怠って、
訳の分からない身勝手なことをやっている、あるいは何も
せずに怠けている、と誹謗中傷、罵詈雑言を向けてくるからたちが悪い。
反省する習慣が欠如しているので、自分たちの要求が、
相手に「知性上の売春行為」を強要することにしかなっていないことすら
理解することができない。 不明なことをどのようにか分かるようにするために、自明であるとされる
前提を考え直す必要があるなら、自らの理解を強化してくれる知識しか
求めていない人々を相手にしても、最初から対話は不可能であり、
いくらともに省察するように促しても埒が明かない。
そのような人々に囲まれているなら、
選択肢は、1)反感を買うことを承知で、最初から相手にせずに勝手に
探究を進める、2)反感を買って妨害されることがないように、
形だけ相手をするふりをして誤魔化しながら勝手に探究を進める、
または3)反感を買うことも、誤魔化し続けることも面倒なので、
最初から探求を諦める、この3つしかないだろう。 したがって、その場合、自らが研究者として制度的に探究を進める
ことに人生をコミットしているなら、必然的に最初から窮地に
追い込まれていることになる。なぜなら、制度の枠内で探求を
進めようとするなら、資金面での支援を受けていない場合でさえ、
常に制度側からの承認を受けることを要求されるからだ。
すると、探求を諦めることは自ら研究者であることを放棄する
ことになるので、残された選択肢は、相手をうまく誤魔化しながら
勝手に探究を進めることしかないことになる。ところが、
そのような仕掛けを最初から理解している人が制度側に存在する
場合、その誤魔化しは最初からバレており、当面、見逃されている
だけなので、それにより精神を破壊される条件が整うことになる。 つまり、その仕掛けを理解している人が制度側に存在するなら、
どのように悩みつづけようと、悪足掻きをしていることにしかならない。
探求はいつでも恣意的に打ち切られ得るのであり、しかも、
それは自己責任とされる。その脅迫に晒されることを回避しながら、
それでも制度的に研究者という立場を保とうとするなら、
自明とされる前提を考え直すという探求の基礎であるモラルを
放棄するしかない。 遺稿焼却問題がまだあんまり理解出来てません。
誰か教えてください〜 >>102 しなちく効果という弔い合戦だったのですよ >>102
ペソア
私の場合、書くことは、身を落とすことだ。だが、書かずにはいられない。書くこと、それは、嫌悪感を催しながらも、やってしまう麻薬のようなもの、軽蔑しながら、そのなかで生きている悪徳なのだ。
↑
この「書く」は書いたものを人に見せること(あるいはさらに発表すること)を含むのだろうか。そこが知りたいところだ。私が本当に関心をもつのはその問題だけなので。 ポルトガル語で「ペソア」って、ほぼ「名無しさん」だろ >>106
確かに!ペソアも作品を人に見せなかったし
でも写真残してるのとかはどうなんだろう ひたりつくというのは、幾つもの論理的な読み解きが可能なときに
その全てについて一つづつ考えてみることだろう
例えば、〈私〉は他の誰でもないにも関わらず、何故その話が通じてしまう事があるのか
(全員に完全に理解されないとしても)
という話をするときに、通じない性ということと、通じる性
どっちもほぼ同時に語ることになる こんなところからなんで開けているんだ性は他者と決定的に
通じ合えないが、しかし話合えてしまう面はある。
勘違いではないのがやっかい。 勘違いですよ
「こんなところ以外」から開けていることが可能だとするなら、それこそが驚異 自分以外で開けてる世界ってヴォネガットの宇宙人みたいな全歴史、全時点を把握している、歴史表を見ているみたいな状態? ちがうでしょ
「全歴史、全時点を把握している」などというのは、結局「こんなところ」ありきの想定でしかない
結局ですね、それがどのような認識であれ、「こんなところ」から開ける以外に想定のしようがない
永井さんが解明すべきことは、「どうして自分にはそのようなこと(=比類なき私)が重要に思えてしまうんだろう」ということ、
それのみです >>114
いや転校生とブラックジャックにそこら辺の記述があった気がする >>114
どうしてその比類なき私が自分には理解できて他人には伝わったように見えて絶対に伝わらないんだろう
ってことじゃないの? >>115
それは知らないけど
そのような(全歴史を把握云々)などという想定は、問題の本質とは思わない
我々が「このような世界」を認識していることそのものが、当たり前のことではないのだから
>>116
ちょっとちがう
絶対に伝わらない、伝わっていない、と自分には思えて仕方ない
それが永井さんの問題の本質であって、彼が自分で解決すべきこと 伝わるが、伝わってしまった時点で決定的に変質するって事やで。
オレが言いたい事だけどね。
正直永井先生にしたら最も眼中に入らない対象だろうと思う俺は。
転校生とブラックジャックのキャラクターってならオレはEだからね。 変質したのかどうかなど分かりようがない
「私の考えは理解されていない」という思いがあるだけ
しょせんは勘違いなんですよ <こんなところ>からなんで開けているのかて書いた方がええか。
あくまでも独り言やで。あくまでも自分自身に対してつぶやいているんや。
<主体>は世界側には属してないんや。世界の限界というより世界の外側やな。
語りえぬ<もの>については沈黙しなければならないわけじゃあない、
語りえぬ<もの>について、語ってる様で語ってはいないわけやで。 理解はされるやろ。オレなんかよりよほどインテリ多いんだから。
勘違いなら勘違いでええよ。転校生とブラックジャックの
Eの記述読んでくれ。オレがどういうものの見方してるかわかるから。 >>120
「世界と私」をそれなりに考えた場合
大概は、貴方のような構造に到達する
それはつまり、自分が世界の境界の外側にくっついて世界を見ているような状況
永井さんが騒ぐ<私>がそのことを言っているのかは知らない
彼が「他人様は分かってくれない」と嘆くところを見ると
多分、違うのだろう
>>121
当然それなりに理解される
問題は、永井が「理解されていない」と思っていることだ
私は永井のファンというわけではないので
ブラックジャック某は読んだことがないし、
いまのところ読む予定もない
読んだことがあるのは「子供のための哲学」と「私・今・そして神」だけだ 世界と私って考え方を基本しないんやで。
基本的に<ここ>からなんで開けとるんや、ってのが大前提で初発で
それに尽きる。そっから世界なるものがあるんやなって感覚。
それなりに理解ではなくあるいみ完璧に理解されるんや。
だから問題がややこしいし、非常に面白い。 ◆twoBORDTvw は111やで
面倒なんでコテつけるわ。 面倒て、オレのレスがどれかを区別してもらうのに
名前欄に何も書かない事があって、それで誰のレスか
分かってもらえないのが面倒って事で、
レスしあうのが面倒って事ちゃうで。 >>123
世界と私を基本にする必要はない
貴方のように<ここ>から開けていることを前提としたら良いだろう
それじゃあ永井を離れて私と少し話をしましょう
<ここ>からなんで開けとるんや、と貴方は言うのだが
<ここ>から開けるのでなければ、どんな「開ける」があり得ると、貴方は思うのかね
私は、それが開ける限り、<ここ>からしか開かれないと思うのだが
全然ややこしくないのだよ いやややこしいやろ並列できないって話なんだから
このレスだって<私>の一人ごとなんやで。
ある意味レスしあいしている様でしていない。
皆開かれているのにその開かれ性の中でなんで
<ここ>からなんやって話やで。 >>127
貴方の独り言で構わないのだよ
しょせんは、貴方の理解する構造の問題なのだから
並列できないことの何がややこしいのか私には分からない
開かれ性は皆に開かれている、と貴方は言った
さあ、考えてみよう
貴方は、貴方の独り言の世界の中で、皆の開かれ性をどうやって理解するのか
貴方の理解する開かれ性とは、いつも<ここ>から開かれる、この開かれ性より他に無い
その開かれ性は、<ここ>から開かれるよりほかに、開かれようがない
貴方の言う「皆に開かれている開かれ性」とは
自分に<ここ>から開かれる開かれ性があるように、
皆それぞれの<ここ>から開かれている開かれ性が想像できる、
とそういうことなのだろう?
何がややこしいのかね 理解というか、それ前提って話やろな。
それ前提で考えたうえでのだからこその
<ここ>からの開かれてる性の理解。
ややこしいのはだがそれでもなんで
理解してるのは<ここ>からなんだって事やで。
何言ってるのかわからなかったら、もう一度書くが
転校生とブラックジャックのEの言い分読んで欲しい。
それでわかるから。 いやいや、永井さんは、似たようなことを言ってるだかだから
ナンタラブラックジャックはもう読まんよ
それでも貴方は、自分の考えをここで十分に説明できるはずだ
どうして<ここ>からなんだ、と貴方は言う
永井も言う、もうずっと言っている
私も、「あ、ほんとだ」と思ったときもありましたよ、すごい昔ですけど
だけど、違うんですよ、騙されてんだよ貴方は
なぜって?
<ここ>から理解する世界、というものは一般概念としての理解という言葉ではなくて、
「私が世界を理解する仕方」であって、それは<ここ>から理解する世界、これ以外には
あり得ないのですよ
そして<ここ>から理解する世界は、常に<ここ>からしか開かれない
だから、「そもそもどうして<ここ>なんだ?」なんていうのは
まんまとトリックに引っかかっただけなんです 違うよ。永井先生はオレみたいな、つまりEみたいなものの見方はしていない。
オレみたいなものの見方する連中にうんざりしている様子は常にあるとしか感じられんのやで。
そういう意味でウザい物言いがオレみたいってな話や。
兎に角転校生とブラックジャックを一回読んでくれとしか言えない。 <ここ>に特殊性があると思い込んでる限り、それは被害妄想ではなく真実 >>133
そう、永井さんは、さらにおかしいことを言う
多分、永井の言いたいのはこういうことですよ
<ここ>は、この<ここ>である必然性はない
「<ここ>から理解される世界」の内容が全くもの同じであっても
それは<ここ>(あるいは<これ>)ではない
それこそが<ここ>(あるいは<私>)の正体である
と、そういうことらしい
いや言いたいことは分かるよ私にも(永井は理解されたとは認めんだろうけどさ)
だけどこれは、永井が自分で解決すればよいだけの話なんだよ
自分で作った仕掛けの中で藻掻いているだけなんだから いや、恐らくそうじゃあ無いんだよ永井先生は。
アプローチがバケモノ染みてる。
<ここ>よりも<こんなところ>って言った方が
良い話なんだけど、それは転ブラのEの話やで。
そこからさらに突っ込んでる様なの。オレはアホだから
わからないけど。 転校生とブラックジャックのEの言い分を読んだらオレが言いたい事が
わかるとしか言えない。恐らくオレの言い分と同じ内容を永井先生にたたきつける
人がチラホラいたんだと思う。それでうんざりしたんじゃあないかなって感じ。 横からですまんが、<今>についてはどう理解するの?
「現に<今>からしか開けていない」ことと、「過去には他の<今>もあった(し、未来にも他の<今>があるだろう)」ことが、
確かに両方言えるように思われるけど。 こういうことだよ
<私>が理解するこの宇宙が突然に時間とともに消滅するが、全く同じ宇宙が同じ場所同じ時間をもって突然に発生する
そして<今>、<私>は、<ここ>から宇宙を理解している
しかしこの<今>、<私>は、どちらの宇宙の<今>であり、<私>なのだろうか
ダブスタのトリックなんだよ
>>136
バケモノじみているとかそういう情緒的な感想に包まれてしまうだろ
それが永井さんの全てだよ そら両方言えるに決まっとるがな<今>については。
これにかんしては青山拓央教授が図抜けて素晴らしい。
参考にしてほしいで。 哲学はダブスタ当然だと思うけどね、嫌否定したいからじゃあないで。
情緒的とは思わんが、情緒的だと何が問題なのかがわからん。 >>141
その「素晴らしい」とか「バケモノじみている」とかいうのが
貴方の情緒的な感想でしかない、ってことだよ
すなわち教祖と信者の関係性
少しは「なーんかおかしいな」て思いなさいよ 哲学において、言説にダブスタを見つけたら、それを批判すべきだよ
ダブスタ当然など、ひっくりかえるわ 嫌だからなんで情緒的で悪いのかて話やで。
ダブスタで何が悪いのかってのも同じ。
教祖と信者のつもりはないが
そうであるとして何が悪いのかともいえる。
どうなって欲しいのかがわからん。 >>144
貴方は、「なんだかよく分からないけど、永井先生は、僕の理解を超えたすごいことを言っている」
ということを言っているのではないのかね
それが悪いかどうかは私には分からない
まるで麻原と井上だな、とまでは言わない
だが、永井均と貴方との関係性は
貴方が永井を何かしら尊いように想う、そのような関係なんだろう
そのようなことは永井の望むところではなかったはずだが、身から出た錆とはいえ、彼を少し気の毒にも思う 気の毒なのはその通りやろ。ツィッターでツィートしたら
どうもウザがられたしw永井先生も気の毒やでオレみたいなのに
好かれたんだからある意味。それを承知で、ってのを
レスしてるんやで。 >>139
「どちらの」なんて疑問が、どこから出てくるの?
少なくとも、永井自身の著作に「<私>や<今>がどちらであるかが分からない」
などと疑問が出てきたことがあった?俺には思い当たらないけど。 >>147
永井の著作では見たことはない
私が勝手に作った仕掛け
比べるべきでないものを比べ
並ぶべきでないものを並べる
概念を巧妙にずらし、すり替える
永井さんは、>>139みたいなトリックを張りますよ
気をつけてくださいね
てことです
気をつけても不可避のようですけどね
なぜ不可避なのか、それだけが問題
これからの私の課題 >>139
単に誤読してるだけですね
問題を捉えてない
〈私〉、〈今〉と「私」「今」をゴッチャにしています 良い信者さんですね
永井さんが言えばそれがありがたい言葉になるわけですから
でね
概念が侵食し区別が有効に機能しなくなる、
そういったことがあるのです
哲学では特に多い
そこで
・単なる「私」ではない<私>
などという区別が、どこまで有効なのか
少し落ち着いて考えてみてはどうでしょうか
「私」の要素を排除していった先の<私>、そこに残っているものは何か
「まだある」、その思いだけ、なのではないですか
ちなみに、私もその「思い」はありますよ、いまだに
だけどそれは錯覚であるし、論理構成上のバグなのですよ 〈私〉は思いではないですよ
情緒でもないし、ダブスタだとか矛盾だとかいう価値判断でもないです
あしからず
そもそも信じる信じないの話ならば哲学として誰からも相手にされません
要するに単に有名人アンチの心理に陥ってるだけですね
謙虚になりましょう 論理的にチマチマ詰めていって何かを発見した
というような類の話ではありません
太陽は地面の周りをぐるぐる回ってるよねー
と言ってる時代に、その常識から詰めて論理的に世界観を構成する
という話ではなく
天体同士の位置関係の観察から太陽系がある
と発見するような話です
わかります? そもそも〈私〉のロジックは永井氏のオリジナルではなくて大昔からあるもの。
当然認識論にも組み込まれていなければならない代物。 著書を読んでいないから、ぜんぜん知らないんだけど、
〈私〉って、例えば、英訳でもいいけど、他の言語に訳したらどうなるの。
というか、大昔からあるものなら、大昔から、どういう言葉で表現されてきたの。 >>154
〈私〉に関して永井氏が問題にする議論が大昔から言われていることに過ぎないってこと。
例えば「<私>の独在性」はアートマンの無限遡及の問題、「<私>の同一性」は知識根拠の問題になる。 >アートマンの無限遡及の問題
いのちを代表する呼吸がどこまで遡るか、というのは
何を呼吸と考えるかにもよるな さらに具体的には、観測としては脳死状態の呼吸だけしている
植物状態の人に「<私>の同一性」があるのかという問題につながる。
植物状態の人にもアートマンはあるということになるだろうが。 >ヤハウェは地面の土(アダマ)を使ってアダムの形を作り、
>鼻の穴からルーアハを吹き込んだ。
聖書的には、神の「息吹」にまで遡及するというのが正解だろうけどね <私>の独在性がアートマンの無限遡及の問題かどうかは分からないのだが
永井(そして同種のセンスを持つ人々)が拘るのはこういうことだ
『私はなぜ他人ではなかったのだろう』
永井を批判するにせよ擁護するにせよこれがスタートなのであって、
ここにピンと来ないような111さんとか太陽系くんなんかは話の入口に達していないのだよ
わかりやすく説明するとね
世界中は多くの他人で溢れ、この肉体も意識も他人のものであるのが自然であり必然
なのになぜ、この肉体と意識だけが私に世界を開闢させているのか、まったく奇蹟としか思えない
さあ、あなた方は、この記述によって「気づき」、驚愕できるセンスがありますか
無いなら、とりあえず黙っていたほうがいい >>160
つまり貴方はピンと来なかったわけですね >>159
> <私>の独在性がアートマンの無限遡及の問題かどうかは分からないのだが
「<私>のずれ」のことな。言葉にした時点でそれは<私>ではないってこと.。
> わかりやすく説明するとね
> 世界中は多くの他人で溢れ、この肉体も意識も他人のものであるのが自然であり必然
> なのになぜ、この肉体と意識だけが私に世界を開闢させているのか、まったく奇蹟としか思えない
これをとりあえず説明したのが仏教の縁起な。
永井氏の<私>は、アートマンと個我のごちゃ混ぜの議論。ただこれは当たり前。アートマンと個我が識別できれば永井氏は悟ってる。
とりあえずアートマンの性質を議論に持ってきていると言うことは、他の哲学者よりは見る目がある。 まずは、問ひを発するとはどういう行為なのか反省した方がいいのでは。
どう表記しようと、問ひの意味が伝わらなければ、
発せられた問ひ自体が無効であることになる。 「私」という表記を用いるなら、それを逆立ちさせようと、左右反転させようと、
どんなカッコに入れようと、日本語では基本的に「わたくし」と読まれるのだから、
その「わたくし」の理解がまず問題にならざるを得ない。 相手と理解が共有されていることを前提とした純粋言語みたいなものを
あらかじめ想定して問ひを発することは不可能。 >>162
「言葉にした時点でそれは<私>ではない」
とか言うのは、言い捨てるには格好良いけど
私にはお経にしか聞こえない
台詞の受け手の中に何かを成立させることを期待しているかもしれないが
何が成立するかはほとんど神頼みの運任せ
ところで貴方の言うアートマンとは西洋哲学に於ける超越論的主観性と何が違うのかね >つまり貴方はピンと来なかったわけですね
「ピン」についての現行の一般的な理解はこれでしょう。
>ping(ピンまたはピング)はIPネットワークにおいて、ノードの到達性を確認するためのソフトウェアである。 あとですね
>>159を、別の教義との相対化によって批判することは可能なんでしょうけど
それは永井にとってみれば、意味のある批判としては受け取らないと思う
喩えてみればさ
アキレスと亀ってあるでしょ
現実に亀をアキレスが追ったら、追い抜くに決まってる
問題は、アキレスと亀という問題に於いて、その構造内では論理的な矛盾を見いだせない
ってことが大問題なのであって、実際に亀と競争して追い抜いたところで、この問題を
論破したことにはならないわけですよ 永井先生は それ を
ヴィトゲンシュタインのチェスの冠やハイデガーの存在論的差異と同型のものとしている。
存在の意味が違うと言うべきだ。「存在というもの」と「『存在というもの』そのものを存在させているがそれ自体は見えないもの」との違いだ。ハイデガーはこれを「存在論的差異」と呼んだ。 >>166
> >>162
> 「言葉にした時点でそれは<私>ではない」
> とか言うのは、言い捨てるには格好良いけど
> 私にはお経にしか聞こえない
お経を聞き流してるだけじゃダメだろうな。意味を考えないと。
> ところで貴方の言うアートマンとは西洋哲学に於ける超越論的主観性と何が違うのかね
まあ、超越論的主観性ってやつは輪廻とほぼ同義語だろうな。そもそもアートマンは主観とも客観とも関係ない。 超越論的主観性というのは、格好良く言えば
個別的な自我を超越して、凡そ存在するもの全て(=世界)意味を構成する力の源泉のことだが
輪廻とはそういうものなのか
あと、お経の意味を考える、って話だけど
お経の意味は神頼みの運任せ、と
そう書いたつもりなんだよ >>171
> 超越論的主観性というのは、格好良く言えば
> 個別的な自我を超越して、凡そ存在するもの全て(=世界)意味を構成する力の源泉のことだが
> 輪廻とはそういうものなのか
「力の源泉でないものを力の源泉と見なしている」というのと同じような意味で、それは輪廻みたいなものだ。
> あと、お経の意味を考える、って話だけど
> お経の意味は神頼みの運任せ、と
> そう書いたつもりなんだよ
お経の意味がわかれば当然「言葉で表現できない」ものもわかる。
もっと言えば、「言葉で表現できない」ものをどのように言葉で表現しているかがわかる。 >>172
ああ、なるほど
貴方は、「手が届かないというような意味では雲はダイヤモンドみたいなものだ」
なんてナゾカケみたいな説明がイケてると考える人だ
***************************
「言葉で表現できない」ものを言葉で表現したら
それを聞いて何がわかるかは、神頼みの運任せでしょ
ってそう言ってますの
お経の意味が分かることで、言葉で表現できないものが分かる
と貴方は言うが、
その「お経の意味」は言葉で表現できてるのか、ってこと
もう一度いいますよ
お経が、言葉で表現できないものを言葉で表現したものだと、そう言うのであれば
その表現されたものが何を意味するのかは、神頼みの運任せでしょ
なぜなら、そもそも言葉で表現できないものなんだから ああそうだ
抽象的な話ばかりじゃ埒が明かないから
例として適当なお経の口語訳をひとつふたつ披露してみてくださいよ >>173
> 貴方は、「手が届かないというような意味では雲はダイヤモンドみたいなものだ」
> なんてナゾカケみたいな説明がイケてると考える人だ
アートマンは秘密の教えだからなwww
まあ、雲やダイヤモンドなんて説明はしない。もっと分かりやすい例えがある。
> お経が、言葉で表現できないものを言葉で表現したものだと、そう言うのであれば
> その表現されたものが何を意味するのかは、神頼みの運任せでしょ
だからインドでは認識論において聖典が知識根拠といわれるんだよ。 >>174
禅問答の答えをねだる様な愚か者には、話はここまでだな。 禅問答は蒟蒻問答の危険性をいつも孕んでいる
むしろ、それしかない
終わり?
何しに出てきたん、インド哲学くん 永井均さんがエレファントマンについて書いたのって何に載ってますか? 金閣寺の主人公の問題は、吃音の医療的な治療で解決するのか、金閣は焼かれなければならない(遺稿焼却、自殺)のか、という対立はリベラルと保守の対立に対応している
ってどっちがリベラルでどっちが保守??? 問題は治療によって平等に解決するとするのがリベラルで
金閣を焼くべき(自殺するべき)人生が存在すると考えるのが、保守かな? 心の病を治療するか、心の病を持つ人間の都合のいいように社会を壊し、作り変えてしまうか。
そんなところですか?でもそうすればまた新たな心の病を大量生産するだけだと思うんですが。 >>183
その矛盾を指摘されて、作られたのがポピュリズムって概念だってはなし。
大勢の民衆の声が反映された政治が、インテリ層の目論見を乖離していれば
「ポピュリズム」という社会病理であるということにすればいい。それは本当の
民主主義の結果ではない。とすればいい。もちろんポピュリズムという用語の
誕生の説明には全く別の理由が付与されているけどさ。 184です。ごめん、アンカ含めて全くの誤爆でした…失敬 >>183
心の問題が誰しも平等に外的なもので解決されるのか、それとも個人はそれぞれ違う(差別)から解決できない人生も存在するのか、という
リベラル(近代)と保守(前近代)の違い。 やっぱり前に紹介してたM.シュティルナーの本を読もうと思った。前近代、近代、そしてニヒリズム。ニヒリズムから近代、前近代に戻るのがなんでダメなのか知りたいし >>186
個人はそれぞれ違うとするのが保守の立場なのですか?なんか自分は逆に認識してた >>188
ヒューマニズム的なのが近代。人間全員が同じで平等なものだと認めた上での自由を認めるってことかな。近代の中では狂人も理解可能な病人として扱われるし 学者業だと本当の意味での脅威となる狂人に関わる可能性、少ないだろうしね。
安心してヒューマニズムを語れる。 いや、きちんとした学者はフィールドワークをするもんだよ
大衆の集まる場へ降りての視察だってする >>190
違うよ
ヒューマニズムの下では本当の脅威となる狂人なんて存在しなくなる、ただいるのは可哀想な病人だけ >>192
万一の実害をも甘んじて受け入れるということ? >>193
自分たちと同じ人間とみなすということ。
殺人鬼も結局わたしたちと同じ人間なんだから、たまたまそういう欲求を持って生まれただけなんだから、とみなすってこと 永井均さんの、道徳の問題と存在の問題に同型性がある、というのは「哲おじさん」で言ってたように、言語に一般化するという性質があって自分だけが特別なのにそれを言葉にすることはできない。人々を並列したものの一つとして見るってことだよね? >>195
多分ね
というか、最近宣伝wされてた『倫理とは何か』は、まさに<私>や<今>の問題と道徳に関する問題に
同型性があるという筋道で書かれてるので ツイッターで私的に本質的なことを語ろうと試みることは本日で終わることにしたというわけです。後はどうぞよろしくお願いします!
2021/03/31
まじか.... ↑ セリフ無断掲載は著作権侵害 東京地裁 | NHK ...https://newstopics.jp › url
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2 hours ago ちなみにオレの従弟の高校の時の同級生、
青山拓央て教授はガチの哲学者だと思う。
永井先生の舎弟だな。ただし、舎弟言われる
のを先生否定してるけど。 そも初出がどうの、誰それが言ってたかんのとかどうでもええやんけ
って話やろ、独在性の問題は。なんで<こんなところか>開けているのか
て話なんだし。又書くが転校生とブラックジャックのEの話がしっくりくる。
ただし永井先生は「私をEだと思ってる人がいるが、そうじゃないんだよ」
って言ってるわけで、あくまでも哲学者なんやろ。オレみたいなへづまんない凡人じゃあない。 コテつけてレスしてるんだからあんたもコテ付けなさいよ。
あなたが同一人物かどうかわからんし。 名前欄に入れた記号をハンドルネーム(ハンネ)と言う
この112というハンドルネームはこのスレだけで使い捨てるから普通はステハンと呼び、
複数のスレをまたいで同じハンドルネームで書く奴をコテハン(コテ)と呼んでいたように思う
君の言ってるようなことは「トリップを付ける」と言う
議論の活発だった昔は、なしすましを防ぐ目的で
必要上、あるいは粋がって付けてる奴も多くいた
最近そんなもの付けてるのは、2chから巣食っているよほどの古参か
あるいはちょっとおつむのイタイ奴、という印象だな
あと、一般的にコテが蔓延るスレは名無しさんが書かなくなるので
活力が失われる、らしいわ 口が身体についている、文面に署名が書かれる、ことはすごいこと。 タテ問題とヨコ問題について書かれた著作ってなんですか? >>207 エーリッヒ・フロム「The art of loving」 果てしなき懐疑の先に、世界には何が残るのか
存在が要求されるのは<私>でも<今>でもアートマンでも神でも言語ゲームでもなく
論理、それだけだ
なぜなら、論理の中でしか懐疑を真面目に遂行できないから
論理とは言葉や文法ではない
世界を構成するつじつまのことだ
簡単に言うなら
近くのコンビニより遠くのホームセンターに歩いて行くのは時間がかかるし
近いとか遠いとかという記号は、そういう意味であるし
明日が今日よりも未来でなければ明日の意味は構成されない
そんなことだ
永井が<私>を捉えるのも
概念が構成する論理の空隙に実体を感じてたじろいでいるのであり
インド哲学やらがアートマンだか何だかを「発見」したと勘違いしているのも
どうせ論理的な要求によってでっち上げたわけだよ(知らんけどな
原子も電子もダークマターも
論理が作り出した虚構であり方便だ
しかし<私>よりは使える 果てしなき懐疑の先に世界に論理それだけが存在を要求され残る?
それこそ世界を構成するつじつまがあわない、
果てしなき懐疑の先に現に<私>や諸主体ぬきで論理や世界を構成したり存在を要求することができるのか?
なぜなら、論理の中でしか懐疑を真面目に遂行できないから と言うがそれで<私>を消去することは出来ないだろう。
論理が作り出した虚構であり方便と嘯いているが論理を実体化してるようにも読める部分がある。
原子も電子もダークマターも虚構であり方便で論理(世界を構成するつじつま)だけで出来たわけでもなく、その存在を示唆する観測事実(世界を構成するつじつま)
もあるそうでないと論理の更新が起こってきたことを説明するのは難しいかと...
そもそも論理の中でしか懐疑を真面目に遂行できないと言うのは間違っている。
論理の中でしか懐疑を真面目に記述できないのは正しいがデカルトの夢の懐疑をもちだせば
わかるように夢では次の瞬間、論理(世界を構成するつじつま)など簡単に崩れえる。
さて、<今>夢を見ていないとどうして言えるのか?
その懐疑に論理(世界を構成するつじつま)で答えてもどうにもならないと思うが 以下、不真面目な回答に見えるかもしれないが、許していただきたい
『<今>夢を見ていないとどうして言えるのか』
結論を言えば、これについて考えるときすら、論理に従うしかないからだ
たとえばもし私がそれについて考えるとした場合
先ず、「夢ってどういうことだろう」ぐらいから始めるだろう
つまり夢という言葉を巡る概念を整理するわけだが
・いつ夢を見てるのか
・夢から覚めるときってどういう事態だろう
・「夢ではない」とはどういうことだろう
貴方も似たような感じではないのかな
考えすぎて煮詰まる
そしてたとえば、適当にこう結論する
・我々は今、夢を見ている、論理に支配された夢を
・・・なんと身も蓋もない
だがこれを否定するのもまた難しい
これら全て、論理の土俵の中の話
永井さんの<私>について、このスレでは理解している人はいないように思える(ごめんなさいね
だから議論する前提が整わない
彼の考えている<私>は、この孤立する肉体のことではもちろんないが
この意識のことでも、主体のことでもないのだろう?
彼は多分こう考えている
「この意識なんて<私>の意識である必然性などない」
彼は論理が届かない空隙を見つけた
それも論理によって 私の言う「論理」も、おかしな使い方なんだろう
それはもちろん科学理論のことではないし
古典論理学でも記号論理学のことでもない
歴史によって、あるいは文化文明によって、科学理論は異なるだろうけれど
それが寄って立つ基盤は普遍にあって
思考が思考であるかぎり、世界が存在の地位にあるかぎり
従わざるを得ない無形の枠
そんなものをぼんやりと自分では「論理」と呼んでいる
おかしいよね 永井先生ってもう今はゼミやってないって本当ですか? ふつうの社会人ならば
25歳ぐらいまでに自身で納得するようなことを
60過ぎまでこじらせているという事態「のみ」に、
多少の興味が湧かない訳でもない。 まともな社会人ならいつまでも哲学板なんかにいないと思うのだが 哲学やるなら「まとも」の概念もちょっとつっついておかないと。 国語力なんて哲学者でも一般人でも語学や数学に比べれば小さな標準偏差に収まるでしょ 中学受験算数は苦手だったな。図形の問題を考えるのは楽しかったが。 IQは107くらいなので、東大や京大の普通よりかは下でしょうね。 日大だったら文理学部に入って芸術学部の人たちの表現をほめそやしたいです 194考える名無しさん2021/03/22(月) 04:02:42.230
>>193
「自分たちと同じ人間とみなすということ。
殺人鬼も結局わたしたちと同じ人間なんだから、たまたまそういう欲求を持って生まれただけなんだから、とみなすってこと」
と他の人に同意を求める欲求から語りかけること自体があなたの言ってる自分たちと同じ人間とみなすということ。 哲学やり続けたければとにかく自分を安全な場所に置くことに努めよ
思索以外の「経験」や「社会や他者とのかかわり」をもつな
そうすれば哲学に浸っていられる 何も知らないからこそ「真理」に浸っていられる 3連のおかめ納豆とくめ納豆は、西友のネット販売価格でも30円くらい
差があるので、個人的な好みがどうであるにせよ、一般に同程度の
味であると判断されていれば、高い方は価格競争力を失って市場から
とっくに排除されていると思う。 >>231
遅レスですみませんが、そういう価格や販売状況のことまで考えると、また別の問題になる気もする。
その女優?以外の人たちは、自分の感じる味について語っているように見えて、実はただひたすら
特定の商品のスポンサーの意を受けて宣伝していただけだった、とか。 そうするとつまり、
・アクトゥアリテートの違いがクオリアの問題にどう反映されるか問題(私の感じる味が他人に理解されない)
VS
・自演の懐疑問題(複数の出演者たちと見えたものは実は1人のスポンサーの複数の身体だった?)
の対決なわけですなw(適当) >>231
栄養ドリンクは内容物がほとんど変わらないのにパッケージを豪華にして値段を高く設定することで売れ行きがガラッと変わるらしい >>228
誰だか知らないけれど・・・日大文理に入る人いるんだったら
おそらく(写真の「プロ」育成が目的の)日芸写真では無視されているであろうR・バルトの写真論
(論じようとしていることは存在論哲学みたいなことなんだろうけど意味論っぽい語彙ばかり)
「プンクトゥム」を論じているあたりWittgenstein経由で永井氏の私的言語の存在論と関連させて、
彼が死んだ母の写真の中に見て取りながらも論じ損ねているものをより正しく論じるとか・・
誰かやってくれる人いないの?
『明るい部屋』→このタイトルも誤訳っぽい・・から引用(翻訳P.122、「公的なもの私的なもの」という所)
「一方には「映像一般」があり、他方には私だけの写真がある。つまり、一方には無頓着さと
上滑りと騒音と非本質的なものがあり、他方には、切実なもの、傷ついたものがあるのだ。
(一般にアマチュアは、芸術家として未熟な状態にある者、と定義される。それはある職業にとって
必要な腕前に達することができない者__または達することを望まない者である。しかし、「写真」の実践
の場においては、逆にアマチュアこそ専門家の極致である・・略・・。)」
良くも悪くもこの本のバルトって何か子供っぽい書き方で、「プロ」は扱いにくいんだろうけど。
(確か故多木浩二氏もこの箇所引用して論じてました、ちょっと手に負えないやって感じの書き方でした
バルトの書き方が子供っぽいとも書いていたと思う、『比喩としての世界』だったと思う)
(あと・・デジタル化して写真が無くなるどころか世の中より写真っぽくなってきたんじゃないのかなあ。
良くも悪くも。大分前からtable tableau tablet(テーブル タブロー タブレット)という語彙で高山宏氏
が論じてたはずだけど。四角越しで観るものばかりがこれだけ行き渡ってしまって。あとはピクチャレスク
picturesqueという言い方もしてた。それ見て飯沢耕太郎(日芸)なんて勘違いしてピクトリアリズム
(絵画主義写真)論じてたりした、まあ昔の話だけど本は残ってるから・・) 追伸
とにかく文理学部どんどん
活躍する人増えてくると思う。これからは文理。日芸
やめたほうがいいと思う。 哲学者の永井までワクチン推進とは
著名人は保身に走ってるな タテヨコの区別ってどこが初出?なんでタテヨコって表現なのか知りたい まあ無名の時は逆張りで名を売って有名になったら、あえて危険を冒す必要ないから順張りに徹する
典型的な著名人の行動パターンだよな
どうでもいい時事ネタ(眞子と小室圭の件etc)にはいまだに逆張りして目立とうとしてるけど 「<私>をめぐる対決」年内に書店に出るって著者本人Twitterで言ってたのに
各書店店頭在庫検索かけても全然出てこない >>205
何が言いたいのかわからん
話合いたいからコテつけろって言いたいだけなのに
そこまでしてマウンティングしたいんか?
オレの勘違いだったら申し訳ないが というかオレは贅沢だから「独在性の問題」とか
「なんでこんなところから開けているのか」って
話に反応して欲しいんだよ 「コテ」て言葉が
どうのとかどうでもええんや 段々腹立ってきたわ申し訳ないが 111さん久しぶりですね
9ヶ月遅れのレスありがとうございます 今日発売の新刊店頭にまだ全然出ていない
ぷねうまって出版社本売る気あんのか・・
(っていうかコロナで呼吸困難?) ↑仕方がないから最悪企業尼損に頼んだ
呼吸不全?のプネウマさんの営業っぷりは全然あてにならなそうなので 著者も献本が遅れていて出版社に文句言ったとTwitterで・・
呼吸不全ぷねうま。。 姉妹篇『 独自成類的人間──哲学日2014-2021』が近刊って言うけれど
これもTwitter本でしょ?いつ頃出るのかな? ありがとうございますというか
「なんでこんなところから開けてるのか」って認識ないなら
それはそれで良い事でもあろうと考えてるけど
オレのレスに反応しない方が良いと思う
まあ永井均先生は罪作りだわw 半年以上かかるんじゃないの
出版社って今あんまり儲かっていないんでしょ また下目黒アルコタワーの最悪企業から買わなきゃならないのか ネット上のニュース記事読んでると
コロナの上に国際情勢とかも加わって・・・
全然出版遅れそうな気がしてくる
やれやれ
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/93116 今年の日大文理授業HPで見たら永井さんスピノザやるんですね?
ちょっと意外。ドゥルーズとかもやるのかな?
「意味の論理学」はどっちかって言ったら仏哲学で分析哲学寄りの J・ブーヴレスが
ナンセンスを論じた本「言うこととなにも言わないこと」の中でも
言及されているし、その辺ちょっと気になるかな。
現代フランスだとラカンなんかの方が永井さんに関係あると思っていたんだけど。 今度出た永井均著「遺稿焼却問題」のP.079に出てくる
内山興正の「風景として観る」(道元を超えているのではby永井氏)って
内山興正氏の本のどこに書かれているのでしょうか?知っている人いたら教えて下さい。
「進みと安らい」「坐禅の意味と実際」だけざっと読んでみたのですが見つからず。
(「自己」とかに書いてあるのでしょうか)
あと、同じく「遺稿焼却問題」巻末に本文中に出てくる言及文献一覧があってその中に
「カント二元論哲学の再検討」岩隈敏著(たまたま同書所有していまして)
って出てくるのですが、本文ざっと読んだのですがどこに書いてあるのか分からず。
もし見つけた方いたらどこのページか教えて下さいm(__)m
(文献一覧にページ数が全く書かれていない・・・)。 「独自成類的〜」の巻末に両著のページ付き索引があるようですね 『遺稿焼却問題』の方が面白かったな
全然関係ないけど、永井先生って嫁も子供もいるんだろうか >>242斜めって
松〇正剛がカイヨワについて書いたやつ(千夜千冊0899夜)そのまんまじゃん?
なんかいい加減なこと言ってるだけって感じだけど・・。 D・ルイスについてというか、永井哲学サイドから様相実在論を論じた入門書的
なもの書いてほしい。というか、アンセルムス〜カント対イブン・スィーナーみたいな
論じ方の方から様相実在論を詳しく論じて欲しい。 志向性についてもっとすっきりした説明してほしいって感じ
そもそもフッサールって人そんなにすごいのか・・ 非対称じゃなくてあくまで「反対称」だったからなカイヨワは
松〇なんたら氏もそうだけど哲学じゃなくて「科学」だし・・・ そういえばすっかり忘れてたけど、今年の6月1日は無為の日だったんだろうか(謎 >>265
永井は内山読めてないので気にしなくていい
永井は永井哲学が最高峰でそこから解釈してるが、実のところ内山も道元も理解してない どうして意識の二義性が志向性の成立根拠(「新版・哲学の密かな闘い」p.196)なのかわかりません
詳しい人教えて下さい なぜ、頭を殴られて痛いコイツだけが自分なのか?
こたえ
殴られて痛いその肉体を自分と定義してるから Xで永井を見始めたのだが、もっと老獪な人だと思っていた 何故「負け」なのかよくわからん
生死不明のままにして死んだほうが警察に負担をかけ続けられるはずだ、とかいう話でもなかろう
自己顕示欲、あるいは己の人生を意義あるものにしたいという欲望に敗北したっていうことか まあ永井って私秘的であることが偉いってタイプの論者だから
公共的というか社会的なものになるってこと自体が負けなんじゃないの ああなるほど
それをロマンティシズムと言うと怒るのかな
この言葉であの容疑者の告白を評する意見があった
その種のロマンティシズムとは別だが
(ちなみに評は日本語だったが中国語に翻訳されて日本のネットの声として紹介されていた)
まあいいや、あまり思い入れはない
ありがとう 老獪な人だと思っていたというのは、あるフェミニストにこう言ったと書いてるのを読んで 私秘的なことに意義は全くないというような乱暴な意見・風潮には疑問を覚えはする
かく言う自分も十代の頃は“誰にも知られない真実なんて意味がないんだ”みたいに思ってたよ(その頃のほうが社交性はあった気もする)
ただ私秘的だからこそ何かの価値が生じるという発想にはついていけない 私秘的なことに価値はないという風潮は、社会のネット化・世界への動画発信等でますます強まってきてると思う
恐ろしい時代になったもんだよ
そういう社会で生きていて疲れると、永井の言説に新鮮さを感じるのは事実
ただやっぱり、だからこそ価値があるという転倒(だと思う)には首肯しかねるな 5chか忘れたがネット上で5分前世界創造説を披露している人がいた
自慢気にではない
そこで私・今・そして神〜の5メートル先世界創造説を紹介してどう思うかと聞くと、興味が湧かないという返答だった
その理由を尋ねたところ「そう想定しても面白くないから」という趣旨の、自分にとっては意外な答が返ってきた
5分前世界創造説は面白いということだろう 面白いから想定する/面白くないから想定しないというのは、考えてみれば当たり前なのかもしれないが「学問」じゃないなと思う
西洋の学問を後追いで受け入れた日本人的な感覚なのかな
ちなみに、時間に関する5分前〜に対応する空間版が5メートル先〜なのだが、あの本でも人称を扱っていながら人称版のそれは書かれていなかった
永井均もやはり人の子というか、自由に想定できる領域内でも一般常識には勝てないものなのか いちおう書いておくと、別に永井をけなしてるわけじゃない
けなしたらいけないとも思ってないが
永井がどこかに書いていた「私」と「今」は同一なものなのではないかという問いには、他の人間の言説からは得られなかった鋭さを覚えた