意識のハードプロブレムの答え
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
他者の意識は存在しない。もし存在すればそれは他者ではない。 仮に「存在」が第一の物、あるいは主観的な物であれば、他者の意識は「存在」しないだろう。 このような反論はあるかもしれない。
「私」は主観的であるが、皆自分のことを「私」と言っているではないか。
私は「私」という概念は客観的なものだと考える。
しかし、これで十分に語られたとは思わない。 意識のハードプロブレムとは常識との戦いかもしれない。 ふわっとしたことしか言えてねえな
もうちょい国語力上げてからまた来てくれや このような論点はどうでしょうか?
「私は一人である」という文が正しいのであれば、
「意識ある者は一人である」という文が正しく、
「他者の意識は無い」という文もまた正しい。 他者の意識は存在するということは、
「私」は一人ではないということと本質的に同一的である。
そして、それはある意味では正しい。
すべての人々は「私」であるから。 仮にどちらかに立脚しなければいけないとしたら、
私は「私は一人である」という主張を取るだろう。
しかし、そうしなければいけないということが幻想であるかもしれない。 他者の存在を認めないなら、なぜそれを発言するのか?
発言するのは他者に伝達するという以外の意味が存在するのか? 何が言いたいのか全くわからない。もう少しちゃんと説明してほしいと俺も思った。 簡単に言うと、他者の意識が存在しないということは、
他者の意識が「経験の外側」にあるということだ。
そしてそれは「私は一人である」ということと本質的に同一的だ。
なぜなら、「私は一人である」ということと「私は一人ではない」ということは
同時に正しくあり得るからである。 色々言おうと思ったがやめた。ある特殊能力がある人間には、他者は経験の外側というのが偽であるのは自明だからね そのようになっているが、日本人が馬鹿になったというか、ほとんどが無思想のノンポリである、というのは日本政府が望むところらしい。
つまりみんな一人一人思想なんてもたれた日にゃあ、日本政府や上級国民からしたら煩くて敵わないだろうし、仕事ばかりやっててもらって他のこと何も知らんような国民が多い方が助かるからだ。
まちに出て、あなたは神をどう思いますか? とか聞いてこ。鳩が豆鉄砲食ったような顔するか、わらわれるか。
でも元来日本人は政治に積極的で、それぞれ思想があったのだと思うよ。本当はその方がいい。何故なら国民が堕落すれば儲かるのは上級国民なのだから。 共感性のある人間は、他者は経験の外、だと思わない
共感性のない人間は、他者は経験の外、だと思う
は真か
他者は経験の外、だと思う理由が、共感性のないことだとして、他者は経験の外、だと思わない理由が、共感性のあることだとして、結局、
他者は経験の外である、ことが真なのか
他者は経験の外でない、ことが真なのか シンプルな問題をハードにしているのはお前ら、
それは見る側面によっていかようにでも変貌し
見る側がそれを個別に解釈してしまうからだ。
つまり量子的存在だってことな、その手の類を扱う方法論を学んでこない
無学なやつが理解できるわけないだろ。自分の無知を呪え。 >>22
>>25
他者の意識は経験の外側だと考える。
それは視覚などの感覚よりもむしろ自由意志において。
>>26
量子力学の理論が未完成であると考えることは容易いが、
量子力学と意識の関係について考えを持っていれば、それは語ってほしい。 自由意志の本質は一つであることである。
だから、二つの自由意志の一つの意識にあることはない。 何かを考える。頭に浮かぶ。それがなぜか頭に入る。それをふまえた
意識認知で違った読み方ができる。違う答えになる。それで考える
頭に入る・・・
とかは個人的には不思議な体験だ。 読書するたびに違う発見がある同じものを読んでいるのにね。人間はコピー機じゃない
考える葦といったパスカルが文字通り正しい。宗教哲学の先生だ。 >>30
>>31
確かにそうですね。考えが新しい考えを呼ぶ。
時に戻ることもある。それでも進むこともある。
パスカルは読んだことはありませんが、考える葦はいい言葉ですね。
いつか読んでみたいと思いました。 存在するとは何でしょうか。
私は主観において物事が存立することだと考えます。 私の関心事は次のような対応関係があることです。
「私」は一人である - 「私」は一人ではない
他者の意識は存在しない - 他者の意識は存在する >>33
「他者の意識は存在しない」ということと「他者は存在しない」ということは
本質的に異なります。 科学が全て。そうでしょうか。
椅子を椅子と認識することには科学性はありますが、
最初に椅子を椅子と名付けることに科学性はあるでしょうか。
それは哲学ですよね。
そのようなことに反証可能性はないと思います。 >>39
哲学は痛いというか、子供でも考えることを考えるという側面はあると思います。 哲学は怠け者がやるもの
勉強サボっちゃった人たちの駆け込み寺
特に理科系サボった人たちが重傷化する傾向あり 他者の意識は存在しない。
他者の意識は存在する。
どちらも正しいとしたら? >>43
古代の哲学では数学は大切にされていましたよね。
現代でも真面目な哲学者は理数系を疎かにしないと思います。 >>43
理数系ではなくて、理科系でしたね。すみません。
それでも同じようなことは言えると思います。 言語においては、数は最初に習うことの1つですよね。
それだけ数の概念は基本的なことだと思うのです。 そもそも意識とは何か?
物理的な相互作用があるのみ 随伴現象説で説明がつくのか?
そうは見えないのだが、いったいどういうメカニズムがあるのか?
それもハードプロブレムの1つ
答えはまだまだ遠い 僕も答え知ってる!答えはうんち!うんちをよく観察しなさい! >>48
>>49
私は意識が科学的に解明される可能性は否定しません。
もし意識が科学的に説明されるとしたら、
量子力学かそれを超える理論が必要になるのでしょうか。
私にははっきりしたことはわかりません。
しかし、私に意識と呼ばれるものがあることは確かです。
脳科学の盲点は、意識の座を脳に限定していることだと思います。
私たちはこの宇宙のすべてを知っているわけではありませんから、
真の意識の座がどこかに、あるいは宇宙の外にでも、
ある可能性は否定できないと思います。 宇宙の外部という考え方が科学的ではないという批判は、
私も一理あるとは思っています。
また、少し考えてみます。 >量子力学かそれを超える理論が必要になるのでしょうか。
量子力学を理解できていないから、そういう疑問をもつ
従来の科学からすれば量子現象とはオカルトと断言して証明できるような原理なのに
具体的で単純関係の論理ばかり見ているからそういう発想になる
物理現象を説明する量子力学の方程式に「t」という時間項目がないことすらしらないのでは?
時間がないのは未来過去現在の区切りが存在していないという原理だ。
だからこそ量子テレポートは光速を超えるとか言い出すやつがでててくる。
相対論レベルの単純思考論理では、量子力学を否定しつづけたアインシタインの
IQが高くてもそういう否定状態になることを謙虚に受け入れろ。
それだけ論理説明すれば現実とは奇奇怪怪なんだよ。 脳科学の仮説はこうだと思います。
りんごがあるとりんごが見える。
その時の脳の活動があるとりんごが見える。
りんごがないとりんごが見えない。
りんごがなくてもその時の脳の活動があるとりんごが見える。
だから夢とか想像とかでりんごを見ている時は脳が活動している。
私はこの仮説は概ね正しいと考えていますが、
穴があるとしたら自由意志に関してです。
自由意志の説明は脳科学の範疇を超えているのではないかと思っています。 >>54
量子力学に関しては本当に基礎的なことしか知りません。
原子を回る電子にエネルギー準位とそれに対応する軌道があることや、
二重スリットの実験により電子は波動性と粒子性を持つことなどです。
量子テレポートなどは興味深いとは思っていますが、ちょっと追いつかない感じです。
奇々怪々な量子現象は嫌いではありませんから、もっと勉強したいと思っています。 >>55
りんごの話はよくわかりませんけど、自由意識は、幻想だと思いますね。 >>57
私は自由意志は存在すると考えています。
コーヒーを飲むのも、風呂に入るのも、スマホに触るのも自由です。 この世は立体映像であり、阿頼耶識が映写機
意識体験を創り出しているのは阿頼耶識であり、脳はデータを処理したり、変換したりしているだけ ・・・ということを認めない限り、ハードプロブレムに答は出ない
それを認めたところで、科学の進歩が止まるわけではない。
イージープロブレムの研究は、どっちにしても進むから。 他の言葉に丸投げして判断を放棄しているだけでは?
意味の解明という点では全く進歩していないように思えるのだが >>62
阿頼耶識は、科学では解明できない
瞑想によって探求する >>62
イージープロブレムの解明は、科学によって進む。
進歩が止まるわけではない。 >>59
>>60
私もハードプロブレムと仏教は相性は良いような気はします。
私は阿頼耶識などの仏教の概念に詳しくありませんから、今後考えて行きたいです。
科学の進歩と仏教や哲学などの思想が両立することは同意です。
>>62
確かに言語的には阿頼耶識は強すぎるような感じはします。
>>63
>>64
私がまず気になるのは阿頼耶識は1つかどうかということです。
1つの阿頼耶識に複数の意識が接続しているということなのか。 >>65
阿頼耶識は論理思考、手続き思考、記述思考、技術的、知的解釈ではない。
対称性思考の類だ、たとえば曼荼羅をみろ、仏教の絵をみろ、あれこそが仏教哲学
対称性とは陰陽の表と裏の発展形であって、シンメトリで左右同一とかいうのではない。
量子力学のように観測するとき観測されるということ、中を覗き込むとき中から逆に
見られるということ。
科学的知見で得た知恵とは違い、具体性で説明すればするほど嘘になる考え方だ。
>>阿頼耶識とは識の1つ、識とは何かを問わずに具体的側面を捉えれば嘘になる。
説明されたところでその人の解釈にすぎない。
科学を認める時点で、対称となる非科学という存在がこの世に現象として現れている
事実そのものを否定しているかぎり、その先には進めない。
科学は科学で割り切れるもの以外を扱えないからだ。
非科学を科学できたらそれはデタラメだ。
科学を超越する何かの次元に到達しえないかぎり、科学的立場で非科学を認知できない。
物理学をみればいい、全てを観測者という立場で捉えた説明をしている、相対論のことだ、
全ての関係性の方程式は観測者がないそれを説明してはいけないし、説明できない。
故に観測しないけど無かったら困るダークマターなる物質を幻想するのである。
観測できない物質を観測する?それ定義が正しければ矛盾だと気がつくはず。
定義が間違いかどうかを問うべきなのに、そこには至らない 英語で
Power が末那識とすると、Forceが阿頼耶識
日本語や中国語で
愛が末那識とすると、仁が阿頼耶識
行が末那識とすると、業(カルマ)が阿頼耶識
得が末那識とすると、徳がが阿頼耶識
具体的に使われる例はある。
主体以外に蓄えられ事象へとつながる何かを意味し
主体と非主体の対称性から導き出される概念である。
心が末那識とすると、魂がが阿頼耶識
つまり末那識は消滅するが、阿頼耶識は主体ではないので主体の消滅とは
関係なく消滅しない蓄えられた何かである。 >>63
科学では解明できない、って言ってそれで終わってしまってはここで話す意味がなくなってしまう
全体的には言えなくても、どこまでは言えて、どこからは言えないのか、それはなぜか、としつこく食らいついて行かなくては哲学ではない
言葉による伝達では無理で、瞑想なら分かるというのなら
それは客観化ができない観念だと考えられる
それだけだと主観的ことを主観的なことで置き換えているだけになる
そこから踏み込んで、なぜ客観化できないのかを考えていくのが建設的だろう >>68
つかめないものをつかむには?
無を観測するには?
見えないと定義したものを定義に矛盾せず見るには?
科学では説明できないと定義したものを科学で定義するには?
方法はあるが、それを科学とはいわないんだよ。 >>69
ここは哲学板では?
それに、科学では説明できないと定義するって、説明や定義という語の認識がおかしくないか?
説明や定義が反証不可能だ、というのなら理解できるが >>66
>>67
「私」は唯一であり、「私」は唯一ではない。
我々はそのような矛盾を抱えて生きている。
そのような「対称性」の識はしかし我々を一段高いところに導くかもしれない。
私は、阿頼耶識について知らないが、それ以前に末那識についても知らない。
私にはもっと学ぶことがたくさんあるように思う。
阿頼耶識は、主体と非主体を超えた識であるというのは、考えさせられます。
>>68
>>70
科学は、量子力学の二重スリットの実験がそうであるように、
度重なる現象についての学問であると思います。
ということは、我々の一回限りの生について、科学は説明できないかと思います。
私は哲学を放棄しない。
>>69
つかめないものはつかめないし、
無は存在しないし、
見えないと定義されたものが見えたら矛盾であるし、
科学で説明できないと定義されたものが科学で説明できたら矛盾である。 >>71
人と人の脳は驚くほど統計的機械で、意識せずパターン化された行動をとっている
「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」など読んでみたらよいと思う
きっと驚くよ >>70
よくわからんがお前の日本語のほうがいみふぃめいや >>67
そうだな
死んだら末那識は消滅するが、阿頼耶識は残る
そういうことでいいんじゃないかな? >>72
ハードプロブレムに興味あるならイージープロブレムである脳科学は知っておかないとだよね
AIの画像認識なんか本当によく人間の資格情報処理をシミュレーションしている
プログラムをコンピュータに実装しているのは情報系工学系の人だと思うけど、よく勉強していると思うよ 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識・阿摩羅識の9種
最後の9識、「阿摩羅識」は、生命の極的な根源である清浄な識のこと。 普通に「無意識」とか「深層意識」というときは、マナ識を指している
アラヤ識は、その奥にある超深層意識 >>72
面白そうな本ですね。
機会があれば読んでみたいと思います。
人が機械的であることは、例えば、
人が自転車に乗る時を考えればいいのかなと思いました。
自転車を運転する時、人は理性的に解析しているのではなくて、
感覚的に運転していると思います。
同じ様なことが様々なことに言えるかもしれませんが、
数学はどうでしょうか。
どこまで機械的なのでしょうか。
>>75
最近のAIの進歩は著しいようですね。
ニューラルネットワーク自体は古くからあったようですが、
ディープラーニングの理論と計算機の進歩によって、
驚く程、人間に近づいて来ていると聞いています。
>>76->>78
十識もあるのですか。
仏教については、いつか学術的に取り組んでみたいです。
仏教の問題について考えていると、
意識の問題は小さな問題のように思えるかもしれませんね。
>>80
最初の方を読んでみましたが、難しい問題ですね。
私は単純に物理学が難しくなりすぎたからだと思います。
古典力学は、殆どの哲学者は理解しているのではないでしょうか。 >>81
人間は自分自身が考えているよりずっと単純で規則的な機械だよ
意識すらそのようなものでしかない
釈迦の十二縁起も、人の心の機械的性質を説いたものだと思う >>82
>人間は自分自身が考えているよりずっと単純で規則的な機械だよ
意識すらそのようなものでしかない
↑それは確かに、一理ある意見なのだが
>釈迦の十二縁起も、人の心の機械的性質を説いたものだと思う
↑んなわけねーだろ(笑) 釈迦が言った言葉という訳でもなかろうが
諸行無常とか機械論のことを言ってるみたいに思えるよな >>83
人の心は原因と条件によって駆動され結果をもたらす
その過程がどのようなものであるのかを説かれた
この規則性は、機械的でなければ何と言うのか? >>82->>83
確かに人は驚く程、機械的だと思います。
以前このようなことがありました。
ある雨の日、あるスーパーから出た所で足を滑らせて転び頭を強く打ちました。
すると、視界が壊れたテレビのようにザザーとノイズが入りました。
この時、人の視覚は本当に機械みたいだと思いました。
私は十二縁起には詳しくはありません。もっと学ぶ必要があります。
しかし、私にも十二縁起が機械的だとはあまり思えません。
ここでいう機械的だということは、ロボットでも実現できるというような意味です。
例えば、ロボットには老死はありません。
勿論、データが失われることはあり得ますが、バックアップは可能です。
>>84
面白い観点ですね。
>>85
「私」の問題は、「私」は特別である、そして全ての者は特別である、
しかし「私」はさらに特別である、このような永遠性にあると考えています。 >>86
その意味での機械性は恐らく必然性と同義ですね。
確かに仏教であれ何であれ必然的であることを説いているのかもしれません。
>>87
私は東西問わず学びたいです。 >>88
〉このような永遠性にあると考えています
私の考えでは、それは永遠性でもなければ、
永井均が盛んに言うような累進構造でも何でもなくて、そこに何か深淵で神秘的な問題が
あるような思うのは、単なる錯覚です。
主観的には確かに自分は特別で世界の中心
ですが、客観的には無数にいる人間の
一人、世界の一部分に過ぎない、それは
主観を持つ誰にとっても共通の構造である、
と、話はそれで尽きているで、
それ以上でもそれ以下でもないと思います。 >>89
必然性は山岳公園を徘徊する人、機械性は線路を走る電車
両方とも、「始まり」から「終わり」の位置は確定していても、
電車は決められた線路から外れることはできないし
山道には獣道も道じゃない経路も自由があり状況でいかようにでも変動する。
機械には手順や過程という論理性があっても、人が徘徊する散歩に
進む経路に論理性や定義はない、関係性で興味本位で流されるのが徘徊だ。
結果が同じなら感情論も論理も同じだという説明、
人が機械と違うのは、機械には見えないカラクリはないが、
人は説明しえない観測しえない原理、説明しえない観測しえない条件、
意味になりえない過程を扱えるという点だ、それを機械と同義だと理解してしまえば
「説明しえない観測しえない」を、「説明しえる観測しえる」と考えてしまう事になる、
これらは量子力学的物理現象すら理解できない知能が、ハイゼンベルクの不確定性原理
なんて嘘だと言っているようなもの。
宇宙も機械だから全ては説明できる、つまり物理法則の「対称性の自発的な破れ」など存在しない
すべては論理的な歯車が乱れることはないと言う確信だろう。 >>88
悟りへの道として「十二因縁」とするのは釈迦の教えではなく、釈迦の弟子たちが
解釈した具体例にすぎない。
それは釈迦が悟りに至る前に比喩した術であり悟りの1つの段階の論理性にすぎない。
悟りへの道とするならば、「十牛図」だろう、論理や自我や方法などに依存し探求を
し悟りを得ようと思っている時点でそれは悟りへの道であっても悟りの本質には
たどり着いていない。
釈迦は経典など残していないし、日々のポエムを弟子に与えていただけである。
悟りの次元を超えた次の段階に達したとき本当の悟りを得たものということだ。
悟りは入り口にすぎない。
次の段階に達した人の所業は、行うことの何もかにも必然であり、その気配は輝いてみえる、
現代的に解釈するとすれば、全ての行動が「ユーモア」を生み出し、秩序と人を照らす何かを
照らす必然である、そこに不協和音などない、
キリスト教などの根源的慈愛、聖なる祝福、感謝の本質のようなもの。
その姿がまぶしすぎて光に満ちていると比喩するべき段階である。 って オカルトじゃないか、デタラメ、トンデモに染まって
なにが楽しいのかwwwwww 問題解決能力とは、方程式の解を解くのではないのは明らか >>90
私の考えでは、客観的な「私」もまた特別であり、同時に特別ではありません。
だから、永遠性の問題は解消されないです。
ところで、通常の科学では「私」を記述しません。
だから、客観的な「私」をどのように記述するかという議論は残されています。
人々をIDで表現しても、「私」はそのIDであるという記述は必要です。
>>91
必然性についての面白い観点ですね。
必然的であることとは「始まり」と「終わり」があっても、
途中の自由があるということですか。
確かにそういう必然性はあるかもしれないと思います。
私の考えでは、量子論は確率的であることを必然的に語ることができる状況です。
だから、必然性の段階が一段上がっているわけです。
>>92
十牛図について、知りませんでした。学ぶことはたくさんあります。
私には、十牛図の方が、十二因縁より親しみが持てます。
なるほどと思わせる何かがあると思います。
「次の段階」と呼ばれる離散性があるのか、それとも連続的な変化があるのか、
とても興味深く考えさせられました。
私もユーモアは大切だと思います。仏像も笑みを浮かべていますよね。
悟りたいものです。
>>93
問題一般的に、何故問題を考えるのか、それも問題ですね。
全ての問題は唯一の問題に繋がっているのかもしれません。
賢い人には、量子力学と悟りの問題が繋がっているのかもしれません。
>>95
方程式を作ることも含まれますよね。
そして、方程式は作らなくても構わないのかもしれません。 >>92
>悟りへの道として「十二因縁」とするのは釈迦の教えではなく、釈迦の弟子たちが
解釈した具体例にすぎない。
なぜ、そう言える?
その根拠は? ヘンテコなレスするなら専用のスレを作ってもらいたい
【物理数学】宗教で読み解く意識のハードプロブレム【立入禁止】 >>99
自分が理解できない話だからといって、むやみに否定するべきではない >>102
有能の貴方、なんとかしてよ。
99がかわいそうだ。 >>101
仏典には、「釈迦が菩提樹下で瞑想していたのは十二縁起」とハッキリ書かれている >>103
ヘンテコなレスしたい奴が立てるべきだろう >>99
物理数学は歓迎しますし、仏教に学術性はあると私は考えています。
十牛図の思想性は、道教の思想性と似た所があるかなと思います。
十二縁起がどこに由来するのかについては、私の知識不足で解りません。
ハードプロブレムに話を戻しますと、
私は「私だけのもの」という考えは全て失敗すると考えています。
例えば、「私」という概念は、それが唯一的であると考えると、
同じように唯一的であろう他者である「私」と衝突します。
「意識」や「クオリア」という概念にも同じようなことが言えると思います。
他者に意識はないという考えは、他者に意識はあるという考えと衝突します。
他者にクオリアはないという考えは、他者にクオリアはあるという考えと衝突します。
だから、難しいことですが、他者の意識やクオリアは存在しないと考え、
その上で、本当は自分の一部である他者と交流して生きていかなければなりません。
そして、それは子供の頃から過ごしていた日常と何一つ変わることはありません。
ゾンビの仮説という異常性とは別れるべきでしょう。 だから、他者の意識は存在しないという考えは、
新しい段階に入るための途中の段階だということです。
そして、その新しい段階は子供の頃の自分と本質的には違いはありません。 そう考えると、十牛図で語られていることとも偶然的に合うところはあるのかなと思います。 >>108
十牛図は絵のみであり一切は言葉として語っていない言葉で説明するのは評論家や書籍作る人の解釈である。
つまり論理で示すそれとは違うのだよ。
>>104
>仏典には、「釈迦が菩提樹下で瞑想していたのは十二縁起」とハッキリ書かれている
どこの経典かね?名前を挙げたまえ、どうせ誰かの自作自演の経典だろう。
そもそも教派がいくつあり、弟子が何人いてその系統がどうなっているか説明できてから
でなおしたら?デタラメすぎるよ、日本にきた仏典のそれに書いてあるその程度の
創作経典のはなしだろう。
釈尊はポエムを記録として取っていてそれの写しが現存していることすらしらないのか?
無知もほどほどにしとけ。写しと経典とはまったく違うぞ
菩提樹下で全てとか言い出すのは伝説であって、ほとんどは菩提樹は関係ない。
そもそも釈尊の生い立ちやら身分やら兄弟やらわかっていっているのか? 「意識のハードプロブレム」の話に、十二縁起とかは、あまり関係ないな。
おおいに関係あるのは、唯識論。
「阿頼耶識」の話。 >>99
「宗教」というのは誤解だ
唯識論は古代インド哲学の理論であって、信仰という要素が無い 古代インド哲学に抵抗があるなら、ユングの「集合無意識」論でも代用できる
ただ、ユングが好きな人はたいてい古代インド哲学も好きだろうし、嫌いな人は両方とも嫌いかもしれんが 意識とは何か?
意識を成立させているものは何か?
について宗教(マナ識とか阿頼耶識)以外の言葉で説明できる人いたらお願いします >>113
他人をアテにしすぎだ
まずは、お前が考えて書いてみろ ユングは、西洋と東洋それぞれに伝わる神話や伝説には共通したテーマを扱った物も多いことから、
洋の別を問わず人類の心の奥深くには「共通した何か」があると考えたのです。
例えば、「太陽を崇拝する」というテーマや自然に「母性」を見出すというテーマ…etc。
これらのテーマを生みだす根底にあるもの、それが「集合的無意識」なんですね。
図のように、意識や個人的無意識よりもさらに深いところにある層で、民族や国家、人種を問わず普遍的に存在しています。 ユングによれば、私たちが「自分」を認識できるのもまた、この「集合的無意識」が存在するからなのだとか。
確かに、無意識・普遍的に共有できる「何か」がなければ、自分が生きる価値を見いだすこともできないでしょうし、他人と話をしても通じないような気がしますよね。
遠い昔の民話や伝説から学ぶことが多いのも、世代が違う人と会話できるのも、国籍が違う人との間に会話が成立するのも、
(言語の壁をクリアすれば、の話ですが…)普遍的に共有できているものがあるからなのかもしれません。
そういったベースがなければ、会話は全く噛み合わないでしょう。
「集合的無意識があるからこそ、人は自分自身とも他者とも対話・理解し合えるのだ」
と言うユングの説はごもっともですね。 >>1
まず存在とは何ですか。各自勝手に存在の意味を考えていたらお話にならない。 >>117
ついでに「意識」もwww
「存在」とか「意識」について各々が勝手に定義してるから
このスレじゃ「イージープロブレム」についてすら議論できないwww しかしスレタイが恥ずかしすぎるな、、、
まさに名前負けwww 神がいると仮定して、なにゆえこの世界において赤という色を、人間の血やリンゴの皮の色に似た質感を持つように決めたのか、ってことだ。
なぜこの光の波長においては、このクオリアが成立するのか。
問題は、なぜそのような取り決めが成り立つのか、ということ。 テーブルの上に雑多なモノがおかれていて、それらの色がさまざまである場合、脳が疲れる感じがしないだろうか?
水墨画のような単純なモノを見るときと、脳内のニューロンの発火パターンが違う気がしないだろうか?
さまざまな波長を瞬時に選り分ける能力が脳にはあるわけ。
そこからかんがえていけば答えは出るだろう。 >>120
それは「ハードプロブレム」とは何かについての説明ですね
「存在」とは何か「意識」とは何か、についてはどう考えますか? >>120
ぼくは、宇宙が、予め与えてくれているものと、考えています。
図形の、○が、△でなく、丸であるのと同じように。
あの赤も、あの青ではなく、あの赤であると。
形の認識と、色の認識は、似ているのではないかと考えます。 >>121
>脳内のニューロンの発火パターンが違う気がしないだろうか?
それは「イージープロブレム」ですね
>さまざまな波長を瞬時に選り分ける能力が脳にはあるわけ。
これも「イージープロブレム」
何の刺激に対して、どのニューロン(群)が発火するかを特定しても「クオリアの成立」に対する説明にはならない
なぜなら、それは因果性についての説明ではなく単なる”言い換え”だから
Q1「赤を表象した」とはどういうことですか? A1「このニューロン(群)が発火しました」
Q2「このニューロン(群)が発火する」とはどういうことですか? A2「赤を表象します」
と言ってるのと同じで答えになってない
「ハードプロブレム」とは何ですか?に対して「難しい問題」です
「難しい問題」とは何ですか?に対して「ハードプロブレム」です
と答えてるのと同じ >>122
存在とは、現にあるもの。つまり可能性が成就されたもの。(一般的にはね)。
意識とは、神経細胞とそのニューラルネットワークの挙動と神経伝達物質の量、位置などの情報を組み合わせてフレーム化したもの、だと思っているが、そういうのは科学者の最新の知見で変わるものだね。 >>122
横からで申し訳無いですけど、
ぼくは、存在とは、いわゆる物理主義の立場にほぼ近く、すべてが、論理的存在であると考えています。一元論的立場です。
当然そうなると、意識というものも、特にそこから独立して存在するものではなく、僭越ながらそれは、幻想であると考えています。 >>124
うーむ、意外に難しいな。答えが出ない。 なぜこの波長スペクトルだと、この色でなければならなかったのか。
同じ波長スペクトルを二人の存在者が違う色だと認識したとしても、なぜそのクオリアをありありと認識しなければならないのか。
赤色の赤さとは何か。 >>125
114とは違って、しっかりとした御返答ありがとうございます
「存在」については自分も大体おなじような認識です
「意識」がまだ、ちょっと考え中なので、何か思いついたら書き込んでみます
>>128
自分にもそれが難しくて悩んでますww
今日はもう寝ますが、「差異の体系における分節化の恣意性」みたいな方向から考えようかと思ってます
ありがとうございました >>123
まあ宇宙でも、神でも、絶対者でもなんでもいいんだが、なんらかの意志、意図で人間に特有の認識能力を与えたとする。
しかし、その場合、
なぜ赤い色に「赤さ」を割り当てたのか、その必然性がわからない。 次元の低い人に上手に教えられるのは次元の低いひとだけ >>129
お前には、自分で考える頭がまだ無い(笑)
成長が足りんな >>128
人間には、波長が長い光は赤と認識され、波長の短い光は青と認識される。
これは確かに必然性がなく、不思議だと感じられるかもしれない。
でも、音はどうだろう。
波長の短い音波が「高い音」として認識され、波長の長い音波が「低い音」として認識される。
これは自然で、しっくりくるんじゃなかろうか。 もしも、音波の波長とクオリアの関係が逆だったら、どうなるか。
バイオリンの音が低くて、ベースの音は高い。
ネズミの声が低くて、牛の声は高い。
女の子の声が低くて、オッサンの声は高い。
これは納得いかない。
もしも、光の波長とクオリアの関係が逆だったらどうだろう。
昼の空は赤く、夕焼けは青いということになる。
低温の炎は青く、高温になるにつれて赤くなる。
未熟なリンゴは赤く、熟すにつれて青くなる。
これも納得できない気がするが・・・。 >>118
ちょっと誤解してるようだな
「存在とは何か」、「意識とは何か」というような答えにくい本質論に踏み込まないといけないから「ハードプロブレム」なのであり、
そういう議論に触れなくても議論できるから「イージープロブレム」なんだが >>118
定義というのは勝手に定義するもの、まさか違うとおもっていたなら
学校でなおしたほうがいい。 >>137
人間社会の原理を、人間社会よりはるかな低次元の論理的なカラクリで説明
しようとしう取り組みなのは明白です。
そもそも次元が違うそれは人の定義、奴隷は人ではないという過去の定義など
動物に命はあっても植物には命がないとかそういう定義になりえる。
次元の違うそれは同じ次元のカラクリで説明するしかないのに、
低次元の論理で説明しようとする(たぶんAIやプログラム化という話)態度が
答えを意味不明にするはずです。
たとえば神の答えは、神以外の何ものではなく神の本質は神であり、
それを強引に物理法則がなにとか人間の原理や社会が何とか言い出せば
次元が違うのは混乱しか生みません。
神を扱えるのは神の次元の原理で、人の次元の原理では人の心に捉える
神を信じる全ての人ごとに違うカラクリでしかないのです、信じるそれを信じる以上に
どのように信じる何を信じる、誰をどの行為を奇跡をとか具体化することが間違いなのです。
本質とは本来は具体的にあらわせないものを言います、一言で表せても、ほかに
類似的なものを比喩するぐらいしかないのです。
118のような誤解はそれは自分の思った幻想であり、神と個人の関係がそれぞれ違うように
各自が勝手に解釈するべきそれを共通の科学のカラクリに置き換えるという人の傲慢の
現れにすぎません、つまり118の誤解が正解なのです、具体化すれば全ては幻想であり
抽象化して説明すれば、本質に近づけるが曖昧すぎてつかみ所がないということです。
神は神以外の何者ではないのです。意識のカラクリは同じ次元の精神論でなら具体性はあっても
より低次元では抽象的な意味不明なものでしかないのです。 >>133
私には、自分の考える力が不足していることに対する自覚があり
君には、君自身の考える力の不足に対する無自覚がある
君はここで取り扱われている問題の”難しさ”を分かっていないようだね
「全知ならざることの自覚」を知りたまえ >>141
考える力が不足しているんじゃない、完全に0だ、自分が0なら他人も考える
力がないと思いたくなるのはわかる。
君がいうのは考えた結果ではなく、何かの暗記した丸写しでしかない。
それは呪いだ、「ゆとり」というやつ。
考える力が少しでもあるなら、まず最初の1歩として自己否定をしてみなさい。
自分が間違っている前提で思考するぐらい誰でもできることであり、
だれでもやっていること、自分が中心に考えるその態度は単細胞以外の言葉が
思いつかない。 >>134
>波長の短い音波が「高い音」として認識され、波長の長い音波が「低い音」として認識される
>これは自然で、しっくりくるんじゃなかろうか
なぜ、それが自然でしっくりくるのかが分からないから問題なんだよ
波長の短い音波の 知覚→認識 への移行で生じる「高い音のクオリア」という表象の成立に関する因果性についての問題
短い音波が受容細胞の仲介により神経の電気的信号へと変換され、特定のニューロン(群)の発火現象を引き起こすというのは答えになってない
人が「高い音」を感じるとき脳内で”何が”起こっているのかではなくて、なぜ脳内でそれが起こった時「高い音」を感じられるのかが「ハードプロブレム」 >>136
辞書に書かれている説明で事足れりとする事が出来ない問題を扱っているのを理解してないようだね >>137
「本質に踏み込むかどうか」ではなく「異なるカテゴリーの間の関係を問題にするかどうか」が相違点だね
アメリカの哲学者チャーマーズの分類で
難しい問題(hard problem)
物質としての脳にいかにして我々の心の中の表象が宿るのかというカテゴリーの異なる2つのものの間の関係を問う
やさしい問題(easy problem)
記憶の蓄積や想起、ワーキングメモリー、注意などの問題は技術的には様々な困難があるが、「難しい問題」のように
越えられないと思われるようなカテゴリーの相違は含まない。一般的に機能主義からの意識へのアプローチでは「やさしい問題」しか扱えない
脳のある特定のニューロン群の発火は「高い音」を表象させる機能を持つというアプローチは「イージープロブレム」
その特定のニューロン群の発火がなぜ「高い音」を表象させるのか、「ニューロン群の発火」と「高い音の表象」の間の関係を考えるのが「ハードプロブレム」 意識のハードプロブレムを解くというのは心の仕組みを解くのと
何の違いもないんだよ。
人間の原理には心という仕組みがあり、心なし、命なしで意識なんてものはありえない。
命と心というそれが説明できるなら、魂だって例外ではない。
そうよ、魂を否定している時点で心も命も意識すら否定しているのと同じなんだよ。 >>138
>定義というのは勝手に定義するもの
なるほど、確かに”先ずは”自分で定義するものですよね。すみませんでした。
しかし、各々がバラバラの意味で言葉を使用すると話が噛み合わなくなります。
ですので、語の意味がカバーする範囲を”ある程度”は一致させるために擦り合わせが必要になります
というわけで、お互いに自身で定義する「意識とは何か?」の意見を出して同意したり、反対したり、修正したりしましょうか
君はどのように「意識」を定義しますか?
ちなみに「意識とは何か」については専門家の間でも決定的な答えは出ていませんので間違いを恐れず色んな答えを聞きたいです
一応、主流は「意識とはアルゴリズムである」ということになっているらしいようですが
その他にもチャーマーズの「情報の2相理論(すべての情報に意識が宿る)」や >>138
>定義というのは勝手に定義するもの
なるほど、確かに”先ずは”自分で定義するものですよね。すみませんでした。
しかし、各々がバラバラの意味で言葉を使用すると話が噛み合わなくなります。
ですので、語の意味がカバーする範囲を”ある程度”は一致させるために擦り合わせが必要になります
というわけで、お互いに自身で定義する「意識とは何か?」の意見を出して同意したり、反対したり、修正したりしましょうか
君はどのように「意識」を定義しますか?
ちなみに「意識とは何か」については専門家の間でも決定的な答えは出ていませんので間違いを恐れず色んな答えを聞きたいです
一応、主流は「意識とはアルゴリズムである」ということになっているらしいようですが
その他にもチャーマーズの「情報の2相理論(すべての情報に意識が宿る)」や >>148
>各々がバラバラの意味で言葉を使用すると話が噛み合わなくなります。
各々がバラバラの仮説を出して矛盾を解いてゆくそれが学問な、
話がかみ合わないのは相手の仮説を頭から否定しているだけの問題でしかない。 >>148
ミスですwww
続き↓
トノーニの「統合情報理論(統合された特殊な情報に意識が宿る)」などもあるようです
(トノーニらは統合された情報を「全体としての情報量が、個々の情報量の総和よりも大きい状態」と定義)
難しい問題なので「まだ分からない」でも「今、考え中」でも「自信ないけどこう思う!」でもいいので
「意識とは何か?」について何か意見ありましたらよろしくお願いします >>146
先に真理だとして据えられるとですね、
弁証法的に真理へ到達しようとする手法と衝突するわけです
心とは何か?どういうものか?そもそもそういうものを認められるのか?
ということだけでも議論になるのに、結論ありきで入られると話がまったく噛み合わなくなるんです
もしかして、東洋思想のほうにお詳しい方ですか?
アプローチのベクトルが真反対だから話がややこしくなるんですよね >>147
「意識とは何か?」という別スレを立てたほうがいいんではないか? 「意識のイージープロブレム」や「ハードプロブレム」とは、主に「クオリア問題」を意味する。
上で何度も出ているような、「波長の短い光が脳神経で青いという色に変換される」というようなのが、クオリア問題。
ここで、脳神経の反応や処理過程を科学的に調べるのが「イージープロブレム」で、「そもそも、なんでやねん?」と問うのが「ハードプロブレム」。
「意識とは何か?」という問いは、ちょっと違う種類の問題であり、直接の関係はない。 >>152
「意識のハードプロブレムの答え」というスレタイなので
「意識が何か」を示さずに「ハードプロブレム」を語ることは不可能です
「意識とは何か?」についてある程度の了解が得られる定義を示すことは”必要条件(十分ではないが)”となります
とはいえ我々は専門化ではありませんので、「恐れ知らずの素人」の特権を生かして自由に議論しましょう >>153
赤い花を表象した時の「クオリア(赤い質感)」は”意識”されたものです
「意識」を除外してクオリアの問題を論ずることは出来ません
可能性として、もしかしたら無意識にもクオリアがあるかもしれませんが
その場合、「意識と無意識」の両方を扱う必要が出てきますし、無意識は意識よりも扱いが困難です
スレタイでは”意識の”とあったので、なるべく無意識には触れずにいましたが
場合によっては無意識についても考える必要が出てくるかもしれませんね 意識なきクオリアや、クオリアなき意識というのは考えづらいと思うが
意識とは何か、クオリアとは何かをもし明確に定義できたら、もうそれは答えだろう
正解ではないと分かりつつも、語り続けて近付いていくしか方法はないと思う 科学や数学では無理な領域。ABCなんちゃらなんてのも役にたたない。 ぼくは、色を、特別扱いし過ぎていると思うんですね。
先入観が、強く作用しているように思えます。
前にも触れましたが、図形と似たところがあるのではないかと考えています。
アプリオリに存在しているもの、とでもいいましょうか。
これを証明することは、なかなかに困難ですけれども、他の星の知的生命体と比較できれば、何か普遍的なものを見いだすことが出来るかも知れないと、夢想しているところです。 >>134
そう。その自然な感じという部分が実はヒントなのではないかと思ってるんですよ。
原始人は原始の時代に、なにか危険があったときに高い声で叫べば遠くまで届くということを、本能的にわかっていた。
あらゆるクオリアは人間の進化にあわせて刻々と変化してきたのは確かではないでしょうか。 進化論との兼ね合いから考察しないと解決しないだろう。
クオリアそのものは変化するものだし、認識主体によって異なる。
可変性を持つということ。
認識主体の変化によってクオリアが変化するのだとしたら、クオリアが認識主体の欲求に合わせて変化している可能性もある。
赤い色は熱さを感じさせる方が、この世界におけるこの時代の人間という認識主体にとって都合がよいのかもしれない。
青い色は寒さを感じさせる方がこの世界におけるこの時代の人間という認識主体にとって都合がよいのかもしれない。
赤の周波数のそのかたちが、熱さを感じさせるクオリアであるように人間が本能的に欲求しているのかしれない。 事後確率の誤謬や疑似問題としてしまえば、それで片が付くことはつくが、このメカニズムが存在するとして解明するのもおもしろいかもしれない。
存在の根源を問うような命題ではないから、些末な問題だなと、いままで素通りしていたが、ちょっとは楽しめそうだ。 >>109
十牛図は絵であることが本質的なのですね。
しかし、優れた絵には優れた学術的構造があるかもしれません。
>>115->>116
集合的無意識の話は深そうですね。
西洋哲学に大きなインパクトがあったのかもしれません。
いつか学んでみたいことの一つです。
>>117
私の言語使用では、
存在≠実在(客観的)
存在≃経験(主観的)
です。
実在は存在のある種のモードだと考えています。 >>150
「実在→意識」という構造が何を意味しているのか。
それは、実在は「意識される存在の確かな一形態」であると私は考えます。
繰り返し経験される確かな存在が、実在として認識される。
クオリアについてよく議論されることは、
実在が意識を作るということですが、
私は意識が実在を作ると考えています。
意識はその内部に実在を作る。そのように考えています。
>>154
タイトルよりも議論の楽しさを優先して頂ければと思います。
>>158
色は本当にRGB形式のような対称的なものでしょうか?
形に関しては、色のようなクオリアの反転が考えづらいですから、
あまり議論されないのだと思います。
三角と四角が交換された世界などは、ほとんど無意味です。
ハードプロブレムに関して、一つ。
私は脳が唯一の意識の座であるとは考えていません。
そういう点では、仏教やユングの学説などの方が親和性があるかもしれません。
この宇宙、あるいは宇宙の外、意識の座はどこにでもあり得ると思います。 >>113
私は意識の本質は一つであることだと考えています。
もし、意識が二つあるとしたら、それを統合する一つの意識があるはずです。
そして、意識は全てを生み出すものです。
時間、空間、形、色、音……
実在も意識が生み出したものだと考えます。
意識のイージープロブレムは存在するか。
敢えて言えば、CPUの設計はそれに相当するのかなと思います。
それは、全体を見て中心を設計する仕事です。 >>164
CPU設計は歯車の厳密な組み合わせだが、論理部分の1つすら機能しなければ正しく動かない。
だが川の流れやら大気循環はどうか、それを構成する素はランダムであっても
大まかな流れが集合である群れの働きによって結果を生み出す、
つまり個の性質がランダムであっても仕組みがバラバラでも同じ結果ができる。
川に水ではなく油を流そうが結果は同じだ川の護岸のとおりに流れるだけ
流れがひどくなれば護岸を削り川も変形し、答えは海に流れ着く必定である。
つまり目的を担う原理が水から油にいれかわっても、ブラウザがIE、CHROME、FIREFOXと変わっても
その上に機能する抽象的原理の働きは基本となる素で特定できるわけではないのである。
これ以上分解してはいけない原理を理解し、それ以下の言葉で抽象的存在を表してはいけない。 >>165
>川に水ではなく油を流そうが結果は同じだ川の護岸のとおりに流れるだけ
んなわけがない
摩擦係数が違いすぎるわ >>169
それ変じゃね?摩擦係数ちがっても海まで流れそうじゃないか、 >>164
CPUがどのような構造を持っているかということ、電流をON/OFFして動作していることがイージープロブレム
計算としての意味を持つことがハードプロブレム
そういうことかな? >>165
なるほど、確かにCPUはその種類が多少異なっても同じような機能を実現します。
そういう意味では上位のレイヤーに影響を及ぼしません。
しかし、CPU自体も抽象的に考えることが可能です。
それはある種の計算論だと思います。
>>172
コンピュータを一般的なある種の他者と考えると、
コンピュータの意識のハードプロブレムも考えられるかもしれません。
しかし、そのことを考えている人はごく一部かなと思います。 私はあまり脳には興味がありません。
脳と書いて「うちゅう」と読むなら話は別ですが。 しかし、それは脳科学は無意味だと考えているということではないです。
勿論、脳科学は有意味ですし、今後発展は期待できると思います。
ただし、先に計算論が発展して、脳科学は後に付いてくると考えています。 しかし、現実は、神経を模したニューラルネットワークが、
AIの世界では有用であることが示されたわけですから、
脳科学から計算論への影響もあることは確かですね。
そこは極論だったかもしれません。 CPUに関しては、回路を眺めても、電気信号を漫然と眺めても、その意味するところ(計算や画像、音声など)は分からないが
信号を適切にデコードすることで意味が分かる
では脳にとって「適切なデコード」は存在するのか?というのがハードプロブレムだろう ただ、脳に電極着けて画像や音声がデコードできただけでは、イージープロブレムを解いたに過ぎないだろう
心の持つ「意味」が、どのようにすればデコードできるのか
そのあたりはまだ手がかりすらないわけで まあ、その「デコード」すべき信号が、電気信号なのかそれとも他の物理現象によるものなのかも定かではないのだが
神経系は音波も使っているという説すらある
量子論的な現象によって動作している場合、対象に影響を与えずに観測できない可能性もある
観測の問題とは別に、客観的な意味付けということ自体が可能なのかという問題もある >>177-179
自身の脳を観測したときは、どうなるんでしょうね。
ハウリングみたいなことは起きないのでしょうか? :)
ハードプロブレムは、物理学的に閉じている脳神経系と環境に、
何故意識現象は伴う(生じる、並列する)のかということだと思います。
だから、デコードするという行為自体が問われているのかなと思います。
私の考えは、簡単に言うと、実在が意識を作るのではなく、
意識が実在という概念を作るということです。 サーモスタットは意識を持っていないのか。
というと、それは解明されてはいない。
持っている可能性を「すべて」は否定できていない。
などと、通りすがりに考える。
制御の制御が可能なこと。そして学習が可能なこと。
学習には内部的な変化があればよい。
これだけの装置の中の、どこに「意識」があるのかといえば、
学習の学習、あるいは学習の制御にある。
制御された学習によって入出力が制御できれば意識があるとみなしてよいだろう。
彼(サーモスタット)がそれを維持できるかどうかは度外視する。 >>164
>私は意識の本質は一つであることだと考えています。
意識とは「統一性」を持つという意味で解釈して良いのでしたら同意します(解釈が間違ってたらスミマセン)
そして自分が、もう1つ付け加えたいのは「切り替わり(揺らぎ)」があることです
「ルビンの壺」や「ネッカーキューブ」の錯視で知られるように2つの表象が同時に成立することはありません
(顔と壺が同時に見えることはありませんし、1つの面が前と後ろで同時に存在する表象も成立しません)
これらのことから意識は「統一性」を持つものだと言えるでしょう
そして更に興味深く感じられたのが「切り替わり(揺らぎ)」があることです
これらの図をしばらく眺め続けていると顔や壺の「図と地」の反転や、立方体の面の奥行きが切り替わるわけですが
少しコツを掴むと自身の意志で見え方の切り替えが可能になるものの、同じ見え方で固定し続けることは出来ません(どうしても切り替わってしまう)
あるいは、1つの文字を見つめ続けていると全体としてまとまりのある形態が失われる(ゲシュタルト崩壊)現象も意識の揺らぎの一種かもしれません
それらのことから意識には本質的に「揺らぎ」があるとも言えそうです
@統一性A揺らぎ
意識に関する、このこと自体ではクオリアに対する答えにはなりませんが考えるヒントにはなりそうです
>>160
>クオリアそのものは変化するものだし、認識主体によって異なる。
>可変性を持つということ。
「クオリアの変化や可変性」と「意識の揺らぎ」を関連させて考えてみても面白そうですね
自分はまだ考えがまとまっていませんので結論をどうこう言える段階ではありませんがww 意識のゆらぎ?関係ないですよ。物理学ではむりです。 >>181
私の考えでは、サーモスタットはある種の他者ですから、
他者の意識が存在しなければ、サーモスタットの意識は存在しません。
しかし、181さんの述べているように、
意識は物理学的にどのような機能であるかを考えることはできるかもしれません。
私は、「自由意志の物理学的な機能は何か」ということは問題だと思います。
>>182
それは、意識をグラフィカルに表現すると、「→」だということです。
それは一つであり、二つではあり得ません。
視覚に揺らぎがあるという点に関してですが、
例えば、私は一点を見つめ続けるという行為には限界がありそうな気はします。
それが「ルビンの壺」や「ネッカーキューブ」の認識の交替の理由と
関係しているかもしれません。 >>171
河床の勾配は、実際にはごくわずか
油では流れない 人と機械の違いについて。
機械に「楽しい」という情緒はあると思いますか?
人は言語を使用する時、それを明確に定義する必要性はないとは思います。
しかし、不完全でも少しずつ機械に人のような情緒を付け足していって、
いつか人のような機械が作られるのだろうか。 油の摩擦によるエネルギー損失は、水とは比べものにならないほど大きい。
河床や壁面に接するところは、まったく流れず、そこから油が固まっていくだろう。
水でさえ、摩擦によるエネルギー損失は意外に大きい。 >>186
「必要性はない」というのは「必要性は必ずしもない」ということです。 >>186
たとえば、人工知能に学習機能を持たせたとして、学習が進むにつれて意欲が向上するようなプログラムは可能なんじゃなかろうか。
それが情緒かどうかは別にして、意欲の向上や低下を組み込むのは不可能じゃないと思われ。 特定分野に特化しない、学習機能のある汎用AIが登場したら、「何を学ぶか」が問題になってくると思われる。
そこで手当たり次第に、無限に情報を収集したら、データが増えすぎてしまう。
ここは、「何かの分野に詳しくなってきたら、それについて、もっと情報を収集したくなる」というプログラムを組み込んだとする。
それは、人間でいえば「興味を持つ」ということに相当するかもしれない。
ある意味、「面白くなってきた」ということになるのかも。 >>189
なるほど。計算資源にゆとりがある時、「意欲」が強くなるとか、
色々と考えられますね。
>>190
確かに、ある分野に興味を持つことも「楽しい」ということと関係しそうですね。
それは新しい知識を身に付けることが「楽しい」ということで、
だから、自分の得意なことに向かうことは「楽しい」ということなのでしょうね。 >>185
だよな、油は摩擦係数でガソリンを給油タンクには流しえない。 >>187
油の定義しっている?
化学と物理勉強したほうがい、油とは何か。
水は固まるとまったく流れないよ、しらないのか?
摩擦係数増大で氷河になれば年で1mとかというゆっくりした
速度でしか移動できない、 >河床の勾配は、実際にはごくわずか
実際には滝も含まれるが、油が滝を落下しないのはあたりまえだろ。 >>194
物質は熱をもっているから熱運動は必ず存在し
固体中でも微量に電気が流れることで粒子移動が存在する。
エレクトロマイグレーションともよばれる、
そして粒子は群れとして動くので、接触面が大きくはずれたそれは
固体ではないものは分子運動によって変形し流動として流れる。
そこに摩擦係数は関係なく、無限大に近い摩擦係数でも流れる。
そもそも固体であるガラスが流動するのが確認されたのこともしらないのかね?
http://magazine.eichitwo.com/?p=252
>>194
>氷河になれば年で1mとかというゆっくりした
流れているじゃないか。 >>189
でたらめ言うんじゃねー、油は現実に流れない、
俺が言うんだから間違いない。
カタカナ用語だしたところで、そんな嘘は通じない。 油に関しては粘性があっても一応流れるのかなと思って聞いていました。
しかし、そこは水と油という異なる物質であることが本質的で、
粘性に関しては、あまり深い意味はないと思いますよ。 粘性があっても理論上の完璧な平面は存在しないので
でこぼこした部分で水も流れないという説明ができますね。
河川が共通の概念の角度でしかないという考え方ははじめて聞きました。
アマゾン川下流とかほぼ角度は理論値に近い0なので
水も流れるわけないですね。 水と油の性質として、混ざらないという性質がありますから、
多分、元々はそのことに注目して出てきた比喩だと思います。 >>200
それ無知をさらしているだけよ、疎水性と親水性は両立できる、また水にも油にも
まざらない性質も存在する。
つまりこの問題は、この批難のように言葉尻のつっこみ、
最初の問題提起に対して問題とは次元の違う突っ込みが意味不明なだけと思われます。 >>201
なるほど。私はもっと物理学を学ぶ必要がありそうです。
油が川を流れるかという問題は、どこかで大きな問題と繋がるかもしれませんから、
価値はあるかもしれません。
ただし、最初の発言の意図しない方向に進んでいるのは確かだと思います。 >>183
揺らぎという言葉は、「気持ちが揺らぐ」や「そよ風に木の葉が揺らぐ」など日常生活でも使う一般的な言葉だし
182では別に「量子の揺らぎ」とか「ブラウン運動」とか「自然界の音にみられる1/fゆらぎ」などに結びつけているわけでもないのに
「揺らぎ」という言葉を見ただけで条件反射的に「物理学!」と反応するのは短絡的すぎではありませんか?
何かを意識するに際して、その意識には持続性がないという特徴を捉えて「意識の揺らぎ」と表現したにすぎません
「ハードプロブレム(クオリアの問題)」に対して、物理学などにみられる要素還元主義的な方法によるアプローチが困難であることには同意します
しかし、一足飛びでクオリアの問題にアプローチする方法があるわけではないこともまた事実ですので外堀から埋めていく(出来るところから始める)という意味で
「イージープロブレム」に関して考察することも無意味ではないと思いますよ >>180
ハウリングというのは面白いな
あり得るかも知れないし、そこまでの同調作用は持たないかも知れない
意識が実在という概念を満たすものなのかは定かではないが
仮に実在しないとしても、ならばなぜ実在しないものが実在するかのように感じるのか
どのようにしてそのような状況になるのか、など
考えるべきことがなくなるわけではないと思う 揺らぎ言うから意味不明なんだよ、論理性に対する非論理、秩序に対するカオス
>>203
>「揺らぎ」という言葉を見ただけで条件反射的に「物理学!」と反応するのは
>短絡的すぎではありませんか?
ちがうよ、その説明を理解できないほど単細胞、抽象的概念を理解できない障害 意識やクオリアが客観性を持ち得ないなら、そもそも語り得ないと思う
にもかかわらず、なぜか(少なくともある程度は)語れてしまうのは、何らかの客観的側面を持ってもいるためだと思う
そして、客観性を持つものは、物理学で説明できる可能性がある >>206
類似しても個別に認知されるそれは客観的意味にすると嘘になるだけよ。
信者が同じ神を語るにも、神という単語は客観性があっても神との関係はそれぞれ違うクオリアとなるでしょう、
共通の客観性を持たせるなら、それぞれの意識を分析解読し共通の言語に翻訳するスキャナーが必要になるはずよ。
色の見え方が時と場合と前後関係で違うように、絶対的なそれで測るのは本人が捉えた色とは別になるよね。
誤解や錯覚や雰囲気や潜在意識など物理データとは違う何かを取り出せないかぎり、
木目に見える模様が人の顔にみえるとか、非科学の領域をも含めて扱える必要があるはずね。
目に見えるものだけが見えると思考しちゃう人にはその部分を受け入れがたい、なので無限ループするんでしょう。 ここの1はハードプロブレムに答えたんだろ?もう終わってるスレだろう? >>203
「揺らぎ」に関しては、私は存在するものとして理解しました。
>>204
ハウリングは軽い発言なのですが、あり得ますよね。
確かに、他者の意識が存在しないとしても、
私にそのように感じられるそれは何なのかという問題は残されています。
それはある種の心のモデルなのかなと思います。
事柄について他者はどのように考え、感じるだろうかというモデルです。
>>206
意識やクオリアは語り得ます。
「赤いりんごがそこにある」など、事柄を語ることは、
その意識やそのクオリアを語ることだからです。
むしろ意識やクオリアを語らないことは、ナンセンスです。
「りんごが机の上にあり、同時に下にある」などがそれです。
>>207
私は「他者の意識は存在しない」、そして「他者の意識は存在する」という永遠性は、
前者を選択することで解消すると考えています。
そして、他者の意識は、私の意識が作り上げた存在であると考えます。
神に関しては、神は人を超えた存在ですから、
人は神のほんの一部を理解するに過ぎないと考えています。
>>208
議論することは有意義なことだと考えています。 >>207
客観的には同じ神を語りつつ、主観的には異なる神を感じている、というのはそうだと思うけど
それは物理学だって同じことだと思うし、人が扱うことは全てそうだ
真に主観的なことは何であれ語り得ない
それでも我々はほぼ問題なく意思疎通できる
この問題は本当に難しい、でもできることはあると信じている ここの1の答えにかんして誰も正解だとは認めてないよ。 他者の意識は存在しない。もし存在すればそれは他者ではない。
↑
これが解答?wwww
わらかすなよ >>214
うんこにまつわりつくハエって邪魔だよね。 >>212
「真に主観的」であるというその「真」が永遠性からの脱却の言葉だと思います。
しかし、よく考えてみるとその「真に主観的」であることも、
全ての他者に関して当てはまることかもしれません。それが私の考える永遠性です。
そうすると、「人は主観的である」という素直な考えに還ることになると思います。
>>213
あなたが全ての人の考えを理解しているとは思えません。
>>214
あり得る答えです。笑える人には笑えると思いますよ。:)
スレッド中に書きましたが、哲学的にはそれは中間の段階です。 「真に主観的」であることは、
通常の「主観的」と「客観的」を超えた「主観的」であり、
それは元の「主観的」であることと本質的に同一的であるということです。 私の考えでは、「主観」は「客観」を含む存在です。
図で書くとこうです。
(主観(客観))
だから、「客観→主観」でもあります。
この構図は、「存在」と「実在」についても同様のことが成立すると考えます。 「客観→主観」をみてハッとした。
主観的客観を、主観をdomainとした主観→客観という射で考えていたからだ。
論理包含であれば、客観→主観が正しい。
主観はcodomainだ。
そうすると客観でないものが生きる。
ありがとう。 意識、クオリアって体験する存在が存在しなくても成り立ちますか?
自分が寝てるとき意識を感じないだけで意識は存在してる?
意識はあるがそれを体験する人がいない人みたいな >>221
無意識(潜在意識)が存在して成り立つ、機能していないのは心
外界の変化は夢となって無意識下に実像として描かれ、五感が
完全停止しているわけでもない。
無意識は意識するという意味論においてアナログ的な要素であり、
表面化しない埋没した脳内情報処理である。
無意識だから意識なんてねぇよというのは単なる言葉あそびにすぎない。 >>222
外部から刺激情報の入力がなくても潜在意識のレベルでは
内部で刺激情報の入力と出力がループすることで自己完結してるということ? >>218
>私の考えでは、「主観」は「客観」を含む存在です。
>図で書くとこうです。
>(主観(客観))
「本当の客観」なんて誰にも認識できるものではないから
「客観」というものは{私の主観によって「これは客観である」と認識された}ものでしかない
という意味で言ってるの? >>212
>真に主観的なことは何であれ語り得ない
>それでも我々はほぼ問題なく意思疎通できる
認識主体の各々のクオリアに間主観性があることで意思疎通が可能になっているんだと思いますか?
それとも、そのような間主観性なんて無いけど「別の何か」によって意思疎通が可能になっている?
うーん、本当に難しいですね 客体側の主体が常に主体と同等の認知であるわけがない。
「観」という単語を理解していないぽいな。 >>225
客観と主観ははっきり分けられず、滑らかにつながっているのではと思っている
なんでそうなるかは、人間は心のレベルにおいても構造に共通性があるからだと思う
人は完全に客観的、完全に主観的というところではなく、主観と客観が適度に混ざりあったところでコミュニケーションしている
コミュニケーションが成立するのは、人の間に客観性の共有があるためで
そのコミュニケーションが微妙に噛み合わないのは主観性のズレがあるため
完全な主観が語り得ないのは客観性を欠くためで
完全な客観は主観性を欠くために想像不可能だと思う
物理学から意識やクオリアに言及可能であるとしたら、人の間で共通しているレベルにおいてだと思う
どこまでもプライベートであるために語り尽くせないことはあると思う >>219
お役に立ててよかったです。
こちらこそありがとうございます。
>>220
二重の意味で蔑視です。
>>221
「体験する≃意識する」ですから、その考えは矛盾を抱えているように思います。
>>224
簡単に言うと、「客観」は「繰り返し経験された主観」だと考えています。
「客観」について。
「客観」には「構造」があると思います。
乳幼児については解りませんが、私達は初めて見た物体も、
それが物体であることは認識できます。
何故なら物体自体は何度も経験しているからです。
世界観が変わるような新しい経験は滅多にありません。
適当に構成された芸術作品は、仮にそれが新しくても、
つまらないものだと私達は認識すると思います。
本質的に新しいものを作ることはそれだけ難しいことだと思います。
しかし、私達がコミュニケーションできるのは、
まさに「客観的世界」が安定しているからだと思います。
それが「純粋な主観」のように非定常的なものだと、
コミュニケーションは難しいと思います。 主観側がactiveに客観をつくりだすのではなく、
主観側がpassiveに客観を受け取る。
あたりまえといえばあたりまえすぎる客観観。
この客観(観)を主観側からactiveにつくりだす。
これを意識とすれば、意識の圏がつくれそうな。
それを拡大していけばクオリアの圏が組み立てられるのではないか、と考え中。 >>227
主観と客観の曖昧な例として足し算などがあるかもしれませんね。
足し算は客観的世界で有効である一方で、一般的には客観的法則とは考えられていません。
それを客観的法則と考えてもいいかもしれませんが、釈然としないところもあります。 >>223
脳神経の学問では「反射」という、神経のネットワークでは脳の物理層とは
何の区別もなく思考が伴わない応答でしかないでしょ。
前頭連合野には至らず、小脳レベルや延髄レベルで思考をしているそれのことだな。 そうそう
哲学に大事なのは宗教オカルト妄想
物理数学医学は要らん >>234->>235
このスレッドでもどなたかが言っていましたが、
CPUの電流を調べても、CPUの機能はよくわかりません。
その意図された設計を明らかにする必要性があります。
脳科学についても同じようなことが言えると思います。 脳科学はもちろん、哲学の心脳問題にしたって、唯物論の立場に立って話をしないと、拒絶反応を起こす人たちがいるので、学会ではそれを超える話が出てこない。
せめて、ネット上では自由に語られるべきだな。
「オカルト」連呼厨は退散すべき。 >>236
CPUは個々局所は論理回路の歯車がデジタル技術で1つも間違えずに機能しているが
脳は個々局所はデタラメに近いぐらい曖昧に1つが完全に機能しなくても全体としては動く
前者は決定的に動き、後者は必然的に動く、結果として高度な面をみれば
同じ類としてもそれは結果だけであって過程の性質はまったく異なる。
脳を半分失った人や、特定の部位を失った人がリハビリでその失った部分を別の
部分で補い回復するのはCPUにはできない。それは静的に機能しているのと
動的に機能している差である。
AIのベース技術にあるニューラルネットワークの基本問題ですら、多層化した途中の記憶のエングラムは
自己組織化が原理ゆえに問題が複雑になるほど外部からその学習構造を特定できない(状況によって形成が違う)
学習によって結果に収束するパターンをフィードバック系の情報訂正によって最適な関係付けを選ぶからである、
単純モデルでは学習構造を特定できるが、複雑になるとなるほど不可能になる。
学習において「あやとり」のような網目のヒモが入力と出力の間で綱引きをして都合のよい結合状態に
学習するってことです。
故に学習させられることについてはニューラルネットワークは万能であるが、無駄な部分が多いので
容量を超えた学習をさせると情報の関連付けが繋がりの重み付けだけという原理から
秩序が無いものを学習すると簡単に関係性の情報量が指数的に飽和するので学習が困難になり、
秩序があるものを学習するには秩序のみを自動的に抽象化して学習し無駄な部分は切り捨てる回路が
自動生成できます。CPUに比べれば何桁がわからないほど圧倒的に無駄だらけで論理解析で
それらの自動組織化の構造を分析して扱うべきではないです。
中間層で学習した記憶のエングラムは常にアナログ学習であって「たぶん」「もしかして」「よくわかんない」
など意味になりえない、それを意識分類でいえば無意識の機能にあたります。 >>239
CPUも脳も、機能をハードウェアとソフトウェアに分けて実現しているという点では同じだよ
脳にとってのハードウェアとは個々のニューロンで、ニューロンの動作は正確
一方、ソフトウェアには複雑性に起因するバグがあるのはコンピュータも脳も同じ
冗長性の担保に並列化と多数決を行うのも両者に共通する
一般ユーザ向けのコンピュータシステムの冗長性が低いのは、単にコストの問題だよ
神経系でも、脳以外の神経は冗長性が低くて怪我で機能が失われたり
昆虫の脳は柔軟性が低かったりとかあるし
精神病などはシステムとしての脳と心のバグと言えると思う >>234
どうでもいいわけない、直接的に「ハードプロブレム」に答えは出せなくても参考になる知見ではある
>>235
>哲学に大事なのは宗教オカルト妄想
哲学は、宗教オカルト妄想とは全く異なったものだ
哲学に大事なのは「抽象概念」と「論理」によって世界を説明する事
宗教は「物語」や「教義(ドグマ)」によって世界を説明する
科学は反証可能な仮説を立て「実験」や「観測」により厳密で精度の高い法則性を見出すことで世界を説明する
「ハードプロブレム」に対する科学的アプローチの限界は「反証可能な仮説」を立てるのが難しいことと、
問われているのが「どうように(how)」ではなく「なぜ(why)」であるからだと思う
しかし、だからといって「物語」や「教義」による何でもありな説明では不適切だと言わざるを得ない
「ハードプロブレム」の”なぜ”に対しては”反証不可能”な説明であってもかまわない、但し、それは理性の眼差しの下においてである
だからこそ哲学がうってつけなのだ。オカルトはオカ板へ、宗教は宗教板へどうぞ
>>237
>「オカルト」連呼厨は退散すべき。
数学や物理学を敵視する「性懲りのない神秘主義者」こそ退散すべき >>241
お前は、古代インド哲学を誤解している。
あれは哲学だ。宗教やオカルトではない。
あれがダメなら、ショーペンハウアーもニーチェもダメだろ。
扱える話題の範囲があまりにも狭くなる。 >>239->>240
私は、意識とCPUのアナロジーについては着目していますが、
計算機と脳神経系のアナロジーについてはあまり着目していません。
似たようなところはあるのかなとは思っています。
240さんの言うように、計算機もSSDやHDDのように冗長性のある部分では、
欠損にもある程度は耐えられるのかなとは思います。
計算機にとってCPUやOSはクリティカルな部分ですが、
脳神経系にもそういうところはあるかもしれません。
>>241->>242
仏教もインド哲学も脳科学も、ハードプロブレムに関連したことであれば、
許容されていいのではないでしょうか。 主観・主体をS(Subject)、客観・客体をO(Object)とする。
これをつなぐのはMorphismかArrowか、というと、文法っぽいのでV(Verb)にしてしまおう。
OはSにV(写像)する。
O→S
Sは入力としてOの情報を得る。
しかし、OはSの中にある。入力であるという情報もSの中でOにまとわりついている。
Oが外部にあるかどうかなんて、わからない。
SはSの内部にあるOをコントロールする。フィルタリングしたり演算したり畳み込んだりする。
それが S→Oである。
これを文法とみなすなら、Sは「わたし」でなくともよいし、主観的な「わたし」かもしれない。
これをS'とし、Oも内部にあるのだからO'にすると
S→S'→O'(→O)
最後の→Oは、実在するものかどうかはわからない。
「意識」がこれらの→をコントロールできるのか、ただみているだけなのかは先送りするw
ともかく、Sはコントロールする。
それをみているのが「意識」である。
「意識」もまた、S内部でのS'やO'と同じような写像である。
Sをテープとすれば、チューリングマシンとして形式的に動作するものがつくれるだろう。
これに、出力とそれによる入力の変化を加えれば、クオリアもまた、S内部に写像としてつくりだすことができる。 >>245
SにもOにも「'」が存在するのですね。
端的に言って、この「'」は何を意味しているのでしょうか? ▂▂▂▄▄▄▄▄▂▂▂
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://youtube.com/embed/URqZMWEBAtQ?list=UUC9SB7UVkUvmF7tXTXs0umA O 反射、反応
O' 無意識
S' 現象的意識
S アウェアネス
クオリアはO'の領分ではないか?
Oが存在する可能性の根拠はS'の母親のOとS'ではないか?
SはOに含まれてリカーシブファンクションになるのではないか? 爆笑問題・太田
「あいつら言われる前から引きこもってるからな
でも陽性になったら何しでかすか分らん
連中だからな〜」
ラジオでお前らのこと言ってた >>254
https://www.google.com/search?client=firefox-b&q=%E5%BF%83%E3%82%92%E6%98%A0%E3%81%99%E9%8F%A1+%E6%84%8F%E5%91%B3&sa=X&ved=2ahUKEwjg8IOGgdjoAhVRVN4KHbtfAlAQ1QIoAXoECAsQAg&biw=1005&bih=812 >>247
意識や無意識は言語と関わりあっている問題だと思うけどなあ >>257
そう思って、言語ばかり研究してたのが20世紀の哲学者
もう古い >>255
「世界は人を写す鏡」です。
少し違いますね。
>>256->>257
仏教と無意識の関係は気になっています。
>>259
新しい哲学はどのようなものでしょうか?
ルソーも言語に関する著作はありますよね。 仏教は唯識で無意識ほど意識構造が簡単で無学ではない。 >>261
無意識は意識より下位に位置するということでしょうか?
例えば、反射運動は確かに無意識的ですが簡単な現象かもしれません。 無意識というのは意識が無いこと。悲劇で喜劇。霊などが発動する状態。サロンの会話ではない。
高級サロンのはなしな人選がだいじ
。 現代人は密教真言空手など忘れがち。護衛や護身警備にどうぞ。 操気術とか、そういう遠隔支配なら真田家が詳しいかもね。 >>265->>267
仏教に霊のような概念はあるのですか?
浅学ですみません。
護身は柔道が一番いいのかなと思っています。
投げるという行為はあまり人を痛めつけませんし、押さえつけることもできます。
操気術、面白そうですが、本当にあるんですか? 操気団とかもあるよ。西遊記ドラゴンボール。フランス柔道はタッチしないな
密教空手がおすすめなのはそのこと。霊については僕はヨーロッパ人だからそうとしか言えないけどね。幽霊という民俗信仰は日本にもあるでしょうね。 繰気弾ですか。DBですね。
いいですね、密教空手。
ヨーロッパでは霊は一般的なんですか。
それは精霊や聖霊だったりするのでしょうか。
日本では幽霊もそうですが、鬼など、悪い方のファンタジーが豊富かもしれません。
ヨーロッパにも悪魔などの概念がありますが。
私は、良い鬼もいると思っています。 鬼神なんかはいいほうだろうね。でも鬼オーラの貴乃花は素晴らしい。
鬼声 神言など聞こえることもあるよ人間に似てることは少ない。
聖霊 精霊 じゃなく実は 悪霊が手ごわいわけで。よく退治してるけどね。
空体哲学でいうとの様な攻撃は殺してもダメージ与えても逮捕されないから。 良霊 善霊などがいたら癒しになるけど、佳人薄命かもなあ。 鬼神ですか。確かにそのような概念はありますね。
鬼声と神言、どちらも言葉ですよね。
そこに違いを見出すことは難しくありませんか。
鬼は神の模倣をするでしょう?
そして、悪霊こそ、そういう存在かもしれませんね。
空体哲学とは何でしょうか? 日本では幻術とか幻体を振るう軍師も自分もいるけど、般若心経の空が仏教哲学道場で攻撃的になったものといえばわかるかな。中国は妖術ね。 戦場鬼になり切れないという信心はあるでしょうね。神も光を扱う面。 空の思想が、攻撃的になったものですか。
初めて聞きました。
そういう道もあるのですね。
日本は浄土思想が盛んですから、
戦闘に関しては、独特の価値観を持っていたかもしれませんね。 歎異抄はもってます。南無妙法蓮華経、はまあ日本最強かと。
自力作善のおかしいつまらなさはわかりますよ。
阿含宗は公開されてませんよねえ。八正道八坂ね。
僕は妙心寺の寺でねえ。禅宗って考古学と相性が悪くない不可能を可能にとかおもいます。 神のほうが可能が多くが常人ができない不可能なことをしますがあぐらかいてそれが不可能になると悪い相だとか。 ヒンズー仏教とでもいおうか主婦の最高スーパーモデルの鏡カーリーは学識も豊かですね。武芸にも秀で。 戦乱のあとには必ず宗教家が出てくるのが傾向として面白い。 >>246
' は「触角」とか「アホ毛」ですねw
この場合、写像的な意味で使用しています。コピーとかクローンでも可。
すべてを「S」の中に閉じ込めると、「O」そのものは「S」の外部にある。
「物自体」かもしれないので、存在しないかもしれないw
集合のように考えると、Sという集合内にすべてがある。
Oは存在しないかもしれないが、Sの中にO'として写像がある。Sの部分集合。
Sの中にSを置こうとするとSは存在しない(マルクス・ガブリエルを援用w)。
S自身の写像としてSの中にS'がある。
そう考えていくと、O→Sは、Sへの「入力」である。
細かいことはまだ考えていないのだが、なんだかおもしろそうなので適当につくってしまおう。
SVOチューリングマシン。
どこか適当な廃墟スレで適当に発展させてみようw 私は、歎異抄を読んだことはありません。
逆に、聖書は持っています。
他力は大切ですよね。それはわかります。
しかし、まだまだわかっていないと思います。
学術さんは妙心寺の仏教徒なのでしょうか。
仏教に関しては、私は、これから学んでいきたいと考えています。 仏教徒というよりは自分で独立して宗派をもっています。決まった名前はないけど。
仏教は地球の喧嘩番長のような速い戦いの修業を学べばいいと思う。ヒマラヤチベット。 >>285
なるほど。アホ毛であり、コピー、クローンのようなものなのですね。
言語の理想は思考だと思いますから、
言語学的な考察は思考を解明する手掛かりになると思います。 キリストと月の誕生日が同じ、ムハンマドのイスラム教でカリフとして修業、一神教
ヤハウエーはさておき。
八百万の神々や海外の多神教にも信仰を欠かしません。北欧神話に恋人がいて、
ギリシャ神話に嫁がいると。 まあ家庭のことであり宮廷のことであり、戦場のことでもある。妃に立つということは。1さんのルーツも素晴らしいものですよ。 >>282
神は、私は、私達の時空においては、万能足り得ないように考えています。
>>283
カーリー、格好良いですね。
日本の仏教にそういう存在はいるのかな。
>>288
自分の宗派をお持ちなのですか。それは仏教に詳しいでしょうね。
いつか私も仏典を読んでみたいです。しかし、他力は大切ですよね :) >>290->>291
多彩なバックグラウンドをお持ちなのですね。
私は、神話的な世界には憧れます。
私のルーツもいいのですか。ありがとうございます :) 鬼子母神などは有名かな。雑司ヶ谷のほう。
万能全知全能は人に頼られるから傑出した才能魔力速さなどそれでけん引するべきで。
全治などというおかしいことはなあ。不能でもいいのに。 >>294
鬼子母神は、名前だけ知っていました。
不能はいいかもしれません。「不」という漢字は確か「蕾」が由来だと思います。 他者の意識が存在するか否かについては、過去について調べることと似ている。
恐竜は「在った」とされるが、どれほどの痕跡がそれを証明しようとも、我々にはその「実感」が湧かない。
だから過去については、他者の意識と同じように疑いやすい。「科学は誤りで、本当は神が世界を作ったんだ!」というものも、「君が今触っているティッシュペーパーは本当は犬の死骸だよ」と言われるよりは得心しやすいだろう。
或いは、自分の感覚器官で「それそのもの」として認識出来ていない存在は、無意識に自分にとって信じ難いものとなる。
どれだけExcelと睨めっこしても、「そこにExcelというソフトウェアがある」ことを我々は感覚的に処理出来ない。
ソフトウェアの存在や恐竜の存在を我々が受け入れるのは、我々が納得する故である。
だから、意識の存在非存在に関わらず、意識について納得のいく説明や経験があれば我々はその存在を真とするし、疑わしい余地が目につく限りどれほど証拠があろうと自分の目で「意識」を見るまでは疑ってしまう。
他者の意識について悩む者は、その思考様式から変えなければそれを解消することは出来ない。無論、それが悪いということではないが。 >>302
脱文。正確には「〜の存在を我々が受け入れるのは、我々が納得する説明がある故である。」申し訳ないわ 自論としては、少なくとも自分の意識を疑わない限りは他者の意識は存在する。
水素分子と酸素分子を結合させて水を生成する時、その「生成」を実行する人の工程の正確さや周囲の状況が多少違う程度ならこの生成は問題なく行われる。
また、ソフトウェアは同じようなプログラムであれば近しい(巨視的には区別不可能な)動きをさせられる。
ただ、例えばソフトウェアならそのプログラムの差異やハードウェアの調子等々様々な要因で微細な差が出る。
これらの例から、脳と、その各組織の連関によって生まれる「意識」はそのようなものであって、個人差は上の例での「微細な差」だと考える。
他者の意識が存在せず、また自分の意識は存在するというならば、その自分と他者でどういう(「微細な差」以上の違いを生み出す)原因があるのかを提示しなければならない。
「違いがない」ことの証明は悪魔の証明である故に、他者の意識の非存在を主張するのであれば「違いが無ければ同じく意識は生成される」という前提へ反駁するか「違いはある」ことを証明する必要がある。 >>302->>304
あなたの考え唯物論だと思います。
唯物論は「主体」と「他者」という「微細とは言えない差異」を説明できません。
過去に関しては、私のような立場からは、それが唯心論であれ二元論であれ、
「経験した過去」と歴史書のような「経験していない過去」は、明確に違います。
「経験していない過去」に関しては、信頼すべき文献を頼るのがルールです。 脳神経系に関しては、私は、以前にも書きましたが、
それが唯一の意識の座であるとは考えていません。
これに関しては、異論は多々あると思います。:) >>307
「それが唯一の意識の座であるとは考えていません」を
「必ずしも、それが唯一の意識の座であるとは考えていません」に訂正します。 私は、「恐竜はいたと思うか」と尋ねられたら、
「多分、いたと思う」と答えると思います。
「多分」はまさに「そう言っている人は多い」ということです。
便利な言葉ですね。:) しかし、「多分」は「証拠は多い」という意味もあるかもしれませんね。 「意識」に関しては、「主体」に一つのものですから、
「他者の意識」を経験するということはないと思います。
だから、それには多いも少ないもないです。
「他者の意識」と思われるものは、「主体の意識の作り出したもの」だと考えます。 >>305
あなたの考えは、唯物論ではなくて、二元論かもしれません。訂正します。
この分類は難しいですね。持ち出すべきではなかったかもしれません。 私の考えは、多分一般的には唯心論になると思いますが、それもはっきりとはしません。 他人が他人の意識があるということは自分にはわからず、他人が自分の意識があるといっても自分では自分が確認できない。ゆえにわれ思うわれありは間違い。 他人が他人の意識があるということは自分にはわからず、他人が自分の意識があるといっても自分では自分(私)が確認できない。ゆえにわれ思うわれありは間違い。
いつまでたっても他人にもたどり着かないし、
自分の存在を問うことははナルシスティック で意味がない。 >>314->>316
「我思う故に我あり」という言葉は深く、
「故」というものに重きを置いている言葉だと思います。
日本語では「故」と「由縁」は近しい言葉ですよね。
自分の存在は問うにはあまりにも自明だと思います。
「他者の反映が自己である」というのは面白いですね。 色々と考えてみましたが、他者は自己の反映であるから
自己は他者の反映であるということでしょうか?
違いますか。難しいですね。 自分にも他人の意識があるかもしれないし
それも自分にはわからない >>321
私は、一つの意識にもう一つの意識があるとしたら、
それを統合する意識があると考えています。 >>322
自分の意識が下層に位置していてさらに統合されている可能性あるのでしょうか
個人を統合する組織としての意識
統合する意識には下層の意識を認識できるのでしょうか 意識が不明になるのと無意識は違う。不明というより死後にも意識の次が動いているだろう。
身体意識精神意識は交換可能な場合があると思うよ。 身体意識や精神意識が例えば悪魔に飲まれて食われたら悪魔の生のエロスが死の死神をその意識を補うだろう。そのほうがレベルが高く異能だ、悪魔の主体が。
ユングフロイトラカンの様な平凡な学問は良くない。 >>323
二つの意識を統合する意識は経験したことがありません。
人の意識化にある意識的存在の特徴は、自由意志と身体性がないことだと思います。
多重人格も一度に現れる意識の数は一つだったと思います。 >>326
「意識化」は「意識下」のタイプミスです。 >>324->>325
肉体の消滅が何を意味するのかは問題ですね。
これは脳神経系が精神の何を担っているのかという問題と本質的に同じだと思います。
悪魔にも、良い悪魔はいるのでしょうか。
何だか人生を豊かにしてくれる存在のようにも思えます。 低次元というのは種がまだ進化していないとか身体の駆動域が小さい若いとか
他の主体種とくらべてという意味で能力の欠落や欠乏を意味しない。
低次元は除きたかり性暴力とつながっているから気を付けて。 脳神経はあとからできたものだね。人生を生きる楽しむ苦しむ食べる遊ぶ努力するのに必要に生まれてきた。
肉体精神は捕食者に宿り生き続けるものだ。自分が減ること流転することそれを死と呼んだ。
良い心と悪い心は勢力争いをしていて或る時は悪或る時は善が表に出る。個人差生成過程で善悪のバランスは違う。
発心体験などはランダムに起こります。 科学ごときではなにも解決しないとおもうわ。
ペンローズもそうおもってる。
というか文系のわたしからしたら、馬鹿馬鹿しいことこのうえない。
医学だの、神経科学だの、普段調子にのりすぎ。
科学の限界は科学者がまず知るべき。 >>314
>>316
「われ思う故にわれあり」は<自分という存在の確かさ>への問いではないからナルシスティックでもなし、無意味でもないよ
問われていたのは「疑い得ないものはあるか」で、その結果として明らかにされたのが「疑っている私の意識(懐疑)」は疑い得ないということ
世の中で多くの人達から「これは存在する」と”信じられている”ものでも疑う余地が残っていれば、それは不確かなものだ
「自分」も疑えるし「他人Aさん」も疑える、「他人Bさん」も疑える、「物体A」も疑える「観念A」も疑える「現象A」も疑える
しかし、「疑っている自分の意識(懐疑)」そのものへ疑いを向けたとたんに「自身の懐疑への懐疑」という無限の自己言及プロセスが起動する
「疑っている自分」←「を疑っている自分」←「を疑っている自分」←「を疑っている自分」←「を疑っている自分」・・・・・・・・・・・・・・・
このように、どもまでいっても「疑っている自分」が存在し続ける、もしくは途中で止めた場合でもその時点での「疑っている自分」が残ることになる
疑い続けても「疑っている自分」が存在するし疑いをやめても疑われていた存在(自分)が存在する
>自分では自分(私)が確認できない。
デカルトはそこから更に深く踏み込んで考え続けたからこそ「コギト」に行き着いた
「方法的懐疑」を理解せずに踏み込みの浅い思考で「われ思う故にわれあり」をみてるから妙な誤解をすることになる 哲学のモテマニュアル方法から哲学の魔を思うより偶然悪霊に食い殺されて感謝してみろ。
我などあるかいな。 何をあると信じ、何をあると信じないかは意外とあいまいな基準によって行われていると思うよ
特に一般的なことに関しては、他者の存在と多数派であるという理由は無条件に信じている
また、厳密に何かの存在を疑うにしても、議論を行う上で必要なことの内、無条件に信じるしかないことが必ず存在する
何かがあると証明できないなら、それはないのか、それともあるともないとも断定できないのか、という二種類の選択肢がある
自分と他者の類似性と差異についても、肯定する手段、否定する手段が与えられていないことをどう判断するべきなのかという問題がある
意識については、単純で明確で普遍的な定義が得られていない以上、いかなる言明も仮定の上で行っていることだと忘れてはならない
単純な「あるに決まってる」「あるわけない」といった言明は、それだけでもう何が問題とされているかを把握していないことを自白してしまっている >>330
善悪は優劣や高低のように相対的なものだと考えています。
しかし、それが絶対的なものであるという考えも捨てきれてはいないです。
>>332
解りやすい説明ですね。
「疑う」ということは「ある」ということの一形態だとは考えられないでしょうか?
ふと湧いた疑問です。
>>334
「我は空である」という考えはすばらしいと思いますが、
浅学な私ですから、これから精進していきたいと考えています。
>>336
「他者の意識は存在しない」ということは、
「他者の意識を経験していない」ということからの憶測ではなく、
「他者の意識を経験したらそれは他者ではない」という
論理学的なものだと考えています。 >>330
脳神経系は後からできたものだというのは慧眼だと思います。 お前らテレワークになって仕事サボって5ちゃんやってるんだろ >>337
私も、まず心があって、その器として脳神経系が作られたと思うのです。
ファンタジーですから、あまり言いませんでしたが。 >>341->>342
暇があるから、考えは深まるわけで。 >>332疑ってない自分、他のこと考えた自分、
何も知ることができない自分、他の人にそれは間違いだと言われてる自分、押し通してる自分、信じてる自分、信じてない自分、不安の自分、…広がるのでわ? 学術が口だけなのは治っていないぽいな、
自尊心の塊では自己満足だけだよ >>336 の >>336 へのアンカーは >>335 へのアンカーが正しいです。 >>319 、>>320 からトリップを付けています。 「私だけのものがある」という考え方は失敗すると思います。
私秘性、クオリア、意識……
「他者の意識は存在しない」ということは中間的段階です。
そこから私達は「本当は主体の意識の作り出した他者」と
コミュニケーションすることになります。
私の考えでは、そのヒントは「子供の頃に還ること」です。
今まで身に付けてきた様々な考えを無かったことにすることです。 暇人サラリーマンかよおまえら。もしくは休んでも金がもらえる公僕。 >>351
形而上的な話をしていると、なぜかヒマ人よばわりする奴が哲学板に常駐しているが、そんな奴がなんで哲学板にいるのか?
他のとこに行けよ(笑) そういう奴は、哲学ってものを誤解してるんじゃないのかな?
非常に狭い範囲でしか見ていない
まあ、そいつの知的レベルの限界だから仕方ないんだが 991Mr.名無しさん2020/04/09(木) 23:57:27.24
次
雑談 禊健太郎(波平)、来年で40歳職歴無し
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1515930103/l50 >>351
私に言えることか解りませんが、博愛の精神で。
時間のある会社員や公務員は歓迎します。 >>354
>>355
博愛の精神を。
>>356
どうしてほしいのですか? :) 悪者を愛することは、悪を助けることではなくて、悪を正すこと。 >>354
他のところでも迷惑を掛けるかもしれません。:) 博愛のことを考えていたら、
ラッセルのパラドックスの変種を思い付きましたから書いてみます。
自殺しない全ての人を殺す人は存在しない。
何故なら、そのような人は自殺するなら自殺しない人を殺すという定義に反するし、
自殺しないならそのような人を殺すのだから矛盾するからである。
自分以外の自殺しない全ての人を殺す人は存在すると思います。 自我意欲などを拡大するのは正常と思うけど隠棲したらその醜さが変わるね。 言語を媒介として現実の体験や行動を表象しそれを媒介として恋人同士や夫婦家族で
コミュニケーションをとるべきで、口だけというやつは有言実行だけの誰も興味を持たない
無能だろうねえ。繁殖にも失敗するだろう。言語 言を与えられたのは人間だけではない。
人間はあとからその世界に参加している。違った主体同士が軋轢の中で生み出したものを
使わないのはつまらない禁句をいう世間知らずだ。 他者をうまく表現し、自己で他者を鏡のようにうつすこと。 自己の分身つまり子供を伝えることをしないで結果理解してもらえないのは寂しいことだ。 言語を媒介として現実の体験や行動を表象しそれを媒体として恋人同士や夫婦家族で
コミュニケーションをとるべきで、口だけというやつは有言実行だけの誰も興味を持たない
無能だろうねえ。繁殖にも失敗するだろう。言語 言を与えられたのは人間だけではない。
人間はあとからその世界に参加している。違った主体同士が軋轢の中で生み出したものを
使わないのはつまらない禁句をいう世間知らずだ。 >>363
日本語は上手くはないですね……
>>366
「口だけというやつは有言実行だけの誰も興味を持たない無能」などは
意味がよくわかりません。英語で書いてもらってもいいですよ。
Please write in English if you want.
>>370
時間があるのはいいことです。 >>366
あるいは「無能」とは仏教的な概念でしょうか?
一般的には人を貶す言葉です。 最初に言ありき から 実行してるだけじゃないのがユダヤキリストイスラムじゃないのかな。
ドイツ語の作文は習ったけどなあ。
Words change the image.move with song dancin. 行動に折節が無いとか心臓の鼓動が連動しないのが言葉ない行動。words is sounds.
,ィ⊃ , -- 、
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{ ヽ / ∠ 、___/ |
ヽ. V-─- 、 , ',_ヽ / ,'
ヽ ヾ、 ',ニ、 ヽ_/ rュ、 ゙、 /
\ l トこ,! {`-'} Y
ヽj 'ー'' ⊆) '⌒` ! 学術は死刑!
l ヘ‐--‐ケ }
ヽ. ゙<‐y′ /
(ヽ、__,.ゝ、_ 〜 ___,ノ ,-、
) ノ/`'ー-' <
r'/, _.. // l、、、ヽ_)
ゝ(_/_ノ´ /ヽ_ノ/ __,l ヽ)_)‐'
{` ーニ[二]‐ク′
〉 / /_
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(____ノ--
学術くんは文章の書き方から練習した方がいいね。
ちゃんと意味の通る文章が書けないと議論ができないよ。
『日本語の作文技術』本多勝一(朝日文庫)という本をお勧めする。 >>374
yuugen jikkou to iu nihongo wo gokai shiteiru no kana? :)
>>375
anata no eigo mo yoku wakarimasen.
>>376
それはない。:) >>377
読んでいなかったです。そうですね。もっと日本語を勉強するといいと思います。 >>336
>「他者の意識は存在しない」ということは、
>「他者の意識を経験していない」ということからの憶測ではなく、
>「他者の意識を経験したらそれは他者ではない」という
>論理学的なものだと考えています。
ここは自分の意識こそが自分自身である、という定義に基づいていると考えられるが
それは意識や自分自身というものに対する抽象化が行われた結果ではないか
意識や自分自身が絶対無二の独自性を持っているというのは、ただの仮定に過ぎないかも知れない >>381
確かに意識や自分自身は抽象化された概念だと思います。
主体にまずあるのは、現象、経験であり、そこからそのような経験をする
主体、意識、自分自身という概念を獲得するのだと思います。
デカルト的に言えば、我のあることより、我の思うことの方が先なわけです。
だから、そういう意味では、主体、意識、自分自身の独自性、絶対性は、
論理学的な公理のようなものです。
例えば、ユークリッド幾何学の公理は、様々な幾何学的経験より後に
得られるものですが、論理学的には、様々な幾何学的経験より先にあるものです。 暗号文を書いたり解読したりできないとか、
西洋東洋日本古典ができてないとかあほなのはお前のほうだ。
その本は首席で発行してない簡単なやつだ。
記述試験もトップで論文も首席で通ったが?
意味の通る現実などない。現実を言葉にうつすとき意味が分かるとかは現実逃避の
こじつけに過ぎない。 自分は他人にとって他人なんじゃないの?自他より他他 自分を考える他人を想定するとコミュニケーションが途絶している。 >>381
悪態は慎んで下さい。
暗号文を書く必要性はありますか? :) すぐに読めるものから覗きやたかり暴力に荒らされると思う。 汚い言葉でののしるとかを抑圧して善さにかまける哲学文学は嘘つきなのでは。 >>389->>391
不当に誰かを傷付けること。これはあってはいけません。
大抵の悪態は良い表現に置き換えることはできます。
そうしなければ、自分も悪態に飲まれると思いますよ。 >>382
意識や自分自身が抽象的概念だとして
ならば具象的なものは何なのかを考えざるを得ない
意識とクオリアは共に抽象的概念で、それぞれが相互に定義に入り込んでいると考えられる
意識から離れたクオリア自体、クオリアから離れた意識自体というものは考えがたい
むしろ意識はクオリアの集合体なのでは、とすら考えられる
意識とは何なのかという問いは、クオリアとは何なのかという問いと同義ではないか
ならばクオリアとは何なのか、具象的な説明は何なのか?
クオリアとは、感覚に伴う心理的な質感と定義できるが
この質感を分解してみると、生まれつき備わっているものと、後天的に得られたものがあるのではないか
高い音の高さという感触、赤い色の赤さという感触は、経験によって得られるものではないとはいえ
これらは他の音、他の色の体験によって、比較によって得られるものとしての性質も持つ
即ち、クオリアは記憶でもある
そしてこの比較可能性が、具象としてのクオリアを語り得るかの鍵になると思われる 人の意識は、感覚に対する比較が始まった時に、時を同じくして始まったのではないか
そしてその比較結果は記憶され、新たな比較の根拠となる
こう考えると、記憶なしに意識は成立しないということになるが、これは妥当だろうか? >>394
私はクオリアという語の使用に関しては慎重です。
何故なら、赤という語が既に赤のクオリアを指し示していると考えるからです。
そして、意識とは「クオリアする」主体、経験する主体だと考えます。
そういう意味では、意識はクオリアの集合体であるという考えとは、
少しずれがありますが、そういう前提で議論を進めることは可能です。
クオリアは先天的か後天的かは難しい問題ですね。
もし私が幼少期に様々な赤を経験していれば、
赤に対して多様な分類をするように成長していたかもしれません。
「比較可能性が具象としてのクオリアを語り得るかの鍵になる」とは
どういうことでしょうか? はっきりとしたことは解りませんでした。
詳しく説明して頂ければありがたいです。 >>395
あり得ると思います。
記憶のない意識は少し考えられません。 >>396
クオリアという言葉の意味はあまり明確ではないと思うので、慎重になるのは理解できる
ただ、意識を直接説明するより、クオリアを使う方が説明は容易になるのではないか
言葉がクオリアを含意しているのであれば、言葉の差異はクオリアの差異でもある
個々の言葉自体の持つ主観的意味は、究極的には語り得ないが
文として組み立てられ結び付けられた時に客観性はより明確になる
様々な形容を組み合わせ、意味を限定することで、他者に伝達可能になる
クオリアについても、個々のクオリアに注目してもそれが個人にとってどのような感じであるのか、他者には伝わらない
何らかの意味の限定をしなくては、他者と共有可能な概念にならない
そして意味の限定は、相異なるクオリアの比較によって可能になるのではないか
抽象的なクオリアや言葉の具象化は、比較による形容、形容による意味の限定によって可能なのではないか
全てを語れるわけではないが、語れることは何なのか、それを探している クオリアという語が普及しているのは、それなりの理由があるのだと思います。
人々がそれについて語りたくなる何かがあるのかもしれません。
それが何であるかは私は問題だと思います。
言葉は存在(クオリア)の上を統べるものであり、存在自体ではありません。
私達が共有しているのは言葉自体と言葉のコンテクストだと思います。
クオリアに関しても、驚く程単純であるのにも関わらず、それを理解するためには、
多くを語らずを得ず、文章というものはやはり重要なのだと思います。
「相違なるクオリアの比較」とは何でしょうか?
この部分だけは、はっきりとは理解できませんでした。 人間は物事の変化を認識する、つまり比較によって物事を認識している
クオリアのような他者と認識を共有できないようなものに対しても、比較が成り立つような捉え方ができれば伝達可能かと考えたのだが、考えが甘かったかも知れない
比較によって認識しているということは、自己の認識においてもそうであって
もし揺るぎない不動不変の自己というものがあっても、それを自己とは認識できないのかも知れない
何らかの「他者性」を自らの内に認めることによって、逆に自分自身を認識することが可能になるのではないか >>398
>意味の限定は、相異なるクオリアの比較によって可能になる
人間関係のアナロジーで解釈したら分かりやすいかもと思いながら
「私の意味(私とは誰なのか?)」が限定(決定)されるのはどんな時か考えてみると
私の子との比較関係でみると「私は(この子の)父である」という意味に限定(決定)されるし
私の父との比較関係でみると「私は(この父の)子である」という意味に限定(決定)されるというように
あるクオリアもまた他のクオリアとの比較関係によって意味が限定(決定)されるってことかな?
例えば赤なら、色における「差異の体系」の内での相対的位置(意味)が他の色との比較関係で決まる
音でも味でも匂いでも形でも同じように「(色・音・味・匂い・触圧)の差異の体系」の内で他のクオリアとの比較関係によって
相対的位置(意味)が限定(決定)されるみたいな感じ
意味の限定→私の意味(私とは誰か?という限定)
相異なるクオリア→私ではない他者
比較→比較(関係)
と変換して考えてみた解釈なんだけど、こんな感じで合ってる? >>400
確かにそうですね。
他者が存在するから、私はある人なのであって、
他者が存在しなければ、私はある生物という一般的なカテゴリーに収まりそうです。
現象、経験とクオリアの違いは、現象、経験は「対象の動作」であるのに対して、
クオリアはどちらかと言うと「主体の行為」であるということだと思います。
そのような比較からクオリアをある程度は語ることはできるかもしれません。
>>401
解りやすい説明、ありがとうございます。
「私」と「他者」という「比較」あるいは「差異の体系」から、
クオリアを語ることはできるかということですね。
私の考えでは、「クオリア」と「存在」は本質的に同一的です。
しかし、使用の規則が異なります。
例えば、「無意識」は「非クオリア」ですが「存在」です。
本質的には「無意識」は「非存在」でもあると思います。
しかし、「存在」という語はそのような語り方を許されています。
多分、「存在」という語は様々な階層を自由に行き来するのだと思います。
だから、「無意識」は「クオリア」であるという語り方も、
規則さえ変更すれば、可能であると考えます。
確かにそれは「クオリア」です。
もし「クオリア」でなければ、語ることはできないと思います。 他者が存在するしないとはどういことかな?
自室に一人でいる時は「他者が存在しない」と言っていいのか?
無人島で一人で暮らしている人の場合はどうか?
どうなったら他者が存在しないと言えるのか?
記憶の中に他者がいれば、それは他者が存在することになるのか? >>405
一番解りやすいのは、視覚などの感覚で他者を捉えて他者を認識する時、
「他者は存在する」と言えると思います。
記憶上に他者が存在する時は、そのように言う方が自然だと思います。 >>406
しかし、ありありと他者を想像する時、他者は存在すると言えるかもしれません。 >>57
自由意志は準拠枠にもとづく偶有性じゃないの? >>408
ペンを取ること、本を読むこと、食事を取ること、
全て自由意志によるものです。 >>65
全ての述語を共有する主語か
ライプニッツのモナドだな >>409
その自由意思に必然性はないよね
全ての選択は環境に規定されているんじゃないのかな >>408->>409
それらは偶有性でしょうか? >>410
アンカーミスではありませんか?
ライプニッツのモナドは、今後学びたいと思うことの1つです。
>>411
人は環境に支配されているのでしょうか?
しかし、物理学も量子力学やそれを超える理論となると完全ではありません。 >>403
解りやすく説明すると、
「無意識は存在である」と「無意識は非存在である」ということは
どちらも正しいです。そうだとすると、
「無意識はクオリアである」と「無意識は非クオリアである」ということが
どちらも正しくなるような規則も可能だということです。 >>405
>他者が存在するしないとはどういことかな?
他者が存在することと自分が存在することは同時に起こる事態である
「自分の存在」は「他者の存在」を前提としてるし
「他者の存在」は「自分の存在(他者にとっての他者)」を前提としていて互いが互いを前提にしてる
ここからそこまでが自分という領域だと境界線を画定した瞬間、同時に自分以外(他者)の領域も自動で勝手に成立することになる
(包摂と排除は同時に起こる)
>自室に一人でいる時は「他者が存在しない」と言っていいのか?
例えば目の前にコップがあったとする、それは自分ではない物(他者)として存在している
>無人島で一人で暮らしている人の場合はどうか?
無人島でもそこに自分ではない物が何かあれば、それは他者として存在しているものだ
>どうなったら他者が存在しないと言えるのか?
自分が存在していなければ他者も存在してないと言える、なぜなら自他は共起的に生成されるものだから
>記憶の中に他者がいれば、それは他者が存在することになるのか?
記憶の中でも他者がいれば、それは他者が存在することになる
他者は必ずしも人間や他の生物である必要はない
もし単なる他者ではなく「社会的な他者」ということであれば”社会的な関係を取り結びうる何か”があれば、それが「社会的な他者」だし
”社会的な関係を取り結びうる何か”が存在しないなら、そこに「単なる自分」や「単なる他者」が存在していたとしても
「社会的な自分」や「社会的な他者」は両方とも存在していないことになる 私は、クオリアという概念は存在という概念の焼き直しだと考えています。 >>415
私は、自分と他者を人間を「包摂と排除」するものだと考えていましたが、
確かに、存在一般において「包摂と排除」するものだと考えることは可能だと思います。 >>401
音と音楽についての関係のようなものを考えていた
単体の音の高さというのは、どう感じるのかについて語りづらい
しかし音が複数連なってメロディーをなす時には、何か語れることがあるのではないか
メロディーは音の相対的関係であって、音階をずらしても同じだと感じられる
そして、なぜか楽し気なメロディー、悲し気なメロディーというのは異なる人の間で共感できる
それが文化的な基盤の上に成り立っているのか、そういうものとは無関係なのかは考察が必要だが
比較可能な物事は語り得る
意識やクオリアのようなものについてもそれが成り立たないかと考えてみた 比較可能なものは語り得るという考えは面白いですね。
クオリアも非クオリアを通して、理解されるものだと思います。 非クオリア、非存在とは何か。
それが全ての存在だとすると、それは「無」です。
ある種の存在、例えば本棚の本だとすると、それは「不在」です。 >>418
決定的な答えではないかもしれませんが、
楽しげなメロディ、悲しげなメロディは連想によるものだと思います。
速い、遅いは、楽しい、悲しいと結び付けられやすいと思います。
もし私達の文化が、速い音楽と悲しい場面を結び付けていたら、
速い音楽はそのように感じられるのではないかと思います。 >>417
上位カテゴリー(人間と他の生き物たち)も下位カテゴリー(自分と他者たち)も<包摂=排除>の境界線画定運動(分節化)によって差異の体系がつくられる
これが「存在の共起的生成(存在の喚起)」だと考えている
分節化は恣意的(気まま)で必然性がないように見えるが、これはランダム(不規則、出鱈目)なのではなくカオス(複雑な秩序)のように見えることと
上位-下位という異なるカテゴリー間を移行する際に、その境界面で影響を及ぼしあう制御法則があるのか?あるとすればどのようなものか?などが
まだよく分からなくて気になるところだと思う
>>418
>しかし音が複数連なってメロディーをなす時には、何か語れることがあるのではないか
音における差異の体系(=個々の音たち)という下位カテゴリーと
その音たちの連なりによって成るメロディーにおける差異の体系(=個々のメロディーたち)という上位カテゴリーの間で
影響を及ぼしあう法則や規則について何か語れることがあればいいなと思う
下位→上位は難しそうだけど上位→下位なら何か語れることはありそうな気がする >>413
>1つの阿頼耶識に複数の意識が接続しているということなのか。
アンカーミスではないですよ
ライプニッツの概念と同じ構造を共有しています >>408
ぼくが、自由意志は幻想だと言う時は、
自由意志が、二元論的に扱われていそうな時に、そう表現しています >>422
「存在の共起的生成(存在の喚起)」は面白い概念だと思います。
これは「比較可能なものは語り得る」という考えと類似したものですね。
人のカテゴリー化はどのように行われるのかは難しい問題ですね。
それは分類学のように厳密なものではなくて柔軟なもののように思えます。
>>423
失礼しました。
ライプニッツと阿頼耶識の関連性のあることは興味深いです。
どのような関連性があるか詳しく語って頂いてもいいですか?
ライプニッツの著作はいつか読んでみたいです。 ライプニッツの著作は読んだことはありませんが、
モナドについては聞いたことがあります。
確かにそのことはモナドと構造的な類似性はありますね。 >>425
>ライプニッツの著作はいつか読んでみたいです。
「モナドロジー」はとても短いので、ネット上でも全文が掲載されている(英語版だけど)。
日本語でも、本屋で軽く立ち読みできる長さ
http://www.rbjones.com/rbjpub/philos/classics/leibniz/monad.htm >>403
間違いがあります。
「現象、経験」は「現象、存在」が正しいです。
経験はどちらかと言うと「主体の行為」です。 >>430
お前ストーカーも大概にしろよ
行く先々に現れやがって
そこまで俺に執着する理由はなんだ?
まあ、大方、嫉妬だろうがな 短文の批判は論証にはならんよ。
敵陣形を図象で浮かべてシミュレイトできるぐらい花である頭脳は好戦的なものだ。
頭をどう使うかは哲学の統率にも関係があるが。 好戦的なのは、常に好戦的で
そういう態度しかしない 699 :学術 :2020/04/13(月) 13:37:53.98 0
さっき本当に嫌なことがあった
父親がマクドナルドいくから何かいるかと言って
俺はテリヤキが欲しいといった
でも父親はそれを忘れていて普通のハンバーガー買ってきた
いつもならそれくらいで腹立たんが
今日はイライラしててめちゃくちゃ喚いてしまった
ハンバーガーも目の前で捨ててやったそしたら母親が泣き出して
俺もさすがにヤバイと思った父親はもう一回買ってくると言ったが
俺はもういらんわと言って自分の部屋帰ってきた
もうすぐ30になる。俺生きてる意味あるのか 平和なら理知的に統治するのがおすすめだ。しかし平和というても地域紛争や
殺人暴力事件で頭が痛いだろう、犯罪者側も刑務所や病院の懲罰房に恐怖しながら生きるしか現行の法制度や政治制度では可能性がない。その面で平和主義も陰口をたたかれることも多い。
戦争主義というのがあれば戦いにみんな出ていけるし刑務所や病院からも、殺しや暴力とやかく言われない。さきほどの恐怖もない。 つまらんコピペだな
なんで学術のレスみたいに工作してるか知らんが 他者の意識が存在しない根拠ってもう述べました?
根拠を提示する義務は当然、主張した人にあります。100くらいまでレスを見ましたが根拠の提示は確認出来ないので、議論がしたいならまずあなたの立場だけでなくその理由も言いましょう。
意識についての雑談がしたいだけであれば面白いのでそれはそれで付き合いますが、議論がしたいと言うからには体裁は守った方が効率的です。
私は意識も単なる現象として扱う物理主義派です。なぜなら、「他者と自己で違った見え方をする理由が、単に自分が完全な客観にはなれないだけでしかない」と思うからです。
自分から見たら、他者は(少なくとも今の技術では)経験できません。だから「無いようにも見える」。
自分から見れば自分は特別です。無意識にそう感じるのは1つの主観的意識として必然です。
ですが、それは他者の意識が無い根拠にはなりません。猫が箱に入っていても中身を知る手段が無ければ猫はいないことになる、と言うなら別ですがね。
思うに、現実世界を感覚器官を通して投影・模写することで我々の脳内に「認識世界」、表象が出現します。観念論でいう仮象世界であり、我々にとっての外界です。
あなたの表象の中には、あなたが知っているものしか入っていませんし、あなたが知らないもの、あなたが信じないものはありません。
そしてそれを塗り替える(推測や知見で以て想像として作られた表象をアップデートする)ものとして最も強いのが経験なのです。
先の例を利用して、例えば箱の中に木の枝が入っていると予想したとします。
あなたの中では確かにその箱は木の枝を入れた箱で、中身は木の枝でした。しかし箱を開けて中身を見れば、そのような「可能性」が吹き飛ぶわけです。
他者の意識の有無はこのような木の枝と猫の関係に似ています。
結局経験出来なければ答え合わせは出来ないのですが、私は、例えば化学実験でも多少環境が違う程度であれば同じ元素が出来る故に、意識は存在すると予想します。
私にあって彼にない、その理由が無いのです。
あなたはどうお考えですか? 自我というのは他者の残像だ。それを確認することに取り立てて意味はない。ナンセンスなものが自己。他者のほうに希望あり。 >>440
私の考えでは、主体が他者の意識を経験すれば、それは他者ではありません。
一つの意識に二つの意識がないこと、これは公理のようなものだと考えています。
図式的に説明してみましょう。
主体の意識と他者の意識の存在することを仮定します。
(主)(他)
それらは主体の意識の内側にあります。
(主(主)(他))
一つに意識に二つの意識が存在することはありません。
(主(主)(主)) 他者から生まれたものが自己で、他者がいないと存在できない。自分一人だと発狂するぐらい自我は脆弱。 >>440
存在に関しては、>>403 あたりを参照してみて下さい。 >>441
>>444
学術さんの自我観は面白いですね。
私の考えでは、自我と他我という対立は、自我の消滅によっても消滅しますが、
他我の消滅によっても消滅します。
学術さんは前者で、私は後者なのだと思います。 いろいろなものが、ほどよく混同されていると思います。
しっかりはっきりと基準を明確にして論理的に言明されることを望みます。 >>440
箱の比喩を使うなら、箱を開けたら主体がそこにいたということですね。:) >>440
>>403 には間違いがあって、それは >>429 で言及しています。 >>449
掲示板の属性上、様々な論述が交錯するのは仕方がないのではないでしょうか。
そして、それは魅力でもあります。思いもしない発見がありますから。
>>452
ありがとうございます。そう言ってもらえると励みになります。 >>438
戦争主義は恐ろしいですね。
人の本性は平和だと思います。
過ちを正すためであれば戦争は許されるという考え方もありますが、
この考え方が戦争を生むわけです。
人々は過ちを正せる程、十分には賢くはないのかもしれません。 そう考えると、戦争行為はある種の全体主義の結果なのかもしれません。 仮に戦勝国であっても、戦争行為はある種の全体主義だということです。 戦争がなくならないのは思い上がりと全体主義のせい。 思い上がりの自由を認めるのであれば、全体主義を否定すべきなのかもしれない。 >>442
他者であってもそれは主体であり、自分であっても主体である。
自分から他者の集合をみてもそれが客体だからというのは主体思考のままで
何の違いもない。 >>442
>主体が他者の意識を経験すれば、それは他者ではありません。
これは他者の意識が存在しないという事を保証するものではありません
他者の意識が存在するのか存在しないのかを確かめる方法がなければ
存在するか存在しないかは分からないままです
もし仮に「他者の意識を経験すること」がその存在を確かめる唯一の方法だったとしても
(その他者の意識を)経験する前にあった「それ」が”他者の意識”なのか”存在しないもの”なのかは不明なままです
他者の意識の存在の有無を確認する方法はあるのか?あるならどんな方法か?
そもそも意識とは何か?
についての考えを教えてほしいです >>461
「一つの意識に二つの意識はないこと」は公理のようなものです。
それは全くの無条件とは少し違うのではないかと考えています。
>>462
それに関しては、存在について述べた >>403 あたりを参照してもらえたらと思います。
>>403 には間違いがあり、>>429 で訂正しています。
そこでは、存在という語の特殊性について述べています。 他者の意識を確認する方法についてですが、例として視覚について考えてみます。
他者の視覚を、コンピュータのサブウィンドウのように、
主体の視覚に映すことは可能でしょうか?
仮にそういうことがあるとしても、>>442 で述べたように、
それはあくまで主体の視覚として経験されると思います。 >>465 は >>462 さんへ宛てたものです。 >>462
「意識」に関しては、「現象」、「経験」、「存在」、「クオリア」と
本質的に同一的な概念だと考えています。 >>461
私の考えでは、「他者の意識は存在しない」ですが、
「他者は存在するか」という問いに変換すると曖昧な感じはします。
それは客体としては存在すると思います。 >>465
自由意志に関しては、性質として唯一的なものであると考えています。 多重人格を以って、他者の意識の存在することを主張することはできるでしょうか?
私はそれでも変わらないものがあると考えますが、難しい問題だと思います。 >>465
カーツワイルによれば、これからの時代はそれが最高の娯楽になる
ハワイのサーファーのクオリアを自分の脳に移して楽しむとか >>471
科学の進歩はすごいですね。:)
視覚の電気情報を舌に15分与え続けると、
舌で見えるようになるという記事を見かけました。 >>472
もしそれが正しいとすると視覚障害の問題のかなりが解決しそうですが、本当かな? >>465
他者の意識を確認したとたんに、その他者の意識は自分の意識になってしまうので「それは他者の意識ではない」というだけの話でしかないですよね
つまり、観察・確認する行為自体が観察対象に影響を与えて「観察対象(他者の意識)」の在り方を変形してしまっています、方法が不完全なだけです
これでは他者の意識は存在するかもしれないし存在しないかもしれない、つまり分からないままですよね
「他者の意識の存在の有無を確認する方法」が不完全であることは「他者の意識が存在しない」ということを僅かばかりも保証するものではありません 自分の意識は他者の意識なので自分の意識が確認できれば他者の意識も確認できた事になります >>467
意識はある種の現象ですが現象の全てではありません
意識する事はある種の経験ですが経験の全てではありません
意識はある種の存在ですが存在の全てではありません
よって、現象⊂意識、経験⊂意識、存在⊂意識とは言えても「本質的に同一的な概念」とは言えません
本質的に同一であるためには「意識ではない現象」「意識ではない経験」「意識ではない存在」があってはいけません
「意識=クオリア」は可能性としてあるかもしれませんが、その場合「意識されるものは全てクオリアであり、且つ全てのクオリアは意識可能である」が証明されなくてはなりません >>474
本当ですか? :)
>>475
「他者の意識を確認すると」という考えは既に他者の意識が前提です。
正確には、「他者の意識の存在を仮定すると」です。
それが、>>442 で述べたことです。
存在に関しては、>>403 あたりを参照してみて下さい。
>>476
斬新な考えですね。:) >>477
「本質的に同一的である」とは、その本質において同一的なところがある
ということですから、多分、正しいと思いますよ。
しかし、これは「本質的に同一的である」ということの
定義に関しての問題ですから、あまり重要ではないと思います。
それこそ >>477 さんのように考えても本質的な違いはないと思います。:) >>479
それではその本質は何かというと、それは「全て」という概念です。 「他者の意識は存在しない」より「他者の意識は存在し得ない」の方が
正確かもしれないと思い始めました。 「証明する方法がないこと」と「存在し得ないこと」は同等であるかは
面白い問題だと思います。
直観主義などにも関係するかもしれません。
まだまだ学ぶことはたくさんあるように思います。
しかし、本質を忘れてはいけません。 >>479
>「本質的に同一的である」とは、その本質において同一的なところがある
(意識と現象・経験・存在・クオリアの間に)”共通する性質”がある場合
その”共通する性質”が「本質として同一的」なだけであって
意識、現象、経験、存在、クオリアが(467に書いているように)「本質的に同一的な概念」というわけではありません
意識、現象、経験、存在、クオリアに共通する性質(があるのなら)その性質を”(意識・現象・経験・存在・クオリアの)本質”と見做せるだけです
複数の異なる概念の間に、ある共通する性質があって”その性質”を本質と見做すことは正しいですが
ある性質を共有する複数の異なる概念があり、それら複数の異なる概念を「本質的に同一的な概念」と見做すことは間違っています >>483
そうでしょうか。物事にその本質において同一的なところがある場合、
それらは本質的に同一的であると、私は考えます。
しかし、先程も言いましたが、言語の使用の問題に過ぎないと思います。:) >>484
と言うのも、「本質的に同一的である」と言う代わりに、
「その本質において同一的である」と言っても変わらないからです。
長くはなりますが。:) >>478
>「他者の意識を確認すると」という考えは既に他者の意識が前提です。
>正確には、「他者の意識の存在を仮定すると」です。
話が噛み合ってないように見受けられます
475に「他者の意識を確認すると」という文言はありません「他者の意識を確認したとたんに」の部分のことを言っているのでしょうか?
しかしそれだと修正後は「他者の意識の存在を仮定すると、その他者の意識は自分の意識になってしまうので……」となり意味の通らない文章になってしまいます
「他者の意識の存在を仮定すると」の後に続く文章は何ですか?
442にある「私の考えでは、主体が他者の意識を経験すれば、それは他者ではありません。」について
>主体が他者の意識を経験すれば
こちらも「他者の意識」が前提になっているように見受けられます >>485
「その本質において同一的なところがある」の方がさらに正確ですね。 >>486
失礼しました。
「他者の意識を確認したとたん」の部分です。
それは「他者の意識の存在を前提にしている」ということです。
文章を入れ替えるという意味では必ずしもありません。
>>442 の該当部分についても、それが仮定であることを
明確にした方が良かったかもしれません。
「仮に他者の意識が存在するとしても、それを経験するのであれば、
それは他者の意識ではない」などが良かったかもしれません。 >>488
解りやすく言うと、「他者の意識の存在の仮定」は背理法的な仮定だということです。 んー。なんかおかしかったのはただたんに言葉足らずだったということですね。
おれもおかしなところを指摘しようとしていて先を越されたw
でも、「他者の意識など存在しない」というのは、とても、お・も・し・ろ・い。
もったいないなぁ。
とりあえず、おれがもらっとくw
公理的集合論から正当化できると思う。(ま、マルクス・ガブリエルがやっちゃってるけどね) >>490
正確さは大切ですね。シンプルに語ることもエッセンスが凝縮されて好きですが。
おもしろいと思ってもらえて良かったです。
本気で盗る気であれば、わざわざ書き込まないと思いますよ。:)
私の考えをさらに発展して頂けるならそれは喜ばしいことです。
マルクス・ガブリエルは知りませんでしたから、ちょっとGoogleで調べてみます。 >>488
>「仮に他者の意識が存在するとしても、それを経験するのであれば、それは他者の意識ではない」
こうも言えませんか?
「仮に他者の意識が存在するとしても、それを経験するのであれば、それは他者の意識である」
(”私の意識”が「それを経験するのであれば」私の意識と”それ”は統一されて<私の意識=他者の意識>という1つの意識となります
なぜなら「それを経験するのであれば」というプロセスは「私の意識/他者の意識」という二項対立の構造を壊すからです
ここでもし、それを経験するのは”私の意識”ではなく”私”であるから”私”によって経験されたなら「それ」は他者の意識ではなく「私の意識」だ、と言ってしまうと
「私」と「私の意識」は分離不可なものとなり、それ故に「他者」と「(あるならば)他者の意識」もまた分離不可となって”私”が「それを経験するのであれば」が不可能になります
「私」と「私の意識」及び「他者」と「(あるならば)他者の意識」が分離可能なら「私が(あるならば)他者の意識を経験すること」が可能であり「私は私であるにもかかわらず、それは他者の意識である」となります
無理にでも(分離不可のまま)「それを経験するのであれば」を通すと「それ」を”私”が経験したことによって私は<私=他者>となり、<私=他者>に経験されている”それ”は「私の意識=他者の意識」となります)
「それを経験するのであれば」が引き起こす結果は「それは他者の意識ではない」だけでなく「それは他者の意識である」もあり得ます >>488
もう一つ考えてみます(似てますけど)
将来的に何らかの技術で他者の”知覚”を主体(私)が経験することができたとしても
そのことは「それを経験するのであれば」に該当しません、なぜなら経験されたのは「知覚」であって「意識」ではないからです
知覚の経験とは異なる(意識についての)「それを経験するのであれば」という事態は想像を絶するものであり「私の意識/他者の意識」という二項対立の構造を崩します
(この時<私の意識=他者の意識>となり「仮に他者の意識が……であれば、それは私の意識であると同時に他者の意識である」となる)
更に「それを経験するのであれば」という事態は「一つの意識に二つの意識はないこと」という公理を不成立なものにするのです
(「それを経験するのであれば」が可能であるなら「一つの意識に二つの意識があること」も可能である)
もしこの公理(意識は一つ)が成立するとして、なおかつ<私の意識=他者の意識>を否定しながら「それを経験するのであれば」を無理に押し通すと
その事によって生じる結果は1つではなく、2つの結果が確率的に現れます
確率的にA:「仮に他者の意識が存在するとしても、それを経験するのであれば、それは他者の意識ではなく私の意識である」(私の意識の勝ち)
確率的にB:「仮に他者の意識が存在するとしても、それを経験するのであれば、それは私の意識ではなく他者の意識である」(他者の意識の勝ち)
よって「私の意識」と「他者の意識」の実在は不確定であり「それを経験するのであれば」を経ないと存在の有無がどちらにも確定しない
「他者の意識」は、その実在が(確率的に)確定するまでは「存在する」とも「存在しない」とも言えないし
「それを経験するのであれば」を経たあとは「他者の意識が存在する場合」と「他者の意識が存在しない場合」があるとなります
要は「それを経験するのであれば」によって「私=他者」や「私の意識=他者の意識」や「私の意識と他者の意識の存在に関する確率的不確定性」が発生するわけです >>492->>493
「仮に他者の意識が存在するとしても、それを経験するのであれば、
それは他者の意識である」というのは確かに単純ですが難しい命題だと思います。
ここで「仮に存在するとしても」と私が述べているのは、
「仮に2が奇数であれば」という仮定がそうであるように、
背理法によって矛盾を導くための仮定であり、
この仮定は非存在的であっても構わないと私は考えています。
二つの視覚などの知覚を経験することと、二つの意識を経験することは異なるか
ということに関してですが、そもそもどちらも非存在的です。
視覚についても、仮に二番目の視覚をサブウィンドウで経験するとしても、
それは主体の視覚の部分であり、全体的である主体の視覚とは異なります。
だから、二つの視覚を経験することも仮定に過ぎないと考えています。
しかし、非存在的である二つのことについて、
どちらがより非存在的であるかを考えることは難しいと思いますが、
二つの意識を経験することの方が非存在性は高いかもしれません。 私の言っていることは、この世は夢か現実か解らないということに対して、
この世は夢だと言っていることに似ているかもしれません。:)
今、ふと思ったことで、あまり厳密な議論ではありませんが。 私はこの世は夢か現実かと問われれば現実だと答えるかもしれませんが。:) 夢を想像と本質的に同一的なものと考えると、この世は夢かもしれません。 現実は現実感のある夢であり、夢らしい夢は現実感のない夢だということです。 私はこの世は夢だと主張したいわけではありませんからあしからず。:) 私は、この世は夢現であると答えるかな。少しずるいですが。:) 他者の意識で現実を知覚することは不可能だが、自分の意識というのも他者からの譲りものであるかもしれない。ヒュームの様な連続の意識も他者の意識の折り合わせということかも。他者は実在し自分は存在しない。 他者が実在すると思っている自分も他人のありようから様々。自分を一つしか持たないわけじゃない。他人のありようはどこか自分とすべて似ていない。
自己言語は無。他者言語が在。 >>503
面白いですね。自我の消滅する点は私の考えと同じです。
私の考えは仏教哲学で言えば意識の段階ですから、それ以上の考えはまだありません。
もしその線で考察するなら、「他」という概念を精査する必要がありそうです。
真理とは何かという問題でもありますね。
将来的にはより深いところに到達したいと考えています。 >>504
難しいですね。
私は「他者の意識は存在し得ない」と考えていますが、
勿論「他者は存在する」と考えています。
後者の意味の「他」であれば、私達を構成している多くのものは、
確かに「他なるもの」かもしれません。 >>504
「自己言語」、「他者言語」とは何でしょうか? 意識に介在する他者の声のざわめきとか、自己の嗚咽に反応する他者世界とか
哲学 外部 応答 のような。 他人に動かされてるだけで自分で動いているように感じることが錯誤なのかもね。 1 私の意識による、並列して存在するいずれかの他者の意識を経験する状況とはという問題
の他にも
2 私の意識による私の経験の直列化やループでの私の意識
って問題もあるかな
1 は例えばA=私とすると、A→B→(C→D→...)でB(やC、D)とは一体何者か問題
2 は、A→A'→A''→A'''→...やA→A→A→A→...でのAという私とは?的な >502
>私は、この世は夢現であると答えるかな。少しずるいですが。:)
昔の人は、この世を「うつし世」と読んだ理由を考えたまえ
その逆が かくりよ(隠世)、あの世のことである。
うつすそれは心に映るもの、事は見えない観念を説明し、物は見える観念を説明する。
人が心に写すものは物であって、事ではない。 >>508->>509
他者とは本質的に「声」なのかもしれません。
他者に動かされる人はいますよね。カリスマとか。
だから、主体を大切にすることは倫理的なことかもしれません。
>>510->>511
私であれば、「A←B」とするかなと思います。
他者を全体として経験することは難しいと思います。
他者のある種の部分、「声」などを経験することは可能かもしれません。 >>512
発する言葉が自己を反映していることはありますよね。:)
>>513
「うつし世」はいい言葉ですね。
しかし、「あの世」でも人は「うつしている」かもしれません。:) 「まず根拠を示せ」という旨のレスをしたものです。
一応その後のレスにざっと目を通しましたが、「何故自分の意識はあっても他者の意識は無いと言えるのか」が未だに示されていません。
レスした後にもう一度見返しますが、私が見落としているならアンカーでもつけて、そうでなければ早めに示してください。
でないと議論しようにも出来ません。他人の主張に反駁する前に、あなたの主張に関する議論なのですから、あなたの根拠がなければ。
さらに、私への反駁として「他者の意識が経験されたらそれは他者の意識ではなく自分の意識である」と言っていましたが、それは言葉遊びであって哲学的考察ではありません。
サブウインドウ云々としてあなたが言及していたそれはまさしく「他者の意識を経験すること」ですし、そこで経験された意識の所有者は観念的な後付けです(土地の所有者が常識を同じくする人間にしか通用しないように)。
そこで経験されたものは、「元々自分の手元にはなく」「少なくとも他者が持っていたもの」ですよね。であればそれは存在確認に等しいです。
「経験した」の中には「感覚した」も含まれるものです。
なのであなたは「他者の意識が経験されたとしたらその存在証明になる」ことへの反駁は出来ていません。
する必要もないと思います。「目の前にペンがあるのが見える、だからそのペンは存在する」と同義なので。
そこを否定するならこの世が夢である可能性にも言及しなければなりませんが、胡蝶の夢から分かるように議論の余地はなく「不明」です。終わりません。
さらに言えばそのような根本からの認識否定をするなら「我思う故に我あり」という「自分の意識の存在根拠」も消失します。
この辺は経験という言葉に関する認識の齟齬ですかね。経験=内在化ではありません。
スーパー科学者マリーが部屋の外で赤を見ること=「彼女は赤を経験した」です。
恣意的に決めつけた前提を「公理のようなもの」として扱うのは議論において不当かと。
他者の意識は「他者の持つ」「意識」であり、カギ括弧の2つ目に重心があります。自分以外の意識が確認出来ても「いーや自分が経験したから自分の意識だ」と跳ね返すのは暴論が過ぎます。
あなたがそう言ったとしても、「自分の意識とも言える」だけで、「他者に意識がある」ことを否定できていないので。 「無い理由を示せ」というのは一見悪魔の証明的な卑怯さを見せますが、あなたの主張は「自分にあっても他人にない」ことです。
物理的に充分いち生物として同一視可能な人々の中で、誰かにだけあって誰かには無いという不自然な結論には根拠が必要でしょう。
要するに「同じプログラムなのにあっちは起動してこっちは起動しない」という主張と同じになります。
主張の性質から「動作環境の違い」等は使えません(使うなら、意識が存在する「自分」とそれ以外の明確な環境差を示すなど、さらなる掘り下げが必要)。
重ねて聞きますが、「何故」「意識が自分にはあって他人にはないと言える」のでしょう? 見る限り「他者の意識の非存在という結論をまず置いてから考察している」ように見えるので、オッカムの剃刀について調べることを勧めます。 >>518->>520
一つの意識に二つの自由意志があることはほとんどナンセンスですから、
一つの意識に二つの視覚があることを例に話す方が良さそうだと思います。
この場合、あくまで経験としては、主体の視覚としての経験しか存在しません。
確かに、それはある意味では他者の視覚ですが、
第一義的には、即ち哲学的には、主体の視覚であると考えます。
オッカムの剃刀には私はあまり感心しませんが、似たようなことです。
その方が「世界観として正しい」と思えるからです。
あるいは、それは「理論として美しい」と言ってもいいかもしれません。
確かに、この感覚、「世界観として正しい」という感覚には説明がありません。
このことは、結局、様々な哲学的考察において、
どちらの方が整合的であるかという形で示されるのかもしれません。
あと、繰り返しになりますが、「他者の意識の存在の仮定」は背理法的な仮定です。 >>521
「世界観として美しい」あるいは「理論として美しい」ということの本意は、
「私はひとりである」ということの尊さかもしれません。 >>522
「ひとりである」は漢字で「独りである」の方が上手く表現できているかもしれません。 「他者の意識は存在し得ない」ということと
「私は独りである」ということは本質的に同一的です。 付記することがあるとすれば、
私は「存在」は「現象」と本質的に同一的であると考えるということです。
だから、「他者の意識は存在し得ない」ということは
「他者の意識は現象し得ない」ということと本質的に同一的だと考えます。 「無意識」は「存在」であり「非現象」であると語られることは多いですが、
「無意識」は「非存在」であり「現象」であると語ることは可能です。
それは言葉の規則に過ぎず、本質的なことではないと思います。 >>522
「世界観として美しい」あるいは「理論として正しい」としてもいいですね。
そちらの方が通常的だと思います。 >>522 は >>521 の引用ですから、
「世界観として正しい」あるいは「理論として美しい」が正しいです。
訂正します。 >>518
>>526 は同じようなことは述べましたから、アンカーも可能でしたが、
重要なことだと思いましたから、再度書きました。
私の考えでは、>>518 さんと私の考えの相違は、「意識」に関してではなくて、
「存在」に関してだと思います。 なるほど、おもしろいですね。
ですけど、「意識」ってのをどのように捉える/捕らえるかですね。
わたしは、ただたんに「意識」と語った場合は、
外からみた「反応」か、内からみた「trace」かの、どちらかであると考えます。
特に、traceの場合は、事後であって、行為の直接的な原因ではありません。
内的な「意識」とは、「学習」行為ですね。 >>530
そこは問題で、「外から見た意識」と呼べるものは存在すると思います。
しかし、学術的には区別して然るべきだと思います。
「事後であって、行為の直接的な原因ではありません」とはどういうことでしょうか?
広義の意味では、意識は自由意志を含むと思います。
意味が明確であれば理解可能ですから、大きな問題ではないとは思います。 コントロールの問題ですね。
意識をとただみているものだとすれば、リアルタイムには干渉できない。
コントロールしているのは無意識。
意志のようなものも無意識段階にもってくるのならわからないでもない。
ただし、可能なすべての世界の中から意識とマッチする世界だけを選び出すのなら、
意識は多世界をコントロールするw
あるいは、時間は逆向きであり、結果から原因がつくりだされる。
ひとつの仮説としては、無意識がコントロールを行い、
意識は事後に行われる結果としての射影である。
コントロール後に自由意志があっても無意味だ。 主体をSとする。
Sには外部世界(自己の肉体なども含む)との入/出力がある、
Sの内部世界は、外部世界の(解像度は低いかもしれないが)コピーである。
意識とは、結果としての入力を受け取り、内部世界を再構築するものだ。
そして、それが新たな出力を生み、外部世界に干渉する。
このモデルは計算機上でパイプラインとして構築できる。
いわゆる計算機科学でいうところのモナドあるいはモナディックなプログラムモデル。 977 :可愛い奥様 :2020/04/17(金) 00:07:10
私もコロナで女盛りの時期を在宅勤でドブに捨てそう
1番美しい時期の私を彼に見ていて欲しかったのに >>532
意志は無意識の段階にあるという考えは解らないことはないです。
白紙の水面のような意識に水滴の波紋のように現れる考え、
それは意志の力によるものかもしれません。
しかし、それを広義の意識と呼んでも良いと思います。
狭義の意識は、内観でしょうか。
色々と疑問はあります。
多世界とは量子力学的なものか。
時間は逆向きであるとは物理学的な時間と逆向きであるということか。
>>533
モナディックなプログラムモデルについても私には解りませんでした。
それは簡単に言うとどのようなことでしょうか。 意識不明になって死ぬか回復するかでは運命が違っている。そこを検証すると
意識について何かがわかるだろう。 不明になった意識はどこにいて、不明とあるから何を見聞きしているのだろう。
意識が戻るというからには意識はどこに行っていたのだろう。 極論なのだが、現世での意識の終わりと変容などはテーマに悪くないと思う。 意識不明の意識は暗い暗迷の中にいるわけだはないと思うが。天国や浄土、地獄、に近く。 >>536->>539
意識不明は不明ですから、浄土とは程遠いだろうとは思います。
しかし、いわゆる臨死体験というものもありますね。
どちらが正しいのか私には解りません。
臨死体験は夢があっていいなとは思いますが。:) >>538
私は、脳のない意識に強く関心があります。
それは私にとっての他力の一つの表れです。
南無阿弥陀仏 :)
脳は人に不便を強いるものだと私は考えていますが、
しかし、空腹だから食事は美味しく、快と不快は隣り合わせです。
空腹のない世界は楽しいのだろうか。そんなことを考えています。 >>541
しかし、脳というものは何かという問題でもあります。
ここでは、皆が知っているあの脳のことです。 >>542
脳というものを広く心の器だと考えると、
それは皆が知っているあの脳に限らないということです。 プログラミングにおけるモナドとは「プログラム可能なセミコロン」ですw
これはパイプラインとして記述可能だ、ということ。
そして、monadicとは、Monadic predicate calculusのこと。
翻訳するなら「モナディック述語計算」?
モナディックを訳するなら「単項」かな?
「単項述語計算」
特に、分散処理とか、マルチCore時代のCPUを使いこなすには必須な概念です。 >>544
単項述語計算ですか。なかなか面白そうですね。
プログラミングのパイプラインとは、h(g(f(x)))みたいなものですか?
違うかもしれません。:)
要するに意識をプログラミングによって表現する一つの方法と理解しました。 Wikipediaでモナドについて調べてみましたが難しかったです。:) 数学の圏論は面白そうですね。簡単ではなさそうですが。 javaで自前のパイプライン処理でファイルを暗号化処理したら速いのなんの、
CPUにターボかかってビュンビュン。HDDがヒューンと、ロータリーエンジンのような音をたてた。
主体としてSと客体としてOをそれぞれプロセスと考える。
ただし、OはOの総体であって、外部世界そのものをひとつのモナドとみなす。
unixっぽくパイプラインを|としよう。
O|S
O、すなわち外部世界からの出力がSの入力となる。
そしてSの出力もOの入力とする.
O|S|O|S...
これはパイプを使って、
pipe|O|S|pipe
のようになる。
Sの意識は|S|のようにパイプラインで囲まれて、他へは伝達しない。
Oも同様に|O|となる。
Sそのものを意識とみなすなら、SはOから入力を得てOへ出力する。
S自身は、特に「自由意志」など持っている必要はない。
単なるマルコフ過程なのかもしれない。 なるほど。主体Sと客体Oが、
O|S|O|S……
となるということですか。
確かにこれが機械的だとすると自由意志の入る余地はありませんね。
自由意志と確率過程の関係の問題は、現代においても重要な問題だと思います。 例えば、自由意志は「思いもしないこと」をすることができますが、
機械も「思いもしないこと」を分析して実行することができるかもしれません。 O|SをOの出力がSの入力になる、ということではなく、
関数としてS(O)とみなすこともできるが、
Oを評価した値がSに与えられるのではない。
OそのものがSに与えられて、遅延評価される。
そして、このS(O)そのものがOに与えられてO(S(O))となる。
あくまでも、評価された値が引き継がれていくのではない。
現実的なプログラミングでは、どこかで(遅延)評価される。
評価されることが必要なときに評価される。
「意識」とは、「評価関数」である。
評価によってコントロールが得られるのだろうが、
そこには、かならずしも「自由意志」がある、というわけではない。
逆に、それこそが「自由意志」なのだ、として定義しなおすのがベストかもしれない。
(パイプラインの)ループ構造こそが「自由意志」である。
学習するマルコフ過程のループ?
このようなループ構造を考える限り、「自由意志」と「生命」を同一視してもよいのではないだろうか。 >>551
私は自由意志は存在すると思います。:) >>553
なるほど。意識はS(O(S(O)))……の評価関数ですか。
いわゆるインタープリターみたいなものでしょうか。
自由意志と生命は本質的に同一的であるという考えは面白いと思います。 意識という概念が、他者の意識は定義できないようなものとして想定されるなら
それについて言及される言葉は「誰」に対して発せられたものなのだろうか? Sの出力はOに届けられる。
Oが反応すればSの入力になる。
とするならばSへの入力とは変化/変位である。
もし、時間が先に存在しているとすれば、Oが存在しないときより
遅れた入力がやってくるかもしれない。吸収されてしまいなにも変化しないかもしれない。
ともかく、Sの出力は「(アクティブ)ソナー」である。
それが物質化すれば「触手」かもしれないw
応答が、Sに対して時間や空間を与える。
出力より応答が先かもしれない。そうならないために、Sはなんらかの順序概念を持つ必要がある。
こう考えよう、Sの存在そのものが「順序機構」である。
Sが時間をつくりだしている。Sは主観的時間生成器だ。マルコフ機関?
SのSによるSのための世界。 Sの(幻想)世界。
Oが存在するかどうか判断するために、Sは予測/予想機構を持たねばならない。
おおざっぱに考えるなら、そのような機構は「学習(機構)」である。
主観とは、学習機構である。とするならば...「意識」とは「学習機構」の動作か?
いずれにしても、Sはなんらかの「反応機構」を持たねばならない。
そうでなければ「学習」までには至らない。
Sは反応機構だ...あたりまえすぎる結論...
反応するために必要なもの...それは欠如ではなく過剰か?
欠如系であっても反応は可能だ。とすれば...非平衡であるということ...
(統計的)平衡状態が熱死であるとすれば、意識/生命とは非平衡であるということ。 私の印象では、例えばライプニッツのイメージとは違って、「私」は開放系です。
「私」の外部にあるものを(自分の身体も含めて)すべて消してしまうと内部には何も(例えば外部を映しているスクリーンのようなものも)残らない気がします。
根拠はありませんけど。 ちなみに最近の私の感覚だと、「私」というのは幻想です。
例えば「国家」や「社会」が機能はしていても存在はしていない気がするように、じつは「パソコン」や「脳」も機能はしていても存在はしていないものだと思うのですが、同様に「私」も機能はしていても存在はしていない気がするのです。
デネットというのはそういうことではないのかな、私は読んでませんけど。 外部の無い内部は無い気がするんですが、そもそも何が内部なのかは突き詰めるとよくわかりません。
私は私が1さんの主張を十分理解していない気もするんですが、はたして他人のクオリアは私の内部たりうるのか、私にはそれは外部としか言いようがない気がするんですが、しかし1さんはそれが内部だという確信を持っている気がします。
間違っていたらすいません。 さて、いずれにしても私が理解するところによると(間違っていたらすいません)、近代哲学は理性を疑うところから始まっています。
「A=A」に確信を持つとき、その確信にどれ程の意味があるのか、
、、、、すみません、何が言いたかったのか忘れました。 >>556
それは「他者に」あるいは「主体の意識の生み出した他者に」だと思います。
>>557-558
確かに、時間概念としては先であるとか後であるとかは原始的だと思います。
私は、SはOよりも本質的に欠如していると思います。
何故なら情報は圧縮されて然るべきだからです。
人は平衡系か非平衡系で言えば非平衡系なのかな。
そもそも平衡したら低体温になりませんか?
>>560-563
私は(主観(客観))という図式を考えます。
だから、主観の外部は「無」です。
あらゆるものが幻想だとすると、今度は幻想という概念が豊かになり過ぎて、
そうである前と何も変わらないのではないかと思います。
私は、他者のクオリアは存在し得ない(現象し得ない)と考えています。
だから、それは外部的でも内部的でもないです。 「現象」とは「幻想」である。フッサールの現象学を幻想学と読み替える。
「肉体」とはSとOのインターフェース層である。
それは、Sの内部にあり、そのインターフェース層の中に外部がある。
外部とはSの内部からの投影であり外部が実在するかどうかは不明だ。
(かといって内部が実在かどうかも不明である)
もし、インターフェース層が存在するのならば、インターフェース層が
SとOを作りだし、分け隔てる。
もし、インターフェース層が物理的実体であるならば、
彼こそが(幻想/現象)世界をつくりだしている。
SやOはインターフェース層の幻想である。
幻想を舷窓と読み替えるなら、小さな窓から限られた情報を得ている。
舷窓学。わるくないw インターフェース層をIとする。
そのIの働きをVであらわす。
Iはパイプラインそのものである。
双方向パイプライン。流れをわけるならループを形成する。
ループそのものが幻想かもしれないのでループ概念は先送りする。
局所的には一方向の2つのパイプラインがある。
われわれは、パイプラインがつくりだした幻想としてのSの、
さらにSが作り出す幻想を議論している。
現象学/幻想学/舷窓学
このパイプラインが(広義の、抽象的な)タイヒミュラー空間である。
これを単純に、マッピング関数の集まりとみなすなら、
そいつが(この世界/宇宙の、そして意識やクオリアの)真犯人だ。 >>565-566
現象と幻想は異なると思います。極めて確かなもの、これが現象です。
肉体はSとOとのインターフェイス層であるというのはまあそうでしょうね。
「このパイプラインが(広義の、抽象的な)タイヒミュラー空間である」とは
どういうことでしょうか? オカルト異界などでは外部も内部も差別なくなる。私が存在しようが存在しまいが、
ストーリーは続いていくが、内界のほうが存在的で外界は非存在的だというのはあると思う。 「私の思考は私の自己ではなく、世界の事物とまったく同じように、
生きているものもあり、死んでいるものもある。私は、少しは
無秩序な世界に生きていても害を受けないのと同じように、少しは
無秩序な思考世界に生きていても害を受けることもない。思考とは
自然現象であり、あなたのものではなく、その意味はあなたには
まったく不完全にしかわからない。思考は私の中で森のように成長し、
多くの動物たちをそこに住まわせている。ところが人間は自分の
思考において専制的である。そのために人間は森や野生の動物
たちの快楽を殺すのだ。」C.G.ユング、『赤の書』pp.226-227 >>564
>私は(主観(客観))という図式を考えます
主観も客観も、それぞれの主体がなす観測認知でございます。
つまり主体ではない何かではございません。
主体ではないとは何としましょう?意味なしとして割り切り切捨て無視してしまいましょう?
それは主体が主体として主体をなさしめる働きでございます。
それは客体を客体としてなさしめる働きでもございます。
基点となる存在は基点からみた主観で生み出される何かでございますが、
基点たる為に働く何かではないのです、それは常に基点に対する影響でございますが
影響といっても無視できることではないのでございます、
影響をもってこそ主体が主体たり意味を世界へと結ぶ物であり、主体が消えても
主体以外の事は現象として残留し主体を浮かび上がらせる働きをもつのでございます。
そういった何かも常に現象の一部であるのは間違いないのでございます。
どんなに物事を完璧に見据えようとしても全てを見通すことは無理難題でございます、
どうか見えない主体ではない何かも、主体と共に同時に、そして切り捨てずに
見えない図式に見えない何かを常に、あらわせないとしてもあらわせない何かとして、
切り捨てたとき、それは現実であっても存在感のない幻想へと変貌しうると
非論理は↑のほうでバカが具体的に語れば語るほど具現化し、存在しえない何かすら
幽霊が現実存在したかのように表現され論理で割り切られます、それは非論理ではなく
単なるバカが割り切った為に表現した「間違った論理」でございます。 >>524
>「他者の意識は存在し得ない」ということと
>「私は独りである」ということは本質的に同一的です。
私にとって他者の意識の存在の有無は”知ることが出来ない”だけですよね >>489
>「他者の意識の存在の仮定」は背理法的な仮定だということです。
その背理法のプロセスがどのようなものか示して下さい 「仮に他者の意識が存在するとしても、それを経験するのであれば、それは他者の意識ではない(故に他者の意識は存在し得ない)」
上記の命題は論理的に無意味です(他者の意識の存在の有無に関しては真とも偽とも言えないままです)
”それを経験した”として、確かにその経験されたものは他者の意識ではありません
しかし、そのことによっては他者の意識が存在するか存在しないかについては何とも判断できないままです
よって「他者の意識は存在し得ない」とは言えません(存在し得るとも言えません)
他者の意識は非実在(存在するとも言えない状態であり、存在しないとも言えない状態)なままで不確定であるとしか言えないのでは? >>568
私の考えでは、外界は「無」です。
>>569
本質的に「無」とは何かという問題だと思います。
精神科学に寄せて言えば、「無意識」とは何かという問題です。
過去の知見から学べることはたくさんあると思います。
>>570
非論理の扉さんの名前を考慮して発言しますが、
私は正確には、(無(主観(客観)))という図式を考えます。
最後の括弧はなくてもいいです。
私は「無」の領域にどれだけ意味を見いだせるかが人生の意義だとさえ思っています。
それは自然科学の領域ではないように思っています。
それは論理学の領域であるかという問いにははっきりとした答えは持っていません。
あるいはこう言ってもいいかもしれません。
人生の意義は「無」の領域へと「意識」を拡張していくことだと。
>>571-573
背理法に関しては、>>442 を参照してみて下さい。
私の考えでは、「存在し得ない」ことと「現象し得ない」ことは本質的に同一的です。 >>574
(無(主観(客観)))
この図式ですが、主観は客観を含みますが、無は主観を含みません。
「無」は全体から主観の差です。
今後このように書くと思います。書くことがあるとすればですが。
(無/(主観(客観))) タイヒミュラー空間に意味はない。ばかか。数学に宇宙を適用しただけで、宇宙を数学的に語る代物じゃない。
wwwwwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwww >>577-578
ブラウザの問題で投稿が二つになりました。 そんな意識の機構がわかったところで、どのようにクオリアが生じるかの説明にもなってない。
確率論だの、関数だの、無意味。
意味わかってないのかな。
イージープロブレムだよ、それ。 >>577-578
時間差は約2秒ですから察して下さい。:) >>580
クオリアの問題を明らかにしなくても、
意識の機構が明らかになればすごいことだと思いますよ。:)
しかし、このスレッドでは主にハードプロブレムのことを扱いたいと思います。 きみら、タイヒミュラーってことば使いたいだけちゃうんか。 >>576
おそらく宇宙際のほうのタイヒミュラー理論をいっているのとだ思う。
わたしは、オリジナルのほうのタイヒミュラー空間のことをいっています。 すごく簡単にいうならば、タイヒミュラー空間とは
「リーマン面の複素構造の変形空間」です。 物事の「意味」は意識の内部にあるか、あるいは意識自体が「意味」の集まりであるかと思われる
そして「意味」は生まれた時より今の方が多く所持していると思われる
我々が意識の中に想定された「世界」しか見えないなら、どこから新たな「意味」を得ているのだろうか?
我々は自らが想定した「世界」から、想定外の情報を受け取っているとしか思えない
なぜこのようなことが起こり得るのか? >>584
タイヒミュラー空間には2つの意味があるのですか。
私は数学は役に立つものだと思いますが、解らないことには何とも言えないです。 >>586
鋭い指摘だと思います。
私の考えでは、それは本質的には唯心論から二元論への移行です。
良いとか悪いとかではないです。
あるいは、唯物論であれば問題にならないかもしれません。
あるいは、ライプニッツのモナド論であれば同様に問題にならないかもしれません。
実在は、分子、原子、素粒子に分解されますが、
量子力学では観測が問題になりますし、唯心論の利点もあるかと思います。
基本粒子は心的であるかという問題は面白いと思います、 >>586
意味は目的に対して生み出されます。価値観に応じて意味は増えていきますので
>そして「意味」は生まれた時より今の方が多く所持していると思われる
は正しいと思われます。そして意識は意味の集まりというより、目的の集まりで
あるでしょう。生物の原始的な本能から発して複雑化した目的の統合したものが
意識だと考えています。 スレタイにこだわると、例えばライプニッツに意識のハードプロブレムはありません。
しかし多元論とするモナド論には窓を持たないはずの「私」が「他者」からの影響を受けている印象が否めず、そこでライプニッツは「神による予定調和」と飛躍してしまい、我々のからすると説得力を失ってしまいます。
1さんは、、、 1さんはパッと見唯我論に見えますから意識のハードプロブレムをクリアするわけですが、しかし他者のクオリアを認めないとなると、じつはそれこそが真実だったかもしれませんけど、とりあえず単純な唯我論では我々への説得力を失ってしまいます。
1さんはただの唯我論では無い気がしたんですが、はたして私が見ている世界は何なのでしょう? >>574
↓442の記述
主体の意識と他者の意識の存在することを仮定します。
(主)(他)
それらは主体の意識の内側にあります。
(主(主)(他))
一つに意識に二つの意識が存在することはありません。
(主(主)(主))
↓それがこうなります
主体の意識と他者の意識の存在することを仮定します。
(主)(他)
それらは主体の意識の内側にあります。
(主(主)(他))
一つに意識に二つの意識が存在することはありません。
(主(主)(主)) (他) ライプニッツのモナド。
単に、形式体系(Formal System)における「記号」ですよね?
「記号には窓がない」よね? >>574
>背理法に関しては、>>442 を参照してみて下さい。
背理法のプロセスをちゃんと書いてください
442では示せていません
>それらは主体の意識の内側にあります。
>(主(主)(他))
この時点で「一つに意識に二つの意識が存在することはありません」という公理と矛盾しています
↓公理に矛盾しない形に修正
主体の意識と他者の意識の存在することを仮定します。
(主)(他)
それらは主体の意識の内側にあります。
(主(主)(他に見せかけた主)) (他)
一つに意識に二つの意識が存在することはありません。
(主(主)(主)) (他)
よって他者の意識があると仮定すると他者の意識があります(無意味) >>1
>他者の意識は存在しない。もし存在すればそれは他者ではない。
この命題は今、どのように修正・変更されていますか?
改めて今の時点での1さんの考えを書いてください >>564
>私は(主観(客観))という図式を考えます。
それは1さんの「信念」ですよね(私は○○と考えますというだけの)
周りの人に「なるほど確かに○○としか考えられない」と理解し納得させるためには”論理”的な説明が必要になります
なぜ(主観(客観))となるのですか? >>592-593
ライプニッツの考えには意識のハードプロブレムは存在しないのですね。なるほど。
確かに「窓を持たない」は「んん?」て感じですね。
私の考えは、唯我論というよりは唯心論かなと思います。
私が「他者の意識は存在し得ない」と言う時、
それは「他者の意識は現象し得ない」ということと本質的に同一的です。
だから、鍵になっているのは、「意識」のようで、実は「存在」です。
チャーマーズの考えとの違いは、それを不可能と呼ぶか可能と呼ぶかだと思います。
そのために「公理のようなもの」があったわけです。
>>594
それは永遠だと思います。:)
(主(主)(主))(他)
(主(主(主)(主))(他))
(主(主(主)(主))(主)) >>596
背理法に関しては、>>442 で示しているかと思います。
それ以上の説明は特に持ち合わせていないです。
>>597
基本的に同じです。
他者の意識は存在し得ない。
仮に他者の意識が存在するとしても、
主体がそれを経験するのであれば、それは他者の意識ではない。
>>598
客観は、「繰り返しの経験により確立したある種の主観」だと考えるからです。 >>574
>私の考えでは、「存在し得ない」ことと「現象し得ない」ことは本質的に同一的です。
「存在し得ない」であっても「現象し得ない」であっても、どちらにせよ
主体は「他者の意識の存在」であれ「他者の意識の現象」であれ経験できません
「それを経験すれば」という文言によって1さんの命題は論理として無意味なものとなっています >>593
あなたの見ている世界はあなたに会ったことがありませんから解りません。
冗談のようですが、本当のことです。 >>601
それを経験することが矛盾を帰結しますから、前提を否定するわけです。 >>600
>仮に他者の意識が存在するとしても、
>主体がそれを経験するのであれば、それは他者の意識ではない。
「主体がそれを経験するのであれば」
これは「超常現象」や「神秘体験」の類であり
信じるか信じないかを決断すること、つまり”信念”や”信仰”の次元では意味を持ち得ますが
論理的妥当性を問う次元では、命題としては真とも偽とも言えないため「無意味な(語りえない)」ものとなります
(無意味というのはその命題が「論理としては」という事であって、その独我論的な問題意識自体が無価値だということではありません) >>604
他者の意識の存在し得ない(現象し得ない)ことは語り得ると思います。:) >>605
「二は奇数である」という命題は論理学的に無意味ですが、
その無意味であることは語り得ます。 >>600
>客観は、「繰り返しの経験により確立したある種の主観」だと考えるからです。
主体の「繰り返しの経験により確立したある種の主観」=「主体の客観」と
他者の「(あるとすれば)繰り返しの経験により確立したある種の主観」=「他者の客観」は独立して別個に存在しているので
{主体の(主観(客観))}と{あるとすれば他者の(主観(客観))という意識}がどちらかの内部に入ることはないですね
「一つに意識に二つの意識が存在することはありません」の公理と矛盾しないためにはそうなります
よって公理と矛盾しないためには「主体がそれを経験するのであれば」を組み込んた命題は(論理的に)成立しないとなります >>605
>他者の意識の存在し得ない(現象し得ない)ことは語り得ると思います。
イージープロブレムの水準では語り得ます(そして結果は「他者の意識は存在する」が真となる)
しかしハードプロブレムの水準では語り得ません(他者の意識の存在について真とも偽とも言えないから) 確かに唯心論であれば意識のハードプロブレムも無くなりますね。ちなみに私も物質は存在しない派です。
ただ、唯我論でないとするとこの世界には複数の「何か」が存在するということになる気がしますが、そこで「何か」同士の相互作用を説明できないと新たなハードプロブレムが生じるだけだと思います。既に説明されていることを私が理解できていないだけかもしれませんけど。 >>606
>「二は奇数である」という命題は論理学的に無意味ですが
「二は奇数である」については真か偽か決まりそうなので有意味だと思うのですが?無意味なんですか? ニーチェ
「万物は変化する」
当時は深く考察されていたが、今現在では「万物が常に変化していくのは当然のこと」と普通に解釈されている時代です。 >>607
442の仮定は、背理法的仮定であり、真でなくても良いと考えています。
今後同じ様なことを繰り返し問うことは控えて頂ければと思います。
学術的に実りのあるスレッドにして行きたいです。
>>608
意識のハードプロブレムの答えとして、
他者の意識の存在し得ない(現象し得ない) と思います。
>>610
論理学的に無意味です。
>>609
私の考えでは、他者の意識は存在し得ません。
それを唯心論に近いと言ったのは、ただ心があるという考えを否定しないからです。
しかし、私は、我は本質的に空であると考えますから、唯我論には否定的です。
これは602が本当のことであるということが端的に示しているように思います。
ちなみに私は、実在はある種の存在だと考えています。
>>611
このスレッドでもチャーマーズ的ゾンビと、
他者の意識は存在し得ないという私の考えがループしています。:)
私は、「存在」に関して考えを改めることでそのループは止まると考えています。
「意識」や「私」の問題にはループしやすい構造があり、
それが何であるかは私は問題だと考えています。
ヴィトゲンシュタイン
「徹底された独我論は純粋な実在論と一致する」 >>612
「他者の意識の存在し得ない」は「他者の意識は存在し得ない」が正しいです。 >>612
私からは、どの発言がどなたのものかはっきりとは解りませんから、
「同じ様なことを繰り返し問うことは控えて頂きたい」と言ったのは
全ての人に対してです。 無というと人格や存在の否定というよりは宇宙に広がる広大なスペースという
ネガティブにつながらない面がいいと思うけど。 >>612
チャーマーズ的ゾンビは私の造語で、自然科学が意識の存在を帰結しない、
そのような存在のことで、哲学的ゾンビはそれが哲学的であることを強調する
のに対して、チャーマーズ的ゾンビはそれが科学主義的であることを含意します。
そのような概念は必要ないと思われたら、無かったことにして下さい。:) >>615
そうですね。「無」は良い言葉だと思います。日本語(漢字文化)の良い所ですね。 ヴィトゲンシュタイン的に言えば、「他なるもの」は語り得ない、それは示される、
ということかもしれません。
私はこのことに完全に賛同しているということではありません。
日本語には「秘すれば花」という言葉がありますね。
ということは、きっと世阿弥は何かを秘しているということだと思います。 恐縮ですが、以下は私の存在論、もしくは存在観です。
(私がおかれている状況では長文の書き込みができないため面倒ですいません) >>618
私は、ヴィトゲンシュタインや世阿弥にそれほど詳しくはありませんから、
詳しい人に失礼に当たらないか心配です。
簡単な紹介としては、全く外しているということはないかなと思います。 昨日ラーメン屋でマトリョーシカを見かけたんですが、 >>619
もしかして投稿できませんでしたか。
>>620
珍しいことですね。 >>623
また機会がありましたら、よろしくお願いします。 意識のハードプロブレムとは、「主観的な意識体験はどのように発生するのか」、
ということ。
はたして、>>1 の見解は、意識のハードプロブレムの解決/解消になっているのかどうか。 >>624
620へのアンカーは、622へのアンカーが正しいです。
>>628
チャーマーズ的ゾンビの解消を経由して、
意識のハードプロブレムを解消するという感じですね。
チャーマーズ的ゾンビに関しては、616を参照して下さい。 それってイージープロブレム側からのハードプロブレムの解消ってことのような。 >>630
イージープロブレムは自然科学ですよね。対象はハードプロブレムです。 ふむふむ。そのようなスタンスですか。
わたしは自然は精神も含むものなので、イージーだけで突破できると考えています。
非物質主義(非唯物)的科学なわけですな。
「科学」というものは「物」を扱うのではなく「関係」を扱うものですからね。
なのでイージーとハードを同一視しています。特に区別する必要はないと。
(イージーがイージーなわけあるかよ、という感じ。ただしシンプルw)
(ま、こちらは人工意識の制作が目的だから) >>633
イージーはイージーではないということには同意です。
チューリングテストをパスする機械を作ってもイージーですから。:)
人工意識、できるといいですね。 >>633
イージーとハードを同一視する。あるいはその区別を解消する。
それが本来の自然科学の在り方なのかもしれません。
むしろチャーマーズの考えは自然科学主義者が自然科学の限界を唱えるという
マゾヒスティックなところがあって、不思議な感じはあります。:) >>635
例えば、天文学者は星を見た時の感じ、クオリアがどうだとかは議論しません。 >>635
それが人々の心を打った理由かもしれません。 >>633
赤を説明するのは、りんごの色であったり、確かに関係性ですね。 >>634
ちょっとよくわからないのですが、
他者の意識は存在しないのなら、人工意識は
原理的に「できない」のではないですか?
それとも、できた瞬間にそれは自分の意識の
一部になる、というようなことですか? >>638
りんごの色であったり、科学はそういう裏付けを重ねて行くしかないと思います。 >>639
言葉足らずでしたね。
ここでいう人工意識はイージープロブレム的なものを前提にしています。
例えば、コンピューターのメモリーのことを、意識における記憶とは関係なく、
メモリーと呼ぶことがあります。そういう感じです。 >>641
そういう分類をしたチャーマーズは賢いですね。:) >>641
チャーマーズはハードプロブレムの概念を作ることによって、
イージープロブレムの概念も作ったわけです。 >>641
多分、コンピューターの出来た頃は、コンピューターのメモリーを
メモリーと呼ぶことに抵抗感のあった人はかなりいたのではないかと思います。
私も、子供の頃に初めてそれを知った時、抵抗感はありました。 >>644
逆にCPUとかはかなりクールな名前に思えて格好良いと思っていました。:) 今、英語の文法の本を読んでいるのですが、
「心理述語の使用制限」と呼ばれるルールがあるそうです。
それによると、「私は泳ぎたい」という文は正しいですが、
「妹は泳ぎたい」という文は「妹は泳ぎたがっている」が正しいそうです。
確かにそのような規則性は存在しますね。 "Girls wanna have fun"はどのように訳すのですか? >>646
しかし、口語では「妹は泳ぎたい」は通じるようにも思います。 「したがっている」かな。
つまり、「少女達は楽しみたがっている」でしょうか。 「やりたいだけよ」とは言いますが、
「やりたがっているだけよ」とは言いませんね。 >>652
確かに、英語に関してはそれが自然なのかどうかははっきりとは解りませんが、
日本語に関しては「やりたいだけよ」は自然ですね。
例外の多いルールなのかもしれません。 他人について決めつけるのはよくない、というエチケットの問題でしょう >>654
それはあると思います。私は知らないことだからというのもあると思います。 >>635
私は、一度ハードプロブレムやイージープロブレムの問題に答えを出したら、
その後はあまりそのことを考えなくてもいいのではないかと思います。
例えば、コンピューターのメモリーのことをメモリーと呼ぶことを
受け入れていいと思います。 >>618
ヴィトゲンシュタインの功績の一つは、
「示されること」は「語り得ること」の外にあることがあり得ることを
著述したということにあると思います。 >>642
チャーマーズは賢いより聡いの方がしっくりくるかもしれない。 >>641
それもちょっとわかりません。
意識は意識で、要するに主観的な体験、
いわゆる「心」のことであって、
それ以外の意味はないと思うのですが。
「イージープロブレム的な意識」と
「ハードプロブレム的な意識」の意味の違いなど
ないのでは?
イージープロブレムというのは、要するに
脳が情報処理をして人間の行動を司って
いる物理的過程を解明することで、
ハードプロブレムというのは、
脳はどこまで行っても物質なんだからそれを
いくら解明しても
客観的な物質の働きからどうして主観的な
意識体験が生じるのかという根本的疑問は解けない、という考えだと思っていたのですが、
違うのですか? >>660
イージープロブレムとハードプロブレムの理解は正しいと思います。
イージープロブレム的な意識は、簡単に言うと、機械的な意識のことです。
例えば、CPUは機械的な思考装置ですが、
機械的な意識もある程度は実現しているのかもしれません。
色について考えると、色は主観的な経験ですが、機械的な色は可能です。
しかし、機械的な意識の存在は本当にイージープロブレムか疑わしいです。
ある意味での意識には自由意志が含まれるからです。
660さんは正しいかもしれません。
これに対するよくある反論は、脳をシミュレートする機械は存在し得るから、
機械的な意識は存在し得るというものだと思います。
私には、技術の発展を応援したい考えと無理だという考え、両方があります。
どっちつかずなことを言ってすみません。:)
知恵のある方に助けて頂けると幸いです。 自由意志の機械化には二つ問題があると思います。
一つは、それは実現可能かということで、
もう一つは、その問題は本当にイージープロブレムかということです。
あるいは、こう言ってもいいかもしれません。
この問題をイージープロブレムだと言うことは、自由意志の存在を否定しいる。
私は、自由意志は存在すると思います。 >>662
「否定しいる」は「否定している」が正しいです。 意識の経験と記憶は切り離せないと考えられる
感覚の経験と記憶も切り離せないと考えられるが
今感じている感覚と、記憶としての感覚を取り違えないのはなぜか
記憶が記憶であり、今感じているのではないと分かるのはなぜか
記憶であるということはどういうことなのか
夢は記憶の再生の一種であることがあるが、夢が夢であると自覚できない時がある
起きている時には記憶を記憶だと自覚できない時はないにもかかわらず、だ >>664
脳の配線が記憶と今感じていることを分けているのだと推測します。
麻薬も意識や記憶に作用しますよね。 >>661
君の脳が物理的に情報処理を行った脳機能的な思考過程
(CPUは機械的な思考装置でイージープロブレムだという理解)は
そもそも機械的な意識といえない。
機械的な意識のことだとイージープロブレムに還元しているに過ぎないからね。
脳機能的な意識の存在(イージープロブレム)を機械的な意識の存在と
混同してしまっている。 >>666
ご指摘ありがとうございます。
機能主義的意識、即ち機械的意識と考えていました。
>>667
なかなかハッピーな曲ですね。
何となく繰り返し聴いています。:) >>665
しかし、私は脳が唯一の意識の座であるとは考えていません。:) >>668
私個人のことで言えば、私は脳科学にはあまり関心はありません。
機械的知性(数学的知性、形式的知性)には少し関心はあります。 >>670
二つのイージープロブレムが存在するかもしれません。
機械的な意識の実現。
脳科学的な意識の解明。
しかし、これらの問題は密接に繋がっているかもしれません。 >>671
私は後者にはあまり関心はありません。:) >>672
その一つの理由は、脳科学が脳機能を明らかにするとしても、
その機能自体は数学的に記述されるものだと考えるからです。 >>672
もう一つの理由は、脳は唯一の意識の座であるとは考えないからです。 >>674
重要なことですから二回言いました。:) >>672
であるならば、哲学の必要性はどの辺りにあるという前提なのかな? >>676
私達が幸せになるためじゃないでしょうか。 >>677
世の中にはたくさんの脳科学者や脳科学の発展を楽しみにしている人がいるわけで、
そういう意味では脳科学も大切です。 >>671
>機械的な意識の実現。
>脳科学的な意識の解明。
貴方のいうそれは実現できると仮定しても、それは命ではない。
命のない意識を意識と呼ぶならば、それは命の新しい定義でいいだろう。
命は賢くないし、愚か者だし、例外なく必ず終わりがくる、必ず破綻する。
そうじゃないものを命としたいなら機械的な魂、プログラム的な魂だって説明できるだろう。 失礼致しました。
いろいろ考え直したのでマトリョーシカはやめて、冷蔵庫のはなしです。
(最後までコピペできるかは不安) 私の存在論的感覚からすると、扉が閉まっている冷蔵庫の中には食べ物は存在しません。卵や牛乳は私が扉を開けた瞬間中に明かりがつくのと同様にその瞬間現れます。 私の存在論的感覚からすると、扉が閉まっている冷蔵庫の中には食べ物は存在しません。卵や牛乳は私が扉を開けた瞬間中に明かりがつくのと同様にその瞬間現れます。 何故ならそれ等は本当は冷蔵庫の中に有るのではなく、例えば口の中に有る気がする食べ物の味が本当は頭の中にあるように、つまり物質とは頭の中にあるものだからです。 となるとそれはもはやいわゆる物質ではない気がします。
認識の対象的なものは常に精神的存在(?)に変換されて僕の目の前に現れます。
私としてはこのスレ的な意味で自分が他人を経験できないように、精神には物質を経験することができない気がします。 しかし私は扉が閉まっている冷蔵庫の中にはやっぱり何かが入っているのだろうと信じています。それは私が扉を開けた瞬間卵の姿で現れますが、決してマトリョーシカではあり得ないような、何らかの確実なメカニズムを持った「何か」です、多分。 さて、準唯心論者にして意識の外側は「無」とする1さんにとって、ハードプロブレムとのからみでいうと、頭の中に存在する気がする「脳」的なものは1さん的に言っても存在することになるのでしょうか?すいませんがもう少し説明が欲しいのです。 >>684は「目の前」ではなく「頭の中」の方がよかったです。 >>679
確かに、機械には魂はないかもしれません。
今後よく考えてみたいと思います。:)
>>680-687
解ります。私も同じ様に思います。
存在には「確かにあること」と「必ずあること」の二つがあります。
開ける前の冷蔵庫の中身は「確かにあること」、
開けた後の冷蔵庫の中身は「必ずあること」に相当すると思います。
敢えて付け加えると、開けた後の冷蔵庫の中身もその様なホログラムである
可能性はあり、厳密に言えばそれは「確かにあること」だということです。
突き詰めれば、「必ずあること」は直接的経験に限られるだろうと思います。 >>686
脳もまた「確かにあること」だと思います。
私は、679さんの言うような魂も脳も同じくらいあり得るものだと思います。
仮に物質に拘るにしても、私達はこの宇宙あるいは宇宙の外側の全てを
知っているわけではありませんから、ある種の謙虚さは必要かなと思います。 >>689
傲慢であることが謙虚であるとか、ややこしい事態もあるかとは思いますが。:) >>677
幸せになるための学問
つまり君の人生哲学ということね、了解 >>692
人生哲学も悪くないですが、仮に人生哲学に過ぎないとしても、
正しい考えを広められれば、それは人々に価値のあることだと思います。 >>693
あるいはこうも言えます。
もしある人が正しければ、それは周囲の人々に良い影響を与えますから、
それは周囲の人々に価値のあることだと。 >>694
そして、周囲の人々の周囲の人々にも価値のあることだと。:) 思想上、正しいと感じる恣意的な人生哲学の考え方だと
他者の価値観や信望に依拠せざるをえない
つまりイージープロブレムに過ぎない。
ここはハードプロブレムなので、スレチだな 自分が存在しないから相手やモノがあるんじゃないの。存在やモノがある限り
自分は在れない。
相手がモノが権威的に存在しないなら自分の様なあいまいで不確かな存在が確認できるかもしれない。
_,.. ---- .._
,. '" `丶、
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,..-‐/ ...: ,ィ ,.i .∧ , ヽ.
. ,:' .l .::;',. :::;/..://:: /,':/ ', l、 .i ヽ
. ,' ..::| .::;',' :;:','フ'7フ''7/ ',.ト',_|, , ',.',
,' .::::::!'''l/!:;'/ /'゙ / '! ゙;:|:、.|、| 'l
. ,'. .:::::::{ l'.l/ 、_ _,. 'l/',|.';|
l :::::::::::';、ヾ  ̄ `‐-‐'/! ';. '
. ! :::::::::::/ `‐、 ゝ |'゙ | 学術が存在から忌み嫌われますようにw
| ::::::::/ \ 、_, _.,.,_ ノ::: !
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善は他人の評判を考えたものであってはならないよ。結果的に得をするもてるからいいことをするわけじゃなく、人間の根源的な倫理的性質が後天的なものも含め燃え上がるように育つことだと思う。
嫌われるほうが相手が執着はしないだろう、相手をすくと好かれると長い時間人間関係にかかり、遅速でタイムラグが生まれる。抜け目ない性格形成が大事だ。 人付き合いに時間をかけないほうが交際は多いしな。繁殖に時間がかからないほうが多産だ。
生存などフィクションなのだから嫌われる好かれるイメージも計算高くないといけない。 人生哲学は韻を踏んでいないし、文法などが変な時がある。
,. ´ ̄ ` 、
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く i . ´: : : : : : : : : : : : :\ \
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\ |/: : : : :∧|;;;;;;;;\/;;`∨;;;;;;ヽ: :∧|
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|: { |: :|;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;、;;;;;;;;;;;;;;;;;;| :| ニヤリ
|: ヽ'::ハ | :|
/ : : .ハ: ::、 `ー-‐'" .ノ :|
/ : : /:/ \:ヽ ノ'、| :|
/ : : /:/ ': Nヘ,.、-ァ ヽ´\. | :|
>>696
人生哲学という言葉には怪しさを感じなくはないです。
その偏見を取り除けば悪くはない言葉だとは思います。
>>697
多分、自分が存在しなければ、ただ感じるしかなく、
それはある意味では「他なるもの」です。自分は存在しないのですから。
しかし、それでも自分の拡張は可能で、それはある意味では永遠の様です。
>>698
和むAAですね。文章には感心しません。:)
>>699-701
確かに善性はそのようなものかもしれません。
嫌われることにも意味はあり得るのですね。
しかし、嫌われると面倒に巻き込まれ時間を費やすこともあるかなとは思います。 善をなすなら悪に対して手厳しい辛口トルストイの日記の様な、悪の心理を切り裂くような裁きの知恵まで身に着ける必要があるかもね。 イージープロブレムがやりたいならスレ建ててやってください>>695 >>704
悪に対する手厳しさですか。確かに必要かもしれませんね。
>>705
そうですね。
>>706
その様なことは無いです。
さらに、多少タイトルと異なることを議論することは許容しています。:)
宗教哲学、機械論、脳科学などです。 >>707
例えば704は倫理学的な発言ですが、問題ないです。 君がタイトルと異なる話を許容するしないに関係なく
基本的な話708はハードプロブレムとイージープロブレムの区別を
どう理解しているか、していないのかがそもそも不明ということ >>709
個人的には、Wikipedia程度の理解で十分だと思います。
堅いことは言いません。:) >>710
チャーマーズ(Wikipediaからの引用)
「意識について本気で考えた人ならだれでも、
主観的体験の問題がむずかしい問題なのは知ってるし、
それも何百年も前からわかってたこと」 711の710へのアンカーは709へのアンカーが正しいです。
このままでも通じますが。:) >>713
哲学は万人に開かれていていいのではないでしょうか。:) >>715
名無しさんでしかもアンカーもないと相手には伝わらないですよ。
原則として名無しさんには文脈に依らずその発言に対して返信します。 >>715
対話を望むなら自分の発言した番号を伝えて下さい。:) レスありがとうございます。少し考えさせていただきます。
例によって真夜中にゲリラ攻撃を目論みます。 >>106などの複数の箇所で散発的に述べていた考えを論理学的に考察してみたい。
0は数字であるように、ある種の無は存在である。
強引かもしれないが、そう考える。
そうだとすると、ある種の無である他者の意識は存在し得る。
逆に言えば、ある種の無は存在であるという「逸脱した」思考をしなければ、
他者の意識は存在し得るとは言えないのかもしれない。
このことは「二は奇数である」こともあり得ることだと示唆する。
実際ある種の世界では正しいのかもしれない。
以上のことは、まだ構想段階です。 >>720
数字と数の違い、個のありようを、個が無いのに個をあらわす0
それは個の説明ではなく概念説明にすぎない。 >>721
言うなれば、無は存在字でしょうか。
概念説明、難しいですね。
私もこれから考えます。 (テスト)なんか知りませんが、規制がすごいです。どこからかマークされているのでしょうか? >>723
投稿できなかったのでしょうか。
投稿できるようになるといいですね。
またよろしくお願いします。 >>143
「高い音」という言語と主観的に生じるクオリア(この場合音感)の共時性を他者と共感しているだけの事じゃない 私が理解したところによると、1さんにとって他者の意識は存在していませんが、他者の脳は見えていなくても存在しています。
それでいてご自身はどちらかというと唯心論者とされているとなると、少なくとも私としては1さんが脳は存在するとする意図をもう少し説明してもらいたくなるところです。 いずれにしてもここでは意識のハードプロブレムです。
他我の存在を認めなければそこはクリアかもしれませんが、私としては「逆でもよくね?」とかなります。
私は他我の存在は信じますが、脳は頭蓋骨から取り出さなければ存在していることにはならないとする立場です。
私はその方向での意識のハードプロブレムの解決を模索します。 ラジオ局が放出している電波はそれだけでは音ではなく、受信機で変換して初めて音になります。
同様に空気の振動もそれだけでは音ではなく、それを聞く人がいて初めて音になるものです。
音というのは意識の外側にあるものではなく、その内側にあるもののようです。 ということは、この宇宙では聴覚を持つ何者かが現れるまで音はなかったということになります。
さらには空間を認識できる何者かが現れるまでは空間も運動もなかったということです。
じつは今現在でも意識の外側には空間も運動もない気がします。
脳と心とが空間的につながっている気がしないのはそのためかもしれません。 意識のハードプロブレムの手っ取り早い解決方法は、心か脳かどちらかを無きものにすることです。
そして私は余裕で脳を切り捨てる派です。
ちなみに私には心と脳とが共存できる世界線などまったく考えられません。
それにしてもはたして、私と1さんは対立しているのでしょうか?ご参考までに。 前野氏の受動意識仮説って、
「人は自動操縦で意識はそれを観察してるだけ、生存の為に体は外界に対する反応として自動で動き
更にエピソード記憶を持つことが生存に有利だから意識が生まれた、意識は幻想」
要約すればこんな感じの解釈でOKですかね? 意識的な判断でなければ私の判断ではないのだろうか
無意識的な判断は私の判断ではないのか
無意識は私なのか私ではないのか 無意識での動作は自覚的な私の意識レベルを必要としないということで
無意識は私なのか私ではないのかというのは、疑問ではなく疑念でしかないということ 生存のために有利だから意識が生まれたとする受動意識仮説は、自殺の事を考えると破たんする 夢を見ている時、意識はあると言えるのか?
主体的な判断ができないような夢を見ている時でも、意識があるとするのなら
意識と主体的判断は不可分ではないと言えるのではないか? >>727-731
私にとって、脳は、文献や資料から確かにあると推定される
人の思考や感覚を司る器官です。その存在証明は極めて間接的です。
私は、仮に他我の存在を証明するなら、
何らかの公理のようなものが必要になると思います。
例えば、このような感じです。
自が存在すれば他は存在する。
自我は存在する。
故に他我は存在する。
実在的世界は「確かにあるもの」の集まりだと思います。
本質的に新しい経験は滅多にないと思います。
しかし、真に新しいものは存在し得ると思います。
芸術はまさに認識する人がいて初めて存在するものではないでしょうか。
>>732
受動意識仮説は初めて聞きました。
>>733-734
私は無意識を無意の動作だと考えます。
だから、太陽が昇ることも無意識だとは言えなくはないです。
勿論極論ですが、無意識の境界は曖昧です。
一般的には、脳神経系の動作に限るとされますが、
その理論は万能ではないと思います。
>>735
何事にも例外はあるかとは思います。
>>736
確かに純粋な観察はある種の意識だと思います。 >>734
意識が主体性の唯一の所有者であると信じている限り、何を問うているのか理解不可能だろう >>738
なぜ意識が主体性の唯一の所有者であると信じていると確信できる根拠か不明 私にとって他我の存在はゲーデル的な飛躍です、多分。
私の不完全性定理に対する理解は甚だ怪しいものですが、
私の理解によると理論体系を構築するためにはどこかで飛躍しなければならないということだと解釈しました。
そこで私はここのところでそのカードを切ることにしたのです。
私にとって他我の存在は証明する必要のない根拠のないものです。 他我の存在を前提にせず理論体系を構築できるのであれば、もちろんそれもアリアリのアリです。
ちなみに私は意識のハードプロブレムの解明は全ての辻褄あわせをすることによって完結すると信じています。
この問題は思いの外広がりを見せる気がします。 >>740
ゲーデル的な飛躍については、初めて聞きました。
詳しく説明して頂けるとありがたいです。
私の理解では、ゲーデルの不完全性定理の本質はこうです。
「この文は証明し得ない」という文は肯定も否定も証明できない。
しかし、ゲーデル的であれ何であれ、その飛躍は直観的なものだと思います。
私は、その直観は大切なものだと思います。 哲学には証明する必要のない無根拠な理解など存在しない >>742
ゲーデル的に言って、全てじゃないかも。 >>742
>>742
アリアリのアリですか。:)
私はしばらくはその線で考えていると思います。
しかし、>>720 のように新しいことも考えてはいます。
私も、意識のハードプロブレムは解決すると考えています。
この問題を通じて哲学的な理解が深まること、それが一番の恩恵かもしれません。 >>744
ゲーデル的な飛躍というのはさっきパッと思いつきで表現したもので、
深い意味はありません。
公理系の内部では証明することのできない要素が必要になるという程度の意味合いです。
例えばA=Aなど
私は基本的にアバウトです。すいません。
>>745
少なくとも他我の存在は証明することができないと思います。 まことに勝手ながら、私は1さんとは同じ山を登っているのだろうと直感しています。
君はそちら側から登りますか、僕はこちら側から登ります、頂上で会いましょう、
というかんじですが、その根拠はまた後ほど。 >>741
例えば数学では直径を1としたとき円周は無理数になります。
これは数学的には問題がありませんが、日常レベルでは今ひとつ釈然としません。
すなわち数学は近似でしかないということだと思います。
同様におそらく哲学も近似なのでしょう、
そこで私は開き直ります、哲学とは「如何に納得するか」のものであると。
つまり正しいか正しくないかのものではないし、
そもそもそのレベルでは無理ということです。 >>753
741は751の間違いです、すいません >>753
何が言いたかったのかというと
哲学にはあらためて証明する必要がない場面もある気がする
ということです。 わたくしごとではありますが、書き込むコツがわかってきました。
イケソーな気がします。 >>750
思い付きはそれはそれで大切だと思います。
>>751
論証しなくても真実が解るということはあり得ると思います。
>>752
確かに、他我は存在するというでこすけさんと、
他者の意識は存在し得ないという私とでは全くの反対です。
しかし、私も哲学という同じ山を登っているのだと思います。
ハードプロブレムは良い試金石だと思います。
>>753
無理数はある意味永遠ですね。
数学も本当はそうなのでしょうが、哲学は形式的な正しさだけを
追っていてはいけないと思います。
証明は後から付いて来るというのはよくあることです。 >>755
私も哲学はそれくらい懐は深いと思います。
>>756
良かったですね。:) さて、自分語りからで恐縮ですが、
私は学生の頃から存在論、理論物理学、進化論、精神分析学などに関心を寄せていました。
それらの共通点はその本質のわけのわからなさだと思いますが、
そんなところが子供心にアピールしたようです。
しかし最近思い当たったのです、
それらのわからなさは意識のハードプロブレムに起因するのではなかろうか、
あるいは私達はこの世界を根本的に見誤っているのではなかろうか。
たとえばDNAは光ディスクと同様の記録媒体に過ぎないようです。
光ディスクは再生装置がなければ映像や音声を再現できませんが、
DNAも同様でそのコントロールシステムを利用しなければ個体の成長、遺伝、進化は実現されない、
DNAがあるだけでは勝手に増殖しない、
そしてそのシステムについてはアプローチの仕方さえわからないという現状があるようです。
つまりそこがわからないのは意識のハードプロブレムに起因するのではないかと。
私は当初1さんを他我の存在も(密かに)認める唯我論者だと思っていましたが、
目下は他我の存在を否定した上でご自身の存在さえ空としている唯心論者です。
しかしそのムチャブリの先に突破口があるかもしれない、
じつはそこには理性とは何か、認識するとはどういうことなのかという問題を含んでいて
やたらとないがしろにはできない気がするのです。
上から目線で恐縮ですが、
1さんはまだご自身の中にあるイメージを言葉にしきっていない気がしています。
話によるとアインシュタインは15歳のときに相対性理論を着想していたそうで、
それを数学的に表現するのに10年くらいかかったとのことです。
自己満足で終わらず、人を言いくるめることは大切かもしれないという逸話です。
ま、私が言っていることですからアテにはなりませんが。
読み返すと失礼なことが色々ある気がしますが(すいません)、今夜のところは勇気を持って、ポチッ >>759
色々な学問に興味を持たれていたのですね。
確かにハードプロブレムはあらゆる学問に通じるかもしれません。
私は、他者の意識は存在し得ないと考えています。
しかし、他我はある意味自明であるという
でこすけさんのような考えを否定することはありません。
その先にも道はあると思います。
確かに、私は私の考えの全てを語ってはいません。
多分、人に語れるほど明快になるにはある程度の時間が必要なのでしょう。 「不確かさ」こそがフィードバックの働いている生きた自然の
状態である。模範に率先して従い、そうしない人々を威圧に
よって従わせ、皆で模範に従えば安心だなどというのは、
好意的に解釈しても、せいぜい、フィードバックの働かない
集団的に気の狂った状態、集団的狂気であり、普通に解釈
すれば、人々の各々の利害とは無関係に人々を手段として
利用しようとする全体主義だ。 >>753
納得するためには納得するための理論が必要になるよね。
認識の共有という部分で確かに近似でしかないが
近似であるという正しさは、自らの知能で論理的に把握しなければ
近似でしかないということだろうという推定ということでしかなく
哲学ではなく、そう信じる信仰だと考えるけどね。
そもそもそのレベルでは無理だというなら、哲学をあきらめているということでは? >>757
論証できない真実を信じるということなら有り得るが、真実を論証できなければ解ったつもりでしかないよね 最初の言語ってどうやって生まれたんですか
言語って大人になったら習得するの難しいじゃん
だけど子供のうちは自分で言語を生み出すレベルの思考力無さそうでしょ
言葉としては鳴声のバリエーション増加みたいな感じかも知れませんが言語の発生はどうでしょうか
それから言語の発達レベルは知能レベルによって限界があるのでしょうか
知能が進化することにより言語も高度化されるのでしょうか
よろしくお願いします 「くる(狂)ひ」とは、その表現どおり、傍から見れば、経験による
フィードバックが働かず、「『くるくる』とま(舞)ふ」ような
反復行為を指す。「くる(狂)ひ」は、それが個人のものであれ、
集団的なものであれ、それをその「内面」から「くる(狂)ひ」と
して記述することはできない。 「不(ふ)確(たし)かさ」とは何か。
それは、表現から見れば、「確(たし)かさ」の不在であり、
「確(たし)か」であるとは、「た(手)・しか(≒even/flat)」である
ことだ。つまり、手がぴったりとつく「手応へ」である。
「手」という身体的部分から見れば、「確(たし)かさ」は、
みづから(身つ柄/自ら)のものである。しかし、「不確かさ」は、
「確かさの不在」として、「みづから(身つ柄/自ら)のもの」で
あるとは言えない。だからこそ、「不確かさ」が
「うたが(疑)ひ」=「う(≒surface)た(手)かひ(交ひ)」を
生じ、確かな手応えを求める手探りの状態をもたらすのである。
手探りをすることを怠り、「うたが(疑)ひ」に支配されるなら、
「まよ(目酔/迷)ひ」つづけることになり、何であれ、
与えられた「たよ(手依/頼)れる」ものにしがみつこうとする。
傍から見れば、フィードバックの働かない「狂った」状態である。 人々の不安に便乗して、それを煽り、人々を集団主義的に
狂った状態に導こうとする「知識人」たちの言動をよく
観察しておくことだ。 「不確かさ」こそが、フィードバックが働いている生きた自然の状態である。
生きている限り、経験における自然な中立の状態は、「不確かさ」であり、
デフォルトで「確かさ」に従っていることではない。 幽霊にはなぜ足がないのか?
それは、幽霊が「う(≒surface)つつ(continuously touching)」
を離れた存在だからだ。地表に足が着いていないのである。 ウイルスという「悪霊」との戦いに「うつつを抜かして」いると、
ふと気づいてみれば、都合よく誘導されて、うまく利用されていただけ
ということになるのではないか。 >>764
幼児が言語を習得できるのは、親の発音と自身や状況との感覚的一致を体験してって
所謂、通じるという言語の共有からコミュニケーションをつんでいく。
読書、専門言語を扱う環境に身を置くなりすることで、語録もバリエーションも増えて
知能が高まるぐらいじゃない、知能は進化というか進歩しかしなさそう。 >>765
経験によるフィードパックというか、論理的に記述可能な処理能力が追いつかず
なぜ記述することができないのか、自覚することが不可能な狂った状態なんじゃないか。 言語は一から覚えていってないと思う。継承される能力だ。 それを一からやると膨大な時間がかかるはずだ。それで検証できるだろ? しかも反応自体がないだろう。そういう人種を差別偏見しないほうが、やっても駄目だったものと付き合うより、必死な良い関係だな。 狂廃していくから、統合失調症や精神分裂病に新しい風が入るんじゃないの。
解決つける面と、見切りをつけて自由に手放す面。対比してみてその順番に。 意識が存在しないことはなく捕食関係で意識は受け継がれるように思う。
ないになるとだれかがあって、他者も分岐しているわけだ。 繁殖という命のドラマでも意識は見え隠れして動きがあるだろう。 >>762
確かに、実在は近似的です。
例えば、理想的なサイコロは各面は1/6の確率で出ますが、
実在のサイコロはそこから少しずれているでしょう。
しかし、理想は美しく簡潔で価値があります。
>>763
他我は存在するということに信ずる価値はあるでしょうか。
正しいことには論証があるということもある種の信かとは思います。
>>764
漢字について言えば、一番簡単な漢字は「一」だと思います。
その次に簡単な漢字は「二」でしょうか。
私は「一」は極めて原始的な文字だったと想像します。
それは「ある存在」を示していたのではないでしょうか。
使い道は色々と考えられます。
>>765-766
面白い言語分析ですね。
「確か」は「手しか」ですか。
「足し可」も考えられませんか? >>773
音(おん)を記憶し、言語の響きとして理解していく知能が人間にはあるからな >>780
理想的に簡潔で美しい価値があると欺瞞せず、複雑でも論理的な価値を追求しなければ学問にはならないから >>780
論証がなければ正しい真理とはいわないし
信ずる価値しかないなら真理とはいえない 語彙ですら遺伝するんじゃないのか?言語野はじめそういうところに継承データがあって。 共通の常識を持っていると常識が間違ってたときに、混乱すると思うが。 >>773-776
言語に関しては、先天的な能力は深く関わっていそうですね。
>>782
確かに、そうですね。
それがあったから量子力学などの現代的な物理学はあったのだと思います。
>>783
私も基本的には同意しますが、この実在的世界のかなりの部分は
信により構成されていると思います。 >>784
私は、SVOであれSOVであれ、
現象を言語学的に分節化する能力は先天的なものなのかなと想像します。 言語が子に対して蓄積していくというのは共通の真理ではないけどね。 >>785
だから、天才と狂人は紙一重なのかなとも思います。 言語を各々の家庭や学校で覚えて使うとどうしても状況説明がないから、恐ろしく
通じないことを通じていると考えている幻想がありそうだ。言語が映し出す世界というのは、了承で成り立っていなくて、何のためにとか、どういう意味でとかかなり自由度があり、他人の体験を聞く恋愛相談なども、恐ろしく通じにくい孤独の世界が広がっているはずだ。 狂気のほうが努力、生育環境でどうになるもんでないレアな世界だけどね。天才より、
天才というとダサい面があるぐらい、誰もなりたくないものになっている昔のことだ。 >>791
天才はダサいとか恣意的な感覚だから誰もなりたくもないものとかいう判断は誰にでもは通用しない
言語を適切に使わない者って恐ろしく通じない世界を生きているんだろう 言語は偶律と運のほうが依存なく運用がいい。そのフォローに適切やら奇律を使うといいぞ。天才ぐらいは経験できる人は多い。その言語の出現回数のある率が天才だと思うとつまらない。 言語を依存なく運用しようと努力しながら言語を扱ってるならまさに狂気の沙汰だわなw >>760
率直に言って、このスレを見ている人は自分が哲学ゾンビでないことを確信しているはずであり、
その人たちに対して「他者の意識は存在しない」と言っても説得力は無いと思われます。
しかし私は1さんが他我の不在に確信を持っていて、
そして(私は1さんが特殊な人間だとは思わないので)
その確信は他者との共有が可能かもしれないと感じています。
目下のところその共有は困難というのがつまり率直な印象ですが、
あるいは違う言い方をすれば状況が変わることもあるのかなというかんじです。
ちなみに私が「同じ山」と表現したのは、
私の結論と1さんの結論とが矛盾なくおさまる可能性がある、
もしくは同じことの違う言い方に過ぎないことになるかもしれないということです。
なおせっかくなので勢いでもってはっきり言っておきますが、
君が選んだ道は修羅の道です! 適切というより意識しないでも口をついて出るような発話が大事だ。 >>762
現代の我々からみると古代人の世界観が稚拙な信仰に思えるように、
未来の人々から我々の科学や哲学は稚拙にうつる可能性があります。
また、世界観というのはどれほど合理性をたかめたとしても構造的には信仰の域を出ないのであろうというのが私の印象です。
脳天気な私としては「だからどうした!」とかひらきなおっておきたい場面です。
むしろ信仰をないがしろにしてはいけないとか言ってみます。
また、「そのレベルでは無理」というのは
最終的な証明ができないというニュアンスのつもりだったんですが、
ご指摘を受けてみれば確かにあきらめているということかもしれません。
しかし私は物事はとらえ方のものだと思っています。
瓶に半分入っているお酒を「もう半分」と見るか「まだ半分」と見るか。
実は私は哲学にはまだ可能性があると思っています。
意識のハードプロブレムしかり、
ひょっとすると哲学の二千五百年の歴史の中でこれからが一番面白いのではないかとさえ思っているほどなのです。 他人は自分とはまったく違うように見えて、よく見ると、
実は結構、よく似ているということがよくある
例えば、日本語では、「〜したいのはやまやま(山々)だが」
と表現した場合、「したい思いが山積している」という
より、実は、「したくなくて口実を探している」という感じになる。
ほぼまったく同じニュアンスが、英語の"I would very much like to 〜"
という表現によって伝わる。 誤:"I would very much like to 〜"
正:"I would very much like to 〜, but 〜" >>797のつづき
哲学の歴史はアルケーの探求から始まっているわけですが、
私にはまだ答えが出たとは思えません。
素粒子なんかでは納得がいきません。
だいいち意識の存在を説明できていません。
もっと分かりやすい答えがあり得る気がするのです。
その答えは私たちの世代であきらかになるのかもしれません。
そしてこれはもちろん意識のハードプロブレムにかかわります。
ところで1さんはアルケーについてはどのようにお考えでしょうか。
10年後でも構いませんから、いつかお答えをいただければと存じます。 1さんではありませんが、
「哲学の歴史はアルケーの探求から始まっている」かどうか
私は知りませんが、哲学の歩みは、アルケーの探求からではなく、
エポケーから始まるのですよ >>790
確かに言語の自由度は驚くほど大きいと思います。
言語の使用自体、芸術のように思えます。
>>795
「哲学的ゾンビ」は、脳科学が意識を帰結しないということですから、
どちらかと言うと反科学主義的な私の考えとは異なると思います。
私は「他者の意識は存在し得ない」という考えは他者と共有可能であろうという
不可思議さは面白いと思っています。
いつか無矛盾な論述に結び付くといいですね。
>>798-799
興味深い例ですね。
>>800-801
アルケーに関してはデモクリトスが最も正解に近かったのかなと思います。
私にとってアルケーは存在、現象、経験かなと思います。
しかし、まだまだ旅の途中のようです。 >>801
存じませんでした。
さっそくウィキペディアをひらいてみましたが、
今まで私の中でフワフワしていたギリシャ哲学に少しリアリティがついた気がしました。
ありがとうございました。
なお私は高卒にして哲学は趣味程度ですので
そのつもりで遠目から面白がっていただければと存ずる次第です。
(責任逃れに聞こえましたらすいません) >>802
今更ながらの確認で恐縮ですが、
存在しているのは私(でこすけ)の方であって、
1さんは本当は存在していないのではないですか? >>804
ストレートな問題こそ難しいということはあります。
でこすけさんの意識に私の意識は存在し得ないと言いたいところですが、
そのでこすけさんの意識は私の意識に存在し得ません。
そういう複雑な構造になるかと思います。 >>805
逆もまた真なりとか、ややこしそうですね。
わからなくなってきました。 >>806
ウィトゲンシュタイン
「示されうることは、語りえない」
他者の意識は「示されうること」かもしれません。
しかし、私も考えているところです。 >>807
しかし、私はウィトゲンシュタインの「示されうること」という概念には批判的です。 意識を、無意識と意識にわけるなら、
外部世界->無意識->外部世界
のループであり、
意識は、
無意識->意識->無意識
のループである。
ともかく、めんどくさいことは「外部世界」と「無意識」にまとめてしまうw
無意識+意識
が、内部世界となる。
この他者の意識はあろうとなかろうと「外部世界」にまとめられてしまうので、
内部世界とは交わらない。
そのように考えてみる。
意識は、無意識からの出力を観察しながら、無意識にコントロールを与える。
「意識」は、「必要」だから生まれた、と考える。
「無意識」だけでまかなえるなら、「意識」はいらないはずだ。
そもそも外部世界と無意識のループであるなら、
無意識と意識のループも、それと同じような構造を持っている。
そして、この「意識」のなかにも、もうひとつのループがあり、
そこには外部世界と内部世界のコピーがある。
そのように考えて、実験システム(AI)を考え中。
人工意識はめんどくさいw
これだと、意識は意識もシミュレーションする。
意識が無意識のコントロールをする、と考えるならば、
意識を意識する、とは、コントロールのコントロールである。
制御・制御。
トフォリゲート(CCNOTゲート)がネットワーク内に自発的に形成されるようなモデルを考え中。
ま、量子AIですね。 >>807
率直に申しまして私には今ひとつピンときていません。
しかし昔聞いた言葉でひとつ思い出したものがあります。
時々脳裏をかすめますが、未だに意味がわかっていません。
「薔薇は薔薇と呼ばれたとき薔薇であることを終える」
多少記憶違いがあるかもしれませんが
そんなかんじだったと思います。
意外と大したことではないのかなとも思ってみたりしています。
1さんは知っていそうな気もします。 >>809
外部世界⇆無意識⇆意識⟲、ということでしょうか。
量子AI、私には解りませんが、何か凄そうですね。:) >>810
その言葉は初めて聞きました。Googleで調べてみましたが、見つかりませんでした。
しかし、その言葉は面白いですね。
主体は客体と呼ばれたとき主体であることを終える、など応用が効きそうです。 Wikipediaの「薔薇の名前」(映画でないほう)の
「薔薇の名前」とは何か
「薔薇の名前」と普遍論争
の2つの項目を読みましょうね。
ウンベルト・エーコの『記号論』の本はどこいったかなぁ。 >>764
横から失礼します。
私が以下論じるのは764の一行目だけですが、
このスレ的に行って興味深い気がするので
少し(ではありませんが)私見を述べさせていただきたく存じます。
実は言語の発生のいきさつについてはふたつに分解できると思います。
コミュニケーションの発生と音声言語の発生です。
なおこの話には多分に私の空想が含まれていますから
あまり他言はしないほうがいいと思います。
ご参考程度でお願いします。
つづく 元はラテン語ですから、いろいろな訳があります。
Wikipediaでの直訳は
「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」 >>797
合理性とは理性の辻褄合わせでしかないんだよ、構造的であることと矛盾するわけ。
逆に言えば構造的、つまり物理的な根拠が伴わない合理背など信仰に過ぎないということ。
信仰は必要な人は決してないがしろにしないし、哲学的に必要としない者だからと言って
他者の信仰の自由をないがしろになどしないわけで。
そのレベルなどいう尺度で表現するに留まる者には
最終的な証明ができないのはむしろ当然のことだよ。
哲学の面白さというより想像する面白さのレベルなんではないかな。 私はコミュニケーションと音声言語とは別々の起源を持つとする説を支持しています。
人の発声は舌や唇を使って他の脊椎動物に比較し非常に多様のように見受けます。
この独特の発声方法は意志の伝達とは関係ないところで発達させたのではないかとする見解です。
では何故人類は発音技術を開発したのかというと
気持ちよかったから!
気持ちいいから反復なり普及なりしたのではなかろうか。
直立二足歩行なども同様です。
例えば若者が車に乗るのも得てして便利である以上に
気持ちいいから!
カラオケで歌ったり近所を散歩したりするのは気持ちがいいのです。
気持ちいいことを覚えてしまったら得てして人はやめられなくなるのです。
なお、具体的にサルがどういう場面で声を出していたのかは存じませんが、
私達の日常から察するにいろいろなケースが想定され得るように思います。
一方のコミュニケーションは人以前からのことですが、
何かの拍子にコミュニケーションツールとして音声が採用され、
その利便性により普及したのであろうと思われます。
なお、ここまで学術的な根拠はございません。
実はこのスレ的に言って重要なのはコミュニケーションの起源です。
おっと誰かが来たようだ >>813
そういえばそうですね!なつかしい!
映画を見てがっかりした記憶があります! Stat rosa pristina nomine、nomina nuda tenemus このラテン語をGoogleで翻訳すると
「その名前で古代のバラの遺体、裸の名前は、当社が保有する全てです」
なんじゃそりゃ。 >>816
レスありがとうございます。
私のようなものには正直あまり良くわかりません。
しかし「哲学の面白さ」という言葉には大変な重さを感じました。
重ねてお礼申し上げます。 >>817
人類の音声言語は、鼻から空気が抜けない形質を自然選択したことで
多様な音を物理的に発音する能力を発揮したもので
発音が多種に及んだ結果、単語のバリエーションや文法が多様化したのだよ。 その結果高いコミュニケーションによって認識の近似が通用する知恵を持ったということ。 さて、コミュニケーションについてですが、
この言葉を哲学風になおしてみると、
意識の内部情報の外部との交換、みたいになり得るかとも思います。
となると地球上で意識が発生したのは生物の進化の過程のどの時点?
みたいな一般的な問題も少し気になったりして、
しかしこれはまんまハードプロブレムかもしれませんから剣呑です。
私の意識の場合、みんなも同じだと思いますが、なんだか複雑です。
何種類かの感覚があって、感情があって、言葉があって、ひょっとすると潜在意識なんてのもあります。
このようなものがどのようなプロセスを経て成立したのか、
そこでとりあえずぱっと思いつくのは進化です。
原始生物の段階ですでに原始的な意識が誕生し、
そこからだんだんと肉付けされてこんにちに至ったという考え方です。
コミュニケーションについて言えばポイントは共通理解です。
最初の一匹が概念に記号を対応させると便利だということに気づいても、
二匹目にそれを理解できなければ意味がありません。
どのようなプロセスでそれなりの知能を持つようになれたのか。
ここで私は何を言いたいのかというと、
意識のハードプロブレムの解明というのはそういったことの全てに配慮して
完結できるのではないかということです。
このスレッドはいつまで続くのかという余計な心配です。
なんだか気が遠くなるばかりです。 >>813
ご指摘、ありがとうございます。
そちらの言葉も面白いですね。
>>817
私達の音声言語の発生の理由は気持ちいいからというのは斬新ですね。
鳥が鳴くのも気持ちいいからなのかもしれませんね。
>>824
赤子の言語学習は進化の過程をなぞっている可能性はあると思います。
赤子は、最初は、「ああ」のように単純な言語のようなものを獲得し、
そのうちに「まんま」や「まま」のような言葉を学習すると思います。
仮にそれが正しければ、最初の言語は「ご飯」や「他者」です。 最初は呼吸のパターンとか 喜怒哀楽の嗚咽とか、そこから体系的な言語が
できたんだろう。 >>824
とりあえず予備知識が必要と見受けられる
量子力学からアプローチされた意識関連本の読書をお勧め 法則や体系、先に述べたものから発展したような言語の発達の仕方、勝手に言葉を作らないほうが
おのおの個人のレベルで対者に言葉を選べば意味が通じるという不思議な体験がある。 奇声をあげる、などを抑圧し言語の習得に躍起になると、人間のコミュニケーションはよどむ。
とはいっても最高度に発達した言語を駆使するほうが人生には有利だ。不安や不完全
はつきまとうだろう。 対する者のバックグラウンドは知る由がない
通じているという感覚を信じ不思議がっているだけという確率が高い 言葉でも丸暗記じゃなければ状況説明になっているから通じないというのはおかしい。 コミュニケーションなのか理論レベルなのかで話がぜんぜん違ってくるだろ 経験から類推すればその場所にないその時間にないことも語れるが、便利な反面一つのボケの様な面もあり幸不幸はあるだろう。 一つ一人を取り出したり次々言語を並べることで、世界の知覚感覚界にかかわれるものが増えるのは面白いことではないか。 丸暗記がボケで状況説明がツッコミというとわかるかな。 もしも生物が意識というシステムを構築していなかったら
この世界に意識なんていうシステムが実装可能になってるなんて気づかなかったわ
この勢いと億年単位の猶予があれば光速の壁なんて余裕で突破してくるだろうな >>822-823
興味深いレスありがとうございます。
自然選択というと偶然のようですが本当に偶然で済むのか、
コミュニケーションが先か知恵が先か、
など個人的には気になることが色々あります。 >>825
餌を探すふうでもなく
ただ風に翼を広げてフワフワしているだけのような鳥を
ときどき見かけたりします。
あれは絶対気持ちいいからやっているだけじゃないかと。 >>827
なるほどなアドバイスありがとうございます
現状私の脳(この場合は存在する)に量子論と意識とで検索をかけると
とりあえずペンローズ氏がでてきます。
ペンローズ氏は消去法の結果ナントカカントカ(わすれてしまった)
という細胞小器官に意識がある可能性が高いとしていたと思いましたが、
じつは私は脳の中には意識は無い派です。
私は脳が意識を生み出したのではなく
意識が脳を生み出したのだと考えています。
なにしろ突き詰めるとそもそも脳も神経細胞も存在していないと考えていますから。
詳細を述べる機会があればいいとは思いますが
とにかく私は一般的に言ってトンデモです。
しかし、コペルニクスもダーウィンもあの人もこの人も
当初はトンデモだったろうと察します。
そして私がただのトンデモで終わるのかどうかは
私ではなく歴史が決めることだと認識しているつもりです。
また、その部分を確かめたかったのでここに出てきた次第です。
しかし最近You Tubeのおすすめ動画等にやたらと量子コンピューターがでてくるんですが
どうも億劫というのが率直なところです。
自分語り失礼しました。
なお、そのようなレスは基本的に大歓迎ですが
何かの都合でお答えできなかったらすいません。
1さんを敬服致します。 >>830
これが私の主張に関連するものかどうか明確にはわかりませんが
なんとなくコメントさせていただきます。
そこから私が連想したのはババァアルアルとでも申しましょうか、
各々自分が言いたいことを言っているだけで会話が噛み合っていない。
このことに関連するのかどうか我ながら怪しいですが、
日常会話でまともにSOVこだわっているやつはいない。
ここでポイントになるのは
子供は文法的におかしな日本語を聞きながら育つワリに
まともな文法を理解するということです。
ここで私が言いたいことは
言語というのはややこしいということでした。
みんな知っていたとは思いますけど。
それにしても私の文章はいちいち長いです。すいません。 さて、1さんはご自身の意識がどのような経緯で現在存在(現象?)するに至ったのかについて
ご関心はお有りでしょうか?
とりあえず具体的なことはさておきざっくり言ってそれは偶然とお考えでしょうか?
あるいはなんらかのメカニズムによる必然を感じておられるのでしょうか?
まことにウザい質問ではございますが
百年後でもかまいませんので参考までに何かコメントを頂ければと存じます。 >>802
私の印象として
1さんの旅は途中どころかまだ始まったばかりのような気がします。
いい加減なことを言いますが、この旅はきっと素晴らしい旅です。
自分たちのペースでまったり参りましょう。 >>826
確かに、喜怒哀楽は原始的だと思います。
>>839
不快を良しとするのは人間くらいかもしれませんね。
>>842
私の意識は誕生から始まったと言いたいところですが、
私の一番古い記憶は、2歳か3歳頃です。
そのことから、記憶なき意識なるものが存在し得ることが窺えます。
意識というものは本質的に「今」であると考えられることが多いとは思いますが、
私は、「今」から少し「未来」に伸びているのではないかと考えています。
「今」であれ「今から未来」であれ、意識の現象は必然的だと思います。
あらゆる論証の基盤です。 >>802
そうですね。まだまだ旅だと思います。焦らずゆっくりと進んでいけたらと思います。 >>841
>ババァアルアル
>各々自分が言いたいことを言っているだけで会話が噛み合っていない
これは百万年前からそうだったのではないかと >>844
思いのほか早いレスありがとうございます。
せっかくなのでふたつほど。
1さんは「今」は0秒だと思いますか?非0秒だとおもいますか?
「今」は時間軸上の数学的な点ではないとお考えの印象です。
(この点も私が数学を近似と考える理由のひとつです)
私も根本的な認識を改めなくてはいけないのかなというかんじです。
もうひとつはざっくりした質問です。
意識の現象の必然性について
何かお心当たりはあるのでしょうか?
この時間にこの展開はコクな気もしますから
のんびり参りましょう。 >>844
生まれたばかりの赤ん坊には喜怒哀楽はないね。
あるとすれば周波数の高さと低さ、そして同調するか非同調するかのような原理。
赤ん坊が物事の意味を知るまではかなり時間がかかると思われます。
自分か自分ではないかなどの判断以前の状態と思われます。 >>847
>意識の現象の必然性について
必然とは「然」という漢字で説明されるかぎり決定や確定や必定ではないのです。
決定に近似し、決定のような存在に見えるだけです。
人が怒るとしても、それは必然であっても決定ではないのです。
分類として怒るということに準じているだけです。 >>847
私は、「今」には時間的な幅はあると思います。
しかし、物理学のように「今」を0秒と定義することに異議はありません。
そのような議論の仕方なのだと理解できるからです。
私は、意識の現象に関して「それが現に起きていること」は必然的だと考えます。
それが起きていない可能性は考えられないからです。
あるいは、夢や幻のようにそれらが非事実的であることは考えられますが、
「意識の現象それ自体」は起きていることであることに疑いはありません。
それは「時間」と言ってもいいかもしれません。
>>848
喜怒哀楽のうち、どれが一番古いか考えるのも面白いかもしれませんね。
私は「喜」は最も古いような気はします。 グレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学』。
「学習」、または外部から観察するしかないのであれば「反応」。
これに、論理階層を与えたのがグレゴリー・ベイトソンである。
意識というものが、この論理階層の中で、仮想世界をつくっているものであるとすれば、
意識そのものも仮想的なものである。
意識そのものが仮想世界だ、ということでよいと思う。
これは内部に仮想世界を構築するようなAI(この場合、機械学習)を作成することで実現できる。
人工意識をつくるのはめんどくさい。
仮想世界は、それぞれの自己の中にあるので、他者の仮想世界とは交わらない。
が、複数の主体の仮想世界がひとつになるようなものも、機械なら構築できる。
これは(機械ではなく、人間プレーヤーだが)、以前作った。 機械プレーヤーであるNPC。
彼らの中にも意識としての仮想世界を与えてみたい。
できれば、彼らが自発的に意識を持つように。 >>851
なぜ意識は仮想的なのか
意識によって把握される「意味」が仮想的なものだからではないか
計算機の扱う数値に意味を与えているのは人間だが
AIは自らの中に独自の意味を持つことはできるのか
意味が仮想的に作り出されたものであるとしても、現実世界と接点を持ったものでもあらざるを得ないのではないか 例えば、「1」を意識し把握される「1」の意味は仮想的なものというよりクオリア 意識が仮想的なものならばクオリアも仮想的なものでは? 意識を、無意識部と意識部とわける。
意識部は判断に直接かかわらない。
意識部は無意識部を制御する。これを学習とする。
そうすると、意識部は、外部世界と無意識部による関与とその結果としての可能性を
シミュレーションするものとなる。
意識部がかかわれるのは無意識部への制御だけである。
人工意識は、これらすべてを実装しなければならないのでめんどくさい。
〜部、といっても物理的に分離させるわけではなく、論理的階層である。
ネアンデルタール人の失敗を踏まえるなら、機能を過度に分離させないのがよいと考えられる。
はたして機械は(ハードプレブレムに相当するレベルの)意識を持てるか。 1さんは自分が自分だけの意識を体験していることを不自然と思っているんですか? >>851
面白そうな本ですが、絶版のようですね。
意識は仮想世界であり、仮想世界を作っているですか。
今一つピンと来ないのが正直なところです。
>>852
町の住人が会話可能なAIであるRPGとか面白そうですね。
>>857
他者の意識の存在し得ないことは、
機械の意識の存在し得ないことを帰結すると思います。
他我は存在すると考えるでこすけさんはどう考えるのか、聞いてみたいところです。
>>858
不自然だとは考えていません。 >>859
意識は仮想世界を作るということはまだ想像できますが、
意識自体、仮想世界であるということはよく解りません。
説明して頂けると助かります。:) >>859
私は機械はどれほど進歩しても意識を持つことは無い派です。
実はこの問題は昨日私が1さんに振った質問にかぶるところの
「意識はどのようにして生成されるのか」というスゲー話につながります。
じつは私は私なりにその答えを持ているつもりですが、
何を隠そう甚だメチャクチャ超絶突飛です。
勿体ぶってしまうのは申し訳ありませんが、
結論から述べると無条件に拒否される可能性が高いので
少しずつ外堀を埋めてからと思っています。
私の理論(?)からすると
限りなく人に近い振る舞いをする人工知能は開発できますが、
そいつの頭の中はからっぽのはずです。 >>861
機械の意識は存在してもデジタルですからガタガタしていそうですね。:)
そういう私は、そのような機械の意識も主体の意識の内側だと考えるのですが。
でこすけさんの意識の理論は聞いてみたいです。楽しみにしています。 仮想とは事実でない、ということであり、
意識も仮想である、とは、意識も事実ではない、ということ。
意識は意識自身を事実であると意識する。
CDT(因果力学的単体分割)によって、そのような仮想事実を物理量化する、
という方向で考えています。
いまのところ、ここでいう仮想はプログラムと同じ意味だ、ということでよいかと思います。
因果ネットワークの組み換え、あるいは共変/反変的振動の伝播ということで。
Wikipedia「哲学」の量子論・量子力学・理論物理学からの批判の項目の、
宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「無」について、あたりをご参考に。 >>863
CDTは初めて聞きました。なかなか難しそうですね。
仮想とは事実ではないということですか。ある種の唯物論でしょうか。
「語り得ぬもの」と「無」は異なると私は思います。
「無」は「語り得ぬもの」ですが、逆は正しくないと思います。
しかし、「無」は「無」であると語り得るという反論はあり得ると思います。
多分、語るということの階層が異なるのでしょうね。 仮想とは事実でないもの、というのは通常の、辞書的な意味ですね。
宇宙の背後にある「語り得ぬもの」または「無」について、は、
ウィトゲンシュタインですね。
「語り得ぬはずの無」ということです。
そこで考えます。
「語り得ぬはずの他者の意識」(自己の意識でも同じ)
これもCDTなどで語ろうとするアプローチなわけです。 >>862
ここで言う「主体」というのは事実上の1さんのことでしょうか?
ちなみに私の感覚を述べさせていただきますと、
例えば私は1さんとパソコンを通じて意見交換をしているわけですが、
もちろん私が使っているパソコンの中に1さんの意識が埋め込まれているわけはありません。
さらに私は1さんの意識はじつは1さんの身体の中にさえ無いと考えています。
ただしここで言う1さんというのは、私と1さんとが直接会った場合の1さんです。
そのとき私の目に映ってる1さんの顔は(この時点でイチサンがゲシュタルト崩壊してきました)
私の感覚でいうと私の意識の内部にあるものですが、1さんの意識は私の意識の外部にあります。
私の内部にある1さんをどれほど解剖しても外部にいる1さんの意識が出てくるわけはありません。
わかりにくいたとえ話でしたが
少なくとも1さんには伝わった気がするのでそれ以上はやめておきます。
(ていうか私の力量の限界)
はたしてそんな感じに浮遊しているであろう意識というものはどのようにして生成されたのか、
それにしても大風呂敷を広げちゃったな、本当に回収できるのかな、
反省しきりです。 ところで位置さんはどこかで「自我の本質は『空』」というようなことを述べておられたと思いますが、
そのあたりについてを具体的に解説していただければと存じます。
これはつまり「自我(意識?)というのはどのようなものなのか」という問いです。 >>859
1さんは他者の意識が存在し得るとしたら自分が自分だけの意識を体験していることを不自然と思っているんですか? >>868
横から失礼します。
ちなみに868さんは自分が自分であることを不自然だと思いますか?
およろしければその感覚を伺ってみたいです。 >>869
私は思っています
でこすけさんはどうですか >>856
意識によって把握される意味がバーチャル的なクオリアなら
仮想的というクオリアを生じる物理構造が現実にある前提にあるわけでしょ。
意識が仮想的だからクオリアも仮想的なものだと認識しているとしたら
仮想的というクオリアを意識させられている知能がハードプロブレム
構造によって非現実的な仮想的なクオリアという意識を
受動的に認識させられている状態に過ぎないとは考えないの? >>870
私も時々おもいます。
しかしどういう時に思うのかはプライバシーの秘密です。
868さんはどのようなときにかんじますか?
もちろん黙秘権がございます。 >>872
「思う時」というのは意識したことがないですが
それは不思議に思うときもあれば不思議ではないと感じるときもあるのですか? >>865
面白そうですね。:)
CDT自体は唯物論とは異なるのでしょうか?
>>866
そうですね。主体は私のことです。でこすけさんの考えは理解できると思います。
あとは他者の意識は存在し得るかどうかですね。
>>867
自我の本質は空であるとは。
自我は無い。
我執は無い。
煩悩は無い。
自我は不定である。
自我は純粋な空間のように様々な事物が存在し得る。
自由意志は存在する。
そのようなことだと私は考えています。
しかし、私にとって自我は「空」であるということは完成した概念ではないです。
>>868
他者の意識の存在を仮定しても、それは主体の意識の一部であると考えます。 CDTは唯物論ではなく、物ではなく時空連続体ですね。
CDTが第一原理です。心もここから生み出されるような理論がでてくるでしょう。
量子脳(ペンローズのやつyンローズのやつだけじゃないよ)にも使えそうです。
言語論や文学そのものにも応用可能でしょう。
単体(simplex)によっていろいろなものを召喚できますw
仮想空間の構築に使おうとして試行錯誤中。 >>873
ひらたく言うと
お腹いっぱいで満足しているときになぜ自分は自分なのかとか
そんなことはいちいち考えないものです。
ただひたすら自分の運命を呪うときはWHY!?とかなることもあり得ますけど。
ただ、私が今一度考えてみたいのは
「何故それを不自然と感じるのか」というような問です。
そしてこの問は理性とは何なのかに通じるものだとおもいます。
ご存知のように近代哲学や近代科学は疑うことから始まります。
いずれにしても徹底的に疑ってかかろうという人間性の悪さが哲学の特徴です。
ここでは意識のハードプロブレムを問題にしているわけですが、
私はそれはどこかに疑うべき問題があることに気付かないことから
起こっているのだろうと感じています。
それが何なのかは私もよくわかりません。
よく考えてみると868さんをダシにつかってしまったかんじになっていて
恐縮至極というかんじですが、
とにかく私たちは何かを見落としているのだろうと思います。
きっと、当たり前すぎて見落としているのではなかろうか、
868さんも何か気づいたことがあったらご意見を
寄せていただければと存ずる次第でございます。
なんていうか、遅い時間にすいません。 >>875
物とは少し異なるのですね。
心を記述できるというのは魅力的ですね。
難しそうですから、私に理解できるかな。 >>874
>主体は私のことです
となると言葉尻を捕まえるようで恐縮ですが、>>862の
>機械の意識も主体(1さん)の意識の内側
というあたりから察すれば、私の意識も1さんの意識の内側で存続可能ということになるのでしょうか?
そうなのであればそれはどのような意味になるのでしょう?
あるいは何かの間違いでしょうか?
>自我は「空」であるということは完成した概念ではないです。
そのためなのかどうかはわかりませんが
実は率直に申し上げて今ひとつピンときませんでした。
そこでそのようにお考えになった経緯を限りなく抽象的で構いませんので
すこし解説していただければあるいはリアリティがつくかもしれないんですが、
いかがでしょうか?
なお私の場合、繰り返しで恐縮ですが、自我は存在はしていませんが機能はしています。
自我は何かの意味といいかえることもできるかもしれません。 >>878
不正確でしたね。すみません。正確に言い直します。
機械の意識は存在し得ない。
仮に存在するとしても、主体がそれを経験すれば、それは機械の意識ではない。
私が出来ているかどうかは置いておいて、自我は空である、ということは、
体得することですから、言葉では説明しづらいと思います。
このスレッドの最初の方で議論されていた十牛図を調べてみるのはどうでしょうか。 >>874
主体の意識の一部と考えれば問題はないのかもしれません
簡単ではないですが >>876
私はそんなに深く考えてないようです
私の体の因果関係は生物の始まりに求めることができるだろうと
これはみんなが疑問に思っているはずであり一人で考える必要がない
でも自分の意識については体と同じように考えることができずとても身近な疑問として浮かび上がってきます
意識がどういった因果関係をもって作られているものなのか
そのメカニズムが解明されれば解決されるだろうと思っています
体と意識についての単純な錯覚で起こっているのかもしれません >>879
となると>>1の
>もし存在すればそれは他者ではない。
というのも「主体がそれを経験すれば、それは他者の意識ではない。」
というニュアンスだったのでしょうか?
ちなみに私は
「もし存在するとしても、あらゆる意味で自分には無関係」
あるいは
「もし存在するとしても自分の無意識を自分で自覚できないように、
他者の意識は自覚できない自分の意識の一部である。」
みたいなことかと思っていました。
考えてみれば私の理解もテキトーです。 >>881は>>868さんでしょうか?
「生まれ変わったら男になりたいと思っている女は
もし仮に男に生まれ変われたとしても
生まれ変わったら女になりたいと思うだろう」
というジョークがありますが、
そういう人がなぜそう考えるのか
そのメカニズムについては私はよくわかりません。
経営の神様といわれた松下幸之助は
採用のための面接で「君の人生は良かったか?」と聞いて
「よかった」と答えた人を採用したといいますが、
そのあたりに乱世を生き抜くコツがあるのかもしれません。
お互い頑張りましょう! >>883
881は868です失礼しました
一瞬なるほどと思ってしまうジョークですね >>882
>>1 は同様のことを短く言ったものです。
しかし、色々と想像してもらえればいいなとは思っていました。 >>877
少し調べてみましたが、CDTは物理学の理論で、心との関係はよく解りませんでした。
CDTが心を説明するというのは、現代的なある種の唯物論かなという印象を持ちました。 >>879 その2
十牛図のくだりはあまり関心がなかったので読み飛ばしていました。
失礼しました。
しかしこれから私が述べようとしていることはひょっとするとそれ以上、
1さんも含めた多くの人の人格を否定しかねない
もはや私が殺されても文句を言えないくらいヤバい話かもしれません。
それでも真実は時に非情なのだろうと割り切るつもりですが
とにかく本当に本当にすいません。
私は「神」を信じていませんが
じつは「悟り」的なものも信じていないという主旨のことです。
人間には様々な要素の中に宗教性を見出す傾向があるものです。
様々な自然現象であるとか多様な物体であるとか
あるいは運命とか思し召しとかそんなかんじのこともあります。
そんな宗教性を投影する対象のひとつとして身体感覚があります。
夢とか幻覚性植物による幻覚とか、
炭酸飲料のシュワシュワ感がその対象になることもあるようです。
わたしは「悟り」というのは心身にプレッシャーをかけたときに起こる
精神錯乱によるある種の錯覚なのだろうと認識しています。
えてしてそのテンションのときは
たとえば夢の中で蝶になってヒラヒラ飛んでいても疑問には思わないように、
「梵我一如」や「諸法無我」にリアリティを感じるのだろうということです。
これは私の経験に基づく感覚でもあります。 >>879 その2のつづき
私はつまりこの世には神も仏もないのだろうと考えているわけではありますが、
しかし人生に悲観しているわけではありません。
最近思い当たったのは
「人間なんてメシ食ってクソして寝るだけ」
という格言(?)です。
日々充実しているときはメシがうまいしクソをひねるのも気持ちがいいし
ぐっすり眠るのも気持ちがいい、
日々の暮らしは気持ちのいいことばかりだということです。
人は本来何かに頼らなくても生きていける、
もちろん現実はそんなに甘くはない上
切実な状況にある人たちに対して
私のような恵まれた人間が言うことではないとも思いますが、
人は本来何かから自立するべきなのだと思います。
なぜならその方が絶対に人生が良くなるからです。
むかしクレジットカードか何かのキャッチコピーで
「大統領のように働いて、王様のように遊ぶ」というものがありましたが
(このあたりで私の世代がわかる)
私の理想は「牛のように働いて、泥のように眠る」
といったところでしょうか。
基本的には難しく考えない方がいいとは思うのです。
かくいう私もたった二本の缶ビールをやめられないくらしですが、
しかし酒を飲まなかったら生まれてきた意味がないとさえ信じている
でこすけ野郎でございます。
1様におかれましてはこのレスにより不愉快な思いをされたかもしれませんが、
私自身もこの展開を遺憾に感じていることにつきましてはご理解を賜りたく存じます。
失礼しました。 >>886
CDTをmind scienceに応用してみるということです。
いくつかの論文で言及されているように、
CDTなども、意識と同様の「ハードプロブレム」をかかえています。
この問題を「同じ問題」であると考えます。
よい文献がみつからなかったのですが、
Have we lost spacetime on the way? Narrowing the gapbetween general relativity and quantum gravity
Baptiste Le Bihan, Niels Linnemann
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-02064978/document
このへんでも問題点が言及されています。 >>887-888
私自身は、神、天使、悪魔、鬼など、それらの存在を一応信じています。
悟りに関しても一応信じています。
とは言え、無神論を非難するつもりはありません。ご安心下さい。:)
神に関しては、私の能力に順ずる形でしか現れ得ないと考えています。
私は、来世も一応信じていますし、宗教的に考えられていることのほとんどのことは、
一応信じていると言って良いと思います。
しかし、特定の宗教を信仰しているということはありません。
神に頼るということはあり得るのかということは難しい問題です。
率直な感想としては、私は、神は人の自由を尊ぶように思います。
しかし、他力という言葉もありますし、それを頼るというのであれば、
頼ることも大切なのかなと思います。
これは明確な考えではありませんし、現時点では哲学であるとは思っていません。 >>889
海外では研究されているのですね。
確かに、3ページ辺りで言及されていましたが、私には難解でした。:)
時空間の出現のハードプロブレムがあるようですね。
素人的な質問ですが、そのようなハードプロブレムは
古典物理学にも存在するのでしょうか? >>890
「宗教的に考えられていることのほとんどのこと」を
「宗教的に考えられている概念のほとんどの概念」に訂正します。 >>890
細かいですが、
「これは明確な考えではありません」を
「これらは明確な考えではありません」に訂正します。 >>891
(同様の)ハードプロブレムとして認識されはじめたのは最近でしょう。
古典的には、物理の問題ではなく、基本的に「哲学の未解決問題」です。
物理学の未解決問題の中にもイージーとハードがあると考えられます。
最近といっても、ハードプロブレムという用語を除けば、ゲーデルの不完全性定理からですね。
ヒルベルトまでは楽観的だったw
ラッセルのパラドックスの解消と、量子論の解釈は、同じ構造を持っています。
このへんがハードプロブレムと同じ問題だ、と考えます。
(直観的ではあるが、不完全性定理も同じ)
「量子という謎」勁草書房
が参考になるかも。 >>894
「ラッセルのパラドックスの解消と量子論の解釈は同じ構造を持っている」
ということは興味深いと思います。
どのように同じなのでしょうか?
紹介して頂いた本は残念ですが絶版のようです。 >>890
私としては1さんが「神の存在を信じる」とすることに対して大変なリアリティを感じるところです。
詳細はあらためて例によって長文になるかと思いますが、
それは私にとっても神が存在するという意味に敷衍されることです。
なるほど、神は存在したんですね。
ただし私が理解したことが1さんと同じ意味なのかどうかは不明瞭です。
ここで私にこのスレの前の方で引っかかっていたのは
他者は自分が経験してしまえば他者ではないという流れの中で
「同じ質問を繰り返さないでほしい」としたことです。
その是非はともかく、私はそこから昔小耳に挟んだ噂ばなしを思い出しました。
つまりその真偽はともかくですが、
それによると大学の哲学の講義などでいわゆる逆転スペクトルについて触れると
ほのめかしただけで理解できる子がいる一方で、
いくら説明しても理解できない子がいるというのです。
果たして私は1さんのはなしを本当に理解しているのでしょうか。
じつははなしが噛み合っていなかったとすればわたしもババァ症候群です。 >>896
神は存在する方が、喜ばしいと思います。
「同じ質問を繰り返さないでほしい」というようなことは確かに言いました。
>>720 の「ある種の無は存在する」という命題は
そのことについて考えた私なりの答えでもありました。
クオリアや意識に関する考えは確かに理解を確かめることは難しいかもしれません。
数学や物理学のようにそれを使って問題を解くとか、
そういったことはあまりないからかと思います。 >>897
「ある種の無は存在する」ではなくて「ある種の無は存在である」でした。 さて、「悟り」がある種の幻覚かもしれないということから示唆されるのは、
一方でA=Aを正としている論理的思考なるものが
じつは狂気のあり方のひとつのかたちにすぎないかもしれないということです。
このことは私がとっているスタンスに反省を要請するものでもあります。
例えば私はまことに勝手ながら
1さんの世界観が私の世界観と表裏を成す可能性があるとしているわけですが、
それは私が1さんのスタンスで考察でき得る可能性をも示すということです。
ただしもしも私が私の感性でごちゃんにスレを立ち上げるのであれば
なにげにようつべノリではありますが
「自分の感覚にとって確かなものだけで世界観を構築してみた」
みたいになるかとも思われます。
私であれば他者の意識は存在しないとまで言い切る度胸がありませんから
基本保留程度になりますが、とにかくその前提で
「存在(現象)するというのはどのようなことか」
「自分はどのようにして存在(現象)するに至ったのか」
「自分は自分自身をどこまで理解することができるのか」
「なぜ世界はこのようなものとして与えられているのか」
などを考察します。
そしてこのスタンスは完璧に私を打ちのめします。
つづく >>897
なるほど、このレスは見落としていました。
それにしても「ある種の無」というのはちょっとズルいですね。
早速パクらせていただきます。 あらー、『量子という謎―量子力学の哲学入門』は、こないだ買ったばかりなのに。
書店によっては残っていると思うけど、いま営業してなさそう。
図書館も開いてないしねぇ。 ジュンク堂には店舗在庫がまだあるので全国でお取り寄せできますね。 「無」こそが、数学の「点」のように、哲学的探求の起点となるでしょう。
哲学とは、「『無』が『存在』することによる『物語』」なのですw >>903
数学の点のような哲学的探求の起源になる無なんてどうやったら起点なりうるの? 無が存在することによる物語を哲学と錯覚してしまった妄想なのですねw ばかばかしい物語ばっかりなのが5ちゃんなのは承知してるから毎度〜ってなもんだなw >>900
確かに、ずるいですね。:)
>>901-902
Amazonにはありませんでしたが、あるところにはあるのですね。
>>903-906
「ある種の無は存在である」はアイロニーですよ。
よく読めば解ると思います。
それは論理学的には矛盾です。
しかし、無意識は存在する無ではありませんか? >>907-908
何を指しているのか不明瞭ですが、「無」に関しては前述の通りです。 >>909
>>720 を解説しますと、私は「他者の意識は存在し得ない」と考えていますが、
「ある種の無は存在である」ことから「他者の意識は存在し得る」ことは
導くことができるということです。
それを「逸脱した」思考と呼んだわけです。アイロニーと言っても良いです。 >>909
>>720 を解説しますと、私は「他者の意識は存在し得ない」と考えていますが、
「ある種の無は存在である」ことから「他者の意識は存在し得る」ことは
導くことができるということです。
それを「逸脱した」思考と呼んだわけです。アイロニーと言っても良いです。 >>912-913
ブラウザーかサーバーの問題で連続投稿になったようです。 >>912-913
5chに削除機能があれば良いのにと思うことはあります。:) >>899のつづき
これはつまり私のスタンスと1さんのスタンスとの違いについての考察です。
ちなみに私がこれから述べることは佐藤文隆さんという理論物理学者がお書きになった
『量子力学のイデオロギー』という著作の私なりの理解です。
実はこのスレでも何を隠そう1さんから「ホログラフィ」という言葉がでていますが、
この時点で察した方もおられるのであろうと思いつつ、
しかしその文脈から1さんはこの視点に触れる機会がなかったように見受けるので
ちょっと知ったかぶってコーシャクを垂れさせていただこうと思います。
私はホログラフィとホログラムの違いさえあやふやなド素人であり、
いずれにしても立体写真みたいなものなのだろうという程度の認識ですが、
じつは(はなしは甚だ大雑把です)現物とそれからそっくりに再生された像とのあいだには
どちらがオリジナルなのかという論点があり得るようです。
もちろん一般的には現物の方のような気がするわけですが、
しかし実は哲学的(?)には現物をオリジナルとする根拠が
たとえば私たちの知能では人を殺してはいけない究極の根拠を見出すことができないように、
そこでも雲散霧消してしまうというのです。 >>916のつづき
じつはこれは私からすると対岸の火事ではありません。
私といたしましては脳は存在しないとかうそぶいている訳ですが、
そんな私でももし目の前に脳の現物があれば「げ」とかなることでしょう。
つまり私の中には素粒子の塊として機能はしていても存在はしていない脳と、
触ればブヨブヨしていそうなさも存在感のある脳と、
ふたつの脳があることになります。
ではどちらが本当に意味を持っている脳と言えるのか、
もちろん私が前者を主張することになるのに対し、
おそらく1さんはどちらかといえば後者になるのでしょう。
しかしじつはホログラフィの件からすれば、
そのふたつは全くの等価ということになるわけです。
故に1さんにとって神が存在するのであれば、
それは神が存在するということになり得るのでした。
私は仏教哲学(?)については遠目から見た印象に過ぎませんが、
優秀な人たちによって精緻に構築された現代社会にも通用する知恵の体系と認識しています。
ただしその中心は信仰の域を出ないものだとも考えていたりします。
しかしおそらく私の世界観も同様で、その中心はある種の虚構です。
これは私が哲学とは真偽を論じるものではなく、
説得力を競うものだとすることの根拠です。
以上は実は自分でも少々あやふやな話です。
集中攻撃を食らう予感がするところです。 「語り得ぬもの」の代表格としての「無」ですね。
なにしろ「ない」のだから、(直接に)それを語ることはできない。
そう考えると、なにものであっても、それを(直接には)語ることなどできない。
「意識」も同じ。
公理的集合論には、公理によって語れない部分がある。
そこを語ってしまうと矛盾する。
意識から量子論やら集合論まで、結局は、「その」問題にたどり着く。 このスレにはなにげに優秀なスナイパーがごろごろ潜伏していませんか?
暗闇の中にたくさんの目がギラギラ光っている気がします。 >>899
>>916
A=Aを正とすることは狂気かもしれないとはどういうことでしょうか?
A=Aほど正しいことはそうないように思います。
「自分の感覚にとって確かなものだけで世界観を構築してみた」 というのは、
軽い言い方ですが、知識の在り方を正しく述べていると思います。
実在は、触るまではホログラムであることがあり得ます。
さらに、触れられても、全く未知の技術の虚構であることがあり得ます。
本質的に、実在とは可能性の追求だと思います。 オレが見てる書き込みは誰が書いてるんだ?
対話をするって行為は何なんだ? >>909
>無意識は存在する無
私は無意識については子供の頃から感心を寄せていましたが、
ひたすら漠然としていただけのものでした。
ところがこれは本当に数週間前のことなんですが
ようつべでぱっさんことぱさいとさんの動画を見て
具体的なイメージがついたのでご紹介させていただきたく存じます。
たとえばまさにここで気になる文章を拾って読んでいるとき、
それはつまり意識してやっているはずです。
しかしその際眼球や瞼はいわば無意識にコントロールされているはずです。
あるいは無意識に痒いところを掻いたり、ケツが痛くなって座り直したり、
しかしその反応は物理的現象や化学的作用に起因するとは思えません。
必ずしも痒いからといって掻くとは限らないように生理的反応とも限らない気がしますが、
つまり一般的にはつまりある種の心的現象によると考えるのが妥当に思います。
そこでもし意識が存在するというのであれば
無意識も存在すると言えるのではないかというおはなしでした。
ちなみに私は意識は存在とは言いづらい気がしています。 >>921
>A=Aを正とすることは狂気かもしれないとはどういうことでしょうか?
甚だわかりづらい話で恐縮です。
まず、物事が客観的に正しいということと(客観的に正しいということがあるという仮定の話ですが)、
その物事を正しいと思う感覚は別のことだということです。
たとえば鎌倉幕府の成立が1192年とされていることが正しいという感覚と、
実際がどうだったのかということは別のことです。
A=Aについても同様です。
たとえば1+1と2とは数学的に等しくても日本語としては異なる概念です。
つまり1+1=2にはすり替えがあります。
そして左辺のAと右辺のAが超厳密に等しいのかはわかりません。
いずれにしてもそこにあるリアリティはその対象とは違うことに由来するという感じです。
狂気という表現には語弊があるかもしれませんが、
理性の判断には絶対に正しいという保証がないということだと思います。 >>917
確かに私は脳は実在すると思っています。
私は哲学は説得力を競うものではなくて、正しいことを考えるためにあると思います。
>>919
私も意識の問題はパラドックスや不完全性定理のような理論と
関係している可能性はあると思います。
その問題を解くことには勿論価値はありますが、
その問題を記述することにも価値はあるのではないかと思います。
>>922
私の意識にあなたの意識は存在し得ませんから憶測でしか語り得ませんが、
それは有意義な対話をする、あるいは見るためではないでしょうか。
>>923
無意識は不思議ですよね。
例えば、脳の第一次視覚野では物体を認識する前段階として、
物体の境界を認識しているらしいです。
それは無意識ですよね。
そもそも意識はどの物体を見るかなど、高次の決定をしているだけで、
物体を分析する過程のほとんどは無意識的なものかもしれません。
>>924
左辺のAと右辺のAには主観的には時間のずれはありますね。
それを私は無時間的に同一であると解釈しているのかもしれません。 >>924
客観的にも時間のずれはありますね。
あと極論すれば、左にあることと右にあることは異なりますね。 A=Aを古典的な命題論理(のブール束)に従うものとするならば、恒等式であり恒真式です。
Aがオブザーバブルであって、左辺と右辺にあるということがなんらかの意味を持つならば、
相互作用を伴いますので、異なる結果になるかもしれません。
場合によっては、左辺を観測すると右辺は消失してしまうかもしれませんw
正確には、『量子力学の数学的基礎』(フォン・ノイマン)をご覧ください。
C言語などでも、左辺のAを評価したとき副作用があれば、右辺のAの値は違うものになる可能性があります。 >>925
>私は哲学は説得力を競うものではなくて、正しいことを考えるためにあると思います。
まっすぐですね。
揶揄するつもりは私の五人の娘に誓ってサラサラないつもりなんですが、
ひたすらつきささります。 >>922
じつは私も1さんとは街中ですれ違ったりしていることがあるのかなとか
思ったりしています【哲学】 >>917
存在という概念をどう定義しているのかよくわからないな >>930
率直なご意見ありがとうございます。
じつはここではまさに「存在」の定義を問題にしていたつもりだったのです。
もう少し具体的に表現するべきだったのだろうと思っています。
さて、たとえば普通の人の場合目の前にパソコンがあれば、「パソコンがある(存在する)」と認識することでしょう。
しかしそのパソコンを分解してその部品を全部かき集めても普通の人ならその集合をパソコンとは思わないはずです。
そこでもう一度組み立てたとき、パソコンは機能しますが、
もはや部品の寄せ集めにすぎないその機械は存在してはいないかもしれないという感覚を持つこともあり得ます。
あるいは原子について、学校では原子核のまわりを電子がまわっているというふうに教わります。
その時私などには実際に存在しているのは素粒子であって、
原子はグループにすぎない(機能はしていても存在はしていない)気がします。
そこで存在について二つの考え方が出揃います。
単純素朴にパソコンは存在しているという考え方と、
存在しているのは素粒子であって、素粒子の塊であるパソコンは機能していても存在しているわけではないとする考え方とです。
そこで次にどちらの考え方がリアルなのかという問が生じるわけですが
>>917の文脈ではどちらともいえない、そのふたつは完璧に等価であるというのが結論です。そこに絶対の基準がないためです。
例えば930さんはどちらがリアルだとお考えになりますか?
そしてその根拠は?そしてその根拠の根拠は?そしてその根拠の根拠の根拠は?
やがて訳がわからなくなるのは必至です。
以上はじつは大変乱暴なはなしでしたが、
それでもニュアンスは大きくズレてはいないと思います。
ご理解いただけたかどうかはわかりませんが、
もしもより確実な理解をお求めでしたら前掲の著作をおすすめいたします。 >私は哲学は説得力を競うものではなくて、正しいことを考えるためにあると思います。
世界にはテロなどのイスラム世界の正しさがあるようにアメリカの正しさもあるのです。
力をもって衝突した場合に強いものが屈服させれば、強いほうが正しいという
説得力が生まれます。
正しさという価値観では勝負を競うそれの誰かの側面からみた尺度でしかない。
つまり勝者の主体性から生じる矛盾なき論理であります、勝者が機能していれば
せは正常世界であり、常識でありますから繰り返し確認しても正しい答えが得られます。
では、強者の正常世界によって負け組みが異常世界になった、その側のテロ国家の
メンバーからみたらどうでしょう?異常世界では負け側の正しい答えは得られませんね。
それが観測者からみた思考、つまり現代論理であるので否定するわけではない。
非観測者(他の観測者ではない)からの関係をもって世界を捉える思考は論理では
得られません。
仏教の悟り得たあとの世界観からは論理思考を超えた領域を知ることはできますが、
それは非論理であるので論理の立場から語れず、単にデタラメとかトンデモとか妄想と
説明するしかないのです。
十牛図の最後に描かれるそれこそ、そのトンデモであります。
聖書の言葉に「はじめに言葉ありき」から始まる文があります、論理もそうです、
はじめに論理あり、論理否定はすなわち論理ではなく「全て拒絶するべきだ」、
だからこそ、貴方も拒絶していればいいのです。結果は同じでしょうから。
最初に言葉、論理に束縛されたものが、束縛されたままそれを超えるなどありえません。 >>927
結局、役に立つ定義を利用すればいいということかもしれませんね。
古典的な定義は様々な場面で役に立つと思います。
>>928
大切なことだと思います。
>>929
戦争は正しくないと思います。罪のない人がたくさん亡くなるからです。
そもそも死刑制度は正しいのかという問題があります。
全てのことに正しい答えがあるかどうかは解りません。
現時点で正しいか正しくないか決められないことがあるとき、
私達はその答えを留保すべきだと思います、
その留保の原則からすれば、死刑制度は適切ではありません。 >>933
「思います、」は「思います。」が正しいです。 自然の働き、すなわち法に例外なんてないんだよ、何かを得れば必ず何かは失う、変化とはそういうものだ。
得るだけを願って捻じ曲げても、見えないどこかで何かを失う。
見えない何かを失っても「しらねーよ」と切り捨てるからこそ、前に進める。
どんなに切り捨てても、それは繋がっている裏と表である、表しか見ないのもいいだろう。
常に主体からみた観測結果だ。
臭いものには蓋をして忘れてしまえ、記憶にないから仕方が無いよね。
法は裏切らない、どこかしら見えない形で姿を変え 裏と表の 対称を例外なく収束させる。
なぜなら法だからだ、ただ具体的な働きが見えないだけ、見ようとしないだけ、それが人というものだ。 >>935
例えば、スマホを得るとして何かを失うでしょうか?
私は何かを失うとは思いません。
表があれば裏があるというのはほとんどの場合はそうだと思います、
例外は「存在」です。「存在」の裏と呼べるものは「無」であり、存在しません。 >>936
あ、スマホを使うことによってその時間を失いますね。 >>936
「存在」の裏は「無」であるというのは、意識の問題にも関わると思います。 >>936
「思います、」は「思います。」が正しいです。
また、同じミスです。:) 自分より存在しそうなものが想定されたりするほうが謙虚でいいと思う。 存在までたどり着いたかどうか、常に存在するものもなかろう。 >>940
存在は成長すると思います。
そのようなことがあるから日々は楽しいのだと思います。存在への予感。 転生したり変容したり忙しいほうがいいのかもなあ。成長の合間に。 >>944
転生してもこの現世の続きを生きたいです。:)
>>945
無我は真理であれば辛うじて解ります。 >>931
君が定義する存在は可能性ということかな。
パソコンをバラバラにして部品を集めたものはパソコンとしての可能性は残るものの
リアルではパソコン可能性が絶たれているということ。
どちらがリアル、つまりあるがままかという問は、可能性がある点で
どちらもリアルであるといえる。 >>933
>戦争は正しくないと思います。罪のない人がたくさん亡くなるからです。
私が恥ずかしながら最近学んだのは
戦争は殺し合う必要のない人たちが殺し合わなければならないから悲しいということです。
私は人は大切なものを守るためには戦わなければならないときもあると信じています。
しかし時代か何かの大きな流れの中で
違った出会い方をしていれば友人になれたかもしれない人と殺し合わなければならないという視点は
忘れてはいけないことだと思います。
また、そういう思いを持ちながら戦った人たちがいるという歴史も
忘れてはいけないことだと思っています。 >>947
>どちらもリアルであるといえる。
そのリアルもアリアリのアリだと思います。
それは矛盾するものが両立する狂気です。
>>926
一応確認しておきたいのですが
仮に客観的(?)に右辺と左辺とが寸分違わず正しいとしても
それがそうだという現実と、それを正しいと認識することとは、
本質的に別のことだということです。
あるいはつまり、A=A(この場合の右辺と左辺は同一)を正しいとする感性と、
A=Bを正しいとする感性(狂気)とは、
構造的に同じことだということです。
ところでちょっと気になっていたんですが、
1さんは「実在」という言葉をどのようなニュアンスでお使いでしょうか?
どこかで「存在とは主体的なもの」というようなことも述べておられたとも思いますので
そのあたりのかんじが気になっていました。 >>936
>例外は「存在」です。「存在」の裏と呼べるものは「無」であり、存在しません。
それは「存在」がどのようなものであるのかによるところもあると思います。
私は「存在」とは開放系であり、他我は自我の裏側的なものとして存在し得ると考えています。
根拠は無いと言っても過言ではありませんが、少なくとも完璧な反証もできないという認識です。 >>950
根拠はないというか、
他我が存在しているとすればそういうことなのだろうという「解釈」です。 >>946
>転生してもこの現世の続きを生きたいです。
百年たらずの人生なんて、短かすぎですよね! >>949
「A=A」と「A=B」は構造的に同じであるとはどういうことでしょうか?
考えてみましたが、解りませんでした。
実在に関しては、「繰り返しの経験により確立したある種の存在」だと考えています。
>>950-951
「他者の意識は存在し得ない」ことは、
「全ての存在は主観の内側にある」ということと
「一つの意識の中に二つの意識は存在し得ない」ということから
論証可能だと考えています。それは >>442 と本質的に同一的です。
>>952
1000年くらい生きて、その後は4次元空間にでも転生したいです。:) >>953
「全ての存在は主観の内側にある」は
「全ての存在は主体の意識の内側にある」と言っても良いです。
以前の言い方ですと後者ですね。 >>953
実在に関しては、内井惣七著「科学哲学入門」から学びました。 >>936
>私は何かを失うとは思いません。
それは貴方の業(カルマ)をあらわしています。 >>949
アリアリのアリという表現で何を思っているのかさっぱりわかりませんね。
なにがどう矛盾しているか知らないからこそ狂気ということにせざるを得ない。
矛盾するものは両立しないからね。
可能性という絶対基準からすれば、可能性がないという事。 >>953
わかりにくかったですね、すいません。
私が言いたかったのは
Aさんが「A=Aを真とする(一般的に言って正常)」ということと
Bさんが「A=Bを真とする(一般的に言って狂気)」ということとは
構造的に同じものであろうということでした。
そこで私が問題にしてみたいのは正常と狂気の違いがいかなる事情によるものなのかということですが、
ちょっとうまく説明できる自信がなくなってまいりました。
いずれ挑戦させていただきたいとは思うところです。
>実在に関しては、「繰り返しの経験により確立したある種の存在」だと考えています。
ありがとうございます。
ひねくれものの私としては
どのようにしてその経験(に対する理解)を正当化しているのかが気になるところではあります。
>>954
>全ての存在は主体の意識の内側にある
実は私はそのようには認識していませんが、
ひょっとすると一般常識であったでしょうか?
>>955
さっそくアマゾンのレビューをのぞかせていただきましたが
なるほど興味深い著作ですね。
ただし私の知能で理解できるのかどうかは疑問です。 >>961
実は正直申しまして私には>>947の意味するところを充分理解できておらず
思索が不充分なままレスしていたところがありました。
大変申し訳ありませんでした。
ただ>>949については
矛盾するものを、両立させるにしても、その片方を切り捨てるにしても
いずれにしても狂気であることに変わりはないとしておた方が
そこでの私の主張を明確に表現できたのではないかと反省しています。
あるいは「狂気」という表現がわかりにくさの元凶かなという気もしますが、
ようはユークリッド幾何学が非ユークリッド幾何学のバリエーションのひとつであるように、
論理が非論理のバリエーションのひとつだということであり、
私の認識ではそれほど突飛でもない気がしたのですが、いかがでしょうか。
また、「色即是空」のような一般的には矛盾するものを真理としている視点
(わたしもそれは真理であると認識しています)があるということを
ご理解いただければと存じます。
ちなみに「色即是空」というのは「存在」と「無」とが完璧等しいということです。
いずれにしても947さんの指摘はたいへん参考になりました。
あらためてお礼申し上げます。 >>963
般若心経の解釈はいろいろあるようで、
なかには私の理解と異なるものがあるということは
私も存じているつもりです。
しかし、このスレのどこかにもあったような気がしましたが、
仏教哲学は非論理を語ることがあり、
私としても私個人の思索経験から
「それはそうだ」としか言いようがありません。
説明不能であるということが傲慢に感じられることもあるかもしれませんが、
「異論は認める」としてただただ戸惑うばかりです。 >>953
>1000年くらい生きて、その後は4次元空間にでも転生したいです。
1000年たったら「あと1000年」とか思いますよ、きっと >>964
「A=A」が何故正しい(この場合は正しい)のかを説明するのが困難であるように、
「A=非A」の正しさを説明するのは困難だということです。 残りのレス数が少ないところで連投すいません
「A=非A」が何故正しいのかを考えるのは時間の無駄です。
私としてもここでは「A=A」です。 ところで恐縮ながらここでは1さんに一歩譲っていただくとして、
もしも他者の自我が存在した場合、
何かの不都合が起こる可能性があり得るとお考えになりますか?
直観レベルで結構です。 >>964
説明不能というか現時点で説明が不可能なだけでしょうね。
思索不足で理解不能だったのなら、正直にそう返答すれば
良かっただけで、わからないまま返答する必要はなかった。 「A=非A」というのはおもしろいですね。
Aが古典的命題でなければ、なんとでもなります。(いろいろな実装方法が考えられます)
三歳児の世界ですねぇ。
古典的命題とは、三歳児の論理なのでしょう。
幼児における他者の認識内容の理解
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/39/1/39_47/_pdf
日本語の文献ならjstageが豊富。 >>950では「開放系」とかカッコイイこと言ってますが、
これはライプニッツのモナドが閉鎖的なイメージを持っていることに対して
対義語をあてはめただけのものです。
(私は例によって『単子論』を熟読できていないので頓珍漢かもしれません)
これはどういうことかというと
私の中で刻々と起こっている様々な変化について
ライプニッツのかんじでは(1さんもですが)おそらくその変化の原因は内部で完結するものです。
それに対し私は外部と影響しあうことによって起こっているものであると考えます。
(どのようにして影響しあっているのかはまた別のお話)
ただし実はわたしは直観レベルに過ぎませんが、
この変化は内部だけでも説明可能のような気がしています。
そしてもちろんそれは他我の存在と矛盾しないと推測するわけですが、
しかしここでひとつ素朴な疑問が浮かびます。
ひょっとすると私はただ夢を見ているだけかもしれないわけですが、
それにしても何故世界の説明(?)が自己完結可能であると同時に
他者を想定した場合でも可能なのか、
何故矛盾するふたつの解釈が同時に可能たりうるのか、
本当にただの夢だったら何でも良かっんじゃないかと思うところです
ひょっとすれば支離滅裂な世界像でも良かったはずだろうに。
(これで私が言いたいこと伝わるのかな?)
おそらく1さんからすればこの疑問も含めてすべて内部だけで説明可能なのでしょう。
しかし普通の人(アイロニー)はむしろこのことによって
外部存在説(?)に説得力がマシマシな気がするんですが、
さて、いかがでしょうか? >>969
レスありがとうございます。
ちなみにこのレスは理解できています!
>>970
興味深い情報ありがとうございます。
ところがせっかく貼っていただいたリンク(? 私はパソコン弱者なのです)を
クリックすると何故かエロサイトがでてきます。
パソコンが中古だからでしょうか?
それにしても「なんとでもなる」というのは気になります。 >>970
J-STAGEってすごいですね!存じませんでした。
私のような門外漢は迷子のなるばかりですが、
なんだか世界はまだまだ大丈夫のような気持ちになります! おそらくjumpページがでて、エロ広告がかぶっているのでしょうw
urlをコピーしてブラウザにはりつければOKです。
三歳児の世界では、Aが変化していてもそれに気づけないので不思議な世界になってしまいまs.
五歳児になると、他者というものも理解されはじめます。
哲学というのは、三歳児から五歳児への成長を、大人になってから繰り返す学問なのですw
哲学者というのは常に幼児です。バカなのではありません。賢い三歳児なのです。 >「A=A」が何故正しい(この場合は正しい)のかを説明するのが困難であるように、
それが学問や知識や技術や論理というものです
>「A=非A」の正しさを説明するのは困難だということです。
これはオカルトやトンデモや異次元の領域であります。
困難というより論理で説明するのは論理を否定するしかないのです、実に愚かなそれを
認めたくないが故に論理に不可能はないと自己暗示しているだけでしょう。 世界の論理は見える範囲、認知可能な範囲での関係性を説明します。
これを超えた領域は認知に限界があると知っているかぎり存在しうるのですが、
説明できないことを認めたくないためにそんなものは無いという立場をとるのです。
見える範囲のみを説明するのが科学であり、見えない範囲を説明すればそれは妄想や
オカルト、デタラメであります、なぜ科学の立場でありながらその科学の範囲か非科学の
領域かを理解しないのでしょうか、それは科学に限界はなく全てを科学で説明できるという
傲慢な態度があるからです。自分がどれだけ無知か、世界の科学を集めても科学での
英知ではどうにもならないものだらけなのにそれを認めたくないのです。
そんな態度では似非科学となるのは必定でしょう。 >>974
「意識のハードプロブレムなど存在しない」
みたいなことを言っている唯物論者(?)から見れば
まさに私などは三歳児なのでしょう。
しかし私はそんな唯物論者の知性を疑っています。
おそらく1000年前から滅茶苦茶優秀な人はいたはずです。
そしてきっとそういう優秀な人たちが天動説や創造説をその卓越した知性で
補強してきた歴史があるのだろうと思います。
ただしそれは裏を返せばやはり私が間違っている可能性があるという事でもあります。
私ははたして賢いのでしょうか?
まともでないのはわかっているつもりですけどね!
>>975
これは私の勝手な空想かもしれませんが
ブッダが菩提樹の下で悟ったとされることは非論理のような気がします。
しかしその後のブッダの教えはどちらかといえば論理的であるような印象を持っています。
それはブッダがあくまでも現世で救われることにこだわったためであろうと
推測します。
もはや論理は相当有効なのでしょう。
しかし論理の集積である科学文明は野生の思考よりも寿命が短い気がします。
下手をすれば核戦争だか細菌戦争だかという始末です。
はたして私達はどうしたらいいのでしょう?
長生きしないほうがいいのかな(オチたでしょうか?) >>976
私とは関係ないレスかもしれませんが、
少し気になった事があるので一言させていただきます。
最近の武漢肺炎の流れでアビガンという薬が話題に上がりました。
私が聞いた話によると大変有効である可能性が高いにも関わらず
それを開発したメーカーが製薬会社ではなかったため
製薬業界がナンかカンかいちゃもんをつけて
市場への流通を妨害しているというのです。
私は今歯医者に通っているのですが、
製薬メーカーに対する不信感を先生にはなすと
メーカー側にしてみれば従業員の生活を守るために
必死になることがあるとおっしゃっていました。
膨大な開発費を投入しながら回収できない上
シェアを奪われたのではシャレにならんというのです。
そこで、なるほど、そういう視点があったのかと。
さて、その事に関する是非はともかく
ここでのポイントは視点です。
自分のスタンスを守ることは大切ですが、
様々な視点を持つことも大切です。
>>976とは直接関係ないことのようですが、
通じることがありそうな気もしたのでレスさせていただきました。
私のフォローのようにも見える内容でしたが
であるからこそと考えました。
また、おっさん臭い話題で恐縮でした。 >ブッダが菩提樹の下で悟ったとされることは非論理のような気がします。
>しかしその後のブッダの教えはどちらかといえば論理的であるような印象を持っています。
仏陀が悟ったものと、その信者が教義したものは別物でしょう。
仏陀は日記を残しただけで経典などのこさず、分派はかなりの数まで広がり、
時代と共にその説明は多様化し日本においてのその末端を見ればどれだけ異物なのか
わかりそうなものですが。
仏陀をあらわすならば、その言葉ではなく表す観念であり、言葉など解釈すぎません、
特に伝え移す経典の文字は写され翻訳され別のものに変化してゆきます、
それはキリスト教の類でも同じです世代と場所や人によって恐ろしく改変されています。
非論理と割り切るのは言葉としてどうでしょうか?
仏教の原典では物事の考え方は論理と呼ぶべきではないですが、対称性論理とでも
いうべきでしょうか?世界の最先端物理学や最先端数学者が神のように望む真理への
道筋でたどり着いたのが超対称性という捉え方で、より正しきものは対称に存在しているという考えです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E5%AF%BE%E7%A7%B0%E6%80%A7%E7%90%86%E8%AB%96
仏教の悟りの価値観や観念という部分ではその超対称性の考えの哲学といっても過言ではないです。
対称性のあるものは秩序や美しさがあります、神のような存在が具体的に何かを決めたのではなく
全ての真理が対称性の1つの原理によって派生している、対称性だけでは説明がつかない?
それは対称性で説明できている中から非対称のように見える原理があるということ。
つまり「自発的対称性の破れ」のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%99%BA%E7%9A%84%E5%AF%BE%E7%A7%B0%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%A0%B4%E3%82%8C 論理学では、「A=非A」と「A=B」は異なると思います
前者は矛盾ですが、後者は可能だと思います。
私の考えでは、他者の意識の存在は非論理です。
論理/非論理という一段高い視座から何を語り得るのか私としては興味深いです。
色即是空に関しては、実在は本質的に空虚であると解釈しています。
だから、非論理というよりは論理の範疇に入るかなと思います。 >>962
「全ての存在は主体の意識の内側にある 」に関しては、
私はこれも公理のようなものかなと考えています。
常識かどうかは解りません。
>>968
無いことが在るため、論理が破綻します。
まさに狂気かもしれません。 >>983
確かに、「主体の意識にある」とすれば、それでもいいですね。 >>735
それを言うなら死にたいと思うこと事態は誰にでもあると思うがな >>975
現世で救われることに拘れば、より善い人生をより長く
生きようという執着、思い込みに翻弄されるよね
人の役に立つ人間になるべきということを意味し、
役に立たない人間を必要とする矛盾した社会、そして
それを排除しようとする。
核戦争、細菌戦争、宗教戦争然り、勝利して現世で
救われようとする行為自体、非論理的な考えを実行に
移しているにすぎなかったりする。
救われるという言葉一つとってみても、
何を持って救われると感じるか幅があるけど、
単純に現世を暮らすことの喜びを感じられる社会の
在り方自体を基から履き違えてしまっているのが人間
っていう生き物だったりする。 >>986
私にとっては哲学あるいは思考することは喜びです。
ほとんどの人々にとっても本当はそうなのではないかと思っています。
そこで思うことは、人々は働き過ぎだということです。
多分、世の中の労働時間を半分くらい削減しても、
上手く経済は回せるのではないかと思っています。
そこで空いた時間を哲学などの思索に使って欲しいのです。 >>988
そうすると、数学や基礎科学なども進展が期待できると思います。 >>969
>説明不能というか現時点で説明が不可能なだけでしょうね。
なんの根拠もない希望的観測ですね、
説明ができるようになったことは多いが、全体のそれからみれば出来ない分の増加量より
できるようになった分の増加量のほうが明らかに少ないわけで
将来なんでも説明可能になるはずだという確信はどこから生まれるんでしょう。 >>990
説を明らかにするのが説明だから、自説に至った思考回路を認識できる
知能が伴えば、つまるところ論理的思考能力が備わった時点で、
説明可能にならない道理がないと思いますよ、ただしその認識が誤認や
誤解の可能性がないわけではないけどね。 >ただしその認識が誤認や誤解の可能性がないわけではないけどね。
可能性ではなく誤認や誤解でしかないことを否定する人は絶対に認めない類である。 >>988
雛の刷り込み行動じゃないけど、人も教育という刷り込みで
社会構成員となり将来経済活動で義務を果たさせる前提条件ありきで
義務教育を施して納税者を増やそうとする国があり
国民は誰もがその轍を踏まなければ暮らしていけない現実が
あるので理想と現実のギャップが大きそうです。
考えをめぐらせる暇があり、その楽しみを知っている者なら
恐らく大方が労働時間半減に同意するでしょうけど
労働時間を減らされると哲学以前に物理的に困る人がいるのも
また認めざるを得ないですね。 >>979
>仏陀が悟ったものと、その信者が教義したものは別物でしょう。
ごもっともなご指摘ありがとうございます。
私はなぜかキリストに関しては虚像だと思っていましたが、
ブッダについては今更ながらの「確かに」というかんじです。
ちなみに私が異様なリアリティを感じていたのは菩提樹の下云々のエピソードで
ブッダは悟りを得るとそのまま数日蓮華座をくずさなかったというくだりです
(記憶違いがあるかもしれません)。
ぶっちゃけ私もいわゆる神秘体験をしたことがあり
その瞬間「全ては私であり(梵我一如)、全てである私は存在しない(色即是空)」
とか体感するわけですが、
それにともなう感動がまさに数日続いたわけです。
(私はその感覚はある種の幻覚だと考えています)
今考えれば確かにブッダのエピソード自体は
後に誰か別の解脱者のエピソードをくっつけているのかもしれませんし、
ちょっと美化している印象さえありますね。
しかし私としてはなによりリアリティがあったということです。ご参考までに。
>非論理と割り切るのは言葉としてどうでしょうか?
私は非論理が悪いことだと思っていません。
979さんに悪気はないと感じますが
論理的に理解する必要がないことがあってもいいと思うのですが
いかがでしょうか?
>より正しきものは対称に存在しているという考えです。
私の認識によると対象性はある種の相対性です。
(たしかに「ある種の」というのは便利な言葉です)
そしてそれは世界が絶対性を持っていないかぎり有効です。
私としてもその方向でイケソーな気がしています。 >>981
ありがとうございます
すいませんけど、もうすこしおつきあいいただきたいです。
>>982
>「全ての存在は主体の意識の内側にある 」に関しては、
>私はこれも公理のようなものかなと考えています。
「のようなもの」ときましたか、
確かに反証はできませんね。
そてにしても哲学というのは多分タチが悪いもので、
(タチが悪いのは私だけかもしれませんが)
私としてはじつは1さんが他者の自我の存在を認めない本当の理由は
様々な考察の末の論理的帰結などではなく、
(無自覚かもしれませんが)1さん個人のトラウマか何かからくる
個人的事情によるところなのだろうとかんぐっています。
しかし私はそのスタンスも論理レベルで可能と考えているため
日々1さんのケツを蹴り上げさせていただいているつもりなのですが、
いずれにしても1さんには誠に勝手ながらもう少しハジけてほしい気がしています。
たとえば私でさえさすがに石ころに心は無いだろうと思っていますが、
1さんが同様に身の回りにいる人々をそのような目で見ているようには思えません。
その上で他者の意識は存在しないと主張するのであればもっと徹底した考察がほしいところです。
本当に他者の意識は存在しないと認識しているのであれば
「罪のない人がたくさん亡くなるからです」とか言わない気がしますが
いかがですか?
失礼しました。 >>993
理想主義的でしょうか。学問に限定せず、芸術、スポーツ、娯楽などの自由もある
とすれば、賛同者はさらに増えるのかなとも思います。
>>995
トラウマとかではないです。:)
それでは、そのような考えに至った過程について少し説明します。
始まりは「主体の他者理解は主体の能力の限界を超えられない」
という考えだと思います。これは幼少の頃から漠然と思っていました。
そのような考えから、成人後「他者とは主体の考えの投影である」
と考えるようになり、そして、さらにその根源的な考察から、
このスレッドにあるような「他者の意識は存在し得ない」という結論に至りました。
私にとって、それはエッセンスであり、仮にそれが否定されるとしても、
そこに至るまでの考えは自存したものである、と考えています。 次スレッドに移行しました。しばらくの間はこちらも見ます。 1000までのスペースが気になりますから、
意識について思うところを少し書いてみたいと思います。 このスレッドは1000を超えました。
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