仏教哲学
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ブッダ「今流行りの存在論や認識論への批判を考えたぞ、そしてそれに基づく楽な生き方を考えた
修行仲間には全部教えるが弟子達には理解できないだろうから自己啓発的なところだけ教えてやるよ」
↓
弟子「ブッダは存在論や認識論についてあまり語らなかったけど生き方については沢山教えてくれた
後世にも伝えたいから皆で聞いたことをまとめよう」
↓
僧侶集団「ブッダの言行録から存在論や認識論を作れそう
でも俺たちが考えたという設定だと説得力に欠けるからブッダが言ったことにしよう」
↓
僧侶集団の中でも一部のエリート「他の宗教や学者との論争に勝つためには理論を整備しなきゃならん、仏教外からも良いところは取り入れてついでにブッダが言ったことにしよう」
↓
僧侶集団、ブッダの意図や存在論、認識論についての見解の違いから分化
↓
説一切有部「法則は存在する」
↓
ナーガールジュナ「存在するという考え自体が言語機能によってもたらされる極端な考え方、あるともないとも言えないものをあると言い張る説一切有部はおかしい」
バスバンドゥ「客観的に存在するということは言えない、全て心理現象に過ぎない」
↓
中国の天台宗「ブッダは不滅だと書いてる法華経を最高の経典ということにすれば説得力増すなぁ」
中国の禅宗「ブッダの悟りを追体験したらよさそう」
中国の密教「エネルギーの正体は欲望だ、宇宙と一体化するんだ」
↓ ↓
日本の知識人「中国の最先端の思想を持ってきたぞ、これで日本を変える」
↓
日本の僧侶「仏教を信じれば謎パワーで国が救われるということにすれば政権から庇護が貰える」
↓
最澄「仏教を整理する」
空海「密教は最強」
↓
法然「仏教の戒律は農民達には守れない、しかし彼らも救わねばならない、この矛盾を念仏を唱えりゃいいということで解決する」
親鸞「俺はクズ、皆クズ、それでも救わねばならない」
道元「言語機能による錯覚から逃れるには黙って座るのが一番」
栄西「イミフな問答を通して言語機能による極端な考え方から解放するというメソッドを中国で学んだ」
日蓮「思想が混乱し過ぎてこのままでは日本が終わるから俺が正しい天台宗の教えを広めてやる、法華経は最強」 密教はブラフマンとアートマンの一致を説いてた頃への先祖返りだな 仏教学者に言わせれば、仏教のエッセンスは「縁起の理法」ということになる
禅僧に言わせれば、「理屈じゃないんだ。無我の境地を体感しろ」ということになる 突き放す仏教、抱きしめるキリスト教
こんなイメージ
仏教が流入して当時の西洋哲学者が頭がおかしくなったのも仕方ない どうなんだろうな
ニーチェもショーペンハウアーも、思いっきり仏教の影響を受けてるように見えるけど、実際にはどうなのか 日常的にマインドフルネスのようなことやってて、今の行動に意識を置くということを
気づいたときにやってたんだけど、なかなかすぐ忘れちゃって、うまくいかないことが多かったんだけど、
前に結構行として進んだことがあって、たまたまなんだけど、その時期に、
白光真宏会の五井昌久が言っていた、「消えてゆく姿」というのが体験的にわかったんだよね。
たとえば、今の行動に意識がついていかない・・ うすい集中のようなとき、
すぐに他の思考に捉われちゃうんだよね。
ところが、常日頃、今の行動に意識を置く努力をしてると、薄くなくて、濃くなってくる。
そうすると、たとえば今苦しみが起こったとする・・ 怒りが起こったとする・・・
そうすると、濃くなってると、今に戻るのが早いんだよね。
意識が怒りよりも、苦しみよりも、今の行動にすぐ戻る。
そうするとまさに、怒りも苦しみも、本当に消えてゆくように感じるんだよ。
エックハルトトールも確か言ってた。
今という剣で、溶かすと・・。 で、白光真宏会の信者は、「消えていく姿」ということを聞いて、一生懸命、「消そう消そう」とするわけなんだよね
意思の力で。
怒りが出てくる・・ あ〜、これは消えていく姿だ、祈りに集中しよう・・ あれ? 消えていかないな、消えていかないな、
ってことをやってる。
そこで五井昌久も言うわけだよ、「自分で消そうとするんじゃないですよ、」と。
だけど、これはみんな勘違いしてもしょうがない。
だって、今に置く意識が濃くならないと、実際に怒りや苦しみが消えていくという体験が出来ないから。
それは祈りをいちずにやっていると、自然に祈りが濃くなってきて、やがて消えていく姿を体得できるわけだよね。
仏教も同じように、体験がないとなかなかわからない。
体験が少しでもないと、わけワカメなわけよ。
そういう状態で仏教を語るから、全然外れた方向に議論が行っちゃう。 【仏教】悟りを開いた人のスレ502【天空寺】
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1589117859/61
61 :偽和尚(白蓮華) ◆aCQE5.Z6UMcu :2020/05/12(火) 03:31:03.69 ID:MFGJYn2N
ここだけの話じゃがマインドフルネスは眉唾じゃぞ
あのスレを見てみろ
魑魅魍魎に満ちておるぞ 悪いことばかりしてると、来世は朝鮮人に生まれ変わるよ 「無」と「空」と、「縁起」の関係について説明しよう。
一般的に、「無」と「空」は違うんだ、ということが言われる。
だけど、その違いについて、しっかり説明できる人はいないよね。 「空」というのは、「空っぽ」ってことだよね。
つまり、入れ物の中が空(カラ)だってこと。
つまりこれは反対に言うと、入れ物の中にいっぱい物が詰まってる状態に対して、
言ってること。
いっぱい詰まってるように見えるけど、中は空なんですよ、と。 「空」というのは、入れ物の中が「空(カラ)」だと言いたいわけだよね。
「無」というのは、一つ一つの対象に対して、それが「無い」といたいわけ。
たとえば、袋の中にリンゴが5つ入っているように見えた・・・
しかし、それは3D映像だった。
実際は、袋の中は空(カラ)だった。
5つのリンゴは無かった(無だった)わけだ。 ここで問題なのは、「袋」って何・・? ってことだよね。
空っぽとはどういうことなのか・・・。
空っぽってことは、空っぽになる何か・・・ 土台とか、場が必要だよね。
それは実質的な場というよりも、概念的なものでも、次元の違う「何か」でもいいわけだ。
とにかく、人間の思考では解釈不能なレベルのもの。
それが、簡単な言い方をしてしまえば、「無限の一」、なんだよ。
2が無いわけ。
たとえば、単なる1だったら、1の外側と内側が生じるよね
これでは2になってしまう。
無限の1の場合、分けようがない。
仮に、無限の1の中があるとするならば、その中は空っぽだよね
1しかないわけだから、2,3,4がない。
中身がない。 よく、「無」と「空」は違う・・ という人が言うでしょう、
仏教的にみると、あなたも私もリンゴも「空」なんだ、「無」じゃないんだよ、と。
この世界はマーヤー、つまり、幻想というのが仏教的な解釈なわけだけど、
じゃあ、幻想だから実際は「無」なのか・・・と。
いや違いますよ、「無」じゃなくて「空」ですよ、と。
この言い方は、ちょっとおかしいのよ。 一つ一つのものを指して、「それは無じゃなくて、空です。」
これはおかしいw
空ってからっぽってことだよ。
入れ物に対して言う言葉だよ。
「あなたの中身は空っぽだ〜」 とか。
もしも、「Aさんは無じゃなくて空だ」 というなら、
どちらかというと、Aさんという袋の中が空っぽだ・・ ということになっちゃう。
もし、中身としての実体がない、ということだったとしても、外側のAさんは否定されないで残っちゃう。
中身ではなくて、そのものを指して、存在自体が「空」だ、という言い方はあり得ないんだよ。 「諸法無我」だから「空」なわけ。
全ての者に我(実体)というものが無いから、それが詰まってた袋・・・
それがあった土台は、「空だ」、ということなの。 縁起というのはね・・、一つ一つの詰まってたものが、空になって消えて、
「無限の1」になった状態のことを言うんだよ。 しかし、具体性が無ければ、=詳しくは分からない
ということになるよ 仏教の唯識派とデイヴィッド・ヒュームの知覚の束って同じような考え方? >>36
仏教の説一切有部 「人間の意識は一刹那の間に生成消滅(刹那生滅)を繰り返す心の相続運動である」
デイビッド・ヒューム 「(自我とは)想像を絶する速さでたがいに継起し、絶え間のない変化と動きのただなかにある、たがいに異なる、知覚の束あるいは集まりである」
基本的な考え方は似ている。
どちらも、“自我には実体が無い”という点では共通している。
でも、それを主張している目的が大きく異なる。 仏教の場合は、自我は空であり、諸行は無常である。だから、無我を悟って解脱しましょう・・・というのが目的。
ヒュームの場合は、そういうことが言いたいわけではない。 では、ヒュームが何を言いたいのかというと、こういうことになる。
近代哲学の祖、デカルトは言った。「この世は存在しないかもしれない。
目の前にある机やイスが存在するということは、確実とは言えない。
この世界は、自分が見ている夢かもしれないし、悪霊が自分に見せている幻想かもしれない。
だが、これだけは言える。自分自身が存在することだけは、絶対に疑う余地がないと」
・・・というような理屈。「我思う。ゆえに我在り」。これが近代哲学のスタートだった。
ジョージ・バークリは、「物質は存在しない。本当に存在するのは、物質を認識し、表象する自分自身なのである」という説を唱えた。
これに対して、デイヴィッド・ヒュームは、「自分自身が存在することだけは疑う余地がなく絶対確実だなんて、
そんなことないですわ。自分が存在することだって、十分に疑わしいですぜ」というような異論を唱えている。
仏教のような「無我思想」とか「自我の空性」とか、そういうことが言いたいわけではない。 つまり、ヒュームによれば、自我という実体はない。
脳神経系が引き起こす(18世紀には、まだ現代のような脳科学など無かったが)、
思考や感情、知覚があるだけだ。
個別の知覚はバラバラだ。でも、次から次へと、ものすごい速さで表象が現れる。
細切れのフィルムでも、速く動かせば連続して見える。
それと同じように、知覚の束も、本当はバラバラなんだけど、ものすごい速さで
続くから、まるで切れ目なく連続しているかのように錯覚する。
自我とは、そういう錯覚の産物にすぎない。
自我には、実体がない。 >>39
>ヒュームによれば、自我という実体はない。
ということは、仏教の「無我思想」と同じってことか
違いは解脱という目的があるかないか、だけ?
1 >>41
この考えに至った経緯と、主張する目的が異なる
でも、それを除けば、驚くほど同じ内容の結論 では、今日は、モチベーションが乗ったら、「中道」について説明しようと思う。
「中道」もきちんと説明できる人はいないよね。
なぜなら、本質がわかってないから。
なかには、「中庸」と同じような説明をしている人が多い。
それはなぜかというと、お釈迦様の話で、楽器の弦にたとえて、
張りすぎても、緩めすぎても、いい音は出せない・・・ という話があるからだ。
これはどちらかというと、「中庸」のニュアンスでとられやすい。 >>43
そうだな
日本人は「中道」の話が好きだが、儒教の「中庸」と混同している人が多い >>44
そうそう、だいたいが「ほどよい」という意味に捉えられてるよね。
たとえ、「両極に捉われない」、という説明がなされていても、それが実質的には、
「両極に偏らない」、という意味だったりする。
これは弦の張り方のお釈迦様のたとえとか、苦行や快楽に捉われないといった、
中庸的な話が強調されてるからだよね。
でも確か、お釈迦様の説明で、きちんと中道が説明されてる句があったはず。
今それを探しても、なかなか見つからないんだけど、
前に決定的なものを見つけたんだけどな・・。
ちょっと今日はモチベーションも上がらず、時間もないので
また明日にしよう。 明日のふりとして・・・
中道というのは、「両極のバランスポイントとしての中間」ではなくて、
両極の差が無くなる(平等になる)、ゼロポイントとしての中間、ということなんだよ。
雨と晴れの中間の「曇り」ではなく、雨と晴れの差が無くなって、平等になる・・・
両者の差がゼロになる・・・
ようは、どちらでも「同じ」、ということ。
雨と晴れに分別をつけて、雨は濡れて気持ち悪いからいやだ・・ とか、晴れは気持ちいいからよい・・ とか、
ということではなくて、
雨と晴れに分別をつけずに、どちらもいい、ということ。
禅でいう「無分別」とは、そういうことだね。
両極の差が無くなれば、両極は意味をなさなくなる・・・
両極では無くなるよね
平等で、真っ平になる。
言い換えると、両極が空になる、ということ。
これゆえ、中道 = 空 ということになる。
嫌なことと良いことの差が無くなって、平等になれば、嫌、良い、という差別が止む。
差が無くなって融合する・・・
これが縁起ということ。
縁起するときは、両極が空になってる。
中道はいきなり難しかったかな・・・
モチベーションが載らないと、うまく説明できない。
明日はもうちょっと細かく説明してみよう ちょっと補足。
仮に、中道が両極のバランスポイントだとすると、両極が常に意識されてることになるよね。
両極を認識しなければ、バランスポイントととしての中間点が見いだせないから。
つまり、これでは両極が消えていかない。
空にならない。
たとえば、熱いと冷たいの中間で、ほどよい温度の飲み物を・・・ ということだったら、
熱さ、冷たさという尺度は一向に消えない。
熱いと冷たいに捉われない・・・ ということでも、中庸の解釈みたいにされて、
「熱さを望んだり、冷たさを望んだり、両極端に走らない(両極に偏らない)」 という意味での、「とらわれない」
という解釈にされてる場合が多い。
本当の意味は、差が無く、平等なわけだから、どのポイントにいても、
一切差別が生じないんだよ。
雨でも晴れでもいいや、熱くても冷たくてもいいや、と、一切差別が生じない・・。
これを言い換えると、 =ありのまま ということになる。
中道 = 縁起
中道 = 空
中道 = ありのまま
まだまだあるんだけど、今日はここまで。
あと、これは全部つながるんだよ。
縁起 = 空 = ありのまま >>46
ちがう、そういう意味じゃなくて、
自分の考えを裏付ける、おしゃか様の言葉を探し出した・・ ってこと。
お釈迦様の言葉・・ 句は、ほとんどが中庸的な意味合いを持つ言葉が多かったんだよね。
これはおかしいな・・・ こんな単純なことを主の主張にするはずがない・・・
必ず、平等、差をゼロにする、という、説明があるはず。
そう考えていた。
そしたら、決定的な文言を発見したんだよ。
中庸的な解釈じゃなくて、モロ、差がなくなりゼロになるという解釈を・・。
これで完全に裏付けが取れたわけだ。
これは宗教板の仏教スレで書き込んだが、だいぶ経ってるので、
今探し出せない。
そのうち見つけると思うけど。
八正道に関する部分だったと思うけど。 丁寧にレスをつけるとこのザマ
これはどのスレに行っても同じか…
スレで丁寧にレスを返すんじゃなくて、自分が言いたいことだけに
レスを返すというのは鉄則だな さて、第一章では、「無」と「空」と、「縁起」の関係について語ったわけだが、
第二章では、「中道」について。
後半は、「中道」がどう実生活上で体現されるべきか、どのように体現している人が中道と言えるのか、
そこのところを考察していく。
第三章では、「諸行無常」の本当の意味について。
真実の「今」の世界とはなんなのか・・・。
これによって、「空」の本当の意味が分かってくる。
第四章では、中道に至るためには、どのような修行が必要なのか・・。
本質を分からない人は、行を複雑化してしまうが、
本当の行はシンプルだ。
道理に即しているかが一番重要であって、
型が重要なのではない。
第五章では、これからの世界について。
我々は今大きな変化を迎えようとしているが、その方向性はなんなのか・・。
人類はどこへ向かっているのか、を、考察していく。 ちょっと順番を変えよう、
先に、「諸行無常」について考察してみよう。
諸行無常とは、一般的に、時系列の変化のような
説明がなされるよね・・・
いわく、若い人も年老いていく、
リンゴも腐っていくとか・・
だから、物事に執着しても、空しいだけだと・・。
物事は常に変化変滅していくため、固定した何かに
拘っても無意味だと・・。
Aに拘っても、たとえば、若かったAも、だんだん年老いたAになっていく。
だから、Aも常に移り変わっていく・・ と。
↑これはおかしいんだよ、仏教的には。 たとえば、パンAがカビていくとしよう。
真っ白なパンA → 50%カビたパンA → 80%カビたパンA
だんだんカビていって、最後は100%のカビパンになるわけだ。
常にカビが進行しているため、パンAは常に変化している・・・
常に一定の状態を保てない。
諸行無常を説明するとき、だいたいがこういう説明になってる。
それはなぜかっていうと、仏教の本質の全体像が掴めてないからだ。
全体をリンクさせるのではなく、個別の用語に対して、
個別の解釈をしている。
仏教学者と呼ばれる人でもわかってない人がいる。 まず、「無常」を「常に変化していく」と解釈しているところから間違ってる。
「変化」という言葉に着目してみないといけない。
「変化」という言葉は、時系列的な言葉なんだよね。
そこには時間があるわけ。
ここで言っておくが、仏教では「時間が無い」んだよ。
時間を認めては仏教は成り立たない。 仏教の世界に「変化」というものはない。
道元禅師も言ってるだろ。
「冬の春となるをおもわず、春の夏となるといはぬなり。」
冬が変化していって春になるんじゃない。
春が変化していって夏になるんじゃない。
「春は花、夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」
そぞれの季節にはそれぞれの「今」があり、前後は裁断されている。
「しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、
薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。
前後ありといへども、前後際断せり。」 「変化」とはなんだろうね・・・・?
「変化」とは、[特定のもの]が、姿形・性質を変えていく・・・ ということだろう。
「特定のもの」は続いてんだ、バカがw
バカ仏教者がw
パンAがカビていく・・・ 50%カビたパンA、80%カビたパンA
100%カビたパンA、ごみ処分場で焼却されたパンA、土に帰ったパンA・・・
どこまで続いてんだ、パンAがw
これは無常とは言わないんだよ。
パンAという実体を掴んじゃってるw
こんなのは仏教でもなんでもない。 ここで着目しなければいけないのは何かというと、「実体」とは何かってこと。
「実体」というのは、とかく物体的に、存在とか、
そういう風にみられている。
しかしそれは、元は心の作用・・・ 概念的なものなんだよね。
たとえば、地面に白いクリームが落ちている・・・
通りかかった人が見ると、ただの白いクリームだ。
だけど、アイスクリーム(A)をさっきまで食べていた人にとって、それが溶けて落ちたアイスクリーム(A)
であることを知っているわけだ。
実体とは、外部の姿形ではなく、その内側を貫いてるものだ。
説一切有部は確か・・、姿形といった外面を形作っているものに実体はないが、それをそのものたらしめるもの・・・
ダルマ(法)には実体がある、としたんじゃなかったかな。
説一切有部は、全てのものに実体がないという、お釈迦様の教えを信じられなかった。
理解できなかった。
実体が無いということを受け入れられなかった・・・ だから、外面的に表れているものには実体はなく、
それをそのものと表しているダルマには実体があるとした。
苦肉の策だ。
うまく逃げようとしたが、これは仏教から外れてしまった。 補足:
「変化」というのは、ある存在が、時系列的に変わっていく・・ ということだよね。
つまり、「ある存在の概念(本体、本質的な部分)」は、変化しないんだよ
時系列的に変わるということは、A自体は続くということ。
Aの外面や性質が変わるということだ。
つまりこれでは、「A」という実体を認めていることになる。
3歳のAさんが20歳になった。
20歳のAさんが80歳になった。
諸行無常だね〜〜 と・・。
ちがう、Aさんがずーっと続いてんじゃないか。
Aさんという実体が。 人が「存在」を認めるときは、どういう時だろう?
それは、「継続」、なんだよね。
「存在」とは、「継続するもの」、といってもいい。
継続しないものは、存在として認められない。 仏法を理屈と理論で説明している時点で
それは屁理屈でしかない。若い小坊主が理屈だけ並べるのと同じで
なんの違いもなく、自分本位の思考が正しいと押し付けしているだけの
おろかな行為でしかない。
仏教的な単語を並べて高尚な論理で説明する人がいるが、
あれは後からのでっちあげ説明で納得できそうな理屈で
固めただけのこと。
論とかの次元で問答している時点で、小坊主の若気の至り
でしかないのだよ
そこに徳の欠片も無い、だからこそ言葉が響かず
善悪関係なく、その力を成せない、働きが生じていない。
言葉や単語に踊らされ、概念の解釈に踊らされ
誰かが言った説明に固執しているってことだよ。 一瞬の流れ星でも、「存在」するには「継続」が必要とされる。
電子顕微鏡の中のわずか一瞬の輝きでも、人は継続的に捉えているといえる。
継続しないものは捉えられないし、存在することは出来ない。
これは当たり前・・ というかもしれない。
「継続しないもの」、などというものは、そもそも存在しない・・
ということになるだろう。
ところが、よく考えてほしい。
真実の世界とは、継続するものであろうか・・・?
あるいは、「今」しかないものであろうか・・・? さて、本質のわからない人は、経験とテキストを照らし合わせた高度な洞察を、
浅はかにも、机上の空論のように決めつける。
こういう人はよくいる。
背の低い人が相手の足を見て、それより上が想像つかないから、
自分より背の低いものだと思ってしまう。
こういう人は、よくよく洞察力を身につけないといけない。 ここでは経験を土台にして、仏教の文献などの知識を照らし合わせながら、
理論、理屈を語っているが、
経験の部分は全く、表には出していない。
出す必要がない
なぜならここは、理論、理屈を語るところだから。
人の理論、理屈を見て、短絡的に経験に裏付けられないものだと決めつけるのは、
その人自身に経験がなく、言ってることが理解できないため。
本当は、経験に裏付けれたものは、理屈としてしっかり説明できないといけない。
理屈としてしっかり説明できるからと、経験じゃなくて頭で語っているのだろう・・ と思うのは、
決めつけ以外の何ものでもない。
理屈だけで語っているように見えて、実は自分が想像もつかないような経験を持っている人だった、
ということもあるんだよ。 この世界は継続的なものであろうか・・・?
それとも、「今」しかないものであろうか・・・?
答えは明らかだよね。
この世界は「今」しか存在しない。
では、その「今」に、時間的な幅はあるだろうか・・・? 突き詰めて考えてみてほしい・・・
本当の世界、真実の世界が存在する「今」とは、時間の幅があるだろうか・・・?
世界は「今」しかないんだよ。
その「今」は、0.5秒の世界でもない、0.1秒でもない。
ゼロだよ。
純粋な「今」とは、時間の幅はゼロ秒だよ。 さて、世界は「今」しかないのに、時間の幅はゼロ秒なのに、
何物が存在出来ようか・・・?
継続無きところに存在は無い。
つまり、これは何を意味しているか・・・
つまり、これは、我々が「真実の世界(純粋な今)」にいないことを意味している。
真実の世界では何物も存在しない。
継続が無いからだ。
我々が継続的に考えるのは、すべて幻想と言える。
我々の思考分別が物事に捉われ、継続させている・・・
つまり、時間の幅を作り出している。 諸行無常とは何か・・・?
諸行無常が示す真実の意味とは・・?
すべての物事は0.1秒たりとも継続しない
ということだ。 龍樹は「去りつつあるものは去らない。」 と言った。
これはどういう意味か・・・?
今ここで私はあえて言おう・・・
九州に上陸しつつある台風は、九州に上陸しない、と・・。 今、「九州に上陸しつつある台風」は、その瞬間、それが全存在だ。
もしも、「九州に上陸しつつある台風」が、九州に上陸したとしたら、
どういうことになるだろうか・・・? お天気キャスターは言うのだろうか。
「[九州に上陸しつつある台風]が、九州を北上しています。」 と・・。 「上陸しつつある台風」が「上陸」したら、「上陸」という働きが
二つ重なることになるではないか。 「九州に上陸しつつある台風」というのは、気圧や海水、その働きから、
その瞬間、すべてのものと一体になって、その「今(ゼロ秒の世界)」にしか
存在しないものなんだよ。
全宇宙と縁起している。
人の思考分別は「台風」だけを切り抜くが、もし、「上陸しつつある台風」が「上陸する」というのならば、
それは、「上陸しつつある台風」の背後にある、全宇宙を引っ提げて、次の、「上陸」という全宇宙に
乗り上げるということになる。
人の思考分別は、縁起の中から台風だけを引っこ抜いて、継続させていく・・・
バラバラに分断して、存在を作り出してるという感じ。 では、3歳の私が20歳になった・・・、というのは正しいだろうか?
これも同じだ。
3歳の私は決して20歳にはならない。
もしも「3歳の私」が「20歳の私」になるのなら、3歳と20歳が重なることになる。
20歳の私の皮をはいだら、3歳の私が出てくるのか・・・。
「3歳の私」というのは3歳のその時にしか存在しない。
それは継続することはない。
厳密にいえば、すべてのものごとは次の0.1秒後にすら
継続することはない。
なぜなら、次の1秒後には、次の私、次の物事があるからだ。
それでも継続するというのなら、すべてのものが二重に重なることになる。
人は「3歳の私」という、その背後にあるすべてのものを含めたその瞬間(今・ゼロ秒)の世界・・・ 縁起の世界から、
「私」だけを抽出し、継続させてしまう・・・
真実は、前の「今」と次の「今」、後の「今」は、重なり合うことはない・・・
その時、その瞬間(ゼロ秒)がすべてだ。
0.01秒後の世界でも、前の世界とは違うのだ。
これが、諸行無常の本当の意味だ。 今日のまとめ:
「九州に上陸しつつある台風」の先には、「九州に上陸した台風」が待っている。
すでに、「上陸しつつある台風」の居場所はない
「3歳の私」のその先には、「20歳の私」が待っている。
17年後の世界に、「3歳の私」が進むべき場所はどこにもない。 0とは無いということ。今があるならそれは0ではないんじゃないのか?
0から始まるだけなんじゃないのか? 「今がある」というより、真実の「今」とは正確に言えば、
=ゼロ を表すんだよ
「今がある」というのは「今」を存在として捉えているということになって、
それでは時間が生まれてしまう。
人は「今」に至れば、それは真実の世界を見ていることになって、
=すべてのものがゼロ(空)になるということを意味している
今 = 空
真実の「今」では、あらゆるものは「存在」することは出来ない。
(実体として継続出来ない。) 「今」という実体はない。
「今」は、「時間の幅」のこの世界と対立する。
「空」と「存在」が対立するように・・。
(※対立: 説明するうえでの便宜上の対立) 人は「今」に至れば、それは「中道」ということになる。
あらゆる対立概念が「継続」することが出来ず、「空」になって「平等」になるから。
良し悪しなどの対立概念によって引き起こされる、恐怖や不安も、
継続することは出来ない。
またたとえ、恐怖や不安、怒りがあったとしても、それ自体に思考分別(差別)が働かなければ、
「ありのまま」を完全に受け入れてる状態になって、ゼロになる。 あらゆるものに差別が無くなり、平等になれば、全ての突出した「個(実体)」
というものは「空」になる
これは例えば、一枚の壮大な無限の絵があるとして、人はその絵を分別によっていくつものパズルのピースに分断していて、
人の分別が止めば、ピースは消え、一枚の壮大な絵が現れるのと同じ。
絵の中にピースが一つもない状態・・・ 空になった状態。
人が「今(空)」に至れば、一枚の壮大な絵(縁起)が現れる。
※「思考分別」は「時間の幅」がないと生きられない。
反対に、「思考分別」が「時間の幅」を生み出しているともいえる。
「今」においては「思考分別(=時間の幅)」は働けず、よって「継続」することが出来ず、
「存在(実体)」は生まれない。
よって、およそ仏教の悟りの「行」は、「今」に意識を統一させる行法をとっている。
永平寺では顔の洗い方からトイレの入り方、歯の磨き方、食事の仕方まで、
こと細かい作法を設けている。
これは、常に「今」から意識が離れないようにするためだ。
いわゆる「サティ」というやつだ。
真実のマインドフルネスもこれを狙ったものだし、茶道や能も同じものを狙ってる。
およそ「道」と名るものは、皆これを狙ったものだ。 そんなことは1000年以上前のあたまのいい人間たちはみな知っている。
そんな古典ばかり読んでどうなるのだ? ゼロは無いと言いながら、ゼロから始まるなどと矛盾したことを言い、
今が存在するなら… と言いながら、今は存在しないという説明を受けたら
とたんにそんなの1000年以上前から皆知っていると反論する… あらゆるレスに丁寧に反応するというのはヤメた方がいい
本当に適切にレスをしている人だけじゃなく、自分の低いレベルで、
妬みを持ってレスをする輩がいるからだ
そういうヤツは中身を理解することが出来ないのに、自分の低レベルのフィルターに通してから理解し、
低レベルな反論で絡んでくる >>90
哲学板で、それを気にしていたらキリがない 必ず、「こんな話には意味が無い」と、話題そのものを否定する奴が出てくる
他の板にはない、哲学板ならではの傾向 人生論みたいなものを韻文にしているべきじゃないの? >>91
>>92
そう、だから鉄則として、反論者の素性も、レベルも明らかでないのに、そいつの土俵に載って
論証しようとしたり、説明をしてあげようとしたりしてはならないということ
こっちは丁寧に文章を書いてるのに、そういう輩は一言レスで批判してくる
自分のレベルの低い考えが一番正しいと思ってて、自分はなんの説明もせずに
批判だけしてくる
必要もない相手に関わりを持つ必要はないというのは、日常生活でも鉄則
前に耳の聞こえないヤツに親切にしたら、なれ合いのように来られて無視したら、
次の時に、なんで親切にしてくれないんだ、みたいに絡んできた
ホームセンターで丁寧に説明したおっさんが、逆に最後に相手に、おまえ名前なんていうんだ、このヤロウ、
ってすごまれてた
非常にバカらしいよ
「去るものは去らない」というのは仏教やってて中論をかじってる人にとっては、
非常に重要な句の一つだよね
だけど、それを知らないやつは、その重要性がわからない
中論も知らない、その理屈の重要性もわからない、理解できない
にもかかわらず、相手を見下して自分の低レベルの考えで否定してくる
なので、こういうヤツが入ってきたときは、鉄則の第2として、スレを捨てること
なぜなら、そういうヤツは妬みの心でスレをいつも監視しているので、ことあるごとにレスに絡んで
さらにエスカレートしてくる
何度こういうヤツに邪魔されたか
その経験からの絶対の鉄則は、シンプルでずばり、スレを捨てること
自分のアイディアを供給出来ればなー という思いで書き込んでも、
結局は、ただ自分だけがわかって、自分だけが会得すればいいんだよ、
ってことになる 哲学板の惨状を見れば、大勢で荒らされたように見えるのだが、実際には、荒らしているのは1人か、せいぜい2人 もうダメだな、こりゃ。
やっぱり5ちゃんねるはダメだ。
完全撤退だ。
最終的にはツイッターが1番か・・? よし、小出しにしていくぞ。
お釈迦様の12縁起ってあるだろ。
あれは、同時か、時系列的なものか、
議論があるよね
もし、時系列的なものなら、不可逆的になる。
しかし、同時なら、可逆的に消すことが出来る。
今、だいたいが、不可逆の時系列的な説明になってるよね
それは縁起を勘違いしてるから。
縁起とは、どれか一つが外れたら、すべてが崩れるんだよ。
5がなくても1,2,3,4が残ってるってのは、縁起でも何でもない。
12縁起とは、人間の肉体や執着が生まれていく時系列を表したものじゃない。
今ここに人間を成り立たせてる、今ここに苦しみを成り立たせてる
その仕組みを解き明かしたものだ。 芯を作って、ロウをつけて、ライターで点火して、それから火が付くといった
時系列的な因果関係ではなく、
今炎が燃えている・・・ 芯があり、ロウがあり、酸素があり、
それらが同時に作用して、今火が燃えている・・
そこに火が無ければ、そこにはロウもなく、芯もなく、酸素もない、ということになる
で、可逆的なことをもっとわかりやすく言うと、
たとえば、今ボールが窓に当たって窓ガラスが割れているとする・・・
割れた瞬間をとらえていて、「割れる」ということが、いうなれば「苦」が起こっている状態とする。
ボールがあって、そのボールにスピードがついていて、なおかつ、窓ガラスに当たっている状態・・・
これは時系列ではなくて、割れているその瞬間において、
全てが同時的因果関係によって成り立っている。
なので、窓ガラスが割れていなければ、ボールが窓ガラスに当たっているということはないし
ボールのスピードも存在せず、また、ボール自体も存在しない。
そういうこと。 >>103
>それは縁起を勘違いしてるから。
違うよ、根本的にまったく別。
あなたは論理で考えている、それは理屈だ。
釈尊の世界は理屈ではない、理屈で説明すればするほど明白に違います。
弟子とその宗派が残したそればかり本物だという考えしかもてないから
本質にたどり着けない。
釈尊は論理など残していない、理屈も言っていない、だが多くの信者には
論理や理屈、言葉、議論、理解といった具象化が必要になるからだ、
その具象化する捉え方で捉えているかぎり根本的に別解釈だ、 たとえば仏教にも色んな項目があって、それぞれに議論がある。
Aの項目で結論を出し、Bの項目で結論を出し、Cの項目で結論を出す・・・
本当は、Aの結論とBの結論とCの結論がリンクしなければならないのに、
多くの人の結論は結び付かない。
Aの結論をBの結論に当てはめることが出来ない。
本来は、A,B,C それぞれの結論が一致しなければならないのに。
理屈というのは、A,B,C それぞれの結論が一致するように考察しないといけない。
それにはまず、本質をつかまないといけない。
本質が掴めていないのに、A,B,C の結果が一致するはずがないからだ。
また、理屈をバカにしているが、本当に本質がわかったならば、綺麗に理屈として
説明できるんだよ。
どんなものでも、だ。
本質がわかっていれば、小学生にでもわかるように説明できる。
ところが、本質のわからないものは、理屈じゃないと言ったり、逆に難しい言葉で説明して、
煙に巻くようなことをする。
龍樹は論理的に仏教を説明した
それはなぜかというと、論理的に間違った仏教を吹聴しているやつらがいたからだ。
気を付けなければならないのは、そういうヤツらの生まれ変わりが現代にいて、
仏教の本質をつく議論になると、ここぞとばかりに妨害してくる。
そういうやつらはよく見ると、その部派と同じような理屈で話をしてる。 横からだけど、その辺りのことで争わないほうが良いと思う。
禅僧に言わせれば、「仏教は理屈じゃないんだ。黙って座禅を組め。そうすれば分かる」となるし、
念仏行者に言わせれば、「ひたすら念仏を唱えなさい」となる。
でも、ここは哲学板で仏教哲学スレなんだから、理論的なアプローチをすべきなんじゃないのかな? 「仏教は理屈じゃないんだ」という人は、たいてい、インド哲学の流れを知らない。
インド哲学を知った上で、釈迦の教えを見たならば、「釈迦は何よりもまず、インドの哲学者なんだ」ということが、考えるまでもなく明らか。
釈迦の前の大哲学者、ヤージュニャヴァルキヤあたりで、だいたい完成した教えに、釈迦がそらに新たな発見を付け加えたのが仏教。 >>106
>釈尊は論理など残していない、理屈も言っていない、だが多くの信者には
論理や理屈、言葉、議論、理解といった具象化が必要になるからだ
いやいや、そうじゃないんだよ。
むしろ、逆だ。
一般信者に哲学や理論を語ったところで理解できるわけないから、信者には単純なことしか話していない。 宗教板ならともかく、ここは哲学板の仏教哲学スレだからなあ。
ここでまで「理屈を言うな」と言われるようじゃ、どこで理屈を言うんだよ(笑) キリスト教やイスラム教についてなら、それは言える。
当初の福音書やコーランは、とても簡単な内容。
それを、後世の学者たちがギリシャ哲学と習合して、メチャクチャ難しくしてしまった。
仏教にもそういう面は確かにある。
後世の学者が難しくした面はかなりある。
でも、イエス・キリストやマホメットとは違って、釈迦自身もれっきとしたインド哲学の哲学者。
その点を見落とすと、釈迦の教えを半分しか知らずに終わることになる。 いろいろ理屈や知識をひけらかしているけどさあ、
仏教って簡単に頭の体操ができるところが重宝されるわけで、、
いちいち専門知識を持ち出されて絶対真と言われると
興ざめするわ
みんなの共通言語である常識的日本語で語ってほしい >>113
哲学用語を使わずに哲学の話をするのは、無理がある >>113
>みんなの共通言語である常識的日本語で語ってほしい
どんな分野でもそうだが、それをやると、かえって分かりにくくなることも多い >>108
そう、本来掲示板は理屈を語るところだし、もし、「理屈じゃないんだ」 っていうんなら、
その理屈を、ここ掲示板で説明しないといけない
説明によって自分の正しさを証明できるからね
説明も無しに、「お釈迦様の教えに理屈じゃないんだ。」という、オレの反論は正しい、じゃ、
なんの意味もない。
説明もなしに自分の思い込みを他人に向かって主張するのは、
幼児のやることだ。
もし、「言葉じゃないんだ、座禅を組んで初めてわかる。」という人がいるなら、
こんなとこで書き込んでないで座禅をやってればいいわけで、
「理屈じゃなくて念仏を唱えろ」という人がいるなら、ここ掲示板でそういう主張をするんじゃなくて
まず自分が念仏を唱えてればいいわけで、
「理屈じゃない」という人がいるなら、理屈を語る掲示板のようなところで
書き込みをしてる時点でおかしい。
そういう人は掲示板に来ちゃいけない。
ましてや、この板なら猶更。 次回はアラーと仏教の一致点について・・
実は、アラー = 縁起 だったというお話し。
イスラム教とは言いたくない。
あれはムハンマドの教えを勝手に改変して信じ込んだ、
一般民衆の宗教だから。 そしてその次は、親鸞の「念仏」の教えは、実は仏教で最上級の教え・・
行法だったという話。
たいていの人たちは、「禅」を自力の行と位置付けるよね・・
だけど、本来「座禅」というのは他力の行なんだよ。
親鸞の念仏の教えは、それを更に「他力化」したもの。
なぜ多くの人が座禅を自力の行と勘違いするかっていうと、座禅を「集中」の行と
勘違いしてるからだよね。
この辺はマインドフルネスでも勘違いしてるやつが多い。
というか、ほとんど。
中道の論理がわかってないと、必死に自分の中の善悪と戦って、
一向に行がわからない。
「集中」を善、「集中出来ないこと」を悪、と考えるからだよね。
本来、座禅の目的とは、「集中」や、「集中出来ない」、を越えたところにある。
そう、中道を目指すわけだよね・・
この理屈がわからないと、いつまでも「集中」できることが正しいと思って、
意識を凝らす訓練ばかりしてる(苦笑) アラーが唯一の神・・・ と、よくイスラム教徒の連中は言うよね。
大抵は、
この世界で「神」と呼べるのは「アラー」だけだと・・。
なので、他の神は偽物である、と・・
そう考えてる。
イスラムの連中は。
そこで、仏教の像を破壊したり、異教徒殺しを正当化する過激派まで現れてるわけだ。 アラーが「唯一」の神・・・、というところを
考察しないといけない。 また、像に表わして崇拝したり、聖者を崇めたりすることも禁止されている。
これはスンニ派ではそうだよね。
シーア派では、よくアリーの肖像画が描かれてるけど。
ムハンマドの肖像画はいろいろ調べてみると、顔の前に白い布がかけられてるものが多い。
ようは、「崇拝の対象を作ってはいけない」、ということだよね。
アラーでさえ、カアバ神殿のブラックボックスだけで、
姿形の対象物がない。 これだからな… >>125
「縁起」の話をするんだよ、バカが・・。
自分本位の邪魔をするな暇人。 親鸞の話では、いくつかの興味深い話があるね。
疫病か水害で被害を受けた村を通りかかったとき、親鸞はお経を何全部も唱えることを決意し、
住民たちのために唱えはじめた・・・
しかし、そのあと親鸞はどうしたか・・・?
ここはキーポイントなんだよ。
それから、晩年に病気になって、かなり高い熱が出てうなされているとき、
頭にお経が浮かんできた。
この時親鸞はこのことをどう思ったのか・・・。
ここも共通のキーポイント。
それから、親鸞は法然に、弟子たちが「行」の座につくか、「信」の座につくか提案した。
この有名な話も、うまく理屈が説明できる人がいない。
なぜなら、「他力」の真の意味がわからないから。
さて、親鸞はどちらの座についたか?
そしてそれはなぜか? 念仏の話は座禅とリンクさせて話すこともできるし、
本質的には全く同じ。
真の他力 = 中道 ともいえる。 枝葉の話を聞いて深い洞察もなく、自分の浅はかな考えでそれを決めつけ、
人をバカにしてくるやつがいる・・・
こういうヤツがいつも価値のある話をぶち壊す。
洞察力が乏しいのはいい。
ただ黙ってりゃいいから。
だけど、洞察力が乏しいのに、自分がすべてを理解したと思って
人を叩きにくるやつがいる。
こういうヤツが登場すると、いよいよスレが終わる。
とくに、こういう批判ではなくて、ただの罵声のようなヤツが現れたらいよいよ終わり >>125
もう答えは書く必要はないだろう。
こういうヤツに見せるのはもったいない。
ヒントだけ書くからあとは自分で考えろ。
一生かかっても理解するのは無理だろうけどな まさに、本来はもうとっくにスレを捨ててる予定だったが、
こういうヤツが必ず現れるから、実験的にわざと続けてた
やっぱり出てきたね >>131
これは必ず毎回同じパターン。
これは哲学板にかかわらず、どこの板にもいる。
ただ意味のないレスで荒らすってのは、まだ荒らしとしてはいい方。
ところが、わざわざ廃れたスレにやってきて、粘着してレス叩きをし始める・・・
こういうヤツが一番人間としてたちが悪い。
本物の悪性新生物だよ。 だけど、ここまではまだ持った方。
前の方で結構、叩くようなレスになってたから。
そういうのがいつ逆上してくるかもわからない。
で、逆上してきたわけだ。 >>131
ここから粘着性に切り替わったか。 >>118 さて、悪質なキチガイは置いといて、話をつづけるとするか。 アラーがなぜ唯一なのか・・。
なぜ、崇拝の対象物を作らせなかったのか・・。 クルアーンを読むと、アラーは宇宙のあらゆるものを創造した創造神として描かれているが、
同時に、宇宙そのものであることも示唆されている。
「東も西も、アッラーの有であり、あなたがたがどこに向いても、
アッラーの御前にある。」
「夜と昼とに住む凡てのものは、かれの有である。」
「言ってやるがいい、天と地にある凡てのものは、誰の有であるのか。
『アラーの有である。彼は慈悲をご自分の勤となされる。審判の日には、必ずあなた方を招集されよう。』」 アラーとは、あまねく広がる無限の宇宙そのものであって、すべてのものを包含する
『1なるもの』 もともと、ムハンマドが啓示を受けた最初のころは、
祈りの方角などなかった。
ところが、どうしても祈りの対象を求めるため、
神が祈りの方角を作った。
つまり、神が唯一で無限の宇宙ならば、どこを向いてもアラーの胸の内なのだけど、
あまりにも祈りの対象を求めるために、仮に、方角を作ったということ。
つまり、姿かたちを示した祈りの対象だけでなく、方角さえも本来は
神の対象として限定されないもの。
祈りの方角は、当初はエルサレムだったが、のちにユダヤ人と分離し、
メッカに変更されてる。
「人々の中の愚かな者は言うであろう。 『どうしてかられ(ムスリム)は守っていた方向
(キブラ)を変えたのか。』
言ってやるがいい、『東も西もアラーの有である。かれは御心にかなう者を、
正しい道に導かれる。』」 おまえのチラシの裏じゃないんだよ、この板は。
おまえの知識の確認のための自習室じゃないんだよ。
スレッドごと消してこい。 もしも、対象として、アラーの神を置くならば・・・、
「民衆」と「神」は別のものになるよね。
民衆が対象としての神を仰ぎ見るということは、
民衆と神の「分離」を表す。
「無限の1」じゃなくなっちゃう。
だから、神を対象物などにしては絶対にならず、ブラックボックスで対象を隠した。
あのブラックボックスの中は、言うなれば、無限の宇宙につながってる。
そのように見れれば正解だ。 「分離」のことをイスラム教では「シルク」という。
反対に、「1に統一したもの」を、「タウヒード」という。
この「タウヒード」というのは非常に需要だ。
これが「ワンネス」のことであり、仏教の「縁起」そのものである。 たとえばクルアーンでも、縁起をイメージさせるような句がいくつかある。
「天と地にある凡てのものは、かれに属する。
万有は、真心を込めて彼に服従する。」
「あなたは見ないのか、天にある凡てのものが、アッラーにサジダするのを。
また地にある凡てのものも、太陽も月も、群星も山々も、木々も獣類も、
また人間の多くの者がサジダするのを見ないのか。」
(サジダというのは、完全に敬服、服従する祈りの姿勢といったもの。)
これは何かというと、ようは、「この世界の縁起の姿を見ないのか・・?」
と、言ってるようなもの。 クルアーンには「中道」を示唆・・、暗示させるような詩もある。
「礼拝の折には、声高に唱えてはならない。また低く唱えてもいけない。
その中間の道をとれ。」
「各礼拝を、とくに中間の礼拝を謹厳に守れ、敬虔にアラーの御前に立て。」
「また(財貨を)使う際に浪費しない者、また吝嗇でもなく、よくその中間を保つもの。」
これは単に生活や祈りについて言っているのではなく、暗喩的に「中道」が示されているような感じだ。 このスレ荒らしてるやつは嫉妬の塊だな
プライドだけが高い能無し >>144
タウヒードってのは、「神は唯一である」、つまり、「アッラーの他に神は無い」っていう意味なんじゃないのかな? >>139
それはイスラム教ではなくて、新プラトン主義の哲学思想なんじゃないかな? ただし、イスラム神学では、宗教と新プラトン主義が融合した
スーフィズムにおいては一体化した >>150
ウィキによると、
・タウヒードという言葉は、アラビア語の動詞ワハダ (waḥada) の第2型であり、〈一に化す〉、〈一に帰す〉を意味するワッハダ (waḥḥada) という
動詞から派生した動名詞である。その原義は、〈一化〉、〈帰一〉を意味する
・アッラーは、創造の前から存在した。過去、未来というものをもたず、また、前後左右上下といった概念にはそぐわない。
というのも、アッラーは全だからである。 WIKIの書き込みなど信用しているようではww
ww
ww
アッラーアッラーうるさいんだよ >>154
お前は黙ってろ
ここはお前の来るところじゃない >>154
これはwikiだけじゃなくて、いろんな方向から洞察できるんだよ。
たとえば、イスラムにとってはハチミツは重要なものだが、それはクルアーンに
教えとして示されてるから。
{蜂蜜章}
またあなたの主は、蜜蜂に啓示した。「丘や樹木の上に作った屋根の中に巣を営み、
(地上の)各種の果実を吸い、あなたの主の道に、障碍なく(従順に)働きなさい。」
それらは、腹の中から種々異った色合いの飲料を出し、それには人間を癒すものがある。
本当にこの中には、反省する者への一つの印がある。」
種々様々なものから混ざり合って、様々なものが働きかけて、一つのハチミツという素晴らしい
食べ物が出来上がっている。
こういうのも宗教の本質を掴んでれば、「縁起」の暗喩だということが想像つくよね。
そこからwikiだのなんだの、いろんな解説と照らし合わせればいい。
最初に引用物の受け売りやってるやつは、最後まで整合性を保てない。
引用物はあくまで主たる洞察の参考にすぎない。
洞察が本質をついていれば、あらゆる引用物が一致してくるんだよ。 「また家畜にもあなたがたへの教訓がある。われはその腹の中の雑物と血液の間から、
あなたがたに飲料を与える。
(その)乳は飲む者にとり、清らかであり(喉に)快適である
またナツメヤシやブドウの果実を実らせて、あなたがたはそれから強い飲物や、
良い食料を得る。
本当にその中には、理解ある民への一つの印がある。」
この「理解ある民への一つの印」ってのが、この世界が
縁起によって成り立ってる・・ ってことだよ。 チュージュマン、ラディカル・ガール、
なつかしいな。。。 地獄も共通してるからな。
だいたい、クルアーンに描かれてる地獄って、
火の地獄なんだよ
これは仏教とも共通してる。
火が描かれてる地獄絵図が多い。
仏教のボイルドウォーター
https://i.imgur.com/5KSiNtf.jpg
イスラム教のボイルドウォーター
https://i.imgur.com/IxGQ8we.gif
仏教 ベロで吊り下げられる
https://i.imgur.com/rHESSdo.jpg
イスラム ベロで吊り下げられる
https://i.imgur.com/BsTPhU2.jpg
この驚くべき一致。 では、ヴリトラハンの話をしよう。
インドラがヴリトラという蛇の怪物を倒す話があるんだけど・・・
だいたいが、「ヘビ」というのは「エゴ」の象徴になってる。
スサノオの物語で、ヤマタノオロチを倒すというのも、
エゴを克服するという物語。
大きく見ると、人間は一度、神の世界からエゴに下降し、その後ふたたび、エゴを克服して
天の世界を地の世界に実現する・・・ という過程を通る。
神話はそういうのを物語にするのが多い。 アダムとイヴの話も、最初は「分別」などなかったが、知恵の木の実を食べて、、
途端に「分別」が働いて、自分たちの裸の体を葉っぱで隠した。
このとき知恵の木の実を食べるようにそそのかしたのも、
ヘビだ。 インドラはヴリトラを倒そうとしたが、その力があまりにも強大だっため、
ヴィシュヌに助けを求めた。
ヴィシュヌの仲介によって、偽りの和平を結んだ
そこでヴリトラは、いくつかの条件を獲得した。
「昼でも夜でも倒せない」
「湿ったものでも乾いたものでも倒せない」
「柔らかい武器(木)でも、硬い武器(石)でも倒せない」
「短距離の武器(剣)でも長距離の武器(弓)でも倒せない」
「大地でも海でも倒せない。」
日本語の説明を見ると、だいたいが昼夜と湿ったもの、乾いたもの、しかないが、
英語のサイトだとたくさん出てくる。
そこでは予想どおり、対極的なものが出てくるわけだ。
いっけん、相対的な両極でも倒せないわけだから、
無敵に見えるよね。
っていうか、ほとんど無敵だろう。 さて、何で倒したか・・・
ここまで読んできた人は、もうお分かりだろう。 インドラがヴリトラを倒した話は何種類かあるようで、ヴァジュラ(金剛杵)で倒したというものや、
湿ったものと乾いたものの中間・・ 泡で倒したとか、
武器に違いがある。
昼でも夜でもない黄昏時に、・・ってところは共通してる。
「君の名は」の、かわたれ時でも同じだろう。
(解説: 「かたわれどき」は、「昼でも夜でもない薄暗い時間帯」を意味します。)
英語のサイトだと、海でも大地でもない、海岸線で・・・ とかも出てくる。 つまり、何で倒したかっていうと、「中道」で倒したわけだ。 「エゴ」は「分別」だ。
「エゴ」を「分別」で克服しようとしても、それは
血で血を洗うがごとし、
泥で泥を洗うがごとし。
唯一倒せるのは、「中道」だ。 おそらく、「泡」で倒したというのは、後世のつじつま合わせの
創作のような気がする。
海でも大地でもないから海岸線だ・・・ というのも、それは中道を知らない単純な発想だ。
あくまでも、右でも左でもないもの、ところ、上でも下でもないもの、ところ、
という風に、中間物を示してはならない。
なぜなら、中間物というのは、両極から想定されるものだからだ。(両極に依存するもの)
中間物は中庸と同じようなもので、いうなれば、両極の要素二つを兼ね備えてる。
なおさら倒すことが出来ない。 ヴァジュラで倒すということは、つまり、
ヴァジュラ = 中道 ということになる。
密教の金剛杵はおそらくそういう意味だろう。
思考分別(エゴ)を打ち砕くのは、中道という武器。 歴史学者やら、評論家やら似非宗教家が導くのは
自分が創作した設定と物語、なぜなら自分でそういう風に理解してしまった真実だからだ
↑の発言のように「つまり」そういう風に説明したいという願望→真実→自分が中心→事実
と昇華した妄想にすぎない。
「なぜなら」と説明したのも
>後世のつじつま合わせの創作
そのものである、そもそも観察し得られた情報で掴み得ないものであって
特定し現代常識で説明しえるものではない。
物事を常に簡略化=合理化することを学校で教わった結果として、
単純化することが正しいという思考に陥る、掴み得ないものを掴みえるものに
再定義してしまう。君が定義した夜空の星は、金色に塗装した作り物のオブジェ
でしかない。
偶像崇拝でしか物を説明できないのは真理である、事としてあるそれは捉えられない
ものであって、説明すれば嘘になる性質になる。
曖昧に抽象的に単語ひとつでしか説明しえない神に家族やら天界の生活やら
神が怒るとか慈悲をとか都合がよすぎる、信者の妄想である。(信者の真実、心理) 17-110
言ってやるがいい。「アッラーに祈れ。慈悲深い御方に祈りなさい。
どの御名でかれに祈ろうとも、最も美しい御名は、凡てかれに属する。」
礼拝の折には、声高に唱えてはならない。また(余り)低く唱えてもいけない。
その中間の道をとれ。 座禅も念仏も「中道」を目指していることに変わりはない。
まず、押さえておかなければならないのは、人間には思考・分別という
カルマ的な流れと、「今にある」という流れの二種類があるということ。
「今にある」というのは「縁起」のことであり、過去・未来がなく、今しかない、
というもの。
肝心なのは、この二つの流れに接点がないということ。
「今にある」ということを、「思考分別の流れ」によって
影響を及ぼすことが出来ない。
まったく関係ないということ。
これを仏教では、泥の池に咲くハスの花で表現されている。
ハスの花は池の泥で一切汚れることがない。
世界がまったく違うということ。 「今にある」というのは、ただ来るもの、来る状態を、ありのままに
通過させるということを意味する。
来るもの、来る状態に対して、一切の価値判断、思考分別が働かない・・・
働くスキがないほど、今と一致しているということ。
なので、これは「中道」ということになる。
マイナスにもプラスにも、少しも価値判断が働かない・・・
ただ来るものにありのままでいる・・
よく仏教で「不動心」というが、真実の「不動心」というのはこのことだ。
たとえて言うなら、怒りが起こったらなら、怒りはそのままで一切の価値判断が
動かないということ。
不安が起こったら、不安ありのままで、一切の価値判断、分別が起こらないということ。
ようは「不動心」とは、「ありのまま」ということだ。
また、「不動心」とは「中道」ということ。 さて、座禅であるが・・・
座禅をしていると、さまざまな雑念が湧いてくる・・・
あるいは、足が痛くなってくるかもしれない。
あるいは、今起こってる雑念を何とかしようと頑張るかもしれない。
こういうのは、思考・分別ということで、カルマ的な流れだ。
中にある限り出続ける。
だから、これをどうこうしようとふんばたって、どうにもならない。
また、どうこうしようというそのものが、思考分別そのものであって、
泥で泥を洗うようなことになってしまう。
一向に泥は落ちない。
泥の流れはそのままに、「今にある」流れに乗り換えなくてはいけない。
大切なのは、「泥の流れそのまま」 ということ。 極端にいうと、
泥が100あろうが、1000あろうが、ハスの花には関係ないということ。
ここを普通の人は間違えて、1000を100に、100を10にと、
最終的にゼロにして、ハスの花にたどり着こうとする・・・
たとえ10万の泥が100になったって、泥は泥だ。
そしてまた泥はカルマの油田から湧き出してくる。
泥を相手にせず、ハスの花にシフトするのが、「座禅」と「念仏」だ。
また、そのほかの方法もあるかもしれない。 今苦難に喘いでいる人にとって、「何一つ変える必要がない」という言葉は、
とても心強い言葉になるだろう。
不安や恐れも、そのままでいいのだ。
何一つ変えなくていいというのが極まれば、それは完全なありのままだ。
完全なお任せ・・・
これは親鸞のいう「信」と同じだ。
完全なる「信」さえあれば、完全なるお任せ状態となる。
完全なるお任せ = 完全なるありのまま だ。
これは = 中道 になる。 今苦難に喘いでいる人は、「中道」という武器を手に入れるべきだ。 ハスの花というのは「今にある」という流れ。
泥の池というのは、「思考分別」、「時間の幅」という流れ。
ハスの花の流れに切り替えるには、ハスの花に触れ続けなければならない。
それには、「今にある」という型を作ってしまえばいいということになる。
「今にある」とは、今にあろうとすることじゃない。
思念を凝らして集中することじゃない。
「今にある」状態は、人間の思考分別は及ばない。
なので、まず、「今にある」という型を作ること。
泥の流れの外に、その型を置くこと。
人のできることは、型を置くことだけで、
型になろうとすることじゃない。
その「今にある」という型・・・
それが、「座」であり、「作法」であり、「念仏」だ。 「今にある」という型さえ置けば、たとえ座禅中に雑念が湧こうとも、
足の痛さに囚われようと、最後は必ず「今にある(座)」に戻ってくる。
それはちょうど逆三角錐の帽子にビー玉を投げ入れ、左に行こうが右に行こうが、
最終的には真ん中に落ち着くのと同じだ。
また、たとえ雑念に囚われたままだったとしても、「今にタッチしている」というもう一つの流れは、
確実に裏に存在する。
早急な成果・結果を求めてはダメで、成果・結果というのは、
思考の望む、時間の幅の産物だ。
雑念が出てイライラしたとしても、それは泥の流れで、
ハスの花は一切影響を受けない。
ハスの花の流れが表にあろうが、裏にあろうが、「今にある(ハスの花)」に
タッチしているという点では平等だ。
イライラしたから失敗だ、集中したから成功だ、ということではない。
問題は、「今にある」にタッチしているかどうかだ。
泥が1000だろうが、1だろうが、それは泥の流れで、ハスの花にはまったく関係ない。
ハスの花においては平等だ。
修証一如。 親鸞が疫病か災害に襲われて、苦しんでいる村を通りかかったとき、その村人たちのために、
お経を何千部も読誦するという、願をかけた。
ようは、村人たちの苦しみを、少しでも和らげたかったわけだ。
仏の力・・ 読経の力を使って・・。
ところが親鸞は、途中でお経を読むのをやめ、
黙ってその村を立ち去った・・・ 阿弥陀様に全てをお任せしている・・・
自分を完全に投げ入れている、100%の「信」を持っているはずの自分が
なぜこの期に及んで、どうこうしようという思いが起きてしまうのか・・。
通常は、一般の人からすると、神仏頼みというのは「他力」のことで、
自分の力で何とかしようとすることを、「自力」、ということになる。
なので、親鸞が村人を救おうと、仏や読経の力に頼ろうとしたことは、
通常では「他力」ということになる。
ところが、本当の「他力」とは、そういうことじゃないんだよね。
「分別」働かせて、何とかしよう・・・ というのが「自力」。
すべてをお任せして、自分の分別でどうこうしようと思わない。
すべての価値判断、分別も、全部、阿弥陀様に投げ入れてしまう・・・
それが本当の意味での「他力」。 つまり、ここでも、 真の他力 = 中道 ということになる。 病気になっても、不安が起きても、恐怖があっても、たとえ不幸が起きたとしても、
すべて阿弥陀様にお任せする・・・ 完全他力。
病気や不幸、不安や恐怖があっても、価値判断して
どうこう(自力)しようとしない。
それをうち任せる場所・・・
それが「念仏」。
泥の流れの外に、「念仏」という型を置く。
泥はいくらでも流れてもいい。
不安も恐怖もそのままに、「念仏」にうち任せればいい。 道元禅師の「只管打座」、 只行う・・・ というのも、
「他力」とまったく同じ。
自分の価値判断でどうこうしようとしない。
座禅中に雑念が出ても、そこに価値判断を加えてどうこうしようとしない。
「ただ行う」、ということ。
「ただ」とは、「価値判断しない」ということ。
「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、
仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、
ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、
生死をはなれ、仏となる。」
「生死をはなれ、仏となる」 というのは、
「両極の価値判断をはなれ、中道となる」 ということと同じ。 >>185
例えば、自分の大切に思う人間が生死を彷徨ってるのに、献血をしない事も中道と呼べるのだろうか?
それも本当に信と呼べるのだろうか? 昔、あるニュース番組で、交通事故で障害を負った青年を取材する・・ という
特集をやっていたが、
その青年は、昔はイケメンで、活動的な青年だった。
しかし、事故後は、脳を損傷したため、しゃべりかたが障碍者独特の
舌が回らないようなしゃべり方になり、四肢の動きも悪くなっていた。
昔の面影はなく、障碍者独特の容姿に変貌していた。
普通の人だったら、絶望する状態だ。
だけど、その人の顔は光り輝くような素晴らしい笑顔だった。
ボランティアの学生が支援に来ていたが、青年が支援されているのか、
学生たちが慕って集まってるのか、わからないほどだった。
ここでアナウンサーが絶妙な質問をする。
「(事故前の)昔に戻れるとしたら、戻りたいですか・・?」
青年は輝くような笑顔でこう言った。
「いいえ、戻りたくないです。 今が一番いいです。」 >>187
それは絶対に戻れないとわかってるからという可能性はないだろうか?本当に戻れるかを選べる状況でもその少年は同じ答えになるのだろうか それはその質問自体が間違っているのではないでしょうか?何故なら絶対に戻れないのだから >>186
献血が必要とされるなら、献血する運びとなるでしょう。
自然にそうなっていく。
親鸞とて、病気になれば薬も飲んだだろうし、日常生活の必要上のことは
やっていたでしょう。
だけど、もし薬がなければ、それはそれで囚われることはない。
完全なお任せだから、どっちに転んでもOK。
大切な人に献血する運びとなれば、それはそれでOK。
でも、もし、献血できなかったとしても、それも阿弥陀様のお計らい。
ありがたや、ありがたや、ということになる。
妙好人とはそういう人たちのことだよね。
全ての価値判断を超えてる。 >>188
>>189
たとえば、自分が事故にあって車が壊れたとする・・。
このとき、「もし事故前に戻れるとしたら、戻りたい・・?」 って質問されたら、
「そりゃ戻りたいさ」と、「今」を後悔するでしょ。
それはガンになっても同じ。
「ガンになる前に戻りたいですか?」
「当たり前だろ!」 ってなるでしょ、だれでも。
ようは、「今」を後悔するってこと。 >>190
生きる為に必要とされる場面でも宗教のルールで出来ないなんて馬鹿げた事が現実にあるんですが?
ありがたやありがたやとなる人も居ればならない人もいる
完璧な物など世の中には無いのです >>191
それはポジティブに考えるしか生きる方法が無いからであって、そちらを自ら選択しているのでは無いってことです >>192
生きるために必要なのに、宗教上は出来ない・・ ってのは、中道じゃないです。
それは「思考分別」で宗教を考えてる人にはあるかもしれない。
おもにカルト的な宗教。
それが生きるために必要で、自然の理に合致しているならば、
自然にそういう風になっていく。
ただ、生きるために必要だからといって、お任せではなく、自力でああしよう、こうしようともがいてる場合は、
失敗が多いでしょ。
すべてをお任せして、自然にうち任せた方が、
自然にうまくいくことが多い。
「自然法爾」
すべては自然が取り計らってくれる。
100%うち任せれば、思考分別を挟まなくても、すべてが完璧に行われる。
その行いは、人間の思考分別から出た行動では不可能。
よく、スポーツで、ゾーンに入った、という言葉があるでしょ。
思考分別を超えたプレーになると、超越的なファインプレーが発現する・・。 >>193
「今を後悔する」ってのは、ポジティブじゃないでしょ。
ネガティブなんだよ。
試験に落ちた。
もう一度、試験を受ける前に戻りたい・・・
ってのは、ポジティブじゃなくて、ネガティブです。
なぜなら、「今」を受け入れられないから。 >>193
あー、わかった。
つまり、健康で元気なころよりも、事故で障害を負って不自由になった「今」の方を選択するのは、
理解できない・・
それは自ら好んで選択しているというよりも、もうこれから先、このままでいくしかないから、
過去のことは忘れて、これからのことを生きよう・・・
だから、(過去に戻るという非現実な話に浸るのではなく、今ある状態で生きることを選択しよう・・・)
ということだね?
あなたの言いたいのは。
それはそうじゃないです。
番組の中でその青年は、「今」の方が素晴らしいというニュアンスで、
「今がいいです。」と言ってました。
あなたはおそらく信じられないと思いますが、「障害/健康」に関係なく、「ホームレス/大富豪」に関係なく、
「今が一番幸せ」という世界があるんです。
それはそのどちらの両極も超えているから。
両極に影響を受けない。
依存していないです。 >>193
一般的に、普通の人の幸せとは、何かに依存してますよね・・?
お金だったり、容姿だったり、若さ、健康だったり、能力だったり、
何かに依存して幸せが成り立っている。
だから、それを失うと不幸になります。
ところが中道というのは、両極に依存しません。
この幸せは、たとえば、100億円持っていようが、0円だろうが、
関係なくそこに在ります。
100億円あれば幸せだ・・・ というのは、本当の幸せじゃない。
だから、中道という幸せの境地は、いくらお金を積んでも代えがたい、幸せの境地ということになります。
そしてその道は、万人に開かれている。
仏教的に言えば、両極というのはあくまで思考の作り出した幻想です。
100億あって幸せ・・ というのと、0円で不幸・・ というのは、
幻想ということになる。
100億円の幸、0円の不幸、それらの幸不幸が無くなったところに
本当の幸せがある・・・
それが中道ということです。 「カッチャーヤナよ、この世間の人々は、たいてい、有か無か二つの極端に片寄っている。
カッチャヤーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものは、
この世間には無というものはない。
またカッチャーヤナよ、正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅してゆくものをみるものには、
この世間には有というものはない。
<これがわたしの我なのだ>ととらわれ、執著し、こだわるところところがなく、ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、
苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依ることがない。
ここに智が生ずる。カッチャーヤナよ、かくのごときが正見なのである。
カッチャーヤナよ、<すべては有である>という。
これはひとつの極端である。
また、<すべては無である>という。
これももう一つの極端である。
カッチャーヤナよ、如来はこれら二つの極端を離れて、
中によって法を説くのである。」 「それ故、アルジュナ、立ち上がれ。 戦う決意をして。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。
そうすれば罪悪を得ることはない。」
「自己を克服し寂滅した人の最高の自己(アートマン)は、
寒暑や苦楽においても、毀誉褒亡貶においても、統一された状態でいる。」
「敵と味方に対して平等であり、また尊厳と軽蔑に対しても平等であり、
寒暑や苦楽に対しても平等であり、執着を離れた人、」
アルジュナは言った。
「あなたはヨーガが平等の境地であると説いたが、クリシュナよ、
私はその不動の境地を見いだせない。」
聖バガヴァット
「好悪から生ずる相対観の迷妄により、万物は創造の時すでに迷妄に陥る。
しかし、善行の人々の罪悪が尽きる時、彼らは相対観の迷妄を脱し、
強固な信念をもって私を信愛する。」 クルアーン <第2章雌牛章>
われは言った。「アーダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、
何処でも望む所で、思う存分食べなさい。だが、この木に近付いてはならない。
不義を働く者となるであろうから。」
ところが悪魔〔シャイターン〕は、2人を躓かせ、かれらが置かれていた
(幸福な)場所から離れさせた。
われは、「あなたがたは落ちて行け。あなたがたは、互いに敵である。
地上には、あなたがたのために住まいと、仮初の生活の生計があろう。」
と言った。
われは言った。「あなたがたは皆ここから落ちて行け。やがてあなたがたに必ず
われの導きが恵まれよう。
そしてわれの導きに従う者は、恐れもなく憂いもないであろう。 あ、そうだ、最後に書くの忘れてた。
聖書で神が、「私はアルファであり、オメガである。」 っていう言葉があったよね。
アルファとオメガってのは、最初と最後って意味。
「最初」と「最後」が同時に存在するのは・・・・?
そう、それは「今」だよ。
時間的幅を一切持たない、ゼロ秒の今。
この「今」において、何ものも継続するものはない。 個の存在というものがすべて消える。
それは同時に、無限なる一が現れることになる。
お寺の山門にある、仁王像の「阿」と「吽」も同じ。
神社の狛犬の口が開いてるのと、閉じてるのも同じ意味。
あれは完全なる「今(=縁起、無限の一、空)」を表してる
https://i.imgur.com/XWsfngJ.jpg クルアーン6章38節
地上の生きとし生けるものも,双翼で飛ぶ鳥も,あなたがたのように共同体の同類でないものはない。
啓典の中には一事でも,われが疎かにしたものはない。
やがてみなかれらの主の御許に召集されるのである。
バガヴァッド・ギーター
「私は世界を滅亡させる巨大なカーラである。
諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。」 バガヴァッド・ギーター (聖バガヴァッドは告げる −)
「ヨーガに専心し、一切を平等に見る人は、自己を万物に存すると認め、
また万物を自己のうちに見る。
私を一切のうちに認め、一切を私のうちに見る人にとって、私は失われることなく、
また、私にとって、彼は失われることがない。
一体観に立って、万物に存する私を信愛する者、そのヨーギンは、いかなる状態にあろうとも、
私のうちにある。
自己との類比により、幸福にせよ不幸にせよ、それを一切(の生類)において
等しいものと見る人、彼は最高のヨーギンであると考えられる。」 前に、ネガティブなことに囚われてる人に対して、10円玉の裏も表も10円玉だよ、
裏、表、平等だよ、ってアドバイスしたら、
誰かが、「10円玉に描かれてるのは、平等院鳳凰堂だよ」 って教えてくれた。
見事なシンクロ。
ちなみに、鳳凰という字は、一の鳥と、白の王(百に一足りない)。
つまり「白の王」とは、99のことだ。
アッラーにも99の名前がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%81%AE99%E3%81%AE%E7%BE%8E%E5%90%8D
99というのは特殊な数字だ。
蘇民将来 99 81
https://ameblo.jp/kawa721/entry-10150401821.html 人の思考(分別)は「表」と「裏」を別の存在として見る。
それぞれに自性(実体)があるわけだ。
しかし、真実は一枚のコインだ。
「表のコイン」 「裏のコイン」というのは、別箇に存在しない。
この分別が止むとき、「一」に帰す。
なぜ、「無」ではなく「空」かっていうと、「完全無」であればこの「一」も消える。
しかし、「表」と「裏」という、「一」の中にある両極が「無」になれば、
その中は「空(カラ)」になる。
空になれば、「一」が現れる。
これが、「無(完全無)」ではなく、「空」という表現が合う理由だ。 余談だが、
昔、自分のいた職場に、「フランス外人部隊に行く」 っていうやつがいて、
やがてその夢を実現すべく、辞職していったんだけど、その時、フランス外人部隊風の敬礼で見送った。
その時は、ただ夢想してるだけなんだろ、って思ったけど、
あとでフランス外人部隊の日本人兵に関する本が出たとき、
そいつが載ってた。
軍曹まで昇進してたね・・。 たとえば、何かを人前で発表するとき、緊張して上手くいかなかったとする。
そうすると大抵の人は、「緊張 = 悪」 「緊張しない = 善」 と分別して、
「緊張しない」方法を目指す。
「人」という字を書いて飲んだり、様々な緊張しないテクニックを本で読んだりして、
緊張しない人間になろうとする・・・
そこでまた発表するときに緊張したりすると、「あ〜、また失敗した」 ということになる。
これは完全に二元相対分別に捉われているということになる。
ここでいうと、「中道」とはどういうことであろうか・・?
大切なのは、「緊張する(悪)」、「緊張しない(善)」に関わらず、
「発表する」という「行為」をすることだ。
相対観念はどっちに転んでも構わない・・
緊張して恥をかくかもしれないし、緊張しないで、上手く行くかもしれない・・
しかし、そこに重点を置くのではなく、どっちに転んでも、「行為(ただ発表する)」ということに専心する。
緊張する、しない、より、「発表する」という「行為」が本当の世界(今)なのだ。
緊張する、しない、は、泥の流れ。
行為は、その外にある「ハスの花」。
行為に専心したときは、「中道」にある状態。(=どちらでもよい) たとえばそれを座禅に当てはめると、
大抵の人は、座禅の時に雑念が湧くと、「失敗」ととらえる。
「無念」になれると「成功」。
そこで一生懸命「無念(成功)」を目指そうとする。
しかし、成功と失敗は表裏一体で、成功に捉われてるうちは、
必ず「失敗」という概念が付き添う。
つまり、成功を求めているうちは、失敗から逃れることは出来ない。
「雑念が湧く(失敗)」、「雑念が湧かない(成功)」 という両者に関係なく、
「座」という「行為」をすること・・・。
これが「中道」の「行為」ということになる。 中道の実践、中道の行。
失敗、成功に関わらず、ただ行為に専心していれば、やがてその両極はどちらでもよい・・、
ということになる。
どちらにしても、「行為」には影響を及ぼさなくなる。
ハスの花と泥のように、世界が違ってくる。 緊張する、しない、という、両極への捉われを捨てれば、
やがては緊張自体もなくなっていく。
また、たとえ緊張が残ったとしても、それは有用なものに変わっていくだろう。
それは全く、「発表(行為)」においての「悪」ではなくなる。
また、雑念が湧く(失敗)、雑念が湧かない(成功)、という、両極の捉われが無くなれば、
雑念がありながらも統一していく・・・
雑念自体がありのままに映ってくるもので、それに対して心(分別)が少しも動かない・・・
いわゆる、不動心となる。
緊張しない、という結果(成功)を求めたり、雑念が湧かない、という結果(成功)を求めたりすることは、
相対分別に捉われているということになる。
「結果」というのは「時間の幅(思考分別)」の産物だ。
「今」じゃない。 緊張するものを、緊張しないようにしよう・・、 というのは、
泥で泥を洗う、ということ。
緊張しようがしまいが、ただ「行為」に専心しよう・・ というのは、
泥をほたっといて、ハスの花(行為)(=今、中道)にシフトするということ。 バガヴァッド・ギーター [聖バガヴァッド (クリシュナ) は告げた -]
「あなたの職務は行為そのもにある。 決してその結果にはない。
行為の結果を動機としてはならない。」
「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、
ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。
ヨーガは平等の境地であると言われる。」
「知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、
患いのない境地に達する。」 『お前の関心は行為にのみあり、決して行為の結果にあってはならない。行為の結果を、おまえの動機としてはいけない。また、
おまえは無行為に執着してはいけない。(2-47) ダナンジャヤ(アルジュナ。「富をかち得た人」の意)よ、実修ヨーガの中にあって、
執着を捨て、成功・不成功に対して心を平等に保ち、行為せよ。平等心こそ実修とよばれる。(2-48) なぜなら、ダナンジャヤよ、
(私欲的)行為は心の実修ブッディ・ヨーガ(結果を期待しない心的態度による行為)よりはるかに劣るから。理性ブッディを拠りどころとせ
よ。結果を(行為の)動機とする者はあわれむべき者である。(2-49) 心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを
捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。(私欲のない)行為に熟達することは、この(心の)実修にある。(2-50) 心の実修を
修めた賢者は、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛を脱して、わずらいのない境地(解脱)に到達する。(2-51) 26 :学術 :2019/12/02(月) 20:06:45.09 0
ユニクロのような新経済体質はアジアより高くヨーロッパより高い質の良さ面白さだ。
27 :学術 :2019/12/02(月) 20:12:23.53 0
ユニクロのランジェリー下着デザイナー雇うよ。
28 :学術 :2019/12/02(月) 20:17:23.12 0
エロニクロ ユニクロは今からバラエティーに富んだ高級下着メーカーだ。 仏教といえど宗教なわけで、最後は「尊師はこう言っている」で終わりなわけ。 >最後は「尊師はこう言っている」で終わりなわけ。
でもそう言っているという例えそのものも、信者の創作ネタなんだし、
仏教を1つのそれの働きのように具体化するやつほど
仏教に無学な馬鹿だって聞いたぞ。 原始仏教は、言ってる事自体はだいたい真理だよ。でも真理を広めようとすると矛盾が起きるんだよね。
真理って基本役に立たないから、広めるために方便をどんどん付け加える必要がある。
それが物語化して、そっちの比重がでかくなり本体になる。それが大乗仏教
でも一般人には物語のほうが役に立つんだよね。心の安定という意味で
だからすげー複雑に見えるけど、実際はそんなに大したこと言ってないよ。 >>224
真理は表現し具体化することで現実に対して矛盾がおきるだけで、概念であるかぎりは
何の矛盾もない。
それはより高位で抽象的な働きであって、自ら行うことで結果を出すという因果の渦の中で
確立する技術の類ではない。
実態しか掴めない人には役に立たないが、掴み得ない非実態を操る人には
神のような原理である。
論理や技術や知識といった現代社会において、それに該当しない真理など人々にとっては
幻でしかない。
比喩される力の頂点にある意思、つまり皇帝のような最上の存在であるわけでもなく、
その主体たる存在の意思が介入せずとも、法として自然や偶然が必定となって現れる何かに
働きとしての真理が隠されている。 空とはカラッポという意味ではない。
くうとは無でもない。有るものが無常であることを空という。例えば水。水の本体は氷でもないし雪でもないし霰でもないし水蒸気でもないし水でもない。だから水の本体は空であるという。一切が無常だから一切が皆空となる。 >>226
小学生だってそんなレベルの発言はしないぞ 宗教というものは死後の精神に指向性を持たせるもの
ではどこに向かうように促されているのか
天国や地獄と呼ばれている何か、それが何かはわからない
判った人が開祖と呼ばれているのかもしれない
逆に言えば開祖はまず結論を出した
そうなる為の手段として宗教が生まれたわけだ
そして人の精神とは不安定なものであり常に揺らいでいる
だから不安になりやすく、故に安定を求めている
だから宗教にハマりやすい
いつからか、特に新興宗教はそれを行う人間達の特性を利用した搾取に成り果てている アビダルマ哲学の
三世実有法体恒有
現在有体過未無体
五位
刹那生滅
三性
阿頼耶識末那識
これらは全部人間が頭の中で考えた概念だから漫才 碧巌録(へきがんろく) 第24則 鉄磨到イ山
本則
劉鉄磨、イ山(いさん)に到る。
山云く、 「老ジ牛(ろうじぎゅう)、汝来たれり」。
磨云く、「来日(明日)、台山(五台山)に大会斎(だい さいえ)あり、和尚 還(かえ)って去るや」。
イ山、身を放って臥す(みをはなって がす)。
磨すなわち出(い)で去る。
注
劉鉄磨:イ山霊祐、仰山(ぎょうさん)慧寂に参じた尼僧。 「鉄磨」は鉄の臼にも喩えられる風格に対するあざ名。彼女はイ山の近くに庵を構えて住んでいたと伝えられる。
イ山:イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(771〜853)。 百丈懐海禅師(748〜814)の法嗣でイ仰宗の開祖。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂
老ジ牛(ろうじぎゅう):年をとった雌牛(めうし)。
台山:五台山。山西省の東北部にある。 文殊菩薩の霊地とされる中国仏教の三大霊山の一つ。
五台山の地形は「釈迦の掌」に比喩される。 5本の指に対応する五つの嶺(最高峰は標高3,000mもある) に囲まれた手の掌に当たる所に百カ寺と言われる多数の寺が点在する。
我が国の慈覚大師円仁(794〜864、第三代天台座主)が ここを訪れ「入唐求法巡礼行記」を著している。
大会斎:大勢の僧衆を集めて斎食(さいじき)(午前中の食事)を供養する法会(ほうえ)。
本則
劉鉄磨(老尼僧)がイ山(いさん)に来た。
イ山(いさん)は劉鉄磨がやって来るのを見て言った、「年老いた雌牛がやって来たな」。
鉄磨は言った、「明日五台山で大会斎があります。和尚さん、お出かけになりますか」。
これを聞いてイ山は大の字になってゴロリと横たわった。
これを見ると、鉄磨は、サッサと後も見ずに帰って行った。
→ 法戦の様子である、と言う。 内と外を分けない、分別(ふんべつ)しないである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/慧能
大鑒真空普覚圓明禅師
神秀の詩
身是菩提樹 心如明鏡臺(身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し)
時時勤拂拭 莫使有塵埃(時時に勤めて拂拭し 塵埃を有らしむること莫れ)
慧能の詩(多版本)
菩提本無樹 明鏡亦無臺(菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)
佛性常清淨 何處有塵埃(仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
心是菩提樹 身為明鏡臺(心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
明鏡本清淨 何處染塵埃(明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか) >大鑒
https://ja.wiktionary.org/鑒
日本語
発音
音読み
呉音 : ケン(ケム)
漢音 : カン(カム)
訓読み
かんが-みる、かがみ
熟語
照鑒 >神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と
>仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された
>宗教現象。 神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。 https://ja.wiktionary.org/wiki/照鑒
照 鑒(しょうかん)
宗教用語で神仏が衆生を照らしみて守ること。神仏が目をつけて見守ること、また擁護すること。 なんかいろいろとボロが出てきている気がするのは、私だけか?w https://www.kanjipedia.jp/kanji/0001147800
鑒
会意形声。金と、監(カム)(かがみ)とから成り、「かがみ」の意を表す。
「監」の後にできた字。 https://en.wiktionary.org/wiki/鑒
Pronunciation
Middle Chinese: /ken/, /kˠamH/ 私にとって面白いのは、このような関係性が、中国の禅の知識によってでもなく、
中国語の知識によってでもなく、「日本語の論理」からの推測によって導かれることだ。 日本語の歴史を深く知っているはずの専門家がなぜ突如、
タミル語起源説のような奇抜な説を唱えることになったのか、
その背景を歴史的に検証する価値があるだろう。
だが、そのような検証が可能になる時はやってくるだろうか。 碧巌録(へきがんろく)(碧あおい巌いわお の記録) 第27則
雲門(うんもん)体露金風(たいろ きんぷう、ごんぷう)
本則
修行僧、雲門文偃(うんもん ぶんえん)禅師(ぜんじ) に問う、 「樹(き)凋(しぼ)み葉(は)落(お)ちる時(とき)如何(いかん)?」。
雲門云く、 「体露金風(たいろ きんぷう)」。
注
雲門:(うんもん ぶんえん)禅師(ぜんじ)(864〜949)。雲門宗の開祖。法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃
樹凋み葉落ちる時:ブッダが沙羅双樹(さら そうじゅ)の下で涅槃(ねはん)に入った(入滅)時、沙羅双樹(さら そうじゅ)の1本が枯れ、樹皮も枝葉も抜け落ち、唯(ただ)真実のみが残った、
という「大乗涅槃経(だいじょうねはんきょう)」に見える喩(たと)えを踏まえている。ここで樹の葉は煩悩妄想を象徴している。
体露:真実ありのままに打ち出す。
金風:秋風。陰陽五行説より来ている。木(春)火(夏)金(秋)水(冬)の対応関係で金は秋に対応している。
本則
秋が深まって冬に入ろうとするある日、一人の僧が雲門に聞いた、「樹木の葉が紅葉した後、凋み落ちつくした冬景色の時はどうですか?」。
雲門は云った、「体露金風」。
六祖(ろくそ)慧能(えのう)には「葉落帰根(ようらく きこん)」と言う言葉がある。
六祖慧能は晩年になって弟子達に別れを告げ、故郷(ふるさと)に帰ろうとした。その時、弟子達が「何時(いつ)戻って来られるのですか?」と聞いた。
これに対し慧能は「葉は落ち根に帰る(「葉落帰根」(ようらく きこん))。何時戻るか 言えない」と言ったと伝えられる(六祖壇経)。
→ 諸行は無常である。
この体は、宇宙を吹き渡る風である。 この体を、宇宙を吹き渡る風が吹き抜けていく、である。色即是空は空即是色へと還(かえ)る、である。 >>13
ニーチェはインド哲学というより、ソクラテス以前の古代ギリシャ哲学 仏教における善と悪の定義を分かり易くいえば、 善……自他を仏の世界に
押し上げる行為 悪……自他を仏の世界から遠ざける行為 ということになります。
正確には、これに「今世と来世の二世にわたって」という時間軸がつくのですが、
そ自己と他者の両方を仏の世界に押し上げる順益の行為が「善業」です。
一方、自他が仏の世界へ近づくのを妨げたり、仏の世界から自他を遠ざける行為が「悪業」です。 若空1日、若空2日、若空3日、若空4日、若日5日、若空6日、若宮7日、一心不乱 しちゃそ
にゃあくういちにち、にゃあくうふつか、にゃあくう3日、にゃあくう4日……
いしんふらん 仏教にとって、
愛と
善と
悪と
光と
闇と
世間と
遺伝子とは全て一つに繋がっている。 もしおまえのところに苦しんでいる人からメッセージが届くのであればおまえが何かをしなければならず、それがわかってないから来るのだ。
今にも人は死んでいる。 イタチの君戦死。今日通夜明日葬儀 5chも弔問参列受付。増上寺祐天寺。 おれは東京生まれ(自称)ヒップホップ育ち、悪そなやつはだいたいともだち、わるそなやつとだいたいおなじ! 言の葉の庭
「雷神(なるかみ)の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
これの返し歌が、
「雷神(なるかみ)の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば」
「あんたは! あんたは一生ずっとそうやって、大事なことは絶対に言わないで、自分は関係ないって顔して、
ずっと一人で生きていくんだ!」
「毎朝、毎朝ちゃんとスーツ着て、学校に行こうとしてたの。でも怖くて。どうしても行けなくて。あの場所で、わたし、あなたに救われてたの!」 アビダルマ哲学の
三世実有法体恒有
現在有体過未無体
五位
刹那生滅
三性
阿頼耶識末那識 413 考える名無しさん 2021/05/23(日) 11:49:49.29 ID:
☆宗教板での、某宗教信者との対話より☆
985 幸福の科学信者 2021/05/23(日) 08:31:43.17 ID:YG6iC+Ha
心を磨く幸福感
この地上を去って持って還れるものは、心しかないのです。
みなさんの心しかないのです。
心しか持って還れないならば、
財産も何も持って還れない、名刺も持って還れない、
心しか持って還れないならば、
その心をよくする以外に、何の方法がありますか。
何の幸福感がありますか。
それしかないのです。
『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(2)』 >>282
その大川総裁が言ってる「心」ってのは、仏教の考え方では「偽我」なんだよなあ
考えてみればいい
1、嫌なことが起きる
2、脳が神経系や内分泌系に指令を送る
3、神経系や内分泌系が、不快な気分になるホルモンを分泌する
4、嫌な気持ちになる
時系列的には、こういう順序だ。
人は、「嫌なことが起きたから、嫌な気持ちになった」と解釈する
でも、本当はそうではない。
「脳が、タイミングよく不快物質を供給したから」
それが、嫌な気持ちになった本当の原因だ
このように、「心」というものは、肉体の作用によるものが大きい。
それは、この世のものであり、あの世に持って帰れるものではない
仏教では、このように考える
それが、お釈迦さまの教え ☆信者による反論☆
1、嫌なことが起こる、この「嫌なこと」がなぜ
「嫌なこと」だと分かるか。(伝達前なのに)
2、嫌なこと、という概念を、神経はどのように
伝達するのか。(理念をどう信号に変えるのか)
3、神経から伝達された情報から、どのように
不快な気分になる物質を選択するのか。
4、不快な気分になる物質が分泌されると、なぜ、
嫌な気持ちになるのか。
(その物質が不快だと感じる主体は何か) 人には、心がある
通常、人はそれを自分自身と認識している
だが、仏教の考え方からすれば、それは「偽我」なのだ 感情だけでなく、意志も同じだ
1、脳が、「手を伸ばして、目の前の饅頭をつかむ」と決定する
2、「なんだか、目の前の饅頭を食べたくなったな?」という考えが意識に浮かぶ
3、手を伸ばして、饅頭をつかむ
時系列的には、この順番になっている
それぞれ、コンマ数秒ずつの微妙なタイムラグがあるということが、脳科学の実験で明らかになっている
もしも、2→1→3という順番だったら、とても間に合わない。2と3の間に、かなりの時間差が生じることになる だが、このとき、1が意識されることはない。下手をすると、2すら意識されない。
最初から、反射的に3に至ったという解釈になることも少なくない
「饅頭たべたい」という考えが意識に浮かんでから、「手を伸ばす」という行動に移るまで、脳は絶妙なタイミングを演出している
意志とは、脳による巧妙な演出にすぎない このように、感情・意志・思考その他、どれも詳細に検討すればするほど、脳がやってることだという結論になってゆく
感情・意志・思考その他が「脳」の作用だとすると、本当の意味での「心」の作用は、それらを取り除いたところで考えなければいけなくなる
脳科学などなかったにもかかわらず、古代インド人はなぜかそれを見抜いた
それらを取り除いた後に残るのは、感情も意志も思考もなにもない、小さな種子みたいなものだ この小さな種子こそ、輪廻転生の主体だということになる
(もちろん、これは古代インド哲学の話。現代哲学の心脳問題では、これは認められない) 通常の意味での「心」を、自分だと錯覚してはならない
それは「偽我」であり、自分ではない 「自分でないもの」をとことん取り除いて、それでも残るもの
それが真我だ 空海「十住心論」仏教と心の発展段階
・第一住心 異生羝羊心 - <世間心> 煩悩にまみれた本能のままの人間
・第二住心 愚童持斎心 - <世間心> 道徳の目覚め/儒教の境地
・第三住心 嬰童無畏心 - <世間心> 超俗志向/インド哲学・老荘思想の境地
・第四住心 唯蘊無我心 - <小乗> 声聞の境地
・第五住心 抜業因種心 - <小乗> 縁覚の境地
・第六住心 他縁大乗心 - <初期大乗> 唯識/法相宗の境地
・第七住心 覚心不生心 - <初期大乗> 中観/三論宗の境地
・第八住心 一道無為心 - <大乗> 天台宗の境地
・第九住心 極無自性心 - <大乗> 華厳宗の境地
・第十住心 秘密荘厳心 - <仏乗> 真言密教の境地
一〜九までが顕教、十は密教 その頃は何が阿含経典かはっきりしてなかったからなあ
空海自体は凄い人だよね 唯識とは、五感プラス末那識と阿頼耶識
西洋哲学で言えば、
カントの「超越論的主観性」になる。 いわゆる存在論だな。
仏教の存在論は「唯識」。
複雑なことはない。 唯識は0.1で割り切れる。
0.001小数点以下3を超えると複雑になる。
物事は複雑にしなくてもなんでも統合できる。 カントの「超越論的主観性」は0.4で割り切れる。複雑な哲学の文章はより理解を促すために論考を展開する。簡単に言うぞ。 カントの「超越論的主観性」は、自分が見るものとの一致「間尺」のこと。
唯識とは、宇宙摂理について。自分が見るものに執着しているということ。 複雑に言うと、
人間が認識するのは「物自体」(それ自体においてあるがままの物)の世界ではなく、人間の認識能力に間尺を合わせて現れてくる「現象」の世界、現象界でしかない。つまりは
現象=材料➕形式→人間はこの形式的側面に関してなら、一々経験しなくとも、明確に知ることができる(カント) 変でしょ。でもよく読むとわかる、
木田元「反哲学史」が参考文献。宇宙摂理に関わっているでしょう。 唯識は、見たもの考え方に色眼鏡があると言うことで、カントの哲学なら出てくる「物自体」を色眼鏡で見ているという考察と一致する。 つまり、「物自体」そのものを見ているとそのままみてるのかってこと。色眼鏡がある。 唯識は、
五識と意識が第六識、第七識の末那識、第八識阿頼耶識。阿頼耶識は無蔵識と言って道が貯蔵されてるってこと。 で、物事をそのまま見れるんじゃない?
ってのが、禅宗になる。 この宇宙は存在しない
すべては無明が原因で起きる幻想 この世の五蘊が滅しても、あの世で異蘊が輪廻を続ける 原始仏教は宗教を否定しているので現行存在する全ての仏教徒は仏陀の教えに沿ってない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています