仏教哲学
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イタチの君戦死。今日通夜明日葬儀 5chも弔問参列受付。増上寺祐天寺。 おれは東京生まれ(自称)ヒップホップ育ち、悪そなやつはだいたいともだち、わるそなやつとだいたいおなじ! 言の葉の庭
「雷神(なるかみ)の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
これの返し歌が、
「雷神(なるかみ)の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば」
「あんたは! あんたは一生ずっとそうやって、大事なことは絶対に言わないで、自分は関係ないって顔して、
ずっと一人で生きていくんだ!」
「毎朝、毎朝ちゃんとスーツ着て、学校に行こうとしてたの。でも怖くて。どうしても行けなくて。あの場所で、わたし、あなたに救われてたの!」 アビダルマ哲学の
三世実有法体恒有
現在有体過未無体
五位
刹那生滅
三性
阿頼耶識末那識 413 考える名無しさん 2021/05/23(日) 11:49:49.29 ID:
☆宗教板での、某宗教信者との対話より☆
985 幸福の科学信者 2021/05/23(日) 08:31:43.17 ID:YG6iC+Ha
心を磨く幸福感
この地上を去って持って還れるものは、心しかないのです。
みなさんの心しかないのです。
心しか持って還れないならば、
財産も何も持って還れない、名刺も持って還れない、
心しか持って還れないならば、
その心をよくする以外に、何の方法がありますか。
何の幸福感がありますか。
それしかないのです。
『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(2)』 >>282
その大川総裁が言ってる「心」ってのは、仏教の考え方では「偽我」なんだよなあ
考えてみればいい
1、嫌なことが起きる
2、脳が神経系や内分泌系に指令を送る
3、神経系や内分泌系が、不快な気分になるホルモンを分泌する
4、嫌な気持ちになる
時系列的には、こういう順序だ。
人は、「嫌なことが起きたから、嫌な気持ちになった」と解釈する
でも、本当はそうではない。
「脳が、タイミングよく不快物質を供給したから」
それが、嫌な気持ちになった本当の原因だ
このように、「心」というものは、肉体の作用によるものが大きい。
それは、この世のものであり、あの世に持って帰れるものではない
仏教では、このように考える
それが、お釈迦さまの教え ☆信者による反論☆
1、嫌なことが起こる、この「嫌なこと」がなぜ
「嫌なこと」だと分かるか。(伝達前なのに)
2、嫌なこと、という概念を、神経はどのように
伝達するのか。(理念をどう信号に変えるのか)
3、神経から伝達された情報から、どのように
不快な気分になる物質を選択するのか。
4、不快な気分になる物質が分泌されると、なぜ、
嫌な気持ちになるのか。
(その物質が不快だと感じる主体は何か) 人には、心がある
通常、人はそれを自分自身と認識している
だが、仏教の考え方からすれば、それは「偽我」なのだ 感情だけでなく、意志も同じだ
1、脳が、「手を伸ばして、目の前の饅頭をつかむ」と決定する
2、「なんだか、目の前の饅頭を食べたくなったな?」という考えが意識に浮かぶ
3、手を伸ばして、饅頭をつかむ
時系列的には、この順番になっている
それぞれ、コンマ数秒ずつの微妙なタイムラグがあるということが、脳科学の実験で明らかになっている
もしも、2→1→3という順番だったら、とても間に合わない。2と3の間に、かなりの時間差が生じることになる だが、このとき、1が意識されることはない。下手をすると、2すら意識されない。
最初から、反射的に3に至ったという解釈になることも少なくない
「饅頭たべたい」という考えが意識に浮かんでから、「手を伸ばす」という行動に移るまで、脳は絶妙なタイミングを演出している
意志とは、脳による巧妙な演出にすぎない このように、感情・意志・思考その他、どれも詳細に検討すればするほど、脳がやってることだという結論になってゆく
感情・意志・思考その他が「脳」の作用だとすると、本当の意味での「心」の作用は、それらを取り除いたところで考えなければいけなくなる
脳科学などなかったにもかかわらず、古代インド人はなぜかそれを見抜いた
それらを取り除いた後に残るのは、感情も意志も思考もなにもない、小さな種子みたいなものだ この小さな種子こそ、輪廻転生の主体だということになる
(もちろん、これは古代インド哲学の話。現代哲学の心脳問題では、これは認められない) 通常の意味での「心」を、自分だと錯覚してはならない
それは「偽我」であり、自分ではない 「自分でないもの」をとことん取り除いて、それでも残るもの
それが真我だ 空海「十住心論」仏教と心の発展段階
・第一住心 異生羝羊心 - <世間心> 煩悩にまみれた本能のままの人間
・第二住心 愚童持斎心 - <世間心> 道徳の目覚め/儒教の境地
・第三住心 嬰童無畏心 - <世間心> 超俗志向/インド哲学・老荘思想の境地
・第四住心 唯蘊無我心 - <小乗> 声聞の境地
・第五住心 抜業因種心 - <小乗> 縁覚の境地
・第六住心 他縁大乗心 - <初期大乗> 唯識/法相宗の境地
・第七住心 覚心不生心 - <初期大乗> 中観/三論宗の境地
・第八住心 一道無為心 - <大乗> 天台宗の境地
・第九住心 極無自性心 - <大乗> 華厳宗の境地
・第十住心 秘密荘厳心 - <仏乗> 真言密教の境地
一〜九までが顕教、十は密教 その頃は何が阿含経典かはっきりしてなかったからなあ
空海自体は凄い人だよね 唯識とは、五感プラス末那識と阿頼耶識
西洋哲学で言えば、
カントの「超越論的主観性」になる。 いわゆる存在論だな。
仏教の存在論は「唯識」。
複雑なことはない。 唯識は0.1で割り切れる。
0.001小数点以下3を超えると複雑になる。
物事は複雑にしなくてもなんでも統合できる。 カントの「超越論的主観性」は0.4で割り切れる。複雑な哲学の文章はより理解を促すために論考を展開する。簡単に言うぞ。 カントの「超越論的主観性」は、自分が見るものとの一致「間尺」のこと。
唯識とは、宇宙摂理について。自分が見るものに執着しているということ。 複雑に言うと、
人間が認識するのは「物自体」(それ自体においてあるがままの物)の世界ではなく、人間の認識能力に間尺を合わせて現れてくる「現象」の世界、現象界でしかない。つまりは
現象=材料➕形式→人間はこの形式的側面に関してなら、一々経験しなくとも、明確に知ることができる(カント) 変でしょ。でもよく読むとわかる、
木田元「反哲学史」が参考文献。宇宙摂理に関わっているでしょう。 唯識は、見たもの考え方に色眼鏡があると言うことで、カントの哲学なら出てくる「物自体」を色眼鏡で見ているという考察と一致する。 つまり、「物自体」そのものを見ているとそのままみてるのかってこと。色眼鏡がある。 唯識は、
五識と意識が第六識、第七識の末那識、第八識阿頼耶識。阿頼耶識は無蔵識と言って道が貯蔵されてるってこと。 で、物事をそのまま見れるんじゃない?
ってのが、禅宗になる。 この宇宙は存在しない
すべては無明が原因で起きる幻想 この世の五蘊が滅しても、あの世で異蘊が輪廻を続ける 原始仏教は宗教を否定しているので現行存在する全ての仏教徒は仏陀の教えに沿ってない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています