純粋理性批判詳しい人来て
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カントのいう「総合」というのをうまくつかめません 誰かわかりやすく教えてくれませんか ちなみに漏れは、この家の中にいがちな期間に、何かためになりそうなことをしようと思い、純粋理性批判を読んでいるという程度です ありがとうございます しかし、「我々は感覚把握の純粋な総合を有する」というように純粋な総合というのがあるんですがこれはどうなんです? 恐らく序盤だとは思いますが 「我々は感覚把握の純粋な総合を有する」 前後がわかりませんが、アプリオリや悟性という用語が文章にあるはずです。 受容の能力は「感性」 その受容の働きを「直感」 前の受容の形式は感性の「直観の形式」と呼ばれ、空間と時間がそれに当たる。 そうした空間的規定や時間的規定に関してなら、われわれは先天的「経験に先立って」知ることができる。 ↓ 幾何学と数学は、実は空間形式と時間形式とについてのアプリオリ(先天性) そのようにして受け入れられた材料を整理するための能力が「悟性」 その整理の働きが「思考」 AとBの結びつきが、Aにとって内在的である何かによって成立するなら、それは“分析”であり、 AとBにとって外在的である何かによって成立するなら、それは“総合”であると思っている 総合 という文字を分けて類推して語義を連想したり明確にして見ろ。 ありがとうございました。いろいろなアドバイスも助かります 筑摩書房 石川文康訳 です 序盤でつまずいてました >>14 全部で7巻あるけど光文社の「純粋理性批判」の方が解説も充実してて初心者には圧倒的に理解しやすい。 中山元って翻訳書の数が凄いことになってるけどぜんぶ自分でやってんのかね 書き散らしてる感じであまり評価できない。 でも、仕事はしてる感じ。ひまがなささそう。 ゼロから翻訳したというより先発本を現代的で親しみやすいカジュアルな言葉に変更しただけじゃないの 純理なんて古臭い言葉で書かれた専門的な堅苦しいやつしかないからね >>15 読み進めるのが困難になってきたら、そっちに切り替えてみようと思います >>1 少しアドバイスすると、なかなか読んでもわからん。 ただ本に対してものすごく集中して神経を使って読めばわかってくる。デカルト、カントとかヴィトゲンシュタインあたりはそれで読める。 だがほとんどの哲学書は背景となる知識がわかってないと、相当頑張ってもわからんよ。 というわけで「純粋理性批判」はいいとして、哲学書を読むのを一旦中止して、木田元の「反哲学史」あたりを読むか、さもなくば別のアプローチで勉強した方がよい。 小説が読めるなら小説を読んだ方が良いよ。まあ何に対しておもしろいと感じるかはわからないが。 つまりカントを含めて、哲学書というものは時間を浪費するだけで、経済的に言えば生産性が悪い。例えかなりくわしくなっても院に進む以外使い道ないし、誰も話について来れないので象牙の塔になるだけ。 木田元の「反哲学史」は哲学の入門書としてはかなりの良書。どうしても哲学やりたいならそちらをお勧めする。 >>20 それ読んでみようと思います ほかになんかいいのあったらおしえてほしいです 多分時間いっぱいあるんで 橋爪大三郎の最近の著作 タイトルに興味もったら是非 >>21 確かに、歴史なら愛好家が世間にもいるから、それなりに話のネタにもなるけど、哲学はまず会話が成り立たない 自分以外の誰にもわからない、孤独な趣味になる 意識は死後も継続するのでは 640コメント 誰もいない糞5ちゃんより エドガー・ケイシー 読みな 終 「独身者は、結婚していない」 これは、分析命題。 「独身者」という主語を分析すれば、そこには「結婚していない」という意味が含まれている 「雨の降る日は寒い」 これが、総合的判断 「雨の降る日」という主語には含まれていない、新しい情報が加わっているから 今時純利読み始めるなら熊野訳じゃないの それでも序文・序論だけ読んでアプリオリとアポステリオリ、アンチノミーを覚えて、後は飲茶の哲学入門でなんとなくカントの言いたい事を理解した気分で充分かなと それ以上覚えても誰とも会話できないし、役に立たない 結局哲学の言わんとしてる所は普遍的真理なんかなかったんだ 自分の認識・脳味噌で理解できる目の前の問題に集中しろって事をくどくど説明しているだけで実に迂遠な物語 >>35 判断力批判は熊野訳で読んだが純粋理性批判と実践理性批判は中山訳が良かった。 魔女 速さと魔力あげとけよ。いつでも効くのは速さとヤタガラスの結論。 能力倍になるよ 。 クレイジー柔術と召喚魔法どっちが勝つかね。見どころある。 クレイジー銃術と召喚魔法どっちが勝つかね。見どころある。 同一性と異質性というと異質性のほうがまあ確実にいい。 カントはどちらかというと異能でありノーマル読書の日は日が悪い。 魔法効果があるから読んでるわけで難しいから読んでるわけないけどね。 だけど意識に住んでるカントも古びてはいるよね。覚醒してもまあかなり精錬とか かけ外ししないと、昔見たようなものさ。 魔法効果のスキル上昇とか考えて調べ読んでみてください。 立花隆という有名な評論家が 「最新の認知科学によれば純粋理性など存在しない」 「あんなものは一切読まなくて良い」 と力説していて、 昔の国立大学の哲学科を出ている人だけに 妙な説得力をもって自分の中に入ってきたが、 控えめに言っても、本書の影響力は圧倒的だろう。 中山訳など一読してみる価値は、きっとあるのでは。 くにないがい がいちてき 訂正でんでん… ぷるぱちゃほわぶか〜 パチャぷるぱちゃぷるぱちゃぶか〜 パチャホワブルパゃ〜 ホワ〜 ,ィZ三三二ニ== 、、 ,. --{シイィ彡彡三三三ミ丶、 ,イィ三ミ>'"´ __,,  ̄`丶ミミミミヽ 必死にスレを潰している低能がいるようですが /シ彡シ'´ _ ,ニ_二 三‐`、 `ヾミミミヽ 美しい国には全く必要のない人たちです . ,'ilif'彡' ,' _,..-ュ ̄ fニ三三ミヽヾミミミヽ jlリイ彡! :,ィ彡'"´ :. :. .:' `゙' ヾミミミミ' l{i{l{lノリ ,'fi´ _, i :. ';=―一 ',ミミミミ! {lilili/{ ' ,.-‐'"´,:,! ' 、ー-‐ ' Nlハ⊥ |lilifリハ .: '、 _,.ノ,' ,. }、 tf{´i, l| . Wリ小! .: ,ゝ^ :: ヽ `!) Vl ゞ干ミ} : / _J_ 丶 }'´ / '、Yヾ :. l /ィ三三シ'^ / ノ / ´ ヽ` ̄ ヽニソ ー-゙:.、 i - 、 `ヽ_ l: 、.: ヽ ゙i" ! i ; n .:c.: ', _..ハ | ハ/ { _,..-ァノ 、r‐、>ー ヽ | ト./ ` ̄__,.:=彡 :.ヾ、ニ二 / . | |ノ -=< ゙=tラ'" | / ,-一'" ̄´ i |:/ / \:. ! | ' / ヽ:. :、 \ ゙、 ノ .i:. ` ヽ >>46 最新の科学によると評論家の評論は専門分野以外はググった知識に劣るという話だがw >>46 自分に理解できないものをバッサリと否定するのは、あれくらいの年代の人にアリガチな傾向 純粋理性などというものがあるとして、 それはどういうもので、どのように批判されるべきものなのか が書かれた本なんじゃないの?俺は適当に書いてるけど。 >>46 >昔の国立大学の哲学科を出ている人だけに 東大紛争で哲学科を中退したんじゃなかったっけ? >>53 つまりググレksと言った後に論破されて沈黙する程度の絶滅危惧種「知識人」 とは言ってもどっかの番組で ググって論文書く事を司会が否定的に言うと ググって調べる事は正しい事でそれを全否定すなと司会に噛み付いてたな テレビ局ももう寒い番組制作辞めれば良いのにな 今時テレビの言ってる事信じてる奴いないだろうに 少なくともテレビの司会やアナウンサーが頭いいとは誰にも思われていないんだし 専門家のコメンテイターでさえ自分の専門の研究から半歩出ただけでろくに知らないのがバレる時代 古い本だと綜合になるんだよな。 まあ、切り刻んでいく分析の反対だ ぐらいでいいような気もする。 一番安価でコンパクトで無難な訳本は、 平凡社ライブラリーから出ている原佑(+渡邊二郎)訳だと思うよ。 初版と2版が同じページに横線で分けられているし。 ちなみに、 高価な訳本を出した熊野純彦は高峯一愚の訳本に世話になったと書いていた。 構想力って判断力批判で急に出てくるんじゃなくて、 感性と悟性をつなぐものとして純粋理性批判で出ているんだよね。 このスレ、5チャンネルで数少ない為になる良スレですね。 時々開いてみたいと思います 超越論的理念と物自体の関係を教えて下さい 物自体は理念ですか? カントのいう理念 1、霊魂の不死 2、宇宙の始まり 3、神 >>68 理念も物自体もどっちも叡知的ですよね 叡知的なものに色々種類があるってことですか? 物自体とは、われわれの知覚とは独立して存在するもの、 実際に存在するもののことを指す。 デモクリトスにとっては、物自体は物質であった。 根本的には、ロックにとってもそれは物質であった。 カントにとっては、物自体は=xであった。 わたしにとっては、それは意志である。 ---ショーペンハウアー >>69 「物自体とは何なのか?」について、カントは明確な定義をしてない それは物質的な存在なのか、精神的な存在なのか それすら分からない 一方、「理念」については明記されている 第一理念「心」 第二理念「宇宙」 第三理念「神」 カントのいう理念とは、 「魂は不死であるか?」、「宇宙に始まりはあるか?」、「神は存在するか?」 といった、従来の形而上学の議論のテーマなんだってことが、これで分かる >>71 これを補足するとつまり、「カント哲学における最高の理解者であり継承者」を自認するショーペンハウアーは、「物自体」をこのように解説している カントの「物自体」の元ネタともいえるジョン・ロックにおいては、それは物質的な存在だった これに対し、私(ショーペンハウアー)はそれを、「意志」という精神的な存在と捉えた カントは、イギリス経験論からドイツ観念論への過渡期にあたる人 後期になると、「物自体」はプラトンの「イデア」のような観念的存在になっていく し・・・・自分の言葉と理解によってで説明する力がある文人、教養人だが貧乏人のクズなのが残念 学術・・狂人。意味不明ギリギリの言葉の連なりが、本人の意図とは関係なく伝わってしまう場合がある 禊・・・どうようもない凡人が哲学で背伸びしようとして積み木遊びするとこうなる。国語が苦手 >>77 禊は哲学なんかやってねえだろ アイツは荒らしが専門だ 該当する概念が 認識という内的経験において どのような役割を果たしているものなのか 自省してみるとわかります 「純粋理性批判があまりに難解なので、みんな誤解している。そこで、わかりやすく書き直してみました」 と、プロレゴメナの序文にカント自身が書いている 総合模試とか総合職とか総務とか総司馬とか総合司令官とか。 カントにとって世界とは物自体ですか? 世界は認識できない対象ですよね 世界を論じる宇宙論では自由は同じく認識できないものとして理念となっています 世界も理念でしょうか? それとも物自体でも理念でもない他の英知体でしょうか? 難しいというより人間の意識の構造人生の選択がそうなっているからそう表現せざるを得なかったというほうがいいとおもう。 >>93 "ホント難しいね。"を"カント難しいね。"と言い換えた いわゆる洒落な訳ですね? ホントとカントがかかっているんですよね? >>96 だから、プロレゴメナを読むんだって カント自身が書いた解説書だ プロレゴメナはわかりやすいけどあいかわらず文章はクソで読む気なくす >>91 そこはあんまり、こだわるところじゃないような? 上にも書いたけど、カント本人が「物自体」とは何なのかを明確に定義してないから、誰にも真意が分からないところはある 「宇宙に始まりと終わりはあるか、宇宙に果てはあるか」というのは、第2理念 >>99 神は理念ですが、魂と世界は何なんだろうとおもいまして 不死と自由も理念ですが、それぞれは魂・世界のあり方であって魂や世界そのものとは違いますよね どんな身分の概念なのか気になってます >>101 魂や世界も、神と同じく理念ですな 「物自体」と「理念」は、どちらも仮想界の存在。 仮想界の存在は、感性によって認識することはできないが、理性によって考えることならできる 感性によって認識できないのが、「物自体」、 でも、理性で得られるものが「理念」という関係 ていうか、「魂、世界、神」を3つの理念として、カント自身が「純粋理性批判」に明記してたはず どこの章だったかは忘れたが 検索したら、ちょうど良い論文がありましたわ ここの最初の1ページ目に書いてあった(笑) ↓ https://ncu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download& ;item_id=1532&item_no=1&attribute_id=25&file_no=1 >>104 読みました 世界は経験において対象が与えられないものなので理念ですね ウィトゲンシュタインが論考の最初で世界を「出来事の総体」としたのと対照的ですね カントの世界概念を批判対象として意識してたのかも 哲学科というのは結局、特殊な言葉の扱い方を習得する場所なんだね 自分の直観的理解を言葉にすると 各自の難しい術語になってる 物自体はクオリアが最も近いと思って読んでるな そう理解して読むと、すくなくとも文意は通りやすくなるから試してみ まあカントにイメージはあったわけで、該当するなにかは存在するだろ この辺が参考になるんじゃないか ttps://estela.hatenadiary.jp/entry/2018/11/28/043336 >>110 クオリアは表象だ、物自体とは対立する概念だろ それを書いた奴は大きく誤解しているな まあ、対立するっていうか、対になる概念だな 小学生の国語のテストに、「安全の反対は?」→危険、「普通の反対は?」→特別、とかいうのがあるけど、そんな感じ 「物自体」の反対は、「表象」だけど、「クオリア」でも良いだろう 右翼と左翼は似ているし、北極と南極も似ている 一対となる反対のものは、似てくるということか だとすれば、「物自体とクオリアは類似している」というのも納得できる 「物自体とは何なのか?」という質問に対する答として、「クオリアの反対」というのを思いついた ここでクオリアまで表象として読んでしまうと、非表象(物自体)は(主体にとって)非在になってしまう それでは言葉として、つまり「物自体」という言葉としてすら表現し得なくなる ラカン(派)が現実界という言葉で想定している事態が似てるようには感じるけど ただ、あらゆる表現されし存在は必ず表象化を経ていて、 その表象化の極限に位置するのがクオリアである以上、 「物自体」はクオリアとしても絶対的に(レトリックなどではなく)表象され得ないとする立場は、 「物自体」を「表象はされたが表象されないものを意味する」というに等しく、 ロジック構造の破綻に極めて近しく首肯し難い(と考えます) 他にもモナドとして理解するとか、いろんな読む手段自体はあるとは思うけどね カントは物自体を唯物的に捉えていたんじゃないかな 質料=物自体がなければ、表象は得られないと言ってるし 唯物的という口吻が強すぎれば、何らかの存在と言えばいいのか カントの相関主義を引き継いだ思弁的実在論では、触知不可能だ言及可能なものと言ってるけど 現象と感性の表象は双方向的だけど、物自体と表象は非対称的でしょう >>116 クオリア=感じ 物自体=感官を触発する(感じを与える) ダメじゃん >>116 「物自体・表象・クオリア」を、それぞれやたらヒネッた解釈してるな パームボールやナックルボールを投げる変化球投手って感じ まずは直球の理解を! >>116 >ここでクオリアまで表象として読んでしまうと 読むも何も、例えば「赤いリンゴ」という表象には、「赤い」というクオリアが含まれている クオリアを、表象から切り離して考えるのは無意味 例えてみれば、物自体はテレビの電波、クオリアはテレビの画面みたいなものだ テレビの画面が見れるのは、テレビの電波のおかげ だけど、電波そのものは決して見えない カントの時代には人間の認識以前の物自体という概念がなかったのかね? 純理だと混乱を招くような表現も散見するけどプロレゴメナには延々と書かれてる。 プロレゴメナの第9〜14節なんて、そればっかだし。 クオリアは認識(表象)の重大な契機を形成するけど、クオリア=物そのもの(物自体)ではないからね。 物自体は認識され得ないもの、いわば「名づけえぬもの」だと思うよ。 >>124 それ以前からあったが、ジョン・ロックの「人間知性論」においては、もっとシンプルなものだった カントの「純粋理性批判」で、謎の存在になってしまった 物自体が謎めいた神秘的な存在になってしまった原因として、カントがイギリス経験論だけでなく、 ライプニッツの「モナド」からも大きな影響を受けたというのがある ライプニッツの「欲求」 → カントの「物自体」 → ショーペンハウアーの「意志」 → ニーチェの「力への意志」 という、哲学史上に名高い変遷史がある >>126-128 ドゥルーズを想起する流れだね ↓読んでショーペンハウアー、ええやんけと思った ttps://1000ya.isis.ne.jp/1164.html 撃ちもの精錬じゃないの。魔法とか。役に立つというより。 理性を批判するということは読後に抑制気味にはなってないと思うよ。戦いに際して。 物自体の魔法威力のリソースをどう使うかといったことで。 まあ自分も呪文とか魔法とか魔術とか、そんなものの下にひいて結構お世話になってる。 躊躇はしないことが多くなるぐらい、殺すな傷つけるなダメージ与えるなということは 弱者の論理であるというところ。 物をスカスカに抜いて使えば自分もスカスカに抜かれることを辞さないということが 物自体では本質的だな。 物自体が古典的奴隷として隷属して攻撃のお仕えしているから、ヘイブラザーシスターみたいにね、 人間もそのような奴隷になって現代的隷属をする攻撃のお仕えに入るという本質的な理想はあるな。 >>137 一見そうなのだが、自称「カント哲学の最大の理解者であり、正当なる継承者」のショーペンハウアーと、 その継承者たるニーチェがこう考えてるわけだからねえ ショーペンハウアーは下取りの奴隷的で高雅な舞や高圧的な女性性がちょっとない。ライプニッツは敷衍的だ。カントは平和の兵の失い方で、ニーチェは孤独すぎるだろう。 ある者の反対の極に誰か何時もいて、それが弱点となっている。 例えばソクラテスなら弱点は少ないが、興味を自由に広げすぎ、勉強しすぎる。 他動性からの受動で選択しない。あらがあるという話。 ショーペンハウアーは、カントの「物自体」を、「意志」と読み替えた 物自体は究極の実存だから観念からでた意志とは対極にあるものじゃないか ジョン・ロックは “thing itself” と言ってたのに カントがそれを「ヌーメノン」という神秘的な謎めいた存在に変えた ロックの頃は、精神的な意味などなかった リンゴに、光が当たる。 リンゴは、波長の長い光を反射して、残りの光を吸収する。 反射された波長の長い光は、目の網膜を通して、脳に到達する。 脳は、それを「赤い」という色に変換する。 このようにして、リンゴは、「赤くて丸い、ツヤツヤしたモノ」へと、脳内で再構成される。 我々にとってのリンゴとは、その脳内で再構成された表象のことだ。 それを抜きにした、本当のリンゴとは、どういう存在なのか。 それについては、知るすべがない。 ・・・ジョン・ロックが「人間知性論」で展開した議論は、こういうものだった。 17世紀の科学では、まだ「光の反射」のことは知られていなかったが、要するに言ってたことは、そういうこと。 ロックの “thing itself” は、こういう純粋に物質的な話だった 一方、大陸にはライプニッツがいた ライプニッツは本業が科学者なだけに、ロックが言ってることなど、当然わかっていた だが、ライプニッツが「モナドロジー」で提示した世界観は、「欲求と表象の世界」という奇妙なものだった 我々にとっての世界が「表象」であることについては、ライプニッツも同じ でも、ライプニッツにとっての物自体とは、「モナド」だった 世界は、無数のモナドでできている。 各々のモナドには「欲求」がある。 我々にとっての世界とは、それらのモナドを見て得られた「表象」なのだ 存在の本質が「欲求」だの「意志」だのと言われると、現代人には奇妙に感じられる でも、ショーペンハウアーは大マジメだった ショーペンハウアーによれば、万象万物が存在し、存在し続けるための原動力は「生きんとする意志」、ひらたくいえば生存本能 それも、意識して生きようとしているのではない 「盲目的な、生きんとする意志」だった 植物にもアメーバにも生きる意思がある それが生命の本質だからだろ 意思がない石コロとの違いだ 石ころにもあるんだよ ショーペンハウアーの言いたいのはそういうこと カントは理性は万能ではないと批判した (否定しているわけではない!) であるが、世界的にはその後も理性的な判断として共産主義ソ連国家ができたりナチズムが興ったりした ※理性は決して万能ではないがおおよその場合においてかなり重要なものではある ※科学的、合理的、理論的は理性的ということ マルクス共産主義は科学的社会主義 ナチスやソ連は情緒的な動機を理性によって正当化してきただけで理性判断が先じゃないと思うんだけど おそらく道具的理性と全体主義のことが言いたいんだろう ナチズムにロマン主義の影響があることを知らない ああ、アドルノとホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」か あれ、読んでねーわ。俺には重要なのに。 サルトルの「存在と無」は悪いけど悪いけど悪いけどちょっとだけ100pは読んだ。当然エーリック・フロムは読んだ。 で、意味があるかというと意味が少しある。 歴史・史学が20意味あるとすると、「啓蒙の弁証法」「存在と無」「悪について」ショーペンハウアー「女について」他は併せて2くらい意味がある。 まあ、そんなに。哲学はやらんでもよくね? 手間だよ。手間の割に…… ああ、マルクス=レーニン主義ね。 ちっとだけ大まかに誰かから聞けばいんじゃねw まあ、1つだけ読むとしたお勧めは考えつく限りで、 和辻哲郎「風土記」だな。 あとは恐らく読んでないけど世阿弥 あと純文だと、 みんなのことが書かれているのが考えつく限りで、 大江健三郎「万延元年のフットボール」四国の話ね。ドラえもんや静ちゃんとか。 村上春樹「約束された場所で」インタビュー記事。 島崎藤村「夜明け前」 埴谷幸隆「死霊」 まだ奥がありそうだけど。 >>162 > 大江健三郎「万延元年のフットボール」 これを読んだ多くの作家志望たちが、「こんなものすごいモノは、自分にはとても書けそうにない」と絶望して筆を折ったという 島崎藤村と埴谷幸隆は実は読んでない。あるいは障りだけ。 ああ「万延元年のフットボール」はみんなすごく色々なことに派生して見える。 登場人物が「蜜」とか「虎」とかレイプとか残酷さんとか問題が噴出しながら四国まで旅する物語。ちなみにジャイアンは出てくるよ。 ライプニッツの「欲求」 → カントの「物自体」 → ショーペンハウアーの「意志」 → ニーチェの「力への意志」 なぜ、「欲求」が「物自体」なのか なぜ、「物自体」が「意志」なのか それについては、若干の説明を要する 純粋哲学というならそうかもしれない。デカルトよりよくて宗教哲学のようなパスカルパンセよりはまだだ。 純粋理性批判研究を日本で遡るとするならば、 天野貞祐とか桑木厳翼にまで行き着くのかな。 実践理性の方が純粋理性よりも優位に立つとカントが言っているからといって、 第二批判>第一批判だという風に単純に考えない方がいい。 純粋理性批判がなければ実践理性批判は成立しなかったという解釈が、 実践理性批判的なものの暴走のブレーキ役として働かないといけないし、実際高峯一愚も、 『カント実践理性批判解説』でそういうニュアンスのことを書いている。 ※そういうニュアンスというのは純粋理性批判なくして実践理性批判なしということであって、ブレーキ役とまでは言っていない。筆が滑った。 Für immer »Heut komm ich, weil mirs heute frommt« – Denkt jeder, der für immer kommt. Was ficht ihn an der Welt Gered: »Du kommst zu früh! Du kommst zu spät!« http://www.zeno.org/nid/20009250298 >>166 最も重要なものが欠けている気がします。 → 考える名無しさんの「『を』の呼応関係」 「反意の現状」を示す呼びかけの「を」に対して、 それに呼応してその「反意の現状」を解消する応えの「を」があることが、 「意に沿ふ」ことであり、「意に沿ふように『出来ること』/ 《ce qui est à venir》」=「力」に他なりません。 このことは、簡単に示すことができます。 日本語の古語において、「ここへを!」≒(《là!》/《à venir!》/「ここに来なさい」) という呼びかけに「を」(≒《là》/《à venir》/「ただ今参ります」)と応じるのです。 Oh là là ! C'est incroyable ! »Wille zur Macht«≒「できることをしようとすること」 「を(治)す」、つまり、「統治する」とは、 「『を(の呼応関係)』・す(≒"let")」であり、 「『を(の呼応関係)』を生じさせる」ことである。 「をす」ことは、「を(食)す」として、自らの空腹を満たすこと、 「を」≒"wanting"/《manque》を満足させることでもある。 純粋に検証して実践するという行動主義脳科学者のようなのよりリズムが上がって 破天荒になるという下半身から心起こす魔力なんかのほうがしっかりしてると思う。 フーリー斬。 忘備のためにこちらにもコピペしておきます。 185考える名無しさん2021/12/28(火) 13:43:39.190 「空虚」/"vacuity"(≒呼びかけの「を」)に応へること(≒応への「を」 となる行為で応じること)ができる可能性を我が身のものとして感じる ことが「ゆかし」であり、この「ゆ」は、抑制が解かれることを表現 しており、「自由」の「由(ゆ)」でもある。 呼びかけの「を」は、自らがその「呼びかけ」を感じることにおいては、 アピール/魅力であり、「をかし」という感覚だが、自らの「呼びかけ」 に応へがないことにおいては、喪失の「空虚」/"vacuity"を感じさせる 「を(惜)し」であり、呼びかけの「を」に応への「を」を対応させて、 呼応関係を成立させる意識的な行為としては、「を(治)す」(≒「を」 の呼応関係を生じさせる)である。 115考える名無しさん2021/12/29(水) 08:34:11.460 「原存在」&「呼応」というキーワードで検索してヒットしたハイデガー からの引用で、論文自体は読んでいないが、このようなハイデガーの表現 を見ても、いかに日本語が哲学をするのに有利な言語であるかがよく 分かるはずである。 https://koara.lib.keio.ac.jp › xoonips › download.php PDF Title ハイデガーにおける現存在の「身体性」の問題性格 ... >ただし ハイデガーが次のようにボスに告げていることにも注意してお きたい 「しかし 現存在として実存する 人間は その世界の開けから 自分に語りかけてくるものへと それを聞き取るという仕方で本質的に関 係づけられていることにおいて この語りかけてくるものに向かってそれ に対する自らのふるまい (Verhalten) でもって呼応するように つまり応 える (antworten) ように要請されているのです それも 出会ってくる ものを自分の保護下におき その本質が展開するよう可能な限りそれを助 けるという仕方で応えることを要請されているのです」 [ZS, S. 292] < 誤:「原存在」&「呼応」というキーワードで 正:「現存在」&「呼応」というキーワードで ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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