純粋理性批判詳しい人来て
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カントのいう「総合」というのをうまくつかめません 誰かわかりやすく教えてくれませんか ちなみに漏れは、この家の中にいがちな期間に、何かためになりそうなことをしようと思い、純粋理性批判を読んでいるという程度です まあ自分も呪文とか魔法とか魔術とか、そんなものの下にひいて結構お世話になってる。 躊躇はしないことが多くなるぐらい、殺すな傷つけるなダメージ与えるなということは 弱者の論理であるというところ。 物をスカスカに抜いて使えば自分もスカスカに抜かれることを辞さないということが 物自体では本質的だな。 物自体が古典的奴隷として隷属して攻撃のお仕えしているから、ヘイブラザーシスターみたいにね、 人間もそのような奴隷になって現代的隷属をする攻撃のお仕えに入るという本質的な理想はあるな。 >>137 一見そうなのだが、自称「カント哲学の最大の理解者であり、正当なる継承者」のショーペンハウアーと、 その継承者たるニーチェがこう考えてるわけだからねえ ショーペンハウアーは下取りの奴隷的で高雅な舞や高圧的な女性性がちょっとない。ライプニッツは敷衍的だ。カントは平和の兵の失い方で、ニーチェは孤独すぎるだろう。 ある者の反対の極に誰か何時もいて、それが弱点となっている。 例えばソクラテスなら弱点は少ないが、興味を自由に広げすぎ、勉強しすぎる。 他動性からの受動で選択しない。あらがあるという話。 ショーペンハウアーは、カントの「物自体」を、「意志」と読み替えた 物自体は究極の実存だから観念からでた意志とは対極にあるものじゃないか ジョン・ロックは “thing itself” と言ってたのに カントがそれを「ヌーメノン」という神秘的な謎めいた存在に変えた ロックの頃は、精神的な意味などなかった リンゴに、光が当たる。 リンゴは、波長の長い光を反射して、残りの光を吸収する。 反射された波長の長い光は、目の網膜を通して、脳に到達する。 脳は、それを「赤い」という色に変換する。 このようにして、リンゴは、「赤くて丸い、ツヤツヤしたモノ」へと、脳内で再構成される。 我々にとってのリンゴとは、その脳内で再構成された表象のことだ。 それを抜きにした、本当のリンゴとは、どういう存在なのか。 それについては、知るすべがない。 ・・・ジョン・ロックが「人間知性論」で展開した議論は、こういうものだった。 17世紀の科学では、まだ「光の反射」のことは知られていなかったが、要するに言ってたことは、そういうこと。 ロックの “thing itself” は、こういう純粋に物質的な話だった 一方、大陸にはライプニッツがいた ライプニッツは本業が科学者なだけに、ロックが言ってることなど、当然わかっていた だが、ライプニッツが「モナドロジー」で提示した世界観は、「欲求と表象の世界」という奇妙なものだった 我々にとっての世界が「表象」であることについては、ライプニッツも同じ でも、ライプニッツにとっての物自体とは、「モナド」だった 世界は、無数のモナドでできている。 各々のモナドには「欲求」がある。 我々にとっての世界とは、それらのモナドを見て得られた「表象」なのだ 存在の本質が「欲求」だの「意志」だのと言われると、現代人には奇妙に感じられる でも、ショーペンハウアーは大マジメだった ショーペンハウアーによれば、万象万物が存在し、存在し続けるための原動力は「生きんとする意志」、ひらたくいえば生存本能 それも、意識して生きようとしているのではない 「盲目的な、生きんとする意志」だった 植物にもアメーバにも生きる意思がある それが生命の本質だからだろ 意思がない石コロとの違いだ 石ころにもあるんだよ ショーペンハウアーの言いたいのはそういうこと カントは理性は万能ではないと批判した (否定しているわけではない!) であるが、世界的にはその後も理性的な判断として共産主義ソ連国家ができたりナチズムが興ったりした ※理性は決して万能ではないがおおよその場合においてかなり重要なものではある ※科学的、合理的、理論的は理性的ということ マルクス共産主義は科学的社会主義 ナチスやソ連は情緒的な動機を理性によって正当化してきただけで理性判断が先じゃないと思うんだけど おそらく道具的理性と全体主義のことが言いたいんだろう ナチズムにロマン主義の影響があることを知らない ああ、アドルノとホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」か あれ、読んでねーわ。俺には重要なのに。 サルトルの「存在と無」は悪いけど悪いけど悪いけどちょっとだけ100pは読んだ。当然エーリック・フロムは読んだ。 で、意味があるかというと意味が少しある。 歴史・史学が20意味あるとすると、「啓蒙の弁証法」「存在と無」「悪について」ショーペンハウアー「女について」他は併せて2くらい意味がある。 まあ、そんなに。哲学はやらんでもよくね? 手間だよ。手間の割に…… ああ、マルクス=レーニン主義ね。 ちっとだけ大まかに誰かから聞けばいんじゃねw まあ、1つだけ読むとしたお勧めは考えつく限りで、 和辻哲郎「風土記」だな。 あとは恐らく読んでないけど世阿弥 あと純文だと、 みんなのことが書かれているのが考えつく限りで、 大江健三郎「万延元年のフットボール」四国の話ね。ドラえもんや静ちゃんとか。 村上春樹「約束された場所で」インタビュー記事。 島崎藤村「夜明け前」 埴谷幸隆「死霊」 まだ奥がありそうだけど。 >>162 > 大江健三郎「万延元年のフットボール」 これを読んだ多くの作家志望たちが、「こんなものすごいモノは、自分にはとても書けそうにない」と絶望して筆を折ったという 島崎藤村と埴谷幸隆は実は読んでない。あるいは障りだけ。 ああ「万延元年のフットボール」はみんなすごく色々なことに派生して見える。 登場人物が「蜜」とか「虎」とかレイプとか残酷さんとか問題が噴出しながら四国まで旅する物語。ちなみにジャイアンは出てくるよ。 ライプニッツの「欲求」 → カントの「物自体」 → ショーペンハウアーの「意志」 → ニーチェの「力への意志」 なぜ、「欲求」が「物自体」なのか なぜ、「物自体」が「意志」なのか それについては、若干の説明を要する 純粋哲学というならそうかもしれない。デカルトよりよくて宗教哲学のようなパスカルパンセよりはまだだ。 純粋理性批判研究を日本で遡るとするならば、 天野貞祐とか桑木厳翼にまで行き着くのかな。 実践理性の方が純粋理性よりも優位に立つとカントが言っているからといって、 第二批判>第一批判だという風に単純に考えない方がいい。 純粋理性批判がなければ実践理性批判は成立しなかったという解釈が、 実践理性批判的なものの暴走のブレーキ役として働かないといけないし、実際高峯一愚も、 『カント実践理性批判解説』でそういうニュアンスのことを書いている。 ※そういうニュアンスというのは純粋理性批判なくして実践理性批判なしということであって、ブレーキ役とまでは言っていない。筆が滑った。 Für immer »Heut komm ich, weil mirs heute frommt« – Denkt jeder, der für immer kommt. Was ficht ihn an der Welt Gered: »Du kommst zu früh! Du kommst zu spät!« http://www.zeno.org/nid/20009250298 >>166 最も重要なものが欠けている気がします。 → 考える名無しさんの「『を』の呼応関係」 「反意の現状」を示す呼びかけの「を」に対して、 それに呼応してその「反意の現状」を解消する応えの「を」があることが、 「意に沿ふ」ことであり、「意に沿ふように『出来ること』/ 《ce qui est à venir》」=「力」に他なりません。 このことは、簡単に示すことができます。 日本語の古語において、「ここへを!」≒(《là!》/《à venir!》/「ここに来なさい」) という呼びかけに「を」(≒《là》/《à venir》/「ただ今参ります」)と応じるのです。 Oh là là ! C'est incroyable ! »Wille zur Macht«≒「できることをしようとすること」 「を(治)す」、つまり、「統治する」とは、 「『を(の呼応関係)』・す(≒"let")」であり、 「『を(の呼応関係)』を生じさせる」ことである。 「をす」ことは、「を(食)す」として、自らの空腹を満たすこと、 「を」≒"wanting"/《manque》を満足させることでもある。 純粋に検証して実践するという行動主義脳科学者のようなのよりリズムが上がって 破天荒になるという下半身から心起こす魔力なんかのほうがしっかりしてると思う。 フーリー斬。 忘備のためにこちらにもコピペしておきます。 185考える名無しさん2021/12/28(火) 13:43:39.190 「空虚」/"vacuity"(≒呼びかけの「を」)に応へること(≒応への「を」 となる行為で応じること)ができる可能性を我が身のものとして感じる ことが「ゆかし」であり、この「ゆ」は、抑制が解かれることを表現 しており、「自由」の「由(ゆ)」でもある。 呼びかけの「を」は、自らがその「呼びかけ」を感じることにおいては、 アピール/魅力であり、「をかし」という感覚だが、自らの「呼びかけ」 に応へがないことにおいては、喪失の「空虚」/"vacuity"を感じさせる 「を(惜)し」であり、呼びかけの「を」に応への「を」を対応させて、 呼応関係を成立させる意識的な行為としては、「を(治)す」(≒「を」 の呼応関係を生じさせる)である。 115考える名無しさん2021/12/29(水) 08:34:11.460 「原存在」&「呼応」というキーワードで検索してヒットしたハイデガー からの引用で、論文自体は読んでいないが、このようなハイデガーの表現 を見ても、いかに日本語が哲学をするのに有利な言語であるかがよく 分かるはずである。 https://koara.lib.keio.ac.jp › xoonips › download.php PDF Title ハイデガーにおける現存在の「身体性」の問題性格 ... >ただし ハイデガーが次のようにボスに告げていることにも注意してお きたい 「しかし 現存在として実存する 人間は その世界の開けから 自分に語りかけてくるものへと それを聞き取るという仕方で本質的に関 係づけられていることにおいて この語りかけてくるものに向かってそれ に対する自らのふるまい (Verhalten) でもって呼応するように つまり応 える (antworten) ように要請されているのです それも 出会ってくる ものを自分の保護下におき その本質が展開するよう可能な限りそれを助 けるという仕方で応えることを要請されているのです」 [ZS, S. 292] < 誤:「原存在」&「呼応」というキーワードで 正:「現存在」&「呼応」というキーワードで ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる